• 「エルダーの庭」 

  • 池内由紀江
    ファンタジー

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「エルダーの庭」 第一部 ローズマリー一家

§プロローグ

「あんたなんて、誰にも必要とされなかった子なのよ」

 思い出したくもない言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。

 実際に目の前の景色もグラグラと揺れていた。

 わたし…どうしてこんなところを歩いているんだろう…

杏樹は額に浮かぶ汗を手で拭いながら、辺りを見渡した。

 急な坂道の先には、鬱蒼としげる木々に覆われた山がせまっていた。

 道の両脇も、大自然の力に人間が負けたように、雑草やツタで覆われた緑の荒れ地が広がっている。

 確かに朝は、いつもと変わらずに学校へ行く用意をして家を出たのだ。

 笑顔でお弁当を手渡してくれる母に、「いってきます」とやはり笑顔を返した。

 でも、心の中にあったのは、溢れそうになる思いだった。

  必死にふたをして、苦しくない振りをする。

「あんたは、いらない子ってこと」

 再びわき上がってくる心に突き刺さった言葉に、息すら苦しくなる。

 立ち止まって大きく息をついた。

 その瞬間、ぐらりと地面が揺れるような感覚に、思わず頭を手で覆った。

 どうしよう…こんなところで。

 学校に行かずに、逃げ出したわたしがいけないんだ。

  暴走する思考は、杏樹を暗い闇へと引きずり込む。

  わたしの選択はいつでも間違っている。

  きっと生まれてきたことすら…

  不意に足から力が抜け、見ていた景色が反転した。

  その杏樹の耳に、誰かの声が聞こえた気がした。

1エルフのいる庭

 最初に目に入ったのは、キラキラと輝く日の光だった。

 木漏れ日が、自分の頭上に輝いていた。

 風にゆっくりと揺れる葉の一枚一枚が、楽しそうに歌い踊っている。

 キレイ…

 心が洗われて澄み切っていくような開放感。

 だが、耳に飛び込んできた声は、そんな気持ちとは正反対の緊張感に満ちたものだった。

「拓人さん、どうしよう! 救急車呼んだ方がいいんじゃない?」

「そうだな…熱中症かもしれないからな」

「でしょう! 熱中症ってバカにできないんだから。ちょっと、わたし氷も持ってくる」

「ちょっと待って。この子、目開けてる!」

 そんな会話の直後に、杏樹の目の前に女性の顔が割り込んできた。

 かわいらしい、大きな目の女性が、真剣な顔で自分を見下ろしているのを、呆然と見ていた。

「大丈夫? 気持ち悪くない? 頭痛い?」

 矢継ぎ早に質問されても、ふわふわした頭の中では意味をなさなかった。

「そんなに急に話しかけられてもびっくりするだろ」

 質問ごとに顔が近づいてくる女性の後ろから、男性の声がした。

 声の方に視線を送った瞬間、目に入った男性の姿に杏樹の口から言葉が漏れた。

「…エルフ…」

 杏樹の言葉に、二人が一瞬きょとんとした顔になる。

 だが次の瞬間、二人が笑い声を上げた。

「俺はそんなに美しくないだろう。ただ髪が長いだけ。持ってるのも弓じゃなくて、剪定ばさみだし」

 笑った男性が、腰に下げていた剪定ばさみを見せた。

 その男性の髪は、腰まで届くほどの長さだった。

 女性が杏樹の額にあるタオルを、冷たいものと交換してくれる。

「こんな暑い日にずっと歩いてきたんだね。具合悪くもなっちゃうよ。道に倒れているのを拓人さんが見つけて、この木の下まで運んでくれたの」

 そう言われて視線を巡らせると、顔のすぐ横には白い花をつけた小さな葉が生い茂り、空気が震えるたびにさわやかな香りを漂わせていた。

「お水飲める? 起き上がれるかな? ダメならストロー持ってくるよ」

 優しい手に支えられ、杏樹はゆっくりと体を起こした。

 そして差し出されたグラスの水を口にした。

 冷たい水が喉を通り、最後に鼻にぬけるスッキリとしたミントの香りに、思わずため息がもれた。

「ありがとうございました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 杏樹はやっと回り始めた頭で、なんとかお礼を言った。

 目の前にいる二人が、とても優しい人たちなのは分かる。

 でも、これ以上その優しさに甘えて迷惑をかけてはいけない。

 そんな思いで立ち上がろうとしたが、まだふらつく足元に、うまく立ちあがることができなかった。

「まだ休んでなきゃダメだよ」

 女性に体を支えられ、杏樹は「ごめんなさい」と小さな声で謝った。

「具合の悪い人間が、他人に気を遣う必要なんてない。もっと自分を甘やかして大切にしないとな」

 拓人と呼ばれていた男性が近づくと、ひょいと杏樹を抱き上げた。

「結。店の方に移動して、しっかり休んでもらおう」

「うん。そうだね」

 杏樹が声を上げる間もなく、拓人がずんずんと歩いて行く。

「お、お店?」

 杏樹の問いに、後ろから着いてきていた女性、結がうなずく。

「うん。ここはハーブカフェ・エルダーの庭だよ」

 見渡せば、辺り一面を色とりどりの花が覆うガーデンが広がっていた。

 小さな蜂や蝶が飛び交う、本当にエルフが住んでいそうな庭だった。

 その先に、緑の屋根の小さな喫茶店が建っていた。

 軒先にランタンが下がり、木のテーブルとイスが並ぶカフェは、夜にはきっと妖精たちがお茶を飲みにくるに違いない。

 そんな妄想を駆り立てる幻想的な店だった。

2心のオアシス

 ハーブカフェ・エルダーの庭は、こぢんまりとした、でも心地のいい店だった。

 カウンターとテーブル席が3席。

 高い天井にはドライハーブが下がっていて、壁に沿って設置された棚には、数え切れないくらいたくさんの種類のハーブが瓶詰めされて並んでいた。

 杏樹はまだ誰もいない店のカウンター席に座っていた。

 いつでも横になれるようにと、拓人に渡されたクッションも胸に抱え、目の前のキッチンで鼻歌交じりで働く結を眺めていた。

「今、心も体もうるるんって潤っちゃう、とっておきのハーブティーをいれてあげるからね」

 そこへ拓人も手にミントを持ってやってくる。

「飾り用は、この枝でいいか?」

「うん。すごくキレイなミントちゃんね」

 二人にとって、このカフェは仕事なのだろうが、すごく楽しそうなのが杏樹には不思議だった。

 もちろん、レストランに行っても、コンビニに行っても、店員さんはみな笑顔だ。

 でもその笑顔は、心から楽しくて自然にわき上がっている笑顔とは別物だ。

 でも、結は今にもくるくる回って踊り出しそうなくらいに、楽しそうに仕事をしているし、拓人もミントに鼻をよせて香りをかぐ姿など、ハーブと会話をしているかのようだった。

「杏樹ちゃん、これきっとびっくりしちゃうよ!」

 結がいたずらっ子のような笑顔を杏樹に向けてくる。

 その手には、パフェにも使えそうな、背の高いグラスがあった。

 そのグラスに、結が氷をいれる。

 だが、その氷は透明ではなかった。

「青い氷? 海の色みたいな氷!」

 結の予告通り、杏樹はおどろきの声をあげた。

「これはマロウっていうお花のお茶を氷にしたものなの。キレイでしょう!」

「お花からこんなキレイな色が?」

「そう。びっくりだよね」

 結は目を輝かせてくれる杏樹の様子が嬉しくてたまらない様子だった。

 そして、その氷の上に、今度はほんのりとピンク色をしたお茶を注いでいく。

「このピンク色はね、ローズヒップっていうバラの果実から出るの。ビタミンCたっぷりだから、超美人になっちゃう!」

 青い氷と混ざってほんのり紫色になったハーブティーに、拓人の持ってきたミントをちょんと飾る。

「ハーブティーには、他にもカモミール、レモングラス、ペパーミント、アップルビッツが入ってるよ」

 目の前に差し出された美しいハーブティーからは、さわやかな香りが立ち上っていた。

「召し上がれ」

 グラスを手に、胸一杯に息を吸い込むだけで、自然に笑顔がこぼれた。

 香りだけで景色が浮かぶ。

 風に揺れる白い花々と青い空。そしてそこを覆う柔らかな空気。

「いただきます」

 杏樹がハーブティーを一口飲み込んだ。

 その瞬間、胸一杯に広がったのは、たくさんの植物たちの生きる力と、作ってくれた結の優しさ、そして拓人の思いやりだった。

「おいしい」

杏樹は心の底からそう思った。

 そして思いがけず、あふれ出してしまった涙を止めることができなかった。

「すごく…おいしい…それに…すごく優しい…」

 ぽろぽろと涙をこぼす杏樹の隣に、拓人が座った。

「気持ちにふたはしなくていい。はき出してしまえ」

「わたしたちでよかったら話を聞くよ。聞いてあげることしかできないけれど」

 誰にも言えなかった気持ちを、もう一人で抱えていることはできなかった。

 杏樹はハーブティーのグラスを握りしめて、今までの出来事を語り始めたのだった。

3なにものでもない私

 杏樹が生まれ育った東京を離れたのは、祖母のケガが原因だった。

 長野で一人暮らしをする祖母が、今後車いすを必要とする後遺症を負ってしまったのだ。

 そこで家族で長野に移り住むことを決め、高校から新たな地での生活が始まることになったのだ。

「お友達もたくさんいただろうに、ばあばのせいで辛い思いをさせて悪かったね」

 祖母はそう言って、杏樹の手をなでた。

 だが杏樹はその祖母の手の上に、自分の手を重ねた。

「ううん。わたしはおばあちゃんのそばで暮らせて嬉しい。それに、東京の友達だけじゃなくて、ここで友達を作れば知り合いが倍増だもん。ラッキーだよ」

 実際、緊張の中で通い始めた高校だったが、友達はすぐにできた。

 というよりも、東京からやってきたという少女に、同級生たちの関心が高かったのだ。

 持ち物一つとっても、「かわいい!」と歓声をあげてくれる。

「そのリップ、めっちゃ、かわいい! どこで買ったの?」

「杏樹って、やっぱオシャレだよね」

 東京で友達としてきたような、メイクの話のできる友達もできた。

 放課後に一緒に図書館で勉強しようと誘ってくれる友達もできた。

 学校帰りにカフェに行く友達もできた。

 だれもが杏樹を褒めてくれた。

 でもそれがかえって、自分と彼女たちとの間に壁があるのを感じさせた。

 同じ立ち位置に立ってくれない。

 すごいと褒め称えられると、本当の自分ではいられない気がしてならなかった。

 すごいと思ってもらえる自分を見せ続けなければ、なんだこんなもんだったのかと、飽きられて見捨てられるのではないか。

 素直な自分の気持ちを言ってはならない。

 杏樹は常に笑顔を絶やさず、優しい物わかりのいいお姉さんを演じ続ける自分に違和感を感じ始めていたのだった。

「ただいま」

 家に帰ると、いつも通り、玄関には来客を示す多数の靴が並んでいた。

「紀子先生。娘さんが帰ってこられましたよ」

 ダイニングのテーブルには、杏樹の母、紀子が開催している料理教室の生徒さんたちがいた。

 東京でも料理教室を開いていた母だったが、今やSNSでつながる世界。

 長野に引っ越してきても、以前の生徒さんたちや、新たな縁でつながった生徒さんたちが大勢通ってきているのだ。

「杏樹ちゃん、今日もお母さんの料理教室は最高に楽しかったわよ」

「いつもおいしい食事が食べられて幸せね」

 みんなが口々に母のことを褒めてくれる。

 彼女たちは、心底母のことを尊敬して、好きでいてくれることが伝わってくる。

 そんな母が自慢だし、自分の母であることが嬉しかった。

 でも同時に、うらやましくもあった。

 誰からも好かれて、心からつながり合える人たちに囲まれている母。

 そしてその人たちを信頼して、ありのままの自分の気持ちを素直に表現できる母。

 それに心の底から大好きだからこそ、夢中になって取り組めるものを持っている。

 いつも楽しさ全開で料理教室を営んでいるが、その実、毎晩新たなメニューを考えるために、勉強したり試作したりと努力も怠らない。

 生きがいと手を取り合う仲間。

 わたしには、どちらもない。

 そう思ったときに、母がキッチンから顔を覗かせた。

「杏樹ちゃん。おかえりなさい。今日ね、すっごいおいしいハンバーグができたの! 夕飯楽しみにしててね。みんなで焼いたクッキーもあるから、明日学校に持って行ってお友達と食べてもいいわよ」

「うん。ありがとう。夕飯まで勉強してくるね」

 杏樹は母に笑顔を向け、楽しそうに談笑する生徒さんたちに会釈をした。

「紀子先生。素敵な娘さんがいて羨ましい」

 そんな言葉を背中で聞きながら、自分の部屋のある二階に向かう。

 だが、聞こえてきた言葉には続きがあった。

「でも紀子先生と娘さんって、あまり似てないですね。二人とも美人だけど」

 二階には、すでに帰宅していた父もいた。

 父は高校で国語を教える教師だ。

「杏樹、おかえり」

 読んでいた本から目を上げ、眼鏡の隙間からこちらを見てくる。

 だが、その目が赤くなって潤んでいることは明らかだった。

「お父さん、また感動して泣いてたの?」

「バレたか。どうやら年をとると涙腺がゆるくなるってのは本当らしい」

 父は照れながら、ティッシュを手にして鼻をかんでいる。

 どうやらかなりの感動作だったらしい。

 きっと夕食の席で、父の読書感想を聞けるだろう。

 動物の話や、小さな子が頑張る姿を見るとすぐに涙を浮かべる父は、本当に心に繊細な琴線を持っているのだろう。

 子供のころは、眠る前に父が作ったお話を聞くのが大好きだった。

 想像の中で、父と一緒にいろいろな場所へ冒険に出かけたものだ。

 綿あめでできた虹色の国を歩いたり、心の声を教えてくれる魔法の卵を探す旅にも出た。

 父は今も昔も変わらずに想像力豊かな世界に住んでいる。

 でも、わたしは大人に向かう途中で、その想像力よりも現実を見る目を成長させてしまった。

 想像の世界を心から楽しめなくなってしまった。

 あんなに楽しかったのに。

「杏樹、ミーちゃんがお姉ちゃんが帰ってこないって、さっきから鳴いているから、早く行ってあげなさい」

「お父さん、ミーちゃんとお話できるんだね」

「そうだよ。だってお父さんだからね」

 父自身も自分の豊かな想像力を自負しているようだ。 

 部屋に入ると、父の言葉通りに、小さな白い子猫が「ナーナー」と甘えた声を上げて走り寄ってくる。

「ミーちゃん、ただいま! いい子にしていた?」

 杏樹は胸にぎゅっと子猫を抱きしめた。

 すぐに全身でグルグルと音を立てて、杏樹に顔をこすりつける子猫のミー。

 毛糸玉のようにふっくらとした子猫だった。

 でも、ほんの2週間前には、今にも命の灯が消え失せそうな姿だったのだ。

 家族で買い物に行ったスーパーの駐車場で、「助けて!」と大きな鳴き声を段ボールの中で上げていた子猫。

 一目見て、自分が助ける運命の子猫だと確信した杏樹は、両親に自分が世話をすると約束して飼うことを決めたのだ。

 痩せて足も不自由そうに引きずっていたミー。

 でも、3時間おきにミルクをあげ、ひとりぼっちでないことを伝えるために、家にいるときにはいつでも胸に抱いていた。

 そのおかげで、ミーは危機を脱して元気な子猫に大変身したのだ。

「本当にかわいいね。ミーはわたしの大切な友達だよ」

 杏樹はミーの頬にキスをすると、ミーもお返しというように、杏樹の鼻をなめるのだった。

4明かされた秘密

 昼休みの杏樹の席の周りには、人だかりができていた。

「すごい、かわいい! もらっていいの?」

「うん。昨日、母が焼いてくれたクッキーなの。たくさんあるから食べてもらえると嬉しい」

 昨日の夜、父と母と三人でラッピングしたクッキーが、机の上に並んでいた。

 アイシングを施したクッキーは、アクセサリーにしてもいいくらいに美しかったし、母の手の込んだアイシングは、表情豊かなクマちゃんだったので、みんなが歓声を上げるのも納得だった。

「杏樹のお母さんって、お料理教室の先生なんだよね。うちのママも通いたいって言ってたよ」

「すごい、オシャレなママじゃん。だから杏樹に前もらったケーキもおいしかったんだ」

「確か杏樹のお父さんは高校の先生でしょう?」

「だから杏樹は頭もいいんだね。いい遺伝子受け継いでて羨ましい」

 みんなが口々に杏樹を褒め称えた。

 でも、そんな声の後ろから悪意のある言葉が飛んだ。

「親の七光りで友達つろうとか、やることあざとくない?」

 その声に、教室が一瞬にして静まりかえった。

 声の主は沙也佳。杏樹にとっては、親戚にあたる子だった。

 沙也佳はみんなの視線にさらされても、怖じ気づく様子もなく、人垣の間から杏樹のことを冷めた目で見ていた。

「ちょっと、沙也佳。杏樹ちゃんとは親戚なんでしょ。なんでそんな意地悪いうの?」

 沙也佳の周りにいる友達が、悪くなった空気に耐えかねた様子で言った。

 だが、当の沙也佳は素知らぬ顔で続ける。

「意地悪じゃないじゃん。事実でしょ。みんなも薄々思ってることをわたしが代わりに言っただけ」

 そんな沙也佳の挑発的な物言いに、誰もが口をつぐんで反論しようとはしなかった。

 やっぱり、わたし個人を好きで友達になってくれた人はいなかったんだね……。

 杏樹の心の中に、くすぶっていた思いが明らかな事実となって浮かび上がった気がした。

 みんながわたしに近づいてきたのは、東京から引っ越してきたという物珍しさ。

 母が作るお菓子をもらえたり、勉強を教えてもらえるというメリットがあるから。

 杏樹は沙也佳に言い返す言葉もなく、席を立ってその場を離れようとした。

 だが、沙也佳がそれを許さなかった。

「逃げるつもり?」

「…逃げるんじゃないわ。沙也佳ちゃんが、なんでわたしを嫌いなのか分からないけど、自分に悪意を持っている人と一緒にいたくないって気持ちは分かるでしょ?」

 精一杯の気持ちで言ったつもりだった。

 だが沙也佳は杏樹を鼻で笑った。

「悪意? そんなものじゃないわよ。嫌悪よ。あんたなんて、目に入るのも嫌! この嘘つき!!」

「嘘つき?」

 何をもってそんな汚名を着せられるのか、杏樹には全く分からなかった。

「嘘つきってどういうこと?」

「わたしのお母さんはお料理教室の先生で、お父さんは高校の先生です? そんなのあんたの自慢にもならないじゃない!」

 わたしは父と母を自慢には思っているけれど、それをひけらかした覚えはない。

 杏樹が話すよりも前に、みんなの情報網の中ですでに知れ渡っていた事実だった。

 そんなことで嘘つきと言われる覚えはない。

 杏樹の心の中に、沙也佳への憤りが生まれた瞬間だった。

 だが、沙也佳がその怒りすら打ち砕く言葉を吐いた。

「あんたはうちの一族とはなんの関わりもない、捨て子じゃない!」

 杏樹の周りから、一瞬にして音という音が消え失せた。 

 誰一人身じろぎすることも、息をのむこともなかった。

 凍り付いた空気。

「捨て子…ってなに?」

 杏樹はかろうじて相手の言葉を繰り返した。

「あんたなんて、誰にも必要とされなかった子なのよ。どこかのバカな女が、十代で妊娠して、困って捨てた子があんたなの。望まれて生まれた子供じゃないのよ。生まれてきて迷惑だった子なの」

 さすがにそこまで言ったとき、周りにいた人間が沙也佳のことを止めた。

「そんなこと言うのやめなよ」

「どうして? 自分の親でもない人間を七光りに利用する女とか、わたしは我慢ならない。それに、おじさんとおばさんは、この女を養子にしたから、自分たちは子どもを持たなかったっていうのよ。この女と自分の子どもに愛情の差を生まないようにって。超迷惑な存在なのよ!」

 杏樹は初めて聞く話に、耳を塞ぎたい思いと、事実を知りたい思いで心が引き裂かれそうだった。

 わたしは、お父さんとお母さんの子どもじゃない?

 産みの母親に捨てられた子ども?

 沙也佳は追い打ちをかけるように最後の言葉を放つ。

「あんたは、いらない子ってこと」

 杏樹は今度こそ耐えられなくなり、教室を飛び出した。

 そしてトイレに飛び込むと、全てを拒絶するように胃の中のものを全て吐き出した。

 後ろを追ってきた友人たちが、そんな杏樹を遠まきに見ていた。

 その中の一人が、杏樹の背中をいたわるように撫でてくれた。

 でも、心は凍り付いたように動かなかった。

 もう心を開くことはできない。

 今は自分の気持ちでさえ抱えきれない。

 杏樹は友達に自分の荷物を教室から持ってきて欲しいとお願いすると、学校から逃げるように出て行ったのだった。 

5逃げるが勝ち

「わたし、何も言い返せずにただ逃げてきてしまったんです」

 杏樹の告白を、拓人は黙って聞いていた。

 結は涙を浮かべて杏樹の背中を撫で続けていた。

「杏樹ちゃん、辛かったね」

 涙を流す結に、かえって冷静になった杏樹が力なくほほえむ。

「ご両親と話したのか?」

 拓人の問いに、杏樹は首を横に振った。

「いつも通りの時間に、公園で時間をつぶして帰ったから、親は何も知らないです。学校の早退も、たぶん友達が先生にうまく言ってくれたみたいで、特に連絡ないみたいだし」

 拓人はそれにただうなずいただけだった。

「話した方がいいですよね、親と」

 苦しげに言う杏樹に、結が悲しく眉を下げる。

「いずれは話し合わないといけないよね。でも、それは杏樹ちゃんの心が決まってからでいいと思う」

「でも…」

 このまま逃げ続けて、学校にいかないでいるわけにはいかない。

 それには、自分の切り裂かれた思いに決着をつけて動き出さないとならない。

 杏樹の思いの中は、心配事と焦りでいっぱいだった。

 それを見越したように、拓人が言う。

「別に学校なんて行かなくてもいい。嫌なことから逃げることが悪いなんて、ただの思い込みだ」

「でも…」

「もっと傷ついた自分の心を癒す時間を作ってもいいだろう? ケガしたり風邪ひいたら、学校を休む。それと一緒」

 できない決断に困った顔をする杏樹に、結も言った。

「杏樹ちゃんは、こうしなきゃっていう責任感を、ちょっと横に置いておいてもいいのかなって思う。誰も杏樹ちゃんにこうしろ!って強制することはできないの。だから、もし明日も学校お休みするなら、ここにおいで。わたしたちはいつでも歓迎するから」

6猫の手

 翌日も杏樹はいつもと同じ時間に、笑顔で手を振って家を出た。

 何度か父と母がそろっている席で、自分の出生について尋ねようとしてみた。

 だが「わたしは二人の子どもではないの?」という言葉は、喉の奥で凍りついて出てこようとしなかった。

 今日も母に、紙袋に入れた玄米粉のパウンドケーキを持たされていた。

「これ、結さんと拓人さんへのお礼にしようかな」

 わたしはただ逃げているんじゃない。

 昨日のお礼をするためにエルダーの庭に行こうとしているだけ。

 学校に行かない罪悪感にいいわけを見つけ、杏樹はエルダーの庭への道を歩いていた。

 エルダーの庭は、知る人でなければたどり着けないような山道の果てにあった。

 人がいる場所にたどり着けるのかと不安になるような、山道を進んでいく。

 道は坂道から次第に平坦な大地となり、森のような木々の間を抜けると、突然楽園のようなハーブガーデンが出現するのだ。

昨日は気づかなかったその美しい景色に、杏樹は感嘆のため息をもらした。

 一面の緑の中で、白や紫の小花が風に揺れていた。

 背の高い赤い花をつけた植物には添え木がされ、まるでキャンドルのような長い花穂をつけている黄色い花も咲いている。

 かつて父のお話の中で旅した、夢の国が現実になったような景色だった。

 ハーブガーデンの奥には畑もあるようで、カゴいっぱいのトマトを手に歩いてくる拓人の姿があった。

「拓人さん、昨日はありがとうございました」

 杏樹は拓人に走り寄り、勢いよく頭を下げた。

「杏樹ちゃん、いらっしゃい。よく来たね」

 笑顔で迎えられ、杏樹も照れ笑いを返す。

「今野菜の収穫をしていたんだよ。今日はランチにトマトとナスのパスタを出そうって決めててね」

「採れたてトマトのパスタ! おいしそうです!」

「うちの結シェフのお得意料理でファンが多いんだ」

「だったら、そのトマト、わたしが結さんのところまで運んでいきます」

「ありがとう。だったら俺は、引き続きナスの収穫に行ってくるわ」

 両手にずっしりとくるトマトのカゴを受け取り、杏樹はカフェへと急いだ。

 カフェに着くと、昨日と違ってすでに店内には何組かの来客がある。

 結は忙しそうにハーブティーの用意をしていた。

「結さん、こんにちは。昨日はありがとうございました」

「杏樹ちゃん。来てくれて嬉しい」

 お茶にお湯を注ぎながら言う結は、杏樹の手にあるトマトを見て笑う。

「さっそく拓人さんに助っ人として使われちゃってるじゃん」

「いえ、わたしから志願したんです。やることがない方が辛いので、お仕事させてください」

 杏樹自身もそのつもりで来たので、エプロンも持参してきたのだ。

「すごい、行動力! じゃあ、お言葉に甘えてお願いしちゃおうかな」

 こうして杏樹のエルダーの庭での一日が始まった。

「今日はトマトとナスのパスタをメインに、ハーブサラダとレモンバームのパンナコッタをつけようと思うの」

 説明しながら、様々なビンからハーブをティーポットにはかり入れ、魔法のようにいい香りのハーブティーを作り上げていく結は魔女のようだった。

 ハーブの種類ごとの効果の説明を聞き、ゆっくり蒸らした後で淹れた一杯を口元に近づけた時、どのお客もうっとりと目を閉じる。

 結さんはみんなに幸せの時間をプレゼントしているんだ。

 杏樹はなんて素敵なお仕事なんだろうと思いながら、その仕事ぶりを見ていた。

 その間も、杏樹は結にお願いされた仕事をこなしていく。

 ニンニクをみじん切りにして、ランチに備えてタッパにつめていく。

 サラダ用のハーブは水洗いしたあと、氷水でしめて水切りする。

 すでに冷蔵庫に待機しているパンナコッタには、生クリームを絞って、その上に砕いたピスタチオとミント、白い小さなレモンバームの花を添える。

 あまりに熱中して仕事に取り組んでいた杏樹は、すぐ後ろに結が立っていることにも気づかず、声をかけられびっくりして飛び上がった。

「杏樹ちゃん、なんてパーフェクトなお仕事ぶりなの? 本当に高校生? すぐにわたしの右腕にしたい!」

 びっくりして固まったままの杏樹を、結がギュッと抱きしめる。

「前途ある若者の未来を、勝手に自分のために決めるなよ」

 たくさんのお野菜をコンテナに詰めてやって来た拓人が、杏樹に抱きついている結を困ったやつだと見下ろしている。

「だって、杏樹ちゃん、本当に才能あるんだもん。わたしが人様にお出しできるようなお料理を作れるようになるのに、どれだけ時間がかかったか知ってるでしょう!」

「もちろん知ってるさ。俺が実験台だったんだから」

 過去の失敗作を目の前に差し出されたときの再現か、拓人がうげっ!という顔をしてみせる。

「酷い! でも、ここまでになったのは努力あってのことなんだからね」

「俺の胃袋も努力してました」

 二人の漫才のような掛け合いに、杏樹は思わず笑い声を上げた。

 杏樹が助っ人に入ったその日、エルダーの庭は過去最高の来客数を記録した。

 結は止まることなくパスタを作り続け、拓人がサラダの盛り付けやカトラリーの準備に追われていた。

 杏樹はお客の注文を受けたり、外で待つお客にサービスのハーブティーをお出ししたりと大忙しの二時間を過ごしたのだった。

 最後のお客が帰ったときには、三人とも顔を見合わせて「よくこの危機を乗り切った!」と目で語り合った。

 「すごい数のお客様だったね。これって杏樹ちゃん効果じゃない?招き猫ならぬ招き女子高生」

「わたしにそんな力ないですよ。今日いたのもたまたまだし」

「でも杏樹ちゃんがいてくれて、本当に助かったよ。お客様の満足度も高かったはず」

 結と拓人に褒められると、杏樹も素直に嬉しかった。

「杏樹ちゃんもお腹すいたでしょう! わたしたちもお昼にしましょう」

「どうせだったら、ガーデンのテーブルで食べるか」

 お客様が待ち時間にガーデンを散歩する姿を見ていた時から気になっていたのだ。

 ハーブガーデンの中央にある木のテーブルとイス。

 きっとあそこに座ったら、ハーブの香りのただ中でご飯が食べられるんだろうなと想像していたのだ。

 どうやらそれが今すぐに叶うらしい。

「わたし、さっきからあのテーブルが気になっていたんです!」

「だったら、決まり! 三人でランチしましょう!」

 今日のランチのレモンバームのパンナコッタは売り切れていたけれど、代わりに母のお手製玄米粉のパウンドケーキを添えたランチプレートが完成した。

 まるでピクニックみたいだと思いながら、テーブルにランチョンマットを広げ、パスタとサラダ、デザートと黄金色のハーブティーを並べていく。

「見ているだけでも幸せかも」

 杏樹の言葉に、結がさぁ食べようと誘うように、イスに座ってフォークを掲げる。

「だったらおいしいパスタとサラダで天国直行だ!」

「俺の作ったサラダに毒は入ってないから、死んで天国行きはないから安心してくれ」

 結の作ったパスタは本当においしかった。

 ニンニクの香りが鼻にぬけて止まらない食欲を増進し、香り高いハーブのサラダが心も体もすっきりとデトックスしてくれる。

「ハーブティーにレモングラスが入っているから、消化を助けてくれるよ。胃腸にも優しいごはんを目指してます」

 確かにハーブティーは、酸っぱくないのにレモンの風味がしておいしかった。

 食事の間も、とても昨日知り合ったばかりだとは思えないほど、三人の会話は弾んだ。

 このハーブガーデンは、三年前までただの荒れた畑だったこと。

 結がおじいさんからこの土地を相続して、一念発起でガーデンを作り始めたこと。

 何度も植物を枯らして、自分にはガーデン作りなんて無理なんだと思っていたときに、拓人と知り合って一緒に仕事を始めたこと。

 拓人も日本中を旅するかたわら、様々な地方で農家のお手伝いをして植物を育てる方法を学んできたこと。

 食の大切さをもっと体験して多くの人に学んで欲しいこと。

 二人のおもしろい語りと滲んでくる情熱に、杏樹も心が刺激されて、一緒に三年間を駆け抜けてきたようなわくわくした気持ちを味わっていた。

 この美しい庭は、二人の情熱と努力の成果なんだ。

 そう思って改めて庭を見回した杏樹は、ふとすぐそばにある植物が一部、いびつな形をしていることに気づいた。

「このハーブはなんて言うんですか?」

「それはローズマリー。小さいけど、れっきとした木なんだよ」

 確かに根元は木の枝のようにゴツゴツしていた。

「この三つあるローズマリーの真ん中の子だけがスクスク育って大きくて、右側の子はちょっと形が違いますね」

 不思議に思って尋ねた杏樹に、拓人がローズマリーの植え込みに近づいた。

「実はこの真ん中の子が、去年植えた子どものローズマリーなんだ」

「でも、この子が一番大きいんですね」

「そうなんだ。この隣りのローズマリーが、冬の間、身を挺してこの子を守ったからなんだよ」

「きっと、お父さんローズマリーだったのね」

 後を継いだ結の話は、とても感動的なものだった。

7ローズマリー一家

 長野の冬は厳しい。

 特に標高の高いエルダーの庭は、冷たい風が吹き抜け、厳寒期には地面も凍り付いて霜柱が立つ。

 でも、エルダーの庭の植物たちは、自力でその冬を乗り越えて強くなっていく。

「もちろん冬に耐えられない種類のハーブたちは、鉢にあげてビニールハウスに引っ越すんだけれど、耐寒性のある子たちには、その場でがんばってもらうんだ」

 ローズマリーも、自力で冬を耐える種類のハーブなのだという。

 だがその冬に耐えることができるのは、厳寒が訪れる前にしっかりと根を張ることができたものだけなのだという。

 すでに立派に育っていたローズマリーのうちの一株が枯れ、そこに新たな子どものローズマリーがやってきたのが、去年の十月だった。

「隣りのローズマリーの枝を挿し木にして根付いた子だったの。だから、この子がローズマリーお母さんって感じかな」

 形はいびつにはなっていないが、やや横広がりに葉を茂らせているのが、ローズマリーお母さんだった。

 去年はいつまでも暑い日々が続いたかと思うと、突然秋が終わって冬になったような年だった。

「植物たちには、過ごしづらい環境だったと思う。特にローズマリーは暑さと蒸れに弱い。だから、この子どものローズマリーも、もしかしたら冬を越せないかもしれないと思っていたんだ」

 特に冬のよく晴れた日の翌朝は、放射冷却で骨の髄まで凍り付きそうなくらいに寒くなる。

 朝早くから植物たちの状態を確かめるため、見回りをしていた拓人と結は、ローズマリーの異変に気づいたのだった。

 昨日まで元気に緑の葉を茂らせていたローズマリーお父さんの一部が、茶色くなって枯れていたのだ。

「でも不思議なの。庭の構造と風向きからいって、冷たい風はローズマリーお母さんと子どもに向かって吹いていたはずなの。それなのに、二人は無事でなぜかローズマリーお父さんだけが枯れていたの」

「それって、ローズマリーお父さんがお母さんと子どもを守ったってこと?」

「どうなんだろうな。でも、俺と結もそのとき直感的にそう思ったんだ」

 言われて見れば、横に伸びたローズマリーお母さんの枝は、子どもを守ろうと必死に伸ばした手に見えた。

 そして今は枯れたために切られたローズマリーお父さんの枝は、さらに身を挺して寒風に立ちはだかった証拠なのかもしれない。

「お父さんとお母さんに守られて、大きくなった子なんだ。尊い子ですね」

 杏樹がそう言った瞬間、頭の中に父と母の顔が浮かんだ。

 苦しい荒波の中で、子どもが傷つかないように必死に守ろうとしてくれたのは、ローズマリー一家だけの話ではないのかもしれない。

 わたしのお父さんとお母さんも同じように?

 杏樹は今度こそ、父と母に本当の話を聞いてみたいと思ったのだった。

8 大切な贈り物

 翌日のエルダーの庭には、開店と同時にお客様が来ていた。

 杏樹とその父、母の三人だった。

「この二日間、うちの娘が大変お世話になったそうで、ありがとうございました」

 深々と頭を下げる両親に、拓人も結も恐縮して顔の前で手を振った。

「お世話になったのはこちらの方で、昨日のランチに杏樹ちゃんがいなかったらと思うと青くなるくらいです。本当に働き者で気の利く子ですね」

 その娘への褒め言葉に、両親はそろってうなずく。

「そうなんです。うちの杏樹はそれはよくできた子でして」

 心の底から娘を自慢に思っているらしく、お父さんが嬉しそうに杏樹の肩に手を置いた。

 日本独特の愚妻や愚息というような、家族を人前でへりくだった表現をとる習慣があるが、結はそれが好きではなかった。

 だから、杏樹の父が褒め言葉を素直に受け取ってくれたことが嬉しかった。

「我々も一緒にいて、いつも以上に楽しく過ごさせていただきました。でも、学校を休んでいいって言ったのはわたしなので、その点は申し訳なく思っています」

 拓人はそう言うと、二人に向かって頭を下げた。

「いや、我々の方こそ、娘の思いを汲んでやれずにいました。辛い気持ちでいた娘に寄り添っていただけたこと、心から感謝しています」

 父親の語った辛い気持ちという言葉に、結は杏樹を見つめた。

 杏樹ちゃん、もうご両親に話したの?

 結の視線での問いかけに、杏樹は首を横に振った。

 きっと学校に行きたくなくて、数日休んでしまっていたことだけを話したのだろう。

「うちの店はハーブティーを提供しているんですが、新作のブレンドがあるんです。よかったら、試飲して感想をきかせていただけますか?」

 結は杏樹が落ち着いて両親と話せる場を作ろうと思って言った。

「試飲だなんて。料金をとってください。そうしたら、わたしたちも遠慮なく感想を言えますので」

 杏樹の母が提案して、結がそれに応じた。

 家族三人でテーブルについた様子を見守りながら、結はハーブティーの用意をした。

 リラックスして話ができる手伝いをしたい。

 そう思って用意したのは、ピンクローズとカモミール、そしてレモンバーベナのブレンドティーだった。どれも心を穏やかに包み込んでくれる優しい味で、ほんのり甘く、さわやかなハーブだった。

 杏樹ちゃんを少しでも応援したい。

 そんな思いで結は三人の前にハーブティーを出した。

 緊張して思いつめた顔の杏樹に対して、両親はいい香りのハーブティーに満足した様子で何度も香りを確かめて、お互いにうなずき合っている。

「杏樹、すごく素敵なお店を見つけたんだね。お父さんもこのお店が気に入ったよ」

 だが、杏樹はその言葉には反応せず、思い切ったように顔を上げると口を開いた。

「お父さん、お母さん、今日は聞きたいことがあるの」

 ひどく緊張して声がうわずる娘に、両親は持っていたカップを下ろしてまっすぐに娘を見つめた。

「杏樹ちゃん、聞きたいことって何?」

 自分をいぶかしげに見つめる母に、杏樹は言葉を探している様子だった。

 二人を傷つけない聞き方は何かないか?

 自分の心の痛みを悟らせない言い方はどんな風なんだろう?

 だが、どんなに考えてもうまい方法はなかった。

「わたしは…二人の子どもじゃないって本当なの?」

 その真っ直ぐな問いに、両親は一瞬時が止まったかのように固まった。

「どうしてそれを…」

 母親のそのつぶやきが、全ての答えになっていた。

「沙也佳ちゃんが言ったことは本当だったんだね」

 杏樹はそうつぶやくと、うつむいた。

 そしてこぼれた涙が、スカートの上に落ちて音を立てた。

「沙也佳ちゃんて、太蔵兄さんの娘さんよね。…あの子になんて言われたの?」

 身を乗り出した母に、杏樹は震える声で答えた。

「わたしはいらない子だったんだって。産みの母親に捨てられて、お父さんとお母さんに自分たちの子どもを持たないなんて酷い決断をさせた子どもだって」

 その言葉に、両親はともに息を飲んだ。

「…なんてことを…」

 苦しげに吐き出された父親の言葉に、母親も嗚咽の声をもらした。

 そして一人うつむいて泣く娘の横に駆け寄ると、ぎゅっとその背中を抱きしめた。

「ごめんね、杏樹。もっと早くあなたに話していたら…。こんな風に苦しい思いをさせずにすんだのに」

「すまない。お父さんのせいなんだ。長野に来る前、お母さんには杏樹に本当のことを話しておこうって言われたんだ。でも、お父さんが止めたんだ」

 父親は手を伸ばして杏樹の頭に手を置くと、愛しそうにその髪をなでた。

「だって、血のつながりなんてなくても、杏樹はぼくの娘だ。本当の娘だ。自分の命よりも大切だって思える娘なんだ。養子だなんて、ぼくが思えなかったんだ」

 その父の言葉に、杏樹は涙に濡れた顔を上げた。

「わたしがお父さんとお母さんの娘でいいの?」

「当たり前だろう。他に娘なんて欲しくない」

「そうよ。杏樹ちゃんは、わたしたちの元に来てくれた天使なの。だから、杏樹って名付けたの」

 フランス語で天使を意味するアンジュ。

 その天使がこの夫婦の元にやってきたのは、いくつもの辛い運命の果ての結果だった。

「杏樹ちゃんを産んだのは、桐谷舞ちゃんっていう、お母さんのお料理教室の生徒さんだったの」

 杏樹の母、紀子は、事の経緯を話してくれた。

 杏樹の産みの母、舞は、家庭的に恵まれない女性だった。

 実の母は三歳の舞を自分の母、舞にとっては祖母にあたる人の元に置いて姿を消した。その祖母にも、愛されたとは言いがたい、食わせてもらえただけという生活を送ってきた子だった。

「あるとき、お店でお金を払う前にパンを食べてしまっている女の子を見かけたの。今まで見たこともない、飢えて今すぐに食べないと死んでしまいそうな食べ方で、お母さん、すごくショックを受けたの」

 紀子はその子に声をかけ、代わりに食べてしまったパンの代金を払うと、自宅に連れて帰ったのだという。

「あり合わせで、おにぎりと目玉焼きとソーセージを焼いてあげただけだったのに、舞ちゃんがすごく喜んで、こんなごちそう食べていいのっていうの。お母さん、本当に涙が出ちゃったの。日本にこんな思いをしている子がいるんだって。それから、毎日舞ちゃんにお料理を教えるようになったの。舞ちゃんは、わたしのお料理教室の生徒第一号なの」

 母親の料理教室を始めたきっかけが、自分の産みの親だったとは思いもよらない話だった。

 その後、紀子の紹介で舞はパン屋で仕事をするようになり、やがて同じ職場でバイトをしていた青年と恋に落ちたのだった。

「二人ともとてもお似合いで、仲のいいカップルだったの。二人ともお金はあまりなかったけれど、幸せそうだった。彼のスクーターの後ろに乗って、笑い転げながら二人でどこまでも行けそうだった」

 でもその二人が交通事故にあったと連絡があったのは、舞から赤ちゃんができたと報告を受けて1ヶ月も経たない頃だった。

「彼の方は即死だった。舞ちゃんも酷いケガを負って緊急手術が必要だったの」

 病院に駆けつけた紀子と、夫である浩に、舞は自分のことよりもお腹の子の心配をして、二人に約束をさせたのだ。

「…わたし、がんばる。この子を自分の腕に抱けるようにがんばる。…でも、もしわたしに何かがあったときは、わたしの命よりもこの子の命を優先して!」

 真っ直ぐで力強いその言葉に、迷いなど微塵もなかった。

「そして、この子を紀子先生に育てて欲しい。だって…わたし、紀子先生の娘に産まれたかったんだもん」

 それが舞の最後の言葉になった。

 緊急の帝王切開で生まれた杏樹は、未熟児で生存の可能性は低いと言われた。

 でも、毎日夫婦で会いに行き、許されたときは素肌に触れて人のぬくもりを感じられるように、何時間も抱きしめに通った。

「本当に小さな体で、でも必死に生きている姿に、舞ちゃんの思いを受け継いでいるんだって感じたの」

 紀子は杏樹の手を宝物のように包み込んだ。

「わたしの人差し指にやっと乗るような小さな手で、ぎゅっと握ってくれたときは、お父さんが看護師さんにびっくりされるくらい大泣きしたのよ」

「あのとき、ぼくはこの子はもう大丈夫だ。ぼくたちの元に来てくれた娘なんだって確信したんだよ」

 今も父浩の目には、涙が浮かんでいた。

「だから杏樹ちゃんは、舞ちゃんにとっても、わたしたちにとっても、かけがえのない宝物なの。いらない子だなんて、絶対に思わないで! 世界中が杏樹ちゃんを否定しても、お父さんとお母さんは体を張って杏樹ちゃんを守るから」

 やっぱり杏樹ちゃんのお父さんとお母さんは、ローズマリーお父さんとお母さんと同じだったね。

 三人のやりとりを見ていた結は、そっと涙を拭いながら思った。

 そして同じように見守っていた拓人も、結と目が合うと安心したようにうなずいた。

「わたしのために、実の子を持つことを諦めたっていうのは?」

「それはきっと、太蔵兄さんが勝手に言ってるだけ。わたしとお父さんは、何年も不妊治療をしたけれど、子どもが生まれなかったの」

 少し悲しげに笑った紀子は、自分のお腹に手を当てた。

「わたしが杏樹を産んであげられたら良かったんだけどね。でも、ダメだった。だから、杏樹がきっとすぐ側にいた舞ちゃんのお腹に宿ったんだって思っているの」

 杏樹は安心したように、小さくほほえんだ。

 だが、心配事はまだ残っているようだった。

「でもわたし、お父さんやお母さんに自慢に思ってもらえるような娘じゃない気がするの」

 少し甘えた口調になった杏樹が、母親の腕の中で言った。

「どうして?」

「だって、わたしにはお母さんみたいに心の底から打ち込みたいって思える物がない。お父さんみたいな感受性の豊かさもない。ただ必死に誰にも嫌われないようにあがいているだけ」

 そんな感情を持った時期があったなと、その場にいた全員がほほえましい気持ちで杏樹を見守っていた。

 それは、がんばっている人だからこそ持つ葛藤なんだよ。

 結も拓人もそう告げてあげたいと思いながら、杏樹を見守っていた。

「杏樹ちゃん。お母さんがお料理教室を始めたきっかけは分かったでしょう。舞ちゃんにお料理を教えたことがきっかけよ。はじめからお料理教室をやりたい!って確信を持っていたわけじゃないの」

「お父さんの感受性だって、杏樹はすごいって言ってくれるけど、学校でぼくが生徒たちになんて言われているか知らないだろう? 泣き虫先生だよ。半分変態扱いだよ」

 少しすねた物言いの父親に、杏樹が思わず笑い声を上げた。

 そんな娘に、両親はホッとした様子だった。

「それに、杏樹ちゃんには一生懸命になれるものがないなんてことある?」

「最近も、ミーちゃんを助けるために、ぼくたちが心配になるくらい、献身的にお世話をしていたじゃないか」

 その二人の言葉に、杏樹は何か感じる物があったようだった。

「わたし…生き物と触れあっているのが好きなの。言葉はなくても、心が通じ合える気がする」

 杏樹のその言葉に、話を聞いていた結と拓人もうなずいていた。

「杏樹ちゃんは、植物とも対話できているよ」

「お料理に使うお野菜にもおいしくなってくれてありがとうって声をかけてたじゃない」

 結と拓人の応援の言葉に、杏樹は真っ赤になった目で嬉しそうにほほえんだ。

 どんな命も大切に思い、感謝の心も持てる子は、誰もが幸せになる切符を持っている。

 結と拓人は、改めて本当の家族になれた三人を見守りながら、その行き先の幸せを心の中で願った。

§エピローグ

「こら! ブラックとベリー! そんなところ上ったらダメ!」

 エルダーの庭のハーブガーデンを、二匹の子猫が走り回っていた。

 黒猫がブラック。茶トラと黒のべっ甲猫がベリー。

 どちらも杏樹がボランティアを始めた、動物の保護施設からやってきた子猫だ。

 杏樹はその後、自信を取り戻して学校に戻り、楽しい日々を送っているようだ。

「まだ沙也佳ちゃんとは話せていないけど、きっと、何か沙也佳ちゃんには沙也佳ちゃんの事情があるんだろうなって、思うことにしたの」

 杏樹とその両親は、その後もカフェが気に入ったらしく、週末に家族でやってくるようになった。

 母親の紀子とは、一緒にカフェメニューを開発する仲になったし、父親の浩は、拓人が刺激を受ける知識人らしく、庭仕事の合間と言いつつ数十分にわたって立ち話をしていることがある。

 当の杏樹はすっかり強い精神力を身につけたようだ。

 自分が養子だという事実も、自分にとって大切な学びだったんだと言えるほどに。

「わたしって、すごく恵まれているんだなって気づいたの。愛してくれるお父さんとお母さんがいて、エルダーの庭みたいに幸せになれる場所も見つけられた。結さんや拓人さんって味方もいる」

 杏樹は結と一緒にハーブの摘み取りをしながら、楽しそうに話していた。

「でも、それに気づけなくなって、自分が誰にも必要とされていないし、ひとりぼっちで世界に晒されているって気分になると、怖くて仕方がなかった」

 結にもそんな気持ちの時期があった。

 それを救ってくれたのが、拓人なのだ。

「今ボランティアに行っている施設のネコたちって、ひとりぼっちで、本当に酷い環境の中でがんばって生き抜いてきた子たちなの。だから、最初は全然人間を信用してくれなかったり、怖くて震えている子もいる。こっちの心が痛くなっちゃうくらい」

 きっと動物と心が通じる杏樹には、人より深く感じるものがあるのだろう。

 でも、語る杏樹の表情には明るい輝きがあった。

「その子たちの気持ちがね、わたしには分かるの。だから、一生懸命に大好きだよ。守ってあげるよ。幸せな未来が待ってるから安心してって伝えるの。そうするとね、ネコたちの目が変わるのが分かるんだよ」

 ブラックとベリーも、杏樹によって心を開いた子猫だ。

 ちょっとクールな、でもベリーを大切に守るブラックは拓人に。

 好奇心旺盛で何にでも突進していくやんちゃな女の子のベリーは結に。

 エルダーの庭は仲間が増えて、賑やかに、そしてさらなる癒しを与えてくれる場所になったのだ。

「杏樹ちゃんにぴったりのお仕事が見つかったね」

「これから、わたし、動物看護師の資格をとろうと思ってるんだ。お父さんとお母さんも賛成してくれてる」

「わたしも大賛成! 最強の動物看護師になれるよ」

 摘み取ったハーブのカゴを抱え、カフェに向かいながら、杏樹は胸一杯にハーブの香りを吸い込んだ。

「結さんも、ここで世界一みんなに幸せを届けられるカフェができるよ」

「わたしもそう思う!」

 二人は手をつなぐと、弾むようにハーブの生い茂るガーデンの中を歩いて行った。

 その後ろから、二匹の子猫がじゃれ合いながらついてくる。

 少し離れたところでは、拓人が木のベンチを作ろうと木材片手に奮闘している。

 ガーデンもカフェもまだまだ始まったばかり。

 でも夢と希望がいっぱいにつまった宝箱のような場所だった。

「わたしはここが大好き! だから大切に、心を込めてガーデンを作っていくね」

「わたしにもお手伝いさせてね」

 二人の前には、真っ直ぐに未来へとつづく道が見えていた。

 たくさんの人がこの庭で、夢と幸せを紡ぐ未来が。

 ここは癒しを届けるカフェ「エルダーの庭」

「エルダーの庭」 第二部 炎の花

1孤独上等

 人が集まると、なんと騒々しい空間が生まれるのだろう。

 授業が終わり、生徒たちがそれぞれに動き出すと、途端に空間は雑音に満たされる。

 人の声。イスが床をこする音。足音。

 その全てが混然一体となって、意味をなさぬ塊となって沙也佳の耳を打った。

 その中でも、際立って意識をとらえる言葉がある。

「杏樹、今日も施設に行くの?」

 どんな雑音の中でも、その名前だけは際立って耳に届く。

 思わず声の方を見ようとする目を手元に落とし、沙也佳は声だけを追っていた。

「昨日保護された子犬たちがすごくかわいいの。夕方のお散歩のお手伝いをしに行こうと思っていて」

「わたしも行きたい!」

 何人かが連れだって席を立つ音が続いた。

 沙也佳にとっては従姉妹にあたる杏樹。

 だが、初対面のときから心を通じ合わせることができない人物だった。

 もちろん杏樹に非があるわけではないのは分かっている。どちらかといえば、自分が一方的に悪いのだ。

 単に自分の苛立ちが、形を持って現れたのが杏樹であったというだけなのだ。

 顔を上げると、杏樹が数人の女友達に囲まれて教室を出ていくところだった。

 周りに光を投げかけるような笑顔の杏樹。

 その目が一瞬、沙也佳をとらえた。

 ためらいとともにそらされ、でも再び見つめあう二人。

 杏樹が、こちらにむかって何かを言いかけた。

 沙也佳の心の内でも、小さなざわめきが起こる。

 だが、その先はなかった。

「行こう、杏樹」

 立ち止まった杏樹の手を友達が引く。

 それは偶然の成り行きではなかった。

 その友達が、こちらに聞かせるように言葉を紡ぐ。

「杏樹は優しすぎるよ。あの女がボッチなのは自業自得。助けてやろうなんて、思わないの!」

 教室から消えていく女の子たち。

 そして取り残されたのは、ボッチと形容された自分なのだ。

 別にお情けでそばにいてくれる友達などいらない。一人で行動できないほど、誰かに依存する方が情けない。

「おひとり様で結構」

 小声で言い、立ち上がった時、教室で再び騒音が起こった。

「おい、彰人! 今日こそゲーセンでおまえの記録抜いてやるから来いよ!」

 ここにもバカがたむろしている。

 沙也佳はそう断罪して、その集団を眺めた。

 授業のほとんどを居眠りに費やし、そのくせ放課後になると元気になって仲間と連れだってどこかへ行く男子の集団。

 そんな小さな集団の中でもカースト制度はあるらしく、必ず下層におかれて、いいように利用されているだけの人間がいる。

 それが彰人だ。

 事あるごとにジュースを買ってきてだの、代わりに宿題やっておいてだのと用を言いつけられ、嫌だよといいつつ、ヘラヘラと笑って言いなりになっている。

 その彼が唯一イニシアティブをとれるのが、ゲームであるらしいことは、日々の会話で伝わっていた。

「ごめん。今日はゲーセン行けないんだよ」

「はぁ? マジで言ってんの? この俺が誘ってやってるのに?」

「だからごめんって」

「マジ、ダル。俺の今日の楽しみ奪ったおまえの罪は重いからな。後で償えよ」

「わかったって。明日、昼のジュースおごるからさ」

 なぜ学校帰りにゲームセンターに行くことを断るだけで、罪などと言われなければならないの?

 沙也佳には全く理解できないやり取りだったが、自分には関係のない世界。

 彰人が最低のアブラムシみたいな仲間に生き血を吸われようが、知ったことではない。

 沙也佳は教室から出て行こうとした。

 そして振り返って、仲間に頭を小突かれながらも笑っている彰人の姿に、腹が立ったのだった。

 人の言いなりになるな。自分を持てよ!

 だが自分はそんなことを偉そうに言える立場じゃない。

 ただのボッチなのだから。

 杏樹に「あんたは誰からも必要とされない、いらない子!」なんて心を突き刺す言葉を吐いた自分がいけないのだ。

ーー誰からも必要とされないのはわたしじゃん

 手に持った荷物が、途端に重くのしかかった。

「塾で勉強して帰ろう」

 家に帰っても碌なことはない。

「昨日の二の舞はごめんだもの」

 沙也佳は重い足を一歩踏み出したのだった。

2学歴至上主義者

 沙也佳がいつも家に帰るのは、午後十時を過ぎた時間だった。

 それまでは塾で自習をして帰るからだ。

 でも、昨日はテストで続いた寝不足のせいで体調が思わしくなく、早めに家に帰ったのだった。

 それが運の尽きだった。

 ダイニングには、父と母、そして祖母が夕食をとる姿があったのだ。

「おかえりなさい、沙也佳ちゃん。夕ご飯食べる?」

「…うん、軽くでいい。ちょっと風邪っぽいから」

「そうなの? テスト勉強で無理しすぎちゃったのかもしれないわね。毎晩ほとんど寝てなかったんじゃないの?」

 母は忙しなく動き回ってごはんを茶碗に盛り、沙也佳の前に置く。そしてすかさず心配そうに額に手をあてる。

「熱はなさそうね。今日は早く寝なさいね」

 食欲はなかったが、盛られたご飯茶碗を手に持ち、テーブルの上の梅干しを一つのせた。

「沙也佳はテストだったのか。出来はどうだった?」

 父の太蔵が、対して興味もないだろうに声をかけてくる。

 今一番触れてほしくなかった話題だった。

 食欲がないのは、風邪のせいばかりではなかった。

 祖母の存在が、沙也佳の胃袋を底からぎゅっと握りしめるような圧迫感を放っていた。

「まぁまぁだったよ」

「まぁまぁってなんだよ。数学は?」

「90点」

「90点も採れたの! 沙也佳ちゃん、がんばったわね」

 母はわざとらしいほどに手を叩いて喜び、沙也佳のためにお茶を注ぐ。

「確かにまぁまぁか。俺は数学だけは常に100点維持してたからな」

 父がいつもの過去自慢を始める。その先の流れはお決まりだった。

 理系科目だけは得意だったけど、文系は壊滅してたから、医学部も私立しか入れなかったんだよな。沙也佳は親孝行だから、国立の医学部行ってくれるよな。

 祖父の代から地元の開業医の一族。

 だから医者になるという未来は、暗黙のルールのように目の前におかれていた。

 幼少の折から始まった英才教育。

 忙しくてほとんど家にいない父や、おっとりとしている母に代わり、泣こうが喚こうが、イスに縛り付けてでも勉強をさせたのが祖母だった。

 鉄のような自分が正しいという意思の元に、沙也佳の前からあらゆる楽しみを奪っていった。父の買ってきた人形は、手の届かない棚の上に追いやられ、母の買ってくれた塗り絵は捨てられ、代わりに算数ドリルが手渡された。

 この算数ドリルが地獄だった。

 学校から帰ってくると、テーブルに山のように積み上げられているドリル。

 祖母が決めた量をこなし、全問正解するまでおやつも夕飯も与えられない。

「あんたみたいなバカには、体に間違えてはいけないって刻まないとならないんだよ! 蔵そう大たはできてるんだ。できるはずだろう!」

 赤い大きなバツの印の上に何度涙をこぼしたことだろう。

 そんな自分の横で、双子の弟の蔵大は平然とおやつを食べているのだ。

 何をやっても器用にこなす蔵大は、祖母のお気に入りだった。

 その祖母が、沙也佳の隣でお茶を飲んでいた。

「紀子のところのもらわれっ子は何点だったんだい?」

 祖母の詰問する口調に、沙也佳は喉の奥がぎゅっと締まっていくような緊張を感じた。

 紀子とは、父の妹であり、杏樹の母親にあたる人だ。

 祖母が弟の蔵大をかわいがっているように、自分の子どもにも同じような扱いをしていたのは孫の目からも明らかだった。

 デキのよかった父を愛し、言いつけを守らずに天真爛漫で自分のしたいことを突きとおした紀子おばさんのことは、名前を口にするのも苦々しそうだった。

 そのうえ、最近祖母をさらに不機嫌にさせているのが、もらわれっ子と形容される杏樹の存在だった。

「知らないよ」

 早くこの場を離れようという思いでごはんをかき込むが、喉を通っていかない。

「点数は知らなくても、学年の順位は分かるだろう。おまえは何番で、あのもらわれっ子は何番なんだい!」

 明らかにイラついたその口調に、沙也佳は箸をテーブルに下した。

 もう食べる気力がなくなっていた。

「杏樹が1番。わたしが3番」

 祖母の体から、苛立ちが稲妻のように放たれるのが分かった。

 空気が固まる。

 たまらずに母が口を挟む。

「3番だってすごいことよ! 沙也佳ちゃんの通っている高校は進学校なんだもの。ママなんて」

 必死に沙也佳を慰めようとする母の言葉は、祖母がテーブルを力任せに叩く音でさえぎられた。

「あのもらわれっ子に負けるなんて、おまえはなんて恥知らずなんだ!」

 祖母の上げる声は、怒り狂った熊のうなりにも似ていた。

「DNAに恵まれて、莫大な教育費もかけられているおまえが、どこぞのバカ女が産み落とした劣等種になぜ負ける!」

 テーブルに打ち付けた、しわとシミの浮いた拳がぶるぶると震えていた。

 恐ろしい差別意識。選民意識。

 養子だから劣っているという理論はどこからやってくるのか。

 医者だからって、なにが偉いんだ。

 沙也佳には言い返したいことが、喉のすぐそこまで湧き上がっていた。

 でも、子どもの頃から刷り込まれた恐怖が、口をつぐませていた。

「女のおまえは、わたしの期待に応える器じゃないんだろうね。せっかく育ててやったのに、どこかの遺伝子が紛れ込んだせいで歪んじまったんだ」

 暗に母を揶揄する言い方に、沙也佳は先ほど口にしたごはんも吐き戻したくなった。

「…申し訳ありません…」

 母のその謝罪の言葉が、沙也佳には限界だった。

 イスから立ち上がり、何も言わずにダイニングルームから出ていこうとした。

 そこに帰ってきた弟は、沙也佳の様子に怪訝な様子を見せたが何も言わなかった。

「蔵大。帰ってきたのかい。お腹がすいただろう。おばあちゃんが、取り寄せたおいしいブドウがあるんだよ。食べるだろう?」

 先ほど恫喝の声を上げた人物と同じだとは思えない優しい声が弟には向けられる。

「沙也佳は食わないの?」

 場の空気が読めていない弟が、沙也佳に声をかける。

 だが弟の問いに返答したのは、沙也佳ではなかった。

「クズにやる分はないよ」

「クズ?」

 意味が分からないという顔でいる弟に、沙也佳は吐き捨てるように言った。

「わたしはいらないから」

 ドアを力の限りに叩きつけてやりたかった。

 だがその思いをなんとか押さえつける。

「クソババアの買ったものなんて、こっちから願い下げだよ」

 部屋の中で、枕に顔を押し付けて叫ぶ。

 それが沙也佳のできる唯一の抵抗だった。

3バイト少年

「お腹すいたな…」

 時刻は午後九時を回っていた。

 塾を後にした沙也佳は、家に帰る前に深夜営業のスーパーに立ち寄っていた。

 家に帰って祖母がいるようなら、部屋で食べられるものを買っていこうと思ってのことだった。

 だが、店内に足を踏み入れてすぐに、思いがけないものを目にするのだった。

 カートにたくさんの段ボール箱をのせて運んでいくのは、あの彰人ではないか。

 緑のエプロンをして、棚の前までカートを押していくと、わき目もふらずに商品を棚に補充していく。

「あいつ、バイトしてるんだ」

 どうせゲーセンの代金でも稼ぐつもりなんだろう。

 こんなところで体力使ってるから、授業中に居眠りしてるんだ。

 沙也佳は彰人を鼻で笑ってやるつもりだった。

 でも、心の底で笑えないと思う自分もいた。

 いつもはヘラヘラして芯の抜けたような軟弱な様子なのに、今は額に汗を浮かべながら一生懸命に仕事をしている。

 ちょうどお年寄りが通りかかって棚のものに手を伸ばしていると、代わりに取って手渡してあげている姿も目にする。

 お年寄りにお礼を言われ、頭を下げながら笑顔を浮かべている。

 学校で仲間にむけているのとは違う笑顔だった。

 仕事なのに、楽しそうだった。

 沙也佳は自分の買い物をしながらも、彰人の予想外の姿が脳裏に残り続けていた。

 家に帰るのが嫌なせいか、お菓子や飲み物を選ぶのに必要以上の時間をかけて買い物をしてスーパーを後にする。

 そして幹線道路に面した歩道に出ようとしたとき、目の前で車と自転車が接触するのを目にしたのだった。

 ガシャンという音とともに、自転車に乗っていた男の子が歩道に投げ出された。

 車もすぐに止まり、運転席から人が降りてくる。

「大丈夫ですか?! ケガは?!」

 男性が歩道に倒れている男の子に駆け寄って声をかけている。

 周りの人も、大きな物音に好奇心の目を向けながらも歩み去っていく。

「大丈夫です。大した事ないですから」

 手のひらをズボンでこすりながら、男の子が立ち上がった。

 それを見て、沙也佳は目をみはった。

 彰人がそこにいたからだ。

 事故にあったのは、ついさっきまでバイトをしていた彰人だったのだ。

 彰人は自分の方が悪いと思っている様子で、何度も「すいません、すいません」と頭を下げ、この場を立ち去ろうとしている様子だった。

「マジで大したケガもしていないんで、気にしないでください。俺が飛び出したからいけないんで」

 男性の方が、何とか引き留めようとしているのに、彰人が倒れた自転車を起こして走り去ろうとする。

 あいつ、何考えてるのよ!

 沙也佳は思わず駆け出すと、彰人の前に立ちはだかった。

「彰人! あんたは事故にあったのよ。ちゃんと相手と話しなさいよ!」

「…佐々木さん?」

 突然の沙也佳の乱入に、自転車にまたがった彰人が立ち止まる。

「そうだよ。今は事故を起こしたばかりで気が立っているから痛みがなくても、後でケガに気づくこともあるんだよ。ちゃんと病院にいかないと」

 男性が訴えかけるが、彰人は「大丈夫」を繰り返していて、厄介ごとから逃げたい一心のようだった。

 仕方ないと思った沙也佳は、代わりに男性に言った。

「名刺をください。このバカがもっとバカになったら、慰謝料もらいに行くんで」

 改めてよく見た男性は、沙也佳が今まで会ったことがない部類の人だった。

 まず第一に髪が腰に届くほどの長さで、よく日に焼けた褐色の肌をしていた。

 ガテン系の人って名刺持ってる?

 そんなことを思っていた沙也佳に、男性はポケットから名刺を取り出して手渡してきた。

 そこには「ハーブカフェ・エルダーの庭 ガーデナー 植草拓人」と記されていた。

4初診療

「本当に大丈夫だから、帰らせてよ。どこに連れていくつもりなの?」

 強引に彰人の腕をつかんで歩く沙也佳に、彰人は引きずられるようにしてついてきていた。

 根が優しいのだろう。沙也佳の腕など簡単に振り払えるだろうに、文句は言っているが、無抵抗で付いてくる。

「学校ではうちに入ったなんて誰にも言わないでよね」

 沙也佳はそういって、自分の家に彰人を連れてきたのだった。

「佐々木クリニック…って佐々木さんちってお医者さんだったんだ。どうりで…」

 沙也佳にとっては聞きなれたフレーズが来るのだと思った。

ーー頭良いんだね

何度聞いても気分のいい言葉ではなかった。

だが、彰人が口にしたのは違う言葉だった。

「どうりで、けが人を放っておけなかったんだね。白衣の天使じゃん」

「それは看護師でしょ」

「そっか。じゃあ、白衣の神?」

「わたしは白衣着てないし、医師免許も持ってないから。いいから静かにしてって」

 沙也佳は家の中の様子をうかがうと、こっそりと彰人を自分の部屋に通した。

 そして家の救急箱を取ってくると、彰人のケガの治療を始めたのだった。

 手のひらのケガは思いのほか酷くて、えぐれた肉の中に砂や砂利が入り込んでいた。

「こういうのはちゃんと消毒しないと、後で酷くなるから、痛いだろうけど我慢してよね」

 予告しておいたのに、手のひらに消毒液をかけた瞬間、彰人がうめき声をあげる。

「ちょっと、静かにしてよ!」

 彰人にタオルを投げつけると、素直に口にくわえて身もだえしていた。

 滅菌ガーゼで傷を覆い、治療を終えたが、沙也佳にはこれでいいのか不安が残っていた。

「どうする? パパに診てもらう?」

「そんなのいいって。大丈夫だから。こんなにしてもらったんだから治るの間違いなしだよ」

 彰人が強がって手をぎゅっと握って見せたが、途端に「痛っ!」と顔をゆがめるのだった。

 家に帰るという彰人を見送りに出て、沙也佳は名刺の事を思い出してポケットから取り出した。

「あの人も気にしていたから、事故の話し合いはちゃんとした方がいいよ。その方が相手も気持ちがすっきりするって」

「…そうかな…」

 煮え切らない反応の彰人だったが、自転車は車にぶつかったせいだろう、歪んだタイヤが回る度におかしな音を立てていた。

「その様子だと、バックれるつもりでしょう。ダメだからね。…わかった。明日一緒に行こう。このエルダーの庭ってところに」

 沙也佳は手渡そうとしていた名刺を自分のポケットにしまうと、迷惑顔の彰人に「バイバイ」と手を振るのであった。

5エルダーの庭

 エルダーの庭についたとき、沙也佳も彰人も疲労困憊だった。

 マップで見ても、こんな山の中にカフェなんかあるのかと思ったが、実際に来てみると、予想以上の山道の連続で、このまま人家もない山の中に入り込んでしまうのではと不安になるほどだった。

 だが、坂を越えると突然目の前に広がった庭園に、二人はしばし無言になって見入ってしまったのだった。

「なんかいい匂いするね」

 彰人の言葉に、沙也佳も周囲の空気に爽やかな緑の香りが混じっていることに気づいた。

「ハーブ?」

「っていうの? いっぱい見たことない花が植わってる。キレイだね」

 あの男性の肩書がガーデナーだったことを思い出した。

「この庭を、あの男の人が作っているのかな?」

「だったらすごい人じゃん」

 沙也佳と彰人はガーデンの奥にあるカフェに向かった。

 大きくはないが、ホッと息をつける空間が広がるカフェだった。

 さりげなく置かれた小花の生けたガラス瓶が、おしゃれに見える。

「こんにちは」

 彰人がビクビクしながらカフェのドアをくぐる。

 カランカランというドアベルの音についで、女性の「いらっしゃいませ」という声が迎えてくれる。

「お客じゃないんですけど」

「こんな山奥で迷子? それともトイレだったら、自由に使っていいわよ」

「いや、腹は壊してないので…」

 彰人と店の女性が先の見えない会話をしているので、沙也佳が割って入った。

「こちらに植草拓人さんっていますか?」

「拓人さん? 今、買い物に出てもらってるんだけど…」

 そう言いかけて、女性が彰人のケガをしている手を見て、ハッと気づいた表情になる。

「もしかして、昨日拓人さんの車とぶつかっちゃったっていう男の子?」

「はい。別に全然大丈夫なんですけど、佐々木さんが会いに行けってうるさいから…」

 うるさいと言われて思わず素で彰人の脇腹に裏拳を叩き込む。

 すると「ウゲ」と腹を抱える彰人。

「ワザとらしい!」

「マジで腹に入ったんだって。佐々木さん、武道でもやってるの?」

「そんなわけないでしょう!」

 二人の掛け合いを見守っていた女性がクスクスと笑う。

「二人とも仲がいいのね。わたしはカフェのオーナーの森本結です。拓人さんが帰ってくるまで、お茶でも飲んで待っていて」

 仲がいいなんて言われて思わず距離をとった沙也佳だったが、言われてみれば彰人とは何の違和感もなく話していることに気づいた。

 昨日まで、大した会話を交わしたことがなかったはずなのに、偶然の重なり合いで、事故を目撃して、家で手当をして、今はこうして二人でカフェまでやって来ている。

「今年はまだ暑いよね。日焼けが怖くない?」

 結が沙也佳に向かって微笑みかける。

 近頃の女子は小学生でも日焼け対策に日に何度も日焼け止めを塗るくらい、日焼けを恐れている。

 でもカフェの運営を中心にしているとはいえ、この女性もガーデンで作業をすることがありそうなのに、あまり日焼けをしていないことが不思議だった。

「ガーデンの仕事は拓人さんだけがしているんですか?」

「ううん。わたしもやるよ。この広さだから二人でもなかなか手が回らないくらいなの。今日も朝から草取り三昧だよ」

「そうなんですか。…でも、すごいお肌キレイですよ」

「本当? 現役の女子高生に褒められちゃった」

 結が嬉しそうに頬に手を当てている。

「それはきっと、このお茶のお陰かな」

 結はそういうと、沙也佳の前に真っ赤な色の飲み物が入ったグラスを差し出した。

「これはローズヒップとハイビスカスのハーブティーなの。美肌効果がばっちりのビタミンCがたっぷりのお茶なんだよ。飲む日焼け止めなんて言われてるよ」

 真っ赤な夕焼けを溶かしこんだようなお茶の中で、氷と輪切りのオレンジが揺れていた。

「ちょっと酸っぱかったら、ハチミツを入れてね」

 一口飲むと確かに酸味が強かったが、オレンジの甘味と香りが相まって、山登りの疲れも吹き飛びそうなおいしさだった。

「そして君にはこれ、レモンフレーバーのスカッシュ。レモンバーム、レモングラス、レモンバーベナって、全部ハーブなのにレモンの香りがするの。そのハーブたちをたくさん入れたレモンシロップのスカッシュだよ」

 きっとハーブティーなんて飲んだことがないだろう彰人は恐る恐るグラスに口をつけていたが、すぐに笑顔になる。

「すごいおいしい。レモンよりレモン!」

「でしょう!」

 結が友達のように笑って、さらにケーキも切り分けてくれる。

「俺お金ないですけど」

「そんなこと気にしないで。これはサービスです。秋のケーキにって試作しているイチジクとクルミのキャラメルケーキなの。よかったら感想教えて!」

 なんて人懐っこい人なのだろう。いつもは知らない人に関わるなとバリアを張るタイプなのに、いつの間にか結のペースに巻き込まれて、一緒になって笑っている自分に気づき、沙也佳は不思議な思いでケーキを食べた。

「おいしいです。このクルミがキャラメリゼしてあるってことですか?」

「そう! よく気づいたね。ケーキとか作るの?」

「全然。女の子らしい趣味もなくて」

「俺はたまにケーキつくるよ」

 彰人が予想外のことを言い始める。

「あんたがケーキ?」

「日曜日とか朝にホットケーキ焼いて食べるよ。ホットケーキミックスってやつだけど」

「炊事洗濯もやってるとか?」

「普通にやるけど。毎日運動着を洗うの、母さんにやらせたら悪いから、風呂入っている間に洗濯機にかけて部屋に干すし、弁当も朝自分で詰めるよ」

 何もできない頼りない奴だと思い込んでいたが、どうやら偏見だったようだ。

 結も「偉いねぇ」と褒めているが、沙也佳も内心、彰人のことを見直していた。

 仲間に利用されるだけの男だと思っていたのに、自分の考えを持って行動していたんだ…。

「だったら、手をケガして色々不便なんじゃない? 拓人さんもすごい心配していたのよ」

「ですよね。どうなったか分からないで待つだけって、辛いだろうと思って、今日ここに来たほうがいいって思ったんです」

 沙也佳の言葉に、結が頭を下げる。

「ありがとう。拓人さんもきっと喜ぶ。そしたら、拓人さんが帰ってくるまで、二人にわたしからお礼をしようかな」

 結はそういうと、カフェのテーブル席に二人を移動させ、タオルと何か液体の入った瓶を持ってきた。

「アロマオイルって知ってる? ハーブのオイル分を抽出したものなんだけど、そのアロマオイルでマッサージオイルを調合してみたの。二人にハンドマッサージをしたいと思います」

 手を出してと言われ、明らかに彰人は狼狽していた。

「俺は人に触られるのあんまり得意じゃないんで、マッサージはいいです」

「そうなの? だったら女の子の方」

 そう言われ、仕方なく沙也佳は右手を結に差し出した。

「わたしは沙也佳で、こっちが彰人と言います」

「沙也佳ちゃんと彰人くんね」

 結は沙也佳の手を取ると、たっぷりとオイルを塗りこんでマッサージをしていく。

「力加減は大丈夫かな? 痛くない?」

「はい。気持ちいいです」

「よかった。それにしても、沙也佳ちゃん、手の筋肉がパンパンに凝っているよ」

「手がですか?」

「人って、体の前に腕を持ってくる作業ばかりでしょう。だから、常に筋肉が前に引っ張られて、肩こりになったり、腕もねじれて手首が硬くなったりするの」

 確かに話しながら手の平から腕へと摩り上げられると、気づいていなかった疲れが押し流されていくように感じた。

「佐々木さんの場合は、勉強しすぎだね」

「沙也佳ちゃんは、頭がいいんだ」

「そう。俺とは正反対。俺は下から数えた方が早い順位だけど、佐々木さんはいっつも一番」

「一番は杏樹でしょう。わたしは、全然頭よくないから」

 謙遜ではなかった。

 本当に自分は頭がいい人間ではないと沙也佳は思っていた。

 頭がいいって言うのは、弟の蔵大や杏樹のように、一度教われば理解できて使いこなせるような人間に対して使う言葉なのだ。

 わたしは、あの人たちの何倍も時間をかけて、努力を重ねなければ、今の位置だって維持できない。

 毎日学校帰りに塾に通い、夜の十時まで勉強を続ける。朝は六時に起きて学校に行き、休み時間も無駄にはせずに本を読んだり、課題に取り組む。

 自分の全ての時間と体力を勉強に捧げている。

 それでも、杏樹には敵わない。どんなに努力をしても、祖母の怒りを収めることはできない。

 黙り込んだ沙也佳を、結がじっと見つめていた。

「もしかして杏樹ちゃんって…」

 結がそう言いかけたとき、彰人が口を挟んだ。

「佐々木さんが頭よくないとか言ったら、俺なんてどうなるんだよ。授業で聞いて分かった気がしたことも、放課後には全部忘れちゃうような脳みそなんだよ。俺の脳の百倍は高スペックなんだよ。羨ましいよな。天才はずるい!」

 その言葉に、沙也佳の中で何かが弾けた。

「あんたとわたしを一緒にしないで! なんの努力もしないで、いっつも授業中に寝てる人が、わたしと同じだけ出来るわけないでしょう!」

 言った後で、失敗したと思った。 

 言うべきでないことを、わたしはまた口にしてしまった。

 彰人が自分の思っていたような、ダメな人間でないと分かっているのに、もう取り返しがつかなかった。

 彰人が突然の沙也佳の怒りに、目を丸くしている。

 結もマッサージの手を止めて、沙也佳を凝視していた。

「あんたは、ただ単にやる気がないだけ! やればできるくせに、やろうとしない人間が一番腹が立つのよ!」

 沙也佳は叫ぶと、結の手を払いのけた。

 そして誰よりも傷ついた顔で、店を飛び出していったのだった。

6心の底の自分の声

 どうして自分はこんな風に、人を傷つける言葉しか吐けないのだろう。

 杏樹を傷つけ、彰人を傷つけ、きっと結も傷つけた。

 親切にしてくれた人に、恩を仇で返すなんて。

 自己嫌悪でいっぱいになり、自分への悔しさで涙がとめどなく零れた。

 そして同時に気づいた。

 道に迷っていた。

 勢いで店を飛び出して、来た時とは違う道を走ってきてしまったのだ。

 見覚えのない景色の中で、山の斜面からせり出した木の枝が視界を塞ぐように立ちはだかっていた。

「ここ、どこ?」

 立ち止まった矢先に、木の梢が激しく揺れる。

「何?!」

 怯えて叫べば、木から飛び立った鳥の姿が空を舞っていた。

 鳥みたいに空を飛べれば、すぐに自分の帰る方向も分かるのに。

 わたしなんて、鳥よりも価値のない存在なんじゃん。人に痛みしか与えないわたしなんて、存在しないほうが…。

 そんな暗い思考に心を覆われそうになる。

 本当にこのままこの世から消えても、誰も悲しまないんじゃないだろうか。

 涙も出ない心の虚しさに、沙也佳は一人立ち尽くしていた。

 そこへ、車のエンジン音が近づいてきた。

「こんなところにいたのか。探していたんだぞ」

 近づいてきた車の運転席から、拓人が言う。

「家に送るから、車に乗って」

 助手席に乗り込んだ沙也佳だったが、黙ったまま何も話すことができなかった。

 きっと結や彰人に、自分がどんな暴言を吐いて店を飛び出したのか聞いていることだろう。

 とんでもない人間だと思われても仕方がない。

 自分でもなぜこんな風にしか人と接することができないのか、分からないのだ。

 頭では分かっている。

 杏樹のように、人をいたわる微笑みを浮かべて、話を聞いてあげる愛情にあふれた人間になった方がいいのだ。

 あるいは結のように、一緒にいる人を楽しい気持ちにさせる会話ができる人間。

 でも、気づけば口から毒があふれてしまう。

 黙っている沙也佳に、拓人も道を尋ねる以外に話しかけることはなかった。

 だが家に着いた途端、何かを思ったように呟いた。

「医者の娘か。…大変だろうな…想像がつくよ。親の期待とか、勝手に期待したくせに絶望の目をむけてくるとかさ…」

 その声に、沙也佳が拓人の顔を見上げた。

「拓人さんも?」

 だがその先を聞く前に、最も聞きたくない声が響いた。

「沙也佳、勉強もしないでどこを遊び歩いてたんだい! しかも誰だい?! 知らない男の車に乗って帰ってくるなんて!」

 祖母が杖をついた足で、仁王のように立ちはだかっていた。

「おばあちゃん、拓人さんはわたしを助けてくれて」

 慌てて車を降りて祖母に駆け寄った沙也佳だったが、杖で脇に追いやられる。

 祖母は車から降りてきた拓人に近づくと、魔物を前にしたように杖を構えた。

「あんた! うちの孫に何しようっていうんだい! あんたみたいな風体の男にやれるほど、うちの孫は安い女じゃないんだ!」

 沙也佳は恥ずかしさで祖母を抑えようとしたが、どこにそんな力があるのか、祖母の体はピクリとも動かなかった。

「頭の弱い、悪党はうちの敷地から今すぐに出ていけ! 沙也佳に手を出したら、わたしが黙ってないからね!」

 圧倒されたように立ち尽くしていた拓人だったが、ただ沙也佳と祖母に頭を下げて帰ろうとする。

 どうして? 拓人さんは何も悪くないのに、悪いのはおばあちゃんなのに。

 沙也佳は溢れる思いを抑えられずに、祖母を背中から罵った。

「常識がなくて、バカなのはおばあちゃんじゃない!」

 怒りに顔を赤くして叫ぶ沙也佳の姿に、振り返った祖母が身を硬くした。

「拓人さんは、わたしを助けてくれただけなのに、なんで悪党なんて呼ばれなきゃいけないの? 偏見に凝り固まった差別主義者で、愛情なんてこれっぽっちもないおばあちゃんの方が、よっぽど人でなしよ! なんでおばあちゃんが、わたしのおばあちゃんなのよ! どうしてわたしを愛してくれる人がわたしのおばあちゃんじゃないのよ!」

 沙也佳の発した初めての心の声だった。

 わたしを愛してほしかったという心の声が、逆の言葉となって現れた言葉。

 そして沙也佳が初めて見たのだった。

 沙也佳の言葉に傷ついた祖母の顔を。

7ケイトウ

 その後の数日間は最悪の気分のままに過ぎていった。

 家では祖母との間に、今までとは違う緊張感が生まれた。

 食卓では隣の席に座っていながら、まるで存在しないかのようにお互いに言葉を交わすことも、視線を向けることもなかった。

 その異常な空気に、母も口をつぐみ、食卓は葬式よりも深い沈黙に覆われた。

 学校でも今までは受け入れられてきたボッチという状態に、自分の気持ちがざわめくようになってしまった。

 たった一日だったけれど、彰人と過ごした時間によって、人と心を通わせる楽しさを覚えてしまったのかもしれない。

 彰人は教室で相も変わらず男子と騒いでいたし、バイトにも励んでいるようだったが、沙也佳の方が彰人を避けてしまっていた。

 ただの苛立ち紛れに彰人を侮辱してしまった。

ーーわたしは全然成長していないんだ

 杏樹の時から、何も学んでこなかった。

 本当は杏樹のようになりたかったという羨望をぶつけただけの自分。

 好きになれそうだった結や拓人との関係も、一瞬の怒りでぶち壊してしまった。

「マジ、わたしって最悪…」

 その時だった。普段は鳴らない沙也佳のスマホがラインの着信を伝えて震えた。

 画面に表示されている名前は彰人だった。

『明日一緒にエルダーの庭に行こう』

『ヤダよ。一人で行けばいいでしょう』

『事故を起こしたら、相手を安心させるために会いに行けって言ったのは佐々木さんでしょ。結さんも拓人さんも、佐々木さんとの事故を心配してるよ』

ーー事故? あのわたしの暴言を、たまたま起こった事故扱いにしてくれるの?

『彰人は…わたしのこと嫌いになったでしょ?』

『どうして? 俺のケガを手当してくれるような人は、佐々木さんだけだよ。俺が佐々木さんを傷つける言葉を言ったんだろうし。ごめんね』

ーーごめんねは、わたしが先に言わなければならない言葉のはずなのに。

 それにしても、彰人はやっぱり思っていた以上に頭がいいみたいだと思った。

 自分が嫌がる彰人をエルダーの庭に引きずって行った、事故の相手の気持ちを考えるという論法を、見事にブーメランで返してきたのだから。

『分かった。何時に行くの?』

『午前六時』

『朝の六時ってこと?』

『実は結さんとガーデンの草取りを手伝うって約束してて、佐々木さんにも手伝ってほしいんだよ。草取り中に怪我したら、また手当してくれる人も欲しいし』

ーーこのわたしが、自分の家の草取りだってしたことのないわたしが、早朝から草取りに出かけるって言うの?

 らしくないことばかりをする日々に、彰人が恨めしくなる。

 いつもと変わらずに続くはずだったわたしの毎日をかき乱さないでよね。

 

『わかった。現地集合でいいね』

『うん。ありがとう』

 眠くて連続するあくびに涙を流しながら、沙也佳は早朝の秋の景色の中を自転車で走っていた。

 辺りには朝霧が立ち込め、遠い景色はまるで雲の海に家々が浮かんでいるかのようだった。

 腕時計の時刻は午前五時。

 彰人と約束した時間よりも、早く出てきたのは、祖母と顔を合わせないためもあったし、みんなへの罪滅ぼしの気持ちもあった。

 口が災いするならば、行動で反省を示すしかない。

 結さん、拓人さんに会ったら、何と言ったらいいのだろう。

 素直にただ「ごめんなさい」と言えばいいのだろうが、そんな言葉で許してほしいと思うのは違う気がした。

 もちろん自分の負けず嫌いのプライドが、謝罪の言葉を拒否しているのかもしれないけれど。

 目に入る景色も見えないくらいに、悶々と思考しながら山道を上る。

 だが、そんな出口の見えない思考も、朝霧の静謐な空気の中で、ひっそりと、しかし確実に命の輝きを放つエルダーの庭のガーデンの景色に霧散した。

 思わず自転車を降りて、景色に見入った。

 自然と冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、淀んでいた体の中の思いを息とともに吐き出す。

「早起きは三文の徳を体感したか?」

 すぐそばでした拓人の声に、沙也佳はハッとして辺りを見回した。

 するとすぐ目の前の土手の下から、鎌を片手に這い上がってくる拓人の姿があった。

「…拓人さん。この前は申し訳ありませんでした。祖母がひどいことを言って」

「なかなか元気なおばあさんだねぇ。俺も負けるわ」

 拓人がおどけた仕草で、祖母のした杖を構える様を真似する。

 嫌な顔をされるかもと恐れていた沙也佳は、ホッとする気持ちになるのと同時に、申し訳なさで再び「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

「全然、申し訳なくないって。俺はどっちかっていうと、嬉しかったけど」

「嬉しかった?」

 予想もしていなかった言葉だった。

「だって、沙也佳ちゃんが怒ったのは俺のためだろう。あんな風に、おばあさんに自分の思いをぶちまけたことなんて、ない子だったんじゃないのかなって思って」

「…確かにそうですけど…」

「それに、おばあさんの反応も、俺にはやっぱり嬉しかった。自分の孫を守るために、不自由な体を盾に立ちはだかってた。すごい愛情じゃないか」

 祖母がわたしに愛情を?

 どうもしっくりこない言葉に眉をしかめると、拓人が笑った。

「相手が自分に示す感情が突き刺さる理由って知ってるか?」

 急な禅問答のような問いに、沙也佳が首を横に振る。

「同じ感情が自分の中にあるからだよ。感知できるから反応してしまう」

 未知の感情ならば、人は分からずに恐怖を抱く。

 知っている負の感情だからこそ、理解して怒りを抱く。

「俺は自己防衛で小さな嘘をつく奴を見たときに、すごく腹が立ったときがあってね。下手な正義感が働いているのかと思ったけど、違うって気づいたことがあったよ。みっともないって思ってたんだ。同じように自分に非があることを人のせいにするために、不必要な嘘をついたことがあったなって。それからは正直に生きようって心に誓ったけどな」

 拓人はそう言うと、カフェに向かって沙也佳を先導して歩き始めた。

 わたしが祖母の言動に苛立ち、悲しくなるのは、同じ感情があるから?

 わたしには、あんな差別思考も選民意識もないと思うけど…。

 だけど……。ふと心に浮かぶ思いがあった。

 自分にも祖母と似たところがあるのかもしれない。

 自分だって、思っていることと真逆の言葉を口にする傾向があるじゃないかと。

 彰人の頑張る姿を、心の中では尊敬の思いで見ていたのに、口から出たのは「やる気がない」と罵る言葉だった。

 杏樹のことも、自分にはない能力や才能を持った人間と憧れていたのに、「親の七光り」とこき下ろした。

 全部自分の本当の想いとは逆のこと。

 なぜわたしはこんななの?

 物思いに沈んでいると、結の声が聞こえた。

「沙也佳ちゃん! 朝早くからありがとうね。早速だけど、必要な道具を渡しておくね」

 すっかり農作業ルックの結が、沙也佳のことも同じスタイルに変えていく。

「首にはしっかりタオルを巻いてね。蚊とか蜂から首を守ってくれるよ。それから、手甲。袖を汚さないようにして、長靴もはいて、軍手して、鎌持って。はい、完成!」

 手渡された日よけのついた花柄の農園フードを被ると、沙也佳も思わず笑ってしまった。

 畑で見かけるおばあちゃんたちの姿に、まさか自分がなるとは。

「佐々木さん、早いね。っていうか、その恰好めっちゃ似合ってる」

 やってきた彰人が、自転車を降りながら沙也佳を指さして笑っている。

「うるさい! っていうか、あんたの自転車直ってるじゃん」

「拓人さんが直してくれた」

 彰人が自慢げに、新品になった自転車のかごをたたいて見せる。

「拓人さんは器用だから、なんでも自分でやっちゃうのよ。ガーデンのテーブルとかベンチも、全部拓人さんの手作りだからね」

 結も自分のことのように自慢げだった。

 だが当の本人は、先にガーデンに行って草取りを始めている。

 それに倣って草取りを始めた沙也佳は、取っていい草と植えてあるハーブを結に確認しながら、黙々と作業を続けていった。

 時折触れたり切ってしまったハーブから、さわやかな香りが立ち上る。

 そのたびに思わず目をつぶって、心が震える香りを堪能した。

「ミントって、歯磨き粉の匂いって思っていたけど、本物の香りは違いますね。もっと甘い?」

「それはパイナップルミントだからね。指で葉っぱを擦って香ってみて」

 結に促され、葉の裏を指でこすって香ると、一層甘い匂いに感じた。

「すごいいい香り」

「でしょう。ミントは二百種類くらいあるから、香りも全部違うんだよ」

「そうなんだ。全然知らなかった!」

「ハーブの世界はすごい奥深いんだよ。だから、わたしも沼っちゃった」

 結の笑顔に、沙也佳もわかる気がしてうなずいた。

 花壇の中から雑草が除かれ、花やハーブたちがキレイに全身を見せ始める。

 そして一つの花が沙也佳の目に入った。

 赤くてうねりのある厚い花弁を持った花。ケイトウだった。

「ケイトウもハーブなんですか?」

 そばに来ていた彰人が、「毛糸?」と首を傾げている。

「毛糸じゃなくて、鶏頭。ニワトリのトサカみたいな赤い花があるでしょう」

「本当にでっかいトサカだ。ちょっとキモイ」

 彰人の素直な反応に、結も沙也佳も笑った。

 だが、沙也佳の笑いは少しの苦みが混じっていた。

「わたしも、ケイトウの花ってちょっと嫌い」

「なんで?」

 結が首を傾げる。

「…ちょっと品がないっていうか…たぶん…祖母が言ったんです。下品な花だって」

「そうなの? でも、わたしはケイトウ好きだよ。バラの赤い花はキレイで、ケイトウの赤い花はダメなんて変だよね」

 確かにそうだ。

 結の言葉に沙也佳も納得した。

「お花にいい花、ダメな花なんて差はないよ。それは人間も同じ」

 結の格言に、だが彰人が口を尖らせた。

「そうかな。結さんには悪いけど、ちょっとキレイ事じゃない? 俺なんてどこに価値があるのさ。バカだし、チビだし、弱いし」

 彰人が自虐をして笑った。

 だが、沙也佳は笑えなかった。

 そして今度こそ本当のことを言おうと、心に決めた。

「そんなことないじゃん。わたし、めっちゃ一生懸命に働いてる彰人の姿みて、すごいって思ったよ。お年寄りにも親切にしてたし」

 彰人は初めて沙也佳に褒められ、最初は意味が分からなそうに目をぱちくりさせていた。

 でもしばらくすると、顔を赤くして草まみれの軍手で頭をかいた。

「ありがとう。っていうか、いつ俺がバイトしているところを見たのさ」

「別に普通に買い物行ったとき」

「もしかして、佐々木さん、俺のストーカー?」

「バカなこと言わないでよ! たまたま通りかかっただけじゃん。がんばってるって取り消そうかな」

「え! 取り消さないで! 俺はがんばってる!!」

 そんなやり取りに、結と拓人が笑い声をあげた。

 そして、その瞬間、晴れ始めた朝霧の間を明るい陽光がさし始めた。

 天使の梯子のように雲間からさす光が、花たちを煌めかせる。

「ほら、見てごらん」

 拓人に指さされ、沙也佳はケイトウの花を見た。

 日の光を浴びて深紅に燃えるケイトウの花。

 それは太陽の光に輝いているというよりも、自ら空気中の光の粒を集めて光輝いているように際立って見えた。

「燃える松明みたいな花だと思わないか?」

 拓人の言葉に、沙也佳がうなずいた。

「沙也佳ちゃんも、俺にはケイトウみたいに見える」

「え?」

「人を思って燃え上がることのできる人間」

「わたしが?」

 わたしが人を思いやれる人間? そんなはずはない。

 だがそんな思いを感じ取ったように、彰人が言った。

「拓人さんの言う通りじゃん。事故った俺を助けに駆けつけて、家まで連れて行って手当してくれたじゃん」

「俺のために、おばあさんを止めようと必死になってくれてたし」

「それに、ついさっきも彰人くんをちゃんとがんばってるって励ましてたじゃない?」

 三人に口々に言われても、沙也佳は混乱するばかりだった。

「でも、わたしは人を傷つけてばかりで…」

 言いかけた沙也佳の手を、結が握った。

「沙也佳ちゃんは火なんだよ。思いが強くて溢れちゃう。でも、それって悪いことじゃないよ。事故にあった人のところに駆け寄って助けるって、誰もができることじゃない。心に熱い信念があるからできるの」

 困っている人がいたら、素通りできないのは事実だった。

 苦しい思いをしている人がいたら、その苦しい場所から抜け出す助けをしたい。しなければならないと感じていた。

「でもその火が、自分のことも焼いているのかもしれないな。いつも自分の本当の思いを犠牲にしてるんじゃないか?」

 恵まれた立場にいる自分が、何かを犠牲にしている自覚はなかった。

 だが、答えは思いがけないところからやってきた。

「佐々木さんはさ、自分のやりたいことやってなくない? やりたくないことを我慢してやってるでしょ。俺みたいに嫌なことはヤダって言って逃げちゃえばいいのに。クラス委員とか押し付けられてもヤダって言わないもんね」

 彰人がそんな風に自分を見ていたとは思わなかった。というよりも、自分に関心などないと思っていたのだ。でもちゃんと見ていたのだ。

 わたしは自分のやりたいことをやってないのかな? …確かにやらなければならないと、強いて自分にやらせていることが一日の大半を占めているのかもしれない。

 わたしが本当にしたいことは…。

 そう思って、沙也佳は再びケイトウの花に目をむけた。

 凛と立って辺りを照らす松明のような花。

 そして同時に目に入った人物の姿に声を失った。

 ケイトウの向こうに、杏樹が立っていたのだ。

8忘れな草をあなたに

 杏樹が現れた瞬間、結と彰人が挙動不審になった。

「みんなのために、わたし朝食の用意に行かなきゃ」

「俺も結さんを手伝う!」

 二人がそろって、芝居がかった台詞を吐いてカフェの方へと逃げていく。

 それを見て拓人はやれやれと肩をすくめたが、同じくカフェへと引き上げていった。

「沙也佳ちゃん、急に来てごめんね」

 謝る杏樹に、沙也佳は思わず目をそらした。

 沙也佳は動揺していた。

 いつもの学校で定着している沙也佳のキャラクターなら、ここで毒の一つでも吐いて杏樹に背を向けるのだ。

 だが、今はどうだ。完璧な農業ルックに汗で顔をテカらせ、このガーデンの花たちに毒気を抜かれてしまっている。

 それに、自分も気づいてしまっていた。

 本当の自分の気持ちに。

 素直な自分の気持ちを人に見せることができずに、わざと逆のかわいげのない自分を演じてしまう。

 悲しくても平気な振り。好きでも嫌いなふり。抱きしめてほしければ、相手を突き放す。

 そんな自分に嫌気がさしていた。

 慣れないことをしようとする自分に、強烈な抵抗を感じた。

 でもここで乗り越えなければ、一生自分は変われないのかもしれない。

「杏樹」

 沙也佳は小さな声で呼びかけた。

「沙也佳ちゃん?」

 まだ目を合わせてくれない沙也佳に、杏樹は不安そうだった。

「…ごめん…ごめんなさい…」

 絞り出すように言った瞬間、自分でも理由の分からない感情に涙があふれ出した。

「謝って許してもらえるようなことじゃないのは分かってる。わたしはとんでもないことを杏樹に言ってしまった。その言葉がどんなに杏樹を傷つけたか、わたしには想像もできない。杏樹は誰にも必要とされない人間なんかじゃない。いらない人間はわたしの方なの! それなのに、ごめんなさい! ごめんなさい!! 」

 言葉には嗚咽が混じり、最後には押し殺そうとする泣き声に変わっていた。

 自分に泣く資格なんてない。泣きたいのは杏樹のほうだろうに。

 それでも涙が止まらなかった。

 その瞬間、沙也佳の体が暖かさに包まれた。

 杏樹が沙也佳を力いっぱい抱きしめていたのだ。

「大丈夫、沙也佳ちゃん。大丈夫だから」

 杏樹が何度も「大丈夫」と繰り返しながら、沙也佳の背中を撫でた。

 わたしは大丈夫。

 沙也佳ちゃんも大丈夫。

 これからもきっと全てが大丈夫だから。

 杏樹の優しい予言が、沙也佳の心の中にしみ込んでくるのであった。

 エルダーの庭のガーデンを歩きながら、二人は今までの時間を取り戻すように色々なことを話した。

 杏樹が学校の友達に対して抱えていた思い、養子だと知ったときの気持ち。そして将来のこと。

 沙也佳も祖母に逆らえずに、不満を抱えながら従うしかなかった日々や、それでも心の底では医者になりたいと思っている自分もいること。

 そして杏樹と仲良くなりたいと思っていたこと。

「なんだ。わたしたち相思相愛だったんだね」

 杏樹のストレートな言葉に、沙也佳は思わず言葉に詰まる。

 恋愛じゃあるまいし、相思相愛なんて。

 でも、それも自分の捨てていい固定概念なのかもしれないなと思いなおす。

 大切に思う相手が恋愛対象だけなんてことはないはずだ。

 家族、友達、ペット、それに植物たち。

 身近にある全てのものを愛して、相思相愛になれるのだとしたら、こんな素敵なことはない。

「杏樹はみんなに愛されてるけれど、杏樹がみんなを愛しているからなのかもね」

「わたしって愛されてる? そうなのか。だったら感謝しなきゃ」

「…わたしも、そんな風に素直に気持ちを言葉にできるようになりたいな。憎たらしい性格だから無理だけど」

「そんなことないよ。無理だって思わないで、できるって自分を洗脳しちゃえばいいんだよ。大丈夫、できるから」

 杏樹の大丈夫の魔法の呪文に、沙也佳は思わず笑った。

 そしてその沙也佳の笑顔に、杏樹もさらに微笑みをこぼした。

「そうだ。ママから預かってきたものがあるの。余計なお世話かもって言ってたんだけど」

 それは杏樹の母、紀子からの秘密の取り扱い説明書だった。

「これって、おばあちゃんの取扱説明書?」

「うん。ママもおばあちゃんには苦労したんだって。おばあちゃんを変えようって、色々試したこともあったみたい。でもね、人を変えるよりも自分が変わって、上手に相手を使いこなせるようにした方がいいって気づいたんだって」

 紀子の説明書には、具体的な指示がたくさん書かれていた。

 一、相手を否定せずに、自分のやりたいことを率直に言う。(今はお菓子を焼きたいので焼きます。お母さんにもちゃんとあげるからね。一緒にお菓子でお茶して気持ちがハッピーになったら勉強します。っていたら、文句を言わずに一緒にお菓子を食べてくれたよ)

 二、命令される前に、こちらからお願いごとをする。(フランス料理に興味が出たけど、フランス語が読めないから、いい勉強方法をリサーチしてほしいってお願いしたら、受験に不必要なのにって文句言いながらも、次の日には資料を作ってくれたよ。ドヤ顔で渡された)

 三、ひどいことを言われたら、一旦離れる。落ち着いてから、自分がどんな気持ちになったかだけを伝える。(すごく傷ついて泣きましたっていうと、黙って一人で反省して部屋にこもってました)

 紀子の取り扱い説明書は、今すぐにでも活用できそうな情報で満載だった。

 しかも最後の気持ちを伝えると黙って反省しているという内容は、現在進行形で実際に起こっていることだった。

 沙也佳が祖母に暴言を吐いて以来、部屋で編み物をしながら引きこもっているのだ。

「ありがとう。すごい役に立ちそう。紀子おばさんが、わたしの一番の理解者みたいだね」

「うん。わたしもこれから理解者その二になるからね」

 杏樹の差し出した手を、沙也佳が照れながら握った。

「ありがとう」

 その二人の足元に、二匹の猫たちがまとわりついてきた。

「ブラックちゃんとベリーちゃん!」

 二匹は沙也佳の匂いをクンクンとかいで体を擦り付けると、仲良くガーデンの中をもつれ合いながら走って行った。

「仲がいいんだね。兄弟なの?」

「ううん。でも同時に保護されて不安な時に一緒にいたから、兄妹みたいになったのかも」

「そっか。血はつながってなくても、姉妹になれるんだね」

 きっとわたしたちも。

 そんな気持ちを込めた言葉は、杏樹に通じたようだった。

「ねぇ、ガーデンに忘れな草の種を撒かせてもらおう」

「忘れな草?」

「青やピンクの小さな花が咲いてかわいいの。それに花言葉が素敵なの」

 そこへ、大きなお皿を手に持った彰人がやってきた。

「朝ごはんできたよ。一緒にガーデンのテーブルで食べようぜ」

 お皿の上には、たくさんのおにぎりと、卵焼きが並んでいた。

 後ろからやってきた結の手にはサラダとたくさんの取り皿を載せたトレー。

 そして拓人は湯気の上がった鍋を持っていた。

「朝採れハーブのサラダとかわいらしい二人にぴったりのピンクのビーツのポタージュ」

 ガーデンの木のテーブルの上に並んだ料理は、今まで行ったどんな有名店の料理よりもおいしそうだった。

「外国の映画に出てくるピクニックみたい」

 沙也佳の言葉に結が笑う。

「そうだよ。ここは妖精もやってくる異世界エルダーの庭だもん」

 沙也佳は本当にここは日常とは違う、幸せに満ちた場所だと思った。

 わたしの頑なな気持ちも、溶かしてくれたのはこの庭と、そこに住む人や生き物全ての愛情なのかもしれない。

 彰人が目の前で大きな口を開けておにぎりをかじっている。

「うめぇ! 労働の後のメシは最高だ!」

「だったらこれからも、定期的に草取りの手伝いに来るか?」

 拓人に背中を叩かれ、彰人がむせ返ってお茶をあおっている。

 それを杏樹が面白そうに笑って見ていた。

 遠くでは、赤いケイトウの花が風にゆっくりと揺れていた。

 朝見た炎のように揺らめく姿が、太陽光の中で穏やかな熾火のように優しいものに変わっていた。

「結さん、ガーデンに忘れな草の種を撒いてもいい?」

「もちろん! 来年の春にはかわいい花を咲かせてくれるよ」

 春の芽吹きを喜ぶ風の下で、小さな花たちが一面を覆う景色を思い浮かべ、今から心が躍った。

「結さん、忘れな草の花言葉って何なんですか?」

 沙也佳に、結が笑う。

「真実の友情」

 沙也佳と杏樹が顔を見合わせて、それから微笑みあう。

 その様子を、ガーデンの花や虫たちも微笑ましく眺めていたのだった。

 

 

サイドストーリー

「秘められた愛情」

 年を取るということの痛みは、実際に年を取らなければ分からない。

 邪魔だババア!

 外を歩けば、そんな思念が叩きつけられることがある。

 買い物中のスーパーや、天下の往来の中であっても。。

 痛む足や硬くなった関節は、自分の思い通りに動かない。動いたと思った矢先に、見えていなかったものにつまづいて転ぶ。

 あ、と思った時には遅かった。

 ほんの小さな石に足元をすくわれ、地面に手をついた。

 手首から鈍い音が響き、強烈な痛みが脳天をつらぬいた。

 悲鳴を上げたが、それは誰の耳にも届かず、ただ砂利の敷かれた地面にみじめに体を丸めて痛みが去るのを待つだけだった。

 庭に生えた雑草など、気に留めなければよかったのだ。

 それでも、息子の経営する病院の評判を落とすわけにはいかないのだ。たかが草一本、されどそれが仇となることがあるのを、生きてきた年数の分、身に染みて知っていた。

 佐々木多美が沙也佳にとっての祖父清蔵に嫁いだのは、多美が二四歳のときだった。働きながら看護師の資格をとり、家族を支えてきた男気勝りの女性だった。

 だからそんな自分が同じ病院に勤めていた医師との縁で結婚することになるなどとは夢にも思わなかった。家族からも友達からも、まさに玉の輿にのったのだと羨ましがられたのだった。

 自分でもそう思っていた。

 これでお金の心配をして、欲しいものや、やりたいことを我慢する日々からは解放される。

 しかしその思いの半分は間違っていた。

 お金の心配はなくなった。

 代わりに待っていたのは、自分の一挙手一投足を批判の目で見る義母や、姿の見えない嫉妬の影だった。

 ずいぶんと派手な身なりの奥さんよね。医者の妻だって自慢かしら。

 自分で家事をしないで、人を雇ってやらせてるらしいわよ。

 あのうちの息子さん、学校での成績は良くないんですって。

 噂は直接耳に入らなくても、義母から、あるいは友達から入ってくる。

 気にしない。自分は自分。

 そう思っていられたのもほんの数か月のことだった。

 悶々と繰り返す自問自答が、心を削っていく。

 口紅をひかなくなり、続けていた看護師の仕事もやめて専業主婦になった。

 自分の家を気持ちよく過ごせる場所にするためではなく、誰にも非難されることのない場所にするために、怯えたように掃除をした。

 つい油断して庭に雑草が生えれば、医者の妻って家でのんびりしているだけなのに、庭の手入れもできないのねと陰口をたたかれた。

 完璧でなければならない。

 その思いは息子や娘にも及んだ。

 いつもきちんとした、でも華美ではない服装をする。髪も常に整える。娘が痛いと泣くほどに、きつく髪を結んでいた。

 学校から帰れば宿題をさせ、検定の勉強をさせ、心身ともに鍛えるためにいくつもの習い事をさせた。

 なんでみんなみたいに遊べないの? こんなに勉強したくない。

 息子にも娘にも泣いて訴えられ、時には反抗されたこともあったが、これがわたしの家族を守るための試練なのだと心を鬼にしてきた。

 人の嫉妬ゆえの心無い言葉に、家族が心を痛めることは許してはならない。

 たとえ耳に入ったとしても、自分に完璧な自信があれば跳ねのけられるはず。

 嫉妬などできないほどに、圧倒的な優位を示せば相手が口をつぐむ。

 私と違って、子供たちは貧乏と蔑まれたり、能力の低さで自己嫌悪することはない。わたしがそう育ててきた。

 たとえわたしが嫌われることになろうとも。

 結果として息子は父の跡を継いで医者になった。孫たちも優秀な成績をおさめて、父の跡を継ぐべく勉学にいそしんでいる。

 これで良かったのだ。

 だが自分を納得させるために発した心の声は、体に浸透することなく弾かれる。

 脳裏に浮かぶ沙也佳の非難に満ちた目。顔を合わせることも避けている素振り。

 言葉が過ぎたことは分かっていた。

 叱咤激励のつもりでいたが、相手を刺激するために放つ言葉は、トゲを通り越して刃となっていた。

 こんな年になっても、自分の不甲斐なさで苛立つことになるとは。

 こんな風に地面に一人転がって痛みに耐えるしかない無様な姿も、今までの報いなのかもしれない。

 そんな風に思っていた時だった。

 家の敷地に一台の軽トラックが入ってきた。

 そして運転席から降りてきた人が、一目散に自分の元に駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか? 今起こしますからね」

 見知らぬ男性の声だった。

 自分を抱えて地面に座らせてくれる男性の長い髪が目に入る。

「あんたは、この前沙也佳と一緒にいた…」

 お礼よりも先に、そんな言葉が口をついた。

 頭の弱い悪党と罵った相手が、自分を助けてくれたのだ。

 男性は自分を覚えていることが嬉しかったのか、にっこり笑うと遠くに転がっていた杖を持ってきてくれる。

「立てますか? それともおうちの方を呼びましょうか?」

「大丈夫。自分で立てる」

 男性の手を借りて立ち上がったが、杖を持つ手に力を入れた瞬間、痛みにまたバランスを崩しそうになる。

「転んだ時に、手首を痛めたんですね。お宅の病院の中までお連れしますね」

 肩を借りて歩き出しながら、多美は男性が自分に優しくしてくれることが不思議でならなかった。

「わたしは、あんたを罵ったんだよ。それなのに、なんでこんな風に親切にしてくれるんだい?」

「別に罵られたと思ってないですよ。頭が弱いのは事実ですし、この見た目は誰から見たって変人ですからね」

 男性は「ははは」と声を立てて笑う。

 それから多美の顔を覗き込む。

「それよりもぼくは沙也佳ちゃんが愛されて育っているなって羨ましかった」

「愛されている?」

「厳しい言葉も、愛情があるからこそ放たれるものだと思うんですよ。一番愛のない行為は無視ですから」

 病院の中に入ると、多美の姿を認めた看護師たちが血相を変えて走り寄ってくる。

 車いすを押した看護師がやってきて、多美を座らせる。

「沙也佳ちゃんのおばあちゃん。もしよかったらこれを」

 去り際に、男性が多美の手に茶色い小さな風船状のものを握らせた。

「お花の種です。後で中の種を見てください」

「ありがとう。世話になったね」

 やっと言えたお礼の言葉に、男性が手を振って去っていく。

 息子に捻挫と診断された手に、湿布と包帯が巻かれ、ウロチョロしないで部屋で安静にしていてくださいと念を押される。

「家で安静にしとったら、ボケてしまうわ」

 寝かされた自分の部屋のベッドの上で起き上がると、ポケットの中でカサっという物音がした。

 取り出すと、男性に手渡された花の種だった。

 朱色のホオズキが茶色く枯れるまでおかれたような姿だった。

「中の種を見ろって言ってたな」

 茶色くなった薄い殻を指先でむいていく。

 すると中から黒い種が四つ転がり出てくる。

 その一つを手に取って顔の前にかざしたとき、思わず声が出た。

「ハートのマーク」

 黒い種には、白いハートのマークが現れていた。

「おばあちゃん、捻挫したんだって? お父さんが食卓まで来るのを手伝えって」

 不貞腐れた顔の沙也佳が、部屋に入ってきた。

 だが、ベッドの上で種を手にした祖母を見て、一瞬目を丸くする。

「あれ? 風船カズラの種じゃん」

「風船カズラ?」

「うん。庭にでもまくの? つるが伸びて、たくさん風船つけるから、かわいいよ、それ」

「種にハートマークがあるのも知っておったか?」

「え? ハートマーク?」

 沙也佳が多美の手の中の種を手に取ると、ハートマークを見つけて笑顔になる。

「本当だ。知らなかった」

 内側に心を隠した種。

 きっと来年はもっとたくさんの花をつけるために、その新な芽を地面から芽生えさせるのだろう。

 自分が今まで砕いてきた心も、同じように花開くのだろうか? 心の内にある愛情が通じることがあるのだろうか?

「ちゃんと勉強しているのか?」

 ベッドから立ち上がらせようとしている孫に、いつもと同じお小言を言ってしまう。

「やってるって。わたしは蔵大みたいに器用じゃないけど、ちゃんと人を助けられる医者になりたいって思ってるもん。時間かかっても、おばあちゃんがお金出してくれるでしょう? 予備校のお金」

「なんでわたしが。親父に言え」

 そう言いつつ、つい口元が緩む。

 古くなった種は芽を出しずらい。でも、不可能ではないのだ。

「がんばりな。あきらめなければ、何年かかったって夢は叶うさ」

 気恥ずかしいと思いつつ、素直な思いを孫に伝える。

 沙也佳はびっくりした顔をしていたが、嬉しそうにうなずいた。

「うん。がんばるから」

 背中に感じる孫の暖かさが、太陽の光に照らされたように心地よかった。

 まだまだしょぼくれた老人になって、負けを認めるには早い。

 小さい種だって、がんばって新しいものを生み出すのだから。

「ばあちゃんが厳しく見張ってやるからな」

 バシっと孫の腕を叩く。

 それには、沙也佳も迷惑そうな顔をするのであった。

 〈 了 〉