• 『モガの葬列』

  • 冬林 鮎
    歴史・時代

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    日本が戦火に傾くまでの束の間の美しい時代──大正。  「新時代の女ってなに?」平穏に悶々とする令嬢と七人の男、ゆるやかな日々の記録。

第1話 小倉袴

赤門の前を通る学生は誰もが賢そうな顔をしていて何だか鼻持ちならない。
あの仏頂面の恭でさえもあんな風に知的に、堂々と、分厚い洋書を読みながら歩くことがあるのだろうか。
 ふと時計を見る。もう小一時間もやもやと考え事をしながら待っていることに気付き、思わず肩をすくめた。

 法学部の授業とは一体何をしているのだろう。何度か考えてみたことはあるものの私に想像できるほどの学はなく、最後はいつもうやむやになって終わった。
 何かの折に恭に尋ねてみたこともあったが、『別に分からなくていい』とでも言わんばかりに小難しい言葉をつらつらと並べ立てて流された。

 恭は父が下宿させている書生の一人だ。父は彼の寝食から学費までを世話しており、代わりに洋書の翻訳や外国語の手紙の遣り取りを頼んでいる。傍目にはすでに肝入りの部下とその上司のような間柄に見えるが、その真意は分からない。
いずれ恭を自分の秘書か、あるいはお抱え弁護士にでも迎えるつもりなのかもしれない。家業のことなど、あいにく女に生まれついた私には知る由もないけれど。

「はぁ……」

 待ち疲れたその目で、所在なく朽ち葉の軌道を目で追いかける。そのもの時間が枯れ果てて落ちてゆくように思われて切なくなってきたけれど、この美しい風景は悪くなかった。待ち人のことを考えなくて良いのならいくらでも浸れそうだ。
 乾いた朱漆の一角がじわじわと夕焼けに融けてゆく様を眺めている。何時間でも見ていられそうな緩慢な美。もう一度長いため息をつく。費やした時間がかさかさと足元に積もった。

 リン、リン──
さやかに響く鈴の音。思わず顔を上げる。
 銀杏並木が彩りを添える小道の向こうを、背の高い影が落ち葉を踏み割り近づいてくる。長い小倉袴の足元がせわしげに交差するのが見えた。
 学帽の庇を下げ私の側を行き過ぎる、名前も知らない美しい人。
 思わず振り返ると、後を追うように黄色の絨毯が巻き上がった。縦長の後ろ姿は、見る見るうちに遠ざかって消えていった。
 その場に残されたのは、ぽかんと口を開けた間抜けた顔の私だけ。

(なに、今の──)

 当てられたような脱力感に、私は無意識にその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて蹲る。紅色の落ち葉、飴色の朽葉……拾い上げようと手を伸ばした一寸先、高下駄の歯が落ち葉を踏み割る音がした。
 見覚えのある盲縞の袴、着物、詰襟シャツ──たどる様に見上げた先に、訝し気に眉をひそめたいつもの顔があった。
「何してんの、こんなところで」
「恭さん……」
 この辺りでは『たかしさん』と呼ぶようにしている。ご学友の前で年下の女学生に呼び捨てられたりしたら立つ瀬が無いだろうと私なりの配慮だ。
「汚れるよ、裾」
「ごめんなさい。少しぼうっとしてしまって」
 慌てて立ち上がり、しゃんとした。
 仮にも下宿先の娘に対して遠慮のない物言い──いや、誰に対してもそうだった。思えば子供の頃からずっと、恭が泣いたり焦ったりした姿を見たことがない。落ち着いていて、落ち着きすぎていて、いつも物事を耽々と観察している。

 何か言いたげに口を開いた恭の鼻先に手紙の束を突きつける。私は一息に要件を伝えることにした。不要な詮索を避けたかったからだ。
「これ父から。来週末までに翻訳をお願いしたいって。ごめんなさい、勉強で忙しいのに」
「わざわざ持って来たの?」
「ええ」
「同じ家に帰るのに?」
「は、早い方がいいかなと……」
「ふうん」

 恭はいまいち腑に落ちない様子ながらも手紙の束を受け取った。まるで取り調べをする警官のように、手紙と私の顔を交互に見比べている。
もともとの不愛想も手伝って、こういう時の恭の目は豹のようで何だか怖い。
 透けながら降りしきる枯れ葉が赤黄色の飴細工のように煌めく。こうしている間にもまたひとつ、私を見下ろす敬の肩越しにゆるゆると舞いおりていった。

 ふと逆光を背にした敬の後ろに誰かがいることに気付く。
 西陽を受けて薄らいだ赤黒い影が、面映ゆそうに会釈をしながらするりと差し込んできた。
「こんにちは。すみません僕、お邪魔でしたね」
 律儀に腰を折る挨拶に思わず縮こまる。
 ほっそりとしたその人は、細い目を引いて笑った。
「恭さん、こちらは?」
「後輩。一緒に飯食って帰ろうかと思って」
 恭のぶっきらぼうが、彼の笑顔をやたら眩しく感じさせた。
「はじめまして、つじです。都の司と書いて都司です」
「都司さん……はじめまして。小夜と申します」

 脱帽する都司さん。明るくて礼儀正しい人。その人好きのする清々しい挨拶が、彼はきっとどこかの大きな商家の跡取りなのだろうと思わせた。
それにしてもあの恭に“ご学友”がいたことが何より微笑ましい。
「今から鰻を食べに行こうかって話してたんですけど、良かったら小夜さんもご一緒にいかがです?」
「私も、ですか」
「ええ、お腹すいたでしょう」
 ちらりと恭を見れば、「まぁ、たまには」と歯切れが悪いながらも先に帰れとは言わなかった。後輩の心遣いを無駄にしたくないのだろう。
 都司さんは肩にかかる銀杏を洋書の角で払いながら微笑んだ。
「では旦那様のお許しが出ましたし、行きましょうか」
 何か勘違いされている気がするのだけど、恭は説明する気が無いらしい。
 にこやかな都司さんと、なぜか半笑いの恭。挟まれた私はどんな顔をしているのだろう。考えたくもないけれど。

 傾く太陽が明るい。じき赤くなるはずの景色は、降り注ぐ銀杏の色で金色に波打っている。日没まであと数時間──

 先刻あの人の歩いていった方角に目を向ける。
行き場をなくしたつむじ風がゆるゆると落ち葉を巻き上げ、そのままするりとほどけて消えた。

第2話 居待ち月

秋の夜長は知らない大人。
秒針は私の気持ちなどお構いなしに先を目指し、冷たい影は淡々と頬を撫で続ける。眠りの淵が遠い。幼子が手を引かれるように自室を離れれば、しんと佇む真夜中の廊下に無機質で気怠い時間が往来していた。
共用部の出窓下に置かれた長椅子に凭れる。自然と目の向いた対面の壁紙に、傷付いた硝子のような月光が揺れている。物音を立てぬようそっとカーテンを寄せる。西に傾いだ白い月。淡い光が目にしみて、昏々たる微睡みは見る影もなく消え失せた。

「今夜は居待ちか──」
私はこの月が好きだ。満月に届かぬ姿に情が移ってしまうようで、何とも言えない気持ちになる。硝子に歪ませているのが忍びなくほんの少し窓を開く。夜の匂いがした。

──都司さん、良い人だったな。
──鰻の蒲焼き美味しかったな。少し食べ過ぎたかしら。
──赤門の、何だったのかしら……
鮮明に蘇る夕方の記憶を反芻する。良き一日はすでに昨日となっていた。

「……眠れませんか」
「あら、こんばんは」
季節外れの茉莉花の香りが満ちる。
読書でもしていたのか、淹れたばかりの茉莉花茶を彼は──水銀(みずかね)先生はやおら差し出した。眼鏡の端が僅かに曇っている。夜更かしをするとこういうことがある。お互い夜に好かれるたちなのかもしれない。
「何か悩み事でも?」
「いえ、気持ちの良い夜なので何だか寝るのがもったいなくて」
「ああ、月が……」
先生は猫背を傾け、寒空に浮かぶ月を眩そうに見上げた。
ずり落ちる眼鏡をすらりと長い親指と薬指が押し上げる。

水銀先生は正確には先生ではない。医療免許を持った使用人というのが正しい肩書きだ。しかし幼い日の私は彼を住み込みのお医者様だと思い込んでおり、それゆえ『先生』という呼び名が定着した。私だけではない。その人柄や知識はそう呼ばれるに相応しく、この家に関わる誰もが彼を『先生』と呼んでいた。生来堅物の父と、恭を除いては。

「いい夜ですね。満月は僕には明るすぎる」
先生は、男の人にしては随分と控えめなくしゃみをした。
水銀先生がこの家にやってきてもう十五年以上──平時は父の秘書事務を担い、病人や怪我人が出ればお医者のごとくそれを癒した。私にとって先生は幼い頃からお兄さんで、いまも変わらずお兄さんのままなのだった。

私には実兄がいる。ただそがどうにも奔放な人で、私が五つになった頃を最後に出奔しそれきり行方知れずとなっていた。歳が離れていることもあり、もはや兄という実感はおろか記憶すらも殆どない。
わずか五歳で母を病で亡くし、多忙な父には忘れられ、兄は父との仲違いを理由に絶縁状態──うら若き書生であった先生はその境遇に深く同情してしまった。そして当時医術開業試験に合格したばかりだったにもかかわらず、あろうことかそのまま我が家に勤める道を選んでしまったのだ。すべては兄と私のせいだった。

ほうほうと湯気が立ちのぼる茉莉花茶を一口含む。
巡る芳香が記憶に潜む罪悪感をほんの一瞬ごまかしてくれることを期待した。まるでひとりで遊ぶままごとのような空しい遊びだった。

「そういえば今日不思議なことがありました。帝大で恭を待っていた時、とても美しい男性が通りかかったんです。白い学生服に赤い襟巻──少し長い髪をしていたわ。それでつかつか歩いて来たかと思うと、すれ違った瞬間つむじ風のように消えてしまったの」

「ほう」
先生は大時代な広袖の袂に手を入れた。
「幽玄、というのかしら……とにかくその美しい現象が目に焼き付いてしまって。あれは何だったのかとずっと気になっているんです」
「……狐、かもしれないですね。帝大の狐」
「帝大の狐?」
予備のカップにお茶を注ぎながら先生が呟いた。
「僕が学生の時分の噂です。赤門の前、秋の夕暮れ時に狐が出ると……もし赤い天鵞絨の前掛けをした白狐とすれ違ったら、絶対に振り返ってはいけないと言われていました」
「ああ……私、振り返りましたね。しっかり」
「噂ですよ」
今にして思えば随分おかしな風体ではあった。花のかんばせにすっかり見惚れた自分が情けない。口元だけの笑みを返す先生。それは不安に怯える子供を落ち着けるための、優しい大人の仕草だった。
夜風にガタガタと窓が鳴る。まるで砂子の数を数えるように果てなく、意味を持たない問いさえも内包するこの夜は、孤独とは違う寂しさに塗れふけてゆく。

「そんなに綺麗な男でしたか」
冷え切った眼鏡を着物の裾で拭きながら先生が尋ねた。
長く傾いだ首筋が、(めし)いるほどに白かった。
「ええ、人の顔に見惚れるなんて生まれて初めてでした。恋がどうの愛がどうのという訳ではなく、なんというのかしら……芸術品が歩いているような感じ」
「へぇ……それは恭にも話しておかないと。次はとびきり美女の姿で現れるかもしれませんからね」
「恭は大丈夫でしょう。むしろあの朴念仁が美人に振り返るところを見てみたいくらいですわ」
「はは……」
久しぶりに先生の笑った顔を見たような気がしてうれしくなった。

歳は三十路に入ったところ、端正な容貌も虚しく猫背でぼそぼそと話す──正直、水銀先生の第一印象はあまり芳しくなかった。
恭にしてもそうだ。成績優秀、物怖じせずにはっきりと物を言うまでは良いとして、その人となりはひどく不愛想で機械のように冷淡だった。父はそういう『社会に疎まれそうな若者』を好む傾向にあるように思う。現在は恭を含め五人の書生を住まわせているが、その誰もが陰気か不愛想で優秀な成績の青年なのだ。
明朗快活で思うところをはっきりと口にしていた兄の面影が、いまも父を苦しめているのだろうか。

「……今でも、会いたいと思いますか。お兄様に」
静かな月を見上げたまま、先生が問う。
「そうですね……正直兄のことはよく覚えていませんけれど、やはり動向は気になります。どんな仕事をしているのかなとか、年齢も年齢だしもう新しい家族がいるのかなとか。こんな風に考えごとをするついでにふっと頭を過ぎることはありますよ」
「なるほど……」
「……えっ?」
おかしな間を置いて、先生がお茶を含む。
「もしかしてご存知なのですか⁉︎ 兄の居場所!」
「しっ……!」

骨張った長い指が、慌てて私の口元を覆う。
揺れた牛骨の茶器を正しながら、先生は慎重に話し始めた。

「いつかきかれたら、話すつもりはありました──ただどこに目があり耳があるか分かりませんでしたし、立ち入った話を自分からする立場にないと考えていました……すみません、隠していて」
「いえ、でもいつからご存知でしたの?」
「お屋敷を出られて半年ほど経った頃、偶然出先でお会いしまして……そこから手紙のやりとりが始まりました。何度かお店にお邪魔したこともあります」
「お店?」
先生は、すっかり開いたお茶の葉にお湯を注しながら俯いた。
秒針は止まらない。
無意識に身を乗り出した私を制し先生が顔を寄せた。普段からあまり声を張る人ではないけれどそこからさらに小さく、低く、内緒話の声色でささやく。

「いつか貴女が望んだら、連絡先を教えてもよいとお兄様から言いつかっています。ただあまりお勧めはしません……何というか相当、様変わりされていらっしゃるもので──」

第3話 ハイヒイル

「あー吃驚した。お前があのみそっかすお小夜かい?水銀からきいちゃあいたけど、なんだい。もうどこに出したって恥ずかしくない立派なご令嬢じゃないかよ」
 お兄様、と呼ぶのが正しいのかは分からない。その人は鮮やかな紅を引いた唇にカメリヤを咥え笑った。
 緩やかなカーブを描いて並ぶ洋酒の瓶が、星明かりのような照明を受け煌いている。シャンデリヤの下、一段と艶めく緋色のドレスを身に纏った男とも女ともつかない麗人。明け方の夢のような光景が私の虹彩を磨き上げる。
 モダンガールを真似た洋装の足がそわそわとした。高椅子の引っ掛かりに足を置いたり戻したりする姿を、兄は面白そうに見つめている。
 カウンターを流れる煙草の匂いは、今後暫く好きになれそうにない。

「嫌だねぇ時間の経つのは。知ってるはずの人間がこうも面影なく姿かたちを変えて現れるんだから」
「お兄様ほどではありませんわ」
「お姉様だよ。言葉に気をつけな」
 擦り切れたマッチの匂い。一瞬の輝きはたちまち静まって、ゆらゆらと揺れながら煙草の中に沁み込んでいった。煙草を摘まむ指先も、組まれたハイヒイルの脚線も、昔それが男性のものであったことを感じさせないほど芸術的で美しいと思った。

 午後の授業をエスケイプした私は心配する水銀先生にお礼を告げ、トランクひとつの身支度で駅へと向かった。何度も汽車を乗り継いで知らない街までやってきた。
 モノクロームの風景に瓦斯燈がぽつりぽつりと灯り始めるころ、その下を行き交う影のような人並に紛れながら歩き続けた。
 先生の地図は正確だった。そうでなければ見落としてしまうほど小さく仄暗い横丁の一角、重厚なマホガニーのドアに守られるようにして在るこの店へたどり着けたことに感謝している。
 開店準備をしていた店主が驚いてワイングラスをとり落とし、繊細な切子の砕ける音が響き渡った。あの瞬間、ああ私の兄はもうこの世のどこにもいないのだと確信した。

「あの人は──親父は相変わらずかい?」
「相変わらず……そうね、お忙しそうよ。このところ先生と恭がしょっちゅう駆り出されて。恭はまだ学生でしょう?それなのに翻訳の手紙が絶えないから、時々気の毒に思うくらい」
 フンと高い鼻を鳴らし、電気ブランをゆらゆらと弄ぶ美しいひと。妖艶であって気高く、男であって女でもある──形だけを新しく繕った私とは違う、新しい女がここにいるのだ。
「親父の小間使いなんてやめちまえば良いのに。帝大法学部にいくほどの秀才が、てめぇの代わりがいくらでもきくことくらい分からんとは思えんが」
「そんな言い方しなくても」
 コトンと置かれたグラスにソーダの泡が浮かぶ。レモンの香りがした。
「……でもそうね、その通りかもしれない。最近の恭はずっと忙しそうに見える。試験だってあるし、毎日の講義も。無愛想ながらちゃんとお友達だっているのよ。今みたいな二重生活、体がもたないわ」
 溜息を吐く私をからからと笑う兄。
 琥珀色のお酒が、みるみるうちに白い首を流れてゆくのが見える。グラスが空っぽになるたび、私は奇妙な高揚感に包まれた。

「やだやだ。久しぶりに会ったってのに、ここに居ない人間の話ばっかしてさ。俺はてっきり根掘り葉掘り訊かれるか、嫁に行く報告でもされるもんかと冷や冷やしてたのに」
 兄は、綺麗に編み上げた髪を指先で触りながら呟いた。二本目のカメリヤを咥え、次の酒を指先で探す。
『相当様変わりされていらっしゃる』とは聞いていたものの、兄の変貌ぶりは私の理解の範疇をはるかに超えていた。当然ながら疑問は溢れんばかりだ。
ただ今の私はそれらを質問という形にまとめ上げる力がなく、整列した現実を甘んじて受け入れることとした。風変りなはずなのに自信に満ち満ちて美しい、信念を持ったこの人のいうことを天啓のように感じ始めていた。
「訊かれぬ話をするのは野暮に思うが、これだけは言っておきたい。俺は女になりたい。だが愛の対象は女だ。これからの時代はもっとリベラルに生きてゆかねばならん」
「ごめんなさい、私には少々難し過ぎます」
 私はすっかり汗をかいたレモネードを一気に飲み干した。焼けるような刺激が、辛うじて兄との対話を可能にする。
「その、お兄──お姉様は、なぜ女性になりたいと思われたのでしょうか。それだけは少し気になります。私は生まれてこの方一度も男性になりたいと思ったことがないので……差し支えなければ」
「知るかよ、そんなこと」
 兄は細い煙を吐き出して、からからと笑った。
「いや俺も考えたさ。男でいるのが厭になった、女の美しさが好ましかった、どれもしっくりこない。女のように着飾りたいが女を抱きたい。男か女かと問われればとりあえず女と答えたい。いつからこうだったのかも思い出せない。自分のことなのに、まるで知らない人間に出会っちまったような感じだよ」
「苦しくは、ないのですか」
「ないね。満足しているよ」
 しばし芍薬のような横顔で照明を仰いでいた兄は、白鳥がそっと水面を見つめるように哀しく、優美な仕草で扇の睫毛を伏せた。
「お小夜、お前も思う儘に生きるといい。暫く女の時代は来ないだろうが、けして踏み躙られてはいけないよ。たとえそれが茨の道でも、信念を曲げなければ少なくとも自分自身は救われる。俺は俺の心のみを信仰する」
「はい、お姉様」
「良い子だ」
 兄はカウンター越しにそっと私の頭を撫でた。花とも果実ともつかぬ外国の香りがした。
「これで車を拾え。宿まで歩くにはちと暗い」
「ええ、ありがとうございます」
「ああ、それから」
 ひとつ咳払いをして、兄は腰に手を当てた。
「次に来る時は水銀と一緒においで。ここは乳母日傘のお嬢様が一人で来るような店じゃない。変な虫がついたら困る。忘れてしまえればそれが一番いいが」
「分かりました。おやすみなさい、お兄様」
「お姉様だよ。おやすみ、妹」

 兄はその昔、朝日という名前だった。今は茜と名乗っている。父の付けた名を捨てて、母の名前で生きている。兄は母に成りたかったのかもしれない。私は今、兄のように成りたいと思っている。

外はざざ降り。遠のくハイヒイルの靴音をききながら、そんなことを考えていた。

第4話 薔薇窓

 信仰心などあろうはずもない。これほどの理屈屋がなぜ教会のステンドグラスに心惹かれるのか見当もつかないけれど、私が恭の背中を見つけてからおそらくもう四半刻は会話がなかった。バッグの中、至急の手紙を弄ぶ。思いがけず真剣な眼差しの恭になかなか本題を切り出せない。
 とりあえず並んでベンチに腰掛ける。清らかな時間が湯水のように悪戯に過ぎてゆくことが、なんだか酷く勿体ないような気がしてきた。

 西の薔薇(ステンド)(グラス)からくだるやわらかな昼前の愛日が、透き通る刺青のように恭の顔を彩った。鼻梁の秀でた横顔をおずおずと見上げる。過ぎる季節とともにすこし伸びた髪と同じ、栗色の睫毛がピンと前を向いている。焦れるくらいにゆっくりと、緩慢に、瞬きをしている。
「素敵な教会ね。ここへはよく来るの?」
 恭は口を噤んだまま、こどものように頷いた。美しいものを見つめる時、どうして人は無口になってしまうのだろう。
「ステンドグラスって不思議だわ。どうやって描いているのかしら」
「グリザイユだよ。金属と硝子の顔料を塗って絵付けをするんだ。描いては焼き描いては焼き……」
 まるで眠りに落ちる瞬間のようにゆるやかに、口を動かすことを止めた恭に振り返る。
 アール・ヌーヴォーの花々に潜むジャポニズムを暴き出し、アール・デコの幾何学的な模様に安心感を見出す。そんな機械的な人物像を彼に期待していた。でもいまの恭は何か、何というか──

「あっ」
 礼拝堂の奥、マリア様の真下に待望の後ろ姿を見た。尖った指先を合わせささやかな祈りを捧げている。私は高鳴る胸を押さえながら、恭の袖を引っ張った。
「いた、いたわ!」
「何だよ」
「帝大の狐! 都司さんにあった日、貴方たちに会う前に見たのよ!」
「どこの何だって?」
 恭は鼻で笑って、祭壇の辺りを顎で指した。
「何も居ない」
「あれ? でも今、たしかに」
「教会の中にいても狐につままれたりするんだな」
 嫌味でも何でもない調子で恭が呟いた。
「場所かえよ」
 恭は猫のように気紛れに、すっと木製のベンチから腰を上げた。その瞳にオパールの燦きを見る。
「どこに行くの?」
「着いてくれば」
 差し出された手に右手を重ね立ち上がる。中央の通路に出ると、仄暗い礼拝堂に薄氷のような庭白百合のステンドグラスが燦爛としていた。降り注ぐ彩りを纏い微笑む白いマリア様。祈ることもなく僅かばかりの蝋燭代を置き、私たちは小暗がりの礼拝堂を出口に向かってふらふらと歩き出した。

ふと前をゆく恭が立ち止まった。背中にぶつけた鼻をさすりさすり見てみれば、猛獣のように大きく黒い影が行方を塞いでいる。私はその異様な光景に思わず一歩後退(あとずさ)った。
「えっ、狐の次は熊が見え──」
「シッ」
 恭は振り返らずに掌を此方へ向けると、影を見上げてきっぱりと問うた。
「何か用?」
「いや、その」
 唸るような野太い声が困ったように口籠る。
「用がないならどいてくれ」
 恭は私を後ろ手に庇いながら、臆することなく言い捨てた。暗く薔薇窓を塞いでいた雪雲が過ぎ、相手の姿が露わになる。短く刈った髪、猛々しい顔を横ぎる大きな切り傷、そして着崩した西郷柄の大島からのぞく腕には薔薇窓に勝るとも劣らないほど精巧な彫り物が見えた。これはただごとではない。早鐘を打つような胸の鼓動に肋骨が軋むのを感じる。
 一方恭は平然と私の手を引き、男の横を通り過ぎようとした。
「待て‼︎」
 男は恭の正面へ回り込み、大きく一度息を吸った。
「せめてこれを、これだけでも受け取っておくんなせえ! 手前勝手は心得てござんすが、ひと目見そめたその日から夜ごとの夢に見る始末! 一行でいい! いや読んで頂けなくとも構いやせん! 後生でございやす、どうかこの通りッ!!」
 長身の恭と並んでも頭ひとつ高いであろう大男が着物の股をばさりと割って腰を落とし、左手を膝に当て、さながら仁義を切るようにして一通の手紙を差し出した。私は生まれて初めて見る光景に心躍らせ、あらまあと口元に手を添えた。
「手前、深川は弁天町の竜と申しやす! マリア様の御前にて仁義は控えさせて頂きやすが、決して決して、神に誓って怪しいもんじゃあござんせん!」
「充分怪しいけど」
「当然ながら返事を強請る野暮もいたしやせん! 手前粗忽者にて前後間違いましたる節は、まっぴらご容赦願います! カタギのお方に失礼承知、どうか何も言わずに受け取っておくんなせえ!!」
「面倒くせえな」
 恭は心底呆れて後ろ頭を掻いた。
「これ恋文か、おっさん」
「へい。年甲斐もなしにお恥ずかしいこってす」
「どうする?」
「ど、どうするって……私、恋文なんて初めてで」
 私を振り返る恭に、竜さんは慌てて首と手を振った。
「あっ! こりゃあ紛らわしい真似をしちまってすいやせん。この手紙はお(ひい)さん宛てじゃありやせんでして……その、貴方様に」
「俺?」
 ──ゴーン。ゴーン。ゴーン。
 昼の礼拝を告げる鐘がなり、固まったままの三人が顔を見合わせた。
「恭、どうするの?」
「どうするって。俺も恋文は初めてだな。男からは」
「……いやあ、やっぱりご迷惑でござんすね! 先の短ぇ酔っ払いにでも絡まれたと思って綺麗さっぱりお忘れくだせえ‼ あっしはこれにて御免こうむりやす! そんじゃあご両人、どうぞお元気で‼︎」
 竜さんは今にも泣き出すのではないかと思うほど嗄れた悲痛な声を張った。シスター達がぎょっとなって振り返る。
「待て待て」
 居た堪れず引っ込められる隆々とした右腕をむんずと掴んだ恭は、有無を言わさず竜さんから手紙を毟りとった。
「あっ」
 恭は襟巻きを後ろへ流し、つかつかと竜さんを暗がりの隅まで追い詰める。たたらを踏んで背中を壁に打ちつけた竜さんの体すれすれに、どかんと立てた右足のまあ長いこと。恭は無言の圧で凄みながら、眉根にきゅっと皺を寄せ低めた声で囁いた。
「てめぇ、マリア様のまん前で男を口説くとは心底いかれた野郎だな。いいぜ、そこまで言うなら返事を書いてやる。ただし勘違いするなよ、俺は衆道に興味はねぇ。興味はねぇがそこまで言われちゃ無下にもできまい。仁だの義だのは知らねぇが、せいぜい綺麗に諦められるよう引導を渡してやるのが人の情けというもんだろう。いいか二度とは言わねぇ、来週のこの時間また此処に来い。ミサの邪魔にならねぇよう軒下三尺三寸借りて待っていやがれ。やくざ稼業の大晦日はさぞ忙しかろうが知ったこっちゃねぇ。俺の返事が欲しいなら師走の坊主より目一杯走って走って取りに来い。以上!」
 パイプオルガンの和音が鳴響した。
 思わぬ啖呵と迫力に当てられた私たちは、腑抜けた顔で拍手した。今日は帰るという一言でサッと正気を取り戻し後を追う。

 寒空のもと重厚なドアを閉めると、体を貫くほど鳴り響いていた讃美歌は引き潮の渚のように静まった。竜さんは暫く追って来そうにないようだ。
「ああ、吃驚した。貴方あんなに喋れるのね」
 恭は風花を見上げ鼻を啜った。
「参ったな。恋文の返事を書くのは初めてだ。水銀さんに添削してもらうか」
 私は長い襟巻きをぐいと引き、雪像のような横っ面を海を渡った手紙の束でひっ叩いた。

第5話 彼岸桜

春陽の候、我が烏丸家では幕末より飛鳥山での桜見が慣習となっている。元は華族の遠縁が上野へ赴いていた名残だというが、すでに爵位はなく実業家の娘として生を受けた私には到底興味の薄い話だった。
母が亡くなった年も、兄が失踪した年もつつがなく行われた花の会は毎年どこか後ろめたい。今年も素知らぬ顔をして春を謳う桜を見上げ、深く長く息を吸った。
「お嬢様ー! こっちこっちー!」
先頭を行く女中のお(その)さんが大きな花見弁当を抱え手招く。(うぐいす)(ちゃ)の長羽織の袖がするっと落ちて、白い細うでが露わになった。めかし込んだ細身の長身に夢二の美人画を連想する。
「やいお園! おめえ、お嬢様になんて口ききやがる。説教でえ!」
「げっ!」
庭師の()兵衛(へえ)さんは霜の降りた短髪を苛苛しく掻くと、大股でお園さんに駆け寄った。
「何だい、放せジジイ! 荒っぽくしやがって。とびきり豪華な花見弁当、落っことしたって知らないよ!」
猫の子のように襟首を捉えられてもなお悪態をつく姿に、坂を登る隊列が笑い乱れた。

「ごめんなさい、今行くわ」
ガバレットに編み上げた襟足が少し寒い。ハンカチで鼻を押さえくしゃみをする私を、先生が心配そうにのぞき込む。
「……顔色が良くありませんね。少し休みましょうか」
「いえいえ。ただ少し風邪気味で」
「まーた甘やかして」
 身軽に横を過ぎる恭が行きがけの駄賃にからかった。
「運動不足だろ。ほらバッグ貸しな」
恭はドイツ製のカメラをひょいと左肩に回し、私の手元からハンドバッグを取り上げた。何か言おうとした先生に、恭は
「あんたの方が顔色悪いぜ」
と言って革鞄を取り上げ、兵隊のような足取りで颯爽と追い越していった。その後を書生の葵と颯太が敷物や諸々の道具を小脇に抱え追いかける。
今日は父を含む幾人かは所用で来られず、あいにく全員参加とはならなかったが、お陰でこうした和やかな行楽となり内心ほっとしていた。

「よいしょっと」
 葵と颯太が敷物を広げた。普段は父の小姓のごとく身の回りを世話している二人だが、主人が不在では借りてきた猫のように大人しい。各々靴を脱いで上がり、端に手元の荷物を置いてゆく。天を覆う満開の桜が、黒いレースのような翳を落とす。
解放されたお園さんは揚々と真ん中を陣取り、白魚のような手で大きな風呂敷を解いた。華やかな蒔絵のお重が顔を出す。まるで黄金色の菓子でも入っているかのように、丁寧な手つきでカタンと上の二段を持ち上げた。三の重には彩り鮮やかな海苔巻きや鯛の棒寿司、甘露梅にしょうがの甘酢漬がきっちりと顔を揃えて並んでいる。
「この赤くて綺麗なのは何ですか?」
まだ中学生の颯太が、瞳をきらきらさせて尋ねた。
「“イクラ”だってさ。鮭の卵の塩漬け。まあだお子ちゃまには勿体無い高級品だあね。ま、あたいも初めてみたんだけど」
お園さんは笑いながら颯太の小さな鼻をつんと突いた。

期待の高まる二の重を開くとたちまち出汁の甘く奥深い香りが鼻を擽った。白い桜が一片、拠り所を見つけた蝶のように蒸し鰈にとまる。繊細な飾り切りを施した旬野菜の煮物、京風の上品な厚焼き玉子。そしてそれら全てを脇役に追いやり真中に陣を敷く焼き海老の香ばしいこと。
「やい泥棒!」
遠慮なく海老に延びる恭の手を、慈兵衛さんがパシッと打った。その音にお園さんがあっと声を上げて立ち上がる。
「いっけねえ、お嬢様のが先でした……すみません。はい特別製」
「あら、これって」
お園さんは桜の蒔絵が美しい小さな遊山箱をコトンと私の前に据えた。ぽってりと艶めかしい唇の端を得意げに吊り上げる。これは私がまだこどもだった頃、父が出張先で買ってきたものに間違いない。わざわざ手入れしたのだろう、朱漆の鮮やかさは少しも衰えていなかった。
「ふふ。こないだお勝手の戸棚を整理してたら出てきましてねぇ。懐かしいもんだと話してたんですよ。ちょいと詰め替えてみたらまあぴったり。あんまりいじらしい花見弁当になったもんだから思わず笑っちまいましたけど」
「本当にかわいらしいわ。ありがとう、私すごくうれしい」
思わずきゅんと胸を押さえた私に、お園さんは機嫌良くお茶をすすめた。

そう、あの頃父は優しかった。家族と屋敷の人々と連れ立って桜や紅葉を見にこの箱をもって赴いた。食べ終わると、そっとおかわりのおかずを入れてくれたこともある。それは腕の中で眠る仔犬のような小さくやわらかな幸せだった。
「その箱を見ると思い出しやすねえ。お嬢様が俺っちの厚焼き玉子をほしいのほしいのって、あれァ可愛かったなあ。仕出しの美味ぇ厚焼きがあっという間に消えてなくなってよ」
「あんたそりゃ一体(いって)ぇいつの話だい。まったく意地汚いねぇ」
 思い出に浸る慈兵衛さんを肘で小突きながらお園さんは笑った。

「ささ、先生もお上りになって。たくさん食べなきゃ体に毒ですよ」
「いやお園さん、今日は食欲がなくて。どうかお構いなく」
取り分けられた山盛りの料理を前に、先生は遠慮がちに首を振った。お園さんは横から海苔巻きを奪おうと伸びる恭の手をぴしゃりと叩き、大きなため息を吐いて言った。
「お医者様にこう言っちゃなんですがね、先生は食事の量が少なすぎるんですよ。きちんと寝てたらふく食べりゃ、ちったあ顔色も良くなるってもんです。恭を見てください。このふてぶてしいほど健康的な血色とツヤ」
「まあ、若さですかね」
先生はお茶を濁しながら、手慣れた様子で恭の皿に海苔巻きをふたつ載せかえた。

その時「急患! 急患!」という声と共に白い担架を担いだ書生が二人、正面の通りを駆け抜けていった。乗せられているのは年若い女性で、ともすれば私とあまり変わらないように見えた。頬を真っ赤にして苦しげに胸を上下させている。聴診器を首に掛け白衣の裾を蹴りながら後を追う紳士が、先生の鞄を見て引き返してきた。
「ご観覧中失礼します。この中にお医者様はいらっしゃいませんか」
「医者ならここに居りますが」
「おお! 君は水銀くんじゃないか」
「ご無沙汰しております。(あずま)先生」
どうやらお知り合いらしい。先生の会釈を待たず、東医師は切迫した様子で話を切り出した。
「久方ぶりの再会で積もる話もあるのだが、こう急患が多くてはおちおちしてられん。悪いが手を貸してはくれないかね」
「お安い御用です。急患とは」
「ああ。あれだ」
東医師が親指で指した先の救護所には、ひっきりなしに担架で運ばれる人々の姿があった。職人風の男、若い女、一番多いのが御隠居と呼ばれる年代の人々。近づくと患者は皆揃って真っ赤な顔に浅い息。うわ言のようなものを口にする者や、酒瓶を後生大事に抱き抱える者まである。──間違いない、これは酔っ払いの大群だ。

「……僕は急用ができましたので中座します。皆さんお構いなく」
「いや、ちょっとくらい食べてってよ」
「すみません。代わりに慈兵衛さんが飲み過ぎないよう見張っていてください」
「何でえ信用ねえなあ」
先生は鞄をとって立ち上がり靴を履きながら、ああと呟き振り返る。
「小夜さんは体を冷やさないでください。いいですね」
「は、はい」
先生は上着をさっと私の膝に掛け、東医師の背中を追って駆け出した。

「行っちまったな、先生。どうする?」
葵が所在無げに箸を咥える。
「しゃあねぇ。一段目も開けようぜ」
恭は香ばしい焼き海老を清酒できゅっと流し込み、お重の蓋をぱかりと持ち上げた。優しい色の蒲鉾が並ぶ。その横に黄金色の栗きんとん、そして先生の好物である桜餅が甲乙つけ難い可憐さで佇んでいた。春風に乗る優しい香りに暫し沈黙が流れる。
「えっと、やっぱり今のなしで」
恭は無表情で蓋を閉じた。むっくりとした黒漆に頭上の花が降りかかる。

第6話 鯨幕

都司さんのお父様が先週亡くなったと告げられた。刺繍の手を止め、どうしてすぐに言わなかったのと問い詰める。返事はない。恭はただ夕方都司の家に行こうと言うのみで、私は言われたままをお園さんに伝えるより他なかった。
あの日以来、都司さんとは恭を交えしばしば遊ぶ仲だった。浅草で活動寫眞を見たり、銀座でコーヒーを飲んだり。時おり石像になる恭を差し置いて、私たちはさながらランデヴーのようにはしゃいでいた。親しかったと思う。ただ都司さんの素性は何ひとつ知らないままの今日だった。
「どうぞ」
 重苦しい雰囲気を察してか、お園さんはうさぎ剥きにした林檎を置いてそそくさと居間を出た。
「都司さん、大丈夫かしら」
「さあ」
恭はにべもなく答えた。
ヒメフォークで刺した実がクシャッと若い音を立てる。
「すっかりお友達のつもりでいたけれど、考えてみたら私は彼のことを何も知らない」
「人誑(たら)しだからな」
恭は茶柱の浮き沈みする湯呑みをふらふらと揺らした。
「恭はともかく、私が行っても良いのかしら」
「問題ない。今夜は色んな筋の人間が弔いに来る。一人増えたところで何ともねえよ。それに」
お茶請けの林檎をガリンと齧る。恭は甘い香気を咀嚼しながらぽつりと呟いた。
「──今夜が最後かもしれないから。都司」
 私が聞き返すことを拒むように立ち上がると、恭は足速に自室へ戻っていった。
「最後って、なに」
何も分からないまま視線をテーブルに迷わせる。齧りかけの林檎がひっそりと、静物画のように転がっていた。

***

春の日が沈む前、私は恭に連れられ都電に乗った。近頃は“箱師”が出るぞと釘を刺され、おっかなびっくり窓際の席に座った。じくじくと暮色の迫る車窓を眺めながら、私たちはわけもなく終始無言を貫いた。
「次、降りる」
 プシュウという大きな排気音と共にドアが開く。ふと行き交う車両にあの狐が乗り込んでゆくのが見えた。あっと追いかけそうになるのを堪え、窓の外に目を凝らす。面を付けた狐は真っ白な美濃菊の束を抱え、たしかに此方へ手を振った。まごまごしている内に発車のベルが鳴る。
──ガタンタタン。ガタンタタン。
 電車は初速を速めた。やがて狐は遠く、小さく、見えなくなっていた。

その後をどう歩いたかは定かではない。去来する車窓を振り切ろうと頭を振る様子に気付いてか、恭は暮れなずむ人通りの中で私の手をぐいぐいと引きながら歩いた。背の高い柳の木が、亡霊のような眼差しで見下ろしている。
歩幅の広い早足に引き摺られながら小さな坂を過ぎ、曲がりくねった道を進む。正面に大きな門があり、そこを起点に街全体をぐるりと囲むお堀が見える。
「まるで要塞だわ」
「ここに来たこと、親父さんには絶対言うなよ。ぶん殴られちまう」
首を傾げる私の手を引いて、恭はずんずん先へと進んだ。街の奥から聞こえる三味線の音色が街の夜の始まりを告げる。煌々と光の漏れる格子、時折見える白い肌。心臓が脈打つのを感じた。なんだい女連れかよと舌打ちされて縮こまる。
「振り返るな」
サーカスのライオンを恐れるように、私は先を行く恭の大きな手をぎゅっと握り返した。

一番星の見えた頃、ようやく辿りついたのは『菊清』という立派な店だった。煌びやかな店の灯に気圧されるように、握りしめた手を放す。
「いらっしゃい」
黒紋付に身を包んだ都司さんが表で出迎えてくれた。いつもの洋装よりいくらか大人びて見える。
「この度は、ご愁傷様でした」
袱紗(ふくさ)を解く手をそっと止め、都司さんは申し訳なげに呟いた。
「ごめんね小夜ちゃん、道中怖かったろう。なかなか言い出せなかったんだ──うちが女郎屋だなんて」
上品に笑う都司さんが哀しい。
「いえ、そんなこと……」
私はそれ以上の言葉を口にできず、そのまま黙って項垂れた。桜の葉が薄暮の中でさわさわと揺れていた。
「どうぞ、中へ」
都司さんに誘われるまま私たちは門を潜った。
「大きな格子。それにとても繊細」
美しい遊女たちから好奇の視線をあび、しばし見つめ合う。
「大籬(おおまがき)というんだよ。籬と呼ばれる格子の形を見れば、店に在籍する娼妓の等級が分かるようになっていて」
「教えんなよそんなの」
恭は鼻で笑った。履き物を預け中へ進むと、店の中心に堅牢な大階段があった。見上げれば立派な梁が巡らされ、なんとも絢爛な建物である。
「二階には何が?」
「客間だよ。足元に気をつけて」
私は耳が熱くなるのを感じた。ごめんなさいと耳を塞ぎ必死に階段を登る。
三階へ進むと、階段のすぐ側に臙脂色の絨毯を敷き詰めた談話室が見えた。以前は三階にも客間を敷いていたが、明治期に談話室と応接間に改装したという。
「いい部屋でしょう。夏は花火が見えます。祖父はこの部屋を旅館のようにしたかったそうです。いっそ店ごと旅館になって仕舞えばよかったものを」
都司さんに促されるまま、マホガニーのソファにかける。恭は教会で見たものとは趣きの異なる、瀟洒でモダンなステンドグラスを見上げて呟いた。
「でも吉原だからな」
「そういうことです」
 都司さんは大きな溜息をついて椅子に凭れた。後から来た女中さんが、お茶とカステラを出してくれた。芸妓のように美しい彼女もまた、喪服を身に纏っている。
「煙草(エンタ)をおくれ」
女中さんは袂に細い指を入れ、下手に敷島を差し出す。シュッと火薬の花が散った。都司さんは火の残る燐寸(マッチ)を振って切れ長の目を細めた。
「ごめん、煙たかったかい」
灰皿を私から遠ざけながら煙草を深く吸う。
「学校、やめるのか」
 歯に衣着せぬ物言いで恭が尋ねた。
 都司さんはゆっくりと青い息を吐き、高い高い天井を見つめた。
「兄やは二〇三高地で星になりました。兵隊などにならなければ、なに不自由ない人生でしたことでしょう。それに比べれば僕の中退などはちっぽけで下らないことだ……そう思わなくちゃ、とてもじゃないがやってられない」
都司さんは窓を開け、紫煙を外に煽りながら呟いた。
「その、他に方法はないのかしら。せっかく帝大に通っているのに……これではあまりに都司さんが可哀想で」
言いながら悲しくなった私に、都司さんはそっとお茶をすすめた。
「ありがとう。だけど僕が断われば、家族はおろか世話になった姐さん方も揃って路頭に迷うことになる。男ならまだしも女が、それも女郎が次の仕事を見つけることは並大抵じゃないからね」
都司さんはぼんやりと下界の喧騒を見下ろした。
「老舗の看板を下ろすには、この人生は軽過ぎる。黙って親父の後を継ぐさ。ほら見て、始まる」
私と恭は揃って窓から身を乗り出した。

人混みが波紋のように割れる。揺れる提灯と美しい太夫、取り巻く禿(かむろ)と新造は浮世絵のように幽玄で思わず呼吸を忘れた。
──弔いの花魁道中。こんなことは滅多にないだろう。喪服を纏う太夫たちの白い肌が暗がりに浮かび、まるで夜風に揺らめく鯨幕のように仲見世を練り歩く。
「ねえ、大仰でしょう。人ひとり死んだくらいで」
都司さんは薄い唇をお茶で潤すと、狐のような瞳を光らせて呟いた。
「学生から大籬の旦那とは。出世も出世、大出世だ。ただ生きているというだけで」
都司さんは吐き捨てるように己の生を呪った。
「鯉幟も揚げさせりゃよかったのに」
カステラをひょいと口へ放った恭は、皮肉とは裏腹に憔悴した親友の背中を優しく叩いた。
都司さんは俯いたまま、少し掠れた声でゆっくりと言葉を紡ぐ。
「烏丸のご令嬢なんだってね。恭さんから聞いた。もうこんな所に来てはいけないよ。あらぬ噂が立ってしまう。寂しいけれど、君の幸せを邪魔したくないことを解っておくれ──友人として」
少しずつ積み上がる涙がぼろりと崩れた。袴の裾を握る手に、蜻蛉玉のような涙がぼたぼたと落ちる。これほどまでにとめどない感情の御し方を私はまだ知らない。差し出されたハンカチは、知らない花の匂いがした。

「小夜ちゃん、笑って」
笑って。都司さんはそう言って笑った。

第7話 軍服

 目一杯のお洒落をして、日ごと夏色に移ろう銀座の街を自由気ままに往来する。たまにはこんなひとり遊びも楽しいと、誰に聞かせるでもなく虚勢を張った。
 あの日以来、私はすっかり浅草六区に寄り付かなくなった。もともと賑やかな場所を好まないたちであったし、第一訪れる理由がなくなってしまったからだ。都司さんの居ない雑踏で、私は親を見失った子鴨のように頼りなかった。
 私の居ないところで恭と都司さんの友情が続いているのかと思うと、正直何とも言えない気持ちになる。かといって成す術もない。

 コーヒーの香りに鼻を擽られ、私は喧騒の中はたと足を止めた。
 明治44年創業カフェ・パウリスタ。連日盛況、著名人も多く訪れる名店ときく。『鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー』という文句でお馴染みのブラジルコーヒーを飲んでみたい──足を止め、けれど今日も今日とて意気地なくそっと店先を通り過ぎた。
 ドン。小さな衝撃が右肩に走った。
思わず後方によろめく。振り返ると、おかっぱの髪を振り乱し脱兎のごとく駆けてゆく小さな後ろ姿が見えた。
 ──あの子、あんなに急いで大丈夫かしら……
 車通りを気にしつつ見ていると、ふいに大きな白い軍服がその子の行く手を阻んだ。腰ほどの高さしかない女の子の両肩に手を添えると、目線を合わせ何やら話をしている。軍服は泣きじゃくる女の子を道の端に連れてゆき、小さな右手に何かを握らせた。それから頭をポンポンと撫でこちらに向き直る。ゆっくり向かってくる。何一つやましいことはしていないのに、目が合うと(のみ)の心臓は弾けんばかりに跳ね上がった。

「あの」
 男は軍帽の庇を上げ、日に焼けた精悍な顔を見せた。若い。真っ直ぐな瞳、眉根に皺を寄せ、口を真一文字に結んでいる。険しい表情に気圧され固くなりながら、私はじっとその風体を見定めた。袖口に一本線の入った白い軍服、襟には季節外れの桜が一つぽつんと咲いていた。
「──これ、落とされましたよ」
「え?」
 目をぱちぱち瞬いている様子から妙な緊張感が伝わってくる。そっと視線を落とすと、白手袋の大きな手が七宝焼きのブレスレットを乗せ固まっていた。紛れもない、母の形見のブレスレットを。
「いつのまに外れたのかしら……ご親切にありがとうございます」
 強張った照れ笑いをしながら鼻の頭を擦る将校さん。独特の可愛らしい雰囲気に思わずこちらも頬が緩んだ。
「じゃあ、これで」
 詰め襟に跳ね返る襟足。その後ろ、真っ白な軍服が良く映える夏空を蜻蛉が一匹急かされるように過ぎていった。
『受けた親切には必ずお返ししなさい』
 ふと母の教えが脳裏をよぎる。気付けば今度は私があの、と声を掛けていた。
「将校様、よろしければ何かお礼を」
「あ、いえ! これしきのことお気遣いは無用です」
 少尉は白手袋の両手を振って慌てた。
「このブレスレット、実は母の形見で──高価ではありませんが代わりのきかない品ですの。ご迷惑でなければぜひ」
「あ、でしたらご一緒にお茶でもいかがでしょうか。丁度一休みしたくて」
 さっき東京に戻ったばかりなんです、と少尉は面映そうに鼻先を擦った。
「勿論です。よろしければカフェ・パウリスタへ参りましょう。私いちど『鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー』を飲んでみたいと思っておりましたの」
「鬼の恋の地獄の……? 何だか凄いですね、俄然興味が湧きました。ただこの格好」
 将校は軍服の胸を摘み、不安げに尋ねた。
「あのお店でしたら洋装も馴染みますわ」
 そうですかねえ、と呟きながら裾を摘む白手袋がぴたりと止まった。
「あ、霧島です。大日本帝国海軍少尉 霧島誠。お見知りおきください」
 少尉は眩むほど凛々しい敬礼をして、それからニッと白い歯を見せて笑った。

 ***

「小夜さん、烏丸 小夜さん」
「はい」
 穏やかな時間が紅茶葉のように漂う。一番陽の高い時間を過ぎた頃、ジャズが流れる窓際の席で。軍帽を脱ぐと軍人にしては伸びっぱなしの髪がぴょこんと外にはねた。水銀先生の緩やかな癖っ毛とは違う硬い髪が襟の高さで反っている。柴犬の毛並みのようだなと思った。
「いえ、良い名前だなあって。小夜さん、かあ……」
 言いながらにこにこと熱いコーヒーを口に含む。ああそんなにしたらと思った矢先、案の定眉をしかめ苦しげにお冷やに手を伸ばした。
「いやあ、それにしてもこんなに素敵なお嬢さんとお茶をご一緒できるとは! やっぱり善行は積むべきだなあ」
「善行?」
「いえいえ、なんでも! なんでもないです……コーヒー頂きます」
 今度は注意深く吹き冷ましたにもかかわらず、少尉は先程と同じ顔をしてお冷やに手を伸ばした。
「猫舌ですか?」
「いえ、こんなもの! あ、こんなものは失礼しました。問題ありません。ははは」
 少尉は軍服の胸を張り、白い八重歯を見せて笑った。
「少尉様はその、海軍にいらっしゃるのですよね。軍隊に」
「勿論。なぜですか?」
 なぜって──のほほんとしているから、外見と中身がこうも一致しない人はなかなか珍しいからとは言えない。優美に指を立てカップを傾ける所作は、彼が名家の青年であろうことを裏付けるには充分だった。
「自分は士官学校を出ておりまして、昨年ようやく昇進しました。年上の部下が口煩くて、もうどっちが上官か分かったもんじゃないのですが……また戦争が始まれば、必ずや武功を立てて鼻をあかしてやります。腕が鳴りますよ」
「武功……さすが、ご勇壮ですのね」
 私はしゅんと俯いてカップに口付けた。ほろ苦い味わい、甘い香りに丹頂のごとくしなやかな兄の後ろ姿を思い出す。喉を超す熱でひりひりする。無垢な言葉で戦争を語る少尉に人知れず傷付いている。出会ったばかりの彼に何を期待してしまったのだろう。
 ──いけない、考えこんで……
 慌てて顔を上げると、少尉が小さく口をあけたままこちらを見詰めていた。
「ごめんなさい、少しぼーっと──」
「泣きぼくろだ」
「え?」
 私は睫毛を瞬いた。
「ほらここ。小夜さん、左の目元に泣きぼくろあるんですね。へー可愛い」
 右手を添えるように少尉が身を乗り出した。思わぬ方向から覗きこまれ私は顔から火の出る思いがした。確認し満足したか少尉は何もなかったかのように冷めたコーヒーを美味しそうに啜った。
「もう梅雨も終わりですね」
 おもむろに呟く彼の意図を探る。ぼんやりと硝子の向こうを眺める横顔はただ凛として、言葉以上の意味は感じられなかった。
「どうしたんです? 急に」
「いや、あんまり気の利いた話が出来なくて。時勢について行けないというか……まあ軍人なんて皆そんなもんなんでしょうけど」
 少尉は俯いたまま、形の良い唇の端に八重歯を覗かせた。少し落ちた幅広の肩に映る雑踏、翳る青空の涼しさに目の前の白い制服が一層寂しげに眩む。何か話題を変えなくては。泡立つ気持ちを抑え、私はそっと笑みを繕った。
「あの、ご家族は?」
「兄と姉、それと弟が一人。七つ年下で、まあ生意気だけど可愛いもんですよ。今は兵学校に行かせてます」
「お父様も海軍で?」
「中将です。親戚には政治家もいますが、うちは代々軍人稼業ですね」
 少尉はお茶請けのビスケットを小さく齧った。
「小夜さんのおうちは何を? きっと名のあるお宅の御令嬢でしょう。学生さんでしょうか」
 一度にたくさん質問しないでほしい。私はコーヒーを含み、まずゆっくりと頷いた。
「女子高等師範学校に通っています。父が貿易の会社を営んでおりまして、何か役に立てればと英語を専攻で。といってもほとんど花嫁修行のようなものです」
「お茶とか踊りとか?」
「お華とかお琴とか絵画とかも……役に立つのか分かりませんが、割烹の授業も」
「それは凄い!」
 少尉は感嘆した。途端に窓がバタバタと鳴る。雷鳴に思わずワンピースの裾を掴んだ。窓辺の紫陽花が愛しげに雨を見詰めている。外はいつしか激しい夕立ちに滲んでいた。
「どうしましょう、こんな急に」
「あーこれは当分やみそうにないですねえ」
 ね、ともう一度繰り返す。少尉はお手上げですと両手を挙げて微笑むと、その手で近くの女給さんを呼びコーヒーのおかわりを注文した。

第8話 旦那様

 昨夜遅く、二カ月ほど出張に出ていた父が帰宅した。嬉しくはない。いつも家族を置いて、知らないどこかで知らない仕事を取ってきた父。母が亡くなってからは特にそう。寂しくはない──昨夜は父が自室に向かう足音を聞きながら、ぎゅっと目を閉じ壁を向いて眠った。
「お嬢様、お嬢様」
 ばあやがドアをノックしている。サイドテーブルの上には淡いピンク色をした封筒が物寂しげに伏している。時計を見るともう昼近い。籠城も限界、私はのそのそとベッドから這い出しドアを開いた。
「まあ、まぁだ寝てらしたんですか。旦那様がお呼びですよ」
 ばあやがふくふくと笑った。
「少し体調が悪くて……行くわ。お園さんは?」
 いつも朝の支度はお園さんがしてくれる。ばあやが呼びに来たということはつまり──
「お園も旦那様の書斎ですよ。今日は私がお支度しましょうねぇ」
「ええ……」
 ぼんやりと着替え、髪を結ってもらう。洗顔もお化粧も心ここに在らず。父が帰るといつも憂鬱になる。どんな顔をして会えばよいのか、分からなくなってしまうから。

 準備を終えた私は父の書斎へと向かう。私室とは別にあるその部屋は、普段は誰も触れない開かずの間。仕事に関わる(たかし)や先生ならまだしも、私などは滅多に立ち入ることはない場所だった。
 増改築を繰り返した我が家は歪な形をしている。私や父の部屋がある母家は和洋折衷、水銀先生の住まう離れが小さな洋館、中庭を隔てて書生や使用人さんたちの住む和風の家がある。さらに和風の部屋は書生長屋と女中部屋に分かれているため、小さいながらも建物が四つあるということになる。
 両足が鉛のように重い。なるだけ遠回りをしながら私は父の書斎の前に辿り着いた。
 ドア越しに物凄い笑い声が聞こえる──慈兵衛さんとお園さんだ。それと何か音楽も流れている。断片的な情報を消化できないまま、私は重たいドアを開けた。

 ああっ! という大勢の声とともに恭が勢いよく先生に向かって転倒した。見事仰向けに組み敷かれた細い背中が床にぶつかる。その衝撃でイギリス製の眼鏡が飛んで臙脂色の絨毯を滑るように転がった。
「悪ぃ」
「……へたくそ」
 先生は恭の下で苦しげに悪態を吐いた。
 ──状況を整理する。まず床に両腕をついて倒れ込んだ裸足の恭、に組み敷かれた先生。その眼鏡はデスクに寄り掛かり一連を眺める父の革靴付近に吹き飛び、ソファに並んで座る慈兵衛さんとお園さんがのたうち回って笑っている。音楽は、ウィンナー・ワルツ。
「──何ですか、これ」
 思うより早く口を飛び出した質問に、一度は堪えた慈兵衛さんの笑いは決壊した。
「ぎゃーひゃひゃひゃひゃ!!! ひぃ、だ、駄目でえ笑い死ぬ!! 何ですか、だってよ! おい恭、お嬢に説明しろい。お遊戯ですってよ」
「野っ郎……!」
 恭は今にも飛びかかりそうな顔をして慈兵衛さんに振り返った。
「……恭、早く退いてくれ。苦しい。何にも見えない」
「ああ」
 恭は頭の後ろを掻きながら申し訳なさそうに先生から降りた。私は父の足元に落ちた眼鏡を拾い、そっと先生に手渡す。起き上がり眼鏡をかけながら先生は小さく会釈した。
「遅かったじゃないか、小夜。昼だぞ」
 父は整った口髭をつまみながら私を()めつけた。二ヶ月ぶりに見る父は、以前にも増して東京の匂いがしなかった。デスクから漂う熱いコーヒーの香りに安らぎを求める。
「……体調がすぐれず休んでいました。昨晩お帰りでしたね。待てずに申し訳ありません」
「それは構わない」
 父は乱れた髪をさっと撫で付けワイシャツの首元を緩めた。スマートなシャツ、ベスト、スラックス、革靴──上から下まで全て外国製のこの人が私の『父親』だ。好きではないが嫌いでもない。そもそもそういった感情を抱けるほど私たちは時間を共にしていないのだった。
「ところでお父様、これは?」
「ああ、恭にダンスを教えていたんだ。来月頭にある伯爵家の舞踏会に連れて行こうと思ってね」
「はぁ」
 父はワイシャツの袖を捲った腕を組み、フンと鼻で笑った。
「だが、宗介が教えてもこの様とは──なかなか手強いな。突貫で間に合うだろうか」
 父は聞き慣れない下の名前で先生を呼んだ。
 先生はパタパタと服の埃をはたき、人差し指の背で眼鏡をそっと持ち上げた。
「その前に、僕の足の甲がぶち抜けます……」
 成る程、恭が下駄を脱いでいたのはそのためだったのだ。弱音を耳にした父は先生に歩み寄り、すっと顎を掬った。
「宗介、お前また痩せたね? おまけにその猫背。医者の不養生は止しなさい」
 昼の月のごとく白い顔を、父は医者のような手つきで左右を向かせて(たしな)めた。
「……僕の骨を鍛えるより、恭のダンスを鍛えませんか。その方が建設的です」
「ふふ、言うな」
 父は可笑しそうに笑った。我が父ながら綺麗な顔をしている。そんなに素敵な笑顔をもっているのに、どうして私にだけは冷たいのだろう。今日までのどこかでそのたったひとつでも向けてくだされば、ここまで切実に父性を求めたりはしなかったのに。
 回るレコードが惰性でワルツを歌い続けている。もう誰も聴いてなんかいやしないのに。窓の外には明るい夏空が広がり、大きな入道雲が立体的な質量で私を威圧していた。

「恭は何でも出来る子だと思っていたのだが、これは予想外だったな」
 父のぼやきにお園さんは高笑いして足を組んだ。
「お歌も見ものですよ。ねぇ恭ちゃん?」
「チッ、(あね)さんまで馬鹿にしやぁがるか」
 恭は深い溜息をついた。
「手順は全部覚えたんだ。でも体がついていかねぇ。コツさえ掴めば何とかなら」
 恭の記憶力は凄い。なんせ普段から法律の勉強をする傍らドイツ語だのポルトガル語だのの翻訳をこなしているのだ。ステップを全部覚えたというのもあながち嘘ではないだろう。
 そうすると問題はリズム感。父は真っ黒なコーヒーを一口含んで頷いた。
「一度手本を見せよう。慈兵衛、園」
 慈兵衛さんとお園さんはスッと腰を上げた。
「シャッセ」
 向かい合い、互いの肩に手を回すプロムナードの構えをする二人。慈兵衛さんは言わずもがな、お園さんの背の高さに目を見張る。リリアン・ギッシュのように小さく整った顔を慈兵衛さんに向ける様は、正しく銀幕の女優だった。お園さんのスラリと伸びた背中から踵までの線があまりに美しく、私は思わず息を飲んだ。
「クイック・クイック・スロウ」
 父の手拍子で庭師と女中が華麗に踊る。蓄音機から空気のように流れっぱなしだったウィンナー・ワルツは、二人の規則的な足音で急速に色付いて聞こえた。
「見なさい恭、これがワルツだ」
「……」
 恭は無表情のままぐっと唇を噛んだ。分かりにくいが、これは相当悔しがっている。恭のこんな顔を見たのは、年末竜さんに恋文を渡されたあの日以来だった。
「──何で皆、踊れんの」
「へへっ、上手ぇもんだろ。俺とお園は用心棒でもあるからな。まぁ仕事の内ってことよ」
 慈兵衛さんは恭の肩を叩いて得意げに笑った。
「ついでに言うと葵坊も踊れるぜ」
「畜生、やってられっかよ」
 恭は私を一瞥し、父の前に進み出た。
「旦那さん、悪ぃが今回は無理だ。一週間で何とかしようてえんなら、俺に一から教えるより水銀さんの背中に定規を入れた方が建設的ですぜ」
「残念だな」
 父は恭のこめかみの辺りにそっと触れて笑った。指の動きを恭の鳶色の瞳が追っている。
──カチン。レコードを止める音が室内に響いた。私は父にこんなにも対等に意見できる恭を、いつしか複雑な思いで見つめていた。
「宗介、来月はお前に任せよう。小夜も不慣れだ。宜しく頼む」
「……承知しました」
 先生は父から目を逸らし、そっけなく眼鏡を押し上げた。
「私も、ですか」
 私の呟くような問いかけに瞬きで応えた父は、まるで犬を呼ぶような手つきで私を傍に招いた。
「見なさい小夜。今回はお前宛てに招待状が来ている」
 なるほど煌びやかなカードには私の名前に続き、鹿鳴館で催される舞踏会の概要が記されていた。差出人の名前は──霧島 誠。
 ゆっくりと目を見開く私。畳み掛けるように父は告げた。
「主催の大川伯爵の甥にあたる、帝国海軍・霧島少尉直々のお誘いだ。またとない僥倖、有り難くお受けしなさい」

第9話 カドリール

「……今夜の月は、やけに明るいですね」
 車を降りて開口一番、先生が呟いた。月光を疎む花のかんばせ──髪を上げ、燕尾服(テールコート)でおめかしをするだけで人はこんなにも美しく変われるものだろうか。はっとするほど端正な目元が微かな翳りをみせる。先生は私たちが頭を天井にぶつけぬよう、黒手袋の長い左手を添えドアを抑えた。
「本当。少し目に沁みます」
 私も星が恥入る満月の夜空を見上げて呟いた。青藤色のドレスが歩調に合わせふわふわと揺れている。
「全くお前たちは辛気臭いな。名月だろうに」
 父は冷たく笑い、絶え間なく人を飲む鹿鳴館の門を颯爽と潜った。

 舞踏室へ続く長い廊下を進むと、後を縋るようにざわざわと人波が(そよ)いだ。華族と思しき婦人たちは春爛漫の花壇のようにところどころに固まって、右手に開いた扇子を一様に口元に翳し、麗しい従者を注視した。
 広間の奥に伯爵ご夫妻がいらっしゃる。幅広の肩を寛げ葉巻を吸う伯爵に歩み寄り、父は慇懃なお辞儀をした。
「ご無沙汰しております大川閣下。こちら娘の小夜と申します」
「お初にお目に掛かります。本日はお招き頂き有難うございます」
 私はバッスルドレスの裾を開きお辞儀をした。
「烏丸君、可憐なお嬢さんじゃないか。誠が気にいるのも無理はない……そちらは?」
「従者の水銀(みずかね)です。私の秘書と専属医をしております」
「水銀と申します」
「おお、これはまた一段と──」
 伯爵は先生の爪先から頭までを一通り眺めると意味深な感想を贈った。
「宗介、此処では背筋を伸ばしなさい。お前の顔は美しい。姿勢で無下にすることは赦さない」
「承知致しました」

 父は先生の薄い背中を黒手袋の左手でスルリと撫で上げた。
「伯父上! 遅れまして申し訳ございません」
 聞き覚えのある声に振り向く。髪を整え、大礼服に身を包んだ霧島少尉が溌剌と敬礼した。見上げれば黒く荘厳な軍服の襟で、桜の刺繍が星屑のように輝いていた。
「小夜さん、またお会いできて光栄です」
 少尉は胸に手を当てよそ行きの笑顔を浮かべた。
「恐れ入ります少尉様。本日は──」
「固い挨拶はよしましょう。それより何とお美しい……! 間違いない、今夜の華は貴女だ」
 少尉はオペラのような台詞を恥ずかしげもなく宣った。
「今夜はたくさん踊って、たくさん話しましょう。それから一緒にアイスクリームを食べましょう」
 少尉は八重歯を見せらんらんと目を輝かせた。
「今日のはとびきり可愛くて甘いですよ。小夜さんにも早く食べさせて差し上げたい!」
「誠、男子(おのこ)がそんな(ちゃ)()茶羅(ちゃら)した物を好むな」
 伯爵は溜息を吐き少尉を(たしな)めた。
 少尉は軍服の胸を張り、伯爵を鋭い視線で威圧する。
「伯父上、お言葉ですがアイスクリームを侮られてはなりません。この菓子は一見すれば華やかで愛らしく、まさに婦女子のための甘味のように思われます。しかし材料は砂糖、卵黄、牛乳と栄養価が高く疲労時の栄養補給を迅速に行え断じて馬鹿にできません。また気温の高い時期手軽に涼をとることができる点も評価に値するかと存じます。この外見で斯様な高機能、戦艦に喩えるならば仮装巡洋艦です」
「そ、そうか。では程々に」
 気圧された伯爵は面倒御免とそそくさと立ち去った。父が笑いながら後を追う。
「さすがアイスクリームにお詳しいのですね」
「いえ、適当です! 堂々と食べたかったので」
 少尉はけろりとした顔で笑った。頬が熱い。真夏の夜の静けさは、人の声と音楽に塗れてふけてゆく。

***

 先生は暫く輪を離れ、踊り続ける私たちを見ていた。白い菊の籬に囲まれた精錬な立ち姿は、その文字通りの『壁の花』。そんな先生を時々見遣りながら、管弦楽の旋律に鞭打たれるように私たちは踊り、また踊った。
「楽しいなあ。次も参りましょう! 休む暇も惜しい」
 少尉は散歩に(はしゃ)ぐ大きな犬のように私の手を引いた。
「少尉様、すこし休みましょう? いま二曲踊ったばかりで」
「そんな、時間が勿体ない!」
「私、少し疲れてしまいました」
「それは気付かず、失礼しました」
 少尉は軍帽を脱ぎそっと胸へ宛てた。
「では一旦休憩を。自分は知人に挨拶をして参りますのでどうぞごゆっくり。また後ほど」
 私に飲み物を手渡し、少尉は自身に呆れる愛らしい困り笑いをしながら踵を返した。
 ──何だかおかしい。体が燃えるように熱い。
 肩で息をしながらジュースを飲む私に気付き先生がそっと声を掛ける。
「……小夜さん、体調が悪いのではないですか?」
「いえ、大丈夫です。少し疲れて──」
 先生は心配そうに口を噤んだ。

「あら。その方、貴女の従者でしたの」
──裏辻子爵令嬢。確か入口で先生に視線を送っていた婦人の一人だ。扇子で口元を隠し格上の所作で近づいてくる。
「貴女の家令、ああ、華族でなければ家令とは呼びませんわね。素敵な方。お名前は?」
「此方は父の秘書で──」
「貴女には訊いておりませんことよ。貴方、お名前は?」
「……水銀と申します」
「水銀さん。次はわたくしと踊りましょう? お近付きになりたいわ」
 子爵令嬢はバチンと扇子を閉じ、トンと胸の辺りを指した。
「お嬢様、如何がなさいますか?」
 先生は無機質に問いかけた。
「……お相手を」
「……承知致しました」
 先生はお辞儀をすると、子爵令嬢の手を取った。彼女の秋波に彩られた目元が無性に忌々しい。

「小夜さん! お待たせしました、次の曲をご一緒に──ああ、禮子さん。ご無沙汰しております」
「まあ霧島少尉。ご機嫌様」
 子爵令嬢はサッと先生から手を引き、緋色の裾を持ちお辞儀をした。
「そちらは小夜さんの従者の方でしたね。綺麗な方だ。同じ男とは思えない」
 少尉は高い背を傾け先生の顔を覗いた。
「恐縮です」
 先生は上下の睫毛をピンと張り冷たい返事をした。
「そうだ、折角ですからカドリールを踊りましょう。二組一緒なら倍楽しい!」
 少尉は夜に燦々と輝く太陽のように両手を広げ微笑んだ。
 カドリールは二組、または四組のペアで方形になって踊る舞曲のことだ。この体調でもしもの事があった時、先生がそばに居てくれることは確かに心強い。
「ではご一緒に」
「はい! そしてこの曲を終えたらアイスクリームを食べましょう」
「かしこまりましたわ」
 少尉は景気付けの三鞭酒(シャンパーニュ)を飲みながらにこやかに笑った。
「……随分親しいんですね。少尉と」
 先生は驚いたように私の顔を見た。
「いえ、会うのは二度目です。初回からああいう感じでした」
「明るすぎる……」
 先生は一瞬いつもの猫背に戻り、ボーイから受け取った葡萄酒を一気に飲み干した。
「……霧島少尉夫人、結構じゃないですか。お父様は中将ですからいずれは出世もなさるでしょう」
「私、まだそんなつもりじゃ──」
「向こうはそのつもりですよ」
 先生は髪の乱れを整え眼鏡を上げた。
「参りましょう」
 先生は子爵令嬢の手を取り、令嬢はなだらかな肩に得意げに手を添えた。

 私は軍服の肩に長手袋の手を──置きたかったが、少尉の背丈は六尺一寸。小柄な私では上手く届かない。少尉が優しく耳元で囁く。
「小夜さん、胸に」
軍服の上からでも分かる厚みに胸が高鳴る。
 孔雀が羽を広げるように、緩慢な音楽に合わせダンスの輪が広がった。令嬢たちの華々しいレースやフリルが万華鏡のように交錯し回転する。時計の中身を見るように幾何学的で幻想的な感覚に暫し酔いしれた。
 菊の織りなすレースの向こう、マスカレードを思わせる半面を着け真っ白な燕尾服を纏う帝大の狐が笑っている。裾を翻し回る姿がゆっくりとぶれて、くるくると不埒に相手を変えながら遠ざかってゆく。不思議なことに数名の婦人が振り返り、私はいよいよ自分の正気を信じられなくなった。

 少尉のステップに縋りながら、増してゆく頬の火照りを感じる。長手袋の下で、コルセットの下で、冷たい汗をかいている。ああもしやこれは恋ではなく熱の──
 ふと、回り損ねた足がもつれた。後方に傾いだ私の背中を男性の手が捕らえる。黒衣に覗く真っ白な首がぐっと近づいて私は思わず息を飲んだ。()ち合う視線を合図に先生は『外へ』と唇を動かした。
 その後の先生は私を片時も離さなかった。相手を無くした少尉は、慌てて子爵令嬢の手を取り笑っている。
「先生、私──」
 先生は声を出さず薄く微笑んだ。
「えっ、先生? ダンスの?」
 少尉は狐につままれたような顔で私に振返り小首を傾げたが、そのまま子爵令嬢に手繰られ人の波に飲まれて消えた。

 先生はワルツの緩やかな歩みを続けながら時に私を支え、時に回る牡丹やダリアの間を縫って悠々と輪を外れた。煽り立てるような華々しい管弦楽の旋律を物ともせず、まるで散歩でもするかのように平穏に舞い歩く。
 先生は場馴れた様子で私の手を取り、絶えず変化する舞踏の波間をゆるやかに回った。ある時は壁から私を庇い、またある時は行き交う男女の肩に触れぬよう引き寄せながら端へ外へと進んだ。
 黒手袋の下にある先生の白い指先を感じる。私はその肩に手を置き、細く美しい腕に熱い身を任せた。先生のダンスは優しかった。永遠に踊っても疲れない、それはまるで星月夜の散策のように穏やかな時間だった。
 最後の終始線が見えた頃、先生は終幕の一回転で私をそっと天鵞絨(ビロード)のソファに座らせた。沈み込むやわらかな感触に、まるで魚が溶ける酸素を求めて浮上するように息をした。

「すみません、余計な事を」
 先生はお水の入ったグラスを差し出し頭を下げた。
「いえ、正直危なかった……本当にありがとうございます」
 私はほっと胸を撫でおろし冷たいお水を飲んだ。
「それにしてもさっきの先生、凄かった。随分ダンスがお上手なんですね」
 先生は少し恥ずかしそうに目を逸らし、顔を覆うように眼鏡を上げた。
「……貴女のお父様の、お仕込みが良かったものですから」
『今夜の華は貴方でしたね』
 そう言いかけた私は、ロマンティックな台詞に冷笑する恭を想像してしまいそっと唇を閉ざした。

最終話 モダン・ガール

 ──駄目だ、ちっとも筆が進まない。
 私は霧島少尉宛ての手紙を書くペンを止め、ため息をついた。
 お盆を過ぎ急に涼しくなった外気を欲して窓を開ける。昼間の熱がまだ少し残る夕風が部屋の中を巡った。遠く(すすき)の香りがした。
 ──コンコンコン。
 細い指がノックして、私の返事を確かめるようにそうっとドアが開いた。
「──失礼しまーす。詫び状、進んでます?」
 お園さんが紅茶の乗ったお盆を持ちそろそろと此方を覗いた。

「だめだわ。何だか全然集中できないの……帰り際伯爵ご夫妻にはお詫びできたけど、まさかあのまま少尉が行方不明になるなんて」
「気に入られちゃったんですかねえ。裏辻の面食いお嬢に」
 お園さんは馬鹿にしたように笑って柳腰に手を当てた。
「だらだらやったって埒あかねえ、一旦出かけましょ。気分転換に」
「そうね……お洋服にしましょうか。貴女も支度して」
「そうこなくちゃ! 二人でモガごっこしましょ。髪巻きますよ」
 お園さんは嬉しそうに笑った。

***

 銀座の『カフェ・シャブラン』はお園さんお気に入りの店だった。クロシェを乗せた耳隠し、リボンのついた薄手のブラウスにタイトなスカートをさらりと纏った彼女は素敵だ。その百人とすれ違えば百人が振り返る美しい姿は、お洒落が服を着て歩いているという言葉がぴったりなほど魅力的だった。
 集まる視線に素知らぬ顔をして、お園さんは店の奥、いつものソファ席に颯爽と腰を下ろした。

「今日も盛況ですねえ。ちと一服」
 顔なじみの女給さんに指二本で注文を終えたお園さんは、足を組み煙草をサッと咥えた。
「カフェでも吸うのね」
「先生にゃ減らせ減らせってボソボソどやされるんですがね。どうもこうも」
 お園さんはトントンと灰を落としながらはあと煙を吐いた。
「あっ」
 お園さんが前をみて目を見開く。それからまだ長い煙草をサッと灰皿に捩じりつけた。
「──やべえ。水銀先生が、綺麗な女と歩いてる」
「えっ!」
 私は思わず声を出して振り返った。先生と目が合う。互いに口を開いたまま固まる。お連れの長身美女を見て、私はもう一度声を上げた。

「おに、おねえさま……!」
「おお! お小夜坊。久しぶりだな」
「お知り合い?」
 私を振り返るお園さん。兄は流行りの紅い唇でニッと笑った。
「小夜さん、とお園さん……なぜここに」
 水銀先生が気まずそうな顔をして眼鏡を上げた。会っているとは聞いていたものの、いざこうして目の前にしてみると異様な光景だった。ハイヒールを履いた兄と並ぶと先生の方がいくらか背が低いのだな──とぼんやり思った。
「なぜ、じゃねえよ。あんたが私の縄張りで外人みてえなデカい美人とランデヴーしてんじゃないですか。ったく、大人しいふりして先生も隅に置けないもんだねぇ」
 お園さんは灰皿を隠しながら先生を目一杯に揶揄(からか)った。

 何か言いたげに口をパクパクさせる先生を無理やり私の横に座らせて、兄は得意げな顔をした。
「ふふん。聞いたか宗介、美人だってよ。お前も『美人』にしてやろうか? ご覧の通り俺、化粧上手いぜ」
「結構です」
 先生は被せるように拒絶した。兄は堂々とお園さんの隣に掛けながらばさりとメニューを開いた。
「はっ。僕はすっぴんで充分ですってか? 生意気な野郎だ」
「……そんなことは言ってない」
 先生は対面から顔に触れようとする兄の手を蠅でも払うように邪険にした。兄は色っぽい唇を大きく横に開いてからからと笑った。

「ちょっと、その笑い方──まさか、朝日坊ちゃん?」
 兄は口元のほくろを指してニッと綺麗な歯を見せた。
 お園さんは鈴のような目を見張り、眼前の光景を咀嚼するようにゆっくりと三度瞬いた。それからほどなく、ぼろぼろと真珠のような大粒の涙を零した。
「まあまあ、随分とお綺麗になられて……狡いですよこんなの。そうして笑ってくれなけりゃ、お天道様でも分かりっこない」
 小さく鼻をすすり、ブラウスの袖をそっと目元にあてるお園さんを兄は可笑しそうに覗き込んだ。
「……かわいそうに。本当、あり得ないですよね」
 先生はどんよりとした目を二人に向けた。
「半分はお前のせいだけどな」
 兄は先生を横目で見ながらにやりと笑った。

「お園はちっとも変わらないんだな。一生別嬪でいるつもりかい」
 お園さんは照れ臭そうに兄の肩を叩いた。
「なあに仰いますか。もう十引いたって吉原じゃ年期の明けちまう、行かず後家の大年増ですよ。でも坊ちゃんに言われると、嬉しい……」
 お園さんは泣き顔を隠すように兄に向かって(うやうや)しく一礼した。こんなにしおらしいお園さんを見るのは初めてだった。兄は驚く様子もなくじっと彼女の横顔を見詰めている。
「……半分は坊ちゃんのせいですよ」
 水銀先生は意味深な言葉をぼそりと呟いた。

「お嬢様はともかく先生! 何で教えてくれなかったんですか。坊ちゃんのこと、私がどれだけ……どれっだけ心配していたか、知らないなんて言わせませんよ」
 お園さんは私の渡したハンカチを両手で引っ張りながら、キッと先生を睨みつけた。
「それは……すみません。何というか、色々知っていただけに……言えませんでした」
「ふざけんじゃねえ」
 お園さんはテーブルの下で先生の足をげしげしと蹴った。
「まあまあ、悪いのは俺だから。ここの勘定で手打ちにしてくれよ」
 お園さんを宥める兄に向かい先生が何度も頷いた。
 熱いコーヒーが届いたのをきっかけにお開きとなったこの話題は、私を悶々と魅了し続けた。お園さんはきっと今でも、兄のことを──

「それにしても今日のお前ら、いいねえ。モダン・ガールか。そんな成りなら小夜のちんちくりんも小洒落て見えるぜ」
「ちんちくりん……」
 小さく肩を落とす私に、あれで褒めてんですよとお園さんが囁いた。
「しかし最近はほんとにモガが増えたよな。特にこの店は多い気がする」
 ソファに(もた)れぐるりと首を回しながら兄が呟いた。
「この店は『青鞜』に載ってましたからね。新しい女にゃ人気なんです」
「なるほど」
「『青鞜』って?」
 私の素朴な質問に、お園さんは優しい口調で答えた。
「女性のための文芸誌ですよ。まあいろいろあって五、六年前に発禁になっちまったんですが──私は奥様が読んでらした分と、あとは神保町で古本漁って買い足して読んでます」
「お母様の? そんな話、全然知らなかったわ」
 母の話を口にする私たちを、兄と先生は神妙な面持ちで見つめた。
それから兄はゴソゴソと小さなハンドバッグを漁り、あっと小さく声を上げた。

「畜生。煙草忘れちまった。宗介、お前ちょっと買って──」
「坊ちゃん。これでよければ」
 お園さんはバッグから煙草とマッチを揃えて差し出した。
「カメリヤか。やけに準備が良いじゃないか」
「別に構えてやしませんよ、私のです。でも他はもう吸えない」
 お園さんは兄の煙草に火を点けながら面映ゆそうに扇のような睫毛を伏せた。
「惚れた証拠にゃお前の癖が いつか私の癖になるってか。お前そんなに可愛かったっけ」
 お園さんは一瞬呆気にとられた顔をして、それから色っぽく目を細めて新しい煙草を咥えた。

「まあどんなにモガが増えようが、この国はこれからぐんと戦争に傾くぜ。さっきもこの店の前を憲兵が偉そうに闊歩してやがった。女の時代はその後の後。こんなきな臭え時代に自立だフェミニズムだを並んで謳ってみたとこで、俺には小洒落た葬式みたいに見えるね」
「モガの葬列、ですか」
 兄はパチンと指を鳴らした。
「いいなーそれ。さすがは俺の妹だ、文才がある」
「……僕にはよく分かりませんが」
 先生は眼鏡をそっと押し上げてお店の中を見渡した。
「いいんじゃねえの。この席で男はお前ひとりだぜ。パッと見はな」
 兄はからからと笑った。
「小夜だってそう思うだろ? 中でも俺が一等賞」
「うーん、悔しいけれど本当に綺麗だと思うわ……もうあまり覚えていないけれど、お母様もこうだったかしら」
「全然」
 兄より先に先生が答えた。
「……奥様はこんなにお化粧濃くなかったですよ。慈兵衛さんも言ってました。最近の坊ちゃんは会う度に顔が微妙に違って恐ろしいって。鵺みたいだ……」
「ご挨拶だな。研究熱心なんだよ俺は」
 兄は煙草の煙を先生に向かってフーッと吹きかけた。
「最低ですね」
 先生は目をしぱしぱさせながら私の前で手を振り、紫煙を散らして兄を(そし)った。

「たとえ形だけだとしても、女の姿でいると色々見えてくるんだぜ。この国はまだまだ女は一人じゃ生きづらい。当面はな」
 兄は私とお園さんを交互に見て言った。
「──それでも私、『新しい女』になりたいの」
 兄は紅梅の()(しべ)のような睫毛を上げて私を見た。
「自分の人生を自分で決める、美しくて強い女。何年かかってもいい。苦労してもいい。それでも負けずに自分の心に正直でありたいの──あなたのように」
「新しい女ねえ」
 兄はやおらお園さんの肩を抱き寄せフンと鼻を鳴らした。
「自由は責任の対価だ。ちんちくりんの甘ったれお嬢様がナマ言ってんじゃねえ。お手並み拝見だな。長いながーい目でもって」
 兄は(つま)(くれない)の指先で私の額をツンと突き、高飛車に笑った。

ー完ー