• 『彼女とあの娘と女友達(あいつ)と俺と: 海辺の彼女編』

  • 松代守弘
    現代文学

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    薄ぼんやりした日々をダラダラと過ごす『俺』の出逢った『海辺の彼女』は、犬を飼う美しい人妻。彼女と重ねるエロティックな逢瀬、そして食事や小旅行で共有する居心地のいい時間を切り取った短編集。

第1話 海辺の彼女とサザエのつぼ焼き

 電車を乗り継いで海辺の町へたどり着いたはずだったが、駅前のロータリーは旧友が療養生活を送った高原の町とほとんど同じ作りで、しばしあっけにとられてしまう。なにしろ、サビまみれの『非核平和都市宣言』看板までそっくりなのだ、風がかすかにふくむ潮の香りがなかったら、あわてて改札へ引き返したかもしれない。
 同じ便で降りた乗客たちがバスや迎えの車へ吸い込まれた後で周囲を見回しても人の気配はない。携帯を確認したが、着信もメッセもない。タイムラインを確認しようかと思ったら、こういうときに限って電波を拾いそこねたか、リロードもできない。
 初めて会う人への期待感は精を放った後の男根よりも早くしぼみ、不動産屋とコンビニと牛丼屋のうなだれたのぼりが、俺を憂鬱な諦観へと誘っていく。
 ただ、いつもの様にカメラは持参していたので、気持ちさえ切り替えられればなんとかなる。ぶらぶらと散歩しながら、あてもなく写真を撮る楽しみは、見知らぬ土地であればこそ。なにも、初めて会う人をいきなり撮りたいわけではない。
 というわけで、逢えなくても写真の楽しみは失われていないのだから、全くの無駄足というわけでもない。まだ昼前だし、散歩する前に飯でも食うかと歩き出したら、未練たらしく掌で弄んでいたままの端末が震え始めた。
 よかった、待ち人からの着信だ。動画チャットと変わらず華やいだ声の彼女は、挨拶もそこそこに新たな待ち合わせ場所をてきぱきと指示し、シルバーグレイのワゴン車で迎えに行くことを告げ、手短に通話を終える。
 肩からずり落ちかかったカメラバッグをかけ直し、足取り軽く指定されたコンビニへ向かう。まもなく、大型トラック用のスペースが数台分は用意されている、都市生活に慣れた自分にはちょっと目を疑うほど広い駐車場が見えた。その手前には、教えられた通りのワゴン車がハザードを点滅させている。
 運転席のショートヘアは画像と同じ。
 俺が浮かれた気分で近づくと、不意に車がバックした。ワゴン車は切り返してから停まり、運転席のドアが開いて待ち人が降りてくる。
 彼女はスラリとした長身で、凝った刺繍のジーンズとブラウスにウエスタン風のハーフブーツがちょっとラフに決まっていた。バストアップの画像しかみてなかったので、背の高さはいささか予想外だったが、スリムで長い脚を強調するファッションということは、そこまで込みで容姿に自信を持っているということだろう。
 お互いを確認してから、俺は彼女に促されるまま助手席へと乗り込んだ。間を置かずに彼女は発進させる。
「ごめんねぇ、来ないかと思った?」
「うん、ちらっとね……」
「駅の途中で近所の人の車を見かけたから、ちょっとあぶないかなってね」
「あぁ、それはわかるね。こういうの、わりかし慣れてる?」
「へへ、はじめてじゃないわね……もしかして、慣れた女は嫌?」
「全然! むしろ頼もしいね」
「頼もしいと来たか……そういえば、免許ないの?」
「うん、取ったこと無い」
「そうかぁ……じゃ、しょうがないね。駐車場でハザード焚いてるのは、これから停めるって合図だから、動いてなくても近寄らないでね」
 彼女は慣れた手つきで交通量の少ない道を走らせ続ける。車内にはかすかに獣の臭がする。見るとはなしにルームミラーへ目をやると、バックシートに中型犬サイズのケージがかいま見えた。このまま、バイパス沿いのモーテルへ向かってもいいけど、お昼がまだならどこかで買うか食べるかと、彼女が問いかける。
 さっきのコンビニで買っても良かったのに、なんてわざと惚《とぼ》けたら、それじゃ全く台無しだよと大笑いされた。挙句「惚《とぼ》けと惚気《のろけ》は同じ漢字」と、豆知識までついてくる。そうか、漢検二級だったっけ……彼女。
 結局、ちょっと遠回りして道の駅で弁当と惣菜を買い求め、そこからバイパスへ折り返す事となった。ここまでお互い名乗らず、呼びかけてもいない。彼女に夫と子供がいて、夕食の支度をするための時間を計算しつつ行動しなければならない。俺が知っているのはそれだけだ。道順が決まると彼女は迷わず車を進め、ほとんど会話らしい会話もしない間に目的地が見えてくる。
 風のない昼飯時、林立しているのぼりはみなうなだれて、てっぺんに描かれたサザエしかわからない。恐らくはつぼ焼きと大書されているだろう、のぼりの向こうでは屋台の親父がサザエを次々と焼き網の上へ並べていた。
 ウカツにも、俺はかなり物欲しげにサザエを見つめていたらしい。親父が「どう? 兄さん! いま焼いてるからすぐだよ」と声かけてくる。
 しまった! と思いつつ素早く値段を確認すると、大二個で焼魚定食の並盛りと同じ。高くはないが、安くもない。それに、食事するとモーテルの時間が足りなくなるし……などグズグズ考えていたら、彼女がさっさと注文してしまった。
 時間が気になると告げたら、彼女は「道知ってるから大丈夫」と気に留めた様子も見せない。それどころか「せっかくだから美味しいもの食べましょうよ」と焚きつける。
 そういうことなら食べるかと、自分は食堂で海鮮茶漬け定食を注文する。振り返ると、彼女は焼きあがったサザエを持って席につくところだった。もちろん会計も済ませている。どうにもこうにも格好がつかなくなってしまったが、ここで下手に気にすると傷口を広げるのは明らかだし、開き直ってありがたくごちそうになる。
 焦げた醤油と濃厚な磯の香りが、否応なく食欲をそそる。彼女のブラウスに汁を飛ばさないよう、おっかなびっくりで蓋を取り、爪楊枝で慎重に身を引き出そうとしたら、腸《わた》が切れた。ますます格好悪い……。俺は思わず顔をしかめてしまったが、彼女は微笑みながらもうひとつのサザエをしっかり掴み、器用にくるりと身を引き出した。
「思い切って一気に出すのがコツなのよ」
「でも、腸は苦いから食べないよ」
「ははは、雌はキモが苦いからね。多分こっちは雄だから苦くないわよ。試しに食べてみたら?」
 彼女が勧めるまま、キレイに腸まで引き出されたサザエを食べる。確かにさほど苦味は感じず、磯の味が口いっぱいに広がった。これは旨い! いままでずいぶん損をしていたような、そんな気すらしてくる。
 そして、俺がサザエを頬張っている間、彼女はもうひとつの貝に残された腸を引き出そうとしていたが、もう少しというところでちぎれてしまった。つい「残念だったね」と声をかけたら、さばけた口調で「大丈夫、たぶん雌だったから」と答えながら爪楊枝の先をなめ、やや大げさに渋そうな顔してみせた。
 そうこうしている間に彼女が注文したアジフライ定食ができあがった。受け取り口には海鮮茶漬け定食もある。近くの漁港はアジが名物らしく、茶漬け定食の丼飯にもアジの切り身が敷き詰められている。土瓶に入った出汁をかけると、切り身とノリがちりちり縮み、美味そうな湯気が盛大に立つ。とりあえずひと口すすると、小さなアジの切り身までついてきた。出汁の旨味からアジのコリッとした食感へ至る流れが興味深く、美味いというより感心する。そして、サラサラと半分ぐらい食べた頃には、すっかりお幸せそうなニヤけ顔になっている。
 彼女は彼女で、バリバリ、さくさく、景気の良い音を立てつつ、アジフライを頬張っている。さほど小ぶりでもなかったが、骨ごとしっぽまできれいに平らげ、静かにわかめの味噌汁を飲み干した。俺も添えられていたおろし山葵を乗せ、茶漬けの残りをささっとかきこむ。立ち上る山葵の香りと、舌に広がるかすかな甘味との意外性に戸惑っていると、彼女はいたずらっぽく「美味しい?」と微笑んだ。
 お互い食べ終わってぬるめの茶をすすり、食器を返して一息ついても、まだお昼を少し回ったくらいだった。道の駅から戻ると、最初の信号でバイパスへ入る。別の道に乗り込んですぐに、彼女はワゴン車の速度を上げた。助手席から見えるコンクリの斜面が、灰色と緑の流れへ変わり始めた頃、フロントガラス越しに西洋や日本の城郭をちょっと下品にしたような建物群がちらほら浮かんできた。確かにこれは近い。
 それにしても、彼女の運転には迷いがない。
 これは道を知っているというより、慣れている?
 まぁいいか。
 彼女が楽しければ、俺もそれでいい。
 速度を落として車を左車線へ寄せつつ、彼女は「どこにする?」と訊いてくる。本音は『安いところ』だったが、さすがに抑えて「停めやすいところがいいんじゃ?」と返す。彼女は軽くうなずきながら微笑むと、最初の信号でワゴン車を左折させた。そこからさらに細い道へと入り、少し進んで曲がった正面に見える、昭和臭いビニールカーテンをくぐる。
 部屋の下にある駐車スペースへ入り、降車した俺達はそれぞれ荷物を持って階段をあがる。
 部屋へ入ると荷物を置く間もなく、彼女がフロントに電話をかけた。やがて、ドア脇の装置でランプが点滅し、大げさな配管から『シュー、ポン!』とカプセルが飛び出してくる。近寄って「うわぁ! 気送管だよ!」と空気で小物を運ぶ装置にはしゃぐ俺が、彼女には面白くて仕方ないらしい。とりあえず、収められた説明書を読むよう俺に促しながら、彼女は自分の荷物を隅へ片付けてベッドへ腰掛ける。カプセルへ現金かカードを詰めてフロントへ送るなど注意事項を確認した俺も、かばんを隅へ押し込めて彼女の隣りに座る。
「あのバッグって、カメラ? 大丈夫?」
 ぞんざいに押し込んだバッグを見やって、彼女が素早く尋ねる。かすかな不信が含まれているような、そんな口調の早さを感じた。
「うん、カメラ。でも、今日は撮らないからいいや」
「そうなの? ほんとに?」
「うんうん、ほんと撮らない。もともと、散歩しながらその辺の景色を撮るつもりだったからね」
「それじゃ、すぐここ来ちゃったのは……」
「ううん、それも大丈夫。気にしないで。会いたかったし……それに、ね」
 彼女の目を見て微笑みながら、俺はそっとジーンズの刺繍をなぞった。
「すぐにシャワー浴びてもいいのよ」
「なら、いっしょに浴びる?」
「そうしようかな」
 先に服を脱いで風呂場へ入り、湯船に湯をためながらシャワーを浴びていると、タオルを巻いた彼女が恥ずかしげに入ってきた。タオルをほどき、俺に近づきながら「髪にはお湯かけないでね」と言ってノズルを受け取った。やや小ぶりだが張りを失っていない乳房に、深小豆色で大きい乳輪と乳首の存在感が好対照をなしている。彼女はボディソープなど使わずに湯だけさっと浴び、俺に軽くキスしてから先に湯船へ浸かった。俺は局部を丁寧に洗うと、彼女を後ろから抱きしめるように湯船へ入る。
 俺は既に堅くしこっていた乳首を掌で軽く抑えるように転がし、さらに親指でそっと撫でた。彼女は鼻にかかった甘え声を出しながらもたれかかってくると、後ろ手に俺の男根を探り当て、軽くもみしごき始める。
 陰茎は自分でも驚くほどの勢いで硬くそそり勃ちはじめた。俺もお返しとばかり、手を下へおろして彼女のへそから太もも、そして陰部へ伸ばす。
 ところが、彼女はそっと俺の手を抑えて「お願いがあるの」と切り出した。
「これから前戯は一切なしで、ベッドでいきなり襲って欲しいの」
「うん、いいけど、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫、あなたならお願いできるかなって、そう思って誘ったの」
「そか……」
「嫌だった? こういうの」
「ううん、嫌いじゃない。でも、ちょっと組み立て考える」
「ははは、組み立てね」
「うん、先にフェラして欲しかったんだけど……」
「口に押し込んでも大丈夫よ。歯を立てたりはしないから。でも、大きな声は出さないでね」
「あはは、そうだね。それなら、むしろ無言でやりたい」
「あ、それいいね。じゃ、そろそろ上がろうか」
 そう言うと、彼女は母親らしい豊かな尻をちょっと恥ずかしそうに湯船から上げ、タオルを取って浴室を出た。少し間をおいて、俺も彼女を追う。体を拭いてベッドへ目をやると、タオルハンカチで目隠しした彼女が横たわっていた。
 打ち合わせ通り、無言のまま近寄って彼女の唇にペニスを押し付けた。そこで口が開いたところへ男性器をくわえさせる。
 ++それ++がやがて十分に硬くなったところを見計らった俺は、素早くゴムを被せて彼女を一気に貫いた。既にびっくりするほど濡れていたのだが、それでも最初はちょっときつかったようだ。幸いにも彼女が痛がるそぶりを見せなかったので、腰の角度を変えつつ数回出し入れすると、不意にぐっと奥まで入った。同時に獣じみたうめき声があがり、女体がしばらく痙攣した後にぐったりと弛緩してしまう。
 よほど好きなんだな……と独り言ちて、彼女を裏返すと背中から覆いかぶさるように挿れた。この方が深く入るし、自分も気持ち良い。最初はやや驚いたようだったが、すぐに啼きながらまた軽くひくつき始める。ちょっと早すぎるなと思い、腰をやや引き気味にするなどあれこれしていると、彼女は尻を合わせてきた。やがて、そうこうしている間に自分も高まってきたので、本格的に激しくイキ始めた彼女を抑えこみ、お構いなしに大腰を使って深く突き、そして果てた。
 賢者の世界へ旅立った意識を引き戻し、身体をなんとか彼女から引き離し、ゴムを捨てて立ち上がる。このまま眠ってしまいたいが、恐らくそれは危険だろう。シャワーを浴びて戻ったら、彼女がふらふらと起き上がるところだった。
「びっくりした……こんなに激しいのははじめて……」
「ありがと。いままでこんなことなかったの?」
「うん、ただ乱暴なだけの男が多くて……ひどい目にあったことも……」
「そか……でも、いま楽しんでもらえたなら、それは良かった」
「うん、すごく良かった」
 そう言いながら、彼女は唇を押し付け、舌を入れてくる。
 それから、ギリギリまでセックスし続けた。
 夕方、駅へ向かう車中で彼女は「男はいいな」と、なんども噛みしめるようにつぶやいていた。別れ際、車から降りた後も、つくづく羨ましそうに繰り返していた位だから、よほどだったのだろう。
「男だから、こうして知らない人の車にも乗れたでしょ、女だとそんなことできないからね。最初、あなたの家に誘われたけど、断って呼んだのはそういうことよ」
「うん……じゃ、次はどうする? 部屋に来る?」
「行くわ」
 彼女は少し照れくさそうに笑った。

第2話 再開発地区の片隅で食べる焼き鯖寿司

 雨上がりの青空が広がる大通りを、ターミナル駅へ急いでいた。空には飛行船型のアドバルーンが浮かび、威圧的な太文字で大書された空と陸の競演! 空弁対駅弁なる広告をぶら下げている。アドバルーンを見かけるのは久しぶりと、そんなことを思いつつ、点滅し始めた信号を駆け足で渡った。既に待ち合わせの時間は過ぎている。駅ビルへ走り込むと、ごった返す買い物客をかき分け、エレベータ前の人混みをかわし、エスカレータをいそいそと登る。
 待ち合わせはほとんど最上階の催事場だったが、これほどの混雑で、漫然とエレベータを待つよりマシだろう。それにしても、なんだかやけに人が多い。海辺の町で会った彼女が俺の部屋へ来るのだが、その前に駅ビルで開かれている駅弁空弁市へ寄って昼食の約束になっていた。とは言え、お目当ては弁当じゃなく、会場で食べられる豪華寝台列車のランチやファーストクラスの機内食だった。
 ようやく待ち合わせ場所の催事場へ辿り着いた。だが、人混みで見通しがきかない、なんということだ……。
 とりあえず、メッセでもチェックしようとスマホをいじっても接続しています表示で砂時計が回り始め、溜息とともに端末をしまう。こらあかん、電波まで混んでいやがる。やむを得ず、多少でも混雑を避けようと物販レジの影へ逃げたら、頭半分ほど突き出た栗色のショートカットが目に留まる。もしやと思って近寄ると、うんざりした顔の彼女と鉢合わせした。
 はじめて会った時とは打って変わってフェミニンな淡藤のレースワンピだが、底がやや厚めのジップスニーカが脚の長さを強調しているのは前と変わらない。生足がやけに眩しく、ストールで隠しながらもレースの向こうにチラチラ透ける濃紺の下着が、過剰にセクシーだった。
「ごめん、待った?」
「うん、ちょっとね。この人混みだし、会えないかと思った……携帯もつながらなくて、もう大変」
「すごい人だけど、なにがあったんだろう」
「今朝のテレビで放送されたのよ、この催し」
「テレビ……すごいね……」
「ね……とりあえず、様子見に行こうか」
 催事場の正面へ戻ると、行列は階段から階下まで伸びている。いつの間にか設置されていたホワイトボードには食堂車コーナー90分待ちやファーストクラスランチ60分待ちなどの殴り書きが見え、なんとも言えない気分で互いに顔を見合う。追い打ちを掛けるように、スタッフが「空・駅カレー食べ比べは限定数に達しました!」と告知し始め、こらあかんと諦めることにした。
 エスカレータで降りながら、混雑している駅ビルやその周辺での昼食は避け、地下の食料品店街で弁当か惣菜でも買い、俺の部屋で食べるのが良かろうとなった。エスカレータをグルグル回って地下へたどり着くと、降りた正面の最も目立つところに焼き鯖寿司の特設販売コーナができている。催事企画と連動しているらしく、ここでも焼き鯖空弁と塩こうじ焼き鯖駅弁を並べていた。また、奥にはひときわ大きな若狭の鯖寿司も並んでいる。どうも京都から出店しているらしい。
 正直、ここで焼き鯖寿司に決めてしまいたかった。実際、昼時の食料品店街でだらだら弁当や惣菜を物色するなんて、少なくとも賢明とは言えまい。それに、できるだけゆっくりセックスを楽しみたいのだから、これ以上は少しでも時間を無駄にしたくなかった。とはいえ、彼女の意向も確認しようと、焦る気持ちを抑えつつ「焼き鯖どうかな?」とたずねたら、思いのほか反応が鈍い。
 少し間を置いて、彼女は「ちょっと、小さくないかな」と返した。確かに弁当にしてはやや小ぶりで、空弁に至っては通常の半分程度しかなさそうだ。ただ、値段は両方を足したより高いが、足した以上に食べ出がありそうな若狭の鯖寿司もある。こんなところで食い下がるのもどうかと思いつつ、ダメ元で「鯖寿司でもいいんよ」と重ねたら、彼女は申し訳なさそうに「ダンナが鯖寿司好きなのよ……」とつぶやいた。
「だったら、この大きいのをおみやげにすればいいよ! 今日はこっちへ来るって言ってるんでしょ?」
「うん……なにか、てきとうに買って帰ろうと思っていたけど……」
「好物を買って帰ったら喜ぶよ。大丈夫、俺が買うからさ」
「いやいやいやいや、それだけはダメ! 鯖寿司は私が買うから、気を使わないで」
 結局、お昼用に焼き鯖空弁と塩こうじ焼き鯖駅弁もそれぞれひとつずつ買い、俺の部屋で食べ比べることとした。昼飯を買ったら用はない、ますます増える人混みを尻目に、駅ビルを後にする。
「こっからだとけっこう歩くけど、大丈夫? 電車でひと駅なんだけど」
「大丈夫。ちゃんと歩ける靴だし、そのつもりで来たから」
 そういって彼女は軽く足をあげた。薔薇と拳銃をデザインしたちょっとハードなスニーカが、長い足の先を力強く飾る。ビルの外は思いのほか日差しが強く、俺は立ち止まって濃いティアドロップのサングラスを掛けた。彼女もバッグからサングラスを取り出す。イタリアンブランドのメンズグラスだが、ショートの彼女にはよく似合っている。

 駅から離れると、急に人影もまばらになる。しばらく歩いて行く間に、昼時でもシャッターを閉めたままの店が目につきはじめ、もう少し進むと解体工事中や更地の区画もポツポツ出できた。いつも歩いている再開発地区だが、雨上がりの空が思いのほか美しい。彼女へ「少し待ってて」と声をかけ、立ち止まって弁当と鞄を置き、カメラを取り出す。
「私も撮っていい?」
「もちろん。でも、カメラ持ってきてたんだ」
「へへへ、こんなこともあろうかと、ね」
 おどけた口調で構えるカメラは、単焦点レンズを付けたデジタル一眼レフ、それもミドルクラスのちょっと大きな機種だった。彼女のこんなこともあろうかとに少し驚きつつ、自分も腰を落として一眼レフを構え、シャッターを切る。
 パシャ! キューン
 最近はめったに聞かなくなったフィルムの巻上げ音が青い空へ響いた。
「フィルム!? まだ売ってるの?」
「あ、わかる? 年に数回ぐらい出まわるんだよ」
「へぇ~まだ作ってるんだ」
「うん、イングランドにクロアチア、オランダあたりでほそぼそ作ってる」
「なんだか、サッカーみたいね」

「ははは、そうかも」
 再び歩きはじめながら美大で写真の講座を受けたこと、フィルム現像の選択課程も受けたけど、彼女たちを最後に過程が廃止されたこと。最後の授業で講師が『フイルムばんざい』と板書したけど、ほとんどの学生は理解できずにスルーしたことなど、思い出話をいくつか聞いた。俺は俺で、急に晴れてきたから急いでカメラを準備したこと、それで待ち合わせに遅れたことを白状したが、彼女はごく優しく、こう言った。
「早く行きましょう、あなたがいなくても始めるところだったわ」
 俺は立ち止まり、ちょっと考えて「世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強い楽しみが待ってるよ」と返す。彼女は、出来の悪い生徒を許す教師のように微笑んだ。
 そうこうしている間に、部屋にいちばん近いコンビニまで来た。飲み物や甘いものでも買うかとたずねたら、特に必要な物はないけど、いちおうみるだけみようと入った。店内の人影はまばらで、特にこれといってめぼしいものは見当たらない。ただ、弁当売場の目立つところに炙りさば寿司なる、やや小さめの焼き鯖寿司が並んでいる。迷わずカゴに入れると、ほんの一瞬、サングラスの向こうで彼女の瞳が大きく広がったように思えたが、慎み深く言葉を抑えたようだ。

 ようやく部屋のあるビルまでたどり着いた頃には、とっくに正午を回っていた。廃業した自転車屋の脇にある古ぼけたドアを開け、ひたすらに階段を登る。いちばん上の四階が俺の部屋だ。部屋に入った彼女は、家具や荷物が思いのほか少ないことをいささか意外に感じたようだが、奥の事務机を占拠しているモニタ三台を見つけて、なにかを納得したように微笑んだ。
「仕事もこの部屋でしてるの?」
「ううん、仕事部屋は三階なんだ。アレはプライベート」
「ネットしながらテレビとか?」
「地上波はまずみないけどね。アンテナもつないでないし……基本はゲームとネットだけど、たまにオンデマのストリーミングや、ペイパービュー流すこともある」
 彼女はやや訝しげだが、特になにも言わない。腹も減っているし、まずは食べようと、買ってきた鯖寿司や飲み物を簡易座卓へならべる。皿や箸を取りに台所へ立つと、彼女が台拭きを求めたので、軽くゆすぎ、よく絞って渡す。てきぱきと弁当の包装を解き、ゴミをまとめ、座卓を拭く彼女の尻を眺めていたら、皿を出す手が止まっていた。

 彼女が上体を起こした瞬間、我に返って皿と箸を用意する。座卓に並べられたそれぞれのパッケージを開け、まずは焼き鯖寿司からつまむ。鯖とシャリと生姜の味、ふつうだ。そう、いわゆる焼き鯖寿司の味。硬くもなく柔らかくもないシャリの食感に、ぷっくりした鯖の身から流れ落ちる旨味とガリの歯ごたえが混ざる。ずいぶん昔に、はじめて食べた時は驚いたが、あれから何度も食べた後では、むしろ安心感さえ覚える。
 さて、次は塩こうじ焼き寿司と炙りさば寿司だが、逸る気持ちを抑えつつ、ペットボトルのほうじ茶で口に残った味を流し込む。ちょっと迷ったが、好奇心に負けて塩こうじ焼き鯖へ箸を伸ばしたところ……あれ? 味、変わんなくない?
 違うといえば違うのだが、鯖の表面でぷつぷつと自己主張している塩こうじの効果は、もっぱら食欲をそそる焼き色とこうじ粒のかすかな食感に限られているようで、味への影響はあまり感じられない。むしろ鯖とシャリの間に挟まれている昆布の甘みと食感が強烈で、寿司全体の印象を大きく左右しているようだ。もし、塩こうじ鯖ではない、単なる焼き鯖がこのシャリに乗っていても、同じような味わいではなかろうか。
 これは「もっぺん焼き鯖を食べんとわからんな」と、箸を伸ばして気がついた。彼女も俺も、食い始めてからは無言だった。彼女も焼き鯖の後で塩こうじ鯖を食べているが、どう思っているのだろうか。
「美味しい?」
「うん、どちらも美味しいわ。でも、あまり変わんないね」
「あぁ、やっぱり! 俺、もう一切れ焼き鯖食べて、思い出そうとしてたぐらい」
「あはは、ますますこんがらがるかも」
 ふたりで笑い、箸先を揃え直して、なら次は炙りさばかと、それぞれが一切れとって口に入れる。
「!?」
「これが、いちばん美味しく感じる……」
「うん、実は私もそう思う。けどね」
「けど?」
「たぶん、みりんとうま味調味料に騙されてると思う」
 どれどれと、残りの寿司を皿へ移してパッケの裏を見たら、醸造酢や食塩、酸味料に混じって、しっかり調味料(アミノ酸)と表記されている。そもそも、コンビニの弁当とターミナル駅の食料品店を単純比較して美味いの美味くないのも大人げないが、それでもこういうタネや仕掛けでごまかしてることを確認すると、なにか妙に安心したような気になってしまう。なにせ、焼き鯖空弁とコンビニの炙りさば寿司はどちらも一パック四切れで、大きさはほとんど変わらないのに値段は大きく違うのだから、誤魔化してなかったら、今度はぼられたような気になるというものだ。
 ふたりで寿司をつまみ、パックの表示を見ながら「あぁ、これは」とか「まぁ、そんなもんだよね」なんて笑いあってたら、彼女は少し安心したように「良かった、楽しくないかと思った」なんてつぶやいたので、少し驚いてしまう。どうも、食ってる時の俺は眉間にしわを寄せ、かなり険しい表情で黙々と口に運んでいるようで、はじめて会った時はちょっとショックだったらしい。
「最初の時、食べたら顔が険しくなったものだから、つい美味しい? って聞いちゃったぐらいよ」
 はにかみながら微笑む彼女に「スマンスマン」と頭をかきながら、そろそろ食器や座卓を片付けようかと持ちかける。彼女は静かにうなづき「勝手がわからないから、お任せしちゃってもいいかしら?」と、礼儀正しく小さな部屋の秩序を重んじてみせる。
 俺が片付けと準備をしている間、彼女にはシャワーを浴びてもらうことにした。
 彼女と入れ替わりにシャワーを浴びようとしたら、顔を赤らめつつ「後でもいいのよ」と声をかけてくる。言葉の裏が読めないほど鈍感ではないが、それでもかすかな不安が芽生える。

 かなり汗ばんでるけど、まぁいいさ。タオル姿の彼女を後ろから抱きしめ、耳元で「わかった」とささやきかけた。そのまま彼女をマットレスに横たえ、喘ぎ声を打ち消そうと「ラジオでも流していいかな?」と声をかけたら、わずかな沈黙の後で「できたら、音は出さないで。気になるなら、猿轡してもいいから」と返ってきた。つい『してもいいじゃなくて、して欲しいだろう?』といじめたくなるが、不用意にそういうプレイを始めるたら後が大変だ。
 猿轡用のフェイスタオルを用意すると無言で服を脱ぎ、まだほうじ茶が残っているペットボトルやゴムなどと枕元へ並べた。
 彼女の隣へ横たわり、軽くキスをして抱きしめ、首の後に手を添えながら口に舌を入れる。彼女も応じつつ、俺を強く抱きしめながら体を起こすと、素早くポジションを入れ替えて上になった。唇を離し、俺の顎から喉、首筋、胸、そして乳首へと舌をはわせる。乳首はくすぐったいからやめてと穏やかに制したら、はっきりと残念そうな表情を浮かべ、今度は男根を口に含んだ。ターミナルへの行き帰りでかなり汗をかいていたので、いささか気にはなったものの、彼女はむしろ嬉しそうに頬張っている。
 大きく息をつきながら、口の中で力強く勃起した肉棒を吐き出すと、カリ裏を舌先でなぞり、鈴口にキスをする。愛おしげにペニスを掌中に包み込みつつ、俺の頭へ顔を寄せてくる。つい反射的に唇を寄せたら「ちょっと待って」と彼女は俺から顔をそらし、ほうじ茶をひと口飲んだ。改めて唇を交わし、また舌を絡め、少し顔を離して見つめ合う。互いにうなづき、俺がゴムを用意し始めると、彼女は俺のパンツを素早くとって咥えた。
 猿轡って、こういうことか。これじゃ、今回も前戯いらないな。
 うっとりと目を細めてパンツの臭いを満喫している彼女に覆いかぶさり、深く突き入れる。くぐもった喘ぎ声とも悲鳴とも付かない叫びが耳元に響き、背中に回った彼女の腕に力がこもる。尻の下へ手を入れ、角度を調整してからさらに腰を使うと、喉の奥から轟々たる低い唸りを上げつつ、太ももと括約筋で思い切り俺を締めあげた末、失神した。
 仕方ないのでいったん抜き、身体を裏返して彼女の口からパンツを取ろうとしたら、あまりに強く食いしばってて取れない。苦い笑いがこみ上げてくるが、半ばやけくそで後ろから突く。身体の中で竿を回すように調節し、いい具合のところで遠慮会釈なくガン掘りする。掘るというと穴が違うものの、気分はすっかりそういうところだ。
 しばらく突いていたら目を覚ましたようで、体の下からくぐもったうめき声が伝わり始める。相手がちゃんと反応するのなら、それに合わせて微調整するのが筋だろうが、彼女の場合は自分勝手に快楽を追求しても問題ない。むしろ、合わせるより好き放題ヤったほうが悦ぶぐらいだ。そんな調子でわがままに気持ちよくなっていると、だんだん高まりを抑えられなくなってくる。相手を気にせずと言いつつも、できればタイミングは合わせたい。彼女の下腹部へ手を伸ばし、そっと陰核の皮をむく。
 気がついた彼女は、ひときわ大きくうめいて激しく反応するが、お構いなしに深く突き挿れ、豆を軽く叩きながら絶頂感を味わう。身体の下から内蔵を振り絞るかのような雄叫びが聞こえ、豊かな尻が小刻みに痙攣して俺の腹を震わせ、やがて静かになった。

 このまま賢者となって幽明の境をさまよい続けていたかったが、彼女に陽根をくわえ込まれたままではそうも行かない。ゴムを外さないよう慎重に引きぬき、処分してシャワーを浴びる。体を拭いて部屋へ戻ると、彼女はマットの上で半身を起こし、ぼんやりほうじ茶を飲んでいた。横に座り、ピアスを外した彼女の耳たぶへそっとキスする。うなじを優しくなで、抱きしめながら再び横になる。
「するの?」
「したいけど、流石にすぐは無理だな」
「私はいますぐでもいいよ」
「ほんと?」
「ウソ。私もちょっと休みたいし、できたら甘えたいな」
 俺が微笑みながら頷くと、彼女は強く抱きしめてくる。結局、気がついたらそのままはじめてしまっていたが、もう少し穏やかで丁寧な交わりだった。
 夜に、彼女から二通のメッセが届いた。最初は「ありがとう! ものすごく喜んでた。買ってよかった!」とあり、自分もほっとしながら喜ばしく感じる。
 もう一通は……。
「ダンナがひとりで全部食った」
 さて、返事はどうしたものか。

第3話 問屋街のロースカツランチ

 簡単な夕食の後、ネットゲームの時間限定イベントをクリア、タイムラインをチェックする。平日の夜、特になにも面白いことはない。うまく肉体関係へ持ち込めそうな相手はなく、ネットのお付き合いだけで進展はなさそうな相手との、興味深くもいささか退屈なやりとりを、輪をかけて退屈なネットニュースを読みながら淡々とこなす。
 少し早いけど、今夜はそろそろ店じまいとするか。
 たぶん、もう少し粘ったらいつもの女や、先週こっちへ来てくれた彼女も上がってくるのだろうが、なんだかどうにも気分が乗らない。こういう微妙な心理状態の時、うかつに粘るとろくなことがない。
 俺はなんども学んだんだ、なにはともあれ、こんな夜は寝るに限るのだ。最後にメールだけ確認しようとマウスを握り直したら、不意にショートメッセのアラートがポップアップした。おっと、彼女からだ。いつもよりちょっと早いな。戦闘ゲームの武装交換と視点切り替え並みの素早さでマウスを操作し、大喜びでメッセージウィンドウを開くと、思いがけない内容だった。
「明日の朝、そっち行っていい?」
 とりあえず、半ば反射的に「いいけど、どうしたの?」と返信しながら、嬉しさよりもかすかに湧き上がる不安感を扱いかねていた。家族持ちが突然、それも朝から来るってのは、いささか穏やかじゃない。もしかしたら、家族となにかのトラブルがあったのかもしれないし、その場合はシェルターを……なんて、考えをめぐらせる暇もなく彼女から次のメッセが届く。
「午後から都心で用事なんだけど、朝イチでダンナを駅まで送るのよ。子供も朝練でいなくなるし、良かったらちょっと寝かせてくれないかな」
 素早く「どうぞどうぞ、駅まで迎えに行こうか?」と入力しつつ、受信ウィンドウに表示された彼女のメッセを再確認する。大丈夫、タイミングが良かったって、それだけのことだな。こっちも入力ミスとかないな、よし送信。
 念のため、到着予想時刻を路線検索するか、と思ったら「気にしないで、道順は覚えてる。でも、カギ開けてほしいから、ついたら電話してもいい?」とさらに即レス。あぁ、この反応はガチだ、マジ楽しみにしてるぞ。
 部屋の錠前はシリンダ錠と暗証番号のダブルなので、錠前を開放してダイアルロックの暗証番号だけ画像で送ると告げたら、ちょっとわかってなさ気だった。念のため「暗号化するの面倒臭いから、気休めでも画像にして送る」と付け足したら、そこでなんとなく察しがついたようだ。ここまで神経質になることもないのだろうが、まぁ習い性みたいなもんだ。
 そんなこんなで「寝てるかもしれないから、電話せずに部屋へ入ってください」と添えて写メも送る。彼女もそれを了解し、他にはおおよその到着予想時間と、それぞれ別に朝食を取ることなどを確認した。明日は早いので互いにさっさとネットから落ち、自分は遅めの風呂に入りゲームもせず寝た。
 年甲斐もなく興奮したせいか、明け方に目を覚ましてしまったが、どう考えても起きていたら台無しなので、目をつぶって無理やり寝る。妙な時間に二度寝したせいだろう、おかげで彼女が部屋に入ってくるまで気が付かなかった。
 枕元に人の気配がしたかと思ったら、耳元で「おはよっ」と、嬉しげなささやき声がする。あぁ、来たんだなと思いながら薄目を開けると、なんだか異常に楽しそうな彼女の顔があった。あっけにとられるようなニヤケ顔。
「キスしていい?」
 半分寝たまま軽くうなづいたら、いきなりネッキングと強烈なくちづけ、もちろん舌も絡めてくる。流れで布団の中まで入り込み、俺がパンイチで寝てるのを察知すると、とろけるような笑みを浮かべつつ「脱がしていい?」と聞いてくる。そう言いながら、既に彼女の手はパンツをずり下げていた。
 朝勃ちに引っかかったパンツをいとおしそうに揉む彼女の手つきに、自分も少しうっとりしながら、軽く腰を上げたらあっというまに足首まで剥がされ、早くも全裸にされてしまった。身体を起こそうとしたら、彼女が「ちょっと待って」と押しとどめる。布団から出た彼女は恍惚の面持ちでパンツの、股間の臭いを存分にかぎ、素早くラフなスウェット上下を脱いで全裸になってしまう。まさかノーパンで来たのかと驚いていたら、脱いだ服の中にベージュのゆったりブラとパンツが見えたので、妙に安心してしまった。
 全裸の彼女は足の方から布団へ潜り込み、指先でペニスの感触を楽しんだ後、おもむろに口へ含む。どうもカリ裏を舐めるのが好きらしいが、くすぐったさが先に立ち、つい悶えてしまう。しばらくして、彼女は肉棒が力を失わないよう指先で刺激しつつ、下腹からへそ、胸へ舌を這わせようとしたが、俺がくすぐったがってばかりいるので諦めた。
「乗ってもいい?」
 そっと顔を寄せ、いたずらっぽく笑う彼女に、俺も微笑みで応える。いそいそと腰の位置を合わせようとする彼女を静かに制し、枕元のゴムを取り出した。ちらっと彼女が心外な表情をみせたような気もするが、このタイミングでゴムがらみのやり取りするほどマヌケなことはない。おもむろに装着し、下から彼女を抱き寄せる。正直、騎乗位は不得意なのだが、乗りたがっているなら仕方ない。
 彼女も素早く位置を合わせ、根本までひと息に飲み込む。
 すべてが終わった時には、さすがにふたりともぐったりしてしまっていた。
 とはいえ、このまま賢者の世界へ旅立つわけにも行かない。彼女にシャワーを浴びさせてシーツを洗濯し、おそらくマットレスも干さなければならないだろう。幸い、外は明るく、気持ちのよい青空を予感させていた。

 枕元のテュッシュとタオルを股間の結合部へ押し込んで潮を吸い取らせつつ、彼女を抱きかかえて床まで身体をずらす。騎乗位だったのが幸いし、腕と腰と脚の力で何とかなった。ようやく起きた彼女がシャワーを浴びている間にシーツを洗濯し、マットレスを物干し場へ広げる。
 風呂場から出てきた彼女はやたら申し訳なさそうだったが、それでもどことなく嬉しそうで、正直ちょっと安心した。恥ずかしそうに「この歳でお漏らしなんて……」と恐縮する彼女に、なんとなく「潮吹きは初体験?」と返す。
 心なしか、いや明らかに血色よく潤いと張りに満ちた肌の艶やかさと、なにかを悟ったように澄み切った眼差しをまっすぐ俺に投げかけ「うん、はじめて……」と応える彼女から、逆説的にそれまで耐えてきた乾きや餓えを感じた。
 俺はまだ朝食を取っていなかったので、シリアルで簡単に済ませると告げたら、彼女もまだだったのでいっしょに食べる。鳥の餌めいた穀物の加工品に干しぶどうやメープルシロップを加え、混ざったところに牛乳を足していくのだが、彼女はシロップを控えて少しだけ。砕いたぬれ煎餅めいた食感の、けして美味いとはいえない乾燥穀物を彼女ともふもふ食べ、食器を洗ったら束の間の甘いひととき。
 なにを語るわけでもなく、身体を寄せあっていれば心地よい。つい乳や首筋を愛撫したくなってしまうが、また始めると、たぶん時間が足りなくなるだろう。
 時計を見ると、軽く目を伏せ、彼女は身支度をはじめる。見事なほど丁寧にたたまれたスーツとブラウスを出し、スウェットやゆるい下着を大きめのビニルパックへ入れる。ふと手を止め「ごめんね。でも、ほんと気持ちよかった、ありがと」なんて、照れくさそうに笑われると、愛おしさが募ってなにかを踏み越えそうになった。
「でもね、いっぺんやってみたかったのよ。寝起きドッキリというか、夜這い。やったらすごく興奮して、自分でも驚いちゃった。自分から襲うのって、興奮するね! 気持ちよかったし」
 スイッチが入ったのだろう「襲われるのも、襲うのもやってみたかった。でも、そういう欲求があっちゃいけないって、そう思い込んでたのよね」など、あれこれ熱く語る彼女の話を聞きながら、距離感があるから彼女は欲求をぶつけられたんだなぁと、そして踏み越えちゃいけない何かは、やはり越えちゃいけないなぁと、柄にもなくセンチメンタルな感情をもてあそんでしまう。そんな感傷を踏み潰すように、彼女が掃除機を使わせてほしいと求めたので、ポンコツの紙パック掃除機を貸す。彼女は先程のビニルパックへセットし、たちまちぺちゃんこにしてしまった。
 大きめのショルダーバッグに圧縮した着替えなどをしまうと、薄いパンスト姿でダークグレーのパンツスーツにブラシをかけ、立ち上がり、ハンガーを鴨居に引っ掛ける。柱にもたれ軽く足を組みながら、あごに手を当て「お昼、よかったら一緒に食べない?」と、全くあさっての方向をみながらつぶやいた。
 俺はあっけにとられてしまい、きれいな切り返しを思いつかない。なんとか「そのカッコで行くのはやめたまえ」と言うのがせいぜい。ごく軽く眉をひそめつつ女教師めいた笑みを浮かべ、俺の額に軽く手を当てながら「ちゃんと服を着たら、いっしょに食べてくれるかしら?」と畳み掛ける彼女は、本当に返しが上手い。これは勝てないな……。
 もちろん、昼食は彼女といっしょだ。
 ターミナルで乗り換え、さらに何駅か過ぎたところで降りる。ロータリーを抜けると古めかしいアーケードに繊維や衣料品店が立ち並ぶ問屋街があり、少し入ったところに駄菓子や玩具、クジを扱う問屋があった。彼女は山積みされたダンボールの脇をすり抜け、店の裏へ向かう。大丈夫か? と怪しみながらついていくと、目の前はコック姿の豚が包丁を掲げ微笑む看板だった。
 揚げ物の匂いが路地裏に満ち満ちている。

 カウンターのみの細長い店内は、大人がひとり通るのもやっと。昼飯時だったが回転は早いらしく、ちょうど奥の席が空いた。カウンターの向こうでは、老人と若いのがせっせとカツレツを揚げている。腹をこすりつつ、なんとか身体を滑りこませると、背後の品書きを見る。ハムカツ定食やハムエッグ定食が猛烈にそそるものの、ここは安定のロースカツランチだろうな。彼女はヒレカツ定食のキャベツ多めだ。
 気がつくと、彼女はしきりに店の奥をうかがっている。聞くと、最近まで老人ふたりで切り盛りしていたらしく、かなりの年だったので気がかりと言う。若者が引っ込んだかと思うと、弁当パックを手に戻り、持ち帰り用のごはんやキャベツを詰めはじめた。少なくとも、今日は若者と老人のふたりだけらしい。
 そうこうしている間に「キャベツとライスはおかわり無料です!」と元気な若者の声が響き、カウンターの向こうからロースカツランチが出てくる。彼女にお先と軽く会釈し、目の前にあるタレツボの柄杓でソースを汲むと、端からやや真ん中寄りの、肉と脂が程よい割合であろうひと切れへそっとかける。コロモは薄く、パン粉も細かい。肉もやや薄いが、まぁランチだし、揚げ時間も短縮したいし、そこはご愛嬌だろうな。
 口に入れると、肉はさほど悪くなく、脂身もほのかな甘さが心地よいが、いかんせん厚みが足りない。コロモが薄くて主張しないから、肉が薄くてもなんとかなっているのだろう。とはいえ、流行りのコロモも味わうカツレツとは距離を置きたいので、むしろ歓迎である。問題は、これじゃご飯が進まないかも……。
 などと、愚にもつかない事をあれこれ考えていると、彼女のヒレカツ定食が出来上がった。見るとはなしに見てしまうと、肉の厚さがぜんぜん違う。これが、ロースとヒレの違いなのか? あっちにはトマトもついてる!
 壁の品書きを再確認すると、ロースカツランチとは別にロースカツ定食なるものがあり、ヒレカツ定食と同じ値段だった。もちろん、ロースカツランチよりもかなり高い。内心では盛大に長溜息しつつも、彼女に悟られぬよう笑顔で食べる。幸い、味はかなり良い。やや甘めのソースも、俺の口にあっている。皿に添えられた辛子をカツに塗り、ソースを掛け、本格的に食べはじめた。カツと飯、キャベツのバランスを深く考えながら、香の物へ箸を伸ばす。

 ナスが旨い! きゅうりもイケる!

 おかずとしても十分な能力と存在感を発揮する香の物が登場したことで、ロースカツランチのバランスは一変する。正直、これは助かった。安心して味噌汁に口をつけると、こちらもかなりの高水準だ。気持よくカツをむさぼりはじめたところに、癖の有りそうな老紳士が店に入るや「親父! 大将いるか?」と大声を出した。
 若いのが奥へ引っ込むと、なにかボソボソ話し声がする。やがて顔を出した老人が、ひとしきり挨拶を交わすと、あっさり「大将はね、今年はじめに死んじゃったんだよ」のひと言で片付けた。彼女の動きが止まる。
 老紳士は顔色ひとつ変えず「じゃ○○は?」と、常連らしき名を告げるも、やはり「死んじゃった」と気のない返事。その後、立て続けに数人の名を出すも、ひとり残らず「死んだ、死んじゃった、死んでる」の繰り返し……。

 やがて「みんな死んだか、寂しいなぁ」と、老紳士が溜息とともに深い闇を吐き出す。そこへ、思い出したように「坊主は? さすがに坊主は生きてるだろ?」と言葉を重ね、瞬間、店に重い緊張が走る。俺も、箸を止めた。
「眼の前にいるよ! 顔忘れたのか? もうろくジジイ!」
 店の親父が景気良く言い放つ。自分は吹き出しそうになるのをこらえるのがやっと。横で彼女も肩を震わせている。若者だけは、何事もなかったように、キャベツを皿へ取り分けている。そのまま、食べながら老紳士と店のふたりとの話を聞いてしまったが、若者は亡くなった大将の孫らしい。和やかな気持ちで彼女と店を後にする。老紳士は、まだ話し込んでいた。

第4話 狐につままれたような丼を彼女と食べた時の流れぬ定食屋

 数日来の熱帯夜が嘘のように涼しく、窓を開けていればクーラーも不要かと思った。とはいえ、パソコンを使うならそうもいかないのが辛いところ。諦めて窓を閉めパソコンの電源を入れ、サーキュレータも作動させる。冷却の唸りと風切り音が室内に響き渡るが、室温が下がると多少はましになるはずだ。温度管理しつつ動画編集アプリを立ち上げ、だましだましプレビューから素材を選ぶ、夏場は熱がこもりやすいので慎重にせざるを得ない。そしてノート機のブラウザやメーラ、ソーシャルサイトのクライアントを次々と立ち上げる。この辺はお遊びだし、なんだかんだでノート機も熱を持つから我慢しても良さそうだが、やっぱ編集中の暇つぶしは必要なのだ。それに、どうせメールやメッセには目を通さなければならない。
 受信メールやソーシャルの通知を仕分けしたところで、メッセンジャのフレンドを確認する。先日、いい感じのとんかつ屋を教えてくれた彼女がログインしているものの、どうやらお友達とやりとりしているような雰囲気だ。こちらからは声をかけず、少し様子でも見ようかと思ったら、彼女からメッセが来た。まずは挨拶に始まってネットのゴシップ、彼女のちょっとした不満やグチ、ペットのことなど、取り留めもない話が楽しい。
 夜も更けて、そろそろお開きにしようかという頃に、彼女がふと「そういや、最近の出会いはどうよ?」と送ってきた。別に隠すようなこともないが、特に面白いネタもなかったので、少し前に猫っぽい感じのショートカット娘といい感じになったものの、色々あってうまく行かなかったことを正直に話した。すると、表示された彼女のレスは、どう考えても挑発的だった。
「若い女は独りで旅に」
 この勝負は受けて立たねばと、ない知恵を無理やり絞ってこちらも返す。
「じゃオレはあんたと旅に出ようか?」
 やや間があって、ちょっと勝った気になった頃に、全く思いがけない文字列が表示された。
「そうだ ほんとに旅しない? ふたりで」
 文字列を確認、内容を理解した瞬間、沸き上がってきたのは驚きや喜びではなく、なぜか優しく抱きしめられるような敗北感だった……。
 
 それからなんだかんだやりとりしてる間に、だんだん彼女との一泊旅行が具体化し始める。いや彼女の都合の便乗というか、仕事で出かけるついでなのだか、勢いというか、少なくとも彼女はかなり真剣だったのは、正直なところ驚いた。 
 ただ、彼女は朝から用事があるので、旅行というよりも出張の前泊だったし、現地でも宿についたら寝るだけ。遊べるのは翌日の昼から午後の二時間程度だけど、それでもかなりときめくものがある。もちろん彼女の用事についてはなにも聞かず、詮索もしない。ただ、午前九時半には目的地へ到着しなければならないこと、そして彼女の家からは始発でも間に合わないということ、そのふたつを教えてもらえれば、それで十分だ。

 そんなわけで、不意に彼女との小旅行が決まった。

 夕暮れのターミナル駅で待ち合わせ場所へ向かう。人混みの中、彼女の姿を探していたら、どういうわけだかみあたらない。場所か時間を間違えたかと、あわててスマホを引っ張り出したところへ、彼女はトイレから姿を見せた。先に来て用足ししてたらしい。
「ごめん、さがした?」

 どことなく疲れた風情の彼女へ「ううん、いまきたとこだから」と返しつつ、駅弁や飲み物でも買おうと持ちかけたら、なぜか少し上の空な声色で「あ、うん。そうね。でも、軽く食べてきちゃったの。ごめん」と、予想もしなかった言葉を雑踏に放つ。
 もしかしたら、家でなにかあったかな?
 そんな不安が頭をよぎる。
 とはいえ、俺になにかできることがあるかというと、たぶんないんだろうな。むしろ、なにもせずそっと様子を見守る、それだけのほうがよほど良かったりもする。それに、彼女が夕食をとって来たのは、ほぼ間違いなく家族の事情だろう。だから、下手に詮索すると、ほぼまちがいなくえらいことがおこる。
 そんなことを考えながら、とはいえ自分の空腹はなんとかしたいところだしと、ターミナルのショッピングモールへ目をやった瞬間、家路を急ぐ人々の群れがうごめく惣菜売り場が視界をさえぎった。いつもならちょっと大げさにため息をついて、彼女を別のどこかへ誘うところだけど、この状況でため息は禁物だよな。
「じゃ、ホームの売店でなにか買うよ」
 できるだけ優しく、ゆっくりと彼女へ告げ、軽く手を握る。思いかけないことに、彼女は驚くほどしっかりと俺の手を握り返した。
 恋人同士のように指を絡ませ、改札を超えて広い通路へ入ると、駅弁をずらりと並べた売店がある。自分だけはしゃいでしまうのもどうかと思いつつ、盛り上がるテンションを抑えきれない。
 メインの弁当に飲み物、それからちょっとお菓子もほしいなと……
 ゆるんだ頬を隠そうともせず、陳列される様々な弁当をみつめていると、彼女が耳元で「ねぇ、私もお弁当買っていいかな? でも食べきれないと思うんだけど……」なんて、ささやきかけた。
「いいよ、もちろん。なんなら、自分が残りを食べてもいいし」
 食欲が戻ったのか、それとも気持ちが落ち着いたのか、ともあれいっしょに食べるのは嬉しいことだ。結局、自分は浮世絵風の紙に包まれた深川稲荷の助六弁当を、彼女は「旅のおともはこれなの」と言いながらシウマイ弁当を選ぶ。さらに彼女は激辛スナックと魚肉ソーセージ、そしてビールまで買い、なんか煽られた気分で自分もお茶とコーラを買ったら、ビニール袋はすっかりパンパンだ。
 手のひらに食い込む袋の重みと反比例するかのように足取りは軽く、彼女に続いて乗車する。車内で荷物や上着を片付けると、席についた彼女はまた俺の手を握った。
「すこし、こうしててくれるかな?」
 俺は無言でうなずき、ほんのかすかに握り返す。
 まさか、家のトラブルでもないだろうが、どちらかといえばクールな彼女からは想像しにくい甘えん坊ぶりと思わなくもない。ただ、こういう時、下手に動くと事態を悪化させるのみなので、手をつないだままタブレットでネットをサーフィンしはじめた。
 俺と彼女を乗せた新幹線は、定刻通り進んでいる。
 いくつかの駅に停まり、俺の腹も限界に達したころ、どちらからともなく「そろそろ、たべよか?」と互いに微笑みかける。
 さっそく袋を開け、それぞれ弁当のつつみをほどくと、楽しげな旅の雰囲気もひろがった。

 彼女が選んだシウマイ弁当は自分も大好きで、俵状に型押しされたご飯や仕切りを隔ててちょこんとならぶシウマイたちの姿が目に入れば、それだけでも気分がウキウキしてくる。そんな、他人の弁当を横目に嬉しがってる自分のさもしさを気取られぬうちに、気持ちを切り替え目の前の深川稲荷助六弁当に集中した。
 ジャンボサイズといっても良さそうなほど大きないなり寿司は上を開いた五目スタイルで、酢飯に乗せられたアサリと刻みネギが強烈な深川感を醸している。となりの太巻き寿司は対照的に卵焼きにかんぴょう、しいたけなどの伝統的な姿だが、かいまみえるでんぶの紅みは、ケチらずていねいに作られたことを示しているように思えた。そして、助六寿司ならかんぴょうの細巻が収まってるだろう場所にはエビフライと唐揚げ、そして小さなにぎり飯まで顔を並べている。
「ほぅ、これはボリューム満点だな……」
 ニヤケ顔を引き締め、まずはいなり寿司と対面する。なにしろかなり大きいうえ、アサリやネギも乗ってるので、慎重に箸でつまみ、片手を添えながらそっと口へ運ぶ。食べた瞬間、アサリの出汁と醤油、そして生姜の味、香りがぱぁっと広がった。覚悟していたよりもはるかに甘さは控えめで、すっきりした味わいが食欲をそそる。とはいえ、やたら大きいので、崩さず食べるのは至難の業だ。
 きれいに食べようなんてのはさっさと諦めて食いちぎり、残り半分を蓋にのせる。バラけた油揚げにアサリやネギが崩れかかり、なんとも無残な有様となったが、まぁやむなしだろう。ともあれ蓋を皿に見立て、崩壊したいなり寿司を平らげる。次に太巻きへ取り掛かるが、こちらは対照的に甘い。よく考えればかんぴょうにしいたけ、でんぶと甘い具が多い上、卵焼きまで甘めの味付けだ。酢飯はさっぱりした関東風だからバランスは取れてるけど、ややまとまりに欠けるような気もしなくはない。ただ、のりが味も香りも良く、文字通り巻き寿司をしっかりまとめ上げているのは、さすがというかなんというか。
 お茶で舌をリセットしつつ、こんどは唐揚げを口に運ぶ。
 うむ、ごく普通の弁当から揚げだ。小さな鶏もも肉にちょっとスパイシーな薄い衣は、ホカベンやコンビニ弁当でもおなじみの味。それでも肉が柔らかめで、鶏ももの味もしっかりしているのは駅弁の矜持かもしれない。ただ、これまた小さなにぎり飯をほおばりながら、ここで急に日常がもどっちゃったなと、そんな事も考える。
 付け合せはガリとポテトサラダか……。
 日常ついでにポテサラをひとくち、再び弁当をざっとながめる。
 ひと通り食べて、これからの組み立てを考えつつ、彼女のシウマイ弁当をちら見した。おや、けっこう快調に食べてるじゃないか?
「どう?」

 彼女はちょっと照れくさそうに笑い「なんかね、食べ始めたら思ったよりおなかすいてたなって。食べたと言ってもちょっとだったし、時間も経ってるし」なんて、妙に言い訳めいた言葉をポツポツこぼす。
「えぇやん、食欲もどったのはえぇことや。たべたべ」
 わざとらしく年寄り口調を真似た俺に、彼女は苦笑とも堪え笑いともつかない表情で小さくうなずいた。
 ということは、シウマイ弁当は計算から外してよいな。さて、こんどはエビフライから太巻きと、逆にたどってみようか。そんなどうでもいい計算をめぐらせながら、俺はまたゆっくりと食べ始める。やがて、コンビニとファミレスの日常から、太巻きがたぐりよせる祝い事の思い出を経て、しょうがのさっぱりした刺激と煮しめたアサリの味わいが心地よく調和する深川いなりの終幕を迎えた。
 さて、となりの客はよく弁当食ってるかな?
 彼女へ目をやったら、待ち構えていたように「干しあんず、いる?」と、いつもの笑顔で迎えてくれる。彼女は弁当箱をかたむけ文字通り杏色の、赤味がかった黄褐色のかたまりを俺に向けるが、ご飯とシウマイが消え失せた一方、やたらとおかずばかり残っているのはかなり不自然だ。
「ありがとう。ちょっと甘いものが欲しかったところだけど、おかずは食べないの?」
 怪訝顔の俺に、彼女はあっけらかんと「あぁ、ビール飲むから、そのおつまみ」なんて言い放つ。あっけにとられる俺を知り目に彼女は弁当の包みを広げ、その上で慎重にビールの缶を開けた。
 プシュッと景気の良い音を響かせ口から吹き出る泡を、ためらいなくじゅぶじゅぶとすすった彼女の口元には、お世辞にも上品と言えないビールひげがまとわりついている。
「だってさ、どう考えてもおかずが多すぎるでしょ。シウマイ弁当って」
 言いながらたけのこの煮物をひとくち食べ、さらにビールをあおる。俺も干しあんずを口に放り込みながら、大きくうなずいて賛意を示した。
 それから彼女は鮪の漬け焼やから揚げ、魚肉ソーセージなどをつまみにロング缶を空にし、俺もコーラを開けて激辛スナックをほおばる。
 にしても、今日のテンションは妙だな……。
 やっぱ、家でなにかあったのか?
 それとなくでも探りを入れようかと思い始めたところに、彼女は俺の方にもたれかかりながら「ごめんね、今日は特に不安定で……男の人にはわからないと思うけど、そんなときは人恋しく甘えたくなるの。わるいけど、すこしつきあってね」なんて、やたら艶っぽい声でささやきかける。
「もちろんいいよ。大丈夫、だいじょうぶ」
 やさしく彼女の手を握りながら、耳元でそっとささやく。
 彼女は不意に俺を引き寄せ、顔を寄せてきた。さっと周囲をうかがい、俺はかすかに唇を当てる。応えるように彼女は力いっぱい俺を抱きしめ、唇をこじ開けるように舌を入れてきた。
「うっ! カラッ!」
 とっさに顔を離し、くわぁっと目を見開く彼女に、俺はただ激辛スナックの空袋を指差す。
 彼女は再び俺と唇を交わし、意味ありげに「ついたらシャワー浴びずにしてね、私も口でするわ」と笑った。

 目的地に到着すると、駅ビル直結のホテルへ急ぐ。
 そして部屋へ入ると、彼女の言葉通りドアの前で互いに舌を絡ませ、あわただしく服を脱ぎ始めた。ベッドへ向かう道中、彼女は当たり前のように浴室のタオルを持ってくる。もちろん、俺はその使いみちを知っていた。
 雑念を払い、無の境地で交わる。やがて、彼女の筋肉が激しく収縮し始めた瞬間、太ももと膣が同時に俺の尻と肉棒を締めあげる。下腹に生暖かい潮の奔流を感じながら、俺も最高のタイミングで放つ。そして、神経を焦がしひりつく多幸感と、妙な達成感に包まれていった。
 快楽に酔いしれ、このまま賢者の眠りへダイブ出来たら、どれほど素晴らしいだろう。
 そんなことをぼんやり考えつつ、呼吸を整えながらだらだらしていると、腹の下でなにかがゴソゴソし始める。
「重い……」
 慌てて彼女から俺の根っこを引きぬき、両腕のタオルを解く。良かった、特にすれてはいないようだ。股間のゴムが垂れ下がって来たので、急ぎティッシュへくるむ。彼女の下腹部へはタオルをあてがい、尻の下へ出来た池にティッシュをかぶせる。俺も股間と内ももを拭き、ついでに陰毛のしずくも拭い去る。
 わずかに目を離したスキを突いて、彼女が丸くなっていた。寝入ってしまう前に立たせて、風呂場へ連れて行く。シャワーを浴びれば、少しは目も覚めるだろう。軽く汗を流した彼女と入れ替わりに、自分もさっと体を洗う。寝部屋へ戻ると、タオルを巻いた彼女がのんびりドライヤをかけていた。
 明日は早いので、俺もパソコンは立ち上げずにタブレットで軽く済ませ、彼女のスキンケアが終わり次第、寝ることにする。電気を消すと、なんとなく甘い雰囲気になって、気がつけば抱き合ったまま眠っていた。
 
 朝、隣に彼女の姿はなかった。
 
 あわてて身体を起こすと、トイレから水の音が聞こえ、枕元の目覚ましも鳴り始めた。お互い「いい腹時計してる」と笑いあいながら、順番に顔を洗って身支度をはじめる。俺は用事があるわけでもないので、簡単に着替えてカメラの電源やメディア、端末を準備すれば、それでほぼ終わり。
 彼女はスツールに陣取り、化粧の真っ最中だ。やがて、グレーのパンツスーツをかっこ良く着こなした彼女と、見知らぬ街へ繰り出す。朝日を浴びる彼女を「おぉ! まるで弁護士か政治家のようだ」と褒めたら、どうもよろしくなかったらしい。珍しく、なにも言葉を返さなかった……。
 彼女はまっすぐ中央口からタクシー乗り場へ向かい、俺を先に押し込むと運転手へ「地裁。本町まわらんで、まっすぐ」と告げた。俺は好奇心を握りつぶし、なんとか無表情を装うことに成功したと思う。車はまだ交通量の少ない表通をすんなり進み、思ったよりもかなり早く着いた。
 地裁の少し手前で車を降り、信号を渡ったところで、彼女が「始まるの一〇時だから少し早いけど、手続きや調べものもあるし、ここでいったん解散にしていい?」と言うので、終わったら電話で連絡を取ることにした。俺は目の前にある公園へ向かい、写真を撮りつつ散歩してなんとなく時間をつぶす。歩いていると休憩所が目に止まったので、スタンドの観光地図をもらい、つらつらながめると由緒有りげなお寺が意外と近い。これは行くしかないだろうと、カメラを担いで歩き出した。
 途中の市役所が良い雰囲気なので、取り留めもなく数ショットほど撮る。道路を挟んで寺があるはずなのだが、大きなビルしか見えない。嫌な予感を抑えつつ信号を渡ると、目の前にそびえ立つのはホテルだった。
 こらあかん……。
 日本人はどうしてこうなんだろうとか、そんなことをあれこれ思いつつ、好奇心に任せてビルの隙間から裏へ回ると、そこには寺がある。もしやと思い案内板を読むと、ここが目当てのお寺であった。感慨というかなんというか、微妙な気分に浸りながら、思いつくままシャッターを切る。どうも宿坊がホテルになったようだが、それにしたっていかにも鉄筋コンクリートでございますってビルを建てなくても良かったろう。
 そうこうしていると端末に彼女から着信あり、出ると声が妙に明るく弾んでいる。よくわからないが、自分もなんだか嬉しくなった。
「いまどこ?」
「市役所前のお寺です」
「え、聞こえない?」
「しやくしょのおてらだよ!」
「わかった、じゃそっち行くわ」
 寺で待ってるといったものの、具体的な場所までは決めていなかった。再び着信あるかと思っていたら、意外にすんなり現れた。ちゃんと決めなかったので、不安だったと話したら、タクシーの運転手に教えてもらったらしい。とりあえず寺の裏から外へ出たら、そこは商店街だった。
 お昼には微妙に早いが、腹も減っているからなにか食べようと、メガネ屋や楽器屋が立ち並ぶ通りを眺めつつ歩く。俺は狐丼が食べたいので、和食か蕎麦屋が望ましいと伝えたら、彼女もにしんそばを食べたがったのですぐに話しはまとまった。
 商店街をあてもなく歩くと、角にいかにも昭和の定食屋然とした食堂が見える。分厚くホコリをかぶったウィンドのサンプルを見ると、にしんそばはあっても狐丼は見当たらない。ただ、衣笠丼と表示された狐丼めいた品がある。彼女はこの手の店が好みのようで、既に入る気持ちが顔一面にみなぎっていた。俺も好奇心をくすぐられたので、ここは衣笠丼でも大丈夫と告げ、煤けた暖簾をくぐる。
 店内は赤いビニルがけの丸椅子に合板のテーブル、油がしみた壁に貼り付けられた品書きと、昭和テーマパークか映画のセットかと思う有り様で、奥にある液晶テレビの違和感がすさまじい。とはいえ、モダンな液晶テレビが映しだすのは高校野球の泥臭い応援合戦だから、やはりここは昭和テーマパークだ。
 彼女は嬉しげに「ここは私がおごるわ!」と言ってくれたので、有り難くごちそうになる。衣笠丼の大盛りとにしんそばを注文すると、あとは待つばかり。彼女はなにか話したげで、自分も好奇心旺盛な猫が脳内でにゃぁにゃぁうるさかったが、口火を切りそこねている間に料理が届く。箸は何処かと探したら、卓上にワリバシとマジックインキで書かれたレバーを見つける。恐る恐るレバーを押したら、青いプラスチックの小箱から割箸がポロリと転がり出た。
 衣笠丼は甘辛の油揚げと九条葱を卵で綴じてあり、どうみても狐丼の別名としか思えない。良く言えば大衆的な、悪く言えば安い料理ではあるが、卵とだしの香りにどことなく懐かしさを感じるのは、店の雰囲気がもたらす魔法だろうか?
 菜っ葉と豆腐の味噌汁をひと口すすって、いよいよ衣笠丼へ挑む。
 あぁ、これは狐丼だよ、ちょっとばかり上品だけど。出汁をたっぷり含んだ甘辛い揚げに絡む、卵の優しくて庶民的な味わいが俺の気持ちを和ませる。ネギの甘味に隠された、そこはかとない辛味も気持ち良い。付け合わせのたくあんもやや甘めだが、ここまで来るといささかくどい。ただ、そのくどさは優しさと隣合わせで、たぶんそういうところも含めて庶民の味なのだろう。
 あっさりと完食し、昭和テーマパークとは思えないほど深い味わいの煎茶を飲み、ふと奥のテレビを見やると、延長二死満塁で押出しサヨナラ四球の瞬間だった。
 彼女が会計を済ませたら、衣笠丼はにしんそばの半額程度だったらしい。思いのほか安かったので、彼女は帰りの新幹線で食べるお菓子までおごると言ってきかない。彼女は彼女で、大きな缶ビールに柿の種やさきイカを買い込み、すっかり出張帰りのオヤジモードだ。
 彼女は上機嫌だったが、帰りの新幹線でも特にその話はしなかったし、俺も訊かなかった。取り留めもない話をして、軽くネッキングして、ほほにキスして、それでおしまい。最後に、彼女は「あなたのそういう所、大好きよ」と言ってくれたのだけど、それがどういうところなのかは、いまでもわからない。
 ただ、別れ際に「弁護士はともかく、政治家はありえない」とぼやいていたのは、後々まで印象に残り続けた。そうか、本気で怒ってたんだ……。

第5話 地域振興事業臭がかすかに漂う雪見鍋

 週末から連休明けまで降り続き、俺の気分も行楽地の景気もすっかり冷え込ませた雨が止むと、空気までどことなく寒々しくなっている。ネットの広告も、おでんや鍋物がやたらと目についた。とはいえ、手元の電気土鍋は独り鍋だと微妙に大きく、ほとんど使ったことがない。かと言って、最近流行りのひとり用電気土鍋を買っても置く場所がなく、おなじように持て余すのがわかりきっていた。
 となると、次にやることは決まっている。そう、ソーシャルやリアルのフレンドを誘って鍋を囲むのだ。ただ、夏にふたりで小旅行を楽しんだ彼女は、最近ちょっと忙しい雰囲気なので遠慮する。
 朝食のシリアルをかっ込みながらアドレスを確認し、ひとりひとり顔や身体を思い浮かべながら、メールやメッセを送信した。最後に、その電気土鍋を部屋においていった女性への、ダメ元メールがちらと頭をよぎる。指は律儀にキーボード上で待機していたが、思い出を壊す可能性を考慮するとやめておいたほうが無難と判断し、ホームポジションへ戻した。子供じみたときめきに、午前中の仕事は手につかない。やがて、遅めの軽い昼食をとったあたりから、ぽつりぽつりと返事が届き始めた。
 最初の返信こそ不着通知だったが、それはさておき他の反応は悪くない。とは言え、返信してくれたというだけで、誘いに応じるフレンドもいなかった。いずれも申し訳なさそうな、あるいは残念そうな気持ちのこもった文面ではあったが、やはりちっとも嬉しくない。
 夜には海辺の彼女もネットにあがるだろうし、鍋には誘わなくてもいいさ。
 それとこれは別の話だ。
 気のおけない関係の心地よさに甘えながら、とりとめない雑談で鍋から気持ちを切り替えよう。
 いつもの時間にログインしてきた彼女へ挨拶から当たり障りない範囲の近況報告、軽いネットゴシップのコンボを決めると、会話が回り始めた。きっかけは、ポータルサイトのどうぶつニュース。彼女が犬を飼っているのは知っていたが、思ったよりも動物全般が好きで、なんだかんだ言いつつネイチャーフォトにも興味があるような素振りを見せていたことを思い出し、軽く写真話を試す。これがスベるどころか大当たり、ナショナル・ジオグラフィックの特集からネイチャーフォトグラファーの様々な作品まで一気に盛り上がってしまい、むしろこちらがたじろぐほどだった。
 チャットで動画や静止画のアドレスを送ると、びっくりするほど熱心に見ている。そんな彼女とのやり取りで、自分まで盛り上がってしまう。最初は声をかけまいと思っていた気持ちの行き場を求めて、結局は彼女を誘いたくなってしまった。夜も更けて、そろそろお開きにしようかという頃に、いかにも何気なさそうに「近いうちに、部屋で鍋でもどうよ?」と送ってみた。もちろん、他に声をかけまくったことは伏せつつ、それでも彼女は察しがよいので感付かれないよう慎重に、たったいま思いついたかのように装いつつ話す。
 しかし、彼女の返事もまた、あまり思わしくはなかった。秋は子供らの学校行事もあって忙しく、なによりもちょっと短期間に会いすぎてるというのが、彼女の返答だった。そう、確かに最近は彼女とばかり遊んでいたし、それも基本的に彼女がこちらへ来ていたから、時間的にも金銭的にも負担をかけていたのは間違いない。だから、その時はまぁしかたないなと、あっさり引っ込めた。
 とはいえ、それで話が終わるというわけではないのが、彼女との関係が続く理由だ。それから、なんとなく季節の料理とか限定のお菓子とか、取り留めもないトークがだらだら続く。そして、いつの間にやら希少動物密輸や取締官の話から、国際犯罪組織の暗躍、そして彼らのサディスティックな行為へ、だんだん淫らな言葉が飛び交い始めた。それは、俺が話をその方へ仕向けたというわけでもなく、なんとなく薄ぼんやりとした、彼女の話題やダジャレ、ほのめかしを受け流している間に、気がつけばそうなっていたのだ。
 むしろ、そろそろ話をたたむつもりで誘ったところから、思いのほか引っ張ってしまったので、俺のほうがだんだん心配になってきた。既にかなり夜も更けてきたが、彼女の朝は早く、そしてかなり忙しいから、こちらから話を切り上げたほうがよいような気にもなる。しかし、そう思いながらも切り上げるタイミングが見当たらないほど話は楽しく、そして盛り上がっている。
 俺が出した話に彼女が別の話題をかぶせ、あるいは切り返し、そして俺も応える。その繰り返しがたまらなく楽しく、そして尊い。そう、尊いのだ。そこにあるのは、恋人たちのじゃれあいではない、深夜のファミレスでくだらない話を熱く語るような、時間を無駄にする快楽がある。さらに言うなら、時間だけは余っている若者が、その価値を理解できないまま、無為に浪費してしまうような切なさすらもたない。俺と彼女との間には、時間に追われる大人があえてそれを無駄にする快楽が、奢侈と言ってもよいほどの傲慢さも含めて、間違いなく存在していた。
 しかし、その無意味に豊かで、意味を持たないからこそ価値を持つ時間にも、限りはある。深夜アニメの次回予告が流れ始める頃合いになると、さすがの彼女も眠くなってきたようだ。それでも、大丈夫かと声をかける俺に「明日の午前は余裕あるから、家族を送り出したら二度寝する」と、のんきともやけっぱちとも取れる言葉を返す。そして、いよいよ接続を切ろうかという段になったタイミングで、俺のメッセウィンドへ「鍋ならこっちでどうよ?」との文字列が表示された。
 慌てて返事しようとした俺のレシーバに、今度は「ちょっと行きたい店があるから、後でメールする。気に入ったらお返事くださいな」と冗談めかした声が届き、切れる。ふと画面をみると、そこには「オヤスミなさい」のスタンプが静かに微笑んでいる……。
 寝て起きて軽く仕事して、昼飯を食ったら彼女からメールが届いていた。
 メールには、彼女宅付近に新規開店した精肉会社のアンテナショップや店のサイトアドレスと、そこで食べた豚鍋が大変に美味しかったことが記されており、おそらくその時に食べたのであろう豚しゃぶの画像も添付されている。こういう丁寧さと事務的なところの同居が、俺にとっては心地よい距離感を醸していた。
 ただ、問題は物理的な距離で、移動時間とプレイ時間を考慮すると、ほとんど始発で出発しなければならない。まぁ、これまでは彼女が移動などのコストを負担していたのだから、文句をいう方がどうかしているのだろうが、それでも早起きは心理的な敷居を高くしている。手をマウスからキーボードへ移してもなお、返事を決めかねている俺がいた。彼女のメールを読みなおしたところで、なにかが変わるわけもないのだが、それでも踏ん切りをつけようと再び表示する。
 文末まで落ち着いて読み進めたら、最初は飛ばしていた追伸を見つけた。

「今度は、もっと激しく襲われてみたいな」

 末尾にはハートマークも添えてある。ここはドクロか手錠を添えて欲しかったかと、そんなことを思いながら、指先は半ば自動的に返事を入力していた。
「ブタ大好きなんだよ! 行く行く! 楽しみ!」
 結局、俺は決して性欲に勝てないんだと、そんなことを思いながら返事を書き上げ、送信する。夜には待ち合わせの日時やらなんやら具体的なやりとりして、そわそわした数日間があっという間に過ぎ、当日の朝を迎えた。

 久々に海辺の駅へ降り立つと、思いのほか人影が多い。ホームへ急ぐ通勤通学客をかき分けるように駅前のロータリーへでて、待ち合わせの駐車場へ向かう。最初の時とは違って、今回はすぐにわかった。ただ、俺が助手席に乗り込むとすぐ、無言で車を出すのは前と同じだ。
「朝は食べた?」
「うん、子供といっしょに。親が食べないと食べないから、うちの子たち」
「そうなんだ。俺も食べた。軽くだけど」
「じゃ、打ち合わせ通り」
「先にプレイ」
 ハモらなくていいところのような気もしたが、つい彼女と合わせてしまった。いや、彼女が合わせたような気もする。彼女が朝割やってるモーテルを知ってるので、この際だからお任せする。それにしても、ほんとにあれこれよく知ってるとは思うが、そこがまたこの上もなく可愛い。
 もちろん彼女がどのようにしてそれを知ったのか、そんなことは聞かないし、詮索もしない。ただ、彼女が自分で場所を決めたこと、そして俺と楽しむ気持ちになっている、それで十分だ。
 そんな、どうでもいい思いをもてあそんでいる間に、車はモーテルのビニールのれんをくぐった。彼女は目ざとく停めやすい部屋を見つけ、手早く荷物をまとめて車を降りる。街道沿いのモーテルは初めてじゃないが、来るたびに好奇心を刺激され、今日もついついはしゃいでしまった。
 ただ、今日は自分の趣味よりも設備の確認を優先しなければならない。荷物を置くと、真っ先に風呂とトイレをチェックした。どちらも新しめでやけに広く、トイレも水洗便座付き。ほっとして振り返ると、彼女は軽く自慢げだ。
 まぁ、そういうところを選ぶよな。
 プレイの前に、まず女から話を聞いた。

 シチュエーションの希望はあるのか?
 あるなら、それはどのような内容か?
 そんなあれこれから、プレイ内容を組み立てる。どうやら彼女は悪者に捕まってレイプされる流れを想定していたようだが、着衣を切り裂いてよいかどうかや、拘束の程度までは詰めていないようだった。
 プレイ用の衣装は用意していないので、彼女には着衣を脱いでシャワーを浴びるように指示した。その間に、俺はざっくりと拘束の算段を組み立てる。いつもは麻縄で緊縛したり革手錠で拘束するのだが、いずれも用意してなかった。ただ、部屋にはマッサージチェアにオプションパーツを取り付けたような拘束椅子があり、つまりはこれを使ってくださいというわけだ。
 彼女を追って風呂場へ入ると、ふたりで湯船に使って体を温める。それから彼女を椅子にまたがらせ、プレイしやすいようにマットや頭の位置を調節しつつ、お尻をぐっと上げた。

 それからのひととき、俺と彼女は新しい世界を探検し、知ることのなかった快楽に酔いしれる。そして、すっかり眠り込んでしまう。遠くに聞こえる車の音や鳥の鳴き声が、やわらかく俺を包み込んだ。

 いや、この音はなんだ? 近いな?

 枕元で犬が吠えている!
 あわてて身体を起こすと、彼女の端末にアラームが表示されていた。彼女も起きて「ほんと、危なかったわぁ」とぼやくようにつぶやきつつ、大儀そうに音を止める。時間を確認すると、手早くシャワーを浴びれば昼に間に合いそうな感じだ。むしろ、思いのほか眠っていなかったことに驚きながら、自分の端末でも表示を確認する。ネットゲームの時間限定ミッションを逃したのはちょっと痛かったが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 ふたりでぱっぱとシャワーを浴び、それぞれ身支度をはじめる。聞くとはなしに「いつの間に目覚ましセットしたの?」と聞いたら、俺が寝たあとで起き、時間だけセットして寝落ちしたらしい。音源は彼女の愛犬で、あの声を聞くと、どんなに眠くてもたちまち起きるそうだ。たしかに、自分も一発で目が覚めた。
「あの声ってかわいいでしょ。散歩を待たせた時の」
 どうやら、彼女が加工して音量も大きくしたらしいが、音が悪くてかわいいというより恐ろしげ。ただ、彼女は全くそう思っていないようで、アラームに登録したのも、別に脅かす意図はないようだった。
「あの声を聞くと、パッと目が覚めるのよ。連れてかなきゃって」
 本当にあの声で吠えているのなら、彼女の家族や近所の人は大変だろうと思うが、とりあえず流して会計を済ませる。荷物をまとめて車に乗ったら、いよいよ豚鍋だ。身体には微妙なだるさが残っていて、もしかしたら豚肉はいささか脂っこすぎるような気もするが、それよりとにかく腹が減っていた。
 車は殺風景なバイパスから降り、田んぼの中を突っ切って、雑木林を分け入る切通を超えると、不意に巨大な豚の看板が見えた。ナイフとフォークを持つコック姿の豚が『ふれあいポークパークへようこそ』と微笑む、典型的な共食い看板だ。これはよい!
 砂利を敷き詰めた駐車場に車を止めると、彼女は軽く腰をさすりながら降りた。
「痛む?」
「いや、痛くはないけど、なんかちょっと変な感じ。今日はついでに散歩もいいかなって思ってたけど、やめといたほうが無難かもね」
 彼女も快楽を貪ったとはいえ、さっきはかなり無茶したし、悪い事しちゃったかなと思いつつ店へ向かうと、極太明朝で『衝撃的の辛味! 本場中国産花椒使用!』と威圧的に大書されたノボリが、妙になよなよした丸ゴシックで書かれた『仔ブタさんとふれあうキッズパークはこちら』のノボリと、交互に林立している。
 豚しびれ鍋がこれのことだったら、さっきみたいなプレイだと、その前日でさえ控えといたほうがよいだろう。それよりキッズパークのノボリは離したほうがよいんじゃないのかと、そんな下らないことを気にしつつ店に入ると、客は誰もいなかった。大丈夫かと不安が頭を過るものの、あちこちのテーブルには食器や鍋が残っていて、ホールスタッフが片付けの真っ最中。ちょうど入れ替わりの時間らしく、窓口には誰も居ない。彼女は慣れた様子でスタッフを呼び、空いた席へ案内してもらう。
「流石、タイミングピッタリだね」
「前はこの時間も混んでたのよ。平日だし、この辺の人は一巡しちゃったから、少ないだろうと思ってたけどね。ちょっとびっくりしたわ」
 返しにくい地元話を受け止めかね、じわりと微妙な空気が流れ始めたところへスタッフがお冷とメニューを持ってきたのは、ほんとうに助かった。炙って木目を焦がした板に貼り付けられたメニューには、ロース豚しゃぶと塩豚しびれ鍋、野菜たっぷりモモ肉ポトフ、そしてバラ肉の雪見鍋が並び、他はドリンクとデザートという、ちょっと思い切った構成だ。サイドメニューにはソーセージ盛り合わせなどのおつまみもあるにはあるが、あくまでもメインは豚肉の鍋物という意図が感じられ、この段階で既にテンションが上がってくる。
 彼女におすすめをたずねると、どれも美味しいけど豚しびれ鍋はまだ食べたことないということだった。とは言え、さすがにアナルプレイの後で激辛山椒鍋は、肛門への雪詰めに匹敵するダメージが予想されるため、彼女が少し前に食べたばかりの豚しゃぶを回避して雪見鍋となる。ただ、雪見鍋の品書きには地元の新鮮な水菜と大根をふんだんに使用し、魚介出汁と特産の醤油で濃厚なばら肉をまろやかに仕上げましたとあり、魚介出汁と豚バラの相性にはいささかの不安が感じられなくはなかった。
 ライス付きのランチ鍋セットを注文すると、まもなくスタッフがテーブルの蓋を開けてコンロを用意し、冷奴を持ってきた。鍋が来るまで手持ち無沙汰だし、豆腐でも食べようかと醤油へ手を伸ばすと、彼女が「豆腐は鍋に入れても美味しい」と止めに入る。そういうものかと思いつつ手を引っ込めると、タイミングよく鍋が来た。コンロの火をつけながら、スタッフは「オロシはすぐにお持ちします」と念を押す。たしかに、大根おろしが乗っていなくても美味そうで、これはフライングする人も多かろうとも思った。とはいえ、大根がなければただの常夜鍋でしかない。
「オロシをお持ちしました!」
 大きめのステンレスボールを持ってきたスタッフが、妙な形のザルを取り出して鍋にかざしつつ「大根の汁をお入れします」と、大根おろしをトングでザルへ押し込み始めた。鍋に汁がぼたぼた垂れ、大根の香りがふわふわ広がる。それにしても、やけに強く押しこんでいると思ってたら、スタッフは器用にザルから取り出し、富士山状の大根おろし塊に醤油をかけた。黒褐色の筋がついた白い山は、なにか見覚えがある形だ。
「これ、もしかしてウリボウ?」
「う~ん、前はトラ猫だったと思う」
 あまり深く考えないことにした。
 とはいえ大根が煮えすぎるとよくないので、せっかくのうり坊も別の皿へとりわけられてしまい、様子を見ながら少しずつ投入する。豚バラは微妙に厚めで、スーパーの薄切りとサムギョプサルの中間程度だ。程よく火が通ったところで水菜と大根おろしを包むようにバラ肉をつまみ、まずはポン酢で食べてみる。ちょっとさっぱりしすぎてて、パンチが効いた豚バラの歯ごたえとは合わない気がした。ならば、醤油だ。
 地元の特選醤油をちょいと付け、なにも考えず口の中へ放り込む。

 あぁっ、これはご飯がほしい!

 微妙に辛めの濃い醤油が豚バラの脂身が持つやや甘い味わいを引き出しつつ、大根おろしのさっぱり感や水菜のシャキシャキ感を調和させる触媒の役割も果たしている。だがしかし、それだけに口に残る後味もいささか濃い。ここは飯で中和したい。早く、早くご飯が来ないだろうか?
 いや待てよ、俺の眼の前にある白い直方体。それは豆腐!
 あぁ、なるほど、これは豆腐が必要だよ。ちょっとばかり下品だけど、ここは豆腐を椀に入れ、たまった肉汁や醤油と混ぜて食べよう。魚介出汁をたっぷり含んだオロシに絡む豚の脂と醤油が、豆腐の味わいを引き立たせる。と思ったら、豆腐からもしっかりとした大豆の味わいを感じる。お品書きを読むと、これも地元の豆腐屋から来ていた。地産地消ってやつなのだろうが、やっぱり土地の食い物を地元で食べるよろこびはある。
 そうこうしているとご飯が来て、いよいよ本腰を入れて食べはじめた。いやはや全く、この美味さは大したもんだ。微妙に厚い豚バラが、噛む度に満足感を増幅させる。舌と歯に神経を集中させて、黙々と箸を動かす。ふと彼女を見やると、呆れたように俺を見つめていた。
「美味しい?」
「うん! すごく! 連れてきてくれて、ほんとにありがとう」
「どういたしまして。私の方こそありがとう。美味しく食べられてよかった、ほんとによかったわ」
「どうしたの?」
「あなたがそういう人ってわかっていても、つい不安になっちゃうのよ。食べてる時の顔がね……」
 そう、俺が飯を食ってる時は基本的に無言で、顔もしかめている。彼女がそれを心配する度に心の底から申し訳ないと思うのだが、どうにもやめられない。ただ、ここで変にすまながったり、まして言い訳なんかしたら最後、どうしようもなくこじれることは学習していたので、精一杯の笑顔を作って「ありがとう、美味しいよ」とだけ返す。
 会計を済ませ店を出たら、駐車場へ大型バスが入ってくるところだった。俺でも知ってる日帰りツアー会社のバスから降りて来るのは、昭和の生き残りめいた老人たちばかり。楽しげにざわつきながら、そろって仔ブタさんとふれあうキッズパークへ向かう。
 仔豚と遊んだ流れで豚鍋に舌鼓をうつ老人というのは、ちょっとばかり趣味が悪いような気もしなくはなかったが、そこは考えないのが大人というものだろう。むしろ、ツアー客が来るようなら、経営も安定してよかったというものだ。
 そう、俺もたらふく食ったんだしな。
 彼女の車へ乗り込もうとした時、不意にブタ臭いゲップが出た。

第6話 世界の表面

 薄明かりの彼方、水の音が聞こえたような気がして目覚める。傍らには、タオルをまいただけの彼女が立っていた。見知らぬ天井を見上げ、ここにいる意味をそっと思い出す。幸か不幸か、それはほとんど全て覚えていた。だが、その記憶はわずかな安酒が刻みつけた眼球の奥底を締め付ける悪酔い、なにもできないまま眠り込んでしまった夜の苛立ちを引き剥がさねば読み取れない。処刑人に促される末期の告解を口にする方が、まだしも易かった。やがて彼女は我が家にいるかのような気楽さで、景気良くドライヤーを使う。そう、ここは彼女が住む海辺の町だ。

 余白が目立つ、素っ気なさすら感じるシンプルなラベルのボトルには、飲みきれなかった白ワインが半分近く残っている。柔らかな光をきらめかせる干し草色の液体は、落ち着いた表面の下に粗野なまでの荒々しさや刺々しさ、軽薄な若さを隠していた。スクリューボトルで助かったと独りごちたら、不意に「料理には使える」と合いの手が入る。栗色のショートをラフにセットした彼女は、腰掛けながら「それに、燻製よりずっとマシだったし」とスモークオイスターの空き缶をつついた。缶底にたまった油の表面がゆれ、うすにび色のかげろうがあらわれきえる。

 缶詰のスモークオイスターは、ゆで卵の白身をだし汁に漬けたスポンジでくるんだような代物だった。健康への不安をかき立てるにび色の油をみなくても、口に入れる直前まで放たれていたはずの食欲を刺激する濃厚な芳香が舌へ乗せた瞬間に消え失せ、味のないぐんにゃりしたなにかを飲み込んだ後にはかなりきついメタリックな刺激を残す、珍味としての可愛げすらない厄介さはたちどころによみがえる。ただ、その牡蠣燻製と銘打たれた怪しげな代物がどうにも手におえないことを認めたのは、辛子とかき醤油とプレーンの三種全てを試したあとだった。

 それでも残さず食べたのは、まず彼女が楽しげだったから。俺がワインや牡蠣燻製を口に運び、しかめつらしく味を言葉にすると彼女はほほえみでかえし、しまいに「あなたがほんとうに美味しくない時の顔をみられて、わたしはうれしかった」と締めくくった。もうひとつは彼女が持参した黒パンとソーセージ、チーズで、牡蠣燻製の食感や味気なさに足を引っ張られながら、かなりのところまで立て直してくれたのは正直ありがたい。パンの酸味とチーズやソーセージの塩気、牡蠣燻製の油と中年にはタフすぎる食事だが、最後は満ち足りた気分で眠りについた。

 季節はずれのリゾートホテルは、朝から異邦人の家族でごった返す。異国の暦は秋の休みらしいが、彼女にとっても夫と子供から離れて密かな楽しみに耽溺する、またとない機会だった。ロビーの楽しげな人々やおぼつかないツアー客を集めて号令する添乗員に混じってチェックアウトした彼女の足元を、のぼせ上がった子供が駆け抜ける。思わず「大丈夫?」と声をかけたら、口元だけで笑う彼女が「どってことないわ」とだけ、素早く応えた。続けるかのように、低く「うちの子はこんなもんじゃなかったし」とつぶやく彼女の表面からはなにひとつ読み取れない。

第7話 1979年の渡し船

 年末も押し詰まって金融機関の営業日を確認すると、せわしない気分を超えた諦めが漂い始めた。あれほど騒がしかったクリスマスさえ、すっかり正月が上書きしている。さっき窓口が閉まったばかりと思ったのに、外をみたらすっかり暗くなっていた。暖房の設定を少し強めながら、夕食の算段を組み立てる。
 ソーシャルメディアにさみしい心を抱えた娘たちが現れるまで、まだしばらく余裕がある。いや、しばらくなんてもんじゃないな。料理して食事して風呂に入って、それからでも少し早いくらいか?
 しょうがない、映画の配信でもチェックするかと専用ブラウザを立ち上げたら、あまり使っていないソーシャルアカウントにメッセが届く。しかも、友達じゃないアカウントからのリクエストだ。好奇心と警戒心のせめぎあいは、今回も好奇心の圧勝だった。誰が見てるわけでもないが、露骨に顔をしかめつつ表示をクリックする。
「お正月はひま?」
 眉間のシワをさらに深く寄せながらメッセージウィンドウを全選択するも、本当にそれだけのメッセージらしい。ここに至って送信アカウントを確認したら、おやおや海辺の彼女じゃないですか?
 アイコンやプロフ画像では顔を隠しているが、抱いている犬と首輪に見覚えがある。
 苦笑しながら「ひまっすよ!」と返信しつつ、すかさず友達申請もクリック。
 ところが、次に受信したのは「使ったらアカウント捨てるの。申請しないで」といった微妙な文字列。ともあれ、相手が海辺の彼女とわかれば話も早い。そこから先はいつものように他愛もない話をはさみつつ、手際よく密会の日程を調整していく。
 正月に夫と娘が義父母とリゾートへ出かけるため、海辺の彼女はひさびさにのんびりできるらしい。羽振りのよい義弟から向こう持ちで合同家族旅行に誘われたようなのだが、それを蹴って独り正月を決め込んだと思われる。大丈夫かと思わなくもなかったが、当人が「それはあうんの呼吸」というのだから、まぁそういう関係なのだろう。
 俺の部屋やモーテルで慌ただしく身体を重ねるような逢瀬も、それはそれで楽しいのだが、家族を離れてゆったりした時間を過ごせる機会はなかなか得難く、飛び交うメッセージも熱を帯びる。流石に外泊は無理だが、朝に最寄り駅で合流してホテルへ向かい、身体を重ねたりランチを食べて楽しんだ後は海辺をドライブなんて、やり取りしているだけでも気持ちが高まってしまう。
 要領よく必要な情報を共有したら、そこからはいつものようにイチャイチャトークへなだれ込む。まぁ、じゃれあうような語り口でも、口頭での通話と文字の会話は本質的に異なる。表面的にはそっけない言葉がならぶものの、リプライのタイミングや顔文字で甘い空気を仕込ませる遊びは相変わらずだ。やがて、話題がロシア沿海州の日本車から当日のドライブコースへ差し掛かり始めたころ、ふっと彼女の言葉が途切れる。
 家族か、子供でも帰宅した? それとも来客か?
 いずれにしてもおとなしく待とうとネットサーフィンしていたら、アカウントの表示がおかしい。再読込をクリックすると……。

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 捨てるの、思ったより早かったな。
 もちろん、あらかじめわかっていてもこの流れは穏やかじゃない。相手によっては、かなりのいらだちを感じていただろう。しかし、彼女だからなんの不安も心配もない。むしろ微笑ましく感じつつ、彼女と家族との関係に思いを馳せていた。

 そして、そのまま何事もなく大晦日がやってきて、カウントダウンに沸く人々を撮りながら新年を迎えた。わけのわからない高揚感を抱えたまま帰宅し、シャワーも浴びず仮眠しただけで出かける。初詣客や徹夜テンションのにぎやかな若者たちをかわしながら朝の電車に滑り込むと、そのまま寝てしまった。
 ふとおきたら、窓から差し込む朝日がまぶしい。
 そろそろ乗り換え駅だ。アラームなしに寝過ごさなかったのは、単についていただけ。でも、とにかく支度をはじめる。カメラや小物など忘れないよう座席周りを確認してから電車を降りると、乗り換え列車の到着時刻とホームをなんども確かめた。元旦の特別ダイヤではあったが、幸いにも乗り継ぎ列車はさほど待たずにやってくる。
 さてさて四人がけのクロスシートは何年ぶりだろうか?
 ちょっとした旅の気分にひたるまもなく、ふたたび睡魔が襲ってくる。とはいえ、流石にここで寝てしまうとやばい。ふらつきながら目的地までがんばり通し、駅前ロータリー立つサビまみれの非核平和都市宣言看板を横目でみながら、待ち合わせ場所のコンビニへ急ぐ。やがて、大型トラック用のスペースもある広い駐車場の手前に、初めて会ったときと同じシルバーグレイのワゴン車がみえた。
 いつものように助手席側へまわり、まず後席へカメラやらバッグやらをわさわさ入れてから、彼女の隣へ乗り込んだ。
「相変わらず大荷物ね」
 おどけ口調で呆れ顔の彼女に「今日はたっぷり楽しみたいから」と返しつつ、シートベルトを締める。
「あれ? 今日ってそういうプレイだったっけ?」
 誘いボケか天然か、ギリギリのラインへ言葉を放り込む彼女の茶目っ気は、自分の緩急をわきまえないヲタトークが放つ臭みをかなり軽減してくれる。まぁ、もちろん中和とまではいかないけれど、うかつな言葉を口にした俺自身がうんざりしてしまうような自家中毒は、ほとんど発生しなくなっていた。
 運転席の横顔は、初めて会ったときと同じショートヘア。まぁ、目尻や首筋に年齢を感じなかったかといえば、それは嘘になってしまう。もちろん、それは浮かれ気分の俺もそうだ。そして、このワゴン車も少しくたびれて来たような、そんな気がしなくはない。とはいえ、彼女のスラリとした長身は相変わらずで、以前に「散歩すると犬のほうが先に音を上げてしまう」と言っていた足腰の強さも健在のように見える。ただ、犬が先に音を上げたのは散歩だけではなく、寿命もそうだった……。
 もちろん、犬を亡くしてからしばらくの凹みようは大変なもので、ペットロス症候群が心配になるほどだったが、なんだかんだで立ち直ったようだ。現在はまた別の犬を飼っている。プロフ画像で抱いていた犬がそれで、車内は相変わらずケモノの臭がする。バックシートにも小さめのドッグケージがみえたが、流石にデートへは同伴させないようだ。
「お昼はショッピングモールで買うか、フードコートでいいかな? この辺ってさ、お正月にやってるお店ないから」
 苦笑する彼女へ曖昧にうなずきを返しながら、気がつけばすっかり眠っていた。

 ぷにぷにとほほをつつく指の感触で目を覚ます。

「ついたよ」
 いたずらっぽく微笑みかける彼女の眼差しには、うっすらともやのような不安、あるいはいらだちめいた影がよぎる。
「声かけたけど、起きなかったから……」
 ごめん、ごめんと頭をかきながら、都心でカウントダウンの様子を撮影していたことを話す。わざとらしいほど大げさにあきれた顔を作りながら、彼女は「だから、そんな大荷物なのね」と納得した風情。いや、帰宅はして仮眠もとったんだよとか、どうでもいいことがあたまをよぎったが、カメラバッグはそのまま持ち出していることに気がつく。言葉を口の中で噛み潰しながら車の外を眺めると、すでにバイパス沿いのモーテルだった。
「もしかして、お昼も買ってある?」
 もちろんとうなずく彼女へ、やや平謝り気味に頭を下げたら、ぜんぜん気にしてないから大丈夫と大笑いされた。どうも地元の人はあまり来ないモールだから大丈夫かと思っていたら、正月のせいか駐車場に近所の車が何台か見えたので、そのまま寝かしておいたということらしい。いちおう、残って愛犬のお世話って建前だから車は大丈夫だけど、流石に男連れは不味いからね……と彼女。
「もし、買い物中に俺が起きたら、どうするつもりだった?」
「横に私がいなかったら、まずメッセ飛ばすでしょ?」
 最初から答えが出ていた問いかけをあっさりかわして、彼女はぱっぱと車を降りる。そしてスライドドアを開け、後席の買い物袋を取りながら「自分の荷物は自分で持ってね」と、目元をいたずらっぽく細める。俺も急いで車を降り、後席を開けてバッグやカメラを引っ張り出した。車庫から部屋へ向かう階段を登りながら、先をゆく彼女の豊かなお尻にいやらしい眼差しを無遠慮にそそぐばかりか、口元までだらしなくゆるんでいる自分に気が付き、流石にちょっとどうかと思いはじめたころには部屋の前だった。
 青緑の灯火が怪しく輝く室内で、勝手を知ったふたりはそそくさとコートを脱いで荷物をまとめ、なにごともなかったかのように抱き合う。そして、逢瀬を重ねることなく過ぎた日々なぞ、あたかもまったく存在しなかったかのように、激しくむさぼる中にも互いへのいつくしみや思いやりのこもったくちづけを交わす。

 行為の後始末を終え、なかば習慣のように肌を寄せながら、どちらからともなく手のひらを重ねる。暖房を十分に効かせた室内で、薄っすらと汗ばむ彼女のうなじにくちびるをはわせながら、半端に高ぶった気持ちとは裏腹に、まだ力を取り戻せぬままのペニスを持て余していた。
「もっかい、するの?」
 背中越しに聞こえる彼女の声には、どことなくしないことへの期待というか、無理はするなとたしなめているような、そういうやわらかな含みをはらんでいるかのように聞こえた。いやいや、以前なら言葉より先に手が伸びていたのだから、その意味は考えるまでもなく明らかだった。もし、俺のイチモツがその気だったら、じゃれて遊びながら彼女の気持ちを高めるのも悪くはなかったろう。
 しかし、それは別世界の俺。こことは異なる時間が流れる世界の俺が考えることで、それは決していまじゃない。

 結局、ふたり別々にシャワーを浴び、遅めの昼食となった。

 モーテルのガラステーブルいっぱいに、やたらつややかなソーセージや有頭海老のフライ、生ハムにパテと言ったオードブルセット、黒豆、きんとんなどがならび、飲み物の置き場に困るほど。しかし、やっとの事で作ったすきまは、ローストビーフのサンドイッチが埋めてしまった。
「ずいぶん盛り沢山だね」
「なんか、へんにテンション上がっちゃってさ」
 冷蔵庫から炭酸水やソフトドリンクを取り出しながら、無理にぜんぶ食べなくてもいいよと彼女は笑った。彼女から炭酸水を分けてもらい、プラコップで乾杯。そして、あけましておめでとう。
「初めてじゃない?」
「あれ? いってなかったっけ?」
 車に乗ってから起こされるまで、記憶がほとんどないことにいささかばかりの焦りを感じながら、反射的にとぼけてみる。
「うん、言わなかったね。待ち合わせもいつもどおりだったし」
 あからさまに笑いをこらえつつ、それでも真面目な顔を装って、彼女は妙にきっぱりと返す。続けて「眠かったんでしょ?」と、微笑みながらウェットティッシュで指先をていねいにぬぐうと、ぶ厚いサンドイッチへ手を伸ばした。
「食べましょ」
 うなずいて、俺もサンドイッチをひと切れつまむ。
 きれいに焼け目がついたホットサンドのライ麦パンにあしらわれた寿のプラピックを抜き取り、ぎっしり詰め込まれた中身をこぼさないよう、慎重にかぶりつく。チーズと肉の間には、辛子を効かせたサウザンドアイランドソースのコールスローが収まっていて、塩気をいくらか抑えるとともに食感へ心地よい変化を与えている。
「これって、もしかして?」
「具はローストビーフだけど、ルーベンサンド仕立てだと思う。ニューヨークスタイルが売りのお店だから」
「まぁ、缶詰じゃない塩漬けのコンビーフは馴染みがないからね」
 うなずきながら、彼女は「お正月だからってのもあるけど、ローストビーフのほうが豪華で、それに塩気も薄いからこっちの人の口にあうと思うのよ」と、もっともらしく重ねた。
「にしても、ボリューム満点だね」
「こんな機会でもなければ、こういうこってりしたのが食べられないのよ。すまぬ」
 いちおう申し訳なさそうな素振りは見せるものの、俺が異を唱えるはずなどないことはわかっているはずだ。いや、むしろ好きな方だし、量にしたって食べきれないほどではない。ただ、お互いにわかっている間柄だからこそ開き直るわけでもなく、ましてあなた好みのお惣菜を選んだなどと見苦しく恩を着せるわけでもない。彼女は自分自身が食べたいと思ったものを、自分のお金で買ってきた。もちろん、それには眠っていた俺の分も含まれているのだけど、実のところもののついで以上でも以下でもない。
 そういうフラットな関係だからこそ、これまでなんとなく続いていたのだろうし、たぶんこれからも……。
 とは言え、気になるところがないわけではない。
「いいけど、ダンナって他人の食事にくちだすようなキャラだったっけ? そりゃ、焼鯖寿司とかが好きで、肉類や揚げ物はあまり得意じゃないっぽい感じだけど、なんかあったの?」
 こういう関係だから、相手のパートナー問題には最大限の注意が必要なのだけど、ここは聞いていおいたほうが良いだろう。それも遠回しにではなく、ストレートにたずねる流れだと判断した。
「いやいやぁ、彼じゃないんだよねぇ」
 なぜかやたらと嬉しそうに彼女は語尾を伸ばし、そしてもうひとりの予想された人物を口にする。
「彼の妹のご主人様がね、こういうのを食べてるとあれこれうるさいのよ」
「え、ご、ご主人様?」
 しかし、確かに予想された人物ではあったが、その内容は全く想像の外だった。
「揚げ物とか肉料理とか食べてるのが義弟の目に入るとさ、食べても太らない方法を教えてやれって言うのよ」
「教えて、やれ? って、誰に」
「そりゃ、彼の妹。つまり義理の妹にね……」
「はぃぃ?」
 こらえきれずに変な声を出してしまったが、彼女はむしろ意を得たと言わんばかりに笑顔で大きくうなずき、ちょっと早口にそれまでのいきさつを説明し始めた。
 夫の妹、つまり義理の妹はいささか小柄でぽっちゃりした感じらしく、それはスリムなうえに背も高い彼女とはあまりにも好対照なばかりか、しかもそれを義妹のご主人様がしつこくネタにするのだと。それだけでもかなりうんざりする話なのだが、義弟は彼女が揚げ物や肉料理を食べるたびに「……ちゃんはそういうの食べてもぜんぜん太らないって、ねぇ、どゆこと? めぇっちゃすごくなぁいぃ?」と煽るそうだが、それよりも気になってどうしようもなかったのは。
「ちゃん? ちゃん付け?」
「そう、それも初対面から」
 思わず天を仰いでしまった。
「で、義妹さんもちゃん付け?」
「ううん、呼び捨て」
「呼び捨て? 義姉の前でも?」
「そう……最初に目の前で呼び捨ててたときは、反応できなかったぐらい。あまりのことにね」
「やれやれ、どんな教育を受けてきたのやら」
「エリートよ。それもかなりの」
 亭主関白どころか男尊女卑と言っても良さげな彼女の義弟は、都内の進学校から有名私大を出て中堅地銀へ入行、勤務の合間にコネを形成し、現在はやり手の不動産ブローカーと、絵に描いたような起業家であり、あきらかに成功者だった。
「もしかして、義弟さんはパートナーにご主人様って呼ばせてるの?」
 流石にそれはないと彼女が手を振りながら答えたとき、正直なところホッとする自分がそこにいた。彼女の義妹は配偶者をさん付けで呼ぶらしいが、義弟の秘書が義妹へ夫のことを伝える際にご主人様と呼ぶらしいのだ。例えば、間食してる義妹を「ご主人様に見つかったら、また怒られますよ」とたしなめたりとか、そんな調子らしい。
「それはもはや秘書じゃないんじゃない?」
「でしょ、しかも秘書が義弟を呼ぶのはさん付けなのよ。秘書が義妹と話すときだけご主人様なの」
「え、ちょっとわからないんだけど?」
「でしょうね。私も最初は意味がわからなかった。その秘書とやらは私の夫までご主人様なんて言うものだから。流石にそれはやめろっていったんだけど、あまり伝わってないっぽい感じなのよね」
 全く面識のない人々の伝聞でしかないのだが、少なくとも俺はお近づきになりたくないし、彼女が心底うんざりしていることにも深く共感できる。そんなふたりと家族で旅行なんか、お金をもらっても御免こうむりたいだろう。
「でも、そんな調子だったら、娘さんが気がかりじゃない?」
 彼女は「まぁ彼も一緒だし、大丈夫だと思うから送り出してるんだけど……」とため息混じりに首を振り、さらに「いちおう娘の前でだけは義妹を呼び捨てにするなと義弟に釘は刺したし、娘にも我慢できなかったらひとりで帰っといでっていいふくめた」なんて、仕方なさげにつぶやいた。
「それにしても、妻を呼び捨てにするような、オーイのひと言で台所からビールや酒肴をとってこさせるような、そんな人達から逃れたくって勉強もしたし、相手も選んだつもりだったんだけど、なんだかね。ちょっと遠回りしただけだったんじゃないかって、そんなこと思っちゃうのよね。最近……」
 深い溜め息を漏らす彼女に、俺はぷっくりと皮まで張り切ったソーセージに粒マスタードを添え、穏やかに「まぁ、美味しいものでも食べて、また仕切り直そうか?」と微笑みかけることしかできなかった。

 とはいえ、その後も行為の機運は盛り上がらず、いちゃいちゃと体を寄せ合ったりしたものの、それは甘い快楽への期待ではなく、苦い失望と孤独な戦いに疲れた人間が求める肌のぬくもりでしかない。そして、冬の陽が落ちる前にと、少し早めにモーテルを出た。ここまではいつもとおなじ、セフレデートだが、今日はちょっと違う。
 あらかじめ、彼女から「どこでもいいは、なし」と釘を差されていたので、夕食までの時間を計算しつつ、ネットで面白げな場所をピックアップしておいた。ただし、地図で見かけた渡船の文字に惹かれただけで、正月に運行しているかどうかすらチェックしていない。地図サービスのパノラマビューやネットで拾った周辺の画像、口コミと表示されるどうでもいい情報がいくつか、俺が知っているのはそれだけだ。ただ、それでも「渡し船があるんだってね」と言った俺に、彼女はふっと懐かしそうな眼差しを虚空へ漂わせ、そして「じゃ、いってみよっか」と即決した。
 道順が決まると彼女は迷わず車を進め、ほとんど会話らしい会話もしない間に港湾地区然とした倉庫や工場が見えてくる。
「このまま道なりに進むと、トンネルなのね。でも、渡し船はこっち」
 そう言いながら、彼女は整備された広い道から、安アパートや寂れたコンビニがごちゃごちゃと立ち並ぶ、やや狭い道へと車を進めた。やがて、かつては小さな商店街だったであろうシャッター通りの隙間に点在するコインパーキングのひとつへ車を停め、後席から引っ張り出したダウンジャケットを着込むと、やたらと元気いっぱいに「さっ! いこっか?」と片手をあげた。
 駐車場から通りへ出た途端、小雨まじりの冷たい風が吹き付ける。俺は予想もしていなかったほど楽しげにスタスタと先をゆく彼女を追いかけながら、最初の角を曲がるころには、早くも来たことを後悔し始めていた。
 そして、まったく人影のない街を抜けた瞬間、ひらけた視界の向こうに川が見える。
 信号を渡ると、そこは船着き場だった。
 まさに桟橋から離れんとする渡し船の船尾をみながら、彼女は「残念、ちょうどいま出たところ」とつぶやいた。
「お正月も運行してたんだ」
「まぁ、さっきのトンネルもあるにはあるんだけど、渡し船のほうが便利だったり、安心だったりするのよね」
 当たり前のように話す彼女へ、つい「安心?」と聞き返してしまったが、決してわかりあえないものへ投げかける、すべてを諦めたような微笑みを振りまくばかり。やがて「地元にはいろいろあるのよ」と言いながら、船着き場の待合室へ入っていった。

 入口付近の券売機で切符を買い、時刻表を確認する。次の便までは十分ちょっと。人気のない部屋では、柵の中に鎮座する円柱形の石油ストーブが、懐かしい匂いと心地よいぬくもりを放っていた。温かい飲み物でも買おうかと、壁際の自動販売機をながめたら名物おでん缶ありますなんてポップが貼ってある。
 うわ、懐かしい!
 これは買わねばと勇んで探すも、肝心の商品が見当たらない。他の自販機も確認したが見当たらず、ねんのため最初のポップを読み直すと、すみっこにはほとんどはがれかかっている『終了しました』なんて紙切れが。やるせない気持ちを持て余しつつ、仕方がないのでホットココアを買ったところに、間もなく次の便が到着すると案内が流れる。
 係員が船着き場を仕切っていた鎖を外すと、いつの間にか集まっていた数人の人々が桟橋へ急ぐ。到着した船からも数人の乗客が降りてきて、船着き場はにわかに活気づく。破魔矢など縁起物を抱えた親子連れの姿もあり、正月らしい光景が広がり始めた。
「向こう岸には神社があるの?」
「うん。ただ、あそこは二年参りの神社だから、午後にお参りする人はめったにいないけどね」
 神社に二年参りと初詣の別があるというのは、正直なところ初耳だったが、問い返す間もなく乗船が始まる。船着き場がしっかり整備されていたことからなんとなく想像していたが、渡し船と言ってもれっきとしたディーゼル船舶だった。乗ってみると、甲板《デッキ》の中央に島状の客室《キャビン》があり、その周辺から船尾にかけては遊歩道《プロムナード》構造という遊覧船仕様で、船尾も客室と舷側に沿ったロングベンチ以外は広く空いていることから、テーブルを出せば船上パーティーもできるように見えた。
 そう言えば貸し切りのお知らせなるポスターが待合室の壁にあったが、それは渡し船のことだったんだな。せっかくだから、値段や利用条件など読んでおけばよかった。
 どうでもいいことを考えている間に、ディーゼルのうなりとともに船が動き始める。
「冷めるよ。座ってココア飲も」
 あきれ顔の彼女にうながされ、船尾のベンチシートへ腰掛けた。
 みるみるうちに船はくるりと舳先を回し、対岸を目指し進んでいく。川と言っても海から深く入り込んだ河口部なので、幅は3から400メートルほどもあろうか。いちおう、乗船時間は約三分ということだった。
 冷めかかったココアを飲みながら、川岸の倉庫や水産会社の建物をながめる。ときおり吹き付ける冷たい川風に顔をしかめながらココアを飲み干すと、カメラを取り出して岸辺の風景を写真に収める。古いレンズがもたらす色のにじみをふくんだ電子ビューファインダの映像は、船の動きに合わせてゆっくりと流れ、とらえどころのない幻めいていた。
 ほんの一回か二回ほどシャッタを切ったと思ったら、早くも対岸への到着を告げる案内が流れた。
「降りるよ」
 置き忘れていたココアの缶を持ってクスクス笑う彼女を追うように、カメラを抱えながら船を降りる。みると、こちらの船着き場はやけに真新しく、待合室の暖房も新式の空調が設置されているようだ。さらに、部屋の一部はパネルなどが設置された展示空間となっているようで、外からも歴代の渡し船らしき写真が見える。
 好奇心に満ちあふれた目線をパネルへ注ぎ込んでいると、彼女が声をかけてくる。
「見に行く?」
「行ってもいい?」
 ふたりの声とまなざしが交錯すると、抑えた笑いがそれに続く。俺と彼女はうなづきあい、行きがけの駄賃にココアの缶を捨てながら展示パネルへ向かった。
 意外と言っては失礼だが、展示空間はこういうところの相場をはるかに超える充実ぶりで、写真や解説に加えてケースには桟橋や渡し船の模型まで展示されている。率直なところ、思いかけない掘り出し物に巡り合った気分だ。
 渡し船の歴史から運行母体の紹介、乗客数の推移などから、歴代船舶の写真を楽しんでいると、ひとつの新聞記事が目に入る。それは1979年に就航したうめ丸のお披露目と、その最後を伝える地元紙の記事だった。
「これ、知ってる」
「でしょうね。かなり話題になったから」
「結局、見つからなかったんだ……」
 見出しに亡失認定と記された小さな囲み記事を読みながら、俺は小さくつぶやいていた。
 数年前、超大型の台風でこの付近が大きな被害を受けた際、無人の渡し船が流出した事件については、ネットでもかなり話題になっていた。そのため、自分もいちおうの事実関係ぐらいはなんとなく把握していたつもりだったが、記事を見るまではそれが結びついていなかった。まだ、ネットやソーシャルメディアにも好事家の遊び場めいた空間が残っていた頃の事件で、自分の中のやんちゃな気持ちともゆるやかに結びついている、そんな出来事だ。
「そういや、誰かが係船索を解き放ったとか、船に乗っていずこかへ去ったとか、都市伝説もいくつかあったねぇ」
 考えなしにノーテンキな言葉を口にした途端、彼女の冷たい目線が突き刺さる。
「そんな噂があったんだ。でも、ここじゃ口に出さないほうがいいね。それ」
 ほとんど初めてみるような、彼女の真剣きわまりない表情に、俺は片っ端から言葉を飲み下す。
「振興事業でだいぶきれいになったけど、このへんはいろいろ複雑な土地だからね。あまり変なこと言っちゃだめよ」
 続けてダメを押す彼女に無言でうなずき、ころんだやんちゃ坊主のように擦りむいた気持ちを抱えながら、なんとか顔を上げて船着き場をあとにした。
 船着き場の周辺はきれいに整備された遊歩道と親水公園になっているようだが、あいにくと入り口は閉ざされ、フェンスも厳重に施錠されている。彼女は「川沿いの反対方向には古い区画が残っているけど、道を入ったところの市営住宅には近寄らないでね。特にカメラを持っていると、よくないから」と低い声で告げ、回れ右をして歩きはじめようとする。
「そんなに神経質なの? ここの人たち」
「まぁ、いろいろあるし、いろいろあったのよ」
 声を潜めてため息をつく彼女へ、俺は精一杯の笑顔を作りながら「じゃ、無理に撮らなくていいよ。来たばかりだけどもどろうか? 雨も降ってるしさ」と返し、また船着き場へ戻った。
 またしても船は出たばかりのようで、待合室には誰もいない。もしかしたら、こちらにはおでん缶が残っているのではないかと、未練たらしく自販機へ向かう俺の後ろから、彼女は小さく「ごめんね、せっかく来たのに」とつぶやいた。
「いいんだよ。気にしないで」
 振り向きながら俺は応え、そして「でも、いつか機会があったら、話を聞かせてくれないかな? その、いろいろってのをさ」と、ぼんくらな中年男にしか許されない無邪気な好奇心を丸出しにして言葉を続けた。
「いいよ。いいけど、いつ?」
 つい母親の顔になって応えてしまう彼女に、俺は「明日もすることないんでしょ? これから俺の部屋とか、どう?」と畳みかける。しかし、彼女は母親の顔のまま「だめよ、帰ったら犬の世話をしなきゃならないんだから」と、諭すように俺の子供じみた欲求を切り捨てていく。
「連れてきても、いいんだよ」
 往生際の悪い俺に、彼女は残念そうな笑顔で「だめだめ、犬のお泊りがどれだけ大ごとなのか、わかってないでしょ? 晩御飯を食べたら、今日のところはお開きね」と、小さく、しかしきっぱりと答えた。
「わかった……」
 ふたたびおでん缶を探しにかかった俺に、彼女は近寄りながら耳元へささやく。
「ごめんね、でも今夜は美味しい魚を食べて、楽しく過ごしましょ。そして……」
「そして?」
 彼女はいつもの陽気な笑顔で「明日、またね」と、快活に答えた。
「えぇ? 明日って、大丈夫?」
「うん、うちの子、ロングドライブは大丈夫なの」
「ということは?」
「車でもお昼前か、遅くてもご飯時までにつくと思うから、なにか用意しててね」
 食べるのはランチだけじゃないよなと、くちびるの先まで出かかった品のない言葉を飲み込んで、俺も快活な笑顔を返す。
「ありがと、楽しみに待ってる」
「いいのよ、私の方こそ感謝してる。それよか、なにか自販機で探すんじゃないの? 早くしないと船が来るよ」
 おどけ気味に急かす彼女の言葉を背に、俺は自販機の飲み物たちへ目を走らせる。しかし、気持ちは既に明日のドライブ、そして彼女との楽しい時間へ向いていた。

第8話 圧力鍋とシスターフッド

 彼女が部屋へ入ったとき、俺は豆を茹でていた。
 しゅぅしゅぅと湯気を吹きながら楽しげにからから小躍りしている鍋のオモリへ、実質無料をうたう携帯キャリアの呼び込みに投げかけるような、ショットグラスいっぱいほどの冷え切った不審へぬるいいらだち数滴をふくませた眼差しを送りつつ、彼女は台所から奥の寝室へ進む。なにか気の利いた言葉でもと思わなくはなかったが、とっさにそんなセリフが出てくるような俺ではなかったし、ジャケットを脱ぐ彼女の背中にもそういうのはいいからと書いてあった。
 ふらふらと彼女の背を追いかけた俺を、タイマーの電子音が台所へ引き戻す。コンロの火を止めたところへ、すかさず「あれ、やんないでよ。ピュゥゥゥゥっての」と彼女の鋭い声が突き刺さる。
「わかった、わかった、大丈夫ですよ。急減圧はしないから」
 ずいぶん前だが、やたらと圧力鍋の湯気や音を恐れる彼女へ、不意にオモリを抜いて急減圧なんてイタズラを仕掛けたのだが、実際に人間が飛び上がって驚くところを目の当たりにしたのはその時が最初で最後だ。あまりのうろたえぶりに心配して、すぐ慰めたからなんとかおさまったものの、しばらく経って「あのときは本気で別れようかって思った」なんて聞かされたほど。
 だから、圧力鍋のなにが彼女を怯えさせるのか、いまだにわからないままだ。
 ともあれ、こうして彼女とは別れずに続いているし、俺も圧力鍋を使い続けている。もちろん、彼女が来るとわかっているときは使わないようにしているが、今日のようにたまたまかち合ったとしても、せいぜい完全偽装の狙撃兵を観閲する女王陛下のような表情で見つめられるくらい。少なくとも、なにか文句を言われるようなことはなかったし、俺も彼女を刺激するようなことはしていないつもり。
 そんなわけで、彼女も俺もじわじわと蒸気を噴き存在感を示す鍋にはあえて触れず、むしろ吹っ切るように楽しくみだらなひとときを過ごした。
 ふたりの年齢や、つきあいの長さを考えると、いささか以上に激しい行為を終え、そしてそれぞれの経験やふたりの時間を重ねたがゆえの思いやりと気遣いに満ちた時間が始まる。薄く少ない精子を受け止めたゴムやディッシュを始末し、寝床で肌を寄せ合いながら甘く唇を寄せ合ったり、たがいにそっとなであったりしながらクスクスと笑い、言葉にならない気持ちを交わす。やがて、どちらともなく立ち上がり、浴室へいざなう。
 狭い浴室でふたり、寄せ合うようにシャワーを浴びると、先に出た俺は体をふきながら彼女へタオルを手渡した。頭と体に柔らかい布を巻いてくつろぐ彼女の姿から、体を交えてきた年月の積み重ねを感じるほどに、その変化が愛おしく、また同時に奇妙な誇らしさすら覚える。腰にバスタオルを巻いただけの俺は、ずり落とさないよう慎重にコンロへ歩み寄り、いつものように「なにか温かいものでも飲む?」と彼女へ声をかけた。
「あ、うん、いいや。いまは冷たいものがほしいな。それより、その鍋だけど……」
 前半はともかく、後半の言葉にはすっかり不意を打たれた。もちろんその鍋が意味するのは、彼女をいつも怯えさせる圧力鍋でしかない。嫌な予感しか覚えないが、とはいえここで黙ってしまったら、おそらくはもっと悪いなにかが立ち上がるだろう。
 そんな、彼女の思いもかけない反応にうろたえながら、かろうじて「これ?」とコンロに鎮座する大きな圧力鍋へ顔を向けた。
「そうよ、それ」
 当たり前のように圧力鍋を指差しながら、彼女は「あのさ、それってやんなくてもいいの? あのピュゥゥゥゥっての」とひどくつまらなそうに、だが擬音へ怒りとも憤りともつかぬ力を込めて俺を問い詰めた。
 いいか? 決してやましいと思ってはならない……。
 俺は自分に言い聞かせながら、できるだけ冷静に、ゆっくりと、低い声で「調理内容によるね」とだけ応えた。だが、彼女は俺の動揺など感じなかったかのように、むしろどことなくほっとしたようにさえ聞こえる話しぶりで「じゃ、料理によってはあれやんなくてもいいんだ」と続ける。
「うん、多少時間はかかるけど、ほっとけば自然に減圧するよ」
 うかつ!
 彼女の口調に厳しさが感じられないことに安心し、考えなく言葉を軽く口にした瞬間、俺は自ら墓穴をほってしまったと気づく。そう、あの日、わざわざ急減圧などやらなくてもよかったのを、自分からばらしてる。彼女の恐れを知っていたなら、むしろ避けるべきだったのだ。ところが、彼女の反応は俺の恐れと無関係な、まったく予想もつかないものだった。
「じゃ、うちでも使えるかな?」
 そこで緊張の糸が切れた俺は、ちょっといいなと思っていた相手から推しの話を振られたオタクよりも早口で、圧力鍋にはオモリ式とスプリング式があり台所にあるのはオモリ式だけど音が気になるならスプリング式が良いこと鍋の材質にはアルミとステンレスと複合素材があるけどそれぞれ利害得失あるから調理内容に応じて決めること調理内容といえば鍋の大きさだけど……などなど話し始めたところで、彼女から「いや、そのへんはネットで調べたから大丈夫」と、あっさり止められてしまう。
「じゃ、なんで聞いたの?」
 もってまわった会話の罠ではないことをようやく確信しつつ、口先で率直な疑問を言葉にする。

「調理動画もいくつかみたんだけど、どれもしゅぅしゅぅ湯気立てて、しかも加圧工程はカットしちゃって、いつの間にかロックを外して蓋が開くのね。知りたいところがわかんなかったからよ」
「もしかして、買うの?」
「うん、そのつもり。贈り物だけど、たぶん家でも使うと思う」
 最後に話が見えなくなった。
「その話、興味もってもいい?」
「もちろん! でも、その前になにか冷たいものちょうだい」
 冷蔵庫のグレープフルーツジュースを受け取ると、いつも落ち着いている彼女には珍しく、推しの話を振られたオタクのような満面の笑みを浮かべ、やたらもったいつけながらうたうようにしゃべりはじめた。
「娘の彼氏がすごく料理好きなのね。で、彼に圧力鍋をプレゼントしようと」
 聞いて、即座に浮かんだのは彼女の母親が少年へ贈るには、ずいぶん重い品ではなかろうか? という疑問というか、不安のようなものだった。しかし、とりあえずそれは飲み込んで「ずいぶん仲がいいんだね」などと曖昧な相槌を返し、彼女に話を続けるよううながす。
「もちろん、娘との仲は最高にいいの。でもね、娘との間もそうなんだけど、単に仲良しとか、気が合うとか、そういうんじゃないのね。彼ってさ、女の機嫌が悪い時にちゃんとフォローしてくれるの。それもただのご機嫌取りとか、甘やかすんじゃなくってね!」
 推しのよさを語るオタク顔負けの勢いと熱気と圧を感じながら、同人誌に出てくる魔性のショタみたいだなとか、そんな決して口に出せない思いをもてあそぶ。馬鹿げた上に下品なちゃちゃはともかくとして、彼女がうっとりと語りたくなる気持ちは、俺にも十分すぎるほど伝わっていた。
 そもそも、不機嫌な他人をフォローできる男性自体が、極めて少ないのだ。まして、それが他者との接触経験を積んでいない少年ともなれば、まれに見る天才と言ってもよいほどだ。いや、それでもチームスポーツなどを通じて不機嫌な目上の男性をフォローできるようになった少年なら、まぁ学年にひとりくらいはいなくもないかもしれない。
 しかし、彼女が圧力鍋を贈ろうとしている少年は、驚くべきことに不機嫌な女性のフォローができるのだ。女性の社会進出が進んだこのご時世だが、それでも世の中の大多数は不機嫌な人のフォローは女性がするものなんて思い込んでいる、いやその自覚すらないままに不機嫌な自分を周囲の女性にフォローさせようとする男性はうんざりするほど多い。その点を考えると、文字通りかけがえのない逸材であろう。
 そりゃ彼女の認識が本当なら、熱く語りたくもなろうというものだ。
 そのあまりの熱さに、かすかな危うさを感じないといえば、それは嘘になる。特に彼女がしみじみ「女が不機嫌になってしまったとき、男まで機嫌を悪くするでしょ。それも原因が男にあったときは、なおさら。まぁ、あなたは違うよ。落ち着いて様子を見てくれるし、フォローすることもあるから。でも、娘の彼氏は違うのよ。フォローするだけじゃなくて、それが的確で、しかも素早いの」なんてつぶやいたときは、さっきから渦巻いていた決して口に出せない思いがあげ潮のように押し寄せ、危うく口から溢れ出すところだった。

「ふふ、大丈夫よ。あなたの妄想みたいなことにはならないから。そもそも、年下には興味ないというか、苦手なの。だって、ただでさえ女にフォローさせようとするのに、相手が年上だとなおさら、でしょ?」
 やれやれ、口に出さなくとも顔に出てたらおんなじだよ俺って人間は、なんて腹の中でぼやきながら、なかばやけになって「でも、娘さんの彼氏はあなたが不機嫌なときもフォローしてくれるんでしょ?」などと、どうしようもなくみっともない言葉を口にしてしまう。
 おまけに、俺がどこかのタイミングでその手の反応をすることまで、完全に読まれていたのだろう。いや、もしかしたら彼女のほうが話の流れで誘導したのかもしれないが、ともあれ待ってましたと言わんばかりの笑みで「ちがぅのよぉ」と手を振りながら、話を続けた。
「彼は私がフォローできないところをフォローアップしてくれるの。役割分担というか、娘を間に……変なたとえかもしれないけど、シスターフッドみたいな感じなのよ」
 娘さんの彼氏とシスターフッドとは、たしかに妙なたとえではあった。
 ところがあれこれ話を聞いていると、たしかにシスターフッドというか、年の離れた姪とか出身校の後輩について話すような、そういう雰囲気や関係性が見えてくる。それが、彼女が楽しげに、そしてほんの少し自慢げに話すとおりの、娘の彼氏と大人の女性との肉欲を交えない同志的な関係だったら、それは確かに美しく得がたいものだろう。ただ、俺はバラが美しく咲き乱れていた家で、女主人と若い娘の薔薇色の連帯があっけなく崩れ去った思い出をもて遊びながら、年長者である彼女の思い違いでなければいいが、あるいは家庭かなにかの要因で異常なほど迎合的な人格が形成された少年でなければいいがとか、そんな不吉なことにも思いを馳せてしまう。
 もちろん、彼女の話しぶりからそんなことは全くうかがえないし、面識もない人物の人格を間接的な話だけで想像することの愚かさ、危うさは十分すぎるほど理解しているつもりだ。そんなわけで、俺はその少年が父親を亡くして母親とその姉であるおば、そしておばの子供であるいとこと四人、女所帯にひとりだけの男だから女の気持ちがわかるとか、彼女がその少年とたびたび料理を作っては娘と三人で舌鼓を打つ話をまだらに聞き、断片化された情報を脳内で再構成していた。
 まぁ彼女の話をまとめるなら、たぶん俺の考えすぎだ。年の離れた二人は実際に良い関係を、それこそシスターフッドと言ってよいほどに楽しく、美しい間柄をはぐくんでいるのだろう。
 そんな思いにほのぼのとしていたところへ、思いがけない言葉が飛び込んでくる。
「そんなふうに、すごく感じのいい子よ。でね、彼が圧力鍋に興味あってさ、料理するとどうなるって聞くのね」
 おやおや、それにしてもずいぶん仲のよいことだ。ふっと『怖いからやめとけって言わなかったの?』なんて、底意地の悪いセリフも頭をよぎる。もちろん、それをそのまま口にするほどお子様ではないつもりだが、それでも「怖いって言わなかったの?」とまでは言葉にしてしまう。
「そりゃ怖いよ。でも、我慢できるからここにいるわけだし」
 そりゃそうだな。
 やれやれ、自分の子供っぽさに脇腹を刺されたような気分だった。だが、続けて彼女が口にした言葉は、それのそんな気分を綺麗サッパリ吹き飛ばす。
「でね、お友達が使ってるから、こんど聞いてくるって言ったの」
「え、お友達って? それは?」
「もちろん、あなた」
 おいおいおいおい、相手は文字通り親子ほど年の離れた少年だけど、娘の彼氏じゃないか。たかが圧力鍋に、そんな危ない橋を渡らなくても……。
 呆れとも不安ともつかないなにかに弛緩しきった表情筋を隠すこともごまかすこともできないまま憮然としている俺に、彼女は面白くて仕方なさそうな笑みを交えながら「大丈夫、心配しないで。彼にはすっかり話したから、隠したりごまかしたりしなくていいの」なんて、あっけらかんと言ってくれる。
「でも娘さんは?」
「先に気がついたのは娘。で、彼に相談したっぽい」
 大丈夫でもなんでもないじゃないか。
 なんで俺にひと言……言葉と気持ちを飲み込む。湧き上がるそんな感情を認めたら、俺が俺でなくなってしまう。少なくとも、俺の最も大切にしてきたなにかが壊れる。
 俺はふぅっと深呼吸して、先を続けるよう彼女をうながす。
「最初は私も動転したし、どうしようかって思った。けど、ちゃんと話せばわかる子だったから、もう大丈夫。だから心配ないし、落ち着いてね」
 とりあえず彼女が話すところによれば、変に隠さずありのままを話したことで、娘の彼氏は俺達の関係からなんらかの真剣味を感じ、子供があれこれ騒ぐようなものではないと納得したらしい。いや、うまいこと肉体関係はないなんて丸め込んだだけかもしれないが、俺にとってはどちらでも同じだ。それどころか、もし彼女がその少年と肉体関係を結んでいたとしても、基本的には俺があれこれ口を挟むものでもないしな。
 いずれにせよ、彼女の家庭が落ち着いているなら、それ以上の詮索は無用だし、俺がなにかできるわけでもない。それどころか、この状況で俺がなにかしてしまうと、むしろ寝た子を起こしてしまうような気もする。
 最終的には現場の判断、つまり彼女の考えに委ねる。
 そう決心すると、自分のザワザワしたなにかも落ち着き始めたような気がしてきた。
「まぁ、だいたいのところはわかったわ。ほな、圧力鍋の蓋を開けるところから、動画でも撮りましょか」
 そう言って立ち上がった俺の背中へ「その前にパンツぐらいはいてよ」と彼女の声が飛ぶ。

 彼女がスマホで圧力鍋の動画をいくつか撮り、それからもういちど甘い時間を過ごして俺の部屋を出たのは、夕方近かった。

 それからしばらくして、彼女から「すごく喜んでくれた! 同じのがほしいって言われたけど、どこで売ってる?」なんてメッセを受け取っだのだが、俺のは廃番になって長いし、そろそろ買い換えようと思ってたんだよな。
 さて、どうしたものやら……。

第9話 寒い消化試合を優しく抱きしめた焼きそばの味

 敬老の日というのに、まだセミが鳴いているような連休の昼下がり。俺は海辺の街に住む彼女と体を重ね、絶頂の余韻にひたりながら、心地よくまどろんでいた。
 もう一度、楽しむ時間はあるだろうか?
 彼女の背骨を指でそっとなぞりながら、窓から差し込むの黄色い日差しに目を凝らす。だいぶ傾いてるな……残念……先に彼女が帰る時間を確かめたほうが無難だろう。
 ちょっとつまらないが、こういうときに気持ちを抑えられてきたから、自分と彼女の関係はここまで続いてきたのだろうとも思う。ともあれ、まずはいまの時間を確認せねばなるまいが、いま寝ているところからは時計が見えなかった。彼女の横でごそごそ携帯チェックは無粋もいいところだけど、まぁこの際やむなしかなと言い訳しつつ、枕元のスマホを手にとる。
 やれやれ、思ったとおりのいい時間だ。
 それでも彼女とシャワーを浴び、お茶でもすすりながら軽くだべる時間はあるはず。彼女の肩をさすりながら「そろそろシャワー浴びよう」と声をかけ、ふたたび画面へ目をやったら、プロ野球アプリの通知がどんどん届きはじめる。
「よっしゃ、マジックは減らずと」
 思わず口に出してしまった俺に、彼女は「なにが減らなかったの? もしかして、忙しくなった?」と、やや心配そうに声をかけてきた。
「いや、なんでもない。ただ野球がね」
「野球? ふあぁ、たまにそんな話してたっけね」
「うん、いまはリーグ優勝が決まるかどうかって時期なんよ。まぁ、ここ何年かは球場にも行ってないし、ニュース見るくらいなんだけどさ」
 雑に返しながら枕元へ携帯を放って、さて立ち上がろうとしたとき、彼女の口から思いも寄らない言葉が飛び出した。
「じゃさ、ふたりで行かない? 野球場へ」
「あへ? いまから? なんで? どうして?」
 完全に不意打ちを食らい、奇声を発しながら目を白黒させる俺をみて大笑いし始めた彼女がなんとか収まって、つっかかりながらも説明し始めたのは、それから何分かたったあとだった。

 彼女の夫は、親の代から宅配乳酸菌飲料を愛飲していて、当然のように彼女の家でも契約していた。その会社が募集した懸賞で野球の観戦ペアチケットが当選したのだが、彼女の家族や周囲の人々は誰も野球に興味がないから持て余していたという。
「もしかして、義理の妹夫婦にも声をかけた?」
「ないない、娘はもちろん、ダンナだってそんなこと口にしなかった」
 眉を寄せつつ目を細め、彼女は心底から嫌そうに吐き捨てた。義理の弟、つまり夫の妹が結婚した相手と彼女はとかく折り合いが悪く、その義弟が親族ぐるみの正月旅行を計画した際も、なにやかやと理由をつけて参加しなかったほどだった。そればかりか、どうやらその親族旅行でなにかあったらしく、彼女の娘まで義弟を毛嫌いし始めたところまでは聞かされていたが、それにしても家族そろっての嫌われようだ。まぁ、彼女から愚痴混じりに聞いた話だけの印象とはいっても、俺にしたってとうていお近づきになりたくない人物だ。
 そんなわけなので、義弟氏には声すらかけなかったと聞かされても、さもありなん以上の感情はまったくなかった。
 ともあれ、俺が断る理由はどこにもない。
 ありがたくお誘いを受けることにして、その日は楽しく彼女を見送ったのだった。

 その夜、さっそく彼女はチケット情報をメールしてきた。

 素早いなと思ったが、それもそのはずだ。なにせ次の週末に行われる試合だったので、ほとんど日程に余裕がないのだ。賞品なので転売規制でもかかっていたのだろうが、流れに流れてたどり着いたのが俺にというは、運がよいのか悪いのか。
 おまけに、バックネット裏の特等席だったから、その点でも驚いた。
 問題はチームの最下位がほぼ確定していて、対戦相手が首位ということ。つまり、流れによっては目の前で胴上げを見せられるかもしれないという、この段階では大変なプラチナチケットでもあった。
 俺はどちらにも思い入れがない……いや、首位のチームは積極的に嫌いなのだが、それでも胴上げの瞬間を目のあたりにできるかもしれないというのは、かすかな胸の高鳴りを感じないわけでもない。ところが、なんとここにきてマジック対象チームが連敗してしまい、あろうことか観戦の前日に優勝が決まってしまった。
 プラチナチケットかもしれなかったものが、文字通り一夜にして消化試合に大暴落なんて、どうにもこうにも締まりのない話である。ただ、それでも彼女とふたりで野球観戦の楽しみは、ペナントレースの結果がどうであれ変わらないはず。

 そんな思いを抱えながら、彼女との待ち合わせ場所へ急ぐ。
 改札を出るとすぐ、彼女の姿が目に入る。青地に赤ラインのベンチコートで姿勢良くスラリと立つシルエットは、行き交う人々の中でもひときわ目立っていた。
「もしかして、またせちゃった?」
「ううん、いま来たばかりよ」
 なんて、お決まりのようなやり取りを重ねつつ、ちょっと足早に球場へ向かった。別に急ぐ必要はないのだけど、足取りの軽さが歩幅を広げる。道すがら「ベンチコートだと、少し暑いかも?」なんて声をかけたら、彼女は「そんなことないよ。この時期でも冷えるんだから。娘のテニスに付き添ったとき、なんどか思い知らされてるのよ」なんて、諭すように返される。
 公園に入って運動場の脇を歩いていたら、彼女が「トイレに行きたい」と言い始めた。少し歩いた先にある公衆トイレへ向かい、彼女が用を足すついでに向かいのグッズショップを冷やかす。ながめるだけですぐに出るつもりだったけど、雰囲気に呑まれてボール頭のマスコットが描かれた小さいビニール傘を買ってしまう。
 支払いを済ませて店を出ると、自販機の前で意味ありげに微笑む彼女と目があった。
「もしかして、またせちゃった?」
「うん、自販機のハンバーガーを買おうかと思ったくらい」
 すっかりくすんだハンバーガーの文字へ目をやると、驚いたことにまだ稼働してるらしい。思わず「うわぁ、懐かしい! 買ってく?」なんて口に出したら、すかさず「まさか! さ、急ぎましょう」と、彼女は先に歩き始めた。

 公園から道路を渡り球場の裏手に出ると、そこからぐるっと正面まで歩く。途中、ホテルのロビーに併設されているコンビニへ立ち寄り、野球カード付きポテトチップスに飲み物を買うと、いよいよ球場だ。
 正面ゲートには球団マスコットの大きな風船やグッズ売り場、球団キャンプ地の名物を売る屋台などがならび、ちょっとした縁日のようだった。来期のファンクラブ入会を誘うスタッフをかわすように進み、発券所の端末から座席番号などが印刷された入場券を打ち出して、ようやく待機列の最後尾にならぶ。
 行列と言っても、開門からすこし経っているのでサクサク進む。
 ふたりで席についたら、おりしも試合前のショータイムが始まるところだった。球団マスコットがスコアボードのスーパーカラービジョンに登場すると、周囲の人々が次々に立ち上がってカメラやスマホを向け、写真とか動画を撮り始める。マスコットの人気は大変なもので、司会とのやり取りも面白いのだが、それにしても驚いた。やがてショーも終わり、マスコットはベンチ脇の出入り口へ戻るが、多くの人々は変わらずスーパーカラービジョンを見つめたまま、スタンド脇をのし歩く映像を撮り続けている。
 ファンたちの熱気に当てられ、なかば呆然としていたら、彼女がとんとんと肩をつついてグランドを指差す。その先には、すぐそばの出入り口前でカメラに手をふるマスコットの後ろ姿があった。
 ほとんど目の前にいる本人そっちのけでスコアボードの映像を撮っている人々がツボにはまったらしく、彼女は必死に笑いをこらえている。自分もつられて笑い出しそうになったが、流石にこの状況はまずいにもほどがあった。ふたりで馬鹿笑いをはじめてしまう前に、いったんこの場を離れたほうがいいかもしれない。
 そんなことを思って、彼女に「お弁当でも買おうよ」と声をかけたら、笑うまいと顔をクシャクシャにしながら「ふたりはあぶないよ。荷物みてるからお先にどうぞ」なんて、珍しく察しの悪い答えが返ってきた。
 まぁまぁお互い大人なんだし、彼女も楽しんでるようだから、ここは言うとおりにしたほうが無難だろう。そして、俺も気にせず俺の好きなように楽しむのが礼儀というか、お互いのためというものだ。
 弁当を口実に売店へ向かったのは良いものの、実はさほど腹は減っていない。本当のお目当ては球場名物のレモンサワーやポテト、唐揚げだ。球場で野球を観ていると、なぜかアルコールが欲しくなる。グランドの選手たちやチアパフォーマンス、そしてスタンドのファンに売り子などが織りなす熱気と興奮は、ごくまれにしか酒を口にしない俺がそれでも飲みたくなるような、そんな魔物めいた空気だった。
 けど、きっと彼女は驚くだろうな。
 そういえば、安物の白ワインで悪酔いしてからずっと、彼女の前ではお酒を飲んでいなかったような気がする。
 古びた内野席裏の通路を行き交う人々をかわし、売店の列にならぶ。たいていの人は買うものを決めているのだろう、サクサクと進んでレモンサワーとフライドポテト、さらに唐揚げまで注文したら、思いのほかいい金額になった。すっかりふくれたビニール袋とプラカップを手に席へ戻ると、おもったとおりに彼女の驚いた顔が出迎える。
「そんなにたくさん買ったの?」
「そっちか?」
「そっちかって……あっ! それお酒じゃない? だいじょうぶ?」
 カップにはられたお酒シールに気がついた彼女は、驚くというより心配そうに俺の顔をのぞきこむ。
「だいじょうぶ、野球を観るときはいつも飲んでるんだよ。すこしだけね」
「そもそも強くはないでしょ? それに……」
「それに?」
「こういう雰囲気で飲むの、むしろ嫌いなんじゃないかって思ってたのね」
 ややまなじりを下げ気味に微笑む彼女の声には、俺の意外な部分を目の当たりにした驚きよりも、むしろがっかりしたようななにかが含まれていた。それは、ほんのかすかに口元の力がぬけた、失望というには大げさかもしれないが、それでもできればみたくはなかったなにかをみてしまったときの、悲しみと呆れがうっすらとかぶさった、そういう笑みにみえた。
「もしかして、ちょっと心配?」
「ちょっとじゃなくて、すごぉく心配だねぇ」
 とっさに、わざとらしすぎるほど冗談めかしてこたえる彼女の声が、つまらないことを気にした挙げ句、かえって相手に気を使わせてしまった自分の情けなさを柔らかく包み込み、ひりついた心の表面をそっと癒やす。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。試合前にすこし飲むと、むしろいい感じに酔いが覚めるから、心配しなくてもいいよ」
「いや、そっちじゃなくってね」
 彼女はつっと目を細め、俺の肩へ手をやりながら「もしかして、ほんとうは独りでここへ来たかったんじゃないかなって、そんなこと思っちゃったの」と静かに、じっと俺の目をみつめながら、予想もしなかった言葉を口にする。驚いて「そんなことはない……」と強めに否定しかかった俺の口へ細い指をあてながら「うん、わかってる。でも、最後まできいて」と、彼女はさらに言葉を続けた。
「あなたって、なんていうかさ。すごく献身的でしょ。それも、あったときから、いままでずっとね。私もそれが心地よくて、ついつい甘えちゃってたんだけど、なんかこうしてすごく楽しそうで、お酒まで買ってきたあなたをみてるとね、ここはあなただけの世界なんじゃないかなって、そんなこと思っちゃったの」
 思わす口を開こうとした俺に「もうちょっとだけ、私の話をきいて」と、彼女はにこやかに、しかしきっぱりと告げ、また話し始めた。
「でもね、もうだいじょうぶだから。ほら、私だってあなたのことみてるのよ。ほんとうに立ち入ってほしくないときは、それとなく身をかわして、ふっと姿を消しちゃうの。そんな人のはずよ。あなたって。それに、献身的になるのは私にだけじゃないでしょ。でもね、そういうあなただから、私も安心していられるの。わかる?」
 ちょっと勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、彼女は俺の頬をつぅっとなでた。
「だからね、あなたはなにも心配しないでね。ふたりで試合を楽しみましょう」
 そこまで言うと、彼女は「私もなにか買ってくる。売店は通り道にあったよね」と、いきよいよく立ち上がる。不案内だろうからついていこうかと言う俺に「いいの、いいの、トイレも済ませたいから座ってて」と、すたすた歩いていく。

 そして彼女が席へ戻ったのは、そろそろ始球式が始まろうかというころあいだった。
「混んでた?」
「混んでたのもそうだけど、なにを買うのか迷っちゃってね。選手のお弁当とかいろいろあったけど、知らないとやっぱりね。でも、これあったからよかった」
 そう言いながら好物のシウマイ弁当を袋から出し、彼女はさっそくつつみをほどき始める。飲み物を買いそびれた彼女に、ビールの売り子を呼ぼうとあたりを見回したら「私に呼ばせて」と、勢いよく手を上げアピールし始める。
 まぁ、これだけテンション上がってるなら、もう気をもむこともないだろう。ちょっと冷えたポテトに唐揚げをつまみながら、濃いめだったレモンサワーをひとくちすすった。そして、隣の彼女が弁当をあらかた食べ終わり、煮しめをつまみに二杯目のビールを飲み始めたころ、球場に悲鳴と歓声が交錯する。
 ホームチームの先発投手が立て続けに四球を出したものの、相手打者をピッチャーライナーに仕留め、さらに併殺かと思われたところ、まさかの大暴投で失点したのだ。おまけに一塁走者も三塁まで進んでしまったため、犠牲フライで追加点をゆるし、無安打で二失点という体たらくだった。しかし、その裏でホームチームの新人が特大の本塁打を放ち、嫌な雰囲気を一掃したかに思えたが、その後も先発はピリッとせず、毎回のように走者を背負う息苦しい試合が続いた。野手もホームランの後は三振に凡打、たまに出塁すれば盗塁死と、やる気があるのかどうかわからないような有様だ。
 とはいえ、ビジターチームも前夜に優勝を決めたばかりで、やはりプレイに精彩を欠いている。毎回のように出塁はすれど、肝心なところで併殺や凡打と、両チームとも絵に描いたような消化試合だった。
 ただ、そうは言っても一点差なので、なかなか試合から目が離せない。
 なんだかなぁと思いつつ、気がつけば六回の裏まで来ていた。気持ちが乗らないのに目の離せない試合で、ビジターチームの応援歌はあまり聞きたくない。ちょっと退屈し始めた彼女が気にはなるが、ラッキーセブンの応援が始まる前に用を足し、ついでになにか食べようと売店へ向かう。
 相手チームの応援歌も、便所まではさほど響いてこない。
 用を足して通路を進むと、牛脂とソースの入り混じった甘く香ばしい湯気が立ち込めている。なにごとかとおもって目をやったら、立ち並ぶ売店の一角でぼっかけ焼きそばと大書された暖簾の向こうから、じぅじぅと美味しそうな伴奏とともに湯気が流れ出ていた。つい、ふらふらと歩み寄ったら、威勢のよいお兄さんが「神戸名物ぼっかけ焼きそば! いかがっすか?」と、あからさまに東のイントネーションで呼びかける。
 とりあえず神戸名物は度外視しても、明らかに美味しさを感じさせる臭い、そして音にすっかり参ってしまった。これは買うしかないと財布へ手を伸ばしたところ、スタンドから大きなどよめきが聞こえる。売店脇のテレビモニタは、代打に立ったベテラン強打者を写していた。
 ちょっとまて、いつの間に満塁なんだ?
 つい「ぼっかけひとつ」と大きな声もでる。
 こみ上げる嫌な予感を抑えつつ、舟形の器に盛られた焼きそばをうけとり、慎重かつ足早に席を目指した。
 売店からスタンドへ向かう斜路を登り、視界がひらけたところで大歓声に包まれる。
「あぁ、はいった……」
 だいだい色のタオルやプラカードが広がる三塁スタンドへ、ゆっくりと吸い込まれる打球を見てしまった自分は、それから先の試合をあまり覚えていない。ただ、周囲の人々が嬉しそうにタオルを振り、ビジターチームの応援歌を口ずさむさまに「え? バックネット裏もビジターファンばかりなの?」と呆れたことだけは、強く印象に残っている。
 ホームが負けているのに、なぜか球場全体が浮かれ気分に包まれ、彼女もなんだかわからないまま嬉しそうだ。まぁ、代打満塁ホームランなんて、めったにみられるものではないから、そこはすごく良かったと思う。彼女を心配させないよう、自分も軽い調子で「これ、ぼっかけ焼きそばっていうんだけど、はじめてみたから買ってみた」と、球場の照明にねっとりと重い輝きを放つ焼きそばをみせる。
 満塁ホームランの熱狂があっという間に通り過ぎていた彼女は、目の前の試合よりも濃厚な香りを放つ見知らぬ焼きそばへ引き寄せられていた。
「味見する?」
 ほほえみながら目を細める俺に、彼女は大きくうなづく。俺は「じゃ、先にひとくち食べたら、そっちへ回すね」と、箸を割って焼きそばを慎重にかき混ぜる。ちゃんぽん麺のような太そばに甘辛く味付けされた牛すじとこんにゃくを絡め、ソースで炒めて天かすをふりかけたそれは、箸でつまむというよりは絡め取らないと持ち上がらないような重さがあった。

 刻まれた牛すじとこんにゃくを落とさないよう、舟形の器を口元へ寄せて静かにほおばると、味の濃い肉やこんにゃくの主張が強すぎるということはなく、むしろ麺が真っ向勝負しつつ、具が脇を固めて味を引き立てる料理だった。ただ、それでも際立つのは味より食感で、もちもちした麺やこんにゃくの歯ごたえと、牛すじのぬるっと逃げるような口触りの妙は、ついもうひとくち箸を伸ばしたくなるだけではなく、ビールかチューハイでも飲みたくなる、そんな魔力を備えている。
 このままでは、ほんとうに俺が残らず食べてしまいかねなかったので、まだ半分ちょっと残っている器を彼女へ渡した。ちょうどよく、ホームチームのラッキーセブンが始まったので、俺は買ったビニール傘をごそごそ引っ張り出す。
 なにが起こったのかわからないまま、隣で目を丸くする彼女そっちのけで、どうしようもない負け試合のウサを晴らすかのように、周囲と調子を合わせて傘を振った。
「えっ! すごい! なにこれ?」
「このチームはこういう応援なんだよ」
 グランドのチアガールも、マスコットとともに傘を振っていたが、そちらはこころなしかわびしい雰囲気が漂うような気もする。まぁ、そもそも試合がしょっぱいのに、エキジビションだけが盛り上がるはずもない。
 そんな寒い消化試合でも、興味深そうにグランドの選手や周囲の観客をながめている彼女と、そして残り少なくなったぼっかけ焼きそばに気がついた。
 残り少ない?
 おやまぁ、けっこう食べたもんだね。
「気に入った?」
 苦笑まじりの俺に、彼女は「あ、ごめん。美味しくてつい」と口にするものの、悪びれるそぶりもなく、むしろすこしばかり嬉しげだ。しょうがないなぁと、俺は「このさい、ぜんぶ食べちゃう?」なんて器を返したら、彼女は当然のように「ありがとう。いただいちゃうね」と受け取り、こんどはビールの売り子を探しはじめる。
 販売終了が迫っていたが、ちょうどよく通りかかった売り子を捕まえられたので、なぜか俺も安心してしまう。彼女は太い麺と牛すじを器用に絡めながら「これはビールに合うねぇ」なんて、カップをぐいとあおる。これが初観戦というのに、外野席の古参を思わせる堂々とした飲みっぷりだ。
 そんな彼女に目を細めつつ、俺は奥歯に挟まった牛すじを舌でほじる。
 なんとか引っ張り出したら、口の中に脂の甘味がじわりと広がった。
 寒い消化試合だったが、彼女が嬉しそうならそれでいいだろう。なんだか、試合前の会話とは正反対だけど、彼女が俺を気遣うように、俺もていねいに彼女との時間を楽しみたいんだ。そういえば、試合の後は俺の部屋に泊まるんだっけ。

 牛すじを飲み込み、ふたりの時間に思いを馳せる。

第10話 ジャンクなアートは身も心もむしばむけど、ジャンクな味わいは心の栄養

 赤と緑と金と銀のオーナメントがきらめくツリーの下では、にこやかに笑みを振りまくサンタとトナカイを乗せた模型の列車がのんびり走る。展示台の片隅には折り畳み傘より小さな三脚に据え付けられた、これまた小さなカメラと、撮影画像を表示するやたら大きなモニタが、きゅうくつそうに押し込められていた。年末商戦の目玉は各社とも動画機能を売りにした小型カメラだったから、売り場でもいちばんいいところでにぎにぎしく展示されていたのだが、カウンターの奥に「写真機商」の証書を掲げているような写真カメラ専門店の中では、いささかいごこち悪そうに見えたのも、たぶん気のせいではなかったろう。
 自分は動画も好きだし、実際に展示機もためしてみたが、基本的にソーシャル動画撮影を想定した製品で、リモコン操作をアピールしている。魅力は感じつつも、どこか「歓迎されていない」雰囲気を嗅ぎ取ってしまってもいた。そもそも短時間のソーシャル動画からして、ほとんどがジャンクだしなぁとか、なんとも危うげな思考のうごめきを脳細胞のどこかに察知したところでそっとリモコンを戻し、展示スペースから立ち去ろうと顔を上げたところに、ほろほろと通知音がひとたびだけ鳴って、やんだ。

『お店ついた。どこ?』

 名前未設定アイコンのメッセに『カメラ売り場。新品の』と返す。

『りょ。そっち行く』

 なにかかわいいスタンプでも返そうかと思ったが、よさげなのを探してる間にタイミングを逸していた。まぁ、久しぶりの彼女におっさん丸出しもどうかと思ったし、そもそもスマホにはまともなスタンプがほとんどなかった。
 さて、どの方向から来るかな?
 画面から顔を上げてよく考えたら、このフロアは入口がひとつしかない。それよりはどのくらい待つか……か?
 問題はそこだよなと、ふたたび手元へ目線を落としたところで、背後から聞き覚えある声が背中をくすぐる。
「お久しぶり」
 すらっと細く、しなやかな身体を明るめの青灰がかったウールのカジュアルなステンカラーコートに包み、無造作に引っ掛けたキャンバスバッグ、そして裾からちらりとのぞくタイトなジーンズと厚底スニーカーまで、あいかわらずセンスのよい彼女が笑いかけている。
「あいかわらずというか、ほんとにカメラ好きね」
「まぁね。でも、最近はちょっとね……なんか、まぁ……」
「あら? なんで? って、きいてもよかった?」
 彼女の声にも表情にも好奇心と気配りがまざる。それは、俺にもはっきりと伝わる。
 せっかくあったばかりなのに、また俺はつまんないことを口にしたもんだとか、それにしても最近のカメラってのはなぁとか、そもそもカメヲタってのは存在がゴミだよとか、そのゴミが動画配信サイトでジャンクな情報をまきちらしててだなぁとか、ストリートでオサレなカメラがどうこうとかほんとにクソだよ……。
 そんなジャンクとしか言いようのない思いは、うかんだはしから脳のかたすみへ押し込み、すごく久しぶりにあった彼女が素直に好奇心を投げかけ、それでいて俺のめんどくさいところに気を使わせてしまったのに、さてどう答えたらいいものやらと、鬱屈したとりとめのない感情からとげとげしさを削りつつ、ゆっくりと言葉にする。
「うんうん、だいじょうぶ。なんていうかね。新しいカメラが合わないとか、カメラもって街に出るってのがオサレとか、なんかチャラくて乗れないのもそうなんだけど、それとは反対に写真を撮るってのが作品制作というか、とにかくクリエイティビティですってのがオサレなのもしんどくて、おまけに有名タレントとかちょっと名が売れた人とか、みんな写真家でございますみたいなのもあってね……ほら、この店でも上のギャラリーでマルチメディアクリエイター様の写真展とかやってるんよ」
 ひっそりと設置された告知看板へ目線をおくる。あごをしゃくらなかっただけ、俺としてはよく抑えたほうだと思うが、それにしてもあまり品の良い話ではない。
「あぁ、この人ね。娘の学校で特別講師やってた」
「え、ほんま?」
「うん、そうなの。デジタルトランスフォーメーション教育の一環で、リモート講座だったんだけど」
「うへぇ」
 こんどは下品なうめき声を抑えられなかったし、最初から抑えるつもりもなかった。そんな俺のしかめつらに、彼女はちょっと呆れたようなまなざしを投げかけ「あいかわらずね。でも、ちょっと安心したかな。なにか、さっきは妙に思い詰めたような雰囲気でさ」と、気遣いともなんともつかないせりふを、自分に言い聞かせるかのようにかぶせる。
「もしかして、ちょっと心配した?」
「まぁね、なにしろ久しぶりだったし、きょうは私の方から誘ったんだし、もしかして、ほんとは会いたくなかったのかな? なんて思っちゃったり」
「あはは、だいじょうぶ。そんなことないよ。安心してね。ただ、なんというか、ガラクタのような、いやジャンクとしか言いようのない考えがさ、冷蔵庫とか空調のモータ振動みたいにずっと頭ん中でうなってるんだけど、なんか最近はそれがひどくてね」
「だいじょうぶ?」
 彼女の表情があからさまに曇る。まぁ、軽く流すようなネタじゃないのは、間違いないところだ。
「うん、だいじょうぶ。若いころはわかんなくて悩んだりしたんだけど、真心ブラザーズの曲でもそんな歌があってさ、それをきいてからまぁ、ニンゲンそういうもんなのかなって?」
「いや、そうでもないと思うけど、あなたがそれで納得してるんだったら、これ以上はやめとくね」
 俺にとっては様々な人々へ繰り返してきた話で、そして聞かされた人々の反応にもなれていたから、落ち着いていつものように応える。ただ、彼女の反応はこれまでの中でもっとも穏やかで、声にはいつくしみさえ感じたから、俺も真面目に、ていねいに言葉をさしだす。
「ありがとう。たぶん、これは死ぬまで変わらないと思うんだけど、自分なりの付き合い方はできてるし、ほら、いままでだってだいじょうぶだったでしょ? たださ、最近は俺のそういう雑音を増幅する、ジャンクな情報に接する機会が増えてて、その点では危機感を抱いているんだよ」
 ふたたび彼女の顔が曇る。
「やっぱ、ネットやソーシャルから、少し離れたほうがいいと思うのよね」
 うんうん、そうだよねとうなずきながら、どうせ聞き流すのだろうと言いたげな彼女のまなざしを受け流し、それでも『言わなければよかった』と思わないような答えを、言葉を、口調を組み立てようと足掻く。
「まぁ、ネットというか、特にソーシャルはねぇ……なにせ不意打ちで刺激されるのもおおいからさ、ストレスだよな。たしかに。でもね、これが自分じゃ面白いんだけど、こっちからわざわざ見に行く、それもリアルだと、なぜかそこまでストレスじゃないんだよ。だから、まぁ、そういう機会をわざと作ったりもする」
「ぶぶぶ、免疫力を高めるみたいな感じ? でも、その発想がジャンクじゃないの?」
 彼女が面白そうに笑う。たぶん、作ってないな、この顔は。むしろ、顔を作らなければいならないのは俺の方だ。つまらない敵愾心、攻撃性を封じ込めるのはもちろん、そんな自分自身に倦み疲れているのも、そして、そんな自分をさらけ出さないように周りをうかがっているのもまとめて、仮面の下へ押し込んでしまおう。おそらく、彼女はまるごとお見通しだろうが、それでも『顔を作ろうとしている心情』は偽りじゃない。
 そんな、やはりジャンクとしかいいようのない考えを巡らせつつ、俺はその場で思いついたように、用意した言葉を仮面に貼り付ける。
「うんうん、そうなんだけどね。なんか、そういう感じがするんだよ。でまぁ、展示してるマルチメディアクリエイターも、そういったジャンク発生源のひとつだったりするんよね」
 意味ありげにうなずく彼女の表情には、ふたたび好奇心と気配りと、そしてかすかに面白がるような笑顔がまざる。
 顔を作りすぎておかしな表情になったかな?
 ふと思わなくもなかったが、それもジャンク箱へ押し込んで、話し始めた彼女の言葉を聞く。
「あぁ、ジャンク発生源ね。なんとなく、わかる。あのクリエーター、デジタルトランスフォーメーション教育で高校生向けに講演したんだけど、娘が『わけわかんなかった』ってぼやいてたから、いちおう私も録画をチェックしたのよ」
「そしたら?」
 だいじょうぶ、この話は顔を作らなくても興味深い。
「高校生向けにしても軽くて、中身がなくて、ちょっとびっくりした」
 あんまりストレートな物言いに「え、そこまで?」なんて、なんのひねりもないツッコミを入れてしまう。
「それ以上かもね。若くて有名な人なんだろうけど、税金つかって教育の一環として学校で配信したのがあれかって思うと、なんとも微妙な気持ちになったのは否定しない」
 もしかして、その授業かなにかで許しがたい出来事でもあったのかと、そんな勘ぐりまで脳裏をかすめるほど、彼女の言葉は激しく、嫌悪感すら含んでいた。
「そこまでやったんかい。でも、それなら作品を観る気持ちになれない?」
「あら、まだ行ってなかったの?」
「うん、先に観ておこうと思ったんだけど、出かけるのに手間取ってね」
「そなんだ。なんとなく、表情や話の展開から、もう観てそうな感じしたのね。じゃ、とりあえずギャラリーで免疫力を高めましょうか?」
 否定的な先入観を抱えて展示会場へ向かうのは、やはりちょっとどうかと思わなくもなかったが、自分も彼女も作家名の段階で悪印象があるんだし、そこは割り切るしかなかった。

 店舗併設の展示会場は、こぢんまりしながらも落ち着いた暗色の壁面や計算された明るさの間接照明で、鑑賞者が作品と丁寧に向き合えるよう配慮された、予想以上に本格的な空間だった。
 空間の広さにあわせたのか、作品はどれも小ぶりで、近寄って鑑賞できるように設置されていた。自分を彼女が入ったとき、会場には誰もおらず、ある程度まで時間をかけて作品と向き合えたのは、まぁ良かったのかもしれない。少なくとも、マルチメディアクリエイター氏の実力というか、作品の水準が世の中へ出るだけの高さに到達しているのは、間違いなかった。
 だから、自分はどこかで安心したようなところがなくはなかった。展示全体や作品の方向性はともかく、少なくとも技巧とか展示全体や作品自体の構成、展示のまとめ方、現代美術としての方向づけは完全に第一級で、いわゆるアウトサイダー・アーティストが作家のキャラクター性や話題性、出自、もっと言えば親の七光りで脚光を浴びるような、そういう胡散臭さがなかったのには、なにかホッとしたような、この世界はまだきちんとしていると再確認できたような、そういう感情を覚えていた。
 ただ、展示全体の主張や作品に描かれている内容はまた別で、とりあえず自分は顔をしかめないようにするのが精一杯だったし、どうやらそれは彼女も同じようだった。
 結局、自分と彼女は終始無言のまま、最後は逃げ去るように会場を後にした。
 そのまま店を出て、なんとはなしに駅へ歩き始める。しかし、雑踏の中で不意に彼女の口からあふれ出たのは、俺をたじろがせるほど激しく、嫌悪感に満ちた言葉だった。
「ねぇ、ちょっといい?」
「あ、うん、いいよ」
「会場では黙ってたけど、やっぱ我慢できない」
 俺は彼女の背に手を当て、雑居ビルの入り口近くへ誘う。そして、彼女の目を正面から見ながら『どうぞ』と言わんばかりに口元だけで笑顔を作る。
「ありがとう。あなたの部屋まで我慢しようかと思ってたんだけど、この気持をそこまで持っていく自信がなくて。それに、楽しくない話だし……。でね、確かにジャンクだし、すごく、すごく陳腐だと思ったの。作品も展示も、なにもかも。そして、写真を観てあんなにやりきれなくなったの、生まれて初めてだった。私、あなたのようにジャンクを直視できない」
 ぽつりぽつりと、言葉を選ぶように話し始めた彼女をみながら、自分も『陳腐で薄っぺらい作品』と思っていたので、妙に力強くうなずいてしまっていた。
「女性ヌードなんだけど、モデルさんはスキニーで色白で、すごく丁寧に性的な要素を消し去っていて、大人の女性なのに未成熟な雰囲気さえあって、しかもほとんどの作品は顔も隠しててね。でも、フレームとかすごく凝ってて、お金もかかってる感じで、標本というか、もっとはっきり言えば瓶入り少女みたいな、そういうえげつなさがあったの」
「写真のプリントもすごく凝っていたしね」
「あ、やっぱそうなんだ。なんかね、女性の生っぽさ、性的な要素を消し去ってこそ美しさとか、芸術なんですよとか、そんな感じがしちゃったのよね」
「あぁ、それは俺も感じた。それに、アートの世界では、そういう流れあると思うし、それに乗っかった作品と思った。陳腐で薄っぺらいってのは、すごく的確だと思う。なんていうか、いきがってるようで時流にこびてて、安全地帯でファイティングポーズって感じはあるね」
 心底うんざりした顔で彼女はうなずく。
「あれなら、まか直球エロのほうがマシというか、私には受け入れられる。結局、セックスして子供を作る、繁殖するって、ニンゲンのそういうところを消し去って、表面的な美しさのみをコレクションしたような、そんな印象なの。私、頑張って自然妊娠したし、そもそもセックスが好きだから、そういうのはすごく嫌な感じだった」
 彼女の言葉を受け止めた瞬間、俺はちょっと自分の発想を口にしたいと、ジャンクな欲求が芽生えた。しかし、それを意識して摘み取ろうと思ったときには、すでに口からガラクタとしか言いようのない言葉が、俺の考えた浅はかな例え話で胸糞悪いマルチメディアクリエイターをくさしたいなんて、下卑た心情が隠しようもないほどはっきりと流れ出ていた。
「それで言うと、老人のヌードだったら良かったんだろうね」
 ジャンクそのもののアイディアを、それも鼻の穴を膨らませながら話す俺なのに、彼女は予想をはるかにうわまわる勢いで、ほとんど食い気味に乗っかってくる。
「そうそう、それはあるの。写真のモデルさんはみんなスキニーで、いかにも未成熟な感じにしてたけど、ほんとうは成熟した大人の女性じゃない? 女性は自らを性的にみせるべきではない、みせないのが美しいのだって、そういう規範を強く感じたの。あなたが言うように、もしモデルさんたちがおばあちゃんだったら、あんな作品でもそういう規範性は感じなかったと思う。そもそも、女が年をとるってのは、そういうことだし」
 自分で話しておきながら、予想に反して彼女が乗ってくると恥ずかしいというか、なにか早く切り上げたいような、そんな手前勝手な心情まで湧き上がる。ただ、彼女が言う規範性というのは、自分にとっても新しい切り口で、素直に感心させられた。そんな考えをもてあそびながら、ゆっくりうなずいている間も、彼女はさらに話を続けている。
「でも、写真のモデルさんは違う。彼女たちもこれから出産を経験するかもしれないし、もしかしたら子供がいるかもしれない。そういう年頃の女性たちから、性的な要素を削り落とすのって、やっぱ私には受け入れられないのよね」
 グランドピアノの重い鍵盤に指を叩きつけるような熱気と強さで、ちょっと早口に語る彼女からは、ひごろから冷静で、調子に乗る俺にしばしば冷や水を浴びせているなんて、想像もつかない。ほんとうなら、ここで熱くなりすぎた場の空気をちょっとばかり冷まして、うまく別の話へ転換できらいいのだろうけど、俺にはそんな話術の持ち合わせはなくて、ただ、思いついたなにかを、それがゴミだろうが燃料だろうが、口から垂れ流すばかりだった。
「性的であるなというのは、規範性と同時に成熟を拒否するってメッセージでもあるし、いずれにしても人間そのものを否定するような、そういうねじくれたなにかを感じるんだよな。たださ、ソーシャルとかわかりやすいけど、性的な要素はリスクでしかなかったりする。そういう時代に適応というか、迎合した作品でもあるんだろうね」
 ありがたいことに、わざとらしいほど大きなため息を苦笑交じりにふぅっとついた彼女は、もう飽きたと言わんばかりに話を締める。
「結局、粋がるポーズも含めて、世の中が求める『若い作家のイメージ』に、世間に迎合してるのよ。娘が聴かされた講演でも、デジタルネイティブ世代のイノベーションだのなんだの言う口で『権利には義務や責任がともなう』とか言ってて、ねじくれたというか、なんかひごろから有力者あいてに耳障りが良いことばかり言ってるんじゃないかとか、そんな印象があったのよね。やれやれ、いいたい放題いわせてもらったら、ちょっと気が晴れた。もしかしたら、これが免疫力を高めるってのかも。ねぇ、なにか思いっきりジャンクななにかを食べたい気分なんだけど、この辺で心当たりある? それとも?」
 彼女は芝居がかった口調と思わせぶりな上目遣いで、ちょっと甘えた仕草を見せる。それは、展示会場から抱えていたうっ屈をすっかり吹き飛ばし、気持ちを切り替えているというアピールだった。
「ジャンクね」
 おれも彼女の目を見て微笑む。
「ジャンクといえば、家に行く途中のターミナルに現地系中華のフードコートがあるんだけど……」
「だけど?」
「こないだテレビに出て、すごく混んでるとおもう」
 彼女は切れ長の目を猫のようにゆっくりと細め、満足そうに微笑む。
「わかった、じゃあなたの部屋へいきましょう。なにかあるでしょ?」
「うん、食材はあるし、途中で買い足せば、すごくジャンクななにかはできる。でも、だいじょうぶ?」
「だいじょうぶよ。夫と犬は娘が面倒見てくれるから」
 彼女はさっと俺の手を握り、足取り軽く歩き始めた。

 駅近くのミニスーパーで、安くて小さいカップキムチにエノキダケ、韓国ラーメンを買うと、すっかり暗くなった再開発地区を歩く。更地が点在する路地の名残は街灯も少なくなって、冬の宵闇がまだらに広がっている。彼女も見知った風景のはずだが、会わない間にいくつかの建物が取り壊され、日が暮れると女性のひとり歩きが危ぶまれるような雰囲気さえ感じさせる、そんなさみしい場所に変わっていた。
「すっかりさみしくなっちゃったね。再開発はすすんでるの?」
「ぼちぼちみたい。再開発地区って存在そのものがジャンクというか、いやジャンクな街だから更地にして開発し直すんだな。だから、住み続けている俺も俺の家も、ジャンクってことだね」
 彼女は笑わない。それは、俺の自虐ともなんともつかないジャンクな戯言がおもしろくなかったのではないだろう。ただ、ちょっと戸惑ったような、あるいは怯えたような、そんなまなざしを宙に浮かせるばかりだった。

 やたらと重たい鉄の扉を開け、ふたりは冷え切った部屋に入る。
「うわぁ、久しぶり」
 エアコンやらガスヒーターやら、暖房の次々とスイッチを入れながら、俺は「しばらく来なかったからね。いろいろ変わってるでしょ?」なんて、雑な合いの手を入れる。
「そうね、みなれないものがいくつもある。もしかして、座卓の場所も変えた? でも、変わってないよ。私にとっては同じなの。このニオイも、雰囲気も、大事なところはなにも変わってない」
 そう言いながら、彼女はなれた様子でコートをハンガーに掛け、部屋の隅に座り込む。以前とほぼ同じ、彼女の定位置に。
「先にお茶かコーヒーでも淹れようか?」
「ううん、できれば早く食べたいんだけど、すごくジャンクななにか、お願いできるかしら?」
 以前と変わらぬ彼女の声に、俺は「ようわかった。じゃ、すぐに作り始めるね」と応えながら、自分もコートをハンガーに掛け、部屋着に着替えると台所へ戻る。
 買ってきたキムチやエノキダケ、韓国ラーメンに、冷蔵庫の中途半端な豚バラの残りや卵、いびつなしいたけ、へたりかかった白菜、そしてランチョンミートの缶詰をテーブルにならべると、エプロンをして食材に向き合う。白菜にエノキダケ、しいたけを雑に刻むと、ランチョンミートと豚バラも食べやすい大きさに切る。テフロンのすき焼き鍋にごま油を敷いて、すりこ木で潰したにんにくを軽く炒めたら、ランチョンミートに豚バラを焼く。
「うわぁ、すごくいいにおいがしてきたよ」
 彼女の期待に満ちたはしゃぎ声に「ニオイはいいけど、ほんとにジャンクな料理だよ」と返す。鍋に水を張り、強火で温め始めたところに、彼女が台所までやってきた。
「へへ、来ちゃった」
「ちょうどいいや、これからがさらにジャンクなんだよ」
 そう言うと、鍋に韓国ラーメンの粉末スープとかやくを入れ、さっとまぜる。そして、刻んだ白菜やしいたけ、エノキダケに、カップのキムチを入れると、火を弱めて鍋に蓋をする。
「たしかにジャンクだわ」
 切れ長の目を見開いて驚く彼女に、俺は「麺は締めに入れるけど、本場じゃ最初から入れるもんらしいよ」と、袋に残ってた麺をばりっと割った。
「それにしても、予想以上にジャンクね。しかも味のベースが塩気と脂ととうがらし」
「塩分だの脂肪だの気にしてたらジャンクじゃないよ」
「それはそうね」
 彼女が微妙に引き気味なのを感じながら、俺は自信たっぷりに取り分け用の小鉢やおたまを用意する。そして、鍋に卵を割り入れると、蓋をして火を止めた。
「韓国だとチーズを入れるんだけど、俺は卵にするんよ。どちらも味をまろやかにするんだけど、チーズは味がでしゃばりすぎるからね」
「ジャンクな料理でも、そういうバランスは気にするんだ」
 面白そうな彼女に「ジャンクなだけで美味しくなかったらつまんないでしょ?」と返しつつ、テーブルの敷き板に鍋をすえて蓋を開けた。

「ふわぁっ!」

 期待した通りの歓声が心地よい。
 ほどよいかげんの半熟卵が深紅色の汁に白く浮かび、さらに部屋の灯りがつややかな輝きを添える。周囲を固める灰色がかった豚バラや薄桃色のランチョンミートも、しっかり火が通った風情で実に食欲をそそった。
「卵、つぶしていい?」
 先ほどとは打って変わってはしゃぎ気味の彼女に、俺は「もちろん、どうぞ」と小鉢に箸を重ねて渡す。彼女はなにかちょっといやらしげに口元をゆがめ、半熟卵をつつくと、素早くキムチに豚バラを取り箸でつかみ、流れ出た黄身にひたし、からめる。
「むふふふふ」
 うっとりと目を細め、意味ありげに無意味な笑いを浮かべる彼女は、口元についた黄身のシミにも気が付かない。
「お気に召したようでなにより」
 そう言って、俺もランチョンミートとキムチをつまんで黄身にひたした。煮込まれて塩気がぬけ、ふんわりと締まりのないランチョンミートが、キムチの刺激で引き締まる感じが心地よい。
「やっぱ卵がいいな、俺は」
 口の周りについた黄身をぬぐいながら、ほとんど独り言のようにつぶやいたところへ、彼女が「でも、チーズのほうがよりジャンクと思う」なんて、合いの手を入れる。
「うん、うん、だね。じゃ、次はチーズで」
 半分も食べてないのに次の話は気が早すぎるかとも思ったが、彼女は彼女で「どう考えても体に悪そうな味なのに、また食べたくなってる。そこも含めてジャンクだわ」なんて話をふくらませてくれるから、ほんとに安心できるし、甘えてもしまう。
 そして、ふたりできそうようにすくい上げ、たちまち卵は姿を消した。鍋の中央には、血の池めいた汁が、まぬけな犠牲者を待ち構える底なし沼のようにひろがる。
「ここからもうひと声ジャンクにするよ」
 テレビショッピングの芸人のように大げさな掛け声にわざとらしすぎる笑顔までのせ、袋麺を取り出し、赤い底なし沼に沈める。
「なるほど、卵なら麺は後入れにしないとね」
 なにかわかったような彼女に、俺も「でしょ?」と意味ありげなまなざしを返す。
「だって、最初に麺を入れたら、卵がもっていかれちゃうじゃない?」
「そうそう、そのとおり。かといって、鍋の端に寄せるのもね」
「ためしたの?」
「まぁ、ためしたというか、水を少なくして麺を焼きそばというか、油そばにする食べ方もあるんだ。それにも卵を入れるからね」
「うはぁ、それはそれでジャンクだね」
「美味しいよ」
 呆れたように笑いながら、彼女は「でも、食べてみたいな。だって、心が満たされそうじゃない?」なんて、無邪気とも能天気ともつかない言葉を俺に差し出した。
「そうかぁ?」
 俺はふたたび芸人のように大げさな表情を作るが、彼女は全く意に介さない。
 そうこうしていると麺が煮え、ふたりそれぞれ豚バラのかけらやクタクタの白菜やらとともに、韓国ラーメンをすすりはじめる。
「これは満たされるね」
 さっきの呆れ顔などなかったようにご満悦の彼女へ、おれはつい「でもさ、腹持ちは悪いんだよ」なんて、無粋極まりない言葉を返してしまう。
「ちっがうのよぉ、満たされるのは心よ、こころ」
 最近はコントでも見なくなったような中年女性のカリカチュアを演じながら、彼女はずるずる派手な音を立て、さらに麺をすする。そして、小鉢の汁を飲み干し、正面から俺の目を見て「ありがとう、嫌な気持ちをふきとばす味ね」と、赤い汁でべたつく唇をつややかにきらめかせた。
 俺は「どういたしまして」なんて会釈し、鍋に残った野菜のかけらをすみによせる。
 しかし、けして愉快な展示ではなかったが、そこまで彼女を追い込んでしまうとは思っていなかった。なにか、自分が彼女を傷つけてしまったような感覚にさえ襲われたが、事前に予見できるはずもなし、これは諦めるしかない、忘れようと、自分に言い聞かせながら、俺は鍋の残りを小鉢へ移している。麺が汁を吸ったせいか、鍋の中はほとんど炒め煮のようになっていた。
 ふと、箸先がぶつかる。
「もう、直箸でいいでしょ?」
 彼女もまた、鍋の残りを自分の小鉢へ移していた。
「うんうん、もう食べちゃうからね」
 そう言いながら、自分は小鉢の残り物を口に運ぶ。
 しおれかかっていた白菜も、ヘタっていたシイタケも、微妙に色が変わりかかっていた豚バラも、安物のランチョンミートも、どれもこれもインスタントラーメンの粉末スープと調味液加工のキムチで味付けされ、それをそれぞれが持つ出汁のうまみで飾り立て、地域の祭事に精一杯のおしゃれをしつつ、楽しげにはしゃぐ人々の片隅でひっそりと笑みを浮かべる貧しき老女めいた味わいを舌に残し、胃の中へ収まっていった。
 やがて、安っぽく飾られた祭りの灯りもひとつひとつ消えるかのように、鍋の肉や野菜はふたりの口へ消え、最後には干上がった沼地のごとき鍋底が、ゆっくりと熱を失っていくばかりだった。
「お茶かなにか淹れようか?」
 いつものように、食後のお茶でもと声をかけたら、思いがけない答えが帰ってくる。
「どうせなら、ジャンクななにかを飲みたいな」
「駅前でもらったエナジードリンクならある」
「最高だね」
 親指を立てて芝居がかった笑みを浮かべる彼女に、学生時代の悪友が重なる。くだらないなにかに夢中になって、くだらない時間を過ごした、ジャンクな年月が頭をよぎる。
 とはいえ、ここで感傷にひたっても彼女には伝わらないし、もし伝えたら青春のひとコマなんて、それこそジャンクな概念に回収されてしまうのはわかりきっている。だから、俺はすっかりゆるくなっている涙腺をぐっと引き締め、エナジードリンクをテーブルに並べた。
「あら、ふたり分あるのね」
「キャンペーンで、毎日くばってたんだよ」
 しなくてもいい説明をしながら、俺と彼女は缶を開け、かたちばかりの乾杯をする。
「ぷは! 変な香料と人工甘味料が舌に残る。やっぱジャンクだわ、この味。でも、そこがいいのね」
 グルメ漫画のような実況をしつつ、どう考えても苦い笑みを浮かべる彼女に、俺は「口直しに濃いめのアッサムでも淹れようか? チャイ仕立てにしてもいいよ」と、いまさらのような話をしてしまう。しかし、彼女はゆっくりと首を振り「ううん、いいの。いまはこの味が必要なの」と、意味の取りづらい答えを返した。
「それより、アートであんなに傷つけられると思ってなかった」
 そして、俺の目を正面から見据え、ゆっくりまばたきしながら、彼女はつぶやく。
「ジャンクな作品は心をむしばむ」
 オウム返しのように彼女の言葉を反すうする俺に、彼女は「でもね」と、笑いながら手を握ってくる。
「そう、私ね。アートは心を豊かにするものって、そう信じてたの。だから、あの作品から自分という存在を否定され、拒絶されたように感じたのは、本当にショックだったの。観るものを傷つけるアート。ジャンクなアートって、実在するんだなってね。でも、ジャンクな食べ物はところをときめかせてくれた。そして、あなたとのジャンクな関係も」
 そうして、彼女は俺の手を強く握りしめた。
「ありがとう」
 なぜか、ついそんな言葉が口に出る。
「いえいえ、こちらこそ。今夜は楽しみましょうね。せっかくのエナジードリンクだし、忘れさせてくださいな」
 そういう彼女の口元は、みだらに輝いていた。

ー完ー