『神風連の乱-最後のモノノフ-』
しげはる著
歴史・時代
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明治初頭、九州を中心に新政府への反発として各地で反乱が起こった。 後世の人々は西郷隆盛の西南の役こそラストサムライと称すが、実は真の『最後のモモノフ』達がいた事を知る者は少ない。 これは、そんなモノノフ達の心模様を描いた物語である。第1話
夏の暑さが幾分和らぎ秋風が吹き抜けて行く一本の回廊を、白い装束を纏った男が一人歩いている。伊勢神宮の分詞・新開大神宮の神官、太田黒伴雄である。彼は頭に冠を被り衣の袖をなびかせながら本殿へ向かっていた。
中へ入ると、空気は一変し冷たく厳かな気配が漂っている。彼は一人その中心に座して神前に額づき静に祈り続けている。既に七日もの間火の物を断ち挙句は断食まで課しているから身体は細く痩せ顔色も白くやつれている。それでも彼は一心に神へと祈り続けた。
明治9年3月に断髪・廃刀令が下され、長く続いてきた武家社会に幕が下ろされようとしていた。
太田黒を擁する敬神党一派はこれに大いに反撥。
一党の若者達は日々挙って彼の門を叩き挙兵の期を求めている。暫くは宥め説得を繰り返してきた彼自身も、遂に挙兵已むなしとの見解を示し今正にその進退を決する為の宇気比を行っている所であった。彼は顔を上げ姿勢を正すと両の腕を肩ほどまで上げ大きく柏手を打った。その音は至極清らかで静かな本殿によく響き渡り、痩せ細ったその肢体からは想像付かぬ程力強く響いていた。
宇気比は幾通りかの案を紙切れに書き置いて何れに従うべきかを占うものである。彼は決起すべきか否かを伺う為に、この儀式を行おうとしていた。決起に関しては何度かこの宇気比を実践しているが、ことごとく不可とされ終わっている。
この度の宇気比はまさに彼ら敬神党にとって期待の集まる所であった。挙兵の可否を記した紙切れが置かれ静かに拝するとその一つを錫で拾い出し、恭しく手に取って中を拝み見ると震える手でそれを握り締めた。彼は神慮を伺うと再び深く神前に伏し冷やかな本殿を後にした。
隣接する一室では一党の幹部達が詰めており、彼の姿を静かに待ち続けていた。皆本殿の奥からゆっくりと歩いてくる太田黒の姿を認めると視線を落として彼の言葉を待った。彼は幹部達を見回すと一つ息吐いて静かに言い放った。
「此れより我等は神兵となった」
太田黒の声は低く落ち着き払ったものだった。幹部達はこの時漸く顔を上げて深く頷くとそのまま会議に入り、挙兵が確実なものとなるのである。挙兵の期日は十月廿四日とし、大まかな隊編成も決まった。
参謀達は彼を囲み細かな挙兵の謀議に入った。参謀達の中でも信任厚い富永が彼らの言を聞きそれらを纏めている。彼は大変な切れ者で、この一党を事実上指揮運営してきた人物である。
「鎮西鎮台の司令官種田政明、その参謀長高嶋茂徳、この二名だけは是非とも先に叩いておかねばなりません。従って腕の立つ者を派遣したいのです。」
富永が案を出すとすぐさま答えるものがある。ふと視線をそちらへ向けると同年の高津運記、石原運四郎二名が名乗りを上げていた。富永はこれを見て大いに安堵し彼らに襲撃隊の主力を任せることにした。
「ではこれで全て決まったな。あとは同志達へ知らせ日を待つばかり」
太田黒が言いかけたその時、襲撃隊に名乗りをあげた高津がそれを遮った。
「加屋先生の件はどうなされるのでしょうか・・・」
高津は遠慮がちに小さな声で副将加屋霽堅が挙兵に反対している旨を告げた。
「霽堅が?」
太田黒は目を瞬かせ動揺した。挙兵の時にはまず賛同し一党の支柱になり共に戦っていくとばかり思っていた加屋霽堅が挙兵に対して反対の意を持っているなぞ到底考えられなかった。高津は彼の落胆振りを目の当たりにしながらも敢えて言葉を続けた。並ぶ七名の参謀も俯いてしまっている。
加屋霽堅は河上彦斎、そしてここにある太田黒伴雄と共に林桜園に国学を学びその影響を受けた一人で、世間に門下三強とまで言わしめる程の人であった。学識のみならず、熊本で盛んであった宮本武蔵に習った二刀剣術四天流を修め詩吟和歌をよくする文武の士である。共にこの百七十余名の敬神党一派を纏め上げ桜園の思想をしかと伝え助けてきた同志が欠けるという事は一党の指揮にも大きな影響を及ぼし得策ではない。
「新開。では、これから時間を見て我等が説得を試みてみましょう。加屋先生の存在は指揮に影響するもの。まずは私が行って先生の意を伺って参りましょう。」
そう言って高津は太田黒を励ました。
それから直ぐ様高津と富永は会議を終え新開を出ると錦山へと歩き出した。
「なあ富永、加屋先生はどの様にお考えなのだろうな。」
高津は正直余りこの説得に対する自信がない。加屋霽堅が簡単に人の意見に傾倒する様な人物でない事は分かっていたから高津富永両人は頭を抱えていた。しかし、一党の士気の為にはなんとしてでも協力を得たい。太田黒の落胆する様を見ては何とかしてやりたいと思う気持ちもあって二人は力を込めて門戸を叩いた。
「富永です。加屋先生は居りましょうか?」
少し高く澄んだ声が響く。暫く戸の前で立って待っているとガラと木製の戸が開き加藤社の祠掌を務める木庭保久が顔を出した。
「これはお二方どうなすったのですか?」
「木庭君。加屋先生は居られますか?」
富永は親しく聞いた。平生から敬神党一党の繋がりは縦横に強く、一つの志思想を元に結束している。様々な年齢層で構成されているが皆折り合いよく互いを敬愛し一つの家族的な繋がりすら感じられる。木庭は彼らの問いかけに少し表情を暗くした。
「ふむ、それではここ最近はずうっと家に篭って居られるのか・・・。」
「はい、先日朝参拝に居られましたが、そういえば今日はまだ見ておりませんね。」
「で、家に篭って何を為さっているのだろう。何か聞いてないかね?」
「い、いえ。私は何も。ただ、思いつめた表情であった事位しか判りません。」
「・・・。」
富永の問いに祠掌の木庭は少しずつ重い口を開く。二人の会話を見守っていた高津は暫く腕を組んで考え込んでいたが社殿へ向かう一人の人物に気づきそれを呼び止めた。
「浦君じゃないですか。」
呼び止められて振り返ったのは木庭と同じく加藤錦山神社の祠掌・浦楯記だった。彼は敬神党の士として活動する一方、神官不在の社をよく守り今もまた社殿に詣でる所であった。
「高津さん、富永さんまで。一体どうなされたのですか?」
浦は明るい口調で彼らを歓迎し二人の側へ近寄っていった。
二人は此処へ来た経緯を改めて二人の祠掌に伝えた。彼らはある程度覚悟はしていたもののやはり驚きを隠せない様だった。
「そんな訳で、是非とも加屋先生にはご協力頂きたいのです。」
最後に高津がこう締めくくると、二人ははぁ、と頷いた。
「その加屋先生ですが。」
浦は高津の言葉に続いて口を開いた。その表情は少し悲しそうなものであった。
「加屋先生がどうした?」
富永がすかさず問う。
「加屋先生は全く皆とは違うお考えをお持ちですから。説得はそう簡単なものではありますまい。」
「違う考えとやらを君は知っているのですか?」
「はぁ、どうもお一人で奏儀を携えて上京なさるお志の様です。私も詳しい事は知りませんが。」
「上京・・・奏儀・・・。」
富永は眉間に皺を寄せて訝し気な顔をした。
「富永君、これは急いで加屋先生の所へ行った方がいいでしょうね。」
高津に背中を押され、富永は二人に礼を述べると加藤社の山を下っていった。
第2話
錦山の傾斜を下ると城北に位置する町・新堀に入る。高津、富永はこの新堀付近に居を構えている加屋邸を訪れていた。幾通りもの大小様々な路地を潜り抜けると、風格ある門が見えてくる。二人は頑丈な木製の門戸の前に立って顔を見合わせた。
「御免ください。」
富永の澄んだ声が響くと同時に奥から人の気配がパタパタと近づいてきた。
「はぁい。どちら様でしょうか?」
奥から出てきたのは若い女性であった。身なりから察するに彼の妻女であろう。厳格な加屋の妻らしく清楚で凛としていた。二人は丁重に挨拶を交わすと夫人に主の所在を問うた。
「敬神党の富永と申します。突然訪ねて来て申し訳ありませんが加屋霽堅先生はいらっしゃいましょうか?」
「同じく、高津と申します。是非先生にお会いしたく参りました。」
「まぁ、それでしたら私主人を読んで参りますわ。どうぞ客間へお通り下さい。」
夫人は二人を夫の知己と知るや柔らかい笑みを浮かべ嬉しそうに客間へ通した。二人は清澄な空気と緑の生い茂る庭園を楽しみながら夫人の後を付いて行った。
「こちらでお待ちくださいな。すぐ呼んで参りますので。」
そう言うや夫人は足早に客間から出て行った。残った二人は主を待って、襟を正し背筋を伸ばし彼を待ち続けるのだった。客間で出された茶を啜っていると、漸く件の人物が姿を現した。
「あ、加屋先生。」
富永は姿を認めるととっさに口を開いた。
「ご無沙汰しております。あの、突然の訪問で申し訳ありませぬが私達はこの度・・・。」
「挙を勧めに来たのだな?」
富永が全て言い終わるより先に加屋は彼らの意を読み彼の言葉に重ね告げた。
「え、はい。やはりお気付きだったのですか。」
「まあ、ここを訪れるのは君らだけではないからな。」
「え?そ、それでは!」
加屋の台詞に富永らは狼狽した。自分達以外にも同じ目的でここを訪れるものがあるとは。
「やはり挙兵は避けられぬか。」
「はい。新開の伺いたてた御神慮によりますれば、その様に。」
「そうか・・・。」
加屋は神慮という言葉を聞いて僅かに繭を潜めると重く溜息を吐いた。富永もまたいい終えると眼を伏せ黙ってしまった。高津は二人の沈黙をただ見守るしかなかった。
「加屋先生、どうかお力を貸してはいただけないでしょうか。」
長い沈黙の後、暫くは沈黙を守っていた高津運記が口を開いた。加屋はその声にかすかに視線を高津に送ったが直ぐ元に返してしまった。
「加屋先生。」
富永もこれに加えて半ば強請る様な口調で名を呼ぶ。
「すまぬが、私には既に決した事がある故直ぐにそれを曲げてしまうわけにはいかんのだ。」
加屋が申し訳なさそうに言うと二人は驚いて顔を見合わせた。
「はぁ、それならばまた折をみてお返事の方頂に参りましょう。事が事なだけに早急な返答は難しいでしょうからね。」
「それでは、また後日という事で、今日はこれで引きましょう。」
「・・・。」
二人は静かに加屋邸を辞すると、城南へ向かって歩き出した。
「なぁ?高津、確か水道町には阿部が居たな。少し訪ねてみようか?」
「え?ああ、そうしようか。」
彼らは道を北から南西に流れ参謀の一人・阿部景器の邸を目指すのだった。水道町・阿部邸へ着くと二人は主である阿部景器が留守であると知らされる。
「阿部が留守か。もしや我々と同じように加屋先生を訪ねているのでは?」
「うん。あり得るな、それかまた新開かもしれん。」
二人は已むなく阿部邸を辞し新開村を目指した。道中幾人かの若い同志達に会って挙兵の是非を問われたが全てが決定するまで内々にとの事だったのでそれらの質問を軽く交わして何とか新開へたどり着いた。
「ごめんください。」
富永は新開大神宮の鳥居を過ぎ側の太田黒邸の門を叩いた。
暫くすると、中から一人初老の女性が姿を現し彼らを出迎えるのだった。
「まぁ、いらっしゃい。伴雄さんなら先程から本殿に篭って同志の方とお話しておりましたが。」
「そうですか。それではそちらの方へ行って見ましょう。」
初老の女性、太田黒の義母に礼を言うと富永、高津は本殿へと足を向けた。
「新開?」
ガラリと戸を開けると中は別世界のように厳かでひんやりとした空気が流れている。その奥に黒い人影が浮かんで身動き一つせぬまま中央に厳かに座していた。
「新開。」
富永は太田黒の姿を認めると視線を彼から動かさずに名を呼んだ。その声は微かにだが乾いていた。
「富永君達か。」
「お邪魔します。ご報告に上がりました。」
太田黒はその声だけで何かを察したのか一瞬顔が曇ったが、直ぐ表情を戻し二人に向き合った。
「聞こう。中へ入りなさい。」
「失礼します」
富永が先に敷居をまたいで入り高津もそれに続いた。
「さて、報告でも聞こうか。」
太田黒は彼らの座るのを待って口を開いた。二人の言わんとする所は先にも述べた通り察しているがそれでも彼らから直に聞かねばならぬと思って、静かに言葉を待つのだった。
「そうか、霽堅が。」
予期する事とはいえ、やはり彼には衝撃が大きかった。上手く説得できればと微かな期待を持っていたが、いざ現実を見るとどうもうまく事は運ばないようだ。
「既に覚悟を決めておられる様です。」
「そうか。それ程に・・・。」
「新開、まだ僅かにでも同意の余地があるのであれば、諦めずに多方から使者を遣わすのがよいかと。」
「しかし、彼のあれ程の決意を無碍にするのも。」
彼は士気の低下を懸念しながらそれでも加屋霽堅という古くから親交ある友の志を尊重したいと考えていた。加屋と太田黒は河上彦斎と並んで国学者・林桜園の門を叩きよく競い交わりを深め三強と称される密な間柄であった。彼がもしどうしても建白をと望めばそれもよかろうかと思う程であった。
かといって、富永ら同志の言をそればかりを重んじる余り軽視する事もできず、正に板ばさみとなって彼は日々苦悶するのだった。
第3話
挙兵の日まであと僅かと迫っており、時間は残り僅かしか無い。その僅かの時間に富永ら幹部達は加屋霽堅を説得し、また多方面の同志達の間を奔走した。本当に慌しく日々過ぎ去っていった。富永、阿部、石原は幹部であり同時に桜園門下の友人同士である。彼らはよく会しこの度の挙兵においても結束し太田黒の頭脳としての役割を大いに果たしていた。
「そういえば運四郎、お前今日は加屋先生の方回ったのだろ。どうであった?」
阿部は茶を啜りながら向かいに座した石原に聞いた。彼らは阿部宅へ夕刻集まり会食をしている。石原と阿部の間に座っている富永は肴を箸でつつきながら彼らの会話に耳を傾けていた。
「ああ。加屋さんの所だろ?どうかな、結構共に挙兵するという事に傾きかけていると俺は感じたがなあ。」
「あと一押しか。」
「ああ、何か引切り無しに幹部が来て困っているようだ。進退を神慮に委ねるつもりかもしれん。」
石原はそう言って、箸を取って食を再開した。やがて、阿部の妻・以畿子が汁碗を盆に運んできた。三人は一頻話を続けると後は他愛も無い雑談に興じて夜を過ごすのだった。
一方の加屋霽堅も、幾度も訪れる同志達の言葉に耳を傾ける内、自信の進退を如何にすべきか、悩んでいた。
(富永君らの言い分も解る。だが、建白し死諫せんとする志も簡単に捨て去る事は出来ん。)
悶々と昼夜考え込み彼が下した決断はやはり敬神というものであった。その明くる日、彼はかつて自分が神職を勤めた加藤錦山神社の道を登り、社殿を目指していた。既に祠掌らは詰めており、神官不在のままであったが、滞りなく厳かに祭事を司っていた。
その祠掌の一人、浦楯記の姿を見つけると彼は歩み寄った。
「あ。加屋先生ではありませぬか。こんな朝早くから如何なされました?」
「うん。実はちと宇気比を依頼しようと思うてな。」
浦は一党の同志として加屋の件を先だって聞かされていたので直ぐ様依頼を承知した。
彼はそのまま別間で待つ事となり、加藤社の祠掌たちは忙しく神事の支度にかかるのであった。加屋霽堅の進退を決める神事が行われるのは挙兵3日前の事である。
加屋霽堅はこの宇気比に己の進退をかけていた。
廃刀令施行が急速に進みだしてから、同志達が論に揉め急進せんと煮えたぎる中、加屋は一語一句に誠心誠意込めて建白書を書き綴った。
その文は長き歴史の中で持して来た武士の魂とも言うべき刀剣賛美と西洋体制に急転する政府への諫言を主としたものであった。もう一つは幾度と説得に来る同志と共に刃を取って立ち上がるという決起すべしとの案であった。流石の加屋も彼らの決死の奮起を見ては動かざるを得なかったのであろうか。ともかく彼は祠掌であり後輩でもある浦に二件何れであるのかを伺わせる事となった。
「それでは・・・。」
浦は本殿中央に祀られた神棚へ傅き深く額が床につかんばかりに伏し拝む。ブツブツと奉じると同時に丸められたクシャクシャの紙を錫で選び取る。掬い上げたそれを手にとって浦は恭しく拝しゆっくりと開封した。加屋はそこへ立ち入る事もなくその回廊隔てた一室でじっと本殿から目をそらさずに座していた。この宇気比はどう転んでも彼にとって最期のものとなる。キィッっと古びた戸が重く押し開かれる。
疲れやつれた浦の姿がそこにあった。加屋はその姿を認めるや否や、顔を上げ浦の姿をじっと見つめた。
「加屋先生。」
「・・・。」
加屋の額には緊張の為か微かに汗が滲んでいる。浦は幾分冷やかな面持ちで彼に言葉を続けた。
「此度の挙に参じるべし、との御神慮にございました。」
「有難う御座いました。」
加屋は彼の言葉を神のそれに見立てて丁重に頭を下げた。それから今度は一つ溜息を付いて気を落ち着かせると、再び頭を上げ、浦を見た。その顔は迷いが晴れて清清しいものであった。
「加屋先生、可とありましたが、此度の挙には?」
「いやいや、神の御意志であられる以上俺がそれを否定する理由はない。皆共に戦場へ出ようじゃないか。」
加屋霽堅は、この宇気比によって同志達との命を賭しての挙兵に望む決意を固めた。浦は僅かに複雑な思いを持ってその側に佇んでいた。
朝霜の深い時間、褥を出て加屋は庭の井戸水を汲みに向かった。
手ぬぐいを片手にゆっくり冷水を含むと彼は軽く手で掬ってそのまま顔に浴びる。
冷たい空気と重なりひんやりした水がぼんやりした眼が冴えて来ると持した手ぬぐいを少しばかり広げて滴る水を拭った。
自室へ戻った彼は着物を重ね羽織袴を穿くと玄関へ急いだ。
毎朝の神社参拝は欠かせぬものであった。宮司であった頃から、もっと以前からの習慣でそれをせぬ日は無い程であった。
暫く錦山を目指し登り道中腹に差し掛かった所でふと城下を見下ろした。熊本の雄大な姿を拝み見、ほうと感歎の溜息を漏らすと再び小高い参道を顧みて歩を進める。
「加屋先生!」
あと少しという所で背後より大きな声がかかる。彼はその声に聞き覚えあった。彼は僅かに困った笑みを浮かべ後ろを振り返るのであった。
「石原君か。」
加屋はボソリと名を呟いた。石原はうっすら笑みを浮かべながら小走りに近寄ってきた。
「加屋先生もついに義に応じる決意を固めたそうですね。」
「・・・。」
石原は屈託の無い笑みで重い一言を口にした。それを聞いた加屋は、ああ、と一言静かに口にすると踵を返し山道を上がっていった。
「あれ?」
置いていかれた事に気付いて石原は慌てる事なくぼんやり間の抜けた声で彼を追った。彼はそれを気にするでもなくどんどん加藤社へと上っていくのであった。
第4話
加藤錦山神社・・・加屋は立派な石造りの鳥居を潜ると真直ぐに本殿へ向かう。
彼はそのまま本殿の手前で立ち止まると何時もの様に拍手を打って祈念するのだった。
石原運四郎は加屋の後姿に追いつくと、彼に倣って神前へ拍手を打ち瞑目した。加屋は暫く祈り続けていたがやがて静かに眼を開くと、いつの間にか傍らで手を合わせ祈願する石原をそのままにして社へと入っていった。
「あ、加屋先生。お勤めご苦労さまです。」
「うん。これだけは欠かす事が出来んからな。」
加屋は元々ここの神官であり、辞する以前はこの祠掌らとこの社で祭祀を祭っていた。挙兵の事はあくまで極秘にして彼はひたすら同志と歓談していた。
「加屋先生、置いていかんでくださいよ。」
ふと顔を上げると先ほどから後へ着いて来る石原の姿があった。
彼もまた神職者であって宇土の西岡社に勤めていた。
加屋霽堅が加藤社辞表を出して以来ここには神官が不在となっており、木庭や浦のような祠掌だけで静かに祭祀を祭っていた。
あるとき、同志の一人が石原を尋ね便宜の為遠い宇土より加藤社の神官へ推挙をしたが彼は、
「会合の便宜を取って後に入るのは加屋が辞してまで訴えんとしたその志を冒す事に成り得る」
として、断固として加藤社に奉じる事を固辞したのだった。
「加屋先生、つまり挙兵に際しては敵陣へ急襲を行うしか勝機掴めぬと仰せですか?」
木庭は恐る恐る彼に問うた。加屋は静かに頷くと、
「うん。相次ぐ乱によって城内にある鎮西軍もその多くが出陣しておりまさに今が好機。とはいえ我等一党のみで寄せるにおいてやはりまだまだ敵兵の数ではあちらが勝る。」
彼は平生よく神社への詣でる際、熊本城を遠く眺めながら子供達に教示する事がある。
城を見下ろす高き山頂に立って、砲撃を浴びせれば難なくこの難攻不落の城をも落とせてしまうだろうと。
しかしその法を用いる事はなかった。
彼らはこの後の激戦でも最後の瞬間まで士魂を貫き通すのである。
「加屋先生、時にこれからの御予定は?」
石原はそれとなく訊ねた。彼は出来る事ならこの領袖と向き合って同じく戦術を交錯してみたいとも願っていたからだ。しかしながらその思いとは別の答えが返ってきた。
「俺は一度新開を訪れ今後の方策を練ろうと思う。石原君、あんたも富永らとよく協議し、此度の一挙に向けての準備を整えておいて欲しい。」
彼はそういい残すと、錦山をさっさと足早に下っていった。
石原は富永邸へと一人向かい、門を叩いた。
富永守国は年老いた母、そして兄弟達と静かに生活を営んでいる。
彼は大変な孝行もので、病を患った母へ炊事などの世話まで行い、異教として抵抗のあった仏法のお題目をもまた母の為と唱えるほどであった。
その彼も、いまや挙兵へ向け一党の参謀長としての重任を負い兄弟と共に日々同志間を奔走する身であった。
「守国、丁度良い所に出てきてくれたな」
富永は今丁度阿部宅を訪ねんと支度を整え外出する所であったから、突然声を上げて呼ぶ石原の声には流石に驚いたようで眼を瞬いていた。
「運四郎!驚いた、久しく我が家へは来て居なかったろう?」
「ああ、大概阿部か新開辺りで会合しておったからな。」
彼はのんびり構えてそう告げると、
「ところで、今からどこかへ参るのか?」
と、すかさず言葉を付け加えた。
「ああ。これから阿部の所へ行こうと思っておる。一緒に行くか?」
「ああ、俺も3人で話をする為に来たんだからな。行こう。」
こうして二人は連れ立って水道町へと急ぐのであった。
水道町への向かういくつかの細い路地で、彼らは洋装纏った男女を見つけた。夷風に犯された文化がついにここまで迫っている。
二人はぞくと身を強張らせ危機を全身で感じ取ると、無言のままに同志宅へと急いだ。
阿部邸へ着くと、いつもと変わらぬ凛とした女性がまず二人の来訪を喜んで出迎えてくれる、以幾子である。
「まぁ、石原さん、富永さん、どうぞ。主人に会ってくださいませ。」
以幾子に促され軽く挨拶を交わすと彼らは遠慮なく屋内へ上がるのであった。
「挙兵に際して、他の同志共連携を強化しておく必要があろうな。」
もの静かな阿部の声が一室に響く。
「俺は今からでも肥後を出て伝書を持って秋月へ飛ぼうと思っている。」
石原運四郎の声は低く透き通った美声であるが、非常に武張った人物である為余りその容貌に拘らず敢えて着飾る事もしなかった。
そんな彼の声も今は僅かながら焦燥感を漂わせていた。挙兵のその時を強く感じているからである。
「高津への知らせは緒方に任せ、我等は同志達の会所を整えよう。」
富永は二人の顔を見やると、そう締めくくった。
こうして、一同は散会し、それぞれにすべき事を成す為に動き出した。
石原はその日のうちに秋月を目指して肥後の街道を上っていった。
阿部や、富永はそれぞれ自宅へ戻ると、直ぐ様家人を呼びつけ同志達の待機所として接待に追われた。
いよいよ決起するその時に向け、それぞれに動き出すのである。
緒方小太郎は、富永の知らせを受け直ちに人吉の高津へと書を認めた。人吉は中心部より離れており、彼の元に手紙が届いたのは12日のことであった。
その日彼は15日に控えた神社の大祭の為、祠掌等と共に準備に勤しんでいた。
「母御危篤が為、至急来熊願いたし。」
緒方からの知らせを受け手早く段を取ると、後事を祠掌の福山に託すや直ぐ様出立整えて熊本へと向かうのであった。
人吉を出て、彼が熊本市街へ入ったのは24日、すなわち挙兵当日の朝であった。高津は到着後自宅へ戻らず、阿部邸を訪問した。
「おお!高津か。漸く来たな。まあ奥の間へ上がってくれ。」
阿部は彼の肩を叩きながら明るく迎えた。
「ああ。所で緒方君から書簡を貰うたが。」
旅装束を緩めながら高津は知らせを案じつつ訪ねると、阿部から帰ってきた答えは全く違うものであった。
「挙兵の日取りが決まった」
その声は先程の明るい彼とは思えぬ低く冷たいものであった。
「挙兵の日取りが決まっただと?」
「うむ。実はな、早くに連絡できればよかったろうが。」
高津は目を見開いて阿部を凝視した。
阿部は言葉詰りながらゆっくりと話を進めていく。
「今夜、鎮台に仕掛けるつもりだ。」
この言葉を聴いた瞬間、高津は覚悟という言葉と共に、全身総毛だった。背筋を伸ばし、顔は高潮し、いよいよ自分も志を以って散っていくのかと。
汗ばむ手で袴をギュッと握り締めて気を静めるのが精一杯であった。ふと、そんな彼に一つ二つ、顔が浮かぶ。
彼は三歳になる娘がいた。おそらく自分が帰ってきている事も、挙兵なぞする事も露ほど知らぬだろう。きっと娘は、妻は、母は、皆今自分が人吉で祭事に励んでいるだろうと今この時とて疑いはしないだろう。この挙兵の後、彼を育てた母はどう思うであろう。お叱りになるだろうか。悲しむだろうか。そう思うと高津は居た堪れなくなった。
彼は、一度新開へ言って方策を尋ねんと言い阿部邸を後にした。
第5話
新開皇大神宮
古い伝統ある鳥居が視界に入り、立派な神殿が姿を現すと高津は襟を整え、背筋を伸ばしその厳かな門を潜った。
さて、一方その中では太田黒加屋両帥が密議を凝らし、一室に篭っていた。
「では、富永君の言う通りに幾手に分隊させて攻め寄せよう。」
「うん。粗方の配置は決めて居るが、肝心の種田らを打つ手が。」
「ああ、確かにそれは私も気にかけて居りましたが、今一度腕の立つ者をよく選考し、一隊を任せる人材を検討せねばなりませんな。」
太田黒は日頃穏やかな空気を纏う人だが、この日ばかりは流石の彼もピリっとしてその表情は緊張に強張っていた。
「しかし、この様に全て決したが・・・霽堅、本当にすまなかったな。」
「え?」
太田黒の口から出てきた謝罪とも取れる言葉に彼は思わず目を白黒させた。何の事を言っているのかまるで検討もつかない。
太田黒という人は人格者といえばそうだが、常人と一風変わった所もある人物である。
唐突に何を思って言い出したのかと小首を傾げ訝る彼に微笑すると、太田黒はふとそこにある火鉢に視線をやった。
「いや、お前は別の御神慮を願っておったものをこの様に断念させてしもうたしな。
自身の志を、宇気比による結果とはいえ曲げさせてすまなかったと思ってな。」
「いえ、神の御意志それこそが私の志でもある訳ですから、誰に左右されるものでもなく。お気になさるな。」
加屋は目を伏せ正座したまま姿勢を整えながら呟いた。
「子供らには別れを告げてきたかね」
ここではじめて、淡々と落ち着いて語り返す彼の表情に僅かな動揺の色が伺えた。加屋霽堅は平生より子供を愛し、男親にはなかなか懐き難い二人の女児までもが母親以上に纏わり懐いたと言われている。彼はこの挙兵に際しても、この2日程前の夜に一人褥を出て愛児の寝顔を愛でつつ後ろ髪引かれる想いで自宅を出てきたのだ。
「伴雄さん、私はもう一人の兵に過ぎません。妻も子も家も全てを捨ててこの戦に向わんとする者に御座います。貴方方とて同じではありませぬか。」
太田黒はこれを聞いて、心が熱くなるのを感じた。
しんみりと静まり返った室内に大きな声が響いたのは、それから直ぐのことであった。
「伴雄さん、高津さんがお見えですよ。」
老いた義母が障子の向こうから高津来訪を告げると、二人は一斉にそちらを振り向いた。義母はこの一室へ招く旨了承を取りつけると、小走りに長い廊下を歩き去って行った。
やがて、二人の前に件の人物が姿を現すのである。
「お二方、ご無沙汰しております。」
高津は膝を突いて丁寧に挨拶を交わすと、招かれるままに室内へと入ってきた。
「やあ、元気そうでよかった。たしか人吉では大祭の最中だったかな?」
太田黒は申し訳なさそうに言った、当の高津はからりとして手を軽く振ってみせるのだった。
「それにしても、それぞれに集合する場は決まったのですか?」
高津は170名もある一党が直ぐ様纏まって動くのこそ危険だと危惧していた。それを察し加屋は傍らの太田黒をチラと見ると口を開く。
「特別どうという意味は無いが。まあ一応は考えて居るが。」
「では、ほぼ行程は固まったと言う事ですね。ああ、よかった。先程此度の事聞いたばかりですから、色々と解らぬ事ばかりで不安もあったのですよ?」
高津は方策が固まりつつある事に安堵して具体的な自身の役割に関心を向けた。
「それで、私はどちらへ向えば良いのですか?」
「実はな。」
太田黒は言いかけて隣の加屋に続きを促す仕草を見せた。
言わんとする所を察し、彼は已むなしと言う表情で静かに頷きこちを開いた。
「高津君には種田邸、あるいは高島邸へ走ってもらいたい。」
「襲撃ですか・・・。」
高津は声を潜めじっと加屋を見つめた。
「うん。両者は鎮軍の大物じゃ。ここは確実に仕留めて置かねばならん。君ともう一人小隊を率いる者として石原運四郎を選任している。どうだ、できそうか?」
「出来る、出来ぬよりする他無いでしょう。いや、是非にやらせてください」
膝に添えた手をギュッと握り締めると高津は真直ぐに清んだ眼差しを両帥へと向けた。
「それは有難い。では、すまぬがそのつもりで覚悟をしておくれ。この戦はどう転ぶかも知れん。丁度熊本へ帰って居るのだ。家へ寄って来るといい。」
加屋がしみじみと哀愁帯びた瞳で告げると高津は静かに頭を下げた。高津運記には幼い娘がいる。人吉という離れた社中に勤めておる為か余り家へと寄り付く暇なく、愛娘の末は気がかりな所であった。おそらくこれが自身にとって最期の顔合わせとなろう。
彼はそう覚悟して一目でも老いた母と妻子に会いたいと願っており、ここを離れたら是非に自宅へ戻ってみようと決めていた。加屋もまた妻子と痛ましく最期の別れを無言に交わして来た我が身を振り返り、高津に静かに惜別を進めようとしていた。その厚情を受け止め彼は新開を辞し、自宅への帰路についたのである。
「旦那様、旦那様では御座いませぬか!」
丁度玄関先に居た妻は、夫の姿を認めると驚きを隠せぬのか目を見開いた。
「ああ、急ですまないな。して、母上のご容態は?」
「え?お義母様?ご容態と仰いますと?」
「母が危篤なる知らせを受けたので大急ぎで熊本へ立ち返ってきたのだが。」
妻の妙な反応に、高津は首を捻った。普通容態に変化があれば即座に返答があって然りである。訝る妻を尻目に高津は母の室へと足早に向った。
「母上!」
「あら、運記。そんなに慌ててどうしたの。それに貴方お勤めがあるのではなかったのですか?本当にどうしたの?」
老いた母は目を瞬かせ心底驚いている風だった。その様に病んだ気色は無く高津自身我が目を疑うほど健全たる姿だった。
「はっ、はい。実は此度母上がお加減悪いと言う噂を聞きつけまして。」
「まあ、私が?一体どう言う噂かしら。不吉な事を申されますな。」
母は我が子の言葉に眉を潜めている。
彼もこの予想外の反応にはいささか困り果て正直な言葉を紡ぐ他無かった。
「兎も角居ても立っても居られず後事を祠掌らに託し来熊した次第でありまして。母上、申し訳ありませぬ。」
「私は至って達者ですよ。嫁もそう言っておらなんだか。まあよい、元気なお姿を久方ぶりに確認できたのですから。ただ、今後はしかと神明に尽くしなされ?」
厳しい母の言葉を受けて部屋を出ると、幼い娘が駆け寄ってくる。
今生の別れと知って接する父の心を知ってか知らずか僅か三歳になる愛児は無垢なままに我が身に縋り付いてくる。高津は暫く娘に菓子を与え構い、いよいよお暇せんと腰を上げた時、彼が母が兼ねてより吉村宅に頼んであった、好物の団子汁を用意させこれを子に与えた。この後、家族には人吉に帰ると告げると、彼は阿部邸へ向いいよいよ出陣に向け動きだすのであった。
第6話
いよいよ挙兵へ向けての最後の段取りである。
領袖達は慌しく同志宅を行き来し、または斥候へ繰り出すものもあり。彼らに残された時間は残りわずかとなって、今より先は斃れるまで戦うべく戦場と相成る。
高津は種田少将宅など打つべく相手をよく知り、地形家屋の造りなどから打ちもらさぬ様にと向かい家の塀へ縋ってよく眼を凝らし辺りを窺っている。
「さて、どうしてくれようか。」
彼は任された大任を身命に代えても果たさんと意気込んでいた。
同じく高島中佐襲撃を請け負ったと聞く石原運四郎は何処にあったか。彼は秋月など様々な方面へ同志を回り、最後の打ち合わせに入っている。
敬神党の一挙に連動する一手は欠かせぬものとして、首魁太田黒らより厳命を受けての事であった。
着々と人士が打ち揃い、それぞれに会合成す場所へと集う時、既に日が暮れかかっていた。太田黒、斎藤両名他89名、首魁が姉・瀧子の嫁ぎ先である橋田家へ集結。食膳を共にし、集結場である愛敬宅(現熊本護国神社付近)へ向かう。上野、富永らは同志・鶴田伍一郎邸で食を摂って後、愛敬宅へ。他、石原、加屋、高津もまた、それぞれ加藤社や同志宅より愛敬宅を目指すのである。愛敬宅にて一党打ち揃うと、杯交わし、いよいよ皆兼ねてより整えておいた「勝」と書かれた章を肩口に結びつけ、大刀をしっかり差し立ち上がる。
太田黒は平服を纏い、その背に軍神八幡宮の御霊代を負うて将帥たる証とした。加屋もまた、平服のまま神前に供える白旗を取って襷十時に綾どり、事に臨んだのである。
皆個々に羽織袴に草鞋、具足のみ纏う、烏帽子直垂を纏い襷十字に甲斐甲斐しく打立てるなど様々な様相であるが、大小帯刀または薙刀槍を携えて集まる者はあれど、その中に銃器を構えている者は一人として在らぬ。まさに日本武士の戦いである。
暫くして、彼らはいざ宣戦を神前に唱えるべく藤崎宮(現・護国神社)へ向かいそこから各隊配置を伝達するのである。(細かな記名は省略する)
「第一隊は種田少将襲撃とし、これを高津、桜井以下6名とする」
「第二隊は高島中佐襲撃とし、これを石原、木庭以下5名とする」
「第三隊は与倉中佐襲撃とし、これを中垣、斎藤(熊次郎)以下8名とする」
「第四隊は安岡県令襲撃とし、これを吉村、沼澤以下5名とする」
「第五隊は太田黒議長襲撃とし、これを浦、吉永以下6名とする」
副帥・加屋は淡々と通達し、襲撃隊配置を報告するのみである。
「それでは、城内本拠地への討入じゃが。」
城内は鎮台の本拠地であり、堅固な熊本城敷地内には小銃など打ち揃う近代兵器を装備した鎮西の兵が三千余、それ以上の数待ち受けている。同志達は緊張した面持ちでただ彼の声を聞いていた。
「まず、熊本城大砲営制圧は太田黒と不肖加屋をはじめとして、上野斎藤両先生、阿部等幹部を含め70余名の本隊とする。」
「次いで、同城内砲兵営制圧は富永、福岡、愛敬以下同じく70名で本隊別働隊とする。」
「以上が大まかな配置である。各人部隊長によく従って見事戦って頂きたい。」
加屋はそう言葉を締めくくると、太田黒をチラリと見る。
彼の言い終えるのを確認して頷くと、太田黒は同志を前に大きく宣誓する。
「我等は神兵ぞ!これより先は神のみぞ知る。皆一身を献げ奮戦すべし。」
一党が神がかりの決起はこれよりはじまるのである。
各隊勇んで出陣と相成るや、藤崎の宮は少しずつだが元の静けさを取り戻しつつあった。先ほどまでの志士らの熱気が嘘のように、冷たく強い風が吹き荒れている。
「新開、我々もあと少ししたら出陣しましょう」
本隊二陣を指揮する富永守国である。彼は参謀としての能力を以って第二部隊長たる地位に望まれた。そんな彼だが不幸にも体調思わしくなく、この寒さからか風邪を患っていた。
「うん、そうだな。彼らが市中へ到着するという頃合を見計らってこちらも別々に打って出よう。」
「種田、高島らに逃げでもされては厄介ですからね。」
太田黒、加屋両帥は共に中軍として参じ、大砲を要する陣営への斬り込み決行部隊を率いるものである。歩兵営同じく、厳しい前線指揮官としてやや緊張の色もにじみ出ていた。
「あとは、高津や石原らがうまくやってくれれば良い事。我々も遅れを取らぬ様頑張らねばなりませんな。」
後ろから、一党の長老格であり皆が敬慕する上野、斎藤両氏が近寄ってくる。皆その声を聞き、そして先に出陣した彼らの姿を追い城下へと視線を向けたのである。
一方、高津隊は足早に、暗い路地を目標へ向かって駆けていた。 種田少将はかなりの手達。万が一、彼の抵抗にあって仕損じれば全てが水泡と帰す。
そうなれば、自分たちだけではない。石原ら襲撃部隊や、敵本陣と対峙する本隊の同志が窮地にやられる事は必死。高津は自らの刀を握り締め、我が一刀に己が全てを賭けて本願成就に望まんと気持ちを新たに進軍を進めたのである。
高津、桜井以下、少数の襲撃隊はいよいよ種田邸を確認。彼らは互いに無言のまま視線を交わすと、柄に手を添え高津の指示通りに動き、静かに塀や柵を越え邸内侵入を図る。
燭を頼りに種田少将の寝所を捜索すれば、一つ小さな蝋燭の明かりが浮かび上がる。
間違いない、標的を見つけたりと、一隊は足を忍びながらゆっくりと寝所の明かりを目指した。
四方に散り、気配を殺すと静寂の中に種田少将と彼が東京より請け連れてきた愛人小勝の微かな寝息だけが聞こえている。全体を見るとなんとも闇の儀式が如く薄気味悪い印象すらある。
「国賊起きよ!」
高津は怒声を発しながら寝所へ乱入しその頭部目掛けて刃を振り下ろした。
その声に微かな気配に種田は瞬時に枕もとの刀を取って受け流すと、飛び起きて応戦の構えをとる。
数合程、種田の応戦あって、負傷者を幾人か出しながらそれでも高津らは引く事なく戦い数回目にして漸く疲れを見せた彼に、隊士であった桜井が一刀を振り切り苦戦の後に首級を取るに至る。
ほんの僅かな時間だが、彼ら一隊には長く厳しいものであった。横で小勝は怯えた眼を動かぬ主人から話す事も出来ず、ただ高津ら一隊の去るのを見送る他無かったのである。
種田邸から素早く退去して後、高津隊は同じく、高島中佐襲撃を請けた石原隊と合流し彼らと共に行動する事となる。
「援護ありがたい、いち早く始末をつけ本隊の方へ合流しよう。」
石原運四郎は示現流の達人であるが、少人数部隊であったが為、高津らの協力を有難く受け共に目標へと走って向かった。
その時、熊本城から大きな爆音と共に、赤い火の手があがったのである。
城から聞こえる轟音と時の声はまさしく同志達の戦が始まった事を意味する。こうなった以上、急ぎ任務を終え合流を果たさなくてはならない。
味方は多勢に無勢、数を見破られれば鎮西の大群によって一網打尽とされてしまう。そうなる前に、何とか合流を。
高津、石原をはじめとする襲撃部隊はそれぞれに駆け出して目標へ向け一気に攻め込んだ。
第7話
彼ら襲撃隊が動きをはじめたその時、本隊は藤崎宮より二手に分かれ城下ほど近い大砲営、そして歩兵営へとそれぞれに向かっていた。
「新開!砲兵営はまだ沈黙しております。」
斥候を放った報告によれば、砲台は戦う気配を見せていないらしい。
恐らく気付いてないのだろう。ともなれば、一刻も早く叩いて
機能を封じるべし。大砲を擁する砲営を無傷に残して置けばこちらの被害も大きく、下手をすれば殲滅されかねない。
太田黒は低い声で神兵たちを急行させた。
大きな柵が円を描くように並べられ、一つの砦を築いている。
営内をぐるりと見渡すも、伏兵がいる様な様子は見受けられなかった。
「新開、築かれぬよう柵を取り払い、一気に攻め込みましょう」
横に控えて同じく率いてきた加屋が耳元へ囁いた。
静けさ故か、小さな音一つ立てても気付かれる恐れがあり緊張した空気が辺りに張り詰めている。
彼の低い声は冷たい風に守られ営内へ響く事はなかった。
「うん。同感だ。砲台を使わせぬよう、一気に攻めあがろう」
そうして、70余名の隊はゆっくりと慎重に闇にまぎれて柵を取り払って
行き、営内への打ち入り口が現れたのである。
加屋は密かに数人の隊士を寄せて、大砲を分捕る様綿密に支持を出し彼らを
隊から分離させた。
丁度その時、本隊第二陣が攻め寄せる歩兵営より時の声が上がるや太田黒は今だといわんばかりに、総攻撃の命令を下すのであった。
暗く冷たい戦いの幕開けである。
敬神党が神がかりの一挙は遂に火蓋を切ったわけだが、彼らの装備を鑑みれば、軍配がどちらにあるものかは凡そ解るだろう。
一党の長老、上野堅五は近代兵器を用いる事を提唱するが、既に神兵となった彼らにとって受け入れられるものではなかった。
それ故、最期までそれを悔やんだ上野であったが、火器を用いることは無く古来よりの刀槍に加え、焼玉と油入りの竹筒のみ携えての戦いへと進むのであった。
糧食、医薬物資については、敵地調達とし、ただ戦う術のみ整えて決戦に臨んだのである。
第二陣、太田黒の部隊が進行する頃、第三の富永守国率いる部隊は気取られぬよう、歩兵営に近づいていた。
「同士達の為にも一刻も早くこちらを占拠せねばならぬ。」
富永は静かに、自分に言い聞かせる様に言う。
彼は二千余名を超える大軍擁する鎮台軍相手に、できる限り自分達の無勢を悟られぬよう、急襲し兵力を削っておきたいと考えていた。
だからこそ、今改めて自身を戒め奮い立たせねばならないのであった。
「富永さん、歩兵営の兵士共はまだ動く気配も無ければ、こちらの事も一切感知しておらんようだ。」
「そりゃいい、急ぎ行動を起こそう。」
野口ら若い隊士らは、逸る気持ちを抑えられず富永ら幹部が指令を下すのを待ちわびている。
・・・確かにこのままじっくり待ってやる必要もない。急襲によって混乱を起こし叩けるだけ叩いておかねば厄介
歩兵営に程近い場所まで辿り着いた一行は、ただ指揮を執る者の声を待つのだった。
富永は、斬り込みを決意するや素早く刃を敵陣へ向け突き出した。
「皆この一戦一夜に全てを注げ。我らは神兵ぞ、何人たりとて恐るるに足らぬ。さあ一気に叩くぞ。」
声を張り上げたと同時に、待ってましたと隊士らは営内へ躍り出た。
歩兵達は、富永らの時の声にビクリとして床から飛び起きると、まだ半分寝ぼけ眼をあわてて擦りつつ、異常事態である事を知った。
彼らとて全く予知せぬ事ではない。
県令安岡にせよ、鎮西司令である種田少将にせよ、何らか敬神党一派が事を起こすであろうと踏んでいたが、まさかこういった形になるとは未だ思っても無かった事。
熊本城本営を攻め寄せるなど無謀極まりない事をしようとまでは想像もなき事だっただけに、一層の混乱が広がっていったのである。
富永一隊は柵を開き一気に営内に駆け込むと兵舎のあちらこちらに予め手配をしておいた焼玉を投入すると一層勢い付いて、敵兵と見かけては刀身をギラつかせそのまま斬り付けていったのである。
「このまま一気に押し込め!城内にまで到達せよ!」
士気は高揚し、隊士たちは我先にと本懐遂げるべく只管に城を目指し刃を振るう。
鎮西の兵士は多勢ながら見えぬ敵を相手に、混乱酷くうろたえていた。
「敵はどのくらい居るのだ!」
「あの曲者共は何奴じゃ!!」
彼らの姿は鎮軍の兵士らには解らなかったのである。
突如起こった襲撃に、闇夜に紛れて姿も見えない。
混乱極まりいよいよ、敗走の色も見え始めたかと思われた頃、富永ら神風連の誤算が生じてきたのである。
彼等は急襲をかけて攻め寄せる際、兵営を焼き払おうと焼玉を投げ入れていた。それが営内、つまり戦場を大きく照らし視界を広くさせていたのである。鎮軍の将校はふと冷静に戦場を見渡し、怒声を上げた。
「敵は寡勢だ!怯むな!」
「そうじゃ、隊列を整え射撃をすれば一網打尽にできるぞ!」
慌てふためき逃げ惑う兵士達は、ハッと我に返り指揮官の声に耳を傾け逃げる己を何とかとどめた。
敵の数が少ないのであれば恐るるに足らずと。
兵士達はこの一言で力を盛り返し、急ぎ弾薬庫を開くと神風連隊士らを目掛け一斉射撃を開始した。
これにより、戦場は大きく形勢を変えた。
神風連隊士らはもとより小銃など近代兵器を持ち合わせていない。
従来の刀剣を以って戦おうと誓って未だに刀槍のみ。
流石にこれは歩が悪いらしく、富永部隊は次々と銃弾の前に斃れていった。福岡応彦、吉海良作ら幹部や井上豊三郎などであった。
この時砲兵営での合戦を迎えていた太田黒・加屋本隊は、歩兵営での戦闘が始まると同時に、同じく柵を越え無事進入を果たしていた
彼等は富永隊に同じく、この一戦に全霊を賭け望んでいたから、その勢いは凄まじく次々と兵士らを切り伏せていった。
やがて、兵舎は赤く炎に包まれ炎上し、営内は逃げ惑う兵士らの悲鳴と隊士らの怒声で騒然となった。
長老格で一党を指揮する斎藤求三郎は得意の槍術を以って活躍すれば、若い隊士らも我も続けと踊りでて刃を振るう。
と、暫くの混戦が続いた時、城南の坂より大島歩兵中佐が馬を飛ばし姿を現した。
彼は並ならぬ腕を持つ剣客で、若い隊士古田十郎や青木暦太ら二人を赤子の如くあしらう。流石にこれは若い彼等には厳しい展開となり危うくなってくる。
「ええい、俺が斬ってやろう!」
後方から躍り出たのは、首魁太田黒であった。
彼は大島中佐に飛び掛るや、一太刀でその胸部を貫き倒してしまった。太田黒は片手で斬り倒したのであったが、その少し前闇夜の戦場で不覚にも同志の刃にあたり、腕を負傷していたのである。
何にせよ、彼等は一人大物を仕留めた訳である。
そこへ、砲兵営を打破し掃討の指揮を執っていた加屋が傍へ駆け寄って来た。
「砲兵は壊滅しました。急ぎ富永隊と合流しましょう!」
彼は大小二刀を抱え、進言すると歩兵営を窺いキッと睨み付けた。兵力も多い歩兵営を富永ら70名の隊士だけで占拠するは厳しい事を誰もが承知していた。だからこそ、加屋もいち早く救援に向かいたかった。
「ああ、急ごう!」
と、そこへ野口らが一つの黒い塊を引き寄せてきたのである。
第8話
その黒い物体は砲兵から奪取した大砲であった。
彼等の言うにはそれを用い富永らとは違う道より進入し縦横に攻め寄せ混乱を煽ろうというものであった。
太田黒らは、最初少し躊躇ったものの、一刻も早く富永隊を助けたいと已む無く承知し、重たい大砲を引っ張って歩兵営へ向かったのである。
野口らは大砲というものを直に触れる事も見る機会も余りなく、使用経験の無いものばかりであった。
上下縦横あらゆる角度から見ても当然の如く理解できよう筈もない。筒状になった部分の先端から込めた弾薬が発射される事くらいは想像できるものの、その発射に行き着くまでの作業が全くの未知であり彼等は途方にくれた。
その時である。砲兵の生き残りが炎上する営舎から城外へ逃れようと右往左往しているではないか。
隊士らはこれを逃すなと数人が兵士の下へ躍り出た。
「待て!」
「逃げれば叩き斬るぞ!」
怒声を発し迫り来る敵に、砲兵は遂に丸腰のままどうするも敵わず両手を上げて立ちすくんだ。
彼等は砲兵から大砲の装着を一通り聞き出して、今度は意気揚々歩兵営をめざしたのである。
「よし!この門を一気に砲撃で破り突破するぞ」
太田黒加屋両帥は大砲を運ばせると、怒号と共に営門目掛けて発射を命じた。ドン!と凄まじい轟音が響き中で敵兵達のざわめきとバリバリっと脆くも門が破れ朽ちる音が聞こえる。
太田黒は今こそと再び刀の切先を鋭く営内に向け突き出した。
「富永隊に後れを取るな!皆一丸となって鎮軍に向かえ!」
これに続き加屋も天高く刃を向け、
「我等は神兵ぞ!何も恐るるにあらず!続け!」
と先陣きって営内に攻撃を開始したのである。
この混乱状態に乗って再び大砲を打ち鳴らさんとした時、ふと問題が生じた。
火薬を詰め、手順通りに発射できる筈の大砲が先程と打って変わって沈黙したままになっている。砲手を勤めていた隊士もこれには首を傾げている。何故か。これを以って速やかな同志との合流を図るつもりでいただけに、動かぬのは痛手である。
「ええい!この鉄屑が無くとも我等には刀だけで十分、捨て置け!」
太田黒は大砲を蹴りだすと、刀や槍を持って再び馬上より攻撃を進めた。
この頃、歩兵営では敵は寡勢なりと冷静さを取り戻し、小銃部隊が着々と戦場へ台頭しつつあった。
熊本城二の丸歩兵営は敬神党一党の主力部隊と、鎮西鎮軍二千余の大部隊とが真っ向からぶつかり合う激戦区と化していた。
太田黒率いる本隊は富永隊にいち早く合流し、激しい斬りこみを断行していた。
烈士等の命を惜しまぬ武士道精神は鎮西の部隊を追い詰めていたかに見えた、しかし。
「敵は寡勢なるぞ」
この怒声が響いたその瞬間、事態は急変する。
帯剣部隊はみるみる潮引きの如く後退して行ったのだ。
(これは・・・。)
加屋は中軍に位置しながらも、戦況を常に見極めんと目を凝らし敵の動静を覗いっていた。
確かに、自軍は強固な意志の元敵兵を飲み込まん勢いを持つ強さがある。
然しながら、あれだけ大軍を擁し近代兵器を保有する鎮軍が情けなくも小銃一つ用いるも無く引き上げるのは何か不自然である。
何かあると思うも、この勢いを止めてしまえばそれこそ敵を勢いづかせ敗走の憂き目に遭いかねない。
後退するのが戦に於いて、如何に難しいものか、そう考えると到底この流れは崩せぬものになる。
已む無く、加屋は大小両刀を引っさげて只管に前進するのであった。
6️⃣
明治政府が抱える熊本鎮西鎮台。
彼等の擁する近代兵器は大砲、高性能の小銃など当時の最新鋭の装備である。
対する、敬神党一党は昔ながらの甲冑に刀槍に弓矢等を携えての井出たち。戦術はなく、ただ志と信奉する神慮に沿った極めて純粋な精神闘争である。
武力という点で見ても、攻撃力は鎮西軍に劣るものであった彼等がこれだけ敵勢力を追い込むには夜陰急襲と武士道精神に則った死を恐れぬ斬り込みを断行する他なし。
烈士等は、小銃に次々斃れ行く同志の屍を踏み越えて、尚その銃口の先を目指し突進していったのである。
「そら、賊徒共は残らず掃討せよ!」
鎮台の営兵達は、弾薬庫を開いては銃に弾を込め銃弾の雨を波状に仕掛けていく。
烈士らは次々と斃れ、そしてまたそれを乗り越え切込みを繰り返す。
戦が長引くにつれ、敬神党と鎮台の優劣が見え始めてきた。
それでも、烈士等は太田黒加屋両帥健在であり以前指揮はその強靭な精神を以って失われる事なく保たれていた。しかし。
「無念!」
加屋は己が傍で戦い続けた同志の影が崩れるのが見えた。
白髪の老将であり、彼にとって一党の長老、大先輩である斎藤求三郎である。
首へ被弾した様で、大量の血が流れ出ている。
斎藤はもはや動くも話すもかなわず、口を開けばそこからむせ返るような血が滴り落ちるものであった。
「斎藤先生!」
加屋が名を叫ぼうとも、もはや斎藤からの返答は無く、その体は抜け殻の様に崩れ落ちるのだった。
そうする間にも、野口知雄や福岡応彦、内尾仙太郎他多くの烈士らが銃弾に倒れた。
そして、ついに敬神党の指揮を左右する事変が起るのである。
斎藤求三郎、野口智雄など次々と隊士らは斃れ戦況は大きく変化しつつあった。
「伴雄さん!もはや退くは出来ん、一気に犠牲に構わず斬り込むほかありませぬ!」
加屋は怒声を上げた。
額に汗が滲み、手や体は鮮血を受け赤く染まったが気にとめず、同胞の屍を踏み越え彼は進む事を進言した。
「ああ、我等は神兵じゃ!何ら恐れるものもなし!只管進むのみだ!」
太田黒も同じく赤にまみれた衣を振り払い深く頷くや、剣先を城に向け突撃を続ける様号令を出したのである。
本隊は合流し、激戦を二の丸で繰り広げた。
一時かそれ以上になるだろうか、敬神党と鎮西鎮台軍の攻防は未だ止まずであった。静かな筈の夜に、轟音と怒声が交差する熊本城内。激しい銃声と鍔迫り合い、金属音。
血と肉が飛び散り地を染める様は戦の激しさを物語っていた。
「前進せよ!ここより切崩せ!」
加屋は声を上げ、地の滴る両刀を下げて敵陣を睨みながら、指揮を執る。隊士らは副将たる人物の声を頼っては、それを目指して刃を取り走り寄る。その姿を捉えたものがあった。
鎮台軍の将校である。彼は、戦況を後方より広く見渡さんと目を四方に向け戦の勝機を探っていたのである。
第9話
(指揮を執っておるのは、貴奴か。あれを叩けば緒戦は烏合の衆、士気は衰えるだろう)
この将校こそ、本城二の丸に駆けつけた与倉聯隊長である。
彼は、近隣商屋より弾薬を掻き集めると、更に小銃部隊を強化させ一層に士気を高める事に務めた。
部下に攻撃を緩めず継続させる中、自身は実に冷静に戦況の見極めに当たったのである。
「あの指揮する男を斃せ。恐らく賊軍の将であろうが」
与倉隊長の命令により、幾人かの砲兵は照準を一所に向けるや、一斉射撃を開始。
多くの隊士らが斃れる中、加屋は怒りを露に更に斬り出そうと刃を身構えたその時。
腹部に何かが突き刺した様な、痛みを感じたのである。
視線を僅かに下げ刃を握ったまま、彼は手を痛む箇所へと添えると、ヌルリと生暖かいものが触れる。見ると銃弾がの腹部を破って貫き、そこから大量に血が滴っていた。
加屋は激高し、視線を戻すとギッときつく敵陣を睨み付けた。
「おのれ!」
加屋は再び両刀握り締めて眼前の営兵を斬り倒し、更に刃を振るわんとしたその時、更なる銃弾が発砲され、腹部急所に二発の被弾。
視界は大きくゆれ、喉の奥がカッと熱く咽返る。加屋は二刀をしっかり手に握り締めたまま、最期を悟るや「弓矢八幡」と叫び、身体を支える事もまま成らぬ様でガクリと膝をつき、前のめりに斃れこむ。
「ああ、加屋先生!」
隊士の今村栄太郎が近寄って彼を揺さぶるが、もはや何も応える事は無かったのである。
加屋に縋り、一時刃を下ろした今村を狙っての銃撃は、戦場で無防備とも言えるその身体を容赦なく貫き若い命は奪われ、身体は加屋に折り重なる様にどさりと崩れ落ちた。
敬神党一党は、斎藤求三郎長老に始まり、副将の加屋霽堅を失っても尚、将帥たる太田黒の元、士気を衰えさせることなく、屍を超え、前進するのであった。
鎮台軍は次第に士気を取り戻し、抱える近代兵器を惜しみなく使い敬神党の一隊を追い詰めて行く。
副将加屋が斃れて後、太田黒が健在であっても彼等の士気は鎮軍に反して悉く落ちていった。
「ええい!怯むな!我等は神兵ぞ!誰ぞ斃れてもその屍を超えて切り崩せ!」
河上彦斎に始まり、今また加屋霽堅という、古くから交わり育った同胞の死は首領たる太田黒にとって余りに衝撃であり許しがたいものであった。
彼は日頃穏和な人物であるが、この時ばかりは眦上げて怒り、自ら剣を掲げ先陣に躍り出る程の気迫と勢いだった。
その気炎に誘われてか、敬神党の士気そのものは衰えても、隊士らの攻め手は一向に止むを知らぬず、斃れても斃れても我武者羅に攻め寄せた。
鎮台軍の兵士達はその鬼神さながらの攻めに、恐れを抱きながらも頼りの小銃を握り締め、只管引き金を引き続けるのである。
ドンッ!ドンッ!
数発の銃声がひときわ大きく聞こえる。
その直後にどっと何かが崩れる音が響いた。
辺りは銃声と怒声の入り混じった、激しい戦場であるにも関わらず何か時間が止まった様なそんな錯覚に見舞われた。
「太田黒先生!」
「新開!」
「先生!」
駆け寄る足音がバタバタと聞こえる。
銃声は未だ止まず。
斃れる音と、銃声と、人々のざわめく声と、様々な音が入り混じるこの場所で、悲痛な声が木霊した。
馬が声の間をすり抜けて走り去っていくが、果たして何ぞあったろうか。
隊士のみならず、鎮台兵らも訝り馬の行方に目をやった後、その出先を覗く。
誰かやられたか。
隊士達は、馬に乗った誰かがやられたと察した。
しかし、あの聞こえてきた悲痛な声は自身らの敗北を意味するものだとも察していた。
「太田黒先生がやられた!皆一時撤退せよ!」
歩兵営を指揮する部隊の長、富永守国の声である。
どうやら、予感は的中し首領・太田黒が被弾したらしい。
泣き叫びに近い仲間の声と、富永の撤退命令。
敬神党隊士らにとって、死を覚悟の長い日が始まった。
加屋、太田黒と領袖を失い、意気消沈する志士達。
それを辛うじて食い留めたのは、強固な意志を持ち、志を同じくする同志・富永等の声だった。
「皆ここは一時退け!藤崎へ退け!」
駆けつけた石原運四郎、高津運記ら諸参謀も入り混じって藤崎。愛敬宅へ撤収した。
胸に被弾し滴る血を拭う事もままならぬ太田黒を抱えるのは、彼の義弟である大野昇雄である。
「義兄上、しっかり!」
義兄を励ましながら、必死に法華坂を下る。
他の同志達と散りぢりになりながらも、何とか太田黒伴雄は担がれ坂のくだりにある民家に着いた。
大野と同じく、一緒に居た吉岡軍四郎も彼を抱き起こして担ぎ、共に屋内へと逃れた。
また長老上野堅五も傷を負いながら駆けつけた。伴雄は死を悟ると傍に控えていた吉岡、大野へ向けて小さな声で告げた。
「頬を撃たれた時はまだまだと思ったが、胸をやられては生きた心地がしない。どうか速やかにわが首を打ち御軍神と共に新開へ送ってくれ。」
と、苦し気に命じた。
「先生、誰に介錯をさせましょう。」
「宗三郎、お前がせよ」
と大野に向かい静かに言い渡すのであった。
それから、ゼイゼイと苦しい息を洩らす太田黒は、俄に垂れた首を押し上げると誰にとも無く訪ねた。
「今どの方角を向いておるか。」
「西へ向いておられます。」
「そりはいかん。天子様の居られる東を背にしては死ねぬわ。これ、誰ぞ向きを直してくれ。」
そういって、上野や吉岡等が太田黒の身体を支え、方向を変えさせると彼はよしと呟いた。
「先生、この後我等はどうすべきでございましょうや。」
ここで最後に支持を仰がねばと吉岡は必死に太田黒に訪ねた。
彼は死が間近に迫っている人間と感じさせぬほどの口調ではっきりとその答えを返した。「斯くなる上は、皆神慮に従い城を枕に死するべし。」
悲愴の決断、命令である。
この挙兵自体、死を覚悟のものだったのだ。
今更に生き残ることを考えるものは一人としていないと、彼は思っている。
だから、武士の最後、神臣として、その最期を全うせよと命じたのである。
もう少し、あと少し問うておくべき事が。
吉岡が再び、後事を訪ねると彼は暫く黙している。
やがて、その口元が小さく動くのを見て吉岡は耳を寄せた。
彼は弱弱しく滴る血は胸部から地に伝っている。
「うん。」
かすかな答えらしい言葉だけ返ってきたが、彼はもう項垂れて今にも意識を手放す所であった。
(もう義兄にはお答えする力も失われておいでなのだ。)
大野はハッと辺りに聞き耳立てた。
外が騒がしくなってきた。
敵が近い!
時期に営兵も追い迫り、首領が敵の虜となる事を恐れた。
カチリと鍔元と鞘とが離れる音が響く。
吉村と上野は太田黒の身体を支え、首を落としやすい体勢を取った。
(義兄上。)
大野は両の目から血の涙を流さんばかりの苦痛の表情を浮かべていた。
大野家に自分が誕生してから父母より酷い仕打ちを受け続けた義兄・伴雄はそれを恨む事もなく逆に純粋に何も知らず慕い寄る自身を愛し大事にしてくれた。
優しい面影が過り、彼は義兄に向けた刃を恐れ嘆いた。
しかし、敵に渡すならば己がとも同時に思っていたから、刀の柄を持って震える両手に力を込め、強く握り絞めると、遂に刀を挙げて義兄の首を打ち落とした。
太田黒伴雄、享年四十三歳。
彼等に滴る赤い血は烈士等の血涙そのものであった。
ー完ー