【第3回】「謙虚力」は覚悟ある人にのみ与えられる能力

謙虚という言葉の意味について、とにかくへりくだる、相手に譲るといったイメージを持っている人は少なくないでしょう。

本書のテーマである「謙虚力」とは、何を譲るべきか正しく判断し、主張すべきポイントではハッキリと自分の意思を示すことで、最終的には自分の思う方向へ自然と組織を導いていく力のことです。

それでは、どの程度譲り、反対にどの程度主張をすればいいのでしょうか。

今回は、その最適なバランスについて考えていきます。

自己主張のバランスの黄金律は7対3

ある人に、「7対3のバランス」という言葉を聞き、感銘を受けました。

謙虚であるということは、結果として多くを他人に譲ることになります。5対5では謙虚とはいえません。さりとて、10対0や、9対1では譲りすぎです。譲りすぎでは、自分がなくなってしまいます。それではただ、自分を卑下しているだけになってしまいます。

どんなに謙虚になっても、謙遜しても、それぞれ個々人として決して譲れないものがあるはずです。まさにアイデンティティーです。そこは主張する。譲らない。時に、自己主張も必要なのです。なんでもかんでも流されるのがいいわけではありません。

とくになんらかのチーム、組織のトップに立つ人間であれば、自らの決断が待たれている場合も多いでしょう。僕はまだまだ過激になりがちで、そこは反省なのですが、言うべきことは、言うべきときに言わなければなりません。

自分がある程度の立場にいる場合は、言いたいことを言わないで黙っていると、潜在意識下で「自分は対外的に言いたいことも言えない、意気地なしだ」と思ってしまいます。しかし、きちんと自己主張をすることができると、「お前、よくやったな」「言いにくいことをよく言ったな」と自分のことを褒めてあげられる。

だから僕は、言わなければいけないことは言うようにしています。それは自分を守るためでもあるのです。自分で自分を肯定し続けるのです。

言っても事態は変わらないかもしれませんが、言わずにいて予想通りの悪い結果になったときに「ほらみろ」と言うのは逃げにすぎません。

その自己主張のバランス感覚の黄金律とでもいうべきものが、7対3なのだと思います。7割は譲ってもいい。その代わり、決して譲れない3割は守り抜く。絶妙なバランスです。

そのくらいの心持ちで生きていければ、立つ波風も少なく、自らのアイデンティティーを保ちながら、謙虚に生きていくことができると思います。

そのために、何を譲るべきか、いつ譲るべきかを判断できるようになる必要があります。決断を迫られたその時々で周りに流されるのではなく、感情に惑わされることなく、どう決断すべきかを考えることが大切です。

そもそも自分は何をもって自分なのか、自分らしさの根源は何か、突き詰めれば自分は何を大事にしているのかといった「自分探し」をしていくことが必要なのです。自分自身の自我や行動原理を見定め、アイデンティティーを確立しておかなければなりません。

それができていれば、決断に際して感情に左右されることはなくなるはずです。

そもそも自分が確立していて、自分なりの判断基準ができていなければ、大人とはいえません。しっかりとした自己を保ちながら皆の意見を聞いて、判断するわけです。

素直に他人の意見を受け入れるといっても、基準がなければ、相反する意見が出たときにどちらも受け入れなければいけなくなってしまい、混乱をきたしてしまいます。それでは将来に禍根を残すだけです。だから基準が必要なのです。

人間は基本的に欲深いものですが、突き詰めれば、自分にとって大切なのは10のうち3つくらいだと分かるはずです。これが「謙虚力」の基本です。

誤解しやすい「謙虚」の定義

一般的に、「謙虚」とはどのような意味かと改めていくつかの辞書を引いてみました。

「控えめで、つつましいこと」とまず出てきます。あるいは「邪心はないこと」。さらに、「へりくだって、素直に相手の意見などを受け入れること」とも出てきます。

「へりくだる」とは、相手を敬って自分を低くすることです。

確かに、「控えめで、つつましい」や「邪心がない」は、まさに謙虚さの代名詞として重要だと思います。しかし、ここに「へりくだる」が入ると、少し弱腰すぎるように思います。「相手の意見を受け入れる」というのも、常にそうすることが正解とは限りません。

謙虚になること、謙遜する態度は美徳であるというイメージが日本にはあります。そのとおりだとは思いますが、それはどんな場合にも身を引く、相手を立てて、自分の意見を引っ込めるということではありません。

こうした「謙虚」の定義は、非常に誤解しやすいものだと思います。

自分が前へ前へ出て、何がなんでも引っ張る。強引に自分の意見を押し通すという態度は厳に控えるべきだと思いますが、何がなんでも相手の意見を認めるというのも行きすぎです。

仏教思想にもあるように、何事もバランス感覚、中庸であることが大切です。中庸とは、儒教のなかでも重要な概念の一つですが、「偏らない」ということを意味しています。

しかし、平均値とは意味が違います。偏らずに、とらわれずに何が正しいかを考えることが大切なのです。ほどほどであり、良い頃合いです。

つまりは視野を広く取り、常識にこだわらず、さまざまなしがらみにとらわれず、バランス良く考え正しい道を選ぶこと。

それこそが、本書のタイトルにもなっており、僕が提唱したい「謙虚力」です。

家族や仲間を守るためには戦わざるを得ないこともある

それでは、そんなことを言う僕がこれまで本当に謙虚に生きてきたかというと、決してそういうわけではありません。

ただ、そうあろうとはしてきました。感情にとらわれず、理性的に生き、「謙虚であるためにはどうしたらいいか」ということについて人生をかけて考え抜いてきました。

その考察の結果が「謙虚力」です。

もちろん、性格的には慎み深く、どちらかといえば平素は控えめであるのがいいと思います。

しかし、それは、どんな場合でも相手を立てる、自分の考えは引っ込め、首を垂れてやり過ごすということとは違います。

弱虫は謙虚にはなれません。強くなければ、「謙虚力」は発揮できません。例えば家族や仲間を守るためには、戦わざるを得ないこともあるはずです。

「謙虚力」とは、大義を重んじ、家族や仲間を大切にし、さりとて排他的にならず、できるだけ感情的になることを避ける、そんな覚悟のある人にのみ与えられる能力だと思っています。

ネット書店