• 『今は亡き人魚のための禁漁区』

  • 遠井轍
    ミステリー

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    祖父は人魚を殺した。 民俗学部助手・本沢の研究室に物騒な昔話が持ち込まれた。偶々同席した桧垣は本沢とともに六十余年前の日記を紐解いていく。それは「私」と「彼」と「彼女」の、奇妙な生活の記憶だったが――

第1話 

その街の朝は、風と潮のにおいがした。

今にも朽ちて崩れ落ちそうな無人駅を出、手配しておいたタクシーに乗り込むあいだ、誰も何も言わなかった。茜の強張った無表情。どこか遠くを見つめる本沢のまなざし。僕は最後に乗り込んで行き先の住所を告げる

運転手は不思議そうな顔をした。

「それだと岬のほうになりますが」ナビを設定しながら彼は言う。「なんにもありませんよ。砂浜はもっと東ですし」

「いいんです。––––お願いします」

運転手はまだ不思議そうだったけれど、僕はそれ以上何も言わなかった。無闇な言葉は朝の光に晒されてみんな溶けていってしまう。

タクシーはひたすら海沿いを走った。駅からは見えなかった海が左手車窓に広がった。億千に砕けた朝日が波頭に散っていた。ぶつかり、混ざり合い、ふいの波に砕けて散る。綺麗、と茜が呟く。本当に、と本沢が応じる。僕は海から目を逸らす。この浦は、日常の風景であるにはあまりにも美しすぎる。

ここに、いたのだろうか。

僕はふと奇妙な感慨に囚われる。ここに、六十余年前のこの朝日の中に、生きて暮らしていたのだろうか。彼らも、彼女も。

「つきましたよ」

運転手の声が僕を今に引き戻す。真っ先にタクシーを飛び出した茜がガードレール沿いを歩き出す。努めて普段通りを装っていた足取りはすぐにもどかしげな早足へととってかわり、やがて縺れるように走りはじめる。遠ざかる排気音を背中に聞きながら僕らもまた歩き出す。岬の突端へ––––断崖の上の廃屋へと。

小さな二階建ての一軒家は、写真の中にあるよりも少しだけ色褪せて、けれど綻びることなく建っていた。おもちゃのようだった赤い屋根は塗料の半分近くが剥げて金属の色をさらしている。

人が住まなくなってから半世紀以上の月日を経てなお、朽ちていないことが奇跡のようだった。

もっとも、そんなことを言うときっと本沢に笑われる。こんな海辺に建てたのだから塩害も風害も織り込み済みだ。そもそもこの瀟洒なデザインからして、どこかの御大尽がお遊びで建てた別荘か何かだったのだろうから、造りも手間と金がかかっている。だから残っているのは当たり前。奇跡というなら、たぶん、この風景そのものだ。

蝶番の外れかけたドアを潜ってすぐにあった階段をのぼりながら、僕はそんなことを考える。綺麗なものはみんな儚い。壊れてしまいそうだからではなくて、それが在ること自体嘘みたいに思えるからだろう。みんな、どこかで、こんなに美しいなんてあり得ないと知っている。何かが嘘で、どこかが間違いなのだ。

それでもいい。

車窓から見下ろすコバルトブルーの海を思う。それでもいい。嘘でも、間違いでも。こんなに綺麗なのだから。今日は晴れているから。

「––––ほら」

思いがけず優しい本沢の声に、いつの間にか俯いていた顔を上げた。気付けば階段は終わっていて、白茶げた踊り場と廊下を抜けた先に、真っ白いブラウスの背中が立ち尽くしているのが見えた。

「見えるだろう?」

返事はなかった。ふいの風に黒髪が踊った。びりびりに破けたカーテンがその髪に触れる。茜は窓を臨んだまま微動だにしない。

僕は一歩前に出た。古いテレビン油のにおいが鼻をついた。また一歩踏み出すごとに靴底が砂を噛んだ。カフェオレ色に変色したカーテンの向こうで、茜は泣いていた。

「見えるだろう。それが、答えだろう?」

四畳ほどの小さな部屋だ。壁を埋める棚は空っぽで、イーゼルと出窓のほかはなんにもない。なんにも残っていない。椅子も、カンバスも、絵筆の一本でさえ。

いや、あと一つだけ、残っているものがある。

細い指がその絵をそっと持ち上げた。素朴な鉛筆画のようだった。白い光の中で、その絵は今にも砕けて砂粒になってしまいそうだ。

震える手が紙に添えられ、確かめるように、恐る恐る撫でる。描かれた横顔は静かに笑っている。線の細い青年だった。茜と同じ艶のある黒髪、よく似たあごのライン。いかにも皮膚の薄そうな一重瞼はほとんど相似だ。

やがて深山の雪融けみたいに密やかな嗚咽が溢れ出す。本沢は踵を返して階段をおりていく。固い足音を追いかけて廊下に出、最後に一度だけ振り返ると、茜は絵を抱きしめるようにうずくまって泣いていた。もう声を殺すこともない。

その足を、ふくらんだスカートとカーテンとが隠す。やわらかな鱗がドレープを描いて人魚を彩る。

どうかサンクチュアリであれ、と僕は祈った。海辺の家よ、どうか今だけは、美しい禁漁区であれ。

第2話 coming soon