• 『夜、銃声を聞きながらあなたと絵を描く』

  • 柊織之助
    その他

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    戦争と芸術弾圧が始まる国の中で、エーデルは生まれ故郷に帰り画家の姉と暮らすことに。エーデルは国を捨てて逃げようとするが、姉は絵を描くことをやめない。そんな時、故郷にまで弾圧の足音が近づいてくる……。

第1話

「生きてる」
 隣で姉のワイスが呟いた。真っ白な美術館の中だ。エーデルはひまわり柄のワンピースを掴みながら、顔を上げた。目の前に一枚の絵が飾られている。絵の下には、ゲルニカと書かれていた。
「積み木みたいな絵だわ」
 エーデルが絵から視線を外して歩きだした。ワイスは一歩も動かない。エーデルが振り返って、体をゆすった。
「もう帰ろうよ」
「芸術を知りたいとは思わないの?」
「誰もわからないわよ」
 エーデルがワイスの手首を握った。
 どこからか車の音が聞こえてくる。何十台分の音が重なっている。ワイスが視線を絵に突き刺したままだ。
 エーデルの視界がぼやけていく。美術館の窓が赤く染まっていく。夕日が窓から入り込んでくる。美術館の出入り口が蹴り空けられる。ライフルを持った男たちが入ってきた。

*    *     *

 エーデルはバネが弾けるように起き上がった。肺は空気を探して激しく動いている。窓の外で、怒鳴り声が聞こえる。家が立ち並ぶ街は、砂埃が舞っていた。エーデルが起き上がる。洗面台の前に立った。鏡に自分の体が映る。ゆるやかな曲線を描いた体だ。ゆったりとした寝巻の上からでも、大人の体つきが見える。
 エーデルはシャツに紺色のセーターを重ねた。足に張り付くようなスカートを履く。扉を開けて、外にでた。道路では黒い車が砂埃を巻き上げながら走っている。
 エーデルが歩きだす。汚れた空気が鼻から入ってくる。エーデルが咳を漏らした。目の前の歩道で、一人の男が家から転がり出てきた。手すりに背中をぶつけて、鈍い音が鳴った。開けっ放しの家から、軍服の男が数人でてきた。憲兵だ。手には絵を抱えている。
「この絵はなんだ!」
 軍人が男を見下ろす。男は頭を腕でかばいながら、体を小さく丸めた。まるで子犬だ。
「母の形見なんです。返して」
「この絵に何が描かれている」
 エーデルが後ろを通り過ぎていく。絵には、白い鳩が描かれていた。青い空に向かって飛び立っている。他には何も描かれていない。
「自由です」
「無秩序だ」
 軍人が男の横腹を蹴り上げた。男がうめき声をあげる。エーデルが足を速めた。

「今日で終わりってどういう意味です?」
 エーデルはケーキ屋の中で首を傾げた。客が店に入ってくる。目の前にいる店主の男が客に笑みを送った。
「どれにしますか?」
 客の女が手で顎に触れた。白い手袋をつけて、鮮やかなワンピースを着ている。帽子は唾が広く、宝石があしらわれていた。エーデルが店主に詰め寄る。
「わたしは明日から野良犬と暮らせと?」
「私たちもだよ」
 女が指で、ケーキを指した。白い鳩の形に作られている。
 店主がショーケースを後ろから開いた。手で皿ごと取り出す。茶色い革靴みたいな肌だ。厚くて骨ばっている。
「明日から四角くて灰色のケーキしか売っちゃいかん」
「カヌレやフィナンシェは?」
「灰色に染まっていて、真四角ならいい」
 エーデルが鼻で笑った。
「発案者が墓から出てきて怒るわよ。誰がそんなことを」
 店主が店の外を顎で指した。ガラス張りの壁の向こう側に、憲兵が立っている。
 店主が紙の箱にケーキを入れていく。白い鳩のチーズケーキ、デイジーの花を真似たクッキー、オリーブを包み込んだロールケーキ。
 女が紙幣を二枚、店主に渡した。
「政府は酔っぱらっているのかしらね」
「ウォッカが好きな友達ができたんでしょう」
 店の前を軍人が走っていく。店主が首を横に振った。女が紙の箱を手に取って、ドアに近づいた。振り返って、頭を下げた。
「このケーキを食べたら、国を出ようと思います」
「私も今日分のケーキを売ったら列車に乗ります」
 女から出ていく。ドアに取り付けられたベルが寂しげに音を鳴らした。店の中で、エーデルは店主を見つめていた。首を横に振っている。
 店主はエーデルから視線を外した。
「灰色のケーキを誰が喜んで食べるんだ」
 エーデルの口が固まっていく。店主がねばっこいため息を吐いた。
「パティシエの魂までは売れない」
 ドアのベルが鳴った。扉が開いて、男が入ってくる。スーツ姿だ。
 店主が微笑みながら手のひらを男に向けた。
「エーデルも国を変えたほうがいい」
「まさか」
「せめて実家に帰るんだな」
 エーデルの肩が落ちていく。瞳からは力が抜けていった。店主がショーケースを挟んで男に視線を向けた。
「何にしますか」
「自由の味がするケーキを」

*   *     *

 エーデルは家の前に立っていた。遠くで音楽が聞こえてくる。空の青さを喜ぶような、明るい音色だ。太陽は西に向かって傾き始めていた。昼下がりの街は、相変わらず人々の足音が暴れている。
 エーデルの前に車が止まった。屋根にタクシーと書かれている。中から運転手が降りてきて、トランクを開けた。エーデルが両脇においていたカバンを持ち上げる。岩みたいに大きなカバンだ。運転手がエーデルからカバンを受け取った。トランクの中へと入れていく。荷物を全部入れると、車の中へと入った。
「どこまで行きますか」
「ベルガまで」
「あそこはいい。国境が近いからすぐ逃げられる」
 運転手が窓を開けた。音楽が車内を満たしていく。トランペットの伸びやかな音が聞こえる。フルートの音色も聞こえる。少女の笑い声のように楽しげだ。
 車が走り出す。運転手が頭を揺らしながらハンドルを握っている。
「ジャズだ。自由の音だよ」
 音色がぶつりと消えてなくなった。エーデルがため息を吐きながら窓の外を見た。広場が現れる。楽器を持った人たちと、憲兵が怒鳴りあっていた。
「銃声と掛け声で音楽を作るしかないわね」
「奴らよだれ垂らして喜ぶだろうよ」
 車が街を抜けていく。砂埃で溢れた空気が消えていった。

第2話

 村に車が滑り込んでいく。村は、花畑みたいに鮮やかだった。どの家も色が被っていない。ひと際大きな建物が通り過ぎていく。教会のような佇まいだ。入口に木の板が張られている。美術館、と書かれていた。タイヤが土をこすりながら止まった。目の前には白い家が建っていた。ドアの上に、白い鳩の絵が描かれた看板が吊り下げられている。
 エーデルが家に近づいていく。薄い黄色が混じった白い髪が揺れた。腰まで伸びた髪は、貴族の馬みたいな上品さが漏れていた。
 家の中からけたたましい物音が聞こえてくる。エーデルが足を速めた。扉を開けると、顔の横を筆がかすめていった。
「あらごめんなさい」
「護身術でも始めたの?」
「エーデル」
 姉のワイスが、店の中で立っている。薄緑色のシャツの上から、絵具にまみれたエプロンを着ていた。ワイスのそばには、真っ白なキャンバスが置かれている。
「何を描こうか迷ってて」
 ワイスがエプロンを外す。それから、エーデルを抱きしめた。ワイスから濡れた粘土みたいな臭いが漂ってくる。
「都会の娘は花の匂いなのね」
 ワイスがエーデルから体を離す。くるりと体を回して、後ろのキッチンへと歩いていった。レンガを半円に積み重ねたようなキッチンだ。カエルの口みたいに開いている。舌に当たる部分に白い台が作られていた。ワイスが台の上の鍋置きに、水の入った鍋を置いた。
「田舎の臭いはなれないでしょう」
「街は不自由の臭いで溢れているわ。鳥も住めないもの」
 ワイスが乾燥した花を湯気の立つ水の中へ入れていく。透明だった水が、薄い桃色に染まっていった。それから棚に近づいた。頭よりも上に取り付けられた棚に向かって、腕を伸ばす。服が体に張り付いた。エーデルよりも筋肉が混じった背中と柔らかな胸の横が浮き出る。
 ワイスがはちみつの瓶を取ると、蓋を取った。木のスプーンをゆっくりと瓶に入れていく。金色のはちみつを一すくい、鍋に入れる。部屋の中に、甘い匂いが漂った。まるで花畑だ。
 エーデルがワイスの隣に近づく。
「わたしがお菓子を出すよ」
「壁の棚に置いてあるわ」
 エーデルが棚に近づく。中にガラスの瓶が置かれていた。灰色の四角いクッキーが入っている。
 エーデルが鼻の頭にシワが刻み込まれていく。
「白い鳩のクッキーがいいわ」
「昨日、憲兵に取られちゃった」
 ワイスが鍋を火からおろした。エーデルが木のテーブルにクッキーを置いた。テーブルにはガーベラの花があしらわれた布が敷かれている。
 部屋の中を食器の音が響いては溶けていく。ティーカップに紅茶が注がれた。ワイスがテーブルにティーカップを置く。二人が椅子に座った。
 ワイスの白の混じった黄色い髪が揺れる。肩までの短さだ。二人は同時に横髪を耳に持ち上げた。
「国から逃げましょう」
「嫌よ」
「この国にいたら、一生白い鳩は見えないわ」
「描くわ」
 エーデルが灰色のクッキーをかじった。氷みたいに硬くて、土みたいに味がない
「牢屋に入れられちゃうわ」
「そんなことしていたら、国民が暴れるよ」
「街じゃ憲兵の方が強いわ」
 ワイスが紅茶を飲み干す。灰色のクッキーの瓶を手に持って立ち上がった。キッチン横のゴミ箱に捨てる。
「西に一時間歩けば国が変わる」
「一緒に歩こう」
「あなただけで行って」
 窓の外から、車の音が響いてくる。礼儀知らずなけたたましいエンジン音だ。ワイスが窓に近づいた。エーデルが視線を外に向ける。
 軍用車両が三台、村に入っていた。車のドアが開けられて、憲兵が降りてくる。しつけのいい犬みたいに丁寧な歩き方で、美術館へ入っていった。女性の悲鳴が聞こえて、男の怒鳴り声が村に響く。
 美術館を覆うように植えられた木から、鳥たちが羽ばたいていく。青い空へと逃げていった。憲兵たちが美術館から出ていく。手には絵を持っていた。
 男が赤子のように這いずって出てくる。
「取り上げるな。芸術は人生の楽しみなんだ!」
「戦争が起きるときになぜ協力しない?」
「息子は出兵した」
 男が目を見開きながら、自分の右手を憲兵に向けた。人差し指がなくなっている。
「俺だって前の戦争で戦ったんだ」
「ご苦労。益々の協力を頼む」
 憲兵たちが絵画や石像を車に投げ込んでいく。投げ込むたびに、石像の首が折れ、油絵の絵の具が剝がれていった。一人の若い憲兵が、念入りに絵を置いている。別の憲兵が若い憲兵を殴りつけた。
「さっさと積め!」
 男が立ち上がって、走り出す。後ろから女がしがみついた。
 ワイスが家の中でため息を吐いた。鼻からとげとげしい息が漏れている。
「憲兵にはあの絵の価値がわからないのね」
「学んだのは人の殺し方とふんぞり返り方だけみたいね」
 ワイスが窓のカーテンを閉めた。部屋の中がほんのりと暗くなる。ワイスがエーデルに微笑んだ。笑みには散りかけの花みたいな切なさが混じっていた。

 *    *     *

 空から太陽が消えていた。黒い夜が空いっぱいに広がっている。エーデルは二階のベッドで目を開けていた。ベッド横の窓から、足音が聞こえている。エーデルがカーテンを開ける。軍服姿の青年が走っていた。弱々しい息を繰り返しながら、美術館の前で足を止めた。
 美術館から、中年の男女が出てくる。二人は青年を抱きしめた。月明かりが三人を照らしている。
 青年が服を脱ぐと茂みの中へ捨てた。白い肌着だけになって、歩きだす。男女も一緒だった。三人は月明かりが当たらない道を選びながら歩いている。
 エーデルがカーテンを掴んだ。視界が下に向く。軍服姿の男が視界に入った。若い男がライフルを構えたまま立っている。銃口は青年たちに向けられていた。
 エーデルが手で口を押ええた。その拍子に、肘が窓枠にぶつかって音が鳴る。
 若い軍人が顔を上げた。エーデルと目が合う。軍人の瞳は、月明かりに照らされて揺れていた。
 エーデルがカーテンをはたくように素早く閉めた。ベッドに横になって毛布を体にかける。息は乱れている。胸が大きく膨らんではしぼんでいった。
 エーデルは暗い部屋で目を閉じた。静かな夜に、自分の呼吸の音だけが響いている。

第3話

 階段を降りる音が鳴る。エーデルは手を手すりに置きながら一階に降りた。誰もいない。キッチンには静けさが横たわっている。テーブルの上に皿とカップが置かれている。飲みかけの紅茶が、湯気を立てていた。皿はパンくずと、卵黄がはりついている。
 エーデルが真鍮のドアノブをひねって扉を開ける。冬の風が鼻から染み込んでくる。エーデルが顔を横に向けた。視線の先から、声が聞こえる。美術館の前に、人が集まっていた。ワイスが怒鳴り声を上げている。ワイスの前には青髪の青年が立っていた。フランネルだ。美術館に人差し指を向けている。
「美術館を残せば村がなくなる!」
「芸術がなくなれば人の心が死ぬわ」
 エーデルが人混みに駆け寄る。人だかりに肩を入れ込む。
「姉さん何してるのよ」
「美術館は潰させないわ」
「姉さんが管理しているの?」
「管理人は夜逃げしたのよ!」
 ワイスがフランネルの胸倉を掴み上げた。フランネルの喉が絞められていく。
「あの二人が必死に守ってきたものを捨てるなんてだめよ」
「俺が村長の息子だって忘れてるな」
「忘れてないわ。あんたが子どもの頃におねしょしたのもね」
 ワイスたちの向こう側で、人混みが裂けた。隙間から一人の老婆が現れる。デマリだ。背中は柳のように曲がっている。杖を震える手で持っていた。
「美術館は残す」
 ワイスが口元を緩めた。デマリが杖で地面を叩く。
「作品は飾らない」
「それじゃあ美術館じゃないわ」
 ワイスがフランネルの胸倉から手を離した。フランネルが咳きこむ。デマリは、シワだらけの瞳を細めた。視線をワイスに向ける。ワイスは口を開けたまま、両腕を開いた。
 デマリが鼻から太い息を漏らした。
「美術館は誰が管理しようか」
「私がやるわ」
「作品を地下に眠らせると誓えるか」
 ワイスの口がへの字に歪んでいく。隣のフランネルが鼻で笑った。
 デマリの視線がワイスから外される。代わりにエーデルに向けられた。
「エーデルがやってはくれないか」
 エーデルが左右に視線を向けた。それから、デマリに戻す。デマリは視線をエーデルに突き刺していた。
「無理ですよ」
「話は以上。それぞれ家に帰ろう」
 村人たちは動かない。眉をひそめながら、エーデルとデマリを交互に見ている。デマリが振り返ると、美術館に向けて歩きだした。亀が歩いているかのような遅さだ。美術館の入り口までたどり着くと、顔をエーデルに向けた。
「エーデル。こちらへ」
 村人たちがまばらに帰っていく。ワイスとフランネルが突っ立ったままエーデルに視線を向けた。
「ワイスとフランネルもこっちにきて手伝いなさい」
 フランネルが肩をすくめながら美術館の中へと入っていった。ワイスが後に続く。

「全部地下へ持っていけ」
 フランネルとワイスが絵画を地下へと運んでいく。美術館の中は教会のように作られていた。モグラの巣みたいに入り組んだ通路の先に、開けた部屋が建てられている。部屋の中は長椅子が置かれていた。奥に一台のピアノが佇んでいる。壁はステンドグラスが張られていた。太陽の光が様々な色に染まりながら、ピアノに落ちている。
 ワイスがピアノ横の階段を降りていく。絵画を手に持っていた。
「これで美術館から公民館になるわけね」
「命がなくなるよりはましさ」
 フランネルがワイスのあとをついていく。エーデルはピアノの前で立っていた。埃の一つもついていない。エーデルが壁に近づく。長椅子の横はただの白い壁だ。絵画を飾っていた跡が四角く残っている。
 隣にデマリが近づいた。
「昔を思い出すかい」
「ここで、姉さんが絵を見ていたわ」
「憲兵が絵を奪いに来た時だね」
「怒鳴られてもタコの吸盤みたいに絵に張り付いていた」
 エーデルの口元が緩んだ。視線をデマリに向ける。デマリは隣にいなかった。部屋を出ている。丸くなった背中が亀の甲羅みたいだ。
「おいで」
「どこにいくの?」
「思い出の中へ」
 デマリが歩いていく。エーデルが後をついていった。朝の光が漏れる廊下を歩いていく。廊下の壁は、絵を飾った跡がずらりと並んでいる。人が燃えた時みたいに、壁に絵の型がこびりついている。
 デマリが突き当りで足を止めた。ポケットから丸くて細長い鍵を取り出す。扉には南京錠がかけられていた。鍵穴に鍵を差し込む。金属音が鳴って、南京錠が開けられた。デマリが扉に手を当てる。エーデルが駆け寄って、扉を押した。
 中の部屋に窓は一つも作られていなかった。暗い倉庫みたいな部屋だ。真ん中に一枚だけ絵が置かれている。
「ゲルニカを取り返したの?」
「ワイスが描いたんだよ」
 エーデルは目を丸くしながら絵に近づいた。
「全く同じよ」
「あの子は絵の神様に憑りつかれている」
 エーデルが視線を絵から外した。振り返ると、入口にデマリが立っている。瞳の色に萎れた花みたいな悲しさが混じっている。
「エーデルに美術館を任せたい」
「私は姉と国を出たいだけよ」
「出ていくまででいい」
 デマリがワイスの絵に近づいた。冬の枝みたいな手で絵を掴む。腕が震えた。エーデルが近づいて、絵を持った。デマリの手から絵が離れる。
「村も変わってしまったのね」
「芸術を残すか消すかでいつも争っている」
「明日の小麦を心配したほうがいいわ」
 デマリが肩をすくめながら頷いた。エーデルが光がこぼれ落ちる廊下を歩いていく。金色に色づいた道を歩いていくと、ワイスの背中が見えた。絵を持っていた。ピアノの部屋から離れていく。エーデルがつま先で立って、ワイスに向けて手をあげた。
「絵は地下に運ぶのよ」
 ワイスが振り返る。持っていた絵が見えた。緑のオリーブが描かれていた。クレヨンのおぼつかない線で形作られている。
 窓から太陽の光が差し込んでいる。光がワイスの黄色い髪に吸い込まれていく。窓の外では、子どもが走り回っていた。少女も少年も笑いながら駆け回っている。
「この絵は太陽の元に飾らないと枯れてしまう」
 ワイスが絵をエーデルに見せた。
「子どもの頃に二人で描いたのよ。覚えていない?」
「忘れてしまったわ」
 ワイスの瞳がわずかに細められた。瞳が薄く濡れていく。フランネルが曲がり角から顔を出した。エーデルが持っていたワイスの絵を手渡す。それから、空っぽになった手をワイスに向けた。
 ワイスが首を横に振った。黄色い髪が揺れる。風に吹かれたコスモスの花みたいだ。
「これから規制が厳しくなる。いつか美術館の作品を全部奪われるわ」
「守るべきは命よ」
「魂のない人間は肉の塊と変わらないわ」
 エーデルの視線が鋭くなっていく。ワイスが視線を外した。窓の外で、深緑色のトラックが走っている。子どもたちが足を止めていた。
 ワイスがため息を吐いた。細くて震えている。
「画家は、人の人生に色を足すのが仕事なのよ」
 声が廊下に寂しく溶けて消えていく。憲兵の怒鳴り声が響いた。子どもたちが家に向かって走り出す。