• 呂宋渡来娘於藏本朝奮闘記「鬼の素顔」

  • 乃木 千也
    歴史・時代

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(一)   四ッ谷御門外鬼騒動

「寒くなったなあ」

お蔵は夜空を見やると、うらめしそうな声を上げていた。

そこは平川天神の脇にある水茶屋「おせん」の裏口。お蔵は水茶屋「おせん」の女将お染と亭主五助の娘で、少々太めではあるが元気いっぱいの二十歳だった。

江戸娘としての心意気では誰にも負けないお蔵だったが、実を言えば、生まれ育ったのは南国呂宋(ルソン)。まだ幼い頃、連れてこられた人さらい船から逃げ出してきたお蔵と弟太郎はお染と五助に助けられ、二人の子どもとして育てられてきたのだ。

そのせいでもないが、お蔵は寒さが大の苦手。

だから、寒々とした夜空に再び目を向けると、

「あーっ、寒い!」

そう言いながら店の奥へと入っていった。

その頃、四ッ谷御門のすぐそば、新一丁目と二丁目の間をわずかばかり入った裏小路を一人の男が歩いていた。男の名は芳蔵。芳蔵は、肩をすくませながら、ブツブツとつぶやいていた。

「やれやれ、けっこう寒くなりやがったな。この案配だと、この冬は早いうちに雪になるかもしれねえ。まあ、いまから心配したって仕方ないか。だったら、今夜は長屋で一杯やるか」

時節は文化元年(一八〇四年)の霜降を迎えた頃(旧暦九月末、新暦では十月末頃)、日も暮れ落ちて、その裏小路辺りではひと気もすっかり消え失せていた。

芳蔵は、そのとき、まだ夜目に慣れ切ってなかったせいか、道端に放りおかれた笊ざるや手桶に足を引っ掛けては腹立ちまぎれの舌打ちを繰り返していた。それでも、谷町から藪ヶ橋を抜けて表町辺りまでやって来た頃にはいつもの調子となっていて、その足取りも軽やかなものとなっていた。

それからほどなく、少し先の三叉路を右に折れて表町の脇を竜谷寺の方に向かって足を向けたところで、芳蔵は山と積まれた火消桶の傍らに何者かが突っ立っているのに気が付いた。暗闇のせいで定かではなかったが、髪や顔を薄衣で覆っている姿は、どこからみても、小粋な女の姿としか見えなかった。

こうなると、それまでの不機嫌さなどすっかり忘れて、芳蔵は鼻歌まじりで女の方ににじり寄っていった。もちろん、ひと言声を掛けて、後は成り行き任せ、そんな下心丸出しの所作だった。

ところが、そんな芳蔵の足元に、それまでどこにいたのか、小さな白犬がなれなれしげにすり寄ってきた。

すると、芳蔵は、その子犬をにらみ付けながら、

「なんだ、この野良犬は。邪魔だから、あっちへいけ!」

ところが、その子犬は芳蔵の元から離れなかった。

それどころか、腹でもすかしていたからか、芳蔵にじゃれついてくる始末だった。

芳蔵は、もともと、犬猫が苦手でもあったので、そこで大きく舌打ちをした上で、

「あっちへ行けといっているだろ。それが分かんねえなら、こうしてやる」

そんな大声を上げて、犬のわき腹あたりを力いっぱい蹴飛ばしていた。

こうなると、それは、もう、哀れなもので、その子犬は小さなうめき声を上げる、その場にへたり込んでしまった。

その一方で、芳蔵は、相も変らぬ悪態ぶりで、

「へっ、ざまを見やがれ。身の程も知らねえで、俺さまにまとわりついて来るから、そんな目に遭うのさ。いいか、畜生は畜生らしくおとなしくしていろ」

とうそぶいていたのだが、そこで、あの女にまだ声を掛けていないのを思い出して、

「いけねえ、いけねえ。大事な用件を忘れていた」

芳蔵は、薄ら笑いを浮かべながら、女の方にゆっくりと顔を向けていった。

そのとき、芳蔵の耳元を奇妙な音がよぎった。

「フーッ」

野良猫のうなり声かと思いもしたが、何とも薄気味悪く、えも言われぬおぞましさに満ちあふれた声音だった。

だから、芳蔵は、チッと舌打ちすると、

「いったい、どこのどいつなんだ? 薄気味悪い声なんか出しやがって」

すると、そんな芳蔵にむかって、またもや、

「フーッ」

それを耳にして、周りをゆっくり見渡したところで、芳蔵はようやく気が付いた。

その声の主は目の前にいる女だったのだ。

こうなると、芳蔵は、もう夜盗さながらの口ぶりで、

「おい、姐ねえさん、いったい、どういうつもりだ? ふざけるのもいい加減にしろよ」

ところが、女の方はおびえるどころか、またもや、

「フーッ」

 そのとき、ちょうど、月が雲の間から姿を現してきたかと思ったら、

「ワーッ、助けてくれ、誰か助けてくれ。鬼だ、鬼が出た」

それは、何と、芳蔵の叫さけび声で、芳蔵は、月の光に照らされた女の顔を目にして、口を大きく開け放したまま、その場に座り込んでいたのだ。

それもそのはずで、芳蔵が目の当たりにしたのは、面持ちは白粉おしろいと真っ赤な紅で美しく飾られていたものの、その両眼は血の色に輝き、時折ゆがむ口元からは鋭い牙が姿をのぞかせている、そんな女の素顔だったからだ。

この話は四ッ谷御門外鬼騒動と呼ばれて、瞬く間に江戸中をにぎわせる一大奇談となっていた。ただ、その話には次から次へと尾ひれ背びれが付け加えられて、いったい、どこからどこまでが本当の話なのか、それは、正直いって、誰にも分からなかった。

「ねえ、聞いた? 鬼が出たんだって」

「知っているわよ。四ッ谷御門のすぐそばだったんだって。いやね、気味が悪いったらありゃしない」

「でも、四ッ谷御門辺りだけじゃないみたいよ」

「ええっ、他でも出たの?」

「この間は高輪大木戸辺りに出たんだって」

「それで、高輪で襲われた人はどうなったの?」

「四ッ谷御門のときは右腕一本かみ切られただけで済んだそうだけど、高輪大木戸の方は首を残してあとはみんな食われてしまったんだって」

「じゃあ、後始末の手間だけはいらなかったんだ。だったら、家の父ちゃんに教えておいてやるかな。後始末で面倒な思いをしなくてもいい方法が見つかった、ってね」

そこに瓦版屋が入り込んでくると話はもっと厄介になっていた。瓦版を少しでも多く売るための絵空事だけでなく、人びとの不満のはけ口ともなる刷り込みが鬼騒動に名を借りて並べ立てられるようになってきたからだ。

「評判の鬼の話だが、あれは、どうも、ただの化け物騒動じゃないようだ」

「そうなんだ。どうやらお上が後ろで糸を引いているみたいなんだ」

「それで、鬼の出てくるのが四ッ谷御門や高輪大木戸辺りとなっているのか」

「ここのところ、異国の動きも慌ただしくなってきている。それもあって、お上はここでくさびを打ち込んで、何とか脇を固めておきたい、そうもくろんでいるんじゃないか。だが、そこまで瓦版にはっきり書かれちまったら、お上もまったくお手上げだな」

「鬼騒動にかこつけて、人の動きに網を掛けるなんて、どうにも小ずるいやり口だが、お上なら考えそうな話に違いない」

その一方で、安穏に慣れ切った町民には鬼騒動の話に端を発した他愛のない世間話にうつつを抜かす連中もいた。

「ねえ、聞いた? あの四ッ谷御門の鬼の話だけど、あのせいで四ッ谷御門の辺りには好い男がたむろしてきているんだって」

「ええっ、どうして?」

「あの鬼は極め付けの美人だけど、えり好みが激しくて、若くて好い男しか狙わないんだって。だから、それで鴨になりたがるようになった若い男たちが四ッ谷御門の辺りにやって来ているんだって」

「だったら、もしかすると、あの話はもともと若くて好い男を見つけるための大仕掛けだったのかもしれないわね」

「そうなの。ひょっとすると、どこかの婆さんが思い付いたわなかもしれないわ」

「だったら、そんなの怖くもないじゃない。それどころか、そいつを逆手に取ったら、あたしたちだって若くて好い男と出会えるかもしれないわね」

「そうね、そうだわ。だったら、今晩にでも行ってみない?」

「行ってみるか。行こう、行こう」

そのありようは実に様々だったが、四ッ谷御門外鬼騒動のおかげで江戸の町はとにもかくにも大騒ぎ。しかも、それは平川町の水茶屋「おせん」でも同じだった。

四ッ谷御門外での鬼騒動の日から三日後、水茶屋「おせん」の店先は朝からてんやわんやの大にぎわいだった。

というのも、その後の鬼の話で持ち切りだったからだ。

それでも、一人だけ、いつもと少しも変わらない娘がいた。

それはお蔵で、

「鬼なんか、いるはずないじゃない。そんなの作り話に決まっている」

といった具合で、鬼騒動の話など端から信じていなかった。

それどころか、躍起になっている娘たちにむかって、

「それで、鬼はどこがそんなに怖いの?」

「何を言っているの、お蔵ちゃん。鬼の顔を知らないの。あんな怖い顔の化け物に出くわしたら、あたしなんか、もう、動けなくなるだけだわ」

「大丈夫よ、お時ちゃんだったら負けていないから。お時ちゃんの怖い顔を見たら、鬼の方が腰を抜かすに違いないわ」

「ふん、口の減らないお蔵ちゃん!」

「それで、鬼はどんな吠え方をするの?」

「よく知らないけど、フーッ、と言いながら襲い掛かってきた、そんな話も聞いたわね」

「フーッ」

「嫌だ、お蔵ちゃん。何のつもりの?」

「いや、別に。顔に虫が付いていたから、吹き飛ばしてあげただけ」

一事が万事、こんな調子だったのだ。

それどころか、さらに勢い付いてきて、

「でも、『フーッ』なんて、景気よくないじゃない。アスワングみたいにはいかないの?」

「アスワングって、何? それも、また、へんな怪物?」

「あれっ、お雪ちゃんには話していなかったっけ。アスワングというのは呂宋(ルソン)で昔から伝えられる女吸血鬼のことで、ときどき黒犬に化けたりするの。とっても怖くって、こいつと出くわしたりしたら、もう絶対に助からない。それも、こんな吠え方をして襲い掛かってくるのよ、グルルルッ、ガォーッ、ガォーッ!」

お蔵が、口を大きく開けて、いまにも飛び掛からんとすると、お雪は大慌てで、

「いやだあ、怖い」

すると、お蔵は舌をペロッと出して、

「でも、そんな化け物なんかいるわけないものね」

その上で、晴れ渡った空を見上げながら、

「いるとしたら、それは人の心の中だけ。人の心には確かに鬼とか化け物が巣食っている。それが分かっているから、人は鬼とか化け物を怖がるんじゃないかな。嫌だね、まったく」

すると、そこの割り込んできたのがお時で、お時は、顔をしかめながら、

「怖い!」

そのひと言に、お蔵がキョトンとしていると、お時は、さりげなく、

「お蔵ちゃんは、どうして、そんな怖い話を平気で口にできるの?」

すると、お蔵は、舌をペロリと出しながら、

「また正直に言っちゃったか。悪かったわね、気にしないで」

あとは、もう、笑ってごまかすだけだった。

「お蔵―っ。お蔵はどこにいるの? 用があるの、こっちに早く来てちょうだい」

いつもながらのお染の声だった。

お蔵も、いつもながらの明るい声で、

「はーい、母さん。すぐに行くから、ちょっと待っていて」

こうして、お染の元に駆け付けていくと、お染の用は昼にやって来る客の話だった。

その客とは小傳馬上町の老舗呉服店岩田屋の主人で、それはお蔵にも嬉しい話だった。

岩田屋の主人は生まれながらの苦労人で、一見の客から店の奉公人に至るまで誰にでも気遣いを忘れない、そんな思いやりで評判の主人だった。その気遣いのさりげなさはそれこそ天下一品で、お蔵もいつも目の覚める思いをさせられていた。だから、岩田屋の主人にまた会えると聞いて、お蔵はまさに飛び上らんばかりの喜びようだったのだ。

その一方で、お蔵はこっそりため息もついていた。

〈お市さんも一緒に違いないわね〉

お市は岩田屋の一人娘で、お蔵より二つ年下の十八歳だった。主人が齢四十を過ぎてから授かった娘でもあって、その慈しみぶりはひと際で、まさに目の中に入れても痛くないくらいのものだった。

お市はそんな天恵を支えとして、飛び切りの箱入り娘に育ち上っていた。常日頃は清らかなふるまいを続けながら、他人と接する際には明るくおおらかで美しく、まさに申し分のない江戸娘だった。

おまけに、それまでに手掛けてきている習い事といったら数知れないほどで、幼い頃からの読み、書き、そろばんから始まって、三味線、琴、踊り、小唄、浄瑠璃、さらには生け花、茶の湯、香の道、和歌、漢詩、筆道をそつなくこなした上、近くの剣道場では小太刀の指南まで受けていた。

その意味で、お蔵とお市は大違いだった。

それでも、一つだけ、よく似たところがあった。

それは、何があっても理不尽は一切許さない、そんな気丈なところだった。

となると、似た者同士で、息も投合しそうなものだったが、お蔵はお市が苦手だった。

どこか気に入らないところがあるからとか、どうにも反りが合わないからというのではなく、お市の非の打ちどころのなさに頭が上がらなかったからだ。

ところが、そこにさらに頭の痛くなる噂話が舞い込んできた。

お市はお蔵の弟太郎にご執心、そんな噂話だった。

太郎の本音は知れなかった。

それでも、お蔵はただ絶句するばかりで、

〈待ってよ。あたしがあの娘のお姉さん? みんな、あたしを笑いものにしたいわけ〉

だから、お蔵は、いつしか、お市の名を耳にする度に妙な戸惑いに襲われるようになっていたのだ。

だが、そのときにかぎって、そこで、お蔵に救いの手が差し伸べられてきた。

お染がすぐに話を切り替えて、

「そういえば、猿飼の与次郎さんが近いうちに江戸に戻ってくる、そんな話があったの。だから、もしどこかで見つけたら、ここにも顔出しするように言っておくれよ」

おかげで、お蔵は、満面の笑顔を取り返して、

「えっ、あの与次郎さんがまた江戸にやって来るの?」

与次郎とは猿回しを稼業としている旅芸人で、お蔵は幼い頃から与次郎の猿回しが楽しみでならなかったのだ。

(二)   猿飼の与次郎

その翌日、不忍池近くの湯島切通町から湯島天神へとつながる小路で、真っ黒に日焼けした中年の男が背中に背負った荷物を広げていた。その男は一人きりではなく、猿三頭とまだ幼顔の白い子犬一匹とが一緒だった。

男は猿回しを稼業としている旅芸人で、南の端から北の端までといった長旅を続けてきていた。それでも、江戸の町の賑わいに心をふるい立たせられたからなのか、男は旅の疲れなどものともしない勢いだった。

その男の仲間たちも男の意気込みに負けてはいなかった。傍らの二頭の猿などは男の手伝い仕事まで請け負っていて、荷箱から持ち出してきた敷物を広げて道端に器用に敷き詰めているかと思ったら、見世物での小道具を、手順に合わせて、その端にうまく据え置いている、そんな手際良さだった。

それどころか、男が猿回しの芸人らしい身繕いに改めたときには、もう、猿と白い子犬もきらびやかな衣装で着飾っていたのだった。

こうして、一切合切を整い終えたところで、男を始めとする一同は、一列に並んで、敷き詰められた敷物の上にひざまずき、見物人たちにむかって、まず、深々と一礼をした。

それから始まったのが男の口上で、全国津々浦々で鍛錬を重ねてきた芸を力の限り披露したい、それを湯島天神に参拝に来られた方々に心ゆくまで楽しんでいただきたい、それがうたい文句だった。

その後から、すぐに始められたのが猿の竹馬乗りだった。

手伝い仕事を請け負っていた二頭の猿のうちの一頭が、男の手から竹馬を受け取るや否や、あっという間に竹馬に飛び乗って器用に操り始めたのだ。その巧みさは名人芸で、竹馬の動きを追い掛けていると、それは長く伸びた猿の手足のようにしか見えなかった。

すると、しばらくしたところで、もう一頭の猿が竹馬を操っている猿の肩に飛び乗ってきて、そのまま二頭で勢いよく走り出した。その勢いに、これから何が起きるのか、誰もがそう思っていると、いきなり掛けてきた猿飼の男の声に合わせて、二頭の猿は空中高くサッと舞い上がった。

こうして気が付いたときには、二頭の猿は、ともに空中二回転した上で、物の見事に敷物の端に降り立っていた。

いきおい、見物客は拍手喝采の大わらわだった。

それから息継ぐ間もなく始まったのが手鞠まりを使った曲芸で、今度は竹馬芸で後から出てきた猿が主役だった。その猿は猿飼男が転がしてきた手鞠に飛び乗ると、手足を器用に動かしながら、その手鞠を自在に操り始めたのだ。その姿はまるで駕籠かごに揺られて道行きを楽しんでいる殿様さながらだった。

その手鞠芸の締めも、これまた、絶品だった。その猿は、猿飼男の声に合わせて、手鞠の上で逆立ちになると、そのまま手鞠を器用に操りながら、見物客たちの一人一人に愛嬌を振りまいていたからだ。

そんな名人芸のおかげで、さりげなく置かれていたおひねり籠も、いつの間にか、投げ込まれた銭でいっぱいとなっていた。

こうして、いよいよ、最後の大一番となった。

それは鵯越(ひよどりごえ)の逆落としの一場面を演ずるもので、猿飼男が平家物語「鵯越」の段を語り上げると、義経役の猿が白馬を演じる白い犬にまたがって現れ、平家武士を演じているもう一頭の猿と丁々発止の立ち回りを始めていた。

立ち回りを演じている二頭の猿たちの刀さばきと身のこなしは堂に入ったもので、見物している者たちもただ見とれるばかりだった。それどころか、これじゃあ歌舞伎役者だって頭が上がらないな、そんな褒めちぎり方をする者まで現れてくるくらいだった。

ただ、白馬役の白い犬だけはいまひとつだった。まだ幼かったせいか、その立ち回りに付いていけなかった上、どうやら刀が怖かったようで、振り回された刀が目の前をよぎる度に大きな悲鳴を上げていたからだ。

それでも、もう少しで締めといったところまで、芝居は何とか持ちこたえていた。

ところが、最後の最後になって、思いも掛けない出来事が起きてしまった。

二頭の猿の立ち回りが一段と盛り上がってきたところで白い犬がひと際大きな悲鳴を上げ始めると、その舞台の袖でポツンと座っていたもう一頭の猿が、いきなり、フーッといったうなり声を上げて、白い犬にまたがっていた猿に体当たりを食らわせてきたのだ。

こうなると、もう、どうしようもなく、その芸達者な義経役の猿は白馬役の白い犬から転がり落ち、せっかくの芝居もそこであえなく幕引きとなっていた。

「いいところだったのに、あれじゃ台なしだ」

 そこにいた誰もが大きなため息をもらしていた。

それは猿飼男も同じで、猿飼男は、ひと際大きなため息をつきながら、おひねり籠の銭をひろい集めていた。

 すると、そんな猿飼男にむかって、

「猿飼の与次郎さんじゃない。何だ、もう江戸に戻っていたの」

その声に驚いて、男が後ろを振り向くと、

「お蔵ちゃんか。こんなところで、いったいどうしたんだい?」

猿飼の男に声を掛けてきたのはお蔵だった。

お蔵は、五助の用で、そのとき、根津門前町まで来ていたのだ。

「へーっ、あれからもう二年か。早いものね」

お蔵は、男の横に座り込んで、そんなつぶやきを口にしていた。

男の名は与次郎と言ったが、それは人形浄瑠璃「近頃河原の達引(あいびき)」に出てくる遊女の兄から名を借りたもので、本当の名は誰も知らなかった。

与次郎の生まれ育ちは西国周防の国。だが、気付いたときには、もう、猿と犬を連れての流浪の旅を続ける身の上で、そんな与次郎が水茶屋「おせん」のお染と五助と知り合ったのは、もう、十年以上も前の話だった。

そのとき、与次郎はひと儲けするつもりで平川天神辺りにやって来ていた。ところが、そこで柄の悪い連中に難癖を付けられると、なけなしの銭をすべて巻き上げられた上、こっぴどく痛めつけられてもしまった。

そこに手を差し伸べてきてくれたのが、まだ小さな居酒屋もどきの店を始めたばかりのお染であり、お染の亭主五助だったのだ。それ以来、与次郎は江戸に来たときは必ずお染と五助の店に顔出しするようになっていた。

そこに、しばらくしたところで、仲間入りしてきたのがお蔵であり、お蔵の弟太郎だった。お蔵と太郎がお染と五助の子どもとして暮らし始めると、与次郎はそれを誰よりも喜んでくれた。それどころか、お蔵と太郎をまるで妹や弟のようにかわいがって、二人には二人のためだけの特別仕立ての芸まで見せてくれていた。

そんなとき、与次郎は、いつも、こう言っていた。

「人だけでなく人を取り巻いている生き物たちも、また、この世にたまたま生まれ落ちてきているに過ぎない。そんな生き物たちが人にとってどれほどありがたいものか、それを忘れてはいけない。人の身勝手さからそんな生き物たちがどれだけ迷惑を被っているか、それも忘れてはいけない」

それは、お蔵にとって、決して忘れることのない戒めとなっていた。

それはそれとして、そんな与次郎との日々は、お蔵にとって、実に掛け替えのないひと時だった。与次郎の仲間とも言える猿たちと遊んでいると、それまでの悲しい思い出なんか忘れられたし、その一方で、幼い頃の思い出が戻って来てくれたような気がしてならなかったからだ。

だから、お蔵は、与次郎と猿たちが江戸を去っていくと、その翌日にはもう与次郎たちがまた江戸にやって来る日を心待ちにしていたのだ。

そのせいか、お蔵は、このとき、まず、

「この二年の間、どこを旅していたの?」

「いろいろさ。まず、故郷の周防へ帰って、親父とお袋の墓参りを済ませた。それから、筑前、筑後、肥前、肥後を抜けて薩摩まで行って、その後は日向から豊後を通って四国、紀伊、伊勢だった。それから、北陸を一回りして、久しぶりに江戸へ戻ってきたのさ」

「へーっ、楽しそうだなあ」

「それはそうだけど、楽しいだけじゃないぞ。大変なときだってあるからな。だけど、それが猿飼稼業だから仕方ないけどな」

「どういう意味、それ?」

「お蔵ちゃんは知らないかもしれないけど、猿飼には昔からの定めというものがあるんだ。猿に芸をさせるのは、もともと、天竺(インド)の風習で、それが支那を伝って、この国にやって来たんだ。猿は、もともと、馬の守護神とされていたから、悪魔払いや厄病除け、それが狙いだったのさ」

「へーっ、そうだったの」

「いつだって、そんな大本を忘れちゃいけないんだ。俺が旅を続けているのだって、そうやって功徳を国中に届けるためなんだ」

「ああ、そうか。でも、それ、分かるような気がする。それにしても、旅を続けているうちに、仲間の猿や犬たちの代替わりだってあるんだよね」

「それもそうだ。さっき芸をやってくれた二頭の猿、貫太郎と花子と言うんだけど、あの猿たちは前にも連れてきたから覚えているだろ。だけど、もう一頭と白い子犬は初めてのはずだ」

「そう、そうなの。だから、あの子たちの芸を楽しみにしてもいいんだよね」

「だがなあ、そう簡単でもないんだ。とくに、あの三頭目の猿、牡丹と言うけど、あいつは結構扱いにくくてね。まあ、どうやっても、貫太郎と花子みたいにはならないな。だけど、それも定めだから、仕方ないさ」

三頭目の猿牡丹の話になると、与次郎はいつになく言葉を濁しがちだった。

それは与次郎にしては珍しく、お蔵は、内心、それが気になってならなかった。

三頭目の猿牡丹、その猿は、半年ほど前、猿飼仲間からのたっての頼みで引き受けた一頭だった。もう十五歳を過ぎていて、猿の寿命がせいぜい二十年くらいであるのを考え合わせると、もう老猿といってもいい年頃の猿だった。

それでも、若い時分での芸達者ぶりは今も語り種で、他人の手助けを借りないで化粧を終えたかと思ったら、まさに目を見張らせるような衣装をまとって舞台に現れる、それが牡丹の得意技だったのだ。

さらには、猿飼との息合わせも絶妙で、

「牡丹は俺たちの言葉が分かるんだ」

「それだけじゃない。牡丹は俺たちの心だって読めるんだ」

そんなことまで与次郎は口にしていた。

それほどまでに芸事一筋の道を歩み続けてきた牡丹だったが、その合間には十頭の子猿たちにも恵まれていた。だから、牡丹は、母猿としても、申し分ないくらいに幸せな暮らしを送っていたのだ。

ところが、そんな牡丹に、ある日、信じられない出来事が起きた。

最後の子どもであった十一頭目の子猿の惨死だった。それも、その子猿は女遊びに狂喜していた町の若衆の手でがんじがらめにされると、大きな穴を頭に開けられて、その脳みそまで食い散らかされてしまったのだ。

牡丹は、子猿の行方が知れなくなってからというもの、芸は一切棚上げで、猿飼の親方たちと一緒に子猿の後をひたすら追い求めた。こうして、幾度となく骨折り損を続けた挙げ句、やっと見つけた手掛かりから若衆の隠れ家に飛び込んだときには、もう、何もかもが手遅れで、子猿の哀れな姿を目の当たりにした牡丹はただ泣き狂っているだけだった。

それからの牡丹は、もう、それ以前の牡丹ではなかった。猿飼の親方がどれだけ力を尽くしても、少しも聞く耳など持たず、あれほど慣れ親しんでいた親方にも、うなり声を上げ鋭い牙をむき出しにして、飛び掛かってくる始末だったのだ。

それでも、ひと月がたち、ふた月がたって、もう一年という月日が過ぎていく頃になると、ようやく、牡丹も少しばかり落ち着いてきた。

それでも、牡丹は、もう二度と、人前での芸などしなくなっていた。

少し離れたところで、ポツンと座り込んでいるだけとなってしまったのだ。

それに手を焼いた猿飼の親方は与次郎を頼ってきた。

それまでの仔細を話して、与次郎の知恵を借りるつもりだったのだ。

だが、さすがの与次郎もお手上げだった。

だから、猿飼の親方と一緒に頭を抱えるばかりだったのだが、与次郎が、あるとき、

「牡丹は俺が引取る。牡丹は長い間芸ひと筋に生きてきて、見物にくる人たちを喜ばせてきた。それなのに、かわいい末っ子が人に八つ裂きにされた揚げ句、ただの慰みものにされてしまった。哀しかったに違いない。だから、俺があいつの余生に付き添ってやる。それで、少しでも気持ちよく旅立てるようにしてやる。もう、それしかない」

こうして、牡丹は与次郎の元にやって来たというのだった。

お蔵は、話を聞きながら、そっと目頭をぬぐった。

「それで、牡丹はいまどうしているの? つらかったと思うけど、もう半年もたつし、そばには与次郎さんがいるからね」

だが、与次郎は、首を横に振りながら、

「いや、少しも変わらない。いつも、ちょっと離れたところで、一頭だけで座り込んでいるだけ。周りで何が起きたって、一切、気に掛けない。それこそ、どこかに魂を置き忘れてきたみたいさ」

お蔵は、もう、ひと言も言葉が返せないでいた。

すると、牡丹をジッと見詰めていた与次郎が、

「ただ、幾らかは気を紛らわせているみたいだがね」

「えっ、何かあったの?」

お蔵の言葉に、与次郎は、

「あそこに白い子犬がいるじゃないか。ほら、牡丹から少し離れたところで寝転がっている白い犬さ。あれはシロといって、牡丹がどこから連れて来たんだ。こうやって見ていると、牡丹は知らん顔をしているみたいだけど、あいつらは、あれで、結構仲がいいんだ。むしろ、牡丹がシロをいつも気に掛けている、そんな具合なんだ」

「へーっ、まるでお母さんみたいだわね」

「もしかすると、牡丹はシロが死んだ子猿の生まれ変わりみたいに思っているのかもしれないな」

お蔵は牡丹とシロの姿を見やった。

シロは、そのとき、ただ退屈げに寝転がっているだけ。

牡丹もいつものように座り込んでいるだけだった。それでも、牡丹の方は、よく目を凝らしてみると、シロにさりげなく気を配っているかのようでもあった。

すると、そこで、やみくもに、

「あらっ、お蔵さんじゃない。こんなところでどうしたの?」

それは小傳馬上町老舗呉服店岩田屋のひとり娘お市だった。

お市は、近くまで来たついでに根津神社に立ち寄った、そう言いながら、まばゆいばかりの笑顔でお蔵を見やってきた。

お蔵はお市の笑顔にまたもや打ちのめされたような気がしていたが、何とか気を振り絞ると、お市をさっそく与次郎にひき合せ、さらには与次郎の猿たちの芸事の数々を懇切丁寧に聞かせてやった。

それをお市は黙って聞いていた。

それでも、どこか、いつものお市とは様子が違っていた。

そう思っていると、お市の元に貫太郎が忍び寄ってきて、いたずら半分でお市の着物の裾を引っ張り始めた。そこで響き渡ってきたのがお市の叫び声で、それは今まで聞いたこともないような声だった。

お蔵はそれで合点がいっていた。

けだものはただの不浄な生き物、そう信じて疑わないでいる連中が世の中には大勢いる。となると、お市みたいな箱入り娘は、そんな連中から、不浄な生き物には近付くな、そう言われ続けてきているかもしれない。としたら、ただのけだものでしかない猿回しの猿から目を背けたくなる、それも無理のない話なのかもしれない。

そこまで思い至ると、お蔵は、なぜか、幾らか気が楽になってきた。

こうなると、あとは、もう、いつものお蔵で、与次郎との出会いを皮切りに、与次郎が猿たちと全国の津々浦々を旅しながらどんな暮らしをしているのか、与次郎がどんな苦労を続けながら猿たちとどんな楽しみを分かち合ってきているのか、そんな話を一気にまくし上げていた。

ただ、お市は、それでも、口を閉ざしたままでいた。

だから、もうひと押しできないか、お蔵は考えた。

そのとき、お蔵は聞いたばかりの牡丹の悲話を思い出した。

そこで、少し離れたところで座り込んだまま遠くを眺めている一頭の猿を指差しながら、

「あの子は牡丹と言うんだって。もうかなり歳をとっているけど、若い頃は芸達者で評判だったそうなの。でも、あるとき、人からひどい目に遭わされて、それ以来、人前で芸をするのが嫌になったんだって」

そう言って、与次郎から聞いた話を繰り返した。

それでも、お市は黙ったままでいたが、お蔵は、牡丹を見やりながら、ポツリと、

「けだものは不浄な生き物。おなかが減れば何だって口に入れる一方で、糞尿は所構わずにたれ流し。そんな言い方をする連中がたくさんいるけど、本当にそうかしら。もっと始末が悪いのは人の方じゃないのかしら。もっとも、こんな口を利いているあたしだって人に変わりはないから、まったく嫌になっちゃうわね」

すると、お市が、なぜか、ゆっくりと牡丹の姿を見やり始めた。

それも、お市の瞳には、そのとき、涙が薄っすらと浮かんでもいた。

ただ、お蔵はそれに気付いていなかったが。

こうして、しばらくしたところで、お市はお蔵と与次郎に別れを告げて去っていった。

そこで響き渡ってきたのがお蔵の大声で、

「いけない。早く帰らなきゃ。母さんが待っているんだった!」

お蔵は、もう、大慌て。それでも、お染と五助が心待ちにしているから早く店に来てほしい、そのひと言を与次郎に言い残していくことだけは忘れなかった。

(三)   鬼の素顔

ひと夜が明けた翌日の昼過ぎ、平川天神近くの水茶屋「おせん」の辺りは大にぎわいだった。律儀な与次郎が、お蔵からの頼みどおり、猿たちを引き連れてお染と五助の元にやって来てくれたからだ。

与次郎と芸達者な貫太郎と花子の二頭の猿は手際よく猿回しの支度を整えると、与次郎の小気味よい締太鼓の音に合わせて、いつもと変わらぬ大立ち回りを演じていた。

この日は空模様がいまひとつで、垂れ込めている雲からはいつ何時雨が降ってこないともかぎらない寒々しさだった。それでも、貫太郎と花子が飛び回っている水茶屋「おせん」の辺りだけは大盛況で、道行く人たちからの喝采であふれ返っていた。

それだけでなく、近所の子どもたちが集まってくると、その場は子どもたちと貫太郎、花子とが入り乱れる八方破れの大舞台にも一変していった。

貫太郎が持っていた手鞠を落としたりすると、その近くにいた子どもがこれ幸いとばかりにそれをかすめ取る。そうなると、貫太郎も黙ってはいなくて、与次郎から奪い取った締太鼓のバチを振りかざして、その手鞠を抱えている子供を追い掛ける。こんな他愛もないやりとりを目の当たりにさせられて、その場は更なる爆笑の渦だった。

一方、花子は花子で、お手玉を握り締めている子どもを見つけると、その傍らにそっとすり寄っていった。そこで何をたくらんでいるのか、と思ったら、その子どもを体よく押しやって、あとは花子のお手玉遊びだった。これまた道行く人たちの笑いをかき立てないではおかなかった。

そうかと思ったら、貫太郎と花子を追い掛ける幼子も現れてきた。とはいえ、その足取りは拙くて、案の定すぐに足をすべらせると、大きな声で泣き始めた。ところが、それからがまた見もので、貫太郎と花子の二頭は幼子の元にサッと駆け寄ると、貫太郎が幼子を抱え起こし、花子がやさしく砂を払っていたのだ。

おかげで、幼子は瞬く間に泣き止んで、かわいい笑顔もよみがえっていた。

その場に居合わせた人たちは、もう、ただ感心するばかりだった。

お蔵は、そのとき、そんな一部始終を満足げに見やっていた。

すると、そこへ、

「この世に生まれ落ちてきたものは、人だって猿だって、みんな寄り添って生きている。それを忘れてはいけないんだ」

それは、何と、弟太郎のつぶやきだった。

お蔵は、そんな太郎にうなずき返しながら、

「そう、それぞれ姿・形は違っていても、みんなが寄り添って生きてきたの。それが昔からの姿だったはず。今は、もう、忘れられているみたいだけどね」

そのとき、お蔵の胸の内には生まれ育った呂宋(ルソン)の孤島での暮らしぶりが鮮やかによみがえっていた。

あのころ、お蔵にお蔵の暮らしがあったのと同じで、そばにいた生き物たちも、みんな、それぞれの暮らしを続けていた。それでも、互いに互いの痛みや苦しみ、喜びを分かち合って、ひとつに溶け込んだ暮らしを営んでいた。それは、お蔵にとって、二度と帰らぬ思い出の日々だったのだ。

そのとき、太郎が、

「あれっ、あれはお市さんじゃないかい。こんなところに一人で来ているなんて、どうしたのかな?」

通りの向こうから笑顔で手を振っている美しい娘、それは、間違いなく、お市だった。

すると、お市は、すぐに走り寄ってきて、

「太郎さんじゃない、お久しぶり。お会いできて、嬉しいわ」

お蔵が、邪魔者は消えるしかないか、そんな思いで二人に背を向けると、

「お蔵さん、どこかに行くの。何か用でもあるの?」

お市の意外なひと言だった。

お蔵は、頭をかきながら、

「いや、そうでもないけど、邪魔しちゃ悪いな、と思ったの」

すると、お市がさらに意外なひと言を口にしてきた。

「あたし、お蔵さんとお話がしたくてやって来たの」

お蔵は目をまるくした。

「話? 何、それ? お茶とかお香の話や和歌とか漢詩の話だったら、もう、覚えてないからねえ」

すると、傍らにいた太郎が、笑いをこらえながら、

「うそなんかつくな。何にも知らないくせに!」

「うるさいわね。あんたなんか、さっさとどこかに消えておしまいよ」

そう言いながら、お蔵は拳を振り上げたのだが、そのときには、もう、太郎はどこにもいなかった。

こうして、お蔵とお市は店先の縁台に並んで腰を下ろした。

「どうしたの、いったい、あたしに用があるなんて?」

開口一番、お蔵はお市にそうたずねた。

ところが、お市は、首を横に振るだけで、

「よく分からない。この間から、ずっと、何かが気になってならなかったの。こんなのは初めて。でも、お蔵さんと話が出来たら落ち着けるような気がして、それでやって来たの。でも、ちょっと早とちりだったのかもしれないけどね」

それでも、お市の眼差しは真剣そのものだった。

お蔵が目をまるくしていると、お市は、さらに、

「あの牡丹の話、あれを聞いて、わたしはどう言ったらいいのか分からなかった。それだけじゃなくて、わたしは、まだ、何も知らない、そんな気がしてきて、怖くてたまらなくなってきたの」

お蔵は、そこで、

〈はて、どう答えるか?〉

そのとき、お蔵の目が近所の子どもたちとたわむれている花子の姿を捉えた。

そこで、お蔵は、うん、とうなずくと、

「花子ちゃん。ちょっと、こちらにおいで」

花子は、お蔵の手招きを見てとると、お蔵の方に近付いてきた。

それでも、いつもなら膝の上まで一気に駆け上がってくるはずが、そのときは、なぜか、三間ほど(約五・四メートル)先で立ち止まっていた。それどころか、お蔵とお市を恐々と見やっているかと思ったら、いきなり頭をチョコンと下げた上で子どもたちの元へと戻っていってしまった。

そんな成り行きに、お市はきつねにつままれたような顔をしているだけ。

その一方で、お蔵は、笑いをこらえながら、

「分かった?」

それでも、お市は首をかしげるばかりだった。

すると、お蔵が、

「花子はね、お市さんが猿たちを苦手にしているのを察したの。だから、いつもはあたしの膝の上まで駆け上がってきているけど、さっきは遠慮していたの。それで、あそこで頭を下げて戻っていったわけ」

お市は、もう、言葉を失っていた。

すると、お蔵は、さらに、

「あの子はちゃんと分かっているの。それに、それは、あの子だけじゃなく、あそこにいるスズメだって同じ。あたしたちはそれを分かってあげないといけないの。人だけは別格、そう思い込んで、みんなの心をないがしろにしていたら、どうあっても六道四生ろくどうしせいの輪廻りんねから抜け出せはしないわ」

お市は目をさらに大きく見開いて、お蔵の顔をジッと見詰めていた。

すると、そこへ、与次郎がやって来て、

「ひと雨やって来るみたいだから、今日はこれで引き上げる。でも、しばらくは江戸にいるから、また来るよ。俺たちの宿は神田三島町だから、近くにきたときには声を掛けてくれ。いいね」

そう言い置いて、足早に去っていった。

それから、しばらく、お蔵とお市は世間話に打ち解けていた。

取り立てて厄介な話などなく、それは和やかなひと時だった。

ところが、お蔵が、いきなり、

「あれっ、もう七ツ半(午後五時)を過ぎているじゃない。お市さん、あんた、お家に早く帰らなきゃいけないじゃない。親父さまとお上さんが心配しているに違いないわ」

「そうだ、うっかりしていた。じゃあ、あたしはこれで帰るからね」

お市が、そう言って、立ち上がると、お蔵もすぐに立ち上がって、

「お市ちゃん、もう暗いから、一人じゃ駄目。あたしが送っていく。これから、提灯ちょうちんと雨傘を持ってくるから、少しだけ待っていてね」

もう真っ暗となっていた上、空の様子も心もとなくなっていたからだった。

こうして、二人は平川町から麹町通りを通って半蔵御門まで行き、そこから堀端沿いに清水御門、雉子橋(きじばし)御門を横目に神保町へ抜けると、小傳馬上町まで目と鼻の先の小川町まで一気に突っ切っていった。

そこまではまずまずの成り行きだった。

ところが、宵闇に厚い雨雲が加勢してきたたせいか、いつもの土地勘に狂いが生じてしまい、右往左往した挙げ句、雉子町へと抜けるはずの小路に入った辺りで道に迷ってしまった。それも、その辺りは人通りもなければ灯りも乏しかった。

〈はて、どうしたものか。いっそ、少し戻ってみるか〉

二人は考えあぐねた。

そのとき、先の方から近付いてくる人影が見えてきた。

与作頭巾をかぶった女みたいだった。

「あの人に聞いてみようか」

お市が足を一歩踏み出したところで、お蔵がそっと肩を押さえた。

「ちょっと待って。慌てちゃ駄目。近頃の江戸は物騒なの。どこにどんな落とし穴があるか知れたものでもないからね」

そのひと言に、お市は、首をかしげながら、

「鬼の話?」

お蔵は、大笑いをしながら、

「四ッ谷御門外の鬼騒動なんか信じていないわ。でも、江戸にはもっと物騒なやからがたくさんいるから、用心するに越したことはない、そういう話!」

それからの二人の動きは実に素早かった。さっと傍らに身を潜めると、その人影の様子をそっとうかがい始めたのだ。

それは、やはり、女人で、小粋な小袖で身繕いしながらも、かぶり物で顔を隠して、うつむき加減で歩いていた。ところが、その女人は、小路の傍らにお蔵とお市がいるのに気付くと、その歩みを早めて。その場を一気に通り抜けるつもりでいた。

そこで足を一歩踏み出したのがお蔵だった。

すると、女人は、与作頭巾で顔を覆ったままの格好で、

「道をお尋ねかもしれませぬが、あいにく、わたくしは先を急いでおりまする。あそこを右に行けば銀町で、その辺りには小路に通じた人たちが大勢いらっしゃるはず。それで、どうか、ご容赦ください」

 そう言い返してきた。

こうなると、もう、そこまでだった。

だから、お蔵が黙って頭を下げると、その女人はすぐにそこから立ち去っていった。

それからひと息ついたところで、お市の口元からは、

「何なのかな、あれ?」

 だが、お蔵は、どこか思わせぶりな顔をして、

「あたしの感触だけど、あの方は武家の奥方さまみたいね。あんな方が、ひとりで、この頃合いにここを歩いているなんて、きっと、深いご事情でもあるに違いないわ」

もう、お市には返せる言葉などありはしなかった。

それでも、お蔵とお市は女人の言葉どおりに歩みを進めて、銀町から多町を抜け、何とか小柳町にまでたどり着いた。ところが、何かにたたられたせいなのか、そこで再び道に迷ってしまった。

だから、お市は、柄にもなく、

「暗くなっただけで、こんなに道が分からなくなるなんて思ってもいなかった」

そう言って、口をとがらせていた。

そのとき、お蔵の瞳が、またもや、奇妙な影を捉えた。

それは頭巾をかぶった人影みたいで、右手奥の小さな古井戸の縁に腰を掛けていた。

さらに、その足元の辺りでは何か白いものまでうごめいていた。

お蔵は、

「もう一度、聞いてみるか?」

そうつぶやくと、その人影にゆっくりと近づいていった。

「あのーっ、ちょいと教えてもらいたいんだけど」

それでも、その影は、ピクリともせず、言葉も返してこなかった。

「あのーっ、道を教えてもらいたいんだけど」

それでも、やはり、まったくの知らぬ顔だった。

〈そういえば四ッ谷御門外の鬼騒動では白い犬が初めに出てきていた。あそこでも、何か白いものが動いている。としたら、まさか!〉

そこで、お蔵とお市は、思い切って、その人影を古井戸の両側からはさみ撃ちにした。

すると、

「ギャッ!」

といった叫び声が聞こえたかと思ったら、すぐさま、

「ガタン」

そんな物音が響き渡ってきた。

二人はじっと身構えた。

気を引き締めて身構えたのだが、それは何という話でもなかった。

その古井戸には、そのとき、竹ぼうきが二本立て掛けられていて、その竹ぼうきの穂先には木桶おけが、また、その上には手拭いが干し物として置かれていた。それが人影みたいに見えただけだったのだ。

また、その竹ぼうきの足元ではひと気がないのを幸いに白い野良猫がうたた寝の真っ最中だった。だから、お蔵とお市が手分けしてはさみ撃ちをしたのに驚いた野良猫がびっくり仰天して叫び声を上げ、その弾みで立て掛けられていた竹ぼうきと木桶が大きな音をたててひっくり返った。それが実相だったのだ。

お蔵とお市は、もう、呆れるばかりだったが、実は、その先に正念場が待っていた。

お市の家はもうすぐのはずだった。

それに、その辺りはお市が知り尽くしている町家の一角のはずだった。

それなのに、どうしてなかなか家にたどり着けないのか、それは、それこそ、きつねにでもつままれたかのような思いだった。それでも、何とか神田鍋町の大通りまでやって来ると、もう安心と、二人はようやく胸をなで下ろしていた。

ところが、その日はどこかおかしかった。

もう大丈夫と近道したのがわざわいして、岸町を過ぎたところで、また道に迷ってしまったのだ。おまけに、少し前からポツリポツリと降り始めてきた雨の勢いも激しくなってきて、ときおり姿を見せる雷などもだんだんとすごみを増してきていた。

「も、嫌になるな。今日はまったくどうかしているわ」

お市がそんな愚痴をこぼしていると、そこへ脇の細道から小さな男の子が飛び出してきた。危うくぶつかるところだったが、お市は、それを難なくかわして、

「ちょいと、こんな暗いところを走り回ったら危ないじゃない。それに、もう、夜だから、子どもが一人で外に出ては駄目。早く家に帰りなさい。お父さんとお母さんが心配しているからね」

と叱り飛ばしたかと思ったら、そこで、アッ、と驚きの声を上げた。

その子は留吉といって、馬喰町の旅籠屋で下働きをしているお駒の一人息子だったのだ。

それも、留吉の家はお市の家のすぐそば。

これは運が良かったと、お蔵とお市は留吉を先頭に歩き始めた。

こうなれば道に迷う恐れもないし、お駒も喜んでくれるはず。

まさに一石二鳥だったからだ。

ところが、それは都合がいいだけではなかった。

というのも、留吉は幼い頃から落ち着きがなくて、うっかり目を離していると何を仕出かしてくるか分からない、そんな厄介なやんちゃ坊主だったからだ。となると、そんな留吉を先頭に暗い夜道を歩いて行くなど、それは、実のところ、かなり難儀な技だったのだ。

その懸念はすぐに的中してしまった。

留吉が、火消桶を積み上げてある置き場辺りを指差して、

「あの野良犬、まだこんなところにいやがる」

そんな大声を上げながら駆け出して行ってしまったのだ。

目を凝らして見ると、その火消桶置き場の傍らにいたのは白い子犬。

それも、どこかで見たことのある子犬だった。

留吉は、もう、本性丸出しとなっていて、小石をひろい上げては目の前の子犬にためらいもなく投げ付けていた。その一方で、子犬は、悲しげな声を上げながら、からだを小刻みに震わせているだけだった。

お蔵が、

「いけないっ、そんな真似をしちゃあ、駄目!」

そう言っても、留吉は一向に聞く耳など持たなかった。

ところが、その留吉が、突然、その場で尻もちをついてしまった。それだけでなく、おかしな身震いをし始めたかと思ったら、大きなわめき声まで上げてきた。

ここまでくると、さすがに放ってはおけなかった。

だから、お蔵とお市は大慌てで駆け寄っていったのだが、そこで、初めて、そこに積み上げられている火消桶の陰に誰かがいるのに気が付いた。それも、かぶり物で顔を覆い隠して、その口元からは。フーッ、そんな身の毛もよだってくる声までまき散らしていた。

そのとき、ちょうど、激しい稲光が駆け抜けていった。

そこで目の当たりにした姿にお蔵も息をのんだ。それが白粉の化粧、狂おしく血に飢えた眼差し、さらには、大きく裂けた口元からのぞかせている鋭い牙に彩られた形相であって、それは四ッ谷御門外での鬼の姿そのものだったからだ。

いきおい、お市もお蔵の腕にすがり付いていた。

また、留吉は尻もちをついたまま後ろ手に後ずさりを続けていた。

〈何とかして、留吉を助けなくちゃ〉

こうして、お蔵とお市が少しずつ留吉に歩み寄っている間、留吉の物悲しいうめき声、時折耳にさせられる、フーッ、といったうなり声、お蔵とお市の口元からの激しい息遣い、さらには、天地にとどろき渡る雷鳴の音、そんなおぞましい音の響きが、さらに荒々しく、さらに狂おしく繰り返されていた。

ところが、そこでやみくもに流れが変わってしまった。

激しい雨が降り出してきたところで、その人影が後ずさりを始めたからだ。

〈留吉を助けるのなら、今か!〉

お蔵は、そう思い定めると、お蔵は、留吉の元まで一気に駆け寄っていった。

だが、そのとき提灯の灯りに照らし出された鬼の顔を目の当たりして、お蔵は、

「まさか、あれは」

お市も、そのとき、目をまるくしていた。

激しい雨で流し落とされた白粉の奥に別の顔が現れてきたからで、

「あの顔は」

お市がそんな驚きの声を上げたとき、何者かが小路の向こう側から駆け寄ってきた。

激しい雨の中でも傘も差さないで駆け寄ってきたのは一人の男で、その姿にはどこかで見覚えがあった。

お蔵は、その男を見据えると、

「与次郎さん。与次郎さんじゃない」

「なんだ、お蔵ちゃんじゃないか。こんなところでどうしたんだ?」

その上で、与次郎は火消桶の脇に居座っている影に顔を向けると、大きな声で、

「おい、何をやっている、そんなところで? どうした、牡丹?」

あらためて目を凝らしてみると、それは紛れもなく牡丹、また、山のように積み上げられた火消桶の脇でうずくまっていたのはシロだった。そのときの牡丹は、顔の白粉を雨ですっかり流し落とされていて、ただ悲しげな顔でうつむいているだけだった。

(四)   鬼の目に涙

牡丹は与次郎にこっぴどく叱りつけられると、もう歯向いなど一切しなかった。それどころか、与次郎の目の前でひざまずいて、神妙に両手を差し出してもいた。それは、まるで、捕り方のお縄なわを頂戴する覚悟を決めた下手人の格好そのものだった。

こうして、その翌日から、近隣の名主たちによる鬼騒動の吟味が始められた。

だが、名主たちは頭を悩ませていた。

というのも、鬼騒動と牡丹との関わり合いがよく分からなかったからだ。

この鬼騒動の発端は四ッ谷御門の近くだったが、それから高輪大木戸界隈に場所を変え、さらには江戸の町屋のあちらこちらにも広がっていっていた。それが牡丹の仕業であるとするなら、牡丹はシロを連れてあちらこちらに出向いて、これはという場所で騒動を仕掛けていたとなる。

それは本当にそうなのか?

そこに誰もが、まず、首をかしげた。

そこまでの悪知恵が牡丹にありはしないのではないか、そう考えたからだ。

ただ、すべてを見直してみたところで、名主たちは、また、仰天した。

鬼騒動は、いずれも、与次郎たちが猿回しに来ていた辺りで起きていたからで、その頃合いも同じで、その頃には、牡丹だけでなく、白犬シロも、与次郎の泊まっている宿に一緒にいたからだ。

さらに、牡丹が身に付けていたかぶり物と鬼のかぶり物はよく似ていて、白粉で化粧をした牡丹の姿・顔立ちも鬼の姿・顔立ちとそっくりだった。また、鬼の傍らにいつもいる白い犬もシロとそっくりで、その白い犬がひどい目に遭わされると、鬼が、フーッ、といった気味悪い声を上げてくるのも、牡丹の癖と同じだった。

ここまでくると、もう、誰もあらがえなかった。

だから、すべては牡丹の企てで、白粉やかぶり物で身を取り繕いながらシロを手足として、江戸の町民を手玉に取った、それが吟味の結末であり、江戸中を混乱させた鬼騒動の落ちだった。

そこで持ち上がってきたのが、どんな沙汰を下すべきか、それであって、名主たちは、また、当てもない評定を繰り返していた。

ある名主は、これこそ言語道断の悪行であって、猿飼の与次郎はさておいて、牡丹には同じ真似が二度と出来なくなるようにしてやらなくてはいけない、そう言い張っていた。

この名主は格式の高い料亭の主人で、いつも、

「鬼騒動のせいで客足が遠のいてしまった。だから、店では閑古鳥かんこどりが鳴いている。この後始末をどうつけてくれるんだ」

そんな怒声をぶち巻いていた。

その一方で、なかには、

「他人さまに迷惑を掛けたからには償いをさせるのが当たり前。とはいえ、それを猿回しの猿に科しても詮ない話。となると、それを見過ごした猿飼の与次郎に責を負わせるべきではないか」

 そんな苦言を呈する名主もいた。

こんな足並みの悪さではあったが、悪行の責めは問われるべきもの、その一点に異存はなかった。ただ、どんな仕置を誰に科したらいいのか、そこまでくると、評定はなかなかまとまらなかったのだ。

とはいえ、よく考えてみると、それも仕方がないわけでもなかった。まず、こんな鬼騒動の張本人に罰を与える、そんな法度など、そもそも、ありはしなかった。それに、話を聞けば聞くほど、猿飼の与次郎を責めるのは酷としか言えなかったからだ。

だが、あの鬼騒動に巻き込まれた者がいるのもそのとおりであって、そこで手をこまねいていると、こんな茶番劇にそこまで手間を掛けていてもいいのか、そんな嫌みを口にする者まで現れてくる始末だった。

それでも、鬼騒動で商いに痛手をうけた名主たちから、

「法度がないから猿飼の与次郎に仕置は科せない、それは分かった。だったら、鬼を演じた牡丹は猿だから、法度がなくても、そいつに仕置を科せるはずだ。こんな騒動が繰り返されて、商いがまた邪魔されたらたまらない。だから、見せしめのためにも、牡丹には極め付けの仕置を科さなくてはいけない」

 そんな突き上げ方がされてくると、評定の場は瞬く間にその一色に染め尽くされていって、その揚げ句、牡丹を引き回した上でさらし首とする、それが評定での落としどころとなっていた。

お蔵は、それを耳にして、驚いた。

だから、評定の取り仕切役の家に押し掛けると、すぐに大声で直談判を申し入れた。

ところが、そこで、お蔵はさらに仰天した。

お市が、もう、そこで丁々発止の申し立てを始めていたからだ。

お市は、まず、鬼騒動で世間を騒がせたのは良くなかったと認めた上で、それでも人の持ち物やお金をくすねたわけではない、人に危害を加えたわけでもない、そう言い立てると、からだを震わせながら、

「それくらいの所作は御法度のどこにも触れていない。だから、御法度にも何も定められていない。そうではないのかしら。それなのに、相手が猿で不満のはけ口にも都合がいいから首をはねてやる、それはひどすぎる」

 そう言い張った。

お市の一途な申し立てぶりに、仕切り役の名主はほとほと困り果てていた。

その名主にとって、お市の父親である岩田屋の主人は古くからの顔馴染みで、困ったときにはいつでも手を貸してもらえる掛け替えのない先達だった。そのせいで、何も聞かないで門前払いを食らわせる、そんな手っ取り早い策を取るわけにもいかなかった。

とはいえ、評定での落としどころが勝手にひっくり返せるわけでもなかった。だから、名主は、お市の申し立てに耳を傾けているふりをしながら、どうやったらお茶を濁せるか、そんな思いに暮れていた。

お市もそれは百も承知の上だった。

だから、いい加減な折り合いに応じる気なんかなく、

「この鬼騒動の子細をよく調べてみると分かるはずだけど、鬼と出会った連中は、いつだって、白犬シロを、まず、ひどい目に遭わせていたわ」

そんな話まで持ち出してきた。

すると、名主は、頭をかきながら、

「知っている、知っている。でも、それで、お市さんは、町の連中がシロをいじめたから牡丹が仕返しをした、いや、牡丹は白犬シロを助けるために鬼に化けて連中を脅かした、そうとでも言いたいのかい。だけど、それはお笑い種だなあ。牡丹はただの猿回しの猿、そんなけだものにそんな知恵なんかあるわけないよ」

やはり、取り付く島もないありさまだった。

お蔵は、そのとき、お市の後ろで黙って話を聞いていたのだが、そこで、名主の目の前に立ちはだかると、与次郎から聞いた牡丹と牡丹の末っ子との悲しい思い出話を口にしてきた。

その一部始終を涙ながらに語り尽くした上で、お蔵は、

「そう、牡丹は確かに人じゃない。ただの猿回しの猿、そう言われたって無理はない。でも、だからといって、牡丹が何にも考えていない、何にも感じていない、どうしてそう言えるの。楽しいとかうれしいとか、怖いとか悲しいとか、牡丹だって、あたしたちと同じように考えている、感じているの」

その上で、

「そんな牡丹は、年老いてから授かった最後の子があんな殺され方をされて、どう思ったのかしら? 無慈悲で残酷で見勝手な人、そんな人のためにずっと猿回しの芸を続けてきた牡丹は本当に悲しかったんじゃないのかな。それはありきたりなものでもなくて、人にはいつか仕返しをしてやる、そんな思いだったのに違いないわ」

お蔵の話はさらに続いた。

「だけど、牡丹は我慢した。だって、牡丹は、ずっと、人と暮らしてきたからね。ところが、そこにシロがやって来た。そんなシロを、最後の子の生まれ変わり、牡丹はそう感じていたんじゃないかな。だから、シロをいじめる連中は絶対に許せなかった」

名主が目を白黒させる一方で、お市は目にいっぱいの涙を浮かべていた。

お蔵は、そこで、遠いかなたを見やるような眼差しをして、

「でも、牡丹が鬼の真似をしたのは偶々だったのかもしれない。何とか気を振り絞って、もう一度芝居をやってみる、そんな心意気で化粧のおさらいをしていたところで、四ッ谷御門外の鬼騒動となっただけなのかもしれない。ただ、それで悪い連中を追い払えたのは幸いだったから、それが稼業となってしまった、そんなところじゃないのかな」

そこまでくると、お蔵はグッと言葉に詰まっていた。

それもそのはずだった。それまで何気なく口にした四ッ谷御門というところ、それはお蔵にも思い出深いところだったからだ。

幼い頃、呂宋(ルソン)からの人さらい船を抜け出して、弟太郎と二人で夜の道をさまよい歩いた揚げ句に行き着いたのが四ッ谷の辺りであって、そこの見張り番の目を盗んでやっとの思いで通り抜けた難所こそ、その四ッ谷御門だったのだ。

そのとき、お蔵は、太郎にむかって、

「行くよ。あたしから離れるんじゃないよ」

そう力強く言い放って、恐ろしさに打ち震えている胸の内をひた隠しにしながら、四ッ谷御門を一気に突き抜けていっていた。

それは、それから幾ら思い返しても、お蔵の胸が締め付けられるひと時だった。

〈牡丹だって、きっと怖くて仕方がなかったはずだわ〉

お蔵は、それから、名主をキッと見据えると、

「名主の皆さん方はそれでも牡丹の首をはねるというわけ? そんな無地な沙汰を下すつもりでいるわけ? 猿回しというのは、もともと、悪魔払いや厄病除けのための芸事なのよ。そんな芸事の担い手の首をはねたりしたら、どんな災いに見舞われるか知ったものでもないんだからね」

 そこまで言われると、さすがの名主も、もう、顔が真っ青だった。

「分かった。分かったから、も、止めてくれないか。だけど、一人では決められないから、少しだけ待って欲しい。他の名主連中と話をした上で折り合いを付けるから、それまでちょっと待ってくれ」

こうして、それから一日が過ぎた後、名主の使いが水茶屋「おせん」のお蔵の元にやって来た。これから与次郎が猿と犬の面倒を抜かりなくみる、それを条件として、今度ばかりは一切を水に流すこととする、その使いが伝えてきたのはそんな評定の沙汰だった。

さらに数日後、その日は翌日からは霜月ともなる秋晴れの日で、お蔵は、のどかな陽の光を浴びながら、水茶屋「おせん」の縁台でお市と話し込んでいた。

そこへやって来たのが与次郎で、与次郎はすっかり旅支度を整えていて、江戸での仕事はもう終わったから、これから故郷の周防に帰るつもりでいる、そう打ち明けてきた。

お蔵とお市が名残惜しげな顔をしていると、そこに牡丹が駆け寄ってきた。

お蔵もお市も、いったい何ごとか、そんな思いで目をまるくしていると、牡丹は、やおら両手を付いて、二人に頭を下げてきた。

それは牡丹の心からの礼だったのだ。

お蔵は返す刀で手を差し伸べて、牡丹の手をそっと握ってやった。

お市はお市で、牡丹の頭を優しくなでてやっていた。

すると、牡丹がゆっくりと面を上げてきて、お蔵とお市の目をジッと見詰め始めた。

そこで、お蔵とお市は絶句した。

何と、牡丹の目が涙でいっぱいだったからだ。

牡丹は、それからほどなく、少し離れたところにいたシロの元に戻っていった。

そんな牡丹の後ろ姿を見やりながら、与次郎が、

「牡丹ももう歳だから、お蔵ちゃんとお市ちゃんに会えるのも、これが最後かもしれない。でも、牡丹は二人に会えて本当に良かった、そう思っているはずだ。それに、牡丹は、近頃、少し変わってきた。あれを見な。ああやって、シロの師匠役をやっているんだ」

お蔵とお市が与次郎の指差した方を見やってみると、牡丹が、締太鼓のバチを握り締めながら、シロの目の前にでんと座り込んでいた。その一方で、シロは足元に置かれた三角形の升の中に手鞠を順に積み上げていく稽古の真っ最中だった。

シロはシロなりの努力を続けてはいたが、やはり、生まれついての不器用さだけは仕方がなかった。だから、途中までは何とかうまくやっていても、どこかで粗相をして、また始めからからやり直し、その繰り返しだった。

それでも、牡丹はシロを甘やかさなかった。

牡丹はシロの真正面に陣取って、シロが粗相を仕出かす度、手にしていたバチでシロの頭を小突いていた。その姿は、まるで、うまくいくまで何度でもたたくからね、そう言っているお師匠さんみたいだった。

与次郎は、そんな牡丹とシロを見やりながら、

「あんな厳しいお師匠さんの元だとシロも大変だな」

と言って、大きな笑い声を上げていた。

そのとき、太郎が姿を現した。

すると、お蔵が、思わせぶりな笑みを浮かべて、

「そういえば用があったんだ。ちょいと、太郎、こっちに来て」

太郎が首をかしげていると、お蔵は、

「大傳馬町の伊勢屋さんまで届け物があるの。伊勢屋さんなら、お市さんがよく知っているから、これから二人で一緒に行ってくれない。それから、ついでだから、お市さんを家まで送っていってね。お願いよ」

太郎は、もう、大きく口を開けているだけだった。

すると、お蔵は、そんな太郎の頭にむかって締太鼓のバチを振り上げながら、

「さあ、次は太郎の番よ」

と口にすると、そこでペロリと舌を出した。

〈これじゃ、牡丹と同じか〉

太郎にむかって締太鼓のバチを振り上げたお蔵の姿が粗相をしたシロにむかって締太鼓のバチを振り上げていた牡丹の姿にそっくりだったからだ。

 了