• 『宛先不明の愛』

  • 柊織之助
    恋愛

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    恋も愛も知らない郵便局員の水希は、毎週受け取られることのないラブレターを届けていた。だがある日、手紙が目の前で捨てられてしまう。水希は、好奇心のままに、届かないラブレターを拾って読み始め、返事を書くことにする。

第1話

青い空に、白い息が消えていった。
 わたしは郵便バイクにまたがって、昼の町を走っていた。青々とした空なのに、夏みたいに騒がしくない。冷たい静けさが広がっている。ピアノの音をポーンと鳴らしたら、ずっと響き渡りそうだ。
 わたしはバイクを駅前に停めた。それから、後ろの郵便ボックスから手紙を数枚、掴み取った。青い封筒、白い封筒、名前も知らない花が描かれた封筒。息を吐くと白くなるような真冬なのに、手紙を持った手だけが、じんわりと温かい。まるで人肌のような温もりがする。
 古びた観光案内の看板を横切って、一軒一軒のポストに手紙を入れていく。山に囲まれた町で、大きな川に沿うように家が建てられている。だから、道は蛇みたいにくねくねと曲がっているし、坂や階段が多い。家と家の間には、えらく急なコンクリートの階段があったりして、そこからみんな向こう側の道路に出る。わたしも、足を踏み入れた。下りの階段は、一段の間隔が短い。体をちょっと後ろにそらしながらじゃないと、危ない。
「わっ」
 転ばないように気をつけながら、室外機の横を通っていく。階段の向こう側には、町の景色が覗きみえる。大きな国道と、その向こうに川がある。道路には車が、川には水が流れていて、どちらも騒がしい。
「花さん、花さんの家は川の向こう側ね」
 階段を降りて道路にでる。それから、川にかかった大橋を渡る。入口の柱に「100年続く林檎橋」とかかれた真鍮のプレートが埋め込まれていた。歩行者専用の大きな橋は、レンガと木で造られている。下の河川敷では、町にいる数少ない住民が、グラウンドゴルフをしていた。
 橋の真ん中で立ち止まって、ちょっとあたりを見渡してみる。三百メートルほどの橋の下では、ごうごうと川が流れている。水が岩にぶつかって飛沫を上げている。後ろを見ると、バイクを停めた駅がみえた。目を凝らすと、赤いバイクもちょっとだけ姿がわかる。それから、もう一本ある橋を見た。そっちは林檎大橋よりも若く、コンクリート製だった。車も通れる。でもわたしは、林檎橋を歩いて渡った。
 橋の向こう側は山だ。木は葉っぱがなくなって裸を晒している。
「寒いだろうに。わたしのコートを貸してあげられたらいいのだけど」
 風が吹いた。木々が、答えるように乾いた音を鳴らした。
 それから、何の花も咲いていない花畑を通った。バラが咲いていたら、緑と赤のトンネルになっている場所も、今は冷たい鉄のアーチが佇んでいるだけだ。すると一軒の家が現れた。古民家だ。ちょうど、若い女性が出てきた。歳も近いだろう。鍵を閉めて、これから真っ白なコートを抱きしめるようにして歩きながら道路に出てきた。
「あっ、水希(みずき)さんこんにちは。郵便ですか?」
 彼女の声は、冬の静かな日に吹くフルートみたいだ。透き通っている。
「花さん、お手紙ですよ」
 対してわたしの声は、どうなのだろう。意識していなくても時折、猫撫で声みたいになる。この声が嫌いだ。
 二人して、愛想笑いを送り合う。西洋の貴族の真似事みたいに、ちょっとばかし腰を曲げて、頭を下げてみる。それから手に持った一枚の手紙を差し出した。途端、花さんがまゆをひそめた。それも一瞬のことで、次いで微笑んだ。桜が散るような悲しさを抱えているようだった。
「今度から、その手紙を送り返してもらうことってできますか」
「さすがにそれは……難しいです。住民がもういないとかじゃないと、送り返せません」
 花さんは深いため息を吐いた。冷たい風が吹いた。手紙を持っていた手が、温もりを失っていく。
「せっかくのお手紙ですから」
「そうね。彼も悪気はないのよね」
「恋文ですか」
 しまった。わたしは花さんの顔を見る前に、慌てて頭を下げた。人の心に土足で入ってしまった。
「ごめんなさい」
「えらく古風な言い方をするのね」
 花さんはわたしの手から、手紙をつかみとった。顔を上げると、花さんは何かの花が描かれた封筒を見つめていた。「彼みたい」と呟く。
「重いのよね」
 溜め込んだものを一気に吐き捨てるようにして、花さんはどこかへ行ってしまった。冬の風に冷やされた花さんの背中が小さくなっていく。花さんは途中で、手に持った手紙を読むこともせず、ぐちゃぐちゃにして、公園横のゴミ箱へと捨てた。虫でも払うかのように投げたから、ゴミ箱には入らず、道路に転がった。
 わたしの足が、手紙に吸い込まれていく。この世に、受け取られず捨てられる想いがある。ゴミ箱にすら受け止めてもらえない気持ち。一体どんな言葉だろう?
 わたしは、まるで万引きでもするかのように、こそこそと手紙を拾い上げた。下を向くと垂れてしまう横髪を、冷たくなった右手の人差し指でかきあげた。
 丸くシワだらけになった手紙を、恋人の頬を指先でなでるように広げていく。手紙は。まるで心ごと握りつぶされているみたいだ。わたしは、胸の中にふくらんだ苦しみを、ツバと一緒に押し込んだ。
 封が開いている。中から、淡い青色の便箋を取り出した。最初の一文が、瞳に入ってくる。
『花さん。愛しています』

第2話

 窓の外で、空が赤色に染まっている。まるでワインだ。町の小さな郵便局で、パソコンのキーボードを叩く。配達報告を済ませてから、立ち上がった。奥にある更衣室に行って着替えを済ませた。制服は、疲れを吸い込んで重たくなっている。紺色のコートを着て、茶色いマフラーをしてから更衣室から出ると、人の姿がほとんどない受付を横切った。その時、青木さんが、こっちに視線を向けた。夕日が頬に当たったまま眠たそうにしている。四十歳ほどの男で、左手の薬指に指輪をしている。
「青木さんお疲れ様です」
「お疲れ様。やなもんだね。家に帰らなくちゃいけない」
「ゆっくり休めていいじゃないですか」
「一人暮らしならね。家には目つきの悪い妻と、話しっぱなしの息子がいるんだ。愚痴の一つもこぼせない」
 青木さんはそう言って、自分ではめたであろう指輪を眺めた。それから、微笑んだ。微笑んだのだ。わたしは、金縛りにあったように動けなくなった。あの手紙をみた時と同じだ。無意識に、ズボンのポケットに隠し持った手紙を、コートの上から触った。
「どうして、一人暮らしに戻らないんですか」
 呼吸が浅くなっていく。胸ぐらをつかまれたように、強くひきつけられる。わたしの目が、青木さんの口が動くのを待っている。わたしの耳が、青木さんの声を待っている。
「一緒にいたいから。四六時中幸せってわけじゃないけどね」
「一緒にいたくなくなったら?」
「ならないよ」
 青木さんは、また微笑んだ。一足す一は二だと言うみたいに、簡単に口にしてみせた。
 わたしはまた動けなくなった。静かな室内に、温かな赤い光が差し込んでいる。ほんの少しだけ、光が黒を増した時だった。入り口があいて、ベルが鳴った。
「それじゃ水希ちゃんお疲れ。届け忘れの郵便物はないね? 宛先不明のものは、ちゃんと箱に入れといて」
「大丈夫です」
「さすが」
 わたしは、頭を下げてから郵便局を出た。出るときに、おじいさんとすれ違う。背が曲がっていて、子どもみたいに身長が低い。わたしが会釈すると、おじいさんは羽毛布団みたいに温かな笑みを返してくれた。
 外に出ると、風が一気に肌を冷やしていった。マフラーを口元に寄せる。それから、歩き出した。昼間に手紙を届けるために歩いた時と、同じ道だ。誰もいない。
 誰もいない道を歩いて、誰もいない家に帰る。
 川の音がする方へ足を向かわせる。急な階段をおりて、広い国道を横切る。橋の前に人がいる。おばあさんと、小さな男の子だ。二人は手を繋いで、赤い空の下を歩いていた。
「おばあちゃん、聞いて聞いて。今日ね。好きな人ができたの」
「そうなのかい。どんな子を好きになったの?」
「えっとねえ。席が隣でね、ピーマンが嫌いでね、足が僕よりも速くてね」
「うん」
「いつも一人でいるんだけどね、僕が話しかけると、笑ってくれるんだ。そしたら、なんだか、ぽかぽかするんだよ」
 男の子は、ひまわりみたいに笑った。きっと、男の子にとっての太陽は、想い人なのだろう。おばあさんはシワだらけの顔で微笑んだ。年輪みたいだ。
 わたしがすれ違う時、おばあさんが立ち止まってこちらに頭を下げた。
「今日は冷えますね」
「もう冬ですから」
 おばあさんは白い息を吐いていた。そうして、手をしきりに擦っていた。綿の入ったような、ふっくらとした紫色の上着を着ている。それでも、寒そうだった。
 わたしは、自分のコートとマフラーを脱いで、おばあさんに着せた。
「いいのに。家はすぐそこですから」
「わたしもです。それに、ちっとも寒くはないですから」
 わたしは、白いシャツとズボンだけになった。体が一気に冷えていく。冷凍庫に入れられる水の気持ちがわかる。長くここにいると、体が震えて、おばあさんにバレそうだ。わたしは、そそくさとその場を離れて、橋を渡り始めた。
「お姉ちゃん」
 後ろから、男の子の声がした。振り返ると、顔を桃みたいに色づかせた男の子が微笑んでいた。
「ありがとう」
「いいんだよ。君も、体を冷やさないようにね」
 わたしは、うまく微笑んでいるだろうか。
「うん」
 おばあさんと、男の子は、それから帰っていった。二人の背中が段々と小さくなっていく。わたしは、一人で橋を歩いている。
 空はいつの間にか星が見えるようになっていた。星が、散りばめられている。星ですら、一人ぼっちではない。
 わたしはなるべく空を見ないように、下を向いて家まで歩いた。花さんの家が近づいてくる。人影が二つあった。
 花さんと、男だ。見たことがない顔だ。花さんよりも、頭一つ分背が高い。手紙を送っていた彼と違って、体つきも良かった。健康的な肉がついている。手紙の彼を一度だけ、見たことがあるが、枯れ枝のような人だった。今、目の前にいるのは、木の幹みたいな人だ。
 二人は、星明かりの下で、互いの柔らかな唇を触れさせた。両手で、相手の頬を包み込んでいる。息と一緒に、愛を吹き込もうとしているのだろうか。時折、甘い息をもらしていた。わたしは、ポケットの中の手紙を、手で直接触れた。痛い。
 幸せそうだ。なのに、わたしの心はちっとも温かくはならなかった。乾いた冷たい風が吹いてきて、二人は手を止めた。花さんがこちらをみた。それから、目を細めて、怪訝そうに眉をひそめた。
「なんで泣いているの?」
 右の頬にひとすじの涙がこぼれているみたいだ。涙の通った後が、ひんやりとしている。男の方が、心配そうにハンカチを取り出した。その優しさが、腹立たしかった。わたしは、何にも言わず、不器用な愛想笑いだけを二人に押し付けて、その場から逃げた。一歩ずつ、歩く速度が上がっていく。早く家に帰りたかった。息が燃えるように熱い。心が血を流しているみたいにベトベトとしている。五分も歩かないうちに、家が見えてきた。小さな古民家だ。庭には、大きな傷がついた大木が、一本だけ生えている。わたしは、乱暴に鍵を開けて中に入ると、扉を背もたれにして座り込んだ。涙が止まってくれない。
 手紙を取り出して、額につける。彼は見捨てられたのだ。彼は知っているのだろうか。手紙を読む限りじゃ、まだ別れ話にすらなっていない。きっと、彼は、花さんが忙しくて手紙を返せないと思っている。
 彼の気持ちが、わたしの心に流れ込んでくるみたいだった。あまりにもかわいそうだ。せめて、別れの手紙くらいは書いてあげればよいのに。
 わたしは、この日、一人でずっと泣いていた。
 それから一週間後のことだ。彼から花さんに宛てた手紙が届いた。だがその手紙は、雨が降ったみたいに濡れていた。

第3話

 手紙は濡れていた。雨粒が落ちたみたいだった。もう乾いてはいたが、跡がくっきりとついてしまっている。わたしは、いつも通り、花さんの家に届けようとした。空は青々としていて、風が木々を揺らしている。ザワザワと葉っぱが擦れる音がした。
 花さんの家の前に行った時、わたしは、落とし穴に落ちていくような脱力感に襲われた。空き家の看板が建てられている。真新しい緑のインクで、不動産屋の電話番号も書かれていた。わたしは、手に持った手紙をやんわりと握った。迷子で泣きそうになっている子どもの手を握っているような気がした。どうしたものか。
 ペリッと、音がした。握った拍子に、手紙の封が剥がれてしまったらしい。体の芯が熱くなっていって、反対に指先が冷たくなっていく。冷えた指先で、便箋を取り出した。
 ひどい手紙だった。泣きながら書いたのだろう。あちこちに丸い跡がついていたし、文字は震えている。文章と文章の間が、時々不自然に途切れていた。一気に書いたわけじゃないのかもしれない。さらに言えば、一文字を書く途中でもペンを止めた跡がある。
 唯一、頭の奥底に残っている彼の表情からは想像できない。知性が消えて、痛みだけが残ったような文章だ。それでも、花さんを責める言葉は一つもなかった。花さんの幸せを願う言葉と、花さんがなぜ手紙を返してくれないのか察しているという話と、最後に、手紙を送るのをやめるという話が書かれていた。
 彼は、花さんが何を考えているのか分からなかったのだろう。何も語らずに消えていく己の彼女を、簡単に疑うような人ではないはずだ。
 わたしは、一言も言葉を交わしたことのない彼の存在が、心の中で膨らんでいくのがわかった。まるで花のつぼみが開いていくみたいだ。桃色の花だ。同時に、雪のように消えていきそうな彼を想像して、心が痛くなる。誰もいない銀世界で一人ぼっちになり、鈴を一度だけ鳴らしたような寂しさだ。
 頭が甘ったるい匂いを嗅いだ時のように麻痺していくのがわかった。止める術はなかった。違う、止めなかった。わたしは、郵便局に戻ると、この手紙を宛先不明として処理せずに隠し持つことにした。それから、帰り際に封筒と便箋を買った。
 家に帰ると、コートも脱がずに窓際の机に便箋を広げた。椅子に座って、卓上ランプをつけた。いつ飾ったかも忘れた造花が一輪、花瓶に挿してある。黄色い百合の花だ。花言葉はなんだっけ。
「あれ。どこから入ってきたのかしら」
 いつの間にか、便箋の上に落ち葉が横たわっている。何の木の葉っぱかも分からない。広葉樹の、雨粒みたいな形をしていた。茶色くなっていて、指で触れただけで崩れてしまいそうだ。
「昔の人は、葉っぱに手紙を書いていたんだっけ」
 いつの日か、誰かから聞いた曖昧な記憶が思い出された。わたしは、落ち葉を捨てられず、机の隅っこに置いた。
 次いで、視線を便箋に落とした。紙の向こう側に彼が見える気がする。今も頬を濡らしているのだろうか。そう思うと、いたたまれなくなって、引き出しから万年筆を取り出した。そうして、自分の名前を書いて……。
 何をしているんだわたしは。
「あぁもう。バレたらクビよ」
 立ち上がって、キッチンに行く。乱暴に棚を開けてガラスのコップを取り出した。シンクの蛇口を捻って、水を出す。冬の、凍りかけたように冷たい水だ。火照った体を落ち着かせるのにはちょうどいい。わたしは、一気に飲み干した。水が思ったよりも不作法に喉に入ってくるから、むせてしまう。水を床に吐き捨てた。コートも濡れしまった。ポケットからハンカチを取り出して、唇や頬を拭った。それからコート。最後に床だ。水が、ハンカチに吸い取られていく。
 わたしは、濡れたハンカチをただ、ぼんやりと眺めた。ハンカチの向こう側に、やっぱり彼がいる。心が強く彼を想っている。
「可哀想だっただけよ。良い人そうに見えただけよ。不憫だっただけよ。落ち着いた、素敵な人に見えただけよ」
 何かと理由をつけてみる。この理由さえなければ、わたしは、彼を気にしなくなるかもしれない。
「彼のために何かしたいと思わなかったら? 良い人だと知らなかったら?」
 こんなにも心を砕きはしなかったかもしれない。でも、わたしはもう、彼を知っている。見ないふりもできただろうに、わたしは彼に踏み込もうとしている。
 花を慈悲もなく摘み取るみたいに、心を整理しようとするが、どうもうまくいかない。恋とも、愛とも、言い切れない気持ちが心の中でたゆたっている。
 立ち上がって寝室の棚から、新しいハンカチを持ってくる。淡い桃色をしていた。わたしは、机に戻ると、万年筆を握った。
 やっぱり分からない。花さんになりすまして書く? それともわたしだってバラす? 
 何でもいい。彼が泣き止むのなら、なんだっていい。彼が今、一番求めているのは、花さんの言葉だ。きっと、そうだ。
だから、わたしは記憶の中にいる花さんの言葉を、手紙に書いた。これからわたしは、花さんだ。偽りの恋人だ。甘ったるい言葉を便箋に並べて、封筒に入れた。淡い桃色のハンカチも一緒だ。それから卓上ランプを消した。外はすっかり暗くなっている。黄色い百合の造花が、月明かりに照らされながら、揺れた。

第4話 coming soon