第1話 暗闇坂の犬

※この記事は書籍「マリアライカヴァージン+」よりご紹介。

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朝、起きる目的は人それぞれ違う。 

母親は子どもの朝食を作るために。学生はセンター試験に遅刻しないように。すし屋の主は市場へ出むくために。目覚める目的は、その人の人生そのものだ。 

「みちる、どれだけ思ってもどうにもならないんだよ。マリアは女を愛せないんだから。そりゃまだ生殖機能はあるよ。だけどもう40歳をとうに過ぎた男だよ。もうそっち側へは戻れやしないよ」 

などとわかりきったことを婆は言う。 

「うん、それでもいいの」
みちるは頼まれた買い物のメモを見ながら、トーストをかじる。 

「お前さんまだ若いから、右も左もわかっちゃいないだろうけどね、ほんとのことあんたのお父さんが知ったら、チンチロマイするよ」
婆の言葉がみちるはおかしくてたまらない。 

「笑いごとじゃないよ、まったく」 
三味線の片づけをしながら、婆が心配そうな顔をした。70歳をとうに過ぎているスッピンの顔は、使い込まれた絹のようだ。泥大島に博多帯をしめている姿は、みちるから見ると、女のプロフェッショナルだ。 

婆の横顔を見つめながらどんな物語をすり抜けてきたのだろう、といつもみちるは考える。 

みちるには、まだ物語がない。婆のように、人生のイロハ、もわからない。けれど、うすうすわかっていることもある。人生には降りてしまうほうが楽に生きられるという事実があるのを。困難な坂道なんか上っていくことはないのだ。平穏な道はいくらでも用意されている。 

〈でもこれでいいの〉
と、自分のココロがつぶやく。 

自分の身体なのにココロは別物なのだ。おせっかいなのである。自分の飼い主を困難のほうへ、困難のほうへと誘惑するのだ。頭では、よしきっぱりあきらめよう、と決断を下すときもあるが、〈またまたぁ、強がっちゃってさぁ〉と、ココロには見すかされている始末。 

裏道や抜け道だってあるじゃないか、とも思う。みちるがこれから歩く恋の道は、ケモノ道かもしれないが。 

婆が言うとおり、マリアライカヴァージンは女を愛せない。男が好きなのだ。そこで、みちるはひるむのだが、 

〈それがどうした〉
と、ココロが叫ぶ。みちるも、それがどうした、という気分になってくる。 

人が人を愛するのにまだセクシュアルな定義を必要とするだろうか。自分に当てはまるセクシュアリティが見つかっていない人もいるのだ。男が女を愛する。男が男を愛する。女が男を愛する。女が女を愛する。男にも女にもどちらにも恋愛や性的な感情をもたないアセクシャル。恋愛感情はあれどそこに性的な感情をもたないノンセクシャル。性的感情は抱くがそこに恋愛感情はもたないデミロマンティック。深い信頼感情がないと恋愛感情が抱けないデミセクシャル。両想いではなく片思いだけなら恋愛感情が存在するリスロマンティック。 

人と触れ合うとき愛し合うときどんな自分として生きていきたいのか決めるのは自分自身なのだ。愛の色は、グラデーションのように様々な形を見せる。雨上がりの虹のように。マリアの光がみちるを通り抜け、角度を変え屈折し反射されるとどんな愛の色になるのだろうか。 

みちるは、マリアのドレッサーの引き出しから、ビタミン剤を取り出す。ハイチオールシナール、エフエーデー、ピドキサール。そして、ヒアルロン酸。すべてがマリアの美しさのレシピだ。 

マリアは月に一度皮膚科へ行く。国民健康保険被保険者証を持って。世帯主は藤原捨男。健康保険料は口座引き落としにしている。さらにみちるは引き出しを開ける。整頓されたメイク用品の隣に、今年の神社歴がある。みちるはページをめくり、三碧木星の運勢を読む。 

「ガチャガチャして落ち着かなくなりそうなので、旅行や趣味を楽しんで英気を養おう。自分を追いつめないように。健康は、のぼせ、背腰の痛みに注意。吉方は南」 

と書いてある。 

山城国一の宮、賀茂御祖神社は、さすが世界文化遺産である。ここの神社歴はよくあたると母が生前言っていたのをみちるは思い出す。「背腰の痛み」といえば、マリアは腰痛がひどい。腰を庇うようにして歩く。マリアの身長は180㎝だ。お気に入りの、ヒールが10㎝もあるブーツを履くと190㎝近くなる。長身な男には猫背が多いというがそういえばおじいちゃんも背が高く、猫背であった。「チビな男のほうが長生きするのよ」とおばあちゃんは言っていた。 

みちるはデカイ男が好きだけれど、短命は困る。自分があとに残されるほうがいいのか、先に逝って愛する人が自分を懐かしがってくれるのがいいのかわからないが、そんな先のことより、今日の二人のことが一番大事だ。 

初めてマリアと散歩に出かけたとき、嫌がるマリアの手をとり手をつないだ。大きな手のなかでみちるの小さな手は温まっていく。幼稚園に行く坂道を母と手をつないで歩いた風景を思い出す。このままどこまでも歩いていける。みちるはそう思っていたけれど、マリアはそれとなく手を離した。みちるはめげた。ノーマルではない恋。思い知らされたアブノーマルな私の恋。 

〈つらいでしょ〉
ココロがからかう。 

マリアが手を離したのも坂道だった。マリアの家に行くには、暗闇坂を下る。坂の途中に食器屋があり、この店は赤の商品しか置いていない。箸も、マグカップも、皿も、赤のバリエーションが何種類もある。黒を帯びた赤のグラスは古生代の生き物のようだ。 

この店には、看板娘ならぬ看板犬がいる。いつも入り口に寝そべっているこの犬は人見知りが激しいらしく、画用紙には、「コノイヌサワラナイデ! メヲミナイデ! ニンゲンキライデス!」と、マジックで書いてある。 

みちるは店の主人に訊いてみた。それでも飼い主には慣れているでしょ、と。店の女主人は、
「さすがに飼い主には悪いと思うのか、私が抱きしめるとぶるぶる身を震わせながら、じっと耐えているのよ」
と言った。  

〈たまらん、かわいすぎる!〉
この話を聞いてみちるは思った。 

〈そうだ! マリアはイヌだ。暗闇坂の犬だ!〉 

暗闇坂の犬も寝そべっている。マリアも朝帰りに布団で倒れこんでいる。そしてみちるにも最低限のエチケットを示してくれる。 

みちるは労働が苦手である。ロウドーしないとどうなるか。一日家にいることになる。いや、持ち家であればいいがチンタイならば住む場所を失う。吉方、南へも行けないし、猫も飼えない。ネイルでぺディキュアもできないし、音楽も聞けない。電気が止まるから。 

〈家を追い出されるのと、電気止まるのとどっちが先なんだろう。そうだ、水道だって止 

まるのだ〉 

しかし、みちる自身のライフラインは、今、目の前に酔いつぶれている男である。これを断たれるとたちまち生き辛い。 

〈寝ているとよけいにデカサが増すな〉 

みちるはおもむろにマリアを検証してみる。 

霊長類。全動物中最も進化したヒト類。髪、自毛、黒、30㎝、ストレート。瞳、やや茶、奥二重。つり上がり気味。鼻、根元から高くりっぱ。唇、笑ってなくても口角があがり、下唇が肉厚。 

特筆すべきは、指、である。みちるがこれから見るであろう一生分の美しさが、この長い指に凝縮されている。長いだけではないのだ。この指がギターに寄り添うと、マリアはステージの上で〝マリアライカヴァージン〟になる。 

好物、酒、さけ、サケ。たまに、しじみ汁。好みのタイプ、不明。座右の銘、墓場までギタリスト。 

みちるは、この辺でいつも自問自答に入る。なぜに女を受けつけなくなったのか? そして、そんな人間をなぜに私は恋しているのか。まあ、好きになるのに理由づけはいらないが、目の前に横たわっている霊長ヒト科オスをいとおしく思うみちるの日々である。 

〈寝ている間に触っておこう〉 

 みちるは、マリアの左手をとった。数字のタトゥーが少し薄れて音符に見えた。 

黒のロングジャケットで横たわるマリアは島に打ち上げられたガリバーみたいだった。小人のみちるは、動かすことができない。 

「マリア」
耳元でささやいてみる。 

「……」
ピクリとも動かない。 

「マリア」
もう一度ささやく。反応はない。少し頬をつねってみたりする。結果は同じ。 

「こんなところで寝ると風邪ひくから」

「……」

「マリア、今夜は何を弾いたの?」 

「……」  

みちるは起こさないように、マリアの腕を伸ばし、腕枕を作る。マリアの左腕は筋肉がほど良くついている。毛布を掛け、マリアの腕に頭をあずけ目を閉じた。まるで恋人同士みたいだ。マリアが目覚めるそのときまで、みちるは一瞬永遠になる。  

みちるは、子どものころをまた思い出す。父にくっついて眠った夜を。母がそっと蒲団をかけてくれた日々を。 

窓からは光が漏れ出し、夜が明け始めた。また今日も偉そうに太陽が昇り出すのだ。マリアが目覚めるじゃないか、とみちるは少し悲しくなる。そして、みちるの永遠は一貫の終わりになる。 

「俺に触れるなよ」 

切れ長の瞳が開いた。そして、マリアはみちるの頭をなでながらお決まりの文句をたれる。 

「みちる、まともな恋愛をしろよ」
〈アンタが言うか〉 

「急ぐ必要はないから」
〈でも若いほうが無垢〉  

「何度でも恋をすればいい」
〈究極の理想の男は生涯出会えない確率が高い〉 

「みちるにふさわしい男が現れるさ」
〈ふさわしくなくても平気〉 

「優しい男がいいぞ」
〈優しい嘘なら聞きあきた〉 

「生活能力のある奴にしろ」
〈本気出して私が稼ごうか〉 

マリアはいつものように蒲団を敷いて、そっちで本格的に眠りに入る。みちるは、現実の世界に引き戻され、広すぎるベッドで今朝も子猫とともに眠った。 

マリアライカヴァージン内藤 織部-Naito Oribe-

ジェンダーと女性の生き方の多様性を問う問題作
私が愛した男(マリア)は、
けっして私を愛さない
出会った瞬間に運命を感じた男は、残酷なほどに美しかった。
この愛を貫くことは、そのまま
どんな自分として生きたいのかを問い続けること――
<新人作家 衝撃のデビュー作>