• 『夜、銃声を聞きながらあなたと絵を描く』

  • 柊織之助
    その他

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    戦争と芸術弾圧が始まる国の中で、エーデルは生まれ故郷に帰り画家の姉と暮らすことに。エーデルは国を捨てて逃げようとするが、姉は絵を描くことをやめない。そんな時、故郷にまで弾圧の足音が近づいてくる……。

第1話

「生きてる」
 隣で姉のワイスが呟いた。真っ白な美術館の中だ。エーデルはひまわり柄のワンピースを掴みながら、顔を上げた。目の前に一枚の絵が飾られている。絵の下には、ゲルニカと書かれていた。
「積み木みたいな絵だわ」
 エーデルが絵から視線を外して歩きだした。ワイスは一歩も動かない。エーデルが振り返って、体をゆすった。
「もう帰ろうよ」
「芸術を知りたいとは思わないの?」
「誰もわからないわよ」
 エーデルがワイスの手首を握った。
 どこからか車の音が聞こえてくる。何十台分の音が重なっている。ワイスが視線を絵に突き刺したままだ。
 エーデルの視界がぼやけていく。美術館の窓が赤く染まっていく。夕日が窓から入り込んでくる。美術館の出入り口が蹴り空けられる。ライフルを持った男たちが入ってきた。

*    *     *

 エーデルはバネが弾けるように起き上がった。肺は空気を探して激しく動いている。窓の外で、怒鳴り声が聞こえる。家が立ち並ぶ街は、砂埃が舞っていた。エーデルが起き上がる。洗面台の前に立った。鏡に自分の体が映る。ゆるやかな曲線を描いた体だ。ゆったりとした寝巻の上からでも、大人の体つきが見える。
 エーデルはシャツに紺色のセーターを重ねた。足に張り付くようなスカートを履く。扉を開けて、外にでた。道路では黒い車が砂埃を巻き上げながら走っている。
 エーデルが歩きだす。汚れた空気が鼻から入ってくる。エーデルが咳を漏らした。目の前の歩道で、一人の男が家から転がり出てきた。手すりに背中をぶつけて、鈍い音が鳴った。開けっ放しの家から、軍服の男が数人でてきた。憲兵だ。手には絵を抱えている。
「この絵はなんだ!」
 軍人が男を見下ろす。男は頭を腕でかばいながら、体を小さく丸めた。まるで子犬だ。
「母の形見なんです。返して」
「この絵に何が描かれている」
 エーデルが後ろを通り過ぎていく。絵には、白い鳩が描かれていた。青い空に向かって飛び立っている。他には何も描かれていない。
「自由です」
「無秩序だ」
 軍人が男の横腹を蹴り上げた。男がうめき声をあげる。エーデルが足を速めた。

「今日で終わりってどういう意味です?」
 エーデルはケーキ屋の中で首を傾げた。客が店に入ってくる。目の前にいる店主の男が客に笑みを送った。
「どれにしますか?」
 客の女が手で顎に触れた。白い手袋をつけて、鮮やかなワンピースを着ている。帽子は唾が広く、宝石があしらわれていた。エーデルが店主に詰め寄る。
「わたしは明日から野良犬と暮らせと?」
「私たちもだよ」
 女が指で、ケーキを指した。白い鳩の形に作られている。
 店主がショーケースを後ろから開いた。手で皿ごと取り出す。茶色い革靴みたいな肌だ。厚くて骨ばっている。
「明日から四角くて灰色のケーキしか売っちゃいかん」
「カヌレやフィナンシェは?」
「灰色に染まっていて、真四角ならいい」
 エーデルが鼻で笑った。
「発案者が墓から出てきて怒るわよ。誰がそんなことを」
 店主が店の外を顎で指した。ガラス張りの壁の向こう側に、憲兵が立っている。
 店主が紙の箱にケーキを入れていく。白い鳩のチーズケーキ、デイジーの花を真似たクッキー、オリーブを包み込んだロールケーキ。
 女が紙幣を二枚、店主に渡した。
「政府は酔っぱらっているのかしらね」
「ウォッカが好きな友達ができたんでしょう」
 店の前を軍人が走っていく。店主が首を横に振った。女が紙の箱を手に取って、ドアに近づいた。振り返って、頭を下げた。
「このケーキを食べたら、国を出ようと思います」
「私も今日分のケーキを売ったら列車に乗ります」
 女から出ていく。ドアに取り付けられたベルが寂しげに音を鳴らした。店の中で、エーデルは店主を見つめていた。首を横に振っている。
 店主はエーデルから視線を外した。
「灰色のケーキを誰が喜んで食べるんだ」
 エーデルの口が固まっていく。店主がねばっこいため息を吐いた。
「パティシエの魂までは売れない」
 ドアのベルが鳴った。扉が開いて、男が入ってくる。スーツ姿だ。
 店主が微笑みながら手のひらを男に向けた。
「エーデルも国を変えたほうがいい」
「まさか」
「せめて実家に帰るんだな」
 エーデルの肩が落ちていく。瞳からは力が抜けていった。店主がショーケースを挟んで男に視線を向けた。
「何にしますか」
「自由の味がするケーキを」

*   *     *

 エーデルは家の前に立っていた。遠くで音楽が聞こえてくる。空の青さを喜ぶような、明るい音色だ。太陽は西に向かって傾き始めていた。昼下がりの街は、相変わらず人々の足音が暴れている。
 エーデルの前に車が止まった。屋根にタクシーと書かれている。中から運転手が降りてきて、トランクを開けた。エーデルが両脇においていたカバンを持ち上げる。岩みたいに大きなカバンだ。運転手がエーデルからカバンを受け取った。トランクの中へと入れていく。荷物を全部入れると、車の中へと入った。
「どこまで行きますか」
「ベルガまで」
「あそこはいい。国境が近いからすぐ逃げられる」
 運転手が窓を開けた。音楽が車内を満たしていく。トランペットの伸びやかな音が聞こえる。フルートの音色も聞こえる。少女の笑い声のように楽しげだ。
 車が走り出す。運転手が頭を揺らしながらハンドルを握っている。
「ジャズだ。自由の音だよ」
 音色がぶつりと消えてなくなった。エーデルがため息を吐きながら窓の外を見た。広場が現れる。楽器を持った人たちと、憲兵が怒鳴りあっていた。
「銃声と掛け声で音楽を作るしかないわね」
「奴らよだれ垂らして喜ぶだろうよ」
 車が街を抜けていく。砂埃で溢れた空気が消えていった。

第2話

 村に車が滑り込んでいく。村は、花畑みたいに鮮やかだった。どの家も色が被っていない。ひと際大きな建物が通り過ぎていく。教会のような佇まいだ。入口に木の板が張られている。美術館、と書かれていた。タイヤが土をこすりながら止まった。目の前には白い家が建っていた。ドアの上に、白い鳩の絵が描かれた看板が吊り下げられている。
 エーデルが家に近づいていく。薄い黄色が混じった白い髪が揺れた。腰まで伸びた髪は、貴族の馬みたいな上品さが漏れていた。
 家の中からけたたましい物音が聞こえてくる。エーデルが足を速めた。扉を開けると、顔の横を筆がかすめていった。
「あらごめんなさい」
「護身術でも始めたの?」
「エーデル」
 姉のワイスが、店の中で立っている。薄緑色のシャツの上から、絵具にまみれたエプロンを着ていた。ワイスのそばには、真っ白なキャンバスが置かれている。
「何を描こうか迷ってて」
 ワイスがエプロンを外す。それから、エーデルを抱きしめた。ワイスから濡れた粘土みたいな臭いが漂ってくる。
「都会の娘は花の匂いなのね」
 ワイスがエーデルから体を離す。くるりと体を回して、後ろのキッチンへと歩いていった。レンガを半円に積み重ねたようなキッチンだ。カエルの口みたいに開いている。舌に当たる部分に白い台が作られていた。ワイスが台の上の鍋置きに、水の入った鍋を置いた。
「田舎の臭いはなれないでしょう」
「街は不自由の臭いで溢れているわ。鳥も住めないもの」
 ワイスが乾燥した花を湯気の立つ水の中へ入れていく。透明だった水が、薄い桃色に染まっていった。それから棚に近づいた。頭よりも上に取り付けられた棚に向かって、腕を伸ばす。服が体に張り付いた。エーデルよりも筋肉が混じった背中と柔らかな胸の横が浮き出る。
 ワイスがはちみつの瓶を取ると、蓋を取った。木のスプーンをゆっくりと瓶に入れていく。金色のはちみつを一すくい、鍋に入れる。部屋の中に、甘い匂いが漂った。まるで花畑だ。
 エーデルがワイスの隣に近づく。
「わたしがお菓子を出すよ」
「壁の棚に置いてあるわ」
 エーデルが棚に近づく。中にガラスの瓶が置かれていた。灰色の四角いクッキーが入っている。
 エーデルが鼻の頭にシワが刻み込まれていく。
「白い鳩のクッキーがいいわ」
「昨日、憲兵に取られちゃった」
 ワイスが鍋を火からおろした。エーデルが木のテーブルにクッキーを置いた。テーブルにはガーベラの花があしらわれた布が敷かれている。
 部屋の中を食器の音が響いては溶けていく。ティーカップに紅茶が注がれた。ワイスがテーブルにティーカップを置く。二人が椅子に座った。
 ワイスの白の混じった黄色い髪が揺れる。肩までの短さだ。二人は同時に横髪を耳に持ち上げた。
「国から逃げましょう」
「嫌よ」
「この国にいたら、一生白い鳩は見えないわ」
「描くわ」
 エーデルが灰色のクッキーをかじった。氷みたいに硬くて、土みたいに味がない
「牢屋に入れられちゃうわ」
「そんなことしていたら、国民が暴れるよ」
「街じゃ憲兵の方が強いわ」
 ワイスが紅茶を飲み干す。灰色のクッキーの瓶を手に持って立ち上がった。キッチン横のゴミ箱に捨てる。
「西に一時間歩けば国が変わる」
「一緒に歩こう」
「あなただけで行って」
 窓の外から、車の音が響いてくる。礼儀知らずなけたたましいエンジン音だ。ワイスが窓に近づいた。エーデルが視線を外に向ける。
 軍用車両が三台、村に入っていた。車のドアが開けられて、憲兵が降りてくる。しつけのいい犬みたいに丁寧な歩き方で、美術館へ入っていった。女性の悲鳴が聞こえて、男の怒鳴り声が村に響く。
 美術館を覆うように植えられた木から、鳥たちが羽ばたいていく。青い空へと逃げていった。憲兵たちが美術館から出ていく。手には絵を持っていた。
 男が赤子のように這いずって出てくる。
「取り上げるな。芸術は人生の楽しみなんだ!」
「戦争が起きるときになぜ協力しない?」
「息子は出兵した」
 男が目を見開きながら、自分の右手を憲兵に向けた。人差し指がなくなっている。
「俺だって前の戦争で戦ったんだ」
「ご苦労。益々の協力を頼む」
 憲兵たちが絵画や石像を車に投げ込んでいく。投げ込むたびに、石像の首が折れ、油絵の絵の具が剝がれていった。一人の若い憲兵が、念入りに絵を置いている。別の憲兵が若い憲兵を殴りつけた。
「さっさと積め!」
 男が立ち上がって、走り出す。後ろから女がしがみついた。
 ワイスが家の中でため息を吐いた。鼻からとげとげしい息が漏れている。
「憲兵にはあの絵の価値がわからないのね」
「学んだのは人の殺し方とふんぞり返り方だけみたいね」
 ワイスが窓のカーテンを閉めた。部屋の中がほんのりと暗くなる。ワイスがエーデルに微笑んだ。笑みには散りかけの花みたいな切なさが混じっていた。

 *    *     *

 空から太陽が消えていた。黒い夜が空いっぱいに広がっている。エーデルは二階のベッドで目を開けていた。ベッド横の窓から、足音が聞こえている。エーデルがカーテンを開ける。軍服姿の青年が走っていた。弱々しい息を繰り返しながら、美術館の前で足を止めた。
 美術館から、中年の男女が出てくる。二人は青年を抱きしめた。月明かりが三人を照らしている。
 青年が服を脱ぐと茂みの中へ捨てた。白い肌着だけになって、歩きだす。男女も一緒だった。三人は月明かりが当たらない道を選びながら歩いている。
 エーデルがカーテンを掴んだ。視界が下に向く。軍服姿の男が視界に入った。若い男がライフルを構えたまま立っている。銃口は青年たちに向けられていた。
 エーデルが手で口を押ええた。その拍子に、肘が窓枠にぶつかって音が鳴る。
 若い軍人が顔を上げた。エーデルと目が合う。軍人の瞳は、月明かりに照らされて揺れていた。
 エーデルがカーテンをはたくように素早く閉めた。ベッドに横になって毛布を体にかける。息は乱れている。胸が大きく膨らんではしぼんでいった。
 エーデルは暗い部屋で目を閉じた。静かな夜に、自分の呼吸の音だけが響いている。

第3話

 階段を降りる音が鳴る。エーデルは手を手すりに置きながら一階に降りた。誰もいない。キッチンには静けさが横たわっている。テーブルの上に皿とカップが置かれている。飲みかけの紅茶が、湯気を立てていた。皿はパンくずと、卵黄がはりついている。
 エーデルが真鍮のドアノブをひねって扉を開ける。冬の風が鼻から染み込んでくる。エーデルが顔を横に向けた。視線の先から、声が聞こえる。美術館の前に、人が集まっていた。ワイスが怒鳴り声を上げている。ワイスの前には青髪の青年が立っていた。フランネルだ。美術館に人差し指を向けている。
「美術館を残せば村がなくなる!」
「芸術がなくなれば人の心が死ぬわ」
 エーデルが人混みに駆け寄る。人だかりに肩を入れ込む。
「姉さん何してるのよ」
「美術館は潰させないわ」
「姉さんが管理しているの?」
「管理人は夜逃げしたのよ!」
 ワイスがフランネルの胸倉を掴み上げた。フランネルの喉が絞められていく。
「あの二人が必死に守ってきたものを捨てるなんてだめよ」
「俺が村長の息子だって忘れてるな」
「忘れてないわ。あんたが子どもの頃におねしょしたのもね」
 ワイスたちの向こう側で、人混みが裂けた。隙間から一人の老婆が現れる。デマリだ。背中は柳のように曲がっている。杖を震える手で持っていた。
「美術館は残す」
 ワイスが口元を緩めた。デマリが杖で地面を叩く。
「作品は飾らない」
「それじゃあ美術館じゃないわ」
 ワイスがフランネルの胸倉から手を離した。フランネルが咳きこむ。デマリは、シワだらけの瞳を細めた。視線をワイスに向ける。ワイスは口を開けたまま、両腕を開いた。
 デマリが鼻から太い息を漏らした。
「美術館は誰が管理しようか」
「私がやるわ」
「作品を地下に眠らせると誓えるか」
 ワイスの口がへの字に歪んでいく。隣のフランネルが鼻で笑った。
 デマリの視線がワイスから外される。代わりにエーデルに向けられた。
「エーデルがやってはくれないか」
 エーデルが左右に視線を向けた。それから、デマリに戻す。デマリは視線をエーデルに突き刺していた。
「無理ですよ」
「話は以上。それぞれ家に帰ろう」
 村人たちは動かない。眉をひそめながら、エーデルとデマリを交互に見ている。デマリが振り返ると、美術館に向けて歩きだした。亀が歩いているかのような遅さだ。美術館の入り口までたどり着くと、顔をエーデルに向けた。
「エーデル。こちらへ」
 村人たちがまばらに帰っていく。ワイスとフランネルが突っ立ったままエーデルに視線を向けた。
「ワイスとフランネルもこっちにきて手伝いなさい」
 フランネルが肩をすくめながら美術館の中へと入っていった。ワイスが後に続く。

「全部地下へ持っていけ」
 フランネルとワイスが絵画を地下へと運んでいく。美術館の中は教会のように作られていた。モグラの巣みたいに入り組んだ通路の先に、開けた部屋が建てられている。部屋の中は長椅子が置かれていた。奥に一台のピアノが佇んでいる。壁はステンドグラスが張られていた。太陽の光が様々な色に染まりながら、ピアノに落ちている。
 ワイスがピアノ横の階段を降りていく。絵画を手に持っていた。
「これで美術館から公民館になるわけね」
「命がなくなるよりはましさ」
 フランネルがワイスのあとをついていく。エーデルはピアノの前で立っていた。埃の一つもついていない。エーデルが壁に近づく。長椅子の横はただの白い壁だ。絵画を飾っていた跡が四角く残っている。
 隣にデマリが近づいた。
「昔を思い出すかい」
「ここで、姉さんが絵を見ていたわ」
「憲兵が絵を奪いに来た時だね」
「怒鳴られてもタコの吸盤みたいに絵に張り付いていた」
 エーデルの口元が緩んだ。視線をデマリに向ける。デマリは隣にいなかった。部屋を出ている。丸くなった背中が亀の甲羅みたいだ。
「おいで」
「どこにいくの?」
「思い出の中へ」
 デマリが歩いていく。エーデルが後をついていった。朝の光が漏れる廊下を歩いていく。廊下の壁は、絵を飾った跡がずらりと並んでいる。人が燃えた時みたいに、壁に絵の型がこびりついている。
 デマリが突き当りで足を止めた。ポケットから丸くて細長い鍵を取り出す。扉には南京錠がかけられていた。鍵穴に鍵を差し込む。金属音が鳴って、南京錠が開けられた。デマリが扉に手を当てる。エーデルが駆け寄って、扉を押した。
 中の部屋に窓は一つも作られていなかった。暗い倉庫みたいな部屋だ。真ん中に一枚だけ絵が置かれている。
「ゲルニカを取り返したの?」
「ワイスが描いたんだよ」
 エーデルは目を丸くしながら絵に近づいた。
「全く同じよ」
「あの子は絵の神様に憑りつかれている」
 エーデルが視線を絵から外した。振り返ると、入口にデマリが立っている。瞳の色に萎れた花みたいな悲しさが混じっている。
「エーデルに美術館を任せたい」
「私は姉と国を出たいだけよ」
「出ていくまででいい」
 デマリがワイスの絵に近づいた。冬の枝みたいな手で絵を掴む。腕が震えた。エーデルが近づいて、絵を持った。デマリの手から絵が離れる。
「村も変わってしまったのね」
「芸術を残すか消すかでいつも争っている」
「明日の小麦を心配したほうがいいわ」
 デマリが肩をすくめながら頷いた。エーデルが光がこぼれ落ちる廊下を歩いていく。金色に色づいた道を歩いていくと、ワイスの背中が見えた。絵を持っていた。ピアノの部屋から離れていく。エーデルがつま先で立って、ワイスに向けて手をあげた。
「絵は地下に運ぶのよ」
 ワイスが振り返る。持っていた絵が見えた。緑のオリーブが描かれていた。クレヨンのおぼつかない線で形作られている。
 窓から太陽の光が差し込んでいる。光がワイスの黄色い髪に吸い込まれていく。窓の外では、子どもが走り回っていた。少女も少年も笑いながら駆け回っている。
「この絵は太陽の元に飾らないと枯れてしまう」
 ワイスが絵をエーデルに見せた。
「子どもの頃に二人で描いたのよ。覚えていない?」
「忘れてしまったわ」
 ワイスの瞳がわずかに細められた。瞳が薄く濡れていく。フランネルが曲がり角から顔を出した。エーデルが持っていたワイスの絵を手渡す。それから、空っぽになった手をワイスに向けた。
 ワイスが首を横に振った。黄色い髪が揺れる。風に吹かれたコスモスの花みたいだ。
「これから規制が厳しくなる。いつか美術館の作品を全部奪われるわ」
「守るべきは命よ」
「魂のない人間は肉の塊と変わらないわ」
 エーデルの視線が鋭くなっていく。ワイスが視線を外した。窓の外で、深緑色のトラックが走っている。子どもたちが足を止めていた。
 ワイスがため息を吐いた。細くて震えている。
「画家は、人の人生に色を足すのが仕事なのよ」
 声が廊下に寂しく溶けて消えていく。憲兵の怒鳴り声が響いた。子どもたちが家に向かって走り出す。

第4話

 家の前に一本の木が立っている。平ぺったい楕円の葉を身に着けていた。風に揺られている。太陽が昇っては沈んでいく。繰り返すうちに、木の葉っぱが減っていった。

 葉っぱが半分ほど消えた頃だ。エーデルはキッチンに立っていた。部屋の反対側で、ワイスが絵を描いている。

 エーデルが紅茶をティーカップに注いでいった。やわらかな紫色に染まっている。ワイスが目を閉じて鼻で息を吸った。

「花畑みたいな匂いね」

「スイートピーの紅茶よ」

 エーデルがカップが載せられたソーサーを手に持った。ワイスに近づくと、丸い机に置いた。

「クッキーは食べる?」

「灰色のクッキーなんて食べたら絵が下手になるわ」

 エーデルが視線を絵に向けた。小川と丘が描かれている。青々とした空の下に、白い花びらが舞っている。白いワンピースを着た少女が背中を向けて立っている。手を、空に向けて伸ばしていた。

「姉さんにしては毒がない絵ね」

「画家が描く絵にも規制が入ったのよ」

 ワイスが絵の具を手に持った。毛先を水の入ったコップに漬ける。それから、白い絵の具と桃色の絵の具に触れた。少女の手を塗っていく。少女の握りこぶしが描かれていく。

「今は国の景色を称える絵しか描いちゃだめなのよ」

「どこの絵?」

「この村よ」

 エーデルが絵に顔を近づけた。目を丸くしていく。

「街が見える丘だわ。懐かしい」

「忌々しい大統領が眠る街よ」

 ドアが叩かれた。ワイスが絵を持ち上げる。エーデルの視線から、絵が外れる。ワイスは、筆で絵を描きながらドアを開けた。外にはスーツ姿の老人が立っている。

「絵はどこだ。展覧会は明日だぞ」

「この絵なら政府も喜ぶでしょ」

「毒を吐かないでくれよ」

「賞も取れるかも」 

 老人が眉間にシワを寄せていった。サンタクロースのように伸びた髭を触る。

 ワイスが絵を老人に手渡す。

「乾いてないから気を付けて」

「汚れたら価値が薄まるぞ」

「そんな絵、元から汚れているわ」

 ワイスが肩をすくめながら微笑むと、ドアに手をかけた。エーデルは二人に視線を向けていた。老人が背を向けて歩いていく。窓の外に停まっている車に乗り込んだ。

 ワイスが扉を閉める。エーデルの隣に座ると、生温かい息を吐きだした。

「絵ってこんなにつまらないものだったかしら」

 ワイスがティーカップを手に取った。一口飲むと、唇を歪めた。

「冷めちゃったわ」

*         *     *

 家の外の木が揺れている。葉っぱが数枚、散っていた。裸の枝が一本伸びている。ひとひらの雪が、茶色い枝に触れた。

 エーデルがコートを着て外に出た。夜が来る前の空みたいな、黒い赤だ。

 エーデルが広場に向かって歩いていく。ブーツが冬の湿気に濡れた土を踏んでいく。広場は人の声で溢れていた。大人たちが、出店を組み立てていた。子どもたちは街灯に花を結んで作った紐を結び付けている。

 ワイスは広場の真ん中で薪を積み上げていた。フランネルに怒鳴りつけている。

「あなたとは絶対に結婚できないわ」

「犬と結婚する方がマシだね」

 エーデルがため息を吐きながら二人に駆け寄る。

「何しているのよ」

「祭りの準備よ」

「口論も必要?」

「彩りね」

 フランネルが腰に手を当てて鼻息を鳴らした。エーデルに視線を向ける。

「こんな姉のために村に残っているのか」

「命より大切な姉よ」

 ワイスがエーデルに薪を差し出した。腕二本分はある薪を手に取る。ワイスがさらに薪を渡していった。エーデルが細い腕で薪を抱える。

「積み上げていって」

 エーデルは固い笑みを浮かべながら頷いた。二人からちょっと空いた隣に立つと、薪を片手で持った。指が震える。視界の横から、太い手が伸びてきた。軍服を着た青年だ。薪を掴み上げて、積み上げていく。

 ワイスが青年を睨みつけた。

「軍人は銃持って訓練したらいいんじゃない?」

 青年は視線を薪の山に向けている。エーデルから薪を取っては、積み上げていった。

「人間だもの。息抜きはいるさ」

「芸術もぜひ息抜きにどうぞ」

「僕も絵を描いていたよ」

 青年がエーデルの薪を掴み取った。最後の一本だ。青年が腕を伸ばした。長袖のシャツのシワが、筋肉の形にそって伸ばされていく。

 広場の声が小さく隠れていく。トラックの音が遠くで聞こえた。

 ワイスが視線を遠くへ一直線に向けた。そして走り出す。ワイスの先には、自宅が建っていた。家の前にトラックが停まっている。憲兵たちが扉をこじ開けていた。

 エーデルがワイスの後を追って走り出す。青年も同じだった。

 家の中で、憲兵が家具をひっくり返していた。埃が舞って、空気が灰色に濁っていく。太陽の明かりが埃を照らしていた。

 ワイスが部屋に駆け込んでくる。憲兵は視線を一度だけ向けた。憲兵の一人が、棚の後ろに手をかけた。力任せに棚をずらす。扉が開いて、中のティーカップが数個、床に落ちて割れた。

「何をするのよ」

 ワイスが憲兵に詰め寄る。憲兵たちの中でもひときわ目つきの鋭い男が、咳を吐き出した。

「この絵はなんだ」

 男が手に持っていた絵を持ち上げた。白いワンピースを着た少女の絵だ。

「親指を下に向けている」

「絵の具が垂れたんでしょ」

 エーデルが家のドアにたどり着いた。後ろには青年が駆け寄る。

「大統領のいる街に向けているな」

「政府批判だって言いたいのね」

「牢屋が好きか」

「批判されたかもしれないからって怒るのね」

 ワイスがしゃがみこんだ。割れたティーカップを拾い上げていく。手のひらに、欠片の一つ一つを優しくのせていく。

「子どものほうがまだ賢く怒るわ」

 男がポケットからオイルライターを取り出した。鉄の丸いやすりを手で回す。火の塊が現れた。絵に近づけると、炎が映っていく。

 ワイスの目が見開かれた。

 ワンピースを着た少女が炎に包まれていく。親指を下に向けた拳が、灰になって消えていった。

 男が絵をキッチンに投げ捨てると、振り返った。ドアに向けて歩きだす。青年が手をピンと伸ばして額に当てた。

「キノプス少佐」

 キノプスが青年に近づくと、服の胸を掴んだ。黄色の糸で名前が書かれている。

「シンス二等兵。新入りか」

 キノプスが手を離した。視線をワイスに向ける。

「次は牢屋に入れる」

 シンスが声を短く発した。姿勢をさらに伸ばす。

 キノプスがブーツを鋭く鳴らしながら歩いていく。後ろを憲兵たちがついていった。家に憲兵たちがいなくなる。エーデルが部屋に視線を向けた。ワイスが、埃で満たされた灰色の部屋に立っている。外の太陽は傾いて、光は赤く染まり始めている。

 ワイスの黄色い瞳に、太陽の赤色が混じっていく。

第5話

 太陽が沈むと、村は炎の明かりで満たされていった。村中に置かれたオイルの街灯が、黄色く揺れている。

 広場では子どもたちが星空に向けて歌っていた。焚火の周りで、若い男女が踊っている。女が足を動かす度に、スカートが新婦のヴェールみたいに揺れる。男が女の腰に手を当てる。女が頬を赤らめながら微笑んだ。

 ワイスが鼻を鳴らした。丸太に座っている。丸太は焚火を囲うように置かれていた。隣ではエーデルが灰色のマドレーヌを口に入れた。表面にコスモスの花が飾られている。広場では音楽団が楽器を鳴らしていた。アコーディオンから、牛の鳴き声みたいな音が聞こえる。草原の牧場を思い出すような音色だ。

 ワイスが立ち上がった。

「そのうち踊りもできなくなるわ」

「国を変えましょうよ」

「私はこの村の人間よ」

 ワイスが歩きだす。前では、フランネルがぎこちなく踊っていた。酔っぱらった鶏みたいだ。

「もっと胸張って踊りなさいよ」

 エーデルが視線を広場に巡らせた。アコーディオンの音が、女のささやきみたいに小さくなった。入れ替わるように、ハープの音色が聞こえてくる。

 エーデルが食べかけのマドレーヌを口の中に放り込んだ。立ち上がって、息を吐く。焚火の周りには、村人たちしかいない。村人のさらに周りに、短髪で筋肉質な男たちが立っている。遊びの輪に入れない子供みたいだ。

 街灯の下で、シンスが膝を抱えて座っている。傷のない細い指で、地面をなぞっていた。エーデルが近づく。足音が鳴って、シンスが頭を上げた。

「僕らは邪魔しないよ」

「一緒に踊ればいいのに」

「君たちと僕たちは違うから」

「同じ人間でしょ」

 エーデルが指を地面に向けて指した。シンスの足元に絵が描かれている。土の線が、街灯の黄色い明かりで浮き上がっていた。フラスコを逆さまにしたような形だ。

「サンダーソニアの花?」

「故郷によく咲いていたんだ」

 シンスが微笑んだ。人差し指の先を地面にこすりつけていく。柔らかく曲がる茎が書き上げられた。

「君も花が好き?」

 エーデルが頷いた。

「花言葉好きの姉に影響されてね」

 エーデルの目元が緩んだ。瞬間、村を警報が包み込んだ。村中のスピーカーから、鋭い音が矢のように流れている。シンスが立ち上がって走り出した。広場の村人たちが光のない丘へと走り出した。憲兵たちが反対側の山へと走っていく。シンスの後ろ姿が夜の黒に溶けていく。

 ワイスが後ろからエーデルの手首を握りしめた。

「案山子に化けているつもり?」

 星空を、プロペラの音が切り裂いていく。エーデルが空を見上げた。宝石を敷き詰めたような夜空に、戦闘機が飛んでいる。

 山から、銃声が響いた。光の筋が飛行機にめがけて飛んでいく。流れ星のようだ。

 ワイスがエーデルを引きずるように走る。エーデルはよろめきながら足を動かした。丘にたどり着くと、光が消えた。隣の森は黒に染まっている。近づいていくと、村人たちが見えた。木の横で、しゃがみ込んでいる。

 ワイスとエーデルが足を止めた。丘の真ん中は芝が覆っているだけだ。村の広場も見える。広場には、焚火が一人ぼっちで燃えていた。

*              *     *

 

 家の前の木が、風に揺らされている。葉っぱが一枚落ちた。空は青く澄み切っている。宇宙が透けて見えそうだ。

 エーデルは美術館の中で、雑巾を手に持っている。隣でフランネルが長椅子を拭いていた。ワイスがピアノを拭いている。ピアノの反対側には、窓が取り付けられていた。窓の向こう側で、憲兵たちが絵を燃やしている。兵士たちは頭や腕に包帯を巻いていた。所々が赤黒く染まっている。

 ワイスが濡れた雑巾でピアノを撫でていく。ステンドグラスの虹色がワイスとピアノに落ちていた。

「このまま好きにさせるつもり?」

「軍人たちが戦ってくれているんだ」

「戦うから、国民の魂を奪ってもいいの?」

 ワイスがピアノを拭いていく。光が鮮やかになっていく。埃が消えていく。

「村の祭りも禁止よ。踊りも」

 フランネルは長椅子の埃を拭いていた。埃を大雑把に取っている。ワイスが腰に手をあてて鼻息を鳴らした。

「芸術の展覧会をここでやる」

「君はいつから馬鹿になったんだ」

「村の伝統が奪われたのよ。あなたは親の形見を泥棒に渡すの?」

 ワイスが雑巾をフランネルに投げて渡した。大股で部屋を出ていく。フランネルが顔を歪めた。

「馬鹿はこの部屋だけにしてくれよ!」

「芸術は人生よ。奪われてはいけない」

 ワイスは後ろを振り返らずに歩いていく。太陽の光が弱くなっていく。灰色の雲が太陽を隠した。ステンドグラスの光が灰色に染まっていく。

 

*              *     *

 

 冬の音が聞こえる。冷たい風が夜を駆け抜ける。エーデルが目を覚ました。赤く染まった鼻先をこする。手先も赤くやけていた。

 薄暗い部屋を出る。隣の部屋に視線を向ける。扉が半開きだ。エーデルが顔を部屋に入れた。誰もいない。オリーブの絵が飾られているだけだ。

 エーデルが階段を降りていった。木のきしむ音が響く。一階に降りると、ワイスが窓際に座っていた。背中を向けたまま、筆でキャンバスを撫でている。

 薪ストーブの中では、薪が赤く光っていた。炎は消えている。

 ワイスが首だけで振り返った。黒い影の塊みたいだ。

「薪を持ってきてくれる?」

「次は何の絵を描くの?」

「白い鳩」

 エーデルがドアノブに手をかける。

「芸術の展覧会は国を渡ってからやりましょう」

「あなただけ先に行って」

「わたしは妹よ。姉さんと一緒がいい」

 扉を開けると、冷たい風が入り込んできた。家の外で木が揺れている。葉っぱが一枚だけ残っていた。

 白く染まった息を吐く。背後で、絵の具を水につける音が鳴った。ドアを閉じる。エーデルは一枚の服だけで、冬の夜を歩き始めた。

 美術館の横に、薪が置かれた棚が作られている。長袖を手で掴んで伸ばす。それから、袖の上に薪を載せていった。三本で、腕が沈みだす。

 視界の端から、腕が伸びてきた。薪を持ち上げられる。顔を上げると、シンスが立っていた。視線をさまよわせながら微笑んでいる。シンスの頬は生傷が刻まれていた。

「手伝ってもいい?」

「いつも村人といたら怒られるわよ」

「キノプス少佐が見た時だけね」

 シンスが棚から薪を取っていく。八個を抱えて歩きだした。エーデルは三つだ。

「傷は大丈夫なの?」

「敵機の銃弾をよけたら転んだ」

 シンスが月明かりの下で微笑んだ。

「怖くはないの?」

「泣いたよ」

 シンスが息を吐いて、肩をすくめた。エーデルは視線を地面に垂らした。

「嫌な時代ね」

「他の奴らも嘆いているよ。喜びが欲しいって」

 美術館を横切っていく時だった。建物の陰から、フランネルとキノプスが姿を現した。キノプスは鋭い視線をエーデルたちに向けた。それから、立ち去った。フランネルは怯えたハムスターみたいな瞳で、エーデルを見た。

「どうしたの」

 エーデルの声が届くよりも先に、フランネルが走り出す。冷たい星空の下だ。エーデルとシンスは、フランネルたちとは反対側に向かって歩きだした。

第6話

 太陽が空の真ん中まで昇っている。青い雲の向こう側から、灰色の雲が近づいていた。まるで津波だ。

 エーデルは家の中で、薪ストーブを眺めていた。灰の中で炎が揺れている。エーデルの瞳に炎の赤が染み込んでいるようだった。エーデルが首を横に振る。

 窓の外で、悲鳴が上がった。人々が叫んでいる。エーデルが立ち上がると、ドアを開けた。美術館で人だかりができている。

 エーデルの足が固まった。美術館が燃えている。炎の塊に包み込まれていた。美術館の前で、ワイスがバケツを持っている。

 エーデルが玄関先に置いてあったバケツを掴み取った。美術館に向かって走り出す。

 白かった美術館が黒に焦げていく。子どもたちが口を開けたまま炎を見上げていた。

 エーデルがワイスに駆け寄った。

「中に人は?」

「燃えているのは作品だけ」

 炎の赤色が、ワイスの黄色い瞳を染め直している。ワイスは歯を食いしばりながら、水をかけていた。周りにいた村人たちが水を汲んでくる。

 太陽が傾いていく。太陽が沈む頃、空は灰色の雲に包み込まれた。ワイスが燃えつきた美術館に入っていった。灰と化したピアノを手で掴む。エーデルは美術館だった場所の前で突っ立っていた。村人たちが拳を握りしめながら帰っていく。

 ワイスが叫んだ。目の前には地下室への扉が見える。扉は開いたままだった。

「誰かが地下ごと燃やしてる」

 フランネルがエーデルの隣に立った。

「エーデルは誰が怪しいと思う?」

 フランネルが微笑んだ。瞳がしめっていた。フランネルの向こう側で、灰色の雲が空をさまよっている。エーデルは弱々しく首を振った。瞳が濡れていく。

 ワイスが灰の山をまたぎながら近づいてきた。

「フランネルも力を貸して。犯人を見つけて燃やしてやる」

「燃やしてくれ」

 エーデルがフランネルに視線を向けた。

「俺が燃やしたんだ」

 ワイスの肩から力が抜けていく。瞳の赤色が揺らいで弱まっていく。

「憲兵から金をもらったの?」

「きょう燃やさなければ、ワイスと美術館に集まった人たちは牢屋行きだった」

 ワイスがフランネルの胸倉を掴み上げた。フランネルは一歩も引かずに、立ったまま瞳を閉じた。

「キノプスと約束した。これ以上規制しないって」

「屈したのと同じよ」

「何が悪い」

 フランネルが瞳を開けた。

「俺が村長の息子だって忘れているな」

 フランネルがワイスの手首を掴んだ。

「俺は村を守るよ」

 ワイスの指の力が緩んでいく。手が胸倉から離れていく。

「昔、美術館で追いかけっこして遊んだわよね。覚えていないの?」

「忘れるわけがない」

「あなたは三人の大切な思い出も燃やしたのよ」

 フランネルが息を吐いた。

「君よりはマシだよ。妹の命より芸術を優先するんだから」

フランネルが背中を向けて歩きだした。月明かりに薄黒く染まった背中だ。

*              *     *

 

 エーデルは眠気で張り付いた瞼を持ち上げた。部屋の景色がもやみたいに歪んでいる。一階で足音がティンパニみたいに鳴っている。

 エーデルが目をこすりながら起き上がった。床に足をつける。冷えた床が、足裏から体の温もりを奪っていく。部屋から外に出て、階段を降りていく。霧だらけの視界が晴れていく。

「姉さん。オリーブの絵を思い出したわ」

「部屋にいなさい!」

 一階で、ワイスが憲兵に掴まれていた。腕を後ろにねじ上げられている。ワイスが眉間にシワを刻みこんだ。濡れた瞳で、憲兵を睨みつけている。

 キノプスが憲兵たちを連れて階段を上がっていく。エーデルを置物みたいに見ながら横切っていった。

 軍靴の固い音が部屋中を汚していく。エーデルは憲兵たちを追いかけて、階段を上がった。憲兵たちは部屋の中に入って、家具をひっくり返していた。テーブルの縁を握って持ち上げる。狩ったうさぎを見せびらかしているようだ。

 エーデルは廊下に突っ立って、憲兵たちを見ていた。視線は、憲兵の腰に提げられた拳銃を見ている。瞳は怯えた色に染まっていた。

 ワイスの部屋から憲兵が出てきた。手に絵を持っている。

「オリーブの絵です」

 キノプスが絵に唾を吐いた。生温かい液体がべったりとこびりつく。喫煙者みたいに黄色い。

「燃やせ」

「ひどいわ」

 エーデルがキノプスの前に立ちふさがった。

「礼儀を習わなかったの?」

「戦場じゃ使わない」

 階段の下から足音が上がってきた。シンスだ。エーデルはキノプスを、包丁で刺すみたいに睨みつけた。

「じゃあ、早く戦地に行ったらいいわ」

 エーデルがオリーブの絵を奪いとった。瞳が涙に濡れていく。長袖の裾で、黄色い唾を拭った。

「この国はあなたたちが帰る場所よ。反抗期の息子みたいな態度はやめてよ」

 キノプスが唇を噛んだ。拳が握られていく。古傷が鎧みたいに手を覆っている。キノプスが拳を振り上げた。

 シンスが階段を駆け上がる。キノプスの後ろに立つと、かかとで思い切り床を叩いた。キノプスがシンスに視線を向ける。シンスは背筋を伸ばして、手を額に当てた。

「隊長。車が用意できました」

「すぐ行く」

 キノプスが壁に唾を吐いた。エーデルからオリーブの絵を奪いとる。エーデルの爪が、額縁に引っかかった。ガリっと嫌な音が鳴って、エーデルの手から絵が離れる。

 憲兵たちが階段を降りていく。一階でワイスの叫び声が響いた。エーデルが階段を駆け下りる。

 一階の床には、キャンバスや絵の具がぶちまけられていた。ワイスがドアの外に引きずりだされている。まるで殺処分されにいく犬みたいだ。

 エーデルがワイスに駆け寄った。男がワイスの腕を引っ張っている。エーデルが男に掴みかかった。

 憲兵たちが、ワイスを引きずり出していく。外の木は、葉っぱが一枚残らず散っていた。冬の冷たい風が、村の音を運んでいる。どこもかしこも悲鳴が聞こえていた。村の広場で、焚火が燃えている。周りでは憲兵たちが絵や楽器を薪みたいにくべていた。村中の家から燃料を運んでいる。まるで腹を空かせたアリだ。

「姉はどこにも連れて行かせないわ!」

 シンスがエーデルの肩を掴んだ。エーデルがシンスの腰から拳銃を掴み取った。周りの憲兵たちが、ライフルを構えた。シンスがエーデルの前に立った。体で壁代わりに使って、銃口からエーデルを隠す。

 冬の空気が張り付いていく。水が一気に凍っていくようだ。

「怒声と銃声でしか人と話せないの?」

 シンスが顔だけで振り返った。

「君まで捕まってしまうよ」

「捕まえてほしいのよ!」

 エーデルがシンスを横切って前に進む。ワイスはトラックの荷台に乗せられていた。村の広場から、フランネルが走ってきている。顔中に汗をにじませていた。キノプスが腰の拳銃に手をかけた。エーデルがキノプスの足元にめがけて銃を投げ捨てる。

「これで私を捕まえないほど馬鹿じゃないでしょ」

「シンス」

 キノプスがエーデルから視線を外した。トラックの助手席に近づいていく。シンスがエーデルの両手首を柔らかく掴んだ。麻縄で縛っていく。

「君まで捕まる必要はなかった」

「家族を見捨てるほうが嫌よ」

 エーデルがトラックの荷台に乗り込む。フランネルが駆け寄ってきた。

「キノプスどういうことだ」

「違反を発見した」

「村人は一日をただ生きていただけだ」

 フランネルの茶色い瞳に朝日の赤色が染まっていく。犬歯をむき出しにしながら、頬を震わせていた。

「嘘つきめ」

「証明できない話はやめてくれ」

「地獄で裁かれろ」

 キノプスがトラックの助手席に乗り込んだ。車が動き出す。焦げた排気ガスで、村の空気を汚していた。フランネルが離れていく。だが、フランネルは駆け出した。ワイスが首を横に振る。

 エーデルが視線を手元に落とした。ゆるく結ばれた縄だ。車の速度が上がっていく。小石を踏みつけて、荷台が揺れる。エーデルが離れていく村に視線を向けた。葉っぱ一枚すらついていない木が揺れている。まるで手を振っているようだった。

 広場に憲兵が歩いている。手にはオリーブの絵を持っていた。憲兵は腐った生ごみを捨てるかのように、オリーブの絵を炎に投げた。

第7話

 牢屋は、梅雨の空気みたいに湿っていた。壁はカエルの皮膚みたいにねばついている。エーデルとワイスは隣り合った牢屋に入れられていた。エーデルが座り込んで壁にもたれる。背中が湿っていく。顔を上げると、鉄格子のついた窓が見えた。月が浮かんでいる。白い月明かりが、牢屋の中へ零れ落ちていた。
 外で警報が鳴り響いている。プロペラの汚い音が、夜空の空気を無遠慮にかき混ぜている。
 背中から、ワイスの息遣いが伝わってくる。
「だからエーデルだけで国を渡れって言ったのよ」
「オリーブの絵を思い出したのよ」
 背中越しに、布が擦れる音が聞こえた。
「姉さんが枝と葉を描いたわ」
「エーデルは実を」
 ワイスがほぐれた息を漏らした。
「初めて美術館に行った日よ」
「姉さんが絵に恋した日ね」
 エーデルが震える息を吐いた。肺の中に溜まった不安を押し出すような吐き方だ。月を灰色の雲が隠していく。
 廊下の奥から、金属音が響き渡った。足音が三つ入ってくる。憲兵が二人と、ぼろ布をきた男が一人だ。男は痩せこけていた。憲兵の一人が男を隣の牢屋に投げ込む。
 憲兵たちが帰っていく。片方が足を止めた。エーデルの前で立ち止まる。月明かりが牢屋に差し込んだ。暗闇に隠れた憲兵の顔を浮かび上がらせる。
「シンス」
「数日後には帰れるよ」
「村はどうなっているの?」
「芸術品は全部消えた。絵も花も楽器も」
 シンスの声がエーデルの瞳を濡らしていった。シンスがポケットから、銀紙を取り出した。包みを開けると、二つの白いチョコレートが見えた。花の形だ。
「これだけは燃やせなかったんだ」
「アネモネね」
「君ならわかってくれるだろう」
 シンスが微笑んだ。鉄格子の隙間から包みを手渡す。エーデルの細い手を両手で包み込んだ。春のような温もりが染み込んでくる。
「敵の飛行機が増えてきた。村を出た方がいい」
「シンスも危ないわ」
「希望さえあればいつだって大丈夫だよ」
「唇が震えているわよ」
 エーデルが鉄格子から腕を伸ばした。シンスの頬に触れる。シンスの瞳がうるんでいった。目元に力を入れて、涙がこぼれ落ちないように防いでいる。ひどく歪んだ顔でエーデルを見た。
「この国は灰色に染まってしまった」
 エーデルが頷きながら、シンスの頬を撫でた。唇の震えが収まっていく。エーデルの冷たかった手が温められていく。
「せめてあなたの心を抱きしめたいわ」
「一度でいいから喜びに触れたい。絵に囲まれて踊りたい」
 シンスが息を吐きだした。震えて乱れた息が、エーデルの白い前髪を揺らした。
「人間には希望の火が必要だよ」
 シンスが立ちあがって歩いていく。シンスの先には、開いた扉が待っていた。雲に包まれた夜空が見える。
 シンスが外に出ていくと、静けさが牢屋に染み込んでいった。

*              *     *

 頬に土の汚れがこびりついている。太陽が何度も空を回っていた。憲兵の一人が、近づいてくる。貴族ぶった顔つきを浮かべながら、鍵で牢屋を開けた。鉄の錠が仰々しい音を立てた。蝶番が擦れる音が響く。
 隣の牢屋も開けられる。ワイスが外に出てくる。瞳には疲れの色をため込んでいた。憲兵に背中を押されながら歩く。牢屋の外は、赤い空が広がっていた。鳩が空を飛んでいる。
 ワイスとエーデルは下を向きながら歩きだした。目の前に一本の道が続いている。両脇には枯れた木が並んでいる。灰色の木と、赤い太陽だけが見える。まるで暖炉の中に迷いこんでしまったみたいだ。
「エーデルが正しかったわ」
 隣をワイスが歩いている。足音は冬のよそ風よりも弱々しい。エーデルが視線を上げた。灰色の木々が視界を流れていく。道の向こう側に、村が見え始めた。
「正しさなんて、自分自身が決めるものよ」
 エーデルが目元をゆがめた。村が近づいてくる。村人たちは、劇の黒子みたいだ。自分自身を誰にも見られないように、顔を伏せている。ゾンビのように村をうろついているだけだ。フランネルも、ホウキを持って落ち葉を払っている。瞳は灰色にくすんでいた。
「姉さんは、こうなるのがわかっていたのね」
 太陽の光が奪われていく。夜の黒が広がっていく。空では赤と黒が混ざり合っていた。
 ワイスが微笑んだ。口元が歪んでいる。
「魂の売り時ね。北へ行きましょう」
「私どうしたらいいのかわからないわ」
「あなたが生きてさえいてくれたらいいのよ」
 家にたどり着く。エーデルが扉を開いた。真っ暗な部屋だ。家具や食器が床に散らばっている。エーデルがティーカップの欠片をよけながらキッチンに近づいていく。家の中は、赤の他人に変わってしまっていた。見慣れた場所がどこにもない。エーデルがキッチンに小枝を集めた。マッチに火をつけて、小枝に近づける。炎が小枝に移ると、上に鍋を置いた。
「姉さん紅茶を取って」
「どれがいい」
「ベルガモットの香りがいい」
ワイスが棚に手を伸ばす。窓の外で警報が鳴り響いた。ワイスがため息を吐きながら棚から離れた。
 ワイスが家を出ていく。エーデルは燃えている小枝に息を吹きかけた。炎が消えて、煙の臭いが鼻に入ってくる。
 エーデルが外に出た。村の人たちが走っている。フランネルはデマリを背負っていた。ワイスは歩いている。夜の色に染まった村は、死人の肌みたいに冷たい。
 憲兵たちも走って村を出ていく。誰の瞳からも色が消えていた。
 エーデルが村を抜けて丘を登りだす。足は力が抜けていた。雲の上を歩いていくようだ。戦闘機が頭上を飛んでいる。黒い鷹みたいな翼を広げている。丘の反対側の山から銃声が響き渡った。鼓膜を何度も突き刺してくる。
 戦闘機が夜の雲を突き破りながら山へ飛び込んでいく。かと思えば、月へ向かって舞い上がった。山に赤い光が弾けた。次いで音が丘を駆け抜けていく。
 エーデルの白い髪が揺れた。
 丘の上では、村人たちが座り込んでいた。芝生になっている場所で、地面を見つめている。
 ワイスは草の生えていない場所でしゃがみ込んだ。人差し指で土をなぞっていく。
「白い鳩の絵を描くの?」
「人生の素晴らしさを描いているのよ」
 周りの村人たちがワイスの周りに近づいていく。エーデルは立ったまま絵を覗き込んだ。絵が月明かりの下で浮かび上がっている。ワイスは爪を使って、木の葉脈を書き込んでいた。その次は、小川の流れを描いていく。
 線を描いていく度に、村人たちの口角が上がっていく。瞳が鮮やかに色付いていく。エーデルは村人たちに視線を向けた。フランネルも絵を見つめている。
 銃声が夜空に響いては溶けていった。
「エーデルも手伝って」
「絵は下手よ」
「美術館は丸い窓だっけ」
 エーデルがワイスの隣にしゃがみ込む。細い指で土に触れた。地面のキャンバスに、四角い窓を描いていく。
「花壇もあったはずよ」
「どんな花だっけ」
 フランネルがしゃがみこんだ。山で爆発音が響いている。戦闘機が月の周りを飛んでいる。まるでハエだ。戦闘機にめがけて山から銃弾が飛んでいく。光の線が翼を貫いた。
 フランネルが美術館に花壇を書き足していく。
「結構上手いわ」
「君ほどじゃないよ」
 ワイスが美術館の横に広場を描いていく。村人たちが体をさらに近づけた。
「ここには喫茶店ね」
 老人が手を挙げた。
「カモミールの花を飾っていた」
「描いてみてくれませんか」
 老人がしゃがみこんで、シワだらけの指で描いていく。それを合図に、みんながしゃがみ始めた。子どもみたいに瞳を輝かせている。
「みんなも描いて。思い出を忘れないように」
 ワイスが微笑んだ。白いカスミソウの花が揺れるように笑っていた。銃声が頭上で鳴り響いている。まるで音楽みたいだ。軍人たちが銃弾を使った曲を奏でている。村人たちは、地面に描いた絵だけを見ていた。
 絵が描きこまれていく。絵から村の音が聞こえてくるようだった。子どもが駆け回る足音、主婦たちが笑う声、老人がコーヒーカップを置く音が鳴っている。
 エーデルが自分の家を描き始めた。途端に、月が雲に隠される。絵が夜の黒に染まった。何も見えなくなる。
 デマリがワイスの隣に近づいた。目元を緩めている。
「この絵を、キャンバスで見たかった」
「夜が明けたら北の国に行くわ」
「他の希望者も行くといい。ここは灰色の地に変わってしまった」
 村人たちが肩を落とす。老人が息を吐いた。
「最後に一度でいいから喜びが欲しい」
 隣に立っていたエプロン姿の男が拳を握りしめた。
「憲兵を殴ってしまいたい」
 エーデルが服の裾を掴んだ。服にシワが作られる。視線を老人に向けた。
「しましょう」
 エーデルが立ち上がった。冬の風が丘を駆け抜けていく。フランネルがエーデルに視線を向けた。瞳には戸惑いの色が混ざっている。
「殴るの?」
「違うわ。喜びの話よ」
 エーデルが腕を村に向けて伸ばした。人差し指で広場を指す。花のない村が月明かりの中で灰色に浮かび上がっている。石畳の地面に、ピアノやギターの破片が散らばっていた。
「こんなに心を踏みにじられたのよ。黙ったままじゃいられないわ」
 ワイスが眉間にシワを刻みこんだ。
「牢屋が好きになったの?」
「村人全員でやれば一度くらい許されるわ」
 ワイスが首を横に振る。エーデルは微笑みながら頷いた。
「だから私たちも、一度でいいから憲兵を許しましょう」

 村の警報が消えた。飛行機のプロペラ音が遠ざかっていく。村人たちは丘を降りていた。エーデルとワイスが並んで歩いている。視線は前に向けていた。
 ワイスが鼻を鳴らしながら微笑んだ。瞳をエーデルに向ける。空には雲が消えていた。白い月明かりが、村に落ちている。
「いつから芸術が好きになったの?」
 エーデルが微笑んだ。ポケットの中から、銀紙の包みを取り出した。中を開く。白いアネモネの形に作られたチョコレートだ。エーデルが一つをつまんでワイスに手渡した。
「希望を託されたの」
「アネモネの花言葉ね」
 エーデルが白いチョコレートを口の中に入れた。唇で挟んでから、舌の上にのせる。口の中が、甘い花の香りで満たされていく。
 ワイスもチョコレートを口に入れた。頬が緩んでいく。エーデルが息を吐いた。チョコの甘い香りが肺に染み込んでいる。
「食べちゃった」
「吐き出すわけにはいかないわね」

最終話

 キノプスが村に向かって歩いている。広場の近くで立ち止まった。目の前では、村人たちが花を運んでいる。赤いベゴニアの花が、絨毯みたいに敷き詰められていく。私服の男たちが、トラックから花壇を運んでいた。
 キノプスの横に男が近づいてくる。火のついた煙草をくわえていた。銃弾の傷が頬に刻まれている。キノプスが顔中にシワを刻みこんだ。男が、煙草の箱を取り出した。箱の縁を指で叩くと、一本だけ飛び出た。キノプスに差し出す。
「息抜きにどうですか」
「煙草はやめた!」

 キノプスが広場に向かって歩きだした。ブーツのかかとで土を踏みつけていく。村人たちはキノプスに視線を向けなかった。どこにでもいるハエと同じように無視を決め込んでいた。

*              *     *

「何を描いているの?」
「村の思い出よ」
 エーデルは家で紅茶を淹れていた。ピンクに色づいている。ティーポットを持ち上げて、カップに紅茶を注いでいく。
「フランネルのおねしょも描こうかしら」
「怒られても知らないわよ」
 エーデルがカップを二つ持って、ワイスに近づいた。
ワイスの頬が緩んでいく。瞳を閉じて鼻で香りを嗅いでいた。
「何の紅茶?」
「ピンクのゼラニウム」
「安らぎの香りね」 
 ドアがノックされた。ドアに取り付けられた窓の向こう側に、シンスが立っている。エーデルは小鳥みたいな足取りでドアを開けた。
 シンスの頬が緩む。
「あのまま戻ってこなかったら牢屋を爆破したよ」
「見てみたかったわ」
 家の外で、怒声が響き渡った。キノプスが叫んでいる。ワイスがカーテンを閉めた。息を深く吐く。絵具のついた筆でキャンバスをなぞっていく。
 シンスが視線を広場に向けた。顔の筋肉がこわばっていく。エーデルは家を出て走り出した。シンスがエーデルに手を伸ばす。
「僕も行くよ」
「あなたは村中の喜びを集めてきて」
 エーデルは振り返らずに走っていった。白鳥のように細く艶やかな背中が離れていく。シンスは開きっぱなしの扉を見た。部屋の中で、ワイスがシンスに顔を向けている。
「村中の喜びって何がある?」
「あなたたちが奪っていったもの全部」
 シンスが唇をへの字に曲げて、視線を下に落とした。やがて弱々しく頷くと、扉に手をかけて閉めていった。ワイスは背中を見せて絵を描いている。
「美味しかったわ。希望のチョコレート」
 ワイスの横顔が見える。カーテンの閉められた薄暗い部屋で、ワイスは唇を尖らせていた。シンスが微笑んだ。扉を閉めて走り出す。

 エーデルは広場に立っていた。周りの村人たちが、胸に手を当てながらエーデルを見ている。前でキノプスが立っている。まるで怒り狂ったグリズリーだ。
「今すぐやめろ」
「一度くらい許してよ」
 キノプスとエーデルは、決闘を行うかのように視線を向けあっていた。キノプスが腰の拳銃を抜いた。銃口をエーデルに向ける。黒が混じった銀色だ。エーデルは震える手を握りしめた。
「国が認めた芸術しか許されない」
「銃声と掛け声で音楽を作ってあげましょうか」
 キノプスが親指で拳銃の後部につけられたハンマーを起こした。人差し指を引き金にかける。
「あなたは親から子守歌を聞かせてもらえなかったの?」
「もう一度、牢屋に入るか」
「人を従わせるために喜びを奪うだなんて賢くないわ」
 キノプスが近づいてくる。銃口は、エーデルの眉間を捉えたままだ。青い空の下で、張り詰めた空気が漂っている。
「人間には喜びが必要なのよ。食べ物と同じくらいね」
 銃口が近づいていく。エーデルの皮膚に触れた。エーデルの温もりが、銃口へと染み込んでいく。エーデルは、震えなくなった手で拳銃を掴んだ。
「あなたたちだって人間でしょう」
 エーデルが微笑んだ。子どもをなだめる母親のような目つきだ。キノプスが周りに視線を巡らせた。村人たちは、腕を組んで鼻息を鳴らしている。村人のかげから、デマリが姿を現した。
「牢屋に入れるなら全員つれていけ。牢屋に入りきるかはしらないが」
 キノプスが唇を噛んだ。犬歯が唇の薄皮を突き破る。それから、銃を腰に戻すと背中を向けた。大股で歩きだす。
 青に染まった空の下で、村人たちがエーデルに駆け寄った。

 青い空がほんのりと赤く色づき始めている。広場には、人の弾むような声で溢れていた。子どもと犬が跳ねるように走り回っている。
 広場には喜びが溢れていた。ギターを弾いたりトランペットを吹いたりして楽しげな音色を飛ばしている。広場には薪が山みたいに積み上げられていた。薪のすぐそばに、木の板が立てかけられている。板の下には、赤ベゴニアの花が敷き詰められていた。エーデルが木の板を雑巾で吹き上げた。振り返ると、ワイスが歩いてきている。絵を持っていた。村人たちが手を叩いてワイスを迎えている。
 ワイスが板の前に立った。絵を板に刺さった画鋲に吊るす。絵は、村の景色が描かれていた。村人が歌い踊り、地面は花で満ちている。
 村人たちが声を空にめがけて飛ばした。指笛も聞こえてくる。
 エーデルが微笑んだ。村人の前に立って、みんなに視線を向ける。
「さあ、人生を楽しみましょう」
 トランペットの音色が、祝福みたいに鳴り響いた。村人たちが踊りだす。憲兵たちは、広場の周りに立っていた。時折、首を伸ばして踊りを見ている。憲兵たちの中に、シンスが立っていた。エーデルがシンスに近づいていく。
「あなたたちも」
 エーデルがシンスの手を取った。細かい傷のついた男の手だ。広場に引っ張っていく。シンスは恥ずかしがり屋の子どもみたいに視線をそらした。
 村の女たちが、憲兵たちに近づく。みんな、広場へと連れていかれた。憲兵たちが、ぎこちなく踊り始めた。村の女たちが笑い出す。手本を見せるように、くるりと回った。アコーディオンの音色がリズムを速めていく。靴の音がリズムに合わせて響いていた。憲兵たちも滑らかに踊りだす。
 憲兵の一人が広場の外に顔を向けた。視線が凍り付いている。視線の先にはキノプスが立っていた。
「キノプス少佐に怒られる」
 憲兵たちの足が止まっていく。エーデルは村の女たちに向けて、手を招いた。
「思いっきりやり返しましょう」
 エーデルと村の女たちがキノプスに近づいていく。キノプスが後ずさる。キノプスが広場から離れていくよりも先に女たちが腕を掴んだ。
「よせ」
「踊りが下手なのね」
「秩序が乱れる」
「息抜きがあってこそよ」
 女たちが笑いながらキノプスを広場へと引きずっていく。広場に立たされたキノプスは、口を堅く結んでいた。エーデルがシンスの元へと戻る。シンスがエーデルの手を取った。
「君は花みたいな人だ」
「みんなが咲かせてくれたのよ」
 エーデルが手を天に上げて踊りだした。シンスもリズムを合わせる。呼吸が重なり合っていくようだった。
 後ろでキノプスがくるりと回った。村人たちが手を叩く。
 太陽が赤色に染まっていく。それから、黒に変わった。星たちが夜空に集まり始めた。祭りに混ざりたがっているみたいだ。
 広場の炎は夜がどれだけ深くなっても消えなかった。村人たちは、夜が薄く白づくまで踊り続けた。
 夜明けが近づいた頃、キノプスは煙草をくわえていた。紐をほどくようなゆるい息を吐く。視線の先で、村人が歩いていた。半分ほどの村人たちが広場から抜けていく。
エーデルはシンスと炎を見上げていた。ワイスが近づいてくる。
「そろそろ行きましょう」
 エーデルが頷いた。シンスに視線を向ける。エーデルの髪は夜明けの白い光で輝いていた。
「またあなたに会いに行くわ」
「サンダーソニアを探してくれ」
 エーデルがシンスから離れていく。村の炎が遠ざかって、あたりが暗くなった。ワイスがエーデルに一枚の絵を手渡した。四角いトレーほどの大きさだ。オリーブの枝と葉が描かれている。
「国を渡ったら実を描いて」
 エーデルが微笑んだ。赤子を抱きかかえるように絵を持つ。後ろで、走っているような足音が近づいてきた。振り返ると、フランネルが立っていた。肩で息を繰り返している。
 ワイスが微笑んだ。
「一緒に来る?」
「村と生きるよ」
 フランネルがベゴニアの花を一輪、ワイスに差し出した。
「君がいつか戻ってこられるように」
「約束よ。忘れないでね」
 フランネルが頷いた。ワイスが背中を向けて歩きだす。エーデルも隣を歩きだした。北の国境線に続く長い道は、夜明けの白い光に染められている。
 エーデルはオリーブの絵を抱きながら、夜明けの光に向けて歩いていった。

ー完ー