『帝都狐捕物譚』
冬林 鮎著
ファンタジー
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帝大に通う書生・藤堂恭は親友の都司柊二から「『帝大の狐』に付きまとわれている」という奇妙な相談を持ち掛けられた。目的不明の怪異、しかしその名前には聞き覚えがあった──モガの葬列シリーズ架空大正怪奇譚。第1話 狐日和
「ところで恭さん、ちょっと相談があるんですけど」
「珍しいな。金なら貸さねえよ」
「僕が貸す方でしょどちらかと言えば。お金じゃないんですけどね」
『ちょっと面倒なことになっていて』と言いかけてやめたな。
黒髪の七三、真っ白な読めない顔。女のようにしなやかな指が半分ほど水の残ったグラスを傾けた。黒いベストに蝶ネクタイの給仕がレコードを掛け替える。曲が軌道に乗ったころ、都司はゆっくりと手を組み黒曜石のような瞳で俺を見た。
──大正十三年十月某日。ビールを沢山注文すると吠えるライオン像でお馴染みのカフェ・ライオン。ここは度々飯を食いに来る名店で、美人女給の接客が売りらしい。ただ俺たちはそういう事にあまり関心のないつまらない若造で、白いクロスのかかった丸テーブルを食べ物でいっぱいにして駄弁っていた。
都司はオペラだの歌舞伎だの芝居だの活動寫眞だのを観るのに付き合うと、帰りにたらふく奢ってくれる。たとえ飯を奢ってくれなくなってもやっぱり連んでしまう気がする相手──都司柊二のことを、俺は親友だと思っている。
「勿体ぶらずに言えよ。お洒落をする暇があったら人生を正直にどーたらこーたら」
「さっきの芝居の台詞ですか。あれあんまりよく分からなかったな。難しいですね、前衛芸術って」
これは話を広げたくない時の返しだ。すまし顔のくせに感情を隠さない物言いをする。
……お洒落で思い出した。この都司という男は本当になかなか洒落ていて、浅草六区で芝居見るにも黒髪七三、三つ揃いにピカピカの革靴とまあ小綺麗なもんだった。一方俺は立て襟シャツに着物と袴のいつもの装いで、ここに来る途中ガラスに映る姿を見て、なんか白狐のモボと野良猫の書生みてえだなと思った。でけえ背丈と栗色の髪、榛色のおかしな瞳──猫は猫でも化け猫だなって。
ちと見すぎたか。都司は訝しそうに切れ長の目を瞬いた。
「その、まず状況を言いますと、付き纏われているみたいなんです」
「何だよ。モテ自慢なら聞かねえぜ」
「違いますって、相手は男です。しかも学生。気持ち悪くてとんと迷惑しているんですから」
都司は深く溜息を吐いた。臙脂色のネクタイの胸先でコーヒーの湯気がふらりと揺れた。
「最初にその人を見たのは赤門前です」
「赤門……帝大の?」
「そう」
いつもの女給がサンドイッチを置いてゆく。都司はボウルで手を濯ぎ、白いハンカチで拭った。すっと目を伏せ、ハムとチーズの入った三角形を小さく齧る。
「小夜ちゃんに初めて会った日、見たんです。その人を」
「ほう」
こいつから『小夜ちゃん』と言われると少し気を遣う。一年前に都司が失恋した女、烏丸小夜は俺の下宿先のお嬢で、二歳下の幼馴染という間柄だった。だったというのは斯く斯く云々、今や俺は屋敷の主人の養子になって小夜の義兄であるからだ。
ただ戸籍上そうなっただけ。まだ幼馴染のようなつもりでいるし、小夜もまた俺を兄貴だなんて思っていない。しかも義父については未だに『旦那さん』とよんでいるという有様だ。こんなもの家族とは呼べない。
(──こいつ小夜のこと、結構本気で好きだったんだよな。今どんな気持ちで話してんだろ)
俺は話に聞き入るふりをして、つぶさに都司の表情を観察した。
「あの日、小夜ちゃんと僕らの間にあった小道のあたり、一面の黄色い落ち葉を旋風が巻き上げて」
「だっけ?」
「……だったんですよ。やっぱり見えてなかったか。まあその時目が合ったんです。長髪の男と。遠目に見ていたら恭さんみたいな恰好だったんですが、消える直前は白い学生服でした」
「ちょっと待て、何言ってる」
服装が変わって、消えた。そんな事があってたまるかよ。それじゃあまるで──
「狐につままれたみてえだな」
「そうです」
そうですだと? 俺は苦笑したまま小首を傾げ、フォークにざっくり刺さったカツレツを大口に放った。阿保らし。昼夜逆転で働きすぎているからこんなことになりやがる。話半分に聞いておくかと思った。
「『帝大の狐』って聞いたことあります?」
「何か言うよな。『秋の夕暮れ時に出る赤い前掛けの白狐とすれ違ったら振り返るな』とかって」
うちの学校に伝わる与太話。長年屋敷で俺の世話を焼いてくれてた十歳上の兄貴みたいな医者先生が帝大卒で、呑みながらボソボソ言っていた。とするとそこそこ長い伝説ではあるのか。
「結局さ、狐? 男? どっちだよ」
「狐、かなと思って……狐っぽい顔してたんですよ。白い学生服に赤い襟巻の。帝大の狐っていうのは物の喩え、あるいは見る人によって姿が変わるとか。何かありそうじゃないですかそういう奇譚」
(へえ。てっきりガッチガチの現実主義者なんだと思ってたけど)
俺はテーブルナプキンで口元を拭い、にやりとした。
「そいつとお前、どっちが狐顔?」
「知りませんよ。そんなの主観でしょ」
ムッとする都司に妙な可笑しさがこみあげる。怒ってる怒ってる狐顔が。
西洋野菜のサラダがパリパリして美味い。書生長屋で食えないものをとりあえず頼んだがまだ足りない。デザートの前にあと一品二品いっときてえなと思った。
「すねんなよ。ほら、赤茄子やっから」
「いらないです。いまそういう学生っぽいのやめてください」
「俺ァまだ学生だもん」
「恭さんはね。僕は働いてるので」
「何だよ一個下のくせに」
都司は大学の元後輩。でも親父さんが亡くなって、稼業を継がなきゃならないと言って中退した。泣く子も黙る東京帝国大学を一年足らずで潔く辞めた男。その理由がまたどうしようもなくやるせなくて、こいつは暗い星の元に生れたんだなと思わずにはいられなかった。
「──話を戻しますとね、出たんです。吉原に」
「へえ」
俺はじゃがいものスープをちびちびやりながら相槌を打った。
「その日は旦那衆の寄り合いで夕方外に出たんですけど」
「爺さんばっかの中にご苦労なこったな。酒も飲めねえのに」
「今日やけに口挟んできますね……それで、ちょうど吉原神社の前を通りがかった時に遭ってしまったんですよ。じーっとこっち見てて」
「まあ元々狐に所縁のある土地ではあるわな。吉原に家があるとか。化け狐アパートメントみたいなの」
「真面目に聞いてください」
「真面目に聞くような話かよ。お前神経衰弱なんじゃねえの? いっぺん病院行って診てもらえ」
「……大丈夫そうだけど疲れてるから寝たほうがいい、って言われました」
「診てもらったのかよ。ゆっくり寝た?」
「寝ようと思ってたら恭さんが遊びに来たんです。たまには休ませてください」
知らねえよそんなの、嫌なら門前払いにでもなんでもしやがれと言い掛けたが、舌打ちで我慢した。職業柄学友とは随分切れたようなので、てっきり適度に暇してるもんだと思ってた。楼主の仕事の都合なんざ、普通に生きてりゃ知る訳ゃねえだろ。
「……理解ってますよ僕だって、自分がおかしなことを言っていることくらい。でも見えるものは見えるんです。病気だろうと妖だろうと、正体を知らないことには落ち着かないから……すみません、一服します」
都司はただでさえ下がった肩を落とし、サッと煙草を咥えた。どうやら真剣に悩んでいるらしい。
「これが探偵小説ならとりあえず聞き込み調査の流れだな。あと本とか新聞とか色々漁ってみて。そうやって動いてりゃ妖怪の専門家なり、それこそ探偵なんかに行き着くんじゃねえの」
「小説ならね……あっ」
俺がばさりと広げた新聞を、都司の白い人差し指がなぞった。
「妖怪専門の探偵社ですって。ご依頼は当社まで」
「嘘!?」
「嘘」
「あほか」
都司は狐のように微笑ってコーヒーを含んだ。
「あったらいいのになあ、そういうの」
「てやんでえ。世も末だよそんなもんは」
都司は紫煙に目を細くしながら小さく頷いた。小せえ白い顔を傾けて、冗談を歌いながら苦しんでいる。苦しい時に少し笑う。一体誰に教わってそんな生き方を覚えたんだろうか。
蓄音機の調子がいまいちだ。ひっかかりもっかかりの『かなりや』が焦れったい。
「本当に妖の類なら正体を突き止める、なんて出来ないかもしれないですね。でも病気ならそれと認めてしまいたい。最悪何も分からなかったとしても気休めにはなります。恭さんが協力してくれたんだなって思えたら、ひとまず孤独感はなくなるので」
「だいぶ思い詰めてんな」
「いっそ恭さんにも見えてしまったらいいのに。道連れ」
「まっぴら御免だわ。でもいいぜ、お前の気が済むまで一緒んなって調べてやら」
「恩に着ます」
俺は都司のサンドイッチをひょいと奪ってぱくついた。
「恩はこれで返してもらったと。じゃあまずは聞き込みといくか」
「何かあてがあるんですか」
「ああ」
俺は親指に付いたマヨネーズをペロリと舐めた。ちなみにマヨネーズが日本で製造販売されたのは大正十四年。生産量はあまり多くはなく高級品だった。それをいま大正十三年、カフェのハムチーズサンドで食べてぺろりとやった。新聞に『海軍』の文字はあっても『陸軍』は一切無い。そういう前提で物語は進んでゆくと思ってほしい。
「目撃者が信州から帰ってくる、今度の金曜日」
「小夜ちゃんと、水銀先生?」
会うも会わぬもお前次第。俺ァどっちだっていいんだぜ。
そこまで言ったらお節介だよなと思い、俺は無言でコーヒーを喉に流し込み、細い鼻先に向かって『ご馳走さん』と伝票を突き出した。
第2話 藪蕎麦
恭さんは結構な健啖家で、友達の少尉に『排水口』だなんだと海軍ジョークで笑われたと言っていた。西洋人の様に長い脚と均整の取れた体つき、あれだけ食べたものが一体どこに消えているのか甚だ疑問だが、とりあえず自分で自分を養いきれていないことだけは分かる。だから年下で体よくお腹を満たしてくれる僕のことは、きっと都合のいい関係だと思っている。
(──でも普通は相手にしないよね。あんな寝ぼけた相談)
僕は窓辺で煙草を喫みながら、机一杯に広がった盛り蕎麦をしげしげと眺めた。
途方も無いような話でも一旦は引き受けてくれて、剰え本腰入れて捜査しようだなんて言う。それも真顔で。お人好しもいいところ、人のために動きすぎる。そう思うような出来事が、今までに何度もあった。
そんな藤堂……否、烏丸恭を、僕は親友だと思っている。一方的に思っている。
「ほんとにうち来ねえの?」
恭さんは僕の返事を待たず、出前の蕎麦をちょんとつゆに浸し旺盛に啜った。この人は最近、高く積み上げた平盆を自転車でふらふら運ぶ曲芸みたいな出前を見るのにはまっていて、うちの者が出ますからというのも聞かず門前で蕎麦屋を待っているようなところがあった。
良い大人なのになと思いながら財布を出す僕の隣、懐手で満足そうにしている恭さんは顔には出ずともご機嫌だった。
「ちょっと用事があって。今度また伺います」
僕は窓からひょっこり遊びに来た『おたま』の黒い背を撫で撫で答えた。彼女は太夫の飼い猫で本名は『まる』という。てっきり野良だと思って適当に可愛がっていたら、すっかり僕に懐いてしまった。仕事柄他人の男を取るなと遊女たちに教えているのに、太夫にとっての僕はすっかり泥棒猫だった。
「用事なんか明日にすれば。それともあれか、まだ小夜に会うの怖いとか?」
猫の様な榛色の眼が悪戯に光った。
「まさか、仕事の用事です。それにいつでも会えるんでしょ? これからは」
「そうなんだけどさ」
──鈍いな。今日は婚約者が来るかもしれないでしょうに。恭さんの話を聞く限り、お相手の霧島少尉は書いて字のごとく彼女を溺愛している。いくら失恋から一年経っていようとも、さすがに目の前でお熱いところを見せられては目のやり場に困ると思っていた。
『どうか幸せになって、僕に見えないところで』それが今の心のすべて。口には出さない本音で、建前でもあった。
僕は然してすすまない箸の先で蕎麦を摘まみ上げた。本当は更科の方が好きだけど、恭さんは決まっていつも藪蕎麦だった。僕の気持ちはつゆ知らず、濃い味が美味え美味えとつゆまで飲んで──酒飲みの舌を持って生まれたのだろう。これでなくともたまに胸の焼けるように塩っ辛いものを好んで食べていた。心労の多い僕と同じように、この人もきっと長生きはしないだろうなと思った。
「あ、そうだ。これ渡しといてもらえますか」
「この期に及んで恋文か?」
「検閲してもいいですよ」
「やるかよ。憲兵じゃあるめえし」
「音読だけ勘弁してくれたら本当に読んでもらって大丈夫ですよ。むしろ読んでほしい」
「はあ。そこまで言うならちらっと──『前略、小夜さん』……何、呼び方変えたの?」
「近く他人様のお嫁さんになるんです。ちゃん付けはもう失礼でしょう。幼馴染じゃあるまいし」
鼻先に向けられた扇子を恭さんはフンと手で払った。
「小夜ちゃんと呼ぶのもこれで最後かな。恭さん相手でも小夜ちゃん小夜ちゃん言ってたら何かの拍子にうっかり小夜ちゃんと言ってしまうかもしれないし。これからは気をつけて小夜ちゃんではなく『小夜さん』と呼ばないと。さよなら小夜ちゃん」
「ここぞとばかりに言い納めてんな」
僕の冗談を小馬鹿にして、恭さんは笑った。僕も笑った。
「狐について確認したいこと、注意してほしいことなんかを纏めてあります。それを渡して、大方の返事を貰ってきてください」
「注意してほしいこと?」
「──推測ですが、あれはあまり良い物ではないように思うんですよね……まあ用心するに越したことはないかなと」
「ふーん。分かんねえけど分かった」
恭さんはササッと目を通し、手紙を封筒に戻した。
「それでこれは水銀先生に。こっちはお園さんにお願いします」
「……お前、さては結構手紙好きだな?」
恭さんは手紙をわさわさ懐に仕舞いながら色素の薄い瞳を細めた。
「しかしこうして見てみると不思議な色ですね。アマルガムみたいな」
「何それ」
瞳を覗き込む僕を恭さんが見ている。茶色い睫毛の瞬きを止め、僕に色を見せる。
「合金。水銀に金を取り込ませて水分を蒸発させるんです。それで硬度を調整して──」
「鍍金ってこと?」
「そう」
「あんまキラキラしてない感じか」
恭さんは大きな手で目元に触れた。乾いた目を瞬く。
「そうですね。死んだような目をしてるとアマルガムです。たまには鏡みたほうがいいですよ。ここゴミついてるし」
「うるせえ」
くしゃくしゃの髪を指差す僕の手をバシッと払い、恭さんは立ち上がった。
その時、ドタドタとガサツな足音が近づいてくるのが聞こえた。スターンと襖が開き、肩に掛かる偽紅色の長髪が視界に飛び込んでくる。ずかずか上がり込む孔雀緑の羽織。整った顔の中ひときわ存在感のある大きな口が何事か話していたが、『旦さん旦さんちょっと』以降はお国言葉で満足に聞き取れやしなかった。
「おっ、何じゃどら猫が入っちゅう。相っ変わらずシケた成り!」
「ケッ、入る前声かけろよ。行儀悪ぃなヒモ絵師が」
ヒモ絵師と呼ばれた赤髪の男、名前は鈴鹿鸚助。美少女画で引っ張りだこの人気絵師だ。ひょんなことから僕に雇われる運びになり、この店を根城に作品を描いている。一年も住み着けば廓の一角は、旅館の奥に設えたアトリエの様になっていた。遊郭で生まれる可憐な美少女画──雑誌や新聞の記者が取材に来ることもあるかもと買い叩くように囲ってみたものの、これが思った以上の大物だったというわけだ。どうやら僕は商運が良い。
「ここは私室なので勝手に入らないでくださいと、何度も何度も申しているでしょう。全然きいてくれやしないんだから」
──買い叩いたまでは良かったが、優れた芸術家の多くは変人である。下手をすると明け方酔っ払って足元に転がっていることまであった。仕事と私事を分けたい僕にとって正直あまり居心地の良い相手ではない。おまけにど助平なので無性に腹の立つ思いもさせられた。
「やいにゃんころ、おんしゃ恰好も口も汚ねえの。俺は一回り上ぜ? 鸚助先生と呼ばんかよ」
「何だとクソ野郎が。姐さんのケツばっか追っかけてねえで仕事しろ都司のヒモ」
「べこのかあが……芸の肥やし芸の肥やし! 芸術の分からんようなクソガキが。あとおまんも旦さんのヒモやき! 男が目下に集るな甲斐性なしが」
「言いやがら。表出やがれこん畜生!」
──始まった。でもこんな険悪な状況からでも烏丸邸に行くと言えば、どうせ鸚助先生も女中のお園さんを目当てに着いてゆくのだ。面倒臭い。さっさと二人一緒に出掛けてくれないかなと思った。僕は顰めっ面で手を打った。
「はいはいその辺にして。恭さん、とりあえず手紙、よろしく頼みましたよ」
「あいよ。あ、今夜どうする?」
「お昼食べてすぐ言う事ですか」
鸚助先生はべえと舌を出しぺっぺと手を振った。
「何じゃその会話。気持ちわる」
「……夕餉の話です。今夜は別で良いでしょう。お嬢様のお戻りで何かご馳走でたりするんじゃないですか。久しぶりに水銀先生の横についてごはん貰ったら」
「だったわ。お前も来りゃいいのに」
「夜は仕事です」
恭さんはもう一度、だったわと呟いた。鸚助先生は机の上を二度見した。
「はえ、盛り蕎麦五枚をぺろりか。化け猫めが」
いつも蕎麦の配達を嬉々として眺めている恭さん。確かにこの人の食べっぷりの方がよっぽど曲芸じみているな、と思った。
***
『もし喧嘩をしたら即降車させますからね』僕にそう言い渡され車に押し込まれた恭さんと鸚助先生は、互いに腕を組みむっつり顔をそむけたままお屋敷に到着した。
「恭!」
小夜ちゃんはうれしそうに恭さんに駆け寄った。
「おかえり。意外と元気そうだな」
「ただいま! そっちも元気そうね」
久しぶりに見る小夜ちゃんに、恭さんは『何か一回り小さくなったな』という感想を抱いた。小夜ちゃんは病気療養のため、屋敷医者の水銀先生を伴い信州の療養所に一年ばかり行っていた。──詳しいことは、今は話さないでおきたい。
箱入りらしく小柄なお嬢さんで、並んで歩くと半結につけた大きなリボンが僕の顎下あたりでいつも揺れていた。更に恭さんは僕より一寸ほど大きいので小夜ちゃんは度々視界から消え、曲がり角や部屋の出入り口で衝突しては互いに文句を言い合っていた。懐かしい、けれど大人になると二年は早い。今となって思えばあの頃が、あの頃だけが僕にとっての青春だった。
「髪伸びたな。切る前に戻ってら。自分で結べるようになったのか?」
「ううん、結局できなくて……先生がすっかり上手になった」
「お前、相変わらず何も出来ねえな。安心するわ」
恭さんはケラケラ笑った。
「お昼はお蕎麦だったの?」
「すげ。何で分かった」
「襟におつゆついてる」
「ギャハハ! ガキくさ!」
車を下りた途端、鸚助先生は恭さんを指差して笑った。しかし小夜ちゃんの後をついて出てきた背高の美女にしゃんと背を伸ばす。そうして居なければあまり身長が変わらないからだ。鸚助先生はうちの妓と遊ぶ時もお園さんにどこか容貌の似た、長身で年嵩の華やかな美人をお選びだった。
「何だい、クソうるせえのも来やがって。葵坊、塩撒いときな!」
お園さんは襷を外しながら開口一番鸚助先生を罵った。見た目は女優のように美しいこの人は、残念ながら破落戸のように口が悪い。
「お園~! おまさんは今日も綺麗ぜよ。塩はいらん」
苛つくお園さんを小夜ちゃんはなぜだか微笑ましそうに見ていた。恭さんはふと辺りを見渡した。
「水銀さんは?」
「中にいるわ。長旅で疲れたみたい。でも先生、信州でだいぶ顔色が良くなったのよ。相変わらず小食だけど」
「ちょっと待て誰の療養だったっけ?」
ケラケラ笑う恭さんと小夜ちゃんは、幼馴染のまま時が止まったようだった。
「信州でよく恭の話をしてたのよ。早く会ってあげてね」
「何の話?」
「ごはんとか、足の爪とか、あと何だったかな……顔がどうのって」
「すげえ気になるな」
恭さんは皆の集まる居間ではなく、敷地内にある離れの診療所に向かっていた。先生がいる場所はこっちだろうと本能で理解していた。
「水銀さーん」
コンコン、コンコン、コンコン。
小さな洋館のドアを独特のリズムでノックする。先生が屋敷を離れる前、たくさん飲んで帰ったら一人で飲むのが寂しかったら、こうやっていつもドアを叩いていた。飼い猫が餌を強請るように何時であろうとお構いなしに。いつの日も優しい主人が答えないことはなかった。
あの日から何度か、いないと分かっていてもノックしたドアがささくれている。陽光を疎むようにキィと開いて、先生は白く美しい顔を覆うようにして眼鏡を押し上げた。
「……ただいま」
「──おかえり。来たの俺の方だけど、まあいいか」
恭さんはトパアズのような瞳で先生の顔をじっと見て、『そんなに顔色変わってねえな』と笑った。先生は長い睫毛を瞬いて、そうかなと呟いた。
第3話 御両家
十月某日。俺は小夜、旦那さん、水銀さんと一緒に侯爵家・霧島邸を訪れた。
小夜は珍しく髪を編み上げられ、普段は着ない華やかな着物を纏っていた。今朝姐さんはこの準備のために五時起きで腕を捲り、髪に化粧に着付けにと大わらわだった。やっとこ仕上がったのが九時半ごろ。着物はわざわざ仕立てたらしいが、赤の大花柄は小夜にはちいと派手じゃねえかなと思った。言ったらたぶん殺されてた。
「ああ、最高傑作出来ちまったよ……私は天才だった!」
姐さんは口元を押さえてうち震えた。
(元髪結いの血が騒いだんだか知らねえが、集合十一時なのにはえーよ。小夜ぐったりしてんじゃねえか)
喉元まで出かかる言葉を飲み下す。言えば十中八九ぶん殴られるので、もう聞かなかった振りをするしかない。姐さんの鉄拳は容易く土壁を抜く。ヒグマに喧嘩を売るようなものだった。
──話を戻す。この状況、この面子まあ早い話が霧島家との両家顔合わせだ。
今日都司は馴染みの古書店で狐に関する探し物をするとか言っていたが、俺はここに来ることを言わなかった。違う。何ともなしに、言えなかったのだった。
俺たちはあまりに豪奢なお住まいに気も漫ろ。離れの迎賓館に通され、霧島家と向かい合い着席した。先方は婿殿、父上、母上、姉上……あと誰だか分かんねえしゅっとした若い海軍将校。聞いてた十三歳上の長兄にしては若えし、七歳下の弟にはとても見えねえ。肩章の星が少尉より一つ多いから直属の上司ってとこだろう。母方の従弟を見た事があるが少尉と同じような顔だったから、こいつはたぶん他人だ。都合で空いた兄弟役の数合わせなんだろう。ちなみに長兄は海外遠征中、末弟は兵学校の決まりで欠席だと聞いている。
家長同士が簡単に挨拶を済ませてほどなく、家政婦が前菜を運んできた。
俺はフルコースが嫌いだ。まどろっこしくて、もういっぺんに全部持ってきやあがれと思ってしまう。この会が始まる前、婿殿こと霧島少尉は両手を広げて食事の話をしていた。『うちのビーフスチウ、たぶん恭くん好きだと思う!』とか何とか言っていて、とにかく早くそいつを食わせてほしかった。
何度か飯に連れてってもらったから俺は少尉の味覚を信頼している。絶対に美味い予感がする。侯爵家お抱えシェフのビーフスチウ、期待感は最高潮だ。
(しっかし、訳わっかんねえほど金持ちだな霧島家。これ一体何人掛けだよ?)
俺はナフキンを膝に置き、長すぎるテーブルを舐めるように見た。盛り花も燭台も遠い。
(小夜と少尉は──アガってんな)
小夜は緊張した面持ちで膝を握ってるし、少尉はうれしさで白軍服の金ボタンがはち切れるんじゃないかと思うほど胸を張っていた。
しかしあらためて体格差のある二人。キスとかどうすんの? と思った。もうすぐ新婚さんに野暮はナシだなと思い、俺は前菜の鱸にナイフを入れた。
婿殿が起立し、大音声の挨拶が始まった。
「ほっ、本日はお忙しい中! 私共のためにお集まりいただきっ、ありがとうございます! こんや、こんや、こんにゃくの──」
「こんにゃッ……! 霧島、婚約婚約! しっかりしろ……!」
上司みたいなのは必死に笑いをかみ殺しながらヒソヒソ励まし、緊張と嬉しさで腑抜けている少尉の硬いケツを軽く叩いた。その光景に何かが引っかかる。
破れかぶれの挨拶が終わり、烏丸側から参加者の紹介が始まった。しかしここで俺は『うちやっぱ滅茶苦茶だな』と改めて痛感することとなる。旦那さんはお決まりの麗句を述べた後、しんみりと話し始めた。
「──ご覧の通り、小夜は早くに病で母を亡くしまして、斯様な男所帯の中で育ちました」
(まー役者だこと。あんたほとんど家見てねえじゃん)
俺は色鮮やかな添え野菜を口に運びながらすっかり冷めていた。皿が空くとすぐ、家政婦が音をたてず噂のビーフスチウを置いてった。やわらかそうな牛肉がゴロゴロ、ドビソースに塗れた人参に芽花椰菜がまた美味そう。俺はどんどん旦那さんの挨拶に興味を持てなくなっていった。
ふと少尉の若え上司が俺を見ていることに気づいた。
『何だあの髪? いや目の色もどうした?』とでも思ってんのか。水銀さんのことだって『いや兄貴……ではないよな』みたいな顔で小夜や旦那さんと見比べて。澄ましたエリート面なのに、口をへの字に曲げたりして全く落ち着きのない奴だなと思った。
(チッ、じろじろ見てんじゃねーよ。気ィ悪い)
こいつの雰囲気、やっぱり何か知ってる感じなんだがいまいち思い出せない。もやもやする。
「──ゆえに娘は淑やかさに欠けるところがありますが、由緒正しき霧島家に相応しい妻となれますようご指導、ご鞭撻のほど何卒よろしくお願い申し上げます。なお長男は海外留学で本日不在にしております。あちらは次男の恭でございます」
「……恭、恭っ」
水銀さんの呼びかけで俺はハッと我に返り、おもむろに立ち上がった。
「恭と申します。この度はおめでとうございます」
義兄ですとか別に言わなくてよかったよな? と思いつつ上座に並んだ少尉と小夜にお辞儀した。
『うそ兄貴!? 全然似てねえじゃん!』じゃねえよ腹立つ顔。そういやなんであの上司は少尉の隣にいんだ、てめえ他人だろうが下座に行けよと思った。まあたぶん補佐してやってんだろう。絶対知ってるこの空気、畜生ここまで出かかってるのに──。
俺は首を捻りながら少尉のご機嫌な笑顔をじっと見た。
凛々しい眉に瞳の大きな垂れ目、平行な二重瞼、ガツンと高い鼻──八重歯はご愛敬として見た目はなかなかいい男なんだよな。さぞ港でモテるんだろなという将校様だが、嫌味はないし人が好い。好すぎて不安になるくらいに。
とにかく明るくてそこかしこ抜けてるから『いや、どうしてそうなった?』みたいなことが何度もあった。面白くて俺は好きだけど、生真面目で神経質な水銀さんは面倒臭いと言っていた。予測できないものほど神経質の敵はないから仕方ないが。
(──しかしこの二人が夫婦、ねえ)
俺は人が挨拶するたびに揃ってお辞儀する二人を見遣り、ボーッと祝言の様子を想像した……いまいちピンと来ねえ。
婿殿が都司だったら今頃どうなっていたんだろう。俺と都司が兄弟で……それはそれでピンと来ず、何だかなと頭を掻いた。水銀さんの不安定な心境が少しだけわかったような気がした。
俺は所在なく、頭上に煌めくでっけえシャンデリヤを見上げた。
旦那さんが最後のひとりを紹介する声が耳に届いて、俺は銀製のスプーンを右手に持ったままゆっくりと茶色い目を瞬いた。
「こちらは専属医兼秘書の水銀です。すでにご存じかとは思いますが、娘は体調に不安がありまして……治療は済んでおりますが、念のため現在も経過観察中です。この者も何かとお伺いする機会があるかと思いますので、御用の際はお気兼ねなくお申し付けください」
「……水銀と申します。この度はおめでとうございます」
水銀さんは肩書を言わなかった。
一にも二にも、小夜の結婚についてはずっと前から水銀さんが世話していた。今日の段取りだって、霧島家の家令とまるで執事みてえに遣り取りをして。
(水銀さん、これでやっと肩の荷がおりるってのに。何を浮かねえ顔してんだか)
水銀さんの紹介は、あと一文ほどあった。
「──水銀のことは妻の生前から我が家に抱えておりましたので、使用人ではありますが半ば小夜の兄のような存在です。男寡の私にとっては伴侶のようでもありますが」
霧島家は一笑したが、烏丸家は苦笑した。水銀さんは白い手で葡萄酒をクッと呷った。積年の激務に嫌がらせ、同性とは思えねえような執着……簡単に忘れてやると思うなよ、だった。
それを見ていた少尉がどう解釈したものか、水銀さんにテーブルの高さギリギリの位置で手を振り八重歯を見せた。水銀さんは小さく首を振り『いま駄目ですよ』『ふざけない』と無言で窘めた。少尉のやつ、面倒臭がられてんのに犬みてえなんだよなと可笑しさがこみあげる。上司はそんなやりとりをじわじわ笑いをこらえながら注視していた。
──小夜はあいつの正体を知ってるんだろう。静かに笑って俯瞰している。
(お前が主役なのに、お前のために皆集まってんのに……なに他人事みてえに楽しんでんだよ。もっと気にしろよ相手の家族にどう思われてるかとか。お前の家族、代役ばっかの継ぎ接ぎだぞ)
言葉にできない感情にさらされる。
俺はここへ来る途中、車中の一幕をふと回想した。
***
「……旦那様、当日申し上げますのも何ですが、僕はこの場に必要でしょうか」
目を伏せ、下がる眼鏡を人差し指の背で持ち上げながら水銀さんが零した。
「ずっと坊ちゃんの穴埋めという事で納得してきましたが……今は恭がいる。僕はもう、お役御免かと──」
水銀さんは窓外に白い顔を向けたまま、隣の旦那さんにボソリと伺いを立てた。旦那さんは骨董品でも眺めるような調子で顔を傾け、三日月みたいな横顔にそっと答えた。
「確かに兄はな。ただ母親がいない」
「え、奥様役はちょっと……」
曇り顔で眼鏡を押し上げる水銀さんに、旦那さんは『冗談だ』と笑い煙草の箱を左手で弄った。
「小夜も恭も宗介が居たほうが良いだろう?」
「そうですね、先生がいると安心です。どんな時でも」
小夜の一言に何となく目を逸らす。小夜の兄役は水銀さんがいい。信州でもきっと、二人で上手く暮らしてきたはずだから。
「……俺、兄貴の代わりとか出来ねえや。水銀さん引退とか許さねえから」
小夜はうんうんと頷いた。それからそっと諭すように俺の目を見た。
「あと恭は、代わりなんかじゃないわ。あなたもお姉様もお兄様よ」
「頭おかしくなりそうなんだけど」
俺は粧した着物姿を見下ろし鼻で笑った。
「私も同じ台詞を吐いた。小夜から倅の話を聞いたとき」
旦那さんは整った口髭を摘まみ青い息を吐いた。小夜は花のほころぶように微笑った。
「そうでしたね。私も先生から伺った時は、思わず卒倒しそうになりました」
「……各所申し訳ない気持ちはありますが、責任の追及は坊ちゃんにお願い致しますよ」
水銀さんは顔を覆うようにして眼鏡を押し上げた。
かつてない和やかな雰囲気の中あれなのだが『お姉様もお兄様』、これについてはちと説明させてほしい。
実を言えば、小夜には血のつながった兄貴がいる。女みてえな長髪をコテで巻き、ドレスを着て化粧するとんでもねえ趣味の自由人。パッと見は外国の女優みたいな迫力のある男──小夜は『お姉様』と呼んで憧れちゃいるが、傍から見てりゃまあ異常だった。親父譲りの商才で飲食店を三店舗経営、中身の程も尋常ではねえのだよなとしみじみ思う。
「──愛妻を病で亡くし、十五年とは言わず出奔していた勘当息子は女装家に、少し話せるようになったころ娘は街で出くわした一流華族の御曹司と結婚か。私は家族の縁が薄い」
自嘲する旦那さんを見て、小夜はしゅんと俯いた。
「……私、お姉様を好きですよ。『お前の幸せを邪魔したくないんだよ』なんて寂しいことをおっしゃって。来てはくれなかったけど、自分が愛されていることだけは良く分かりました。お父様のことも、少しずつ好きになりたいの。私はもうじき家を出るのに、まだ遅くはないと思っているから」
小夜は寂しそうに、大切そうに言葉を紡いだ。離れて愛を示す人間がいることを、知ってる大人になっていた。
水銀さんはハレの日に不似合いな雰囲気を察し、薄日のような笑みを口元に作った。
「……母親役は坊ちゃんでよかったのに。あんなに女装に自信がお有りなのだし」
小夜は口元に手を当て、ふふっと笑った。
「ふん、あんな女の紛い物。来ると言っても置いてきたさ」
旦那さんも笑っていた。今もし朝日さんがここにいても、もしかしたら平然と笑ってたんじゃないだろうかとさえ思う。
(──あれ、そういえば“狐”は本当に男なのか? 都司と小夜は書生だって言ってたけど、水銀さんの話きいてねえ)
無意識に都司の事を考える。俺がこうしている間にも、狐はあいつの側をうろついてるかもしれない。急に古書店に行くなんて言ってたけど、吉原での聞き込みに何か収穫でもあったんだろうか。
──いや、今日はその話は一旦置いとくんだった。小夜にとっての一生に一度、少尉にとっての一生に一度。俺が腑抜けてしらけたら最悪だ。切り替えていかねえと。ブンブン頭を振る俺を、水銀さんが心配そうに覗き込んだ。
「……お前、緊張してる?」
「……分からん」
「そう。ガツガツ食べるなよ」
「うるせえな。さすがに分かってら」
俺は背広の薄い肩をトンと押した。水銀さんがフッと微笑うと、やけに良い心持ちがした。
***
(──あれこれ考えるな。こういう時はなるだけ笑ったほうが良い。笑えるか、自然に)
霧島中将が妻と娘を朗らかに紹介するのを聞いていた折、ふと上司と思しきあいつと目が合った。俺は無意識に都司の仕事用の愛想笑いを思い出して笑った。ゾッと腕を抱えたので、ああ畜生ぶん殴りてえと頭に血がのぼる。
ギッと横目で一睨み。口に運んだビーフスチウが美味すぎて、俺は思わず少尉に向かってうんうんと頷いた。その瞬間、パチッと空いた穴が埋まる。
「──長門中尉?」
思わず呟いた俺に瞠目し、中尉は黙って敬礼した。
第4話 侘助椿
珍しく恭さんと別行動の休日、僕は神保町にある老舗古書店『小夜侘助書房』を訪れた。色褪せた紅椿の看板を見上げる。黒檀の戸を引くと、店番の春市が気怠げに『いらっせえやし』と挨拶をくれた。
五代も続くこの店は祖父と先代の、それから兄の行きつけだった。皆先に逝ってしまって、今では僕が通っている。
小学校から一中、帝大……人生の半分以上勉強漬けだった僕は暇を見つけてはここに来て、古い小説や外国の本を漁っていた。家で読むと理不尽に叱られるので、買った本を店の休憩室に置かせてもらっていた。
真ん中に十人くらいは掛けられそうな読書机と椅子がある。ああ、壁際のあの席。昔ほど賑わってはいないけれど、今でもやっぱり大きくて、静かで、落ち着く店だった。
「旦那ァ、お久しぶりです」
春市は本に栞を挟み僕を見上げた。
「ごめんよ、最近忙しくて。しかしお前さんもここが長いね。他所にゃ行かないのかい」
春市は色の抜けた袂に手を突っ込み、ふにゃっと笑った。櫛を入れてやりたくなるような、ふわふわの癖っ毛が少し傾く。
「いやーもう十年たあ言わず世話んなってんでえ、いまさら別んとこ行こうなんざあ罰あたりやす」
「義理堅いね。そのままツネさんの代わりに店継いでおやりよ。あの人どうせ帰る気ゃないんだろ?」
春市はぼんやりした顔の前で手を振り、滅相もねえと笑った。
春市がこの店の丁稚になったのが十二歳、その頃僕は一つ歳上の中学生だった。
店には一人息子が居るけれどこれがどうにも奔放で、十五になったある日唐突に『深海行ってみてえー』なんて言い出したらしい。そういう本でも読んだのだろう。
名前を恒興さんという。僕の三つ上、買った本うちに置いとけばと言ってくれたお兄さんだった。
こいつは一度言い出したらきかねえからと、旦那さんは一回きりの約束で海軍兵学校の受験を許可した。するとツネさん、当時倍率三十倍はくだらない超難関校になんと独学で現役合格。
帝大を止すまで人生の半分以上勉強漬けだった僕は、その話を父にくどくど言われ酷いショックを受けたものだった。専門の予備校があるような学校なのに、そんな馬鹿みたいな話他に聞いたためしがない。
「旦那さん、俺じゃ駄目だってんですよ。何が何でもうちの家系でやりてえって……勿体ねえなあ、こんな良いおたな」
そうか、春市は心底ここが好きで居るのだな。好きなことを仕事にできるのは幸福だ。だって大人はみんな一日の殆どを働いて過ごすものだから。
(──ああ、本題。本題忘れてた)
僕は上着のポケットから、二つ折りのメモを取り出した。
「そういえば春市、ちょっとこれ見とくれよ」
「ん?」
春市は僕の掌に乗った紙切れに、眠たげな目を瞬いた。
“化け狐・侘助・花屋・天城”
「旧くからお世話んなってる三味線のお師さんがさ、菊清(うち)の近くで拾ったって持ってきたんだけど……この『侘助』っての、もしかしたら小夜侘助書房の事なんじゃないかと思って」
「へえ。隣に『花屋』って書いてっから、こりゃ花の侘助椿の事じゃねえんですかい?」
「……ピンと来ないか。忘れとくれ」
──春市にはとても言えやしないんだけど、ここに来る前、僕は一定の距離を保ってついてくる狐の顔色を見ながらボソボソ思いつく事柄を口にしていた。このメモを手に取ると明らかに動揺していたからだ。
今思えばあんな姿、誰かに見られたら大変だった。ぽつりぽつりと呟いて、『小夜侘助書房』と言った瞬間、狐はピタリと動きを止めた。“花屋”と“天城”は残念ながら探し当たらなかった。ただここには多分何かあると僕は睨んでる。
「旦那ァ、もしかして暇してんですかい?」
(……仕事の合間を縫って調べてる、なんて言ったら馬鹿だと思われるな)
僕はその辺の本を適当に捲ってお茶を濁した。
「あ、そういやツネさん帰ってますよ。ゆんべ急にただいまあなんつって。髪ボッサボサで笑っちまいやした」
「そう。あの人はいつも急だね」
「性分ですよ。さっきもダラダラ昼食ってすぐ煙草買いに行っちまって……あんな自由人、軍艦乗ってなきゃ今頃どうしてたんだか」
「居なくなるのもきっと急だよ。性分だからね」
春市は、寂しい人だねえと笑った。
その後は急に勘定が混んだので僕は暫くそこを離れ、懐かしい壁際の席に座っていた。壁一面の本棚を見ていると落ち着く。
思えば恭さんに初めて会ったのも大学の図書館、小夜ちゃんとも最初の頃は本の話をよくしていた。
(やっと叱る人間が居なくなったのに、今度は本を読む時間が無くなるなんて……つまんない人生だな)
頬杖をつき机の木目を眺めていたら、コトンと煙草の缶が視界に入りこんだ。チェリーか。見上げるとぼさっとした前髪から見える目が、微睡むように瞬いた。
「驚れえた。菊清のボンだぁ」
「おや、お帰んなさい」
ツネさんこと扶桑恒興中尉は、緩くまとめた癖っ毛の先を弄りながら笑った。二十六歳、会うのは実に九年ぶりだった。恭さんを超える長身にゆるりとした猫背──手足のスラリと長い体はあまり逞しくはなく、軍服を着ていなければ将校とは思われないような見てくれだった。
「軍服で休暇ですか」
「野暮用でなあ。軍人が嫌いかあ、相変わらずー」
この間伸びした話し方、はるか昔買い物行ったっきりのお母さんにますます似てきてる。しかしお父さんはちゃっきちゃきの江戸弁なので、下手するとツネさんが一回喋る内に二回話していた。他所様のうちながら、あの掛け合いはいつみても面白い。
「いつまで居るの」
「あと二日だなあ。みっちり店え、手伝わされてからなあ。親父が倒れたら、潰れっちまうからよー」
ツネさんは無責任に笑った。老舗の一人っ子長男なのに平然と店を継がない。大籬の看板に縛られて人生を捨てた僕とは大違いだ。犠牲になる人間の多寡ではなく、血で続いた流れを自分が途絶えさせることの恐ろしさの話。
「何も言うなー。『狡い』は、負け犬の台詞だぜえ」
「……外行きましょうよ。吸いたい」
煙草を求めポケットを探る。ツネさんはじっと見てゆるい口元に笑みを作った。
「敷島かあ。渋ぃねえ」
「兄が吸ってた。煙草は真似るな、って言われてたのにな」
「ふーん。そういやお前え、枸一さんに似てきたよなあ」
「──僕が?」
ツネさんはチェリーの缶を春市にポイと寄越し、ガラガラ出口の戸を引いた。急な秋風に思わず肩をすくめる。ふと玄関に忘れた襟巻きのことを思い出した。
「煙草弄る手え、そっくりだなあって」
(手か……あんまり気にしたことはなかったな)
僕は思わず自分の手をまじまじと見た。白くて細い、楽器やあやとりの似合いそうな指。男らしさのかけらもなくて哀しくなる。
軍にいた兄が戦死したのはもうずっと前、僕もツネさんもまだ子供だった。あの頃の三歳は大きい。さらにツネさんはとんでもなく賢くて、きっと恭さんと同類の……並の努力では敵わない何かを持っていそうな人だった。僕より兄を覚えている。悲しさだけは、虚しさだけは、僕の記憶が勝っていると思いたいけれど。
「──言っちゃうとね、僕まだ悲しいんです。とっくに兄やの年を追い越して、声だってもう忘れかかっているのに。胸の真ん中を花野風が抜けてくみたいに、虚しい時がある。秋は特に」
ツネさんは、そっかと短く呟いた。
「何か食い行こうぜえ。小腹空いたぁ」
「いいですよ。何食べます?」
「餡蜜」
「軍服と男二人で?」
「離れて座ればいいだろー」
「そんなにまでして……まあいいか。ご馳走になります」
「おねだり上手んなったかあー」
ツネさんは煙草のカラをくしゃくしゃやりながら鼻で笑った。見慣れた紺色の吸い口を煙草に着せて咥える。喫煙具ってのはなかなか壊れないもんだなと思った。僕達は路端のベンチに並んで腰掛けた。
「火ィくれえ」
「どうぞ」
僕は燐寸を横に擦りチェリーの先に近付けた。相変わらず美味しそうに吸う人だ。僕は少し翳った秋空を見上げつつ、ぼんやり自分の煙草に火を点けた。敷島はチェリーの香りに大人しく巻かれている。
(──久しぶりだな、誰かと吸うの)
隣に並び、別々に同じ空を見ている。
いつだったか鸚助先生の山櫻に苛ついてそれぎり一人だったのに、今日は不思議と不快感がない。
「餡蜜、どこいきますか」
「そのへんー。どこで食っても差ぁ、ねえだろー」
どうこう話していたら、向こうから背高の若い二人組が歩いて来た。一人は海軍の白軍服、連れの方は粧した三つ揃いの──
「恭さん?」
「え、何してんのお前?」
恭さんはいつになく小綺麗な格好で団子の串を咥えていた。手元にはまだ予備がある。気恥ずかしくなったのか、せっかくきれいにしてた髪をくしゃくしゃっと軽く掻いた。
「言っといたじゃないですか。今日は古書店で探し物しますからって──そちらは?」
「あ、はじめまして。帝国海軍中尉 長門と申します」
育ちの良さそうな、端正な顔立ちの将校様だった。連れの恭さんが目立つこともあるだろうが、行き交う女性たちがみんな中尉の方を振り返る。軍服モテ、だけではないか。僕は視線でツネさんを揶揄った。
「都司と申します。恭さん、この方はもしかして小夜さんの」
「あ、違います違います! それは私の友人で。小夜さんにも今日挨拶してきました」
僕は丁寧に説明する長門中尉を『そうですか』と軽くいなした。
「恭さん、海軍に友達いっぱいいるんですか。知らなかったな」
「ちげえよ馬鹿。軍服見るなりツンツンしやがって……こいつはあれだ、妹婿のツレで上司。他人だ他人」
長門中尉はハァと言って恭さんに詰め寄った。
「何だよてめえ、さんざん鯛焼きだ団子だ焼き芋だって奢らしといて! もう友達でいいだろ腹立つなー!」
「うっせえな。まだ友達の感じじゃねーんだよそれは」
恭さんは面倒くさそうに中尉を半目で見た。僕は同じ様な顔をして恭さんを見た。
「……別に良いんじゃないですかお友達で。僕、干渉しないんで」
鸚助先生といい長門中尉といい、話によると霧島少尉も……恭さんの周りは何だかうるさくて面倒くさいなと思った。
ふと、長門中尉は僕の隣でじっと様子を見ているツネさんに気がつき目を見開いた。ツネさんは『やっと気付いたかあ』と緩く笑った。
「え、扶桑先輩!? お久しぶりっす! ……いや髪なっが!」
なるほどこっちは先輩後輩。階級が同じなら長門中尉はよっぽどエリートなんだろう。すぐ気づかなかったところを見ると相当久しぶりなのかもしれない。
長門中尉に髪を指さされ、ツネさんは曲げて束ねた長髪を解いた。緩いパーマネントを当てたような、クルクルふわふわの癖っ毛が肩につく長さになっていた。潜水艦乗りというのは上官の目が届きにくいのをいいことに無精者が多いらしい。ツネさんにとっては、さぞかし居心地の良い職場なんだろうなと思った。
「どん亀乗りなんかこんなもんだろー? んで長門お、かっこいいなあ今日」
「ああ顔合わせで」
「おおー、櫻子ちゃーん?」
「いや俺じゃなくて霧島の。兄弟の代役で……だって中将が頼むんすもん。断れなくって」
「へえ。変なのお」
(霧島って、霧島少尉か……恭さん、何も言わなかったな。今更僕なんかに気遣わなくたって良いのに)
僕は自分が思うより、恭さんに心配を掛けてしまっているのかもしれない。むっつりとした横顔。この人は本当に顔に出さないから、こちらが気をつけていないと手遅れになりかねない。
何を考えたか恭さんは、ツネさんと長門中尉の間にするっと割って入った。
「なあ、あんたフソウツネオキか?」
ツネさんは一瞬きょとんとして小首を傾げ、そのまま頷いた。
「ふーん、ほんとに居んだ」
「ねえ先輩、気持ち悪ィでしょ!? こいつ俺のことも先に知ってて……犯人霧島ですよ。江田島であったことお嬢さんに手紙で話してんのは知ってたんすけど、まさかの全部筒抜け。もう長編小説ですよ! お嬢さんとお屋敷の人たち、扶桑先輩のことなんか不良だと思ってます。まあその通りすけどね」
「マブかあ。風評被害だなあ」
長門中尉はケラケラ笑った。ツネさんは煙草を路地に捻りつけ、ボサボサの髪を適当に纏めた。
──何を言っているのか分からない。だけど小夜ちゃんもツネさんや長門中尉、それからお婿さんになる少尉の過去をみんな知っている状況らしい。とりあえず現状僕だけ仲間はずれだということは、何となく分かった。
「都司はフソウツネオキ友達なんだ?」
「その呼び方で行きます? 何なら子供の頃から知ってますよ。生前兄も一緒に遊んでました。僕はツネさんと呼んでます」
「ふーん。狭えんだな東京って」
恭さんが変に予習しているおかげでおかしなことになっているんだけど……ツネさんは気にしてない、僕と長門中尉は気にしてる。
「なあそれえ、角の団子屋?」
ツネさんは呑気なものだった。
「そう。食う?」
「食う食うー。ボンちゃーん、餡蜜もういらねえー」
ツネさんはあーっと緩く口を開き、みたらし団子を頬張った。見るからに甘い琥珀色のたれがトロンと秋の陽にのびる。
「甘えーうめえー」
「だろ。他人の金だから余計美味い」
「てめえこの野郎、覚えてろよ……!」
「長門お。お前え、言葉が汚いぞお。それでも海軍軍人(ジェントルマン)かよー」
──だんだん長門中尉が気の毒になってきた。
狐について大した収穫もないし早く帰りたいなと思い始めた折、察したようなツネさんの気紛れが始まった。
「いい感じに人、集まったなあ。ちと早えけど、飲もうぜえー」
「僕は遠慮します。下戸なんで」
帰りたさを全面に出し端的に断った。しかし相手はツネさん糠に釘。
「あ。お前え確か、小唄とか、三味線とか、いけたなあ」
いらない記憶力が発揮された。あとあと面倒な予感がする。
「だわ。俺なんでいっつも一緒にいて思いつかなかったんだ」
ほら恭さんが変な知恵つけたじゃないですか。絶対やりたくない。
「……海軍は二流三流とは遊ばないんでしょ? ちゃんと一流の芸者さんにお金落としてください。まあ例え将官の顔だろうと、私服でお粧しされてたらお迎えしますよ。うちは二流なので」
「言うねえ。ボンが大人に、なっちゃってえ」
ツネさんはニヤニヤ意地悪な笑みを浮かべた。嫌味のつもりだけど嘘ではない。顔を忘れてお大尽を逃がしたら、あの街では生きてゆけないのだから。
「へえ。都司さん花街の坊ちゃんなんですか?」
都司さん。もしかして少し年上だと思われてる? どうしようかな……長門、さん。長門さんでいくか。
「なんて事ないですよ。それより長門さんはお酒、飲まれますか?」
「んー、そこそこですね。扶桑先輩よりゃ飲めます」
「そうかあ? 俺ぁすぐ寝るけどー、起きたらまた飲むからよぉ。一晩単位ならぁ、勝ってる、と思う」
「何なんだよ、その飲み方。面倒くせ」
恭さんはからから笑った。どうやら長門さんよりツネさんと合いそうだ。
(──いる)
僕は恭さんの肩越しに路地の向こうを見た。煙草屋の脇に立つ、白い軍服を着た男のようなもの。顔には狐面をしているが体つきは男、しかし軍人にしては随分なよやかだった。軍服の装飾も所々怪しくて、その手の知識が不完全であることを証明していた。
(ツネさんと長門中尉がいるから、外見を合わせているのかな。でも何のために?)
ひとり考えを巡らせる僕の側に、長門中尉がひょいとしゃがんだ。
「“化け狐・侘助・花屋・天城”……? はは、“天城”ですって。扶桑先輩」
「よせよぉ。縁起でもねえー」
長門中尉の一言に僕は瞠目した。笑いながらメモを返してくれる。しかしまあよく落ちる紙切れだ。
「今日はその聞き込みにお店お邪魔したんですよ。訳はまあ、馬鹿馬鹿しいようなことなんですけどもね」
ツネさんは長い首の後ろを掻きながらあくびをした。
「ボンちゃーん。歌ってくれたらあ、いっこ喋るけどー」
「えっ、何個知ってるんですか?」
ツネさんは『三』と指を立てた。
「でもシラフじゃ、言えねえなあー。当たりかもわかんねえー」
ツネさんはいい加減な返事をした。この人はペラッと嘘を吐く事もあるけど、少なくとも“天城”と“侘助”は何か訊けそうだ。
(あいつ、着いてくるかな……)
狐の視線を感じつつ、僕は三人について黙って歩いた。襟巻きが恋しい。
第5話 鏡開き
「何語でいく? 英語・ドイツ語・覚えたばっかのスペイン語」
聖書片手に尋ねる俺を見下ろして、おやっさんは霜の下りた頭の後ろを掻いた。
「んなもんおめえ、雰囲気だろうよ。日本語でいい、日本語で」
じゃあ俺じゃなくていいじゃんと思いながら咳払いをして、所在なく手元の聖書に目を遣った。
木蓮の黒枝が映える秋晴れの日、庭の紅葉が揺れている。屋敷の診療所の前に急ごしらえの赤絨毯、花飾り──それらしく洋装と洒落込んだ屋敷の面々が、ふわふわした祝福の言葉を送る。
(外国の結婚式って本当にこんな感じなのか? ……変なの)
新郎が停泊先で見たとかいう西洋かぶれの通過儀礼は、さながらごっこ遊びのようだった。こんな祭壇もねえ、十字架もねえ民家の庭先で勝手をやっても、神様とやらは取り合ってくれるのだろうか。
大礼服の新郎は海軍兵学校の同級生三人に見守られながら、緊張しきった顔をして花嫁を待っていた。
本当の娘でないにせよ、おやっさんが新婦と腕を組み赤絨毯を歩ってくる。『てめえ、泣かしやがったら即ぶっ殺してやるからな』という気迫で一歩一歩迫り来る。新郎は思わず後ずさる足を必死に踏ん張った。ライオンの唸るような低い声が俺に向く。
「おい恭。てめえあの病める時も健やかなる時もってやつ、やるなら一思いにやりやがれ!」
「うるせえな。それが結婚式で言う台詞かよ」
時期がら蜜柑の花は手に入らず、とりあえず白い花をおやっさんが見繕ってきた。花木のプロの選りすぐり、極道みてえな見かけによらず作った花束の可愛いこと。
「……畜生、何が悲しくて海軍将校なんかにくれてやんなきゃなんねえ」
おやっさんは──屋敷の庭師である本山慈兵衛は、男前の左頬にざっくり入った二本傷に手を当てて、地面をぶち抜くような溜息を吐いた。軍人と並んでも見劣りしないその体はとても五十路には見えない。着なれないモーニングは祝儀に添えて旦那さんが誂えた。使用人にしては破格の待遇のように思うが、そもそも作らせなければ寸法の合う洋服なんかないような体格をしているのだ。
「ぐあー! 駄目だやっぱり我慢できねえ! ちと一服させろい!」「往生際が悪ぃな新婦父。江戸っ子が一度決めたもん渋ってんじゃねえよ」
「てやんでえクソ神父!! てめえいっぺんでも娘親んなってから物言えッ!」
「慈兵衛さん、慈兵衛さん落ち着いてください……!」
神父役の俺をつるし上げる丸太のような腕を、粧した水銀さんがひしっと捕まえた。
「おい海軍。ボサッとしてねえで加勢して」
俺が指差すと一番体格いいのが猛獣を羽交い絞めにした。高い鷲鼻と緑の瞳が印象的な、日本人離れした容貌の男だった。大鷹少尉、新郎の学生時代の友人だ。
「てっめえ! 放せ! 放しやがれこの野郎ッ!」
「……駄目だ。長門」
駆け寄った長門中尉は一緒になっておやっさんの体を押さえつけた。
俺はコホンと咳ばらいをし、新郎新婦に向かい合った。
「──新郎、千鳥四万虎。貴方は本山華を妻とし、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も、これを愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い……」
ふと新婦父の方を見る。さっきまで暴れ散らかしていたのが嘘のように大人しい。さあて泣いて喚くか、吠え散らかすか。
「その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「誓いますッ!!
「てやんでえうるせぇこんちきしょうがァ────ッ!!!」
全てを吹き飛ばすような咆哮が秋の美空にこだました。
***
──事の発端は二ヶ月ほど前、一旦その時の話をする。
事件は東京府内のカフェ・シャブラン、お園姐さんお気に入りの店で起こった。今思い出しても偶然が偶然を呼んだ出来事で、不信心な俺でさえこの結婚式は神様のお導きとかいうやつなんじゃないかと思うほどだった。
「おい何だよこれ。何で俺があんたらとこんなとこ」
「四の五の抜かすんじゃねえ、たらふく食わせてやるって言ってんだろうが。てめえは黙って座ってろい」
入口から遠い端の席、クロスをした四角いテーブルに一品二品と皿が載る。俺はでかい花瓶に投げ込むように飾られた大輪の薔薇や百合の影に潜むように、おやっさんと姐さんと三人でテーブルについていた。『潜入捜査』『探偵』『張り込み』そんな気分だ。
「でもねえ慈兵衛さん。いくら今朝から華ちゃんの様子がおかしいったって、もう二十六だよ? 見合いも碌にさせねんじゃ、男の一人や二人いたって不思議じゃねえ。お節介も大概におしよ」
姐さんは煙草をスパスパやりながら三日月のような眉を吊り上げた。
「──なんだいその顔。あんたいま私の年を思い出したね?」
「別に何も言っちゃいねえ」
「嘘つきな顔見りゃ分かんだよ! あんたとは屋敷でも旦那様の用心棒でも長い事仕事してんだ! 女の勘舐めんじゃないよ!」
(おっかね。別嬪なのに、どうりで嫁の貰い手がねえわけだ)
俺は顔を伏せ、平皿に載ったアスパラガスをフォークでつついた。
ふと珈琲と煙草の匂いに紛れるように百合の香りがスンと過った。
「華ちゃんだよ」
姐さんはジッと煙草の火を消し、小造りな顎で前方を指した。
「シマトラさん、いらっしゃい。会いたかったわ」
「華ちゃん! よかった元気そうで……俺も会いたかったっ!」
俺たちはそうっと身を乗り出し、手を取りあって笑い合う男女の様子を確かめた。男の方は若い海軍将校、女の方は本山華。ここで猛獣みてえに牙を剥いているおやっさんの上の娘だった。娘と言っても血の繋がりはなく、陸軍軍曹時代に戦友の娘二人を引き取り育てたという関係。とはいえ目に入れても痛くないほど可愛がっていたことは、この様子を見る限り明らかだった。
「今度の航海は長かったのねえ」
「うん。俺ずっと華ちゃんのこと考えてた。長かったあ」
シマトラさんと呼ばれた将校は、そばかすの鼻先をすんと啜って華さんを見上げた。赤みがかった中分けのゆるい癖毛、くりっとした目をしていて、パッと見は華さんよりもいくつか年下のように見える。
「フランスにわっぜ可愛い花屋があってさ、華ちゃん連れてきたら絶対よろこぶのになあって……あ、ごめん。座ってよ!」
将校は華さんに心付を手渡した。華さんは一度断る素振りを見せたが、そこは店の流儀。渋々白いエプロンのポケットにそれを仕舞い、将校の向かい側の椅子を静かに引いた。
「ん? 何で華ちゃん隣に座んないんだろ? 普通お愛想でぴったり横に座るもんだよ」
姐さんは新しい煙草を咥えながら首を傾げた。
「ケッ。そんなもん見せられてみろい。俺ァとうとう正気じゃねえやな」
小洒落た店に煙管は似合わない。おやっさんは気を落ち着けようと苦い珈琲を含んだ。
「間に誰かいるのか?」
俺の声に二人が視線を前に戻す。花瓶の花を避けながら覗き込むと、もうひとつ大柄な白い軍服の背が見えた。
「今日はお友達も一緒なのね。初めまして、女給のハルです」
「初めましてハルさん。千鳥からお噂は聞いております」
溌剌とした声に華さんが微笑む。
「自分は千鳥の学生時代の同級生で、霧島誠と申します!」
ガタッと音を立て立ち上がる三人。霧島少尉は華さんに向けた敬礼のまま、こちらを振り返って驚いた。
「霧島少尉!」
「少尉様!?」
「少尉殿!」
「恭くん慈兵衛さんお園さん奇遇ですね!!?」
霧島少尉は八重歯を見せて笑った。華さんはサーッと青ざめおやっさんの嶮しい顔を見上げた。
「お父ちゃん、どうして……?」
「お父ちゃん!?」
泡を食ったのはシマトラさんこと千鳥少尉。弾かれたように立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お父様が店内にいらっしゃるとはつゆ知らず、大変失礼致しましたッ! その、どのあたりから……?」
「てやんでえ! 一切合切お見通しでえ馬鹿野郎!」
「ひいい!!」
胸倉を掴まれる千鳥少尉。霧島少尉が慌てて仲裁に入った。
「チャラッチャラ別嬪女給に手え出しやがってこの野郎! これだから海軍てえやつぁ──」
「慈兵衛さん落ち着いてください! お店で暴れては華さんが困ってしまいます。あと自分も海軍ですのでそう言われますと悲しいです! どうかここはご容赦を!」
「……チッ!」
おやっさんは華さんの手前何とか自分を抑え込み、ブンと千鳥少尉をかなぐり捨てた。
しかしヘタレと思いきや千鳥少尉、首元に刺青の入った軍隊上がりの大男相手に一歩も引かず豪気なもんだ。今だって何とか真っ当に挨拶しようと必死に話しかけている。
(海軍……てっきりカフェの女給に入れあげてるだけかと思ったけど、何これすげえ本気じゃん)
俺は都司と違って色恋沙汰のいろはにゃ疎いが、華さんと千鳥少尉がただの女給と馴染み客でないことくらいは理解できた。
姐さんは顔見知りの店員に口を利き、俺たちの座っていた隅の席を六人掛けに広げて手招いた。
「はいはい! いいから一旦ここ座んな。私のお気に入りの店で大声出してやりあってんじゃないよ品のねえ。恭、あんたのおまんまちょっと除けな! 少尉様たちのケーキ置けないだろ」
「すみませんお園さん! 私がしますから」
華さんはスープ、サラダ、カツレツ、コールチキン、ハムエッグスを少しずつ俺の前に寄せた。
「華ちゃんは私の横に座んだよ。野郎の側じゃ父親が正気保てねえ」
「何でえお園、いっぱしに仕切りやがって」
おやっさんは逞しい腕を組みギロリと千鳥少尉を睨んだ。奴さんビビッちまうかと思いきや、これでやっと自己紹介できると襟を整えている。
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。私は大日本帝国海軍第二艦隊所属少尉 千鳥四万虎と申します!」
「千鳥! あちらは小夜さんのお兄さん恭くん。華さんのお父さんで庭師の慈兵衛さん、小夜さんの姉やさんお園さん!」
「ごめん誠、ちょっといま黙って──えっ、小夜さんのお屋敷の!?」
「因果なもんだのお」
おやっさんは牙を剥き、ボーンチャイナのカップを取った。
「霧島から皆さんのお話伺ってます! まさかこんな形でご縁があるなんて」
千鳥少尉は華さんの視線に気づいて頬を赤らめた。そばかすのせいでえらく純情そうに見えるけど、霧島少尉の同級なら俺とも同い年ということか。
(小夜の件といい、大した玉の輿じゃねえか。おやっさんは何が気に入らねえ)
俺は小首を傾げ、カリカリに焼けたハムを齧った。
「で。てめえはうちの華とどうなるつもりでえ」
「結婚させてください!」
「四万虎さん!?」
なんと一番驚いたのは華さんだった。
「──ごめん、本当は華ちゃんの仕事が終わってから言おうと思ってたんだけど……でも本気だから! 俺の奥さんになってください!」
「ああ、うれしい! 不束者ですがよろしくお願いします」
「おいこら勝手に決めてんじゃねえッ!!」
おやっさんがドンとテーブルを叩いた。刹那、間髪入れず姐さんが古傷の頬を火の出るような平手で打った。
「ってえ!」
「いい加減にしやがれみっともねえ! 静かにおしって言ってるだろ!!」
次は鉄拳だよ! と凄む姐さんの剣幕に押され各々自粛した。
「い、一号みたいなお姉さんだあ……!」
千鳥少尉は学生時代にやられたと思われる、先輩の苛烈極まりない修正を思い出し震えあがった。しかしここが正念場、震える胸を押さえもう一度頭を下げにいく。
「は、華さんのこと! 一生、大切にしますッ!! どうか結婚させてください後生です!!」
土下座でもする気だったのか、勢いよく立ち上がった千鳥少尉の上着からトサッと何かが落っこちた。
「恭くん、ちょっと足元失礼!」
霧島少尉が拾いにでかい背を屈めた。ガツン! と頭をテーブルにぶつけて拾い上げたのは──
「ちよこれいと」
華さんがぽつんと呟いた。おやっさんは鋭い目を瞬いて、千鳥少尉の顔を見た。
「あはは……好きだって言ってたから、ここ来る途中買ったんだけど。なんかごめん。俺、間ァ悪くって」
あらためて膝をつこうとした千鳥少尉に、おやっさんはもういいと声を掛けた。
「──根性だけは分かったが、したっけお前さん軍人だ。それも海軍と来りゃ長えあいだ家開けることもある。華に寂しい思いをさせたら、もしてめえに何かがあったらってのァ、いっぺんだって考えたのかえ」
千鳥少尉は頭を下げたままぐっと唇を噛んだ。華さんは千鳥少尉の背中に手を置き、切々と父を説得した。
「……お父ちゃん、私は平気よ。それでも四万虎さんと結婚したいの。今だって会えないことが多いけど、それでもやっぱりこの人を思っている間は幸せなのよ。他の誰ともそうはいかない。私を誰より好いて大切にしてくれる四万虎さんだけが、私にとってのほんとうなの。結婚させてください」
おやっさんは黙って二人を見下ろした。
「──どうせ駄目だと言っても聞ききゃあしねえんだろ。もってけ泥棒ッ!!」
華さんと千鳥少尉は手を取り合い、背を向ける父に向かって深々と頭を下げた。
***
「お父さん、落ち着いてください!」
「うるせえ! まあだ式が終わってねえのに、てめえにお父さんなんて呼ばれる筋合やねえ!」
「お父ちゃん、いまさら何言ってるの! 『二十二年間育ててくれてありがとうございました』もゆうべ終わったでしょ!?」
「んなこたぁ分かってらあ! やいシマトラァ! とにかく届け出までお父さんは早えッ! 義理のお父さんも駄目だ! 今んとこなんっの義理もねえからな!!」
「え、義理もだめなんですか!? じゃあ俺なんて呼んだら──」
末席の小夜は土壇場の修羅場をおっとりと見詰め、花籠を置きポンと手を打った。
「“仮”なんてどうですか? 仮のお父さん」
「仮のお父さん……」
水銀さんは何か言いたげに眼鏡を押し上げ復唱した。
「お嬢、ちょっとさがっときましょうかね」
同じく末席にいた書生仲間の葵が、波風を立てまいと小夜を脇に寄せた。霧島少尉がタタッとついてゆく。
「とにかく! 義理たぁ言え手塩にかけて育てた愛娘をてめえみてえな田舎モンの芋っころにくれてやるんでえ! 最後にちと吠え散らかすぐれえ勘弁しろい!!」
「……慈兵衛さん、自分が東京生まれ東京育ちだからって、地方出身者をどうこう言うのは良くないですよ。第一貴方がいつも飲んでる芋焼酎、あれ鹿児島産ですからね」
「ああ?」
おやっさんはキョトンと目を見開いた。
「『瑠璃樫鳥』。鹿児島に足向けて寝られないくらいお世話になってるじゃないですか。僕の家に買い置きまでして」
「あ、あの」
千鳥少尉はそろそろと手を挙げた。
「その瑠璃樫鳥なんですけど、うちの実家が造ってるやつです」
「はあ!? ……ヨタ言ってんじゃねえぞこの野郎! くだんねえ嘘ついてっと」
「いやいや嘘じゃないです。うち蔵元で……とにかくマブです。毎度ありがとうございます仮のお父さん!」
「てやんでえ、こっちこそ、死ぬほど世話んなって……あー畜生、そんな馬鹿な話があるかよ。お天道様が落っこちらあこんなもん!」
おやっさんはぐちゃぐちゃの感情をどうにもできず、天を仰いで大笑した。どうやったって良縁じゃねえかと認めざるを得なかった。
──時世ではあるが、両親顔合わせのないまま結婚をする軍人は多い。戦争が海だけで起こっている今日、海軍軍人の結婚は急務ともいえるのだ。こんな風に花嫁の親がごね散らかすことの方がよっぽど珍しい。
千鳥少尉は漸く心の臓が落ち着いたのか、ゆっくりと仮のお父さんに語りかけた。
「──それはそうとすみません、俺の勤務の関係でこんな急ぎの式になってしまって。こないだの台風の始末であいにく親兄弟は来られなかったんですけど、鏡開きの酒だけはしっかり預かってます。お伴しますんで、もうみんなみんな飲んじまってください!」
「マブかよ鏡開き。めちゃくちゃ西洋式でやってたのに」
ケラケラ笑う俺の横っ腹を長門中尉が肘で小突いた。
「はー良かった。とりあえず式、続けましょうか。恭くん!」
朗らかに笑う霧島少尉。華さんの妹、明さんも純白を纏う姉の晴れ姿を見て笑っている。
俺はもう一度神父の真似事をしながら華さんの顔を見た。華さんは憑き物が落ちたように晴れやかな顔をした父親に向かい、夕焼け色の唇をそっと動かした。
──四歳の手をとる傷だらけの手。パキリと割れた甘い匂い。何度も、何度も。
『ちよこれいと』
雪のとけるような涙が、ポロリと零れた。
第6話 菊花火
「旦さん、恭さんがお見えです」
「……入ってもらっとくれ」
頭が重い。僕は気怠い体で布団から這い出し、座敷机の端に佇む煙草にゆるゆると手を伸ばした。いつからか起き抜けの一服が無いと落ち着かなくなってしまった。物思いに耽りつつ、最後の一本を咥える。
窓から通りを見下ろすと、今日もまた見えてはいけない男が見えた。どうやら海軍の白い軍服が気に入ったと見える。
──そうだ。この怪奇現象について少しだけ進展があった。小夜侘助書房へ行った後、ツネさんと長門さんを素面のまま何とか酔い潰した僕は、三つの事柄を訊き出すことに成功していた。その場に居合わせた狐の反応を見るに、いずれも外れてはいないように思う。
まず“天城”はツネさんの兵学校時代の同級生、現在は海軍省に籍を置く天城大尉と見てよさそうだ。彼は長門さんの『対番』と呼ばれる教育係でもあり、二人ともと関わりが深い。また職場の同じ長門さん曰く、大尉は近頃しきりに外出しており、省から何か密命を受けているのではという話だった。
まああくまで推測ですけどねとへべれけで呟いた長門さんは、するめを噛み頬杖をついたままで眠ってしまった。
次に“花屋”。これはこの辺りで幅を利かせているヤクザ“鬼庭組”の隠語だろうと、燗を舐め舐めツネさんが言った。
陸軍が解体されて以降、海軍の配下に憲兵が置かれ警察以上に治安維持を担うようになって久しい。まあ担うようになったというより、それこそ『幅を利かせている』と言うのが世論だろうが、兎にも角にもそういう世情。ゆえに海軍将校がそういった隠語を知っていることに何ら不思議はなかった。
……ただし扶桑恒興という男はたまに息をするかの如き軽やかさで嘘を吐くので、信憑性は五分と思っている。まったく食えない男だ。
ツネさんは“狐”“天城”の並びからして花屋は鬼庭組だろうなあ。このメモを落とした間抜けは今頃泡食ってんじゃねえのなんて笑って……笑いながらそのままガタンと突っ伏し眠ってしまった。
もうひとつ判明したのは、意外なことに“狐”のほうだった。僕は気が狂ってると思われるのを覚悟で、現在進行形で体験している不可解な現象の事を二人に包み隠さず説明した。ツネさんに対し長門さんがチラッと視線を送るのを僕は見逃さなかった。以降ツネさんはいつも通りゆるゆるとしているのに、長門さんは腕を組んだり足を組んだり身構えている様子が見て取れた。
海軍はお前のことを何か知っている。そうだね? ずっと下座から此方を伺う狐に目を遣るとあからさまに顔を背けた。
因みに“侘助”についてツネさんは適当に話し、ハイこれで三つと言っていたけれど恐らく嘘。本当に知っているのは狐の方だろう。二人を喋らせるまでに何曲も歌わされ三味線まで弾かされた僕はいまいち腑に落ちなかったけれど、それなりに収穫はあったと思う事にした。
「大ごとに、ならないと良いな……」
煙と弱音が唇から昇る。メモが出てきてしまった以上、狐は幻覚ではない。ただそのこと自体は僕にとっては救いだった。小生意気な菊清の旦那が病院の世話になっているらしいなんて外に漏れたら、この店は忽ち周囲の食い物にされてしまう。
聞きなれた足音がピタリと止まった。僕は襖の牡丹を見返り、煙草をそっと灰盆に伏せた。
「都司ー、生きてるかー?」
「何とか。どうぞ」
襖の隙間から黒猫のおたまがにゅっと顔を出した。それから入口の高さすれすれに、色素の薄い髪がちらりと見えた。時計を見ると午後五時前。せっかくの休みを一日無駄にしてしまった後悔がつらい。
「へっ、ぼっさぼさ。大丈夫かい」
「ええ……ちょっと頭が重くて」
「お前は天気悪ぃとそれだな。女みてえ」
こういう体質に男とか女とかあるのかな。机に縋るようにお茶を呑む僕の傍ら、恭さんは畳の上にごろりと横になった。涅槃仏みたいな胸元に、おたまが頭を擦りつける。この頃やけに仲良しなんだなと思った。
「今日もいんの? キツネ」
「そこの通りに。姿を変えても何故だか分かるんです。それに人じゃないことも……忘八が言うのもなんですけどね」
僕は捨て鉢な言葉を投げて目を伏せ、コトンと湯呑を置いた。
楼主は人の持つ八つの徳を忘れた人でなしだと言われている。僕は四代目。世襲で忘八になることが決まっているような家に生まれ、兄はその軛を逃れるために親の反対を押し切り兵隊に成った。僕に言わせれば兵隊も非情だ。それでも兄は戻らないと言い張って、齢十七であっけなく散った。
「何です、じっと見て。お腹空いた?」
「うん」
「今日は三階に支度させましょうか。六時半から花火が上がる」
「花火」
恭さんの榛色の目がきらっと光った。僕は目を細めるお愛想笑いをした。頭はどんより重たくてもこの位の余裕はある。
「今年の夏は雨が多かったでしょう。花火が大量に余ってるって言うんで、組合が花火師達から買い上げたんです。冬に見るのもオツだ何だとお爺様たちが。同時刻にやったんじゃ、誰も花魁道中見てくれやしないんじゃないかと僕は思いますけど……あっ」
しまった。さっきのが最後の一本だった。僕はクロゼットからシャツとズボンを出し、夜着の帯に手を掛けた。
「煙草切らしました。ちょっと買ってきます」
「ああ、いいぜ俺行ってくら。部屋出んのにも支度すんだろ伊達男」
「家だけど店ですから。夜着でうろうろは出来ませんよ」
「一日寝間着でごろ寝出来ねえ家か。ちと散歩してくっからゆっくり支度しな。頭痛きちいんだろ」
恭さんは鼻で笑うと煙草代を受け取り、おたまと連れ立って出て行った。
僕が多少体調悪くてもとりあえず居座るようになったな……と思った。
***
六時になった。結城の着流しに羽織を掛ける。花火を邪魔しない暗い色を選んだけれど、見れば見るほどお通夜のよう。秋の日は釣瓶落とし。あっという間に暗くなり、外は遊郭の灯りが煌々としていた。紗を掛けた様にくすんだ夜空。雨は無いけど星も無い、ありふれた夜になったなと思った。
「旦さん、恭さんとお連れさんがお見えです」
「どうぞ」
さてお連れさんとは。スラリと開いた襖から、恭さんが顔をのぞかせた。続いて背高の癖っ毛が入口を掠めながら入ってくる。
「邪魔するぜえー」
「おや。おたまの代わりにツネさん連れてきましたか」
「そこで会ったから」
おたまとは別行動になったらしい。僕はツネさんの締まりのない顔に、態とらしくツンとした。
「吉原なんか来なくてもモテるでしょうに。海軍さんは」
「連れねえなあ。お呼びじゃねえかあ、シケた中尉なんか」
ツネさんは黒っぽい軍服のポケットをポンポン叩いてニヒルに笑った。僕も笑った。この格好という事は、どうやら遊ぶつもりはないらしい。
「ツネさん、串カツ好き?」
「好きに決まってんだろー」
「外に頼んどいたんですよ。うちの料理じゃ恭さんは食べ足んないから」
恭さんは胡坐に頬杖を付きフンと鼻を鳴らした。
「美味えんだけどさ。客から言われねえの? ここのメシ量が少ねえって」
「そんな鱈腹食べないでしょ。致す前なのに」
「食うんだろよぉ、恭ちゃんは。人それぞれだあなー」
どういうつもりか知らないが、ツネさんの揶揄いに恭さんは特段反応しなかった。今際の際でも口に何か入ってそうだなこの人は、と思った。
僕は二人を三階の談話室へと誘った。意外に初めてうちに来たツネさんは長い足で階段を二段飛ばしに上り、内装や天井の梁をぐるりと見渡した。
「立派なもんだなあ。この階だけで商売、出来そうだー」
「ゆくゆくはね。政府が法改正かなんかでお取りつぶしにしてくれたら、大義名分整ってさっさと仕舞いに出来るのに。抱える顧客が大きすぎて自由に廃業すら出来やしないんだから。楼主がきいて呆れるよ」
自嘲する僕の背を恭さんがトンと小突いた。
階段を上がってすぐ右奥。庭白百合のステンドグラス、その下に天鵞絨張りのソファがテーブルを挟み向かい合わせに置いてある。自然とツネさんが一人で掛け、僕と恭さんが並んで座った。
「失礼します。お飲み物をお持ちしました」
盆には枝豆と揚げ出し豆腐、麦酒二瓶にグラスが二つ。飲まない僕のためにリボンシトロン、それから栓抜きが乗っていた。
手を打とうとした僕の前に、ツネさんがコトンとグラスを置いた。
「俺ァ、グラスいらねえよー」
「喇叭飲みする気?」
ツネさんは締まりのない口元にプチプチと枝豆を含み、粗塩のついた指を舐めた。
──ドン。
硝子が煌めく。大きく開いた窓の外、冬の空気に硝煙が香った。
「粋だねえ、花街ってのはー」
「火薬はみんな花火にするといいよ」
ツネさんはゆるく笑いながら体を傾け、ポケットに長い指を差し入れた。煙草を探りながら、次の花火を待っている。
「火薬と言ってもよお、色々あっからなあ」
「僕たちにしてみりゃ皆変わらないよ。その程度のことだ」
一流も二流も弾薬も爆薬も花火も、所詮は些末事に過ぎない。それら全てに興味のない恭さんは、ただただ冬の花火に見入っていた。
「しかしよく見えるなここは。天守閣みてえ」
ツネさんはふと何か思いついた様子でポケットから手を出した。
「洒落てんねえ。でも俺ァ、もっと良いとこ、行っからよー」
「良いとこ?」
ツネさんはニヤーと笑って窓を開け、長い足をひょいと窓枠に掛けた。
「え、嘘。三階だよ」
「ふふー」
海軍で鍛えた筋力としなやかさ。ツネさんは高い背をものともせず身軽に桟に立ち、ひらりと屋根に登ってしまった。
「やべえ。石川五右衛門かよ」
恭さんはからから笑いながら身を乗り出して天を仰ぎ、猫の様に明るい目を細めた。
「絶景かな絶景かな……おーい恭い。麦酒と枝豆、とってくれえ」
恭さんは一度中に戻るとスポンと瓶の蓋を開け、小皿に取った枝豆と麦酒を屋根の上に差し出した。
「外ァ猫来るぜ。気ィつけな」
「本当かよー。寿司はちと、やべえかなあ」
戻るなり恭さんは呆れたように尋ねた。
「扶桑さんって、昔からああなの?」
「どうだったかな。何せ会うの九年ぶりで……でも変わっていたとは思いますよ。深海行ってみたくて海軍入ったような人ですから」
「海洋学者とかじゃ駄目だったんか」
「最短で考えたら海軍だったそうです」
「思い立ったらすぐやる性質か。あんな喋り方とれえのに」
恭さんは女中から『フライ』を受け取り笑った。
この肉の小片と葱を交互に串に刺し衣をつけて揚げた料理は、矢鱈と麦酒に合うらしい。
浅草六区で遊んだ後、恭さんに連れられ伝法院横の通りに並ぶ屋台に何度か行ったことがある。屋台は立ち飲みで暖簾は油っぽく、屡々酔っ払いに絡まれたので、少しも飲めない僕には正直その良さが分からなかった。ソースは共用だから二度漬けは禁止。その決まりだけをよくよく覚えて、僕はおっかなびっくり串を持ちそこにいた。
「家で食べる分には美味しいもんですね。サクサクしてる」
「やっぱり芯は坊ちゃんなんだよな、お前って」
言いながら恭さんは一本にソースをたっぷりつけ、窓から上に差し出した。
──ドン。
また、大きいのが上がった。串を皿の端に避ける。通りを見下ろすと、丁度おたまの主人が華々しく練り歩いているところだった。うちの妓が一等綺麗。どこの旦那も同じことを考え眺める時間だ。
「先代が死んですぐもこうやって一緒に見ましたね、花魁道中」
「二年か。長かったな」
僕は小さく頷くと窓辺に凭れ、花火に眩む吉原の夜景を見下ろした。恭さんはおもむろに僕の後ろに立ち、窓枠を掴むようにして百花繚乱の夜空を見上げた。一瞬、全ての花が流れ落ちた。
「懐かしいな。夏前だったけど、こんな風に恭さんと」
「小夜ちゃんと?」
──ドン。
僕の白い横顔越しに大輪の花が咲く。
長い尾を引く菊花火。最後は萎れて崩れて消えた。
「──あの日、二人が来てくれて、うれしかった。僕はもう、何処へも行けないと思っていたから」
恭さんは、ほの甘い葱を咀嚼しながら視線を外に迷わせた。
「うれしかったんです。もう僕も女郎と変わらない。誰かが来てくれるのを籠の中で待つだけの男に成ってしまったと思っていましたから」
「違う。お前は──」
「どうして捨てられないんだろう。どんなに嫌いな仕事でも、ここに住む人たちを捨てては行けないんです。僕は……ツネさんみたいに、出来ない」
恭さんの大きな手が致し方ない様に髪を掻く。ぼさぼさと乱れる栗毛の先が花火に透ける。赤白黄色青緑。刹那に咲いた明るい影が、血の通っていなさそうな僕の目元に次々と咲いて、散ってしまった。後には銃声に似た音と硝煙の匂いだけが残された。
『柊二。女を虐げる血が、僕にもお前にも流れている。その事を忘れてはいけないよ。女の子には、優しく。優しく──』
──そんなことを言われなくたって、僕はあの男の様にはならないよ。
けれどこんな血は絶えてしまった方が良い。僕の代でみんな奇麗に畳んだら、あとは独り身で生涯を終える。人でなしの血は僕を限りに終わろうね。僕が貴方なら須くそう願う。
僕は自らを呪う様に、慰める様に、ゆっくりと冷たい息を吐いた。
「帝大出たら、やりてえこととかあったの」
「……一応ね。でも分かりきっていた事です。跡取りが早くに亡くなっていますから、先代もいなくなればいよいよ僕にお鉢が回る。ずっと、分かってた」
自分の毒で胸が痛い。日ごと吸い殻の数は増え心の隅に累々としている。
ツネさんもお園さんも寒いと煙草が美味いだなんて言うけれど、僕はただの一度も煙草を美味しいと思って吸った事なんかなかった。でも戻れない。
「脛を齧れるだけ齧って、卒業と同時に逃げてやるつもりだったんだけどな。予定調和の人生で、それでも何とかこの街の外へ行きたかった……馬鹿でしたよね」
最後は屍人に足を掴まれて、そのまま明るい水の中へと沈んでしまった。
僕が暮らすこの街は虚構と現実の曖昧な、深くて暗い水底だ。みんなみんな竜宮城の形をした金魚の家に住んでいる。
水面に揺れる花火を見上げるだけの人生が、舞踏する花のように回っている。狐や幽霊が住んでいても、追い出す者はいないだろう。ああ、どこまでも辛気臭い男だな。僕は。
「こんな湿っぽい人生だから、小夜ちゃんとはここできっぱりお別れしたつもりでした。でも会っちゃった。傷ついたりしないよう、少しずつ解いていきたいくらい……静かな恋でした」
恭さんは窓辺に腕を置いたまま、呆れたように息をした。
「俺が頼んどいてあれだけどさ、恐れ入ったよ。振られんの分かってて、のこのこ会いに出て来やがって」
「だって」
僕は静かに枯れ落ちる花々を背に、月色の瞳にじっと応えた。
「好きな子に会いたいと言われて、行かないなんて野暮がありますか。そんなのは男じゃない」
端正な口元がふっと笑う。こんなに優しい顔をする人だったかなと思った。
「僕だって好きだった、ってか」
「ふふ。もうやめてください。忘れさせる気もない癖に」
穏やかで温かい恋の記憶は、ある日ふと指先で触れたくなるものだ。
僕は暫く花火も花魁道中も忘れ、真っ暗な夜空を見上げた。ほんの一瞬晴れた空にシリウスだけが明るかった。
「……安心して。もう燃えたりしないから」
それは一度灰になった花火がもう一度輝いたりはしないように。
「今はまだ、好きか」
僕は前を見つめる横顔のまま目を伏せ、小さく溜息を吐いた。
「──痺れてる」
譬え諦めようと、忘れようと、宝石みたいな夜の記憶はどこか寂しい。
狐はこんな僕を見逃さないだろう。いずれきっと小夜ちゃんの姿で近づいてくる。偽物を看破する自信はある。けれど、拒むことなど出来るだろうか。僕は今、こんなにも弱っているというのに。
「おーい、ボンちゃーん」
間延びした声に僕は窓から屋根を覗いた。長い腕が伸びてきて、人差し指がちょいちょいと動く。
「煙草、一本くれえ。切らしちまったあ」
「敷島でいいかい」
「何でもー。お喋り終わったかあ? お前らも来いよお。特等席い」
「へえ、そんなに」
僕はツネさんに誘われるまま草履を脱ぎ三階の窓枠に腰かけた。ひっくり返る程大きく身を乗り出し天を仰ぐ。いつの間にか雲は晴れ、すっきりと花火を引き立てる黒曜石の空だった。
此方を覗き込むくしゃくしゃの髪を越し狐花の星が均等に散る。絶え間ない煌めきは、僕の瞳にどう映るのだろうか。
「ああ、これは凄いな」
「ほら手え、貸しなあ」
僕の手首をツネさんの長い指が掴む。桟を足袋の右足で踏み立ち上がると、眼下には花街の灯りと人の波、眼前には四代続いた妓楼の甍、頭上には星の霞むような菊の籬が諸行無常に明滅していた。
「万華鏡みたい」
「ロマンチックだねえ。美的センス、ってやつかなあ」
ふと着物の裾がついと引かれた。恭さんは立ち上がって窓から顔を出し端正な眉を顰めた。
「おい都司、よせ。危ねえって」
「構やしませんよ。落っこちたって」
「構うんだよ俺が」
大きな手が僕の脛を掴んだ。冗談を言ったつもりなのに、いつになく警戒されている。
「おい恭い。悪戯、すんなよお。ふざけてっと、危ねえぜー」
「ふざけてんのはあんただろ。三階の屋根で酒飲むなんて正気の沙汰じゃねえんだよ」
呑気なツネさんと危なっかしい僕。恭さんが心配するのも当然か。
唇の先に敷島を咥えたツネさんは、ハイハイと僕の手を開放し燐寸を擦った。風に流れる火薬の匂いが香ばしい。
窓枠に腰かけた僕は、枯れ色に煌めく宝石のような瞳をじっと見た。それから魔法を掛けるように、ゆっくりと唇を動かした。
「心配し過ぎですよ。大丈夫。何か、胸が空きました」
「……お前だけ先にゃ行かせんさ」
恭さんは僕の体を引き戻しソファに座らせると、急に腹が減ったと言いつつ夜風に冷えたフライと気の抜けた麦酒に手を伸ばした。
虹彩を滑り落ちるように咲いて流れた大輪の菊。
最後の一撃は、青かった。
第7話 雪化粧
都電の車窓は退屈だ。過ぎゆく見飽きた午後の往来を、都司は気怠げな瞳で見つめている。場所が電車でさえなけりゃ、黙りこくって煙を吐いたはず。黒いスラックスの膝には四角い風呂敷包み、その上には真新しい山高帽が硬く単調なリズムで揺れていた。
俺はううんと小さく呻いたあと、座席に沈み込むようにだらしなく姿勢を崩した。
「あー、くそ寒い」
「言うだけ損ですよ」
都司は臙脂色の襟巻をツンと細い鼻先まで引き上げ、切れ長の目を伏せ笑った。
「お前がこの時期やたら電車に乗りたがるのってさ、サンチマンタリスムってやつ?」
らしからぬ俺の言葉を都司は横目で見て小さく顔を傾けた。
「僕のこと、切なそうにしないで。冬は車じゃ寒いんです。それだけです」
「何だ。お前も寒いんかよ」
「そりゃあ寒いは寒いですよ。見て。外真っ白で」
窓霜が縁取る味気ない背景に、隣の黒髪と白い顔が鮮やかだ。
路肩のパッカードに積もった雪を、年老いた赤鼻の運転手が粛々と手で払う。窓に嵌まった情景はたちまち活動寫眞のワン・シーンのように流れ去り、代わりに何処までもついてくる雪雲がずっしりと天を覆っていた。冬ってのはこうあるべきだよなと俺は思った。
「次降りるぜ」
「ええ、覚えてます」
都司は冷えた手を外套のポケットに差し入れやおら立ち上がった。
俺とこいつと小夜と葵、時たま小夜の友達も一緒になって通学したのがもう三年前か。雪の日──本屋に寄りますと降りてゆく一瞬の猫背を見送り『都司さんは、どんな本を好きかしら』と呟く横顔が浮かんで消えた。子供みてえに赤く冷えた鼻と頬をよく憶えている。
停車の揺れ、次いでドアが開いた。俺たちは無機質な人波に揉まれながら外に向かって流される。凍てつくホームに黒い革靴がコトッと下り、続いて雪駄がカランと鳴った。一歩先行く細い首や背に薄氷に留まる鵠を連想する。
都司が屋敷の中に入るのは意外にもこれが初めてで、お得意のポーカーフェイスにも微かな緊張が見て取れた。
──この後の流れはこうだ。俺は都司を連れ帰りまずは水銀さんに会わせる……というのも小夜が都司に返した手紙の内容がどうにもこうにも要領を得ず、実際の状況と相違ないか一度水銀さんと擦り合わせておこうと相成った。
そして夜は小夜の学生時代の友達に会いに行く約束もある。驚いたことに都司さんも一緒にと言いやがった。そんなもん心当たりは一つしかない。今夜、狐に関わる何かが動く。
「そういや扶桑さんと長門、今頃どうしてんだろ」
然して中身のない問いに、都司は貴族鼠の擦り硝子を透かしたようなホームの景色を見据え、出口に向かい歩くかたわら山高帽を被り直した。
「ツネさんは、仕事で今月いっぱい東京を離れるようなこと言ってましたよ。一旦潜水艦乗っちゃうと、通信すら任務明けまで出来ないんですって。敵艦に感知されないように」
「何それやべえ」
「長門さんは分からないです。でもこないだ四人で飲んだ時、天城大尉のことを話したいと言ってました。近々連絡あるんじゃないですか」
「天城大尉な。その話してる間、扶桑さんずっと眉顰めて酒飲んでたよな」
都司は小さく笑い、そういう振りでしょと呟いた。
駅のすみっこで一服付き合った後、俺は都司を連れて屋敷へと向かった。他愛もない話をしながら歩っちゃいたが、あんまり他愛もなさすぎて着いた頃には二人とも何を話したか大方忘れてしまっていた。
***
門前の躑躅が見えた頃、都司は白壁の洋館を見詰めたまま薄い唇を開いた。
「久しぶりだな。水銀先生にお会いするの」
「緊張?」
「いえ。ただ、こんな事のためにお時間頂くのが申し訳なくて。先生もお忙しいでしょうに」
「水くせえな。ツレの兄貴は兄貴と思えよ」
「恭さんのお兄さんは朝日さんでしょ」
「忘れてた。色んな意味で」
ふっと表情が緩むのを確認し、入れよと玄関のドアを開いた。靴を見る限り小夜は朝出かけたっきりまだ帰宅していないようだ。
都司を応接間に通した俺は葡萄色のソファにバサッと外套を投げ置き、詰襟シャツのボタンを一つ外した。ふと置き時計に目が止まる。時刻は午後四時過ぎ。会食の約束は六時、いつ小夜が戻ってもおかしくない時間になっていた。
「座れよ」
「失礼します」
都司はソファに浅く腰かけると白い指を組み、ふーと細い息を吐いた。
「薪ストーブ、いいですね。目にも暖かくて」
「そうか? 俺は火鉢か長屋の掘り炬燵のが好きだけどな」
この屋敷の暖房はもっぱら薪ストーブだが、金持ちどものあいだではこれに替わる瓦斯ストーブが流行らしい。例えば霧島侯爵邸には大理石の立派な焚口がついたでっけえ暖炉があるのだが、そこに瓦斯ストーブをスポッと置くんだと小夜が言っていた。
「そういや先週ふらっと朝日さん来てよ。それ見て、『前は薪で今は瓦斯、次は電気が来るだろぜ』なんて言ってたわ」
都司は奥に見えた姐さんに会釈して、さらりと答えを口にした。
「電気の暖房器具、もうありますよ」
俺は思わず鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「僕も話に聞いただけで直接見た訳ではないんですが。製造は、京都電燈だったかな。まだまだ手の届かない代物ですが、あるところにはあるんでしょう」
「ふうん。さすが吉原ァ耳が早えや」
「早いのは耳だけです。江戸から変わらない質素な暮らしや時代錯誤の仕来りが常で。かくいう僕も火鉢です」
そうだ。やれ電気だ瓦斯だと謳っても庶民の間じゃ火が主流。
それでもって都司の私室にある京火鉢を、俺は特別気に入っていた。こいつはよく見る陶器製の丸火鉢とは別物で、天板のぶ厚い長方形の卓袱台を端から三寸残して四角く刳り貫いたような形をしていた。そこに炭を入れ、上に鉄瓶や薬缶を掛ける。
暖けえのは勿論だが縁が三寸四寸あればそこに急須や小皿なんかを置くことができ、都司一人なら簡単な飯を食えるくらいには物が置けた。おまけに火鉢の底には横並びに三杯引き出しがついてある。機能美、そんな言葉が浮かぶほど俺はそいつがいたく気に入りだった。
最近じゃ廓の人間が引け四つと呼ぶ真夜中、戻った都司をお疲れと迎える日もぼちぼちある。
『暫く目ぇ、離すなよ』
扶桑さんに言われたからってわけじゃない。
俺が寒ぃ寒ぃと手をあぶる真向いで、都司が火箸の先に摘んだ炭で煙草に火を点け、おたまが横で丸くなる──俺はそんなありふれた冬の時間が好きで、ただそれだけで入り浸っているのだと思っていたかった。
「書生長屋の掘り炬燵も好いけど、部屋の襖がな。立て付け悪ぃもんで隙間風が吹きやがら」
俺は言いながら都司に灰盆をすすめた。誘われるように伸びた手はピタリと静止し、切れ長の黒い目は俺の頭上で止まった。
「……よく言うよ。襖はお前とお園さんが喧嘩で何度も壊したせいだろう。桟が歪んでるって慈兵衛さんが言ってた」
思わぬ声に振り返ると、水銀さんがいかにも不服そうに眼鏡を押し上げていた。都司はポケットの上から敷島をそろりと指先でなぞり、行儀よく微笑んだ。
「先生、ご無沙汰してます」
「いらっしゃい都司くん。すまないね、お呼びたてして」
手土産を渡す都司に、水銀さんは優しい笑顔で答えた。
二人が最後に会ったのは水銀さんと小夜が信州に立つ前か。水銀さんは緩く曲げた人差し指の背でついと眼鏡を押し上げた。
「……小夜さん、そろそろ戻ると思うけど」
「そうですか」
姐さんは葵が神戸で買ってきたカステラとそれに似合いのコーヒーを出すと、そそくさと奥に引っ込んでいった。こういう時はわざとらしいほど女中っぽく、変に話に入ってこない。
姐さんが下がるのを見計らい、水銀さんはイタリア製の小せえカップを傾け、憂いげな視線を都司に向けた。
「……あまり避けると話し方を忘れてしまうよ。気負わずにね」
「痛み入ります。しかしご心配には及びません。僕もいい大人です」
都司は申し訳なさげに微笑み、熱いコーヒーを軽く含んだ。
(いい大人ねえ。純愛の始末に一年半、楼主が聞いて呆れるけど)
俺は黄金色のカステラにフォークを垂直に刺し入れた。底の粒砂糖がザクッと割れた。これがコーヒーに合う。
「……ところで君、少し痩せたね」
「件の──頻繁になってきまして、近ごろあまり眠れていないんです」
都司はカステラの皿とフォークを手元に寄せ苦笑した。
「気の毒に。元々ほっそりしているのだから、無理をしてでも栄養と睡眠をとるんだよ。特に不眠は癖になる」
水銀さんは眉根に皺を寄せ、ボソボソぼやいてコーヒーを含んだ。
やべえ、説教が始まる。俺は口を真一文字に引き結び、んっと顎で時計を指した。
「……すまない、本題に入ろうか」
「ありがとうございます。まず小夜さんからの手紙で大枠は理解しています。信州の療養所に向かう汽車の中で狐に遭遇されたそうですね」
「……先に断っておくけど、あれの正体は不明の儘だよ。あの時もあの後も、僕たちはそれどころじゃなかった」
水銀さんの切迫した物言いに、都司は思わず押し黙った。
「少し話が逸れたね。兎にも角にもあの瞬間、僕は病に弱った小夜さんを守らねばならないと思っていた。医師として、家族に準ずる者として」
(家族に準ずる者、か)
思わず目だけで隣を見ると、都司は神妙な面持ちで水銀さんの話に耳を傾けていた。水銀さんは各々の空いたカップに真っ黒なコーヒーを注ぎつつ、滔々と話し続けた。
「直感的に『小夜さんが連れていかれる』『彼女の命を吸い取られる』と感じたと記憶しているよ。しかし恐怖ではなかった」
「恐怖ではなかったのですか。あんな奇怪なものを前にして」
都司は狐を恐れているのだろうか。普段は平然と無視して見えても、やっぱり得体の知れない存在に付き纏われれば平静でなくなるものなのか。
(──なんで俺には見えねえ。都司にも、小夜にも、水銀さんにも見えてやがるのに)
湧き上がる歯痒さに思わず顔も嶮しくなる。食い足りないと勘違いした水銀さんが、黙って自分の分のカステラを皿ごとスッとこちらに寄越した。そうではねえが一応もらっておいてやろう。
しかしその後も語られる他人事のような語り口に、俺は思わず厳めしい顔をした。
「しっくり来ねえな」
「仕方ないだろう、感覚の話だ。これでも言葉を選んださ……僕の話は以上だよ。逆に都司くんの方で気づいたことがあるなら聞いておきたい」
「──狐は恐らく、人語を理解しています」
「ほう」
水銀さんは眼鏡のつるを摘まみ身を乗り出した。
「会話の経験はなく、あくまで推測ですが……拾ったメモについて目の前で呟いた折、僕の言葉に真っ当な反応をしたんです」
「興味深いね。言葉が通じるのであれば極力話し合いで解決したいところだけど」
「仰る通りです。しつこく追い回されてはいますが、今のところ襲われる様子はありませんし。もしかすると先方も何かしら伝えたいのかもしれません。僕は暴力を好みませんので、対話の余地があることを祈ります」
どうにもこうにも調子がまだるっこい。俺が都司なら変態に一時間も付き纏われりゃ駄目元で一発、拳なり足なりと思ったところにこの調子。もう長丁場を覚悟せねばならんのかと溜め息が漏れた。
「因みに識字はどうなのだろうね」
好奇心のままに尋ねる水銀さんに、都司はいくらか落ち着いた様子で指を組んだ。
「不能と思われます。僕が読み上げるまで、メモを見ても焦る様子がありませんでした。初めは視力が悪いのかとも思いましたが、それにしては尾行の距離が長いですしね」
「そのメモなんだけどさ」
急に話に割って入る俺に、二人は思わずカップを持つ手を止めた。
「狐が頻繁に出没する吉原の、それも特定の店の前にたまたま落ちてた訳だよな? 俺がライオンで都司に狐の話を聞いて半月も経たねえうちによ」
都司は切れ長の目をゆっくり瞬き、話の続きを促した。
「『化け狐・侘助・花屋・天城』これだけの言葉だが、狐の反応見る限り全く無関係じゃねえのは明白だ。おまけに海軍士官が酔った上でも話をはぐらかす」
水銀さんは眼鏡を中指で押し上げ怪訝そうな顔をした。
「……何が言いたい?」
「誰が落としたんだって話だよ」
腕を組みだんまりした挙句、水銀さんは重たい口を開いた。
「……小夜さんが今夜お前たちに紹介したいと言っていたご学友、旧姓は伊丹さんだったはずだけど」
「言いたい事ァ分かる。天城大尉婦人だろ、多分」
俺のつっけんどんな物言いに水銀さんも頷いた。詳しい話は後にするが、俺と水銀さんにはそう思うだけのアテがあった。
都司は根拠を知らないながら、耳に掛かる黒髪に指先で触れ、だとすればと呟いた。
「内通しましたね」
「長門か、扶桑さんか」
「あるいはその両方が」
「お前達……」
人聞きの悪い言葉で茶化す俺達を水銀さんは呆れ顔で見比べた。
「僕は構いませんよ。こんな怪奇現象、自力で解決しようと思えば時間を要します。いや、解決できない可能性だってある」
「……大丈夫かな。何だか嫌な予感がするけど」
生まれつき保守的で疑り深い水銀さんだ。助け舟だか泥船だか分からない物にはさすがに腰が重い。いっぽう都司も慎重な性質ではあるのだが、こういう勝負時を逃さないようなところが面白い。都司は真剣な目で思う所を語った。
「あのメモの落とし主を海軍が探している可能性が高い、と僕は考えています。もし仮に落とし主が軍の人間であるならば、先日側にいた中尉二人が直接メモを回収して僕らを口止めするはずです。しかしあの段階でそうはならなかった。更には後日、扶桑中尉が軍服姿で吉原に居たことも気に掛かります」
「ただ遊びに来たか、旧知の君に会いに来た可能性は?」
「ありませんね。海軍は遊郭を二流三流としますから、軍服では使わぬよう指導がなされていると伺っています。加えて扶桑中尉も一人で芸者遊びをするほど余裕のある人ではありません。兵学校在学中に何度も博打ぶってお仕置きされてたそうですからね」
「ああ、それについては多少知っているよ」
水銀さんの言葉に一瞬きょとんとした都司は、ああと言いつつ迷惑そうに霧島少尉の話をする長門の顔を思い浮かべた。
「しかしあのまま大人になっていたとは……なんて人だ」
水銀さんは呆れを通り越して呟いた。
そうだ、扶桑中尉や長門中尉の学生時代を水銀さんと小夜はよく知っている。二人は屋敷で唯一霧島少尉のあほらしい体験記を読破しており、俺はその半分くらいまで。つまりは天城大尉の学生時代の人となりについても予備知識があり、あらためて訳の分からない状況だなと思った。
「扶桑中尉は僕を『菊清のボン』と呼んで揶揄います。僕に会うのが目的ならば、直接店に来るのが自然でしょう。花火の夜は恐らく吉原で内偵でもしていたところ恭さんに声をかけられてしまい、誤魔化すために付いて来たってところじゃないでしょうか」
「扶桑さんの場合本当に飲みたかっただけの可能性も高えけどな」
都司は一瞬空を見て、それから黙ってコーヒーを飲みほした。
とは言え都司の考えに異論はない。俺達と海軍とそれ以外、狐に絡む何者かがいるはずだ。俺は二つ目のカステラを迷いなくぱくついた。
「……現状僕は力になれそうにないが、せめて都司くんの健康だけは守らせてもらいたいと思っているよ。体と心は連動する。僕は自らの身を以てそのことを熟知しているんだ」
「ありがとうございます、先生」
(都司のやつ、こんなこと言われたんじゃ気軽に煙草も吸えねえな)
俺はわざとらしく時計を見て、外の方を顎で指した。
「せっかく来たんだ。小夜が戻る前に長屋に寄ってけよ」
都司は察した様子で自分の下唇に触れながら、
「そうですね。噂の掘り炬燵を見てみたいです。葵さんいるかな」
とこれまたわざとらしく微笑んだ。
「俺もちと疲れた。小夜が戻ったら長屋に寄越してくれよ」
失礼しますと水銀さんに挨拶する都司の袖を引き、俺は書生長屋に向かって歩きだした。
玄関で水仙と花器を抱えた慈兵衛のおやっさんと行き違ったが、水銀さんの追い打ち説教を予感した俺はようと軽い声かけだけでさっさと雪駄を履いた。急かされた都司は会釈し通り過ぎながら、水仙の香りにちらりと振り返った。
「何でえ、客人か」
おやっさんは幼子を抱きかかえるように花束を肩にあげ、テーブルにゴトリと水盤をおろした。軍人のまま時間の止まっちまった武骨な手は、古新聞が銘仙に見えるほど澄ました顔の水仙をまるでお姫さんでも扱うようにそろっと横たえた。
「ああ、慈兵衛さんは初めてでしたっけ。恭の友人です。帝大の」
「へえ、あいつのツレにしちゃ小綺麗なもんだの。役者か揚屋のボンかてえところでよ」
「はは。なかなか良い線いってますよ。当たらずとも遠からじです」
おやっさんは硬い顎髭を撫で撫で悪戯に笑った。
「あっ。お客人、煙草忘れていなさるぜ」
都司の残した煙草をひょいと拾った手が止まる。
「──敷島か。若えのが」
「戦争で亡くなったお兄さんが吸ってたんですって。思う所あるんでしょう」
「……名前は」
「都司柊二」
おやっさんは煙草を弄う手を止め、
「そうかえ」
と呟いた。
『──そうですか。本山軍曹のご実家は植木屋さんでしたか。うちは枸橘と柊の兄弟です。どちらも鋭い葉を持ち、白く小さな花を咲かせます。貴方のような方ならば、きっとその差がお解りになるのでしょうね』
「……何だ、見るのァ二度目だな」
夕焼け空は燃え尽きる寸前、烏森の黒翳がバサバサと飛び立った。
第8話 ダフネ
「いらっしゃい。お久しぶりね」
書生長屋の炬燵でうとうとしていた恭さんと僕は、鈴の鳴るような声に同時に振り返った。
「──会う時はいつも久しぶりだね。僕たちは」
「都司さん、少し痩せたのかしら。お仕事が忙しい?」
こうして思う儘を口にする小夜ちゃんが懐かしい。僕は一度ゆっくりと瞬いて、彼女に正対した。
「色々とね。君は変わらないね」
本当は少し小さくなったねと言いたかった。可憐なブラウスの皺に不幸の影を見る。死神が一度手を置いたその肩にはっとなり苦辛い言葉を飲み込んだのだ。
夜風がひゅんと外で巻く。なるほど恭さんの言うとおり、この部屋のどこかには歪んで開いた隙間がある。大きな猫の様に畳に伸びていた体はのそりと起き上がり、湿気に跳ねる栗色の髪を掻いた。
「もう出発か」
「そうね。そろそろですってお園さんが言ってたわ。表に行きましょう」
差し出される白魚の様な手。恭さんは自然に掴み、よっと腰を上げた。
ふたりの心は生涯、幼馴染のまま在り続けるのだろうか。時計の針が戻るような錯覚に、僕はしばらく酔いしれた。
「なんだか不思議ね。都司さんが長屋に居てくれる」
「ね。いいのかな、こんなの」
「いいだろ別に。誰にも文句は言わせんさ」
恭さんの予想外の口ぶりに、僕も思わず笑みを零した。
「お父様、恭のいう事なら何も言わないのよ」
「跡取りのな」
「信頼してるのでしょ。お仕事のことも、家のこともみいんな」
「──ごめん、一服良いかな。外出前に」
気軽に聞いてはいけないと思った。なのに恭さんは、ここで吸えば? と訝しそうな顔をして。僕はたいして吸いたくもない煙草に火を呑ませ、一通り話が終わるまで縁側でしぽしぽと青白い煙を吐き続ける羽目になったのだった。
***
夕方から降り始めた雨は、宵闇の中でなお止みそうになかった。冷雨の中、黒い迎車は馬車馬のように粛々と僕たちを運ぶ。とある料亭の前でブレエキが掛かり、前に傾いだ小夜ちゃんの胸前に出した僕の手が恭さんの腕にぶつかった。束の間談笑し、僕たちは濡れた地面にそろそろと足を下ろした。
星は見えない。けれども仲居が差し向ける番傘の下、ぱらぱらと響く雨音が金平糖のように綺麗な夜だった。
『料亭たちばな』は海軍御用達の名店。花柳界の新参なりに僕もその名を聞いたことがある。天城大尉は華族伯爵子息、御新造も男爵家のご出身らしく、それなりの店にお招きくださったとみえる。
(こんなに立派なお店なら、もう少しお誂え向きの格好があったのに)
外行きではあるが格の足りない自分の風体に溜め息が出た。同じくワンピースの裾を摘まむ小夜ちゃんと目が合う。困り笑いがやけに大人っぽくて、僕は暫し言葉を忘れた。
「都司様でございますね。ご案内致します」
ふいに呼ばれた自分の名。僕は思わず恭さんに目配せをした。
下足番に靴を預け、黒檀の艶やかな廊下をレディ・ファーストで進む。視線を落としたその先に、しずしずと歩く小夜ちゃんの頭がある。手入れの行き届いた柔髪がガバレットに編まれており、細く清楚な襟首を引き立てるように美しい。
──無意識に女性の姿かたちの良いところを探してしまう。これは僕の職業病だ。だって学生であった頃、こんな気持ちは一度だって起こらなかった。毎日変わる大きな蝶々が彼女のリズムでふわふわゆれて、それだけで胸が安らぎに満たされていた。飽和する感傷に、僕は堪らず恭さんの方を振り返った。
「どうした。ガラにもなく緊張か?」
「そんなところです」
いつも通りの仏頂面が夜雨に濡れた左肩をサッと払う。僕は背広のポケットから白いハンカチを出し、その肩を拭った。
「天城大尉、お前どう思う?」
「皆目見当つきませんね。僕は普段、軍人とは関わり合いにならないので」
棘のある言い方をしたと思う。小夜ちゃんが不安げな顔で僕を見返った。
「……まあ、相当なエリートだろうとは。ツネさんと同い年ならまだ二十六、七歳で大尉になられた訳でしょう? 並みでないことは分かります」
「あの海軍兵学校の一等賞だからな。霧島少尉はともかく、あの長門も頭上がらねえわけだ」
「何か凄いですね」
行き過ぎる廊下の四角窓に、椿の一輪挿しがある。雨の夜空にポンと咲く立派な花を視線でひと撫でし、僕は正面を向いたままで相槌を打った。
「精々言葉遣いには気をつけます」
仲居が襖の前にピタリと止まった。
冬の匂いが満ち、しんと冷えた廊下に緊張が走る。思わず聞き耳を立てた瞬間、スタン! と襖が開き、雷鳴のような怒声が廊下に一閃突き抜けた。
「何だと貴様ァ! おめおめ尻尾巻いて戻ってき腐りおってからに! しかも本件に関する報告は一旦真鶴を通して初雁まで上げろと何度も何度も言っとろうが! ええい愚図めが! 四の五の抜かしとらんでさっさと行かんか──ッ!!」
大音声の叱咤とほぼ同時、濃紺の軍服を着た下士官が転がるように飛び出した。腰を抜かし命からがら逃げ去るようにドタドタ廊下を走り抜けてゆく様を、僕らはただ呆気に取られて見送った。
「……何事でしょう。穏やかじゃありませんね」
睥睨する僕とは違い、恭さんも小夜ちゃんも至って冷めている。なるほど長門さんに初めて会った時と同じ、『予習』の恩恵は大きいらしい。状況を察した小夜ちゃんは僕を手招き、ひそひそと耳打ちをした。
「天城大尉は気性の荒い方なの。あれは日常の範囲だと思う」
「そうなんだ。おっかないね」
「心根は優しい方なのよ。生真面目で、面倒見が良くて……大丈夫、怖くないわ!」
「その言い方、まるで猛獣と対面するみたいだよ」
冗談めかす僕を宥めるような表情をして小夜ちゃんは微笑んだ。
開いた襖の向こうは畳の上に一面臙脂色の絨毯、瀟洒な照明とアンティークテーブルが華麗な和洋室だった。しかし急拵えに見えなくもない。
ふと下座に掛けた大尉夫人と目が合う。切れ長の瞳と艶やかな黒髪が印象的な、喩えるならば先ほどの紅椿のような女性だと思った。その側に座す若き武人、天城大尉は奥方を見る僕に気づき強い瞳で威圧した。
「──失礼致しました。お見苦しいところを」
張りのあるその声は虎の唸るがごとく。詫びる言葉と裏腹に、僕は彼が相当な愛妻家であろうことを直感した。
大尉はけして大柄ではないが、黒髪の映えるはっきりとした顔立ちの美男子。堂々たる気品と逞しさ、年齢以上の貫禄を兼ね備えた風貌をしている──というのが第一印象だ。
「滅相もございませんわ。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
小夜ちゃんのお嬢様らしいお辞儀と挨拶に張りつめた糸が解けた。しかし大尉夫人の視線は心配そうに僕を捉えたまま。小夜ちゃんは各人の顔色を伺うように微笑み、僕と恭さんを夫妻に紹介した。
(それはそうと大尉夫人……よっぽど仲の良い友人なんだな。ずっと小夜ちゃんを見てる)
頭ではそう思うのに何かが胸に引っ掛かる。天城夫妻の挨拶を聞きながら、僕はしばしば集中を欠いた。
天城大尉は都子夫人の隣に渋面で掛け、机の上に固く指を組んだ。よほど言い難いことを言わねばならないのか、凛々しい眉を顰め会話の糸口を探している。猫科の猛獣を思わせる大きな目の迫力たるや、僕としても長居は望ましくない。先んじて口火を切ろう。
「天城大尉、早速ですがご用件を伺えますでしょうか。凡その検討はついておりますが」
「お気遣い痛み入ります、都司殿。それでは単刀直入に申し上げます。我々の作戦にご協力を賜りたい」
天城大尉はこれ以上ない単刀直入で話を切り出した。
「先日妻の紹介で小夜殿とお会いした際、貴殿のことを伺いました。我々の追う者を視認することが出来、更には日常的に遭遇するとのご事情を」
(どうだか。恐らくツネさんか長門さんから先に話があがったんだろう)
内心身構える僕の目を察してなお天城大尉の眼差しは真っ直ぐだ。一体どういう腹積りでいるのだろうか。
「──貴方がたは彼れを何とお呼びになりますか。海軍の追う其れと、僕に付き纏う彼れが同じものであるのか、まずもって知りたいのですが」
協力は吝かでない。ただいざという時に僕を……恭さんと小夜ちゃんを切り捨てる様な真似だけは絶対に許さない。僕は時折商談で見せる冷徹な眼差しで二の句を待った。
「我々はあれを『亡霊』と呼んでおります。貴殿とは違い、誰も見ることのできない災厄ですからな」
「差し支えなければ伺いたいのですが、視認できないのに、どうやってその存在を認識されたのでしょう」
「……現状ではお答え致しかねます。申し訳ありません」
大いに差し支える! と顔に書いてある。現時点での詮索は避けるが、いずれは明かしてもらわないと気持ちが悪い。僕は飲み込んだ質問を頭の隅に留め置くことにした。
──いっぽう恭さんはというと、大尉が僕と小夜ちゃんに不利な約束を取り付けることがないよう、こちらも虎のように目を光らせていた。しかし口元は上品な鯉のあらいをしっかりと味わっており、いまいち緊張感に欠ける。僕の呆れ笑いを解さず、恭さんは少々斜に構えた様な声色で詰問を始めた。
「正気ですかね。軍の作戦に市民を巻き込む訳でしょう? 大した経緯説明もない上に質問にも答えない。多少こちらに協力する気があったとしても、気分のいいものじゃありませんよ」
これしきは想定内なのだろう。案の定、大尉は眉一つ動かさず交渉を続けた。
「ご指摘はごもっともです。しかしこれは民間人である貴方がたを極力危機から遠ざけるための対策です。その旨を何卒ご賢察頂きたく。またこうしている間にも亡霊による被害が拡大している可能性があり、事は一刻を争います」
方便すらも使わず押し切るつもりとは。都子夫人は憐れむような瞳で大尉を見詰めた。しかし大変なお役目だ。ご新造の交友関係までも利用して懐柔しろと命じられたのか。心なしか大尉の口調に焦燥を感じる。
演技かどうかも判らない都子夫人の憂い顔──遣り口は気に食わなかったが、僕は夫妻の置かれた状況に深く同情した。女性が哀しそうにしていると、僕はどうしても居たたまれなくなる。
ここで挨拶以降すっかりお飾りになってしまっていた小夜ちゃんが、ねえミヤちゃんと口を利いた。僕と都子夫人を交互に見て、それからゆったりと小さな唇を開く。
「──ごめんなさい、私には少々難しいお話で。都子さんと二人、席を外したいのですが……いかがでしょう?」
「ああ、これは気がつかず失礼致しました。どうぞご遠慮なく」
天城大尉のお許しを受け、小夜ちゃんはそっと僕に目配せをした。やおら立ち上がり、まるでダンスの輪にでも誘うような軽やかさで都子夫人の華奢な手をとる。
「巽様……」
「構わん。私とて、これ以上女子を巻き込みたくはなかった。確か談話室があったな。雨の中庭でも見ながらゆっくり話をするといい」
天城大尉は仲居を呼びつけ、後から談話室へ茶を運ぶよう指示をした。都子夫人は小夜ちゃんに細腕を支えられ立ち上がると、花梨の杖を頼りに、弓のようにしなやかな背筋を伸ばした。お嬢様のお辞儀をして中座する二人。次第に遠ざかる杖の音を聞きながら、恭さんは続きを促した。
「肚ァ割って話そうぜ。天城大尉殿」
細くなる琥珀色の瞳に、大尉はフンと鼻で息をした。
「……海軍では階級に『殿』はつけん。霧島から聞いとらんのか?」
とうとう警戒を解いた天城大尉に、恭さんはニヤリとした。
「安心しろ、都司は案外やる気だぜ。なんたって手前が狐に付き纏われて参っちまってる。情報収集がお得意な海軍様は渡りに船てなもんだ」
(上手いこと言った、とか思ってるな)
僕は恭さんの思惑を察し人知れず愉快に思った。
「但し身の安全は保証しろ。こいつは喧嘩もやらん優男だ。善良な市民を使うだけ使って尻尾切りゃあがったらタダじゃ済まさねえぜ」
「案ずるな。民間人の被害は我々の本意ではない。持てる情報を擦り合わせ、共に災禍を退けたいと言っておるのだ。この期に及んで二枚舌など使うものか!」
「なら都司を必ず守ると誓え。今ここでだ」
僕の身の安全を保証する言質を取らんとしている。一歩も譲らない恭さんを前に、天城大尉は『承知した』と明確に答えた。何とも侠気のある方だ。ならばしっかり守って頂こう。僕は大尉に向かい穏やかに口元を緩めた。
「海軍のご寛容に感謝します天城大尉。ああ、僕の敬語は年上に対してつかうそれです。もう警戒してはいません。貴方はお楽に話されてください」
「痛み入る。こちらこそ都司殿の協力に感謝するべきだというに」
天城大尉は固く組んでいた手を解き、すっかり冷めたコーヒーを不味そうに服した。
「他にも望みがあるならば遠慮なく言ってほしい。あんな荒唐無稽を相手に戦うのだ。少しでも都司殿の負担を減らしたい。これは私の意思だ」
「ありがたいことです。と言うのも、お願い事を既に二つほど見繕っていましたので」
「うむ。伺うぞ」
天城大尉は目を見開き口を真一文字に結んだ。本気の目をしている。何をどうやってもここで僕を口説き落とせと命じられているのだろう。
「まず一つ目、狐による被害の詳細を教えてください。あれが一体どういうものなのか、実のところ僕は全く理解していないのです。何せただ距離を取り付け回してくる以外に実害がないもので」
天城大尉は猫のように端のあがった目を大きく見開いた。
「実害がない……!? しかし都司殿はあれにずっと付き纏われていると」
「ええ。もう二月ほどになりますが、変態みたいに物陰からじいっと見てくるのみで──たまに此方の気を引くように身なりを変え近くをうろついて見せることはありますが」
「なるほどな……」
天城大尉は口元に手を当て、嶮しい表情で一考した。
「まず忠告するが、決して彼れに手を触れるな。現状詳しい説明ができず申し訳ないが、彼奴は重篤な病を引き起こすことが報告されておる」
「病?」
僕と恭さんは同時にピンときた。
「妻の……都子の足を見ただろう。あれは『狐』に掴まれた痕だ」
「掴まれた──では実体があるのですね? 幽霊のようなものではなく」
「ああ。生憎私には見えもせんから伝聞ではあるが……可哀想に。都子は雨の日、今だに古傷が疼き杖を手放すことが出来ん。ともに舞踏会に赴こうとも文字の通りの壁の花だ。忌々しい化け物めが……! 殺す、絶対に絶対に殺してやる──」
天城大尉は禍々しいほどの黒い憎悪を口にした。交友関係だけではなく、都子夫人の件からも交渉役として白羽の矢が立ったのだろう。
「すると奥様は狐を」
「一度見た。しかし今は見えん」
天城大尉はギロリとした目で答えた。
「きっかけは分かっている──手術だ。幸い早い段階で皮膚の表層に異常が見つかり、すんでのところで手術を受けられた。しかし発見が遅ければ腫瘍が骨をも蝕み、落命していたことだろう。その手術を受けて以降、きれいさっぱり見えなくなったと聞いている」
──なるほど、確かに小夜ちゃんも手術後一度も狐を見ていない。となると目視できるのは狐に狙われている間、または病を受け未処置の状態である期間のみ。
水銀先生を怖がるように避けるのは、病巣を物理的に取り除く『医師』という存在を忌避しているから……少し粗いが、一応それで筋は通る。
「都司殿は特に異変はないのか?」
「どうなんだよ。都司殿」
「都司殿はおやめください藤堂殿。ご存知の通り、寝不足以外は何ともありません」
咄嗟に恭さんの本当の苗字を伏せた。天城大尉は怪訝そうに眉を動かした。
「小夜殿の義兄と聞いていたが、違うのか?」
「違わん。でも俺ァいまだけ藤堂恭なんだ。烏丸の家は巻き込みたくねえ」
「そうか。了解した」
天城大尉、堅物エリートかと思っていたがなかなか話が早い。義侠心もある。
僕はやっとのことで気を許し、二つ目のお願いをすることにした。
「お気持ちお察しいたしますよ、天城大尉。僕もご夫婦のお役に立ちたいですから、身近な人々が傷つくことでなければ協力に骨身を惜しみません」
「それは頼もしい。都司殿が話の分かる男で本当に良かった! それだけに彼奴めの憎さが際立つな……! 真面目に生きる者たちに仇なす物の怪め、この私が必ずや首級を挙げてくれるッ!!」
何とも潔癖な正義感だ。これで兵学校時代は三年間あのツネさんの同室だったというのだから苦労が知れる。僕には二人が『腐れ縁』とよぶ友情の光景をいまいち想像することが出来なかった。
「では今後の連携をスムーズにするために、二つ目のお願いです。僕達との連絡役に扶桑中尉を立てて頂きたい」
「扶桑だとッ!?」
天城大尉は思わず声を荒げて腰を浮かせた。
「恐らく調査等でご存じかとは思いますが、彼と僕は昔馴染みです。貴方の兵学校時代のご学友でもある」
「ただの同室だッ! あんの自分勝手なクソ野郎のせいで、どれだけ私が迷惑被った事か……!」
ツネさんの名前を聞いただけでこうも鼻息荒く反論しようとは。なるほど面白いほどの『犬猿の仲』風の友情。僕は少しく顔を傾けて、試すように微笑みかけた。
「なるほどご苦労なさったご様子ですね。ただ、僕だって不安ですよ。突然こんな立派な料亭にお招きいただいて、軍事作戦に協力してくださいなんてお願いをされましたらね──加えて四六時中あんな得体の知れないものに付き纏われ、ほとほと参っています。これ以上精神が磨り減れば道半ばで倒れてしまうかもしれません。そうなっては元も子もありませんから、せめてよく知る人を間に置いて苦しみを和らげて頂きたい。これは人情ですよ」
「ううむ……」
「兎に角、よろしくお頼みしますよ。ひとつよしなに」
『都司殿も食えん男だな』と顔に書いてある。大尉の人となりが少しずつ解ってきたこともあり、僕は交渉に手応えを感じていた。あと一押ししておこうか。
「僕は戦争で兄を亡くした身です、『軍事行為への協力』という名目が僕の心を著しく苦しめるということをどうかお察しください。罰せられても構わない覚悟で申しますと、つまるところ僕は本来軍隊という存在に否定的なのです。この一連の行動を従軍などとは思いたくはない。友人と協力し、相互間の問題解決にあたるだけだと自分自身を納得させたい……すみません。我儘を」
「そいつ言い出したら頑固だぜ。扶桑さんに訊いてみな」
恭さんは鯛の湯引きを酢味噌で頂きながら気軽く加勢した。
「……了解した。都司殿、藤堂殿」
「ありがとうございます。今更ですが僕にも殿は不要ですよ大尉。お気軽に都司と
呼びください」
「何で? 面白ぇじゃん都司殿。渾名だと思えよ」
「嫌だ。絶対ツネさんに笑われる」
話に割り込んだ恭さんは意地悪に瞳を細め、僕の不満顔を一笑に付した。
「ああ、笑うだろうなあのクソ亀は! 毎度のこと人をおちょくってヘラヘラと……がぁッ! 思い出しただけでも苛苛しいッ!!」
「大丈夫かよ、大嫌えじゃん。にしても口悪ぃな大尉。こりゃ姐さんといい勝負だぜ」
この恭さんの緊張感のなさは僕にとって救いだった。しかし先行き不安はお互い様、僕ら二人を一瞥し大尉はハァと息を吐いた。
「おかえり」
恭さんの声に僕と大尉も入口を見た。紅白椿のようなご令嬢が二人、仲睦まじげに寄り添う。小夜ちゃんの白い手には可憐な花枝が握られて。
「ふふ。お友達になられたみたいね」
「お陰様で。ところで綺麗な蠟梅だね。どうしたの」
「いいでしょう、これ。ミヤちゃんがお化粧を直すあいだ、ぼーっと中庭を眺めていたら、海軍の方から頂いたの」
「海軍?」
「ええ。白い軍服の」
「白だと!?」
天城大尉は凛々しい声で『失礼!』と叫ぶと、僕の手首を掴み部屋を飛び出した。
「痛い! どうしたんです、急に」
「白は第二種軍装、夏服だッ!!」
(──出たか。そして小夜ちゃんにも……見えてしまった)
走りながら振り返ると、驚く小夜ちゃんの頭を、都子夫人が慈しみ守るように抱き寄せるのが見えた。
小夜ちゃんを見遣る夫人の瞳は、僕と同じ色で揺らめいていた。
第9話 歌劇場
歌劇場の入口に若い軍服が二人、紺色の外套を纏い、白息を吐きながら人を待っていた。
あのスラリとのびた背中は長門中尉だ。鼻筋のスッと通った澄まし顔をシアンの空に傾けりゃ、道ゆく女たちは俄かにチラチラ顧みて黄色い声で密めいた。
いけすかねえ、野次でも飛ばすか。そんな意地悪な気持ちは都司にすっかり見抜かれて、軽い何かを投げ入れられた俺の袂がストン、ストン、ストンと揺れた。
「まあ、甘いものでもね」
なんだなんだと袂に手を入れてみれば、何やら小せえ角張りが指先を突いた。覗くとバラ売りのキャラメルが三つ、底のほうでコロコロしている。
そうだ。さっき都司が敷島切らしたとか言うもんで、駅前の人もまばらな煙草屋に寄ってきた。煙草をやらん俺が手持ち無沙汰に品揃えを眺めていると、『森永ミルクキヤラメル ポケツト用八十函入』と書かれた一斤缶が目についた。奥に十斤缶もあった。
十斤缶は一斗缶の三分の一くらいの大きさで、姐さんがいつも煮干しや昆布なんかの乾物をぶち込んでるやつだ。何かつまむもんねえかなと戸棚を漁れば、即バレそいつで頭をぶっ叩かれて、ガァンと大袈裟な音がする。
キャラメルをポイと一粒口に放る。甘ったるい、砂糖と牛乳の匂いが鼻腔をゆっくり抜けてった。同じところに置いとくと甘さが蓄積するような感じがする。
煙草屋ではいかにも禁煙のツレに良いような文言で『大人の菓子』と謳っちゃいるが、こんなの絶対子供の食いもんだよと俺は思う。ただもし子供にやるんなら、大きさは半分くらいがいいだろう。以前小夜に与えてみたのだが、ほっぺたがリスみてえに膨れちまって、あん時ゃ我慢できずに吹き出した。
キャラメルを口の中で転がしながら、ガチャガチャと下駄を鳴らす。
海軍二人の肩章に季節外れの桜が咲いている。それが分かる距離まで歩ってきて、俺は長門を鼻で笑った。長門しか見ていなかった。しかしその連れがふいにこっちを向き、白い歯を見せ手を振った。
「やあ恭くん! お久しぶりです!」
(霧島少尉……! 本当かよ)
俺は思わず相棒の顔を見た。扶桑さんはどうしたと顔に書いてある。
──さあ、一体全体どうしてこんな話になったもんか。
キャラメル半分溶けきるくらいの長さだけ、少し話を遡る。
***
二月某日、料亭『たちばな』。
都司と天城大尉は不審な男を追って回廊を駆け抜けていた。終点は雨曝しの中庭。人っ子一人いやしねえ。未練がましく辺りを見回すが、ざあざあと降りしきる雨のなか小体な薮椿がしょぼくれたように濡れているだけだった。
天城大尉は獲物を逃した猟犬のように歯噛みし、夜雨に冷える中庭をじろりと睨めつけ低く唸った。
「畜生めがァ!」
「四ツ足ですからね」
皮肉に返す言葉もなく、大尉は悔しさの限りに自分の腿を叩った。俺はこれほど気性の荒い男を他に知らない。それでもすぐに我を取り戻し、都子夫人の震える白い手をしっかり握って跪いた。
「案ずるな、都子……今夜は取り逃したが、お前を深く傷つけた忌々しい化け狐めを私は決して逃しはせん。八つ裂きにしてやる! 殺す、絶対に殺してやるからな……!」
「嫁さんの手ぇ握りながら言うことかよ」
物騒だよとぼやいた俺の肘を、小夜がついと引っ張り首を横に振った。
「巽様……わたくしのことは、もう」
都子夫人は何か言いたげだったが、小夜がその膝に手を置き寄り添うと、安心したようにこくんと頷いた。小夜は一緒に俯いて、小せえ唇をきゅっと噛んだ。
「ごめんなさいミヤちゃん。私が引き止めてさえいたら……でも、分からなかったの。なぜだか今日は分からなかった」
申し訳なさげにぽつぽつ出てくる小夜の言葉に、俺も思わず口元に手をやる。
(──確かに小夜は、何度も狐を見てたよな。何で今夜は気づかなかった?)
脳裏にいくつかの可能性が巡る。だがそれはどれも根拠の足りない憶測で、いま口に出すほどの意見にはならなかった。
都司は切れ長の目をスッと細め、天城大尉の指示を仰いだ。
「これから如何するおつもりですか」
「うむ……海軍から『帝都歌劇場』にて待て、との指示があった。ご同行頂きたい」
「帝都歌劇場……?」
俺と都司は同時に口走り、互いの顔を見た。
【帝都歌劇場】
大正十三年、帝都東京に新設された大衆演芸場。
『歌劇場』の名を有するが、公演はオペラ・演奏会・バレエなどの舞踏をはじめ、能・歌舞伎・落語会なども催される。モダン建築の壮麗さと収容力、防音性が特徴で、極め付きは演目により様態を自在に変化させる絡繰舞台装置。
「そんな。先月出来たばかりじゃないですか」
「だから問題なのだ!」
天城大尉は激昂した。
「報告によればあの畜生めは女喰いで、訪れる婦女子を狙いすまし劇場に居つく卑怯者だ! 下も下、獣の野蛮さと人の狡猾さを併せ持つ腐れ外道めを野放しにするは海軍の名折れである! 木っ端微塵に粉砕せねばならんッ!!」
突風のような大尉の機関銃に都司は思わず体を引き傾聴した。思った以上の大事だということは分かった。
「二十九日から行われる公演に彼奴は必ず現れる。何せ女子供が挙って集まる催しだからな。格好の狩場となろう」
「女子供か……しかしそれだけ人を集める催しとは何ですか」
「軽歌劇だ」
オペレッタ。俺と都司は思わず声を揃え復唱した。
***
そして今日、大正十三年二月二十八日。帝都歌劇場前で海軍の担当者と落ち合う、という約束で赴いた俺と都司。しかしそこに居たのは天城大尉でも扶桑中尉でもなかった。都司は黒い睫毛をすっと伏せ、海軍製の外套の肩で咲う桜を眺め憂えた。
都司は天真爛漫とは程遠い繊細な男、しかしいいやつだ。
そして少尉は天真爛漫を絵に描いたようないいやつだ。言動や育った環境は真逆だが、根っこは似ている二人だと思う。ただ女の趣味が同じで一触即発の可能性があり、俺だけ気が抜けないのがつらい。
(──さあ、どう出る)
先に動いたのは、霧島少尉だった。
「都司さんですね。初めまして! 自分は大日本帝国海軍少尉、霧島誠と申します。お噂は伺っております」
華のある笑顔に朗らかな挨拶、清々しい敬礼。こいつは真昼の太陽だ。
対する都司は珍しくきょとんとして、次第にいつものお愛想顔になっていった。
「ああ、貴方が霧島さんですね。都司柊二と申します。僕も恭さんから伺っています。この度は──」
都司は一旦言葉を飲み込んで、どうぞよろしくお願いしますと続けた。仏頂面で気を揉む俺に気付いたのだろう。思った以上に相棒は大人だった。
いっぽう空気を読んでいるのかいねえのか、長門は煙草の入ったポケットをトントン叩きつつ、口をへの字に曲げていた。
「お堅いのなしにしようぜ。都司さん、霧島は一応俺の部下なんだけど、海兵時代からの親友なんだ。天城先輩──大尉に一緒にどやされたり、扶桑中尉にてんてこまいしてた仲でさ。だからほんと気ィ遣わなくていいよ」
言いながら、長門は急に何かを捉えたように目を見開いた。おまけに口も開いていた。
「てんてこまいが、何だってえ?」
間延びした声、視線の先には思った通りのニヤニヤと、思った以上に伸びた癖っ毛があった。
「扶桑中尉! おはようございます!」
遅刻ですけどね! と笑う少尉の溌剌とした敬礼を、指の長い手がハイハイといなした。あんたがもう少し早く来てくれてたら少しは気楽だったのに。
都司は少し気の抜けたような顔をして小せえ顔を傾けた。
真冬には珍しい、湿気を孕んだ生ぬるい風がどろりと吹いている。
「ツネさん、また随分と伸びたね。結んだげよか」
「今回長丁場でなあ。すっかり切り損ねっちまって。こりゃあ、寒冷地仕様だぜぇ」
扶桑さんは無造作に髪を括り、ふあーと欠伸をひとつした。
長門の「とりあえず」が場を仕切った。親指の指す方に正面玄関があった。
狛犬のようなドアマンが左右同時に腰を折る。指先の揃った白手袋が、繊細な彫刻を施したドアを観音に開く。入口の高さには随分と余裕があったが、扶桑さんはノッポの癖で猫背になり、赤絨毯を踏み込んだ。ズボンの腰に指をひっかけ、ふーんとあたりを見渡して。
「あれえ、そういや、天城はどうしたぁ。遅刻かぁ?」
「いや一緒の予定だったんすけど、朝一で初雁参謀からお呼びが掛かりまして。青筋立てながらお出かけんなりました。私が着くまで余計なことはするな! とのお達しです」
「ふはっ、呼びつけられてやんの。朝っぱらから赤煉瓦、ザマぁねえ」
伸びっぱなしの癖っ毛を、節くれだった長い指がクルクルと弄う。
俺は反射的に霧島少尉の背中を小突いた。
「おい、赤煉瓦って何」
「海軍省のことですね! 今回の作戦指揮は初雁参謀という方が執られていて、扶桑中尉や天城大尉の兵学校時代の同級生なんです。ほら慈兵衛さんとこの娘婿、千鳥の対番でもあって……ああ、対番というのは学校の決めたペアのお兄様先輩で──」
あ、横道にそれると長ぇ少尉の話が始まった。元気に手を動かしながら海軍精神がどうのこうのとニコニコ話している。
扶桑さんと長門は廊下の窓をかってに開けて一服し始めた。俺は適当に聞き流しつつ、そういや千鳥少尉元気かなと思いを馳せた。見かねた都司が優しく聞き役に回ってやるようだ。
「霧島さん、詳しいお話ありがとうございます。それにしても天城大尉は相当出世がお早いと思っていたのですが……初雁参謀はよほど優秀な方なのでしょうね。年齢的にはツネさんや長門さんのような中尉クラスでしょう?」
「いや、その、優秀というかですね……」
霧島少尉は珍しく歯切れの悪い様子を見せた。トレードマークの八重歯を唇の端から覗かせ、空笑いなんかしてやがる。
「参謀は特別なお家柄で、まあ自分の口からはっきりとは言えないんですが。今回の作戦に伴い特命で昇進されたんです。特務参謀とか専門参謀とか呼ばれて──」
「霧島ぁー」
扶桑中尉の声に少尉はビクッと肩を跳ね上げた。
「お喋り野郎がよぉ。海軍精神が、聞いて呆れるぜえ」
「も、申し訳ございません扶桑中尉ッ!」
扶桑さんはボーイの持ち寄った灰皿に煙草を捩じり付けた。
「来い。修正―」
中指をピッピッと二回親指ではじき、そのまま霧島少尉の額をバチンと打った。
「でっ!!」
強烈な牛殺し、霧島少尉はでっけえ体を丸めて顔を伏せ悶えた。長門と扶桑さんはケラケラ笑い、都司は苦笑した。俺もたぶん同じような顔をしている。海軍てのはつくづく罰が好きなもんだなと思った。
その時だ。だだっ広えロビーの端から身なりのいいおっさんが小走りに寄ってきた。長門に向かい深々と頭を下げる。俺は、ああこれ扶桑さん部下だと思われてんなと直感した。見てくれはだらしねえ、貫禄ってもんもねえ──長門も察したか、慌てて扶桑中尉を、続けて都司を霧島少尉を、最後に俺を紹介した。
おっさんは品のいい撫で付けの頭を下げ、丁寧な挨拶をくれた。
「劇場支配人の千歳でございます。この度は海軍さんにわざわざお越し頂けるということで何とお礼を申し上げたらよろしいか! 何でも公演中に不審な者を見たとか消えたとか、劇場霊の祟りとか──根も葉もないですのにこんなに手厚く警備いただけますとは。いやはや頭が下がりますな!」
「警備ねえ」
思わず口走る俺の肘を都司がポンと叩いた。
支配人は俺と都司のやり取りはそれほど気に留めず、視線を終始軍服の三人に注いでいた。はぁと息をつき、白地の天井に精彩に描かれた黄昏色の貝殻や花を仰ぎ気を静めている。一体何をどう話したんだ、天城大尉は。
「……すでに皆様ご存じかとは思いますが、当劇場は開場まもないというのにすっかりいわくつき呼ばわり。ほとほと困り果てております。莫大な予算を投じ設えた舞台装置が泣いております……色調切り替え可能な照明装置、回転床、そして奈落──それだけの演出が機械仕掛けで実現する。何度見ても興奮しますぞ!」
支配人の熱の籠った言葉に、少尉は両手の拳を握り無邪気に頷いた。
「拝見しましたよ初回公演! いやー、オルゴールのように背景が回転して切り替わった時は思わず声がでました!」
「おお!」
支配人は満面の笑みで少尉に握手を求め、そのあと本題を思い出し小さくため息を吐いた。
外は細雪。だが支配人は角のしっかりついた白いハンカチを生え際に宛がい、苦笑った。
「ただ表の華やかさと違い、舞台裏はそこかしこにボタンとレバーと歯車が犇めき合っておりましてね。あれに巻き込まれでもしたら事ですから、安全のため専任技師をひとり付けましょう。だいぶ変な男ではありますが、とにかく腕は確かです。何かありましても器用に対処できる……と信じております」
もう胃に穴の開きそうな顔してんな、と思った。支配人と言ってもこのオッサンは雇われで、歌劇場のオーナーは華族のお偉方だったはず。俺は三度生まれ変わろうと歌劇場の支配人だけはご免こうむりたいと思った。
「当日はその、なるだけ公演に障らぬ形で警備を頂きたく。いえ難しいのは重々承知の上で……ただ今回の興行には特段の予算を投じておりまして、初演は何としてでも成功させたい思いがあります。どうか穏便に! よしなに、よしなに!」
「難易度高ぇな」
俺はあからさまに不機嫌な顔をしてしまった。そのまま海軍トリオの方を向く。
「そもそもどうやってアレ捕まえんだよ。天城大尉の嫁さん、足掴まれてああなっちまったんだろ? まさか都司や俺が奴に触れとか言うなよ」
「ここでおれの出番だな」
聞き覚えのある声にギクリと振り返る。
波打つような長髪を高く結わえ、豪奢なロココ調の内装を背負ってもなお競り負けないほど派手な睫毛に紅い唇──見間違えようもない、烏丸朝日。小夜の兄であり俺の義兄だ。ちなみにアレは着け睫毛だと教えておく。
──前に話した通り朝日さんは十七で家をバックレた。以降は何がどう転んだか、水銀さんが発見した時すでにこの状態だった。派手好き変人の義兄が首から上は女モドキ、海外製の作業服に編上靴のいでたちでフフンと笑って立っている。「要領を得ない」って言葉はこんな時のためにあるのだと思った。
支配人は渋面を朝日さんに向けたまま、手元の懐中時計をカチンと鳴らした。
「やっと来たか。全く香水の匂いがプンプン……! ご紹介が遅れました、こちら技師の烏丸と申します。男です、一応」
「大丈夫だよ支配人。半分は知り合いだ」
天城大尉の根回しがあったか。朝日さんはさして驚く様子はなかった。
いっぽう長門はおっかなびっくり朝日さんを注視、扶桑さんは長話に厭きたか気怠そうに聞いている。そんな中ひとり明るい霧島少尉は両手で握手を求めながら、朝日さんに笑いかけた。
思う所をのびのびと口にする朝日さんや少尉とは対照的に、都司はすっかり大人しい。今回の作戦の主役であるにもかかわらず、添え物の様にそこに居る。一瞬、料亭で小夜が見せた寂し気な微笑が重なった。
朝日さんはそんな都司をじっと見て、口元だけでフッと笑った。
「あんまり気に病むなよ柊二。今は分からんことが多すぎて不安なだけだ。そのうち落ち着くさ」
「ええ。そうですね、きっと……」
都司は相変わらず朝日さんが苦手だった。化け狐にだってこんなに硬い笑顔見せんだろと思うと可笑しくてたまらない。
それで、と朝日さんは中尉二人に視線を遣った。
「婿殿の上官か。恭と柊二と誠がいつも世話になってます」
長門ははじかれたように頭を下げ、いえいえこちらこそとか何とか返した。扶桑さんも癖っ毛の頭を下げ、朝日さんと互いに会釈した。この二人は甲乙つけがたい変わり者だがこんな時は一応頭を下げるんだなと思った。
「それにしても二人とも随分若いんだな。中尉っておっさんなのかと思ってた」
「恭と霧島の兄ちゃん……姉ちゃん?」
「ちょ、先輩失礼すよ!」
声を低める長門を鹿十して、扶桑さんは朝日さんを舐めるように見ている。
「パンチ利いてんなぁ、年もよく分かんねえし。でもまあ、プロならどっちでもいいぜえ。よろしくなあ」
「どっちでもよくはないでしょ!」
「観音様みたいなもんだろ? 明日狐狩りだってのに、いちいち気にしてらんねえぜぇ」
長門は苦虫を噛みつぶしたような顔をしたが、扶桑さんのこういう所を俺は結構好きだったりする。
静観していた都司が、やや事務的に話を進めた。
「朝日さん、早速ですが舞台裏へご案内頂けますか」
「いいぜ。きっと柊二は一番楽しめる」
「楽しんでる場合かよ」
俺の言葉に朝日さんは洋紅のべったり乗った唇をやだやだと歪めた。
「辛気臭い顔してりゃなんでも上手くいくってもんでもなかろうぜ。多少肩の力を抜いてた方が、いざって時に案外集中出来る」
朝日さんのすぐ側をぶらぶらと歩きながら、扶桑さんが呟いた。
「『引き金は心で引くな手で引くな、闇夜に霜の降るごとく引け』てかぁ」
「何だそれ?」
小首を傾げる俺ににやりとして、扶桑さんは「まあ気楽になあ」といつもの調子をくれた。
朝日さんは口元のほくろに爪紅の指先でちょんと触れ、道理の分かるような顔をした。旦那さんが言葉を使わず嘘を吐く時と、どことなく似ていた。
朝日さんに続き奥行き五十メートルの舞台を、誰に命ぜられるでもなく一列で進む。舞台裏はまるで機械の中だった。ガキの時分、興味本位でバラバラにした水銀さんの懐中時計が、ふと頭に浮かんで消えた。
「おっと、足元気をつけてな。ここから照明ないよ」
わずかに明るむ方を見上げれば、何を原動力に動いているかも分からねえ照明に緞帳、そこに幽霊のような真っ黒い人影が往来している。
(一体何人いるんだ、裏方は)
表から見た客席は四階建て、裏はそれにもう一階はありそうだ。いろんなものを吊り下げた上の、そのまた上の方まで仰ぎみりゃ、操作か監視の裏方は豆粒みてえな大きさで何だ何だとこっちを覗き込む。
(右にゃ何かのスイッチ群、左にゃ何かのレバーが五本。それとは別に天井からは鎖やらロープやらがぶらぶら……一夕一朝で覚えられる代物じゃねえ)
朝日さん、なんで技師なんかに──何がどうしてそうなりやがる。その顔のまま見返るも、朝日さんはどこ吹く風。孔雀の羽かと思うような着け睫毛が、ぱさりと瞬くだけだった。
「痛てっ!」
扶桑さんが何かを踏んづけた。暗闇で目の利く都司がすぐに屈み、スパナかなんかをヒョイと脇に除ける。
「お怪我ありませんか扶桑中尉いッ!」
振り向く少尉がガツン! と額をぶつけてうずくまった。
「おいおい、何やってんだよ海軍さん。気をつけろっていったろう」
朝日さんは歯車やなんかに髪を絡めとられないよう、慣れた手つきでくるくる纏めながら朗笑した。
「んなとこ、工具置いとくなよおー」
扶桑さんはまだ目が慣れない様子でキョロキョロと霧島少尉を探していた。要領の良い長門は猫目の都司を頼りに後ろを歩いているらしい。朝日さんは口元のほくろに手をやると、ふと扶桑さんの顔を覗き込んだ。
「あんた鳥目か?」
「んにゃ、別に」
扶桑さんが目を細めているのが分かる。そのくらい俺や都司の目は暗闇に対応できてる頃なのに。
革手袋の指がキレイに揃い、舞台中央を指し示す。朝日さんは紅い唇をニッと横に引き、今日一番の得意顔をした。「ではでは皆さんご注目! あちらに見えますのが当劇場名物、『奈落』でございます!」
「奈落?」
都司が思わず身を乗り出した。
『奈落』と言えば歌舞伎の花道にある大きく窪んだ床下の空間を指すのが一般的で、迫り出しや廻り舞台といった舞台装置が仕込まれている。また通路として使用されることもあるんだとか。(度々都司に付き合いながらついたにわか知識だ)
それが歌劇場に──気づけば俺たちはみな身を乗り出し、説明の続きを待っていた。
「ふふ、歌舞伎座みたいだなって思ってるだろ。確かに遠く離れた西洋のオペラ座にも同じような仕組みがあるのは面白いよな。しかも向こうの奈落にはもうひとつ使い道がある」
「オーケストラピット、ですか?」
「さすが柊二、教養がある。そしてそして、我ら帝都歌劇場が誇る奈落にはもう一つ別の使い道がある」
長門は口をへの字に曲げ、横目に奈落をフーンと見て一考した。少尉はしゃがみ込み、頭から落っこちそうなくらい真っ暗闇の虚無を覗き込んでいる。
「うーん、何にも見えません。まさに奈落。落っこちたらどうなるか……あっ!!」
「分かったな婿殿。『落とし穴』だ」
一斉に皆が顔を上げる。朝日さんは暗闇でもわかる真っ赤な唇を引き、フフンと鼻をならした。
「支配人は穏便に! なんて言ってたが、触らずなんとかするんなら罠でも使うほかないだろ」
俺は呆れて頭の後ろを掻いた。
「ガキの作戦かよ……でもこんな大穴、演者がうっかり落ちちまったりとかは」
「大丈夫だよみんなプロだ。うっかり落ちそうなのはそのへんだろ」
朝日さんは意地悪な猫のように目を細め、海軍トリオをピッピッピッと指さした。
話しながら一旦表舞台へとゾロゾロ歩く。裏とは違う煌びやかな照明に眩む思いがした。
「ところで朝日さん、あれは何ですか?」
都司は額に手を翳し、天井画近くのバルコニーを仰ぎ見た。
「ああ。『ホワイエ・ド・ラ・ダンス』」
「ダンスホールかあ? あんな高ぇところに」
扶桑さんが嗤った。こんな成りでも海軍将校、フランス語が分かるらしい。
「華族様が見てるのさ。お気に入りの踊り子や女優をよ」
「ふーん。エロいなあ」
「ツネさん」
都司は顰めっ面で扶桑さんを窘めた。相変らず遊郭の主とは思えんような潔癖だ。
「でもおれは知ってるよ。特等席は最上階じゃない、最下だ。演者の声は近いし、オーケストラの音が体を貫くほどによく響く。お狐様も落ちてびっくり大満足さ」
「またまたー」
長門はたいして取り合わなかったが、都司は本当ですよと微笑った。テストの照明が動くたび、天井の金刺繍がちらちらと光る。都司は白い顔を天井に向けたまま「亡霊か」と呟き、朝日さんに流し目を送った。
「言いえて妙ですね。精々あの立派なシャンデリアが落ちてこないことを祈りますよ」
「あれ馬鹿高いって支配人言ってたからなー」
俺にはチンプンカンプンだったが、霧島少尉はハハッと笑った。どうせオペラか何かの話だろう。朝日さんは口元のほくろを指先でトントン触りながら、わざとらしくあたりを見回した。
「さてと。おれたちこんなベラベラ作戦会議してるけど、まだいないよな?」
都司はゆっくりと舞台裏を、それから客席の一階から四階、その上のホワイエまでをゆっくりと見渡した。そのあいだ全員息を殺して二の句を待つ。
「──異常なし、です」
ああ、と一斉に出た声が、落ち葉のように奈落を舞った。