『宛先不明の愛』
柊織之助著
恋愛
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恋も愛も知らない郵便局員の水希は、毎週受け取られることのないラブレターを届けていた。だがある日、手紙が目の前で捨てられてしまう。水希は、好奇心のままに、届かないラブレターを拾って読み始め、返事を書くことにする。第1話
青い空に、白い息が消えていった。
わたしは郵便バイクにまたがって、昼の町を走っていた。青々とした空なのに、夏みたいに騒がしくない。冷たい静けさが広がっている。ピアノの音をポーンと鳴らしたら、ずっと響き渡りそうだ。
わたしはバイクを駅前に停めた。それから、後ろの郵便ボックスから手紙を数枚、掴み取った。青い封筒、白い封筒、名前も知らない花が描かれた封筒。息を吐くと白くなるような真冬なのに、手紙を持った手だけが、じんわりと温かい。まるで人肌のような温もりがする。
古びた観光案内の看板を横切って、一軒一軒のポストに手紙を入れていく。山に囲まれた町で、大きな川に沿うように家が建てられている。だから、道は蛇みたいにくねくねと曲がっているし、坂や階段が多い。家と家の間には、えらく急なコンクリートの階段があったりして、そこからみんな向こう側の道路に出る。わたしも、足を踏み入れた。下りの階段は、一段の間隔が短い。体をちょっと後ろにそらしながらじゃないと、危ない。
「わっ」
転ばないように気をつけながら、室外機の横を通っていく。階段の向こう側には、町の景色が覗きみえる。大きな国道と、その向こうに川がある。道路には車が、川には水が流れていて、どちらも騒がしい。
「花さん、花さんの家は川の向こう側ね」
階段を降りて道路にでる。それから、川にかかった大橋を渡る。入口の柱に「100年続く林檎橋」とかかれた真鍮のプレートが埋め込まれていた。歩行者専用の大きな橋は、レンガと木で造られている。下の河川敷では、町にいる数少ない住民が、グラウンドゴルフをしていた。
橋の真ん中で立ち止まって、ちょっとあたりを見渡してみる。三百メートルほどの橋の下では、ごうごうと川が流れている。水が岩にぶつかって飛沫を上げている。後ろを見ると、バイクを停めた駅がみえた。目を凝らすと、赤いバイクもちょっとだけ姿がわかる。それから、もう一本ある橋を見た。そっちは林檎大橋よりも若く、コンクリート製だった。車も通れる。でもわたしは、林檎橋を歩いて渡った。
橋の向こう側は山だ。木は葉っぱがなくなって裸を晒している。
「寒いだろうに。わたしのコートを貸してあげられたらいいのだけど」
風が吹いた。木々が、答えるように乾いた音を鳴らした。
それから、何の花も咲いていない花畑を通った。バラが咲いていたら、緑と赤のトンネルになっている場所も、今は冷たい鉄のアーチが佇んでいるだけだ。すると一軒の家が現れた。古民家だ。ちょうど、若い女性が出てきた。歳も近いだろう。鍵を閉めて、これから真っ白なコートを抱きしめるようにして歩きながら道路に出てきた。
「あっ、水希(みずき)さんこんにちは。郵便ですか?」
彼女の声は、冬の静かな日に吹くフルートみたいだ。透き通っている。
「花さん、お手紙ですよ」
対してわたしの声は、どうなのだろう。意識していなくても時折、猫撫で声みたいになる。この声が嫌いだ。
二人して、愛想笑いを送り合う。西洋の貴族の真似事みたいに、ちょっとばかし腰を曲げて、頭を下げてみる。それから手に持った一枚の手紙を差し出した。途端、花さんがまゆをひそめた。それも一瞬のことで、次いで微笑んだ。桜が散るような悲しさを抱えているようだった。
「今度から、その手紙を送り返してもらうことってできますか」
「さすがにそれは……難しいです。住民がもういないとかじゃないと、送り返せません」
花さんは深いため息を吐いた。冷たい風が吹いた。手紙を持っていた手が、温もりを失っていく。
「せっかくのお手紙ですから」
「そうね。彼も悪気はないのよね」
「恋文ですか」
しまった。わたしは花さんの顔を見る前に、慌てて頭を下げた。人の心に土足で入ってしまった。
「ごめんなさい」
「えらく古風な言い方をするのね」
花さんはわたしの手から、手紙をつかみとった。顔を上げると、花さんは何かの花が描かれた封筒を見つめていた。「彼みたい」と呟く。
「重いのよね」
溜め込んだものを一気に吐き捨てるようにして、花さんはどこかへ行ってしまった。冬の風に冷やされた花さんの背中が小さくなっていく。花さんは途中で、手に持った手紙を読むこともせず、ぐちゃぐちゃにして、公園横のゴミ箱へと捨てた。虫でも払うかのように投げたから、ゴミ箱には入らず、道路に転がった。
わたしの足が、手紙に吸い込まれていく。この世に、受け取られず捨てられる想いがある。ゴミ箱にすら受け止めてもらえない気持ち。一体どんな言葉だろう?
わたしは、まるで万引きでもするかのように、こそこそと手紙を拾い上げた。下を向くと垂れてしまう横髪を、冷たくなった右手の人差し指でかきあげた。
丸くシワだらけになった手紙を、恋人の頬を指先でなでるように広げていく。手紙は。まるで心ごと握りつぶされているみたいだ。わたしは、胸の中にふくらんだ苦しみを、ツバと一緒に押し込んだ。
封が開いている。中から、淡い青色の便箋を取り出した。最初の一文が、瞳に入ってくる。
『花さん。愛しています』
第2話
窓の外で、空が赤色に染まっている。まるでワインだ。町の小さな郵便局で、パソコンのキーボードを叩く。配達報告を済ませてから、立ち上がった。奥にある更衣室に行って着替えを済ませた。制服は、疲れを吸い込んで重たくなっている。紺色のコートを着て、茶色いマフラーをしてから更衣室から出ると、人の姿がほとんどない受付を横切った。その時、青木さんが、こっちに視線を向けた。夕日が頬に当たったまま眠たそうにしている。四十歳ほどの男で、左手の薬指に指輪をしている。
「青木さんお疲れ様です」
「お疲れ様。やなもんだね。家に帰らなくちゃいけない」
「ゆっくり休めていいじゃないですか」
「一人暮らしならね。家には目つきの悪い妻と、話しっぱなしの息子がいるんだ。愚痴の一つもこぼせない」
青木さんはそう言って、自分ではめたであろう指輪を眺めた。それから、微笑んだ。微笑んだのだ。わたしは、金縛りにあったように動けなくなった。あの手紙をみた時と同じだ。無意識に、ズボンのポケットに隠し持った手紙を、コートの上から触った。
「どうして、一人暮らしに戻らないんですか」
呼吸が浅くなっていく。胸ぐらをつかまれたように、強くひきつけられる。わたしの目が、青木さんの口が動くのを待っている。わたしの耳が、青木さんの声を待っている。
「一緒にいたいから。四六時中幸せってわけじゃないけどね」
「一緒にいたくなくなったら?」
「ならないよ」
青木さんは、また微笑んだ。一足す一は二だと言うみたいに、簡単に口にしてみせた。
わたしはまた動けなくなった。静かな室内に、温かな赤い光が差し込んでいる。ほんの少しだけ、光が黒を増した時だった。入り口があいて、ベルが鳴った。
「それじゃ水希ちゃんお疲れ。届け忘れの郵便物はないね? 宛先不明のものは、ちゃんと箱に入れといて」
「大丈夫です」
「さすが」
わたしは、頭を下げてから郵便局を出た。出るときに、おじいさんとすれ違う。背が曲がっていて、子どもみたいに身長が低い。わたしが会釈すると、おじいさんは羽毛布団みたいに温かな笑みを返してくれた。
外に出ると、風が一気に肌を冷やしていった。マフラーを口元に寄せる。それから、歩き出した。昼間に手紙を届けるために歩いた時と、同じ道だ。誰もいない。
誰もいない道を歩いて、誰もいない家に帰る。
川の音がする方へ足を向かわせる。急な階段をおりて、広い国道を横切る。橋の前に人がいる。おばあさんと、小さな男の子だ。二人は手を繋いで、赤い空の下を歩いていた。
「おばあちゃん、聞いて聞いて。今日ね。好きな人ができたの」
「そうなのかい。どんな子を好きになったの?」
「えっとねえ。席が隣でね、ピーマンが嫌いでね、足が僕よりも速くてね」
「うん」
「いつも一人でいるんだけどね、僕が話しかけると、笑ってくれるんだ。そしたら、なんだか、ぽかぽかするんだよ」
男の子は、ひまわりみたいに笑った。きっと、男の子にとっての太陽は、想い人なのだろう。おばあさんはシワだらけの顔で微笑んだ。年輪みたいだ。
わたしがすれ違う時、おばあさんが立ち止まってこちらに頭を下げた。
「今日は冷えますね」
「もう冬ですから」
おばあさんは白い息を吐いていた。そうして、手をしきりに擦っていた。綿の入ったような、ふっくらとした紫色の上着を着ている。それでも、寒そうだった。
わたしは、自分のコートとマフラーを脱いで、おばあさんに着せた。
「いいのに。家はすぐそこですから」
「わたしもです。それに、ちっとも寒くはないですから」
わたしは、白いシャツとズボンだけになった。体が一気に冷えていく。冷凍庫に入れられる水の気持ちがわかる。長くここにいると、体が震えて、おばあさんにバレそうだ。わたしは、そそくさとその場を離れて、橋を渡り始めた。
「お姉ちゃん」
後ろから、男の子の声がした。振り返ると、顔を桃みたいに色づかせた男の子が微笑んでいた。
「ありがとう」
「いいんだよ。君も、体を冷やさないようにね」
わたしは、うまく微笑んでいるだろうか。
「うん」
おばあさんと、男の子は、それから帰っていった。二人の背中が段々と小さくなっていく。わたしは、一人で橋を歩いている。
空はいつの間にか星が見えるようになっていた。星が、散りばめられている。星ですら、一人ぼっちではない。
わたしはなるべく空を見ないように、下を向いて家まで歩いた。花さんの家が近づいてくる。人影が二つあった。
花さんと、男だ。見たことがない顔だ。花さんよりも、頭一つ分背が高い。手紙を送っていた彼と違って、体つきも良かった。健康的な肉がついている。手紙の彼を一度だけ、見たことがあるが、枯れ枝のような人だった。今、目の前にいるのは、木の幹みたいな人だ。
二人は、星明かりの下で、互いの柔らかな唇を触れさせた。両手で、相手の頬を包み込んでいる。息と一緒に、愛を吹き込もうとしているのだろうか。時折、甘い息をもらしていた。わたしは、ポケットの中の手紙を、手で直接触れた。痛い。
幸せそうだ。なのに、わたしの心はちっとも温かくはならなかった。乾いた冷たい風が吹いてきて、二人は手を止めた。花さんがこちらをみた。それから、目を細めて、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんで泣いているの?」
右の頬にひとすじの涙がこぼれているみたいだ。涙の通った後が、ひんやりとしている。男の方が、心配そうにハンカチを取り出した。その優しさが、腹立たしかった。わたしは、何にも言わず、不器用な愛想笑いだけを二人に押し付けて、その場から逃げた。一歩ずつ、歩く速度が上がっていく。早く家に帰りたかった。息が燃えるように熱い。心が血を流しているみたいにベトベトとしている。五分も歩かないうちに、家が見えてきた。小さな古民家だ。庭には、大きな傷がついた大木が、一本だけ生えている。わたしは、乱暴に鍵を開けて中に入ると、扉を背もたれにして座り込んだ。涙が止まってくれない。
手紙を取り出して、額につける。彼は見捨てられたのだ。彼は知っているのだろうか。手紙を読む限りじゃ、まだ別れ話にすらなっていない。きっと、彼は、花さんが忙しくて手紙を返せないと思っている。
彼の気持ちが、わたしの心に流れ込んでくるみたいだった。あまりにもかわいそうだ。せめて、別れの手紙くらいは書いてあげればよいのに。
わたしは、この日、一人でずっと泣いていた。
それから一週間後のことだ。彼から花さんに宛てた手紙が届いた。だがその手紙は、雨が降ったみたいに濡れていた。
第3話
手紙は濡れていた。雨粒が落ちたみたいだった。もう乾いてはいたが、跡がくっきりとついてしまっている。わたしは、いつも通り、花さんの家に届けようとした。空は青々としていて、風が木々を揺らしている。ザワザワと葉っぱが擦れる音がした。
花さんの家の前に行った時、わたしは、落とし穴に落ちていくような脱力感に襲われた。空き家の看板が建てられている。真新しい緑のインクで、不動産屋の電話番号も書かれていた。わたしは、手に持った手紙をやんわりと握った。迷子で泣きそうになっている子どもの手を握っているような気がした。どうしたものか。
ペリッと、音がした。握った拍子に、手紙の封が剥がれてしまったらしい。体の芯が熱くなっていって、反対に指先が冷たくなっていく。冷えた指先で、便箋を取り出した。
ひどい手紙だった。泣きながら書いたのだろう。あちこちに丸い跡がついていたし、文字は震えている。文章と文章の間が、時々不自然に途切れていた。一気に書いたわけじゃないのかもしれない。さらに言えば、一文字を書く途中でもペンを止めた跡がある。
唯一、頭の奥底に残っている彼の表情からは想像できない。知性が消えて、痛みだけが残ったような文章だ。それでも、花さんを責める言葉は一つもなかった。花さんの幸せを願う言葉と、花さんがなぜ手紙を返してくれないのか察しているという話と、最後に、手紙を送るのをやめるという話が書かれていた。
彼は、花さんが何を考えているのか分からなかったのだろう。何も語らずに消えていく己の彼女を、簡単に疑うような人ではないはずだ。
わたしは、一言も言葉を交わしたことのない彼の存在が、心の中で膨らんでいくのがわかった。まるで花のつぼみが開いていくみたいだ。桃色の花だ。同時に、雪のように消えていきそうな彼を想像して、心が痛くなる。誰もいない銀世界で一人ぼっちになり、鈴を一度だけ鳴らしたような寂しさだ。
頭が甘ったるい匂いを嗅いだ時のように麻痺していくのがわかった。止める術はなかった。違う、止めなかった。わたしは、郵便局に戻ると、この手紙を宛先不明として処理せずに隠し持つことにした。それから、帰り際に封筒と便箋を買った。
家に帰ると、コートも脱がずに窓際の机に便箋を広げた。椅子に座って、卓上ランプをつけた。いつ飾ったかも忘れた造花が一輪、花瓶に挿してある。黄色い百合の花だ。花言葉はなんだっけ。
「あれ。どこから入ってきたのかしら」
いつの間にか、便箋の上に落ち葉が横たわっている。何の木の葉っぱかも分からない。広葉樹の、雨粒みたいな形をしていた。茶色くなっていて、指で触れただけで崩れてしまいそうだ。
「昔の人は、葉っぱに手紙を書いていたんだっけ」
いつの日か、誰かから聞いた曖昧な記憶が思い出された。わたしは、落ち葉を捨てられず、机の隅っこに置いた。
次いで、視線を便箋に落とした。紙の向こう側に彼が見える気がする。今も頬を濡らしているのだろうか。そう思うと、いたたまれなくなって、引き出しから万年筆を取り出した。そうして、自分の名前を書いて……。
何をしているんだわたしは。
「あぁもう。バレたらクビよ」
立ち上がって、キッチンに行く。乱暴に棚を開けてガラスのコップを取り出した。シンクの蛇口を捻って、水を出す。冬の、凍りかけたように冷たい水だ。火照った体を落ち着かせるのにはちょうどいい。わたしは、一気に飲み干した。水が思ったよりも不作法に喉に入ってくるから、むせてしまう。水を床に吐き捨てた。コートも濡れしまった。ポケットからハンカチを取り出して、唇や頬を拭った。それからコート。最後に床だ。水が、ハンカチに吸い取られていく。
わたしは、濡れたハンカチをただ、ぼんやりと眺めた。ハンカチの向こう側に、やっぱり彼がいる。心が強く彼を想っている。
「可哀想だっただけよ。良い人そうに見えただけよ。不憫だっただけよ。落ち着いた、素敵な人に見えただけよ」
何かと理由をつけてみる。この理由さえなければ、わたしは、彼を気にしなくなるかもしれない。
「彼のために何かしたいと思わなかったら? 良い人だと知らなかったら?」
こんなにも心を砕きはしなかったかもしれない。でも、わたしはもう、彼を知っている。見ないふりもできただろうに、わたしは彼に踏み込もうとしている。
花を慈悲もなく摘み取るみたいに、心を整理しようとするが、どうもうまくいかない。恋とも、愛とも、言い切れない気持ちが心の中でたゆたっている。
立ち上がって寝室の棚から、新しいハンカチを持ってくる。淡い桃色をしていた。わたしは、机に戻ると、万年筆を握った。
やっぱり分からない。花さんになりすまして書く? それともわたしだってバラす?
何でもいい。彼が泣き止むのなら、なんだっていい。彼が今、一番求めているのは、花さんの言葉だ。きっと、そうだ。
だから、わたしは記憶の中にいる花さんの言葉を、手紙に書いた。これからわたしは、花さんだ。偽りの恋人だ。甘ったるい言葉を便箋に並べて、封筒に入れた。淡い桃色のハンカチも一緒だ。それから卓上ランプを消した。外はすっかり暗くなっている。黄色い百合の造花が、月明かりに照らされながら、揺れた。
第4話
控え目なエンジン音が、誰もいない町を独り占めしている。わたしは、郵便バイクを駅前に停めた。空はまだ青い。右手に中身が入ったレジ袋と鞄をぶら下げて、ベンチに座った。駅前は、観光客用の休憩所がある。テーブル付きのベンチや、案内板、駅舎の壁には近くの宿場町を宣伝したポスターが貼られている。ここから三十分歩けば、昔の町並みを観光できる。
「寒いなあ。指先から凍ってしまいそう」
テーブルに背を向けてベンチに座る。こうすると、町の様子がよくわかるし、空も見やすい。温かい吐息で手を温めてから、ビニール袋に入ったペットボトルを取り出した。
新緑みたいに色づいたお茶だ。赤くなった手で蓋を開けて、一口飲む。
「あったかい」
息を吐くと、真っ白だった。鞄から、手紙を何枚か取り出す。全部、彼からの手紙だ。その時、駅に電車が滑り込んでくる金属音がした。一両編成のワンマン列車で、ただでさえ少ない乗客は、ほとんどこの駅で降りる。駅の中に足音と、話し声が流れ込んできた。首だけを後ろに向けると、空っぽになった列車が、次の駅へ走っていく姿が見えた。
観光客だ。三十代ほどの男女が六人いる。みんな冬の寒さに耐えられるよう厚着をしている。靴は歩きやすいスニーカーを履いていた。頬が、寒さで桃みたいな色に染まっている。
「寒いねえ」とポニーテールの女性が言った。
「宿場町までどれくらいだろう」精悍な顔つきの男性が言った。
「三十分ってポスターに書いてあるみたいだわ」髪にウェーブがかかった女性が言った。
みんな楽しそうだ。わたしと同じだ。いや、どうだろう。
男女の集団は、この町になんの興味も示さずに歩いていってしまった。六つの足音が、遠くに行ってしまう。わたしといえば、どこにも行かず、ここに取り残されている。でも、わたしには彼からの手紙がある。
わたしは、緩んでしまう頬をそのままに、手紙を開けた。もう何度も読んでいる。彼から花さんに向けた愛の言葉の数々だ。ただ、彼が書いた言葉の先に花さんはいない。花さんになりすましたわたしだ。わたしも、彼に愛の言葉を送っていた。なんて書けばいいかわからなかったけれど、花さんが選びそうな言葉ならわかる。
目の前の道路を、原付に乗った警察官が通り過ぎていく。視線が合って、小さく頭を下げた。
彼は今、泣き止んでくれているだろうか。こんな方法しか思いつかなかったけれど、初めてしまったものは仕方がない。わたしの中で、雪が溶けていくみたいな心触りがする。草花が芽吹くのを見た時みたいな温かさがある。これはきっと本物だ。そうであってほしい。
彼は花さんからの手紙がきて喜んでいる。わたしも、偽りでもいいから彼と言葉を交わせるのが嬉しい。誰も損していない。むしろ得じゃないか。
手紙を握る手が強くなっていく。便箋に跡がついてしまってから、自分の過ちに気づいた。
「ごめんなさい」
傷跡みたいなシワがついた手紙を、必死に指先で撫でる。手紙が元通りになってくれない。一度つけてしまった傷が、戻ってくれない。わたしは怖くなって手紙から目を背けた。手紙を出来るだけ丁寧に鞄に戻す。それから、鞄にしまっておにぎりを食べた。いつの間にか氷みたいに冷たくなった米の塊が、喉を通って体に入ってくる。心まで冷めてしまいそうだ。
「ごめんなさい。こんなことをするつもりじゃなかったの」
もう一度、息を吐く。うさぎみたいに真っ白な息だ。
「寂しいな」
降り始めた雨みたいに、ポツリと呟いた。誰も聞いてくれやしない。彼さえも。
この日からも、彼とは何度も手紙を交わした。花さんの言葉や筆跡を真似るのにもうまくなってきていた。最初は週に一回のやりとりだったが、次第に増えていった。関係は偽りであっても、わたしの心は本物だった。愛の言葉を使う度に、わたしの心が彼に心と溶け合っていくのがわかった。彼も、手紙を重ねるごとに元気になっていたと思う。なんてことない冗談を時折混ぜてくれるようになった。ただ同時に、花さんとの過去の思い出も語るようになった。
身を焦がすほどの嫉妬はなかった。けれど、わたしは良い気分ではないのだろう。花さんと彼の甘い記憶に触れる度に、心に擦り傷ができていく気がした。構うほどのものじゃないけど、確かに傷だ。
一番難しかったのは、この思い出に話を合わせることだった。わたしは花さんじゃない。だから、何にも知らない。花さんとの思い出の中で笑う彼の声も、仕草も知らない。花さんが温かく笑う姿も、想像ができない。
こういう時は、心を冷凍庫に入れるようにして、何も感じず返事を書く。きっと彼は気づかないから大丈夫。そう思っていた。
上手くできていると信じて疑わなくなった時だった。町に初雪が降った日だ。彼から手紙が届いた。いつもなら嬉しいはずの手紙を触れても、温かくはなかった。真っ白な封筒が、雪みたいに冷たい。
手紙の書き出しはこうだった。
『君は誰?』
第5話
雪が止まない。真っ白な花びらみたいだ。わたしは、部屋の中で、明かりもつけずに机に突っ伏していた。机の上には、造花の百合と、落ち葉と、彼からの手紙だ。気分が悪い。胃の中が洗濯機みたいにぐるぐるしている。
手紙は、カッターナイフみたいな言葉で埋め尽くされていた。この刃の先が、わたしだったり、彼自身だったりして、血だらけになっている。手紙の中の彼は、混乱していた。当たり前だ。自分の彼女だと思っていたのに、赤の他人が受け取っていたのだ。それどころか、返信まで書いている。手紙には、もう手紙を書かないと記されていた。実際、この手紙を最後に、もう一ヶ月は彼から手紙がきていない。わたしも、送れなかった。
「わたし、いつからこんなに気味が悪くなったんだっけ」
窓の外は真っ暗だ。心に嫌な痛みが広がっていく。どうしようもできなくなって、机の上にあった落ち葉をぐしゃぐしゃに握りつぶした。どこまで形を保てなくなれば、落ち葉なのだろう。
まるで、わたしの心を壊しているみたいだ。このまま壊し切ってしまえば、最初からなかったことにならないだろうか。
「おえっ……うっ」
このままじゃ、心ごと腐ってしまう気がした。すがるような気持ちで立ち上がると、ふらついた足取りで家を出た。真っ黒なコートを着て、自分の肩を抱くように小さく縮こまりながら歩いた。花さんのいなくなった空き家を通り過ぎて、大きな橋を渡って、国道に沿ってさまよう。足がぼんやりと痛むまで歩いた。降りしきる雪の向こう側に、宿場町が見えてくる。
山と山に挟まれた町だ。わたしがいた町よりも規模は小さかった。川も細くなっている。でも、わたしの町より賑やかだった。観光案内所もあるし、木製の笛や鳥を売っているお土産屋さんの姿も見えた。みんな笑っている。わたしだけが、泣きそうな顔でここにいる。通りすがりの観光客が、わたしを心配そうに見てきた。視線から逃げたくて、出来るだけ人がいないところを探した。人が全くいないのは嫌だったけれど、多いのも嫌だった。落ち着ける場所が欲しい。
うねる川に沿って作られた宿場町だから、町全体も蛇みたいに曲がりくねっている。石畳の地面は、急に坂になったり、かと思えば長く平らになったりしていた。
わたしはとにかく奥に行った。足が痛い。ふくらはぎが、熱を帯びているし、足の上は霜焼けでピリピリと痒い。
和菓子屋が目の前に現れた。店の外に赤い布が垂らされたベンチが置いてある。雪をかぶって、所々が白くなっていた。ガラスの自動ドアをくぐり抜けて中に入った。息が上がっている。
店番は一人のお婆さんがしていた。わたしよりも低い背丈で、ガラスケースの向こう側に立っていた。
「おんやまあ。どうして泣いているんだい」
息が一瞬止まった。反射的に左手で頬を拭った。頬に触れた瞬間、ひんやりとして、次いで自分の肌の温もりが伝わってくる。いつの間にか、泣いていたらしい。
「寒いだろう。そこにすわんな」
訛りの強い声だ。でも、優しくて温かい音がする。こたつみたいだ。
わたしは何も言えないまま、椅子に座った。丸い机も置かれている。外には白い世界が広がっている。視線を下に落とす。綺麗に揃えられた自分の足と、太ももに置かれた手だ。指先だけが真っ赤に染まっている。
「ほらお茶とお菓子。飲むと温まるから」
机に湯呑みと、和菓子が置かれた。名前もわからない和菓子だったけれど、ピンク色の花みたいで、柔らかそうだった。
「ご、ごめんなさい。お代いくらですか」
「いらないよ」
お婆さんが目の前の椅子に座った。
「しばらくここでゆっくりしていきなさい」
この言葉が、雪の日の寒さを消し去ってしまうほど温かかった。涙が溢れ出していく。肩が震えて、息が漏れた。おばあさんは、椅子をこっちに寄せながら座り直して、わたしに近づいた。それから、背中を撫でてくれた。何も言わなかった。
いつまで泣いていただろう。頭の中はみじん切りみたいにぐちゃぐちゃになっていた。彼への申し訳なさがあった。自分がした行いが間違いだったと痛感した。心に包丁が突き刺さっているみたいだ。
「わたし、大切な人を傷つけてしまいました」
お婆さんの手が止まった。でもすぐにまた、撫でてくれた。
「それは辛いねえ。わざとじゃないんだろう」
「……自分の選択が、最善だって思っていました。でも違った」
「そういうもんよ。ちょうど、花の種と一緒ね」
「花の種?」
「植えてみて、水をあげて、花が咲くまで、どんな花かなんて誰にもわからないわ。あなたが今、反省しているってなら、次はこれからどうするかを考えてもいいんじゃないかしら」
「これから……」
「謝ったの?」
「……まだです」
「まずはそこからね」
お婆さんがにっこりと笑った。雪が止んで、雲の隙間から光が落ちてくる。わたしは、お婆さんにお礼を言ってから家に帰ると、すぐに彼へ手紙を書いて郵便に出した。
その翌日だった。彼から手紙が届いた。
最終話
空が青い。太陽が温かい。風が心地いい。あれから、何にも変わってはいない日々だけど、それでも妙な清々しさがあった。
今日は不思議な日だ。空は青く晴れているのに、雪が降っている。わたしは郵便バイクにまたがって、町を走っていた。
すっかり暖かくなって、春の足音が聞こえてくる。老婆のように枯れていた木々たちも、緑を取り戻していた。白い花をつけた梅の並木道を通り抜けていく。思わず頬が緩む。川の力強くうねる音がエンジン音に負けず劣らず聞こえてくる。冬の寂しさが身を潜め出して、代わりに春の賑やかさが姿を見せ始めていた。
人間も同じなのだろう。手紙が多くなっていた。わたしは、温もりが混じった冬の空気の中、手紙を運んでいった。全部を届けられる頃には、昼を過ぎていた。日差しが体を抱きしめてくれる、穏やかな時間帯だ。人々が起きて活動しているはずなのに、どこか静かな雰囲気が漂っている。わたしだけが、ぽつり立っている。だけど寂しさがない。バイクを郵便局に停めて、中に入る。暑いくらいに暖房が効いていた。わたしは、手袋を外した。
「嬉しそうだね。何かいいことあったの?」
青木さんが笑みを向けてくる。
「町に花が咲きましたから」
わたしは着替えを済ませると、青木さんに挨拶してから郵便局を出た。手袋はもういらなさそうだ。夕方が近づいてくる町の空は、ほんのりと赤かった。青と赤が寄り添うように混ざり合いながら空を包み込んでいる。
わたしは、ポケットの中にある一枚の手紙を取り出した。わたしにとって、特別な温もりを持つ手紙だ。彼からきた手紙の中で一番新しい。中には、彼らしさが詰まっていた。わたしへ向けた刺々しい言葉を謝っていた。それから、ありがとう、と書かれていた。心が、ちくりと痛む。
わたしが手紙を送ったタイミングと、彼から手紙が届いたタイミングはほとんど変わらなかった。お互いが、同時に同じようなことを考えていたのだろう。
また歩き始める。途中、あるお店に入った。汚れたガラスの向こう側に、商品棚が見える。中に入ると、暖房の効いた空気が頬にふれた。レトルトのカレーだったり、絆創膏だったりが売られている。どれも箱が古くなって、角が擦れて茶色くなっている。いつからあるのかわからない。売られているジャンルも予測ができなくて、ミシンやレンジが売っている。わたしはここが好きだ。宝探しをしている気分になる。
お婆さんがレジ台の奥に座っていて、男の子が掃除を手伝っていた。
わたしは、欲しいものが決まっていた。なんだか、ここにならある気がする。ゆっくりと棚を見ていく。あった。
お婆さんの目の前に欲しいものが入った箱を置いて、会計を済ませた。
「あら、今日は嬉しそうね」
お婆さんがシワだらけの顔で微笑んだ。
「温かくなりましたから」
「花も咲いたものね」
お店を出て、家に帰った。なんだかコートを脱ぐ気にはなれなくて、そのまま窓際の椅子に座った。目の前には机があって、バラバラになった落ち葉がそのままにされている。わたしは、机の上に買ってきた箱を置いて開けた。中には栞を作る小さな機械が入っている。長方形の透明な板が入っていて、その上にバラバラになってしまった落ち葉を集めた。もう一度、壊してしまったものを元通りにしたい。全部は無理でも、できるだけ。
なんとか落ち葉の形に戻った気がする。どこまで形がなくなれば落ち葉と呼べなくなるかどうかなんて、今のわたしにはどうでもよかった。今、目の前にあるのは、間違いなく落ち葉だ。それが分かれば十分だった。
上からもう一枚、透明な板を被せて、機械に入れた。コンセントを指して、電源を入れる。すぐに栞ができた。これで、もう落ち葉が崩れることはないだろう。
外を見ると、日が傾いていた。さっきまでは赤と青の空だったのに、今は赤と黒だ。星がまばらに見え始めている。わたしは、落ち葉の栞を手に持つと、家を出た。星が見たかった。
大きな古傷がある木を横切って家を出て、花さんの家の前を通る。それから、古い橋の上を歩く。わたしだけがこの場所に立っている。橋の下から川の力強い音が聞こえていた。なんだか、寂しくなかった。川も、星も、見ていると落ち着く。
それから、横断歩道を渡って、いつもは降りる時に使う階段を昇った。見上げると、階段の向こう側には星空しか見えない。まるで天に続く階段だ。
階段を上がりきると、栞の機械を買ったお店が見えた。一階は電気が消されて真っ暗になっていたけれど、二階の窓から明かりが漏れていて、カレーの匂いがした。
お店を通り過ぎると郵便局が見えてきた。真っ暗で誰もいない。道路にも、人影の一つもなかった。街灯が等間隔に並んでいる。明かりで作られた道に誘われるように歩いていると、駅にたどり着いた。駅員さんが窓口にいるだけで、他に人はいなかった。静かな夜の駅だ。
わたしは、ホームの外で、ぼんやりと空を眺めていた。すっかり黒色になった空には、星が溢れていた。一つだけ、ゆらゆらと揺れている星がいた。揺れた星は、次第に大きくなって、わたしの目元に落ちてきた。雪だ。
「……とけちゃった」
星が落ちてきたみたいだ。
その時、列車がホームに滑り込んできた。ため息みたいな音がして、人が一人だけ降りてくる。男の人だ。細くて、背が高い。
目が離せなくなって、わたしはずっと見つめていた。向こうも、こっちに気づいたらしくて、暗がりの中で目が合う。
彼だ。
「あの」とかけた声は、わたしのものだけじゃなかった。彼が白い息を吐きながら、微笑んだ。心が、風に揺られた梅の木のように震えた。
「手紙、あなたが送ってくれたんですね」
彼の声は、春の日差しのような温もりをしていた。わたしは、何度も頷いた。手に持った、栞を胸元に抱きしめる。春は、これから色づいていく。
ー完ー