• 『海月の彼女』

  • 降谷さゆ
    ミステリー

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    僕らは、「学校」という狭い世界で生きている。 形成されるカースト、抑えきれない感情……。 大人でも子供でもない中途半端な僕らは、ただ必死だった。これは、この世界でもがいた僕らの命がけの恋と友情の物語。

第1話 プロローグ

僕らは、「学校」という狭い世界で生きている。
この狭い世界が学生である僕らにとってはすべてといっても過言ではないだろう。

この世界で生き抜く術をもたない者は、「学校」という監獄で苦痛を味わい続けることになる。
集団というのは残酷だ。自然発生的に序列を形成し、底辺に位置づけられた者は存在する価値すらないのだ。


スクールカースト、もしくは学校カーストともいうらしい。
一軍は良くも悪くも目立っているクラスのリーダー的な存在の者たち。彼らの意見や機嫌ですべてが決まる。家柄がいいとか、容姿に優れているとか、勉強や部活でよい成績の者が多い印象ではあるが、それに加えてコミュニケーション能力が高いことも必要条件のようだ。
二軍はいわゆる一軍の取り巻き。自己主張をするわけでもなければ積極的に行動を起こすわけでもないのに、当たり障りなくその場をやり過ごすことができる者たち。
三軍はカーストの底辺。とにかく地味で目立たなくて、自己主張なんてもってのほか。空気として扱われるような存在だ。いや、空気の方がマシかもしれない。
一軍の者たちの機嫌を損ねればその日からいじめのターゲットになる。だから僕のような者は存在を消してカースト上位の者たちに従うしか生き抜く道はない。

そんな簡単なことすらわからなかった出来損ないが僕だ。
中学では三年間カースト底辺でいじめられてきた。あがり症で入学式で名前を呼ばれたときに声が裏返ってしまった、そんな些細なことがきっかけ。いじめはどんどんエスカレートして、三年生の三学期はほとんど学校に行くことができず、卒業式も欠席した。
でも、父親の転勤で新しい街に引っ越してきて、中学の僕を知る人がいない環境なら新たなスタートを切れるかもしれない。一軍になりたいとはいわない。せめて二軍に……。
そのくらいの希望を持ったっていいじゃないかと思っていた。
確かにパッとしない見た目だけど特別容姿が悪いわけではないと思う。勉強は中の下だけど読書は好きだから知識はある方だ。緊張さえしなければきっと僕は普通の存在だ。

だから、入学式の前日に何度も練習した。
「僕、大地だいちづきっていうんだ、よろしく」って、隣の席になった人に自然に話しかけるんだって。

そして、失敗した。
左隣の派手な見た目の男子は中学が一緒だったと思われる友人たちと楽しそうに話していたから声をかけることができなかった。
右隣は女子。普段の僕だったら絶対に話しかけることなんてできなかった。でも、初日に失敗した過去のトラウマを払拭したくて勇気を振り絞った。
「あのー……」
「…………」
彼女は頬杖をついて真っ直ぐに一点を見つめている。僕の呼びかけに気付いていないようだ。
透き通るような白い肌が映える艶のある長い黒髪、くるんとカールした長いまつげ。小柄だけど可愛いというより美人という言葉が合うような子だ。
きっと僕なんかが声をかけていい存在じゃない。でも、同じ中学出身者でグループができつつあるこの教室で、僕の周りで今一人なのは彼女だけ。
このチャンスを逃すわけにはいかない、その思いが空回った。
「あのっ!」
先ほどよりも大きな声で、はっきりと聞こえるようにもう一度声をかける。
それに気付いた彼女が僕の方に顔を向ける。意志も感情もないような、うつろな瞳で。
「…………なに?」
「あ、の……、ぼ……僕、だ、大地輝月っていうんだ!」
言えた。ちょっとどもったけど、言えた。
でも、彼女の反応は冷たいものだった。
「……そう」
それだけ言ってまた視線を戻してしまった。
これじゃあ中学の頃の僕となにも変わっていない。
「――あのっ!!」
こんなんじゃダメだ、そう思って必死に声を振り絞った。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろう。
その声に再び彼女が視線を向けてくれた。
「僕、大地輝月っていうんだけどっ!」
「……もう聞いた」
「あっ、うん、そうだよね。……えっと、だから、君の名前――……」
そう言いかけたときだった。
左隣の男子にガシッと肩を掴まれた。
「キヅキくん? やめなよ。必死すぎ。その子迷惑してんじゃん」
彼の方に顔を向けると呆れたような、バカにしたような、嫌な笑顔をしていた。
「え……いや……その……」
「初日からがっつくねー。地味なのに意外と肉食系?」
その言葉に、クラス中がドッと笑いに包まれる。嘲笑だ。
ここで上手い返しができたのなら、いじられキャラの二軍というポジションになれたのかもしれない。でも、僕にそんなスキルなんてないから、涙を浮かべて真っ赤な顔で俯くことしかできなかった。
「え、泣いてんの? ちょっとからかっただけじゃん」
もう僕を見ないでくれ。放っておいてくれ。
「泣くなって! 俺が悪者みたいじゃん! その子を助けたのにね?」
クラスメイトの同意を得るようなその言葉が、彼と僕の格差を明確にした。
これが僕の地獄の始まり。

        *

無視されるのが一番つらい、そんな言葉をよく聞く。
でも、それは自分から人に話しかけることができる二軍くらいの人の意見だと思う。
僕のように人に気軽に話しかけることなんてできない人間は、無視してもらった方がよっぽど楽だ。
面白半分で「隣の子のこと好きになっちゃった?」なんて話しかけられてもどう返したらいいかわからずに黙り込んでしまう。そうするとコミュ障のつまらないやつというレッテルが貼られ、かけられる言葉は「モテないから女に飢えてるんだろ」「身の程知らず」なんて棘のあるものになっていく。

僕は三軍にいるべき人間だったんだ。
二軍になりたいなんて高望みした自分が心底嫌になった。クラスメイトから向けられた視線を思い出すと惨めで、帰りのホームルームをひたすら待つだけの時間が苦痛だった。

ようやく一日の終わりを告げるチャイムが鳴り、さようならの号令が言い終わるかどうかというタイミングで逃げるように教室から出た。
まだ僕だけしかいない昇降口。靴を履き替えながら、これから始まる高校生活に絶望してまた涙が勝手にあふれてくる。

パタ、パタ、パタ……。
足音が近づいてきたから慌てて袖で涙を拭いスニーカーのかかとを踏んだまま走り出そうとしたところ、片方が脱げてしまったから顔を伏せたまま振り返った。
「ねぇ」
聞き覚えのある声にハッと顔を上げると右隣の彼女だった。
「……目、赤いね」
教室にいたときと同じ感情のない瞳で僕の顔を覗き込んでいる。
「…………ごめんなさい」
その言葉を聞いて彼女は不思議そうに首をかしげたけど、弁明すれば彼女の前で泣いてしまいそうだったから急いでスニーカーを履きなおして背を向ける。
「……それじゃあ」
それだけ言い残して。でも、グイっとリュックを引かれる感覚に驚いてもう一度振り返る。
「クラゲ」
「…………クラゲ?」
「そう」
ぷっくりとした朱色の唇が小さく動いたと思ったら、つぶやかれたのはその言葉だけ。
僕も先ほどの彼女と同じように首をかしげてしまう。すると彼女の唇がもう一度動く。
「知りたかったんじゃないの?」
「え?」
「クラゲ」
「…………クラゲ?」
「そう、海野うみの海月くらげ
「海のクラゲがどう――」
僕の言葉を最後まで聞かず、彼女は靴を履き替えてすたすたと帰ってしまった。

海野海月、それが彼女の名前だと知ったのは翌朝のこと。

第2話 ミステリアス

澄み渡る青空に満開の桜。
きっと大多数の人には素晴らしい景色に映っているのだろう。
でも、僕の目に映る景色はモノクロだ。昨日の出来事があって、二日目にして学校に行くのが憂鬱で仕方がない。

やはり彼女に弁明した方がいいのだろうか、それとも左隣のシュンと呼ばれていた男子からいじられるキャラに徹した方がいいのだろうか、いやあの場で泣いてしまったからもう遅いだろうか……。そんなことを考えているうちにほとんど眠れないまま朝を迎えてしまった。
(…………母さん、ごめん。やっぱり高校も行けない)
そう思って引き返そうと振り向いたとき、昨日の彼女が僕の真後ろを歩いていた。

「あ、大地輝月」
また温度のない表情で、でもフルネームで僕の名前を呼んでくれた。
「あ、名前、覚えてくれたんだ」
「二回も言われたら覚える」
澄ました表情で言うから彼女が怒っているのか呆れているのかもわからない。
ここからどう会話をつなげればいいのかと頭を抱えたとき、昨日の彼女の言葉を思い出した。
「あ、昨日のクラゲって」
「なに?」
また彼女は小さく首をかしげる。
「いや、聞きたいのは僕の方で、クラゲがどうしたの?」
「どうしたって?」
「いや、だからそれを聞きたいのは僕で……」
どうにも噛み合わない。

そのとき、僕らの方にバタバタと近づいてくる足音と「クラゲ!!」と呼ぶ声が聞こえた。
「もう、海月! ちょっとだけ遅れるって連絡したじゃん」
斜めにかけたスポーツバッグを揺らしながら駆け寄ってきたのは、スラッと背が高くてショートカットの女子。いかにも運動部という雰囲気だ。
「凛ちゃん、おはよう」
「おはようじゃなくて、なんで先に行っちゃうの!」
「だって、遅れるって言ってた」
「一緒に行こうって約束してたんだから少しくらい待ちなさいよ。遅れたのは私だけど……って、こいつ知り合い?」
凛と呼ばれた女子はその場にただ突っ立っている僕を怪訝そうに見てきた。
「大地輝月」
「誰?」
「隣の席の人」
「友達になったの?」
「ううん」
確かに友達にはなっていない、でも、目の前でそう言われるとさすがにちょっと傷つく。
その言葉を聞いてショートカットの彼女は僕を睨みつける。
「可愛いって理由だけで海月に近づくのは私が許さないから」
先ほど二人が話していたときよりも明らかに低い声で凄まれて、僕は無意識に一歩引いてしまう。
怖い。でも、ちゃんと言わないと。また昨日みたいに誤解されてしまう。
「いや、そうじゃなくて、昨日クラゲの話をされて……なんだろうって思ったんだけど、名前、だった……の?」
「そう言った」
冷たく突き放すような返事。
「ご、ごめん、まさか名前だと思わなくて」
何度も何度も頭を下げて謝る。
その様子を見てショートカットの女子は少し呆れたように、でも今度は優しく笑いながら僕の肩をポンと叩く。
「そ、この子は海野海月。で、アタシは大空凛。従妹なの」
「そう、ですか」
「あんた隣の席なんでしょ、海月に変な男が寄って来たらアタシに教えて。隣のクラスにいるから。で、あんたも海月に変な気は起こさないこと」
「変な……って?」
「この子が嫌がることはすんな、ってこと。わかった?」
「――はいっ!」
笑っているけど目は本気だ。
やっぱり怖い。先生から授業中に当てられたときよりもしっかりとした返事をしてしまうくらい。
「あと、この子ちょっと変わってるけど気にしないで。それをからかうようなやつがいたときもアタシに教えて。ぶん殴りに行くから。
「わ、わかりました」

面倒見のいいお姉さんとなんだか抜けている妹、そんな風に見えた。
「さ、行くよ。海月、輝月」
そう声をかけてきた凛さんに、海月さんとともに学校へ連行された。
家に戻るはずだったのに……。

        *

凛さんとは教室の前で別れて、すたすたと歩く海月さんの後ろを僕は少し距離を取りながら目立たないように教室に入る。でも、僕の姿を見つけたシュンがすぐに絡んできた。
目が合った瞬間、中学のときのトラウマがフラッシュバックして、足がすくんで動けなくなる。
「来た来た、キヅキくん、おはよう!」
「……お、おはよう……ございます……」
「なんで敬語?」
蔑むような、そんな嫌な笑顔をしながらシュンは僕の肩に腕を回してくる。
「ねえ、なんでその子と一緒に登校してきたわけ?」
「い、一緒……じゃ、ない」
「は? 嘘つくなよ。茶髪のショートの子とその子と三人で歩いてただろ。見てたんだよ、教室から」
「それは、偶然……というか……」
回された腕に力が加わったのがわかって、心臓がバクバクして冷や汗が出てくる。
「ねえ、キヅキくんと一緒に登校してきたよね?」
シュンは僕を連れたまま海月さんにそう質問する。
その様子を見ているクラスメイトはクスクスと笑って嫌な空気に包まれる。
でも、相変わらず海月さんは無表情で、何も気にしていない様子で返事をする。
「裏門の手前の交差点から一緒に来た」
「ほらな」
それを聞いてシュンが僕に顔を近づける。
(――海月さん、そこは嘘でも一緒に登校していないとか、せめて偶然会ったと言ってほしかった)
「え、昨日の今日で付き合った感じ? しかも二股?」
またこうやって僕をからかいはじめる。でも、それを終わらせたのは海月さんだった。
「付き合ってない。凛ちゃんも違う。そこ邪魔。どいて」
この教室の空気も、この会話にもまるで興味がないよう。彼女はシュンを押しのけて席に着き、一限目の授業の準備を始めた。
「チッ、つまんねーの」
その様子に、シュンは乱雑に僕を突き飛ばして席に戻る。

強いな、と思った。
昨日と今日で圧倒的にカースト上位であることを見せつけたシュンの言動に全く動じなくて、クラスの嫌な空気にも全く呑まれない彼女が。
『この子ちょっと変わってるけど』と凛さんは言っていたけど、空気が読めないとかそんなんじゃなくて、海月さんは僕らよりも遥かに大人なのではないだろうか。
天然なようでミステリアス、人からどう見られるかなんて気にも留めずに芯がある、そんな風に感じた。

こんなことを言ったら僕がシュンから受けるいじめはさらにヒートアップしていただろうけど、僕が彼女に惹かれたのはこのときだったんだと思う。

第3話 赤に染まったクリスマス

高校三年、冬。クリスマス。
クラスメイトが死んだ。

*****
十八歳の高校生が死亡、飛び降りか
東京・世田谷区

十二月二十五日午前八時ごろ、東京都世田谷区の××高校敷地内で、「学生が倒れている」と警察、消防に通報があった。警視庁××署によると、同学校の生徒とみられ、その後死亡が確認された。
同署によると、現場から遺書とみられる文書もみつかり、校舎屋上から自殺を図った可能性もあるとみて、捜査している。
*****

第一発見者は、アタシだ。
数年ぶりに積もった白い雪が、真っ赤に染まっていた。
近づくと血だまりの中央に人がうつぶせに倒れていて、それはとても見慣れた人で、信じたくなくて、でも確認すればするほど確信に変わって、息の仕方がわからなくなって、その場に座り込んで動けなくなった。
どのくらい時間が経ったころだろうか、誰かが呼んだ救急車とパトカーがアタシを囲むように停められた。チカチカと光る赤色灯が眩しくてギュッと目を閉じた。これは悪い夢だと自分に言い聞かせることしかできなかった。
あの光景は、一生忘れることができないと思う。

その日は事情聴取で校長と担任と一緒に警察署に連れて行かれ、過呼吸を起こしながらもまわらない頭を必死に働かせて知る限りを話した。
それなのに、学校も、クラスメイトも、大学受験へのプレッシャーが原因じゃないかなんて無責任なことを言う。遺書だってあったのに、自殺の原因と特定できる記載はなかったなんて納得のいかない理由で、今日この日までの悩みと苦しみをなかったことにする。

「ふざけんな!!」って、声が枯れるほど泣き叫んだって、もう戻ってこないことはわかっている。
高校生のアタシがどれだけ喚いても無力だってことも、もう痛いほどわかった。
止められなかった自分が、こうなることを予想できなかった自分が許せない。
大切だった命が一つ消えた。

でも、一番つらいのはアタシじゃない。
この先、学校という狭い世界から外に出て生き抜くためには必要な死だったのかもしれない。
でも、こんな方法は選ばないでほしかった。

この死は、悲しくて、優しすぎるクリスマスプレゼントだ。

        *

シュンの僕に対する扱いは最初からひどいものだったけど、それは「いじめ」と訴えるほどのものではなくて、おふざけの延長線上にある「いじり」だった。
毎日のようにクラスメイトの前で恥ずかしい思いをして、その惨めさで心の中では泣き続けていたけど、へらへらと笑っていればシュンは僕に飽きて相手にしなくなるし、便利なパシリくらいには思ってもらえていたと思う。

入学式と翌日の一件から、クラスの中心はシュンだった。
男の僕でさえ綺麗だなと思ってしまう中性的な整った顔立ちをしているし、医者の家系に生まれて勉強もスポーツも英才教育を受けてきたそうだから先生からも一目置かれる存在だ。
人当たりもよく仲間内では優しいし、それでいてときどきSっ気のある強気で意地悪な発言をするから女子にモテることは僕が言うまでもない。
僕への態度を見て「怖い」と近づかない女子ももちろんいたけど、それは少数派。入学から一週間したころにはシュンの周りに女子が集まるのが当たり前になっていた。

だから、僕ではなく入学式の翌日にシュンをまともに相手にしなかった海月さんが取り巻きの女子たちからいじめのターゲットにされてしまった。
もしかすると、あの日の出来事だけだったらまだいじめには発展していなかったかもしれない。
僕をからかうためにシュンが執拗に海月さんに絡むし、ミステリアスな海月さんにシュンが興味を持ち始めたことがはたから見てもすぐにわかったから、それを取り巻きの女子たちが面白く思わなかったのだろう。

それは無視から始まった。
でも、海月さんは用事がなければ自分から話しかけることはしないからダメージを受けている様子はなかった。
それから海月さんが何かするたびにくすくすと笑われるようになって、女子たちの会話で海月さんを除くクラスの女子でLINEグループが作られて日々悪口が書き込まれているということも知った。
全部、僕のせいだ。僕が保身のためにあの日話しかけてしまったばっかりに、何の罪もない海月さんがひどい目に遭っている。申し訳なさで胸が押しつぶされそうで、でも、僕が海月さんをかばうとよりヒートアップしてしまいそうで、そもそもそんな勇気もなくて、「消えてしまいたい」「最初から僕の存在なんかなかったことにしてしまいたい」と情けなくもそう願い続けることしかできなかった。
当の本人が全く気にしていないようだったから、彼女の強さに甘えてしまっていたのもあると思う。

男子のいじめはわかりやすい。暴力的だから。
でも、女子のいじめはわかりづらい。陰湿だから。

「――輝月! お前ふざけんなよ!!」
入学から二か月が過ぎた新緑の季節。いつものようにシュンのパシリで購買に向かっていた僕を見つけた凛さんに胸ぐらをつかまれたかと思った瞬間、左頬に強い衝撃を受けた。
ズダンッ!という大きな音と地面に叩きつけられた身体の痛みで、ああ僕は殴られたんだと気づくほど一瞬の出来事だった。
「……え、あの…………えっ?」
じんじんと熱を帯びてきた頬に手のひらを当てながら拳を振るった彼女に視線を向けると、泣きたいのは僕のはずなのに、大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべた凛さんが仁王立ちしている。
「あの……」
事態を呑み込もうともう一度口を開いた瞬間、また胸ぐらをグイッとつかまれ、目の前にスマートフォンを突き出された。
「――これ、どういうこと!? 隣にいるくせに知らないなんて言わせないから!」
凛さんの怒りの理由がわからない。画面に映し出されているのは動画のようで、小刻みに震える指で再生ボタンを押してみる。そして、その動画を見て頭が真っ白になった。

そこに映っていたのはクラスの女子たちに髪を引っ張られて女子更衣室に連れ込まれる海月さん。「シュンに近づくな」「その態度がムカつく」と暴言を浴びせられ、それに対して「怒らせたのなら謝る」と無表情で答え、その言葉がさらに彼女たちを苛つかせて服を脱ぐように強要されていた。
「脱げばいいの?」と不思議そうにブラウスのボタンに手をかけ始めたところで凛さんは僕の前からスマートフォンを持つ手を引いた。
「……続きは見なくてもわかるでしょ。これ、あんたのクラスにいるアタシと同じバレー部の子が教えてくれたの」
「そんな……」
毎日隣にいたのに、こんなことにまでなっていたなんて気づかなかった。
海月さんはいつもと何ら変わった様子がなかったから。
「……ねえ、なんで気づかないの? 海月のこと気になってるんでしょ?」
先ほどの怒声が嘘のように、力なく縋るようなかすれた声。顔を上げると凛さんの瞳からポロっと大粒の涙がこぼれて、僕の頬に落ちてきた。
「ねえ、どうしよう……どうしたらいいの……?」
「…………」
「アタシがこの子たちにやめるように言ったって、この動画を広めるって脅されちゃう……」
「…………」
「アタシは海月が大事なの。どうしたら……」
海月さんと一緒にいるときの凛さんはいつも明るくて、元気で、笑っていて、僕に対しては怖いと思ってしまうくらいに強気。そんな彼女の弱々しい姿を見たのは初めてだった。
だから、助けたい、って思った。海月さんも、凛さんも。

でも、助けたい、その気持ちがあっても僕一人ではどうしようもできないことはわかっていた。僕は本当に情けなくて、不甲斐ない。
ただ、ひとつだけ助ける方法があった。

「…………シュンに、話そう」

第4話 不平等な世界

本当は、頼りたくなんかなかった。
大嫌いなシュンに「助けて」なんて言いたくなかった。
でも、海月さんをいじめる女子たちはシュンに嫌われることだけは避けたいはず。

「シュンって、いつも輝月のことパシリにしてるやつでしょ?」
「……うん」
シュンに話そう、僕の口からその言葉が出たことが信じられないといった様子だ。
「そんなやつに頼るなんて……」
「シュンは、いじめられている海月さんのことを放っておかないと思う」
「……どういうこと?」
僕の言葉の真意を確かめるように、凛さんは僕の目をまっすぐに見つめる。
「……だって、シュンは僕が海月さんのことが気になっているって気付いてるから」
「…………」
その言葉で察したようだ。少し俯いて、僕にどう返事をしたらいいか迷っている。
「僕が海月さんを助けられなくて、シュンなら助けられる。シュンにとってこんなに優越感に浸れることはないでしょ?」
ヘラっと笑ってみせるけど、自分の口からこんなことを言うのは悔しい。でも、これしか方法が見つからない。だから、僕は必死に凛さんを説得する。
「シュンも海月さんが気になってるんだ。それが好きなのか興味本位なのかわからないけど、何をしても自分になびかない海月さんを絶対自分に惚れさせてみせる、って、そう言ってて……」
ああいう澄ました女子がコロッと落ちて従順になるのっていいよな、とも言っていた。
でも、そこまで伝えると海月さんを大事に想っている凛さんの逆鱗に触れてしまいそうだったから、僕なりに言葉を選んだつもりだ。
「……それって、思い通りにならない女がムカつくってだけじゃないの?」
「そ、そうかもしれないけど、でも……」
「でも?」
凛さんの表情は真剣そのものだ。シュンを頼るのが正解かどうか、それを見極めようとしている。
「シュンは嫌なやつだけど、海月さんを傷つけるようなことは一度もなかった
「…………」
唇をキュッとつまみながら考え込んでいる。
でも、彼女の決断は早かった。
「……そう、だね。輝月には悪いけど、輝月が助けられない海月を自分なら助けられるって知ったらああいうやつは喜んで引き受けるだろうね」
「……うん」
自分で提案しておきながら、そう納得されると本当に情けない。
でも、海月さんを助けることができるなら、僕のちっぽけなプライドなんて捨ててやる。
「今シュンがどこにいるかわかる?」
「うん」

        *

そして、僕と凛さんはシュンに助けを求めた。
僕と凛さん、っていっても、シュンの前では委縮してまともに話せなくなってしまう僕じゃ説明ができなかったから、ほぼ凛さんが話してくれたんだけど。

「海月ちゃんがいじめられてたなんて、そんなそぶりないから知らなかった」
僕にはいつもバカにしたような顔で話しかけてくるから、こんなに親身になって話を聞いてくれるシュンにちょっと驚いた。
凛さんのことを見かけては「ショートが似合う女子っていいよな」なんて話していたから、ほかでもない凛さんからの相談というのもあるんだろうけど。
「……海月を、助けてくれる?」
「もちろん!」
あっけないくらいに、二つ返事で引き受けてくれた。
その言葉を聞いてぱあっと表情が明るくなる凛さんを見て肩身が狭くなる。
でも、シュンの言葉にほっとした自分がいたのも確かだ。
「あ、あの、それで、ど……どうするの?」
シュンに何か考えがあるのだろうか、それが気になって突っ立っていただけの僕もようやく口を開く。
「そんなの簡単だよ、俺の彼女になればいいんだ」
『…………え?』
何を言っているのかわからない、それは凛さんも同じだったようで、二人で声を揃えて顔を見合わせる。
「だから、海月ちゃんが俺の彼女になれば解決するでしょ。彼女って名目のセフレだっていい」
「あんた何言って――!」
先ほど僕にしたのと同じように、凛さんはシュンの胸ぐらにつかみかかる。
シュンのことが怖くないのかと僕は驚き呆然とするしかない。
でも、シュンは不敵に口元を緩ませるだけで全く動じていなかった。そして、凛さんにとって一番ひどい言葉を投げかける。
「じゃあ海月ちゃんを見捨てるの?」
「あんたなんかに……頼らなくたって……」
凛さんのためらいを確認すると、さらに追い打ちをかけるようにシュンは言葉を続ける。
「できるの? できないよね? 親か先生にでも泣きつく? そんなことしたら逆効果だってわかるよね?」
「…………」
首元をつかむ手がわなわなと震えている。
怒りと葛藤。唇をギュッと噛みしめている姿から悔しさがひしひしと伝わってくる。
「……セフレは論外。海月を傷つけたらアタシがあんたを殺す」
「可愛い顔して怖いこと言うね。さすがに女の子を傷つけたりしないよ。それに俺とどうなりたいかは海月ちゃん次第でしょ?」
「そう……だね」
その言葉は納得じゃない。降伏。だから僕は慌てて口を挟む。
「ま、待ってよ、そんな……海月さんがいないところで……こんなこと決めたら……」
「じゃあ何? キヅキくんが助ければいいんじゃない? できるなら、だけど」
「…………」
シュンの言葉が胸にぐさりと突き刺さる。悔しい。でも、何も言い返せない。
「で、どうするの?」
そう言ってシュンは僕と凛さんを交互に見る。
余裕、そして優越感。僕にないものを持っているシュンが心底うらやましかった。
「……放課後、海月を連れてくる」
敵わない、その現実を僕も凛さんも突き付けられた。

この世界は不平等だ。
何も持たない人は強い力を持つ人に従うことしかできない。

        *

誰もいないことを確認した資料室。
そこに僕ら四人は集まった。

凛さんはシュンに従う以外に方法はない、そう判断した。僕もそれ以外の方法が思いつかなかった。
でも、昼間のシュンの提案を海月さんが受け入れるはずがない。海月さんはそんな人じゃない、かすかにそう信じていた。
海月さんを助けたいのにシュンには従わないでほしい、それは虫のいいことだとわかっている。でも、海月さんとシュンが付き合うなんて、どうしても嫌だった。

でも、それは僕の理想の押し付けだ。
「じゃあ決まり!」
シュンの一言で呆気なくその理想は打ち砕かれた。
海月さんはいじめを苦にしてシュンと付き合うことを決めたんじゃない。だから断ろうと思えば断れた。でも、そうしなかった。

「海月ちゃん、俺と付き合おうよ」
「なんで?」
「その方が海月ちゃんにとっていいことがあるから」
「いいこと?」
「そう、俺のこと嫌い?」
「別に」
「じゃあ好き?」
「わかんない」
「じゃあこれから好きにさせるから付き合おうよ。いや?」
「いやじゃない」

この会話を聞いて、僕は海野海月という人が何を考えているのか、もっと分からなくなった。
シュンがいじめのことに触れなかったから凛さんがきちんと海月さんに説明しようとしたけど、シュンがそれを制止した。
「親友の凛ちゃんに話さないってことは知られたくないってことでしょ。それなのにいじめられてるでしょって聞くの残酷じゃない?」って。
その言葉を聞いて、凛さんは海月さんのその気持ちを優先して何も言わなかった。
僕も、シュンはもしかするといいやつなのかもしれない、なんて少し見直してしまった。
それに、海月さんがシュンの提案を断らなかったのはいじめから解放されると自分で気づいたからかもしれない。
それなら僕らが何かを言うべきではない。

だけど、きちんと海月さんの気持ちを聞くべきだった。
そう気付いたのはだいぶ先のこと。

第5話 無表情の裏側

なんだか胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちだ。
僕は一人、公園のブランコに腰を掛けて夕日が沈んでいくのをただ眺めていた。
六月に入って日中は暑く感じる日も増えてきたけれど、夜は風が冷たい。その冷たさが僕の喪失感をより強調してくるようだった。

テスト前で部活が休みだったこともあって、シュンと海月さんが一緒に帰っていく姿を帰宅時間が重なった多くの生徒が目にしていた。
僕に対してなのか、海月さんをいじめていた女子たちに対してなのかはわからないけれど、シュンは見せつけるように海月さんと手をつないでいた。
まだ六月、入学からたったの二か月。
二人がまともに話しているところなんて見たことがない。シュンは僕をからかうために海月さんによく絡んでいたし、可愛いと何度も言っていたから海月さんと付き合えたことをラッキーだと思っているだろう。でも、海月さんはどうして……。
やはりシュンの顔がいいからだろうか、それとも勉強ができるからだろうか。僕一人で悩んだって答えの出ないことばかりが頭に浮かんで、考えれば考えるほど自分とシュンの差が開いていくようで虚しくなるばかりだ。
凛さんは「しばらく様子を見よう」と言っていたけど、きっと彼女も大事な従妹で親友の海月さんのことが心配で仕方がないと思う。

「隣にいるくせに知らないなんて言わせないから!」
涙ながらにそう訴えてきた凛さんの言葉が何度も頭の中でこだまする。
今、僕にできることは海月さんを見守ることだけ。
僕もシュンと同じく海月さんと出会ってからたったの二か月。正直僕も海月さんとほとんど会話をしたことがなかったから、どうして彼女のことが気になるのかと聞かれたら即答することはできない。
でも、本心を決して見せない彼女の心を覗いてみたくて、そう考えているうちに彼女に笑ってほしくなって、いつの間にか四六時中彼女のことばかり考えていた。

シュンが海月さんに酷いことをするようなら殴られたっていい、絶対に僕が止める。
そう決心して、ようやく重い腰を上げて帰路についた。

        *

二人が付き合った、それは翌日には周知の事実となった。
「ねえ、シュン! なんで昨日その子と一緒に帰ってたの!?」
そう聞いたのは例の動画に映っていた海月さんに服を脱ぐよう強要した女子だ。
このクラスの女子のなかでカースト最上位の美香。ばっちりメイクでロングヘアをくるくるに巻いて爪もアクセサリーも派手ないかにもギャル。シュンとは中学のときから同級生らしく、シュンへの態度を見ていれば好意を抱いていることは誰でもわかる。
だから昨日の様子が許せないといった様子で、その苛立ちはクラス中が静まり返るほど伝わってくる。
「なに、美香怒ってんの? ヤキモチ?」
シュンは彼女の怒りなんて気にも留めていない様子で余裕のある返事をする。
「からかわないで答えてよ!」
そんな態度が余計に怒りに火をつけてしまったようで、バンッと机を叩く音が響き渡る。
「付き合ったんだ、昨日」
「……は? うそでしょ!?」
「嘘なんかつかないって。海月ちゃん俺の彼女になったの」
「なんで? じゃあ、美香はシュンにとってなんだったの?」
怒り、だけじゃない。彼女の言葉が少し震えている。
「美香は昔から友達でしょ」
「――ふざけないでよ!」
巻き込まれたくない、そう思って僕は視線をそらしていたけど、バチーンッ!と、気持ちのいいくらいに響き渡ったその音に再び目を向けるとシュンが頬を押さえていた。
「痛ってぇー……」
「何回もシたじゃん! 美香はセフレだったわけ!? シュンが初めてだったのに!」
朝っぱらからなんて明け透けな会話を……と聞いている方が恥ずかしくなる。
でも、ボロボロと大粒の涙を流す彼女を見て心が痛んだ。海月さんを助けるためにシュンを頼ろうと提案したのは僕だ。僕のせいで美香さんを傷つけてしまった。
海月さんをいじめてあんな動画を撮影したことは許せない。でも、彼女は本当にシュンのことが好きだったんだと思う。
もっとほかに方法があったんじゃないか、そう思うと昨日の自分の判断を悔やんで仕方がなくなってしまう。
少しの沈黙のあと、口を開いたのは美香さんだった。
「……わかった、その子が色仕掛けしたんでしょ。簡単に脱ぐような子だもんね」
悪意、嫌み、憎悪……。そんな嫌な感情を詰め込んだような瞳で彼女は海月さんを睨みつける。でも、海月さんは自分のことで二人が揉めているというのに手元の小説をペラッとめくるだけで聞いているのかすらわからない。
「ちょっと! あんたシュンに何し――……」
シュンと海月さんの間に挟まっている僕の机を強く押しのけて彼女は海月さんにつかみかかろうとした。守らなきゃ、そう思ったけれど僕は全く動けなくて、それを制止したのはシュンだった。
「おい、美香いい加減にしろよ。俺はお前が抱けっていうからそうしただけで、お前も後腐れない関係が楽って言ってただろ」
「……だって……それはシュンが…………」
彼女の気持ちがほんの少しわかる気がする。
きっと、シュンの気持ちが自分にないことがわかっていたから、繋ぎとめるためにそうするしかなかったんだと思う。
それなのに、彼女の暴走を止めるためとはいえ、クラスメイトの前で彼女との関係まで暴露しなくてもよかったんじゃないか、そう思うとやっぱりシュンは嫌なやつだ。

でも……。
「俺が海月ちゃんに付き合おうって言ったんだ。だからこの子に手を出すようなことをしたらいくらお前でも許さないから」
……って、海月さんを守ったシュンはかっこいい男だなって思った。

        *

「海月、その後シュンから嫌なことはされてないって」
購買に向かう僕を引き留めたのは凛さん。
「そっか、よかった」
「で、あんたはまたパシられてんの?」
「……うん、まあいじめられるよりこうして便利に使われる方がいいから」
「男のくせに情けないなー。一回ガツンと言ってみたら?」
「ま、まさか! 僕にできるわけないよ!」
「ははっ、知ってる。まあ、つらくなったらアタシに言いな。あんたには恩があるから」
前は凛さんのことも怖くて仕方がなかったけど、こんな僕にも普通に接してくれるいい人だと知って、いつの間にか普通に話せるようになっていた。
「あれからクラスでも海月は変わった様子ない?」
「うん、海月さんに話しかけようとする女子が時々いて、仲がいいって感じではないけど普通にしてるよ」
それは大きな進歩だと思う。最初はみんなシュンと海月さんが付き合ったことに対して半信半疑で様子を見ている感じだったけど、二週間ほどしてみんなが信じるようになった。
海月さんの陰口もひそひそと笑う声も耳にすることがなくなった。

「まあ……、海月と仲良くするって難しいから今はそれでいいのかもね」
先ほどまで元気いっぱいだった凛さんが、その言葉をぽつりとこぼしたときの寂しそうに遠くを見つめる横顔が気になった。
僕が聞いていいのだろうか、そう悩んでいると、それを察した凛さんがちょっとだけ悩んでから再び口を開く。
「……あの子さ、母親と二人暮らしなんだけど、かなり酷い扱い受けててさ」
「……そう……なの?」
「うん。暴力とかはないんだけど、なんていうか母親が海月に無関心なんだよね」
「……無関心?」
「そう、小さいころから海月が泣いても怒っても放置してて、だから言いたいことがあっても我慢しちゃうようになったんだと思う。物心ついたころから一緒にいたのにさ、海月何も言ってくれないからアタシも海月の家がそんなんだってずっと気づかなくて、気づいたころにはもう笑ってもくれないし、何があっても泣かない子になってたの。アタシが泣いてたら『凛ちゃん泣かないで』って言ってくれる優しい子なのにさ、アタシはいつも気づけない」
凛さんの言葉は後悔と海月さんを想う気持ちで溢れている。
海月さんは心が強い人だと思っていた。だけど、強かったんじゃなくて、諦めてしまっていたんだ。
そう気が付くとこれまでの言動のすべてに納得できる。

「僕……海月さんに笑ってほしい」
「うん、アタシも」

海月さんはシュンの彼女だ。
だから僕にできることなんてないのかもしれないし、僕の気持ちは彼女にとって迷惑かもしれない。
僕じゃなくていい。凛さんでも、シュンでも、誰かに本心で笑顔を見せられるようになってほしい、そう願ったんだ。

第6話 理想の押し付け

じりじりと暑い日差しが照りつける。
教室にはクーラーが設置されているけれど、長い廊下には熱がこもっていて少し歩くだけで汗がじわっと噴き出してくる。

もうすぐ夏休み、でもその前に期末試験がある。
試験までの一週間はまた部活が休みになるから、普段放課後はグラウンドや体育館にいる生徒たちの多くが教室や図書室に残っている。
放課後のチャイムが鳴ると同時に僕を捕まえては購買やコンビニに走らせるシュンも、試験勉強のためか僕には目もくれずにすぐに教室を出て行ってしまった。
僕もすぐに帰りたいところだけど、万が一にも帰り道でシュンに見つかったら嫌だななんて思って、この日は教室に残り教科書を開くことにした。

カリカリとシャープペンシルがノートに擦れる音が響き渡る。
僕の隣では小説を読み終えた海月さんが帰り支度をしている。シュンも美香さんも、その取り巻きもいない平和な空間。だから僕はちょっとだけ勇気を振り絞って海月さんに声をかける。
「あの、海月さん。いつも何を読んでるの?」
海月さんって、きちんと名前を呼ばないと彼女は自分が話しかけられているんだと気づかない。この数か月で僕も学んだ。
「小説」
聞き方が悪かった。やっぱり僕はまだまだ彼女をわかっていない。
「えっと、どんな内容?」
「…………」
返答に悩んでいるのか、小さな手で包み込んだ小説の表紙をじっと眺めてから僕の方に視線を戻す。
「主人公の女の子が恋をするの。でも相手には恋人がいて、ずっと叶わなくて、新しい恋を見つけようとするお話」
言葉を探しながらゆっくりと、でもしっかり僕に伝わるように話してくれる。
「切ないね。僕も読んでみようかな」
「……切ない?」
「あ……えっと、でも最後は前を向いているから切ないだけじゃないのかな?」
「…………わかんない」
いつも、彼女の言葉には感情がなかった。
でも、このときはなんだか少し悲しそうに聞こえて、もう少し彼女の心に踏み込んでみたくなる。
「――あのさ」
そう、言いかけたとき、彼女の机に置かれたスマートフォンが「ピロン♪」と小さく鳴る。
LINEの通知のようだ。彼女はパッと画面に目を落とし、そして鞄に小説をしまい込んで席を立つ。
でも、思い出したように僕の方に向き直り「途中だった」と言ってもう一度席に着こうとするから僕はそれを制止する。
「あ、気にしなくていいよ。僕も今後その小説読んでみるね」
「うん」
「帰るんだよね?」
「まだ帰らない。資料室に行く」
先ほどのLINEは誰かからの呼び出しだったのだろう。凛さん、かな。
「そっか。えっと、その……ま……じゃあね……?」
本当は、またね、って自然に言いたかった。でも、僕にはちょっとハードルの高い言葉。
「また」っていうのは次の約束だから、気恥ずかしさと次がなかったときの悲しさを含んでいて、友達のいない僕には似合わない言葉。
でも、そんな僕に彼女は「また明日」って言ってくれた。
いつもと同じく無表情。それでも彼女がその言葉をかけてくれたことは心が舞い踊ってしまうくらいに嬉しかった。

……のに、僕みたいな冴えないやつはやっぱり絶望がお似合いだったみたいだ。

        *

海月さんが教室を出てから何気なく彼女の席の方を見ると、机の下に栞が落ちていることに気がついた。
拾い上げるとそれは厚紙にリボンをセロハンテープで貼った手作りのもので、裏返してみるとクレヨンでヒマワリの絵が描かれた。幼稚園児が描いたようなお世辞にも上手とは言えない絵。だけど相当使い込まれているから、海月さんにとって大切なものかもしれない。
明日になればまた教室に来るとわかっている。だから机の上に置いてもよかったと思う。
でも、帰宅して栞がなくなっていることに気づいて海月さんが悲しむんじゃないかと思ったら、僕の足は自然に資料室に向かっていた。

資料室の存在は知っていたけれど、入るのは初めてだ。
校舎の隅っこにひっそりとあるこの部屋は、創立当時からの卒業アルバムや文集が保管されているそうで、学校内での閲覧に限って持ち出しが許されている。生徒であれば出入りは自由だけど、この部屋に入っている人を実際に見たことはない。
(どうしてこんな場所に呼び出されたんだろう?)
不思議に思いながらもガラッとドアを開けると、目の前の光景に絶句した。

「――わっ! ご、ごめ……ん、なさ……い!」
あまりの驚きに僕はのけぞってしまい、倒れそうな身体を支えるためにドアをガシッとつかむ。全体重がかかったドアはレールを外れ、廊下の方に僕と一緒に大きな音を立てて倒れてしまった。

その衝撃で、手に持っていた海月さんの栞がフワッと宙に舞う。
「……あ!」
それが自分のものだと気づいた海月さんは僕の足元に落ちた栞を大切そうに拾い上げて胸元に引き寄せる。
「これ私の」
「う、うん! あの、落ちてたから……その、ごめん! お邪魔しました!」
手のひらで顔を隠し彼女の方を見ないようにしながら、急いでドアを元に戻して僕はその場を立ち去った。
そのとき、一瞬資料室の奥の椅子に腰かけていたシュンが蔑むような目で僕を見ていたのだけは気づいていた。

(――びっくりした、びっくりした、びっくりした!)
心臓がバクバクと鳴ってうるさい。
走っているせいで余計に息が苦しくて、吸って吐くだけのその動作が上手くできなくて、正門を出たあたりで僕はしゃがみこんでしまう。
(嘘……だろ…………)
資料室にいたのは海月さんだけじゃなかった。シュンもいた。
恋人同士の二人だから一緒にいるところを見たってなんら不思議じゃない。でも、親しそうにしている二人を見たことがなかったから、先ほど僕が見たのは夢だったんじゃないかなんて一瞬頭をよぎるけど、強く頬をつねってみるとやっぱり痛くて、現実を突きつけられる。

椅子に腰かけたシュンの膝の上に向き合うように海月さんが座っていた。
制服のシャツを脱いでTシャツになったシュンと、上半身は下着だけになった海月さん。
その格好で、シュンが海月さんの胸に触れながらキスをしていた。
凛さん以外の女子に話しかけるには勇気がいる僕みたいな冴えない童貞には刺激が強すぎる。漫画やドラマでさえこういうシーンになると赤面してしまう。
下着姿であることなんて全く気にしていない様子で僕に近寄ってきた海月さんに驚いて、僕の方が恥ずかしくなって、それでとっさに目をそらして逃げた。
でも、息が整うにつれて驚きしかなかった感情に悲しさと悔しさと嫉妬が入り混じって頭がぐしゃぐしゃに混乱して、胸まで苦しくなってくる。

「凛さんの……嘘つき……」
僕は誰にも聞こえない小さな声でそうつぶやいていた。
海月さん、シュンから嫌なことはされてないって言ってたじゃないか。あんなの海月さんが喜んでするわけないだろ。
あの動画をネタにシュンから脅されてるって、だから僕に助けてって言ってよ……。

わかってる、それは僕の理想を海月さんに押し付けているだけだって。
シュンはかっこいい。頭だっていい。スポーツもできる。それに僕以外には優しい。
海月さんがシュンを好きになったってなんら不思議じゃない。

でも、どうしてもそれは違うって信じたかった。
初めて会った日、僕を惹きつけて離さなかった彼女はシュンみたいなやつを好きになるはずがない。
彼女の本心を知りたい、でもそれを知るのは怖い……。
相変わらず僕は臆病で、いつものように唇を噛みしめて涙を流すことしかできなかった。

第7話 切なく甘い香り

教室の方が騒がしい。
ガヤガヤと賑やかないつもの朝とはなんだか違って、不穏な空気が漂っている。

僕たちの教室の前に人だかりができていることに気がついたとき、それを押しのけるように一人の女子が出てきた。美香さんだ。
彼女は僕の方に真っ直ぐ向かって来る。眉間にシワを寄せて、大きく腕を振っている様子から、先ほど感じた不穏さが間違いではなかったんだと確信に変わる。
「ねえ、あんた昨日なにを見たの?」
「…………き、昨日」
大きな瞳で強く睨みつけられて、気をつけの姿勢で僕は硬直する。
昨日、その言葉で悟った。僕が見たシュンと海月さんのことだと。
「あんたが走っていくところを見た人がいるの。そのあと谷センが人払いをしてシュンとあのボヤッとした女を生徒指導室に連れて行ったって。なにがあったか言って」
「ぼ、僕は…………」
谷センとは谷垣先生。生活指導の学年主任。元国体選手で野球部の顧問でもある怖い先生。
その先生にシュンと海月さんが生徒指導室に連れて行かれたと聞いて冷や汗が出てくる。
僕がドアを倒して大きな音を立てたから、きっと昨日の二人が先生に見つかってしまったんだ。
「ねえ! 黙ってないで言って!」
なにも言わない僕に苛立っている様子だ。
美香さんはシュンのことが好きで体の関係もあったと言っていた。海月さんがシュンに色仕掛けをして付き合ったと今でも思い込んでいるみたいだから、昨日のことは言わない方がいい。
それは僕にでもわかる。
「ぼ、僕は……なにも…………」
「嘘つくんじゃねーよ!」
肩に強い衝撃を受けてよろけた次の瞬間、背中に痛みが走る。
目を開けると廊下に仰向けに倒れていた。
「言えよ! あの女、シュンになにしたの!? シュン停学だって――」
そう言いながら彼女は僕に馬乗りになって右手をギュッと握りしめている。
――殴られる! そう思ったとき、急に彼女が引き剥がされた。
「……ねえ、なにしてんの?」
その声にほっとした。凛さんだ。
「邪魔しないでよ! あ、あんたも、あのボヤッとした女といつも一緒にいるでしょ!」
「……海月のこと? まだいじめてるならアタシが許さないけど」
美香さんの腕を引きながら、今まで見たことがないくらい怖い顔をしている。
「私はもうなにもしてない! あの女のせいでシュンが停学になったの!」
その言葉を聞いて、凛さんの目が一瞬見開いて、そしてゆっくりと美香さんの腕を離す。
「だから海月今朝いなかったんだ」
納得したような、していないような、複雑な表情。
「で、なんであんたは輝月に噛みついてんの?」
「こいつが事情を知ってるの!」
「…………輝月、そうなの?」
凛さんには嘘をつきたくない。でも、ここで知っていると言ったら美香さんや、この騒動で集まってきたみんなに昨日のことを知られてしまう。
だから、凛さんにだけ目で訴えたあと、僕は首を大きく振る。
「し、知らない! ぼ、僕は、海月さんに忘れ物を届けて、それで、すぐに帰ったから」
「……ほら、輝月そう言ってるじゃん。センセーにでも聞きなよ」
凛さんは僕の上にいる美香さんをどかして、手を取って立ち上がらせてくれた。
「知らないなんて嘘に決まってる! だって――」
まだ納得できない、そんな様子で再び僕に彼女が近づいてきたとき、始業の合図のチャイムが鳴ってそこに来た担任の先生に教室へ入るよう促された。
とりあえず助かった。

        *

珍しく僕のスマートフォンに通知があった。二件も。
そのうち一件は凛さんからで、「昼休み中庭に来て。知ってるなら教えてほしい」というものだった。もう一件はシュンだ。「放課後すぐに俺の家に来い」と。
シュンの僕に対する扱いはひどいものだけど、「キヅキくん、コーラ買ってきて」みたいに実際は命令でも口調はあくまでもお願いだった。だから今回みたいな口調で連絡が入ったのは初めてだ。
怖い、けど、まずは昼休みに凛さんに会うからそこで相談してみよう、そう思った。

中庭に向かう途中、凛さんにどこまで話すか悩んだ。
でも、嘘をついてもきっと僕は顔に出てしまうし、大事な従妹になにがあったか知らないことは凛さんにとって不安で仕方がないと思う。
だから、僕は自分が見たものを全部正直に話した。
「…………」
俯いて、黙り込んでしまう凛さん。
今日は曇りだけど校舎に囲まれて風の入らないこの中庭は蒸し暑くて、僕の頬を汗が一筋伝う。
「海月さんは――」
海月さんは凛さんになにも言っていないのか、そう聞こうとしたとき。
「海月さ、あいつのこと好きなのかな?」
「…………」
「アタシさ、いじめをやめさせるために提案に乗ったけど、ずっと後悔してて。海月はあいつのこと絶対好きじゃなかったじゃん。だけど海月は断らないってわかってたの。一時的にでも彼女のフリをして、いじめがなくなったら別れさせればいいって思ってた」
「……うん」
それは、僕も同じだ。ほとぼりが冷めるまで、そう思っていた。
「アタシ、海月のことわかんなくて。聞いてもほしい答えは返ってこないし、自分からはなにも言ってくれないから、もし海月があいつのこと好きになってたら別れろって言う方がひどいし、でも嫌な思いをしてるなら助けたいし」
「……ごめん」
「なんで輝月が謝るの?」
「僕が言ったから。シュンに話そうって」
「輝月は話そうって言っただけじゃん。付き合うことを提案したのはあいつで、それに乗ったのはアタシ」
凛さんはどこまでも優しい。だからこそ責任を感じているんだ。
「僕、放課後シュンに呼ばれてるんだ。海月さんがなにも言ってくれないなら僕がシュンに聞く」
「……行くの? 輝月のせいで停学になったって思っていたりするなら、なにされるかわかんないよ?」
「怖い……けど、行く」
「でもっ…………」
凛さんはこんな僕のことを心配してくれる。でも、決心が伝わったのか、彼女は口をつぐむ。
「僕が明日学校に来なかったら、そのときに心配して」
「バカ! 絶対来なさいよ!」
コツン、と頭を小突かれる。
全然痛くなくて、優しさだけが伝わってきた。

        *

シュンの家は知っていた。何度も荷物持ちをさせられたから。
さすが医者の家系。自宅を囲む高い門がどこまでも続いている。
ようやく入口にたどり着いてシュンに電話をかけると、門が自動で開いて、そのまま玄関を入って正面の階段を登って右側にある部屋に入るように促された。

そして、僕はまた衝撃の光景を目の当たりにする。
「……海月……さん?」
「…………なに?」
ここでなにが行われていたのか僕にでもわかる。しわくちゃになったベッドシーツ、そこに座るのはブラウスのボタンを留めている海月さん。その横には上半身裸のシュン。
胸がざわつく。どうして僕がここに呼ばれたかわからないし、なんで海月さんがいるのかもわからない。
また、僕は逃げ出そうとした。でも、振り返ってドアノブに手をかけたとき、僕のリュックをつかんだシュンに制止された。
「なあ、お前のせいで父さんに殴られたんだけど」
そう言って、シュンは僕に腫れた左頬を見せてくる。内出血していて痛々しい。
「俺さ、将来医者になるんだよ。父さんのコネで医学部に入るって決まってたんだよ。それなのに停学なんてありえないんだよ」
口角は上がっているけれど、鋭い眼光が僕を捕らえて離さない。
「俺は父さんに期待されてたんだよ、お前とは違ってさ」
ガシッと肩に腕をまわされて、僕はだんだんと呼吸が早くなる。逃げられない。
「そ、それじゃあ、こ、ここに……海月さんがいたら……よ、よくないんじゃ……」
黙っていると自分の心臓の音が頭に響いて、余計に怖くて、必死で言葉を探す。
「父さん、学会でしばらく留守なんだ」
「そ、そう……なんだ…………」
「なあ! お前どう責任取るんだよ!」
「――痛っ!」
語気が強まったと同時に、髪を乱暴につかまれ机の方に吹っ飛ばされていた。
ぐるりと視界がまわる。頬を伝う温かさは汗じゃない。不思議と痛みはそんなに感じていなかったけれど、手の甲にポタっと赤い血液が垂れてきて、急に恐怖が全身を襲う。
「俺の経歴に傷を――」
シュンが、近づいてくる。はあ、はあ、と呼吸をするのが精一杯で、僕は振り向くことができない。
でも、そのとき、ふわっと甘い香りが漂ってきて、僕の怪我した額にハンカチと温かい手が添えられていた。
「血、出てる。大丈夫?」
それは海月さんだった。
でも、その行動がシュンの逆鱗に触れる。僕の顔の真横にあった机をガンッと蹴られ、心臓が止まったかと思うほど驚いた。
「……帰れ」
「あ、えっと……」
シュンの口から出た言葉が意外で驚いていると、僕を無視してすぐ横にいた海月さんの顎に手をかけ口づけをする。何度も、何度も、それはだんだんと深くなっていく。
そして先ほど彼女が留めたばかりのボタンをまた一つずつ外していく。
「あっ! わ、お、邪魔、しました……!」
海月さんが額に当ててくれていたハンカチを自分の手で押さえて、壁際に飛ばされていたリュックを拾って僕は慌てて部屋をあとにした。

海月さんは、嫌がっていなかった。
シュンを全く拒んでいなかった。
ハンカチから彼女の甘い香りを感じるほどに切なさと虚しさが募ってゆく。

第8話 一緒にいる理由

期末試験の初日から、シュンと海月さんが教室に戻ってきた。
普段は愛想よく振舞うシュンが誰から見ても不機嫌だとわかる態度でいるから教室は静まり返っている。
だからシュンといつもつるんでいる友人たちも取り巻きの女子たちも停学の理由を直接聞く素振りはなく、シュンと一緒に停学になった海月さんとは距離を置いているようだ。

でも、ずっと噂はされていた。
「資料室で二人がヤった」って。
もちろん僕は誰にも言っていない。凛さんだってそうだ。
でも、人気のない資料室に恋人同士の男女が二人っきりでいて、それで停学となれば容易に想像がつく。高校生の男女だから特別な行為ではないのかもしれないけれど、あの優等生で人気者のシュンと何を考えているかわからない海月さんのこととなればみんながその噂に食いついてすぐにそれは広まってしまった。

この日から、海月さんはまたクラスで孤立した。
一方で、噂を聞きつけたほかのクラスの生徒や上級生たちからは見世物になっている。
「大人しそうな顔してエロい」とか「ビッチ」とか囁かれていて、それに美香さんが「あの子は誰の前でも簡単に脱ぐ」なんて言うからより注目を集めて海月さんの身体目当てで近づいてくる人もいる。
でも、毎度激怒したシュンが海月さんの腕を引いてそんな人たちから引き剥がすから実害はない……と思う。

シュンがいる限り海月さんはきっと大丈夫。
でも、僕の地獄はここからだった。

        *

僕は、無意識に海月さんを目で追ってしまう。
傷ついていないかな、つらい思いをしていないかな、そんなことが気になって。
そして、シュンの恋人だとわかっていても、どうしても惹かれてしまって、笑いかけてくれることなんてないとわかっていても、それでも笑顔を見てみたくて、彼女から目が離せなかった。
目が合うと、彼女は「なに?」と素っ気なく僕に声をかけてくる。それに対して「なんでもないよ」っていつも答えるし、叶わない恋だとわかっているけれど彼女の声が聞けたことが嬉しくて、どうしてもにやけてしまうんだ。

「お前、海月のことばっか見てんじゃねーよ」
その言葉で、現実に引き戻される。
シュンは停学以降やけくそで、部活をサボることが多くなった。
この日も部活をサボったシュンは海月さんと一緒に帰る約束をしていて、僕は荷物持ち。こんな性格の悪いやつが海月さんの彼氏だなんて認めたくない。でも、海月さんを守っているのは間違いなくシュンで、僕には到底敵わない。
「陰キャのくせに気持ち悪りぃ」
前を歩くシュンが、そうボソッとつぶやくのが聞こえた。
「…………見て……ない」
「は? わかりきった嘘つくなよ。俺がうらやましいんだろ?」
「…………」
うらやましい。涙が出るほど。
「そんなに見たいなら見せてやるよ。俺から目離したら殴るから」
「――えっ?」
その言葉と同時に、シュンはまた海月さんの唇を奪う。いくら人通りがないからってこんな道端で大胆すぎる。目を離したら殴るって言われても、こんなの見たくない。見ていられない。
そう思ったのに、小さく息を漏らながら少しずつ頬が赤く染まっていく海月さんに欲情を掻き立てられて、僕は目を離すことができなかった。いつも無表情でそっけない海月さんのこんな表情、僕は見たことない。
「……たかがキスだろ」
「たかが……って……」
少し乱れた息、でも余裕の表情。この場で余裕がないのは僕だけ。
耳まで熱い。鏡を見なくても自分が真っ赤な顔をしていることがわかる。そんな僕をさらに追い詰めるようシュンは言葉を放つ。
「童貞は大変だな」
……って。その言葉の意味を理解したときには遅かった。
とっさにシュンの鞄をその場に置いて自分のリュックを前に背負いなおし、ズボンの前を隠す。恥ずかしさが一気に込み上げてまた涙が溢れそうだ。
「……ご、ごめん!」
また僕は逃げた。
海月さんにもきっと気づかれた。気持ち悪いって思われた。最悪だ。死にたい。

翌日、僕は学校を休んだ。
心配した凛さんが連絡をくれたけど「風邪ひいたんだ」って嘘をついた。
このままもう学校に行くのはやめようかな。二年生になればクラス替えがあるかな。なんて逃げ癖のついた僕はシュンから離れることだけを考えていた。
でも、それを許さなかったのはシュンだった。

「俺から逃げたらお前と仲良しの海月の従妹を襲うから」
そのメッセージを見て、僕は布団の中で声を殺して泣き続けた。
誰かが僕の代わりに犠牲になってくれればいいのに。いじめられていた中学のころに何度も思っていたこと。
でも、こんな僕に唯一優しくしてくれる凛さんが僕のせいで傷つくのだけは……嫌だ。
敵わない。逃げることも許されない。
……どこに行ったって、僕はこういう運命なんだ。

        *

中学生のころは、教科書に落書きされたり、上履きに画びょうを入れられたり、池に突き落とされたり……そんないじめを受けてきた。
泣き腫らした目で、汚れた格好で、怪我をして帰宅した僕を心配した母さんが学校に掛け合ってくれたけど、先生はまともに取り合ってくれなくて、母さんも忙しくて僕ばっかりに構っていられないから学校を休むことを許してくれた。
不登校な僕を嘆いて母さんはいつも泣いていた。そんな母さんを見て父さんは怒ってばかりで、僕のせいでいつも空気が重かった。

でも、父さんの転勤が決まって「新しい環境できっといい友達に出会えるから」って喜んで久しぶりに母さんが笑ってくれた。
母さんの泣く姿はもう見たくない。

幸いにも、中学生のころのいじめとは違って、高校生になってからのいじめはまだ母さんには気づかれていない。
シュンから離れられる日まで、その日まで、僕が我慢すれば気づかれることはない。
でも不幸なことに、クラス替えは文系か理系かを選択する三年生になるときまでないと知った。だから、二年生になってもシュンとは離れられなかった。

        *

以前は僕が購買でパンやジュースを買ってくれば、シュンは「ありがとね、キヅキくん」と笑いかけてくれていた。
でも、僕が学校を休んだあの日以降、「遅い」「気が利かない」「その顔がムカつく」なんて言って、何かするたびに暴力を受けるようになった。理由なんてなんでも良かったんだと思う。もうこんなことが一年以上だ。
「女子更衣室を盗撮して来い」「美香に告白して来い」なんて命令のときもあった。
みんなシュンからの命令だって気づいているくせに、僕だけがクラスメイトから気持ち悪いと思われる存在にされて、まるで虫を見るような目で蔑まれるようになった。
隣のクラスの凛さんには僕が「キモ男」と呼ばれていることしか伝わっていないみたいだから何事もないようにふるまい続けている。
それでも凛さんは「何かあった?」と何度も聞いてくれたけど、巻き込みたくなかったから「テストの点数が悪かった」とか「シュンの機嫌を損ねて怒らせちゃった」なんてごまかしていた。

だから僕を助けてくれる人はいない。一人ぼっちだ。
そう、思っていた。

「ねえ」
透き通る声。それは海月さんの声。
「…………僕?」
「ここに君以外いない」
日直だった僕は先生に雑用を頼まれて教室に残っていた。
プリントを数えて左上をホチキスで留めるだけなのに僕は要領が悪いからなかなか終わらなくて、もう外は真っ暗。みんなとっくに帰宅したと思っていた。
「海月さん、どうして……ここに?」
海月さんと僕の関係は変わることがなかった。近づくことも、遠ざかることもない。
そんな彼女が僕に声をかけてくれたことに驚いた。
「ずっと、わからなかった」
「……なにが?」
「どうしてシュンといつも一緒にいるの?」
「え?」
それは、意外な言葉だった。
そして、もっと意外な言葉が続けられる。
「凛ちゃんは友達といるときいつも笑ってる。ほかの人も。でも、君は笑ってない」
「…………それは、海月さんもじゃないか」
「私?」
「凛さんといるときも、シュンといるときも笑ってないよ」
「…………」
僕の言葉に彼女は黙り込んでしまう。
凛さんから海月さんの家のことは聞いていた。海月さんは笑わないんじゃない、笑えないんだ。だから僕の言葉はひどいものだったかもしれない。
でも、ずっと聞きたかったことがある。
「ねえ、海月さんはどうしてシュンといるの?」
「それ、私が先に聞いた」
「あ、ごめん。そうだよね。えっと、僕は……シュンが、怖いから」
情けない。でも、好きな子の前でも、僕にプライドなんてもうない……。
「怖いのに一緒にいるの?」
「うん、逃げたらもっとひどい目に遭うから」
「ふーん」
まるで興味がなさそうな返事だけど、僕の目をまっすぐに見ながら唇をキュッと指でつまんで少し悩んだようなしぐさをするから、真剣に聞いてくれているんだと思う。
「それで、海月さんは?」
「…………」
「…………」
また沈黙になる。彼女が話したくないことを無理に聞くつもりはない。でも答えを考えているようだったから僕は彼女の言葉を待った。
すると小さく頷いたあと、彼女の口が開く。
「私を……必要としてくれるから」

それは、予想をしていなかった答えだった。
あの日、ハンカチを差し出してくれたとき、海月さんは感情を表に出すのが苦手なだけで優しい子だって確信した。
でも、自分のことにはまるで興味がなくて、すべて諦めているように感じていた。

だけどそうじゃない。
海月さんは自分でも気づいていかもしれないけれど、ずっと寂しかったんじゃないかって、そう思ったんだ。

第9話 小さな両手

「私を……必要としてくれてるから」
その言葉に、僕はギュッと胸を締め付けられた。
寂しさ、悲しさ、そんな思いが込められているようで、彼女の本心にほんの少しだけ触れられたような気がした。
だからといってシュンと一緒にいる理由にはまだ納得できていない自分がいる。
シュンは独占欲が強い、それはわかる。だから一度自分のものになった海月さんを手放したくないという気持ちはわかる。でも、それだけで海月さんがシュンといることを選ぶだろうか?
「……シュンがそう言ったの?」
「うん、泣いてた」
「え?」
「泣くのは見たくない。それが誰でも」
泣いていた? シュンが?
海月さんの言葉が信じられなくて、でも海月さんが嘘をつくなんて思えない。
「……君も、いつも泣いてる」
「え?」
彼女の言葉はいつも突拍子がないから僕の思考では追いつけない。
でも…………。
「泣かないで」
言葉と同時に僕の頭にフワッと柔らかい手が添えられて、彼女の優しさに包まれて、これまで我慢してきた感情と一緒に流れてくる涙を抑えられない。
海月さんの前なのに、涙なんて見せたくないのに。でも、今はこのまま……少しだけ……。
「……泣かないで、って言ったのに」
「ご、ごめ…………」
小さな唇を尖らせてそう言う彼女が愛しくて、押し殺していた気持ちが喉まで出かかっている。
シュンと一緒にいる姿を見ているのがつらかった。僕の知らない海月さんを知っているシュンがうらやましかった。叶わないとわかっているのにどうしても海月さんに惹かれてしまうのが苦しかった。情けない姿を晒しているのがずっと惨めだった。
「海月さん……ぼ、僕が……僕も……海月さんを………」
「なに?」
「僕も……海月さんを必要だって言ったら……そばに、いてくれる?」
もっと伝えたいことはたくさんあった。でも、これが僕の精一杯。
「君も私が必要なの?」
「…………うん」
その言葉の続きは聞けなかった。

        *

気が付いたときには、真っ暗な校舎裏で一人横たわっていた。
顔は涙でぐしゃぐしゃで、突き飛ばされたときに擦りむいた腕からは血が出ている。それに下半身は丸出しでだらしない白い液体で汚れていて、でもそれを隠す気力もない。
「――選べ」
シュンが僕に選択を迫った。
海月さんと僕のやり取りをシュンに見られていたことが発端だ。
「二人で俺を裏切った」とこれまで見たこともない形相で詰め寄ってきて、僕と海月さんはここまで連れてこられた。
殴られて、蹴られて、首を絞められて、でも「やめて!」と叫んだらピタリと止まった。
そして、残酷な二択を僕に突きつけてきたんだ。
「俺は海月が脱がされたときの動画を持ってる」
「…………」
「これを今からSNSに載せる。名前や学校名と一緒に」
「…………だめ、だ」
「そう言うよな、海月のことが好きなお前なら」
「…………」
「俺は優しいからお前に選ばせてやる。海月の動画を拡散するか、今からお前が一人でシてる動画を撮ってそれを拡散するか」
「…………」
すぐに返事はできなかった。悔しさと惨めさでいっぱいだったから。
でも、迷いはなかった。海月さんを助けることができるのなら本望だ。今の僕に失うものなんてない。
だから……僕は制服のベルトに手をかけた。
何度も、何度も、海月さんは止めようとしてくれた。
感情を表に出すことのなかった彼女が「シュンやめて!」「そんなことしなくていい!」「私の動画なんて拡散すればいい!」と僕のために声を荒げてくれたことが嬉しかった。
このあとのことを考えると怖くて全身が震えてちっとも勃たなくて、でも僕の頭を撫でてくれたあの優しい手を思い浮かべながら無理やり刺激を与え続けることでシュンが望む動画を撮らせることができた。
だからこれでシュンも満足する。
……そう思ったのに、僕をかばった海月さんのことまで乱暴に押し倒して、そして僕の目の前で無理やり抱いた。いや、犯した、といった方が正しかったと思う。
止めようとした。でも、殴られた拍子に頭を強く打ち付けて、そこで僕の意識は遠のいた。
それからどのくらいの時間が経ったかはわからない。だけど、もうそんなことはどうでもいい。
僕がこれからやることは決まっているから。
立ち上がろうと身体を動かすとあちこち痛い。足もがくがくと震えている。
それでも、一歩、また一歩と歩みを進めることは止めなかった。

        *

高校二年、冬。
僕はシュンに自慰行為の動画を拡散される。いや、もうされたのかもしれない。
僕の人生はもう終わりだ。
僕という存在のせいで海月さんまであんな目に遭ってしまった。
もう何度もシュンと海月さんは身体を重ねてきたかもしれない。でも、合意の上ならそれでもいい。だけど今日のそれは一方的で、暴力的で、海月さんは絶対に望んでいない。
抵抗しなかったのはきっと僕のため。
僕の存在が海月さんを傷つけた。
だから……決めたんだ。前にシュンが言っていた鍵が壊れた四階の窓を開けて立入禁止の屋上に足を踏み入れた。
ここに来るまでは怖かった。でも、柵を乗り越えてしまうと胸が軽くなるから不思議だ。
ゆっくりと瞼を閉じて、全身で風を感じて、息を整える。
「誰か一人だけでも悲しんでくれるかな…………」
ぽつりとその言葉がだけがこぼれ出た。
柵から背中を離し、片手を離し、残りの手も…………その時だった。
「――大地輝月!!!!」
真後ろから突然大声で呼ばれ、それに驚いた僕は地上に吸い込まれそうになる。
でも、そのあとガシャンッ!と大きな音がして、柵越しに小さな両手が僕の手を強く握りしめていた。
「何度も……呼んだのに…………」
「海月……さ……ん……どうして…………?」
息を切らしている彼女の髪も制服も乱れていて、ブラウスのボタンは掛け違っていて、慌ててここに来てくれたことがわかる。
繋がれた右手がほんのりと温かい。彼女の体温を感じるとなくなったはずの恐怖が再び押し寄せてきて、僕は慌てて柵の内側に戻ると全身の力が抜けてしまった。また涙が勝手にあふれて止められない。
「……シュンが言ったの。キヅキは死ぬだろうな、って」
「……うん」
「だから、戻ったの。でもいなくて、そしたらここに出る方法をシュンが話していたのを思い出したの」
「どうして、来て、くれたの? 僕なんて……」
「わからない。でも、行かなきゃ、って思った」
生きている。そのことに心の底から安堵した。
このあとの僕の人生が終わりなのは変わらない。
それでもこのときに命を捨てなくてよかったと、僕はあとで実感するんだ。

        *

動画が拡散されたかどうかはわからなかった。
あの日を最後に学校に行くことをやめたから。
本当は翌日も学校に行こうとした。
「俺から逃げたら海月の従妹を襲うから」という以前シュンから届いたメッセージがどうしても頭から離れなかったから。
だけど校舎が視界に入ると全身から冷や汗が噴き出して、道行く人みんなに昨日の僕の行為を見られたような気がして、歩みを進めることができず膝からその場に崩れてしまった。立てない、動けない、呼吸が苦しい…………。
誰か――。
そう願ったとき、聞き慣れた声が僕を呼んでくれる。
「輝月!? どうした?」
「凛、さん……」
振り返ると優しく肩に手を添えてくれたのは凛さんだった。そしてそのすぐ横にぴったりと海月さんがくっついている。
「ちょっと、顔真っ青じゃん! とりあえず保健室まで行こ?」
僕はその手を振り払った。
言葉が出なくて、必死で首を振ることしかできなくて、凛さんを困らせている。
「……凛ちゃん、私の家誰もいない」
そう話したのは海月さん。いつもとは違う雰囲気に凛さんは何かを察したようで僕の肩を抱いて学校とは反対側に連れて行ってくれた。
…………ごみ屋敷、とまではいかないけれど、派手な洋服や化粧品、僕でも知っている高級ブランドの紙袋、そして空き瓶や空き缶で足の踏み場のないほど散乱した部屋。
それをかき分けて奥のふすまを開けると、綺麗にたたまれた布団の横に小さな机がひとつ。そこに教科書と小説が並べられているだけの寂しい空間が広がっていた。
(ここが…………)
この家が、この部屋が、まるで海月さんそのものを映し出しているようだった。
僕たちはそこに三人向き合うように座った。でも、言葉は出てこない。
心配をかけたくない、巻き込みたくない。でも、逃げたい、助けてほしい……。
正座した膝の上でギュッとこぶしを握り締めて言葉を探していたとき、真っ先に口を開いたのは海月さんだった。
「大地輝月は死のうとしたの」
相変わらず足りない言葉。でも、それが昨日の僕のすべて。
また適当な言い訳をして隠すこともできたかもしれないけど、もう限界だった。涙のようにぽつり、ぽつりとこぼれる言葉を凛さんは丁寧に拾ってくれて、こんな僕のために泣いてくれた。
「アタシ、気づけなくて…………」
「僕が隠してたんだ。ごめん」
「アタシは輝月が気づけなかったときに責めたのに謝らないでよ」
「全部僕のせいだから」
「違う。ごめん……ごめん、輝月、海月……」

優しすぎる凛さんに知られたらこうなることはわかっていた。昨日海月さんが「泣くのは見たくない」と言っていたことも思い出してしまうから余計に苦しくなる。
つらい感情をどれだけ吐き出しても解決策は見つからなくて時間だけが過ぎていく。
でも、その沈黙を破ったのも海月さんだった。
「シュンはもう二人に何もしない」
私がちゃんとシュンのそばにいるから大丈夫だよ、って。
そう言ったときの彼女もやっぱり無表情だったけど、その言葉の奥では悲しそうに微笑んでいたような気がした。
凛さんは「海月ももうそんな男から離れて」って強く言ったけど、海月さんは黙って首を振るだけだった。

だから、僕たちはこの日最後に約束をした。
――何かあったら必ず三人で共有すること、絶対。と。

最終話 消えてしまう前に

僕はあれから学校に行っていない。
シュンからも一切連絡はない。
出席日数はぎりぎりだったけど、僕もみんなと一緒に三年生になった。

部活を引退した凛さんはこのところ毎日僕の家に来てくれる。
気を遣って学校のことはほとんど話さないし、あの動画が拡散されたかどうかも不登校になった僕のことを周りがなんと言っているかを聞いても「大丈夫だよ」って笑うだけ。
でも、医者になると言っていたシュンが海月さんと一緒の文系クラスになって授業をサボってばかりだから今は問題児扱いされているということは教えてもらった。
海月さんには以前のように優しく接しているということもそのときに聞いて安心した。

ベッドに横になって漫画を読んでいる僕と、小さなテーブルで宿題をする凛さん。
この時間がいつまでも続けばいい。そう願うほどに僕の心は穏やかだった。

        *

凛さんが海月さんを連れてきたのは梅雨入りしたころ。
この日はシュンが学校に来なかったそうだ。
帰り道に新しくできたケーキ屋さんでショートケーキとモンブラン、フルーツタルトを「三人で食べよ」って凛さんが買ってきてくれた。僕らに共通の趣味も話題もないけれど、湿気のせいで髪がまとまらないとか、部活を引退しても食欲が変わらないからすぐに太りそうとか、そんな凛さんの話を聞きながら過ごす心地よい時間だった。

でも、違和感に気付いた。
「海月さん、モンブラン苦手?」
「ううん」
「……食べないの?」
「…………」
いつも彼女は静かだから、ケーキに全く手を付けていないことにしばらく気が付かなかった。
それにカーディガンを羽織っているからわからなかったけど、明らかに海月さんは以前よりも痩せていて顔を覗き込むと真っ青だった。
「体調、悪い? 食欲ない?」
おろおろとすることしかできない僕を横目に、凛さんは落ち着いた様子で海月さんの背中をさする。
「……また食べれない?」
「うん」
「昔からたまにあるの。海月が食べ物を受け付けないときが」
低気圧のせいか、受験へのプレッシャーのせいか、原因はわからない。だけど無理に食べさせようとするとそれがさらにストレスになって抜け殻のように動けなくなってしまうらしい。
「これは持って帰りな。明日になっても食べれなかったら捨てていいから」
「……うん」

辺りがだいぶ暗くなったころ、僕は玄関で二人を見送った。
手を振って、二人が振り返ったその時だった。――海月さんが倒れたのは。
太ももを伝って垂れてくる大量の血液、血の気を完全に失った顔色。彼女自身、何が起こっているのかわからない様子でただ目を見開いていた。強くお腹を抱えながら……。

        *

高校三年、冬。クリスマス。
再びここに立つ日が来るとは思わなかった。

でも、絶望していたあのときとは違う。
今は、彼女を救うためにここにいる。

「海月さんが、いつか心から笑えますように――……」

そう願って、僕は大きな一歩を踏み出した。

        *

海月が泣いているのを見たのは何年ぶりだろう。
海月が倒れた日、アタシは海月の名前を呼ぶことしかできなかった。
救急車を呼んだのも、海月の荷物から母親の電話番号を見つけたのも、あれだけ恐れていたシュンに連絡をしたのも全部輝月。

……流産、だった。
海月も、シュンも、誰も気づいていなかった。

このときばかりは、海月は泣くと思った。
でも、「凛ちゃん泣かないで」「病院に連れてきてくれてありがとう」「もう遅いから帰って大丈夫だよ」って周りのことばっかりで、一言も弱音は吐かなかった。
……ううん。痛みも、苦しみも、悲しみも、このときの海月にはわからなかったんだ。

海月の家庭環境に、心に、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。アタシは海月を傷つけたくないというのを理由にして、自分が傷つきたくなかっただけ。輝月のことも、気づけなかったんじゃない。目をそらしていたんだ。

後悔したって、海月のなかに宿った命も、輝月も、もう戻ってこない。

        *

ずっと、苦しかった。
優等生を演じるのも、親の期待に応えるのも。

テストでいい点を取っても、部活で表彰されても、優秀すぎる兄貴と比べられてちっとも褒めてもらえない。
そのくらい当たり前、それが父さんの口癖。母さんも父さんの言いなりだ。
ずっと弱音を吐きたかった。頑張ったね、って褒めてほしかった。でも、幻滅されるのが怖くてそんな気持ちを誰にも打ち明けられなかった。

だけど、海月はそばにいてくれた。
弱いところを見せても、「そっか」って答えるだけで、それ以上は聞いてこなくて、それが心地よかった。

いつのまにか俺は本気で海月のことが好きになっていた。
でも、好きになればなるほど俺への気持ちがないことを思い知らされて、どんなに優しくしても、抱きしめても、唇を重ねても、虚しさだけが募ってそれ以上手を出すことはできなかった。

それなのに、キヅキと二人親しそうに話していたのを見て心底腹が立った。
キヅキじゃなくて、俺を見てほしかった。
だから……怒り任せで抱いた。これが最初で、たぶん最後。
小さな身体が震えて強張っていた。きっと怖くて嫌で仕方がなかったと思う。それでも俺に身を委ねてくれて、そのあとも俺のそばにいてくれて、それが逆に苦しくて、もう絶対に傷つけることはしないと、そう誓った。

でも、そのときの行為で海月の心にも身体にも一生残る傷をつけてしまった。
そんな海月を支えたのはキヅキだ。
死ぬべきだったのはあいつじゃない。――俺だ。

        *

大地輝月は私のことが好き。
シュンが言っていたから知ってる。でも、その「好き」という気持ちがわからない。

「海月さん、身体は大丈夫? まだ体が痛むと思うから今日はゆっくり休んで」
――わかった。
「海月さん、今日は天気がよくて気持ちがいいよ。歩けそう?」
――うん。歩ける。
「海月さんは今日何がしたい? また本屋さんに行くの?」
――さっき行ってきた。
「海月さんが買った小説読んだよ。僕は悲しい物語だと思ったけど、海月さんは?」
――二人とも好き同士なのに別れを選んだからよくわからなかった。
「海月さんの好きな食べ物はなに? ごはんとパンだとどっちが好き?」
――朝はいつもパンだからパンの方が好きだと思う。
「海月さん、今日は楽しかった? 凛さんとお出かけしたって聞いたよ」
――凛ちゃんすごく笑ってた。だから私も楽しかった。
「海月さんの大事なものはなに? 小さい頃からずっと持っているものとか」
――ママと一緒に作ったヒマワリの栞。君が拾ってくれたもの。
「海月さんの一番大切な人は誰?」
――選べない。でも、ママと凛ちゃん。あと、たぶんシュンと君も大切。

私が退院してから君は半年間、毎日メッセージをくれたよね。
最初はなかなか返せなかった。自分の気持ちがわからなかったから。でも君は私が返しやすいように考えてくれていたことを今ならわかる。
少しずつ答えが見つかって、君からのメッセージを待つようになって、それが「楽しみ」って感情なんだって、そう気付いたの。
それにね、なんとなくだけど「好き」と「大切」もわかるようになったの。

でも、知りたくなかった。
「好き」とか「大切」がなくなったとき、心臓のあたりがぎゅってなって涙が出てきたから。

ママを呼んでも私はいないみたいに無視するの。おなかの赤ちゃんがいなくなっちゃったの。凛ちゃんがずっと君の名前を叫んで泣いてたの。シュンがもう俺のそばにいなくていいよって言ったの。君からのメッセージはもう届かないの。

それが「悲しい」って気持ちだっていうこともわかった。悲しいときは苦しくなるんだね。
こんなに自分の感情に打ちのめされるくらいなら、「好き」も「大切」も知りたくなかったよ。

        *

海野海月さんへ

海月さん、ごめんね。こんなことしかできなくて。
海月さんは感情を表に出すのが苦手な子なんだって思ってた。
そこがミステリアスで、強くて、でも時々か弱くも見えて、僕の心を捕まえて離さなかったんだ。
だけどね、あの日、僕の家で倒れた日、海月さんは痛みを訴えることができなかったよね。
だから気になって調べたんだ。
それで、たぶん、いや、絶対にこれだっていうのを見つけたんだ。
失感情症、アレキシサイミアって知ってる?
感情を出すのが苦手とか、我慢してるとか、そんなんじゃなかったんだ。
海月さん自身、自分の気持ちがわからなかったんだよね。
でも、わからない気持ちを必死に伝えようと、そう行動してくれたのも知ってるよ。

正直、海月さんがちょっとうらやましかった。
僕は苦しいとか、悲しいとか、惨めとか、そんな感情ばかり抱いていたから。

海のクラゲってさ、痛覚がないんだって。痛みを知らないんだ。
まるで海月さんみたいだなって思った。
海中を漂って、その姿はとても美しくて、僕らを魅了するんだ。
だけど、気づかないだけでクラゲは確実に傷ついているんだ。
だから海月さんが壊れてしまう前に、消えてしまう前に、自分の感情に気付いてほしかった。

つらいことばかりじゃないよ。きっと。
僕が言っても信用できないかもしれないけど、それでも僕は海月さんや凛さんといる時間はとても幸せだったんだ。
だから、海月さんにもその気持ちを知ってほしいなって、そう思ったんだ。
大丈夫、海月さんのそばには凛さんがいるから。
これから海月さんを大切に想ってくれる人にたくさん出会えるから。

大切な人に僕のことを入れてくれてありがとう。
僕は、海月さんのことが大好きでした。

大地輝月より

        *

◆あとがき

輝月と海月の二人を救う結末にすることは容易だった。
物語だから。

でもそれを選ばなかった。
いじめの現実はもっと残酷だから。
幼少期に負った心の傷は簡単には癒えないから。

だから、私の思いつく限り残酷な結末にしました。

見つけて、手を差し伸べてほしい。
輝月や海月のような子を。

寄り添って、背中を押してほしい。
凛やシュンのような子を。

降谷さゆ

ー完ー