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【著者インタビュー】人を大切にし、人のために尽くせば、自分も心豊かになる
戦後、日本は奇跡的な成長をみせ、先進国の仲間入りを果たしました。社会制度が整い、高度医療が提供できるまでの経済的な安定を手にしたにもかかわらず、精神的な面では豊かであるとはいえないような報道も目にします。 「自分さえよければ」という利己的な発想が広がり、いじめやハラスメント行為がなくならず、モラルの低下からインターネット上の誹謗中傷などは増える一方です。繁栄の裏で、心の成長が伴っていないのではないかと思わざるを得ません。 現在のこうした状況において、「目の前の人、まわりの人を大切に思い、『誰かのために』生きることで豊かな人生を送ることができる」と語るのが、90代となった現在も医療法人社団湯川胃腸病院院長を務めている、脳神経外科専門医の白方誠彌医師です。 激動の時代を生き抜き、日本の変化を目の当たりにしてきた白方院長にこれまでの道のりと、今を生きる人々に向けたメッセージをお聞きしました。
激動の朝鮮半島から、家族全員、間一髪で逃げてこられたから今がある
――これまでの人生の軌跡といえる『誰かのために生きてこそ~人生が好転する利他の精神~』の刊行のきっかけを教えてください。
私は1930(昭和5)年に九州の宮崎に生まれました。小学生のときに父親の仕事の関係で満州へ渡り、その後北朝鮮で終戦を迎え、日本に帰国した後に医師となりました。戦後の復興期、高度経済成長期を経て、バブル期や阪神・淡路大震災も経験しました。また、貧困国の医療支援にも携わってきました。
今の人には信じられないかもしれませんが、戦後の日本は焼け野原で、本当に何にもなかったのです。北朝鮮から家族で命からがら引き揚げてきて、そこから日本の復興の過程を目の当たりにしてきました。そうしたことを「自分史」として書き残すのも意味があるのではないかと思ったのです。
――戦時中の体験はとても興味深いものに思えます。
両親は2人とも学校の先生をしていて、私は本家の長男に生まれました。ですから子ども時代はかわいがられましたし、生まれ故郷はのんびりとしたところでした。
小学4年生のとき、両親ときょうだい7人で満州へ渡りました。子ども心に覚えているのは、戦時中の報道は日本が勝った勝ったというものばかり。終戦直前にソ連が侵攻してくるまではとくに激しい空襲も経験しませんでした。
その頃、私もいずれ軍人になるものだと思っていましたから、戦争が悪いという考えもなかったのです。アメリカが日本に対して経済制裁を行い、石油の輸出が禁止されたことでやむを得ず戦争を始めたのだと聞かされていましたし、欧米列強が中国や東南アジアの植民地支配をしていた時代ですから、日本はアジアを解放して「大東亜共栄圏」をつくろうとしている、だから「正しい戦いなのだ」と教え込まれていました。
――終戦は朝鮮半島で迎えて、必死の思いで引き揚げてこられたのですね。
朝鮮半島北東部の羅南にいましたが、ソ連の空爆が始まり、ある日突然着の身着のまま逃げることになりました。みんな一斉に避難しましたが、戦争に負けるということも分かってない状況です。
きょうだいは2人増えていまして、家族11人で京城(現在のソウル)行きの汽車に乗ったものの、父の判断で知人のいる吉州(現在の北朝鮮の地名)に向かうことになり、そこで天皇陛下の玉音放送を聞きました。
このあたりの経緯は本にも書きましたが、混乱の中でかろうじて京城を経由して釜山から船に乗り、家族全員で引き揚げてきました。実は、このとき乗った汽車は京城行きの最後の便だったことが後になってわかりました。朝鮮半島はこのあと分断されるわけですから、家族11人全員が無事に日本に帰ってこられたことは奇跡に近かったと思います。
原爆の被害を含め、戦争についての真実を知らされたのは後になってからです。当時私は中学3年でしたが、「そこまでして戦争しないといけなかったのか」と疑問に思ったことを覚えています。
亡くなった弟のことがずっと悔やまれて、「人助けをしたい」という気持ちが強くなった
――その後、医師を目指したのはどのような思いがあったのでしょうか。
帰国して自給自足の日々が始まり、私は長男としてきょうだいたちの面倒をよく見ていました。今思えば、戦後のこうした日々の中で「家族のために」という思いやマネージメント能力が育まれてきたように思います。
当初、私は工学部を志望していましたが、医学部を志すようになった理由にはかわいがっていた弟の死が関係しています。
きょうだいの中で、とくに私に懐いていた六男の弟が粟粒結核になってしまったのです。結核菌が血液を介して全身に広がることで発症する病気で、肺結核よりも重症化しやすいといわれていました。当時の日本で、それも貧しい家庭では治療薬などとても手に入りません。当時は医療行為に対しての規制もゆるやかだったため、私がビタミン剤の注射をしましたが、結局弟は亡くなってしまいました。
この弟のことがずっと頭のどこかにあって、医師になれば「人助けができる」という気持ちに変わっていきました。
――卒業後、医師として研鑽を積んでいかれたのですね。
猛勉強をして医学部に入学した私は、卒業後の進路として外科医を希望していました。卒業後のインターン(当時の臨床研修)や保健所勤務を経て、医学部の授業で最も感銘を受けた光野孝雄先生(当時岩手医科大学教授)のもとで1957(昭和32)年に助手の職に就くことができ、多忙な日々を送るようになりました。
当時はまだ今のように医療が発達していませんから、亡くなる人も多かったのです。
私自身、身近な弟の死を経験していますし、苦しむ人を助ける方法を考えなければいけないと思っていました。
また、光野先生はまさに私の恩師といえますが、先生は脳神経外科の領域において新しいことに取り組んでいました。そこで私も仕事に没頭する中でさまざまな経験を積み、医師としての自信につながっていったと思います。
――脳出血の治療では、新しい治療法の確立にも関わられました。
現在も脳卒中で亡くなる人は多いですが、今と違うのは、脳出血によって倒れたようなとき、「絶対に動かしてはいけない」と考えられていたことです。
その頃、私たちは、もちろん病状にはよるものの、すぐに手術して血腫を取り除けば助かる場合があることを光野先生と共に研究し、その結果を学会で発表し、1962(昭和37)年に論文として掲載されました。その後、権威ある英文の専門誌にも論文が発表されるなどして、だんだん治療法として普及していったのです。
医者の使命は「人助け」だという基本に立ち返る
――子どものころから信仰をお持ちだったのでしょうか。
父も母もクリスチャンでしたので、幼い頃から教会には通っていました。終戦までは国家神道の時代でしたし、私自身も教義をちゃんと理解しているとはいえませんでした。
中学3年のとき、熱心な信仰をもつ歴史の先生に誘われて、聖書研究会に参加するようになりました。私は物事を論理的に考えるほうですが、聖書を読み込む中で、あるとき回心(信仰の目覚め)を体験する瞬間があり、そこから信仰を持ち続けています。
とくに感銘を受けたのは、新約聖書のヨハネの福音書にある「友のためにいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(新共同訳15章13節)という一説で、まさに「人のために」という部分です。
キリスト教では、人には自分の努力ではどうにもできない罪、「原罪」があると考えます。そしてイエスが十字架にかかったことで人類の罪が許されたとされますが、教えとして自己中心的な生き方をあらため、隣人愛の精神をもって生きることの大切さを説くものです。
――医師から病院経営への変化で、どのような苦労がおありだったでしょうか。
人生とはわからないものです。懇意にしていた先輩の先生から、思いがけず淀川キリスト教病院の院長職を打診されたのです。
まったく経験がないことで、そんなつもりはまったくありませんでしたが、「君しかいない」と熱心に口説かれて、引き受けることになりました。
いろいろな病院を訪ねたり、研究会に出席したり、解説書を読んだりと必死に勉強しました。又、私自身が一生懸命に働き、帰宅はほぼ終電で家族との時間などまったく持てず、あの頃を思うと家庭を支えてくれた妻には今でも感謝しています。
キリスト教を病院経営の芯にすえたことで、それに反発する職員もいましたが、全力で経営規模を拡大し、がん末期患者のためのホスピスの設立にも取り組みました。その頃、がんが国民死亡率の1位となっており、時代の要請にも合うものでした。
――そして海外の医療支援につながっていくのですね。
淀川キリスト教病院は私の着任前より、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)をとおしてバングラデシュやネパールの医療施設に医療協力を行っていました。私の着任後、1985(昭和60)年に医師の一人がバングラデシュに派遣されることになり、院長の私も現地を訪れました。
行ってみて、あまりの貧しさに愕然としました。医療器具が整わず、医療施設の内容は低いものでした。そこから私も1年に1度はバングラデシュを訪れるようになりました。今はコロナ禍で現地に行けなくなりましたが、支援自体は続いています。
――「医療支援」の取り組みの中で、印象的な出会いがあったそうですね。
バングラデシュの支援活動の中で、私の人生で最もすばらしい人だと思える人物との出会いがありました。
首都ダッカでも最貧困地域といえるスラム地区に掘っ立て小屋としかいえないようなクリニックを建て、ぼろぼろの身なりで診療していたのが、アメリカの長老教会から派遣されていたコディントン医師です。
いろんな人を見てきましたが、あそこまでやった人はちょっといないと思います。全然、偉そうにすることがなく、「医師としての自分を求めてくれる人のために生きたいと思うようになった」と、まさに身を捧げて活動していました。医者の使命は人助けだという基本を思い起こさせてくれましたし、頭の下がる思いです。
「医療伝道」というとおこがましいですが、有志とともにNPO法人「アミティ・バングラデシュ」を設立しまして、支援は今も続いています。私自身、体と頭が働くうちはできる範囲でがんばって続けていきたいと思っています。
つらいことから逃げずに、人のために尽くすことで得られるものがある
――現在の日本についてどのようにみていらっしゃるでしょうか。
自分中心的な人、利己的な人が多いように感じます。人のことを考えたり、誰かのために何かをしようという人は少ないのではないでしょうか。自分の権利については声高に主張する一方、人のことは頭にないという人がいます。今の日本は豊かすぎるのかもしれません。
必要なのはやっぱり教育です。学生のとき精神科の教授に教えられましたが、脳は生まれてから急速に大きくなっていきますから、3歳頃までの時期に愛情豊かに育てること。
その後6歳くらいまで、正しくしつけを行って何をしていいか、何をしたらいけないかを身につけさせることです。脳が大人に近くなっている小学校6年から中学1年あたりは、思春期の始まりの頃ですから、それまでの間、親はきちんと子どもとかかわっていく必要があるといえるでしょう。
その時期を過ぎ、大人になってしまっても、哲学や古典、あるいはキリスト教でも仏教でもいいですが、先人が書いたものをじっくり読みなおしてみると、人のことを思い、心を育てることができると思います。
――人のために尽くすことで得られる喜びとはどのようなものでしょうか。
他人のためになることをすると、裏を返せば、自分の人生が逆に豊かになるわけです。決して見返りを求めるわけではありません。人のために良いことをしたら、こちらも嬉しいわけですから、そういう気持ちで人に接していくと、考え方もだんだん変わっていくのではないでしょうか。
人生にはいろいろなことがあります。決して思い通りにはならなくても、目の前の苦労から逃げずに立ち向かうことで、それを乗り越えたときには大きな財産になるでしょう。
――著書をどんな人に読んでもらいたいと思われますか?
やはり若い人ですね。過去の戦争も、日本の高度経済成長期も知らない世代で、もっとお金があれば幸せになれると考えているような人たちに読んでもらいたいと思います。日本にも大変な時期があったことを知ってほしいですし、自分の心をしっかりと見つめたり、振り返る機会にしてもらえたらいいと思います。
この本の刊行時(2022年7月現在)、ロシアのウクライナ侵攻が続いていますが、大国であるはずのロシアにみられるのは、どこまでも「欲しがる」気持ちのように思うのです。人を傷つけてでも欲しがるというのはどういうものか、考えてみてもらいたいと思います。
人間にはもちろん本能がありますが、心のコントロールができなくなると欲望のほうが勝ってしまいます。視野を広くもって、「誰かのために」ということを思い、「利他」の精神をもって、よりよい人生を送れる手助けにしてもらいたいですね。