『一度で掴めたら』
桃口優著
青春
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川上湊は、ため息をついた。 何をしてもうまくいかず、いつの間にか希望をもてなくなっていた。 そんな時、彼にある出会いがあった。 その出会いが、彼を虜にし、彼自身を変えることとなっていくのだった。目 次
第1話 君に出会うため?
彼女はきらきらとしていて、僕にはまぶしすぎた。憧れを抱くということはこういうことを言うのかと彼女に出会った時に思った。
案の定、この後僕は彼女の姿を何度も探すようになる。この出会いにどんな名前がつけられるだろう。ただ簡単に『運命』とは言いたくなかった。
彼女を初めて見た時、僕の心は激しく揺さぶれたのだった。
僕は白色のヘッドホンで、音楽を聞いている。
最近ワイヤレスイヤホンが人気だけど、僕にはあれが『しめじ』のように見えるからどうにも使いたいとは思わない。多少は無理をしてでも友達に合わせることは正直よくある。でも、流行りに乗るのも毎回だと疲れてしまうし、一人の時ぐらいは自由にしたいと僕は考えている。
僕は今高校に行くために朝いつものように駅のホームで電車を待っていた。ぎりぎりの時間に駅に着くと、バタバタしてしまうのが嫌だから、かなり時間に余裕をもって駅に着くようにしている。それでもホームにはすでに人が結構いる。都心の駅ではないけど、割とこの駅も栄えたところにある。僕は高校三年生で電車通学には慣れているけど、ホームに人が結構いることは、ストレスになる。
電車が来る時間が近づいてきて、さらに人が増えてきた。
僕はスマホをタップした。
僕は音楽を聞きながらスマホで電子書籍を読むと集中ができ、周りの音がきれいにシャットダウンされるから毎日そうしている。それができるのは、僕が本を読むこと自体好きだということが、大きな理由だろう。強く共感したり、時には登場人物に自分を重ねたりと、物語の世界に没入できるから本を読むことは好きだ。本当は紙の本の方が好きだけど、電車内だとかさばるから電車通学を始めてすぐスマホで本を読むように変えた。でも好きなことに対しても、周りに遠慮してしまう自分が本当は嫌だった。
時計を見ると、八時を過ぎていた。
いつもならもう電車がきている。
どうやら運行中の電車に何らかのトラブルが起きて、遅延が発生しているようだ。
ヘッドホンを外し、電光掲示板見たり、駅のアナウンスを聞いた後、何かを考えるわけでもなくふと駅の反対のホームを見ると、一人の女性が目に留まった。
その時、その人からきらきらと何かが舞い落ちているのが見えた気がした。駅のホームだから、太陽の光りはほとんど入ってくることはないのにだ。
その人は、オレンジ一色の新品の服のようにきれいなワンピースを着ていた。たぶん僕よりも少し年上だろう。学生というよりは落ち着いた大人という感じがするから。背はかなり低く、痩せてもいる。ピアスなどのアクセサリーは一つも身につけていないのに、不思議と華やかさがあった。周りにいる他の人とは明らかに違う雰囲気がその人にはあった。
顔は、かなりかわいい。笑顔がかわいいとか、目が二重でかわいいとかいう次元ではなく、彼女の全てがかわいさでできているぐらいだ。
正直、僕のタイプの顔だった。
こんなにもぴったりと自分のタイプに当てはまる人っている? と思うほど彼女は魅力的だった。
きらきらしすぎていて、一瞬で目も心も奪われた。
今日彼女に出会うためにここに来たと思えてしまうほど、僕の胸は今熱く、そして高まっていた。
でも、そんな風に思うのと同時に、少しだけ違和感も感じた。
最近ずっと何かをしても期待する以上のことは起きず、期待すること自体を僕はいつの間にか諦めるようになっていた。
希望を持つから、求めすぎるから、がっかりするのだ。僕の人生は、自分が思うほど素敵できらきらしたものではないのだろう。
そんな風にだいぶ前に悟ったのに、また心が大きく揺らされた。淡い期待を、性懲りもなく僕は抱こうとしている。
僕は、思い切って声をかけようと思った。
周りの人は各々何かを大きな声で話している。
それでも線路を挟んでも、声は彼女の元に届くと思った。そんな確信がどうしてかもてた。
「僕の名前は川上 湊って、言うんですが、あなたの名前を教えてくれませんか」という言葉が、喉元まですごいスピードで上がってきた。この言葉が興味を引くかはわからない。でも、何か言いたかった。普段はもちろん、こんな大胆なことを僕はしない。いや、恥ずかしくてとてもできない。僕は人と話したり関わることは好きだけど、自分から話しかけるのは少し苦手だから。
でもそうしようと思ったのは、きっとこんなにかわいい人に出会えることは今後ないかもと体が本能的に感じたからかもしれない。
そんな思いを胸に彼女の方を改めてまっすぐ見つめると、彼女と目が合った。
彼女のぱっちりとしたきれいな目が、僕を捕まえたように感じた。
でも彼女は、僕を見てからすぐに何事もなかったのように他の方向を向いた。
彼女と目が合ったけど、彼女から何か話しかけてくることは当たり前だけどなかった。そもそも赤の他人が何の理由もなく、話しかけてくることはないかと僕はまた落胆した。
話しかけようと思っていたのに、彼女に見惚れて結局何も言えなかった。
それでも僕はしばらく彼女から目が離せなかった。
第2話 必ずは、会えない
あの日彼女を一目見てから、僕は一気に無邪気な子どもに戻っていった。
具体的にいえば、どこに行っても彼女を思い出し、探すようになった。
ちゃんと用事があって外に出かけているのだけど、頭の中ではいつの間にか彼女のことを考えている自分がいた。彼女のことを考えていると、近くにいないかなと辺りを見渡していた。
その場所で彼女を見つけられるという根拠はどこにもないのに、僕にはきっと会えると信じられた。
話はしていないから彼女の人柄などは一切わからない。だから、浮かぶのはいつも初めて見た時のかわいいあの姿だった。
一体どんな性格の子なんだろう。僕は、ほとんど知らない彼女のことをもっと知りたいと思うようになっていた。
会えたらこの言葉を言おうというのが、まだ明確には決まっていない。こういう出会いをしたら、なんと話しかけたらいいのだろうか。どう言ったら自然な感じになるのだろう。いや、実際に話せるとなると緊張して、きっとうまく言葉選びなんてできない。
そんな自分が簡単に想像できた。
僕が女々しいのは、小学生の頃からだ。当時も初めて好きになった子に話しかけることさえできなかった。
そんな情けない僕でも、今までは変わりたいとまで思うことはなかった。でも、今は僕が男らしかったらいいのにと強く思っている。
そうしたらこんなにうじうじせずに、彼女に話しかけられるだろうから。
もしも偶然出逢えたなら、それはすごくロマンチックだと思った。
でも、残念ながら朝のあの時間帯の駅のホーム以外で、彼女を見つけられることは一度もできなかった。
ちなみに、朝のその時間以外に駅のホームに行った時もあったけど、彼女がそこにいることはなかった。
世の中は広いのだから、偶然会える確率の方が断然低いのはわかっている。
でも、会いたいと願って会えないのは、そういう巡り合わせなのだろうと残念に感じてしまう。
そんなことを思い出しながら、今日の朝もまた僕は電車を待っていた。
僕は学生服の上に黒色のシンプルなコートを着ているけど、それでも風が吹く度に体の芯まで冷えるのを感じた。
マスクをして、僕は眼鏡もかけているからよく眼鏡が曇って前が見えにくくなる。
時間が経ち視界がはっきりした時、彼女の姿が目に映った。
彼女は、また反対のホームにいた。
線路を挟んでの距離。
直線にしたらきっと本当に数メートルしかない。
たったそれだけの距離なのに、僕にはその距離が遥か遠くに感じた。
僕の女々しさのせいだけでなく、彼女はどこか手の届かないような雰囲気をまとっているから。
僕が学校に行く時間帯だけは、いつも彼女は反対のホームにいる。
どこに行っても彼女を見つけられないけど、朝のこの駅のホームにはいつもいる。
わざわざ今いるところから大きな声を出さなくても、階段を登り彼女のいる反対のホームに行くことはそんなに難しいことではない。
でも、彼女との初めての会話をそんなありふれた感じのものにはしたくなかった。
だからといって、僕には他にいい方法が見つからず、またちらっと見ることしかできなかった。
彼女は今どんなことを考えているのだろう。
でも、あることにも気づいた。彼女はホームにいるけど、いつも電車に乗る様子はないのだ。もちろん、もしかしたら僕が電車に乗った後に、彼女が別の時間の電車に乗ってどこかに行っている可能性は十分にある。
でもその考えは、なぜかしっくりこなかった。
四六時中彼女のことを考えていたり、つい探してしまうことはおかしなことだと、自分でもわかっている。
そもそも明るく輝いている彼女に比べて、僕は暗い灰色なのだ。全然きれいじゃないし、これまで目立ったこともない。そんな僕が彼女を思っているとクラスメイトに話すと、きっと笑いのネタになるだろう。
それに、悪く捉えれば僕はストーカーのようなことをしているのだから。
頭ではそのことをちゃんと理解していても、体はそれに従ってくれない。彼女を探してしまう。行動は何もできないけど、見つけると少しだけ目で追ってしまう。
僕は本当にどうしてしまったのだろう。
そんな風に少し暗い気持ちになっていると、僕は今までどんな風に生きてきたかが自然と頭に浮かんできた。
できれば思い出したくないことだけど、浮かんできてしまった。
いつからかははっきりと思い出せないけど、もやもやが心から突然消えなくなった。いや、『いつ』かということはきっと僕にとって重要なことではない。もやもやが問題なのだ。
何か楽しいことなどをして気分転換してみても、寝て休んで次の日を迎えてもずっと心にそれは居続けている。それが僕の行動を妨げる要素に十分になった。実際に、新しいことに挑戦してみようと思う気持ちが日に日に減ってきていた。正直、もうどうでもいいと思う日もある。
それなのにと言うべきか、だからと言うべきかはわからないけど、僕は今彼女というきらきらした人を追いかけている。
それは、本当に偶然だろうか? それとも、必然と呼んでもいいのだろうか??
僕は彼女に自分自身を重ねたいと思っているのかもしれないと今更気づいた。
第3話 もう戻れない
あの日彼女を初めて見た十二月から一月が経った。
寒さは、どんどん厳しくなってきている。
空気も乾燥していて、なんだか余計に寒く感じる。
いつものように駅で体を少し丸めて電車を待っていると、「一人ぼっちだね」と誰かに言われているような気分になった。
一人だということは、やはり心細いしできれば誰かがそばにいてほしいとその時僕は確かに感じた。
冬は人恋しくなる季節というのが、身に染みてわかった。
こんな風に感じられたのも、きっと彼女のおかげだろう。
彼女がただいるというだけで、こんなにも僕は感受性が豊かになった。
でも、それと同時に僕の心は結構焦っていた。
僕はあの時から毎朝彼女を駅で見つけているのに、ずっと声をかけることができずにいた。
機会は十分にあるのに、何も行動ができない自分が本当に情けなかった。
どうして僕はいつもこうなんだろう。
人の目が気になって、肝心な時に自分のしたいことができない。
周りの人は意外と他人のことに関心がないことはなんとなくわかっているけど、どうしても何かをしようと思うと人の目が気になってしまう。
頭で理解することと実際に行動できるかは、やはり直結しないことだった。
つい何かをする前に考えすぎてしまうところが僕にはある。
僕は好奇心が旺盛で様々なことに興味を示す方だ。きっと他の人よりかなり好奇心旺盛だと思う。でも、いつも興味を示すだけで何も行動ができない時の方が断然に多い。
だから、自分のことを中途半端だなと感じている。
自信なんてとてもじゃないけど、もてない。むしろ、自己嫌悪する日の方が多い。
僕はまた考えすぎていると気づき、彼女のことを思い返すことにした。
彼女のことを考えると、どうしてか温かい気持ちになれるから。
きっと彼女は意識していないと思うけど、あの時以外にも彼女と目が合う時が数回あった。
それがなぜなのかはさっぱりわからないし、ただの偶然かもしれない。僕の方にある何か別のものを見ていただけかもしれない。
そして、そんな時僕はすぐに彼女から目を逸らしてしまっていた。
目を逸らすほどの大きな理由はないけど、なんだか気まずかったから。
また、僕には彼女に変な風に思われなくないという思いも心の端っこにあるのだと思う。
こんな風な行動をしてしまうなら、初めて彼女を見た時に声をかけておけばよかったとずっと後悔している。
時間が経つにつれて、余計に声をかけるのに勇気がいるようになるから。
僕は、この一ヶ月の間で誰にもこのことを相談していない。
親にはこのことを少しでも言おうと思わない。面倒くさいことになりそうだから。
学校にいけば、友だちは数人いる。でも、恋の悩みなんて今まで友だちに相談したことがないからどんな風にしたらいいかわからなかった。そもそも、今まで誰かに頼ることをほとんどしてこなかったから、適切な距離感を保ちながらどう頼っていいかわからない。『友だち』という集まりの中では変わった行動をすると、すぐに仲間はずれにされるから、行動は慎重にしないといけない。
また、もし真剣に恋の悩みを相談してちゃかされたり、友だちが他のクラスメイトにそのことをぽろっと話してクラス中に広まるのが嫌という気持ちもあった。残念ながら恋の悩みは、話のネタになるものだから。
でも、話さなかった一番の理由は、僕はこの思いを、誰かと共有したくなかったからだと思う。
それほどこの思いは僕にとって特別で、大切にしたいと思っている。
誰にも相談していないわけだから、当たり前だけど時間が経つごとに話しかけにくくなると誰かに言われたわけではない。
恋愛経験の少ない僕が、なんとなくそうなものだろうと感じているだけだ。
そして、今日も反対のホームを見ると、彼女がすぐに見つかった。ホームにはいつもたくさん人がいるのに、どうして毎回こんなに簡単に彼女を見つけることができるのだろう。
そして、彼女のおっとりとしていて優しげな顔は、もう戻れないと僕に強く感じさせた。
何が戻れないかというと、今までの自分、そして日常にだ。
だって僕は、彼女という素敵な人がいる世界をもう知ってしまったから。
前のように何も考えず生きていくことはできなかった。
彼女を意識しないことなんてとてもできない。
彼女は、僕にとって『希望』なのかもしれない。
それは、手を伸ばせば届くのだろうか。
僕には彼女はあまりにもまぶしすぎるけれど、光り輝く希望を掴んでみたいと思った。
そもそもずっとこだわっていた出会い方より、出会った後の時間の方が断然長いと今やっとわかった。
僕は深呼吸して、もう一度反対のホームにいる彼女をしっかりと見た。
そして、彼女のいる方に向かって足を進めた。
第4話 初雪
胸のドクンドクンという音がうるさいぐらい聞こえてくる。
その音は、僕が足を前に一歩進める度に、さらに大きくなってきているのがわかった。
足も少し震えている。
それでも、僕は一度も足を止めなかった。
止まってしまうと、やっともてた覚悟が揺らいでしまいだったから。
なんとか反対のホームに辿り着いた時、頭にぽたりと雫が落ちてきた。
雨かなと空を見上げると、雪だった。
積もるような重く激しいものではなく、風に揺られるほどのさらさらとした雪が舞っていた。
その舞う姿は、なんだか彼女に似ている気がした。
なぜそんな風に思ったかはうまく言葉にはできない。ただ雪を見た時、彼女の姿が真っ先に浮かんだ。
雪の中で彼女が笑っている姿は、すごく絵になると思った。
僕の住んでいる地域では、普段雪が降ることがほとんどない。
だから、雪が降ることはすごく珍しいことなのに、僕は目の前のことしか見えていなくて今まで降っていることに気づかなかった。
少し心を落ち着かせようと思った。気持ちばかりが前に出ていると、伝えたいこともうまく伝えられないだろうから。
今年初めての雪をじっくりとみて、心がほっこりとした。
『きれい』という言葉を、僕は自然と口にしていた。
雪は、神秘的で美しい。
そんな雪の魔法が彼女にもかかればいいなと僕は思った。
ホームに彼女の姿を見つけてさらに足を進めようとした時、彼女は爪先立ちで、片手を空に向かって高く上げていた。その手もめいっぱい開いている。
手は、きっと成人女性の中ではかなり小さい方だろう。
でも、その仕草は誰か知ってる人を遠くに見つけたわけではなさそうで、どららかというと何かに困っているように感じだった。
目もぱっちりと空いていて、手の先に集中しているから。
周りにいる人は彼女の姿を見て、少しざわざわしている。
その真剣な姿は、スーパーマーケットで届かないところにあるお菓子を頑張ってとろうとしている幼い子どものようでもあった。
しっかりしてそうな彼女のイメージとは真逆の姿を見て、そのギャップに僕の胸がまた大きく音を立てた。
彼女の予想外の行動に僕も周りの人と同様に少しは驚いたけど、もし何か困っているなら力になりたいという思いの方が大きかった。
急いで彼女の元まで行き、「どうかしましたか?」と僕は静かに声をかけた。
もちろん、本来言おうと思っていた言葉ではない。僕は、彼女と接点をもつために勇気を出して話しかけようと今さっきまで強く思っていた。でも、困っているような彼女を見るとそんなことは一瞬でどうでもよくなった。
優先順位が、がらっと入れ替わった。
彼女は手を上げるのをやめて、ゆっくりと僕の方を向いた。
彼女の動きは、どうしてこうも優美さがあるのだろう。ただ上げていた手を下ろしただけなのに、僕の心はまたぐらぐらと揺れた。
さらに、彼女にじっと見つめられて、僕は顔も赤くなってきていた。
カールされた髪は彼女に一層ふんわりとした印象をもたせ、肌の白さは美しさも感じられたから。
でも、そんな彼女の顔は、残念さが漂っていた。何度か目だけで空をまだ見ている。
どうしてそんな顔をするのかと僕は思ったけど、彼女からすぐにその感じはなくなった。
いつものように凛とした顔に戻っていた。
そのことについて、初対面の僕は聞けないと思った。
もちろん、気にはなる。
『気になる』といっても好奇心からというよりは、純粋に彼女のことが心配だった。
何か不安なことでもあるのだろうか。
でも、なんだか直感的に心の深い部分に関係していることのような気もしたし、もしかしたら誰かに知られたくないことかもしれないとも僕は考えた。
「初雪」
そんな風に僕が頭の中で考えていると、彼女は突然そう言った。
声の大きさはすごく小さかったけど、透き通っていた。
この時、初めて僕は彼女の声を聞いた。あまりにも優しい声だったから、たぶんちゃんと反応できなかったと思う。
僕は今までこんなにも優しい声をだす人に出会ったことは一度もない。
思いを強く主張していないし、一方的さもない。だからといって弱さもない。語りかけるような感じは少しあった。
僕の言葉に対する返事ではないだろうからコミュニケーションはうまくとれていない。でも、彼女の言葉に嫌な感じは一切しなかった。
まるでその言葉が、彼女の周りを丸く包み込みこむような感じがあった。
不思議な感覚の中にいる僕に対して、彼女は急に違う方向を向いた。どこか先ほどより目が輝いている気がした。
そして、まるで僕なんか見えていないかのように、何も言わずにその場から歩き出した。
「あっ、待ってください」という僕の声も、雪にかき消されたかのように彼女に届かなかった。
僕は勇気を出して話しかけたのに、何も変えられなかった。
彼女が、振り返ることはなかった。
第5話 桜の花びらが舞う
初雪が降ったあの日、僕はなりふり構わず彼女を追いかけるべきだった。
あの日からもう数日経っているのに、今でもそう強く感じている。僕はあの日を忘れることができずにいた。
あの瞬間なら、普段はできないこともできそうだったから。雪の魔法がかかったのは彼女ではなく、『僕』だった。
それは心のままに僕を前へと動かす素敵な魔法だった。
それなのに、僕はその魔法を最後まで信じられなかった。怖くなってしまった。
手の届くところに彼女がいたのに、僕は彼女がその場からいなくなるのをただ見ていることしかできなかった。
正直、今まで生きてきて後悔をすることはあまりなかった。いや、ある時から後悔しないように変わったという方が合っている気がする。満足感は得られないけど、「まあそんなものだよね」となんとなく諦めるようになったから。
でも、今ずっと後悔している。
僕は僕が思っていた以上に、彼女に夢中になっていた。わかっているつもりだったけど、予想より遥かに心を彼女に奪われていた。
そのことをあの時が教えてくれた。
どこかにある大きな歯車を回して時間を巻き戻せたらいいのにと思った。そうしたら、今度はしっかり思いを伝えられる気がした。
時間とはそのようにできていれば素敵なのにと、僕はまだ夢を見ている。
でも、当たり前だけどそのようなものはどこにも見つからず、僕は途方に暮れた。
思うだけじゃ、何も変わらないのかもしれない。でも、こんな僕に何ができるのだろう。
そして、夢を現実にするにはどうしたらいいのだろう。
何度も何度も考えたけど、何も浮かばなかった。
そうして僕は、いつもの僕にまた戻っていった。
駅のホームでただ電車を待つ毎日。
希望はないけど、苦しさも訪れない。
もう彼女を探すこともやめた。
きっと僕と彼女の人生は、今後どこかで交わることがないだろうから。
彼女に話しかけたことは本当のことなのに、僕は全部なかったことにすることにした。
ふがいなさや情けなさで、自分自身をこれ以上傷つきたくなかったから。
これは僕が今まで生きてきて、失敗から学んだ僕なりの一種の自分を守る方法だ。
硬い殻の中に入ると、傷つくことはないから。
この生ぬるい感覚を、僕は嫌いではない。優しさはないけど、僕を無闇に傷つける悪意もない。それがよかった。
季節は冬を過ぎ、春になった。
どんなことがあっても、時間とは変わることなく進んでいくことが少しだけ腹立たしかった。
僕は何事においても、そんなに早く行動ができない。すぐにへこんで立ち止まってばかりだから。
駅に向かうために、並木道をいつものように歩いていた時のことだ。
この並木道は、家から駅に向かうために毎日通っている道だ。
ここは様々な木や花が植えられて四季を感じられる。いつも人通りも多くないし、年季の入ったベンチが置かれていることから、全体的に温かみがある。
木や花の中で特に桜が立派で、春には桜を見るためにこの道を散歩する人も結構いる。
何かを考えるわけでもなく、ただ僕は顔を少し上げた。
目に映った光景が信じられず、僕は目をこすった。
桜の木の横には、彼女が立っていたから。
淡い桜色のロングスカートを履いているし、彼女はまるで桜のようだった。
彼女は前と同じように空に手を高く伸ばしている。
僕が前にどんなに探しても駅のホーム以外では見つけられなかったのに、今は目の前に彼女がいる。
僕は、その現実をどう受け入れていいかわからなかった。
目も合わさなくなり積極的に探さなくもなったのに、また彼女に出会えた。
それはもはや『偶然』とは呼べないと思った。そんな思いが、僕の背中を少しだけ押した気がした。
僕はどんな顔をしたらいいかわからなかったけど、視線を逸らすことができなかった。
でも、驚きと同じぐらい不思議さもあった。
彼女はどうしてここにいるのだろう。
風が吹いて、桜の花びらがひらひらときれいに舞った。
突然彼女が視界から消えた。
僕は慌てて辺りを見ると、彼女は目の前で転んでいた。
「大丈夫ですか?」
僕は自然と彼女のそばまでいっていた。考える前に体が動いていた。
「あっ、はい。桜の花びらを掴みたくて……」
そう話す彼女の頬は、ほんのりと赤かった。
僕はまず怪我をしてなくてよかったと安心した。たぶん少しバランスを崩したのだろう。
どうしてそんな表情をするか僕にはわからなかったけど、初めてコミュニケーションがとれて素直に嬉しかった。
それは、彼女への自分の思いを再確認したことを意味していた。
やはり彼女への思いを諦めることはできないようだ。
僕は、彼女の中に自分と似ているものがあると確信が持てた。
だからこそ、僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。
雪の日も、今日も、なぜ空に向かって手を上げていたのだろうか。他にも知りたいことはたくさんある。
さっきは桜の花びらを掴みたくてと言っていたけど、彼女にとってその行動は何を意味しているのだろう。
緊張から口の中が一気に乾いてきた。胸の鼓動もかなり早い。
でも、今度こそ彼女の心に触れるための強い覚悟をもった。
「どうして桜の花びらを掴みたいのですか?」と、僕は彼女の目をしっかりと見つめた。
第6話 奇跡
僕がそう聞くと、彼女の顔色はまるで太陽にようにパッと明るくなった。
「それは、奇跡を起こしたいから」
「奇跡ですか??」
彼女のしゃべり方は、とても柔らかった。
でも、僕は彼女の言葉が意味することがわからず、そのまま言葉を繰り返しことしかできなかった。
「そうだよ。舞い落ちてくる桜の花びらを掴もうと意識すると、なかなか一度では掴めないことが多くない?」
「確かにそうですね」
そう答えながら、勇気を出して話しかけてみると意外と普通に話せていることに内心驚いていた。
また、ぎこちなさの残る僕に対して、彼女は何か言ってきたり嫌な顔をすることはなかった。
彼女の優しさを感じることができた。
「だから、もし桜の花びらを一度で掴めたら、それは十分奇跡と呼べるよ」
彼女はキラキラとした笑顔を浮かべていた。
僕は、彼女の言うように考えたことはなかった。
確かに一度で掴むことは難しいと思う。でもそこに特別な意味を持たせることは今までなかった。
その考え方は、すごく純粋だ。
彼女は楽しそうにまた話し始めた。
「ありふれたものでも、奇跡となる得る可能性が十分ある。そして、奇跡はどんなこともきっと素敵なものに変えてくれると私は信じている」
彼女の顔が少しだけ暗くなったような気がした。気のせいだろうか。
「奇跡とはそういうものかもしれませんね。でも、どうして奇跡を信じようと思うのですか?」
僕はゆっくりとした声で、彼女に聞いた。
彼女を否定するつもりはもちろんない。
少数派の考え方は間違っているとする大人の考え方が僕は嫌いだ。数の多さだけで『正しい』と『間違っている』と決めてしまうことが僕にはどうにもしっくりこない。
誰かの考え方が自分のものと違うことは当たり前な気がする。たくさんの人がいるのに、みんな同じ考え方をしていると考える方が不自然だ。
ただ、僕は奇跡と呼ばれるものをもう信じられなくなっていた。何かを信じて、その後にショックを受けたくないから。
でも、どうしたらまた前のように信じられるようになるか知りたい気持ちもまだ心の奥にある。
「それは、私が子どもの頃にある場所で、ある話をしている人を見かけたから。その時は本当にたまたま話しているのを耳にした。実は私もその時まで奇跡を信じていなかった。奇跡が起きたからって、何も変わらないと思っていた。でも、その後もその人は同じ相手に何度も優しい声で話をしていた。日が経つにつれて相手の顔色が明るく変わっていくのを私は見た。それを実際に見たからこそ、奇跡って本当にあるんだと思うようになった」
彼女の話ぶりは、僕が奇跡を信じていないことがわかっているかのようだった。
でも、彼女はそのことについて一切触れなかった。
「私はよく『翠ちゃんは明るいね』って言われるの。あっ、私の名前は相川 翠っていうのね。周りの大人には、『翠ちゃん』って呼ばれることが多いの」
「あっ、はい」
今まで彼女を何度も見かけているのに、僕は彼女の名前すら知らなかったと今さら気づいた。見つけるだけで話してはいないのだから当たり前といえば当たり前なのだけど、恥ずかしさが急にやってきた。
だから僕は、簡単な言葉しか言えなかった。
「でも、本当はそう言われるのが、嫌なの」
そう言う彼女から切なさがこぼれ落ちた。
儚さや切なさは彼女を美しくさせる要素だと僕はずっと思っていた。でも、今は彼女から少し苦しさが伝わってきた。
彼女は、何を苦しんでいるのだろう。
「どうしてですか?」
一般的に、褒め言葉であることは確かだ。
でも、彼女がそう感じているなら、それは紛れもなく本当のことなのだ。本人しか感じないことってたくさんあって、その本人の感情が一番大切だから。
僕はいつの間にか彼女の気持ちに寄り添いたいと思うようになっていた。
「だって、私だって他のみんなと同じで、人だよ? いつ、どんな時も元気で明るいわけじゃない。でも、そう言われると、落ち込んでる時その姿を見せにくくなる。だって、周りの人は、私に『明るさ』を求めているのだから」
「確かにそうですよね。そして、僕でもそう思うようになってきますね」
「でしょ? 私は本当は毎日不安で仕方なかった。それでも明るくしているともしかしたら何か変わるかもしれないと、頑張って明るく振る舞っていただけなのに。あっ、話が少しそれてごめんね」
彼女は、頭を下げた。
彼女と話してわかったことがあった。
彼女は決して手の届かない存在ではなかった。むしろ悩み苦しんでいて、僕と全く同じだった。
「大丈夫ですよ。それがさっき話してくれた『奇跡』を起こしたいという話とつながるんですね?」
僕は彼女のことなのに、まるで自分のことのように順序立てることができた。もちろん、彼女の考えていること全てはわかっていないけど、なぜか彼女の思考がなんとなく理解できた。
「そうそう。関係のない話までしてしまったのに、ちゃんとわかってくれてすごい」
彼女はあどけない笑顔を見せた。その笑顔は無理に笑っている感じがしなかった。
「相川さんが、奇跡を起こして変えたいものって何ですか?」
僕は緊張しながら、初めて彼女の名前を呼んだ。
今なら彼女の心に手が届く気がしたから。
第7話 もし一度で掴めたら
「私のただの日常だよ」
彼女はうつむきながら、そう話し始めた。
その姿はなんだか少し幼く見えた。
「私は小さな頃からずっと入退院を繰り返しているの。突然体の内側が燃えているかのように熱くなり、激しい痛みも伴う原因不明の病に私はかかっている。太い注射を体に何十本も刺すことで、痛みを一時的に取り除くことはできる。毎日薬も飲んでいれば、命が危うくなることもない。私は注射や薬があるからなんとか生きることができている。でも、注射を刺されれば、体はしばらく動かせないし、退院してもすぐに痛みは戻ってくる。今の医療では私の病気を根本的に治すことはできなくて、対処療法しかないらしいのね。身体が動かなくなるほどの限界がきたら、入院して気持ち程度痛みを紛らわせるだけ。そんな毎日に私は光りを見出せなくなったの。先が見えない程度ではなく、どんなに考えてもこの先がよくなっている姿を浮かべることができないから。私の日常は、病院に運ばれることの繰り返しだけ。それに私はいつも一人ぼっちだった。私の親はそばにいてくれたし、いつも見舞いにも来てくれたよ。そういう意味では一人ぼっちではなかったかもしれない。でも、私の辛さや心に全然寄り添ってくれなかった。苦しさをわかろうとしてくれなかった。いくら言葉にしても、届かなかった。そんなところから私は逃げ出したの」
「だから、駅のホームにいたんですか?」
「そうだよ。普通病院を抜け出すなんてなかなかしないでしょ? とびっきりおしゃれして、現実を忘れたかった。昼間や長い時間だと病院の人にバレて絶対怒られる。朝毎日決まった時間に行われる看護師さんによる体調確認が終わってすぐのあの短い時間帯に私は病院を抜け出していた」
僕は彼女があの時間帯にしかいない謎がわかってよかったと思った。内容的には僕の予想を上回るものであったけど、そんなことよりも今彼女のことを知ることができたから。
「あの初雪の日は、突然どうしたのですか?」
僕はすぐにあの日のことを頭に浮かべることができる。
あの日の彼女は、他の日と明らかに様子が違ったから。
「あの日は、空を見上げたら雪が降っているのに気づいて、きれいだなと思った。何かにあんなにも心が奪われたのは久々だった。もっと近くで見たいという気持ちが湧いてきて、自然と手を空に伸ばしていた。雪はすぐには溶けないだろうから、この手で掴みたかったのだと思う。もし掴めたら何かが変わるかなと考えた」
「そんな理由があったのですね」
「初雪も桜の花びらもなんの根拠もないことだけど、弱い私には希望となるものがほしかった。奇跡を起これば、何かは変わるかと信じている。それはそんな大きなことじゃなくてもいい。私はただ他の人と同じように日常生活を楽しく過ごしたい。痛みに怯えるだけの毎日から抜け出したかった。日々の中に、小さいものでも希望を見つけ出せる自分に変わりたかった」
僕が彼女に「弱くないです」と言おうとした時、「でも、どちらも掴めなかったけどね。あぁ、掴めたかったなあ」と彼女は弱々しく笑いながらうつむいた。彼女の肩は揺れている。
「そんなことないです」
僕は彼女を肯定した。いや、僕が肯定したかったのだという方がきっと正しい。
「えっ⁉︎」
彼女はかなり驚いていているのか、少しだけ顔を上げ声のトーンも高くなった。
「相川さんは、日常を変えたくて自分の足で前に進みました。それは周りの人からしたら些細なことと感じるかもしれません。でも、本当は周りの人なんて関係ないです。誰かに比べられる必要もなければ、自分の行動をいちいち誰かと比べなくてもいいのです。僕は、相川さんが十分すごいと思いました」
「でも、結局何も変えられなかったよ」
まだ彼女の顔がちゃんと見えない。
「目に映る結果だけが全てではないと僕は思います。きっと他にも結果と呼べるものはまだまだあるはずです。そう考えた方が世の中がキラキラしてませんか?」
「そんなものかな」
「それに、僕は苦しんでいる相川さんを見つけることができました」
「でも、たまたま私を見かけただけじゃないの??」
彼女はそこで顔を上げた。
「確かに初めて見つけた時はたまたまでした。でも、相川さんが奇跡を起こしたくてした行動で、僕は相川さんを見つけることができました。相川さんの行動はちゃんと結果が出ていたのです。無駄なんかじゃなかった。相川さんの『助けて』という声は、確かに僕に届きましたから」
「よかった」
彼女の声から安心感を感じられて、僕はホッとした。
「しかも、相川さんを見つけられたのはちゃんと理由があったのです。僕は、相川さんの見た目のきれいさに心奪われたわけじゃないのです」
「私なんかのどこが気になったの?」
彼女は自分の価値を下げる言葉を使っている。
本当はそんな言葉を自分に投げかけなくてもいいのにと僕は心の中で思った。たとえ何かで誰かに注意されても、全ての自分を否定する必要性はないと僕は彼女に出会ってから考えられるようになった。
「僕も初めはどうしてか理由がわかりませんでした。でも、相川さんとこうして話すことで今やっとわかりました。それは、相川さんがかつての僕と似ているからです」
「あなたと似ている?」と彼女は首をゆっくりと傾けた。
第8話 僕が彼女を気になった理由
「そうです。相川さんを初めて見た時、ある雰囲気を感じました。それは、このまま一人にしておくとこの世からいなくなってしまいそうな儚い雰囲気です」
「その雰囲気が、あなたと似ているの?」
きっとよくわからないだろうに、彼女は僕の目を見て、話をじっくりと聞いてくれている。
「はい。僕は過去にとあることがあり、相川さんと同じような状態になりました。その時の僕を相川さんから感じました」
「でも『雰囲気』なんて形がないわけだし、似ているかどうかは受け取り手次第じゃないかな?」
彼女の言葉から否定というより、疑問が感じとれた。急にこんな話をされて戸惑うのは、当たり前だと高校生の僕でもわかっている。
それでも僕は、このことを彼女に伝える意味がちゃんとあると感じている。
冷や汗がすーっと頬を伝う。
「そうかもしれませんね。でも、僕と相川さんとの間には、それだけじゃない不思議なことがあったのです。もしよかったら、もう少しだけ僕の話を聞いてもらえませんか?」
「いいわよ」
彼女が了承してくれたことを確認して、僕はまたゆっくりと話し始めた。
確認をとること。それは多くの人が無意識的に行なっていることだと思う。でも、僕は誰かと話をする時には、それはすごく大切なことだと考えている。僕は、どんな時も気持ちを一方通行に伝えたくないから。言葉を受けたその人の感情も大切にしたい。
「過去に同じような状態に僕がなったとさっき話しましたよね? その話についてです。あれは僕が六歳の時のことです。僕のお母さんが余命宣告を受けました。お母さんは僕に『死』とはどのようなことを意味しているか、何度も説明してくれました。当時の僕はお母さんがそばからいなくなることが耐えられませんでした。もちろん、相川さんの絶望感の全てを僕は理解できているとは思ってはいません。少し聞いただけで理解できるなら、相川さんは今も苦しんでいないでしょうから。でも、当時の僕はもうこの世の終わりのように思っていました。一番近くにいる人がこの世ではないどこかにいってしまうことは、簡単には受け入れられませんでした。だから、毎日病院に一人で行っていました。家からは子どもの足では結構離れているし、一人で行くのは危ないのにそうしていました。でも、病室でお母さんの顔を見ると、すぐに僕は泣いてしまい、何も話せませんでした。そんな僕にお母さんは怒ることもなく、『お母さんは、大丈夫だから』と笑顔を見せてくれました。行く度にいつもそう言ってくれていました。その言葉を聞くと、なんだか安心ができました。今思えば、余命宣告を受けたお母さんが一番辛いのに、僕は何をしに行っているのかと情けないです。でも、当時の僕にはその行動が精一杯でした。会いにいけば何かが変わると信じていました。その後、お母さんは奇跡的に命を取り留め、さらには日常生活を過ごせるまでに回復しました。この話を聞いて、何か相川さんは気づきませんか?」
「もしかして、私が前に見た二人ってあなたとあなたのお母さんだったってこと?」
彼女は大きく目を開き、手を口にあてていた。
「相川さんの話を聞いた時、僕も同じように思いました」
「えっ、じゃあ、私を元気づけてくれた二人にあなたがいた。そして、実は私たちは、駅で会ったのが初めてではなく、そんなにも前に出会っていたの?」
彼女は早口になっている。
「そういうことになりますね。もちろん、僕も相川さんからその話を聞くまでそのことを知りませんでした。でも、駅で会った時、なぜか相川さんに目がいきました」
僕はそこで少しだけ足を前に進めた。
ここからが一番大事な話だから、自然と胸もバクバクと激しい音を立てている。
「かつて相川さんを元気づけたのは僕で、今相川さんのSOSに気づいたのも僕。それが、『偶然』だとは僕にはとても思えないのです。同じような苦しみを味わったからこそ、僕たちは何度も出会ったのだと僕は信じたいです。信じることや何事にも希望をもてなくなっていた僕に、相川さんは再び信じる気持ちをもたせてくれた。言葉を交わしてはいなかったけど、相川さんを駅で見かけるほどに、なぜか相川さんのことがどんどん気になるようになりました。いやもしかしたら、駅で初めて出会った時に僕の心に相川さんがすーっと入ってきたのかもしれないです。それはあまりにも自然な感じでした。まるでそうなるのが当たり前のような感じでした。とにかく、ただ僕は、この不思議な出会いに何か名前をつけたいのです。ダメでしょうか?」
「ねぇ、あなたの名前を教えてくれる?」
彼女は、いつものかわいらしい笑顔をしていた。
「えっ、はい。川上 湊です」
「湊くん。湊くんの言葉を、私は『告白』と捉えていいのかな?」
「えっ、いや、そんないきなり告白をするなんて……」
僕の顔は、一気に赤くなった。
「私のことはもう気にならない?」
彼女はどこかいじわるそうな顔をしている気がする。
「気には、なります」
「ふふ、本当に純粋ね。それじゃあ、その気持ちにお返事を返そうかな」
彼女は、そう言いながら僕の方へゆっくりと近づいてきた。
第9話 現実に希望を
「お返事を伝える前に、一つだけあるお話をしていい?」
彼女はささやくかのようにそう言った。
僕はまた彼女のことが心配になってきた。何か悩みがあるのかと思ったから。彼女のこととなるとどうやら僕は過保護になってしまうようだ。
「はい。どんなお話ですか?」
「実はね、私も湊くんを駅で初めて見かけた時から毎日こっそりと湊くんを見つめていたの」
「えっ⁉︎」と僕の声が裏声になると、彼女の耳は赤くなっていった。
「でも、自分は健康ではないから、とてもじゃないけど声をかける勇気はなかった。でも、湊くんを見つけられるとなぜか心がいつも落ち着いていった。初めはそれがある種の『安心感』だと思っていた。でもある時に、それの正体がわかったの」
話を聞きながら、彼女は今まで病気のために他の人よりたくさんの苦労をしてきたということが僕にも容易に想像がついた。
病気を患っていることは決しておかしくない。それを受けいれられない世界に優しさが足りなすぎるだけだ。
病気の人が、気を遣ったり何かを諦めるのは高校生の僕でもわかるぐらい明らかに変なことだ。
でも悲しいことに、同じようなことは当たり前のように世の中にあふれている。
「それはいつですか?」
僕には全てのことを変えることはできない。でも、もし過去に行けるのではあれば、彼女がまだ子どもの時に会いたいと思った。その頃から僕がそばにいれば辛い思いなんてさせないから。正直、恋とか愛とかはまだよくわからないけど、なんとなくこんな思いをそう呼ぶのではないかと思った。
そして、今の僕にできる最大限のことは、彼女とちゃんと向き合おうことだろう。
「駅で雪を掴もうとした時だよ。湊くん、あの時私に声をかけてくれたよね。私はあの時転んでしまったのに、湊くん以外の人は誰も私に見向きもしなかった。やっぱり私のことに関心をもってくれる人はいない。いつものように絶望していると、湊くんが近寄ってきてくれた。たくさんの人がいる中で、私に注目してくれる人が一人でもいたことがすごく嬉しかった。あの瞬間、暗闇の中にいる私に希望の光りが差し込んだ。そんな人がいる現実なら、希望をもちながらまた生きてみようと思えた。声をかけられた時は、高揚感で胸がいっぱいでほとんど反応できずごめんね。でもあの時元気づけられたというより、心が激しく動くのを確かに感じたよ」
「それって、」
「うん、そうだよ。現実も、意外とドラマチックで素敵ね」と彼女は僕の言おうとしたことがわかったようで、僕の顔を見て大きく頷いた。
「だって、私は名前さえも知らない男性に恋をしたんだから。心では恋だと気づいていないのに、体は気づいているって素敵。たとえ誰が何を言おうと邪魔しようと、絶対私たちは出会い惹かれあうと自信をもてるよ」
彼女の目はキラキラしていて、言葉も力強かった。
「それからずっと湊くんにこの気持ちをどう伝えようか考えていた。駅に行くと必ず湊くんを見つけられるけど、そこだとちょっとありふれていると思った。ありふれたものが全て悪いわけじゃないけど、私と湊くんの出会いはもっと素敵なものだと思っている。それに私って、結構変わった性格なのね。特別な告白に憧れていたし、自分がもしされたりしたりするなら絶対そうしたかった。だって思いを伝えることって、一方的なものではなく、たとえどんな結果になったとしても相手の心を動かすことだと私は思っているから。だから、駅以外の場所で、湊くんを探すことにした。何の情報もなく、もし私と湊くんがもう一度出会えたらそれはもう出会う運命だったと証明できるでしょ?」
「そんな理由もあって、桜の木の下にいたんですね」
「うん。桜を見ていると掴みたくなった気持ちは本当のことだよ。でもそれよりずっと前から私は湊くんを探していたの。私の身体じゃそんなに遠くまではいけなかったけど、いろいろな場所に行ったよ。たとえそこで湊くんに会えなくても、すごく心が満たされた。私は、湊くんのことが好きなの。もう湊くんしか見えないぐらい好きになっちゃっている。そんな私でも、いい? 長くなったけど、これが私のお返事だよ」
「はい。僕も相川さんのことが好きだから、問題なんてどこにもないです」
僕は、この瞬間に心がしっかりと通い合えたことを感じた。特別着飾った言葉ではないのに、心がゆっくりと温かくなっていった。
「よかった」
その言葉と共に、彼女の体の力が一気に抜けるのがわかった。
彼女が僕の言葉に返事をすることも緊張するという当たり前のことを、僕は考えられていなかった。
気持ちを改めて、今後もっと彼女目線を自分の中に取り入れていこうと心に誓った。
「でも、びっくりしました。相川さんが、僕と全く同じように考えて行動していたなんてさすがに思ってもいなかったです」
「湊くんと同じ?」
彼女は不思議そうな顔をした。
「そうです。僕も相川さんをずっと探していました。相川さんとの出会いをどうしても『普通』のものにしたくなかったから。何か心にずっと残るような素敵なものにできないかと考えていました」
「えっ、私たちそんなところまで同じだったの?」
彼女は目を大きくしていた。彼女の表情は、いい意味で本当によく変わる。
「そうみたいです。僕も変わり者ですね。いや、もし僕と相川さんが空に浮かぶ星なら、きっと近くで互いを照らしあう星ですね」
「その響き、素敵」
まだ空に星は浮かんでいないにも関わらず、彼女は楽しそうに空を見上げた。
「そう言ってもらえてよかったです。そして、僕は今掴みたいものがあります」
「えっ、湊くんにもあるの? それ、気になる」
彼女の心地よい声を聞きながら、僕は手を前に伸ばした。
最終話 僕は君の手を
「僕が今掴みたいものは、相川さんの手です」
優しい風が吹き、僕を包んでいく。
「えっ、私の手⁇」
彼女からしたら予想外の言葉だったようで、彼女はすごく驚いている。
そんな彼女とは対照的に僕はゆっくりとさらに話を続けた。
臆病者の僕が、今は怖さを感じていない。
「そうです。僕にとっても相川さんは『希望』です。僕はこれまでずっと心に隙間が空いているような感じがしていました。何をしてもなんだかうまくいかなかったり、満足感が得られませんでした。それがどうしてかわからなかったし、どうしたらその隙間が埋まるかもずっとわからなかったです。正直、解決すること自体を最近は諦めていました。こんなもやもやも含めて僕なのかなと思っていました」
「湊くんは、そんな風に感じていたの?」
彼女の表情はがらりと変わり、優しい目で見つめてきた。
その瞳は、母親が愛する子どもに向ける愛情にも似ているかもと僕は感じた。
「はい。でも、相川さんは、そんな僕を一瞬で変えてくれました。さらにそれだけじゃなく、僕は相川さんのおかげで自分がずっと求めていたものがわかったのです」
「それは何?」
彼女はまだ僕の心配をしながらも、僕が見つけたものに興味を示していた。
やっぱり僕たち二人は心の深い部分が同じだと、その時僕は確信した。彼女も僕と同じように自分を肯定できる何かをずっと探しているようだから。
「僕には、『支え合う人』が必要だったのです。僕は相川さんがいることで、元気をもらっていました。相川さんに初めて出会ってからずっと心を支えられていました。相川さんもさっき僕のことを希望と言ってくれましたよね?」
僕の顔は今少し、いやだいぶ赤い。
彼女の言葉をただ繰り返しただけなのに、本当に心って不思議だ。
「うん。今も湊くんは私にとって希望だよ」
そんな僕の様子は気にもしないように、彼女ははっきりとそう言った。
「改めてそう言ってくれてありがとうございます。僕は心のうちをこんな風に話せる相手に、そもそもなかなか出会えないと思っています。もちろん、どんな人も誰かに恋をするでしょう。でも恋人同士になっても、相手と心を完全に通わせられている人って意外と少ない気がします。それは僕にはまだ全てはわからないですが、たぶん様々な理由で本音を言えなかったり、我慢してしまうのでしょうね」
「確かにそうかもしれないね。好きだからこそ言えないこともあるとかいう言葉もよく聞くからね。あとは、そもそも恋はするけど、相手のことをちゃんと考えていない人もいるね」
「どんな時も全てを話す必要性はないかもしれませんが、僕にはそんな関係性は少し寂しく感じます」
「わかるわかる!」
彼女は共感してくれた。同じ風に考えている人がいるとわかることはすごく心が落ち着く。
「そして、僕はこうも思ってます。相手がそのような人だと会った瞬間にわかるものではないでしようか?」
「私も湊くんの考え方はロマンティックでいいなって思う」
「僕は会った瞬間に、相川さんと出会うためにこれまで生きてきたとわかりました」
「ありがとう」
彼女の五文字の言葉から僕はたくさんの感情を感じることができた。言葉とは長ければいいというものではないのかもしれない。
「だから、僕は相川さんの手を今しっかり掴みたいです。そして、もし掴めたら決して離しません。すぐに完璧にはできないかもしれないけど、もう相川さんを絶望させないです。僕は相川さんの心の支えになりたいです」
「それは病気も含めて、私を受け入れてくれるということ?」
「そうです。相川さんが何に苦しんで、どんな時辛いかもっと教えてほしいです。病気はすぐに治らないかもしれないですが、そばに自分のことを本気で思ってくれる人がいると気持ちもだいぶ違うと思います。そもそも相川さんが苦しんでいるのに、僕は何もしないということはとてもじゃないけどできないです」
「かっこよすぎるよ」
彼女の頬を大粒の雫が流れた。
僕は彼女の手をゆっくりと掴み、抱き寄せた。
「どんな奇跡よりも、僕が相川さんを照らします。たとえそれが相川さんの心にすぐに届かなくても、何度でも僕は伝えます。諦めることはもうしないと自分自身と約束をしましたから」
「もぉ、さっきの私の言葉、本当に聞いてた?」
彼女は少しおどけながらも、しっかりと抱きしめ返してくれた。
「うん、照れさせてごめんね。僕は、相川さんの手をしっかり掴めてるかな?」
先ほど彼女の手を掴んだけど、もちろん僕はそういう物理的な意味あいで聞いているのではない。
そして、僕は自然とタメ口になっていた。特に頑張ってそうしようとしたわけではない。
「ちゃんと掴めているよ」
そう言いながら、彼女は僕の胸に顔をうずめた。
「よかった。僕たちはスタート地点に立てたね。お互いに心を通わせられたから。これから先は、」
「そこから先は、私に話させて」と彼女はゆっくりと顔を上げた。
彼女の言葉を聞き、僕は笑顔になった。
空には二つの星が並んで浮かんでいた。
ー完ー