『75分の1の殺意』
降谷さゆ著

ミステリー
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心が壊れてしまった。家族も、恋人も、仕事も失った。居場所はもうどこにもない。 行くあてもなく彷徨っていた土砂降りの夜、暖かく灯る光があった。 そこでの出会いが、彼の存在が、私の運命を大きく変えていく。第1話 暖かく灯る光
Losers live in the past.
Winners learn from the past and enjoy working in the present toward the future.
――敗者は過去に生きる。
勝者は過去から学び、未来へ向かって、現在を楽しんでいる。
昔、心理学の授業で耳にして心にぐさりと突き刺さった言葉。
世界的にも著名なアメリカの脳力開発研究家で人間行動学博士の言葉だ。
両親から嫌われないように、学校でこれ以上いじめられないように、社会から浮いた存在にならないように、私は私自身が「普通であること」をずっと求めてきた。
家族と笑いあったり、友人とたわいのない会話をしたり、恋人と想いを通わせたり、そんなことを望むのは贅沢で私にとっては夢のまた夢。
未来へ向かって……? 現在を楽しむ……?
そんなこと一度だって考えたことがなかった。考えることをとうの昔に諦めた。諦めるしかなかった。
周囲の環境がそうさせたのか、私自身の性格がそうさせたのかはわからない。ただ、何をするにも浴びせ続けられた私を蔑み否定する言葉が呪いのように心を蝕み思考を停止させる。
そんな私は過去に囚われた「敗者」なのだろう。
「……消えたい」
この言葉を、何度口に出しただろう。涙がとめどなくあふれて、何度拭っても止めることはできなくて、身体を濡らす雨の冷たさも相まって虚無感を一層強く感じさせる。傘も差さずにずぶ濡れで深夜の街を徘徊する私に向けられた奇異の目も、もうどうでもよくなった。
――君のせいで。
――存在が迷惑。
――人として恥ずかしい。
――いなくなってくれた方が助かる。
つい先刻、店長から吐き捨てられた言葉が頭の中でこだまする。
「……私……だって…………」
必死だった。ずっと、ずっと必死だった。自分の選択が間違っていたことくらいわかっている。それでも、生きるためにはそうするしかなかった。
人は生まれながらにして不平等だ。どんなに足掻いても、泥にまみれても、泣き叫んでも、私の望みは何一つ叶わない。それなのに世の中には何の苦労もなく幸せな暮らしを送っている人がたくさんいる。
悲しい、苦しい、寂しい、つらい、悔しい……。私の心を支配するのはいつだってそんなネガティブな感情ばかりだ。
(…………助けて)
その一言が喉の奥に詰まって出てこない。
誰も助けてくれないことがわかっていたから。
(――消えたい、消えていなくなってしまいたい)
……自分がこの世からいなくなっても悲しむ人は誰もいない、でも、そうわかっていても自ら命を絶つことは怖い。
もう、どうしたらいいのかわからない。何も考えられない。考えたくない。
行くあてもなく歩き続けてきたその足を止め、真っ暗な空を仰ぎ冷たい雨粒を全身で浴びることしかできない。
「――さん!」
誰かの張り上げた声。聞こえたと同時に強く腕を引かれ、反射的に振り返る。
「――ちょっと、お姉さん! 何してるんだよ!」
身体の熱を奪い、痛いほどに叩きつけていた雨がふと降り止む。少し遅れて、目の前の男性が私に傘を差してくれていることに気が付いた。
「……傘、忘れたの? ずぶ濡れじゃん」
私の顔を見て一瞬驚いた表情になる。泣いていたことに気が付いたのか、口調が優しくなる。
「俺、そこのカフェにいて、とりあえず一回中に……」
「…………です」
「え?」
「……大丈夫……ですから」
彼の手を振りほどこうとした。でも、それをさせてくれなかった。
「女の言う『大丈夫』は信用ならないんだよ、いいから」
少し怒ったように、有無を言わせないように再び強く腕を引かれる。もう抵抗気力もなくて、彼に連れられるがまま暖かな明かりを灯すその店に足を運ぶ。
カランコロン、と控えめに店内に響く鐘の音。冷え切った心と身体を溶かすような暖かな店内。ふわりと漂うコーヒーの香り。
落ち着いたアンティーク調の装飾が施された店内にはカウンターの奥に店主と思われる年配の男性が一人だけ。窓際のソファー席には彼が座っていたのだろうか、飲みかけのコーヒーカップとノートパソコンが置かれている。
「ヤマさーん、タオルある?」
彼は店主と親しいのか慣れた様子でカウンターの奥に入っていく。そしてほんの二、三分するとタオルを何枚も抱えて入口の前で立ち尽くす私の元へ戻ってきた。
「春とはいってもこんなに濡れたら寒いでしょ? この奥の個室使っていいって言ってたからとりあえず拭いたらこれに着替えてきなよ」
茫然としている私に手渡してくれた紙袋。そこにはこの店の扉に描かれていたものと同じロゴが入ったトレーナーと店主の奥さまのものだろうか、花柄のロングスカートまで入っている。
言われるがままに彼が指差した先の個室の方に向かい、その途中で店主にお礼の言葉を伝えると事情は何も聞かずにくしゃっとした柔らかい笑顔を向けてくれた。彼が私のことを話してくれたのだろうか。
今の私にとって、こういう気遣いがとてもありがたい。
着替えを済ませて部屋を出ると、店主が彼の隣の席に案内してくれた。そして、芳ばしい香りを漂わせた淹れ立てのコーヒーまで用意をしてくれて、小さく会釈だけすると再びカウンターの奥へと戻っていった。何から何まで至れり尽くせりで申し訳なさと感謝で胸がぎゅっと締め付けられる。
「…………おいしい」
ぽつりと、その言葉と一筋の涙が自然にこぼれる。
隣の席に座る彼は「リョウ」と名乗った。
ツーブロックのブラウンヘアーに綺麗にかけられたパーマ、自信にあふれたキラッとした大きな瞳、さりげなくもハイブランドばかりの持ち物。私とは住む世界が違う、そう感じるのに、人懐っこくてちょっと強引な物言いからか初対面ではないような気さえして、先ほどまでの強張った心がほぐれていく。
この日の彼との出会いが、私の運命を大きく変えることになる。
第2話 彼女とのつながり
平日二十二時過ぎ、コーヒーの香りが漂う店内の窓際の一角が俺の特等席。
同僚たちは自宅で夕食後の団欒のひとときを過ごしている頃だろう。だけど俺はそうはいかない。親父が社長を務める会社に入社して早八年、将来的に継ぐことになるとはわかっていたが、突然この春に常務就任を言い渡され、各部門の資金繰りやら親父の補佐やら重役を押し付けられるようになって団欒どころじゃない。週に二、三日は終業後もこうして行きつけのカフェで経営会議の資料に目を通したり報告書の作成に追われている。
親の七光りなんて言って俺をよく思わない社員は多い。決して不真面目なわけではない。学生時代は生徒会の会長、部活動でも部長として活躍していたし、それなりに偏差値の高い大学で成績上位をキープしてきた。そして社会人になってからも同期よりも成果を出し続けてきたつもりだ。
ただ、クラブやキャバクラ通いといった派手にお金を使う夜遊びや、周りと比べて派手な身なりなんかにケチをつけて不平不満を漏らす輩が多いようだ。
――次期経営者らしい振る舞いを。
――社会人らしい服装や髪型を。
そんなお説教は聞き飽きた。大勢に紛れて何になるっていうんだ。そんな平凡なやつらに好き勝手言われ続けるのは癪に障る。
だからすぐに俺の実力を認めさせてやるんだ。一度認めさせさえすれば、その後の面倒ごとは平社員にでも押し付けておけばいい。親の敷いたレールになんて乗らないという人もいるようだが、うまく利用してやればいいさ。
「…………あの子」
「ん?」
食器を洗っていた店主のヤマさんが心配そうな表情で窓の外を見ている。
視線の先に目を向けると、こんな土砂降りの日にも関わらず傘も差さずに雨に打たれてふらふらと歩いている女性の姿。
「……どうしたんだろうね?」
「……酔っ払いじゃないっすか? ああいうのは放っておくのが……」
そう言いかけたとき、その女性は足を止めて顔を上げた。
遠目でそんなにはっきりと見えたわけではない。ただ、その時に一瞬だけ目に映った彼女の横顔に強く惹き付けられた。一目惚れと呼ぶには純粋さが足りなかったと思う。興味や好奇心という言葉の方が近いかもしれない。
「――俺、ちょっと行ってきます!」
考えるよりも先にその言葉が口をついて出て、気が付いたら彼女の腕を引いていた。
*
「…………おいしい」
そう言って、白く細い手で彼女はコーヒーカップをきゅっと握りしめる。
黒髪ロングに白い肌がとても映える。隣に座って初めてきちんと顔を見ると、化粧っけはないのにくっきりとした二重にすっと通った鼻筋、小さくぷっくりとした唇をしていて、とてもこんな雨の夜に一人泣いて出歩く理由があるとは思えない綺麗な人だ。
「……えっと、私……あの……」
俺の視線に気が付いて、少し驚いたような、困ったような、そんな表情になる。
「あ、ごめん。こんなにじっと見られていたら嫌だよね」
「いえ、そういうわけじゃ……」
か細く消えてしまいそうだけど、とても澄んだ声。
「俺は亮。君は?」
「――リョウ!? ……さん?」
一瞬、怯えた表情になる彼女。
「え? 何?」
「あ……いえ、ごめんなさい。ちょっと……いろいろあった人と同じ名前だったので……その、驚いてしまって……ごめんなさい」
どうやらリョウという男と何かあったらしい。彼氏か元彼か、まあそんなところだろう。
「で、君の名前は?」
「……柊、です」
「ヒイラギさん、ね。下の名前は?」
「あ、柊しのぶ、です」
「じゃあしのぶちゃん、よろしく」
ぺこりと小さく頭を下げてくれるその仕草がなんとも可愛らしい。こんなに美人なのに自信なさげで、ここに来るまでの彼女に何があったのか気になって仕方がない。でもきっと、つい先ほど出会ったばかりの見知らぬ男にあれこれ聞かれるのは彼女も嫌だろう。
そんな風に思考をめぐらせていると、彼女がカタッと椅子を鳴らして立ち上がる。
「あの、本当に今日はありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません。お借りした洋服はクリーニングに出して後日きちんとお返ししますので。だから、私……帰ります」
「――っえ? ちょっと待って!」
あまりにも突然の言葉に、つい引き止めてしまう。
「……でも、お仕事も途中のようですし」
彼女は開きっぱなしのノートパソコンに目を向けて申し訳なさそうだ。
「いや、今日の仕事はもう終わったから大丈夫! あの、さ……」
ここで彼女を帰してしまったらもう二度と会えない。俺はたった今聞いた彼女の名前しか知らない。
「えっと、さっきまであんなだったし、無事に帰れるのか心配だなって……」
「まだ電車も動いている時間なので大丈夫です」
「それでも――」
彼女の過去も事情も何もわからない。自分は部外者だ。だけど…………。
「そうだ、連絡先! 家に着いたって連絡くれるだけでいいから、そのために教えて!」
「あ……はい」
おずおずとバッグから取り出したスマートフォンを半ば強引に受け取って連絡先を交換する。彼女が俺に連絡をくれるかなんてわからない。それでも、彼女とのつながりができた。
「……本当に駅まで送らなくていいの?」
「はい、傘まで貸していただいてありがとうございます」
もう少しだけ一緒にいたかった。でも、名残惜しさよりも彼女の表情が少しだけ柔らかくなったことへの安堵の方が勝って、素直に見送ることにした。
「……とりあえず、帰ったら一言でいいからメールして」
「優しいんですね、リョウさん。わかりました」
口元を隠してクスッと微笑む彼女。これが初めて見せてくれた笑顔だった。
気を付けて、と手を振る俺に向かって深々とお辞儀をして歩み出す彼女の背中を少しだけ見守ってから店内に戻る。
「意外だね、亮くんが特定の女の子に必死になるなんて」
俺たちの様子を遠目で窺っていたヤマさんがからかうように言う。
「人聞き悪いすっよ、それじゃあまるで遊び人みたいじゃないですか」
「いやいや、そういうことじゃなくてね。いつも女の子の方が亮くんに必死になっていたものだからさ」
とっさにフォローの言葉を入れてくれるが、ヤマさんは俺が学生だった頃から知っている。だから彼女をとっかえひっかえしている遊び人に見えていたとしても仕方がない。正直なところ、これまでどんな子と付き合ってもなんだか物足りなくて、本気になったことは一度もなかった。簡単に手に入って心を許すような人にはそそられなかったんだ。
だからこそ、しのぶちゃんのどこか孤独で他人とは一線引いているような雰囲気に惹かれたんだと思う。
*
(もうこんな時間か……)
カフェからほんの一駅。帰宅して壁掛け時計に目をやると二十四時をまわりそうだ。
親父の名義で借りている富裕層向けの高層マンションの一室は一人で住むには広すぎるが、自身の立場を考えれば不相応ということもないだろう。友人たちも頻繁に訪れては羨ましがっていて、その様子を見ているのも悪い気がしていなかった。
(あの子、スマートフォンもだいぶ古い型だったし、身なりからして生活に困っているのだろうか……)
――チャラン♪
静寂に包まれた部屋に聞き慣れない通知音が鳴り響く。
(もしかして……!)
慌ててリビングのテーブルの上に置いたスマートフォンを手に取ると、ディスプレイには『柊しのぶ メール1件』の表示。
【送信者】柊しのぶ
【件 名】ありがとうございました。
【本 文】夜分遅くに失礼いたします。先ほどは本当にありがとうございました。無事に帰宅しましたのでご安心ください。お仕事あまりご無理なさらないでくださいね。
メッセ―ジアプリを入れていないという彼女に合わせて、もう何年も使っていなかったキャリアのメールアドレスを交換した。取引先に送るような堅苦しさに距離を感じて少し寂しくなってしまうけれど、自分があんな状態だったのに俺を気遣う言葉に彼女の優しさを感じていた。
【送信者】川田亮
【件 名】Re: ありがとうございました。
【本 文】無事に帰れたようでよかった。風邪ひかないように今日は暖かくしてゆっくり休みなよ。
――大丈夫?
――悩みがあったらいつでも相談して。
そう送ろうか悩んだけれどやめた。彼女とはきっとまた会える。いや、会うんだ。
とりあえず連絡が来たことに安堵し、この日は眠りについた。
第3話 差し伸べられた手
再会は、意外にもすぐだった。
あれから五日後、会社帰りにいつものカフェに向かうと彼女の姿があった。どうやら先日ヤマさんから借りた洋服を返しに来たようだ。お礼の品らしき紙袋も一緒に渡している様子からとても律儀な人だということがわかる。
「あ、亮くんいらっしゃい」
カランコロンと鳴るドアの音で俺に気が付いたヤマさんが声をかけてくれる。
「こんばんは、しのぶちゃん来てたんだね」
「リョウさん、先日はありがとうございました」
丁寧に指先をそろえ、深々と頭を下げてくれる。そのわきにはまるで海外にでも行くような大きなキャリーバッグ。肩にかけているトートバッグも小柄な彼女には似つかわしくないほど大きい。
「すごい荷物だね。旅行?」
「あ……えっと……ちょっと家にいられなくなってしまって……」
「え? こんな時間だけど大丈夫なの?」
「……とりあえず今日は大丈夫です」
気まずそうに俺からすっと視線をそらし、それだけ言うと黙り込んでしまった。踏み込んでほしくないことだったのだろうか。
「……しのぶちゃんは」
「…………はい?」
俺の言葉に一瞬びくっと怯えた表情を見せる。他人への警戒心なのか、恐怖心なのか、彼女の抱えている問題はきっと自分には想像もできないほど重いものなのだろう。名前を聞いて、メールをもらって、ほんの少しだけでも心を開いてもらえたのではないかと思ったのは淡い幻想にすぎなかった。
「そんなに気を張らないでよ。しのぶちゃんは甘いもの好き?」
「甘い……もの?」
「そう」
「……好き……です」
予想外の質問だったのだろう。言っている意味がわからないという表情で返事をする。
「そんなに時間は取らせないからさ、ちょっとだけ俺に付き合ってよ」
「あ、え?」
強引に彼女の腕を引いて先日と同じ窓際のソファー席に座らせる。終始困惑した様子でいるのを見ているとちょっとだけ心苦しいが何も彼女を問い詰めようっていうわけではない。
「ヤマさん、ブレンドコーヒーとショートケーキを二つずつで」
「はい、かしこまりました」
「え? あの?」
この席に座らされた意図に気が付いたようで、さらに慌てて俺とヤマさんをきょろきょろと交互に見る姿がなんだか小さい子どものようで可愛らしい。
「甘いものを食べてるときって幸せだろ? ヤマさんのお手製ショートケーキは本当においしいから食べてほしくてさ」
こんな気持ちは初めてだ。誰かの笑顔を見たいなんて、そんな心が温かくなる感覚。彼女を可哀そうだと思ってそうしたのか、惹かれたからなのか、明確な理由はわからない。
でも、なんだか放っておくことができない。それだけは確かだ。
初めて会ったあの雨の夜、温かいコーヒーを口にして「おいしい」と彼女は涙を流した。でも今日は、陰りのない眩しい笑顔を見せて同じ言葉を言ってくれた。
そこから張りつめていた緊張の糸が少しだけほぐれたのだろうか、ぽつり、ぽつりとだが自分の話をしてくれた。
なんでもあの晩泣いて深夜の街を徘徊していたのは職場でのトラブルが原因だったらしい。その詳しい内容までは話してくれないが、自分が原因で働いていた店に迷惑をかけて辞めざるを得なくなってしまったそうだ。そして彼女が住んでいたところは店長が管理するアパートだったから今日までに出て行かなければならなかったのだとか。
「じゃあ仕事も住むところもなくなったってこと?」
「……そう、なんです」
先ほどの笑顔はすぐに消え去り、唇を噛みしめてうつむく姿が痛々しい。
「……それで、行くところはあるの?」
「ここからすぐのところに安く泊まれるホテルを見つけたので今日はそこで」
「でもずっとそこにいるわけにもいかないでしょ? 友達とか、実家とか頼れるところは?」
「………………」
長い沈黙。それで察した。彼女には頼れる人も行くあてもないのだと。
俺の住むマンションの部屋なら一人増えてもどうってことはないし、仕事も親父に相談すればきっと紹介してくれる。彼女がしばらく困らないくらいのお金を渡したところで俺の生活には何ら支障はない。そんなことが頭をよぎるが、きっと彼女はそれを拒否するだろう。これまでの少ないやり取りだけでも彼女がどんな返事をするかだけははっきりとわかる。
(どうしたら…………)
その沈黙を破ったのはおかわりのコーヒーを運んできたヤマさんだった。
「柊さん、うちでアルバイトするのはどうだい?」
『――え?』
二人の声と視線が揃う。
「歳のせいか最近膝が痛くて一人で全部をやるのは大変でね。注文を受けてコーヒーや料理を運んでくれるスタッフがほしいなと思っていたんだよ」
「……私……が……?」
目を丸くして、ヤマさんの言葉に驚きを隠せないといった様子だ。
「君みたいな礼儀正しくて可愛らしい子が入ってくれたらお客さんも増える気がしてね、どうだい?」
「そ、そんな……私にはそんな……」
頬を赤らめて必死に否定しているがヤマさんの言う通りだ。彼女がここで働くのなら俺だって今まで以上に通い詰めるだろう。
「あんまりいいお給料は出してあげられないけど、その代わりに二階の空き部屋を使ってもらうのはどうかな? 息子たちが家を出てしまってから寂しくてね。たまにでいいから私と妻の話し相手にもなってくれないかな?」
このカフェはヤマさんの自宅の一階を改装して開かれた。元々夫婦と息子二人で暮らしていたが、二人とも成人して家を出てしまってからというもの正月くらいしか帰ってこないらしい。
今の彼女にとってはこれ以上ないいい話だ。だけど、彼女は沈んだ表情をしている。
「しのぶちゃん?」
「迷惑……だったかな?」
「…………どう……して」
消え入りそうな小さな声。彼女の顔を覗き込むと大きな瞳いっぱいに涙をため込んでいた。
それを見て一瞬驚いたけれど、すぐに安堵の気持ちの方が勝った。
「どう、して、私なんかにこんなに良くしてくれるんですか?」
「しのぶちゃん、私なんか、そう思うのはやめなよ」
「――でも」
「それも。そうやって否定ばっかりされたらこっちが悲しくなる」
「あ……すみません」
低すぎる自己肯定感。自分を否定するのもとっさに謝るのも癖になってしまっているんだろう。これは先日仕事を辞めることになったからではなく、もっと昔から、育ってきた環境や周囲の人たちが彼女をそうさせたんだと思う。
「過去に何があったかは知らないけどさ、こんなに美人なのにそれを鼻にかけることもしないし、言葉も振る舞いも丁寧で謙虚だし、そんな様子を見て素敵な人だなって思ってるんだよ。ヤマさんだってしのぶちゃんがいてくれた方がいいって言ってるんだし、ちょっとくらい好意に甘えたら?」
「…………本当に、いいんですか?」
「柊さんがいいと言ってくれるなら大歓迎だよ」
「……ありがとう……ございます」
彼女の瞳から涙が堰を切ったようにあふれ出す。それを見て俺もヤマさんもほっと胸をなで下ろした。
固く閉ざされていた心の扉がほんの少しだけ開き、ようやく差し伸べられた手を取ってくれた。
*
The opposite of love is not hate, it’s indifference.
The most terrible poverty is loneliness and the feeling of being unloved.
――愛の反対は憎しみではなく、無関心です。
――最も悲惨な貧困とは孤独であり、愛されていないと感じることです。
これは、マザー・テレサの言葉だ。
両親から心無い言葉をかけ続けられ、学校でもいじめられ、社会に出てからも厄介者扱い。唯一心を許した人からも否定され嫌がらせを受けた。
でも、誰も私を無視することはしなかった。孤独で誰からも愛されていないと感じていても、私への愛はまだこの世のどこかにあるのかもしれない。
そんなことをいつも考えていた。