• 『アガパンサスを君に』

  • 星埜 まひろ
    恋愛

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    1年ぶりに会った真里は飄々とした様子で僕に呟いた。理想的な6月の夕暮れだった。真理の背中と北海道の夏の訪れ。僕たちが出会った日もこんな初夏の日だったろうか。ままならない青春の揺らめきが今、風を吹く。

第1話

昨日の献立を突然思い出したかのような口ぶりで、真里は呟いた。

「秋に結婚して、春には福岡に行くの」
「それは、おめでとう」

まさか1年ぶりに会った友人から、そんな大事なことを投げ捨てるように言われるとは思わなかったので、自分でも驚くほど無感情な声が出た。何故か唇はひどく乾いていた。

「うん、ありがとう。ねえ次の信号右に曲がるんじゃないかな」

真里はそれで話はもう済んだとでも言うように、スマホの地図アプリを一生懸命眺めながら、少し先を歩く。

初夏の風をまだ少し肌寒く、でもほんのりと生ぬるい空気が、シャツの裾を通り過ぎていく。理想的な6月の夕方だった。僕は季節の中で6月が1番好きだ。北海道の6月は梅雨がなく、爽やかな空気がそよぐ。大人になってからの方が、そんな季節の美しさがより一層愛おしく感じる気がする。これは自論だが、人間は自分が生まれた季節が1番好きなのではないかと思う。

僕は一昨日25歳になって、真里は昨日25歳になった。誕生日が1日違いなこともあり、19歳の頃から毎年この季節になると、どちらからともなく声を掛け合うのが2人の間で暗黙のルールになっていた。

それにしても、今から落ち着いて近況を話そうと飯屋に向かっているのに、何事もないように大事なことを話す真里は昔から何も変わらない。背筋がピンと伸びているのにどこか自信なさげに見える背中も、初めて会った時のままだ。

高校生活最初の6月、3度目に受けたファストフード店の面接を受けた。愛想は良く無いけど、今はあまり男手が足りないからと若干店長に失礼なことを言われたが、運良くキッチン担当で受かる事ができた。

「ごめん五十嵐君、なんか僕の知らない間に他の社員がキッチンに人補充してたみたいでさ。とりあえず接客してくれるかな」

バイト初日、事務所のドアを開けるや否や、店長は口元だけに笑みを浮かべて、パソコンに顔を向けたまま言った。

「そこの引き出し開けて」
言われた通り、入り口の近くに置いてあった引き出しを開ける。中には青いポロシャツと黒いスラックス、キャップが入っている。

「まずそれに着替えて、あとは何かあったら先に出勤してるバイトの子に聞いてね」
それだけ言うと、あとはもう何も言わなかった。

少し大きめの制服に着替え、事務所を出るとすぐに大きなキッチンがあった。僕の働くはずだった場所だ。恐る恐る通り過ぎると、カウンターに同じ制服を着た人の後ろ姿が見えた。背筋がピンと伸びた人だ。店内にはお客さんらしき人は見当たらなかった。少しホッとした自分がいた。

「あの、今日から入った五十嵐です」
後ろから声をかけると、その人は振り返って、接客のお手本のような笑顔を見せた。あまりにも整った笑顔に、思わず目を背ける。

「初めまして、湯浅です。今日からよろしくお願いします」
声の大きな人だな。真里に対して思った最初の印象がそれだった。しばらくしてから思ったことは、最初に見た笑顔は、接客によるものじゃないということくらいだ。

彼女の下の名前を知ることになるのも、同い年だと知るようになるのも、誕生日が1日違いだと知るのも、そう時間は掛からなかった。

真里は隣町の進学校に通っていた。違う高校の制服を着た彼女はやけに大人びて見えた。

同い年がバイト先にいない事や、音楽の趣味が合うこともあり、僕たちは割とすぐに仲良くなった。雪が降るまでは、バイト先から2人で自転車で帰るまでの仲にまでなった。誘ってくれたのは真里からだった。高校生よりも大学生や専門学生のバイトが多かったことから、真里とシフトの時間が被ることが多く、そうなると退勤時間はいつも一緒だった。

僕の家と真里の家は正反対の場所にあった。だが、僕はそれを隠したまま、彼女を家まで送った。言うタイミングを失ったというのもあるが、言う必要も感じなかった。冬になると僕は電車に乗り、真里はバスを使ってバイト先に出勤していたので、一緒に帰ることはなかった。なぜバスで帰らないのと彼女が聞くこともなかった。真里は余計なことは聞かない。ただ、必要なことを言ってくれる人だった。

第2話 

真里はとにかくいつもよく笑っていた。その笑顔は少しも嫌味がなく、どんな時でも周りを明るくしてくれた。僕がバイトでミスをしてしまった時に、厨房の隅で肩を落としていると「大丈夫だよ。私もいつもミスするし、そんなに気にすることないよ。次、頑張ればいいじゃん」といつもフォローしてくれた。真里に励まされると、冷や汗さえもスッと引いていった。僕に対してだけじゃなく、誰にでも平等に優しかったので、バイト先の全員と親しかった。彼女のことを悪く言う人は、店には1人もいなかった。

「真里はいつも色んな人に優しくしてすごいよな」
店が混んでいなかったので、2人で洗い物をしていた時、特に何も考えず、真里のいつもの様子について口にした。

「優しくなんてないよ」
そこにいつもの屈託のない笑顔はなかった。むしろ少し怒ったような低い声だった。

「そんなに真面目な顔で否定するなよ」

「和幸は大げさだよ。私なんて何の取り柄もないのに」

僕の冗談じみた言葉を真っ向から否定して、真里は黙々と洗い物をこなす。
真里がこんなふうに自虐的になっているのは初めてだった。

「それこそ大げさだと思うけど」

誰からも愛されて、いつも明るく人を照らしている真里に何の取り柄もなかったら、僕なんてどうしたものか。そんな気持ちを抱えて、僕はしつこく食い下がった。悔しかったのだ。

「そんなことないよ、どこにでもいるありふれた16歳だよ」

真里みたいな優しい女の子がありふれているならば、それはすごいことだ。などと言えるわけもなく、僕はそのまま黙ってさっきまで凍ったポテトが入っていたタッパを洗い続けた。

それからも何度か僕は真里のことを褒めたことがある。その度に毎回真里は僕を大げさだと言った。真里は卑屈というわけではないが、いつも自分の話になると何かに遠慮するように怒ったような顔をした。
 

そしてまた6月がやってきて、僕たちはすぐに17歳になった。どちらからともなく声をかけ合い、自転車で2人で家まで帰るようになった。

「あのさ、和幸」

真里が前の方で僕の名前を呼ぶ。よく通る大きな声だ。

「うん?」

わざとゆっくりペダルを漕ぎながら、ぐんぐんと進む緑色の自転車に返事をする。真里はいつも自転車を漕ぐのが早い。

「私、町田さんと別れた」

今度は僕の耳にギリギリ届くくらいの声で、ぼそっと呟いた。

「え?」

はっきりと言葉は耳に届いていたくせに、間抜けな声が喉から飛び出す。まさか自転車を漕ぎながら、そんな深刻な話をされると思っていなかったからだ。

町田さんは、僕と真里よりも3つ年上の専門学生で、背が高くて焼けた肌に白い歯がよく似合う、典型的なスポーツマンだった。町田さんは人当たりも良く、仕事もできて誰にでも優しかった。真里を慕うように、皆が町田さんを慕っていた。僕以外は。

町田さんは確かにいい人だと思う。仕事が遅い僕のフォローもたくさんしてくれる。でも、なんだかあの白い歯をむき出しにした笑顔は気味が悪かった。真里の笑顔とはなんとなく違うような気がするのだ。ただ、とくにこれといった取り柄のない僕がそんなことを言っても、人気者に嫉妬していると思われるだけなので、バイト先の人にそんなことを言ったことはない。もちろん真里にも。

高校1年生の終わり頃、春休みが始まる1週間前くらいのことだ。僕と町田さんの2人だけの日のシフトの時があった。僕らは店の隅々を掃除しながら、他愛もない話をしていた。

「和くんってさ、真里と付き合ってるの」
「いや、付き合ってないですよ」

急に町田さんが真里の名前を出したので、驚いた。これまで一度もその話題が出たことはなかった。

「だって一緒に帰ったりしてるんでしょ」
「方向が一緒なだけです」

本当は反対方向だが、何か言われても面倒なので、嘘をつく。

「ふうん、じゃあ真里のことなんとも思ってないんだ」
「思ってないですね」

そもそもなんで親しくもないのに、人のことを下の名前で呼んだりあだ名をつけてるんだよ。とは思ったが、もちろんそんなことは口にはしない。

町田さんは「そうかそうか」と口元だけに笑みを浮かべて頷きながら、僕の肩をポンと叩いた。

その次の日からだ、真里と町田さんが付き合っているという噂が店中に流れたのは。当の本人達は否定も肯定もせずに、いつもと同じように過ごしているので、誰も噂の真相を確かめることが出来なかった。僕の耳にも、もちろん噂は入ってきたが、真里に聞くことはしなかった。もし、噂が本当なら真里から直接言ってくれるものだと思っていたし、そんな噂が流れていても、僕と真里は一緒に帰った。いつもと変わらず、流行りのバンドの話をして、真里の家の前で別れた。そんないつもと変わらない日々で、僕が聞けることなんて何もなかった。

そして僕は、真里と町田さんの交際事実をはっきりと知らないまま、別れたことだけを本人から聞かされたわけだ。なぜ付き合っていたことは言わないのに、別れたことだけを報告してくるのかはわからなかったが、それ以上に、随分他人事のように言うもんだから、気の利いた言葉も思いつかない。 

「あーあ、今年の夏休みは暇になっちゃうかもな」
「シフトいっぱい入れればいいよ」

ふざけたような大きな声が前から聞こえて、ほっとした気持ちになる。

「やだよ、疲れちゃうじゃん」
少し間が空いて、笑ったように呟いた。

町田さんと会いたくないからとは、言わないんだな。
意地悪い気持ちをぐっと抑えつつも、別れた男に気を使う底抜けの優しさに嫌気がさしてきた。

「じゃあ、僕と遊ぶか?」
前の方で懸命に自転車を漕いでいる真里の顔は見えない。風は急に弱まって、僕の小さい声がやけに大きく感じた。

「和幸の彼女に悪いからなあ」
いつもと同じ柔らかな声と、ペダルの音がカラカラと響く。

その瞬間、揚げたてのポテトの匂いを確かに感じた。そんなことあるはずがないのはわかっている。

気がつくと、手汗でハンドルを持つ手が濡れている。まだ夏は始まっていないのに、妙に体は汗ばんでいた。

僕に、彼女はいない。そんな話をしたことはただの一度もなかった。

「なんだよそれ」
わざと曖昧に笑う。真里は一度も振り返らない。

その日を境に、真里に優しいと言うのをやめた。優しいと簡単に褒められないほど、真里は底抜けに優しすぎるのだ。