『流れる砂時計』
桃口優著
ファンタジー
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
安藤彩葉(いろは)は雨が嫌いだった。雨が流れているのを見ると、世の中は残酷で、自分自身が惨めだと感じずにはいられないから。そう思うのは彼女のある体質が関係していて……。目 次
第1話 雨と砂時計
雨が、まるで誰かを責め立てているように降っている。
私は、今傘を差さず雨に打たれている。
雨の音は、私にどんどん響いてきている。
たぶんまだほんの少ししか時間が経っていないのに、私が着ているロングワンピースもカーディガンももうどうしようもできないほどびちょびちょだ。
『たぶん』という表現をするのは、今私自身が自分のことを冷静に考える余裕がないからだ。
私の肩まである黒髪も雨に濡れ、ひどく乱れている。
夏特有のまとわりつくようなむし暑さもあり、不快感はどんどん上がってきている。
もちろん、私は好きで雨に濡れているわけではない。
むしろ、雨自体かなり嫌いな方だ。
雨が降ると、私の体質上100%頭が痛くなる。だから、いつも外に出かけようと思う気持ちが一気に失せる。
天気予報で明日雨だと知ると気分は一気に落ちるし、雨がずっと降らないことをいつも願っている。
でも、残念ながら、私の望みはいつも叶わない。
雨は一年の間で必ず降るし、一度降ると雨の日が続くことの方が多い。
それに嫌だけど、実際に今もこうやって私は外に出ている。
そんなことをぼんやりと考えていると、私は今立っている場所をやっと再確認することができた。
ここは駅の近くにある大きな交差点の前だ。いつも多くの人がここを通って、通学や通勤をしている。
近くに屋根のあるところはたくさんある。薬局やコンビニもあり、ビニール傘をすぐに買うこともできる。
だから、少し前の私は傘を買うという選択肢をなぜかとらなかったのだろう。
すれ違う人は皆傘を差しながら、何か恐ろしいものに追われているかのような勢いで歩いている。きっと相当激しい雨なのだろう。
でも、いくら雨が降っているといってもどうしてそこまで急ぐのだろうとも感じた。
風はそんなに強くないから、傘をちゃんと差していれば雨はそんなに恐ろしいものではないはずだ。
一方、私はとある理由から、今もずっと動くことができずにいる。
こんな雨の中、傘も差さずにじっと立っていたら、正直かなり目立っているだろう。
でも、誰も声をかけてこない。
まるで私は誰にも見えていないかのように思えた。
でも、視線だけはあちこちからたくさん感じる。
ブルっと体が震えた。
ここにいる人は皆、優しさという皮をちゃんと被れていない化け物だから。
わざわざ皮を被るなら、最後まで本当は化け物であることをわからせないでほしいと私はいつも思っている。
中途半端なことは、誰かを救うどころか傷つけるだけから。
いっそのこと、私が誰からも見えなくなればいいのに。
そうしたら、ほんの少しだけでも今の気持ちも楽になるかな。
そんな暗い気持ちが、すごい勢いで身体の中心から込み上げてきた。
でも、その気持ちはグッと胸の奥に押し戻した。
私には弱っている時間さえもったいないから。
今の私の気持ちは、とても複雑なものだ。私自身じゃなくても、簡単に解きほぐすことは絶対にできない。
私はいつの間にか涙を流していた。涙は雨に紛れていった。
カーディガンのポケットから砂時計を取り出した。
雨粒がついた砂時計を一瞬きれいと私は感じてしまった。
この砂時計のせいで、私の見える世界が一瞬で変わったのに、そう感じてしまった自分が悔しかった。
砂時計の大きさは五センチで、形も特別変わった形ではなく一般的な砂時計と同じだ。見た目で他と違う点は、二色砂時計だということぐらいだ。
二色砂時計とは、落ちる前の砂の色は一色なのに、下に落ちると二色のグラデーションになる砂時計だ。
私が今持っている砂時計は元の砂の色が紺で、下に落ちると紺とピンクに変わる。
その色合いは確かにきれいだけど、私には怪しさも感じられた。このような砂時計を見慣れていないからかもしれない。
いや、この砂時計が、普通のものではないからという理由が何より大きいだろう。
砂時計とは、時間を測ったりするのが一般的な用途だ。
確かにこの砂時計もある時間を表している。でも、この砂時計はある条件を満たせば砂が下に流れ、その時間が前より減っていることを確認できるだけなのだ。
条件が満たさないと、砂は一切動かない。私が無理やり動かさそうとしても、ダメだった。
また、条件に例外はなく、満たされれば砂時計がどんな状態でも砂が落ちるべき方へ流れるようになっている。どんな状態でもというのは、例えば落ちるべき方が物理的に上になっていてもそれが当たり前であるかのように重力に逆らってそちらに流れていく。
この地球上で重力に逆らうことができるものを、私は他に知らない。
知らないことや常識を超えてくることを、人は恐れる習性がある。
それは私だって同じで、できるならこんな怪しい砂時計今すぐにでも手放したい。
でも、それは許さないことになっているらしい。この砂時計を突然渡してきた真っ赤な服を着た女性は、そんなことを早口で言っていた。
その女性はすれ違った瞬間に他にもたくさんのことを伝えてきた。
まだ感情が追いつかず、頭の中で処理できていないことばかりだ。
とにかくこの砂時計は、あることが起きると落ちるべき方に砂が必ず流れ溜まっていくものなのだ。
第2話 砂が全て流れれば
雨は、未だに止む気配は一向にない。
近くに架けられた歩道橋の階段から下へと激しく流れる雨を見て、私はハッと我に返った。
無駄なことをいくらし続けても何も得られない。
具体的に言うと、私がどれほど雨に打たれても何も起こらないなら、ずっとそこにいる意味はないということだ。
まず、私は誰かに同情をしてほしいわけではない。
私の現状を伝えることはそもそも難しいし、話してもきっと誰にも理解されない。
ただ、行動をしても何も現状が変わらないなら、時間を無駄にしているだけだと私は思う。
また、『我慢』とは、耐えた先に例えば痛みが落ち着くなどのよい未来を描けるからできるものだ。未来がない私にはそれを耐えるだけの気力はないし、そもそもわざわざ我慢をする必要はないように思う。
辛い思いをする方向に思考を自分から寄せていかなくていいのではないか?
この考え方は、他の人が聞いたら諦めともとれるだろうか。
『諦めること』を、世の中は悪いことだと決めつける風習があるけど、私はそうは思わない。
諦めることで、自分を少しでも守れるなら、そっちの方がいい。
他人は心配はしてくれても、結局他人という枠を超えてはこないから。
仕方のないことだけど、私と他人は交わることはない。それはちゃんと私も理解している。
私は黄色の屋根のあるカフェの下まで移動し、雨宿りをすることにした。そのカフェは、チェーン展開しているお店だ。中をゆっくりと眺めると、お客さんも結構入っている。
濡れた服は乾く様子はなく、体に嫌な感じに張り付いている。私はゆっくりと体が冷たくなってきているのを感じた。
ハンカチは持っているけど、そんな小さなもので拭けるレベルの濡れ方ではない。外に出た時は当然こんなになるまで雨に濡れるつもりもなかったから、フェイスタオルも鞄の中に入っていない。私は、とりあえず顔と髪を拭いた。
確か駅ビルに日用品を売っているお店も入っていたけど、このびちゃびちょな姿でお店に入るのは迷惑だと思い、止めることにした。
なんだか少しだけ、周りの人の冷ややかな視線が減ったような気がする。
私は、今の状況をちゃんと考えてみようと思った。
真っ赤な服を着た女性が伝えてきたことは、このようなことだった。
あなたは、もうすぐ死ぬ。
この砂時計の砂の残量が、あなたの生きられる時間で、この砂が全て下に流れた時あなたは死ぬ。
あなたの死を引き寄せるものは、〇〇よ。
死を伝えることが私の役目で、私自身があなたの命を奪うことはできない。
私は、どうやら見ず知らずの人にいきなり死を告げられたようだ。
まだ実感がわいていない。
ふと、女性が話しかけてきた時は時間が止まっていたのかもという考えが頭に浮かんだ。
すれ違いざまというほんの少しの時間の間にこれほどのことを話すことは普通に考えればとても難しいことだから。
しかも、女性はこれ以外のこと伝えてきていた。
そのことはまたもう少し落ち着いてから考えようと私は思った。
一気に考えすぎても、一つ一つのことをしっかりと理解できないことが多いから。
今考えられる可能性は、女性はもしかしたら人とは違う何かしらの存在なのかもしれないということだ。
そうなら、時間が止まっていたという私の仮説もおかしくはない。
でも、それがわかったところで、私の未来が変わるわけでもない。
知っても何も変わらないことがこの世の中にはたくさんある。でも、人の知りたいという欲はよく抑えられないぐらい大きくなる。
死を引き寄せることを改めて思い出しても、私は抵抗する気にはなれなかった。
なぜならそれは、私にはどうにかできる次元のことではないから。
それに、今までの経験上『現実』とはあがいてもそれほど変えられないと私は知っている。
これまで味わった苦しかったことが、頭の中ですごいスピードで形になろうしている。
私は気持ちを切り替えようと、頭を軽く振った。
苦しいかったことは、自分を責める要素に十分なりうるから。
私は今二十四歳で、人生を悟るには若すぎるだろうけど、自分の人生を早く受け入れた方が気持ちが楽になることもある。
だから、私は今後恋をしないと今決めた。
そう思ったのは、相手のなる人のある顔がちらついたから。
もし誰かと深く関わり、その人が私を大切に思ってくれたなら、私が死んだ後で多少でもその相手を悲しませることになる。
私の死で誰かが辛い思いになることが本当に申し訳ないなと思う。だって私が死んでしまったら、私がもう一度その人を笑顔にすることは絶対に叶えられないことだから。
恋をすることで自分の感情などが変わることに関心がないというか、どうでもよかった。自分よりも誰ともまだ決まっていない人のことの方が気になった。
また、私は恋のようにたとえ人が生きていると当たり前にすることでも、必ずする必要はないと考えるタイプの人間だ。
するかしないかは自分で選ぶことで、世の中や誰かに流されるのは嫌だ。
会社の同僚でプライベートでも仲のいい百花には、「彩葉はクールそうに見えて、人に優しいよね」と言ってもらえることが多い。
その言葉を思い出したら、彼女に会いたいという思いが込み上げてきてた。
まず濡れているのをなんとかしないといけないから、私は家に帰ることにした。
第3話 女友だち
百花は、メッセージを送るといつもすぐに返事が返ってくるタイプの人だ。
このタイプの人は、面倒見がいいか頭の回転が速い人だと私は思っている。
一つの行動で相手のことを決めるのはどうかとも思うけど、これに関しては意外と的を得ているかなと私は思っている。
私がシャワーで雨を流した後「急だけど今日の夜一緒にどこかに食べにいける? 百花と飲みながら話したいなって思ってさ」とメッセージを送った。すぐ既読になって「いいよー。何か食べたいものある?」と返事が返ってきた。
私ならそんなにすぐに言われたことに対して、的確な返事を送ることができない。
この言い方だと相手は嫌な気分になるかなとか、答えはいつもわからないのにいろいろと考えてしまう。
私たちは同じ会社の部署で働いている同僚で、その部署は休みの日が土日祝日と固定となっている。
だから私が今日お休みだということは、彼女もお休みであることは確かだ。
でも、彼女には彼女の予定や用事がきっとあるだろう。
それなのにいつ連絡しても、彼女の返事はすぐに返ってくる。
しかも彼女は私よりも若いわけではなく、むしろ二歳年上で私からしたら先輩にもあたる人だ。
「先輩だけど、敬語じゃなくていいよ」と彼女は出会って少ししてからそう言ってくれた。
気取り過ぎず、私のことも考えてくれていて、すごく素敵な人だなとその時思ったことを今でも覚えている。
さらに明るくて努力家な彼女は、先輩後輩問わず誰からも愛されていて、正直キラキラしている。
どちらかというと大人しい私のことをいつも気にかけてくれているのが、未だに謎だ。
もちろん嬉しいことなんだけど、彼女なら私なんかよりももっといい人と仲良くすることもできるだろうから。
しかも仕事での付き合いではなく、私たちはプライペートもよく会っているのだから。
そんなことを考えているうちに、彼女から「このお店はどう?」とお店のリンクを貼り付けられたメッセージが送られてきていた。
そこは駅近で、個室がある居酒屋だった。
落ち着いた雰囲気もあるし、私の好きな海鮮のメニューも豊富にあった。
私と彼女は性格は結構違うけど、好きなものや考え方やすごく似ている。
簡単に見えるところではなく、そのようなことが付き合っていく上で大切なことなのかもしれない。
「そのお店、いいね。そこにしよう」と返事を返し、私は準備をし始めた。今回は傘をしっかり持って、家を出た。
私が駅に着くと、彼女はもうすでに待ち合わせの場所にいた。
こういうところも彼女が人に愛されるところだと私は感じている。彼女と会う時、私は一度も待たされたことがない。
彼女は青色が好きで、いつも服装のどこかに何かしらの青色のものが入っている。
今日は青色のひらひらとしたロングスカートを履いていた。
彼女から雨を全然感じなかった。
きっと、化粧も、カールされた短めの髪も一切崩れていないからだろう。
今日もきれいだなと私が思っていると、彼女は私に気づき満面の笑みで手を振ってきた。
居酒屋で乾杯をした後、私たちは他愛のない話をした。
すごく楽しかった。
でも、彼女と話しているうちに、ふと自分だけが他の人と違うと思った。
どうして他の人は私より確実に長く生きられるの?
他の人という言葉には、『彼女』も含まれている。
そんな風に考えた自分が惨めで情けなかった。
同じ人間なのだから同じ部分もたくさんあるのに、そこに目を向けることができなかったから。
人は、いい部分をしっかり見ずに、悪い部分にばかり目がいったり、相手のできていない部分を探してしまうものだとなんとなく知っている。
だから、自分はそうはならないと決意していた。
でも、今の私は自分だけが不幸なことを嫌に思っている。
自分がどんな状態になったとしても、そんな風になりたくなかった。
雨は変わらず降り続いている。
空は、いくら雨を流してもなくなることはない。
そんなの不平等じゃないだろうか。
私は、砂時計の砂が流れれば死んでしまうのに。
私の暗い考えは止まらないまま、あの時のことを思い出した。
あの時、真っ赤な服の女性は突然私の目の前に現れた。数分前にはどこにもいなかった気がする。いくら雨が激しく視界も悪かったとはいえ、あんな目立つ格好の人がいたら気づくはずだから。まるでどこか別の世界から地上に来たようだ。
あの女性は、天の使いだろうか。
あの時の雨の音が、頭に鮮明に思い出させていく。
雨は、今の私を表しているかのようだからやっぱり好きになれない。
私はポケットから砂時計を少し出して、残りの砂の量を確認した。
残りの砂は、もう10分の1も残っていなかった。
そして、前よりも減っていた。
砂時計を渡された時は、8分の1ぐらいは砂が残っていた。
残りの砂の量を見て、私は怖くなった。
一度でどのくらいの砂が流れるかわからないから、余計に恐怖心は増していく。
一方で、どんなに辛い状態でも生きていかなければいけないことも苦しいと思った。
生きることをやめることにたいして、世の中はただ厳しくて理由も聞かずダメなことだとする。
私は、砂時計をポケットに押し込んだ。
結局私は、彼女に自分がもうすぐ死ぬという話を全くすることができなかった。本当は少しでもその話を聞いてほしくて、今日は彼女を呼んだ。
彼女の「どうかした? 大丈夫⁇」という声にも反応できなかった。
第4話 納得はできない
あれから私はまるで逃げるように、彼女と別れて家に帰ってきた。
いや、本当は違うものから逃げたいのかもしれない。
でもそれを言葉にするのが怖かった。
私は家に着くと、部屋の電気もつけないでベットに倒れ込んだ。メイクを落としたり、部屋着に着替える気力がなかった。
かわいい人形などを置いていない殺風景なベッドに顔をうずめていると少しだけ安心ができた。見えるのは真っ暗な世界だけで、今の私のようだから。
あんな風に彼女が心配してくれた理由も本当はちゃんとわかっている。
私という人間はきっとマイペースでメンタルも強そうだと会社の人に思われているだろうから。いや、もしかしたら私を初めて見た人もそう思うかもしれない。
他人から見た自分と自分が思っている自分が一致しないことは結構多い。
本当の私はメンタルなんて全然強くない。むしろ、かなり弱い方だ。
ただ感情的に怒ったり泣いたりせず、胸の奥に気持ちをいつも溜め込むから他の人にはわからないだけだ。
人はなんらかの形として見えないと、相手の状態がわからないから。
そもそもイメージは一度つくと、そこから変わることはなかなかないから、今更どうにもできない。
ネガティブという海の底が見えてきた気がした。
何事においても底はあり、ずっと落ち続けることはないはずだ。そうじゃなきゃ、誰も再び立ち上がることはできないから。
そんな風に考えると、少し気持ちが落ち着いてきた。
落ちては少しだけ上がって、また落ちての繰り返し。
それが私の今までの人生だったじゃないか。今が特別ひどいわけじゃないと自分に言い聞かせる。
私は、自分の今の運命について考えてみることにした。
私はまだ若いし、今身体の不調を感じていることもない。
若いからといって絶対すぐに死なないわけではない。
でも、私はまだ自分のしたいことすら見つかっていない。
人生というものがどんなものかわかっていなければ、そこに大きな楽しみも見つけ出せていない。
そんな状態でまだ死にたくない。
またずぶずぶと落ちていく。あれ、さっきまで見えていた底がぼやけてきた。
枕は、いつの間にか濡れていた。
頭では、もちろんあの女性の言葉の意味はわかる。
でも理解と了承は必ずしも合うわけではない。
私は、何度考えてもこの運命を受け入れられなかった。受け入れようと決めたのに結局できなかった。
でも、一方ではきっと変えることはできないとも感じている。
死の宣告を、普通に生きていたら医師以外の誰かから受けることはなかなかないから。
医師以外から受けた私は、悪い意味で例外だろう。
例外になるということは、それなりの理由がきっとありるはずだ。
私は自分の運命に、納得のできる理由を見つけたいのかもしれない。もうすぐ死ぬことを納得できるほどの理由があるようには思えないけど。
死ぬことが悲しいというより、世界の残酷さを感じた。
一人の人間が、全ての人を笑顔にできない。人ができることはかなり限られているから。
真っ赤な服を着た女性は他にもこんなことも言っていた。
あなたがもしこの砂時計を壊したとしても、あなたが死ぬという運命は変わりません。
もうすぐ死ぬ運命であるなら、死ぬのがいつ頃かわかる方があなたもよくはないでしょうか?
この砂時計の流れる様をどう受けるとかはあなた次第です。あなたには今どう見えていますか⁇ 苦しみでしようか? または、最期を迎える準備の期間でしようか? それとももっと違うものでしょうか⁇ あなたの答えをまた聞かせてください。
私の直感が、きっと近いうちにまた真っ赤な服を着た女性と会うのだろうと身体に伝えてきている。
でも、そんなことよりも真っ赤な服を着た女性と百花の気持ちの流れに心が苦しくなった。
気持ちは流れず、できる限り一定であってほしいと私はある理由から思っている。
そもそもあの女性に会うまでは、そこまで人の気持ちを真正面から受け止めることはなかった。
私の性格上、自分の気持ちよりも相手のを優先することが正直多い。
でも、それは相手の気持ちを受け止めているというよりは、自分の気持ちを我慢しているだけだ。相手の気持ちには向き合ってはいない。
真っ赤な服を着た女性は、初対面なのに私に気持ちをぶつけてきた。
不気味さが心に刺さって抜けなくなった。
あの日から私の見える世界は、激変した。
町で人を見かければ、その人の気持ちは良くも悪くも流れているのかもと思うようになった。
百花の気持ちの流れも、以前はそこまで気にしていなかったのに、今回は心にずっと残っている。
そもそも普通に一日生活しているだけで数えきれない人とすれ違っている。
それら全てを気にし出したら、キリがないことなのだ。
私の中で軸となるものがどんどん乱れていく。
砂時計の砂が、さらさらと流れた。
この砂時計は、どうしていつもこんなに私を魅了するのだろう。気にしたくないのに、本当に憎らしい。
そして、今回はかなりの量の砂が流れていった。
私の中で、様々な感情が湧き上がってきた。
でも、その日は結局そのまま起き上がらずことができず、砂が流れる小さな音をずっと聞いていた。
第5話 寿命を縮める行動
温かな日差しを背中に感じて、私は目を覚ました。
まぶたは重いし、まだ頭もはっきりと働いていない。
まず顔に当たっている感触からここはベットの上だ。
スマホで時間を見ると、七時だった。
どうやら私はあれからあの姿勢のまま今まで寝ていたようだ。
砂時計を確認すると、まだ砂は残っていた。
今日もこの世とは違うどこかの世界に行っていなくてホッとした。
最近眠るのが怖い。
次の日にいつものように目覚めることができないかもしれないという思いが、私の心をにごすから。
私はゆっくりと起き上がった。
わざわざ鏡で確認しなくても、私の丸目が赤く腫れていることはすぐにわかった。
私はまたやってしまったと頭を抱えた。
ここ数日、私は何度も涙を流していた。本当は一滴も流したくかった。でも、止めることができなかった。
どうして涙にこんなにもこだわるのかというと、それは真っ赤な服を着た女性の「あなたの死を引き寄せるものは、〇〇よ」という言葉に関係している。
その〇〇が、『涙』なのだ。
つまり、私が涙を流すと、私自身の寿命が縮むということなのだ。
そんな無茶苦なことがあっていいのかと、初めてあの女性に会った時心がポキっと折れた。
私は小さなことでよく心が折れる方だけど、その時の音は今までのものとは比べ物にならないぐらい大きなものだった。
だって、涙はそこそこ日常的なもので、それが私の寿命にダイレクトに影響を与えるならどうすることもできないと瞬時に確信がもててしまったから。
私は、『特異体質』らしい。
あの女性にも、あなたのような人は十万人に一人もいませんと確か言われた。
突然そう言われても、涙を流すと寿命が縮む人を周りで見たことはないし、数字で言われてもなんだかピンとこなかった。
それに、涙を流して困ったことも今までなかった。
涙を流すと、胸が苦しくなるとか呼吸がしにくくなるとかいうわかりやすい反応も一切なかった。
今の私は、涙についてある程度考えをもっている。
涙とは、感情の表出で、気持ちが何らかの形で異常値を示した結果と私は考えている。
人は悲しい時、嬉しい時、悔しい時と様々な時に涙を流す。
それらは、気持ちの急激な上昇または低下により涙という形になる。
私は、気持ちが一定であると涙として形になることが少ないかなと思った。気持ちは、波打たず穏やかなのがいい。
それは自分だけでなく、周りの人もそうであれば尚ありがたい。
なぜなら、私は他の人の気持ちにいい意味でも悪い意味でも引っ張られることがよくあるから。
性格とは、プラスに捉えることもマイナスに捉えることもできる。
私は人の気持ちの変化に気づきやすいとも言えるし、その気持ちに振り回されがちだから少し繊細とも言える。
考えをしっかりもっても、理解を示そうとしても、どうにもできないことがあるのが世の中というものだ。
世の中と他人は、涙を凍らせるほど冷たい。
涙と一言で言っても、あくびをした時に出るような生理現象で流れるものもある。その類の涙も私の寿命を縮めることに関係があるらしいから、私がどんなに頑張っても涙を完全にはコントロールできない。
そもそも常にこうしたら涙は流れないかなと意識を向けている人はなかなかいないだろう。
そこを気にしてばかりいると、日常を楽しめないから。
さらに、私がこの特異体質になったのは、砂時計を渡された時からではない。
産まれた時からそうだったとあの女性は伝えてきた。
私は生まれてから今まで無意識に自分の寿命を縮めていたことになる。
人はこの世に生まれた瞬間に涙を流す。
人によってその頻度は違うけど、それから幾度となく涙を流しながら成長していく。
少しでも成長していると思っていたのに、そうではなくて本当は自分の寿命を縮めていたという事実はあまりにも衝撃的すぎた。
過去の行動を変えられないのは、知ってはいる。でも、今更今までの涙が自分の寿命を縮めていたとわかっても、悔しさが消えない。
まだ寿命を縮めることについて完全にわかっていなくて、どんな涙ならどれぐらい砂時計の砂が流れるかもわかっていない。
砂が流れるのは実際に見ているけど、その量に何らかの法則性を私は見つけられていない。
私は、それを知りたいと強く思っている。
窓を開け、空を見上げた。
部屋に入ってきた風は少しもわっとはしているけど、気持ちがいい。
空は、曇りひとつなく晴れている。
太陽の色が、真っ赤な服を着た女性をまた自然と私に思い出させた。
あの女性は何者なのだろう。
行動だけを見れば、完全に悪者だと言い切れないと最近思えてきた。
だって、砂時計を渡してきたけど、色々なことを私にわざわざ教えてくれたから。
私の思考は、おかしくなってきてるのだろうか。
でも、ただ私が苦しむ姿を何らかの形で見たいなら、涙を流せば寿命が縮むことを伝えれば十分なはずだ。
そもそもなぜ砂時計は必要なのだろう。
気になることがどんどん増えてくる。
でも、何もわからないし誰も教えてはくれないから、頭のなかで疑問ばかりが増えていく。
そんなことを考えていると、ふと百花の顔が頭に鮮明に浮かんで、胸が苦しくなった。
第6話 あやふやな関係性?
私と百花を繋いでいるものって、何だろう。
そんな思いが、心の中に突然落ちてきた。
その思いは砂時計の中の砂のように小さなものなのに、瞬く間に心の隅々まで色をつけていった。
それは、きれいなピンク色だ。
彼女は、私にとって同僚であり、友だちだ。
『友だち』と呼ばれる人との間には、その二人を繋ぎ止める確かなものは何もない。また、どこかで未来が約束される時も基本的にない。恋人同士の場合、夫婦になることで法律上二人の関係性を証明することができる。その後永遠とも呼べる時間を築いていくことも二人次第でできる。
私と彼女の関係を誰かが客観的に見たら、些細で崩れてしまうほどおぼつかないものだろう。
いや、友だちという関係性は、きっとそのようなものだろうと私が勝手に思っているだけかもしれない。
私はこれまで人と深く関わることを積極的にしてこなかった。
今思えば、それは私自身の弱さが関係していたとわかった。
深く関わることで、自分と相手の間に温度差を見つけたくなかったから。
熱量が違うことは、ショックを受けるのには十分すぎることだ。
自分と全く同じというのは難しいだろうけど、できる限り近しい温度の方がいい。
私は子どもの頃、いつも……。
頭の中で考えが独り歩きをしだしたので、私は目をつむった。
ちょっと静けさを感じたかった。
きっと私たちの間に何かがあるから今もずっと関係が続いているはずだ。
その何かとは、一体なんだろう。
今までそこに目を向けたことはなかったけど、今は自分でも驚くほど気になっている。
たぶん反動のようなものだろう。
まず私は彼女に対して、恋愛的感情を抱いたことは一度もない。
そもそも私の恋愛対象は、男性だけだ。
私は特殊な恋愛傾向をもっているわけではない。
でも、そのような恋愛傾向をもっている人をおかしいと思わない。
色々な考え方があるのは当たり前だ。
自分と違うから相手の話を聞かず否定するのは簡単だけど、それは自分の見える世界を狭めることになるから。
ただ、私が彼女との関係を友だち以上に発展させたいと思うことは今後もないとは断言できる。
それなのに、私は彼女に友だちの範疇以上のことを求めていた。
世の中には、ざっくり分けると身内、恩人、恋人、友だち、他人という関係性があるだろう。
でも、この他には一切ないとは言い切れないのではないかと急に思えた。
多くの人に認知されていないだけで、それ以外の関係性も存在する可能性はある。さらに言うなら、私が知らないだけで新しい関係性が日々作られているということもあるかもしれない。
世界は、はてしなく広いのだから。
私にとって百花は、『友だち』というカテゴリーで収まる人ではなかった。さらには、私が今知っている別のカテゴリーにもすっきりと収まるところはなかった。
まだそれが何かまではわからないけど、私たちの関係性は新しい関係性だということだけはわかった。
今まで私の願いを一緒に叶えてくれるのは、『恋人』だけだと思っていた。
でも、恋人ではない新しい関係性の人とでも、それは可能かもしれない。
この時、胸からまるでシンバルを鳴らした時の楽しそうな音がはっきりと聞こえた。
新しい関係性には、私は性的な関係はなくていいと思った。確かに性的な繋がりがあることは、安心感を得られる。でも、寂しさを強く感じる時もあるから。
私は、彼女とただ心で繋がっていればいい。
一方で、自分が中途半端だとも気づいた。
心では彼女のことを大切に思っているのに、実際の行動は彼女と全然向き合っていなかった。
私は、ただ人に、時間にたた流されて生きていた。
自己の気持ちを伝えることはしないし、相手をわかろうと努力もしていなかった。
そんな私は、雨に打たれていた時に見た優しさという皮をちゃんと被れていない『化け物』と何が違うのだろう?
私は今その違いをはっきりと言葉にすることができなかった。
他人を傍観している人と、何事にも流されている私は立ち位置が少しだけ違うだけで、同じ化け物だ。
私も同じなのに、どんな人か知りもしない人のことを勝手に化け物と私は呼んでいた。
私の方が、もっ醜い化け物だ。
百花から見た私は、もしかしたらそんな風に見えているかもしれない。
後悔ばかりの人生だったけど、彼女にそんな風に接してしまっていた自分をひどく悔いた。
彼女にだけはそんな風に思われていなければいいなあと切実に願った。
そして、私がこんな化け物だから、特異体質になり早くに死ぬ運命になったのだろうと思えてきた。
そんな時真っ赤な服を着た女性の言葉が、また頭に蘇ってきた。
「砂時計を渡された時にあなたが特異体質になったわけではなく、産まれた時からそうでした」
産まれた時からということは、私の命は初めから特異体質がある状態で作られたということだ。
つまり、この命にはしっかりと意味がある。
人の命には、それぞれの意味が込められている。
それを見つけていくことが、生きていくということだと私は考えている。
理由もなく、早くに死ぬだけの命をわざわざ作ることはないはずだ。
それがわかり、辛さが少し和らぎ、元気が出てきた。
だから、私は自分の願いについて再度思いを馳せることにしたのだった。
第7話 私の願い
私の願いは、たった一人の人と心を通わせることだ。
誰しもが一度は考えたことがあることだと思う。でも、それは人が空に浮かぶ星を掴むほどすごく難しいことだ。
なぜなら、心を通わせるという行為には様々な感情が隠されているから。
気持ちを伝えること、相手にそれを理解してもらうこと、受け入れてもらうこと、二人の考え方が違う場合すり合わせすることなど行動だけでも本当にたくさんある。
自分の思いや要求を言えば、それで終わりではない。
多くの人はきっとそこまで考えず、または『心を通わす』という意味自体をやや軽く考えている気がする。
相手を本気で思い話し合うなら、二人で納得できるまでとことん話さないといけない。
心を通わすことは、時間と体力がかなり必要なのだ。
私は、もう私自身の願いは叶うことがないと諦めている。
それは自分の今までの発言や行動のせいで、現時点でそんな関係性に近づいている人は一人もいないから。
さらには、今からそんな関係性を作るほど、私にもう時間は残されていない。
『時間は有限だ』という言葉が、胸に強く重力をかけてくる。
よく聞く言葉だったけど、私は言葉の意味をちゃんと理解しようとしていなかった。なんとなく「時間とはそのようなものだよね」ぐらいにしか考えていなかった。こんな状態になってやっと時間の大切さがわかった。
私はこれまで時間をかなり無駄にしてきただろう。
時間を意識して生活している人となんとなく生きている人とでは、一つの時間の質がきっと違ってくる。
後悔は、どんどん増える一方ばかりだ。
私は自分の願いについて考えるように、強引に思考を戻した。
叶わないとわかっている願いを持ち続けるのは虚しいだけだ。
いや、心の奥にある思いを少しでも言葉にしてしまうと、なんとか今まで耐えていた心が、一気に崩れてしまう気がした。
それでも願うことを完全にやめられないのは私が人であるからだと思う。
私が人について語れるほどえらくはない。ただ動物に野生的な生存本能が残っているように、人の心に誰かを信じ続ける感覚が今も残っている気がしてならない。
相手にひどいことをされても、その人を信じる気持ちが0にならないことがあることが、それをよく示していると私は考えている。
私は関係性についても、再度考えてみることにした。
私が思う最高で最終の関係性とは、全てのことをに対して互いに尊重し、理解し合える関係性だ。あることだけでなく、全てのことにおいてだ。
この関係になるには相手に興味をもち、相手の様々なことを知ろうとする努力がお互いに必要となる。
そして、これに関しては努力しても、報われない時の方が断然多い。
なぜなら、人はよく感情的に発言・行動してしまうから。
普段なら特に気にならないことも、余裕がなかったりイライラしていると「なんでそんなこと言うの?」と思う時がある。
それ自体がおかしいとは言わない。タイミングが悪かっただけという場合もある。
感情に起伏がなければ、それはAIと同じだから。どんなに求めている言葉を言ってくれても、きっと人はそれでは満足できない。
そして、私たちはたとえ間違えても、やり直すチャンスをもらえる時もある。
行動を邪魔するプライドを投げ捨てて謝ることはできるか。もう一度ちゃん話し合おうと思えるか。
チャンスが訪れた時、すぐに相手を思いやれる行動ができるかが大事になってくる。
相手を心から大切に思うであれば、なんだってできるはずだから。
私は、百花とそんな関係性になりたかった。
でも、もうなれないかもしれない。
現実は、いつも私の思いを下回る。予想よりいい結果になることなんてないんじゃないかと私は疑いたくなる。
こんな風に願いや理想について考えを整理しているけど、私の心の中は、砂時計の砂のように感情が様々な方向に流れている。
あの女性に砂時計を渡された時、あがくことをしないで受け入れようと決めた。
どうすることもできないことってあるから。
それなのに、私は何かある度に悩んでばかりだ。
悩むこと、立ち止まること自体は悪いことではない。
ただそこから何か行動しなければ、前に進むことはない。
子どもの頃は周りにいる誰かが私が言葉にしなくても、積極的に関わってきてくれた。それで、問題が解決することはかなりあった。
でも、大人になると、全て自己責任になると私は考えている。
できなかったのは、誰のせいでもなく、自分がダメだったからだ。
そんな考え方もあって、強くいると決めたのにそれができていない自分自身を私は強く責めた。
他人に言われることなら、正直多少無理難題な時もある。でも、これは、私が決めたことだ。
これぐらいなら大丈夫だろうと自分のキャパシティを測ったのに、それが全然的外れだった。
どうして私はいつも上手くできないのだろう。
私は、自然と手のひらで胸の中心を強く叩いていた。
自分のことさえわからない私は、何ならちゃんとできるというのだろうか。
惨めという感情がどんどん勢いを増していき、心の中を占領した。
もちろん、叩いて痛いとは感じている。
それでも私は止めることができなかった。
胸の痛みより、私の中で自分への失望の念の方が大きかった。
第8話 優しくされる資格
突然、スマホから音が流れてきた。
私以外いないこの部屋で、その音は静寂と孤独を打ち消した。
それは、特別変わった音ではなかった。
私は自分を叩く手を止め、まるで救済を求めている人のようにスマホを急いで手にとった。
私は一体何を望んでいるのだろう。
それすらわからない。
ただその音に、心が既に救われていることは確かなことだった。
私は自分に向けていた激しい自責と失望を、その音に意識を向けることで一時的という形でも忘れられたから。
画面には、『百花』の名前とこんばんはという言葉が表示されていた。
私はしばらくその先を開く勇気が出なかった。
だって前に会った時、会話が微妙な終わり方だったから。
気分の悪い思いをしたから、メッセージを送ってきたのかなとネガティブさが顔を出してきた。
いや、私は怖かった。
大切に思う百花に嫌われることが怖くて仕方なかった。
現時点では既読にはならない。でも画面を見たのは確かなことで、そのまま見なかったことにすることは私の性格上できなかった。だから、スマホをゆっくりとタップした。
そこにはこんな文字が浮かんでいた。
こんばんは。
突然連絡がきて驚いてるよね。
前に会った時、彩葉は本当は別の話をしたくて私を呼んだんだよね?
それなのに、私が話しやすい雰囲気を作ってあげられなくてごめんね。
そうだとすぐにわかったんだけど、あの時は彩葉の気持ちを優先したいと思った。
でも、やっぱり大切な彩葉をほっとけないと思った。時間が空くことで辛い思いはさらに重くなったよね。本当にごめん。
彩葉は、きっと今でも苦しんでいるよね。
あの時の私の判断が間違っていただけで、彩葉は何も悪くないよ。
もし彩葉がよければ、私に話してくれないかな?
そこには、真っ直ぐすぎる優しさがあった。
だって百花は何も悪くないのに、申し訳なく思っていたから。悪かったのは、どう考えても話そうと思いながら話さなかった私だ。
それなのに、百花は「彩葉は何も悪くない」とまで言ってくれた。
それがどれほど私の心を軽くしただろう。
私は、いつの間にかまた涙を流していた。
そう気づいた後も、私の命である涙がポタポタと落ちていくのを無理に止めようとしなかった。でも、そこには『悲しみ』はなく、涙が床の上を楽しそうに跳ねているように見えた。
彼女の気持ちが素直に嬉しかったから。
でも私の心の中にはまだ迷いがあって、彼女の胸の中にためらわずに飛び込めなかった。
醜い化け物の私は、誰かに優しくされる資格なんてないという思いが心を黒く染めていった。
そんな時、私の心の中に彼女の笑顔が見えた。
その瞬間、黒色は白く塗り替えられていった。
優しくされるのに資格なんていらないよ。
優しさって、条件を満たさないと受け取れないような濁ったものじゃないよね。
もっときれいで純粋な感情だよ。
あなたも、本当は気づいているでしょ⁇
そんな声が急に聞こえてきた。
これがどういう現象が関係しているかわからない。
その声は、百花の声ではなかった。でもどこかで聞いたことのある声だった。
私には、これも百花のおかげかなと思えた。
百花といたから、私はこれまで色々なことを考えられようになり、たくさんのことに気づけた。
だから、さっきの涙を無理に止めようとしなかったのかと今やっとわかった。
あの涙には、命を削るだけの価値が十分にあった。
だって私には私を思ってくれる人がちゃんといるとわかることができたから。
私は今抱えているものを素直にメッセージで送ることにした。まだ面と向かって話す勇気はなかった。
でも、聞いてほしいと思った。
百花、心配してくれてありがとう。
百花の言う通りで、あの時話したいことがあった。
それは、私はもうすぐ死ぬということだよ。
それは、変えることができないらしい。
このあと、私はあることをしていく。それをするまでは絶対に死なないと約束するし、それが終われば私の気持ちも含めて詳しく話せると思う。
だからあることが終わったら、もう一度私の話を聞いてくれる?
彼女からすぐに返事が返ってきた。
そんな苦しい現実を一人で今まで抱えていて、本当に辛かったね。
もちろん、その時はしっかり聞くよ。
でも、彩葉は一人で何もかもを抱えて考えすぎてしまうところがあるから、そのあることをしにいく途中で苦しくなったら、気にせずすぐに言ってきていいからね。
無理はしないでね。
百花はどこまでも優しかった。
私は、着替えを急いですることにした。
私の胸は他の女性より少しだけ大きい。いつもは胸元を強調した服を着ないけど、今回は大人っぽさを出したいからあえてそんな服を選んだ。
家を出る前に、砂時計の砂の量を見た。
砂の残量は、砂時計の真ん中のくぼみを一度で通る程度の本当に少量しか残っていなかった。
本当は百花の元に行きたい。でも、私にはその前にするべきことがある。
私は、ある場所に向かっていった。
第9話 欲張りよ
私は今濃い紫色のパーティードレスをゆらゆらと揺らしている。
私がこんな格好をしているのには、理由がある。
それは、ミステリアスなあの女性と対等に話し合うためだ。
あの女性は、見事なほどに赤を体現している。
赤は強さだけではなく、色気を感じさせる。
でも、見た目だけできっと妖艶な色気は出せない。あの女性の内側から発せられているものが大きい気がする。
あの女性は何者なのだろうという思いが、胸の中で前よりも強くなっているのを私は感じた。
私は、目的地にたどり着いた。
ここは、あの女性が初めて声をかけてきたところだ。
私は、あの女性に言いたいことがある。
あの女性に会えるという根拠はなかったけど、ここは私が今まで生きてきた中で一番心を揺さぶられた場所だ。
今雨は降っていないけど、空はどんよりとしていて少し暗い。
「あなたから会いにくるなんて珍しいですね」
女性は、どこからともなく姿を現した。
今日も赤一色の格好をしている。しかも、よく見ると前に会った時とは違うデザインのものだ。
なぜ何パターンも赤の服をもっているのだろうと、疑問がまた一つ増えた。
「言いたいことがあります」
私は、口以外はぴくりとも動かさなかった。
この程度のことで圧倒されていては、相手にすらされないから。
「それは何かしら?」
「前に会った時、砂時計が流れる様をどう受けとるか私に聞いてきましたよね。その返事を言いにきました」
「それは早く聞きたいです」
「どう受けとるかは、自分のこれまでの人生を振り返り、私を一番大切に思ってくれる人を見つけるようなものです」
「あなたにはそう見えているのね」
女性の声からは、なぜか喜びに似た感情が漏れてきた。
声のトーンも、今までより高くなっている。
もしかして、私に興味をもってくれたのかなと心が弾んだ。
でも、まだ不安要素の方が多い。
この女性はタメ口で話してくる時と、丁寧語で話してくる時がある。二人の間になんらかの関係性があれば、場合によって変わることはおかしなことではない。でも、私とこの女性の間には、なんの関係性もできていない。それなのに、喋り方に統一感がないことは、不気味でしかない。
私は不安を拭い去るかのように、「あなたは何者ですか? どうして残りの命を表すのが、『砂時計』なのですか⁇」と続けて聞いた。
女性は近づいてきて、「欲張りよ」と冷たさを帯びた声で言った。
「知りたいと思う気持ちに、終わりはこない。そもそも人は貪欲過ぎる。そのせいで知りたいと思うこと全てを、生きている間に知ることはどんな人もできない。また、知ったからと言って、変わらないこともある。むしろ知る前より状況が悪くなることもある。そのことは、あなたも子どもの頃の経験からよくわかっているよね?」
そう言われて、小学生の頃のあることが鮮明に思い出された。
私は、友だちと仲良くなるために相手のことをたくさん知ろうと思った。
知ることでもっと仲良くなれると考えた。
でも、その友だちは何も教えてくれなかった。
それだけではなく、「こいつは変なやつだ」と他のクラスメイトに言い、私はその日からクラスで一人ぼっちになった。
それでも私は話せばきっとわかってくれると思い、さらにその子に話しかけた。
私にとって忘れらない記憶だけど、意識的に思い出さないようにしていた。
もちろん、今は当時の私の行動にも問題があったことはちゃんと理解している。
でも、未だに孤独な状態に、あんなにも簡単になりえることは信じられない。
『孤独』は、人の心を弱らせる要因になる。
この女性は、私がそのことを思い出さないようにしていることを、まるでわかっているかのように話してきた。
どうしてそんなことができるかわからない。
ただ言葉は止まることなく、流れ続ける。
「あなたが全てを知りたいというより、全てを誰かに知ってほしいのではないですか?」
「えっ⁉︎」
心の扉に手をかけられ、強引に開けられそうになった。
空も、急に雲行きが怪しくなってきた。
私は、すぐにその言葉を否定することはできなかった。
私は聞きたいことを何一つ教えてもらえていないのに、この女性は私の心の中にどんどん入ってこようとする。
でも、ここで黙りたくなかった。
それだと、今までの自分と何も変わらないから。
「優しさについて語りかけてきたのはあなたですよね? 私のことを『あなた』と呼ぶ人はほとんどいないし、声もあなたと同じでした」
あれから私はあの声についてずっと考えていて、やっと誰が伝えてきたか推測を立てられた。
でも、女性はその言葉を聞いても、驚く素振りをほとんど見せなかった。
私は、ゆっくりと話を続けた。
「あなたは、与えられた役目をすることに疑問を感じているのではないのですか? 死を伝えることだけが役目なら、私にそれ以外の様々なことを教えたり、私が苦しんでいる時に助ける必要はないでしょうから」
「あなたの言葉や行動に、ほんの少しだけ私の心が動いたからです。あなたは、私がこれまで見たきた人とあまりにも違いすぎたから」
女性から冷たさは消え、温かみが感じられた。
「最後に、正直に心のうちを話してくれてありがとうございます」
私は、頭を下げた。
わからないことはわからないままだけど、私はその言葉だけで十分だと思えた。
最終話 少しだけでも
私は一度家に帰らず、そのまま百花の家に向かうことにした。
さっきの天気が嘘のように今空は雲ひとつないし、まだ太陽が沈む時間ではない。
真っ赤な服を着た女性と話すことで、身体も心も軽くなったのは確かだけど、単純に百花に早く会いたかった。
「あることをちゃんと終わらせてきたよー」
百花の顔を見るなり、私は抱きついた。
普段の私なら、こんな行動を絶対しない。
私は今かなり舞い上がっている。
「彩葉、頑張ったね」
百花に抱きしめられると、すごく心が落ち着いた。
百花は私がまだあることの内容について一切何も話していないのに、頭をなでてくれた。
私は、ずっとこうしていたいなと思った。
それから、してきたこと、私の身に起きたこと、運命についてなど全てのことを百花に話した。
百花は相づちを打ち、時には心配そうな顔を浮かべながら、最後まで話を聞いてくれた。
「それはすごく驚いただろうし、ずっと怖くて不安だったよね。いや、そんな言葉じゃとても彩葉の気持ちを表すことなんてできないよね」
百花は、私をしっかり受け止めてくれた。
それがすごく嬉しかった。
「ありがとう」
だから、私はそう伝えた。
「急にどうしたの? 私は彩葉の辛さをまだ同じように感じられていないのに」
百花は変に思っているというより、不思議なそうな顔をしている。
「それでもいい。百花は私の言葉を信じて、本当に待っていてくれたから」
「それは当たり前じゃない。大切な彩葉なんだから」
彼女は迷うことなく、頷いてくれた。
「百花にとってそうだったとしても、信じてくれたことに対してお礼を私は言いたいのよ」
「彩葉って、本当に優しいよね」
百花から、心地よい感情が私の中に流れていく。
そもそも当たり前なことなんてない。
目には見えていないだけで相手を思うたくさんの気持ちがあるから、そのことが『当たり前』として成立できているのだから。
そんなことを思っていながら百花の胸の辺りに目を向けると、私と息を吸うタイミングが全く一緒なことに気づいた。
その瞬間に、私はこれが私の求めていた関係性に近いかもと思った。
私は、『全部』をわかり合うことにこだわりすぎていたのかもしれない。
私はこれまで最高で最終の関係性は、「全てのことに対して互いに尊重し、理解し合える関係性」だと思っていた。
でも、百花がさっき「まだ同じように感じられていない」と言った時も、私の心は十分満たされていた。
全てを知っていなくても、いい関係性になれるのではないだろうか? またその関係性を今後さらによくしていくこともできる気がした。
私は百花のこと全てを今は知らないけど、前よりも今の方が関係性がよくなったとは胸を張って言える。
相手を想う心がしっかりとありそれが相手に伝われば、たとえ『少し』だとしても理想の関係性になれる気がした。
その相手を想う心こそが、私と百花を繋いでいたものだった。
確かに私は百花と向き合っていなかったところもあった。でも、私は自分とは違うところを百花から見つけた時、関係を切るという選択をしてこなかった。
百花とのことだけに限らず、関係を切れば確かに煩わしさはかなり減る。
でも、私はたとえ時間がかかったとしても、百花のことを理解したいと思っている。
それに時間をかける大変さより、受け入れたいと思う気持ちの方が大きい。
それだけ私にとって百花は特別で大切な人なのだ。
百花も、何か特別な想いをもってくれているといいなと思うけど、もしもっていなかったとしても私のそばに変わらずいてくれるならそれだけで十分だとも思えた。
「百花のそばで最期を迎えられたら最高に幸せなのになあ」
つい本音が出てしまったから、私はすぐに冗談めかして笑った。
「じゃあ、私の家に今日は泊まっちゃう?」と、百花はまじめな顔をして言葉を返してきた。
私は涙が出そうになったけど、今回は頑張って堪えることができた。
まだもう少しだけ生きていたい。私は、やっと生きる意味を見つけれたから。
私のことを大切に思ってくれる人を、その人以上に大切にすることが私が特異体質として生まれてきた意味だろう。
他の人より短命だとしても、私が亡くなった時その人を悲しませたとしても、私はそれ以上にその人を支えられる。きっと私の命は、亡くなった後はその人の心の中で生き続けることができるから。
「えっ、いいの? 私そのまま居座っちゃうかもしれないよ⁇」
この言葉には私の願いがこもっているのだけど、それをうまく表現できなかった。
「やっと私に甘えてくれたね。私も彩葉と一緒にいたいから、それは大歓迎だよ」
百花は、愛にあふれたような目で私を見つめてきた。私もゆっくりと百花を見つめ返した。
その時、「心が通い合った」と私は感じた。しかも、百花にも同じように私の気持ちが届いていると、私には確信がもてた。
百花は抱きしめていた手を離し、私の手をとりその勢いのまま家の中に連れて行こうとした。
「えっ、待って待って。そのテンションの高さは何⁇ 私たちは子どもじゃないんだからね」
私は照れを隠すことなく、顔を赤くした。
「そんな小さなこと、気にしない気にしない」
百花の楽しそうな声を聞きながら、残された時間は、百花と一緒に私たちの関係性に名前をつけようかなと思ったのだった。
ー完ー