『Right!』
陽本紫水著
その他
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百年に一度の逸材とまで評されたボクサー——都築往人。彼の素顔は、不敵な笑みという名のベールで隠されていた。とある中年記者は、都築の本性を白日のもとに晒すべく、彼を尾行することにしたが……。第一話「転換期」
彼の右ストレートは、正確で的確で、まるで対戦相手に正しさを振りかざすかのように、当たれば一発で試合を終わらせるほどの威力を誇っていた。
とにかく速い。とにかく見えない。とにかく美しい。
紛れもなく百年に一度の逸材だった。テレビに映る彼の姿は、ヒーローそのもの。正義の名のもとに、立ちはだかる者すべてをばったばったと切り落としていた。
彼は、チャンピオンではなかったが、名だたるチャンピオンよりも世間からの注目を集めていた。瞬間最大風速なら、彼を超える選手は存在しない。
勝ち進むごとに露出が増えて、あらゆるメディアに連日取り上げられるようになった。彼には、プライベートというものがなかっただろう。それくらいに多忙な日々を送っていたのだ。
私も彼のファイトスタイルや生き様に魅了された者の一人だった。しかし、記者としての私が拝みたかった彼の顔は、スポットライトを浴びた仮面ではなく、外部からの干渉を受けていないときの彼の素顔だった——。
正直、金になるというやましい気持ちもあった。だがしかし、それが悪いことだとも思わなかった。これまでも似たような記事を好んで書いてきたのだ。記者というのは、読者の興味のあるトピックを、おのが足で勝ち取りにいく職業だ。
同僚に、自身が凝っていることを取り上げて、この業界にのしあがっていくという野望を持ったやつもいた。そいつに直接ものを言ったことはなかったが、私は心底軽蔑していたし、もって三年だろうと思っていた。実際、三年目に突入したころには、自然とやつの姿を見かけることはなくなった。
私も今年で四十歳を迎える。これまで通り、無難にやり過ごして、向こう二十年は職務をまっとうする所存だ。
ときの人となったボクサー——都築往人が所属するボクシングジムに、私は足を運んだ。……が、ジムのなかに入ることはなかった。
単なるインタビューを書きたければ、アポを取ってから堂々と会えばいいが、私が記事にしたいのは都築の素顔だ。他の記者と同じことをしても、彼はボクサー都築往人の一面しか見せてくれない。そんなありきたりな取材をするくらいなら、多少モラルに反することになるが、尾行でもして、都築の自宅を突き止めて、無防備な瞬間を狙う方がいい。
今朝の九時ごろ、私はジムの向かいにある喫茶店から、ジムがあるビルに彼が入っていくところを目撃していた。ボクシングというスポーツに疎かった私は、事前調査の甘さを後悔した。彼が朝早くからトレーニングを行っていることは周知の事実だが、何時まで取り組んでいるかについては、おそらく関係者や熱狂的なファンくらいしか把握していないだろう。私は彼がいつ練習を終えるのか、それを調べていなかったばかりに、三時間も待ちぼうけを食らうことになってしまった。
待つことは嫌いだった。せっかちではないつもりだが、時間を浪費しているようで、どうしてももったいないと感じてしまうのだ。
日が高くなり、ちびちびと飲んでいたアイスコーヒーの氷も解けて、グラスも汗をかいてきたところで、そろそろ昼食でも注文するかと思案していると……。ようやく目当ての人物が姿を現した。
黒のキャップに、黒のサングラス、黒のシャツに、黒の短パン。おまけにシューズも黒。流石は有名人……とは思わなかった。あの装いでは、悪目立ちするどころか、時間が違えば不審者扱いされかねない。
ぼんやりと都築のファッションセンスを詰っていると、彼はタクシーを拾って、そのまま乗り込んでしまった。
まずい、逃してしまう! 私としたことが……痛恨のミスだ。
咄嗟にショルダーバッグを抱えた私は、急ぎ足で店を後にしようとするも。自動ドアの手前でガシッと肩を掴まれた。
何ごとかと振り返ると、そこにはシャツの上からでも、その筋骨隆々さが嫌というほど伝わってくる肉体を携えた、大男が突っ立っていた。
本能的に委縮してしまった私。これから殴られでもするのかと怯えていたが……彼の胸を注意深く見て、委縮も怯えも早とちりだったと息を吐いた。胸には、『沼田』と書かれた名札がついていたのだ、つまり彼はウェイターということになる。
強靭な身体を持つ沼田という男は、「お客さん、お会計がまだですよね」と、やけに甲高い声で呼びかけてきた。
私は、沼田の身体と声のギャップに驚きながらも、覚束ない手つきで何とか会計を済ませ、足早に退店した。
都築が乗ったタクシーは、とうに走り去ったと思っていた。……が、幸いなことに、赤信号が例のタクシーを足止めしてくれていた。
そして、さらに僥倖なことが起こった。私のもとにもう一台のタクシーが迫ってきたのだ。ミラクルが連続したこのとき、私は「決して都築往人を逃がすな」という神さまからのお告げが聞こえた気がした。
手を挙げて無事に乗車できた私は、間髪入れずに「あのタクシーを追ってください。あ、なるべく尾行を悟られないようにお願いします」と注文をした。タクシーの運転手も事情を察してくれたのか、何も言わずに対向車線のタクシーを追尾してくれた。
この手の追跡は、大抵難航するのだが、運ちゃんが絶妙な距離感を保ってくれたこともあり、途中で勘づかれることも、見失うこともなかった。
スーパースターともなれば、自宅が都内にあることは当然で、さてどれほど見上げたら彼の部屋を視認できるのだろう、と思っていたのだが……。
しかしながら、都築が降車したのは、千葉県にある、それも閑散とした住宅街の、奥の奥に位置するボロアパート前だった。
第2話 「唯一無二」
厳しい日差しが道行く人々を照らしつけるなか、マンションに光を遮られたボロアパートが、この町の外れの外れの外れに冷たく佇んでいた。そこに、どういうわけだか、ときの人となったボクサー——都築往人が足を踏み入れようとしていた。
私は、声をかけるか否か、躊躇した。いまさら疑う余地はないのだが、この古びた建物の古びた階段を上る男が、稀代の天才とまで評された都築往人だとはとても思えなかったのだ。
タクシーを使うくらいだ、金はある。……というか、ファイトマネーとスポンサー料だけでも、ばら撒いて歩けるほど稼いでいるはずだ。それなのに何故……。
どうやら、都築の部屋はアパート二階の角部屋らしい。そうらしいが……いまだに信じがたい。私は、ますます彼の素顔を暴きたくなっていた。
日を改めて、練習終わりに、それも彼がアパートに帰ってきたタイミングを見計らい、ついに声をかけることに成功した。
「こんにちは。あなた、ボクサーの都築選手ですよね?」
都築は、予期せぬ来訪にも、一切戸惑う様子を見せず、無表情のまま答えた。
「はい、都築です」
「私、こういう者でして……」
そう言って、私はシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。
「ああ、記者さんですか。でもおたく、ボクシングは専門外ですよね?」
「……よくご存じで。実はその……取材を——」
「構いませんよ」
「えっ……?」
突撃された有名人たちは、大抵、冷静さを欠いて失言をしてしまったり、取材を拒否して足早に立ち去ったりするのだが……。流石はビッグファイトを制してきたボクサーだ、肝の据わり方が並みの人間とは違う。
想定外のリアクションをされると、記者側が狼狽えてしまうことも少なくない。だがそれは、平凡な記者の場合だ。私も彼と同じく、モノが違う。これまでにも似たようなシチュエーションを経験したことがある私にとって、これくらいのことは予定調和に過ぎない。
私は、一礼をしてから、ノートとペン、それとボイスレコーダーを用意した。
「ありがとうございます。それでは、これに記録を取らせていただきます。まずは、こちらのアパートについてですが……」
光を奪われたアパートの前で、何故か私は大量の汗をかいていた。ペンを持つ手が小さく震え、正確にメモを取ることができなかった。平常心のつもりでも、身体は正直だったのだ。
新人記者のようなぎこちなさを見せる私に、都築は思いもよらぬことを口にした。
「こんなところで立ち話をするのも何ですから。よろしければ家に上がっていってください」
心が完全に揺れ動く——。
どうして私のような記者を招き入れるのか。説明のしようがない彼の心配りを、私は脊髄反射で遠慮しそうになったが、咄嗟に良心を押し殺すことにした。
私は、図々しく厚かましい私を演じた。このスタイルこそ、私の記者としての原点であり、モットーであり、ポリシーなのだ。
「お言葉に甘えて」
玄関扉が開かれるまで、内装こそ豪勢なのだろうと睨んでいたが、私を待ち受けていたのは貧相な四畳半のワンルームだった。華々しい檜舞台の彼と、ボロアパートに住む彼は、何かが決定的に異なる。私はそう感じた。
ちゃぶ台前の座布団に腰かける。失礼を承知で部屋のなかを見回すと、あることに気が付いた。この空間には何もなかったのだ。テレビも箪笥も冷蔵庫も洗濯機も、何もなかったのだ。私はそこに、少しだけ、ほんの少しだけ、都築という男がどのような人間なのか垣間見ることができた気がした。
「どうぞ」
笑顔でもなく仏頂面でもなく、ただただポーカーフェイスの都築は、私にペットボトルのお茶を手渡してきた。
私はまた、その行為の珍しさに面食らいそうになるも、努めて平静を装い、「ありがとうございます」と言ってペットボトルを受け取った。
この家にはお盆もなければコップもないらしい。案の定、お茶は常温だった。
私の向かいに腰を下ろした彼は、「それで、何の話をしていましたか?」と訊いてきた。
私は、ボイスレコーダーをちゃぶ台の真ん中に置いて、「先ほどの話の前に」と前置きをした。そして、手際良くノートとペンを構え、言葉を選びながら質問した。
「都築選手は、いわゆるミニマリストなのでしょうか?」
「いえ」
「……では何故、名声を上げて富を築いてなお、お金を使わないのでしょうか? 拝見したところ、この部屋には余分な物がない……というか、本来必要な物がほとんどありません。目立った出費は自宅とジムを往復するためのタクシー代のみです。恐れながら申し上げると、奇妙で……そして、人間味がないと思います」
彼の懐に踏み込んだ質問をした刹那、表情を変えなかった都築が、ふっとほくそ笑んだのを、私は見逃さなかった。
何がおかしいというのだろう。私は、むきになったおかげで、いつにも増して非情になれた。
「都築選手……いや、都築往人さん。スターが貧乏生活をしているだなんて、記事にはなりませんよ。意外性はあるかもしれないが、話題性は皆無だ。載せない、載せませんから、本心を教えてほしい」
多少、口調が荒々しくなってしまったことは申し訳ないが、しかし、こちらの好奇心を煽るような真似をした彼にも非はある。
今回のことは記事にしない……というのは嘘だ。もちろん、話題性がないというのもダウト。対象を油断させるための常套手段だ。
都築往人は数字を持っている。彼のパーソナルに迫ろうとした私の嗅覚は確かだった。
私は、喉から飛び出そうな背徳感を飲み込んで、強く願った。さあ、吐け……!
しばらく黙っていた都築は、歪な形をした拳に目をやり、再び私の瞳を捉えた。
「記者さん。俺にはね、ボクシングしかないんですよ。ボクシング以外のどんなことが満たされようと、俺はボクシングでしか満たされない。俺はボクシングで、ボクシングは俺なんです」
私には、彼の発言の真意が何一つ理解できなかった。ペンは止まり、私自身もただただ茫然としてしまった。
取材はほどなくして取り止めとなった。帰りのタクシーのなかで、私は彼からもらったチケットを意味もなく眺めていた。
第3話 「小さく息を吸い込んだ」
『いよいよこの日が訪れました! ボクシングの日本チャンピオンを決める一戦が、この広大なドームの中心にある、四角いリングのなかで行われます!』
アナウンサーの実況がドーム全体に反響している。私は、会場が熱を帯びていくのを肌で感じていた。
この試合のためのテレビCMを、目に穴が開くほど見せられたことにはうんざりだったが、どうやらその効果は絶大らしい。この日は観客数が三万を超えていた。いわゆる超満員というやつだ。
私は、ボクシング自体には興味がない。それに加え、大人数が一堂に会するイベントが嫌いだ。そんな私でも、この瞬間ばかりは周囲の雰囲気に呑まれそうになっていた。
選手たちを応援したい、という柄にもない感情は、咳と一緒に吐き捨てて、そのときをじっと待った。
『幼少期からボクシング漬けの日々を送ってきた彼が、ついにチャンピオンベルトに手をかけようとしています! 今宵も右ストレートで自身の正しさを証明できるのか! それとも初めて土をつけられるのか! 青コーナーより、挑戦者の入場です!』
選手紹介が終わると、炎が上がり火花が散るといった演出を経て、本日の主役である都築往人が登場口に姿を現した。彼を見るや否や、観客のほとんどが身を乗り出すように声援を送った。
この試合は、彼のキャリアが傷つくかもしれない戦、というだけの安い試合ではない。負ければ、地位も名声も、ともすれば富すらも、音を立てて崩れるかもしれない一戦なのだ。まさに勝てば官軍負ければ賊軍だ。
だが、花道を歩く都築は、あろうことか笑顔を浮かべていた。極限状態でも余裕の笑みを見せる彼が、会場の至るところに設けられたモニタに映し出されると、会場のボルテージはマックスになった。
熱狂の渦に包み込まれるこの場所で、唯一、私の胸だけは高揚しなかった。彼のあれは作り笑いだと知っていたからだ。
都築は、猛々しい模様があしらわれたガウンを脱いで、颯爽とリングインした。彼がリングを駆け回ると、ほどなくして会場は暗転した。
赤コーナーの選手が登場するまで、リング上部の特大モニタにのみ、都築の顔が映し出されていた。この瞬間、誰もが登場口に注目していただろう。しかし、私は彼のことをずっと見ていた。凝視していた。
彼は、笑った。作り笑いではない。あのときのようにほくそ笑んだのだ——。
鈍い鐘の音が鳴り響くと、奪い合いのサークルに閉じ込められた二人はグローブタッチをして、それぞれ構えを作った。都築もチャンピオンも同じ、左手を前に出すオーソドックススタイルだ。
都築は、近距離でパワーを押しつけていくファイタータイプ。チャンピオンは、足を使いながら、地道に的確にパンチを当てていくアウトボクシングタイプ。コアなファンの意見によると、互いに相手のタイプを苦手としているようで、メディアはこの一戦を究極の矛と盾の対決と評していた。
試合はタイプ通り、都築が懐に踏み込む動きを見せると、チャンピオン側が素早く前手を出すジャブで、彼の前進を阻止するという立ち上がりになった。
相手がチャンピオンなだけに、今回ばかりは都築が負けると予想する者も少なくなかった。彼らの主張の大半は、彼が得意とする右ストレートには左手のガードが下がるという癖があるため、そこにカウンターが入るのではないか、というもの。これまでの相手は、彼の打ち終わりを狙えるスキルがなかったのだろう。だがしかし、チャンピオンともなれば話は違う。
世間で言われていることは、都築自身も承知しているはず。当たり前だ、ファンよりもプロボクサーの方が、ボクシングに詳しいに決まっているのだ。
それでも、都築は右を振り切っていた。その拳で、こだわりのフォームで、玉座を奪い取るために、全力で振り切っていた。
ラウンドが進むごとに、チャンピオンの動きが鈍くなっていくのがわかった。おそらく、ジャブをもらっても前に出続ける都築のプレッシャーを、真正面から受け止めていたことが関係しているのかもしれない。
当の都築はというと、意外にもけろっとしていた。疲労を一切見せないどころか、時折、笑顔を見せて、この決戦を楽しんでいるようだった。
化け物だと思った。怪物だと思った。違う生き物だと思った。試合のときの彼は、いつもこんな調子なのだろうか。
第十ラウンドに向かう前のインターバルで、私は彼の生き様に身震いしていた。彼は、都築往人という男は、ボクシングという競技そのものだ。
『おおおぉおおっ!』
突如、観客が一丸となって声を上げた。私は、何ごとかと慌ててリングを注視すると、都築が猛ラッシュをしかけているところだった。
ジャブ、左アッパー、右ストレート。コンビネーションがクリーンヒットし、チャンピオンが一気にコーナーへと追いやられる。
チャンピオンは、ガードを上げて顔をグローブで覆うも、それを見た都築が何度もレバーブローを打ち込んだ。連打が効いたのか、苦悶の表情を浮かべながら、身体を丸めるチャンピョンがモニタにでかでかと映し出された。
都築の一挙手一投足は、観客の心を揺さぶり続けた。私も立ち上がり、無我夢中で彼のことを応援していた。
もうすぐ終わってしまう。そう悟った刹那、私は時空が歪んだような感覚に陥った。ドーム全体がぐにゃっとうねり、時間の進みがスローモーションになる。
酔いが回って吐きそうになるも、両手で口もとを押さえ、最期のときまでリングから目を逸らさなかった。
すっと、軽やかなステップで前進する都築。
チャンピオンは、右ストレートを予感したのか、再びガードを固めた。
亀のように防戦一方となったチャンピオンに、都築は鳥のように華麗に接近し、二人は密着状態となった。
チャンピオンの腹部は既に腫れ上がっていた。そこに、都築は容赦なく強烈なレバーブローを叩き込んだ。
ダメージを隠し切れず悶絶するチャンピオンは、追撃を恐れ今度は腹にガードを寄せた。
都築はなおも冷静で、顔のガードが甘くなったところに、ジャブを飛ばした。
チャンピオンの顎が跳ね上げられたと思ったら、そこに都築は二の矢——右ストレートを放った。
渾身の一撃を打つ都築は、やはりほくそ笑んでいた。
決め手級の右ストレートを振り抜くと同時に、私の隣で観戦していた観客の、はっと息を呑む声
が聞こえた——。
第四話「勝つということ」
決戦前夜のこと。私は、がらがらのファミレスで一人、烏龍茶を飲んでいた。ウエイターに「人と約束をしている」と伝えたら、親切にもテーブル席に通してくれた。そしてその良心を踏みにじるかのごとく、私はドリンクバーしか注文しなかった。
チッチッチッ……。腕時計の秒針の足音が聞こえるほど、この空間は閑散としていた。
悪ふざけか、ストレス発散か、はたまた好きの裏返しか。私は、目当ての男が一向に来ない理由を考えていた。そこに……。
「お待たせしました」
黒のキャップに、黒のサングラス、黒のシャツに、黒の短パン。おまけにシューズも黒。時間が時間なだけに、不審者と誤認されても仕方がない装いの男——都築往人は、軽く会釈をして、私の向かいの席に腰かけた。
……一応というか何というか、これでも私は年配者なのだが。まあ、待ち合わせに遅れることくらい取るに足らない粗相か……。
しかし、改めて不思議だ。ビッグスターの彼が、私のような一般人を突然呼び出すなんて。
私は、喉を潤してから、早速、用件を促した。
「どうしてまた?」
「いや、大したことじゃないんですが」
「えっ? 電話口では急を要するって……」
「ジョークですよ。でも、急に世間話をしたくなったのは事実です」
「はあ……世間話ですか」
もう一度思う。私、年配者だよな?
そしてこうも思った。私の目の前にいる男は、本当に翌日、試合するのだろうか?
無礼も非礼も気にかけていない様子の都築は、サングラスをシャツのネック部分に引っかけて、
「記者さんは勝てると思いますか?」
当然この問いは、都築が明日の試合に勝てるかどうかを訊いてきたのだと思った。
「ボクシングは詳しくないのですが、勝てますよ、きっと。勢いがあるし、スター性もある。声援だって後押ししてくれるはずです」
「ありがとうございます。だけど、そうじゃないんですよ」
小さく首を振った彼は、小さく笑ってからこう続けた。
「人生に、ですよ。俺は、人生に勝てるのか訊いているんです」
哲学なのか、それとも酔狂なのか。とにかく都築は意味のわからない質問をしてきた。
殴られすぎて感性までひん曲がったのではないか、と心配しつつも、私は私なりに答えてみる努力をした。
「そもそも、人生に勝ったも負けたもないと思いますが……記者としての人生を振り返れば、勝っているかな」
「へえ。それはどうしてですか?」
「かつて、私に同僚がいましてね。そいつは、自分勝手で他の記者からも煙たがられていたやつで。記者という仕事は、書き手が紡ぐ文章の先に読者がいる、ということが大前提です。即ち、読者のニーズを把握して、その通りに記事を書くわけです。私にはそれができて、同僚にはできなかった……。だから、勝っているかなと」
私が語っている間、都築は相槌どころか無表情で私の目を見ているだけだった。それが不快だとは言わないが……質問をするだけして、ノーリアクションなのは少々寂しかった。
会話のキャッチボールが途切れ、さあもう帰ろうか、そう思っていたところ、都築はようやく口を開いた。
「……正しいですね。実に正しいです。けれど、人生には勝っていないみたいですね」
人生の『じ』の字も知らない若造に、生き方を否定された気分になった私は、大人げなくもむきになった。
「勝っていないって、それはどういう意味ですか?」
「そのままの意味ですよ。正確には負けてもいないんでしょうが、コーナーに追い詰められている。ガードを固めて、レバーブローを必死に受け止めている」
「そこまで言うなら、君は勝っているのか? 確かにボクシングで成功して、金も名誉も手にして、手に入らないものの方が少ないのかもしれないが。それで君は、勝っているのか?」
そう詰問すると、彼は私に断ることなくグラスを奪い、烏龍茶を飲み干した。そして、ゆっくりと、静かに、波風を立てぬように、グラスをテーブルに置いた。
彼は、あのときと同じように拳を見つめていた。
「勝っています。正確には勝っていないんでしょうが、コーナーに追い詰めている。がら空きになったボディに強打を打ち込んでいる」
「ずるいな。自分だけが勝っていると主張するだなんて。私に『負けている』とまで言ったのだから、君が『勝っている』理由を教えてもらわないと」
「あはは、前に言ったじゃないですか」
「え……?」
哲学なのか、はたまた酔狂なのか。私は、空になったグラスを眺めながら、彼の言葉を思い出そうとしていた。
『俺はボクシングで、ボクシングは俺なんです——』
突如、私はレバーブローでも打たれたかのような衝撃を感じた。その瞬間、脳裏に彼の台詞と、彼の部屋と、彼の顔が蘇ってきた。
「君は——」
声をかけようと顔を上げると、店の入り口の方から、人の出入りを知らせる陽気なメロディが流れた。
いまのは、世間話ではないだろう……。
最終話「追憶のアンサー」
暗い部屋のなかで、不気味に発光する無機質な箱。そこから繰り返し同じ言葉が聞こえてくる。ニュアンスが違うだけで、どの局も言っていることは一緒だった。
四十年生きてきて、これほど気落ちしたことはない。……いや、これは気落ちではない。彼のように言い表すならば、正確には虚無だ。まるで、自慢の右ストレートを躱されて、隙が生じたところにカウンターの左フックを合わされたような、そんな気分だ……。
……駄目だ。何もする気になれない。不謹慎な話、今回のことを記事にすれば、読者は興味を引かれるだろう。おまけに前夜のできごとも添えれば、彼のミステリアスさが話題を呼ぶだろう。
……駄目だ。書けるわけがない。記者というのは、読者の興味のあるトピックを、おのが足で勝ち取りにいく職業だ。だからこそ私は、記者として書くべきなのだが、そんなことは理解しているのだが……書けない。
私は、ソファから身を起こし、握りしめていた試合のチケットに目を落とした。チケットは、くしゃくしゃになっている。そう、くしゃくしゃに——。
瀕死になった紙きれに、滴が浮かぶ。じんわりと馴染んだかと思うと、それはまた滴った。
涙を流したのはいつぶりだろうか。これがどうして溢れ出したのか、どうしてこれほどまでに脱力感があるのか、どうしてこんなにもやるせないのか。私にはわからなかった。
私は彼の何だ。彼は私の何だ。取材をする者とされる者、ただそれだけの関係性ではないか。言葉にしてみれば、私たちの繋がりは薄氷のようなものだ。なのに、なのにどうして……。
プロボクサー、都築往人。彼は、志半ばでこの世を去った。大観衆が見守るなか、私が見つめるなか、彼はマットに伏した。
都築の存在は、一種の社会現象と呼べるほど、偉大で稀有だった。彼がチャンピオンになるはずだったあの日、日本中は浮足立っていた。だが、結果はノックアウト負けだったのだ。
まさに諸刃の剣。当たれば確実に倒れていた。流石のチャンピオンも、あのときばかりは敗北の二文字が脳裏をよぎったはずだ。しかし、真剣勝負の世界に絶対はない。チャンピオンが一縷の望みを託した左フックは、彼の顔面をクリーンに捉えた。
忘れもしない。地響きが起ったかのように、会場が揺れたのだ。悲鳴も歓喜も驚嘆も、すべてが一つの絶叫となって、私の鼓膜を引き裂いた。
報道によると、彼は即死だった。
報道によると、彼は打たれ強い選手だった。
報道によると、彼のようなボクサーでも、見えない角度からのパンチは効いてしまうらしい。
きっと……おそらく……違う、絶対に無念だったろう。もっともっとボクシングという競技を盛り上げ、もっともっとボクシングという競技をメジャーにさせられる、そんな選手だった。それを考えると、ボクシング界は惜しい逸材を失ったことになる。
私が、私ごときが、彼のことを弔うなんて烏滸がましいのかもしれない、筋違いなのかもしれない、お門違いなのかもしれない。けれど私は、いてもたってもいられなかった。
私は、何かに憑かれたかのように、彼の幻影を追いかけていた。
早朝からジムの向かいにある喫茶店で時間を潰して、日が高くなったころにタクシーを捕まえて、彼のボロアパートを訪れた。そして、深夜のファミレスのテーブル席で、窓に映る夜の世界をぼんやりと眺めた。
収穫はなかった。言うまでもなく、彼はいなかった。
がらがらの店内で、烏龍茶を一気に呷り、私は自問自答した。
私は、勝てたのだろうか。
私は、負けたのだろうか。
彼は、勝てたのだろうか。
彼は、負けたのだろうか。
その問いの答えは、彼なのかもしれない。彼自身なのかもしれない。
私は思う。彼は勝った。試合に負けて、人生に勝ったのだ。
かくいう私は、いまだに負けそうだ。彼に負けを自覚させられてから、何一つ変わっちゃいない。情けない人間で、どうしようもない男だ。……それでもまだ、完全に負けたわけではない。
好き勝手に生きるな。達観して生きるな。
彼のように、それしかない、それ以外はない、それが自分自身と錯覚するくらい、情熱を注ぎ、熱を持ち続けろ。
体裁を捨てて、常識を放棄して、そこまでして突き詰めたいことを、愛おしく思おう。それが、これからの私にできることだと思う。
彼に教えてもらったのだ。彼に与えてもらったのだ。彼に道を作ってもらったのだ。私の半分くらいしか生きていない彼が、私を救ってくれたのだ。
綺麗な拳を見て、私は一人、静かにほくそえんだ。
ー完ー