『風花散る』
春美惜(はる びせき)著
ファンタジー
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病を患う母と暮らす少年 吉太(きちた)と、神の遣いと言い伝えられる白い鴉の物語。江戸を中心に流行っている病はある陰謀によるものだった。第1話
あの、と声を掛けるも、少年は無視をされた。それもそのはず、あまりにも汚らしくみすぼらしい格好ゆ え、物乞いとでも勘違いをされたのだろう。少年はただ道を聞きたいだけであったが、通る人に片っ端から 声を掛けても即座に逃げられてしまっていたため、かれこれ四半時は同じ場所で立ち往生していた。
「 あんた、困るんだよ。さっきからあんたがここに突っ立ってるせいで、客が寄り付かなくなってるじゃねぇか」
ついに少年は叱られてしまった。当然のことである。なんと言っても、ここは蕎麦屋の前だ。 顔は泥塗れで、着物はあちこち破けてしまっている。おまけに裸足だ。こんな格好をした人間が目の前に突 っ立っている状況の中、誰も飯を食いたいとは思わないだろう。少年は仕方なく場所を移動することにした。 歩いている途中、水溜まりに映る自分を見て、初めて自分がとんでもなく汚れていることに気がついた。 まずは着物を買うべきなのだろうが、少年は一文無しである。とりあえず川で顔を洗い、ついでに足も洗っ た。一通りこびりついた泥を落とし終えてひと息ついていると、溜まっていた疲れがどっと吹き出したの か、少年はその場で眠ってしまったのだった。 「 おい、生きてんのかい」 少年が目を覚ますと、隣に三十手前くらいだろう男が腰掛けていた。 「 お、生きてんな 」 男はニヤリと笑った。肌が黒く日焼けしているせいか、唇の隙間からのぞく歯の白さが 際立っている。 「 ええと……」 戸惑いつつも、少年は男に話しかけた。 「 おれァ、ただのもの好きさ。川辺でひとが倒れてるんで、殺しでもあったのかと思えば、ただ眠っている だけのお前さんがここにいた。それだけだ 」
もの好きなだけでなく喋り好きでもあるようで、男は少年の隣にくるまでの経緯をペラペラと喋った。
「 そいでお前さん、なんだってこんなとこで眠ってたんでい 」 男は生粋の江戸っ子、とでも主張しているような口調で続けざまに喋った。
「 人探しをしていたのですが、あいにく見つけることが出来ず、気がついたら疲れて眠ってしまっていたの です」
「 そうかい、おれァ与作だ。お前さん、名前は 」
「 えっ、あぁ…これは失礼を…申し遅れました、名は吉太と申します 」 吉太は、他人に名前を聞かれたことも、教えたのも初めてであった。村のはずれの山奥で母と二人きりで静 かに暮らしていたので、他人と話すことがほとんどなかったのだ。
「 随分と控えめな男だこった。吉太、江戸のモンじゃあ、ねェだろ 」
「 なにゆえ、わかったのです 」
吉太は目をまんまるにした。
「 そりゃぁ、お前さんから田舎モンのにおいがぷんぷんするからでェ 」
「 な…?!きたならしい格好で悪かったですね 」 茶化す与作の言葉に、吉太はヘソを曲げたような表情をす る。
「 冗談冗談、控えめだと思ったが、意外と気が強いとこもあんだなぁ、人は見かけによらねェってこった。 で、どっから来た 」
「 會津から参りました 」
「 そりゃあ疲れるのも仕方がねェ話でい。よし、ここで巡り会ったのも何かの縁。吉太、ウチにきな 」 急な 話の展開に吉太は驚いたが、泊まるところもないので、遠慮がちに頷いた。
「 しかし…本当に良いのですか。こんなに汚れた格好であがりこんでは、家の者に驚かれるのでは…」 心配をする吉太の言葉をまるで気にせず、与作はハハ、と笑う。
「 たしかにこんな泥塗れの子供を連れ込んだら驚くだろうが、そりゃァだれだって同じさ。なァに、ウチは 兄貴とおれの男二人暮しだ。気にするこたねェよ 」
「 子供…自分はもう十六でございます 」 吉太は背丈こそ並より少しだけあったが、顔つきがやけに幼かった。ガラス玉のようにきらきらと丸い目、 ぷっくりとした唇。そして細い体つき。女子に見間違える人もいるような見た目だが、本人もそれを気にし ているようだ。
「 なんだ、もう十六なのか。お前さん、悪い男に捕まらねェように気ィつけなよ 」
「 もう捕まっているのではなかろうか…」
ボソッと呟く吉太に与作は軽いゲンコツを喰らわせた。 そんな会話を続けているうちに、与作の住む家に着 いたのだった。
「 まーた、なんか拾ってきたのかい 」
大柄な男が、豪快に笑いながら出てきた。
「 与作殿のお気遣いにて、こちらまで連れていただきました、吉太と申します 」 少し緊張気味なのか、吉太 は早口に名乗った。
「 あー、いい、いい。そんな風にかしこまりなさんな。あっしは与作の兄、作之助だ。ささ、まず風呂に入 りな」 作之助は、与作と同じく初対面の相手にも気さくに接することができるおおらかな人柄だ。吉太はそ のまま肩を掴まれぐいっと風呂まで押し込まれる。どうやら湯はもう沸かしてあるようだ。 「さぁ入った入った!!」
豪快にいいながら作之助は吉太へぽいと手ぬぐいを投げた…
「…お気遣い感謝いたします」
まだ緊張が完全に解けない吉太だが、先程よりは表情が和らいでいた。 しばらく湯船に浸かりながら、吉太 はここに来るまでのことを思い出していた。 ただひたすらに歩き、道に迷いながらも足を止めずに必死にす すんだ。少し道に迷った以外には、とくに大した問題は起きず、多少疲れたということ以外に困ったことは 起きなかった。何事もなく江戸に来られたのはこの上なく有難い事だが、奇妙だとも吉太は思った。とんで もなく巨大な人喰いグマが出るという噂がたっていた森や、旅人を惑わせ出発地点まで追い返してしまうと いう邪気を含んだ霧が立ち込めるという山、 それからあちこちで妖怪や幽霊が出るという場所を、吉太は通 ってきたのだ。この道を絶対に通らなければならないという訳ではなかったが、一番の近道がこの道だっ た。近道を探ってこの道を通った吉太だが、こんなにも危険があるとは知らなかったのだ。道をいく途中の 村の人々の噂や看板などで初めて知った。だが、引き返すにもその日は生憎の強い雨だった。どうにでもな れという覚悟と半分やけくそな気持ちでその道を選んだ訳だが、何も起こらなかったのだ。人々の大袈裟な 噂に過ぎなかったのか、はたまた運が非常に良かったのか。色々と考えたが、とにかく無事に江戸にこられ たことには違いないので、深く考えるのはやめたのだった。 風呂から上がると、食事が用意されていた。銀杏とネギの煮物に、焼いた秋刀魚。それから麦飯だった。 「おお~、上がったか。おめぇさん随分長ぇ風呂だったが、考え事でもしてたのかいな 」
作之助が持ち前のよく通る大きな声で言う。
「い、いえ。特には」 吉太は風呂に入れて貰った上に食事までいただいてもよいものかと、まだ遠慮がちでぎこちない顔をしてい た。それを察した与作がすぐさま吉太に話しかける。 「さぁさ、早く食わねェと飯が冷めちまうだろう?兄貴の作る飯は絶品なんだ。さっさと食っちまいな」 そういう与作の笑顔に吉太の表情も和らぎ、いただきます、と一言いうと箸を持った。 「うちの女房は早いうちに死んじまってね。あっしは飯なんて生まれてこのかた作ったことなんかなかった んだが、女房があの世にいっちまってから自分でやるようになったんだよ。初めはひでぇもんだったが、今 じゃこの通り、よくできてんだろう?」
吉太は作之助の話に黙って頷いた。それから気持ちを込めて、 「ええ、とても美味しゅう御座います。家は貧しく、なかなかしっかりと食事をとることがなかったもので すから、このような食事は初めてです」
死んでしまったという作之助の妻の話には触れず、そう言った。 作之助は、あまり人付き合いのない吉太にも良い男に見えた。体格もしっかりしていて、丈夫そうだ。そし て歳の割には肌につやがある。何より、人当たりもいい。こんなにいい男が嫁をとっていないのは不思議だ と薄々感じていたのだった。だから、話を聞いて納得した。 作之助の妻は芳《よし》といって、町でも噂になる美人だった。明るくよく働く女で、町の誰もが彼女をよ く思っていた。みなからおよしと呼ばれ年寄りにも子供にも好かれていたし、作之助と同じように人当たり がよかった。町の人は、二人の結婚をとてもお似合いだと祝福した。だが、二人が結婚して二年目の頃、芳 は不運なことに病を患った。それでも動けるうちはと作之助の仕事をよく手伝ったが、間もなく体調が悪化 し、息をひきとったのだった。
第2話
ふわふわと鼻をくすぐる優しい香りに吉太は目覚めた。
「 起きたかい、ぐっすり眠ったようだねぇ。ささ、飯が出来てるからあったけぇうちに食ってしまいな 」 作之助は鍋の蓋をもったまま吉太の顔を覗き込んだ。吉太は慌てて起き上がり、居間へ向かう。そこに用意 されていたのは、炊きたての玄米と、新鮮な小松菜をたっぷりと入れた味噌汁。いただきます、と手を合わ せ吉太は味噌汁を喉の奥へと流し込んだ。小松菜の独特な青臭さというか、引き締まるような味が、優しい 味の味噌汁によくあう。うまい…と思わずこぼす吉太を見て、作之助も与作も微笑んだ。
「 そうそう、ところでだが 」
と与作が口を開いた。
「 吉太はどういう訳で江戸まで来たんだか聞いていなかったな。俺たちで力になれることなら協力してやんぜ い?」
吉太はゆっくりと話し始める。
「 実は、人探しをしておりまして…母の病が悪化しているので、どうにかならないかと江戸まで参りました。 昔、兄も同じ病で死んでしまったのです 」
「 つまりは、医者を探しているということかい?」
今度は作之助が口を開く。
「 はい。兄が死んだ時に父が、江戸に古い知り合いで腕のいい医者がいるのでその人に頼ってみると家を出て いったのです。それから 6 年程経ちますが、父からは一切の連絡もなく生きているのかもわかりませんが…」 不安げに話す吉太に、与作は寄り添うように話しかける。
「 医者を探すのと同時に、親父さんものことも探しに出てきたという訳か…ところで、お袋さんの方は置いて きて大丈夫なのかい?病気が悪化してるっつーこたァ、一人にしちゃァ不味いだろう?」
「 村で昔からよく面倒を見てくれた知り合いに、母の看病を頼んで参りました。ふた月程で 1 度村へ戻るとは 伝えてあります。その間何かあれば手紙を寄越すようにとお願いしているので、心配はいりません 」 吉太はそう言いながらも、やはり不安げな目つきでいた。
「 ちなみになんだが、お袋さんの病ってのは一体どんなもんなんでェ?」 与作の問いに吉太は首を傾げながら答える。
「 うちの村では、母と、死んだ兄以外にその病を患った者を見たことがないので、名前がわからないのです。 身体中に白い斑点の様なものが浮かびあがって、体力が次第に衰えていって動けなくなるといった症状のよ うです 」
作之助と与作はそれを聞いて目を合わせた。
「 そりゃァお前ェ、『降雪病』に違ェねーな。お芳さんもたしか同じ病だった。なァ兄貴?」 与作は作之助に向かって言った。
「 ああ、そうだ。お芳もその病だったよ。最近になって江戸で流行りはじめたが、お芳の時にはまだ名前もな い病だったさ。体に雪が降ったように見えるから、降雪病と呼ばれ始めたんだとよ 」 作之助が吉太に説明する。そして続けて
「 そういや話を逸らしちまったが、探してる医者っていうのはあてがあるのかい?流石のあっしでも、なんの 手がかりもなくちゃあちょいと難しいぜい?」
と、言った。
「 はい。名前は聞いております。たしか、松尾良忠という名前だったかと 」 吉太がいうと、作之助と与作はまたもや目をあわせた。
「 そりゃ運がよかった。松尾はあっしの知り合いだよ 」 なんと、と、吉太は声に出してしまった。
「 まあ、運が良いのはそうなんだが、ただなァ…」
「 ただ?」
ため息混じりに話す与作に、吉太は問う。
「 ここらじゃかなりの変わりもんで有名なくれェ、ちと人とは違うところがあってな。おまけに面倒臭ェほど 頑固ときた 」
作之助は難しい表情を浮かべながら与作の話に相槌を打つ。
「 まあ、おめぇさんはどっちにしろ、そいつに会わにゃ問題の解決には繋がらないだろうし、昼にでも話しに いってやるさ 」
作之助の言葉に、吉太はほっと息をついた。
「 ところでたが吉太、江戸に来るのは初めてだったかい?」 急に話を変えた与作に吉太は戸惑いつつも、はい、と答えた。
「 松尾のことは兄貴に任せてよ、吉太はこの辺散歩でもなんでもしてくりゃいいさ。こっち来たばかりで慣れ ねェと思うが、面白ぇもんたくさんあるからよ 」 そういう与作の横でうんうんと頷きながら、作之助もいう。 「美味ぇもんもあっから沢山食えばいい。うちの向かいにある橋を渡ってすぐそこの蕎麦屋なんか、みんな 美味ぇといういい店よ。あっしもよく行くところでね」 吉太はありがたい気持ちと申し訳ない気持ちで狼狽えながら、そういえばあの蕎麦屋は行きにくいのだった なぁと困った顔をした。その顔を見て不思議そうに吉太を見つめる兄弟に、江戸に来た初日に蕎麦屋に叱ら れた話をした。そして、この兄弟は豪快にハハハと笑う。
「 そんなに笑わなくても…あの時はとにかく必死だったもので、身なりなど気にしてる場合ではなかったので すよ」
吉太は少し悔しそうに言った。
「 なんでい、そういじけんなって。まあ思えば吉太の服はかなり汚れちまってんなぁ。おれのお下がりでよけ りゃあいくらでもくれてやっけど、どうでェ?」
それを聞くなり吉太の表情はぱっと明るくなった。
「 では、遠慮なくいただきます 」
「 ちとでけぇかもしれんが、あっしのもあとで何着か出しておいてやっから、気に入ったの見つけたらそれ着 て散歩行ってきな。流石に蕎麦屋も店に入れてくれねぇってこたァねーだろうよ。あそこの店主は厳しいよ うに見えて、いい人さ 」
どこまでも面倒見がいいこの兄弟は、揃って着なくなった服を探しに行った。
結局吉太に作之助の服は少し大きく、何とか着れるものを 2、3 着程貰い、あとは与作のものを貰った。吉太 は緊張しながらもあの蕎麦屋に行ってみることにした。作之助は吉太にいくらか小遣いを寄越してくれた。 早いうちに芳を亡くして子ができなかったので、吉太を息子のように思って世話を焼きたくなるのだろう。 吉太はぎこちない足取りで蕎麦屋に入る。
「いらっしゃい、空いてるとこに座んな」 警戒しつつ、ちら、と店主の顔を除いた吉太は、「 あの 」 と勇気を振り絞って声をかけた。
「 この間は、その…申し訳ごさいませんでした 」
もじもじと下を向く吉太に、店主は言う。
「 ああ、あん時の子だね。こっちもきつく言っちまったのは悪かったよ。まあゆっくり食べてきなよ。何にす るんだい 」
「 はい…では天ぷら蕎麦をいただきます 」 ちょっと時間かかるけど、美味いの作るから待ちなと言って、店主は厨房に消えた。 少し安心したのか、ふうと息をついて吉太は店を見渡す。まだ昼飯には少しばかり早い時間だが、席は 8 割 ほど埋まっていた。客層は幅広く、老若男女色々な人がいた。
「 初めて見る顔だね 」
吉太に声をかけてきたのは、店の看板娘の香鶴《かづ》だった。
「 ええ、初めて来たので 」 自分の村は年寄りばかりで、若い娘との交流があまりなかった吉太はしどろもどろになりながら答える。
「 ふふ、慣れてない感じだね。あなた歳はいくつなの?」
香鶴は茶目っ気のある声で吉太に話しかける。
「16です」
「 やっぱり近いと思った。わたしの一つ下だね。気軽にかづ子って呼んでよ。みんなそう呼ぶからさ 」 そんな話をしているうちに、天ぷら蕎麦が運ばれてきた。
「 熱いうちに食べちゃいな。出来たてが 1 番美味いんだからね 」 香鶴はそう言ってニコっと笑うと、客に呼ばれて去っていった。この店の客の中には、香鶴に会いにくるた めに通っているものも少なくない。特別美人な訳ではないが、愛想がよく、ふっくらとした肌が可愛らし い。江戸の娘っ子らしく浅黒く焼けた肌も、健康的で印象がいい。吉太は去っていく香鶴の背中を暫し見つ めたあと、天ぷら蕎麦をすすった。出汁の香りが心地よく脳を刺激し、口の中に涎が溢れ出る。丁寧に打た れた蕎麦によく絡む汁は、濃い味なのに滑らかさがある。天ぷらは日替わりのようで、今日は海老と椎茸、 それから銀杏だった。どれもさくっと歯ごたえよく挙げられており、蕎麦に合う。吉太は生まれてこのか た、こんなに贅沢なものを食べたのは初めてであった。感動して一気にかきこんでいると、奥の方で香鶴が クスッと笑っていた。少し恥ずかしくなった吉太は、さっさと食べて、ご馳走様でした、とひとこと言い店 を飛び出した。後ろから、また食べに来なよと叫ぶ香鶴の声が響いてきて控えめに振り向いて会釈だけした。
腹も満たされたので、とりあえず一度与作たちの家に戻って松尾との進捗を聞きに行こうと考えた吉太は、 来た道を引き返した。橋を渡ろうと思ったその時、後ろから強く背中を引かれ、がくっとよろけた吉太は、 何事かと引っ張られた方に目を向ける。するとそこに居たのは、1 羽の白い鴉だった。
第3話
吉太は咄嗟のことに言葉も出ず、そして身動きも取れずに鴉の方を見つめたまま固まってしまった。 「 こっちに来い 」
固まっている吉太に、鴉が話しかけた。
そう、鴉が話しかけたのだ。
「 え……え?」 目の前の鴉が急に人の言葉を発したことに理解が追いつかず吉太はドク、ドクと鼓動を早くすることしか出 来なかった。そんな吉太のことなどお構い無しに、カラスは急に吉太の髪を咥えて引っ張り出す。
「 い、痛たた!痛い痛い!一体なんなんだ!」 急に叫び出した吉太に町中の人々の視線が集まったが、鴉は吉太を引っ張り続けた。 先程いた蕎麦屋の前を通り過ぎ、裏道に入り、そして人気のない林まで来たところで鴉は止まった。
「 とりあえず落ち着いて話を聞いてくれ 」
「 落ち着けるわけがないだろう!?」 あまり大きな声を出さない吉太が、今までには無いくらい大きな声で言った。
「 なんなんだこれは!夢なのか?そうなのか?」
「 いいから聞け!」
鴉は混乱する吉太に強く言う。
「 鴉が急に人の言葉を話し出すのに混乱するのも無理はないが、とにかく私の話を聞いてくれ 」 吉太は状況が飲み込めないながらも一旦黙った。
「 まず、私の名は空木《うつぎ》だ。適当に呼んでもらって構わない 」
鴉は名を名乗り、そして続けて言う。
「 実はお前が江戸に来る少し前から尾行をさせてもらっていたのだが、とにかく降雪病に関わる事は辞めた方 がいい 」
「は、はぁ」 吉太は気の抜けた返事をする。鴉が喋りだしただけでも理解ができないのに、そんな不思議な鴉に尾行され ていたと知り更に混乱してしまった。
「 ここは人気の少ない場所とはいえ、誰か通るかもしれないし、どこで何を聞かれているかわからない。詳し いことは今は言えんが、お前はこれから狙われることになるだろう 」 空木が次々ととんでもないことを言い出すので、黙っていた吉太もついには口を閉じていることが出来なく なった。
「 待ってくれ、なぜおれは狙われなければいけないんだ?狙われるって、一体何のことで誰に?」
「 順を追って話すから、いっぺんに聞くんじゃない。とにかくここでは話せん。場所を変えよう 」 空木は冷静に話す。
「 場所を変えるったって…まあいいや、わかった。話ができる場所まで連れてってくれ 」 空木は吉太の肩に乗った。道案内をしてくれるらしい。
「 あ、ちょっと待ってくれ 」
吉太は思い出したように言う。
「 あんたが急に引っ張ったり喋ったりするもんだから忘れてしまっていたけれど、おれはは一旦戻らなきゃならない場所があるんだ 」
「 それは今泊めてもらっている大工の兄弟の家か 」
空木は吉太に問う。
「 なんでわかるんだ…って、そういやおれを尾行してたんだったな。話が早いじゃないか。とにかく一旦行か せてくれ 」
「 まあ、急いで話さなければならないことでもないし、いいだろう 」
空木は意外にもすんなりと承諾した。
「 作之助が松尾のところへお前の面会を頼みに言ったのだろう?話の内容によっては、お前が今後狙われる可 能性も高くなるだろうから、私も聞いておこう 」
「 聞くったって、あんたこのまま入っていく気か?ただでさえ白い鴉なんて珍しがられるのに、喋りだしたら いくらあの気のいい兄弟でも驚いて騒ぐだろうし、そうしたら人も集まってくるかもしれないだろ。どうす る気なんだ 」
吉太は眉間に皺を寄せて困った顔で空木を上から下まで見る。 空木は暫く考えたあとひょいと吉太の懐の中に入り込んだ。
「 はぁ…?こんなの、どう見たっておかしいにきまってるだろう?」
吉太は納得いかないと空木に抗議する。
「 お前がなんとか誤魔化せ 」 ぶつぶつと文句をいいながらも、作之助を待たせてしまっていると申し訳ないので、吉太は急ぎ足で家へ戻 った。
「 ただいま戻りました……」
吉太の声を聞いて与作が顔を出す。
「 おう、随分長かったなァ。いい姉ちゃんでも見っけてきたのかい?」 ニヤニヤとしながら吉太を揶揄う与作だったが、すぐに吉太の異変に気がついた。
「 吉太、お前ェ…いくら蕎麦を食いすぎたからってその腹にはならねェよな……?まさか万引きとかしてきた んじゃあ………」
「 断じてそんなことはしておりません!えっと、つまりこれは…」 吉太が言葉に詰まってあたふたしていると、作之助が奥から出てくる。
「 なんでいなんでい、けェって来たかと思えば騒がしいねぇ。なに、恥ずかしい春画でも詰め込んできたか い?」 愉快なこの兄弟は人を揶揄うのが好きなのか、はたまた吉太に揶揄い甲斐があるのか。とにかく、かっと赤 くなってもじもじとした吉太に、作之助と与作は目を合わせて口角をにっと上げる。
「 いくらよぉ、田舎から出てきたっつっても、吉太はもう 16 になってんだろう?男しかいねェウチで恥ずか しがるこたァねーさ。どれ、おれにもひとつ見してくれよ 」 けたけたと笑いながらいう与作に続いて、作之助も
「 そーさ、なあんも恥ずかしくねェ。そんなに意地んなって隠すんなら、こうすっかなぁ?」 といい、吉太をくすぐりはじめた。
「 や、ひゃめてくださいよっ、ひ、ひひっ 」 擽ったさに耐えきれず暴れ始めた吉太の中で、空木は苦しくなってきてしまい、遂に懐から顔を出した。
「なっ」
3 人揃って視線が吉太の懐に向く。
「 吉太、こりゃァ一体……」
与作の言葉に吉太はごくりと唾を飲み込む。
「 何の鳥でい?」
ごく普通の質問をした与作に、吉太は拍子抜けきてしまった。
「 は、はは…実は蕎麦屋に言ったあとに、着物に天かすがついてしまっていたようで…それをつつきにこいつ が着いてきて、気がついたら懐かれてしまったようで……」
吉太は咄嗟に適当な言い訳を並べた。
「 なぁんだ、春画じゃねーのか 」 与作は少しだけがっかりしたような表情をする。意外にも二人は空木のことについて突っ込まなかったの で、心配しすぎた自分が馬鹿みたいだったと吉太は思った。
「 おお、これは鴉か。昔はたまにいたって言うが、それでも白い鴉とは珍しいねぇ 」 作之助は与作よりもしっかりしているので、すぐに切り替えて空木を観察した。しかし、流石にこの鴉が人 の言葉を話し出したら 2 人も驚くのは間違いない。絶対に喋るなよという強い意志を込めて吉太は空木を睨み つけたが、空木は喋る気など無さそうに、まるでふんと鼻を鳴らしたげな表情でいた。
「 ま、しかしこんな少しの時間でよくこんなに懐いたもんよ。動物に好かれるやつぁこころがきれーだとかっ ていったりもするし、吉太、いいじゃねぇの 」
作之助は優しく笑いかけながら言った。
「 まあ、そんな話はいいとして吉太は兄貴に松尾のこと聞きに戻ってきたんだろう?」
与作が話を変える。
「 そうそう、吉太。松尾は意外にも簡単に会ってくれると言ったんだ。だけどな、条件があると 」 条件という言葉に少しどきっとしながらも吉太は作之助の次の言葉を待つ。
「 条件ってーのは、また面倒臭ぇことなのか?」
与作も悩ましい顔をしながら作之助に聞く。
「 いや、それがなァ。会いに来る時には、茶色の着物で来いと言うんだ。茶色のはウチにあるからいいんだ が……意図が全く分からねぇのさ 」
吉太と与作はそれを聞いて同時に首を傾げた。
「 ま、考えたところであいつァ何考えてっかわかんねーやつだから、とりあえず明日会いに行ってみればい い。あっしは晩飯作るんで、吉太は散歩の続きにでも行ってきな 」
「 おれもちっと仕事の続きをするか 」 そう言って兄弟はそれぞれ自分の持ち場に行った。空木はその隙に吉太の髪をひっぱり、外へ連れ出す。
「 い、痛たた!!」
この方法で引っ張るのはやめて欲しいと後で文句を言おう、と吉太は心に決めた。
第4話
第4話
空木が吉太に右だ左だ、と道案内をし、吉太はその通りに足を進めた。着いた場所は、昼に吉太が連れてこ られた小さな林の奥にある、謎の空間だった。そこには壊れかけの鳥居と、枯れた御神木、それからあちこ ちが欠けていてなんだかよく分からなくなっている石碑があった。
「 ここまでくれば、もう平気だろう 」 空木は一安心したのか、警戒していた姿勢を解いた。空木が喋ることには慣れてきたものの、吉太には未だ 自分が置かれている状況が理解できてないない。
「 さっき来たところより少し奥にきた感じなのか…?あまり変わらないような気がするがここは平気なのか 」 「 ここには私の結界が張れる。外から人が侵入することは不可能だ 」
空木は淡々と言った。
「 結界…?」
結界という聞き慣れない言葉に、吉太は首を傾げる。
「 我々のような言葉を話せる白い鴉は、基本的にはなんらかの魔力を持っている。様々な種類がある中で、私 は結界を張る能力に長けている。とくに力を発揮できるのは、こういった鳥居のある場所だ。多少だが、そ こに祀られている神の力を借りることができる 」 空木が簡単に説明をするも、吉太にはさっぱりわからない。だが、考えようとしたところでこの有り得ない 現実はどうしようもないので、吉太は今の状況をとりあえず受け入れて話を聞くことにした。
「 さて、私の能力の話はおいおい話すとして、本題に入ろう。吉太が狙われるという件についてだ 」 先程より真剣みの増した空木の目を見て、吉太はごくりと唾を飲み込んだ。
「 降雪病は、白霞《しらがすみ》という組織の陰謀によるものだ。そして、白霞は陰陽師の末裔である百鬼道 嵐《なぎりどうらん》率いる、過激派魔術師の集まりだ 」
更に空木は続ける。
「 白霞は、自分たちの思想を広めるため、そして陰陽師の末裔たちの地位向上のため、更なる魔力を手に入れ ようとしている。奴らの中での言い伝えに、白い鴉の血を飲むと想像を絶するほどの魔力を手に入れられる というのがあるらしく、奴らは白い鴉の乱獲を始めたんだ。実際、一番多く鴉の血を飲んでいる百鬼は現代 で最も魔力のある魔術師と言えるだろう 」
吉太は空木の話に心臓の鼓動を速める。
「 元々、白い鴉は個体数が少ない。そして更に魔力を持ち人の言葉を話せる鴉はごくわずかだ。それを乱獲す るのだから、白い鴉はみるみる減っていって、普通の白い鴉にまでも手を出し始めたので、今では幻とまで 言われるようになってしまった 」 一昔前までは、白い鴉は珍しいとはいえ、滅多に見かけることが出来ないというほどでもなかったのだ。も ちろん、言葉を話せるほどの魔力がある個体はもともとかなり少なく、普通の人間の住む場所に姿を表すこ とはほとんどなかった。しかし、急激に見かけることがなくなってしまったのは、実はここ 15~20 年で、幻 だのと噂されるようになったのは意外にも最近の話である。
「 そこで白霞は、白い鴉を増やすことを考えるようになった。最初は単純に繁殖を試みたようだが、白霞が必 要としているのは、より魔力のある鴉だ。魔力が高ければ高いほど、知能も高い。当然、知能の高い鴉は奴 らの試みを理解出来る訳なので、逃げ出したり嫌がる鴉がほとんどで繁殖は上手くいくはずもなかった。魔 力の弱い白い鴉の改造実験なども行ったようだが、これもあまり上手くいかなかった。そして次に行ったことが問題だ 」 空木の表情が引き締まる。それにつられて吉太も、どんな話がきても受け入れられるように覚悟を決めたよ うな顔をする。
「 白霞は人工的に魔力、知能ともに高い白い鴉を作り出す薬を生み出した。素質のある人間に飲ませて体を鴉 に変えさせるという薬だが、まだ完全なものではないため、多くの死人が出ている。それが今、世間で降雪 病とよばれている病の実態というわけだ 」 あまりの衝撃的な内容に、吉太は固まってしまった。こんな非現実的なことが身の回りに起こっていること がどうしても信じ難い。吉太はまだ混乱している中でも、なんとか頭を整理し、一つの疑問にたどり着いた。 「 これは聞くべきか迷ったのだが 」
「なんだ」
空木は吉太を見上げる。
「 空木はその…元々鴉なのか?それとも…」 改めて口に出そうとして襲われた恐怖に、吉太は言葉を詰まらせる。
「 ああ。話していく中で察しただろうが、私は元は人間だ 」
「 そして、私は白霞による実験で初めての成功例だ 」 空木は表情を変えずにそう言ったが、瞳の奥には悲しみが滲んでいるようだった。
「 そして吉太、お前の兄、母がその犠牲となったように、お前も目をつけられている。それは、実験に成功す る可能性が高い素質を持っているからだ 」
「 さっきも言っていたその素質っていうのは一体なんなんだ?」
吉太は震える声で空木に問う。
「 色々だが…大きく分けて 3 つだ。一つ目は、知能の高さだ。高ければ高いほど、鴉になった時に人間だった 時の記憶を保ったままでいられるからこれは重要だ。言葉を話せるままで居られることも、今の薬の完成度 では奇跡に近い状況だ 」
空木はなぜか少しだけ得意げな顔をした。
「 なんだ吉太、急に私を見つめだして 」 吉太は少し眉を寄せ、少し文句を言いたげな表情をしたが、とりあえずは黙った。そしてコホ、と少し咳払 いをしてから空木は話を続ける。
「 まあいい、次だ。二つ目は、見た目の美しさだ。特に若くて面のいい大丈夫はねらわれやすい。鴉になった 時の羽の色や艶の良さに影響するからだ。奴らの間では、羽が良いほど血も良質だとされている 」 またもや空木はなぜか得意げな顔になる。吉太はもう黙っていることができなくなってしまいつい文句をこ ぼす。
「 さっきからやけに上機嫌だが、つまりは自分が優秀な美男子だとでも言いたげだな?」
「 それがどうした?事実を述べたまでだが問題か?」 自信をもって言う空木を吉太は小突いてやりたくなったが、それに気がついて空木は吉太を宥める。
「 まあ取り敢えず落ち着け。お前もそうだということじゃないか。頭の方がどれだけ優秀だとかはまだよくわ からんが…面は悪くない。人間だった頃の私には多少劣るが 」 空木はどうやら余計な一言が多い性格のようであった。吉太はまだ少し不機嫌であったが、褒められたこと に悪い気はしていないので少し照れくさそうにしながらも空木に次を促す。
「 で、三つ目の素質はなんなんだ?」
「 そうだな。三つ目がこの件での一番の要素だ。ざっくり言うと、血筋だ 」
「 血筋?」
空木も吉太も、真面目な表情に戻る。
「 ああ、これまた色々あるが、高潔な一族や地位のある一族の者が狙われやすい 」
「 そうするとらうちは田舎で細々と暮らしていたから、おれが狙われるのはおかしいことにならないか?」 吉太はすかさず口を挟んだ。
「 ああ。吉太に関しては、白い鴉と関わりのある家系だからだ 」
「 どういうことだ?」 空木は淡々というが、吉太はそんな話を家族から聞かされたことは一度もないので、何がなんだかさっぱり だった。
「 お前の母には姉がいたんだ。そしてその姉が、私の母だ 」
「 えっと……つまり、空木はおれの従兄弟にあたるということか?」
「そうだ」 自分の知らない自分の身の回りのことが次々に明かされ、吉太は空木の話を聞くことだけで精一杯になる。 「 私の母は、生まれて少しして捨てられたから、吉太が知らないことも無理は無い。なんなら、吉太の母も自 分に姉がいたことなど知らされていないかもしれないしな 」
空木は続けていう。
「 母の捨てられた場所が偶然にも魔力の高い白い鴉だけが集まる里だったんだ 」
第5話
今から約 30 年前。
その子は小さな村の貧しい家に生まれた。中々子ができなかったその家では、皆がこの日を心待ちにしてい た。だが、赤子が顔を出した瞬間そこに居合わせた家族に訪れたのは違和感だった。誰もが最初は見間違い かと思ったものの、やはりそこにある事実は変わらない。生まれてきた子供から僅かに生えている髪の毛 は、真っ白だったのだ。 「まあ、生まれたばかりだ。もしかすると大きくなって髪が伸びてくれば普通になるかもしれない」 そう言って場を落ち着かせたのは、生まれてきた子の祖父である源之丞だった。お父さんがそういうなら、 と家族は納得した。その子は、その髪の色から雪と名付けられた。
しかし、雪が 1 歳になっても、2 歳になっても、髪は白いままであった。小さな村であったため、白い髪の子 供がいるという噂はすぐに広まり、見物人が集まるようになってしまった。そのうち 1 人が気味が悪いと石を 投げると、皆が真似してそうするようになっていった。日に日に一家の人々は心を病むようになり、雪は実 の母にさえ距離を置きがちにされた。ただ、源之丞だけは雪をよく可愛がったし、家族の中で唯一面倒を見 てやっていた。雪が村の人に避難されれば必ず庇った。源之丞にとって雪は初孫なので、可愛くて仕方がな かったのだ。雪も幼いながら、自分に構ってくれるのは源之丞だけだと感じ取っていた。それ故に雪は源之 丞にしか懐かなかったし、家族も雪を遠ざけていたので都合が良かった。そんな源之丞も、雪が 4 歳になる 直前に心労が祟り息を引き取った。 源之丞という存在が居なくなったのをいいことに、村の人々は散々嫌がらせをしたし、家族は余計雪につら くあたった。
ある日雪は、寒さで目が覚めた。見渡すとそこには知らない景色が広がっている。木々が生い茂っており、 当たりは薄暗い。雪は眠っている間に、森の奥に捨てられていたのだった。誰が雪をここまで連れきたのか はわからないが、身内ということは確かだろう。雪はひとしきり泣いた。泣きわめいても叫んでも、こんな 森の奥深くで誰かが来るはずもない。しかし、悲しくても辛くても、腹というものはどうしても減ってしま う。何か食べるものはないかと雪は彷徨うように森の中を歩き続けた。いくら歩いても、まだ幼い雪には食 べられるものの区別などよくわからなかったので、何か手に取っても躊躇って口にすることがなかなかでき なかった。そのうち歩き疲れて、雪はその場で眠ってしまった。
「 見たことの無い髪の子供だな 」
「 まあ、酷く汚れているじゃないか 」
「 人里から離れているのに、どうしてこんな子供がここまで来たんだろうねぇ 」 ひそひそと話す不思議な声で、雪は起きた。誰か助けに来てくれたのかと辺りを見渡したが、そこに居たの は人ではなく、鴉だった。雪の周りを 3 羽が囲っていて、その鴉たちはみな白色をしていた。
「 カラスさんなのに、白い…あたしと一緒……」 雪はぽろっと言った。そして、その言葉を言うと同時になぜ自分が捨てられたのかを何となく理解してしま い、そのままわんわんと泣き出してしまった。鴉たちはそんな雪を不思議そうに見ながらも、どうしたもの かと困っていた。
「 おおかた、この珍しい髪のせいで非難されてすてられたんだろうね。人間はみんなと違うものを恐れて排除しようとするところがある。まだまともに物も知らぬ子を捨てるなんてひどいことだ。可哀想に 」 そう言ったのは、鴉たちの中で 1 番体の大きい銀蘭《ぎんらん》という鴉だった。
「 で、この子をどうするんだい。このままにしておくのも心苦しい話だよ。あたしは面倒みてやってもいいと 思うけどねぇ 」 次に口を開いたのは、銀蘭と番の鈴蘭《すずらん》だ。鴉たちの中で一際美しい羽の艶で、澄んだ声をして いる。
「 鈴蘭姐さんの言う通りだ。それにこの子、お腹も空いているようだし、里に連れて行ってやろう。あまりに も不憫だ 」 こちらは銀蘭の弟にあたる、梛蘭《なぎらん》だ。鴉たちは、自分たちの里からほとんど出ないため、みな 助け合って生きている。それ故に親切心がある者がほとんどだった。この 3 羽はたまたま見回り番で、森の 外れまで来ていたところ雪に遭遇したようだ。
「 そうだな…嬢ちゃん、おれたちに着いてきな。何も怖いことはない。腹が減っただろう。さ、おいで 」 そう言う銀蘭に、雪はわけも分からず着いて言った。源之丞に、知らない人には着いていくなと教えられた のを少し思い出したが、今はこの鴉たちに着いていくしか、雪には生きられる道がない。小さな足を必死に 動かして、3 羽が進む方へと歩いた。
いくらか歩いて銀蘭が着いたぞ、と言ったその場所は、まだ世を知らない雪にとっても、非常に美しい景色 に見えた。澄んだ川には陽が差し込み、きらきらと乱反射していて、その周辺には控えめに白百合が揺れて いる。木々の葉には艶があり、深緑色が心を落ち着かせてくれる。そしてなんといっても、一面に大輪の白 王獅子の牡丹が広がっているのが圧巻だ。まるで精霊の住処のような美しい里で、沢山の白い鴉たちが暮ら していた。雪はそれに見惚れ、暫しぼうっとしていた。
「 嬢ちゃん、ところで名前はなんというんだ?」
銀蘭が雪に話しかけて、雪は気を取り戻した。
「 あたしは…雪っていうの。こないだ 4 つんなった 」
「 雪かい。その髪の色からついた名なんだろうねぇ。人が満足するような大したものはないだろうけど…これ をお食べ 」 優しくいう鈴蘭が咥えて運んできたのは、さくらんぼの実だった。雪は小さな岩に腰掛けてそれを口いっぱ いに頬張る。甘酸っぱくて、みずみずしい。しかし少し固かった。だがそれも雪にとっては今まで食べたこ との無い美味しいものに感じた。貧しい家だったので、新鮮な野菜や果物はあまり買えなかったし、大した ものも食べたことは無かったからだ。ひと口噛むたびに、ぽろりと涙が流れる。
「 きっと相当辛い思いをしてきたのだね。ここは魔力を持った鴉たちの住む里。みんな神様の遣いだ。雪には まだ難しいかもしれないが、そのうち分かるようになる。どいつも優しいし、ここで暮らせばいい 」 梛蘭も雪に優しく声をかけた。
「 どうしてここのカラスさんたちは白いの?」 少し安心して気を許した雪は、ずっと不思議に思っていたことを聞いた。
「 さっきも梛蘭が言ったように、神様にお仕えしているからなんだ。だから、他の鴉と区別がつくように我々 は白い体で生まれてきたのだと言い伝えられているんだよ。もしかすると雪も、神様に選ばれた子なのかも しれないな 」
銀蘭がそう雪にいうと、雪は初めて表情をぱっと明るくした。
「 あたしも、みんなとおそろい。神様に選ばれた子…!」 そう言った雪の笑顔は、幼いながらに完成された美しさがあり、天女のようだった。夏風邪に揺れた白い髪は、木漏れ日に照らされて透き通るような光を放つ。本当に神に選ばれた子なのかもしれないと、鴉たちが 思うほどに愛くるしく、心を引きつける笑顔だった。
「 雪、あんたはずっとそうやって笑ってなさい。あんたの笑顔は特別だ。これからはあたしたちがあんたが笑 ってられるように面倒見てやるからね 」 鈴蘭の言葉に、雪は不思議に思いながらも頷いた。もしかすると、雪は導かれるべきしてここへ来たのかも しれない。鴉たちはそう思った。そして里の鴉たちは雪を大切に大切に育てた。
年月が過ぎ、雪は 16 になった。この世の者とは思えない美人に成長を遂げていた。髪も肌も、その名に似合 うほど雪のように白く透き通り、華奢な指先から伸びる爪は細長く、先を紅くそめていた。それは、雪の白 い肌によく似合っている。唇はみずみずしく潤い、長いまつ毛には品がある。そして親切な鴉たちに大切に 育てられ、心優しい素直な女子に育った。
「 銀蘭、今日の見回り番は貴方なの?」
雪は、ころころと鳴る鈴のような可愛らしい声で銀蘭に話しかける。
「 ああ、そうだ。何か欲しいものがあるのか?」
上目遣いをする雪を見て、銀蘭はすぐに察した。
「 銀蘭は何でもお見通しね。久々にさくらんぼが食べたくなったの。もし帰りに実っていたら、持ち帰ってこ られるかしら 」
「 可愛い雪のお願いだ。見つけたらとってきてやるさ 」
「 ありがとう。気をつけて行ってきてね 」 雪に見送られて、銀蘭は見回りへと飛び立った。白い鴉の里は、結界によって守られている。神聖な場所で あるので賊に荒らされたり、一般の民が興味本位で入って噂を広げたりしないように、鴉たちは交代で里の 周辺を毎日見回りをしている。
「 銀蘭兄さん、人間の男があんなところにいるよ 」
銀蘭と共に見回り番をしていた梛蘭が 、何者かを見つけた。
「 本当だ。久しぶりにこんなところで人間を見たな。確認に行くか 」
2 羽が男の近くに降り立つと、辺りは生臭いにおいが漂っていた。どうやら男は足を怪我しているようで、大 量の血を流している。
「…っハァ、ハァ…」
「 随分息が荒いな。傷が深そうだ。歩くのがやっとなんじゃないか?」 梛蘭がいうように、男は深い傷を負っており、動けなくなるのも時間の問題といった様子である。銀蘭は男 の側に出ていき、呪文を唱えた。すると、男の足の傷はみるみる塞がった。急に痛みが消えて、男はやっと 銀蘭と梛蘭の存在に気がついた。
「 し、白い鴉……?!」