• 『彼女とあの娘と女友達(あいつ)と俺と: 猫っぽいあの娘と女友達(あいつ)編』

  • 松代守弘
    現代文学

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    薄ぼんやりした日々をダラダラと過ごす『俺』は、セクシーで情熱的な女友達(あいつ)と、奇妙で変化に富んだ日々を過ごしていた。そんな『俺』が『猫っぽい娘』と出会い、エロティックな出来事に巻き込まれてゆく。

第1話 人妻と若い男とひよこ豆のカレー炒め

 女友達が男のナニをしゃぶってる気配を背中に感じながら、湯が沸くのを待っている。普段よりじゅぼじゅぼちゅぱちゅぱ音を立てているのは俺に聞かせたいのか、それとも男の好みだろうか?
 ホーローの薬缶にこびりついた油汚れをガスの炎が舐め、時折パチッとなにかが弾け、かつては深紫だった表面に新たな黒いシミをつける。

 湯が湧き、紅茶ポットに湯を入れ蒸らし、湯をマグカップへ移し、ティーバッグをポットへ入れ、沸かし続けていた湯をたっぷり注ぐ。その間ずっと、女友達は男のナニをしゃぶり続けている。だが、耳に入ってくる男の息づかいから、そろそろ終わりが近づいているようだった。安い茶葉の安いなりに穏やかで物憂げな香りが漂い始めたころ、俺は背後を振り返る。
「お茶、入ったけどいる?」
 男が女友達の口へ精を放つところが見えた。
「あ……アイスにできる? 無理なら水がいいな……」
 女友達は口元の精をティッシュで拭いながら低い声で答えた。男はなにも言わず、ただ荒く息をするばかり。俺は軽く頷いて湯を捨てたカップに氷を入れ、茶を注ぎ、女友達へ渡す。女友達は一息に飲んだが、それだけ。
 それ以上は欲しがらない。

 俺はミルクティーをちびちびすすり、女友達が男へ何言かささやきかけるのを眺めている。やがて、甘えた声になった男が女友達の唇を奪い、彼女友達を布団に横たえた。男の背中はやや張りがあり、鈍色に光る汗が眩しい。無駄な肉こそ無いが、鍛えているとうわけでもない。ただ、肌の張りに男の若さを否応なく感じてしまうことは、いささかばかり受け入れがたかった。
 見るとはなしに下を見ると、すっかりたるんでしまった腹がそこにある。腹の下には行為からなかなか回復せず、ぶらりと垂れ下がったままの男根と、白髪交じりの陰毛も見えた。少し冷めはじめた紅茶をすすり、なんとはなしに腹を撫で回しながら『腹でイチモツが隠れるほどではないわけだし』と、慰めにもならない慰めまで頭をよぎる。なんだかんだ言っても、比べたくはないのだ、若い男と自分とは。
 気が付くと、女友達は再び男を口にくわえていた。女友達は『見ないでちょうだい』と、かすかに非難がましい眼差しを送っている。別々にセックスするんじゃ、男を家へ呼んだ意味もなくなるが、仕方ない。台所の扉をそっと閉め、冷めかけのミルクティーに口をつける。全裸のままでいるのもなんとなく気が引けるし、とりあえずエプロンを付けてみたものの、やることがないのには変わりがない。扉の向こうからは、時折くぐもった声も聞こえてくる。まぁ、せいぜい気にしないよう、まかり間違っても耳を押し付けたりしないよう、自分に言い聞かせる。
 手持ち無沙汰で小腹も空いた。なにか、作るか。
 ひよこ豆の缶詰を開け、ベーコンを切り、にんにくと玉ねぎを刻む。それぞれなんとなく炒め、イラン人の店で買ったミックススパイスを目分量で放り込むと、オリブ油やにんにく、ベーコンの香りと混ざって、魔神でも出てきそうな煙が立ち込めた。甘い、それでいて刺激的な匂いが猛烈に食欲をそそる。本来はマトンやラムの臭みを消す強いスパイスだから、ベーコンだと香りがバッティングする。けど、その辺はあまり考えない。そもそも、イラン人はベーコンなど食わないから、相性が良いはずもない。
 ミックススパイスは、恐らくチリベースにコリアンダーとナツメグ、生姜、それにもしかしたらシナモンも入ってる感じだが、その他は全くわからない。甘い香りのくせに猛烈に辛く、量を間違えると大惨事という危険なシロモノだ。イラン人の店で買うのだが、イラン産ではないらしい。
 イラン人の店はサフランやざくろジュースも売っていて、どれも信じがたいほど安く、交通費を払ってもお釣りが来るため、半月おきぐらいで買いだめに出かける。以前、店に行ったら礼拝中で買い物ができず、時間を潰して再訪した時、店主がおまけにつけてくれたというのが、この謎スパイスと出会ったきっかけだった。
 ついでにパンもトーストする。半ば水気が飛んでいたので、フライパンの肉汁と脂をかけ、オーブントースターへ放り込む。これまた、大変な匂いが立ち込め始め、後の掃除が気がかりだが、あえて気にしない。ひよこ豆の炒めにミルクティーだとチャパティが欲しくなるところだし、トルティーヤにコーラでメキシカンも楽しいが、干からびたパンしかない。
 まぁ、仕方ないさ。
 こうして、料理を着々とこなしていた俺が、トーストとひよこ豆の炒めをよそう皿を出したところ、不意に扉が開き、女友達が裸で仁王立ちしていた。発酵して膨れ上がったナン生地を重ねたように柔らかく、美味しそうで、神々しい乳が、溶かしバターを塗ったように光っている。いや、実際に乳はローションに塗れて、さっきまでナニを挟んでこすっていたのか、臭ってきそうな生々しさだった。
「気が散ってしょうがないじゃない!」
「できないのか?」
「できないからあなたを台所へ行かせたの、わかってる?」
「すまん……暇だったし、腹も減ったし……たべる?」
「しょうがないね。いいけど、それ、やっぱすごく辛い?」
「あ……うん、たぶん」
「だよね、彼に聞いてみる」
 女友達は部屋の奥に引っ込むと、しばらくしてからパンツを履いて戻ってきた。
「たべるって」
 皿によそったひよこ豆とトースト、紅茶を座卓に並べ、下着姿の男女友達が取り囲むと、どことなく南アジアな雰囲気が漂う。女友達は大きな乳をタンクトップへ押し込み、長い髪を頭の上にまとめ、カラフルなバンダナを巻きつけているから、ますますエキゾチシズムの色が濃くなる。男は東洋的なまつげの長い切れ長の目を開き、やたら『美味そうな匂いですよ』と、妙にはしゃいだ声を上げている。
 そんな男を見ていると、若いというより子供のように見えて、卓を囲む男女友達が親子のような感じさえしてしまう。
「すごく、美味しいです」
 不意に、男が俺の顔を見て言う。敵意を感じさせてはならないと言い聞かせる前に、俺の眼は正面から男を見つめてしまう。幸い、男の言葉は世辞でも追従でもなく、本当に辛い料理が好物のようだった。パンをちぎり、丁寧に脂をすくって静かに食べる様子は、育ちの良さを十分にうかがわせる。
 そうかそうか、それは良かったと、曖昧に返しながら腹は減っていたのか? 辛すぎないか? などと、手料理を振る舞う人のよいオヤジを演じる。皆が食べ終わると、すぐ立ち上がって食器を片付け、その勢いで皿を洗う。
 汚れた食器をすぐに洗うのは、前の前に付き合っていた女に仕込まれた習慣だ。いや、その前かもしれないが、そんなことはどうでもいいか。
 少なくとも、俺の親はそうじゃなかった。父も母も、どちらも、そうじゃなかった。 湯を止め、皿を拭き始めると、待っていた男と女友達が風呂場へ入っていった。待たせてしまったと思うまもなく、身体を拭きながら女友達が出てくる。
「なんだ? 彼、帰るの?」
「うん、やっぱダメみたい」
「落ち着かないとダメか……」
「あなたみたいな人、そんなにいないね。やっぱり……それに……」
「それに?」
「あんだけ辛いマメたべた後にヤったらどうなるか、わかるでしょ?」
「マメが焼けるね」
「おい、パンツ脱ぎな!ちょいとしゃぶってやろう」
「すまん……」
 女友達は俺にタオルを投げ、そそくさと服を着始めた。
「彼には投げなかったの?」
「なんで? いじめたいの? 可愛こちゃんはいじめないよ。優しく可愛がるんだよ」
「そだね……ずいぶん可愛がってたな……送ってく?」
「うん、送ってくわ。ちょっとフォローしてあげたいし」
 俺は曖昧にうなずいて、タオルを洗濯機へ放り込んだ。何か気配がして、風呂場へ目をやると、半分ほどしか湯のない湯船に尻を漬けた男が困り顔で震えていた。すまんすまんとわびながら新しいタオルを渡し、女友達を呼ぶ。彼女はクスクス笑いながら、ごめんごめん、寒かったよね、などと声をかけていた。
 結局、男は改めてシャワーを浴び、女友達と出て行った。
 部屋の片付けは後回しにしてちょっと寝るか、でもその前にメールやネットのチェックはしておくかと、パソコンを立ち上げたが最後、自分でも意識せずに飲み物とスナックを用意していた。だらだら過ごす気満々だ。
 メールも新着情報もなく、誰も気の利いたネタひとつ流していないネット空間で、ちょっと女友達でも釣るか、動画でも観るか、それよりシャットダウンして部屋を片付けるかと、まだ夕方だし俺も出かけて良いかなと、スナック食べつつしばしモニタを見つめる。なんにしても、布団ぐらいは片付けておくかと、立ち上がったら部屋の隅には女友達の荷物があった。
 そうか……戻ってくるんだ。
 いつものことなのに、なにか少し不思議な感覚を覚えた。俺は女友達の名も歳も知らない。知っているのは、携帯番号とメールアドレス、そして女友達には法律上の夫がいること、その他は食い物とセックスの好みが一致していることぐらいだった。そう、俺も女友達もバイセクシュアルで、そろって肉感的な女友達と細身の男が好きだった。ただ、女友達は女友達を相手にする時は攻め、男が相手になると受けのリバだったが、俺は女も男も関係なく攻める。そこは決定的に違っている。だが、おかげでセックスの役割分担もうまく行っていた。
 女友達は都合の良い時に来て、そして帰る。鍵も渡してあるから、好きなとき好きに使っても良いのだが、俺がいない時には来ない。そして、来る前にはいつも俺に連絡し、互いの予定をすり合わせる。また、どちらかが男や女を釣った時は、都度知らせる習慣にもなっていた。
 それがいつ始まったのか、今の俺は全く覚えていない。だが、女友達に言わせると関係を持った直後から、頼みもしないのに知らせてきたらしい。そんな付き合いだから、女友達が部屋へ戻ってくるのはむしろ当たり前だったのだが、今度はそのまま男と何処かへ行ってしまうような、そんな気持ちになっていた。
 自分で自分がめんどくさい。
 今回の相手は女友達がどこかで拾った男だったが、残念なことにヘテロでマゾヒストで、若いがゆえに経験も不足していた。おまけに所有欲が強いことに自覚を持っていなかったので、どう考えてもみんなで楽しめるはずはなかった。ただ、セックスへの好奇心は強く、行為に興味を感じていたのは間違いないし、実際に部屋まで来て、服も脱いだのだから、よく頑張った方とは思う。乱交に興味を示す人間は思いのほか少ないし、興味を示しても、いざ誘われるとしり込みする。むしろ、乱交に露骨な嫌悪感を示す人間のほうが、実ははるかに多い。
 多くの人々が嫌悪し、また嫌悪せずともしり込みする乱交の世界で、互いに外見や性的な趣味嗜好の一致する相手を見つけることは難しい。女友達と巡り会うまでのめんどくさい道のりを思い出しながら、ほぼほぼ理想的な相手と巡り合ってもなお、それでも俺は別の相手を探し続けるし、女友達も同様であることの不安定さに、かすかな憂いを感じてしまう。不安定なふたりだからこそ互いが必要で、惹かれ合い、結びついている。しかし、同時にそれは関係が決して落ち着いたりはしないこと、またどちらかが連れてくる相手によっては大きなリスクをもたらすことも意味していた。
 女友達が男と帰り、そのまま再び会えなくなったとしても、それはそれで受け入れるほかない。逆に、俺が別の女友達を見つけて……ちょっと考えられないな……そう思った瞬間、俺が主導権を失いつつあること、それが不安の根源なのだろうと気がついた。
 鍵を回す音がして、振り返ると女友達が部屋へ入ってきた。
「ただいま」
 ただいま、か……でも『ただいま』だよな。
 曖昧に挨拶を返し、モニタへ向かったまま苦笑を押し殺していると、女友達が後からまとわりついてくる。背中に当たる大きく重い乳房の感触が心地よい。女友達の手を引き寄せ、肩越しに唇をむさぼると、甘ったるいクリームとソイラテの味がした。

第2話 北部風の甘いコーンブレッドと女友達

 梅雨時とはいえ、あまりに激しい雨音で目が覚めた。未明の予報では夕方までにやむということだったが、気がつけば強まる一方で、梅雨寒にしてもひどく寒い。それもそのはずだ。終電で来た女友達とシャワーも浴びずにはげしく交わり、そのまま裸で寝入ってしまっていた。

 頭を軽く起こし女友達の姿を探したら、隣で半身を起こして大きな乳房をおもたげに持ち上げ、身体の脇を抑えつつ顔をしかめていた。もし乳に絡むことなら、男が下手なことを言うと地雷を踏む。そっとしておこうかとも思ったが、なにかただならぬ雰囲気だったので『大丈夫?』と声をかける。
「大丈夫じゃないけど、大丈夫。雨と寒さで肋間神経痛来ただけ」
「なにか、できることある?」
「ありがと。でも、ないわぁ、むしろほっといて欲しい」
「そか……もしかして、温かい飲み物とか、いる?」
「あ、それはありがたいね。すぐ出来るのがいいんだけど……」
「大丈夫、インスタントコーヒーある」
「うわ、珍しい! はじめてかも?」
 女友達はいささか大げさに驚いてみせ、そしまた顔をしかめ、脇の下を抑えてつぶやくように言う。
「ごめんね……」
「えっ? なにが?」
「おきたらまたしようって言ってたけど、ちょっと無理かも……」
「いやいや、無理しなくていいよ。逆に、夜中にやって、裸で寝ちゃったのが悪かったかなって……それに、夜にはみんなで楽しめるし」
「あはは……いつっ! 笑うとダメね……いいの、私もしたかったんだし、ホントはいまだってやりたいんだし……でも、そうね、今夜は新しい娘も来るから……なんとかそれまでには……ね」
 女友達はそう言うと再び横たわり、乳を下から支えるよう腋から胸を抑えて丸くなった。そう、今夜はふたりともまだ会ったことがない女性との楽しみが予定されている。それも、メッセで『素敵なお姉さんに甘えたい』なんてやりとりしていた娘なだけに、女友達は予定を組んだ日からずっと、俺もいささか呆れるほど楽しみにしていた。仕方ない、ここは『我慢の時間帯』だな。
 俺は薬缶を火にかけ、カップとインスタントコーヒーを用意する。裸だとさすがに寒いのでエプロンを付けたが、さして意味はない。そうこうしてる間に湯が沸き、カップへ注ぐとインスタントなりにコーヒーらしい香りが漂う。女友達はブラックで、俺はミルクをたっぷり入れる。
 気がつくと、女友達はパンツを履いて胡座をかき、脇腹を気にしている。カップを渡ししつつなにか食べるかと尋ねたら『甘いモノが欲しい』と答えた。
 甘いモノか……。
 ジャムトーストでも食べるかと台所の三段ボックスを確認したら、昨日の食パンにカビが生えていた。嫌な予感がして冷蔵庫からカップのママレードを出したら、こちらもうっすらカビている。近所のパン屋で買うときは即日消費が基本なのだが、夜食のつもりで残したのが裏目に出た。食わずにやって、そのまま寝ちゃったからな。
 ママレードのカビは、おおかたスプーンの二度付けだろう。いずれにしても、買い物に出るかなにか作るか、さっさと決めねばなるまい。とはいえ、この雨の中、出かけるのは億劫を通り越して難儀だし、改めて食材を確認すると、選択肢はほとんどなかった。
「コーンブレッドとか、どうかな? 甘いやつ」
「え? トーストでいいのよ」
「いやぁ、カビちゃっててさ……」
「ゲゲ! 昨日のパンだよね?」
 うなずきながら女友達にパンを見せると、たちまち顔が曇った。カビを削れば食えなくもない程度かもしれないが、梅雨時に神経痛で苦しんでる人間が犯すリスクではない。結局、女友達が風呂で髪を洗い、体を温めている間に、コーンブレッドを焼くと決める。
 オーブンレンジの予熱を始め、小麦粉にとうもろこし粉、砂糖をざっくり混ぜ、次に卵やらミルクやらを混ぜて、粉と合わせる。マーガリンは湯煎したいけど、この際だからそのまま混ぜ込む。生地を型へ流し込んだ頃には予熱も終わり、オーブンへ入れタイマーをセットし、続いてボウルやらなにやら調理器具を洗い始める。
 そこに、タオルを巻いた女友達が、髪を拭きながら出てくる。楽しげに『いい匂い』と声をはずませる女友達へ、もう少しかかることを告げたら、ゆっくりドライヤかけるから大丈夫と返された。
 そんなこんなで焼き上がり、型から抜いて切り分ける。甘いとうもろこしの匂いが立ち込め、切り口の鮮やかな黄色味が眩しい。端の小片を味見する。まぁまぁ、なんとかなってるか。再びコーヒーを用意し、コーンブレッドを盛り分ける。今度は女友達も少しミルクを入れた。
 ひと口ごとに、とうもろこし粉の食感と甘さを撒き散らし、噛むと口の中から水分を奪い去るので、最後はコーヒーで流しこむしかないような、そんな食べ物ではあるが、それでも味は決して悪くなく、俺と女友達の腹を満たすには十分すぎるほどだった。半分ほど残ったので、今度は密閉容器に保存したが、それでも早く食べねばなるまい。
「パンがカビたから焼く羽目になったコーンブレッドまでカビさせちゃったら、ちょっと笑えないね」
 俺がクッキングシートに包んだコーンブレッドを容器にしまいながらぼやく。
 すると、女友達は「しょうがないよ、梅雨時だもの」と笑った。
 ふと「工場のパンならカビなかったかも」なんて言葉が、俺の口からこぼれ出た。
 すると、女友達は真顔で「それ、ネタを振るときは相手を選んだほうが良いよ」と忠告してくれる。
「うわぁ! もしかしてあんな本やネットのデマ信じてる人、まだいるんだ」
「信じてるっていうかさ、地雷。なんていうか、工場のパンを食べないってのが、生き方へ組み込まれちゃってるんだよ……だから、そういう人ってわかったら、波風たてないように笑って、そっと逃げるしかないのね」
 そこまで言うと、女友達はぬるくなったコーヒーといっしょに溜息も飲み込んだ。
「そういや会話が一方通行というか、マウンティングになっちゃう人がいたな。いや、いたとか、そういうんじゃなくて、そういう人ばかりだったんだよ。でも、黙ってると向こうから話しかけるだろ、そしたらやっぱ会話のゲーム始まっちゃうからさ。結局、それでしんどくなって会社辞めたんだっけな……俺」
「それ、女友達の世界も……ガールズトークなんて、マウントの取り合いだもの。でもね、あなたもたまにしかけてくるのよ、マウンティング……気がついてないと思うけどね」
「それ、ハメる時の話じゃないよね」
「うん、しゃべる時。そういや、私以外でもあんま騎乗位させないね。嫌いなの?」
「嫌いっていうか、うまくあわないんだよね。股関節が硬いから、角度がさ」
「だから、すぐマウント取るんだ。でも、バックだとマウント好きよ。私のねじれマンにはぴったりあってるからさ」
 言いながら、女友達は人差指と中指を捻るように交差させ、ちょっと下品に曲げて笑った。俺も釣られて笑いながら、女友達の膣口付近がやや複雑な形で、男根に手を添えてもらわないと挿れにくいこと、しばしば『あなたのが太すぎるのよ』と茶化していたことなどが脳裏をよぎる。
 強いというか、女友達は微妙な話題をすんなり落とし込んだり、かわしたりが上手い。だから、知らず知らずの間に、そういうところへ甘えていたんだろう。とは言え、甘えることと相手を軽んじることを隔てるものはなにもない。ただ、相手が心地よく受け入れている間は、それが甘えになっているというだけに過ぎない。もし、不快感が芽生えたら、その瞬間からすべてが変わる。
 そして、相手が心地よく受け入れるか、不快に感じるかどうかは、人間関係の蓄積で左右される。
 ただ、今夜の娘は俺も女友達も初対面だ。これまでは俺か女友達か、既にどちらかと関係を持っている相手だったから、会話やセックスの主導権についてはあまり考えずに済んでいた。また、俺が初対面の相手と会う時も単純で、主導権を握るか相手に任せるかは、俺が独りで決めれば良いことだった。できれば、今夜は女友達に仕切りを任せたいところだが、そうもいかんだろう。
 めんどくさい。
 ふと女友達をみると、再び乳から腋下にかけ抑えるようにさすっていた。顔をしかめつつ、指先を肋骨に沿わせるように、ゆっくりと力を加えている。
「ひどく痛むのか?」
「痛いというか、渋い……めんどくさい」
「今夜、大丈夫かな?」
「大丈夫じゃなくても私、帰れないし、気持ちよく楽しくするしかないよ」
 そりゃそうだ。女友達は夫の日程に合わせて行動しているから、そもそも予定の変更余地は少ない。それに、もし変更可能だったとしても、セックスできないぐらい悪いなら、動かさずに休ませたほうが良いだろう。
 それに……。
「このまま雨がやまなかったら、来ないかもしれない」
 また、俺の口は余計な言葉を撒き散らす。
「うへぇ、そういうの言わないで。今だってやりたいの我慢してるし、夜だって楽しみだし、気持ちだけでも盛り上げたいのよ。大丈夫じゃなくてもなんとかするし、できるからだいじょうぶ!」
「だといいけど」
「大丈夫! テンション上げると痛くない! それに、あなたは状況や相手の用意した枠を意識しすぎるからさ、枠組みごと悪い方へ回り始めたらとまんないんじゃ? 大丈夫。夜はお姉さんがなんとかするから」
 女友達の言葉に軽く頷いて同意の意を示しつつ「おかわり、いる?」と問うたら、少し間を置いて「コーヒーもういいわ、できたら紅茶が欲しい」と返ってきた。食器を持って台所へ向かう。洗いながら湯を沸かし、ティーポットや茶葉を準備する。
 大丈夫、大丈夫の繰り返して、なんだかめちゃくちゃだけど、伝わるものはある。俺が会話を苦手としているのも、相手の枠を意識して、そこへ話を落とし込まねばならないと思い込んでしまうからだろう。そもそも、他人とまともにコミュニケーションできるようになったのは、ネットでのやりとりで相手の枠を把握するための時間的な猶予が得られてから。つまり、ようやく最近になってのことだった。
 もちろん、女友達はそれ以前の俺を知らない。ネットで何度か痛い目に遭い、いい加減に懲り、そろそろやめようかって頃に巡りあったのだから。
 もし、ネットで経験を積む以前の俺だったら。そんなことを考えると、つい苦い笑いがこみ上げてしまう。ここでうかつに苦笑すると、それこそ悪い枠組みを形成してしまいかねないが、大丈夫。女友達とは関係の蓄積がある。そこまで猜疑心が強くないし、もし悪意に取ったとしても、誤解を解く余地ぐらいは残されているだろうから。
 温めたポットへ沸騰したての湯を注ぎ、黄色いタグのティーバッグを放り込む。値段が安い割に味も香りも良い葉だが、抽出時間がややピーキーで、早すぎると色付きの湯にしなからず、かと言ってわずかでも長く漬けすぎると渋みが強く出てくる。それこそめんどくさい茶葉だ。
 マグカップに紅茶を注ぎ、ミルクを入れる。俺はたっぷり、女友達は少し垂らす程度。茶葉の香りがインスタントコーヒーやコーンブレッドの匂いと交じり、なんだか微妙な空気が漂うものの、いまさらどうしようもない。
「夕方まで、どうする?」
 カップを座卓へ置きながら、なんとなく尋ねたら、女友達は「そぉねぇ、どうしましょうかねぇ」と、茶化すように意味ありげな笑みを浮かべている。
「予定って、わかりやすく枠組みでしょ?」
 最初、意味をつかみそこねてきょとんとしていたら、女友達が「時間の枠組みも、会話のそれも、思考の範囲を決めるでしょ」と微笑みながら補って、ようやく気がついた。枠組みを決める時、俺はこっそりとマウンティングすることもある。あくまでも合意を取り繕いながら、その実は相手から選択の余地を奪っておいて……。
 そう、例えば目の前の女友達に、どれほど選択の余地があるのだろう?
「枠が決まってればなにかと楽だからね、あなたがついこだわってしまうのもわかるわ。でもね、なにかあれば枠は変わるし、その気になれば変えられるのよ」
「うん、だから枠を意識するんだろうね。ただ、枠組みに乗るか乗らないかは自分で決めたいし、できれば俺の枠にも納得してから乗って欲しいんだよね」
「ありがと、だから好きよ。無理やり乗せて、降りようとしたら首輪はめようとする人、世の中にはたくさんいすぎるからさ」
「どういたしまして。そして、できれば、もう少しこの枠に乗ってて欲しいなってね」
「もちろん、今後ともよろしく」
「じゃ、合体しようか?」
「いや『今後ともよろしく』は合成後のセリフだから」
「よく覚えてるな」
「へへへ、本作ったからね」
「うわぁ! 同人? 今度、読ませてよ」
「うん、同人誌。ただ、今夜の娘にはバラさないでよ。キャラわかんないんだから」
「うん、そこは大丈夫」
 そう言って俺は女友達を後ろから抱きしめ、掌に乳をのせた。女友達はされるがまま。痛みはかなり引いたようだった。

第3話 平らな顔の冷凍ピラフ

 深夜、とっくに終電も出ている時間だというのに、ジリジリとセミが鳴いていた。遠くでカラスが騒いでる。都会の夏、アスファルトはまだ熱を放っていて、蒸し暑さをさらに加速していた。俺はふたり分の荷物を担ぎ、前を歩くスキニーでショートカットのちょっと猫っぽい娘の後をとぼとぼと歩いている。なんだかじゃんけんに負けた小学生めいているが、娘の細い背中に浮かぶ汗ジミとブラの線を追う眼差しはあからさまに粘っこく、まさに中年エロオヤジのそれだった。
 ゲイのカートゥンアーティストとレズビアンのストーリーライターが対談する、おしゃれトークイベントの会場で、俺はその猫っぽいあの娘と出会った。最初にその娘を見つけた瞬間、俺は【東京少年】を思い出し、猫っぽいあの娘は【愛の新世界】を思い出していたのは、後になってわかったこと。ともあれ、サロンとも居酒屋とも付かない会場で飲み物を持ちながら席を探す娘を、俺が目ざとく見つけて、にこやかに「よかったら、相席いかがです?」と声をかけた時、あの娘も『あのオジサンのところしか空いてなさそう』と考えていたらしい。騒々しい店内で、言葉の代わりに娘は会釈を返し、微笑みながら片手をあげていた。
 俺の声に振り向いた娘は、最初は露骨に警戒の色を見せていたっけ。それは、見知らぬ他人に声をかけられた路上の猫そのものだった。ところが、俺が手元でひねくりまわしていたカメラに気がつくと、少し考えるような素振りをみせてから、こちらのテーブルへ飲み物を置き、静かに腰を掛ける。ぬるぬると身をくねらせ、しずかに歩みよる姿も猫だった。
「ありがとうございます、相席させていただきます」
 丁寧に挨拶する娘の声には澄んだ可愛らしさがあり、つい猫っぽい娘へ向ける眼差しまでやに下がってしまう。しかし、娘が「もしかして、それアイコンのカメラじゃないですか? あいかわらず名前は読めないんですけど……」と俺のソーシャルアカウントを口にした瞬間、浮ついた気持ちに手錠がかかった。
 たしかに俺はそのカメラをアイコンにしていたし、ぱっと見でわかるほど特徴的だったので、イベントにも目印というか、それこそアイコン代わりになればと思っていたが、まさか声をかけた娘の目にとまるとはね。
「え! もしかしてフォロワーさん? たしかにアイコンのカメラですよ。相互だったらいいんだけど……あれ、あれ? ちょっとアカウント教えていただけます?」
 ともあれ、俺は娘の言葉を肯定しながら、彼女のアカウントを確認する。
 うわっ!
 アルファとは言わないまでも、めっちゃフォロワー多い。そして、俺は相手をフォローして無い。これはちょっと気まずいかも……。
 だが、俺はそのアカウントに見覚えがあったし、それどころか相互フォローだった時期もある。たしか、受験を控えてソーシャルメディアをやめるとか、そんなことをつぶやいていたのが最後だったような、そんな記憶があった。そのころよりフォロワーがかなり、いやびっくりするほどふえている以外、アイコンもソーシャルネームも変わっていなかった。ただ、プロフィールが『裏も表もない普通の工口女。承認欲求こじらせだけど、槍目は即風呂』なんて、なにやらきな臭い文言に変わり、フォロワーもすさんだ雰囲気のアカウントが並んでいた。
 実際、眼の前の娘はあどけなさのなかに怪しさをやどした、桃の種をすこしつぶしたようなかたちの目と、切れ長の二重まぶたが印象的で、ホールのほのぐらいテーブルでもふわっとうかびあがる、強い目元だった。それは、ひごろから声をかけられたり、言い寄られているんじゃないかと思うほどに美しく、魅力的で、さっきの反応にもそういう経験が現れていたような、そんな気がしてくるくらい。だから、こうして同じテーブルを囲んでいるのは嬉しい誤算なんて生やさしいものじゃない、生涯のとは言わないまでも、数年分の幸運を使い果たしたような、そんな気持ちすら芽生えてくる。ただ、それは弁解の余地もなにもない、彼女のフォロワーたちのような、掛け値なしに下品な欲望の土壌に芽吹いた、隠花植物のごとき感情であった。
 とはいえ、喜んでばかりもいられないだろう。
 こまったことに、トークイベント自体は非常に楽しく、愉快で、時には猫っぽい娘のことも忘れて話に聞き入ってしまう。
 ゲイのカートゥンアーティストとレズビアンのストーリーライターがイベントで対談するのは、これが三回めか四回めだ。それまでの企画を踏まえているためか、今回の内容は少々マニアックだった。猫っぽい娘は途中からついていけなくなったらしく、みかねて時折トーク内容をフォローしていたものの、だんだん飲む方へシフトしていったように思えたのは、気のせいじゃなかったらしい。

 トークがひと段落して休憩に入ると、猫っぽい娘は「これ私が飲みますから」なんて、反応に困るセリフを吐きながらに俺へ目配せし、高く手を上げて生ジョッキとバーボンを注文する。
 やがて、ビールジョッキとショットグラスをならべた猫っぽい娘は、なぜか小さくガッツポーズすると、面白くてしかたなさそうに「こういうの、自分でやってみたかったんですよ」なんて言いながら生ビールをあおり、はんぶん近く空けてしまう。
「ずいぶん景気良く飲むね」
「これからが本番ですよ」
 俺は意味をつかみそこねたまま、あいまいなほほえみをかえしていると、猫っぽい娘はショットグラスをつまみあげ、そのままジョッキに落とした。
「ヨシ!」
 やがてビールの泡がおさまると、猫っぽい娘は軽く気合を入れ、ジョッキを目の高さまで持ち上げ、ぐいぐいあおる。
 その、どう考えても危険な液体をたっぷり流し込み、ぶふっふぅぅなんて、妙な節をつけたげっぷをまきちらすと、猫っぽい娘は楽しげにまなざしをおよがせる。ジョッキの水位ははっきりわかるほど減り、縦にのびた泡の筋が怪しげな模様を描いていた。
「いい感じ!」
 俺もよくわからないまま深くうなずき、祝福のサムアップで応じる。
「おじさん、よかったら飲みません?」
 え? そういうナニカなの?
 どう考えても悪酔いしそうなカクテル……なんてもんじゃない、ちゃんぽん飲みだ……に、どことなく儀式めいた作り方とあわせたら、あからさまに仲間内の結束を高める飲み物で、これはもう盃を受けるか受けないかって話かとも思うが、だが、しかしだ。
 俺はセックスが期待される局面では絶対にアルコールを取らないし、食事も最小限に抑える。なにしろ、そうしないと自分の性的能力を発揮できない年齢なので。
 問題は、その盃ならぬジョッキを受けるのは目の前にいる猫っぽい娘との結束を高め、ふたりですごす楽しい夜の招待状だったとしても、酒にやられて据え膳が食えないかもしれないジレンマだ。
 まぁいいさ、よく考えれば単純な話だ。断ったら可能性はなくなるが、飲めば可能性は残る。それだけのことだ。それに、飲み物そのものへの好奇心もあったし、ここで若い娘を相手に引き下がりたくないなんて、そんなカビ臭いマチズモを刺激されなかったかと言えば、やはりうそになってしまう。
 とはいえ、飲むにしても迷いすぎた。いまさらだがちょっと驚いたような表情を作り直し「えっ、いいの?」なんて、知性のかけらもないベタな言葉をはさむ。
「へへへ、ちょっと距離感おかしいですかね? でも、いつもタイムラインで見てるし、なんだか初対面って感じもしなくて。あ、いや、もしおじさんが気にしないなら、ですけど」
「いやいや、ありがたくいただきますよ」
 ジョッキへ手を伸ばす俺に、猫っぽい娘は「意外なほど飲みやすいんですよ。それ」なんて、みょうにはなやいだ声をかぶせる。そして、たしかにそれは飲みやすかった。
 猫っぽい娘は、おっかなびっくりすすったあと、もうひと口、こんどはぐいとあおった俺を真正面からみつめ、意味ありげに「するする入っちゃうでしょ? 危ないくらい」とほほえむ。俺はなにも考えず「これは酔いそうだね」と応じてしまったが、さてこれからどうしたものか?
 トークの後半が始まると、俺は積極的に猫っぽい娘と話し込むようになり、娘は娘でおおいにメートルを上げた。トークの終盤に入った頃には、猫っぽい娘と俺は互いにしなだれかかり、見るからにエロい雰囲気になって嬉しい半面、周囲の目線が気になりだす。さすがに猫っぽい娘もちょっとやばいと思ったのか、へんに芝居がかった口調で「なんか、悪酔いしちゃったみたいだからぁ、ちょっと外の風にあたるねぇ」と言い残し、席を立った。
 トークイベントが終了し、ゲストと客との雑談タイムも終わって、客も急速に減り始める。いちおう、店は始発まで営業しているものの、このまま待ちぼうけはちょっとカンベンしてほしい。もしかすると、本当にまずい状況じゃないかと、だんだんやきもきし始めた頃になって、ようやく猫っぽい娘が戻ってきた。そして、猫っぽい娘のげっそりと青みががかった頬と、死にかかった目をかざる古井戸のようなくまを見た瞬間、だいたいのことは察しがついた。
「おじさん、電車がなくなったんだけど、朝までつきあってくれる?」
「この店で?」
「お店を変えてもいいけど、ホテルだったら嫌です」
「飲みたいの?」
「うぅぅぅん、飲みたくないです。できれば、ちょっと休みたい」
「まぁ、休みたくてもホテルは嫌だよなぁ」
「おじさんの家ほほうがまだいい」
「えぇっ! なんで?」
「私は家もプライベートも教えない。オジサンは家と個人情報を知られる。なら、リスクは同じじゃないかなって」
「ふふふ、なれてるの? こういうの」
「わかんないけど、はじめてじゃないです」
「わかった。じゃ、俺の部屋へ行こう」

 猫っぽい娘の分まで会計を済ませ、店を出て歩き始める。電車でひと駅だが、歩いてもせいぜい小半時間といったところか。もちろん俺は慣れた道だし、なんだかんだいっても期待で足取りは軽い。しかし、道中を半分過ぎた再開発地区ぐらいから、猫っぽい娘の足元はわかりやすくふらつきはじめ、かといってこんな時間に再開発地区を流すタクシーなどあるはずもない。この際だからアプリで呼ぶかとも思ったが、リアルにワンメーターかそこらの距離だし、なんとか歩こうと考え直す。そして、部屋のあるビルへたどり着いた頃には歩くのもやっとという有り様だった。
 ふたつある錠前を、それぞれ別の鍵で開け、ダイヤルキーを暗証番号で解除し、今度は重たい鉄扉を手前に引くのだが、すぐ後ろには猫っぽい娘が……。
 いない、と思ったら、階段の途中にへたり込んだままだ。部屋の扉が外開きなので、途中から俺だけ先に上がったのだが、そこから先はまったく進んでいない。仕方なく担いで持ち上げようとしたのだが、完全に酔いつぶれてるので、やりにくいことおびただしい。結局、俺が猫っぽい娘の両脇から腕を入れ、カンヌキをかけつつひっぱりあげたが、それでも最後は力任せに引きずっていた。
 ともあれ、あとは階段の途中で置き去りにした猫っぽい娘の靴や鞄を回収し、ともども部屋の中まで運び込めばひと安心だ。もろもろ終わって部屋の扉を閉めた時には、俺もかなりぐったりしていた。
 ついさっきまでは、猫っぽい娘もなんとか自力歩行できていたのだが、階段の途中から急にぐったりしたのだろうか。こうなってしまったらお楽しみどころじゃないので、とりあえずマットレスを広げ、猫っぽい娘を寝かせる。ネットで泥酔者のケアについて調べると、回復体位なるものを紹介していたので、着衣をゆるめて横向きにするなど、その通りに対処した。幸い、吐き戻すような気配は見当たらないが、念のため洗面器と新聞を用意する。
 寝部屋のいい場所を猫っぽい娘へ明け渡してしまったので、俺はひとまず台所で今夜の対策を練る。蒸し暑い夜だったので、まずは着替えてシャワーでも浴びようと思ったが、俺の着替えも荷物も、猫っぽい娘を寝かせた部屋にある。とはいえ、彼女がみてるわけでもなし、ぱっぱと脱いでシャワーを浴びる。
 手早く身体の汗や居酒屋でしみたタバコ、酒の臭いを流し去り、体を拭いたら、使えるタオルがなくなった。押し入れも寝部屋にあるので、少し湿り気が残るバスタオルを巻いてしのぐ。夜明け前だというのに蒸し暑いから、むしろちょうどよいくらいだ。小腹も空いたし、なにか軽く食べたいところだが、できるだけ手早く、それも静かに作れる料理が望ましい。となると、カップ麺か冷食ってことになるが、部屋にあるのは冷凍ピラフぐらいだった。
 トークイベントの居酒屋飯を回避したのに、結局は冷凍ピラフに行き着いてしまうなんて、ほとんど釈迦の手のひらで踊る孫悟空だが、それもまた人生塞翁が馬ということ。意を決して袋を開けて耐熱皿に広げ、真ん中をへこませると百均ラップでざっくり包む。量が多いので最初にある程度まで加熱し、ムラを防ぐためラップを開いて混ぜ、再びレンジに掛ける。レンチン音を回避するためタイマー寸止めし、扉を開けたら、皿の上にあったはずのピラフが消滅していた。
 なにが起こったのか、最初は全くわからなかった。悩んでいても仕方ないので、ミトンをしっかりはめ直し、レンジから皿を出す。見ると、ラップとピラフは圧縮されたかのごとく、皿の底へへばりついている。変な声が出そうになったものの、なんとか押さえて、そっと溶けかかったラップをはがす。眉毛を焦がすかと思うほど熱く、もうもうたる湯気の向こうには真実の口があった……。
 今度という今度はオードリー演じる王女めいた悲鳴を上げそうになったが、自分は腹の出た中年親父にすぎないことをかろうじて思い出し、もういちど踏みとどまる。無言でスマホを取り出し、皿の底で睨む真実の口を撮った。
 そのまま、アルバムからソーシャルへポストして、女友達にも共有する。
 女友達には申し訳ないが、いまはしょっぱい気分を共有してもらいたかった。まぁ、流石に寝てるだろうから、朝食後のお笑いネタにでもしてくれればいいやと、そんなつもりだ。こんな状態だが、食べても問題はないだろう。捨てるわけにもいかないし、とりあえず胃袋に納めるかと思いつつスプーンを取り出したら、テーブルのスマホがふわりふわりと光っていた。
 おや、女友達からレスが来てる。
『あちゃぁーやっちまったな』
 起きてたんだ。そもそも女友達は夜型なんだけど、にしてもこの時間に即レスはびっくりだ。
『うん、やっちまった。でさ、これ真実の口だよな』
 わざわざ予測変換に出ない真実の口を入力してまでふったネタだったが、やや遅れて受信したのは『??? 真実の口って?』と、戸惑い気味のメッセージ。
『ローマの遺跡にあるおっさんの顔だよ。前にローマの休日ってハッシュタグつけてたから、わかると思った』
『あぁ、映画はみたけど覚えてない。通話しない?』
 まぁ、イベントやら猫っぽい娘やら、話すネタには困らないし、しかもそれぞれ微妙にややこしいとなったら、通話するのも悪くない。猫っぽい娘は隣で寝てるけど、話し声くらいじゃ起きないだろうと思う……とは言え、ぺったんこのピラフが冷めてしまったら、それこそ始末に負えないだろうし……すこし迷ったあげく『通話できないんだよ。残念』と返した。
『あれ? お持ち帰り?』
『うん、隣で寝てる』
 とりあえずそれだけ送って、平らな冷凍ピラフを食べる。
 見た目はほとんど中華おこげだが、残念ながらとろみ餡などどこにもない。幸いにも、味そのものはさほど悪くない。ただ、食べてるという実感が極めて乏しいのは、全くいかんともしがたい。
『いいの? ほっといて』
 半分ぐらい食べたところで、女友達からメッセが来る。
 まいったな。
 つい顔をしかめてしまう。
 通話にしとけばよかった。
 返事できない言い訳にせよなんにせよ、なにか返さなければならないのだが、眠気やら疲れやら食べごたえの全くないぺたんこのピラフやらが重なって、心底めんどくさい。いや、まぁ、無反応で放置したところで機嫌を損ねるような相手ではないし、せいぜいはじめたかなって思われるくらいだけど、だからこそなにか言葉を送りたくなる。
 そんな自分のめんどくささがあって、それを直視するのがまためんどうでもあった。
『やっぱ百均じゃ買っちゃいけない物のひとつだよね、ラップって』
 気がつけば、俺の指先は返事にもならない、なにひとつかみあわない言葉を選び、送信していた。
『あーそれ、ワタシもやった。真空パックなるやつ。使い道ないんで、セフレの娘とヤった時、フィルム代わりにあそこをラップしたけど、そっちでもダメだったわ』
 女のフォローは、長溜息とも苦笑とも付かない空気の動きへ紛れてしまう。
 膨らみそこねた真空パックご飯のような食感さえがまんすれば、失敗というほどではなかった。ただ、空腹は全く満たされない。むしろ食欲を刺激しただけだった。
 とはいえ、隣では猫っぽい娘がまだ寝ている。料理どころか湯を沸かすのさえ、いささかためらわれる。起きる気配がないことは、むしろ良いことなのかもしれないが、持て余した熱い気持ちのやり場は見つからない。
 ダメなものはダメで、そういうときはさっさと諦めて気持ちを切り替えるに限るが、それでもテンションはかつて無く低く、正直なところいささかしんどい。しかも、こういう時に限って、むだに下半身が元気だったりする。
『お持ち帰りした娘、酔っ払っちゃったの?』
『うん、すぐ寝ちゃった。かなり飲んでたから、こうなる予感してたんだけど』
 俺は低く静かにゆっくりと、どことなく投げやりさをのせた文字を返す。
『飲んでる娘に声をかけるなんて、めずらしいね』
『いやぁ、そういうわけでもないんだよ。長文になるけど、説明していい?』
『うん、おくって。まってる』
 猫っぽい娘が飲んだ奇妙なちゃんぽんの話を交えつつ、ざっくりと流れを送ると、女友達から最初に返ってきたのは『ボイラー・メーカーじゃん』だった。
『ボイラー・メーカー?』
 なにも考えず、オウム返しを送信してしまう。こうして、なんの役にも立たないデータが回線をながれさる。
『お持ち帰りした娘が飲んでたちゃんぽんよ』
『そんなにすごいの?』
『酒カスが手っ取り早く酔うためのカクテルね』
『うわぁ!』
 またしても意味のない返信。女のあきれ顔が目に浮かぶ。それとも、ため息混じりに頭を振ってるだろうか?
 ただ、すこしおいて届いた女友達のメッセージは、思いがけず不穏なものだった。
『その娘、正体なくすまで飲んで、それで即お持ち帰りでしょ? 気にし過ぎと思うんだけどさ、お土産あったらヤバイわぁ』
『あばばばばば。なんか、思い当たるフシある?』
『その娘がどうかはわかんないけど、毛じらみも流行ってるんだよ』
 多少のリスクは覚悟のつもりだったが、それでも気持ちはすっかり萎えてしまう。
『寒い時代だ』
『まぁ、やってないから良かったやん』
 女の慰めを受け取っても苦笑半分、やはり気持ちは渋いままだ。
『ほいほいついてきたしな。でも、確証はないんだよ』
『なにいってるのよ。知らない相手とするんだから、考えなくちゃ。定期的に検査もするのよ』
『もちろん、検査はしてるよ。すっかり年中行事だし』
『こんな話しても大丈夫っての、あなたほんとにいいところよ』
 女のメッセを受け止めてると、なぜか顔に笑みがうかぶ。弱々しいが、笑う気力もないよりははるかにマシだった。
 あまりにも手持ち無沙汰なので、猫っぽい娘の様子をうかがい、戻ってくる。大丈夫だけど、まだ寝てるようだ。むしろすっかり寝入っていて、少々なら音を立てても起きなさそうなので、インスタントコーヒーを飲む。輸入食材屋で配っていたサンプルだけど、こういう夜の気分にはぴったりだった。砂糖抜きのカフェオレにするが、焦げ臭いようなきな臭いような、怪しい異国の香りが立ち込め、俺の顔は再び渋くなった。
 とはいえ、渋い気分はひと口だけで消え去った。不意に起きだした猫っぽい娘が、裸にバスタオルの俺にたまげ、慌てて始発で帰ったからだ。
 美しい女を家まで連れ帰ったら、実は猫が化けていましたとか……真夏の夜にふさわしい物語じゃないか……そんななぐさめを独りごちて、俺は苦いコーヒーを捨てた。
 午後、買い物に出たた帰り道、なんとなく端末をチェックしたら、猫っぽい娘からメッセが届いていた。意外に思いつつ開封すると、丁寧な御礼の言葉に続き『介抱していただいた上、奢られっぱなしでは気がひけます。失礼でなければ精算させてください』とあった。
 奇貨おくべしか、あるいは奇禍の前触れか、しばし考える。
 頬を焼く西日の彼方で、蝉がうるさく鳴いていた。

第4話 骨付き豚のソテーとクリスマスのステキなお知らせ

 別れ際のキスは、これからもういちど交わるのではないかと思うほどに熱く、情感がこもっていた。わざとらしいほど濃く、強い香水の香りをまといながら、それでも風呂のニオイがしないかどうか最後まで気にしていたのは、なにごとにも抜け目ない女友達(あいつ)らしい振る舞いだった。
「ごめんね、ダンナが『やっぱイブは家で過ごす』なんていっちゃってさ」
 ディナーの用意が無駄になっちまったとか、ふたりぶんの食材をどうしようとか、そんなどうでもいい考えをうだうだもてあそんでいた俺は、なかばうわの空だった。なごりおしげな女友達にも「年末の平日でも定時であがれるっての、むしろえぇ話やろう」とか、なんの慰めにもならない言葉を放り投げてしまう。
 しまったと我に返ったのは「そかそか、いまからでも誰か呼ぶなら、私のも食べちゃっていいからね」と、女友達がめったにないほど鋭い口調でトゲのある言葉を突き刺したときだった。
「あ、ごめん。ちゃんと聞いてなかった」
 反射的に謝る俺だが、女友達は「ううん、いいの。あなたはそういう人だし、そういうところもふくめて好きなんだから」と、フォローだかダメ押しだかわからない言葉をまきちらし、さらに意味深な笑みを浮かべながら「へへ、ちょっと傷ついた?」なんて、反応に困る言葉までくっつける。
 俺は肯定も否定もせず「夕食にはちょっと早めだけど、肉を焼くよ」とだけ返す。
「ほんとに誰か呼んでもいいんだからね。気にしないから、わたし」
「おいおい、なんだか呼んでほしいみたいだね」
「うん、たいていのひとは無理だろうけど、あなたならこのタイミングでも呼べるんじゃないかなって? ちょっと思うの」
「いやいや、あおってもだめだよ。流石に無理だろう」
「つまんないな。呼べたら私にもおすそ分けしてもらおうって思ってたのに」
「そんなこったろうと思った」
 まるでさっきのトゲトゲしさはなかったかのように、俺と女友達はじゃれあう。ふたたび名残り惜しげに唇をあわせると、女友達は「ほんとにいくわ、注文したディナーが届いちゃう」って、慌ただしく階段を駆け下りていった。
 女の足音を聞きながら俺は台所へ引っ込み、エプロンを着ける。冷蔵庫の骨付き肉は既に味がついているから、後は焼くだけだった。
「宅配ディナーか……」
 口に出しながら、女友達が注文した料理店の動画広告を思い出す。

「画面、ちょっと見てみ」
「おぉ! ハピホリ! まだ使ってるんだ」

 じゃれつきながらスマホの画面にみいるふたり。パンイチの女が身を乗り出すと乳も肩から首筋へせり上がり、柔らかさと重量感がたまらない。とはいえ、こうしてたまに楽しむぐらいだから良いのだろうなと、日ごろ肩こりや肋間神経痛に悩まされる彼女を思い、乳に言及するのは自粛したんだっけ。
 スマホで予約したコースを見せる女友達に『かきいれ時なのはわかるけど、ネットでバンバン注文を受けても大丈夫なの?』なんて素人くさい疑問を投げかけたら、ちょっと驚いたような顔をしてたっけ。女友達によれば、最近は三ツ星クラスの店でも繁忙期は別に宅配用の厨房を用意し、それを短期契約の料理人で終日稼働させるんだそうな。だからイブの注文でも直前、なんなら当日までうけられるらしい。
 まぁ、俺はこの手の出前だか宅配だかのサービスが流行り始めたころから、どうにも好きになれなかったし、利用もしなかったから、どのくらい注文が込み合うのか、まったく見当もつかなかった。
 いや、そんな宅配サービスも、俺の世界と関わりがないわけではない。たとえば、いきつけの中華屋は宅配でかなり儲けているようだった。それに、前に行った請負仕事の現場は、社長がその手のサービスで昼飯を取ってくれてたっけ。まぁ、そこの社長も仕事も……いや、その手の悪印象と業態を結びつけるのは良くない。良くないんだ。
 頭をふって気持ちを切り替える。
 まず最初に肉へラップを被せて、電子レンジにかける。低温調理モードで肉を温める間に、使い終わったまな板や包丁を洗って格納する。この台所は工程ごとにいちいち調理器具をしまわないと作業空間が確保できないほど、狭いのだ。そして、つけあわせのコンソメスープを鍋で温め始めたところ、音声通話の着信音が鳴り響いた。
 ポップアップしたアイコンは、夏にトークライブで知り合ったショートカットのちょっと猫っぽい娘のそれ。
 なにせ、クリスマスイブの夕暮れどきだ。若い娘からの着信にときめくなという方が無理だろう。それに、さっきのやり取りもある。
 とりあえずコンロの火を止め、スマホを手に取る。
「おまたせ」
「ごめん、忙しかった?」
「ううん、大丈夫。おひさしぶりだね」
「うん、でもこないだは相談に乗ってもらったし。だからちゃんと検査にもいったのよ。それより、イブだけどホントだいじょうぶ?」
「あはは、ありがとう。あぁ、きょうはイブだね。でもかまわないよ。それより、なんかあったんじゃない?」
「わかる?」
「うん、実際なにもなかったら、俺に声かけないでしょ?」
「そ、そうね……」
 スピーカ越しにもはっきりわかるほど猫っぽい娘の声は暗く、心配症の自分にはどうにもこうにも嫌な予感しかしない。よせばいいのに、先走って「話したくないなら、今やなくてもえぇんやで」などと、妙な関西弁で話の腰を折りにかかってしまう。しかし、猫っぽい娘は冷静に「いいの、聞いてもらうつもりでかけたんだから」と返す。
 猫っぽい娘に話を続けるよううながすと、情けなさとめんどくささを混ぜてこねたような声であれこれつぶやいたあげく、ようやく口にしたのが「今日、検査の結果が届いたのね」だった。
 瞬間、俺の脳は警戒態勢のレベルを上げた。もし、猫っぽい娘が「ヨウチリョウなんだけど、病名は……たぶん……キンカンセンショウ……だと、思う」と続けなかったら、同意書に名前を貸すかどうかを考え始めていたろう。
「リンキンカンセンショウね。リンキン・パークでもリンリン病でもないよ」
「なに、リンリン病?」
「いや、リンリン病じゃなくて淋病。リンリン病はリンリナン症候群の別名で……って、ごめん。茶化していい話じゃないね」
 ギリギリどころか、通話を切られてもしかたないほどくだらない混ぜっ返しだ。リンリン病はもちろん、リンキン・パークだって若い娘には厳しいネタだろう。そもそも、こんな状況でネタをフルほうがどうかしているのだが、フラずにおれないほど衝撃の強い知らせでもある。
 動揺を抑えつつ、とりあえず猫っぽい娘に『感染相手の心当たりはあるか? 自覚症状はないのか?』などと問いかけてみるが、いずれも要領を得ない。自覚症状が全くないのはともかく、夏にトークライブで知りあう前後からクリスマスまでの半年に、だいたい20人弱の男性と性交渉し、必ずコンドームを使用したとは言い切れないと、そういった状況であった。
 先月末だが今月はじめくらい、最初に猫っぽい娘から相談を持ちかけられたときは、妊娠の方を心配していた。正直なところ、それにくらべれば淋病のほうがまだ気が楽というか、治療すればよいだけだからな。ただまぁ、それにしたって、ずいぶん気前よく関係したものだな。
「女性の淋病って、自覚症状はないことのほうが多いからね。オリモノは多い方?」
 ほとんど幼児に話しかけるかのように、優しく訊いてみても、猫っぽい娘は「うぅん、あまり良くわからないけど、たまにドロッとしたのがでたりもしたかな」と、やはり曖昧な答えだ。とはいえ、それだけ聞けば十分だった。
 結局、今からすぐにでも病院へ行き、治療を始めること。そして、肉体関係を持った相手【全員】へ連絡して、すぐに検査を受けるよう促すこと。そのふたつは【絶対にやらなければならない】と、娘へ強く言った。幸か不幸か、関係を持った相手は、ほぼ全員の連絡先を把握していて、日頃からやりとりしてる相手も少なくないため、ツテを手繰って人探ししなくても良いのは楽だ。
「それにしても、モテモテだったんだね」
「ううん、ほとんどサークルの先輩や仲間だから。モテ期じゃないよ」
「サークラじゃん……いや、なんでもない」
「でも、イブに連絡すると、みんな期待しちゃうよね」
「それはしょうがないよ。でも、はっきり言わないと、病気をプレゼントしたことになっちゃうかもよ」
「そうよねぇ、こんなクリスマスプレゼント、みんな嫌だよね……」
「連絡するの手伝おうか?」
「おじさんが? ハハハ、ウケるね」
 猫っぽい娘の腑抜けた笑いをスピーカ越しに受け止めながら、すぐに病院へ行くよう強くうながして、なんともしんどい通話を終えた。
 スマホの画面が暗転すると、なんだかぐったりしていて、さっきまでなにをしていたのかもわからなくなっている。あぁそうだ、肉を温めていたんだっけ。料理でもして、気持ちを入れ替えるか。
 頭をふって洗面台へむかい、ちょっとしつこく手を洗うと、電子レンジから肉を取り出す。
 いちど温まっていた肉だが、流石に冷めていた。脂が固まっていたのでレンジに戻し、軽く熱する。脂を溶かすと、表面の汁を軽く拭き取った。プレートの肉汁はバットに残ったつけダレと混ぜ、今度はフライパンを温める。既に骨までしっかり加熱しているから、後はタレを染み込ませながら表面をパリっと焼くだけだが、ここでしっかり焼きこまないと食感が非常に物足りなくなってしまう。
 しっかり色をつけると、火を少し細めてバットの汁とタレを入れ、肉をひっくり返しつつ、タレをしっかりからませる。いい感じの艶が出たら蓋をして更に火を細め、レンジ周りや床にの飛び散った油を雑に拭きとった。最後に、もういちど強火で肉の皮をカリッと焼いたら出来上がり。
 肉と付け合せのカット野菜を皿によそってスープを汁椀へ注ぐと出来上がり。
 独りで座卓と向き合うころにはすっかり日も暮れて、窓の外にはイルミネーションのひとつもない、再開発地域の暗闇が広がっていた。小さなケーキにローソクを立て、スパークリンググレープジュースをかかげ、心のなかで乾杯すると、ディナーというにはあまりにもささやかなクリスマスの食事を写真に撮る。
 骨までしっかり火を通してあるから、ぶ厚い肉でも食べやすかった。肉は汁気たっぷりでも、皮はカリッと香ばしいのは、われながらちょっと嬉しい。女友達が自宅の近所で買ってきたバゲット生地の小さな丸パンをちぎり、皿の肉汁を染みこませると、これまた自画自賛したくなるほどにうまい。和風の汁椀へ装われたコンソメスープがクリスマスの食卓に強烈な違和感を放っているのだが、味は良いのだから、まぁご愛嬌ということにしよう。
 独りでうまい、うまいと言いながら肉を食べ終えると、ちんまりしたケーキを切り分ける。最近はメッセンジャーのアイコンぐらいでしか見なくなった、いかにも昭和臭いイチゴのケーキをもふもふ食べ、だれもいないちゃぶ台の向こうにほほえみ、芝居がかった仕草で紅茶をすする。外見そのまま、バタークリームのどっしりした重い食感だが、生地もクリームも記憶のそれとは比べ物にならないほど美味しくて、昭和レトロそのものの貧乏臭さからは想像もつかない味わいだった。
 簡単に食器を片付け、とりあえずフライパンだけタワシで洗う。
 部屋へ戻ったところで、当然ながら誰もいない。
 無人の部屋でちゃぶ台にならぶ食べ散らかされた肉やケーキをみていると、なぜかネットミームと化したスポ根アニメの場面を思い出し、泣けるような笑えるような、なんとも奇妙な感慨が押し寄せる。
 まぁいいさ、食器を片付けて風呂にでも入るかとかがみ込んだところ、スマホの画面がぼぅっと光った。
 猫っぽい娘からメッセージだ。
『いまから、おうかがいしてもよいですか?』
 俺は文字列を確認すると同時に『もちろんいいよ。駅まで迎えに行こうか?』と入力していた。

第5話 女性フォトグラファーと品川丼

 部屋に差し込む光がはっきりと濃い黄色みを帯び始めた頃、女性にしてはやや肩幅の広い、がっちりした影が床に伸びていた。ショートパンツから鍛えた太ももをむき出し、ひと昔前のプロが持っていたようなごついカメラを構える女性フォトグラファーが、マットの上で重なった俺と女友達を見ながら軽くうなずく。
 重なる彼女は自らあてがい、ひと息に腰を下ろした。低くうめき、背中をそらす女友達の、豊かで重い胸に俺は下から手を伸ばす。いつもなら、それだけで歓びの歌も高らかに腰を力強くひねり、押し付けてくるのだが、今日はいささか反応が穏やかだ。
 なんだかんだ言っても緊張しているのかと、そんなことを思う。

 パチュチュ! パチュッ! キュン!

 同時に閃光が黄色い西日を吹き飛ばし、無粋なシャッタ音にフィルム巻き上げのノイズが続く。こらえきれずに横を向くと、マットレスの脇に膝をついた女性フォトグラファーの白く、たくましい太ももが目に入る。セルフのヌードや絡みも撮る作家なので、作品では当人の全裸も観ていた。ふと、ショートパンツの彼方に息づく女性フォトグラファーの身体を、分身を咥えこんでいる女友達の感触と重ねそうになり、苦笑しつつ目線を戻す。
 上から俺を見ている女友達もまた、かすかに苦味の混ざった笑みを浮かべていた。改めて目線を交わし、互いにうなずきあうと、思いきり力を込め、深く突き上げる。いつものように腹の底から雄叫びを上げ、フラッシュの光とシャッタ音が続いた。
 目を閉じて女友達を抱き寄せ、唇をこじ開けると、舌を吸い出して絡める。女友達も俺の首に腕を回し、舌を突き立てるように攻め入ってきた。
 さらにフラッシュの閃光とシャッタ音がかぶさるが、既に全く気にならない。
 女友達も回転数を上げたようで、尻を振りながら言葉にならないなにかを吐き出し始めた。俺も女友達も、他人の前で交わることへの羞恥はない。ただ、これまで行為を見ていたのはともに淫らな時間を楽しむ、いわば仲間であって、多くの場合は俺か女友達のどちらか、あるいは両方と関係していたか、これからする相手でもあった。
 しかし、俺と女友達の姿を撮っている女性フォトグラファーは、純粋な観察者であり、決して参加者ではない。少なくとも、今回はそうだ。
 もちろん、俺は女性フォトグラファーの人間性をある程度は知っているし、セルフで本番も含めた絡み(アンシミュレート)を撮っている作家だからこそ、ハードコアなフォトセッションにも応じたのだが、そこには奇妙な倒置が存在している。
 最低限の安全しか確認しない、時として素性すら全く知らない相手、たとえ肉の交わりを持ったとしても、そのひとときが過ぎ去ったら全くの他人へと戻っていく無名の人と、互いに素性を把握してるが、交わりには加わらず撮影し続ける女性フォトグラファーとの間に存在する相違は、かすかだが消せないなにかを俺と女友達に意識させていた。
 のけぞった女友達の背中に手を回し、顔を引き寄せ再び唇を交わしつつ、転がって正上位に変える。案の定、抜けてしまったが、素早く挿れ直してポーズを作った。
 女性フォトグラファーからは、あらかじめ『いつものようにやってください』と言われていた。だが、やはりどこかで映えを意識してしまう。複数の場合はパートナーチェンジを想定したペース配分というか、俺も女友達も誰で逝くか、誰を逝かせるかというゲームを始めてしまうけど、女性フォトグラファーは撮るだけの見学者だから相互鑑賞に近い。
 とはいえ、女性フォトグラファーのテーマは、観客を意識しない日常行為としての交わりだった。なので、いわゆる普通に交わることを求められているのであろうが、俺にとっては複数もまた日常の一部だったりする。
 それは、女友達にとっても同じだ。
 ダンナのとこから抜けだして俺の部屋で淫らな汗を流し、時には互いのパートナーも参加した複数を楽しむ。もちろん、そんな機会はめったにないし、ふたりで楽しむことのほうがはるかに多かった。ただ、俺と女友達にとってふたりの行為は、どれほどの日常性を帯びているのだろう?
 そんなことを考えたら、腰の動きが止まっていた。危ない、危ない。
 まぁ、女友達との行為は基本的にラフな感じだから、あまり考えず突っ走ってしまおうと、いつものようにストロークを意識し、快感を掘り起こした。でも、できればいったん逝かせてしまい、そこからプレイを組み立てなおしたいような気もする。女友達が軽く腰を上げたところへ、踏み込んで大腰を使った。
 不意に、女友達が俺を抱き寄せる。
「ひざ、ひざ、ちょっと痛い……」
 ささやきに応えて腰を引くと、そのまま抜けてしまった。
 結局、仕切り直し。
 今度は俺から覆いかぶさるように女友達を抱き寄せ、耳元でささやいた。
「少し、口でしてくれるかな?」
「いいよ。でも、お願いがあるの」
「なに?」
「このまま、ふたりで逝って終わりにしない?」
「わかった。後ろからでいい?」
「うん、そうして」
 俺と女友達のささやき声に、女性フォトグラファーの奏でるシャッタ音がかぶさる。俺が横へ転がり、女友達がそれを咥えたタイミングで、伴奏が止まりフィルムも巻き上がり始めた。女性フォトグラファーは軽く手を上げ、女が口の動きを止める。フィルムの再装填を待って女がふたたびそれふくむと、またかぶさるようなシャッタ音が鳴り響いた。
 再び力をみなぎらせた肉棒を愛しそうになで、ゴムの装着状況を確認すると、女友達はうつ伏せに横たわり軽く足を開く。素早く上に乗って尻にペニスをあてがうと、ひと息に奥まで杭を打った。
 ほとばしるフラッシュに目を細めつつ、顔を上げたらレンズと目があう。微笑みながら女友達の耳を甘く噛み、ふたりでカメラへ目線を送ると、女性フォトグラファーは撮影を止め睨み返した。急いで構図を変えつつ、こちらへ「顔を下げて」と指示を出す。俺の顔は別に構わなかったが、女友達の希望でふたりの顔を写さない約束だった。
 やがて、ほぼ完全に同調していた俺と女友達の性感は、ほぼ同じ瞬間に頂点へ達し、互いに重く低い雄叫びを交錯させる。
 行為の後、ゴムを始末し、こぼれ落ちるしずくを女友達がなめとる姿まで、女性フォトグラファーはフィルムに収め続けていた。

 撮影後、女性フォトグラファーはそそくさと機材をまとめ、挨拶もそこそこに部屋を出ていく。撮影後の突発お楽しみ複数に淡い期待を抱いていた女友達は、こっちがが気の毒に思うほど残念そうだった。すぐ帰ることを知っていたので、ちょっと反応に困ってしまう。とりあえず、ふたりでシャワーを浴びて汗やらなにやら流し、女友達には『絡みを撮らせてくれるカップルはあまりいないそうだし、あの人はもともとセルフヌードが売りの作家だから、うまく持っていけば機会はあるよ』とかなんとか、その場をごまかした。

 半月ちょっと経って女性フォトグラファーから届いたメールには、荒い粒子と力強いコントラストに彩られた、俺と女のモノクロ画像が添付されていた。ただ、残念なことに構図やポーズに無理が多く、女性フォトグラファーの過去作よりもいささか、いや率直に言うとかなり見劣りする。
 俺が女性フォトグラファーを知ったのは、とある美大の卒制選抜展だった。いかにも学生っぽい大胆で荒削りなヌードが、圧倒的な存在感を放っていた。ただ、会場のメーカー系写真ギャラリーにはひどく場違いだったこともまた、今でもはっきり覚えている。
 その大胆さや、場違い感を恐れない向こう見ずな力強さが、俺と女友達の写真からはほとんど感じられなかった。ともあれ、撮影条件に無理があったのは明らかなので、俺は時間をかけて慎重に言葉を選んで謝意を示し、かつ遠回しに俺だけでも顔を入れ再撮影を勧める返事を書く。
 そして、メールの返事は来なかった……。

 女性フォトグラファーのアンシシミュレート撮影から半月ちょっと経って、また女友達が部屋に来た。女性フォトグラファーへ画像の返事を書いたばかりだったので、女友達との話も撮影が中心になる。ただ、写真の出来については女友達も言いたいことがあったようで、繰り返し「あの人の作品はヌードや絡みの自画撮りに良さがある」と力説していた。そして、女性フォトグラファーへのメールに『今度は私とあなたで撮るのはいかがですか?』とも書いたらしい。
 女友達の大胆さに苦笑しつつ「ダンナにはなんて言い訳するのさ?」と混ぜっ返すと、すかさず「女同士だと藝術裸婦(アートモデル)だから大丈夫なの。結婚前はやってたし」と反撃を食った。そんな他愛もないやりとりの後、いつものように激しい行為を重ねて、楽しく甘やかな時間を過ごす。

 それから半年ほど、女性フォトグラファーとはなにごともなく過ぎた。ソーシャルネットでたまに見かけても、お義理で『イイね!』を交わすのがせいぜい。ポストにコメントすることもなく、やがてネットでもほとんど見かけなくなっていった。
 だが、年が明けるとソーシャルにポツリポツリ制作の様子を投稿するようになり、しばらくして展示の告知が始まる。今回のテーマは『性愛における主観と客観』ということで、内容紹介も自画撮りとカップルを撮影した作品の展示とある。
 俺にも案内のポストカードを送ってくれたが、ご丁寧というか馬鹿正直というか、わざわざ末尾に『たいへん申し訳ありませんが、おふたりを撮影した写真は展示しておりません。ご了承ください』と添え書きされていた。
 まぁ、俺の裸なんぞが作品として展示されてると、そのほうがむしろ行きにくいので、助かったと言えないこともない。ともあれ、純粋に女性フォトグラファーの新作は楽しみだったし、時間を作ってギャラリーへ向かった。
 都心のターミナルから地下鉄へ乗り継ぎ、ビルの谷間をすり抜け、曲がりくねった路地を行きつ戻りつするように歩くと、雑居ビルの脇にギャラリーの案内がある。煤けたラーメン屋の横から狭い階段室へ足を踏み入れ、怪しげな簡体字の旅行代理店や携帯電話修理工房を通り抜けた上に、お目当ての展示会場があった。それは、あまりに自主運営ギャラリー然としていて、写真学校の生徒や貧乏写真作家が仲間内で褒め合うためだけに展示するような空間だったから、オシャンティーでハイソな女性フォトグラファーの作品が似つかわしくないような印象を受けなかったといえば、それは全くの嘘になる。
 実際、それまではカメラメーカやコンテンポラリアート系の会場を使っていたわけで、案内を受け取った段階から多少のきな臭さを感じないわけでもなかった。
 しかし、急ごしらえのビニルカーテンをくぐって展示空間へ首を突っ込んだ瞬間、そのデザインと作品の配置、そして照明から作家の意図をこの上なく明瞭に把握させられる。会場は鑑賞を拒むかのように薄暗く、時折ふわっと回転する赤色光が、雑にピン止めされた作品の画面に影を落とした。そしてグレイス・スリックやジョーン・バエズの伸びやかな声が、バフィー・セントメリーの力強さが、性の解放を高らかに謳った時代の空気を、女性は自らを解放し自立せねばならないという命題の面影を、少しでも会場へ呼び戻そうと悪戦苦闘している。
 企画の意図はわかりすぎるほどわかるし、伝わりすぎるほど伝わっても来るのだが、いかんせんベタというかクリシェというか、カリカチュアライズされたあの頃の再現という要素が濃厚に過ぎて、作品が添え物になってしまっているかのような印象を拭い去ることができなかった。いや、もしかしたら、その再現こそが展示の狙いなのかもしれないが、そうなるといささか俺の趣味から外れてしまう。まぁ、自分も【あの頃】は幼く、まともな記憶もないが、故にまなざしはブローティガンのそれに似た哀切を帯び、当時の熱気はもちろん、それを美しく回顧する無邪気さやあこがれさえ、さらに遠くから眺める、覚めた観察者の心理に近くなるのは当然かも知れなかった。
 あの日、俺の部屋で女性フォトグラファーが観察者であったように、今日、ギャラリーの俺は観察者になっている。
 覚めた観察者と夢見る鑑賞者とを隔てる境界は曖昧で、たやすく行き来できる。だが、時として戻れなくなることがある。そして、あたかもカップルたちに混ざりそびれてしょぼくれる若い男のように、煤けたギャラリーで伏し目がちに阿呆面さらしている俺は、まさに帰還不能者だった。
 スタッフは奥で作業しているらしく、幸いにも女性フォトグラファーは外出していたから、透き通った深紅色の展示空間にいるのは俺だけ。作品を前にしてテンションだだ下がりというのはいささか失礼でもあるし、さっさと芳名帳に記入して帰ろうとした時、階段からどさどさした足音や『迷っちゃったよ』などの話し声が聞こえた。やがて女性フォトグラファーを先頭に、数人の男女が入ってくる。
 挨拶しながらそれとなく男女の様子をうかがうと、雑誌などに記事を書いてるライターや、若い女性作家の展示には必ず出没することで有名な評論家の姿もあった。こりゃ参ったなぁっと当り障りのない感想を述べてギャラリーを後にしたら、雑居ビルを出たところで追いかけてきた女性フォトグラファーに捕まってしまう。俺が恐縮するほど申し訳なさそうな女性フォトグラファーに、いささか盛りすぎた褒め言葉を返し、勢いで「港の近くに残ってた旧船員宿舎がこの会場みたいな雰囲気だったけど、もうすぐ改装されちゃう」と、いらない小ネタまでおまけしたら、これが新たな誤算を招いた。
 女性フォトグラファーが思いのほか旧船員宿舎ネタに興味を示し、ちょっとまずい展開と思い始めた時、ギャラリーの窓から呼ぶ声がしてようやく解放される。それから帰宅して展示作品の感想をソーシャルへアップし、食事を済ませて、いつものようにネットでガールフレンドを探し始めた頃には、個展のことも女性フォトグラファーのことも、すっかり忘れ去っていた。
 数日後、女性フォトグラファーから『会期終了後に旧船員宿舎を撮影したいので、差し支えなければ場所など教えてほしい』旨のメールが届いたため、とりあえず『現在は関係者しか入れないから、撮影するなら俺が案内する』旨を簡潔に返す。それをきっかけに室内画像や現状の確認を通じたやりとりを重ねつつ、旧船員宿舎での撮影計画を立て始めたが、女性フォトグラファーの構想は単なるセルフヌードにとどまらず、可能ならアンシミュレート撮りしたいこと、さらに相手が俺でも構わないことがわかると、いささか話が変わってきた。嬉しいような立場を利用しているような、なにせ場所が場所だけに飯盛女郎まで思い起こされ、なんとも複雑な感情に悩まされる。
 とはいえ、枕営業めいた臭みが少々あろうとも、やっぱりこういう機会はものにしたいし、女性フォトグラファーもそれなり以上の経験を積んでいるわけだから、ここは腹をくくって乗るしかなかった。そんなこんなで間取り図を送るなど撮影計画を具体的に詰め、ついでに俺の自動巻き上げカメラも貸すことにしつつ、女性フォトグラファーとのアンシミュレート撮影に臨んだのである。

 乗換駅の構内改札で待ち合わせ、港湾地区へ向かう黄色い電車に乗った。逃すと20分は待たされるので、少し余裕を持たせていたのだが、結局はぎりぎりになってしまう。階段を駆け上って飛び乗り、呼吸を落ち着ける間もなく目的の駅に到着した。慌ただしく電車を降りて高架下の改札を出ると、アニメの背景かドラマのセットめいた街並みが視界を覆う。女性フォトグラファーは見るからに興奮した様子で、ものも言わずシャッタを切り始めていた。
 この街に来ると、大抵の人はこうなることを知っているので、頃合いを見計らいつつ女性フォトグラファーをうながし、目的の旧船員宿舎を目指す。運河沿いのせせこましい路地にもフォトジェニックな風景が点在しているが、あまり道草を食っていると肝心のアンシミュレート撮りに差し障りが出るのだ。室内撮影とはいえ、多少でも自然光が使えるとありがたいし、冬の低い日差しを意識しながら先を急ぐ。
 正面を避けてフェンスをくぐり、裏の通用口へ回った。警備会社が新たに設置したカードロックを解除し、ドアのコンパネでセキュリティコードをパンチ、さらに物理ダイヤルロックの暗証番号をセットすると、ようやくノブのシリンダ錠を解除できる。半月ほど前までは警備会社も入っておらず、これほど厳重でもなかったのだが、ここで文句を言っても始まらなかった。
 配電盤の鍵を開けてブレーカを戻し、まずは廊下の明かりを灯す。カビ臭さの中にも微かな潮の香りが混ざり、無造作に束ねて山積みにされたエログラビア雑誌やスポーツ新聞が男臭さを添えていた。少し前に読んだ『最後のグラビア誌、ついに電子版へ完全移行』なる記事を思い出し、古雑誌の中には貴重なものがあるような気もしなくはないが、もちろんそんなものをあさっている暇はない。女性フォトグラファーは、またしても興奮した様子であちこち歩きまわり、湿気を帯びて膨れた合板の壁や、めくれたクロスの佇まいを撮り始めた。
 女性フォトグラファーが室内を撮影する間に、俺は部屋やベッドを整える。水道は使えるので、蛇口を大きく開いて赤水を出した。実はガスも使えなくはないのだが、ボイラでお湯をわかす時間はないから諦め、リネン室でビニルパックのまま放置されているシーツや毛布、タオル等を持ってくると、いちおう南京虫がいないかどうか確かめる。とりあえずベッドの表面をシーツで覆い、風呂場の水を止めたところで女性フォトグラファーが部屋に入ってきた。
 思ったより時間を食ってしまったので、さっそく撮影準備にかかる。ベッドサイドに三脚を立ててカメラをセットしたら、女性フォトグラファーはファインダを覗いておおまかな撮影範囲とピント位置を確認した。俺は入れ替わるとシャッタスピードを無限にセットし、リモートケーブルを差し込む。そして、フラッシュをセットしていた女性フォトグラファーを呼び寄せ、リモートシャッタの使い方を教えた。
 古い家電のスイッチめいた丸ボタンを押すとシャッタが開き、フラッシュが発光する。ボタンを押している間はシャッタが開いているが、離すと閉じ、フィルムも巻き上げられる仕組みだ。女性フォトグラファーは同じシリーズのカメラを使っていたので、基本的な操作法は既に理解していたが、巻上げ音が派手なことには驚きを隠さない。
 ともあれ、フラッシュを焚いても暗いので、ひと呼吸おいてからボタンを離すよう、くれぐれも念を押してからリモートスイッチを渡した。試すように空シャッタを切ると、女性フォトグラファーは「わかった、大丈夫」といってフィルムを装填し始める。やがて、持参した全てのマガジンにフィルムを装填し終わると、女性フォトグラファーは俺の方を向き「じゃ、そろそろ」と言いながら服を脱ぎ始めた。
 俺は不意打ちの衝撃をなんとか制御したものの、あぁコレで主導権を握られたなぁと、いささかばかり面白くない感情を押し殺し、手早く服を脱いで追いかけるように風呂場へ向かう。
 女性フォトグラファーにはあらかじめ水しか出ないことを伝えておいたためか、濡れタオルで体を拭っているところに軽く身を寄せた。
「あ、別にイチャイチャはしなくていいから、大丈夫」
 と、はっきり言われてしまい、わかっていたこととはいえ、すっかり顔が渋くなる。さすがに慣れているというか、このぐらい明確に意思表示できないと、こういう撮影はできないのだろう。ともあれ、気持ちをしっかり切り替えないと、勃つものも勃たない。あえて冷たいシャワーを浴び、局部を入念に洗うと、タオルも巻かずにベッドへ戻った。
 女性フォトグラファーは俺にベッドの中央で横たわるよう指示し、ファインダでピント位置を慎重に設定すると、ポラ代わりのデジカメでフラッシュの照射状況を確認する。無防備にカメラを触る全裸の女と、レンズ越しに感じる視線とのコンボで、柄にもなく緊張してしまう。やがて、準備を整えると「前戯はいらないから、終わるまで動かないでね」と声をかけつつ、ゆっくりベッドへ登ってきた。
 女性フォトグラファーはトレッキングが趣味で、トレーニングを兼ねた自転車通勤を続けていることもあり、肩と腰の太さが力強く、眩しい。マシントレーニングも欠かさないのだろう、やや小ぶりな乳房の下には、角ばった胸筋が堅固な土台を形成していた。
「このまま、終わるまで好きにやってもいい?」
 女性フォトグラファーの唐突で意味ありげな問いかけに、俺はただ曖昧にうなずくしかない。念を押すように目線を合わせ、同意を確かめると、優しく静かに胸や腹を撫でまわし、ペニスの包皮をむいて亀頭をあらわにした。次は乳首を軽くつまみながら、へそから胸にかけてキスしながら舌を這わせ始めたが、どうにもこうにもくすぐったくて震えが止まらない。こらえきれずに片手を上げると、露骨に不満を匂わせながら「乳首、ダメなの?」と念を押す。
 再び曖昧にうなずくと俺の足元へ身体を戻し、硬くなりきっていない竿に手を添え、ひと息で頬張った。吸い込むような口淫に、男根も勢いよく勃ち上がりはじめる。ある程度まで力をみなぎらせると、女性フォトグラファーは思い出したように口を離し、最初のシャッターを切った。

 カポン……ピチュ! グォー!

 閃光の後、やや間を置いてシャッタの閉じる音と、いつもより多く回転していますと言わんばかりのギアノイズが続く。女性フォトグラファーは、さらに続けて数ショット撮ったが、シャッタを切るたびに口の動きも止まってしまうので、硬かったペニスもだんだんしおれてきた。
「気になる?」
「そういうわけじゃないけど、もうちょっと刺激がほしい」
「逝かない? 我慢できる?」
「それは大丈夫」
 チェシャ猫めいた笑みを浮かべ、女性フォトグラファーは口を大きく開けて俺を深く飲み込んだ。そのまま、喉を鳴らしつつシャッタを切る。力を取り戻したペニスを吐き出して、大きく息をつきながらさらにシャッタを切る。そのたび薄暗い室内に閃光がほとばしり、どことなく滑稽なギアの伴奏が続いた。
 みっしりと密度を高めた男根に唇を寄せながらシャッタを切ると、最初のフィルムを使い切った。素早くフィルムを巻ききってマガジンを交換し、ベッドへ戻るとゴムを取り出し「じゃ、そろそろ」と丁寧にかぶせはじめる。とはいえ、ゴムをかぶせながらシャッタを切ろうとするので、さすがに見かねて自分自身に手を添えた。
 ゴムをかぶせながらワンカット、俺にまたがるところでさらにワンカット、そして挿れながらシャッタを切って、ようやく完全に腰を落とす。撮影しながらもいじっていたので十分に濡れていたし、どうにか入るには入ったが、位置や角度が気になって仕方ない。女性フォトグラファーの腰にそっと手をあて、少し浮かすようにしながら自分の体をぎこちなくひねる。
 不意を突かれたか、女性フォトグラファーは鋭い嬌声をあげる。
 快楽の震えが治まると、身体をゆっくり倒し「攻める時は声をかけてね」とつぶやきながら、最初のくちづけを交わした。女性フォトグラファーはそのままシャッタを切り、じわりと太ももに力を込め、さらに腹筋を締め上げる。身体からペニスをまるごと絞られるような感覚に思わず腰へあてがった手を離すと、女性フォトグラファーは小さくうめきながら、リズミカルに尻を振りはじめた。
 やがて、動きを止めつつ再び腹筋を締め上げ、シャッタを切る。そして身体を起こし、さらにシャッタを切った。そんなことを数回繰り返した後、女性フォトグラファーは力強くスイッチを握りしめ、深々と腰を落としつつシャッタを切った。
 声を抑え、微かに身を震わせてはいたが、ピークに達していないのは明らかだった。呼吸を整えると、再びピッチを上げて頂点を目指し始める。今度は前よりも激しく、勢い良く高まったが、やはりシャッタを切る直前に失速したようで、またしても完全には達せなかった。
 女性フォトグラファーが呼吸を整えつつ、ゆっくりを腰を動かし始めると、ピークで撮影したい気持ちも痛いほど伝わってくる。俺は女性フォトグラファーの腰をつかみ、押さえつけ、下から思いきりねじ込んだ。
 女性フォトグラファーの動きが止まり、筋肉が緊張する。嫌がる気配はないことを確認すると、残ってる力を振り絞って自分自身の限界に挑んだ。不意をうたれた絶頂の後、筋肉の緊張が解けると、女性フォトグラファーは徐々に前へのめり、手にしたスイッチを離して俺と重なる。
 こぼれ落ちたスイッチを取り、シャッタを切った。
 女性フォトグラファーの息遣いと閃光、そしてシャッタ音が交錯する。
 俺の胸にすがりつきながら、しばらく呼吸を整えていた女性フォトグラファーは、やがて顔を起こし「撮ったの?」と、鋭く問いかける。非難がましい調子に、やや後悔しながら「うん、撮った」と答えた瞬間、俺の手からスイッチをもぎ取って唇を寄せ、歯が当たるのも構わず舌を押し込み、シャッタを切った。
 そして、マガジンのフィルムが尽きる。
 俺から降りた女性フォトグラファーは何事もなかったかのようにマガジンを交換し、カメラを三脚から外しながら「まだ逝ってないでしょ? 逝くとこ撮らせてくれる?」と、ファインダを覗きながらたずねる。
「このまま、ここで?」
「うん、手持ちで撮りたいから。手伝ったほうがいい?」
「いや、大丈夫」
「逝きそうになったら、声かけてね」
 なんとなくサムアップして、微妙に堅さの残る茎をゴムの上からしごき始めると、レンズの向こうから「ゴムは外しちゃって~」と指示が飛ぶ。そりゃそうだなと、苦笑交じりにゴムを取り、コンビニ袋へ放り込んで、女性フォトグラファーの草むらを見ながら指先に力を入れた。
 不完全燃焼だったためか、疲れている割に快感は鋭く、堅くなりきらないうちから妙に射精感が募る。女性フォトグラファーは小気味良くシャッタを切り、フラッシュの閃光を遮らないよう気を使いながら、ベッドの周りを移動していた。そろそろラストスパートに入ろうかという頃になって、ようやく完全に堅さを取り戻す。俺はティッシュを手元に寄せつつ目を閉じて、女性フォトグラファーへ合図を送る。
 思いのほか近くに寄る気配を感じつつ、掌中の肉棒を勢いよくこする。自分のカメラに飛び散らないよう、筒先を腹へ向けて「逝くよ!」と声をかけた瞬間、今度は自分の顔にかかりそうな気がしたが、もう間に合わなかった。
 シャッタ音とストロボの閃光、そして腹から胸へ飛び散る粘っこい飛沫の感触を同時に味わいながら、顔まで届かなかったことへの安堵と一抹の寂しさを賢者の安らぎで包み込んで、ひっそりと静かにため息を付いた。

 撮影の後、パンいち姿でちゃっちゃと機材を片付ける女性フォトグラファーを横目に、俺はだらだらと体を拭き、ゆっくりと下着を身につけ、のろのろと立ち上がる。認めたくないことだが、腰から太ももの裏にかけ、ほとんど筋肉痛めいた疲労感があった。正直、歩くのも億劫で、少し休みたいところ。年老いたペニスよりもなお疲れ果て、萎えた気持ちを振り絞り、自分のカメラをバッグへ仕舞って身仕度を整える頃には、待ちくたびれた女性フォトグラファーが内装を撮影していた。
 すっかり日も暮れてしまったし、タクシーでも呼ぼうかと声をかけたら、大丈夫なので駅まで歩くと返される。遠慮してるのか気遣ってるのか、あるいはタクシーを警戒しているのかわからないが、この時間だと昼間よりもさらに本数が少ないので、ちょっと遠い私鉄の駅へ向かった。ちょうど夕飯時だし、食事でもしながら間合いを詰めてとか、そういう下心もなくはなかったので、見透かされて先手を打たれたと言えなくもない。
 ともあれ、完全に下心抜きとなったら、食事は手軽に済ませたかった。おまけに、本数が少なくても近くの駅にすればよかったかと、つまらない後悔まで頭をよぎる。疲れ顔で冬の宵を黙々と歩いていると、撮影のテンションそのままで女性フォトグラファーがあれこれ話してくる。特に話すこともないが、無視も辛い。取り留めない雑談にぼそぼそ応じていると、だんだん気持ちが軽くなる。
 気がつけば、人気のない道に女性フォトグラファーの快活な笑い声が響く。なんだか無理やりと言うか、やけっぱちな雰囲気を感じて、はたと気がついた。

 撮影後のちょっと気まずい空気を、このまま持ち帰りたくないのか……?

 それが優しさでも親切でもない、女性フォトグラファーの保身であっても、ここは乗るのが大人というものだ。俺も負けじと、港湾地区にまつわる面白ネタを返す。ターミナル駅にある立ち食いそば屋のカレーを食いたいとか、同じ店には品川丼もあって、そこでしか食えないからいつも迷うとか、そんなことを適当につぶやいていた。
「品川丼ってのはね、そばつゆをたっぷり染み込ませたかき揚げが乗ってるどんぶり飯なんだけど、そのかき揚げが貧乏臭いんだよ」
「かき揚げと言っても、ほとんどが玉ねぎと天ぷら衣で、干しエビとあさりが申し訳程度に入ってるだけ。だから、そばつゆに浸さないと食べられないんだけど、その貧乏臭さがいいんだよな」
 そんな、いかにもおっちゃんの食い物みたいな品川丼の話を延々としていたら、意外なほど女性フォトグラファーが興味を示す。ターミナルで乗り換えるまでは一緒なので、よければ店を教えてほしいとまで……。
 とはいえ、本当に好き嫌いが分かれる食い物なので、不安のほうが先に立った。
「品川丼ってのは甘いそばつゆがたっぷり染み込んでいる。そん代わり魚貝が少なめ。これポイント。で、それに甘みを流すしば漬け。これ最強。しかし品川丼の店は駅にひとつだけ、これを頼むと次からおっちゃんにマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはおすすめ出来ない」
 結局、夕食を共にする流れ。
 世の中、そういうもんだ。
 私鉄で数分、ターミナルでホームの端から端へ歩き、ようやく蕎麦屋のスタンドにたどり着く。大きな駅なので、立ち食いそば屋はいくつもあるが、カレーと品川丼を出すのはこのスタンドしかなかった。夕方のラッシュが一段落したところのようで、カウンタの人影はまばら。券売機のフロントには『さくさく食感の新かき揚げ』なるポップもくっついているが、蕎麦を頼まない我々には無関係だ。
 俺も品川丼にしようかと思ったが、初志貫徹のカツカレーとしつつ、今度は大盛りにするかどうかでちらっと迷う。以前は迷うことなく大盛りだったし、腹はかなり減っているが、後ろの女性フォトグラファーも気になるので大盛り券は見送った。カウンタに場所をとって、ふたり分のお冷を用意したところに、女性フォトグラファーが滑りこむ。
「さくさくの新かき揚げなんだって! 良かった」
 妙にはしゃぐ女性フォトグラファーに『いや、それ違う』と注意する間もなく、我々の眼前で親父がかき揚げを蕎麦つゆへ突っ込み、ご丁寧に飯へ乗せた上からもダメ押しのつゆをぶっかけてくれた。口をぽかんと開けた女性フォトグラファーに、親父は容赦なくホカホカの品川丼をつきつける。
 おっかなびっくり箸をつける姿に、つい「大丈夫?」と声をかけるが、無言でうなずく顔は渋い。やがて「ちょっと、甘い」と小さく応え、早くもしば漬けで舌をリセットし始めていた。好奇心から大人の食べ物に手を出した子供のような横顔を眺めつつ、俺はようやく出された揚げたてカツカレーと向き合う。
 スプーンを包む紙ナプキンは、昭和から続く伝統の世界だ。衣からのぞく豚肉はトレーディングカードのように薄く、頼りないことおびただしいが、揚げたてのさくさく感はそれを補って余りあった。衣が厚めなのはカレーを染みこませるためだろうが、ルゥに浸してもなお、バリバリと音をたてるカツの食感に酔いしれていると、なにか悲しげな視線を感じて横を見た。
 まだ半分以上も残っている品川丼とにらみ合いながら、女性フォトグラファーが途方に暮れている。
「ギブアップなら、引き受けるよ」
「お腹は空いてるんだけど、私にはちょっと早かったかも……」
 単に食べきれないなら、残りを引き受けても良かった。しかし、量の問題ではない。それに、カレーに品川丼となると、俺の胃袋が心配だ。幸い、ライスの上で湯気を立てているカツは、まだほとんど手付かずである。
「カツと揚げ、チェンジしようか?」
 申し訳なさ気な声で曖昧に返事する女性フォトグラファーの瞳に、はっきりと安堵の色を見とった俺は、改めてチェンジしてもよいことを確認すると、新しい割り箸を取って揚げとカツをスワップした。
「大丈夫、カレーはそれ単体でも食えるし」
 申し訳なさそうにうなずきながらソースを垂らし、ザクザク音を立てながらカツを頬張る姿には、やはり子供めいた無邪気さが溢れて可愛らしい。
 俺もエビとあさりのかき揚げを一口かじり、口の中でカレーと合わせた。確かにめんつゆをたっぷり含んだ衣はちょっと甘いが、もっちりした食感が思いのほかいい感じで、記憶の中の味はそのまま。カレーとの相性も悪くなく、正直ほっとした。まぁ、俺はカツをカレーに沈めてグズグズにしたのが好きだし、蕎麦屋のカレーも好物だから、むしろちょうどよかったのかもしれない。
 そして、食べ終わった頃には、どことなく良い雰囲気が醸されているような、そんな気にさえなっている。

 とはいえ、そういう雰囲気が持続するにはそれ相応の幸運ってのが必要だが、それは俺に最も不足しているもののひとつだった……。
 やがて、女性フォトグラファーとはネットのやりとりもまばらになり、まもなく途絶えた。結局、公開情報として新作写真集が好評を博し、さらに写真ギャラリーの専属となって、そればかりか新人登竜門的な写真賞の有力候補になるなど、節目の告知が切れ切れに届くだけになった。
 そういえば、ずいぶん経ってから届いた写真集のフライヤーには、あの時に俺がシャッタを切った絶頂のカットを、ずいぶんおしゃれに使っていたっけ。

第6話 残り物の赤インゲン豆スープとひき肉の援助風ワンプレート

 スクリーンが暗くなると、ほどなくホールの明かりが灯った。
 胃の腑から喉元まで湧き上がる戸惑いや苛立ち、しびれる酸っぱさを含んだ苦味を気取られないよう、抑えがたい己の昂ぶりを無理やりねじ伏せつつ目線だけを横へ向け、やはり居心地悪気な人影に声をかける。
「懇親会、どうします?」
 その人影、おととしの夏にトークライブで知り合ったショートカットのちょっと猫っぽい娘は、そっと俺へ顔を寄せ「ぶっちして帰るけど、お茶とかします?」と返した。
 細い首に巻いた古風なストラップは、これまた古臭い革の速写ケースへ続き、白銀に輝くレトロデザインのカメラを包んでいる。ボディの正面でひときわ目を引くガラスのファインダ窓は吸い込むような透明さで、持ち主を狂わせる厄介な魔力を誇示していた。
 俺は立ち上がって荷物をまとめる間、ちょっと猫っぽい娘はおぼつかない手つきでケースの前蓋をパチパチとホックで止め、いささか乱暴にカメラをバッグへしまい込む。イベントホールを後にして雑踏に紛れると、ベッタリと重い疲労感がのしかかった。
「待って、待って、少し早いよ」
 思いのほか早足だったらしい。追いついた猫っぽい娘に非礼をわび、とりあえず目についたファミレスへ入る。猫っぽい娘は軽く会釈すると喫煙席に陣取って、やたら甘い香りのリトルシガーに火をつけた。濃厚な紫煙と駄菓子めいた懐かしいにおいが立ち込め、俺の舌まで甘酸っぱくなる。
「久しぶりだね」
「えっと、最後にあったのは……」
「リアルで会うのは2年ぶりじゃないかな?」
「あぁそうかも、去年は忙しかったから」
「なんか、気がついたら院進なっててびっくりしたよ」
「うん、あぁなっちゃったから、だれとも関係ないところ行こうってさ」
「それで、美大の院に」
 曖昧にうなずきながら、なれた様子でミニシガーをゆったりふかす。おそらくは繰り返されたやりとりだろう、煙に巻くしぐさまですっかり堂に入ったものだ。ただ、ちょっと猫っぽい娘が経験したあんなことを充分に理解している俺ならば、あえて靄の彼方へ挑むこともできなくはない、そんなことがチラと頭をかすめる。
 いや、流れを変えよう。甘い煙幕の向こうへ切り込むのは、やはり無謀すぎる。
 なぎ払うようにメニューをたたんで、軽い食事と飲み物を注文した。
 そして、ドリンクバーへと立ち上がりかかった瞬間、猫っぽい娘が静かに決定的な言葉を差し出す。
「あんなにスピリチュアルなもんでしたっけ? アートって……」
「たぶん、違うね」
 それだけ言って、俺はコーラを取りに行った。

 なかば乾いて張り付いたチーズとミートソースをつつく俺も、飲み干したワイングラスの水滴を見つめたままの猫っぽい娘も、考えていることはたいして変わらない。違うのは正気度の削れ具合というか、ダメージコントロール能力だが、これは露骨に経験がモノを言う。それに、若くてやや細身の女性というのは、それだけでハンディキャップだった。たとえ、おっさん連れであっても。
 タイトルからして『ひとりで制作するフォトアーティストのための写真術』だったし、俺を誘ってリスクヘッジをかけたところも悪くはなかった。とはいえ、わざわざ『フォトアーティストの』と称したセンスのきな臭さを承知のうえで参加したふたりであってもなお、思っていた以上に【ナマの表情】とか【古きよき時代の庶民の姿】や、挙句に【まだ社会にぬくもりがあった頃の無防備に屈託のない笑顔】といったエモワード連発のワークショップが俺には辛く、猫っぽい娘も講師が『レンジファインダは本物の視界、だからフォトグラファーが被写体の心と向き合うことができる』なんてのたまった瞬間、自分のカメラを隠したそうだ。
 午前の部が終わったところで既にグロッキー気味だったところへ、午後の撮影実習では猫っぽい娘を口説きにかかるおっさんまで現れ、微妙な空気に耐えられず場所替えなんてイベントまで発生したから、心も体もすっかり参ってしまった。どうにかこうにか踏みとどまっていた俺も、スクリーンにでかでかと【写心】なんて毛筆フォントの文字列が半透明表示され、それから『ソーシャル活用はアーティストのステージアップ』とか『アートで地域再生』とか投影された段階で脳が視覚情報の受け取りを拒否してしまい、最後の方はよく覚えていない。
 こうして、ふたりそろって顔をしかめつつ、吐き出したい思いをすっかりぶちまけた頃には日もとっぷり暮れ、猫っぽい娘がひとりで飲み干したデカンタの水滴もほとんど流れ落ちて、テーブルにちょっとした水たまりを作っていた。
「おじさん、これからどうするの?」
「かえって飯、かな」
「行ってもいい?」
 罠? は言いすぎか。
 かと言って、ホイホイお持ち帰りするのも微妙な関係だし、抑えがたいニヤケ顔や心と股間のガッツポーズを無理やりねじ伏せ、なんとか「大丈夫?」とだけ返す。
「ん、だいじょぶ。明日は休むつもりだったし」
 決壊した……。
 そそくさと荷物をまとめる傍らで、猫っぽい娘が「まさか、あんなカメラ屋のコピーみたいなこと、ほんとにいう人がいるとは思わなかった」と言いながらカメラを無造作に引き上げる。
「カメラに罪はないよ」
 見かねて軽くたしなめた。
「だってもらい物だもの、思い入れないんだよね」
「めんどくさい人からの贈り物とか?」
「ううん、そういうんじゃないけど、セックスしたらクレた」
 俺は無言のまま目をそらし、会計を済ませるとふたりでファミレスを出た。

 ターミナル駅で私鉄に乗り換える際、猫っぽい娘が駅ナカのテナントで買い物すると言い出した。
「なに買うの?」
「ワイン」
「お酒なら近くでも売ってるよ」
「氷とおつまみは近くで買うけど、高くてもちゃんとしたお酒が美味しいのよね」
 そうかそうかとうなずく俺に、猫っぽい娘は「心配しないで、私が買うから」とかぶせる。
「ビールぐらいはあるよ」
「ん、ビールは嫌い、味もわからない。それに……」
「それに?」
「居酒屋で飲むビールは美味しくないし、悪酔いする」
 曖昧にうなずき、高級輸入食材店を目指す。
 居酒屋のビールがまがい物になったのはいつごろだろう?
 俺はもともと酒をほとんど飲まなかったし、居酒屋の喧騒も苦手だったから思い出せるはずもないのだが、それでも『昔のビールはちゃんと味がした』なんて台詞が、危うく口からこぼれそうになった。
 賑やかな通路から静かな店内へ入ると、全く予想していなかったワインコーナーの充実ぶりに圧倒されてしまう。棚をうめつくす様々なボトルの前で、俺は途方に暮れるばかりだ。
「ワイングラス、ある?」
 小声で訪ねる猫っぽい娘に、首を振りながら。
「いつもマグカップ使ってる」
「そか、ならこの辺だね」
 勝手知ったる風に膝をつき、足元の木箱から黒いガラスに赤白上下分割の、左上に青地ひとつ星ラベルが鮮やかなボトルを取り上げた。
「肉厚のカップで、ちょっとチープなお酒をカジュアルに飲むの、割と好き。ついでに、ここでおつまみも選ぶね」
 チープとはいいながらもちゃんとコルク栓の、それなりにお値段もするワインを選び、勇ましくチーズ売り場を闊歩する。なにも言わず目に鮮やかなオレンジ色のくし形切りパックと全粒粉のクラッカーを持ち、レジへ向かうと俺の手からボトルを取り上げ、自前のカードでパッパと会計を済ませた。

 猫っぽい娘には奥の居間兼寝室で座ってるよう言いおくと、買ってきた氷とソフトドリンクを冷やす。チーズはパックのまま全粒粉クラッカとテーブルの隅に寄せ、とりあえず手を洗ってワインオープナーを探していたら、奥から声がした。
「本棚はないの?」
 どれどれと居間兼寝室へ顔を出したら、猫っぽい娘はクッションに寄りかかって、折りたたみ座卓に積まれたハードカバーをつついている。
「ここにはないね。本は下の仕事場においてるんだ」
「だよね。良ければ見せて欲しいんだけど」
「いいけど、いま?」
「うん、できれば」
 どうせカメラをしまうからと、ついてくるよう手招きしつつ階下の事務所へ向かう。本棚に興味を持つ理由をたずねると。
「本棚みるの好きだし、ゼッタイあるって思ったから。机の本をみた時、そう思った」
と浮かれた答えが返ってくる。
 扉をあけ、いまどき珍しい蛍光灯のスイッチを入れると、猫っぽい娘に「写真関連の本は手前の本棚」と言いつつ、スリッパを用意した。猫っぽい娘は軽く会釈し、もどかしげに棚へ近寄って、なにごとかつぶやきながら背表紙を確かめている。奥の仕事部屋にカメラをおいて戻ると、ナン・ゴールディンの巨大な写真集をめくっていた。
「写真評論とか、記事とか書いてたんですか?」
「いや、そっちには縁がなかったけど、なんで?」
「コレクションはまだらで小ぢんまりしてるけど、メルクマールはきっちり踏んでる」
「どういたしまして、ありがとう」
 聞いているのかいないのか、猫っぽい娘は棚の方を向いたまま、写真集と映像ソフトを引っ張りだす。
「これ、観てもいい?」
「いいよ、復刻版と私家版だけど」
「そなんだ、学校の図書館にもなかったから、ちょっとびっくりしちゃった」
 手にした『センチメンタルな旅』復刻版と『I’ll be your mirror』のDVDを見つめる猫っぽい娘をうながし、いろいろやりっぱなしの部屋へ戻る。本を片付け、なんとなくよさ気な場所へ座卓を置き直すと、猫っぽい娘が求めるままワインオープナー付きアーミーナイフとワイン、マグカップ、それから氷に樹脂のボウルを添えて盆に並べ、ままごとのようにお膳立てした。
「チーズはどうする?」
「表皮は削ってあるから、パックのままクラッカーにスプーンつけてちょうだい」
 これまた猫っぽい娘に言われるまま、高級そうなチーズとクラッカーをざっくばらんに渡す。他に何か食べるかたずねたら、少し考えて「お任せしちゃっていい? ストックわからないし、ヨソの台所あれこれするの気が引けるから」と俺の目を見て微笑んだ。
 若い女が中年男をくすぐる小ずるさというより、育ちの良さをからくる屈託のなさだろうが、非モテ避けバリアにもなっているんだろう。無自覚だろうが、相手のテリトリーを尊重する気遣いを、もてない男はおうおうにして無関心や拒絶と受け取る。
 ただ、むしろ俺は猫っぽい娘のそういうところがありがたく、そして心地よかった。
 簡単に食事を用意するあいだ時間を潰すよう伝えると、マイクロウェーブクッカに無洗米と水を突っ込んで電子レンジへセットし、マカロニ入りトマトビーンズスープを取り出す。オムレツのチリセロリフィリングが少し残っていたので、先にきのこと混ぜて鍋で軽く炒め、缶を開けペースト状のスープを加熱する。先に炒め始めたひき肉とチリ、そしてセロリの強い香りが立ち込めたが、水を加えると少しずつおさまっていった。
 スープができたと猫っぽい娘に告げたら、写真集を観てから食べると返ってくる。復刻版とはいえ、スープ食べながら写真集を観るのは確かによろしくない。シンク周りを簡単に掃除し、グレープフルーツジュースを片手に部屋を除くと、猫っぽい娘は氷を入れたワインをちびちびやりながら、真剣に写真集をめくっていた。
 ジュースに氷を入れようと手を伸ばしたら、袋ごと樹脂ボウルに突っ込んで結露を減らしている。それなりにいいところのお嬢さんだろうに、こういうところへ気を回すところなど、バブルと呼ばれたレス・ザン・ゼロの華やかな狂乱を薄っすらと覚えている俺でなければ、意外に感じることもないのだろうか?
 つと、立ち上がった猫っぽい娘は部屋を見回して「これ観たいんだけど、どうしたら良い?」と『I’ll be your mirror』のDVDを軽くふった。
「あ、パソコンたちあげるから、ちょっと待ってて」
「ソフト買うほど映画が好きっぽいのに、専用機はないのね」
「部屋が狭くてね……」
「これ、売ってないでしょ?」
「うん、たぶん教育用。ただ、別のインタビューも収録されてる。字幕ないけどね」
「英語だよね。滑舌悪い人?」
「落ち着いた語り口で、音声も丁寧に処理されてる」
「じゃ、たぶんだいじょうぶ。いちおう、アメリカ帰りだし」
 マシンを立ち上げ、外付けドライブにディスクを突っ込み、座卓から見やすい位置にモニタを動かす。外部スピーカの位置も多少調整したところに、レンジアップの間抜けなシグナルが『チン』と鳴った。
 頃合いよく動画も始まったので、猫っぽい娘に観えるかどうか確認し、遅い夕食を用意する。マイクロウェーブクッカの飯をプラの平皿へよそい、温めなおした赤インゲン豆のトマトスープをぶっかけた。見た目はともかく、チリとセロリのニオイが安いひき肉のエグみを綺麗さっぱり消し去って、トマトの赤みがどす黒く変色したシェルマカロニを優しく包み込んでいる。
 ニオイを嗅いでいるうちに空腹感が強まって、ちょっと耐え難くなっていた。いそいそ猫っぽい娘の隣にしゃがみ込むと、無言でわしゃわしゃかきこむ。
「いいにおいだけど、見た目はすごいね」
「美味しいよ。食べる?」
「うぅん、観てからにする。それより、もう少しこっちきていいよ。難民みたい」
 短パンとヨレヨレのシャツでプラ皿の飯を書き込む姿は、確かにそのとおりだ。皿をおいて、そっと立ち上がったところに、猫っぽい娘が声をかける。
「すこし、巻き戻してくれる?」

 それから本編が終わるまで、猫っぽい娘は神妙な面持ちで動画を観続けた。ワインを手酌するときも、チーズをスプーンですくい取る時も、画面から目をそらすことはなく、耳は真剣に音声を拾っている。時折、息を呑んで画面を凝視する猫っぽい娘には、触れることはおろか、話しかけることすら出来ない。
 結局、おまけのインタビューまで通した挙句、ワインも空にしていた。
「メモ取ればよかったよ。ねぇねぇ、まぁた観せてくれるぅ?」
「もちろんいいよ。それより、大丈夫?」
「ぬぅん、ちょっと、ちょっとだけ、眠くなっちゃったかも」
 あわてて座卓を部屋の隅に寄せ、とりあえずマットレスを広げる。猫っぽい娘は「ごめんね……ありがとう……」とつぶやきながら、広げたばかりのところへちゃっかり横たわり、もそもそシャツを脱ぎはじめた。どこかで、こうなるだろうと思っていなかったわけではない。だが、それでも面白かろうはずもない。
 ため息ひとつこぼして、食器や食べ残しなどを台所へ片付ける。簡単に皿を洗って部屋へ戻ると、裸にパンツだけの猫っぽい娘が、既にすっかり眠り込んでいた。自力で服を脱ぐ程度には意識もあったようだが、念のため回復体位を取らせておく。
 背中に汗をかいていたので、起きてくれればと思いつつ堅く絞った濡れタオルでざっくり拭うが、ピクリともしなかった。やれやれ、まぁ次の機会もあるだろうと、寂しさやら苛立ちやらを気持ちの片隅へ放り投げ、改めて猫っぽい娘の細いうなじとすっきりした背中、そして思いのほか大きく張っていた尻の厚みをながめる。
 じわじわと下腹から浮かび上がるウズキが、切なさをつのらせていた。
 猫っぽい娘の腰をそっとなで、身体を添わせるよう横になる。規則正しい寝息と静かに上下する胸を感じながら、久々に大きくいきり立つ男根が、呆れるほど力強く存在を誇示していた。
「アカン……」
 小さくひとりごち、トイレに向かう。
 そのまま済ませてもかまわないのだが、なにか妙に癪だった。
 ロールペーパーをたっぷり左手に巻き取り、ふたたび猫っぽい娘に沿って横たわる。
 急に若返った分身にみなぎるなにかをはっきりと感じつつ、脈動するそれをしごき、ほとばしる精を左手に受け止めた。

 翌朝、猫っぽい娘は「いろいろありがとう、また来ます」と言って部屋を出ていく。

 駅まで見送ろうかという俺に、レトロなカメラを優しく肩へ引き上げながら「ううん、道を覚えたいから、ひとりで行くね」と答えた。

第7話 Unsimulated sex アンシミュレーテッド・セックス

その1:男の人が一番バカになる瞬間、だからじゃないかな?

 ゴムが受け止めた白いタネは思ったよりも濃く、粘り気があって量も多かった。
 腰から背中に張り付くだるさにあらがって上体を起こし、どっぷり吐き出された精をティッシュにくるむと、慎重にゴミ箱へ入れる。
 東の空には、うっすらと紫色の光が差していた。
 ショートカットのちょっと猫っぽい娘は窓際に立ち、ほっそりと伸びやかなシルエットをさらしている。着痩せするというか、うまく隠しているのだろう。意外なほど大きく、美しいヒップがくっきりと半球を形作り、ほっそりしていながらもしっかりと筋肉をつけたふくらはぎにいたる、整ったシルエットを描いていた。
「なにか見えるの?」
「ううん、なにも」
「そうか……」
 低くつぶやくように答え、ゆっくりと立ち上がった俺は、竿に汁が残っていないかどうか確かめて、パンツを足でつまみ上げる。
「飲み物いる? 寒くない?」
「大丈夫。でも、なにか飲みたいな」
 冷蔵庫のジュースか淹れ冷ましの紅茶、ホットならインスタントコーヒーとか、とりとめなく並べる俺をさえぎって、猫っぽい娘は氷なしのジュースを指定した。俺は淹れ冷ましの紅茶に牛乳を足して、ジュースともども寝部屋の座卓に並べる。
「ごめんね」
「どうしたの?」
 軽く上目遣い気味に俺を見る猫っぽい娘へまなざしを返しながら、慎重に記憶を巻き戻す。俺に謝る理由などないだろうに。
「逝かないから、少し頑張ったでしょ。でも、やめてくれたよね」
 つい先程まで繰り広げられていた行為の虚しさ、そして幾たび繰り返そうともけっして慣れることのない敗北感が、ふつふつとよみがえってくる。
 甘く艶やかな嬌声や、掌からこぼれ落ちるほどの雫とは裏腹に、身体の深い部分はどこまでも冷め切って、反応は薄い。結局、途中で認めざるを得なくなり、最後は手技。
「こちらこそ、申し訳ない」
「ううん、誰とでも同じ。逝ったことないのよ」
「実は嫌だったりしない?」
「きらいじゃないし気持ちいいけど、ハマる人の気持ちはわからない」
「そか……なら、まぁいいか」
「やっぱ、逝ったほうが気持ちいい?」
 あ、これ素で答えたらアカンやつか?
 いや、猫っぽい娘はそれほどこじらせていないから、むしろ率直に答えるほうがましなのか?
 とは言え、言葉に詰まった段階で答えが出てしまうもの。そして、猫っぽい娘は頭の回転が早く、表情や仕草を読み取る力もある。正直、曖昧な表情と仕草、まなざしに答えを委ねたくなったが、考えこんだ末「気持ちいいというか、達成感はあるね」と答える。
「やっぱり、そうだよね。女の人もそう」
「逝くと達成感ある?」
「ううん、そうじゃなくて。女の人も逝かせたがるから」
「男を?」
 切れ長一重の目をそれとわかるように細め、大きな口元を少しだけ上げ、猫っぽい娘は低くつぶやいた。
「おねぇさんはどうだった?」
 猫っぽい娘がおねぇさんと呼ぶ女友達……女を逝かせるのが大好きなバリタチバイセクシャルを思い起こしつつ「あ、だわな」と返す。
「でも、ちょっと大げさに声を出したり演技してると、だんだん気持ちいい暗示かかってくるの。そしたら、ふわっと逝ったような逝かないような、そんな気分にもなるよ」
「うへっ、もしかして惜しかったかな」
「違うよ、おじさんは手前で止めてくれたからいいんだよ。痛いってギブしても、やめてくれない人、すごく多いんだよ」
 自分にも思い当たるフシがありすぎてイタイ。その痛みは、墓穴を掘るリスクを忘れ、自己正当化したい欲求に走らせるほど、深い記憶や傷を刺激した。
「インターコース言うか、挿入は好き?」
「好きよ」
 俺のかすかな声の震えを聞き逃したか、あえて無視するかのように、猫っぽい娘は小気味良く即答する。
「オナニーは好き?」
「オナニー? マスターベーション?」
「もしかして、イタチとかスティックって言う?」
「あぁHITACHI? セルフプレジャーね。好きよ。気持ちいいから。でも、そんなにはしないな。バイブはむしろ疲れるし」
「逝かないなら挿れないというか、くっついてるだけでもいいんじゃない?」
「アッタマ悪いなぁ。セックスは逝くから好きとか、逝かないから嫌いとか、そういうんじゃないよ。そんなシンプルじゃないよ」
 ありがとうございますと、深く頭を下げたくなる衝動をぐっとこらえ、俺は「そうか」と微笑んだ。
「グラス、ここに置いていい?」
 雑にうなずきながら残り少ない紅茶を飲み干し、立ち上がるついでに猫っぽい娘が座卓へおいたグラスを取って台所へ向かう。流しにカップとグラスを置いて戻ると、猫っぽい娘がつっと後ろへ回り、日焼け止めのラベルに描かれた子犬めいた仕草で、素早く俺のパンツを引きずり下ろした。
 驚いて尻餅をついた俺の股ぐらに、すかさず身体を入れてペニスをまさぐる。
「もういっかい、したいの?」
「ううん、イクところ見せて」
 いつもの上目遣いであざといほど無邪気さを装った猫っぽい娘は、俺自身を柔らかくしごきながら皮を丁寧に下げると、亀頭を優しくくわえた。
 なにかの仕返しか?
 知らぬ間に虎の尾を踏んでいたのか?
 訳の分からないまま「見たいの?」と、アホ丸出しの言葉を漏らす。
「出るとこじゃなくて、逝くときの顔が見たいんだけど、いいかな?」
 なんとなく腑に落ちたので「顔が見たいなら、横に寝そべった方がいい」と告げ、とりあえず楽な体制を取った。再び股ぐらに入り込みながら、猫っぽい娘は「逝きそうになったら言ってね」と念を押す。
「いいけど、そんなに顔が見たいの?」
「うん、アヘ顔好き」
「なんで?」
「男の人が一番バカになる瞬間、だからじゃないかな?」
 大げさに苦笑したかったが、猫っぽい娘が本気でしゃぶり始めると、そんな余裕は消し飛んだ。
 やがて、下腹へ飛び散る薄い精をよけながら、猫っぽい娘は俺の顔を見つめている。

その2:あ、すっげぇめんどくせぇネタふった、俺……。

 それから梅雨が明けるまで、猫っぽい娘はちょくちょく俺の部屋を訪れ、セックスしていた。相変わらず逝かせられなかったが、行為はそれなりに楽しく、気持ち良い。ただ、合間にしていた学校や写真の話が、少しずつ長く、深くなっていった。正直、それはとても嬉しかったが、猫っぽい娘は美大の院生ということもあって内容がいささかアカデミックというか専門的で、ちょっと俺の手に余るのは、正直困った。
 きっかけは猫っぽい娘が俺と肉体関係を持つ前、ちょうど始まったばかりの女性写真史という講義に関して、ちょいと調べ物の手伝いをしたことだ。
 猫っぽい娘は受験勉強の一環に写真史もおさえていたから、写真黎明期の女流写真家であるジュリア・マーガレット・キャメロンについてもざっくりとは知っていた。だが、同時代の写真技術となると初めて聞いた用語もあり、いささか難儀していた。なかでも教授が盛んに強調していた【作家が小柄な女性であったことによる身体性もまた、作品の底流をなしている】という部分は想像が及ばないようで、メッセに「やばいヤバイ、ほんとイミフ。ヤバイ」なんて困り顔スタンプまで添えていたぐらい。
 結局、猫っぽい娘は俺の部屋へ来て旧ソ連製大判カメラやフィルムホルダを触ったり、ハイポが単に定着剤や定着工程の発見を意味するのみならず、発見者のハーシェルを撮影したポートレートがキャメロンの代表作となっていることなどを理解するのだが、ちょっとしたヒントがあれば検索ワードや資料の見当をつけられるので、途中からはほとんど自習していたようなものだ。ただ、猫っぽい娘に言わせると「きっかけになる単語が見当つかない」そうで、そこには古典写真の現像やプリントを体験していない、デジタル世代ならではの苦労があるかとも思う。
 ともあれ、それから猫っぽい娘は俺の部屋をちょくちょく訪れるようになり、写真関連のイベントやワークショップにもふたりで出かけるようになった。ただ、流石に美大の院生レベルとなるとついていけないというか、情報の量や質ではない思考の筋道や着眼点で越えられない壁を感じることが多く、指導教員やゼミの先輩を頼るようにうながしたこともある。
 仕事部屋で大学のほうがえぇんちゃうと、目をあわせずぼそぼそ言う俺に、猫っぽい娘が返したセリフはどこか他人事めいていた。
「ほら、サークラだからさ。ワタシ」
 大学でやらかしたサークラ事案は俺も把握していたし、そのため就職を回避して美大の院を受験したことも教えられている。だが、猫っぽい娘との補講とも自習ともつかない時間やセックスの合間に聞いた話をまとめると、そんな強がりとは全く異なる世界が見え、ちょっと同情したくもなった。
 もちろん、俺の想像する大学院の世界は、猫っぽい娘が話す断片的な情報の集まりでしかない。ただ、猫っぽい娘が手こずった女性写真史を担当する女性教授は、かつてキャバクラで学費を稼いでいた女学生をこっぴどく叱りつけ、仕事をやめさせた挙げ句、結局は大学院からも追い出してしまったエピソードを自らの武勇伝として語り、また彼女だけが院生指導中も教授室のドアを閉める特権を有して疑わないことは、息苦しいキャンパスライフを想像させるに十分だった。
 かの女性教授は古典印画や古典技法が専門で、さらにフェミニズム写真批評の権威でもあったが、いずれにせよそれらは猫っぽい娘の主要テーマでなく、別のゼミを選んだのは幸運だったろう。
 そんな猫っぽい娘がアンシミュレートセックスを知ったのも、女性写真史の講義で感じた疑問や不満を、俺の部屋でぶつくさ文句を垂れていた時だった。
 前期の最後にダイアン・アーバスを取り上げ、夏休みの課題にはナン・ゴールディンが指定されたらしいのだが、猫っぽい娘が言うところによると【キレイ事ばかりで新味はなく、セクシャルなファクターが荒っぽく遠ざけられている】そうで、いかにもオールド・アカデミシャンなスノビズムを感じたようだ。わかりやすくセクシャルな要素を嫌悪しそうな女性教授だし、その辺を突っ込みたくなる年頃というか、そういう若さを眩しく思いつつ「ダイアン・アーバスは遺族が徹底的にガードしてるし、ナン・ゴールディンに至っては老いてなお現役の作家だから、いろいろ難しいところがあるのだろう」とかなんとかテキトーに相づちを打っていたら、写真集をめくっていた猫っぽい娘がふっと「このカットとか、本番やってるよね」なんて嬉しそうに、白人男女が全裸で重なり合ってる作品をみせつけてきやがる。
 まぁ、セックスも含めた親密で濃密なつながりがテーマのひとつでもあったのに、講義ではその辺をすっかり漂白していたらしいから、なにか言いたくなる気持ちはわからなくもない。軽く苦笑しながら「あぁ、アンシミュレートセックスだねぇ、別カットには結合部が見えちゃってるのもあったよ」と、これまたテキトーに返したら、すぃっと写真集をたたんで「アンシミュレートってなに?」と、真顔で訊かれた。
 
 あ、すっげぇめんどくせぇネタふった、俺……。
 
 とりあえず、基本的には動画と言うか映画の用語であると前置きしつつ【ポルノではないメインストリーム作品における本番行為を、擬似的セックス描写(シミュレート)と区別して生まれた言葉】と、辞書的に答えてはみたものの、当然のように猫っぽい娘から矢継ぎ早の質問が飛んできた。
 いわく……。
 
「ポルノではないメインストリーム作品ってなに? その定義は?」
「いわゆるハードコア作品との違いは?」
「本番行為の具体的な内容は?」
「なぜ、動画とか映画にはそのような言葉が生まれ、写真には生まれなかったの?」
 
 などなど……。
 いきなり口頭試問祭り。こういうサプライズはとことん苦手な俺は、最初の質問からしどろもどろ。なんだなんだ、こっちはシロウトなんだから多少は手加減しても良さそうなと思いつつ、劇場配給や検閲、表現規制の問題、狭義の本番行為が挿入のみを指すのに対し、アンシミュレートはフェラや手コキ、あるいはバイブなどの挿入を伴わない性器接触を含むことなどをとりとめなく答えている間に、いやいやこれでもかなり手加減されてることに気がつく。口頭試問なら間違いなく指摘されるような定義曖昧な慣用句、あるいは出典の定かでない俗説、留保なく用いた他分野の専門用語など、どれもひと呼吸おいてスルーしてくれていた。
 最終的には『愛のコリーダ』をはじめとするいくつかの作品名と各国の表現規制に関するキーワードを教え、数日後には猫っぽい娘が自己解決したようだ。ただ、写真におけるアンシミュレートについては当然のようにジェフ・クーンズの名前が出て、ちょっとノスタルジックな気持ちにさせられる。
 そして猫っぽい娘の話には、以前に俺と女友達を撮影した女性フォトグラファーまで登場し、なんとも言えない気持ちになる。その女性フォトグラファーはアンシミュレート作品を精力的に制作しているから、まぁ当然でもあるのだが、猫っぽい娘の先輩だったことはすっかり失念していた。
「女性フォトグラファーは俺とおねぇさんのアンシミュレートを撮ったことあるよ」
「へぇ! そなんだ。ごめんね、知らなくて」
「いやいや、気にしないで。俺も学校の先輩だったって、いま知ったぐらいだし」
「いちおう、そういうことだけど、関係ないわね。あの人は学部卒だもの。ただ、妙に英雄視してる人はいるみたい」
「大学に?」
「院生にも、ね」
「作品はどう思う?」
「実は観てないのよね」
 そうか、と話をたたみにかかったところ、猫っぽい娘が思いもよらぬ不意打ちを食らわせる。
「おじさんとおねぇさんとワタシで、アンシミュレート撮れるかな?」
「たぶん大丈夫、というかおねぇさんは大喜びと思うけど、なんで?」
「誰もができないことをやってる、ただそれだけで評価されているニンゲンがいて、それとは別に自分もそのニンゲンと同じことができる環境を手にしている。そういう時にすることをする。それだけ」
 俺はふっと天井を見上げ、ゆっくり猫っぽい娘に目線を戻し「わかった、おねぇさんには連絡とるから、撮影プラン立てて」と答えた。

その3:おじさん、最初っから本気出しちゃっていいよ!

 翌日、猫っぽい娘がおねぇさんと呼ぶ、相手を逝かせるのが大好きなバリタチバイセクシャルの女友達が撮影を快諾したとメッセを飛ばすと、夜に部屋で相談したいとのレス。もちろん大歓迎。猫っぽい娘が来たのは思いのほか早く、まだ夏の遅い夕暮れが残る頃合いだった。
「おじさんに撮影を手伝って欲しいんだけど、お願いできる?」
 童貞を三回、いや百回は殺せる笑顔、サークラウェポンとして猛威を振るったであろう上目遣いのフェイタリティスマイルで【お願い】する猫っぽい娘をみながら、これを食らう前に肉体関係があって、ホンマに良かったと思う。
「お金以外のことなら、だいたいなんでも大丈夫だよ。どうしたの?」
「まず、カメラとか機材とか、おじさんのを使わせて欲しいんだけど……それからね」
「あぁ、それなら問題ないよ。俺もそのつもりだったし。で、それから?」
「それからね、撮影プランをチェックというか、問題あったら指摘が欲しいんだけど」
 流れで【あぁ、いいよ】と出かかった言葉を舌の上で丸め込み、ゆっくりひと呼吸おきながら「制作指導はちょっと」って濁す。俺の能力不足という問題もあるが、ここで安請け合いしたら、せっかくの関係を損ねてしまいかねない。とはいえ、俺に選択肢が存在するとも思えないし、猫っぽい娘が「ワークフロー知ってて、作家写真界隈の事情もわかってて、機材に詳しくて、この手の撮影について相談できる人、他にいる?」と、畳み掛ける。
 結局、猫っぽい娘が渋る俺を説き伏せるという小芝居を経て、事実上の制作指導を引き受けることとなった。
 その日は俺の部屋にあったタイカレーの缶詰と香り米、それからサラダを食べ、いつもの様にセックスして寝た。猫っぽい娘は相変わらず逝かなかったし、俺も最後は自分の手で済ませたが(タイカレー食後のお口はリスキーだからね)、それでも十分に心地良い時間だった。
 
 互いの所持機材など確認しつつ、とりあえず手持ちで可能な撮影内容を洗い出す。最初にナン・ゴールディンの作風を取り入れつつ、日常をストレートに描いた非演出的な作品を撮影すること、そして俺の部屋をスタジオ代わりにすることに決めたので、方向性はなかば自動的に決まっていく。とはいえ、もちろん迷ったり考えたりすることも多々あり、しかもその大半は芸術性と無関係な社会的制約、たとえば女友達は私服も顔も出さないなどだった。作品としては全裸の非日常性が強く出すぎる危険性もはらんでしまうけど、そこはそれぞれの生活などからくる制約を優先するしかない。
 また、これも審美的な要求というよりは時間的や金銭的、あるいは技量的な問題から、フィルムは使わない完全デジタル制作となり、にもかかわらず事後処理はあまりやりたくないとなった。これもやむを得ないといえ、微妙な判断だったと思う。もちろん、これらプランニングの過程では、猫っぽい娘が別方面からの思考、別次元の思考、つまり制作計画の精査というか評価というか、そういうあれこれを俺に求めることもあった。
 指導教官じゃあるまいし、写真をちょっとかじったおじさんにすぎない俺が、実績はないと言っても美大の院生が制作する作品にコメントするのは、いささか大それた感すらある。ただ、猫っぽい娘にしてみれば、シロウトの愚にもつかない思いつきからもなんらかのヒントが得られたようで、時にはタブレットのメモ帳になにごとか書き込んでいた。
 それでも、俺がつまらないこと言ってしでかしたことが、ないわけでもない。最悪だったのは、猫っぽい娘がフレームインするセルフの記念写真化は要注意って話になり、俺が保険としてレンズ付きフィルムを使った並行撮影を勧めた時だ。
 最初、猫っぽい娘はちょっと顔をしかめたように見えただけだったが、俺が「いやさ、昔のエロ投稿誌テイストというか、ちょっと隠微なエロティシズムが……」と続けたところをさえぎって「うぅん、でもレンズ付きフィルムでしょう? それってトイカメ臭が嫌だし、それなら携帯写真でもいい」とバッサリ。さらに少しおいて「そういう昭和クサさはすでに非日常だし、いっそラブホで撮影するほうがいいし、保険が保険になっていないのね」と軽く諭すように続いたが、もしかしたらフォローだったのかもしれない。
 しばらく経ってから、以前にも猫っぽい娘が「受け手の文脈に委ねることの危険性」とかなんとか、そんなことを力説してたことを思い出したが、むしろその時は保険のつもりでより危険な選択をしてしまう自分の悪癖が出たことに、少なからず凹んでいた。
 そんなこんなで、かなりセンスが問われる制作になってしまう。もちろん、俺はできるだけ助けるつもりだけど、最後は猫っぽい娘が頑張るしかなかった。
 
 そして、撮影当日を迎える。
 
 台風一過の青空と、彼岸すぎには思えない蒸し暑さとに包まれた部屋で、俺と猫っぽい娘はカメラ位置の最終調整に手間取っていた。台風接近前からの雨続きで、太陽光の状況を確認できなかったためとは言え、前日までにはなんとかしておきたかったのが正直なところ。
 このままじゃ女友達が来てしまうと焦り始めた頃合いに、俺の携帯がメッセを受信。画面に表示されるアイコンが、今日ばかりはひどく鬱陶しい。腹をくくって確認したら、ヘルメットおじさんが最敬礼しているスタンプの吹き出しに『少し遅くなるから先に始めててね ゴメンナサイ』とメッセが書き込まれていた。
「プレイじゃないんだけどな……」
 独り言ちつつ、猫っぽい娘に「おねぇさん、少し遅れるって」と声をかける。
「おねぇさん、帰りが決まってるんじゃなかったっけ?」
 猫っぽい娘の声に、聴いたことのないいらだちが交じる。焦る気持ちはわかるが、ここで心配しても仕方がない。とりあえず、目印テープ貼りを再開した。猫っぽい娘はファインダを覗きながら「おじさんチェンジ」と、鋭い声を上げる。俺と猫っぽい娘は互いの位置を交換し、今度は俺がファインダを覗いた。
「悪くない思う」
 へんなヲタ訛まるだしで猫っぽい娘に画面視野からやや外側のラインを指示して、自分は三脚位置に目印テープを貼る。いちいちこんな調子だから、作業に手間取るのだ。無線でタブレット表示とか、せめてチルト式液晶なら楽なんだけど、いまさらナイモノネダリしてもね。
 ともあれ、カメラやマットレスのセッティングが終わって、ゴミや紙くずを拾い集めるのと、女友達が鍵を開けて入ってくるのは、ほとんど同時だった。
「ごめぇん、遅くなっちゃった」
「荷物は台所に置いて。すぐ始められる?」
「うん、大丈夫。ごめんね」
 女友達はすっかりいつもの調子で、むしろ俺のほうが緊張しているかもしれない。かなり時間が押しているから。俺も女友達と一緒にシャワーを浴びて、そのまま始める。女友達の後から狭い風呂場へ身体を押し込み、くっついてお湯を浴びる。いつもなら、文字通り乳繰り合いながらの前戯となるし、今日もなんとなくそういう雰囲気だった。けど、やはり時間が気になってしまう。女友達は夕方までに帰らなければならない。
 予定カットを漏らさず撮影できるか?
「ふふ、勃ってきた。そのままハメちゃう?」
「先にフェラを撮ると思う」
「そうなの? 出たら聞いてみるわ」
 女友達はさっさと泡を流し、身体を拭きつつ先に出る。俺はいつもより念入りに局部を洗うと、半勃ちのペニスを支えるように部屋へ入った。
「すぐハメていいって」
 待ち構えていた女友達が腕を引っ張り、マットレスへ押し倒す。シャッタ音が鳴り響く中、素早く上に乗った女友達は硬さを増しつつある俺自身を愛おしげになんどかしごき、そのままあっという間にくわえ込んだ。
「うん、はいった」
 女友達は俺を引き寄せながら、わざとらしいほど甘くささやきかける。
「まずはオードブル?」
「いじわる! ふたりともメインよ」
「じゃ、がんばっちゃおうか?」
「そんな、わかってるくせに」
 甘え声とは裏腹に、さっきからずっと、女友達は猫っぽい娘ばかりみていた。
 三脚のカメラと手持ちカメラと、目まぐるしく使い分けながら、猫っぽい娘はリズミカルにシャッタを切る。
「おじさん、最初っから本気出しちゃっていいよ!」
 鋭い声にうながされ、俺は思わず腰を深く入れた。
「うひゃん!」
 女友達も不意を突かれたらしく、妙に可愛い声を出す。ファインダの向こう、猫っぽい娘を意識しながら行為の強度を上げてゆく。
 女友達の反応にごくかすかな不自然さが、まるで恥ずかしがっているようななにかが、ふわりと漂った。とは言え、俺も女友達も他人の前で行為するのは日常の範囲だ。あの女性フォトグラファーが行為を撮影した時ばかりではなく、この部屋でそういう行為に及んだことだって一度や二度ではない。
 それなのに……。
 やっぱ前菜じゃんか。俺。
 そして、猫っぽい娘は気がついているだろうか?
 まぁいいや、忘れさせてやろう。
 いつものような緩急もペース配分もなにもあったものではない。まっすぐに女の快楽をほじくり、こねあげる。チラと女友達の顔に浮かんだ意外な表情は、額の汗や上気した頬にかき消され、快楽の雄叫びが部屋にこだました。
 俺も、シンクロさせよう。
 女の胎内深く精を放つ瞬間、俺の逝き顔を撮るカメラのレンズと四角いファインダが、視界に飛び込んできた。そう、今日はまだ先がある。
「おじさん、すっごく良かったよ」
 余韻を楽しむ間もなく、猫っぽい娘は息荒く座り込んだ俺へタオルを投げる。
「おいおい、まだ立てるよ」
「そんなことないでしょ、少し休んだら?」
 俺の下から女友達が茶々を入れ、先に同性同士の行為を撮ろうと言い始める。わかりやすいったらありゃしないが、女友達が帰る時間を考えると、それで良いかもしれない。
 あからさまに浮かれ気分の女友達が、猫っぽい娘を連れて風呂場へ姿を消すと、俺はもういちど残り汁を丁寧に拭き、パンツを履いてカメラをチェックした。猫っぽい娘は、自分のカメラを手持ち撮影に使っていたが、俺はパスして部屋の隅へ片付ける。手持ち撮影まで参加すると作家性の問題もあるし、慣れない機材で撮るのは趣味じゃなかった。
 シャワーを浴びて出たふたりに撮影範囲を示す目印テープを念押しして、猫っぽい娘が体を拭き終わると撮影再開。早速ディープキスに及ぶ女友達へ「好きにやっていいけど、時間は気にかけて」と声をかけ、ファインダを覗いた。
 猫っぽい娘は女性とも経験あるようなことを言っていたが、たしかに戸惑う様子など観られず、むしろなれた雰囲気すらある。最初は女友達もいささか拍子抜けしたようだが、すぐに軽い言葉責めを交えたいつもの行為を組み立てていく。
 基本的に猫っぽい娘は受け身で、行為よりも撮影が気になるよう。しきりにリモコンを操作しつつ、要所々々でシャッタを切っている。いちおう女友達は型どおりにシックスナインを試みるが、流石にノリノリとは行かない。
 とは言え、俺は女友達の行為を見慣れていたから、多少なにかあっても動じない。ただ流れを押さえるようにシャッタを切りつつ、やがて訪れるクライマックスに備える。
 猫っぽい娘がうつ伏せになり、メインのデジタル一眼へ顔を向けたのが合図だった。
 後ろから猫っぽい娘の秘所へ指を差し入れた女友達が、レンズ越しに俺へ目線を送る。猫っぽい娘のポイントを探り当てたのか、徐々に手の動きが激しくなる。猫っぽい娘の顔や背中がはっきりと上気し、明らかに高まっている。
 猫っぽい娘の表情にあからさまな戸惑いが浮かび、リモコンを手放した。それを察知したかのように女友達もピッチを上げる。悦楽の比喩そのままに、猫っぽい娘の背中が痙攣したように波打ち、しゃくりあげるように尻を振ってより大きな刺激を求め始めた。
「これは、大きいのが来る」
 俺の口から誰に言うともない言葉がこぼれ落ちた直後、猫っぽい娘は唇をきゅっと嚙み締めたままフルフル身体をわななかせ、ぐったりと崩れ落ちる。瞬間、濡れそぼった右手を軽く握り、女友達が小さくガッツポーズを決め、俺も祝福のシャッターシャワーでそれに応えた。
 必要と思われるカットを撮り終え、重なって余韻を楽しむふたりへタオルを持っていったら、猫っぽい娘は「さんにんの、撮る」と、リモコンを探っている。俺がリモコンを手渡すと、猫っぽい娘はそのまま撮り始めた。慌ててパンツを脱ぎ、猫っぽい娘と女友達と俺でフレームへおさまってはみたものの、中年男女にはさまれクタッとなってる細身の娘から漂う捕まった宇宙人テイストは覆うべくもない。
 猫っぽい娘が回復したところで、こんどは全員のカラミを撮ろうかとは思ったが、どうやら女友達はタイムアップらしい。申し訳なさそうに「シャワー浴びて化粧直もしたいから、そろそろ抜けるね」と風呂場へ消えた。それなら、猫っぽい娘はこのまま寝かしててもかまわないし、とりあえず駅まで送ろうかと俺もパンツを履いたら、タクシーで帰るという。アプリですぐに呼べるらしい。
 なんだか拍子抜けというか、しまらないことおびただしい雰囲気だが、まぁ仕方ない。自分が予想していたよりもはるかに早く、帰り支度を整えたかどうかというタイミングでタクシーが来ると、挨拶もそこそこに女友達は出ていく。小さいため息ひとつ。
 振り返ると猫っぽい娘が俺を見ていた。
「日が陰る前に、おじさんと撮りたい」
「いつもと同じでいい?」
「ううん、もう少し頑張って。最近は甘くなりすぎ」
 相変わらず返答に困る物言いだが、いつもの強気が戻ったようにも感じる。ようやく撮影の緊張がほぐれたのか、あるいは女の存在が影響していたのか、考えながらマットレスへ腰を下ろすと、猫っぽい娘は背中からネッキングしてきた。甘いのはお前の方やとか、そんなことを思いながら、いつもよりほんの少し前戯をラフに、わがままな感じの行為を意識する。とは言え、女友達との行為では前戯もなしにぶち込んでたから、まだまだマイルドな感じだ。
 しばらく撮影していたら、猫っぽい娘は不意に体を離し「カメラ意識しないで、おねぇさんとやったみたいにやって」と、うつぶせになる。わかったと応えつつも、ふたりの顔を少しカメラ正面に寄せ、思いのほか濡れそぼった娘に突き入れた。瞬間、猫っぽい娘は顔を少ししかめていたようだが、かまわず力任せの大腰を使う。いつもとは反応があからさまに違い、今度こそとの期待も高まっていった。
 猫っぽい娘の下腹へ手を回し、腰の位置を調節しながら追い込んでいく。もう少し、あと少しと思いながら、自分の快楽だけをがむしゃらに貪った。猫っぽい娘の可愛らしい声に甘く艶やかな切なさがまじり、この調子ならと思った瞬間、ズルリと抜けた……。
「ごめん、苦しい」
 あぁ、体重をもろにかけてしまったか。猫っぽい娘は俺の下から這い出し、荒く深い息をついた。ごめんごめんとあやまりながら、そっと猫っぽい娘の背中を撫でる。やがて、俺の横で細い体を仰向けにした。
「おねぇさん、すごいなぁ」
「この重さに耐えてるから?」
「あ、うん、それもあるけど、すごく気持ちよさそうだったから」
「おねぇさんにされてるほうも、気持ちよさそうだったけど?」
「え、あ、うん……。よかった」
 猫っぽい娘が顔を赤らめるところ、初めて見た。
 
 結局、俺はいつものように口と手で済ませ、猫っぽい娘にはアヘ顔とイチャイチャしてるところを撮られて、その日の撮影は終了した。丁寧に自分のカメラをしまい込む猫っぽい娘を横目でみながら、俺も自分の機材を片付ける。
「雑にしてたカメラも大事にするようなったやんか、ほんまは写真好きなんちゃう?」
「もともと写真は好きよ。でなかったら、専攻してないし」
 そらそやなとうなづく俺に、猫っぽい娘は続けた。
「でも、撮ることも【少し】好きになった。観たり分析するだけじゃなくてね」
 
 今日も泊まってっていい? と、わざとらしくカワイコぶる猫っぽい娘にテキトウな相づちを返しながら、ままごとめいたこの関係へ溺れそうな自分がいることに、薄ら寒いなにかを感じずにはいられなかった。

第8話 あの日、食べ損ねたプレミアムなグラノーラ

その1:夏の初めの刺々しい自家栽培ミントティ

 シャワーを終えて女友達が部屋に入った時、、俺はまだ下着もつけていなかった。
「パンツぐらいはいたらどう? 先っちょからしずく垂れるよ」
「今日はもうしない?」
「うぅん、時間が微妙だし……なにか飲みたい気分」
 壁の時計を見やるふりをしながらタメを作って、女友達は俺との微かな隙間に精一杯の優しさを詰め込む。別に行為が雑だったとか、不調だったとか、そういうわけではない。雑と言うかラフなのはいつものことだし、それは互いにちょっと手を抜きつつ、わがままにそれぞれの快楽をむさぼる気楽さの現れでもあった。
 そうではないなにか、いやなにかではない。女友達の気持ちを吸い寄せているそれは、その時の俺にも十分すぎるほどはっきりわかっていた。
 無言でパンツをはいてエプロンを付け、寝部屋で涼む女友達へ「珠茶(じゅちゃ)と苦丁茶(くていちゃ)、どっちする?」と、努めて明るく声をかける。
「窓のミントがすごいことなってるでしょ? モロッコミントティーはどう?」
 確かに、水をやるばかりで放置していたスペアミントがやたら生い茂って、ちょっと大変な有り様になっていた。モロッコミントティーに使うのはペパーミントだったような気もしたが、とりあえず「せやな」と同意した旨を告げ、続けて湯を沸かすあいだに葉をむしるよう頼んだ。俺は珠茶と砂糖を用意し、鍋に水を入れて火にかける。湯が沸いた頃、スウェット姿の女友達がミントを持ってきた。
「砂糖どうする?」
「たぁっぷりがいいなぁ」
 女友達は切り取った茎から無造作に葉をむしり、軽く水で濯ぎながら、妙に冗談めかして応える。俺は無言でうなずき、沸いた湯を小ぶりのヤカンに少し入れては捨て、今度は珠茶を入れてまた少し湯を注ぎ、やはり捨てる。そして膨らみ始めた茶葉の上に角砂糖とミントをたっぷり放り込むと、少し高いところから鍋の湯を注ぎ入れた。
 砂糖がじょわじょわ溶け、ミントや茶葉の香りがたちこめる。ヤカンを火にかけひと煮立ち、フタをして中の茶葉が混ざるように回すと、泡が立つようにやや高いところからグラスに注ぐ。卓上には俺と女友達の分、そして余った茶を逃したもうひとつのグラス。茶菓子のマドレーヌは微妙にミスマッチな気もしなくはないが、ないと寂しいのも間違いないところ。
 席についた女友達はさっそくひと口すすり、嬉しそうに「うん、甘いわぁ」とはしゃいでいた。俺もひと口すすると、いかにもお砂糖で御座いますと言わんばかりの安っぽい甘みが、遠慮会釈なく口の中を塗りつぶす。たしかに甘い。ミントの風味が感じられない、あまり嬉しくない甘みだ。ところが、その安い甘みに気を取られていると、背後からスペアミントのささくれだった槍が雑味を突き立てる。たまらずマドレーヌを頬張り、柔らかい甘さでミントの切っ先を丸め込んだ。
 やっぱ、自家栽培はあかん……。
 これじゃ、砂糖の安い甘みで押さえ込まんかったら、かなりエライことなっとった。マドレーヌとミントティーとボヤキを飲み込みつつ女友達の顔をうかがうと、茶にひたした菓子を楽しげに頬張っている。
「本場の味よ。思い出すわ」
「え、そうやって食べるの?」
 女友達はなにも答えず、ただ少し意外そうな色を瞳に浮かべて、もうひとくちマドレーヌを頬張った。
 ミントの香りに隠された焼き菓子のバタ臭さを意識した瞬間、俺も思い出す。そして感じる、俺の内部で進行しつつある異常ななにかを、よみがえる記憶を、素晴らしく心地よい、孤立した、原因不明の快感を、このうえもなくはっきりと思い出したのだ。
「思い出した。俺も。でも、あれはミントティーじゃなかったよ」
「マドレーヌだってこんなに丸くない、貝の形だったしね。でも、小さなこと。それに、このお茶は本当に本場の味がするわ」
「そうなんだ」
「うん、カサブランカで最初に飲んだ時に、ちょっとがっかりしたこと、それを思い出した。けど……」
「けど?」
「もうひとつ、もっと大事なこと思い出した」
 俺は無言で身構える。次に来る言葉と、それが引き起こすであろう厄介事はわかっているが、もはやどうすることもできない。ただ、穏やかに受け止め、俺と女友達との気楽な関係を損なわないよう、それだけを考えてる。
「やっぱ、逢うわ。あの子と」
 静かにうなずきながら『それ、思い出したちゃうやろ』とツッコミたいのを我慢する。いや、女友達は思い出したのかもしれない。逢いたいという気持ちを運んできたなにか、俺にはわからないなにか。
 もともと、女友達がどこで誰と逢おうが、俺には関係ないことだ。
 それが俺との関係より優先するものでなければ、あるいは俺に影響が及ぶものでなければ、俺は全く感知しない。
 だが、今回は違う。
 今度の相手は、まだ学生だった。

その2:彼岸の向こうへ消え去ったプレミアムグラノーラ

 秋の彼岸というのにジリジリと蒸し暑い夜、薄壁一枚むこうの台所で通話中の女友達を気遣いネットテレビの窓をたたみ、複数ソーシャルメディアを一括表示するクライアントを前面に出す。わずかの間に未読が山をなしていた。嫌な予感を確かめるようにタイムラインを流すと、在日だの巨大掲示板だのまとめサイトだのといった文字列が目に止まる。どうやら火元の雑居ビルにはコリアンパブと朝鮮系の金融機関が入居していたらしく、既にネットの話題はその方向へ持って行かれたようだ。
 そのうえ、やはりというかなんというか、すでにテロや放火の噂も出ている。
 考えうる限り最悪の反応に顔をしかめ、ネットテレビをミュートしつつ映像の再生を再開すると、投光機に照らされた濃厚な煙が線路上へたなびいていた。どうやら火は消えたらしいが、このぶんじゃ終電まで復旧はしないだろう。
「新しい情報はある?」
 携帯を片手に部屋に入るなり、女友達が声をかけてくる。
 襟元に視線を吸着させる深い谷間は、なんど見ても素晴らしく、そして気持ちを高ぶらせてもくれる。重く大きく張り出した乳をかろうじて支える地味なブラも、シャツの向こうから俺を誘っていた。
「特に無いよ。どうやら鎮火しつつあるっぽいけど、煙はおさまってないね」
 ネット雀の馬鹿騒ぎには触れず、続けて犠牲者が増えていることと交通機関は復旧が遅れていることを添えた。
「みたいね、いまダンナも仕方ないって言ってくれた」
 ライブ会場の出口で、スタッフが火災が原因で運休になったとアナウンスしているのを聞き、その場でこっちへ電話したところまでは良かったが、そのままこの時間になるまでダンナへは繋がらなかったそうだ。なので俺もかなり気になっていたから、女友達の話を聞くと少しホッとする。
「夕食まだやろ? おなかすいてない?」
「そうね……すいてなくはないんだけど、先に汗と化粧を落としたいかな。シャワー借りていい?」
「もちろん! じゃ、浴びてから食べる?」
「微妙な感じ。もし、食べてないなら先に済ませてて」
「いや、俺もう食っちゃってるから大丈夫」
「よかった。ライブの後っておなかすいても受け付けないのよ」
 言いながら、女友達は早くも脱ぎ始めていた。
 曖昧にうなずきながら女友達にタオルを手渡し、汗を吸ったロゴ入りシャツやジーンズを受け取って洗濯カゴへ放り込む。
 やがて、浴室から楽しげな鼻歌と低いため息の混じった水音が聞こえ始め、俺はちょっと安心しながら寝床支度に手を付けた。マットレスを敷いてシーツをかけ直し、ベッドサイドテーブル代わりの折りたたみ机を広げる。ティッシュを用意したところで、ゴムと水をどうするか考える。疲れてるだろうし、最近は学生クンにご執心っぽいから、今夜の行為はないだろうけど、こっちからやらないポーズをみせるのはちょっと悔しい。
 結局、ティッシュの下にゴムをはさんで、飲み水はパスってことにした。
 それよりノート機の電源を切らなければならない。
 なにせ女友達に内緒でソーシャル関連アカウントの監視ボットを仕込んでる。もし女友達のアカウントから警戒ワードや画像が投稿されればこの監視アカウントに通知される。もちろん問題の学生も同様というか、むしろそいつがはっちゃけて【性交自撮り動画】でも投稿されたらかなわんから、わざわざボットを仕込んだわけだ。
 これはリベンジポルノ対策もさることながら、それより学生の親がしゃしゃり出て法律沙汰にされる方がはるかに恐ろしい。なにが恐ろしいと言って、学生男子は社会的、法律的トラブルを全く考えてないっぽいから、その場の勢いでネットにアップしかねないところだ。
 このご時世、ハメ撮り画像ほど効果的な社会的殺人手段はないし、実際にハメ撮り画像で沈められた奴を知っている。やばい話ついでに言うなら、俺も邪魔者をハメ撮り画像で沈めたことがある。そんなわけで女友達への裏切りは重々承知の上、俺は昔の仲間に監視ボットの設置を依頼した。
 情報はリアルタイムでほしいものの、バレたらただじゃすまないヤバさなので、通知先はこのノート機と仕事場のマシンにして、携帯へはメールという回りくどいギミックを仕込んだ。こんな事情でマシンを終了させるのだが、念には念を入れて立ち上げた時に通知が表示されないよう設定し直す。
 シャットダウンを選択して終了シークエンスが始まるのと、パンツをはいただけの女友達が髪をふきながら部屋に入ってくるのは、ほとんど同時だった。
「今日、邪魔だった?」
「ううん大丈夫、邪魔だったら先に言ってるし」
「だよね、ドライヤ借りてもいい?」
「借りるもなにも、前から置きっぱのがあるじゃん」
「あひゃ! そうだったっけ?」
 俺はメッシュチェアに座り直して、デスクトップ機の馬鹿でかいモニタへ目線を向けるが、なんとはなしに気まずくてネットテレビにもソーシャルのタイムラインにも焦点が合わない。
 女友達は髪を乾かしながら器用に携帯をタッチ、矢継ぎ早になにか入力している。やがて、甲高い着信音が響くと、女友達はドライヤを止めて小さなため息ひとつ。画面を見もせず端末のボタンを長押し、気ぜわしくタッチとスライドしてバッグへ仕舞いこんだ。
 再びドライヤの熱風が巻き起こり、シャンプーやコンディショナの甘い香りを漂わせると、俺はデスクトップ機の電源を落として台所へ向かう。すぐに髪を乾かす気配が消え、女友達が後を追ってきた。
「ゴメンね。気を使わせちゃった」
「いや、大丈夫だよ。そっちこそ大丈夫? ダンナじゃないの?」
「ううん、違うし、いいの。それより、いまは気持ちよくなりたいな」
 シャツ越しでもはっきりと分かる柔らく豊かかな肉の量感と、耳元の甘やかな吐息で、ちょっとふてくされたような俺は軽々と吹き飛ばされ、もうすっかりその気になってしまう。
「乾かさなくて大丈夫?」
「タオル巻くから大丈夫」
「俺、まだ風呂……」
 風呂あがりのパンツ姿で、女友達が唇をふさぐ。

 そそくさと部屋着を脱いで、マットレスへ倒れこむ。
 女友達は既に全裸だ。
 いや、頭に大げさなタオルを巻いた日焼け肌と豊かな乳房は、どこか砂漠の民めいたエキゾチシズムをかもしている。女友達の手をとって抱き寄せ、静かに唇を絡めると、反対に歯の間を割りこむように舌を差し込まれた。さらに、むさぼるとしか言いようのない激しさで舌をくねらせ、女友達からきつく俺を抱きしめる。

 いつもの快楽。女友達も疲れていたのか、お互い雑で省力運転だけど、それでも十分に堪能できる、そんな関係が心地よかった。
 そして、俺はゴムをティッシュでくるんで枕元へ転がし、賢者のひとときを楽しみながら眠ってしまう。

 誰かが立ち上がった気配で目を覚ました。
「ありゃ、起こしちゃった?」
 上から女友達の声がする。寝転んだまま見上げても、顔は乳に隠れて見えない。
「ああ、そうかもしれない。気にしないで」
「わかった。もう遅いけど、またお風呂借りてもいい?」
「いいよ。ビルには俺達しかいないし」
「お風呂まだだったでしょ。いっしょに入る?」
 つい深読みしたくなるような笑顔で女友達はタオルを拾い上げ、器用に頭へ巻きつけながら風呂場へ向かった。俺も立ち上がり、しっとりと汗ばんだ背中を追いかける。浴室に入ると、シャワーが温度を確かめていた女友達が、無言で俺を抱き寄せた。
 ふたり抱き合ってシャワーを浴びる。まるで映画のようだが、自分がやってるぶんには照れくさくもない。それどころか、乳が中年おやじの出っ腹を隠してくれるから、むしろ好ましいぐらいだった。
「しばらくぶりね」
 早くも軽く勃起した乳首を押し付けながら、女友達がささやきかける。おいおい、もう一勝負か?
 悪くはないけど、いささか意外だった。
「足りんかった?」
「うぅん。足りたよ。でも、もうひと口、別腹もほしいかなぁ」
「大丈夫、疲れてない?」
 気遣いながらも、欲望の根がむくむくと起き上がる。女友達は下腹に当たるソレへ手を伸ばし、静かにしごき始めた。
「洗ったげる」
「さっき、臭かったろ?」
「ふふ、ちょっとね。でも、いいの。好きなニオイだから」
 身をくねらせてボディソープを泡立てた女友達は、優しくペニスへまぶしつける。
「けっこうたまってたでしょ? ご無沙汰だった?」
「わかるの?」
「たまってるとね、オス猫のニオイがするのよ」
 軽く鼻を膨らませて上目遣い。女友達のこういうところが、愛しくてたまらなかった。
 他愛のないやり取りをはさみつつ、それぞれしっかり体を洗って浴室を出ると、軽い空腹感を覚えた。
「食べてないでしょ? 軽くなにかどう?」
「うんと、菓子パンとかあるならね。料理するぐらいなら別にいいかな」
「グラノーラがある」
「じゃ、それ」
 とりあえず体をふいてパンツをはき、エプロンを身につけて甘いグラノーラをボールへよそう。隣から断続的に聞こえ始めた着信音が鳴り止まず、ちょっと不安になり始めた頃になってようやく収まった。
「大丈夫?」
「気にしないで、全部メッセだから」
「まだ牛乳かけてないし、返事するなら待つよ」
「ううん、しない。まだ起きてるだろうし、下手にかまっちゃうとさ」
 心底めんどくさそうにため息をひとつつくと、女友達は手早くシャツとパンツを身につけ、テーブルに頬杖つきながら「食べよか」と微笑む。
 ふたつのシリアルボウルへ牛乳を注ぎ、もそもそ食べ始めた。途端、女友達は嬉しそうな声を上げる。
「これ、プレミアムシリーズでしょ?」
 口いっぱいのグラノーラを頬張ったまま、曖昧に頷き返すと「大好きなの。家の買い置きはダンナに食われちゃったけどね」ときた。
「ダンナの育成は完全失敗、自分のものと私のものの区別つかないの。とくに時間とか手間とか、他人がやってるぶんは計算しないのね。でも、私の趣味も悪いんだろうな。あの子もこんな調子だから……」
 女友達はめったに家庭や夫のことを口にしないが、話すときはほぼ間違いなく愚痴かボヤキだった。ダンナはかなり年下らしいが、それ以外のことはなにひとつと言ってもいいほど知らない。
 ただ、かつて女友達が仕事を再開した直後ぐらいの時期、夕食を用意してでかけたら全く手を付けず、ふてくされたダンナから『女は外で仕事しても、夕方までに帰って家事をこなすのが常識』って説教されたそうだ。それがきっかけとなって、帰宅が遅くなる時もダンナには食事を用意しないという話もふくめ印象的で、女友達に深く共感したことをはっきり覚えている。
 しかし、ダンナが抱える暗い欲望、自らへ向けられた配慮や行為をあえて踏みにじりたい。どれほどぞんざいに扱われてもなお、その相手は自分へ好意を持ち続けてくれる、あるいは持ち続けなければならないこと、それが無償の愛であると信じ、自らがそれを授けられる存在であること誇示したい。
 そんな手前勝手で子供じみた欲望は、もしかしたら例の学生にも存在するのか?
 いや、未成熟な子供じみた感情だからこそ、学生クンは疑いを抱くことなく、それを女友達へぶつけているのではないか?
 女友達の自虐めいた愚痴からは、単なるボヤキを超えたなにかを感じてしまう。
 たかがメッセラッシュとはいえ、気にならないとはいえなかった。
 俺も年下と関係を持ったことがないわけではない。いや、この歳になると基本的に年下を探すことになるのだが、それでもある程度の人生経験というか、精神的に成熟したなにかがないと、俺の負担が大きくてかなわんという実感はあった。
「若い子は甘えと束縛の意味がわかってないのよ。違いじゃなくてね、それぞれの意味がね。まだわからないの」
「せやな」
 雑であいまいな相づちを打ちながらも、聞き流せなかった女友達の言葉が深く胸に染み渡っていく。たぶん、若い子と関係をもつということは、その区別のつかなさを引き受けるということなのだろう。それは男も女友達も関係ない、ヘテロとかクイアとか、そういう問題でもない。
 若い子は自立できてないのだから、区別なんかつくわけがない。単にそれはもう仕方がないこと。
 なかには自立した若い子もいなくはない。でも、はやく自立した子は年上なんか見向きもしない。反対に「マイ・フェア・レディ」を育てゲーのごとく誤解し、夢見る人々こそ後を絶たない。あの作品は教授が娘に籠絡され、依存する物語というのに、そこを理解しない。だから、まずうまくいった試しはないし、まかり間違って若い子を自立させてしまうと、たちまち年長者の元から離れてしまう。
 昭和時代の歌謡曲をプレイバックしたくなったが、あまりにあまりなのでやめる。代わりにもっとはっきり、それでいて棘を含ませないように「甘えたい時だけ甘えさせてくれる都合のいい相手って、演じてる方も楽しかったりするわな」と、静かにその場へ言葉をおいた。
「うん、たのしいよ。だからずっと甘えさせていたいけど、甘えさせてあげるのが理想だけど、でもいつか、きっとどこかで耐えられなくなる」
「そういう時は?」
「わかってるでしょ?」
 俺の目を覗きこむように、女友達は微笑んだ。
 そう、わかっている。俺も女友達も、互いをはけ口にしている。だから、この場に若い子へ嫉妬の炎を燃やす中年はいない。むしろ、必死に絡みついているのは学生クンだ。皮肉なことに、怯えた彼がしがみつけばつくほど、反対に女友達は遠ざかってしまう。
 中年男の俺は、そういう色恋に限らず、人間関係の機微を若い子が知らないことを知ってる。そして、彼らが想像もつかない世界も知ってる。
 もし、若い子が望めば、見せてあげよう。俺にはできる。
 しかし、若い子は決して俺が見せる世界を望まないし、俺もそんな指導者じみたなにかは望んでいないことを自覚できないほど若くはない。
 その点、女友達は本当にうまくやってると思う。教えることが好きなのか、見せ方がうまいのか、まぁその両方だろうが……。
 甘え下手な学生クンの話を聞き流しながら、底に沈んでいたドライフルーツをすくい取る。牛乳をたっぷり含んでグミめいた粘りを感じるものの、それでもなにかを食べてる気持ちが芽生える。それにたいして、グラノーラの食感を補う役割のパフは既にとろけて糊状化し始めており、心地よい噛みごたえどころか不快な軟体物質でしかない。奥歯に張り付いた謎物質を舌でこそげ落とそうと顔をしかめながら、女友達はどこで間違ったのだろうかと、そして俺は間違っていなかったのかと、そんなことが頭をよぎった。
 気がつくと、女友達のおしゃべりが止まっている。眠たげに目を伏せながら、ボウルに突っ込んだスプーンを機械的にかき回すだけだ。ただ、既にほぼ食べ終わっていたので、そっと肩に触れ、ゆっくりした口調で「寝ようか」と声をかける。
 女友達は驚いたようにはっと顔を上げ、スプーンをボウルに沈めてしまった。驚かせたことをなだめる俺の声に、女友達の「ごめん、寝ちゃってたね」と照れ笑いがかぶさる。女友達の手を取りつつ、助け起こすように奥の部屋へ連れて行き、マットレスへ寝かせた。年の割に張りのある頬を優しくなでながら「食器だけ水につけるから」と言って、静かに唇を重ねる。
 女友達のボウルに残っていた牛乳やらなにやらを俺のボウルへ合わせ、立ったままぱっぱとかきこんだ。ボウルとスプーンはグラノーラがこびりつかない程度に軽くゆすいで、静かに水を張る。隣をそっとのぞいたら、女友達はすっかり眠り込んでいるようだ。
 寝姿を見下ろしながら、俺が女友達の立場だったらと、そんな考えすらもてあそんでしまう。でも、この俺が若い女友達にぞっこんだなんて……。
 もちろん、猫っぽい娘と俺の関係というか年齢差は、この女友達と学生のそれに近いだろう。ただ、女友達にしたって心底好いているわけではない。むしろ、距離感や相手への冷静さという意味では、俺のほうがよほど猫っぽい娘へ寄り添っているのだ。俺との腐れ縁を続ける女友達との、そして猫っぽい娘と学生の違いはなんだろう?
 いや、違うのは学生だけ、そういうことなんだろうな。
 俺と女友達、そして猫っぽい娘は大人で、己が自由であることを、またその意味を把握している。ところが、学生はその自由さをつかみきれていないのだ。それは、子供としてあたりまえのことでもあるんだけど、猫っぽい娘は束縛されていないことに自覚的で、だからこそ相手を尊重している。それどころか、猫っぽい娘には影響力を行使してしまうこと、それが相手を束縛してしまうことの恐ろしさに立ち止まることさえあった。
 正反対に、学生クンは自分が年上の女友達へ影響力を行使できることに酔いしれ、そして女友達も束縛を受け入れるどころか、お膳立てをしてしまう。それは、ダンナとの関係も同じなのだ。力を受け入れることで、受け入れる方も力を持つ。
 でも、女友達はそんな関係に疲れているのだ。そして、俺は避難所を提供する。
 人間はめんどくさいなと、そんなことを思いながらスウェットを着て、女友達の隣に横たわる。女友達は俺を迎えるかのように寝返りを打ち、手を差し伸べた。起きているのか眠っているのか、そんなことはどうでもよく、ただ手を取って身体をよせる。
 それから、久々に抱き合って眠った。

 次に起きたときは、ほとんど昼前という頃合いだった。
 横の女友達はまだ眠っている。俺は特に予定がなかったので問題ないが、女友達は午後の早い時間に帰らないとまずい、はずだった。それでも女友達を起こさぬよう、そっと立ち上がって端末をブートし、脱水済みの洗濯物をかごへ移し始める。なんとなく洗濯したが、女友達のシャツや下着も混じってるのはどうしたものかと思っていたら、背後に気配を感じた。
「おはようございますぅ」
 扉の向こうから、俺のトランクスとシャツを身に着けた女友達が手を振っている。男物の下着姿はなんど見ても欲情をそそるが、流石にこれから始めるってわけにはいかない。
「大丈夫だった? 仕事?」
 女友達の気づかいに「時差あるから問題ないよ。最近は昼か、昼過ぎまでダラダラしてる」と雑に応えつつ、洗濯物のあつかいをたずねたら。
「取りに来るからおいといて。それよか、前は午前中に全部片付けて、午後から遊んでなかったっけ? それこそ、時差あるからって」
 すっかり油断していたところへ、思いもよらぬ指摘はちょっと痛い。
 そういやぁそうだったかと記憶をたどれば、確かに以前は朝に仕事していた。今のスタイルになったのは女友達が学生クンへシフトしていった少し後だから、違和感あるのもわからなくはない。
 生活の変化は、間違いなく猫っぽい娘に引っ張られたためだが、なぜかそれを話してはならないような、そんな気がした。その代わり、自分でも用意していなかった言葉が、不意に口をつく。
「今度、猫っぽい娘を誘ってどこかいこうか? なんなら、最初に出会ったみたいなトークイベントにでも」
「ふぅん、そうだろうって思ったけどね」
 女友達は日本人離れした大きな目をさらに見開いて、意味ありげだがどこか愉快そうな眼差しを投げつける。
「でもいいや。だって、会いたいから」
 軽く口をとがらせ、ふてくされたように装っても、会いたくて仕方なさそうなところはこれっぽっちも隠れていない。
「わかった。よさそうなイベントあったら送る」
「あ、でも、先にあの娘の予定確認してね」
「もちろん! みんなで会うの、久し振りだしね」
「ほんとよ、会っても寝てるか撮影だったから」
「大丈夫、こんどは仲間はずれにしないよ」
「そうよ、絶対よ!」
 珍しく、女友達は少し顔を赤らめた。

第9話 coming soon