『モガの葬列−医者の紙花−』
冬林 鮎著
歴史・時代
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
大正11年。烏丸家に仕える医師・水銀宗介は屋敷の令嬢小夜の結婚について思案していた。15年前に亡くなった奥様との約束、『新しい女』を目指し奔走する彼女と見つける最適解──前作に続くほのぼの大正浪漫譚。第1話 神様の言う通り
「──微熱。山は越えたかな……」
僕はか細い寝息を立てる彼女の小さな額からそっと手を離し、安堵の溜め息をついた。部屋を出る前に窓を閉めなくては。椅子から立ち上がり外を覗く。遠く芒の香りがした。
ある頃を境に、僕は小夜さんの体調に敏感になっていた。乳母日傘のお嬢様は風邪を引きやすく、その度に僕の心は乱された。彼女が苦しそうな顔をするとささくれのような記憶が去来して、真綿のようにこの首を絞めつける。彼女を癒したいのか自分の傷心を癒したいのか──僕にはもう、分からなくなっていた。
病魔は簡単に命を奪う。ありふれた風邪の様な顔で近付いて、一瞬見せたその隙を絶対に見逃さない。その人が僕にとって赤の他人であろうがかけがえのない大切な存在であろうが、平等に容赦ない冷徹を振り翳しすっぱりと刈り取ってしまう。そのことを僕は、痛いくらいに理解っていた。
庭先に金木犀の香りが居る。鈴を結んだ指先で、そっと誰かを手招くように夜通し佇んでいる。
『宗介……小夜を、お願い──』
あの日、奥様が今際の際に言葉を交わしたのは僕だった。美しく窶れたその顔で必死に訴える姿があまりに痛ましく、僕は自分の一生を左右するような約束を少しも厭わず飲み込んだ。人目も憚らず泣き崩れる僕を坊ちゃんが見ていた。坊ちゃんは僕を強く強く抱きしめて、それぎり何も言わなかった。
自分のことで精いっぱいだった僕とは違い坊ちゃんは涙の一つも見せないで、当時神戸に赴任していた旦那様に電報を打ち、通夜も葬儀も遺品の整理もすべて粛々とこなしていた。旦那様はこの出来事の詳細を後日、僕がドイツに送った手紙によって知ることとなる。
「……神様の言う通り、か」
もう一度小夜さんに振り返る。おもむろに彼女が身動いだ。もぞもぞと布団の中で芋虫のようにうずくまり、小さな声で『先生』と僕を呼んだ。
「ああ、すみません。起こしちゃいましたね」
なるだけ優しい声を出すと、小夜さんはゆっくりと繭を破るように布団の隙間に顔を見せた。
「……ずっといてくれたんですね。いま何時ですか?」
「もうすぐ零時です」
「すみません。いっぱい寝てしまいました」
小夜さんは幼げな仕草で目をこすり、身体を起こした。
「だいぶ熱は引いたみたいです。何か食べられそうならお園さんに──」
「いえ、結構です。まだ欲しくなくて」
小夜さんは布団の中に伸ばした爪先をじっと見つめたまま、微熱に湿気る熱い息をふうとついた。
「……怖い夢でも見ましたか」
僕はそっと眼鏡を外し、白衣の裾でレンズを拭った。
「寂しい、ですね……昔の夢を見ていました」
小夜さんは苦笑して、柔らかに乱れた髪を耳に掛けた。少し冷めたお茶を差し出すと、美味しそうにそれを飲み干した。
昔というのは恐らくあの頃だ。五歳の小夜さんは奥様と坊ちゃんが一度に居なくなってしまったことに、そしてそんな状況においても寄り添おうとはされなかった旦那様に落胆し、失望した。旦那様の奥様への愛はとても深かった。訃報に慌てて戻ったその時に、白い花に埋もれて眠る髪を抱きたった一度の涙を流された。それは僕たちはおろか、実の子さえもそこに立ち入ることは許されぬような愛だった。
あの頃の小夜さんを今でも夢に見る。小さな背中を丸めて蹲り、お母様の遺した蓄音機の前で声を殺して泣きながら『かみさまのいうとおり』と小さく繰り返す。何度も何度も繰り返す、小さな女の子だった。
家族の問題に他人が立ち入るのは如何なものかとは思ったが、それでも僕はその光景を看過できなかった。こんなに悲しいことが世の中に在ってはならないと十七歳の僕が言う。ゆえにいま此処にいる。彼女の安全な幸せが約束される事を、この目で確認するまでは──
「……もう暫く話していましょうか」
「でも、お仕事は?」
「これも仕事です」
僕はなるだけ素っ気ない言葉で答えた。
「霧島少尉のこと、どう思ってるんですか」
「少尉様、ですか」
小夜さんは長い睫毛をゆっくりと下ろし、むっと口を噤んだ。この顔が意味する感情を僕はよく知っている。その上で話を続ける。どうしても今夜、その答えを訊いておきたいと思っていた。
「先方はいたく貴女を気に入っておいででした。程なくお声が掛かるでしょう」
顔を覆うように眼鏡を上げる指を、小夜さんが見ている。時計の針がカチコチと歩いた。
「彼は猫舌です」
「猫舌」
「それと四人兄弟の三番目、弟さんは七つ年下。厳しい部下さんがいます。ちなみにアイスクリームが大好きなのは昨夜初めて知りました……それだけです」
彼女は僕にこれ以上話してほしくないようだった。
「あちらは侯爵子息──もし結婚の話があれば、お断りできる身分でないことは分かっています。優しいし、明るいし、きっと大切にしてくれるのだと思います。でも」
「……もう結構です。結果を急いてすみませんでした」
僕は当人を差し置いて熱くなってしまった自分を恥じた。何も小夜さんを早く片付けたいと思っていたわけじゃない。けれどもこれは僕のエゴだ。早く彼女の幸せを確認して安心したい──そんな自分勝手な動機で、小夜さんの一生を左右する選択に干渉しようとしてしまった。今すぐ冷静にならなければいけない。
僕は小夜さんの湯呑にお茶を注し、いつもの調子を繕った。
「……少尉とはどんな風に知り合ったんですか。これはそういう意味じゃなくて、ただの世間話として」
「どんな感じ……」
小夜さんはぼんやりと天井を見上げ小首を傾げた。
「落とし物をしたんです。お母様のブレスレット」
「あの七宝焼きの」
「そう」
「滅多に着けて出ないのに」
「そうなんですよね……」
小夜さんは漸く僕の目を見てぱちぱちと長い睫毛を瞬いた。
「あの日はなぜか無性におしゃれをしたくなって着けていたんです。それを少尉様が拾ってくださって」
「親切な方なんですね」
「ええ。そこに至るまでにパウリスタの前を通りがかったのですが、人気のお店に一人で入る勇気がなくて……お礼を兼ねて私からお茶にお誘いしました」
「小夜さんから?」
僕は思わずまた口うるさいことを言いそうになり、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「最初はちょっと怖かったんですよ。背がすごく高いし、なんだか顔つきも嶮しくて──」
「緊張されていたのですかね」
「嘘を、ついていたのだと思います」
「嘘?」
小夜さんはこくりと頷いた。
「舞踏会でお会いした時に気づいたんです。ダンスに入る前、少尉様が『パウリスタのコーヒー美味しかったですね』とおっしゃって。苦みが利いていて美味しかったですよねと答えたら、『ええ、すごく』と笑ったあと唇をぐっと結んでこう、眉根に皺を寄せたんです。あの時みたいに。ああ、お砂糖我慢していたのかなって」
「……彼、びっくりするほど甘党ですよね。アイスクリーム食べたさに伯爵にごね散らかしてましたし。嘘をつくと顔に出るたちなのか」
それは軍人に向かないですね、とは言えなかった。小夜さんはベッドを立ち、真夜中の窓を大きく開けた。暗い夜空に散らばる星がサンゴの骸のように白かった。
「あの時もきっと、拾ってくれたのではなかったんだなって。私が思うよりずっと懐の深い方なのかもしれないと思いました」
「……印象は悪くなさそうですね。とりあえず手紙を出されてはどうでしょうか」
「お手紙?」
小夜さんは微熱の頰を傾けて尋ねた。
「お詫び状とかそんな内容で。僕が代筆してもよいのですが、小夜さんの字であった方がお喜びになるでしょう。結婚云々は一旦置いておいて、せっかくできたご縁を大切にしても損はないと思いますよ」
「そうですね。少尉様に会う時はなんだかいつも通りでないことが多くて。神様に遊ばれているような気がしてしまうんです。面白いですよね」
小夜さんは口元に手を当て、肩をゆすって笑った。僕は昔からこの仕草を密かに気に入っていて、見ると不思議と良い心持ちになった。
「……神様の言う通り、ですか」
ぽつりと呟き眼鏡を押し上げる僕を不思議そうに見上げながら、小夜さんは
「なんです? それ」
とまるで子供を見るような顔をしてふんわりと笑った。
第2話 絵師の譫言
珍しくお園さんと並び銀座の街を歩いていた恭は、『カフェ・シャブラン』の前に足を止めた。今日の二人は書生と屋敷女中ではなく宛ら似合いの美男美女。恭の容姿は並でなく、長身で目や髪の色素の薄い日本人らしからぬものである。一方お園さんも目鼻立ちのくっきりした背高の美人で、着物姿は何とも言えぬ貫禄があった。
カラカラと入口のベルが鳴る。顔なじみの女給が愛想良く彼らを迎え入れた。
「……今日は居ない、か」
お園さんは少しく周りを見渡し残念そうに息をついた。
カフェ・シャブラン。この店は女給の質が高く横取り採用に躊躇ない坊ちゃんこと烏丸朝日にとって恰好の狩場だ。彼は小夜さんの兄君であるが故あって女装の麗人。化粧の才能か遺伝子の妙か、三十路を迎えた今でさえ下手をすれば一般的な女性より麗しい容姿を保っていた。僕や恭にとっては殆ど化け物の様なものだ。
旦那様とは変わらず絶縁状態だが、商いの才能はまごう事なき父譲り。新事業のための女給漁りを名目にお園さんとこの店で逢瀬を重ねている。気持ちの多寡はあれ互いに憎からず思っているのではないかと僕は思っている。
「恭さん」
奥から声を掛けたのは吉原の大籬『菊清』の若き楼主、都司柊二だった。美しい黒髪を七三に整えた鋭く端正な容貌を前に、お園さんは『弁天稲荷の狐みたいな男だな』と思った。
「待ったか」
「いえ。僕らも今でした」
都司くんは微笑みつつ長い手で向かいの席をすすめた。
「初めましてお園さん、都司柊二と申します。恭さんにはいつもお世話になっております」
「村田園と申します。いつも恭をお世話しております」
恭がおいとお園さんの腕を小突いた。
都司くんは恭の親友であり以前は小夜さんとも懇意だったらしい。お父上の急逝から家業を継ぐこととなり、帝大生から一転し吉原二位の妓楼の主となった。以降小夜さんとの付き合いをきっぱり絶った訳だが、今でも折に触れ彼女はその名を口にする。それを少し心配に思っていることを、僕もお園さんもけして口には出すまいと暗黙に決めていた。
「野郎は?」
お園さんは苛苛と袂から煙草を取り出し、無遠慮に燐寸を擦り上げた。都司くんは然して驚く様子もなく、亭主が客に茶を出すように灰皿をすすめた。
「彼方の女性に食指が動かれたようで生憎外されております」
「けっ、助平野郎が」
お園さんは向かいの空席に思いきり紫煙を吹きかけた。
「姐さんご機嫌斜めだな。でも何で雑誌の表紙を描くような有名人と知り合いなんだ?」
恭は紫煙を手で散らし、猫の様な榛色の目を細めた。
「言ってなかったか。私ァ元髪結いでね、鸚助とは吉原で知り合った。野郎とんでもねえ女好きで……まだおぼこだった私を上手いこと騙くらかして手ぇ出してきやがったんだよ」
「すげえ命知らず……つるかめつるかめ」
お園さんは恭を睨み煙草をスパスパと吸った。
「すんでのところで大事は免れたが、あの糞野郎いまだにしつこく追いかけてきやがる。足の骨折ったくらいじゃききゃあしねえ。ど変態がよ」
「──とんでもないお話ですね。いえ、他人事のように失礼しました。ご無事で何よりです」
都司くんは人より短い眉を顰めた。
「先日商談の流れで貴女の話題になったのですが、折角なので僕も一度恭さんの姐御分にご挨拶しておきたいと思いまして。思わぬご縁でしたね」
都司くんは静かな笑顔を浮かべた。
「アンタ、そんなこと言ってまたお嬢様に近づこうってんじゃないだろうね」
お園さんは三日月の様な眉を吊り上げ都司くんを睨めつけた。
「都司はそんなんじゃねえ。舐めんな」
恭が反射的に低い声を出した。これにはお園さんも些か驚いて、舌打ちしフンと目を逸らした。都司くんは恭を一瞥しお園さんに小さく頭を下げた。
「──弁えております。僕から離れましたので、それはどうかご安心なさってください。お心を煩わせてしまい申し訳ございません」
お園さんは内心困惑した。自分の見知った『籬主』とは一線を画す何か。調子狂うなと頭にやった白い右手を、孔雀緑の着物の腕がしっかと捕まえた。
「やあっと捕まえたがよ。お園、おまんは変わらんな」
「──来やがったか」
刹那。すかさず煙草の火を押し付けんとする左手をかわし、男は危ねえと素っ頓狂な声を上げた。
「チッ! 外した」
「おま、何するがや! 手は俺の商売道──」
「だから狙ったんだろうが下衆野郎。もっぺん触れてみな、二秒で沈めてやる」
「おいおいおいおい」
思わず間に入る恭。都司くんは動じずコーヒーを持ってきた女給に穏やかに礼を告げた。
「お園さん。心中お察し致しますが、僕は鸚助先生の腕にお金を払っております。どうにかご勘弁頂けませんでしょうか」
お園さんは高笑い煙草を咥えた。
「腕が欲しけりゃくれてやる。旦さんは捥ぐのと切るのとどっちが好い」
「はああ、おとろしい女子ぜよ。愛しちゅう」
「殺すぞ」
鸚助先生は笑って都司くんを盾にした。
鈴鹿鸚助──目鼻立ちには華があるが、肩に掛かる偽紅色の長髪を半結いにし詰襟シャツに孔雀緑の羽織を纏う姿が何とも風変りな芸術家である。歳の頃は僕と変わらぬ三十過ぎ。世間に顔の知れた絵師は若い女性、主に女学生や女給の憧れの的であった。
恭は異様な雰囲気を肌で感じつつ、二枚続けてビスケットを口にほうった。
「男のしつけえのはみっともねえぜ。悪ぃこた言わねえ、手え噛まれねえうち諦めな」
「おい」
鼻で笑う恭の脇腹にお園さんが肘を入れた。
「何だこの生意気な栗毛は! 俺のお園と気安く並びやがってからに……!」
「土佐弁どうした赤毛野郎」
恭は机に閊える長い脚で鸚助先生の脛を蹴った。都司くんは適当に鸚助先生をいなしつつ笑った。
「いつもは標準語なんですよ。興奮なさるとお国言葉になられますが」
「チッ、面倒くせえ。お前大丈夫かよこんなヒモ飼って」
「作品に罪はありませんから」
「旦さんも言うじゃいか」
意外にも鸚助先生は一回り下の都司くんを上客と見ているようだ。お園さんはしっしと手を振り京紅の唇を歪めた。
「恭、相手すんな。碌でなしがうつる。旦さんもせいぜい気ぃつけな。ちょっと目離したら店の女みいんな食い散らかすよこのど助平野郎は」
「何ちや、焼きもちか」
「誰に言ってるこのすけこまし」
お園さんはコーヒーを服し続けざまに罵った。
都司くんは苦笑しつつ背広の胸に手を入れた。煙草の口を潰しながら顔を小さく傾ける。
「ご忠告感謝致します。もし先生がうちの妓においたをすれば腕を頂きますので、その折は直ぐお園さんにご連絡させて頂きますね」
都司くんはそっと煙草に火を点けた。
「それ以外は大目に見ます。先生の絵には食客としての高い価値がお有りだから」
冗談と本音の分かりにくい声色に鸚助先生は口を大きくへの字に曲げた。
「優しい声で恐ろしいことを言う……やっぱり食えん男ぜよ」
都司くんは取り合わず、長い指でトントンと敷島の灰を落とした。
「約束は果たしましたよ。良い作品をお待ちしております」
「任せておけ。で、お園──」
お園さんは縋る手を払い先生の襟首を掴むと、ドスの利いた声でおうおうと凄んだ。
「いいか鸚助。てめえが今更どうしたいかなんざ私は更々興味ねえ。チンケなことで他人様に迷惑かけやがって──顔を拝めただけでもありがたいと思ってとっとと去ね! でなきゃ指を一本ずつ折る」
「がいな女子……!」
鸚助先生は悲痛な声を上げた。自業自得だろうと誰もが思った。
ふとお園さんの瞳がぱっと煌めく。胸倉を吊り上げた鸚助先生の肩越しに後方の佳人を目で追っている。
「坊ちゃん──!」
お園さんは床に鸚助先生をかなぐり捨て、乱れた髪をささっと整えた。彼女に気付いた坊ちゃんは韓紅の唇をにっと引き笑った。
妹君よりいくらか明るい御髪を英吉利に結い、艶やかな葡萄色の長羽織を小粋に掛けた坊ちゃんがゆっくりと睫毛を瞬く。和装は珍しい。ここ最近では一番の仕上がりと本人が称するように、これには怒髪天だったお園さんも即座に頬を赤く染めた。
「あれ恭だ。宗介は?」
「小夜の学校です。今日バレエか何かの発表会で」
「いいねえ。俺も行こうかな」
坊ちゃんは機嫌よく都司くんの隣に腰掛けた。
「こちらは?」
「俺のツレです」
「初めまして、都司柊二と申します。もしかして小夜ちゃんの──」
「『小夜ちゃん』ときたか。これは看過できんなあ」
都司くんはそっと口元を押さえ、坊ちゃんは獲物を見つけた顔をして彼の作り笑顔を覗き込んだ。
「おい……」
咳込みながら立ち上がった鸚助先生が坊ちゃんに詰め寄る。
「おまん、そこは俺の席ながよ」
「おお土佐弁」
ふと鸚助先生は、足を組み踏ん反り返る坊ちゃんの頭からつま先までをしげしげと見つめた。
「──おうの、よう見たらげにまっこと別嬪よねや! いやーえいのう! その目、鼻、唇……配置が完璧じゃいか! どれおまさん席がないき、俺の膝に座るがや?」
お園さんがドカンとテーブルを叩いた。扇の睫毛に彩られた大きな眼が血走っている。驚いた恭と都司くんは思わず身を寄せ合った。
「……この塵虫が、地獄に墜ちろ鸚助ーッ!!!」
「ぎゃああ!!」
お園さんは逃げ惑う鸚助先生の襟首を掴み、籠る力のありったけで床に叩きつけた。遠巻きに鸚助先生を盗み見ていた婦女子らの悲鳴が上がる。
「あーあ。わやんなっちまった」
坊ちゃんはからからと笑った。
「土佐弁はお園の友達か。はー面白。おい恭、柊二。飲もうぜ」
「でもまだお昼」
「都司。……飲もう」
多くを語らぬ恭を見て、都司くんは煙草を灰皿に捩じりつけた。
「──参ったな。下戸なのに」
着物の裾をからげ鸚助先生に馬乗りになるお園さんに哄笑しながら、坊ちゃんは元気よく注文の手を挙げた。
──僕は後ほど真っ赤になった都司くんを担いだ恭にこの話を聞かされ、居合わせなくて本当によかった、小夜さんがお友達とクリームソーダを飲みに出かけてくれていてよかったと心から思った。
診療室で鸚助先生の手当と都司くんの介抱を一頻り終えた僕は、満身創痍の二人を乗せた黒い車が吉原へ帰ってゆく様をぼんやりと見送った。
第3話 烏の屋敷
大正十一年某日、黒塗りのビュイックが烏丸屋敷の門前に到着した。初老の家令がドアを開くと、すらりと長い軍服の脚が地に降りる。出迎えの僕は一礼しずれた眼鏡を中指で正した。三寸ほど高い端正な顔を見上げる。目が合うと先に客人の方が明るく微笑んだ。
「ようこそお越しくださいました」
「お初にお目に掛かります! 自分は大日本帝国海軍──」
「……お会いするのは二度目ですよ霧島少尉。水銀です。先日は失礼しました」
「へ?」
少尉は甘い目元を擦り大きくのけぞった。
「先生⁉︎ これは大変失礼しました……今日はやや控え目な恰好でいらっしゃるのですね」
「あんなのはあの日だけです」
「それは良かった」
「良かったとは」
僕は反射的に少尉の言葉を繰り返した。
伯爵家主催の舞踏会以降、途中退場の詫び状をきっかけに小夜さんと少尉は文通を続けている。互いを少し知る仲になり、一度は話の流れで共に外出したこともあった。傍目に大した進展はなさそうだがまずまず良好な関係と言えるだろう。
侯爵子息にして海軍将校──肩書きは申し分ないが如何せんこの男、少しばかり抜けている。例えば舞踏会では再会とアイスクリームに燥ぎ小夜さんの不調を見逃し、カフェでは輩に絡まれた小夜さんを助けようと躍起になり店を半壊させ憲兵に取り押さえられた。
──悪気はないにせよ何かと落ち着きがなく、度が過ぎる。僕がいつまでも一抹の不安を拭えないのはそういう所だった。小夜さんの結婚を絶対に失敗させるわけにはいかない。僕は彼の正体を探るべく屋敷に招こうと提案した。そんな思惑、笑顔でのこのこやってきたこの人は知る由もないだろうけれど。
「いらっしゃいませ少尉様」
「小夜さん!」
少尉は応接間で自分を待っていた愛しのお嬢さんを見つけぱっと笑顔を輝かせた。招かれるままソファに腰を下ろし軍帽を脱ぐ。少し伸びた髪が軍服の襟に元気に反っていた。
僕はふと海軍将校には長髪が多いという話を思い出した。理由は諸々あるが、彼の場合は恐らく事故時の救助において優先順位が高いためだろう。なんせお父上は中将、そして侯爵である。判別のため下士官以下はみな坊主頭を義務付けられており、人の命に優劣をつける様なその慣習は正直いただけないものだった。
「今日はお招きありがとうございます。これつまらないものですが」
「まあ、ご丁寧に。頂戴いたします」
小夜さんは受け取った紙袋を傍に控えるお園さんに手渡した。
「それにしても素敵なお宅ですね。とくにお庭の前栽が良い。花木もよく手入れされていて大変目の保養になりました」
「ふふ、恐縮です。うちの者を紹介しますね。まず此方が女中のお園さん。私のねえやです」
「初めましてお園さん。お噂通り美しい方ですね」
「まあまあ年増を揶揄って。少尉様こそお噂通りのいい男ですよ」
「おうわさ?」
少尉は小夜さんの顔を見てバッと頬をおさえた。
「ご覧の通り我が家は女性が少なくて、今はお園さんとばあやの二人だけです。ちなみにお褒め頂いた庭木は、あちらの慈兵衛さんがみんな一人でお世話しています」
「左様で……! 慈兵衛さんは素晴らしい腕をお持ちですね。あんなに多くの種類を全部世話されているとは」
「いやー何の何の。しかしまあ一流の華族ってのァは見る目が違うもんですな。職人冥利に尽きまさあ」
慈兵衛さんはすっかりご満悦で左頬に二本大きく入った向こう傷を撫でた。
「それはそうと随分立派な体をされておられますね。うちの部下にも大きい者がいくらかおりますが──鍛えておいでですか」
少尉は慈兵衛さんを仰ぎ見て驚いた。慈兵衛さんはソファに預けた背を起こし凛々しい顔で苦笑した。
「昔ちいと陸軍で世話に──第七師団でクソ寒ぃ思いをしてやした。まあ軍人辞めても鍛える習慣てのァ抜けねえもんで。でけえ体で大工をやっちゃあ頭をぶつけ、鳶をやっちゃあ屋根をぶち抜き……気がつきゃここの庭師に収まってたって寸法で」
「そうでしたか、第七師団に──日露戦争の折には祖父が大変お世話になりました」
少尉は軍帽を胸に当て、深々と慈兵衛さんに頭を下げた。
「すいやせん、しょっぺえ話で。まあ若えお人の気にすることじゃありやせんが」
慈兵衛さんは大きな口に牙を覗かせ笑うと、へいへいと小夜さんを少尉の隣に座らせた。逞しい縦広の背筋がピッと伸びる。
お園さんの運ぶコーヒーと洋菓子が広いテーブルに華の陣を敷いてゆく。小夜さんは控えめに微笑み、座ってもなお高い少尉の顔を見上げた。
「先生はもうご存じですね。あとは以前お話しした幼馴染がこちらです」
「ああ、恭くん……なんだか思っていたのとちがう!」
「どういう意味だよ」
恭は怪訝そうな顔で少尉と小夜さんを交互に見比べた。
「ん、その瞳の色──榛色かな? それに髪も睫毛も栗色だ」
「生まれつきだよ。お陰で苦労してる」
恭は焼き菓子をぱくつきながら素っ気なく答えた。
「本当に綺麗だなあ、宝石の目。凄い。猫みたい」
「よっくもまあそんな恥ずかしい台詞をペラペラと……いいかげん離れろよ、近えな」
恭は少し照れたような顔をして両手で広い肩をぐいと押し返した。
「すみません、つい。面白いなあ恭くんは。何だか興味が沸きました」
「恭くんはやめろよ。柄じゃねえ」
「自分も二十二歳、同い年だから」
「同い年関係ねえ」
「ですね! 適当でした」
少尉は歳相応の悪戯な笑顔を恭に向けた。なるほど。僕はふと眼鏡を上げて二人を見た。恭は初対面の印象が悪い相手には全く口を利かないかすぐ喧嘩になる。意外なことにこの二人、どうやら馬が合いそうだ。小夜さんも微笑まし気に眺めている。
「……恭と同い年か。ぱっと見は背丈も同じくらいですね」
「あらほんと!」
僕の呟きにお園さんはからからと笑った。
「二人、ここ来て背え比べしてみたら」
「はい。こうですか?」
「チッ。面倒くせえな」
恭は文句を言いながらも綺麗な気をつけをする少尉に背中を合わせた。
僕は薄い洋書を二人の頭に乗せ簡単に高さを確認した。
「……少尉の方がちょっとだけ高い、かな? でもほぼ同じくらいです」
「少尉、身長いくつ?」
「直近の計測で六尺一寸だったかな」
「え、嘘。じゃあ俺まだ伸びてるかも」
全員が唖然とした。中でもお園さんは一等呆れた顔をして、まあ、あんだけ食って寝てりゃまだ育つかと呟いた。
「俺いまだに慣れねえんだけど、六尺一寸って何センチだっけ」
少尉は暫し宙を見ながら算盤をはじくように手を動かし、
「百八十四センチちょっと?」
と答えた。
「おい小夜。ここ並んでみ」
「いじわる」
小夜さんは鼻で笑う恭をむっと睨んだ。
「背丈は同じくらいでも、肩幅は少尉様の方が広いですね。ご立派ですわ」
小夜さんはちくりと恭に当て擦った。
「俺べつに鍛えてねえから。どうせなら──あ、いいとこ帰ってきた。おい葵」
「なんー? えっ!!」
ただいまを遮られた学校帰りの葵が素っ頓狂な声を上げた。かまぼこ型の目を大きく開き口をぱくぱくさせている。
「えっ、軍服? 何、誰……?」
「お前ちょっとそこ少尉の後ろ立って」
「待って、どういう状況」
葵は事態を飲み込めぬまま荷物を床に下ろし背中を合わせた。
「初めまして! 自分は大日本帝国海軍少尉 霧島誠と申します」
「あ、招待状の!? 書生の菊川葵と申します。慶應ですー」
二人は背中合わせのまま自己紹介をした。
「……肩幅一緒くらいか。もう部屋行っていいぞ」
「え、混ぜて! 俺も」
葵は恭の席を詰め狭いソファに座った。
「邪魔くせえ肩しやがって。狭ぇんだよ」
満員御礼、客間のソファはもうぎゅうぎゅうだった。
「葵坊、何飲む?」
お園さんの声に表情を明るくした葵はココア! と元気よく答えた。
「えっ、ココア! よろしければ自分も」
「あいよ。ココアふたつー」
すかさず便乗した少尉は葵と顔を見合わせてニコッと笑った。
「……少尉。お節介を言いますがお砂糖、少し控えられた方がいいですよ」
僕は角砂糖のポットを覗きながら控え目に窘めた。
「はは、ご忠告痛み入ります。先生は少しお砂糖を摂られたほうが良さそうですね。細すぎる!」
「お節介ありがとうございます」
僕は悪意のない反撃を流れるように往なした。
「良いですね、和気藹々。禮子さんも言ってましたよ、凄く楽しかったって。そうか君が葵くん。たくさん名前が出てきて気になってました」
小夜さんは思わず咳込み、葵はえっと声を上げた。
──子細は割愛するが、先日禮子さんこと裏辻子爵令嬢が屋敷にやってきた。その際にこの葵と知り合い、以降は度々外食のお伴に呼び付けられる関係となっている。僕は近年『人間万事塞翁が馬』という言葉をこれほどまでに思うことはなかった。まさか逆玉なんてことまでは流石にないとしても。
「れ、禮子様、俺のことなんて⁉︎」
「えっと……何だったかな? ちょっと忘れてしまいましたが、とにかく凄く褒めてました」
「ほんまに⁉︎ あの禮子様が? ええー気になる、気になる……!!」
葵はがしがしと胸元を掻いた。
「ねえねえ少尉様、がんばって思い出して! こんなん俺もう眠れん〜」
「んんー?」
がくがく肩を揺すられながら少尉は顎に手を当て空を見つめた。恭は珍しくけらけら笑いながらコーヒーを服した。
「少尉様、ココアどうぞ」
小夜さんがにっこり笑うと少尉は溌剌と全てを忘れ、いただきますと答えた。淹れたてのココアをふうふう吹いて、それからニッと八重歯を見せる。
「いやあ、こんなにわいわい楽しいのなら入婿も悪くないなあ」
少尉の呟きに皆一様に飲み物を吹いた。覆水盆に返らず──少尉は即座に立ち上がり慌てふためいた。
「……口が勝手に! 皆様どうかご放念ください!」
「忘れられるか!」
葵はしっかり指摘したあと、その前にココアで忘れたことを思い出すよう執拗に迫った。その様子を小夜さんと恭がお腹を抱えて笑っている。
僕はこの人で大丈夫なのか、もう全くもって分からなくなってしまった。どんよりと俯き眼鏡を中指で押し上げる。一旦天に任せよう。僕は諦観の呪いをブツブツと唱えた。神様の言う通り、神様の言う通り──。
第4話 荊棘の宣告
小夜さんの様子がおかしい。思えば花見の頃から度々熱を出し、長い風邪を拗らせていた。微熱に怠さを訴える、空咳をする。時折胸をさする動作が目につくようになってきて、僕は愈々嫌な予感がした。
体調がやや落ちついた折、彼女に付き添い東京府内の大学病院を訪れた。学生の時分世話になった東先生は内科の権威、事情を知りすぐに検査をしてくれた。
結果を聞いて目の前が暗転した。
小夜さんには僕が伝える。今夜、熟慮し尽くした言葉を用意して──。
「──小夜は」
「……今日はお元気ですよ。恭と近所へ散歩に出掛けられました」
「そうか」
昨日旦那様がイギリスからお戻りになられたことは幸運だった。奥様のお導きかもしれない。旦那様は目頭を押さえて俯いた。やはりこの人もこういう時は泣くのだなと冷たい感情が湧き上がった。
「同じだな。茜と」
「はい」
僕達は過去を偲び暫し黙した。
「お嬢様は、命に換えてもお救いします。油断はできませんが幸い発見が早く、きちんと療養すればどうにもできない病ではありません……あの頃とは違います」
「医者が軽率に命を口にするのは止しなさい。約束を違えたらどうする」
「……僕をお好きになさってください。その時はもう、生きることすら厭わしいでしょうから」
旦那様は返事をなさらなかった。ただ窓の向こうに降る花の雨を見詰めたまま、ゆっくりと煙草に火を点けた。
「──茜が世話になるはずだった信州の療養所がある。一度私から連絡をしてみよう。療養先が決まるまでの間、小夜を宜しく頼む」
「承知致しました」
旦那様は煙草を置き、僕の顔に手をあてた。吸い込まれるほど深い瞳を細めると、耳元でぞっとするほど低く、重く、囁いた。
「宗介、この屋敷で私の気持ちを理解できるのはお前だけだ。私はお前を逃がさない。絶対に」
逃げるつもりは更々無い。僕は過去を悔いているのだから。貴方とは違って──
「何か言いたそうだな」
旦那様は冷たい瞳で僕を見下ろした。
「……岡惚れなど褒められたものではないが、お前が居なければ私は孤独に苛まれ生きてはいられなかった。皮肉な幸運だった」
僕は旦那様の手をそっと払い退けた。
「……ご心配なさるような事は何もありませんでしたよ。あの頃の僕は、ただ見ていただけです。恋でもなく、愛でもなく。奥様は心安らぐ美しい風景と同じでした」
僕を軽蔑している。僕は旦那様が最も気になっていたであろう事柄に言及した。
「ダンスの練習も、貴方が指示した時にしかお相手していません。実に意気地のない青年でしたから」
旦那様は僕のしょうもない昔話を深く傾聴された。怒りは感じなかった。
「──僕はこの十五年、自分の気持ちを誰にも口外しなかった。しかし白状した以上、もう無かったことには出来ません。その上で存分にご安心ください。あの方のお心は間違いなく貴方のものでした。僕の様な子供など、目にも入らないほどに」
旦那様は少しの意外性を持った顔をされ、けれども元の暗い面持ちで溜息をついた。
──小夜さんの一大事に奥様の事を話してしまった。僕は毒気にあてられたのだと思った。……思いたかった。顔を覆うようにして眼鏡を上げる。胸が痛い。
「このくらいにしておこうか。今日は」
頭を下げる僕の肩を叩き俯く旦那様。その横顔は、どこか素顔の坊ちゃんに似ていた。
***
「……こんばんは。いい夜ですね。僕の好きな月です」
「満月は先生には少し明るすぎますか」
「道理です」
皆寝静まった夜半過ぎ僕は書庫を訪れた。こんな風に彼女と約束をして会うのは初めてだった。いつも何方ともなくやって来ては少し話し、本を取りそれぞれの自室に戻る。これまで連綿と繰り返してきた在り来たりな夜だった。
小夜さんは左の肩にゆるく結った三つ編みの先を所在なくいじりながら、朧げな月を見上げて呟いた。
「あの日と同じ月ですね」
「あの日?」
小夜さんはこくんと頷きぼんやりと振り返った。
「帝大の狐に遭った日。あれからは立て続けに色々ありました」
「ありましたね。そんな事も」
僕は眼鏡を外し、夜着の袖口で意味もなく拭った。
「先生、あのね」
久しぶりの『あのね』は、何だか懐かしかった。
「お兄様のこと、本当に感謝しているんですよ。貴方が思うよりもずっと。あの時居場所を教えてもらえなければ、今の私はなかったと思っています」
「…………」
「お兄様はいまだかつて会ったことのない『新しい女』です」
「女、というのは少し乱暴ですけどもね」
「概念の話よ」
落ち着きなく眼鏡を触る僕の手に小夜さんが微笑みかけた。
「何者にも縛られない思想、自立した生活──だけど男性をまねていない。お洒落や趣味も妥協せずに楽しんで……人生がお父様のお心で大方決まっていて、その時が来るまでお屋敷のそばをうろうろしていただけの私には及びもつかない生き方です。私もそうなりたくて」
「……変わりましたね、少し」
きらきら瞳を輝かせ星月夜の窓に焦がれる小夜さん。僕はその横顔を遠く眺め、静かに微笑んだ。
「結核でしたか」
小夜さんの問いが心臓を刺す。その様子を確かめ、小夜さんは残念そうに微笑んだ。カンテラが創り出すかすみ草の影が彼女の目元に揺れていた。
「薄々そうなんじゃないかなって。そう、やっぱり」
「大丈夫です」
言葉を遮る僕を鈴を張ったような目が見上げた。
「未だに国民病とされてはいますが、近年医療の進歩は著しい。薬も治療法も随分と発達しました。油断のならない病ではありますが全く成す術がない訳でもありません」
「……先生?」
月光の輝き、カンテラの光に令嬢の影が揺れた。
僕の影は僕ではない。まるで豊かな九尾を持つ妖狐のように、大きく禍々しい姿をしていた。
「専門の施設を頼ることになるかもしれませんが絶対に治せない病気ではないんです。進行により手術が必要となる場合もあります。でもきちんと栄養と睡眠をとって、薬を飲んでいたら必ず良くなります。奥様の時は時代が時代でしたし、医者はおろか対処方法を知るものさえも居なかった。でも今は違う。僕がいます。こんな時のために旦那様は僕と診療所をお屋敷に置いておられた。此処で何も出来なかったら僕がお屋敷に居る理由など何ひとつ無いのです。僕は、僕が、今度こそ必ず──」
「……先生、落ちついて」
気付けば僕は小夜さんを壁際に追い詰めていた。小さな肩をがっちり握りこみ、逃げられないよう息も忘れて話をしていた。もう戻れない。ヤブラン柄の壁紙に彼女の髪を押しつける。僕はこの早鐘を打つ心臓が口から飛び出すのではないかと思うほど、胸が潰れてしまうと思うほど──苦しかった。
今もしこの距離で咳をされたら。そんな思考さえも容易く吹っ飛んで、僕は医者として少しも正しい行動をとれなくなっていた。
「それは、お母様に言いたかった言葉ですか」
小夜さんは真っ直ぐな瞳で僕を見上げた。僕はとても冷めた目をしていたと思う。
彼女は幼い頃から奥様に目がそっくりだった。成長するにつれだんだん睫毛も伸びてきて、小夜さんが十五を迎える頃には僕はまともに目を合わせる事さえ出来なくなっていた。
此処で逢う夜、僕は頻りに眼鏡を外す。もう一度その無垢な瞳に叶わぬ恋をするような勇気は、何処にも残っていなかった。
「……どうして」
「どれだけ一緒にいると思っているんです。そんな事が分からないほど、私もう子供じゃないのよ」
油断した薄い胸を小夜さんはトンと押し返した。僕は思わず細い肩に置いてた手を離した。そばを行き過ぎる彼女に謝らねばと振り返った瞬間、小夜さんは壁に向かい力いっぱい僕を押し付け反撃した。眼鏡が鼻先にずり落ち、瞠目する。
所詮はお嬢様の力、抗えない筈はなかった。けれども何故だか僕は身動きひとつとることが出来なかった。小夜さんは互いの体が触れてしまうほど詰め寄り真っ直ぐに僕を見上げた。そのあまりに無防備で勇敢な振る舞いに、僕は彼女から少しも目が離せなくなった。
ふと病気のことを思い出し、小夜さんが一歩下がる。ここで離れるべきだった。それでも僕は動かなかった。否、動けなかったのだ。
「先生」
長く伸びた前髪の下に、野暮ったい眼鏡の向こうに、冬を渡るシリウスのように明るく澄んだ瞳が見える。眩しすぎて、眩んで、僕は今すぐこの目が盲いてしまえばいいのにと思った。
「──お母様は、こんな事しないでしょう。……貴方がもし私を救えなくても、何も重荷に感じることなんかない。別人なのだから。お母様のことだって、貴方は何も悪くなかった。何も、何ひとつ。少なくとも私は、今日までそう思って生きてきました。それだけは変わらないんです。これからも、です」
小夜さんは言葉を詰まらせながら何とか思いの丈を言い切った。
「僕は、僕は……」
駄目だ。こんなの耐えられない。涙が、泣いてしまう。落ちる、落ちる……
「……小夜さん、お願いです。それ以上、僕を」
──僕を見ないで。
優しい指先が眼鏡の端から涙をすくう。労わるように頭を撫でる。この手の示す意味を、僕は誰より理解っていた。これは恋人の手ではなく、忠実な犬を愛撫する主人の手。
情けない僕は一回りも年下の小夜さんの前で、声を殺して暫く泣いた。
「……すみません、本当に。こんなに大事な局面で、心持ちの悪くなるような過去を晒して、……傷付けた。軽蔑してください。その方が、楽になれます」
「──先生、恋は時を選ばず落ちるものです。今の私なら理解できます」
小夜さんは白んだ月を見上げて呟いた。
「恋に落ちると人は冷静さを失います。ただその人を追い求め、前も後ろも見えなくなります。触れては驚き、微笑まれては浮かれ、浮いたり沈んだりしながら、気持ちの尽きるその日まで、遠い遠い温かな海を泳いでゆくんです」
やわらかな月の光に透ける瞳に魅入られて、僕は濡れた睫毛を瞬いた。
「──そんな事にはならないで、ただ心の栄養として見ているだけであったなら、それは信仰と変わりません。ゆえに私の貴方に対する印象は何ひとつ傷付いてはいません。大丈夫。大丈夫なんです」
「飛躍、しています」
「適当です。堂々と貴方を受け入れたかったので」
小夜さんは黙って首を垂れる僕の頭に手を置いて、ただ手を置いて──荊の様な咳をした。咄嗟に手で口元を覆い、顔を背けることを忘れなかった。僕は彼女を窓下のソファに座らせ羽織を掛けた。胸を冷やしてはいけない、それ以外に何の意図も含まれてはいない行為だった。
「恰好つきませんね、こんなの」
「……僕が、必ず治します。誓います」
「誓いますか」
「誓います。絶対です」
あまりに真剣な顔をしていたのだろう。小夜さんは僕の顔を見てやわらかく笑った。一度は引いた涙がぼろぼろと零れ落ちる。ああ、いつからか僕はこんなにも脆い男になってしまった。
『なんだ、しょっぱいのか』
最後に泣いた日を思い出そうとしたら、奥様の三回忌で僕の涙を味見した九歳の恭の顔が浮かんで消えた。
──愛ではない。恋でもない。
けれども悲しいことも寂しいこともみんな一緒に乗り越えなんとか今日までやってきた。こうやって確かな繋がりを僕は、小夜さんは、そして恭は幾瀬も幾瀬も繰り返す。他人が見れば鼻で笑うような家族ごっこの飯事が、この関係を説明しうる唯一の言葉であるように僕は思う。
秘密を抱え過ぎた僕の中で、彼女の幸せを見届けたいというこの気持ちにだけは嘘偽りが無い。無いのだから。
「私は先生を信じています。今までどんなに苦しい事からも必死になって守ってくれた貴方を、誰よりも信頼しています。治療に最善を尽くすと誓います、先生の言う通り。だから──」
小夜さんはもう、神様の言う通りとは言わなかった。
「もう、泣かないで。先生」
満月に少し足りないささやかな月が見ている。
笑って、と言って小夜さんは笑った。
それはとても短い、何時かの誰かの愛の言葉。
第5話 メロンの告白
霧島少尉から、先日のお礼という名目で立派なメロンがごろごろ届いた。それを客間に集まり皆で和気藹々つついている席で、小夜さんは病気のことをさらりと打ち明けた。僕はこの時以上に『空気が凍る』という状況を終ぞ知らない。
「えっ……メロン、食える?」
最初に口を利いたのは恭だった。
「もちろん。残念ね、私の分もらえなくて」
「いや俺は別にそういう」
小夜さんのあっけらかんとした様子に、逆に深刻に接してはいけないという我慢大会のような状況になった。恐らく皆はあとで僕を問い詰める。覚悟をきめつつ食べる高級メロンは何の味もしなかった。
「……とりあえず感染が心配ですので、小夜さんは当面診療室の二階に移られます」
僕は仕切りなおすように一言を添えた。恭はふーんと言った後、
「水銀さんと住むってこと?」
と問いかけた。はたとなる。僕は眼鏡を中指で押し上げ、うんと答えた。
「……落ち着かないとは思うけど、何かあればすぐ対処したいし……奥様の部屋を整理してそこに。あそこは鍵が掛かるから小夜さんも安心だろう」
「別に心配ねえよな。どつけば倒れるし眼鏡とりゃ動けねんだから」
恭は小夜さんに向かい意地悪に笑った。馬鹿にするなよと思わないではなかったが、事実昨夜か弱いお嬢さんの力で壁に押し付けられ悉く泣かされた僕に返す言葉などはなかった。
お園さんは一旦手癖で取り出した煙草を袂にしまい、襷で晒した白い腕を組んだ。
「私ァ部屋に出入りしていいんだろ? 先生がお召替えだ髪の用意だ上げ膳下げ膳出来るってんなら構わねえけど」
「やだ。お園さんがいい」
「……言われなくたってそのつもりです。身の回りのお世話は引き続きお園さんでお願いします。本当仲良いんだから」
僕はニコニコ手を取り合うお園さんと小夜さんをじとりと見て溜息をついた。
「全く小夜さんに触れるな近づくなとは言いませんが、接触の際は重々気をつけてください。飛沫感染ですから、咳やくしゃみの方には絶対行かないで。痰や唾液の付着した塵紙や布類にも注意が必要です。あとはこまめな手洗いうがいと換気、消毒を忘れないようにしてもらって──結核は感染しても発症は十人に一人くらいです。健康体であれば多くは免疫で抑えられて症状は出ません。でも皆気付かない内に結核菌をあちこちに運んでしまう可能性があります。特に葵と恭は通学で電車を使うから、感染拡大防止のためにも充分気をつけ」
「おい小姑」
恭が小夜さんの方を顎でしゃくった。
「あ……すみません、つい」
「いえ、大事なことなので。いいです。全然、気にしてません」
小夜さんはちょっとだけ唇を尖らせながらも理解のあるような台詞を口にした。
葵はあえて小夜さんの隣に座り、しどろもどろの笑顔を振りまいた。
「えっと、僕お部屋の準備手伝いますよ! 色々片付けとかありますよね。ね!」
「そうだね。当分掃除してないし、助かるよ」
僕の返事に喜ぶ葵を見て、あらためて男手が多くて良かったと思った。
「家具も僕と恭で運びますんで!」
「え、俺やだよ面倒くせえ」
「おまえ、ほんまそういうさあ……あっ!」
葵の最後の一口をひょいと奪った恭が視線を宙に向ける。
「確かあすこ窓壊れてたよな。おやっさん直してやれよ。元大工だろ」
「ああ、それァ構わねえが。お嬢は外出とかは」
慈兵衛さんは小夜さんではなく、隣に座る僕の方を見た。僕は腕を組み、指先で唇に触れながら慎重に答えた。
「……病院から禁止されてはいませんが、常識的に見て密室や電車は望ましくないですね。呼吸の増える長時間の徒歩も。車を使うことが多くなりますか」
「滅入っちまうな」
慈兵衛さんはしげしげと小夜さんの顔を見つめた。
「まあ、何か考えやしょうかね。少しでも部屋が明るくなるように、出かけやすい空気の良いところも」
「ありがとう、慈兵衛さん。良かったら鉢のお花がほしいわ。きちんとお世話をするから」
「おう。東京中の上玉揃えたらあ」
「ふふ、楽しみ」
尖った歯を見せ朗笑する慈兵衛さんを、小夜さんは期待に満ちた顔で見つめた。
──怖くないのかな、と思った。
「あと心配事、何かありますっけ?」
お園さんからメロンの施しを受けつつ葵が空を見上げた。
「霧島少尉」
恭の一声に皆がああと頷いた。
恭は腕組みのまま小夜さんの方を向いた。
「何か今月は東京居ねえようなこと言ってなかった? 家に手紙送って仕事先に送ってもらうか。電報?──いやそもそも報せるか」
「報せないのはあんまり不義理だろう」
僕の一言にフォークを咥えたまま恭が固まる。
「……高級メロンくれたしな」
「お前」
恭は僕の皿から二切れほどをひょいひょいと奪い、ソファに深く腰掛けた。ぬらぬら光るメロンを見て、ぼんやり何かを考えている。
(──相当参ってるな)
僕は人知れず恭の心配をした。
「少尉様へは手紙できちんとお伝えしますね。急に会わないと言いだしたら、かえって心配を掛けてしまうと思うし」
小夜さんの言葉に慈兵衛さんは左頬の傷を撫で撫で小さく笑った。
「少尉殿、『小夜さん、どうして急に会えないなんて仰るのですか! 嫌ですそんなの! 寂しいです! どうか訳をお聞かせください!!』とかってキャンキャン慌てて飛んで来そうだもんな。結局よ」
慈兵衛さんはげらげら笑った。
「じ、慈兵衛さんっ……物真似は、あきませんて……っ!!」
葵は耐えきれず腹を抱えて笑い出した。
お園さんは腰に手を当て、しらけ顔でお茶を服した。
「ったくバカだねえ……はいはい、しめえだよ! みんな帰った帰った!」
お園さんは牧羊犬のようにドヤドヤと追い立て僕らを部屋から追い出した。残ったのはお園さん、恭、小夜さん。何か話したいことでもあるのだろう。僕は仕事に戻ることにした。
「──旦さん、どうします?」
「都司さん」
小夜さんは初めて憂う顔をした。それから睫毛をそっと伏せ、独り言のようにぽつぽつと呟きはじめた。
「……私のこと、覚えているかしら。もし忘れてしまっているのなら、もう余計な心配は掛けたくない。彼はとても……大変だから。だから」
「時々」
恭が楊枝の先を噛みながら遮った。
「訊いてくるぜ。小夜ちゃんは元気ですかって。それにもし療養で東京離れるとかなったら、次いつ会えるか分かんねえし。あいつは吉原を出られねえ」
「何が言いたい」
お園さんは最後の一言を促した。
「──会っとけばって、言ってる」
「……お嬢様がその気なら、私も協力します。だってずっと会いたかったんでしょ?」
小夜さんは目に涙をいっぱい溜めて、唇をぎゅっと引き結びうんと頷いた。童女のようなその顔を抱きしめようとするお園さん。小夜さんは、はっとして背を向けた。そうだったと頭を掻きながらお園さんは紅い唇を横に引き、悔しそうに舌打ちした。
「……あーあ、分かる。分かりますよ。暫く会ってねえもんだから、もう好きとか何とか分からないんでしょう。でもこういう事は白黒はっきりさせとかねえと一生引き摺ります。断言したって良い。決まり。会って確かめましょう」
「俺よく分かんねえんだけど、会ってやっぱり好きだったなんて事になったらいっちゃん地獄──」
「野暮言ってんじゃねえ!」
お園さんは恭の背中をバチンと叩いた。
「結果がどうは神様が決める! 自分の気持ちを分からねえままぶん投げるのが駄目だってんだよ。心に二人はうまかねえ。お節介すいませんけど、こればっかりは黙っちゃいられません」
「クソ痛ってえ……姐さんいっつも黙ってねえじゃねえかよ」
恭は手形のついていそうな縦長の背中を擦りながらごちた。
「恭、旦さんの説得はあんたの役目だよ。それで約束取りつけたら、当日鸚助をここにしょっ引いてきな。人質だ」
「人質!」
物騒な言葉に思わず小夜さんが反応した。お園さんは細い腰に手を当て、煙草の代わりに楊枝をガジガジ噛みながら目を細めた。
「旦さんもあれで男だからな。もし嫁入り前のお嬢様に下手な真似しやがったら、そん時ゃ鸚助を──」
「いやいや怖え怖え」
考えたくもないといった様子で恭が首を横に振った。
「やい恭。てめえも他人事じゃねえからな。お嬢様が会いたいと仰ってんだ、もし旦さんに断られたりしたら」
「──攫ってでも連れてくる」
「よし。話はしめえだ。出てけ」
お園さんはどら猫を払うように恭を追い出し、小夜さんの両肩をしっかり抱いて声を落とした。
「誰を選んでもいい。私は、いつだってお嬢様の味方です。──お嬢様だけの」
お園さんの吸い込まれるような真っ直ぐな瞳に小夜さんは頷いた。
それからぽろりと一粒だけ涙をながして俯いた。
「……大好きよ。ごめんなさい、抱きしめられなくて」
お園さんは目に涙を浮かべて唇を噛み、うんと大きく頷いた。
「──あー、駄目だ畜生。一服失礼します」
お園さんは楊枝を煙草のように咥え、綺麗な歯を見せて笑った。
第6話 帝都の休日
午後二時。お園さんは咥え煙草に仁王立ちで都司くんを迎えた。牽制である。
黒馬車の様なフォードを降りた都司くんは、服も髪もいつもに増して瀟洒だった。細身に整う三揃い。お洒落に疎い僕や恭でさえ分かる、特別な女性と出掛けるときのそれだった。
「いらっしゃい。今日は一際いい男だねえ。日中の吸血鬼みたいで」
「痛み入ります」
お園さんはポイと煙草を地に投げ無体に踏みつけた。都司くんはすっとそれを拾い運転手の出す灰皿に置いた。離れた風上に立つ小夜さんをじっと見る。胸を抑える勿忘草色のワンピースが揺れた。
「今日は何時まで宜しいのですか」
「恭」
「八時」
「八時だぁ? 随分緩いねえ」
「暗え時間も必要だろ。大人なんだから」
お園さんは恭の高い尻に思い切り蹴りを入れた。
「七時。おかしな真似すりゃこうだよ」
「心得ました」
都司くんは沈む恭に苦笑し頷いた。
「時間厳守。遅刻十分ごとに人質の爪を剥がす」
「かーっ、たまらんぜよ!」
襷の細腕に吊るし上げられ鸚助先生は嬉しそうに戯けた。
「結構です。出来れば左の小指から」
「おまんちったあ優しくしたらどうぜ」
鸚助先生は都司くんにだけ抗議した。
「お待たせ」
「はい」
都司くんは自然に小夜さんの手を取った。消毒……と咄嗟に思った僕は、正しいだけの無粋者だった。
──これからは後に都司くん、または小夜さんから聞いた話になる。どこまで本当かは分からない。何故なら二人の話はところどころ曖昧で、多少の齟齬があり整合性が取れていなかったからだ。不確かで美しい、明け方の忘れ難い夢のような話。少なくとも僕は、そんな風に思った。
***
「お久しぶりね」
「ね」
硝子のない窓をすり抜ける陽風、細めた切れ長の目。記憶の中の笑い方。私は彼の仕草のひとつひとつ思い出と照らし合わせて確かめた。車が揺れる。都司さんは私の胸の前に手を遣り、前を向いたまま微笑んだ。膝が触れる。手を取ってもらう時よりずっとずっと緊張した。
「あの、私」
「──うん」
都司さんは切なげに顔を傾け私を見た。
「忘れても良いんだよ。今日だけはね」
長い首から若草色の襟巻きを解き私の首にふわりと巻く。勿忘草色に若草色がのってハイカラな春が咲いた。
「そうしていたら良いよ。咳をする時はこう押さえてさ」
手慣れた様子で教えてくれる。それは切ない、気軽に訊いてはいけない思い出のような気がした。
「さて、どこに行こうか」
「お任せするわ」
「そう。じゃあ近いところから」
都司さんは地名を告げずに運転手さんに道順を示した。どこに行くのかな。三人で出かけていた頃の喜ばせ上手が懐かしい。花の落ちた桜並木。芽吹いたばかりの葉桜の香りが胸を満たした。ゆっくりと車が止まる。やわらかい空気に目を細める。外を覗く。行き着いたのは意外な場所だった。
先に降りた都司さんの長く白い指が綺麗に揃って私を誘う。
「植物園、好き?」
都司さんは少しだけ面映そうに微笑んだ。
本当ならランデヴーにはもっと違う場所を選ぶのかもしれない。それとも意外と自然主義的な、こういう喧騒を離れた場所を好むのだろうか。男性としての都司さんをまだ知らない。今日の彼は、とても男性的。
「初めてなの。素敵」
「そっか。初めてか」
何か大切な事を聞いたような顔で都司さんが笑う。
「ここ、好きなの?」
「──好きだよ」
胸の奥がトンと跳ねた。都司さんは遠くを見ながら言葉を続けた。こうやって遠くを見ながら話す姿を私は知らない。恭は知っているかしらと思った。
「綺麗で脆いものが好きなんだ。細い枝とか、小さい花とか……男らしくはないね。少し歩こうか」
それから暫く特に会話らしい会話もなく木漏れ日の中をぶらぶらと歩いた。並んでみて、都司さんはスラリとしているなとあらためて思った。ゆるやかな肩の、少しだけ猫背のシルエットが懐かしい。着物の凛と伸びた背筋ではなく、『またね』と電車を降りてゆく学生服の背中を思い出す。青白いお花の香りがする。
梢から美しい羽ばたきが聞こえて、目にも優しい緑の風景を私の歩調で進む。明るい影がくっついたり離れたりしながら白詰草の道をゆく。
都司さんが好きだと言ったので、私は足元や木の上に小花を見つけては指でさし教えた。その度に彼は綺麗な声で『好きだよ』と答えた。金糸雀の囀るようにひとつひとつ、すべての花に好きだよと囁いた。
私は不思議と幸せな気持ちになってきて、彼が諫めるのもきかずお日様が傾くまで休みなく歩いた。胸を蝕む病のことも、今日が最後になるかもしれないこともすっかり忘れてしまった。
「小夜ちゃん、少し休もうよ」
「どうして? こんなに楽しいのに。時間がもったいない」
「僕ちょっと疲れちゃった」
少し大げさに長い足を延ばして立ち止まる。
「ごめんなさい。私、気が付かなくって」
都司さんはまるで小さな女の子に向けるような目で私を見た。
「思ったより元気そうでよかった。でも少し休もうね。まだ時間あるから」
「……はい」
(──ああ、この感じ。知ってる)
舞踏会の少尉様。軍人らしく大礼服でお洒落をして、それなのに子供みたいに踊ろう踊ろうと手を引いて。今日しかなくて、次はないかもしれなくて、だから時間いっぱい楽しくしたくて止まらない。今なら分かる。もったいないの。貴方は休む暇も惜しかったのね。
「おいで」
都司さんは私が追いつくのを待ってから、園の端っこにある小さなお茶屋さんに向かって歩き始めた。恭がいたら絶対に立ち寄るだろうねと話しながら。
都司さんはそっと私の手を取った。そのまま高く持ち上げて、くるりと回らせる。フレアのワンピースがふわりと広がった。木蓮の花びらがくるくると遊び去る。都司さんは最後の一回転で赤い毛氈を敷いた椅子に私を座らせ、お終いと笑った。
都司さんのエスコートは不思議だった。いつかの詩景をもう一度なぞる。流れ星みたいに一度だけ、きらきらと瞬いて、あっという間に消えてしまった。
横に並んでお茶をする。お日様は西に傾いて木陰は少し肌寒い。甘いお菓子を楊枝で綺麗に切りながら、恭さんもいたほうが良かったかなと笑う。今日の彼は良く笑う。色んな笑顔でよく笑う。都司さんが楽しくてよかった。私も、楽しかった。
「気持ちいいね」
都司さんは桜のお茶を置き、両手で私の首元をそっと正した。ふと都司さんはこんな色、前は着ていたかしらと思った。
『柊二くん、何かちょっと雰囲気変わりましたかね。服の趣味変わったんかなあ? 最後に会った時よりちょっと大人っぽくなったっていうか』
そういえば葵が言っていた。偶然都司さんに会ったときの話。たった一年というけれど、その間私には色んな出会いや出来事があった。都司さんにだってきっと色々あって、その中で変わってしまったこともあったはず。私は──変わってしまったのだと思う。
「……小夜ちゃん?」
「都司さんは」
今までどうしていたの? と訊きかけて何となく口を噤む。今がこんなに楽しいのに醒めてしまうのがしのびなかった。
「……他にも行きたいところ、ある?」
「なくなっちゃったな。出来るなら、ずっとここにいたい」
都司さんは少し疲れたように笑った。
──今が本当に楽しいから? それとも外の世界が楽しくないから? 貴方はずっと、ここにいたいのね。どうして、どうして。
「じゃあしたいこと、ある?」
「したいことか」
都司さんは桜の浮いた湯呑に両の掌を添え、視線を宙に漂わせた。
「──ひとつだけ、ある」
振り向く黒い瞳に捕まった。陽光に融けてしまいそうな白い肌、風に梳かれる黒い髪。都司さんという人はどこまでも儚い。出会った人はみんな自分の記憶の中に在る美しい風景を、密かに彼に重ねてしまうのではないだろうかと思った。それは掛け値なしに素敵な、どこにでも居てどこにも居ない人だった。
「手を、繋いでみたい。恭さんとするみたいに──僕ともして」
恭とするみたいに? 私はきょとんとして都司さんの顔を見上げた。目を逸らし気まずそうな顔をしている。私は恭のことを少しだけ思い出して、それから子供が大人と手を繋ぐようにありふれた形で彼の手を握った。
「……こうなんだ?」
「こうです」
「そっか」
恭とは違う細く白い手。優しい繋ぎ方。思えばこの十年間、恭以外の誰とも手を繋いでいなかった。当てが外れたような都司さんの反応。身長差も手伝って一気に仲良し兄妹のお散歩のようになってしまった。何となく、悪いことをしたかなと思った。
「あのね」
私の一言に都司さんは足を止めた。どちらも下ろしたての、お洒落な革靴と背伸びしたパンプスの爪先が向き合う。少し浮かせた踵の下に花びらの絨毯が広がっている。
「私ね、やっぱり都司さんといると楽しい。今日貴方に会えて、うれしかった」
本心だったけど余計なことを言ってしまった。すぐに気づいて取り消そうとした。けれどもう遅い。都司さんの綺麗な襟足を春色の夕風が撫でた。少しずつ終わってしまう。
「……駄目だよ、そんなことを言ったら。馬鹿な男は勘違いしてしまう」
私は都司さんの伏し目をじっと見上げた。敷島の香りが去来する。
『──都司さんは私のこと、好きなの?』
分かっているような、分かっていないような気持ちだった。でも確かめる必要なんてなかった。この問いにどんな言葉が返ってきても、私にはもうこの人を幸せにすることはできないのだと思った。何も言わない私を、都司さんが切ない瞳で見おろしている。そっと私の手を離す。
見上げる私の顔に高い影がかかる。都司さんが小さな顔を、ゆっくりと傾ける。
「──接吻、する?」
「えっ」
白い指先で心臓を掴まれたような気がした。少しも触れられていないのに、不思議と絡めとられたように動けない。
「あの、私、わたし、は──」
私は耳まで真っ赤になりながら、ぎゅっと目を瞑り俯いた。
──一瞬、八重歯の笑顔が頭を過った。真っ白な軍服、少し落ちた幅広の肩に映る雑踏、必死に床に臥し謝り続ける情けない姿、私の名前を呼んで、何度も、何度も。
言葉にならない。沈黙は拒絶──都司さんはそういうふうに解釈をした。苦しそうに微笑んで高い背を傾け、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……冗談だよ。あんまり可愛いから、ちょっと意地悪したくなっちゃっただけで。ごめん、酷かったね」
都司さんは若草色の襟巻をもう一度正しながら、赦すように微笑んだ。
「こんな所で君を手軽にしたりしないよ。僕はそんな男じゃない」
『君を』なのか『女性を』なのか。私は震える胸に手を当て思案した。楽しかった時間が終わる。思い出が落日と心中するように。
「目を瞑っている時、誰かのことを考えていたね」
都司さんは綺麗な流し目で私に語り掛けた。
「その人が君を思ってくれるなら、君を大切にしてくれるなら──お行き。大丈夫だからね」
まるで迷子に言い聞かせるように優しく囁いた。『安心して、もう好きになったりしないよ』と言われたような気がした。私は思っていること全て、打ち明けようと決めた。いま伝えなければもう次はないかもしれないということを思い出していた。都司さんの誠実に、何をしてでも報いたかった。
「──私、ずっと都司さんに会いたかった。最初は会えなくなったから会いたくて、暫くすると貴方の事を好きだから会いたいのかもしれないと思い始めて──でも、ある時気になる人が出来たの。それでも」
都司さんは笑っている。冷たい風に瞬いて、笑っている。
「それでもまだ、貴方がいて。それならこの気持ちは何なのだろうって……だから、確かめたかった。私は自分の気持ちを確かめにきたの。どこまでも優しい、貴方を利用して──とても、思い上がっていたとおもう。貴方はきっと来てくれるって。私ばかりが楽しくて、はしゃいで、それなのに……都司さん、私は卑怯者です。ごめんなさい、ごめんなさい……」
私は彼の襟巻きに顔を埋めて泣いた。病なんかではなく、ただ、張り裂けそうに胸が痛かった。
都司さんは衝動的に私の濡れた頬に手を添え、屈んでおでこに口付けた。渇望。薄い唇をきゅっと噛み締め、愛し気に額を寄せ、離れ難さにそっと囁く。
「これで、おあいこにしようか」
都司さんの声は、少し掠れていた。
「でも、」
「構わない。それでも僕は──」
君に会えて、うれしかったんだよ。
「うれしかったんだ」
夜明けの空から星が落ちてゆくように、春の終わりに花が崩れてゆくように、都司さんは微笑った。降りしきるあの日の銀杏が彼を泣く。飴のように透き通る黄昏の風景、学生服の狐顔、花火のような花魁道中を眼下に従えた黒紋付きの白い顔、ハンカチを差し出す長い指。
『──小夜ちゃん、笑って。もう一度』
日没まであと少し。灰簾石の宵空に星々が降りる頃、暗いフォードの中で、都司さんの美しい影は静かに煙草を咥えた。吸い口は潰さなかった。
「楽しかったね。ずっと、楽しかったね」
街の灯が近づいて、少しずつ星が消えてゆく。銀砂のように魔法がとける。ひとつ、ふたつ、落ちてゆく星を数えながら私はそっと自分の唇に触れた。
決してまたねと言わない都司さんの唇を火のない敷島が塞ぐ。これから先の人生でふと彼の姿を思い出す時、きっといつもそこにある。
終わって初めて確かめる。確かに恋だった。
第7話 鉄馬の祝福
「……本当に、良いのですね?」
「お願いします」
僕は束ねた小夜さんの髪を掌で掬い、お園さんに目配せをした。薫風と呼ぶには冷たい風が青い木陰をゆき過ぎる。
庭の大きな白樫の下に置いた椅子。小夜さんが細い背をピンとのばして座り、僕は彼女の後ろ髪を持ち、お園さんが震える両手で鋏を握っている。その様子を皆が固唾を飲んで見守っている。その中には──朝日坊ちゃんが居る。
「お園、無理をするな」
坊ちゃんがお屋敷の門を潜られたのは実に十六年ぶりだった。生憎と旦那様はご不在で、今や招かれざる客となった御子息との鉢合わせは回避された。
そして今日は恭の誕生日。だけどこんな風に、いつもは起こらない様なことを皆してやっている。それは僕らにとっては意味のある、通過儀礼の様なものだった。
「──ああ、すいません。私にゃやっぱり無理です!」
お園さんは年季の入った髪切り鋏を道具台に投げ置き、白い手で顔を覆った。
「貸せ。俺がやる」
恭はお園さんを押し退け鋏を掴むと、小夜さんの髪をひと息に切り落とした。小夜さんは冴えた目で凛と前を見つめている。僕は風にそよぐ足元の小花にそっと視線を落とした。
「……何時ぶりでしょうね。こんなに短くされるのは」
恭が鋏を台に置く。
僕の手に、力を無くした長髪が一房、物寂し気に残された。
「しかしまあ、これァこれで可愛いですぜ、お嬢」
慈兵衛さんが笑った。
「ほんまに。モダンガールみたいで」
葵も笑った。
「ああ……」
お園さんは頸ほどの長さになった小夜さんの髪を長い指で梳きながら嘆いた。
「私が一緒に信州へ行けたなら、切らずに済んだんですかねえ。若くてかわいい女の命を」
小夜さんは前を向いたままお園さんの手をそっと握った。
「良いの。失恋しても切るのでしょう? 大人の女は」
上を向く睫毛、丸い目に紅い唇が映る。
「戻るころには自分で結えるようになってみせるわ。心配しないで」
笑う小夜さん。坊ちゃんは僕の手から妹君の髪を摘まみ、ふーんと眺めた。
「やわらけえ髪。なあこれ俺にくれよ。鬘にしたい」
「坊ちゃん!」
お園さんが珍しく坊ちゃんを窘めた。
「お前のためさ。毎朝梳いた髪が無くなるのは寂しかろう? 小夜が戻るまではこいつをこう編んだりとかしたりしたらいいと思って」
「感性が独特すぎるんですよ。貴方の場合……」
お園さんの頭をよしよし撫でる坊ちゃんを横目に、僕はぼそりと本音を零した。
遠くから蜜柑の花の香りがする。時間差で慈兵衛さんがあーと声をだした。
「……やっぱ駄目でえ! このおかっぱ、何かこう小学校くらいの記憶が蘇ってきちまって」
「ちょっと声でか! 僕いませっかく感傷に浸ってたのに」
葵は呆れて慈兵衛さんの太い腕を押した。
急激に襲いくるノスタルジーに思わず目頭をおさえる慈兵衛さん。今度はお園さんが呆れ顔で溜め息をついた。
「アンタいつを思い出してんだい。男がめそめそしやがって! ったくジジイだねえ」
お園さんはぱつんと揃った毛先に仕上げの鋏を入れながら、鼻声で慈兵衛さんを詰った。やわらかな癖毛がはらはらと庭に散った。
「てやんでえ! おめえも五十路に入りゃ俺の気持ちが痛てえほど分からあ」
慈兵衛さんは涙目でお園さんを一睨した。
「……五十か。慈兵衛さんもうそんな年でしたっけ。見た目がお若いから、いまいちピンときてません」
「ケッ、誰が何言ってやがる」
慈兵衛さんは僕の頬を大きな手でぎゅうと一掴みにした。
「おめえこそ、そのツラで三十路なやつがあるかよ。お園にしたってそうだが、この屋敷はなんかおかしいぜ……おい恭、おめえ今日でいくつんなった?」
「二十三」
恭はトパアズの様な目に遠くの雲を捕らえたまま静かに呟いた。小夜さんは恭を見上げ、うんと優しい声で話しかけた。
「今夜はお祝いしましょう。お赤飯と、恭の好きなものを用意して。何が食べたい?」
恭はゆっくりと栗色の睫毛を伏せ彼女を見遣ると、
「焼き魚」
と素気無く答えた。そしてそれぎり何も言わなかった。
恭の誕生日は養父である長崎の司祭が役所と交わした書類の中で生まれた。本当の誕生日は、誰も知らない。いつどこで生まれたのかも分からない。薔薇窓から茜さす夕暮れに教会の隅に捨てられていた赤子。一片の書置きもなく捨て置かれた理由は、銀杏色の髪と瞳が教えてくれた。恭が自らを捨て猫の様に認めた日、それが二十三年前の今日であった。
「恭」
榛色の瞳が僕を見下ろす。
この名前は司祭がつけたもの。恭は七歳で家を出るまで、ただの一度もその人をお父さんとは呼ばなかった。その字に叛くように腰高で大胆な青年に育った。それが僕は悲しくて、けれどもなぜか少しだけ胸が空いた。
「誕生日は喜ぶものだよ。僕なら毎年美味しいものを食べさせて、お前が此処に存在することを神様に感謝する。──たとえ相手が猫だったとしても」
さわさわと透間の西陽が揺れた。恭は黙って僕を見据えたまま、翳る青空を背負い立ち尽くした。
「お前、本当は何が食べたい?」
恭は少し俯いて、
「……白くてでけえケーキ」
と答えた。むかし恭と小夜さんに読んでやった絵本を思い出す。僕は分かったと応えた。
遠くから駆動音が聴こえる。それは次第に近づき、皆一様に顔を上げた。
「なに、なに?」
葵が身構えながら迎え出る。黒いオートバイに偽紅色の髪。孔雀緑の羽織の袖がバタバタはためくのが見えた。
「あ! 鈴鹿鸚助だ」
坊ちゃんはニッと歯を見せ大きく手を振った。
「わあ朝日ちゃーん! と、おい栗毛ー! おまさん誕生日らしいのー! 旦さんから贈りもんやき受け取れい!」
鸚助先生は半弧を描くようにブレーキをかけエンジンを切り、オートバイをよいしょと降りた。それからぼさぼさに乱れた半結いの紅い髪をかき上げ大きく息を吐いた。
「はー、慣れん運転した!」
「何だよ手ぶらじゃねえか。寝ぼけてんのか鸚助」
「べこのかあ! こじゃんと重いもん担いで来らるうか! あと先生をつけんか先生を!」
鸚助先生はエンジンを切りオートバイを降りると、パンパンと革張りの座面を叩いた。
「伝言『お誕生日おめでとうございます。僕のお古ですみません』とよ」
「マブかよ。すっげ」
恭はケラケラ笑った。
「あいつ、一昨日は何にも言わなかったのに。これ何度か乗った事あるけど、確か買ってすぐ仕事忙しくなっちまって殆ど乗ってねえはず。いいのかね」
外国製の車体をしげしげと眺める恭の肩を掴み、坊ちゃんがキラキラした目で問いかけた。
「いいなあ恭。俺ちょっと乗ってみて良い?」
「いいすよ」
坊ちゃんは意気揚々とドレスの裾をたくし上げた。目のやり場に困るようなハイヒールと黒いタイツの脹脛。鸚助先生は、おーっと歓声を上げながら体を大きく傾けた。
ガサツにオートバイに跨った坊ちゃんは小さく首を傾げた。長い髪をパッと後ろに払いながら恭に振り返る。
「柊二、これ着物で乗ってたのか? 難しいだろ」
「や、着物ん時は後ろ横乗りで。俺が前乗って」
「へーいいなあ、青春」
「……青春?」
眼鏡のつるをつまむ僕を坊ちゃんが見下した。
「良い子ちゃんには分かんねえ青春!」
「はあ」
小馬鹿にされているのになぜか不思議と悔しくはなかった。
「けんどよ、まさか誕生祝いがオートバイとは。げに高かろうが」
「そうなのか」
「そうなが!」
鸚助先生はバシッと恭の腕を叩いた。
「はあ、猫に小判か。こんっな大層なもんを誕生日なんぞで……何じゃ、おんしらデキちゅうがか?」
「てやんでえ下衆野郎が。コイツで引き回すぞ」
僕は知っている。恭がその手の冗談を絶対許さないことを──以前の恋文騒動の極道は今頃どうしているのだろう。小夜さんと目が合う。きっと僕らはいま同じ事柄を回顧した。
「えかったのう、お小夜ちゃん。良い足が出来て」
鸚助先生の言葉に小夜さんは嬉しそうに頷いた。
***
奇しくもこの日、停泊先の旅館に着いた霧島少尉は、小夜さんからの手紙を受け取った。
各地には水交社(海軍省が営む、軍人の保養や親睦を目的とする会社)の経営する士官や高等文官のための宿泊施設やレストランがあり、下士官以下とは分泊することになっていた。時刻は午後五時過ぎ、初夏の夕空はまだ明るく暮れ泥む頃だった。
「こんにちは女将さん。また二週間ほどよろしくお願い致します!」
少尉は軍帽の庇を指で挟むスマートな敬礼をした。
「ええ、いつもご贔屓にありがとうございます。そういえば夕方の便で霧島少尉様にお手紙が届いていましたよ。後でまとめて鞍馬さんにお渡ししようかと思っていたんですけれど、もうここで宜しいかしら?」
「もちろんです!」
少尉は愛らしい八重歯をのぞかせ、向日葵の様に笑った。
女将はいくらかの手紙を手繰り、その中から若草色の封筒を差し出した。可愛らしい白詰草の模様に少尉の軍服の胸が躍る。再び女将さんに敬礼すると少尉は弾かれたように踵を返し、客室へと続く階段を二段飛ばしに駆け上がった。
今回は日本近海を一周するような航海演習で、どういう訳か少尉は小夜さんに会えない時間を利用して海兵学校時代の話を原稿用紙に書き溜め、停泊先から送っていた。『江田島わんわん物語』、絵本のような題名はおそらく小夜さんのセンスだろう。
婚約のこの字も出ないまま手紙のやり取りは連綿と続いており、この二人は一体何をしているのだろうかと思わないではない──ないのだが、わんわん物語……これがなかなか読ませる。小夜さんの読後はわれ先にと皆が客間に集まり押し合いへし合い読み耽った。
辛かったであろう体験記、それを呑気に明るく滑稽に描いた作風に著者の性格がよく出ている。あれほど戦争に向かない性格はない。もう軍人なんか止して小説家になればいいのにと僕は思った。
「霧島、手紙か?」
「あっ!」
同階に設けられた談話室から長門中尉が顔をのぞかせた。彼は少尉の海兵時代の同期で親友。しゅっとした外見のエリート将校で、前述の小説の主要人物のひとりでもあった。
「お小夜ちゃんか」
「だからお小夜ちゃんはやめろ! 自分だってまだ」
「えー、まだ呼べてないのか。どん亀も大概にしろよ純情馬鹿」
長門中尉はけらけらと笑った。
「開けてみようぜ」
「なっ、それは今から部屋に帰って──」
「いいからいいから」
この長門中尉、恭の様な煽り方をする。少尉はしばしば恭を親友に似ていると言っていたが、恐らく彼を指してのものと思われる。少尉は我慢ならずその場で短剣を抜き手紙の封を切った。
思わず緩む口元を引き締めながら読み進める。嬉しさいっぱいの友人の横顔を、中尉は和やかな面持ちで見守った。
便箋の二枚目に進んだ頃、ふいに少尉の瞳が大きく揺れる。精悍な顔は悲し気に翳り、真剣に、次第に深刻に苦しい息をついた。
「──どうした。何か良くない報らせか」
「……いや。何でも、ない」
少尉は嶮しい顔で目を逸らした。長い付き合いである中尉はこの顔の意味を知っている。初めて自分に対して嘘をついているということを。
「──体調、悪そうだな。お前今日はもう休めよ」
「でも」
「命令だ、霧島少尉。鹿島に業務指示を出す。今日は休め、いいな」
「──了解」
少尉は帽子の庇を下げて唇を噛み、上官に背を向けた。
第8話 清水の舞台
『逢いたい。私は、貴女に、今すぐ、逢いたい』
少尉の文字は乱れていた。句点に見える点の何れかは恐らく不慮で落ちたインクだ。平素より筆圧の高い男らしい字を書く人ではあったが、今回はいつもに増して勢いを感じる。荒々しいと言ってもいい。文言それ以上に文字に書き手の表情が現れた切実な手紙──小夜さんは白い指を唇に当て眉を顰めた。
「……難しい顔をして。どうかしましたか」
「少尉様、来週東京にお戻りになるんですって。でも二ヶ月もしたら、今度は世界周航に出られるって……ブラジル独立一〇〇年祭記念観艦式に出席とかで」
「全く……なぜあの方はいつも物事をややこしくなさるんですかね」
小夜さんは呆気にとられて手紙を置いた。
「神様に」
「……遊ばれてますね」
僕と小夜さんは困り顔を突き合わせて苦笑した。
小夜さんは僕が見ているその前で花柄の便箋を広げ、『私もです』とさらさらペンを滑らせた。そして『会うのはこれで、一旦最後になります』とも。送り先には少尉のご実家の住所を書いた。
二人はきっと海へゆく。夏前の海でひとたびのさよならをする。僕の与り知らない逢瀬を過ごしたら、あとの運命は神様の言う通り。
赤いカチューシャの髪が顎の近くで揺れる。少し痩せた横顔はいつもより白く、すこしだけ大人びた様に霞んだ。
***
──コンコン、コンコン、コンコン。
時刻は午後十一時。独特のノックで相手を悟り仕事の手を止めた。
「どうした。こんな夜中に」
「飲もうぜ。中入れて」
「……いいけど。お前、もう飲んでるのか」
恭は酒くさい息を吐きながら僕を見下ろした。榛色の目が座っている。ザルなのに、今日は酩酊して見える。何かがおかしい。
「いいだろ別に。それより今日、水銀さんに話しておきたい事があって」
「何、あらたまって」
「入るぞ」
「ちょっと」
恭はドアを開けるなりずかずか上がり込み、どっかとソファに腰をおろした。長い足を組み、懐手に仏頂面で酒と肴を待っている。僕は買い置きの酒と、お茶請けに貰った糠漬けを皿に取り、飼い猫に餌でもやるようにとんと差し出した。
「……それで、話というのは」
「単刀直入に言う。俺さ、旦那さんの──」
──僕は一瞬、恭が何を言っているのか理解出来なかった。音がしない。活動寫眞のような恭の唇の動きを追いかける。ただ淡々と畳まれてゆくように、もう覆らない事実と情報だけが処理されてゆく。琥珀の様な二つの目が心臓を打つ。
(待ってくれ、僕は──)
僕は立ち上がり恭の頬を思いきり平手で打った。恭は珍しくぽかんと口を開け、次第に傷心とも虚無ともつかない顔で僕を見上げた。年の離れた兄弟分、喧嘩などただの一度もしたことはなかった。でも僕は、初めて恭に手をあげた。掌よりも胸が痛かった。
恭はおもむろに立ち上がり、仏頂面のまま僕の顔目掛けて大きな右手を振りかぶった。思わず目を瞑る。けれど直前で僕の髪に僅かに触れた長い指は、其処から少しも動こうとはしなかった。恐る恐る目を開くその瞬間を待ち構えていたかのように、恭は僕の着物の胸倉を掴み、足が浮くほど吊り上げた。
「……っ、何で、打たない。やり返せよ」
「いや顎、外れちまうんじゃねえかと思って」
「手加減するなよこんな時に……」
弟分にあまりに見くびられ、僕は心底自分が情けなくなった。恭は何も言わずに僕を下ろした。少し咳き込むうちにすっかり頭も冷えて、二人とも暫し黙り込んだ。
「……ねえ、どうして先に相談しなかった。僕の目を見て、ちゃんと答えなさい」
「言ったら止めただろ」
「当たり前だろう!」
恭は組んだ足に頬杖をつき、酒臭い溜め息を吐いた。
「──いいか、一度しか言わねえ。これが最善だったんだ。朝日さんがこのまま一生帰んなくても、小夜が嫁にいっちまっても、これなら旦那さんは安心するだろ。今はあんなでも旦那さんには恩義がある。事のついでに水銀さんを自由にするって条件で契約したんだよ。別にあんたのために俺が犠牲になるとか大袈裟な話じゃねえ。たまたま利害が一致した、それだけだ」
「それだけって……じゃあお前は、お前の人生はどうなる」
「いいんだよ俺のこととか。どうせやりたいこともねえ、行くあてもねえ、これで変わることなんかほとんどありゃしねえんだから」
「小夜さんは」
恭は押し黙った。
「僕はてっきり、お前は小夜さんのことを──いや、実際にどうかはきかないけど。でももしそうだったとしたら、こんなことあまりに酷だろう」
「何で? 別に本気でやろうと思や結婚出来んだろ。俺ァこれでも法学部だからな。その辺ぬかりねえ」
「それはそうだけど……ええ……でもそれ、何なんだよそれは」
困りきって眼鏡を上げる僕を、猫の様な目が笑った。
「冗談だって。今更そんな気さらさらねえから安心しな」
恭は僕にだけは嘘を吐かないと言った。僕はそれを信じて今日までやってきた。だから盲目してこの言葉を信じる。でも普通は信じられない、こんな滅茶苦茶は。
「とにかくもう、四の五の言うな。これでいいんだ。どうせ元々インチキみてえな戸籍だし。俺があんたらにしてやれることなんてこれくらいしか思いつかねえ」
恭は少し俯いて目を閉じ笑った。僕は顔を覆うように眼鏡を押し上げた。
「……そんなにつらい選択をしなくたって、お前は此処に居て良かったんだよ」
僕は思わず恭の頭を抱きしめた。恭はじっと大人しく両腕を垂らし、されるが儘にしていた。こんな時その腕を如何したらよいか、青年の歳になっても未だに分からなかった。
「俺は──」
恭は両手で僕の顔をばちんと挟み、不愛想な顔をした。
「つらいとかねえから。別に」
相変わらず可愛くないことを言って僕に背き、シャツの手首で一度だけピッと目元を拭った。
「……でも、小夜だけは何とかしてやってくれよ。それが終わったら、もうどこにでも好きなとこ行っていいからさ」
「……僕が居なくなったら、お前はどうするつもりなんだ」
「そんなことまで考えてられっかよ。飛んでから決めら」
恭は猪口を僕の鼻先につきつけ飲めと煽った。僕は手近な湯呑にだくだくと酒を注ぎ、一息に飲み干した。
***
翌朝、恭は昼前まで診療所のソファに沈んでいた。目覚めて一番に『小夜は』と尋ねる。僕は若干痺れた頭のまま、まだ二階にいるよと教えた。
恭は高い背を少し丸めながら階段を昇る。足音を見送ってふと時計を見た。秒針はせかせかと歩き、時刻はあと十五分ほどで正午になるところだった。
(──少し早いけど、いいか)
僕は昼食を摂りに書生長屋へ行くことにした。
「恭? どうしたの急に」
「……あのさ、話があって。お前にも」
「お前にも?」
「水銀さんには昨日話した。皆にも言う。お前に言ったあとで」
恭は小夜さんの手を取った。
「……ああ、面倒くせえ! 踊れ。俺と」
「えっ、でも……」
小夜さんは在る日の恭と僕を回想した。あの日、恭が上手く踊れていたら、色々こうはならなかった筈だった。
「話しにくいんだよ止まってっと。とりあえず見ろって、練習したんだから。足を踏んだら殴っていいし苦しくなったら蹴っていい」
「そんなことはしないけど……分かったわ。着物で上手く踊れるかしら」
「おう。転ぶなよ」
小夜さんは一度恭の手を離れ、奥様の蓄音機に歩み寄った。
「ピアノワルツしかない」
「何でもいい、三拍子なら。俺そういうのよく分かんねえから」
小夜さんは小さく笑いながら白い指で、ショパン『ワルツ第九番』に針を落とした。
──恭は悔しかったらしい。大切な話を前にひとつ、どうしてもこの事柄を消化しておきたかった。達者でないにしろ、僕がもう舞踏会に必要ないことを先んじて小夜さんに証明する必要があった。昨夜の練習で僕の足はぼろぼろになったけれど、それでもこの負けず嫌いのわからずやのために身を粉にし、ほぼほぼ一晩ダンスに付き合った。恭は一生懸命だった。誰も見ていない部屋の中、書生と女学生が別れのワルツを踊っている。
「踊れてる。すごい、どうやったの?」
「……お医者の先生の、お仕込みが良かったんで」
恭は顔をプイとそむけた。幾度となくつないだ手が、初めて触れるようにぎこちなくなった。
とはいえ雰囲気も何もない、ただ予定調和の軌跡をなぞるだけ。油の切れたゼンマイ仕掛けの味気ないダンスが続く。小夜さんは時折不思議そうに恭の顔を見上げた。端正な口元が瞳の前で開いた。
「俺さ、旦那さんの養子になったんだ」
「……?」
「お前の兄貴になった」
「……ちょっと、待って」
「止まるな」
恭は小夜さんの体を引き離しくるりと回らせた。
「理由は色々あんだけど、俺自身のためにそうしたんだ。そうしたくて」
「でも! そんな大事な事、どうして先に言ってくれなかったの……!」
小夜さんは揺れる瞳で物を言った。振袖がくるりと花開く。
「言ったら止めるだろ」
「当たり前でしょ! だって貴方──」
「だって何だよ」
恭は小夜さんを一度引き寄せ、なおも話し続けた。
「──ちゃんと水銀さんにいっぱい叱られたから、もう責めんな。俺が言いたかったのは、家のことはもう何も心配すんなって事だけだ。悲観すんな、別に何も変わりゃしねえんだから」
ワルツの終わりと共に、恭は小夜さんにゆっくりとお辞儀をした。
「話はこれでしめえだ。じゃあな」
小夜さんはポカンとしたままベッドに腰かけた。思えば恭は昔からこういう男だった。一番合理的な道筋を勝手に決めて勝手に行ってしまう。そのことも含めて今まで通り、兄妹の様な関係が本物になって、ただこれからも続いてゆくだけの──
「……いなくなっちゃった。幼馴染」
恭はただの一度も小夜さんの足を踏まなかった。
第9話 浜昼顔の心中
海へ来た。出会った日を除いたら、初めて彼女と待ち合わせをしなかった。待ち合わせをしなくてもランデヴーと呼んでいいのだろうか。ふとそんなことを思いながら、過ぎる景色に視線を迷わせた。いつもの車内に、彼女がいる。
「小夜さん、ご気分はいかがですか?」
「大丈夫です。むしろ今日は良いくらい」
「それはよかった。もう少しで着きます」
「はい」
小夜さんは切りたての髪を耳に掛けて笑った。
(──せっかく久しぶりにお会いできたのに、どんな話をすればいいか分からない。こんな時、どんな顔をすれば)
昨日はほとんど眠れなかった。海へと向かう間じゅう私はただ、ニコニコと笑っていた。小夜さんも笑っていた。きっとこんな私に何と声を掛けたらよいか、分からなかったのだと思う。
「わあ、すごい」
手を取る私の肩越しに見えた、初めての海に感嘆する。海に来て、ようやく私も少し胸が空いた。重力にゆれる青い水面。梅雨時のほんの一日晴れた日の夕方、真っ白な浜辺には誰もいなかった。
本当はもっと先の季節に、カラッと澄んだ黄昏にお連れしたかった。彼女が似合うと褒めてくれた、白い軍服を着て会いたかった。紺色の袖がやけに重々しく見えた。
「よかった、お気に召して! ──あの、髪、切られたのですね」
小夜さんは頷いて、すっと切ないような顔をした。
「ちょっと、子供っぽくなってしまって……でもお願いです。可愛いと、言って」
私は小夜さんの顔を正面から見て、それからしっかりとした口調で答えた。
「自分が貴女を褒めないことがありましょうか。可愛いに決まっています! 人生で見てきた短髪の中で一等賞です」
小夜さんは安心したように顔を上げた。
「……信州には、お園さんを連れてゆけないから。自分で髪、出来なくて」
「そっか。寂しいですね、お互い」
「私の髪を抱いて泣いていました。私もすこし、泣きました」
私は暫く小夜さんの横顔を見つめ、もう一度そっかと呟いた。
「海、入りませんか。お連れします」
「でも……」
私はおもむろに上着と靴を脱ぎ小夜さんを抱き上げた。どこまでも愛しい小さな体は、羽のように軽かった。
白い砂浜に残る大きな足跡が海へと向かう。一度は押し寄せた言葉にならない感情は、私の足をすり抜けて、ゆっくりと海へ還っていった。前を向いたまま少しずつ、迷いなく、真っ直ぐに歩いてゆく。
膝が冷たくひたる頃、ふと立ち止まり、腕の中にある最愛の瞳を見つめた。海の前では堂々と振舞える。自分のどこにこんな行動力があったものかと驚いた。
「綺麗。夕陽はああやって海に帰るのですね」
小夜さんは確かめるように私の顔を見上げた。眩しそうに目を細める。顔はきっと逆光で見えない。八重歯を見せて笑う。見えなくてもいい、笑顔を感じて欲しかった。
「もしも貴女が望むなら、自分はどこへだってお供致します。たとえそれが、深い海の底であろうとも」
「少尉様……」
結核がどの程度進んでいるのか、分からない。小夜さんがどれほど自分の未来を悲観しているのか、あるいはまだ希望をもって向き合えているのか、そんなことすら知らなかった。だからもし、ここで私と死んでほしいなんて言われたら、それでも良いと思っていた。このまま進めと言われたら、どこまでだって歩く覚悟があった。
けれども小夜さんは心中はおろか、外国に行かないでとすらも言わなかった。私は何も、求められはしなかった。
「──でも今日は、もう少し話していたいのです。もう少し、もう少しと言いながら、時間の許す限りずっとです」
私は踵を返しざぶざぶと浜辺に向かって走り出した。小夜さんは私の首に縋りついて笑った。冷たい指先が襟足に触れる。白砂に咲く浜昼顔の隣に小夜さんを座らせると、夕凪に熱を奪われた、か弱い胸が咳をした。ハンカチを口元に当てる仕草があまりに美しく、悲しかった。私はきゅっと唇を噛み、また一段と華奢になったその肩を濃紺の軍服で包んだ。
はっきりと懇願する。高く聳える感情の垣根を飛び越えるために。
「小夜さん。どうか名前で呼んでください。今日だけは」
「はい──誠さん」
小夜さんは私の硬い髪にそっと触れた。互いに遠くへ行ってしまうことを意味する、この切りたての髪を慈しむように。
何かは分からない、でも小夜さんの様子が今までとは違う。一等星の丸い瞳が、私を見ている。私だけを。一歩ごと花の咲く明るい階段を昇るように、またひとつ、またひとつ貴女のことを好きになる。枯れることなき恋慕を、痛いくらいに自覚した。
「好きです。ずっと前から、貴女だけを」
今更何を言っているのだろう。小夜さんだって分かっていたはずだ。鹿鳴館で初めてお会いした先生にすら、一目で分かった恋心。禮子さんにもお屋敷の人々にも、びっくりするほどばれていた。私と彼女の事を知る誰もが気づいて笑うほど、真っ向勝負の恋だった。
潮騒に消え入りそうなか細い答えは、たちまち私の色を奪った。
「──誠さん。その気持ちは、きっと恋ではありません。私の病気が分かって、外国へ行くことが決まって、もしかしたらもう、一生会えなくなるかもしれないと思ったから寂しいのです……それだけのことです」
──どうして、どうしてそんなに寂しいことを仰るのですか。やっとこうしてお会いできたのに。ねえ、小夜さん。小夜さん……
私はたまらず彼女を掻き抱いた。小さな体はすっぽりとこの腕に収まり、子うさぎのように震えていた。離したくない。離れたくない。もう、どうしようもなく愛しくて。
恋することを苦しいと感じたのは初めてだ。私にとって、この恋はいつだって明るく楽しいものだった。会えない間に好きになり、会ってはもっと好きになり。
私は小夜さんの髪を必死に抱き寄せた。花のような香りがする。拒む両手が冷たくて、弱々しい。
波音がゆるやかに往き来する。こうする間に刻一刻、星の砂に日が落ちる。
「こんなの、だめ。感染って」
「構いません」
──構わないのです。
ひとつ、ふたつと咳をする。背ける白い顔、花の萎れるような細いうなじ──愛しい人が窶れてゆく。切なくて、苦しくて、胸が潰れてしまいそうだ。
私は大きく優しい犬がそうするように彼女の肩に顔をうずめ、寂しさの限りに囁いた。瞳を見ては言えない言葉を。
「……自分は確かに、小夜さんを愛しています。貴女にお会いしたあの日からずっと、子供の頃に初めて恋をした時と、同じ道を歩いている。だから解る。これは恋です。そうでなければ、この感情を説明できる言葉など、この世にありはしないのです」
「誠さん……」
小夜さんはそれ以上、私の情熱を諫めることが出来なかった。熱い掌で微かに骨の浮いた背中を、潮風に傷む髪をいたわる。他に何もなく、穏やかな波が綺麗に砂を渫う音だけがそこに在った。小さくても良い、他愛ないことでもいい。何かひとつ、次に叶える約束が欲しかった。
「小夜さん、鹿鳴館での約束を覚えておいでですか」
濡れた睫毛を白手袋の親指で優しく拭う。優しく、優しくしたかった。
「もうすっかりお忘れだとは思うのですが、実は結局一度も一緒にアイスクリームを食べられていないのです。可愛らしいお店を見つけたのですが、男一人では敷居が高くて。いつかまた逢えた時には、二人で出かけましょう。自分はモダンボーイを真似て、小夜さんはモダンガールを装って──人前で手を繋いだら、きっと楽しい一日になる」
小夜さんはきょとんとした後に、はいと答えて微笑った。
ふと視線が重なる。私は両手を小夜さんの肩に恐る恐る添えた。ワルツを踊る時とは違う、不器用な手付き。不安と期待の入り混じったような、見た事のない表情。私が目をそっと伏せてゆく姿を、小夜さんがじっと見つめている。
鼻の先が触れそうな距離まで近付いた時、私は急に八重歯を見せて笑った。
「……誠さん?」
「……や、やっぱり駄目だ。出来ない。もう、あまりにお可愛らしくて──足が、攣りました……」
小夜さんは慰めるように私の頭を撫で、その後は心ゆくまでお腹を抱えて笑った。出来る事なら永久にその無邪気な笑い顔を見ていたかった。おかしくて情けなくて、もういますぐ逃げ出したかったけれども。
さざ波に熱が引いてゆく。暮れ色に染まる水平線の輝きは刻一刻と色褪せて、小夜さんは切ないような溜め息をついた。
「誠さん、お手を」
私は反射的に可憐な指に手を重ねた。忠犬のような仕草に儚げな顔が綻ぶ。小夜さんはそれからそっとブレスレットを外し、白手袋に握らせた。
「航海のお守りです。どうかお元気で」
「こんな大切なものを……駄目です、だってこれはお母様の」
「大切な物だから持っていてほしいの、貴方に。ちゃんと持って、元気に帰って来てください。待っていますから」
約束という言葉が浮かんで消えた。私は一度だけすんと鼻を啜り、持ちうる限りの凛々しさで敬礼した。
「──必ず、戻ってまいります。約束します。その時まだ小夜さんが東京に戻っておられなくとも……どちらに居られようとも、きっときっとお迎えに上がります。その時は自分と、自分、と──」
私は軍帽の庇を下げ目元を隠して背を向けた。
怖かった。もう一度断られてしまったら、次こそは折れてしまうかもしれない。あれだけ必死に追いかけてきたのに、土壇場になってこんなにも返事をもらうことが怖い。
小夜さんは私の肩越しに遠くの海を見た。初夏の海はどこまでも優しく落日を愛おしむ。この陽が沈んだら、さよならを言われてしまうような気がした。消えてしまいそうな彼女の優しい微笑みに、信じがたいほど臆している。
「ああ、どきどきした。誠さんのいくじなし」
白い手が軍服の襟を合わせる。右手は別れの淋しさと切なさに小さく震えていた。私は振り返り、八重歯を見せて情けなく笑った。
「そんなに可愛く悪口を言われたら……もうぐうの音もでません」
──駄目だ、小夜さんが行ってしまう。手の届かない遠いところに。
考えていることが分かる。小夜さんはきっと、もう一度私を遠ざける。
良いのです。もしずっと療養が必要でも、子供を産めなくても……この先それ以上の、悲しい出来事が予見されたとしても。それでもどうか、どうかただ、貴女のお側にいさせてください。ずっと、ずっと。
たったそれだけの台詞を、どうして言えない。それでも男か。
ぽろりと零れたひとつぶが、珊瑚の浜に咲く花を切なげに撫でた。
「誠さん、本当にありがとうございました。貴方に出会えて、楽しかった」
──離れる事を望むなら、貴女がそれで救われるのなら。
「お茶をしながら色んな話をして、たくさんお手紙を書いて。こんなに長くお手紙のやりとりをしたの、貴方が初めてです。初めてだったんですよ」
私は貴女のためなら何でもする。名前を捨てる、命も捨てる。
「待っていますなんて言ったけど、本当は不安なんです。明日をも知れない約束で、大切な貴方を縛りたくない。それが私の、一番の望みです」
それが一番の、本当のお望みなのですか。私が素直にその言葉を信じて離れたら、小夜さんは幸せになられるのですか。
「たくさん愛してくださって、ありがとうございました。もう充分です。だからこれで、最後に」
『また会いたい』『もう会わない』どちらが本当の気持ちだと思えばいい。
私は預かった形見の品を見詰め、決心した。告白はこれで最後。最後にしますからと──
「──おっしゃるとおり、自分は意気地のない男です。小夜さんのことを世界で一番愛しているのに、なぜかこういつも間が悪くて……何と言いいますかもう、運も悪いし。惨めで、格好悪くて、恋する間じゅうずっとずっと神様に見放されていた、どうしようもないいくじなし」
私は苦しい笑みを浮かべながら軍帽を脱ぎ、溜め息をついた。
それからそっと一等賞の短髪にそれをかぶせ、涙にゆれる大きな瞳を覆い隠した。
「……でしたね。結婚してください!」
私は小さな体に被さるように彼女を抱きしめた。細い指がシャツの背中を握る。
はいと言うまで離さない。離さない、絶対に。
最終話 モガの葬列
「行くぞ」
「はい。恭お兄様」
恭はキュッと眉根に皺を寄せイーッと歯を見せた。
「やめろよ気持ち悪ぃ。霧島少尉夫人って呼ぶぞ」
「ふふっ、ちゃんと帰って来られたらね」
「帰って来るよ。お前は」
オートバイを準備しながら素気無く答える恭を、小夜さんは名残惜しそうに見つめた。
少尉が日本を発って一ヶ月、季節は夏の盛りであった。今度は小夜さんが東京を出て、信州の山手にある療養所へ旅立つ。
昨夜は旦那様がお戻りになり、夕暮れ時に小夜さんと何か熱心に話をされていた。おおかた恭か少尉のことだろう。小夜さんは珍しく旦那様の目を見て会話をしていた。旦那様は小夜さんの方は見ず、けれども横に座っていた。傍目には親子と言えば親子、他人と言えば他人に見える距離だった。
小夜さんは旦那様に微笑んで、『二人のことをお願いします』と答えた。見送りは、互いに遠慮した。
「悪いな水銀さん。荷物頼む」
「うん。くれぐれも気をつけて」
恭は小夜さんをオートバイの後ろに乗せエンジンをかけた。人より長い手足がなるほど様になっていた。鉄馬の走り去るその後を、青青しい落ち葉がくるくると舞い縋った。
「旦那さん、どちらまで」
「……東京駅までお願いします。ゆっくりで結構です」
僕は小夜さんの大きな荷物を相棒に、『出してください』と車夫に声を掛けた。
恭と小夜さんは何を話したのだろう。──いや、何も話さなかったか。この二人はいつもそうだった。同じ部屋に居ても大抵別のことをしていたし、学校帰りに待ち合わせても、間に誰かがいなければ碌に話をしなかった。
おかしな関係だなと思う。けれども二人は駅までめいっぱい回り道をする。ほら思った通り。人の引く車でゆっくり着いた僕よりも、幾らか遅れてやってきた。照度の低い、秋みたいな顔をした冷夏。ラムネが今日も売れている。
「先生、お待たせしました」
その声に僕は懐中時計を袂に仕舞った。オートバイを降りた小夜さんは、一際晴れやかな呼吸をした。
「小夜さん、気分は悪くないですか」
「はい、大丈夫です。ああ楽しかった。東京もしばらく見納めね。ありがとう、恭」
「うん」
恭は子供のように素直な返事をした。
「じゃあ、俺帰るわ」
「見送らないのか。せっかく駅まで来たのに」
「いいよ俺は」
恭は軽く周囲を見渡して、じゃあなとオートバイに跨った。
「恭!」
黙ってエンジンをかけた恭は、小夜さんの声に顔をあげた。
「いってきます」
「達者でな。お嬢様」
言い終わるが早いか、鉄馬の王子様は行ってしまった。
入れ違い、背後からおーいと声を掛ける一団があった。どうやったって目立ってしまうモダンガール風の坊ちゃん、お園さん、葵に慈兵衛さん、そして鸚助先生だった。
「みんな来てくれたの。そんな、見送りなんて良かったのに」
「はいはい嬉しいくせに。ほらよ餞別」
坊ちゃんは小指ですっと自分の唇を指し笑った。
「俺と揃いの新色だ」
「……小夜さんには少し派手なんじゃないですか」
僕は眼鏡のつるを摘まみ不満顔をした。
「野郎が化粧に口出すな。いっこも分かってねえくせに」
なーっと小夜さん、お園さんに笑いかける。じゃあ貴方は何なんだと思うが、口に出すのは自重した。
「いいかお小夜よ。療養中もちゃーんと可愛くするんだぜ。病は気から、だからな」
坊ちゃんは花柄の包みをすっと差し出した。
「はい、ありがとうございます……あれ? その髪」
「ふふ、気づいたな」
坊ちゃんは得意げに帽子を脱いだ。てっきり隠してあるものだと思っていた髪は、小夜さんよりも短いボッブヘアに綺麗に切り揃えられていた。
「いやーお前の短髪いいなあって思って。真似しちまった」
「お姉様が、私を?」
きょとんとする小夜さんに葵が笑いかけた。
「坊ちゃんだけと違いますよ。ねっ」
「私は坊ちゃんの真似」
何とまあお園さんまでもが短髪に。完璧な輪郭に沿うような、パーマネントの黒髪が艶やかに揺れた。
「別嬪さんが揃いも揃って夏仕様。毛断嬢が三人もいなさるぜ」
慈兵衛さんはからからと笑った。
「……慈兵衛さん、勘定間違ってますよ。一人は除外です」
「何だよー」
僕の指摘に坊ちゃんはぶーっと口を尖らせた。
「しかし婿殿に会うのはまだ先か。早く帰ってこいよ。俺待ちきれねえからさ」
「はい。きっと良くなって」
ぎゅっと抱き合う兄妹を見て、一番余所者の鸚助先生がうんうんと頷いた。
──ここで未来の婿殿について少々。小夜さんは滞在先に着いてすぐ、先回りで待っていた分厚い手紙に一笑することとなる。差出人は『大日本帝国海軍 第一艦隊所属少尉 あなたの霧島誠』、『あなたの』の筆跡はまるで別人だった。こんな悪戯者は長門中尉しかいない。それを理解している小夜さんを、二人を、微笑ましいと僕は思う。
「送る朝日に抱かれるお小夜──朝と夜、麗しの姉妹かあ。えいのう浪漫じゃいかー」
「てやんでえ、ボンとお嬢は姉妹じゃなしに兄妹だろがい」
「軍曹あんた意外と細けえの。裸にせんなら女でええ、世に別嬪さんはひとりでも多い方がええに決まっちゅうがよ」
「あら驚いた。お前一応分かっちゃいたんだね、坊ちゃんの性別」
お園さんは扇のような睫毛を持ち上げ驚いた。
「いんや。今知ったきに震えが止まらん……!」
「ほんまに、口から生まれて来はったんですかね。鸚助先生は……」
涙目で歯を食いしばる鸚助先生を、葵がジトリと横目に見た。
「ふふん。参ったか鈴鹿鸚助」
坊ちゃんは手の甲でサッと髪を払って勝ち誇った。
「……化け物」
僕のぼやきは聞こえないか、聞く価値などないご様子であった。
「ところでお小夜、お前『新しい女』がどうのとか言ってたよな」
「ええ」
ふっと俯く視界に、履くのは二度目のハイヒイルが映り込んだ。
「……でもあなたの言う通り、結局何にもなれなかったわ。漠然と『お姉様みたいに綺麗でかっこいい女性になりたい、何にも縛られない自由な価値観を持っていたい』なんて言いながら」
小夜さんにとって今日の坊ちゃんは一段とまぶしかった。明るすぎて、眩んで、自分の中にあった小さな可能性は、すっかりしおれてしまったように感じられた。
「ふーん、別にいいと思うよ俺は。綺麗な綺麗な恋をして、まあ相手は違うけど吃驚するほど人の好い結婚相手も自分で見つけられたんだから。しかも御曹司。上出来だろ」
小夜さんは、んっと小さく唇を噛んだ。
「結局女は恋だとかそんな野暮言ってんじゃないぜ。お前の場合、自分の足で歩いて手に入ったもんがたまたまそうだったってだけで。そりゃ夢みたいなこと言いながらウロウロ歩くおぼこいお嬢様、若い男どもには可愛かったんだろうなあ~とは思うけど」
小夜さんは何とも言えない表情をして髪を触った。坊ちゃんは真面目な顔を傾けた。
「俺はお前のそういう、何者かになろうとジタバタ足掻いてる所が人を惹き付けたんであってほしいよ。自力で何かを成そうとしてる人間って、馬鹿に見えても可愛くなっちまうもんだ。成長成長」
やけに饒舌な兄君とすっかり聞き入る妹君を、皆が微笑ましそうに見守っていた。
「──やっぱり敵わないな、お姉様には」
「当然さ、俺は特別なんだから。だって女じゃねえんだもん。どんなに美しかろうが恰好良かろうが、女は女で男は男で自分は自分。だから真似しちゃだめだぜ。お前の色が死んじまう」
「……そうですよ。こんなに人に迷惑掛けるの、良くないと思う」
「うるせえなー宗介」
坊ちゃんは肘で僕の肩をつついた。ずれた眼鏡を正しながら小夜さんの目を真っ直ぐに見る。何も怖くない。僕は、自分の言葉にありったけの説得力を求めた。
「──小夜さん。貴女は酷い困難に見舞われても、今きちんと前を向いています。最初に思い描いていたような世間を動かす活躍はなくても、自分の意思で行きたいところへ行って、感じた心に従って……こんな時代に凄い事です。お嬢様なのにね」
小夜さんは口を真横に結んだままでうつむいた。
「元気になったら続きをしましょうか。療養中だって本や新聞は読めるのだし、出来る準備はきっとあります」
小夜さんはすっかり顔を手で覆い、人目も憚らずわんわん泣いた。僕はまるで駅で別れ話を切り出す年増の恋人のような構図になっている事に気づき、思わず癖っ毛を掻いた。
慈兵衛さんは大笑した。花などまるで似合わない、節くれだった大きな手で左頬の傷を覆った。
「あーその泣き方、久しぶりに見たな。むかしお嬢と恭が駅で迷子んなって──」
「ったく、隙あらば昔話。昔ァは男前だった軍曹さんもとんとジジイだよ」
お園さんは胸のつかえをとるように長い息を吐いた。
「てやんでえ。お前も大概とうが立ってんじゃねえか」
「何だい恭みてえな口ききやがって。女の外見馬鹿にしやがるとどうなるか思いしら──あれ、そういや恭は?」
「帰りました」
僕の答えにお園さんは『どら猫が』と舌打ちした。煙草を欲する左手がわきわきと動いた。
***
「──行けばよかったのに、恭さんも」
次々と発ってゆく汽車の追い風に、鴉の濡れ羽色をした髪が揺れる。白いワイシャツの肩を、コバルトブルーの翳が流れるように過った。
「だってお前が見送り来ねえとか言うから」
駅から少し離れた沿線に佇む長身の二人。都司くんは敷島の箱を白い手で玩びながら、鼻梁の秀でた横顔を見た。恭は琥珀色の眼差しを遠くに向けていた。日に透ける睫毛をゆっくりと瞬いて。
「後悔してないんですか、本当に」
「何が」
「何もかもですよ。養子になったのだって……事前に相談したんですか」
「それは」
「しないか。絶対止められますもんね」
都司くんは煙草の吸い口を小さく噛んで笑った。
「──跡目の心配なくなったら、旦那さん、えらく落ち着いてよ。そりゃ愛妻の死に目に会えねえほど必死に頑張ってた仕事だからな、って思ってたんだけど」
「うん」
「取り戻せないものっていうか……ああ、奥さんにも子供にも負い目はあったんだって、ふとした時に分かったんだよ。愛妻家の男やもめは地獄だな。旦那さんと水銀さんのことはまだちょっと分かんねえけど、小夜のことはとりあえず大丈夫んなったわ」
「そう」
都司くんは煙草に火を入れながら、切れ長の瞳を伏せた。
「しかし俺も抜けてたな。何でもっと早くにこうしなかったんだろ」
「そんな一生左右するような大きな選択を急にして、それもこんな大変な時に……烏丸家と、先生のためだけじゃないですよね」
薄い唇が生糸の様な煙を吐いた。立体感を増した入道雲に太陽が隠れる。都司くんは、蒼い影に霞むような白い顔を憂いげに傾けた。
「──僕に義理立てしたつもりですか。小夜ちゃんとは後にも先にも何にもないから、って」
「──ヘッ」
恭はニヤリと目を細めた。
解っていた。諦めると心に決めた都司くんにとって、小夜さんの結婚相手が誰であろうと構わないということを。──親友である、自分を除いては。
「あーなんか無性に鰻食いてえな。それも特上、腹ァ一杯んなるまでさ」
「……馬鹿だな。本当に馬鹿ですよ、貴方は」
後ろを向くワイシャツの撫で肩が観念したように上下した。
「泣くんかよ」
「……見ないでください。僕たぶん今、ひどい顔してるから」
都司くんはちょっかいの手を疎まし気に払うと、乱れた髪をよけ、そっと煙草の火を消した。
「お腹やぶれるくらい奢りますよ。今日だけは」
恭は満足そうに手を引いた。
「しかしあれだな、線路から遠いわ。こんなんじゃ二人とも顔までは見えねえかも」
「──二人?」
***
けたたましい発車のベルが鳴る。初老の駅員が、お乗りの方はお急ぎなさいとホームに声を掛けた。
皆にかわるがわる声を掛けられた小夜さんは、『いってきます』と白いレエスのハンカチを振って汽車に乗った。凛として振り返らず、宛ら出征の様であった。
「──行ってしまわれましたね」
僕は『あっ』と言って手元をみた。慈兵衛さんは笑いながら声を上げた。
「お前さん、荷物持ったまんまじゃねえか! 急げッ!」
背中を叩かれよろけながら、僕は汽車に飛び込んだ。
小夜さんは出入口近くの席、窓際の隅でちいさくなって座っていた。華奢な体を自分の腕で抱きしめ、唇をきゅっと結んでいた。それから僕の顔を見るなり、安心しきったしょぼしょぼの目を見張った。
「……しょぼくれてる」
「先生!」
僕は小夜さんの隣によいせとトランクを置いた。
「すみません僕、トランク渡すのを忘れてて」
──ガチャン。
振り返るとドアはすでに締まり、汽笛と同時に足元が揺らいだ。
「先生!」
僕は顔を覆うようにして、ずれた眼鏡を押し上げた。
「どうしましょう、汽車が……!」
「出ちゃいましたね」
小夜さんは向かい合って座る僕を、心底申し訳なさそうに見上げた。
「……すみません、大丈夫です。実は最初からついて行くつもりでした」
「えっ?」
小夜さんはぱちぱちと長い睫毛を瞬いた。
「小夜さん、僕は貴女が思うより本気で病気を治せると考えています。否、絶対に治すつもりです。あちらの病院でとりあえず半年ほど働いて、その間そばについてます。もう、そういうお話になってます」
思わず身を乗り出す小夜さんの肩を、僕はゆっくりと押し戻した。
「そんな大事な事、どうして何も言ってくれなかったんですか!」
「……言ったら止めるでしょう」
「恭みたいなこと言わないで! だけど、どうしてそこまで……」
──説得出来なければ、僕の役目は此処で終わる。
あの日うやむやになった感情を、はっきりと言葉にしておきたかった。今を逃したら挽回の機会は、たぶんもう無い。僕だって男だ。こんなか弱いお嬢様に泣かされたままでは、やっぱり寝覚めが悪かった。
「……奥様に頼まれたからではないですよ。だってずっと一緒にいたんですよその後の人生は。僕たちは家族ではないけど、限りなく家族みたいなものだった。幸せに生きて欲しいと願うくらいの情はあります。きちんと助けますから、その後は──真っ直ぐお嫁にいってください」
僕は背筋を伸ばし、顔を覆うようにして眼鏡を押し上げた。
「……変なの。恭が兄になったのに、ずっと貴方がお兄さんのままね」
「変な事ばっかりですよ、貴女の家族は」
「大丈夫なの? いままでのお仕事は」
「皆頑丈ですから。執事仕事は小夜さんに関する事柄が多かったですし、旦那様の補佐には恭がいます。帝大の卒業式を見られないのはちょっと残念でしたけどね。でもこんな機会もうないと思います……旦那様が、僕にこんなに長いお暇をくださるなんてことは」
「お父様──」
小夜さんは鈴のような目を見張った。
「知ってます。旦那様も、恭も」
──ガタン。電車が止まった。たちこめた蒸気が一吹きの涼風に晴れた。
両側の窓が一面の銀杏に紅葉に姿を変える。極彩色の車窓がステンドグラスのように三等車両の旅路を彩る。ロイド眼鏡に映り込む、飛んでは消える赤黄色。小夜さんの白い目元を色とりどりの残影が過ぎった。
「……夏なのに」
呆然と呟く僕。小夜さんは、ついついと窓の外を指差した。
「先生、あれ!」
リン、リン──
さやかに響く鈴の音。
窓の外、彩りを添える小道の向こうを、背の高い影が落ち葉を踏み割り近づいてくる。眼鏡を上げて注視する。長い小倉袴の足元がせわしげに交差するのが見えた。近づく。此方に向かってくる。学帽の庇を上げる、名前も知らない美しい誰か。みるみるうちに近づいて、とうとう窓のすぐそばまでやって来た。
「貴方も一緒に行きたいの? 帝大の狐さん」
「駄目です。お引き取りください」
此方に手を伸ばすそれに言い放ち、僕はぴしゃりと窓を下ろした。狐と呼ばれた青年はポツンと立ち尽くし、ひらひらと手を振った。
──発車のベルが鳴る。汽笛と共に車内は大きく傾いて、規則的なリズムでもって再び前進した。
「ちょっとかわいそう」
「あんなよく分からないもの、治療の邪魔です」
僕はパンパンと腕肩を叩いた。
「お別れを言いに来たのかな」
「……考えたって分かりませんよ。きっと黴菌みたいなものです。東京に置き去りにしましょう」
僕にはこれ以上、複雑に物を考える余裕などなかった。
「でもよかった、先生にも見えていて。ちょっと考えてしまいました。私、あとどのくらい──」
「経ったら戻れるんでしょうね、東京に。がんばりましょう」
おもむろに手荷物の中から別れの口紅を取り出した小夜さんは、こくんと頷いた。
次第に遠ざかる東京の街。天青。線路沿いに黄玉色の向日葵が零れるほどに咲いている。神社の鳥居を飲み込むように生い茂る大銀杏の葉は、まだまだ青かった。
小夜さんは『ご機嫌よう』と小さく手を振り、笑った。
ー完ー