『75分の1の殺意』
降谷さゆ著
ミステリー
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
心が壊れてしまった。家族も、恋人も、仕事も失った。居場所はもうどこにもない。 行くあてもなく彷徨っていた土砂降りの夜、暖かく灯る光があった。 そこでの出会いが、彼の存在が、私の運命を大きく変えていく。第1話 暖かく灯る光
Losers live in the past.
Winners learn from the past and enjoy working in the present toward the future.
――敗者は過去に生きる。
勝者は過去から学び、未来へ向かって、現在を楽しんでいる。
昔、心理学の授業で耳にして心にぐさりと突き刺さった言葉。
世界的にも著名なアメリカの脳力開発研究家で人間行動学博士の言葉だ。
両親から嫌われないように、学校でこれ以上いじめられないように、社会から浮いた存在にならないように、私は私自身が「普通であること」をずっと求めてきた。
家族と笑いあったり、友人とたわいのない会話をしたり、恋人と想いを通わせたり、そんなことを望むのは贅沢で私にとっては夢のまた夢。
未来へ向かって……? 現在を楽しむ……?
そんなこと一度だって考えたことがなかった。考えることをとうの昔に諦めた。諦めるしかなかった。
周囲の環境がそうさせたのか、私自身の性格がそうさせたのかはわからない。ただ、何をするにも浴びせ続けられた私を蔑み否定する言葉が呪いのように心を蝕み思考を停止させる。
そんな私は過去に囚われた「敗者」なのだろう。
「……消えたい」
この言葉を、何度口に出しただろう。涙がとめどなくあふれて、何度拭っても止めることはできなくて、身体を濡らす雨の冷たさも相まって虚無感を一層強く感じさせる。傘も差さずにずぶ濡れで深夜の街を徘徊する私に向けられた奇異の目も、もうどうでもよくなった。
――君のせいで。
――存在が迷惑。
――人として恥ずかしい。
――いなくなってくれた方が助かる。
つい先刻、店長から吐き捨てられた言葉が頭の中でこだまする。
「……私……だって…………」
必死だった。ずっと、ずっと必死だった。自分の選択が間違っていたことくらいわかっている。それでも、生きるためにはそうするしかなかった。
人は生まれながらにして不平等だ。どんなに足掻いても、泥にまみれても、泣き叫んでも、私の望みは何一つ叶わない。それなのに世の中には何の苦労もなく幸せな暮らしを送っている人がたくさんいる。
悲しい、苦しい、寂しい、つらい、悔しい……。私の心を支配するのはいつだってそんなネガティブな感情ばかりだ。
(…………助けて)
その一言が喉の奥に詰まって出てこない。
誰も助けてくれないことがわかっていたから。
(――消えたい、消えていなくなってしまいたい)
……自分がこの世からいなくなっても悲しむ人は誰もいない、でも、そうわかっていても自ら命を絶つことは怖い。
もう、どうしたらいいのかわからない。何も考えられない。考えたくない。
行くあてもなく歩き続けてきたその足を止め、真っ暗な空を仰ぎ冷たい雨粒を全身で浴びることしかできない。
「――さん!」
誰かの張り上げた声。聞こえたと同時に強く腕を引かれ、反射的に振り返る。
「――ちょっと、お姉さん! 何してるんだよ!」
身体の熱を奪い、痛いほどに叩きつけていた雨がふと降り止む。少し遅れて、目の前の男性が私に傘を差してくれていることに気が付いた。
「……傘、忘れたの? ずぶ濡れじゃん」
私の顔を見て一瞬驚いた表情になる。泣いていたことに気が付いたのか、口調が優しくなる。
「俺、そこのカフェにいて、とりあえず一回中に……」
「…………です」
「え?」
「……大丈夫……ですから」
彼の手を振りほどこうとした。でも、それをさせてくれなかった。
「女の言う『大丈夫』は信用ならないんだよ、いいから」
少し怒ったように、有無を言わせないように再び強く腕を引かれる。もう抵抗気力もなくて、彼に連れられるがまま暖かな明かりを灯すその店に足を運ぶ。
カランコロン、と控えめに店内に響く鐘の音。冷え切った心と身体を溶かすような暖かな店内。ふわりと漂うコーヒーの香り。
落ち着いたアンティーク調の装飾が施された店内にはカウンターの奥に店主と思われる年配の男性が一人だけ。窓際のソファー席には彼が座っていたのだろうか、飲みかけのコーヒーカップとノートパソコンが置かれている。
「ヤマさーん、タオルある?」
彼は店主と親しいのか慣れた様子でカウンターの奥に入っていく。そしてほんの二、三分するとタオルを何枚も抱えて入口の前で立ち尽くす私の元へ戻ってきた。
「春とはいってもこんなに濡れたら寒いでしょ? この奥の個室使っていいって言ってたからとりあえず拭いたらこれに着替えてきなよ」
茫然としている私に手渡してくれた紙袋。そこにはこの店の扉に描かれていたものと同じロゴが入ったトレーナーと店主の奥さまのものだろうか、花柄のロングスカートまで入っている。
言われるがままに彼が指差した先の個室の方に向かい、その途中で店主にお礼の言葉を伝えると事情は何も聞かずにくしゃっとした柔らかい笑顔を向けてくれた。彼が私のことを話してくれたのだろうか。
今の私にとって、こういう気遣いがとてもありがたい。
着替えを済ませて部屋を出ると、店主が彼の隣の席に案内してくれた。そして、芳ばしい香りを漂わせた淹れ立てのコーヒーまで用意をしてくれて、小さく会釈だけすると再びカウンターの奥へと戻っていった。何から何まで至れり尽くせりで申し訳なさと感謝で胸がぎゅっと締め付けられる。
「…………おいしい」
ぽつりと、その言葉と一筋の涙が自然にこぼれる。
隣の席に座る彼は「リョウ」と名乗った。
ツーブロックのブラウンヘアーに綺麗にかけられたパーマ、自信にあふれたキラッとした大きな瞳、さりげなくもハイブランドばかりの持ち物。私とは住む世界が違う、そう感じるのに、人懐っこくてちょっと強引な物言いからか初対面ではないような気さえして、先ほどまでの強張った心がほぐれていく。
この日の彼との出会いが、私の運命を大きく変えることになる。
第2話 彼女とのつながり
平日二十二時過ぎ、コーヒーの香りが漂う店内の窓際の一角が俺の特等席。
同僚たちは自宅で夕食後の団欒のひとときを過ごしている頃だろう。だけど俺はそうはいかない。親父が社長を務める会社に入社して早八年、将来的に継ぐことになるとはわかっていたが、突然この春に常務就任を言い渡され、各部門の資金繰りやら親父の補佐やら重役を押し付けられるようになって団欒どころじゃない。週に二、三日は終業後もこうして行きつけのカフェで経営会議の資料に目を通したり報告書の作成に追われている。
親の七光りなんて言って俺をよく思わない社員は多い。決して不真面目なわけではない。学生時代は生徒会の会長、部活動でも部長として活躍していたし、それなりに偏差値の高い大学で成績上位をキープしてきた。そして社会人になってからも同期よりも成果を出し続けてきたつもりだ。
ただ、クラブやキャバクラ通いといった派手にお金を使う夜遊びや、周りと比べて派手な身なりなんかにケチをつけて不平不満を漏らす輩が多いようだ。
――次期経営者らしい振る舞いを。
――社会人らしい服装や髪型を。
そんなお説教は聞き飽きた。大勢に紛れて何になるっていうんだ。そんな平凡なやつらに好き勝手言われ続けるのは癪に障る。
だからすぐに俺の実力を認めさせてやるんだ。一度認めさせさえすれば、その後の面倒ごとは平社員にでも押し付けておけばいい。親の敷いたレールになんて乗らないという人もいるようだが、うまく利用してやればいいさ。
「…………あの子」
「ん?」
食器を洗っていた店主のヤマさんが心配そうな表情で窓の外を見ている。
視線の先に目を向けると、こんな土砂降りの日にも関わらず傘も差さずに雨に打たれてふらふらと歩いている女性の姿。
「……どうしたんだろうね?」
「……酔っ払いじゃないっすか? ああいうのは放っておくのが……」
そう言いかけたとき、その女性は足を止めて顔を上げた。
遠目でそんなにはっきりと見えたわけではない。ただ、その時に一瞬だけ目に映った彼女の横顔に強く惹き付けられた。一目惚れと呼ぶには純粋さが足りなかったと思う。興味や好奇心という言葉の方が近いかもしれない。
「――俺、ちょっと行ってきます!」
考えるよりも先にその言葉が口をついて出て、気が付いたら彼女の腕を引いていた。
*
「…………おいしい」
そう言って、白く細い手で彼女はコーヒーカップをきゅっと握りしめる。
黒髪ロングに白い肌がとても映える。隣に座って初めてきちんと顔を見ると、化粧っけはないのにくっきりとした二重にすっと通った鼻筋、小さくぷっくりとした唇をしていて、とてもこんな雨の夜
一人泣いて出歩く理由があるとは思えない綺麗な人だ。
「……えっと、私……あの……」
俺の視線に気が付いて、少し驚いたような、困ったような、そんな表情になる。
「あ、ごめん。こんなにじっと見られていたら嫌だよね」
「いえ、そういうわけじゃ……」
か細く消えてしまいそうだけど、とても澄んだ声。
「俺は亮。君は?」
「――リョウ!? ……さん?」
一瞬、怯えた表情になる彼女。
「え? 何?」
「あ……いえ、ごめんなさい。ちょっと……いろいろあった人と同じ名前だったので……その、驚いてしまって……ごめんなさい」
どうやらリョウという男と何かあったらしい。彼氏か元彼か、まあそんなところだろう。
「で、君の名前は?」
「……柊、です」
「ヒイラギさん、ね。下の名前は?」
「あ、柊しのぶ、です」
「じゃあしのぶちゃん、よろしく」
ぺこりと小さく頭を下げてくれるその仕草がなんとも可愛らしい。こんなに美人なのに自信なさげで、ここに来るまでの彼女に何があったのか気になって仕方がない。でもきっと、つい先ほど出会ったばかりの見知らぬ男にあれこれ聞かれるのは彼女も嫌だろう。
そんな風に思考をめぐらせていると、彼女がカタッと椅子を鳴らして立ち上がる。
「あの、本当に今日はありがとうございました。ご迷惑をおかけしてすみません。お借りした洋服はクリーニングに出して後日きちんとお返ししますので。だから、私……帰ります」
「――っえ? ちょっと待って!」
あまりにも突然の言葉に、つい引き止めてしまう。
「……でも、お仕事も途中のようですし」
彼女は開きっぱなしのノートパソコンに目を向けて申し訳なさそうだ。
「いや、今日の仕事はもう終わったから大丈夫! あの、さ……」
ここで彼女を帰してしまったらもう二度と会えない。俺はたった今聞いた彼女の名前しか知らない。
「えっと、さっきまであんなだったし、無事に帰れるのか心配だなって……」
「まだ電車も動いている時間なので大丈夫です」
「それでも――」
彼女の過去も事情も何もわからない。自分は部外者だ。だけど…………。
「そうだ、連絡先! 家に着いたって連絡くれるだけでいいから、そのために教えて!」
「あ……はい」
おずおずとバッグから取り出したスマートフォンを半ば強引に受け取って連絡先を交換する。彼女が俺に連絡をくれるかなんてわからない。それでも、彼女とのつながりができた。
「……本当に駅まで送らなくていいの?」
「はい、傘まで貸していただいてありがとうございます」
もう少しだけ一緒にいたかった。でも、名残惜しさよりも彼女の表情が少しだけ柔らかくなったことへの安堵の方が勝って、素直に見送ることにした。
「……とりあえず、帰ったら一言でいいからメールして」
「優しいんですね、リョウさん。わかりました」
口元を隠してクスッと微笑む彼女。これが初めて見せてくれた笑顔だった。
気を付けて、と手を振る俺に向かって深々とお辞儀をして歩み出す彼女の背中を少しだけ見守ってから店内に戻る。
「意外だね、亮くんが特定の女の子に必死になるなんて」
俺たちの様子を遠目で窺っていたヤマさんがからかうように言う。
「人聞き悪いすっよ、それじゃあまるで遊び人みたいじゃないですか」
「いやいや、そういうことじゃなくてね。いつも女の子の方が亮くんに必死になっていたものだからさ」
とっさにフォローの言葉を入れてくれるが、ヤマさんは俺が学生だった頃から知っている。だから彼女をとっかえひっかえしている遊び人に見えていたとしても仕方がない。正直なところ、これまでどんな子と付き合ってもなんだか物足りなくて、本気になったことは一度もなかった。簡単に手に入って心を許すような人にはそそられなかったんだ。
だからこそ、しのぶちゃんのどこか孤独で他人とは一線引いているような雰囲気に惹かれたんだと思う。
*
(もうこんな時間か……)
カフェからほんの一駅。帰宅して壁掛け時計に目をやると二十四時をまわりそうだ。
親父の名義で借りている富裕層向けの高層マンションの一室は一人で住むには広すぎるが、自身の立場を考えれば不相応ということもないだろう。友人たちも頻繁に訪れては羨ましがっていて、その様子を見ているのも悪い気がしていなかった。
(あの子、スマートフォンもだいぶ古い型だったし、身なりからして生活に困っているのだろうか……)
――チャラン♪
静寂に包まれた部屋に聞き慣れない通知音が鳴り響く。
(もしかして……!)
慌ててリビングのテーブルの上に置いたスマートフォンを手に取ると、ディスプレイには『柊しのぶ メール1件』の表示。
【送信者】柊しのぶ
【件 名】ありがとうございました。
【本 文】夜分遅くに失礼いたします。先ほどは本当にありがとうございました。無事に帰宅しましたのでご安心ください。お仕事あまりご無理なさらないでくださいね。
メッセ―ジアプリを入れていないという彼女に合わせて、もう何年も使っていなかったキャリアのメールアドレスを交換した。取引先に送るような堅苦しさに距離を感じて少し寂しくなってしまうけれど、自分があんな状態だったのに俺を気遣う言葉に彼女の優しさを感じていた。
【送信者】川田亮
【件 名】Re: ありがとうございました。
【本 文】無事に帰れたようでよかった。風邪ひかないように今日は暖かくしてゆっくり休みなよ。
――大丈夫?
――悩みがあったらいつでも相談して。
そう送ろうか悩んだけれどやめた。彼女とはきっとまた会える。いや、会うんだ。
とりあえず連絡が来たことに安堵し、この日は眠りについた。
第3話 差し伸べられた手
再会は、意外にもすぐだった。
あれから五日後、会社帰りにいつものカフェに向かうと彼女の姿があった。どうやら先日ヤマさんから借りた洋服を返しに来たようだ。お礼の品らしき紙袋も一緒に渡している様子からとても律儀な人だということがわかる。
「あ、亮くんいらっしゃい」
カランコロンと鳴るドアの音で俺に気が付いたヤマさんが声をかけてくれる。
「こんばんは、しのぶちゃん来てたんだね」
「リョウさん、先日はありがとうございました」
丁寧に指先をそろえ、深々と頭を下げてくれる。そのわきにはまるで海外にでも行くような大きなキャリーバッグ。肩にかけているトートバッグも小柄な彼女には似つかわしくないほど大きい。
「すごい荷物だね。旅行?」
「あ……えっと……ちょっと家にいられなくなってしまって……」
「え? こんな時間だけど大丈夫なの?」
「……とりあえず今日は大丈夫です」
気まずそうに俺からすっと視線をそらし、それだけ言うと黙り込んでしまった。踏み込んでほしくないことだったのだろうか。
「……しのぶちゃんは」
「…………はい?」
俺の言葉に一瞬びくっと怯えた表情を見せる。他人への警戒心なのか、恐怖心なのか、彼女の抱えている問題はきっと自分には想像もできないほど重いものなのだろう。名前を聞いて、メールをもらって、ほんの少しだけでも心を開いてもらえたのではないかと思ったのは淡い幻想にすぎなかった。
「そんなに気を張らないでよ。しのぶちゃんは甘いもの好き?」
「甘い……もの?」
「そう」
「……好き……です」
予想外の質問だったのだろう。言っている意味がわからないという表情で返事をする。
「そんなに時間は取らせないからさ、ちょっとだけ俺に付き合ってよ」
「あ、え?」
強引に彼女の腕を引いて先日と同じ窓際のソファー席に座らせる。終始困惑した様子でいるのを見ているとちょっとだけ心苦しいが何も彼女を問い詰めようっていうわけではない。
「ヤマさん、ブレンドコーヒーとショートケーキを二つずつで」
「はい、かしこまりました」
「え? あの?」
この席に座らされた意図に気が付いたようで、さらに慌てて俺とヤマさんをきょろきょろと交互に見る姿がなんだか小さい子どものようで可愛らしい。
「甘いものを食べてるときって幸せだろ? ヤマさんのお手製ショートケーキは本当においしいから食べてほしくてさ」
こんな気持ちは初めてだ。誰かの笑顔を見たいなんて、そんな心が温かくなる感覚。彼女を可哀そうだと思ってそうしたのか、惹かれたからなのか、明確な理由はわからない。
でも、なんだか放っておくことができない。それだけは確かだ。
初めて会ったあの雨の夜、温かいコーヒーを口にして「おいしい」と彼女は涙を流した。でも今日は、陰りのない眩しい笑顔を見せて同じ言葉を言ってくれた。
そこから張りつめていた緊張の糸が少しだけほぐれたのだろうか、ぽつり、ぽつりとだが自分の話をしてくれた。
なんでもあの晩泣いて深夜の街を徘徊していたのは職場でのトラブルが原因だったらしい。その詳しい内容までは話してくれないが、自分が原因で働いていた店に迷惑をかけて辞めざるを得なくなってしまったそうだ。そして彼女が住んでいたところは店長が管理するアパートだったから今日までに出て行かなければならなかったのだとか。
「じゃあ仕事も住むところもなくなったってこと?」
「……そう、なんです」
先ほどの笑顔はすぐに消え去り、唇を噛みしめてうつむく姿が痛々しい。
「……それで、行くところはあるの?」
「ここからすぐのところに安く泊まれるホテルを見つけたので今日はそこで」
「でもずっとそこにいるわけにもいかないでしょ? 友達とか、実家とか頼れるところは?」
「………………」
長い沈黙。それで察した。彼女には頼れる人も行くあてもないのだと。
俺の住むマンションの部屋なら一人増えてもどうってことはないし、仕事も親父に相談すればきっと紹介してくれる。彼女がしばらく困らないくらいのお金を渡したところで俺の生活には何ら支障はない。そんなことが頭をよぎるが、きっと彼女はそれを拒否するだろう。これまでの少ないやり取りだけでも彼女がどんな返事をするかだけははっきりとわかる。
(どうしたら…………)
その沈黙を破ったのはおかわりのコーヒーを運んできたヤマさんだった。
「柊さん、うちでアルバイトするのはどうだい?」
『――え?』
二人の声と視線が揃う。
「歳のせいか最近膝が痛くて一人で全部をやるのは大変でね。注文を受けてコーヒーや料理を運んでくれるスタッフがほしいなと思っていたんだよ」
「……私……が……?」
目を丸くして、ヤマさんの言葉に驚きを隠せないといった様子だ。
「君みたいな礼儀正しくて可愛らしい子が入ってくれたらお客さんも増える気がしてね、どうだい?」
「そ、そんな……私にはそんな……」
頬を赤らめて必死に否定しているがヤマさんの言う通りだ。彼女がここで働くのなら俺だって今まで以上に通い詰めるだろう。
「あんまりいいお給料は出してあげられないけど、その代わりに二階の空き部屋を使ってもらうのはどうかな? 息子たちが家を出てしまってから寂しくてね。たまにでいいから私と妻の話し相手にもなってくれないかな?」
このカフェはヤマさんの自宅の一階を改装して開かれた。元々夫婦と息子二人で暮らしていたが、二人とも成人して家を出てしまってからというもの正月くらいしか帰ってこないらしい。
今の彼女にとってはこれ以上ないいい話だ。だけど、彼女は沈んだ表情をしている。
「しのぶちゃん?」
「迷惑……だったかな?」
「…………どう……して」
消え入りそうな小さな声。彼女の顔を覗き込むと大きな瞳いっぱいに涙をため込んでいた。
それを見て一瞬驚いたけれど、すぐに安堵の気持ちの方が勝った。
「どう、して、私なんかにこんなに良くしてくれるんですか?」
「しのぶちゃん、私なんか、そう思うのはやめなよ」
「――でも」
「それも。そうやって否定ばっかりされたらこっちが悲しくなる」
「あ……すみません」
低すぎる自己肯定感。自分を否定するのもとっさに謝るのも癖になってしまっているんだろう。これは先日仕事を辞めることになったからではなく、もっと昔から、育ってきた環境や周囲の人たちが彼女をそうさせたんだと思う。
「過去に何があったかは知らないけどさ、こんなに美人なのにそれを鼻にかけることもしないし、言葉も振る舞いも丁寧で謙虚だし、そんな様子を見て素敵な人だなって思ってるんだよ。ヤマさんだってしのぶちゃんがいてくれた方がいいって言ってるんだし、ちょっとくらい好意に甘えたら?」
「…………本当に、いいんですか?」
「柊さんがいいと言ってくれるなら大歓迎だよ」
「……ありがとう……ございます」
彼女の瞳から涙が堰を切ったようにあふれ出す。それを見て俺もヤマさんもほっと胸をなで下ろした。
固く閉ざされていた心の扉がほんの少しだけ開き、ようやく差し伸べられた手を取ってくれた。
*
The opposite of love is not hate, it’s indifference.
The most terrible poverty is loneliness and the feeling of being unloved.
――愛の反対は憎しみではなく、無関心です。
――最も悲惨な貧困とは孤独であり、愛されていないと感じることです。
これは、マザー・テレサの言葉だ。
両親から心無い言葉をかけ続けられ、学校でもいじめられ、社会に出てからも厄介者扱い。唯一心を許した人からも否定され嫌がらせを受けた。
でも、誰も私を無視することはしなかった。孤独で誰からも愛されていないと感じていても、私への愛はまだこの世のどこかにあるのかもしれない。
そんなことをいつも考えていた。
第4話 気にさせて
「しのぶちゃんはプラネタリウム好き?」
閉店準備をしているとき、リョウさんが話しかけてくれた。
ヤマさんのご自宅の空き部屋に住まわせてもらい、併設するカフェで働き始めて一週間。ようやくお店のメニューを一通り覚えて注文を受けたりレジ打ちをしたり、だいぶ仕事に慣れてきた頃だった。
最近リョウさんはほぼ毎日カフェに足を運んでは、困っていることはないかとか、元気にしているかとか、私を心配して声をかけてくれる。
「プラネタリウム、ですか?」
「そう、俺が担当した来月オープンする新しい施設なんだけど、プレオープンにしのぶちゃんを招待したいなって思って!」
幼い頃から夜空を眺めるのは好きだった。予定があるわけでもないし、こんなにキラキラした笑顔を向けられると断れない。でも……どうしよう……。
「……あんまり好きじゃなかった?」
悩んで答えをすぐに出せないでいる私の顔を心配そうに覗き込む。
「あ、そうじゃなくて、星は好きなんです。ただ、屋内の暗いところが苦手で……」
その言葉を聞いてちょっとだけ驚いた表情をしていたが、すぐに先ほどまでと同じ笑顔に戻ったのを見て、彼を傷つけずに済んだとほっと胸をなで下ろす。
「心配ないよ、普通の星座を紹介するだけのプラネタリウムとは違ってさ、宇宙旅行を楽しんでいるような演出なんだ。眩しいって思うくらい一面に星空が広がって幻想的なんだけど、それならどうかな?」
バッグからすっと出したパンフレットを開きながら、設備やプログラムを詳しく紹介してくれる。よっぽど思い入れの強いお仕事だったのだろうか。母親に褒められたい少年のようにその笑顔は輝いていて、ついこちらも口元が緩んでしまう。
「リョウさん楽しそう。じゃあ、私でよければぜひ」
「本当!? ……っていうか、俺が楽しそうなんじゃなくて、しのぶちゃんに楽しんでもらいたいって思っているんだけど?」
ちょっとだけ不貞腐れたように、でも照れているのか少し赤くなった頬を隠すように顔をそらしてしまった。
「あ、そうだ」
「はい?」
「もしどうしても暗いのが怖くてもさ、俺がいるから心配しないで」
「……はい、頼りにしています」
今までこんなに優しく安心できる言葉をかけてもらったことはなかった。どうして彼がこんなに私を気遣ってくれるのか理由はわからないけれど、少なからず好意的に想ってくれていることには気が付いていて、私にとっても彼は気になる存在になっていた。
あの頃とは違う。だから、もう大丈夫。
………そう、思っていた。
*
「――本当にごめん! 大丈夫?」
ペットボトルのミネラルウォーターを差し出しながら、今にも泣きそうな表情で彼は私の肩を支えてくれていた。
心配いらない、大丈夫、そう伝えなければ。だけど、息の仕方を忘れてしまったように胸が苦しい。言葉の代わりに出てくるのは冷たい涙だけ。
彼が言っていたように、本当に幻想的で素晴らしい景色が頭上に広がっていて、すべてを忘れて夢中で見入っていた。その感動は語彙力を失ってしまうほど。
だけど、上映が終わり会場の照明が落ちて真っ暗になったとき、思い出したくなかった記憶がフラッシュバックして、恐怖と孤独の闇に閉じ込められてしまった。暗闇はほんの数秒だったのかもしれない。でも、私にとってそれはとてつもなく長く感じて、過去に引き戻されるのには十分な時間だった。
脳裏に浮かんだのは少しも光が入らない真っ暗なクローゼットと掃除用具入れの中。
――お願い、ここから出して!
――怖い! 暗いのは嫌だ!
――誰か助けて!
何度も何度も、私はそこに閉じ込められた。本来なら心を許せるはずの両親とクラスメイトたちから。
泣き叫んで懇願しても聞こえてくるのは私を嘲笑する声だけで、力づくで出ようとするとさらに強い力で押し込められた。
空気がなくなったわけではない。それでもだんだんと息が苦しくなってきて、寒くもないのに身体が震え、自分がどこにいるのかさえわからなくなってしまう、そんな恐怖。
祖父母も学校の先生も見て見ぬふりで、助けてくれる人は一人もいなかった。私は人に反抗などしたことはない。やりたくないことでもなんでも、嫌な顔一つせずに受け入れてきた。だから、幼い頃はどうしてこんな目に遭うのかわからずただパニックになるだけだった。
でも、その理由がわかってからはさらに絶望した。私が何か悪いことをしたからひどい仕打ちを受けているのではなかったのだ。なんとなく気に入らない、なんとなく周りに合わせて、そんな軽い気持ちでしかない。
発言力のある一人が私を悪く言って攻撃するようになれば、それはすぐに波及する。可愛げのない顔、おどおどした話し方、自己主張できない弱い心、そんな私が目障りだったのかもかもしれないけれど、理由なんてあってないようなもの。
私が泣いて悲しむ姿を見ることで、自分たちの方が優位な立場にいるということを示して快感を得ているだけなのだ。
生きている、それだけで私は否定され続けてきた。
暗闇に閉じ込められるのは悪夢のほんの始まりにすぎない。食事に虫や洗剤が混ぜられているなんてことは日常で、持ち物や洋服を水浸しにされたり、髪の毛を切りつけられたりすることも数えきれなかった。もちろん殴る蹴るといった直接的な暴力も受けたし、服を脱がされてその写真をばら撒かれたことだってあった。
幼い私にとっての社会は家と学校だけ。その社会のどこにも私が安心できる場所はなかったのだ。
そんなことが十年以上も続けられると自尊心や自己肯定感なんて失ってしまう。だから、その後の人生だって上手くいくはずがない。
(…………この世から消えてしまえば……きっと楽になる)
何度、その考えが頭に浮かんだだろう。でも、手首を流れる真っ赤な血液を見た瞬間、かつてないほどの恐怖と孤独に襲われて、とっさに傷口を押さえて声にならない声を上げて泣き叫ぶことしかできなかった。
できない、嫌だ、痛い、怖い。私は何一つ決断をすることができない。自分の人生の終わりすら決めることができなかったのだ。
「――ちゃん!」
頭の中が真っ白なのか、真っ黒なのかわからない。
「――しのぶちゃん!」
「…………あ……私……」
ハッとすると同時に、暖かな感覚に包まれる。
「大丈夫、大丈夫だから。何も怖いことはないから、落ち着いて」
耳元でささやかれた言葉。その言葉を理解すると同時に、リョウさんに強く抱きしめられていることに気が付いた。
「私……」
ギュッと彼の背中にしがみつき、もう暗闇の中ではないということを確認する。今流れている涙は、心からの安堵のものだ。
私が落ち着くまで彼はずっと抱きしめてくれていた。
*
帰ろうか、と手を引いて歩みだす彼の足を止めたのは私だった。
「…………ごめんなさい」
「なんでしのぶちゃんが謝るの? 暗いところが苦手だって言ってたのに無理やり連れてきたのは俺なんだからそんなこと言わないでよ」
私に罪悪感を抱かせまいと無理に作った笑顔を見ているのが耐えられなかった。
「あの、星空、本当に綺麗でした。上手く言葉にできないんですけど、言葉を失うほど感動するってこういうことなんだって、えっと、本当に素敵で、あんな景色を見られてよかったです」
思いがけない言葉だったのか、彼は目をまん丸にして驚いた様子だ。
「えっと、だから、今日は誘ってもらえて本当に嬉しかったんです。最後に暗くなってしまったときは私が勝手に昔のことを思い出しただけなので、リョウさんは気にしないで――」
そう言いかけて、またぐっと引き寄せられる。
先ほどよりも強く、二人の間に隙間なんてないほどに強く。でも、その腕はとても優しかった。
「……俺にも気にさせてよ」
まるで大切なものを扱うかのようにゆっくりと彼の手のひらが私の髪に触れる。
「出会ったばかりだから信用できないかもしれないけど、あの雨の日からしのぶちゃんのことが気になって仕方ないんだ」
「…………リョウ…さん……」
「俺が受け止めるからさ、つらいとか、怖いとか、悲しいとか、そういうの全部話してよ」
信用できないかもしれないけど、と彼は言った。でも今の彼の言葉にはきっと嘘はなくて、その言葉を信じてみようと思った。
「…………はい」
あの日の彼との出会いは偶然じゃなかった。
過去を消し去り、前を向くために与えられたものだった。
そう、信じた。
第5話 信じたい
タンザニア産のキリマンジャロとエチオピア産イルガチェフェ。この二種類のコーヒー豆を七対三の割合でコーヒーミルに入れてやや粗めの中挽きになるように挽いていく。
こだわりぬいたアンティーク調のクラシックミルのハンドルを回したときの、木の葉をなでる風のような音が心地よい。
ガラスサーバーはお湯で温めておき、セットしたネルドリップに挽いたコーヒーの粉を入れ、ゆっくりと蒸らすようにお湯を注ぐ。
部屋に立ち込める香りが至福のひとときを感じさせてくれる。
「はい、どうぞ」
ソファーできょろきょろとあたりを見渡す落ち着かない様子の彼女の前に、淹れたばかりのコーヒーと先ほど一緒に買ってきたフルーツタルトを並べる。
「ありがとうございます」
緊張と遠慮が見て取れる。
「そんなにかしこまらなくていいからさ、ほら」
「はい」
コーヒーカップを両手で包み、ゆっくりと口に運ぶ様子をついまじまじと見てしまう。俯くとより引き立つ長いまつげ、細く白い指、どこをとっても絵になりそうなんて思ってしまう。
「あれ、この味って……」
「あ、気づいてくれた? ヤマさんに使っている豆と淹れ方を聞いたんだ」
もちろんヤマさんが淹れてくれるコーヒーの方が何倍もおいしいけれど、柑橘系のさわやかな香りとそれでいて深みのある苦さが気に入って、豆を仕入れて何度も自宅で試行錯誤した淹れ方だから、お店の味に近いと気づいてもらえたことが嬉しくて仕方がない。
「本当においしい。リョウさんって器用なんですね」
微笑む彼女を見てほっとする。
「よかった、やっと笑ってくれた」
ついこちらもつられて笑顔になる。
「今日は心配をかけて本当にごめんなさい。もう大丈夫ですから」
そう話す彼女の表情に見覚えがある。初めて会った日、俺の手を振り払おうとしていたあのときと同じ。
「その顔で大丈夫って言われても、もう信用しないから」
「そう、ですよね……」
「こうして家にも来てくれて、俺のこと少しは頼ってくれたと思ったんだけどな……」
意地悪を言っている自覚はある。でも、そこまで言わないと彼女は決して人を頼らない。いや、頼れないということを知っているから。
「聞いて……くれますか……?」
この日、彼女は自身の過去を打ち明けてくれた。
*
――私は、誰にも必要とされていなかったんです。
彼女の悲しい笑顔とその言葉が何度も頭の中で繰り返される。
はじめからそうだったわけではない。両親に愛された記憶もうっすらあると彼女は言った。
でも、父親が会社を辞めて酒に溺れるようになり、専業主婦だった母親が夜の街に働きに出たころから家族が崩壊していったそうだ。
日中は一切構ってくれない父親と居心地の悪い部屋で過ごし、ベロベロになるまで酔っ払った母が帰宅するやいなや両親は言い争いになり、部屋の隅で声を殺しながらその時間が終わるのを耐える日々。
やがて父親が家を出て行ってからというもの、母親の怒りの矛先はしのぶちゃんに向くようになったという。
――あなたがいるから私は自由になれない。
――可愛げもないし産まなければよかった。
――父親に似てどんくさい。
腹を痛めて産んだ我が子への言葉とはとても思えない酷い言葉を毎日のように浴びせられ、自分の存在が疎ましいものだと思い込んでいったという。
次第に人と関わることが怖くなり、髪も伸びっぱなしでお風呂もろくに入れてもらえず、ぼろぼろになった服を着まわしていたこともあって、学校に行ってもいじめの対象になって居場所がなくなってしまったそうだ。
そういったつらい経験から常に怯えたような態度が身についてしまい、はっきりものを言うこともできなくなって、社会に出てからもずっと苦労してきたことが容易に想像できる。
それでも以前勤めていた宝飾店ではしばらく波風を立てずに働いていたそうだ。ある男と出会うまでは……。
リョウスケという男と彼女が出会ったのは、彼女がその店で働き始めてすぐのこと。彼女が俺の名前を聞いたときに怯えた表情をしたのはこの男を思い出したからだろう。
このリョウスケという男は営業で店を頻繁に出入りしていて、しのぶちゃんと親しくなるまでそうかからなかったという。第一印象どおりの真面目な好青年で、彼女もその物腰柔らかな雰囲気に惹かれ、休日にデートに誘われたのを機に二人は付き合うようになったそうだ。
しかし、仕事のときに見ていたその男の姿と付き合ってからの姿はまるで別人。最初こそ彼女の容姿に惹かれたことを理由に溺愛していたが、次第に気に入らないことがあればすべて彼女のせいにするようになり、暴力を受けることも少なくはなかったと声を震わせながら教えてくれた。
自分が悪い、彼に釣り合うように変わらなければ、そう思って彼女なりに努力をしてきたそうだが、彼女自身の過去を打ち明けたときにそれが逆鱗に触れて、突然別れを切り出されたそうだ。
ようやく暴力から解放されると思ったのもつかの間、職場への嫌がらせが始まった。店長への告発文、無言電話、店への誹謗中傷の張り紙と、その行為は徐々にエスカレートしていって、彼女は同僚や店長からも責められ、その店を辞めなければならなくなった。
そしてあの雨の日、行くあてもなく彷徨っていたとき、俺と出会った。
「私は……母から逃れたかったんです……早く家から出て、私を知る人がいない街に出て、人生をやり直したかった。でも……こんな私が仕事を選べるわけもなくて、高校を卒業してからしばらくは母と同じように夜の街で働いていて……それを彼に打ち明けたら……また居場所を失って……。でも、生きるためにはそうするしかなかったんです……」
悲痛な声と止まらない涙。小さく肩を震わせて話す彼女にかけてあげる言葉がなかなか見つからなかった。
そんな奴ら忘れてしまえ、堂々と生きたらいい、そう彼女に言うことは簡単だ。でも、彼女がここまで苦しんでいる理由はもっと奥底にある。
「リョウさんは私にすごく優しくしてくれるけど、過去を知られるのが怖くて……。信じたいのに、頼っていいと言われて嬉しかったのに、また私のせいで誰かに迷惑をかけたらって思うと……私……もう……」
ここまで聞いてようやくわかった。彼女が恐れているのは両親でもいじめてきた同級生でもその男でもなく、自分自身の存在が誰かの迷惑になるということだ。
だから、伝えた。
「俺の彼女になってよ」
……って。
泣きはらして真っ赤になった目をまん丸にして、言葉の意味がわからないといった表情でこちらを見る彼女に続けた。
「つらい環境でもたった一人で足掻いて、それでいて人のことばかり気にかけて、優しいのはしのぶちゃんだよ。俺が同じ立場だったら復讐することばかり考えてほかの人のことなんて考えられないし」
「……恨んでないわけじゃないんです。私が弱いだけで、だから、リョウさんの思うような優しい人なんかじゃ……」
「俺のこと、信じたいんじゃないの?」
「それは、信じたいです」
「だったら俺の言葉を信じてよ」
「…………はい」
消えてしまいそうなほど小さな声だったけど、しっかりと頷いて答えてくれた。
「じゃあ、返事を聞いてもいいかな?」
「…………私で……いいんですか?」
「しのぶちゃんが、いいんだ」
こんなにストレートに誰かに気持ちを伝えたことがあっただろうか。でも、目の前にいるのがしのぶちゃんだから、その言葉が自然に出てきた。
「えっと……よろしく……お願いします」
「うん、よろしくね」
彼女の悲しい過去。それを消すことはできないかもしれない。
それでも、これから先は笑っていてほしい。
ほかの誰でもない俺の隣で。
誰にも必要とされていないなんて、二度と言わせない。
そう誓った。
第6話 忘れかけていた記憶
じめじめとした雨の日が続く。
彼女と出会った桜の季節はあっという間に過ぎて、朝も夜もわからないくらい空はどんよりとした灰色。数日前に梅雨入りしてからというもの、絶え間なく地面を叩く雨音が響いている。
だけど、空模様とは裏腹に俺の気分はずっと晴れ渡っていた。
「リョウさん、コーヒーどうぞ」
「ありがとう」
彼女と付き合うことになってから、お互い仕事が休みの日にはこうして俺のマンションで二人の時間を過ごすようになった。
彼女が淹れてくれる温かいコーヒー。同じ豆を使っているのに、自分で淹れるよりも格段においしくて、この先もずっと彼女にコーヒーを淹れてもらえる日々が続くといいな、なんて将来を思い浮かべては幸せを噛みしめていた。
「今日も雨ですね……」
窓の外を眺めて小さくため息をつく彼女。
「雨は嫌い?」
「好きな人の方が少ないんじゃないですか?」
「うーん、まあ、そうかもしれないし、前の俺だったら嫌いだったんだけど……」
ちらっと視線を送ると不思議そうな表情をしている。
「こうして二人きりでゆっくり過ごすのもいいなって思ってさ」
「――えっ!」
二か月近く経ったというのに、こういう甘い言葉には一向に慣れてくれない。そういうところが可愛らして、つい調子に乗って何度も意地悪のように言ってしまうけれど、言いすぎると「からかわないでください」なんてぴしゃりと言われてしまうからほどほどにしなければ。
でも、いつも疑問に思う。こんなに美人で気が利くのに褒め言葉を素直に受け取ってくれないことを。
つらい過去があったことは彼女から聞いて理解したつもりだ。だけど、普通に街を歩いていればつい目で追ってしまうくらい整った容姿をしているし、仕草や言葉遣いだってすごく丁寧で非の打ち所がない。ヤマさんからも仕事熱心だといつも聞かされている。彼女の過去を知らない人からしたら、ちょっと人見知りで気が小さく感じるだけでむしろ褒めるべきところの方が多いのではないだろうか。
「……あのさ、嫌な質問だったら答えなくていいんだけど」
「はい?」
「……前に付き合ってた男、しのぶちゃんのどこを好きだって言ってた?」
「…………え?」
彼女の表情が一気に曇る。そして察した。これはしてはいけない質問だったと。聞き方も悪かったのかもしれない。
でも、彼女の自信のなさの要因は以前聞いたことのほかにもあるんじゃないかとか、素直に褒め言葉を受け取ってくれるきっかけがあるんじゃないかとか、どうしても気になってしまった。
「いや、俺は前に言ったみたいにしのぶちゃんのいいところをたくさん知ったからさ、その男も同じところを好きになったんじゃないかってなんとなく思っただけなんだ」
「……顔は、いつも褒めてくれました。でもそれだけです」
窓の方を向いてしまい、彼女がどんな表情をしているかはわからない。でも、声のトーンから少し不機嫌になってしまったことだけははっきりとわかった。
「ごめん、今の質問忘れて」
慌てて話題を変えようと思考をめぐらせていると、彼女が続ける。
「私、自分の顔が嫌いだったんです。母からは可愛げがないって言われてきたし、学生時代はずっとみんなからブスって言われ続けてきたから……」
「え? そんなわけ……」
「ずっと、です」
大人になって急に化粧やファッションで垢抜ける人がいるけれど、彼女はたいして化粧もしていないし、子どもの頃だってきっと可愛らしかったに違いない。でも、もしかすると可愛いからこそ僻まれたのかもしれないし、彼女を傷つけたいがために酷い言葉を選んで投げつけた人もいるかもしれない。
「ごめん、嫌なこと思い出させちゃって」
「いえ、私こそ……空気を悪くしちゃって、ごめんなさい」
「……よし! じゃあこの話はここまでにしてしのぶちゃんもこっちで一緒にコーヒー飲もうよ」
「……はい」
ソファーの隣の席に手招きすると、くるりと振り返ってこちらに来てくれる。それを見てほっと胸をなで下ろした。
「……あの」
「ん?」
「ひとつだけいいですか?」
「うん、どうしたの?」
両手で持ったコーヒーカップにふーっと息をかけて冷ましながら、少しだけためらう様子で彼女はつぶやいた。
「いじめって、いじめられる側にも問題があると思いますか?」
「…………」
唐突な質問に、すぐには言葉が出てこなかった。でも、彼女はずっと悩んでいたんだろう。自分に非があったのではないかと。
それに対して、いじめる方が絶対に悪いと答えるのは簡単だ。でも、口先だけの言葉になんの意味があるだろう。きっと彼女も肯定することを望んでいるわけではない。
だから、拙い言葉だったかもしれないし、彼女の質問の答えにはなっていないかもしれないけど、本音で答えることにした。
「きっかけはさ、きっと些細なことなんだよ。なんとなく気に入らないとか、逆に自分を見てほしいとか、そんなことで。でも、誰かが始めてしまったら止めるのはきっと難しくて、同調圧力でどんどんエスカレートしていって、そこから外れれば今度は自分がいじめられるかもしれないって思ってやめることができなくて。可哀そうだなって思ったとしてもやめようとは言えないんだ。だからっていじめていい理由なんてないし、いじめられる側の苦痛なんてこれっぽっちもわかろうとしてないんだろうけど、きっと自分を守ることに必死な弱い人なんだよ」
「…………」
俺の目をまっすぐに見て静かに頷く。
「だからさ、しのぶちゃんの方がよっぽど強い人だよ」
「……そう、でしょうか……?」
「そうだよ、それに比べて俺は……」
そこまで言ってはっとする。忘れかけていた記憶がうっすらとよみがえる。
「リョウ……さん?」
「いや、ちょっと思い出して。小学校と中学校が一緒でいじめられていた女の子がいたなって。しのぶちゃんとは全然違う感じの子だったけど、ちょっと重ねちゃったかも」
もう何年も頭の片隅にさえなかった幼い頃の記憶。その子がいじめられたきっかけは思い出せないけど、雑巾を絞った汚い水をかけられたり、体育倉庫に閉じ込められたり、今思うと酷いいじめだった。俺は直接いじめたわけじゃなかったけど、関与していないといえば嘘になる。
そのことは、どうしても彼女に知られたくないと思ってしまった。
「その子は、どうなったんですか?」
向けられた視線が心を刺すようで、彼女の目を見ることができない。
「……ほぼ接点はなかったし、いじめていたのも他のやつらだから詳しいことは知らないんだ」
これ以上聞かないでくれ、そう思ってしまう自分の醜さが嫌になる。
けれど、詳しいことは知らないと言ったのは嘘じゃない。今の今まで記憶にすらなかった、という方が正しいのかもしれないけれど…。
「その子、今は笑っているといいですね」
それだけ言って彼女はコーヒーに口をつける。
「そうだね」
今の幸せを手放したくなくて、それだけ答えて飲み干した自分のコーヒーカップを持って逃げるようにキッチンへ向かった。
*
彼女からその日、それ以上聞いてくることはなかった。
近所のレストランで一緒に夕食をとったときもたわいのない会話だけで、いつもの笑顔に戻っていたから俺はそれに安心しきっていた。
だから、その日のことは忘れてしまっていたんだ。
本当は決して忘れてはいけなかった。もっと、彼女ときちんと話すべきだった。
後悔しても遅かった。
もう、戻れないところまで来てしまったのだから。
第7話 ねえ、知ってる?
光沢のある真っ白なタキシードに袖を通すと、自然と背筋がすっと伸びる。
曲がっていないか何度も確認したネクタイに再び手をかけたとき、ようやく自分が緊張しているのだということに気が付いた。
(ようやく、この日が来たんだ……!)
彼女と交際を始めてから約半年。出会ってからの期間を含めても約七か月。
世間的に見たら少し早いのかもしれないけれど、彼女と出会ってからは毎日が満たされていて、こんな穏やかな日々をずっと過ごしたいと自然に思うようになった。
これまでどちらかというと騒がしく忙しない毎日を過ごしてきた自分がこんな生活を望む日が来るだなんて、少し前までは夢にも思っていなかった。
友人たちに結婚報告をしたときも「お前は絶対に結婚しないで一生遊んで暮らすんだと思っていた」なんて言われたくらいだ。
家族にいい思い出のない彼女がプロポーズを承諾してくれるのか、大手企業の社長である親父と世間体ばかり気にする母さんが彼女の生い立ちを知って認めてくれるのか、そんな心配はあったけれど、拍子抜けしてしまうほどすんなりと結婚が決まった。
しのぶが俺の実家に来る直前、両親と俺の三人だけで話していたときは母さんだけ少し納得のいかない様子ではあったが、しのぶを一目見て親父は目を丸くして驚いていて、聞くところによるとしのぶが以前勤めていた店で親父はかなり世話になったんだという。そして、親父が快諾すると母もそれならとすぐに了承してくれた。
こんなにもスムーズに話が運んだのは彼女のこれまでの行いと人柄の良さがあってこそだ。
そんなことを考えていると、ドアをノックする音がした。
「奥さまのご準備ができましたので開けてもよろしいでしょうか?」
ドクン、と胸が高鳴る。
「――はい」
すーっとドアが開けられた瞬間、しばらく時が止まったように動けなかった。息を飲む、とはこういうことだったのか。
「…………どう、かな?」
そこに立つのはこれから一緒にバージンロードを歩く彼女。
純白のドレスに身を包んだその姿は見惚れてしまうほど綺麗で、目が離せなかった。露出が少なく首元も袖もレースに包まれているのが控えめな彼女らしさをより引き立てている。
「……似合って……ない?」
心配そうなその言葉を聞いてはっとする。
「いや! 似合いすぎてて、つい見惚れちゃった」
その言葉を聞いて、へへっと照れ笑いする彼女がどうしようもなく可愛くて仕方がない。
「みんなに自慢できるのは嬉しいけどなんだかもったいないな」
「なにそれ」
二人で顔を見合わせて笑ってしまう。まさに幸せの絶頂だ。
*
高い天井、真っ赤な絨毯が敷かれた長いバージンロード、美しいステンドガラスが施されたアンティーク調の大聖堂。一歩足を踏み出すと、盛大な拍手で迎えられる。
父親の代理として彼女をエスコートしてくれたヤマさんに一礼して、俺の腕にそっと手を添える彼女と一緒に歩みを進める。
一層大きくなる拍手に人生で一番の喜びを感じていた。
健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、俺は隣にいる彼女を守り愛し続ける。そう誓った。
過去のつらい記憶は簡単に忘れることはできないかもしれない。でも、それ以上の幸せを与え続けることはきっとできるから。
*
そんな幸せなひとときも一瞬の出来事のようだった。
緊張の糸が切れたのか、今はなんだかふわふわした気分だ。
街を一望できる高級ホテル最上階での華やかな披露宴、有名シェフが腕を振るった豪華なフルコース、百五十名を超える招待者。式の準備を始めた当初、彼女は自分にはそんな盛大な式は不釣り合いで呼べる親族も友人もいないと気にしていたが、そんな心配は杞憂だった。
幼少期から現在を振り返るようなムービーも花嫁から両親への手紙もなかったけれど、二人の思い出を詰め込んだムービーや著名人を招いた余興は大盛況。彼女も終始笑顔で俺の招待客からもたくさんお祝いの声をかけてもらっていた。
それに、ドレス姿の彼女の華麗さにみんな驚いていて、あちこちでしのぶの話をしている様子からも今日の主役は間違いなく彼女で、不釣り合いだなんて全くそんなことはなかったんだ。
披露宴が終わると、しのぶに興味津々の俺の学生時代の友人たちがぜひ一緒にと二次会に半ば強引に連れて行き、その店では俺はそっちのけでしのぶのいるテーブルの方が盛り上がっていたくらい。
偶然にも俺の友人のなかに学生時代しのぶを知る人もいたようで、「本当に亮でいいのか?」なんて冗談まで言われるくらい打ち解けていた様子だった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、二人が自宅に戻ったのは深夜だった。
しのぶがこのマンションに引っ越してきてもうすぐ一か月。つい数日前に婚姻届の提出は済ませていたが、そのときはまだ夫婦になったという実感が薄くて、だけど今日大勢の前で夫婦になることを誓って祝福してもらったことで、ようやく家族になったと深く感じることができた。
「今日は疲れたでしょ? お疲れ様、しのぶ」
隣に座る彼女の髪を優しくなでると、目を細めて心地よさそうだ。手の届くところにある幸せを噛みしめながら、今日の出来事を思い返す。
「リョウさんもお疲れ様でした」
「あ、また敬語」
「あ、そうだ」
「もう家族なんだし、他人行儀はなし!」
「はい、あ、違う。うん」
「早く慣れなよ」
そんな会話をしながら一息ついたところで、彼女が台所に立っていつものようにコーヒーを淹れてくれる。その香りが満ち足りた時間を一層特別なものにしてくれる。
……でも、幸せに浸っていられたのはこのときまでだった。
「……もう、私たちは家族なんだよね」
「もちろん」
「……じゃあ、そろそろ話そうかな」
「ん?」
ぽつりとつぶやいた彼女に聞き返すように返事をする。
「あなただけ知らないのはよくないよね」
「え、どういうこと?」
「……違った。知らないんじゃない。あなたは思い出そうとも知ろうともしないんだよね」
「だから……何を……?」
彼女が何を言いたいのか、全くわからなかった。
「ねえ、知ってる? この一杯のコーヒーに致死量のどれくらいのカフェインが含まれているか」
「…………え?」
その時の彼女の表情を一生忘れることはできないだろう。
見慣れた彼女、でもいつもの優しく柔らかい笑顔じゃなくて、企みが潜むような、背筋が凍ってしまうほどの不敵な笑みを。
最終話 逃れられない
カチ、カチ、と時計の秒針音が静まり返った部屋に鳴り響く。
暖房をつけたばかりの部屋は暖まりきっていなくて肌寒いくらいなのに、嫌な汗がじわりとにじみ出る。
彼女の笑顔が好きだった。
出会った頃は悲しげな表情ばかりだったけれど、少しずつ打ち解けて心を開いてくれたことがその笑顔から伝わるから。
だけど、今目の前にいる彼女は笑っているけれど、怖くてたまらない。
「えっと……俺が知らないって……それに、致死量って……」
「どうしてそんな顔をするの?」
「いや、どうしてって……え……?」
彼女はきょとんとした顔をしながら首をかしげているけれど、聞きたいのは俺の方だ。
「はい、どうぞ」
コトン、と目の前にコーヒーを置く彼女の仕草に一瞬びくりとしてしまう。
「…………」
「…………」
ローテーブルを挟んで向かい側に座る彼女の顔を見るのがなんだか恐ろしくて目をそらしてしまう。
「……飲まないの?」
その一言にもう一度びくりと肩を揺らしてしまう。優しさが失われたような、そんな冷たい声。黙っている俺を一瞥して彼女は続ける。
「カフェインって集中力を高めたり、疲労回復の効果があるでしょ。でもね、摂りすぎると毒になるの」
「そう……なんだ」
一杯飲んだくらいで死なないことはわかっている。でも、どうしても今目の前にあるカップに口をつける気にはなれなかった。
「ねえ、雨の日に、泣いている私と出会った日のこと、覚えてる?」
*
雨の日、泣いている彼女。
忘れるはずもない。俺がしのぶと初めて出会った日のことだ。
いつもの自分なら放っておいたかもしれない。見て見ぬふりをしていただろう。でも、彼女のことはどうしても気になってしまって、だから声をかけた。それが二人の出会い。
「もちろん、覚えてるよ。大切な思い出だから」
この言葉を口に出しながら、ようやく彼女の顔を見ることができた。
「大切……か……」
そうつぶやく彼女の声から冷たさは消えていたが、とても悲しく聞こえた。
「私、逃げ出したの。つらくて、悲しくて。でも行くあてもなくて、傘も持っていなくて」
「うん」
「そのときね、一人の男の子と出会ったの」
ほんの七か月前の出来事。春なのにその日はちょっと冷え込んだ夜だった。
「その男の子は私に何って言ったと思う?」
「そのときは……」
その日の出来事を思い返す。でも、彼女が続けたのは記憶にない衝撃の言葉だった。
「…………汚い貧乏人が俺の前を歩くな、だって」
「――え?」
「酷いよね。それで泥だらけの水たまりに突き飛ばされて、その様子を見ていた人から話が広まって、私は好奇の目にさらされて、次の日からいじめの対象になった。それで私は居場所を失ったの」
「ちょ、ちょっと待って。誰の話を―……」
そう言いかけたが言葉が続かなかった。こちらにまっすぐ視線を向ける彼女が、俺が口を出すのを許さないような気がして。
「私は、静かに生きていたの。家に居場所がなかったから、逃げ場を失いたくなくて。でも、その男の子はリーダーのような存在だった。その人の一言はそんな影響力があるのに、私の救いを求める声は誰にも届かなかった。彼と私は住む世界が違ったの」
そこまで話すと、彼女は自分のカップを口元に運び、ほんの少しだけコーヒーを口に含んだ。
「……そんな過去も……あったんだ」
「そう」
「俺が知ろうとしなかったって、そのこと?」
「これは……あなたが思い出そうとしなかったこと」
悲しみ、怒り、軽蔑、諦め……。彼女の瞳はそんな冷たい感情を映し出しているようだ。
「それって、俺は昔のしのぶに会っていた、って……こと……?」
「やっぱりあなたはそっち側の人だね」
「……そっち側……って」
どれだけ考えても、答えの欠片すら浮かんでこない。決して、俺の周りでいじめがなかったわけじゃない。むしろ日常で、ありふれていて、傍観者だった自分にはそんな遠い記憶の一つを思い出すことができなかった。
「……黒瀬しのぶ。これでも思い出せない?」
*
雨でびしょ濡れになった私に、着替えと温かいコーヒーを手渡してくれた。こんなに惨めな姿をしていても、絶望の淵から救い出してくれるような優しさに初めて触れた。
涙が勝手にあふれてきて、でもそれは先ほどまでの冷たい涙ではなくて、心がぎゅっと締め付けられるほどの暖かい涙。こんな私を心配してくれる人がいる。
――そうだ、連絡先! 家に着いたって連絡くれるだけでいいから、そのために教えて!
彼が連絡先を入力したディスプレイに目をやると、「川田亮」の表示に目を疑った。
信じられなかった。信じたくなかった。でも、改めて彼を見るとあの頃の面影が残っていて、その後彼から聞いた学生時代の話で人違いではないと確信して、幼い日の記憶が鮮明に脳裏に浮かんだ。
そして思ったの。殺したい、と。
でも、そのとき思い出したの。学生時代に授業で教わった言葉を。
Happy people plan actions, they don’t plan results.
――幸せな人は結果ではなく、行動を計画する。
私に好意を抱いた彼を殺害することはそう難しくはないと思う。でも、それで得られるのは彼がこの世からいなくなるという結果だけ。私はそれで幸せになれるわけではない。だから、私が幸せになるためにこれからの行動を計画することにしたの。
この出会いは神様から与えられたもので、特別なもの。
彼との再会は偶然なんかじゃない。そう、思うようになった。
*
「黒瀬……って、え? 黒瀬?」
目をまん丸にして驚く彼を見て、嬉しさが込み上げる。
「よかった。覚えていてくれたんだ」
「え? 嘘だろ? だって……しのぶは柊で……」
「言ったでしょ、父は家を出て行ったって。柊は母の旧姓」
「いや、だって、それでも……」
心当たりはあるけれど信じることができない、そんな様子。でも、それもそうか。
「黒瀬しのぶはこんなに綺麗な顔じゃなかった?」
「――そんな!」
「ううん、そうだよね。自分でも醜い顔がずっと嫌で死にたいとすら思っていたから」
「ちょっと待って! 全然わからないんだよ! わかるように教えてよ!」
回りくどい言い方をしている自覚はある。でも、それは彼自身に思い出してほしかったから。そして、後悔して、これから先の未来に絶望してほしいから。
「……私はあなたの同級生だった黒瀬しのぶ。そして、雨の日に酷い言葉を投げかけて私を突き飛ばしたのはあなた」
「…………俺?」
「していない? 違うよね。覚えていないんでしょ。でも、私ははっきり覚えてる」
「…………」
「あなたが私から学校という居場所を奪ったの。きっかけは些細なこと。誰かが始めてしまったら止めるのは難しい。同調圧力でエスカレートして自分がいじめられるかもしれないからやめることができない。そう言ったのはあなたでしょ? あなたにとっては些細なことだったのかもしれないけど、私は一生忘れない」
「どう……して……俺と…………」
混乱して声を荒げていた彼はもういなくなっていた。
「あなたと一緒になることが最良の選択だと思ったの」
「何が……目的で……」
「私はね、人生をやり直したかったの。そして幸せになりたかった。ただそれだけ」
その言葉に嘘はない。幼い頃からのたった一つの願い。
「……前に……いじめの話をしたとき、小学生の頃に酷いいじめを受けていた女の子が浮かんだんだ。たぶん、それがしのぶで……でも、俺は……自分がきっかけだったことは思い出せなくて、それは本当に、その……申し訳ないとしか言えないんだけど、可哀そうだなと思いながら、でも周りと一緒に笑ってて、それは覚えてて……」
ぽつり、ぽつりと、記憶をたどりながら言葉を紡ぐ彼の本心を探るように見つめる。
「そんな俺が、しのぶを幸せにできるわけ……」
「できるの」
そう、彼ならできる。富、地位、名誉、私の持っていないものをすべて持っている。
それに……。
「あなたのお義父様は与えてくれたもの。あなただってできる」
「――え? 親父……が、何を?」
ごくり、と唾を飲む音が私にまで聞こえた。
「母が夜の街で働いていたとき、あなたのお義父様が店に来たの。そして、店以外でも会うようになって、母は社長であるお義父様のお金が目当てで言いなりになった」
「それって……」
「いわゆる愛人。それが父に知られて離婚したの。時間が経ってから私もそれを理解して、母を汚いと思った。でも、今は感謝しているの。大人になって家を出てから二人が一緒にいるところを見かけて、お義父様が一人になったときに声をかけたの。そして私が娘だと言ったら驚いて、すぐに大金をくれたの。口止め料として」
「…………親父が……そんな……」
「社会的に地位がある人も大変だよね。守るものがあるから。でもね、おかげで私はこの顔を手に入れることができたの。それからキャバクラで働くようになって、お義父様が偶然いらっしゃって、あのときの私だと話したら頻繁に通ってくれるようになったの」
「――まさか! しのぶとも」
「ううん、それは違う。私が母とお義父様のことを誰にも言っていないか監視してたんじゃないかな。キャバクラを辞めたいと話したときは仕事も紹介してくれたの」
「だから……親父はしのぶを見て……そういうことかよ……」
「お義父様だけじゃないよ。私のことを知っているのは」
「……え?」
「今日の二次会にいたでしょ、共通の友人が。彼は私の苗字が変わったことを知っていて、聞かれたの。あのときの黒瀬なのか、って。だから今頃あなたの友人たちはみんな知っているんじゃない?」
「…………」
両手で顔を覆い、事実から目を背けようとする彼の肩に触れると、強く振り払われた。
「――触らないでくれ!」
「どうして?」
「しのぶは、俺と親父に復讐するつもりで結婚したのか!? 俺らを殺して、遺産が目的なのか!?」
「……違うよ」
そんな風に言われるとは思わなかった。
「とにかく、今は少し考えさせてくれよ!」
「……私は幸せになりたいの」
「だから……それはできないって……」
「できなんじゃない。やるの」
そう言い残して、冷めてしまったコーヒーを淹れなおす。
この芳ばしい香りと立ち昇る湯気、ゆったりと流れる時間が幸せを実感させてくれる。
「はい、どうぞ」
「…………」
「一杯のコーヒーにはね、致死量の75分の1のカフェインが含まれているの。たった、それだけ」
「…………どういう……ことだよ」
「あなたはきっと、この先ずっと私のことで悩み続けるでしょ。それでいいの。じわじわと私の心を蝕んでいたように、あなたも致死量に満たない毒を浴び続けてくれれば、過去を責めることはしない」
「こんな話を聞いて……ずっと一緒にいられるかなんて……」
「別れたい? 殺したくなった? でも、そんなことできないでしょう? あなたもお義父様も自分の立場が一番大切なんだから」
「…………」
彼はもう、私から逃れられない。
「あなたは私を幸せにするの。これから一生をかけて」
ー完ー