『アガパンサスを君に』
星埜 まひろ著
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1年ぶりに会った真里は飄々とした様子で僕に呟いた。理想的な6月の夕暮れだった。真理の背中と北海道の夏の訪れ。僕たちが出会った日もこんな初夏の日だったろうか。ままならない青春の揺らめきが今、風を吹く。第1話
昨日の献立を突然思い出したかのような口ぶりで、真里は呟いた。
「秋に結婚して、春には福岡に行くの」
「それは、おめでとう」
まさか1年ぶりに会った友人から、そんな大事なことを投げ捨てるように言われるとは思わなかったので、自分でも驚くほど無感情な声が出た。何故か唇はひどく乾いていた。
「うん、ありがとう。ねえ次の信号右に曲がるんじゃないかな」
真里はそれで話はもう済んだとでも言うように、スマホの地図アプリを一生懸命眺めながら、少し先を歩く。
初夏の風をまだ少し肌寒く、でもほんのりと生ぬるい空気が、シャツの裾を通り過ぎていく。理想的な6月の夕方だった。僕は季節の中で6月が1番好きだ。北海道の6月は梅雨がなく、爽やかな空気がそよぐ。大人になってからの方が、そんな季節の美しさがより一層愛おしく感じる気がする。これは自論だが、人間は自分が生まれた季節が1番好きなのではないかと思う。
僕は一昨日25歳になって、真里は昨日25歳になった。誕生日が1日違いなこともあり、19歳の頃から毎年この季節になると、どちらからともなく声を掛け合うのが2人の間で暗黙のルールになっていた。
それにしても、今から落ち着いて近況を話そうと飯屋に向かっているのに、何事もないように大事なことを話す真里は昔から何も変わらない。背筋がピンと伸びているのにどこか自信なさげに見える背中も、初めて会った時のままだ。
高校生活最初の6月、3度目に受けたファストフード店の面接を受けた。愛想は良く無いけど、今はあまり男手が足りないからと若干店長に失礼なことを言われたが、運良くキッチン担当で受かる事ができた。
「ごめん五十嵐君、なんか僕の知らない間に他の社員がキッチンに人補充してたみたいでさ。とりあえず接客してくれるかな」
バイト初日、事務所のドアを開けるや否や、店長は口元だけに笑みを浮かべて、パソコンに顔を向けたまま言った。
「そこの引き出し開けて」
言われた通り、入り口の近くに置いてあった引き出しを開ける。中には青いポロシャツと黒いスラックス、キャップが入っている。
「まずそれに着替えて、あとは何かあったら先に出勤してるバイトの子に聞いてね」
それだけ言うと、あとはもう何も言わなかった。
少し大きめの制服に着替え、事務所を出るとすぐに大きなキッチンがあった。僕の働くはずだった場所だ。恐る恐る通り過ぎると、カウンターに同じ制服を着た人の後ろ姿が見えた。背筋がピンと伸びた人だ。店内にはお客さんらしき人は見当たらなかった。少しホッとした自分がいた。
「あの、今日から入った五十嵐です」
後ろから声をかけると、その人は振り返って、接客のお手本のような笑顔を見せた。あまりにも整った笑顔に、思わず目を背ける。
「初めまして、湯浅です。今日からよろしくお願いします」
声の大きな人だな。真里に対して思った最初の印象がそれだった。しばらくしてから思ったことは、最初に見た笑顔は、接客によるものじゃないということくらいだ。
彼女の下の名前を知ることになるのも、同い年だと知るようになるのも、誕生日が1日違いだと知るのも、そう時間は掛からなかった。
真里は隣町の進学校に通っていた。違う高校の制服を着た彼女はやけに大人びて見えた。
同い年がバイト先にいない事や、音楽の趣味が合うこともあり、僕たちは割とすぐに仲良くなった。雪が降るまでは、バイト先から2人で自転車で帰るまでの仲にまでなった。誘ってくれたのは真里からだった。高校生よりも大学生や専門学生のバイトが多かったことから、真里とシフトの時間が被ることが多く、そうなると退勤時間はいつも一緒だった。
僕の家と真里の家は正反対の場所にあった。だが、僕はそれを隠したまま、彼女を家まで送った。言うタイミングを失ったというのもあるが、言う必要も感じなかった。冬になると僕は電車に乗り、真里はバスを使ってバイト先に出勤していたので、一緒に帰ることはなかった。なぜバスで帰らないのと彼女が聞くこともなかった。真里は余計なことは聞かない。ただ、必要なことを言ってくれる人だった。
第2話
真里はとにかくいつもよく笑っていた。その笑顔は少しも嫌味がなく、どんな時でも周りを明るくしてくれた。僕がバイトでミスをしてしまった時に、厨房の隅で肩を落としていると「大丈夫だよ。私もいつもミスするし、そんなに気にすることないよ。次、頑張ればいいじゃん」といつもフォローしてくれた。真里に励まされると、冷や汗さえもスッと引いていった。僕に対してだけじゃなく、誰にでも平等に優しかったので、バイト先の全員と親しかった。彼女のことを悪く言う人は、店には1人もいなかった。
「真里はいつも色んな人に優しくしてすごいよな」
店が混んでいなかったので、2人で洗い物をしていた時、特に何も考えず、真里のいつもの様子について口にした。
「優しくなんてないよ」
そこにいつもの屈託のない笑顔はなかった。むしろ少し怒ったような低い声だった。
「そんなに真面目な顔で否定するなよ」
「和幸は大げさだよ。私なんて何の取り柄もないのに」
僕の冗談じみた言葉を真っ向から否定して、真里は黙々と洗い物をこなす。
真里がこんなふうに自虐的になっているのは初めてだった。
「それこそ大げさだと思うけど」
誰からも愛されて、いつも明るく人を照らしている真里に何の取り柄もなかったら、僕なんてどうしたものか。そんな気持ちを抱えて、僕はしつこく食い下がった。悔しかったのだ。
「そんなことないよ、どこにでもいるありふれた16歳だよ」
真里みたいな優しい女の子がありふれているならば、それはすごいことだ。などと言えるわけもなく、僕はそのまま黙ってさっきまで凍ったポテトが入っていたタッパを洗い続けた。
それからも何度か僕は真里のことを褒めたことがある。その度に毎回真里は僕を大げさだと言った。真里は卑屈というわけではないが、いつも自分の話になると何かに遠慮するように怒ったような顔をした。
そしてまた6月がやってきて、僕たちはすぐに17歳になった。どちらからともなく声をかけ合い、自転車で2人で家まで帰るようになった。
「あのさ、和幸」
真里が前の方で僕の名前を呼ぶ。よく通る大きな声だ。
「うん?」
わざとゆっくりペダルを漕ぎながら、ぐんぐんと進む緑色の自転車に返事をする。真里はいつも自転車を漕ぐのが早い。
「私、町田さんと別れた」
今度は僕の耳にギリギリ届くくらいの声で、ぼそっと呟いた。
「え?」
はっきりと言葉は耳に届いていたくせに、間抜けな声が喉から飛び出す。まさか自転車を漕ぎながら、そんな深刻な話をされると思っていなかったからだ。
町田さんは、僕と真里よりも3つ年上の専門学生で、背が高くて焼けた肌に白い歯がよく似合う、典型的なスポーツマンだった。町田さんは人当たりも良く、仕事もできて誰にでも優しかった。真里を慕うように、皆が町田さんを慕っていた。僕以外は。
町田さんは確かにいい人だと思う。仕事が遅い僕のフォローもたくさんしてくれる。でも、なんだかあの白い歯をむき出しにした笑顔は気味が悪かった。真里の笑顔とはなんとなく違うような気がするのだ。ただ、とくにこれといった取り柄のない僕がそんなことを言っても、人気者に嫉妬していると思われるだけなので、バイト先の人にそんなことを言ったことはない。もちろん真里にも。
高校1年生の終わり頃、春休みが始まる1週間前くらいのことだ。僕と町田さんの2人だけの日のシフトの時があった。僕らは店の隅々を掃除しながら、他愛もない話をしていた。
「和くんってさ、真里と付き合ってるの」
「いや、付き合ってないですよ」
急に町田さんが真里の名前を出したので、驚いた。これまで一度もその話題が出たことはなかった。
「だって一緒に帰ったりしてるんでしょ」
「方向が一緒なだけです」
本当は反対方向だが、何か言われても面倒なので、嘘をつく。
「ふうん、じゃあ真里のことなんとも思ってないんだ」
「思ってないですね」
そもそもなんで親しくもないのに、人のことを下の名前で呼んだりあだ名をつけてるんだよ。とは思ったが、もちろんそんなことは口にはしない。
町田さんは「そうかそうか」と口元だけに笑みを浮かべて頷きながら、僕の肩をポンと叩いた。
その次の日からだ、真里と町田さんが付き合っているという噂が店中に流れたのは。当の本人達は否定も肯定もせずに、いつもと同じように過ごしているので、誰も噂の真相を確かめることが出来なかった。僕の耳にも、もちろん噂は入ってきたが、真里に聞くことはしなかった。もし、噂が本当なら真里から直接言ってくれるものだと思っていたし、そんな噂が流れていても、僕と真里は一緒に帰った。いつもと変わらず、流行りのバンドの話をして、真里の家の前で別れた。そんないつもと変わらない日々で、僕が聞けることなんて何もなかった。
そして僕は、真里と町田さんの交際事実をはっきりと知らないまま、別れたことだけを本人から聞かされたわけだ。なぜ付き合っていたことは言わないのに、別れたことだけを報告してくるのかはわからなかったが、それ以上に、随分他人事のように言うもんだから、気の利いた言葉も思いつかない。
「あーあ、今年の夏休みは暇になっちゃうかもな」
「シフトいっぱい入れればいいよ」
ふざけたような大きな声が前から聞こえて、ほっとした気持ちになる。
「やだよ、疲れちゃうじゃん」
少し間が空いて、笑ったように呟いた。
町田さんと会いたくないからとは、言わないんだな。
意地悪い気持ちをぐっと抑えつつも、別れた男に気を使う底抜けの優しさに嫌気がさしてきた。
「じゃあ、僕と遊ぶか?」
前の方で懸命に自転車を漕いでいる真里の顔は見えない。風は急に弱まって、僕の小さい声がやけに大きく感じた。
「和幸の彼女に悪いからなあ」
いつもと同じ柔らかな声と、ペダルの音がカラカラと響く。
その瞬間、揚げたてのポテトの匂いを確かに感じた。そんなことあるはずがないのはわかっている。
気がつくと、手汗でハンドルを持つ手が濡れている。まだ夏は始まっていないのに、妙に体は汗ばんでいた。
僕に、彼女はいない。そんな話をしたことはただの一度もなかった。
「なんだよそれ」
わざと曖昧に笑う。真里は一度も振り返らない。
その日を境に、真里に優しいと言うのをやめた。優しいと簡単に褒められないほど、真里は底抜けに優しすぎるのだ。
第3話
それからの日々はすごく早く過ぎていった。あっという間に2度目の冬を終え、僕と真里は高校3年生になろうとしていた。
春休みに入り、慌ただしく昼も夜もバイトに開け暮れていた。店内では、学校を卒業する人や、就職する人の話題で賑わっている。その話題の中心には町田さんもいた。専門学校を卒業した後、スポーツ用具店の営業をするらしい。
町田さんがいなくなることに、僕は内心でガッツポーズをしながらも、本人に向かっては「寂しくなりますね」なんてわざとらしい言葉を言ったりした。町田さんも「俺も寂しいよ」なんて涙ぐんだ振りをしていた。町田さんが心のなかで何を思っていたかなんて知らないが、絶対に寂しくなんて思って無いことは確かだ。
町田さんの最後の出勤日の日は、北海道の3月にしては暖かかった。
その日は社員の1人と、僕と町田さん、あとは音大生の先輩が出勤していた。最後に町田さんに会おうと、シフトが入っていないバイト仲間の人たちも、何人か店に遊びに来ていた。どうやらバイトのあとに町田さんの送別会をする予定らしく、町田さんは少し早く上がるらしい。僕はもちろん行く予定がなかったので、いつもどおり21時まで働くことになっていて、この時間が町田さんと会話する最後の瞬間だった。
「じゃあね和くん、色々とありがとう」
「こちらこそありがとうございました。今日は送別会に行けなくてすみません」
申し訳無さそうに見えるように、少し困り顔をして謝罪をする。
「気にしないでよ。和くんは多忙なんだし仕方ないよ」
町田さんはいつものように笑う。まるで目以外の全身を使って笑顔を作るように。最後まで爽やかな青年の仮面を被ったまま。
「じゃあ、お先に」
会釈をして、町田さんは厨房を後にする。町田さんが事務所に向かうまでの時間は、一瞬のはずなのに、スローモーションのように感じた。背中が、呼吸している。その大きな背中に真里も触れたんだろうかなんて思いながら、僕は初めて彼らの交際を実感していた。
「あ、そうだ」
大きな背中を見つめていると、町田さんはくるっと振り向いて、僕のもとに戻ってきた。
「ちょっと恥ずかしいんだけどさ、皆に手紙を書いたんだ。事務所のテーブルの上にあるから、和くんも読んでね」
「あ、はい」
ニコニコと本当に楽しそうにそれだけ言うと、町田さんは今度こそ厨房を出て行った。今度は一瞬で背中は消えていった。
町田さんが帰宅してから、いつも通り黙々と時間いっぱい仕事をした。その日の業務を終え、まだ働いていた先輩と社員に軽く挨拶をする。少し締め付けがきついキャップを外しながら、事務所へと歩いた。
事務所の明かりをつけると、いつも何も置いていない殺風景なテーブルの上にたくさんの封筒が置かれていた。多分、町田さんが書いたものだ。
丁寧に宛名が書かれた封筒を1つ1つ確認する。今日バイト先に遊びに来ていた人の分は、既になかった。
それと、僕宛の手紙も置いてはいなかった。
見間違いかもしれないと、何度も封筒を確認したが、僕の名字は見当たらない。
ああ、やっぱり。
手紙がない悲しみよりも、町田さんが最後にいい奴をやめてくれたという事実に、救われたような気がした。最後に見せてくれた満面の笑みも、今なら意味がわかる気がする。でもそっちの方がよっぽどいい。いい奴の振りをして、それを良いことだと思っているような、そんな素振りをして、誰かを狙い澄ましているような、町田さんが嫌いだった。
町田さんがいい奴をやめたからって、悪い人なわけではない。自分が狙っている女が、他の男と仲睦まじく帰っている姿など見て、いい気分になるわけがない。嫌な気持ちになるのは当たり前のことだし、町田さんが僕に手紙を書かなかったことは、今までの優しさもどきよりも、正しい気がする。きっと僕が町田さんの立場になっても、同じことをするような気がする。
ただ、自分の勘が当たった喜ばしさよりも、やっぱり嫌われていたんだという、他人の悪意に戸惑いも感じていた。僕の予想が当たったことは嬉しいが、それが外れていて、町田さんはただ本当に優しいだけで、僕が妬ましく思っているだけの現実の方が良かった気さえしてくる。僕はただの17歳だった。
ふと、1番端っこにあった封筒が目についた。『真里へ』と書かれている。それは他の苗字にさんづけで書かれたどの封筒よりも分厚かった。
さっきまでの複雑な感情は、もうどこにもなかった。気づけばその分厚い封筒は僕の手の中にあった。ぐしゃぐしゃにならないようにポケットに仕舞う。
家に帰ってから、何度もその封筒を開けようとした。けど、結局そこに何が書いてあるのかを確認しないまま、ビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。そこまで非情になってしまえば、僕はもう真里と顔を合わせられない気がしたし、町田さんと同じような笑顔が、染み付いてしまうのが怖かった。
第4話
18歳になってすぐの頃、バイト終わりに休憩室でダラダラと過ごしながら、僕と真里はどちらともなく進路の話をした。
「和幸は、大学進学だっけ?」
「うん、教師になりたいと思ってる」
「すごい! 和幸なら絶対になれるよ」
自分の話を積極的にしたがらない真里だが、こちらからも質問をしないと、失礼な気がしたので、僕は恐る恐る口を開いた。
「真里は?」
「ああ、私はいいよ」
やはり真里は、自分の話になると伏し目がちになる。
「なんでだよ、言えよ」
別に無理強いをしたかったわけではないが、僕は笑いながら真里の肩を軽く小突いた。
「高校卒業したら、親戚のお店で働こうと思ってる」
えへへと笑いながら、真里は早口で答えた。
僕はてっきり真里も大学に進学するものだと思っていたので、正直驚いた。でも僕の勝手な固定観念を押し付けて「どうして進学しないの?」なんてデリカシーのない質問はしなかった。人には人の事情があることくらい、鈍感な僕でもわかる。
「どんなお店なの?」
「おもちゃ屋さんなんだ。大型店じゃないんだけど、全部木製で作られたおもちゃにこだわってて、結構評判もいいんだよ。ちょっと家からは遠いけど、住み込みで働かせてくれるっておじさんが言ってくれてさ。あ、おじさんっていうのは、うちのお父さんの弟さんのことなんだけどね」
真里は自分の周りの人の話になると、すぐにいつもの綺麗な笑顔に戻って、自慢気に話してくれた。僕はその笑顔を見ながら、卒業したら真里とはもう会えなくなるんだと考えていた。
「素敵なお店なんだろうね」
「もちろん!」
それからのことは正直あまり思い出せない。夏には何度か一緒に自転車で帰ったし、深夜の3時までファミレスで語り合ったこともある。冬には一緒にイルミネーションを見に行った。ただ、僕は真里がどんな服を着ていたのかも、何を話したのかも1つも思い出す事が出来ない。覚えているのは、いつも笑ってくれていたことだけだ。
そしてすぐに新しい春が来た。
大学が少し家から遠かったこともあり、大学生になったら今のバイトを辞め、大学の近くで新しいバイトを探そうと思っていた。真里も春から就職するので、僕達は同じ日にバイトを辞め、同じ日に違う高校を卒業した。
毎日のように会っていた真里と、会わなくなる。不思議と寂しさは感じなかった。真里も寂しそうじゃなかったからだと思う。
僕は新しい環境に慣れることで精一杯で、真里にメールを送ることすらしなかった。真里からも、連絡が来ることはなかった。
忙しない日々を過ごしていると、19歳の誕生日、日付が変わった瞬間に真里から『おめでとう』とメールが来ていた。バイトを辞めてから、初めてのメールだった。僕は『ありがとう』とだけ返した。真里からの返事はなかった。
そして24時間後、今度は僕が『おめでとう』と真里にメールを送った。真里も『ありがとう』と返事をくれた。その時初めて、真里は今何をしているんだろうかと思った。会わなくなって、3ヶ月程度しか経っていないが、少しだけ恋しくなった。
『今度飯でもどう?』と真里にメールを送る。返事はすぐに返ってきた。『いいね!』という短い文章に、変に懐かしさを覚える。
3日後に、街のレストランで待ち合わせをした。久々に会った真里は、薄っすらと化粧をしていて、更に大人っぽく見えた。僕達は取り留めのない会話をした。好きなバンドの話とか、いつも通りの話だ。
僕と真里は、お互い誕生日プレゼントを用意していた。高校生の時はそんなことしなかったのに、示し合わせたかのような行動に僕達は声を上げて笑った。
僕が買ったのは小さなサボテンで、真里がくれたのは少し小ぶりな、藍色のマグカップだった。
21時に店を出て、すぐに別れた。そして家に着いてから、今日は楽しかったとメールをして、そこで会話は終わった。そこから新たなメールが来ることも、僕から送ることもなかった。次にメールが来たのは20歳の誕生日の日だった。
僕達は19歳になってから、そんな関係を6年も続けてきた。お互いに誕生日プレゼントを持って、1年に1度、初夏の涼しい風が吹く頃に会った。
僕はもう大学生ではなく、新米の高校教師だ。真里はまだおじさんの店で働いている。
第5話
僕達はお互い方向音痴だったので、カレー屋に着くまでに30分程かかってしまった。
幸いにも、少し早めに真里と合流できたので、予約時間には店に到着することができた。
「カレーを食べる前なのに汗だくになっちゃったね」
向かい側の席に座る真里は、額をハンカチで拭きながら、つまらない冗談を言った。
積もる話もあったのだが、お互いに腹の虫が鳴きすぎていたので、すぐにメニュー表を手に取った。僕は店の1番人気のバターチキンカレーを頼み、真里は数分悩んだ後、2番人気のインドカレーを頼んだ。
「あのさ、さっきはちゃんと言えなかったけど、改めて結婚おめでとう」
僕から切り出さないと、真里は結婚の話を一生しないと思ったので、水を一口だけ含んだ後、お祝いの言葉を告げた。
「ああ、ありがとう」
真里は少し恥ずかしそうに俯いた。
「どれくらい付き合ってたの?」
こういう質問をするのは初めてだった。真里は珍しそうな顔もせず「5年かな」と答えた。
「そうなんだ」
この数年間、真里とご飯を食べに行っても、恋愛の話は一切しなかった。そのせいで、上手い言葉が出てこない。
僕はこのまま北海道の小さな街で、ずっと1年に1度、真里と飯を食うつもりでいた。その真里が、結婚して福岡に行く。自分で描いた未来予想図の方が、現実離れしているはずなのに、僕はそれをうまく噛み締めることができないでいた。
「名字は何になるの?」
本当はもう何も聞きたくはなかった。
「土田だよ。絶対つっちーってあだ名になるよね」
真里の自然な笑い声が、店内に響き渡る。
「じゃあもう湯浅さんて呼べないんだな」
「そんなの呼んだことないじゃん」
「バイト始めたての時は呼んでたよ」
「そうだっけ?」
真里はあまり興味なさそうに相槌を打って、何もつけていない左手を眺めてる。彼女がアクセサリーの類をつけているところを、そういえば見たことがなかった。
「和幸はいいよね、五十嵐なんてかっこいい名字でさ」
「まあ、よく言われるよ」
「五十嵐真里ってさ、語呂よくない?」
「そうかな」
悪気のない笑顔が、なぜか最後に見た町田さんの笑顔を思い出させる。
スパイシーな香りと共に、カレーが運ばれてきた。カレーが到着したことによって、会話も中断されて僕達は結婚の話をやめた。
「あーあ、福岡か」
猫舌の真里は、スプーンに乗ったカレーを10回くらい冷ましながら、ため息をついた。
「随分遠いところだな」
「そうだよね、私もまさか自分が北海道から出るだなんて思ってもみなかったけどさ、彼が転勤になることが決まってね」
「そうなんだ」
僕は話を広げる気力もなくなり、目の前にあるカレーを黙々と食べた。
「結婚式やるなら、招待してくれよ」
思ってもいないことを、と心の中でだけ呟く。
「もちろん」と笑う顔は、もう自分のことを話すとき、どうでも良さそうにする少女の顔ではなかった。いつも誰かのために笑うあの笑顔だった。これから彼女は、そんなふうに笑うことが増えていくのだろう。
「いい人なんだろうな」
「なに、いきなり」
「なんとなくだよ」
カレーの辛さが、必要以上に舌の上でひりつくのを強く感じる。
「あのさ」
「ん?」
「町田さん、いただろ」
「いたね」
「元気にしてるのかな」
「どうだろうね。世渡り上手そうだし、なんとか生きてるんじゃないの」
真里は心底どうでもいいとでも言うように、コップの水滴を指でなぞる。その仕草は、いつまでも追い越せない緑色の自転車を思い出させた。
僕達はあっという間にカレーを平らげた。時刻はまだ20時過ぎだ。
「もう、出ようか」
いつもは真里からもう行こうかと言うのだけれど、今日は僕が口にした。
「この後、どこか行く?」
真里はきょとんとした顔で、急いで身支度をし始めた。
「いいや、今日は帰ろう。彼氏に悪いよ」
「こっちこそ、和幸の彼女にはいつも悪いと思ってるよ」
「なんだよそれ」
わざと曖昧に笑う。僕だけが止まった時間を彷徨っているのかもしれない。香辛料と初夏の匂いはよく似ているような気がした。
最終話
店を出て、駅までの道をゆっくり歩く。さっきまでたくさん会話していたのが嘘のように、僕達は何も話さなかった。
「和幸、これ」
真里はずっと手に持っていた小さな紙袋を渡してきた。
「誕生日おめでとう」
「ああ、ありがとう」
いつもは店内で手渡してくるのだが、今日は早めに切り上げたので、このタイミングで渡してきたのだろう。何度も行っている儀式のようなものなのに、その手付きは少しぎこちない。
「開けていい?」
「いいけど、こんな道の真ん中で?」
「いいんだよ、こんな道の真ん中が」
僕はひと目も気にせず真里が渡してくれた緑色の紙袋から、小さい小包を出す。しっかりと包装された袋のテープを1つずつ丁寧に剥がして、箱を取り出す。箱を開けると、茶色い革製のカードケースが入っていた。僕の好きなブランドのものだ。
「私達もいい大人だしさ、かっこいいやつを選んだつもり」
「ちょうどカードケースが欲しいと思っていたんだ」
「ほんとに? ならよかった。いらなかったら捨ててもいいよって言おうとしてた」
「どんだけひどい奴だよ僕は」
自分でも驚くくらいに乾いた笑い声が喉から出た。カードケースをまた箱にしまい、紙袋に戻す。
「あのさ、誕生日プレゼントなんだけど、家に忘れてきちゃったんだ、ごめん」
「全然気にしなくていいよ、私が好きでやってることだし」
「郵送するよ、引っ越す前に」
「いいよほんとに気にしないで」
真里は僕が持ってる黄色い紙袋のことについて、何も触れなかった。
そして僕達はまた何事もなかったように歩を進めた。
「僕こっちだけど、真里は?」
「ああ、私はこっち」
分かれ道で僕は右に、真里は左を指差した。ここで本当にお別れのようだ。
「じゃあ、元気で」
「また冬に会おうよ」
「ああ」
真里が次の約束をするなんて初めてのことで、僕は曖昧な返事しか出来なかった。
きっと僕達はもう会うことはない。真里は優しいけれど、その優しさの中にはほんの少しの社交辞令も含まれていることを、僕は昔から知っている。
真里は1度も振り返らなかった。その背中は、ずっと変わらないまま、僕の記憶に残っていくような気がした。
もちろんすぐに春はやってきたし、26度目の夏だって、何事もなくやってきた。
1年のうちのたった1日がなくなったくらいで、感傷に浸るような大人ではないつもりだ。今年も変わらず真里から『おめでとう』とメッセージが届いたし、僕も『おめでとう』と返した。僕達の誕生日は、そうして何事もなく続いて、いつか終わっていくはずだ。
そう思っている矢先に、家に1通の手紙が届いた。真里からだ。
貰う覚えのないものに、いつもとは違う胸の高鳴りが、手紙の封を開ける手を震えさせる。
『福岡は暑い! そっちはどんな感じだろう。今年はお互い誕生日プレゼントは贈り合えなかったけど、いつかまたそっちに帰ったらご飯でも食べに行こうね』
短い文章と共に、1枚の写真が同封されていた。
『綺麗な花が撮れたので』と写真の隅に、小さな文字で書かれている。なんの悪意も感じられないその文字が、僕にはどうしても見覚えのある平たい笑顔を連想させる。
「花言葉くらい、調べろよな」
机の片隅に置いておいた黄色い紙袋を手に取る。淡紫色したアガパンサスのプリザーブドフラワーは、袋の中で息をしている。送られてきた写真と同じ形、同じ色のその花の重みは、僕と真里では違う。
手紙と写真をピッタリ重ねて、原型が無くなるまで丁寧に破く。机の上で粉々になった紙は、息を吹きかけると風になびく花びらのようだ。
ビリビリに破いた手紙たちを、黄色い紙袋と一緒にゴミ箱に捨てた。もうすぐ6月も終わる。
ー完ー