• 『桜待つ雪、雪乞う桜。』

  • 降谷さゆ
    ミステリー

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    容姿端麗な双子の雪と桜。秀才でストイックな姉と、優しく愛嬌がある妹。性格も考え方も正反対。それでも、唯一分かり合えるかけがえのない存在だった。二人がそれぞれの幸せを手にするまでは……。

第1話 プロローグ

――言葉は、言霊だ。
何気ない一言でも、何度も繰り返し耳にしているうちに潜在意識へと刷り込まれ、いつの間にか現実になることがある。

『言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから』
これは貧困や病に苦しむ人々の救済に生涯をささげたマザー・テレサの言葉。

人生において最も影響力があるのは、両親からの言葉ではないだろうか。
雪原のようにまっさらな心を持つ子どもにとって、絶対的な存在である両親から与えられた言葉はこの世のすべてで、決して疑いようのないもの。
心無い言葉はやがて自身を苦しめる呪縛となり、一度傷ついた心は二度と戻ることはなく、自身の存在意義すら消し去ってしまう。一方で、愛情のこもった賛辞の言葉は例え親の欲目だとしても自己肯定感を高めてくれる魔法。

同じ日、同じ場所、同じ両親のもとに生まれた私たち双子の姉妹は、この世に生を享けた瞬間から両親の愛情に満ち溢れた魔法の言葉をたくさんもらってきた。
「うちの子たちは特別だ」というのが私たちの両親の口癖。
いつの日も降り注ぐその魔法の言葉は、幼心にも自分たちは優れているんだという自信につながって、なんだか誇らしかった。
そして成長していくにつれて、その「特別」は意味を持つようになって、祖父母も、ご近所さんも、街ですれ違っただけの見知らぬ人も、「可愛いね」「美人姉妹」「将来が楽しみ」なんて言葉をかけてくれるものだから、親の欲目なんかではなく余所目に見ても私たちが容姿に恵まれているんだということをはっきりと理解していった。

容姿の美しさ、それは何かと注目を集めるもの。
街を歩いているだけで多くの男性から声をかけられるし、いい成績を取れば「美人で勉強までできる」なんて必要以上に評価される。困ったことがあればいつだって誰かが助けてくれるし、失敗を咎められた経験もほとんどない。美人なりの苦労はあったけれど、世間が甘やかしてくれる。
だから私たち姉妹もきっと望んだとおりの夢や幸せを手に入れることができると、誰もがそう思っていたし、私たちもそう信じていた。

姉は、「雪」という。
透き通るような白い肌と、凛と澄んだ雰囲気が冬の空を舞う雪にぴったりだったからそう名付けられた。
妹は、「桜」という。
桃色に染まったほっぺたと、柔らかい微笑みが春の空を彩る桜にぴったりだったからそう名付けられた。

焼けるような強い日差しが照り付ける真夏に生まれたのに「雪」と「桜」。
季節感なんて全く気にもしない、良くいえばおおらか、悪くいえばおおざっぱ、私たちの両親はそんな感じ。普通だったら年齢に差のある兄弟姉妹よりも、なにかと比べられることが多くてお互いの存在を強く意識してしまう環境にある双子には特に気を配って平等に接するだろう。
しかし我が家は、愛情こそ平等に注がれていたけれど、私たちが「同じ」なのは恵まれた容姿だけ。生活はともにしてきたけれど、「似ているのは顔だけね」なんて言われることも珍しくないほど、私たちは趣味嗜好も考え方も違う。

まだ文字も読めなかったころに絵本を開いていたという理由だけで「雪は秀才だな! 将来は医者か弁護士じゃないか?」なんてはしゃいで、翌週には家庭教師を雇った父。
母のドレッサーにあったリップで顔中を真っ赤に落書きしていた様子を見て「桜はおしゃれさんね! 女の子は可愛くしないとね」なんて心を躍らせ、着せ替え人形にしていた母。

人格の土台は3歳までに形成され、10歳くらいまでには確定するそうだ。成長につれて二人の違いは顕著になっていく。
でも、そんな育て方の違いに違和感を覚えることはなかった。それが我が家の普通だったから。それに、私たちはそれぞれの幸せを手にしたのだから。

正反対の二人だから、ぶつかることはたくさんあった。でも、ずっとそばにいてくれて、自分を一番理解してくれるかけがえのない存在だったから、誰よりもその幸せを喜んだ。

でも、今日の悲劇は起こってしまった。
どこから間違っていたのだろう。違う幸せを選んでいたら、同じように育てられていたら、それとも、私たちが双子に生まれていなかったら……。

        *

「…………どうして?」
と、言ったのが先だろうか。
地面に打ち付けられた強い衝撃に、一瞬意識が遠のいた。そして次にまぶたを開いたときには視界がぼんやりとしていて、すぐには今の状況を理解することができなかった。でも、身体中からすーっと血の気が引いていく感覚がある。
ほんの少しだけ動く頭を持ち上げて視線をずらすと、ようやく理解した。今の状況も、このあとの結末も。

純白のドレスがじんわりと赤に染まってゆく。
まるで真っ白い雪に積もる桜の花びらのよう、なんて思うほど心は穏やかだった。
痛みも、怖さもない。諦めと安堵、それがたぶん最後に抱いた感情。

「…………ご……めん……ね」

        *

――言葉は、言霊だ。
私たちは両親から素敵な「魔法」をたくさんかけてもらった。……はずなのに。
潜在意識へと刷り込まれた言葉の数々。期待と、愛情に満ちた言葉が、いつしか私たちを苦しめる「呪縛」になっていたんだと思う。

第2話 集まる視線

雪と桜。二人はいつも一緒だった。
その「いつも一緒」に二歳年上の夏樹とその弟で同い年の秋人が加わったのは幼稚園のころ。
入園を機に母親同士が仲良くなって、実は同じマンションに住んでいたなんてことがわかって、四人は家族ぐるみで仲良くなった。

「夏兄も雪もまた観察?」
「うん、こうやってアリの行列に石を置くだろ。そうすると最初はみんなあっちこっちに行くけどまた新しい列ができるんだよ」
「すごい! 夏樹くんの言うとおりになった!」
「ふーん」
「……桜、虫嫌い」
一緒、というのはちょっとだけ語弊があるかもしれない。
私たちよりちょっとお兄ちゃんの夏樹くんは観察や実験だと言ってこうやって年長さんクラスで教わったことを私たちに教えてくれる。私はその観察や実験に興味津々で、物知りな夏樹くんに憧れていつも背中を追いかけていた。
秋人と桜はあんまり興味がないみたいだったから、夏樹くんと雪、秋人と桜という組み合わせでいることが自然に多くなっていた。
「ほら、桜が怖がってるじゃん、やめなよ夏兄」
「あ、ごめんね、桜ちゃん。じゃあみんなで鬼ごっこでもする?
「鬼ごっこはみんな足が速いから嫌。かくれんぼがいい」
「よし、じゃあかくれんぼするか!」
「もう! 桜またわがまま。私はもうちょっと観察したかったのに」
「観察はまた今後にしよう。母さんからこの間図鑑を買ってもらったんだ。次はそれも持ってくるからさ!」
桜のわがままにいつも我慢するのは姉の私。夏樹くんも秋人も泣き虫で甘えん坊の桜に弱いからいつも桜の意見が優先される。でも、夏樹くんは私の気持ちをないがしろにすることは絶対にしない。お兄ちゃん、お姉ちゃんだからと我慢を強いられる気持ちがわかるからだろう。
だからこの四人でいることを嫌だと思ったことはなかったし、上手くバランスが取れていたんだと思う。

私たちのなかに「恋心」が芽生えるまでは。

        *

「――続きまして新入生代表挨拶、双葉雪。」
「はい」
都内の進学校といえば必ず名前が挙がる東銘高校。教育熱心な父の期待通りに私は常に成績トップ。努力した分だけ結果につながることは嬉しかったから、勉強は好きだった。それに、夏樹くんの通う高校で彼と同じように首席合格者として名前を呼ばれたことが何よりも誇らしかった。
「雪ちゃーん! 頑張って!」
「おい、桜。よせって」
「……もう……やめなさいよ」
両手をいっぱいに伸ばして私に手を振る無邪気な桜とそれを笑いながらたしなめる秋人の姿に私は赤面する。
お世辞にも勉強ができるとはいえない二人。桜は家から近い西高校に行くと思っていたし、秋人はサッカーの強豪校の商業高校に行くと思っていた。でも、「離れるのは嫌」という桜に「私は志望校を下げるつもりはないから一緒がいいなら勉強しなさい」と言ったところ、夏樹くんが桜に勉強を教えてくれることになって、東銘高校もサッカーの成績は悪くないから俺も受けると秋人も一緒に勉強することになって、二人も今日この場にいる。

ちやほやされるのに慣れている桜と違って私はこういう目立ち方は好きじゃない。
今朝だって「東銘高校入学式」の看板前で記念撮影をするんだって、透き通るように綺麗な
栗毛のふわふわした髪と短いスカートを揺らしながらはしゃいでいるから「あの可愛い子は誰?」「新入生にすごい美女がいる」と注目を集めたばかりだ。母がこの日のためにと購入した一眼レフカメラと三脚をセットして桜もいろんなポーズを決めたりなんかするから、まるでモデルの撮影風景。
私は目立たないようにと長く伸ばした黒い髪で顔を隠しながら歩いていたのに「雪ちゃんも一緒に!」と強引に腕を引かれて隣に並ばせられるから「こっちの子も綺麗」「顔一緒じゃない?」「美人双子?」という声を聞きながら母が満足する写真が撮れるまでずっと大勢に囲まれていて、ようやくその人混みから逃れて入学式に参加できたというのに、またこうやって注目を浴びてしまう。
少しは桜みたいに愛想でも振りまけばいいのかもしれないけど、可愛らしい女を演じるのも、それを武器にするのもしたくない。私は容姿が優れているからここにいるんじゃない。私の努力と実力でつかんだんだ。

でも、壇上に上がるともう私のスピーチなんて誰も聞いていない。みんなが注目しているのは私と、私の名前を呼んだ桜の容姿だけ。

        *

「お疲れ、雪!」
教室に戻ると私の席の隣に座っていたのは秋人だった。頬杖をついてニヤニヤと視線を送ってくるその姿に心底イラつく。
「なんであんたがそこに座ってんの?」
「クラス表見てない? 俺ら同じクラス。で、俺が雪のお隣さん」
「はー、最悪」
「え? ひどくない?」
それは私のセリフ。私も秋人もこのクラスにいるってことは、寂しいって言いながら桜はここに来るだろうし、そうすれば嫌でもまた視線を集めてしまう。
「もう、あんたと桜が同じクラスだったらよかったじゃん」
「んー、桜って距離感近いじゃん? 中学の頃みたいにべったりだと俺ほかの男子から僻まれるんだよ。だから隣のクラスくらいがちょうどいいかも」
「あっそ」
「雪が同じクラスなら宿題写させてもらえるし俺的にはラッキー」
「絶対見せないから」
そんな会話をしていると、廊下の方がガヤガヤと騒がしくなってきていることに気が付く。上履きのラインは赤と緑。二年生と三年生だ。そしてその視線の先にいるのは私。

――あの子でしょ? 新入生代表。
――え、ヤバ、めっちゃ美人じゃん。
――さっき手振ってた子はふわふわ美少女って感じだけどこっちはクール系?
――隣の男と仲良さげじゃない? 彼氏?

「…………あれ、俺桜と離れても僻まれる感じ?」
「嫌なら私に関わらないでよ」
「美人も大変だな……」

ああ、もう嫌だ。大きくため息をついてからもう一度そちらに目をやると上級生たちの隙間から「すみません」ってひょっこりと桜が顔を出すから、もう教室はパニックだ。
「雪ちゃん、秋人くん!」
「おい桜、今お前が来たから余計大変なことになってるぞ」
「え?」
おどけたその表情は本当に何もわかっていない様子で、「ねえ、桜ちゃんっていうの?」なんて外野の声に「はい、桜です」なんて笑顔で答えている。その悩みなんて何もない純粋さがほんの少しうらやましい。
「何しにきたのよ、桜」
「だってクラスに知ってる子いないし、男の子たちに家の場所とか電話番号とか聞かれてちょっと怖かったんだもん」
「秋人連れて行きなよ、こっちは大歓迎」
「は? 俺は桜の用心棒かよ」
こうやって三人で一緒にいる気を遣わない時間は好き。でも、いつも周りがうるさい。本当にうるさい。

「――ちょっと、私たち見世物じゃないから!」
「おい雪、よせって先輩じゃん」
「教室に戻ったらどうですか? 迷惑なので!」
こういうのは初めが肝心。上級生たち相手に怖くないわけがない。でも、ここではっきり言わないといけない。そう過去に学んできた。桜みたいにか弱い女の子だと思われたらいつまでも付きまとわれるし、いつか怖い思いをするのは自分だから。
私が睨みつけたのと同時くらいに先生が教室に来て、先輩たちも自分の教室に帰された。

波乱の高校生活が始まる、そんな予感しかしない。

第3話 吹き荒れる予感

入学初日は各クラスで簡単な自己紹介をして、今後の授業や行事のこととか移動教室の案内とか、そんな説明があるオリエンテーションだけ行われて午前中で終わった。
「昼飯三人でマック行かない?」って秋人の言葉を無視して配られたばかりの資料を鞄に詰め込んで、桜が私たちの教室に来る前に私は急いで昇降口に向かった。
(……疲れた、早く帰りたい)

自分の出席番号が書かれた下駄箱に腕を伸ばすと後ろからポンと肩を叩かれ、びくっと固まってしまう。
「――ごめん、驚かせて」
その声を聞いて、振り向く前に安心する。
「なんだ、夏樹くんか」
「雪ちゃんの姿が見えたからさ。入学おめでとう」
物腰柔らかな雰囲気、黒縁眼鏡にちょっとだけ長い前髪。まるで秀才を絵に描いたような夏樹くん。顔は似ているのに少年という言葉がぴったりの秋人とは大違い。
「……うん、ありがとう」
「どうしたの、元気ない? あ、急いでたよね」
「桜のせいでまた男子が集まってくるから……」
「あー……、僕のクラスでも話題になってたよ。大変だったね」
「夏樹くんが桜に勉強なんか教えるから」
夏樹くんは何も悪くない。わかっているけど、今朝の騒動を思い出してつい恨み言を口にしてしまう。
「まあ、あの勉強嫌いの桜ちゃんが雪ちゃんと離れるのが寂しいからって頑張ったんだし、そう言わないであげてよ」
「……うん」
「でも本当に困ったときはちゃんと言うんだよ。雪ちゃんいつも一人で我慢しちゃうから」
「うん、ありがとう」
夏樹くんは私にとってもお兄ちゃんみたいな存在で、お姉ちゃんであることを忘れて甘えることができる心の拠り所。そして、今はそれだけじゃなくて……。

「――あれ、なんで夏樹がその子といるの?」
「え、抜け駆け?」
私たちを見つけたのは金髪でピアスやネックレスをじゃらじゃら付けた、いかにもチャラそうな男子生徒二人。いくらこの学校の校則が緩いといってもこの格好はさすがに許されないのではないだろうか。緑のラインが入った上履きを履いているところを見ると夏樹くんと同じ三年生。さっき私が真正面で睨みをきかせた人たちだったことを思い出す。
「俺気が強い子、結構好みなんだよね」
「俺も。ね、夏樹だけじゃなく俺らとも仲良くしようよ」
「今日もう帰りっしょ? 一緒に遊びに行かない?」
仕返しでもされるんじゃないか、力ずくで連れていかれるんじゃないか、そう思うと無意識に夏樹くんの制服の裾を掴みながら後ずさりしてしまう。
「…………行かない」
背中に隠れる私に小さく「大丈夫だよ」って言って夏樹くんは彼らの方に向き直る。
こんな怖い人たち、いくら同級生でも殴られたりするんじゃ……そんな不安が押し寄せるけど、彼の表情はずっと穏やかだった。
「この子案外人見知りなんだよ。だから今日は勘弁してあげて」
「え? 知り合い?」
「そう、妹みたいな子だからちょっかいかけるなら僕に許可をとってからにして」
妹みたい、って言葉にちょっと胸がざわつくけど、今はそう答えてもらうのが正解だった。
「じゃあ、あの小動物っぽいふわふわした子、桜ちゃんだっけ? あの子も?」
「うん、二人とも僕の大事な幼馴染だよ」
「会長がそう言うなら仕方ないな、今度紹介してくれよ?」
「二人の気が向いたらね」
残念そうに口をすぼめて、あっけなく二人ともこの場を後にする。
「…………会長?」
「あれ、言ってなかった? 去年まで風紀委員で、この春から生徒会長なんだ」
「……やっぱり夏樹くんはすごいや」
「やりたい人がいなかっただけなんだけどね」

そんな風に謙遜していたけど、後から聞いた話だと成績優秀で陸上部でもエースだそう。誰にでも分け隔てなく接して人望が厚いから風紀委員も生徒会長も先生たちから推薦されて満場一致で決まったのだとか。
最初こそ夏樹くんに対して不真面目な生徒たちは反抗していたみたいだけど、どんなに凄んでも全く動じないし、自分の意見をはっきり言ってクラスをまとめてしまうから今では「兄貴」なんて呼ばれることもあるみたい。

私も夏樹くんみたいになりたいし、夏樹くんに釣り合う人になりたい、そう強く思った。

        *

慌ただしくも高校生活に慣れてきた五月、新緑の季節。
来週に控えた体育祭の準備で学校中が賑わっている。

この一週間は部活動が休みになり、グラウンドと体育館が解放されてクラスごとに割り当てられた日程で各種目の練習に自由に使っていいことになっている。今日は私と秋人のクラスが体育館で練習する日。
うちの学校では毎年男女混合の二人三脚が盛り上がるみたいで、そのペア決めのときに私と誰が組むかでやはりひと悶着あった。そのせいで私は女子たちから疎まれる存在になったことは言うまでもない。きっと隣のクラスの桜もそう。
でも、私の方は秋人が偶然にもくじ引きでペアになったからまだマシだと思う。
「秋人だけは嫌だったのに」
なんて憎まれ口をたたくけど、正直助かった。
「そんなこと言うならほかのやつに代わってもいいんだけど?」
「……それも……ちょっと」
「だろ? 足引っ張んじゃねーぞ」
「それはこっちのセリフ」
そんないつものやり取りをしながら何往復か走ってみる。……驚くほど走りやすい。
最初は偶然だとか幼馴染だから意外に息が合うのか、なんて思っていたけど秋人が私の歩幅に合わせてくれているんだとすぐに気がついた。
それを意識してしまうとなんだか気恥ずかしくて、つい集中力が切れてしまう。
「あ!!」
「っおい!」
――ダンッ、と大きな音を立てて私たちは転倒してしまう。
けど……痛くない?
「……あっぶね、雪、怪我ない?」
「大丈夫、みたい」
「…………じゃあ、早く起き上がって」
「え、あ! ごめん!」
びっくりした。顔がすぐ近くにあったから。とっさに秋人が私を抱きとめてくれたおかげでどこも痛くない。
「…………お前が怪我ないならいいわ」
秋人が真っ赤な顔してるから調子が狂う。いつもなら私がヘマなんかしたらすぐに意地悪なことを言うくせに、急に優しことを言うからどんな顔をしていいかわからない。心臓がうるさい。落ち着け、私。
「ごめん、ちょっと気抜けた。秋人は怪我してない?」
「ん」
クラスのみんながいる場所でこの雰囲気は気まずい。秋人から離れてパッと視線を外すと体育館の入口の方に今日は練習がないからもう帰ったと思っていた桜の姿があった。見学でもしていたのだろうか。
そして私と目が合うとすぐに駆け寄ってきた。
「――秋人くん、雪ちゃん、大丈夫?」
泣くんじゃないか、そう思うほど不安そうな表情で二人の手を引いて立ち上がらせてくれる。
「私は大丈夫。秋人がかばってくれたから」
「秋人くんは?」
「俺も大丈夫。……ったく雪気をつけろよ」
そう言う秋人はさっきの様子が私の見間違いだったんじゃないかと思うくらい、いつもの意地悪な顔をしている。
「――あ! でも肘から血が出てるよ!」
桜の視線の先に目をやると擦りむいて赤くなっている。
「あ、本当だ。まあ、このくらいサッカーやってるときもいつもだから何ともねーよ」
「でも、消毒しなきゃ! 保健室行こ!」
「おおげさだって、俺は大丈夫」
「ダメ!」
そう言って桜は強引に秋人の手を引いて行ってしまった。
ずるいぞ、うらやましい、そんなクラスメイトの声だけが残る体育館は居心地が悪くて、でも私まで保健室に行ってしまうと秋人がもっと反感を買うから、一人先に帰ることにした。

なんだか心がざわざわする。

第4話 寂しく降る雪

保健室に寄っただけなのに私より二時間も帰宅が遅かった桜は珍しく機嫌がいい。
珍しく、というのもこの一か月間ずっと桜は情緒不安定だった。天真爛漫さが桜の魅力だと思っていたし周囲のことなんて気にしていないと思っていたけれど、初対面の人ばかりのクラス、進学校ゆえのレベルの高い授業、山積みの課題、日々集めてしまう視線、そういったものに桜も疲れていたのだろう。
いつもなら週末は母のショッピングに自分から喜んでついていくのに、ここ最近は部屋に閉じこもって電話をしていることが多かった。

電話の相手は聞かなくてもわかる。秋人だ。
悩みの相談なら夏樹くんの方が適任だと私は思うけど、桜はきっとアドバイスがほしいんじゃない、ただ話を聞いてほしかったんだと思う。昔から桜の面倒を見るのは秋人の役目、そう決まっていた。
中学のころは桜と秋人が同じクラスで、桜が困ったり泣いたりしているときは秋人がなんとかしていた。でも今はクラスが離れてしまって、授業が終わると秋人はすぐ部活に行ってしまうし体育祭の練習が始まってからはクラスが違うと一線引かれたような気持ちになってしまうのもわかる。
「雪もちゃんと桜の話聞いてやれよ、俺も宿題と部活で忙しいんだからさ」なんて言われたりもしたけど、そもそも私と桜は考え方が違いすぎる。
私に甘えてくることはあれど、いつからか相談相手ではなくなってしまっていた。

きっと保健室で秋人が桜の話を聞いてあげたんだろう。桜に笑顔が戻ったのならそれでいい、そう思っていた。
でも、私たちの関係はこのときからもう狂い始めていた。

        *

「おはよう、秋人」
なんだか今日は早く目が覚めて、ぐっすり眠っていた桜を置いて先に学校に来た。教室に着くと朝練終わりの菓子パンを頬張っている秋人だけがいた。
「おー……」
声の主が私だと確かめるように一度だけこちらに視線を向けて、それだけ返事をする。なんだかいつもと雰囲気が違う。
「あのさ、昨日怪我させてごめん。あと桜のことありがとね」
「――っえ!? 桜なんて?」
私の言葉に目をまん丸にしてすごく驚いている。
「いや、桜すぐお風呂入って寝ちゃったから詳しくは知らないけど、なんか機嫌よかったから秋人がまた話聞いてくれたのかなって」
「あー……まあ……」
なんだか歯切れが悪い。私たちの間に隠し事なんて今までなかった。なんだかモヤモヤする。
「何その微妙な返事。桜となんかあったの?」
「…………いや、桜が何も言ってないなら」
「じゃあ桜に聞けばいいの?」
「いや、そういうんじゃなくて……」
「ねえ! 本当なに? はっきりしなよ」
「…………桜には俺から聞いたって言うなよ」
「内容による」
「じゃあ言わねーよ」
「わかった、言わない」
私の言葉を確認して、それでも少し悩んでからようやく秋人は口を開く。
「…………キス……された。……いや、した……のか?」
「…………は?」
聞き間違えじゃないか、そう思うほど秋人の口から出た言葉が予想外すぎて理解ができなかった。
「――だから! 桜とキスしたんだよ」
「は? なんで?」
やっぱり理解ができない。秋人の怪我の手当てをするために保健室に行って、なんでキス?
「あーもう、雪にだけは言いたくなかったのに、どうせそのうち桜から聞くんだからこれでいいだろ」
なんだか怒っているように投げやりで、昨日の桜とは対照的だ。
「だから、なんで? え、秋人は桜が好きだったってこと?」
「…………ちがっ、いや、そういう雰囲気ってあるだろ?」
「は? 好きでもないのにしたの? 雰囲気で?」
「俺からじゃ――」
「桜からってこと?」
桜が好き、その質問に違うと言いかけたのを私は聞き逃さなかった。
普段はふざけてばかりの適当なやつだけど、好きでもない人とそんなことはしない。そういうところは真面目なやつだと思っていたから私はショックと軽蔑で責め立てるように言葉を続ける。
「桜ずっと元気なかったの秋人も知ってるじゃん! それでも昨日帰ってからはずっと笑ってたんだよ。桜は嬉しかったってことでしょ? なのに期待だけさせるような中途半端なことするんだったら桜とは――」
「――もういいだろ! だからお前には言いたくなかったんだよ!」
バンッ、と机を叩いて立ち上がり秋人は私に背を向けてしまう。
「ちょっと待ってよ!」
離れていく秋人に手を伸ばしたとき、クラスメイトがもう一方のドアから入ってきてとっさに腕を引っ込めた。
「…………え? 痴話喧嘩?」
「違うから!!」
「……桜とちゃんと付き合えば文句ねーんだろ」
ぼそっとそれだけ言い残して秋人は行ってしまった。
といっても同じクラスで隣の席。授業が始まれば嫌でも隣にいるし、放課後には体育祭の練習だってある。妹と幼馴染がキスをした。お互い好き同士で合意の上ならそれでいい。でも理由もよくわからないし、朝からこんな喧嘩みたいなことになって気まずすぎる。
(勘弁してよ…………)
悩みは尽きない。私はため息をつくしかできなかった。

        *

その日、放課後の二人三脚の練習に秋人は来なかった。そっちがそういう態度ならと私も帰ろうと体育館を出たとき、遠目に桜と秋人の姿を見つけた。
(あいつ練習サボって今度は桜に何を――!)
一言文句だけ言って帰ろう。そう思って近づいたとき、衝撃の光景を目の当たりにして動けなくなってしまった。
何を話していたかは聞こえなかったけど、二人がキスをしたのはしっかり見えた。桜からじゃない。秋人からしていたのをはっきりと。
(隠れなきゃ――)
そう思ったときにはもう遅かった。
「雪ちゃん?」
私に気付いた桜に名前を呼ばれる。秋人は真っ赤になって腕でとっさに顔を隠していた。
昨日私を抱きとめたときとは比べ物にならないほど耳まで真っ赤な顔。そんな顔知らない。知りたくなかった。
「…………ここ、学校だよ。場所考えなよ」
平静を装うけど、心臓がバクバクして桜の顔をまともに見れない。
「えへへ、そうだね」
頬を桜色に染めて、カーディガンで半分隠れた手のひらで口元を覆って照れ笑いする桜を見て、純粋に可愛いと思った。
「で? この状況は?」
知りたくない、でも聞かずにはいられなかった。
「あのね、秋人くんと付き合うことになったんだ」
「そうなの?」
確認するように顔を隠したままの秋人に視線を送る。
「……うん」
小さく、でもしっかりとそう返事をするのを聞いて今朝のイライラがもうなくなっていることに気がつく。
「桜、こいつに変なことされたら私にちゃんと言うんだよ」
「変なこと?」
「――んなことしねーよ!」
「…………もういいけど、本当学校でやめてよ。私の前でも」
「雪ちゃん怒ってる?」
心配そうに私の顔を覗き込む桜に申し訳なさが込み上げてくる。私はなんて心が狭いんだろう。昔からわかっていたはずだ。桜が秋人を必要としていたことくらい。
きっと、ずっと前から好きだったんだと思う。それなら、桜が秋人と付き合ったことを喜ぶべきだ。
「……怒ってないよ。よかったね、桜」
「うん! ありがとう雪ちゃん」
「秋人、桜のこと大事にしてあげてね」

それだけ言い残して私はその場を足早に去った。
心がざわざわする。自分の感情がわからない。
秋人を好きだったことに気づいて失恋した気持ちになっているというのは違う。だって私が好きなのは夏樹くんだから。

それなのに、どうして……?
目の奥が熱くなってきて、泣きたくもないのに涙が出て止まらない。
何度も脳裏に浮かぶのは嬉しそうに照れ笑いする桜の笑顔。
桜は可愛い。それがなんだかうらやましくて、桜みたいにできない自分が嫌だった。

第5話 夏に焦がれて

「雪ちゃん? やっぱりここにいた」
「……夏樹……くん」
嫌なことがあって一人になりたいとき、私はいつもこの公園の隅にあるベンチに座って空を眺めて時間をつぶしている。今日もなんだか家に帰りたくなかった。
「みんな心配してるよ、こんな時間まで雪ちゃんが帰って来ないって」
「……ごめん、でもどうしてここがわかったの?」
誰にもこの場所のことを言っていない。私がここに来るのは桜や秋人、夏樹くんと喧嘩したときだから。
「秋人が教えてくれたんだ」
「秋人が?」
「うん、きっとここにいるって」
「なんで……知って……」
せっかく止まった涙がまた溢れそうになる。
「前に雪ちゃんがいなくなったとき、秋人はずっと探してたんだよ。きっとその時に見つけたけど、慰めたりしたら雪ちゃんはもっと強がって我慢しちゃうから声をかけられなかったんだと思うよ」
「あいつ……そんなこと一言も……」
「秋人らしくていいじゃん」
本当はその気持ちが嬉しかった。でも今ここに来たのが秋人じゃなくてよかった。
たぶん秋人も自分が行くべきじゃないってまた気を遣ったのだろう。
「それなら、どうして夏樹くんは来てくれたの?」
「そりゃあ来るでしょ。こんな夜遅くに大切な子が一人で公園にいるなんて危ないし、泣いていたみたいだから」
いつもの穏やかで温かい笑顔。それを見るときゅーっと胸が締め付けられる。
やっぱり私は夏樹くんが好きだ。その「大切」の意味を知りたい。でも、強がりは表面だけで心が弱い私はそこに踏み込めなかった。
「……泣いてないよ」
「今だって泣きそうじゃない。たまにはお兄ちゃんらしいことさせてよ」
ポンポンと頭を撫でられると我慢していた涙が一気に溢れてくる。その優しさに甘えてほんの少しだけ夏樹くんの肩に身をゆだねる。
「…………私、桜も秋人も大事なのに……こんな自分が嫌だ」
「うん」
「……桜みたいになりたかった」
「うん」
「……私なんか」
こんな泣き言、初めて言った。
一度口に出してしまえば止められなくて、自分でも驚くほど抱え込んできたことに気が付く。でもそれは桜に嫉妬していた自分を自覚するということで、それがわかると余計にむなしくなる。
「桜ちゃんと比べる必要はないよ。雪ちゃんは雪ちゃんなんだから。お姉ちゃんだからしっかりしないとって頑張っているのも知ってるし、勉強だってスポーツだって誰よりも一生懸命で真っ直ぐな子だなって思うし、だからそのまま変わらないでいてほしいって思うよ」
「……でも、こんな私可愛くない」
「一生懸命に頑張れる子が可愛くないわけないでしょ」
拗ねた子どもをあやすような、そんな夏樹くんの優しい言葉が心地よかった。
容姿じゃなくて、私をちゃんと見て「可愛い」って言ってくれた。それがなによりも嬉しかった。
「ほら、そんな顔で帰ったら桜ちゃんも心配しちゃうよ。笑って」
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
「じゃあ帰ろうか」
少し手を伸ばせば届く、でも決して触れない距離を私たちは並んで歩いた。

        *

それからも秋人とはちょっと気まずかったし、体育祭の二人三脚で「彼女じゃない方だよね?」なんて外野の声を聞きながら注目を集めてしまったのは苦痛だった。
でも二人が付き合ってからというもの、中学のときみたいに桜が秋人にべったりでところかまわず腕を組んだりするからみんなの話題の中心は自然と桜になる。秋人も強豪であるうちの高校のサッカー部で一年生ながらに活躍している人気者だそうだから二人の仲を邪魔する人もいなかった。
私にも彼氏ができる前に、と告白してくる人は何人もいたけれど、それも夏休みが訪れるまで。

じりじりと強い日差しが照りつける。
高校三年生の夏は受験に向けて本腰を入れる時期。夏休みに入ったから授業はないのに図書室には上履きに緑のラインが入った三年生がたくさんいる。
夏樹くんから借りた参考書を返しに家を訪ねたところ、彼のお母さんから学校に行ったことを教えてもらった。夏樹くんの家、といっても同じマンションだからこうやって訪ねるのはもう慣れっこ。このまま自分の家に戻って夜にもう一度訪ねてもよかったけれど、予定もなかったから私もそのまま学校に向かうことにした。
きっと図書室だろうと探していると、奥の方に姿を見つけたから隣の席に腰を掛けて小声で話しかける。
「夏樹くん、東大の理III受けるって本当?」
東京大学の理科三類。日本最難関と言われる医学部に進学する人が目指すコースだ。
「うん。難しいかなとは思ってるけど。雪ちゃんくらい頭がよかったら余裕だろうな」
「夏樹くんが難しいなら私は無理だよ」
「この間の期末の結果、掲示板で見たよ。学年一位だったでしょ」
「それは夏樹くんが教えてくれたから」
「ははっ、ありがとう」
桜と秋人は夏休みに入ってから毎日のように二人でどこかに出かけてしまうから、私は夏樹くんと家や学校の図書室一緒に勉強する日が増えた。
特に約束をしているわけではないけれどこうやって並んで勉強している姿を見ている人も多いから、私たちが付き合っていると噂になっているらしい。
実際はなにも進展はないし、受験生である夏樹くんに告白して余計な悩み事を増やすことも不本意だから、こうやって隣にいられるだけで幸せだった。
「今日は読書?」
小さなバッグから読みかけの小説を出した私の手元を見て彼は言う。
「うん、夏樹くんから借りたこの参考書は読み終わったから」
「あ、もしかして返しに家に寄ってくれた? 連絡してくれれば家にいたのに」
「そうやって私に合わせていたら勉強捗らないでしょ。気にしなくていいから、ほら」
そう言って閉じかけた彼の参考書を開きなおす。

四時間くらい経ったころだろうか、辺りが暗くなってきたので私たちは二人で並んで帰る。
「夜なのに暑いね」なんて話しながらコンビニに寄って、夏樹くんが買ってくれたパピコを半分こする。こんな日常がいつまでも続けばいい。
そう願っているけれど、半年後に彼は卒業してしまう。大学に進学したらきっと家を出てしまうだろう。
だから、私も同じ大学に行けるように勉強を頑張ることにした。教育熱心なお父さんはそれを聞いたらすごく喜んでくれて、週に一度の家庭教師が二度になったのもあって私の成績はぐんぐん上がっていった。

第6話 桜と雪

夏樹くんは、見事に志望校に合格した。
春からは大学に近いアパートに住むことにしたと言って、最近は家探しや引っ越し準備で忙しそう。秋人も部活の強化合宿でこの春休みは部活の一軍メンバーで九州の合宿所に行って一週間近くなる。
私たちの両親も結婚記念日の小旅行で今朝早くから箱根に向かったから家には私と桜の二人だけ。
春休みに入ってから秋人が合宿に行くまで桜は秋人と夏休み同様に毎日出かけていたから、二人きりで長い時間を過ごすのはちょっと久しぶり。

「雪ちゃん、ケーキ食べる?」
「え、あるの?」
「うん、ママがね、二人で食べてって出かける前に買ってきてくれたんだ」
キッチンで紅茶とケーキを準備する桜を手伝うためにソファーから立ち上がって近くに行くと、心なしか桜がやつれているように見えた。
「……なんか……痩せた?」
「え? そうかな?」
きょとんとした桜の顔にちょっとだけ安心する。いつものどこか抜けている桜だ。
「うん、なんか輪郭が前よりシュッとした感じ」
「ダイエットなんてしてないんだけどな、今もケーキ食べようとしてるし」
「確かに!」
桜の言葉にふふっと笑みがこぼれる。
桜がうらやましい、そうやって泣いた日が嘘のよう。どうしても双子だから比べられてしまうし、それに対して嫉妬して苛立ってしまうこともあるけど、やっぱり私にとっては可愛い妹だ。

お母さんが大好きでよく淹れてくれるローズティーのいい香りが漂う。普段使いの食器を取り出そうとした桜の手を止めて、今日くらいちょっと優雅に過ごそうよって来客用のアンティークの食器を奥の方から取り出す。
ケーキ屋さんの箱を開けると、イチゴのショートケーキ、モンブラン、レアチーズケーキ、チョコタルト、と四つあるから多分二つはお父さんとお母さんが明日帰ってきてから食べようと思っているのだろう。
「桜はショートケーキ?」
何気なしに聞いたら、桜がちょっとだけ沈んだ顔をする。
「……雪ちゃんは?」
「え?」
桜に選ばせるのが癖になっていたし、桜もいつも自分の好きなものを選ぶからその返答にちょっと驚く。
「私はどれも好きだから桜選んでいいよ」
「……じゃあ、ショートケーキ」
「うん」
ショートケーキとチョコタルト、その二つをお皿に乗せてダイニングテーブルに運ぶと紅茶とティーカップを持ってきた桜もすぐに席につく。

「……で? 何があったの?」
「え?」
「わかるよ、顔見たら」
もう十六年も一緒にいるんだから桜の元気がないことくらいすぐにわかる。
でも、それがどうしてかまではさすがに双子でもわからない。最近桜とゆっくり話す機会がなかったし、今日くらい桜の悩みを聞こう、そんな風に思っていた。
「……秋人くんが」
「あー、合宿だっけ? 会えないから寂しいとか?」
悩みを聞こうと思ったばかりなのに、桜の恋人となった秋人の名前が出たことにちょっと恥ずかしくなって、からかうように言ってしまう。
「それは仕方ないからいいの。でも……」
「うん?」
「ねえ、私ってわがまま? 自分勝手?」
「え? 秋人がそう言ったの?」
桜からそんな言葉が出てくるとは思ってもみなかった。
「……ううん、そう言われたわけじゃないしたぶん秋人くんは無意識だけど、雪ならこうするとか、雪はそんなことで拗ねないって何度か言われて」
「何それ、あいつそんなこと言うの?」
沸々と怒りが込み上げる。私が桜をうらやましく思ってしまったように、私たちがお互いを意識してしまうことなんて容易に想像がつくだろう。
桜を大切にしてって言ったのに、一番傷つくことを言うやつだなんて思わなかった。
「雪ちゃんはいつも優しいから、私のせいでたくさん我慢していたのかなって」
「――我慢じゃないよ!」
ううん、たくさん我慢してきた。でも、それは……。
「私は桜の真っ直ぐなところ好きだし、そうじゃなかったら桜じゃないと思ってる」
「でも、さっきだってショートケーキ譲ってくれたでしょ? 雪ちゃんも好きなのに」
「私は今日チョコタルトの気分だったの」
「それに、本当は雪ちゃんも秋人くんのこと好きだったんじゃ……」
「それは本当に違う」
「でも、私と秋人くんが付き合ったって話した日、雪ちゃんなかなか帰ってこなかったし……」
ああ、桜もこうやって悩んでいたんだ。私は全く気が付かなかった。
「秋人のことは本当に違うから。実の妹と弟みたいな秋人が付き合ったっていうのは家族でドラマのキスシーンを見るくらい私にとっては気まずいことで、その日桜の顔を見るのが恥ずかしくなっただけ」
……実際、二人がキスしたところは見てしまったんだけど。
でも、それに吹き出して笑う桜を見て少しほっとする。
「何それ」
「だいたい秋人が高望みしすぎなんだよ。帰って来たらちゃんと言ってやりな? こんな美人と付き合ってまだ不満があるんですか、って」
「あははっ、同じ顔の雪ちゃんがそれ言うの?」
紅茶が冷めてしまっていることなんて気にもせず、ケラケラとおなかを抱えて笑い合う。
そのあとも秋人の幼いころの恥ずかしい出来事とか情けないエピソードを思い出してはしばらく二人で笑い続けた。

「あー、なんか少しスッキリした」
「秋人に泣かされたら私にちゃんと言いなよ? 私が殴りに行くから」
「ふふっ、ありがとう」
「昔からさ、ずっと秋人は桜ばっかりだったじゃん。根は優しいやつだから今さらわがまま言ったくらいで離れたりしないって」
そうだ。桜が泣いているとき、怒っているとき、困っているとき、どんなときも真っ先に駆け寄ったのは秋人だ。付き合う直前の様子がおかしかったからちょっと心配はあったけど、やっぱり桜を任せられるのは秋人しかいない。

「ねえ、雪ちゃんは好きな人いないの?」
「え!? 私?」
「夏――」
「い、いない! 私は恋愛とか向いてないから!」
桜が誰の名前を言おうとしたかすぐにわかった。でもそれを遮るように否定した。
「そうなの?」
「そう、今は勉強を頑張るって決めたんだから恋愛とかしてる暇ないの」
「ふーん、雪ちゃんモテるのにもったいない」
「いいの、私は。ほら、ケーキ食べよ」
桜の恋バナは聞けたのに、自分の話はできなかった。
夏樹くんが好きだって桜になら言ってもいいのかもしれないし、桜もきっと気づいている。でも、上手くいかなかったときのことを考えると自分の気持ちをさらけ出すことができない。
やっぱりデキるお姉ちゃんでいたい、その気持ちが強かったんだと思う。

第7話 桜隠し

早咲きの桜で鮮やかな景色が広がっている三月。
でも昨晩は都心でも十数年ぶりに雪が降って、今朝は一段と冷え込んでいる。ピンク色の桜にうっすらと白い雪が降り積もっていてなんだか幻想的。

「桜隠し、って言うんだって」
「桜隠し?」
「うん、桜が咲いているのに雪が隠してしまうから」
「なんか私が悪者みたい。縁起の悪いこと言わないでよ」
「はは、そんなことないって。それよりそろそろだよ」
「…………うん」

大学生になって以前よりも落ち着いた雰囲気になった夏樹くんの後ろを心臓が張り裂けそうな思いでついて行く。
今日は東京大学の合格発表。平日の家庭教師に加えて、この半年間は休日に夏樹くんが付きっきりで私に勉強を教えてくれた。模試の判定もずっとAだったし、手応えもあった。だからきっと……大丈夫。でも、回答欄がずれていたんじゃないかとか、自己採点でミスがあったんじゃないかとか、そんなことが何度も頭をよぎって緊張と不安に押しつぶされてしまいそう。

~~♪ ~~♪
「わっ!!」
握りしめていたスマートフォンから急に着信音が鳴って、本当に心臓が爆発したかと思うほど驚いてしまう。電話をかけてきたのは桜。
『雪ちゃん! ……どうだった?』
「もー、びっくりさせないでよ。まだ掲示板にもたどり着いてないよ」
『結果がわかったらすぐに教えてね。ママがずっと落ち着かないの。パパなんて今そっちに向かっちゃった』
「え!? お父さんここに来るの?」
『たぶん』
「もー、本当にやめてよー」
『ふふっ、雪ちゃんなら大丈夫だよ。帰ったらお祝いしようね』
「うん、ありがとう」
透き通るような、春の日差しのように暖かな桜の声。その声を聞いてさっきまでの緊張がほんの少し和らぐ。桜に大丈夫だと言われると本当に大丈夫な気がしてくるから不思議。

「今の電話、桜ちゃん?」
「うん、みんなせっかちで」
「おかげで緊張はほぐれたみたいだね、行こうか」
「…………うん!」
掲示板の前には人だかりができている。きょろきょろと自分の番号を探している人、泣きながらその場でうずくまっている人、胴上げをされている人、この光景をなんと言葉で表したらいいのかわからない。
法学部の合格者を貼り出している掲示板は一番端っこ。A10XX、A10XX……と、心の中で何度も自分の番号を復唱しながら胸の前で祈るように手を合わせて探す。

「――あ!」
先に声を上げたのは夏樹くん。
「え、ない? あった? どっち!?」
「ほら、あそこ。ちゃんと自分の目で見て」
夏樹くんが指差す方に目を向けると「A10XX」としっかりと書かれている。自分の受験番号を見つけた嬉しさと安心感で私はその場で泣き崩れてしまった。
よかった。本当によかった。夏樹くんが卒業してしまった学校で、桜と秋人が二人で仲良くしている学校で、恋も遊びも全部我慢して、私はとにかく勉強だけを頑張った。
ぐずぐずに泣いている私は不合格者に見えているのかもしれない。でも、今は周りを気にする余裕なんてなかった。
「おめでとう!」
夏樹くんはいつもの優しい笑顔を向けて私の頭をポンポンってしてくれる。
「ありがとう、本当にありがとう!」
「やっぱり用意しておいて正解。はい、合格祝い」
「え!?」
トートバッグから水色のリボンがかかった箱を取り出して、私の手にしっかりと持たせる。
「え? 何これ?」
「参考書を選びに行ったとき、雪ちゃんが見ていた雪の結晶の刻印が入った革のブックカバー」
「うそ!? いいの!?」
「もちろん」
大好きな人からのプレゼント。私は嬉しくてギュッと胸に抱きしめた。夏樹くんが私のことを気にかけてくれていたことが何よりも嬉しい。
この春からようやく夏樹くんと一緒の大学に通える。その日を夢見て頑張ってきた。そして、その努力が実ったとき、好きって伝えよう、そう決めていた。

「――あのね! 夏樹くん」
今こそ言うんだ。そう決心したのに、早々に出鼻をくじかれた。
「あの、インタビュー宜しいですか?」
「え? あの……えっと……」
突然見知らぬ大人たちからカメラとマイクを向けられて私はしどろもどろになる。
大手テレビ局の社名が書かれた腕章が目に入り、余計にどうしたらいいかわからなくなってしまう。
「合格されたんですよね? おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
その様子に周囲の視線が私に向いてガヤガヤと騒がしくなる。そんな状況も重なって、名前や合格した科類、今の気持ちなどを聞かれたと思うけど、頭の中が真っ白になってよく覚えていない。
なんとかその場を切り上げて夏樹くんと一緒に逃げるように校門の外まで向かうと、ちょうどお父さんが迎えに来てくれたところだった。手短に状況だけ伝えてとりあえず急いで車に乗り込んだ。

「はぁ……掲示板を見るときよりよっぽど緊張した……」
「どうしても目立っちゃうよね。こんなに美人な子が東大合格ってなると」
「え?」
夏樹くんから可愛い妹、大切な子、と言われたことは今までもあったけど、「美人」とはっきり言われたのは初めてかもしれない。そう思ってくれていたんだと思うと頬が少し熱くなる。この顔に生まれてよかったと心の底から思った瞬間だった。
「雪! 合格だったのか!? 本当か!?」
夏樹くんの言葉を聞いて、後部座席の私たち二人に何度も確認するお父さんは目に大粒の涙を浮かべている。その感極まったまま運転をするから事故を起こすんじゃないかと気が気じゃなかったけど、三人でこの上ない喜びを分かち合った幸せな時間でもあった。

自宅に戻ると、お母さん、桜、秋人の三人が私の帰りを待っていてくれた。
帰り道に「合格したよ」とメールを送っていたから、私たちが着いたときにはお寿司、すき焼き、フライドチキンなどのご馳走がもうテーブル一杯に並んでいた。たくさんお祝いの言葉をかけてもらってちょっと気恥ずかしかったけど、すごく誇らしかった。
ただ、なんとなく秋人の表情が雲っているように見えて、それだけ気になっていた。

        *

「……なあ、ちょっといいか?」
食事を終えてみんなが後片付けをはじめたとき、秋人が声を潜めて私に話しかける。
「なに?」
「少し外出れるか? ちょっと話がある」
「……うん?」
外に呼び出してまでの話なんてあるの? なんて思いながらも、秋人の様子が気になっていたから食後のデザートを買ってくると理由をつけて二人で家を出た。「私も行く」と声をかけてくれた桜を断ったのは申し訳なかったけど、秋人の話を聞いたら後できちんと桜にも説明すればいい、そう思っていた。

「……で、どうしたの?」
外はもう薄暗くて風が冷たい。一瞬身震いしてから秋人に尋ねる。
「SNS見たか?」
「え? 見てないけど」
「雪インタビュー受けただろ。あれ、生放送でもう流れて大変なことになってる」
そう言いながら秋人はその投稿を私に見せてくれる。
「大変って…………えっ……」
動画が掲載されている投稿は『東京大学の合格者インタビュー』と、いたって普通のものだ。だけど、あれからまだ数時間しか経っていないというのに動画の表示回数は百万回を超え、今こうして見ている間にもどんどん拡散されている。
スクロールしてコメント欄に目を通してみると、私は名乗っていなかったのにフルネームや高校名、中学時代の卒業写真と一緒に「美人すぎる東大現役合格者」「この美女の正体は?」なんて書き込みやコメントをまとめた記事が多数に出てくる。
「え、なんで名前が……それに……昔の写真まで」
「今はちょっと調べればわかるんだよ」
「え、入学前からこんなに目立つのは嫌だな……」
「そんな軽い問題じゃないんだよ!」
急に語気を強める秋人にびくっと驚いてしまう。
「……いや、悪い。そうじゃなくて、もうここまで身元が特定されているから、住所だってきっとすぐにわかる。今後雪目当てで近づいてくるやつだっているだろうし、そうなれば危険な目に遭うかもしれない」
「…………」
秋人の話を聞いて、事の重大さをようやく理解した。
「中学でも高校でも雪目当てでストーカーまがいの行為をしてきた男が何人もいただろ。……それに」
「それに?」
私の返答に一瞬申し訳なさそうに悩んでから秋人は再び口を開く。
「……雪だけじゃない」
「――っ!!」
その言葉にハッとする。桜だ。
私のせいで桜まで危険な目に遭うかもしれない。そう気付いた瞬間、恐怖と罪悪感で頭がいっぱいになる。
「こんな日に水を差すようなこと言って悪いけど、こうなった以上、用心しすぎて悪いことはないと思う」
「……うん」
「さっきみんなの前で話そうと思ったけど、きっと桜が怖がって冷静に話し合いなんてできないから、だから今晩まずは雪の父さんと夏兄に相談する」
「……う……ん」
どうしよう……。胸の奥に闇が広がっていくような、そんな感覚。
「いいか、雪」
両肩を真正面からぐっと掴まれて、ようやく我に返る。
「いいか、しばらく絶対に一人で出歩くな。夏兄でも俺でもいいから、外に出るときは絶対に誰か呼ぶんだ」
「わ、わかった」
どうしよう、こんなはずじゃなかった。こんなことになるなんて思いもしなかった。
でも、私が不安な表情をしていると桜はそういうのを感じとってしまう。今は秋人の言う通り、お父さんたちと話してもらって、それからどうするか考えるしかない。私はしっかりしなきゃいけない。
「……秋人、ありがとね。桜に怖い思いはさせないから」
秋人は彼女である桜のことが心配で仕方ないと思う。そんな秋人に私の心配までさせたくない。だから、私は必死で笑顔を作ってまた強がりを言った。
「あーもう! 頭はいいくせにバカなんだよお前は!」
「え、ちょっ……」
急に腕を引かれ、すぐには何が起こったのかわからなかった。
「こんなときくらい頼れ!」
今の状況を理解しようとするほど混乱する。強く、強く、秋人に抱きしめられていたから。
「わかったな!」
「――痛っ!」
それは一瞬の出来事。すぐに身体が離れて次の瞬間にはデコピンされていた。
「なんなのあんた!」
「うっせー! さっさとコンビニ行って戻んぞ!」
……びっくりした。心臓がうるさい。でも、「頼れ」その言葉がとても心強くて涙が出そうだった。

きっと……大丈夫。

第8話 ひとひらの雪

もう、何時間布団の中でこうしているんだろう。
眠くなる気配は全くなくて、真っ暗にした部屋をスマートフォンの眩しい光が照らしている。
「お前はSNSを見るな」
秋人にはそう言われたけど、どうしても気になって検索してしまう。
美人、可愛い、才色兼備……、そんな褒め言葉だけだったらどれだけよかったか。「理事長に色仕掛けして入学できたんだろ」なんて憶測や、「整形でしょ」「絶対性格悪い」「こういう女は他人を見下している」という誹謗中傷の書き込みまである。
でも、それだけなら耐えられた。だって今までも学校で女子たちからよく言われてきたから。
恐れていたこと、それは自宅が特定されること。そして桜に危害が及ぶこと。
「この子と中学一緒だったけど双子の妹もいるよ。妹は可愛い系で姉は美人系」、その過去の同級生と思われるコメントに二人の写真まで掲載されていて、制服から通学区域が特定されて、そこからより詳しい情報を求めるコメントが殺到しているのを見つけてしまった。
枕がじんわりと濡れていく。でも、これは私が招いたこと。泣いても解決なんかしない。

今、私たちのために秋人がお父さんたちに相談してくれている。
幸せいっぱいの日になるはずだったのに、怖くて、長いだけの夜だった。

        *

事件は、春休みが半分を過ぎたころに起こった。

ニュース番組もSNSも見ない桜には「最近このあたりで若い女性を狙った不審者が出ている」とだけ伝えて、しばらくは様子を見ることになった。春休み明けには世間の関心も薄れていくだろう、そう期待して。
幸いにもオートロックのマンションだったから家にいる時間は安心できたし、外出先でも私と桜が一人になる時間もなくて、不審な人物とも遭遇することなく過ごしていた。心配しすぎただけかもしれない。でも、それが油断だった。

外がほんの少し薄暗くなってきた夕暮れ時、玄関チャイムが鳴った。
そして、桜がいなくなった。

部屋着のまま宅配便を受け取りに玄関へ向かっただけの桜が一時間近く戻ってこない。それに気がついたお母さんが探しに行こうとしたとき、夏樹くんから電話がかかってきて、桜がマンションの駐車場に停まっていた車に押し込められそうになっていたことを知らされた。
夏樹くんはこれから一人暮らしをしているアパートに戻ろうとしたところだった。ほんの少し近道になるからと駐車場を横切ろうとしたとき、叫び声が聞こえて事態を把握し、犯人を取り押さえてくれた。その後すぐに駐車場に現れた住人に警察を呼んでもらい、すぐにうちにも電話をかけてくれた。

後になって警察の人から聞かされたことだが、犯人は例の投稿にあった私と桜の写真を見て一目惚れし、住所を特定し、配送業者を装って自宅を訪れたのだという。私たち二人以外の誰かが玄関に出ていたのなら諦めたとも言っていたそう。
でも、そのときは偶然桜が玄関に出たから「荷物が配送中に破損してしまって返送するか受け取るか現物を見て確認してほしい」と言って駐車場におびき出した。

「…………桜に……きちんと話していれば……私が……出ていれば……」
後悔してもしきれない。
未遂だった、そんなことは関係ない。それを聞いてもよかったとは思えない。何も知らされていない桜が、無関係な桜が、怖い思いをした。夏樹くんが気づいてくれなかったら今頃どうなっていたかわからない。
「雪ちゃんのせいじゃない。悪いのは全部あの男だから」
泣きたいのは桜のはずなのに、桜はこんなときでも優しい。でも、桜の優しさが今は私を余計に苦しめる。
「……違う、全部……私が……」
私だったらよかった。全部私が招いたことだから。
時間が経っても、桜に少しずつ笑顔が戻っても、その罪悪感は消えなかった。

        *

私たち家族は、二週間後に引っ越すことになった。
引っ越す、といっても元々住んでいた街から電車でほんの三駅の街。いっそのこと遠くへという提案もあったけれど、それは嫌だと言ったのは桜だった。
「秋人くんや友達と離れたくないから」
その言葉に、桜がそう言うのならとお父さんもお母さんも反対しなかった。
「雪ちゃん、本当に気にしないで。怖かったけど何もされてないから、私は大丈夫」
あの日から部屋にふさぎ込むようになった私に、桜は何度もそう声をかけてくれた。
「ごめん、ごめんね……」
「どうして雪ちゃんが謝るの? 襲われたのが雪ちゃんじゃなくてよかった、って私は思ってるよ」
そうやっていつものように笑いかけてくれる。桜は優しい。誰よりも怖い思いをしたのに。
でも、その優しさを感じるほどに私は胸が締め付けられるような痛みを感じてしまう。
私がお姉ちゃんなのに、強くありたいとずっと努力してきたのに、私の心は弱いままでその弱さを突き付けられているようだったから。
だから私は家を出ることにした。桜のことがあったばかりなのにと最初は反対されたけれど、夏樹くんが住む大学近くのアパートに空室が出て、そこに住むなら電車で通学するよりも安心だということで家族と同じ日、別の場所に引っ越した。

        *

あれから、桜とは半年会っていない。
大学生活が忙しいというのもあったけれど、心のどこかで桜から遠ざかろうとしていた。
私のインタビュー動画のことも、事件の報道も世間はもう忘れている。でも、私はずっとそれに囚われていて、後悔と罪悪感が消えなくて、何かに憑りつかれたように目の前の授業と課題に没頭していた。

そんなある日、ある一枚のポスターに私の心は吸い寄せられた。掲示板の隅っこに張られた
『留学プログラムのご案内』と書かれたポスター。
留学……か……。午後の授業中もアパートに戻ってご飯を食べていてもお風呂に入っていても、「留学」の二文字が頭の中から消えない。この半年間ずっと心に抱えていた暗いものから解放される、そんな気がしてならなかった。
強がりばっかりで、結局はいつも誰かに守られて、私に一人でできることなんて何もなかったかもしれない。これは嫌いな自分から変わるチャンス。
だから、翌日すぐにお父さんに相談した。最初は一人で海外に行くだなんて危険すぎると猛反対されたけど、私の気持ちが変わらないことを伝えるとしばらく悩んで「何事も経験だからな」と了承してくれた。

        *

十二月の終わり。今日、私はアメリカに行く。
(夏樹くんとのスクールライフ、ずっと楽しみにしてたんだけどな……)
旅立つ前に気持ちを伝えようか、そう悩んだ日もあった。でも、今の私じゃなくて、胸を張って夏樹くんの隣に並べるようになってからにしよう、そう決めた。

「――雪ちゃん!」
保安検査場を通る、その直前だった。
振り向くよりも先に後ろからギュッと抱きしめられる方が早かった。振り向かなくてもわかる。桜だ。
その柔らかなぬくもりを感じると、目の奥が熱くなって、堪えきれなかった涙が頬を伝う。
「雪ちゃんのバカ! お見送りするって連絡したじゃん!」
「…………だって」
「俺の言った通りだろ。早く来てよかったな」
「……秋人、と夏樹くんまで」
涙で滲んだ視界に映ったのは秋人と夏樹くん。その少し後ろにお父さんとお母さん。
「来なくていいって……返事したじゃん……」
「それにわかったなんて言ってないもん」
私の腕を強くつかんで離さない桜は私よりも大粒の涙をぼろぼろと流している。
「雪ちゃんずっと会ってくれないし、会わないまま行っちゃうなんて許さないんだから!」
「桜……ごめん……ごめんね」
ごめん、その言葉には今までの全部が詰まっている。
「なんで謝るの、ありがとうって言ってよ」
「そうだね、ありがとう」
子どもみたいに泣きじゃくる桜を見て、やっぱり私も桜みたいになりたいと思った。純粋で、綺麗で、どこまでも真っ直ぐな桜みたいに。
高校生の頃、「桜は可愛い」「桜みたいになりたい」とうらやましく思ったときの気持ちとは違う。本心から桜が可愛くて大好きだという気持ちからだった。

――変わろう。
逃げるように一人でここへ来たときの私から。
みんなの前に、堂々と胸を張って戻って来られるように。

美人になんてとても見えないほど情けないくらい涙でぐしゃぐしゃの笑顔で私は手を振った。

「いってきます!」

第9話 雪解け

五年ぶりの日本の空気。
今年は暖冬で、一月だというのにマフラーも手袋もいらないくらい。

一年で戻ってくるつもりだった。でも、アメリカでの生活はすべてが新鮮で、私がこれまでどれだけ狭い世界で生きてきたのか痛感することばかりだった。今まで私が悩んでいたことは何だったんだろう、そう感じるほど。
例え褒め言葉だとしてもアメリカで容姿や年齢の話題はタブー。見た目だけで判断してあれこれ詮索されたり心無い言葉をかけられることに嫌気がさしていた私にはとても居心地がよい環境だった。
最初こそ言葉や文化の違いに戸惑うこともあったけれど、元々英語は得意だったから英語の授業にはすぐに慣れた。誰もが自信に満ち溢れていて、自分の意志があって、その姿に憧れた。実力主義のこの国に順応していくうちに、自然に私の心も強くなったように思う。

心に余裕が生まれると、夢ができた。そして、その夢を叶えたから戻ってきた。
一年の留学を経て、私は国際弁護士を目指すためそのままアメリカの大学に編入した。そして、大学在学中に司法試験に合格することができた。
このままアメリカに残るという選択肢もあったけれど、両親の希望もあって日本を拠点とすることに決めて、受け入れてくれる弁護士事務所が決まったから今日帰ってきた。

大学に進学しなかった桜は高校卒業後に手伝い始めたお母さんの経営するカフェで今も働いているそう。秋人は地元の大学を卒業して今はカーディーラーの営業。元々人懐っこい性格だったから結構活躍しているみたい。夏樹くんは医師免許を取得して大学病院に勤務しているというからさすがだ。
月に一度、桜が送ってくれたエアメールでみんなの近況を知っていた。今の時代、テレビ通話も簡単にできるのに機械音痴の桜らしい。

『雪ちゃんへ。
元気にしていますか? 司法試験合格、おめでとう!
雪ちゃんはやっぱり私の憧れのお姉ちゃんで、やっぱりすごい人だなって改めて思いました。今年も雪ちゃんがいなくてちょっと寂しいお正月だったけど、月末に日本に戻ってくるとパパとママから聞きました。みんなでお祝いするから楽しみにしててね。
それでそのときは、私のお祝いもしてほしいの。雪ちゃんが戻ってきてから直接言おうか悩んだんだけど、やっぱり少しでも早く伝えたかったからこのお手紙で伝えます。
私、結婚することになりました。今私のお腹には赤ちゃんもいます。
きちんと会ってまた伝えたいから、気を付けて帰ってきてね。
桜より。』

いつも桜からの手紙は両親と秋人、夏樹くんの近況ばかりだった。桜自身がどうしているのかずっと気になっていたけれど、この手紙を読んでようやく肩の荷が下りた。
ずっと消えなかった桜への罪悪感。でも、桜が結婚して幸せになる。尊い命まで授かった。そのことが嬉しくて、手紙をギュッと胸にあててその日は涙があふれて止まらなかった。

やっと重くのしかかっていた罪の意識から解放される。
桜も私も、二人とも幸せになろう。


……そう、思っていたのに。
待ち受けていた結末は残酷なものだった。


        *

春の澄み渡った空が広がっている。
窓から差す穏やかな日差しが純白のドレスをより一層輝かせる。
コンコン、というノックの音に返事をするとすっと扉が開いて、シルクのタキシードを着た幼馴染が今までで一番優しい笑顔を向けてくれる。
「想像していたよりもずっと綺麗で驚いた」
「……ありがとう」
そんな真っ直ぐな褒め言葉が恥ずかしくて、私はまた窓の外を眺める。そう、私と彼は今日から夫婦になる。

二人で景色を眺めながら他愛のない会話をしていると、遠くからカツ、カツ、と高いヒールの音が近づいてくる。
「……入っていい?」
扉の奥から小さく聞こえたその声の主は、生まれたときから長いこと一緒にいたからすぐにわかる。
「どうぞ」
だから、そう笑顔で振り返りながら答える。
でも、近づいてくる足音になんだか背筋が震えるような、そんな嫌な予感がして、完全に振り返ったときにはもう遅かった。

「――おいっ!!」
「…………どうして?」
彼の叫び声が先だろうか、それとも、涙を流した彼女の悲痛の声が聞こえたのが先だろうか。強い衝撃に耐えきれず、気が付いたときには地面に横たわっていた。

「ねえ、わかってたよね? どうして……」
「おいっ! 何してんだよ!!」
彼はどうして泣いているの? 彼女は何を……。
身体が動かない。かろうじて動いた頭、ほんの少しだけ動く頭を持ち上げて視線をずらすと、腹部に柄のようなものが見えて、純白なドレスが赤く滲んでいくのがわかった。
刺された、そう思ったときにはもう視界がぼんやりとしてきて、音だけが大きく鳴り響く。

「全部持ってるくせに……私には……しか……いなかったのに……」
その言葉で、全部理解した。彼女が一番欲しかったもの、それは…………。
私のせいだ。私がずっと彼女を苦しめていた。

身体からすーっと力が抜けて、意識が薄れていく。
でも、これだけは伝えなきゃ……。

「…………ご……めん……ね」

        *

私は、ずっと秋人くんが好きだった。秋人くんだけが私の支えだった。
雪ちゃんも夏樹くんも大好きだったけど、勉強もスポーツも苦手で可愛く着飾ることしかできなかった私にとって二人はなんだか眩しくて、いつも一緒なのに遠い存在だった。
でも、ママの言葉があったから、私はこのままでいいってずっと信じていた。
「桜は本当に可愛くて優しい子。将来は素敵なお嫁さんね。きっと桜が好きになる人は桜を大好きになってくれるわ」って、いつも言ってくれていた。
だから、将来は秋人くんのお嫁さんになれる、そう信じて疑わなかった。

それなのに、高校生になって雪ちゃんと秋人くんが同じクラスになって、私だけ一人ぼっち。中学校を卒業するまで秋人くんはずっと私のそばにいてくれたのに、秋人くんまで遠くに行ってしまうみたいで怖かった。
だから、私は秋人くんにキスをした。あの日、保健室で。
「私、秋人くんが好き。私を秋人くんの彼女にして」
確証がほしかった。彼女、っていう確証が。きっと「俺も桜が好き」って返事をしてくれる。そう思っていたのに、その期待は打ち砕かれた。一番ショックな形で……。

「……ごめん、俺は雪が好きなんだ」
「…………」
言葉が、出てこなかった。どうして、どうして雪ちゃんなの?
「だから、桜とは付き合えない」
「…………」
頭が真っ白で、ぽろぽろと流れる涙を拭うこともできなかった。
「……ごめん」
そう言って立ち上がり、背を向ける秋人くんの腕に抱き付いて私は必死で引き止めた。
「――嫌だ! 嫌だよ……行かないで……」
「……桜、本当にごめん」
「嫌だ…………雪ちゃんはダメ……」
私の腕を振りほどこうとする秋人くんが、雪ちゃんの名前を聞いてぴたりと止まる。
「どうして?」
「だって…………雪ちゃんが好きなのは夏樹くんなんだもん!」
とっさに思い付いた言葉を口にする。私はひどい。秋人くんが一番傷つくことを言っている。でもきっと嘘じゃない。雪ちゃんを見ていればわかる。雪ちゃんには夏樹くんがお似合いで、だから秋人くんは私といないとダメなの。
「………そんなの……わかって……」
「じゃあどうして? どうして私じゃダメなの?」
「…………」
「ねえ」
俯く秋人くんに私はもう一度キスをした。
一度目はすぐに離れてしまったけれど、この二度目は静かに受け入れてくれた。
「私のこと、雪ちゃんだと思っていいから、だからそばにいてよ……」

私はずるい。雪ちゃんの代わりになれるはずなんてないのに。優秀な雪ちゃんと何もできない私が双子だからとセットで見られるのがずっと嫌だったのに、こんなときだけ双子であることを利用している。
でも、これで秋人くんは私のそばにいてくれる。

最終話 桜待つ雪、雪乞う桜。

次の日、秋人くんは私に「付き合おう」と言ってくれた。
でも、それは私を好きだからじゃない。雪ちゃんを諦めるためだっていうことはバカな私にもすぐにわかった。でも、雪ちゃんと秋人くんは同じクラスで、来週の体育祭では二人三脚もあるからその言葉だけでは安心できなかった。
だから、雪ちゃんが視界に入ったときに言ったの。
「本当に私と付き合ってくれるなら秋人くんからキスして」って。
そのときのためらいを見逃さなかった。でも、未練を断ち切るように、秋人くんは私にキスしてくれた。全然嬉しくない、惨めな思いしかない。それが三度目のキスだった。

そして、私たちに気付いて隠れようとした雪ちゃんに声をかけた。今気づいたふりをして。
「…………ここ、学校だよ」
雪ちゃんの声がすごく冷たい。驚いているだけじゃなくて、軽蔑するような、そんな思いが伝わってきて心の中がドロドロと嫌な気持ちでいっぱいになる。でも、それよりも嫌だったのは今にも泣きそうな真っ赤な顔をしている秋人くん。私とのキスが見られて恥ずかしいんじゃない、雪ちゃんに見られたのが嫌だったんだ。
もう泣いてしまいたい。でも、泣くな。いつもみたいに笑え。私はニコニコ可愛くしていないと価値がないんだから……。
「あのね、秋人くんと付き合うことになったんだ」
私はまた大好きな秋人くんを傷つけた。でも、これで雪ちゃんは秋人くんを好きにならない。秋人くんも雪ちゃんを諦められる。

        *

それからの私は、秋人くんをつなぎとめるのに必死だった。
休み時間のたびに秋人くんところへ行って私と秋人くんが付き合っていることをみんなに見せつけて、それで安心感を得ようとしていた。それと同じころから、雪ちゃんは夏樹くんのもとに通い詰めるようになって、秋人くんも雪ちゃんと自然に距離を置くようになった。
私の隣には秋人くんがいつもいる。でも、満たされることはなかった。だって、あの体育館裏でのキス以来、秋人くんは私に一切触れてくることはなかったから。私が触れることを拒むことはなかったけど、女として求められない虚しさばかりが募っていく。

そんな想いをしていても私は秋人くんから離れられない。だってまた秋人くんが雪ちゃんを追ってしまうかもしれないから。夏樹くんももうすぐ卒業してしまう。寂しくなった雪ちゃんが秋人くんを好きになってしまうことだってあるかもしれない。二人が付き合うなんてことになったら私は耐えられない。
だからどんなに虚しくても、寂しくても、私には秋人くんしかいないんだ。

        *

そして、あの事件が起こった。
世間は雪ちゃんを「美人なうえに秀才」「才色兼備」なんてもてはやすのに、私はほいほい男について行って強姦された可哀そうな妹という目で見られている。
私は何も悪くない。不審者の話を聞いてから外に出るのを怯えるようになった雪ちゃんの代わりに荷物を受け取りに行っただけ。車に押し込められそうにはなったけど、それ以上のことは何もされてない。怖かった、だから必死で抵抗した。それなのに私は汚れてしまったみたいに、腫れ物に触るみたいに扱われて、ずっと惨めだった。
住所がSNSで広まって危険が及ぶかもしれない、そう教えてくれれば私だって不用意に駐車場まで行かなかった。それなのに、みんなして私をバカだと思って何も教えてくれないから私だけがこんな目に遭った。全部雪ちゃんのせいなのに……。

だけど、その日を境に秋人くんが私を心の底から心配してくれているのがわかったから、私の心は満たされていった。幸せだった。雪ちゃんに感謝すらするようになっていた。
雪ちゃんは私への罪悪感で日に日に憔悴していっているのに私は本当にひどい女。

        *

そして、雪ちゃんは渡米した。理由は聞かなくてもわかる。
ようやく秋人くんの視界に雪ちゃんが入らなくなって心の底から安心した。でも、その後いつまで経っても秋人くんは私を求めてくれない。もうこれ以上どうしたらいいのかわからなかった。
だから、私は秋人くんに最後のわがままを言った。「私を抱いて」って。縋るように、願うように……。
返事はわかっていた。だから笑ってさよならをした。
でも、それは永遠の別れじゃない。こんなにずっと苦しい想いをしてきても私は秋人くんが好きだった。ううん、好きになってしまった。依存していた昔とは違う。いつの間にか本当の恋を知ってしまった。だから、秋人くんの隣にいられなくても、つながっていたかった。

そして、私は夏樹くんのもとに行った。雪ちゃんがいなくなって寂しい思いをしている夏樹くんの心に入り込むために。
「雪ちゃんは秋人くんのことがずっと好きだったの。秋人くんも同じ」そう、嘘をついて。そして、あのときと同じように言ったの。「私を雪ちゃんだと思っていいよ」って。

しばらくすると、雪ちゃんから司法試験に合格したという知らせが届いた。
今までの私だったら、また私が決して手にすることができない成功を掴んだ雪ちゃんを妬ましく思っていたと思う。でも、その知らせを心から喜ぶことができた。
夏樹くんが私に女としての幸せを全部くれたから。
今や夏樹くんは大学病院に勤める医師。その夏樹くんとの赤ちゃんができたことがわかって、家族になろうと言ってくれた。誰から見ても私は幸せ。秋人くんとも家族にな
る。こんなに幸せなことはない。
早く雪ちゃんに知らせたい、その一心でお手紙を書いた。

私の結婚相手が夏樹くんだと知った雪ちゃんはどんな顔をするだろう。それを考えると胸が高鳴って仕方がなかった。雪ちゃんには申し訳ないけど、私が秋人くんと結ばれなかったのは雪ちゃんのせいだから、このくらい思ったってバチは当たらないと思う。
でも、それを伝えたときの雪ちゃんは案外あっさりとしていて、「五年も経つといろいろあるよね」なんて言うから呆気にとられてしまった。でも、私は私の幸せを、雪ちゃんは雪ちゃんの幸せを手にした、それでもういい。

ようやく、私の心の中にドロドロと渦巻いていた黒いものがなくなって、寂しさ、虚しさ、そんな嫌な気持ちから解放された。
これで雪ちゃんにも真っ直ぐ向き合える。

二年後、雪ちゃんから「結婚することになった」という言葉を聞くまでは。

        *

どうして、私はこんな場所にいるんだろう。
ウエディングドレスを着て秋人くんの隣に並ぶのは私のはずだった。

招待状が届いたとき、私は死のうと思った。でも、愛しくて大切な我が子を残して死にたくない。それが一番に頭に浮かんだ気持ち。それに私が死んで、秋人くんはどのくらい悲しんでくれるだろうか。遺書に秋人くんへの想いを全部綴れば後悔して一生私を心の中に住まわせてくれるかな。
でも、その後悔も雪ちゃんが寄り添い続けることでいつか薄れて、消えてしまうかもしれない。そんなの、絶対に許せない。耐えられない。

もう秋人くんに好きになってもらえるだなんて思っていない。それなら、もう、全部壊してしまうしか……それしか……ない。

だから……私は……こうするしかなかった。
ためらいはなかった。
タキシードを着た秋人くんの隣に並ぶ純白のドレスに身を包んだ雪ちゃんを見て、お似合いだなって思って、勝手に流れてくる涙を止められなかった。手のひらに爪が食い込んで血が滲むくらいナイフの柄を強く握るほどに、憎くて、妬ましくて、ずっとずっと雪ちゃんになれなかった自分が惨めで嫌いだった。

「…………どうして?」
どうして雪ちゃんはそこにいるの?

「ねえ、わかってたよね? どうして……」
ねえ、私の気持ちわかってたよね? どうして私から何もかも奪っていくの?

「全部持ってるくせに……私には……しか……いなかったのに……」
私にないものを全部持ってるくせに、私には秋人くんしかいなかったのに、どうしてその秋人くんまで雪ちゃんのもとに行ってしまうの?

横たわる雪ちゃんに覆いかぶさるように、私も倒れ込んでいた。
少しずつ雪ちゃんの体温がなくなっていくのがわかる。

「……桜…………ご……めん……ね」
雪が手のひらで溶けるように、その声は消えていった。

        *

桜、ごめんね。
私は桜がうらやましかった。私にないものをたくさん持っている桜が。
大好きだったよ。誰よりも可愛くて、優しくて、素直な桜が。
桜は違ったんだね。気づけなくてごめんね。

いつか夏樹くんが教えてくれたっけ、「桜隠し」。
桜が咲いている季節に雪が降ると桜を隠してしまうからそういうんだって。
雪は桜が咲くのを待ちきれないし、桜が雪を乞うとその美しい姿を隠してしまう。
最初から私たちが一緒に幸せになることはないと決まっていたんだね。

桜が美しく咲き誇るには、雪は溶けて消えていくしかなかったんだ。

桜、もう雪を溶かしていいよ。

ー完ー