• 『Bad taste(悪趣味)』

  • いまい まり
    ミステリー

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    アラサーの荒川 綾は、某病院の閉鎖病棟の隔離室に長年入院している。 一日中、泣きながら叫び続けるだけの絶望的な日々だった。 そんなある日、主治医に“人生をやり直せる薬”を投与されて……?

第1話 アラサーですが、人生終わってます

「たすけて、だれか、たすけてぇー!!」

 都内にある某病院の閉鎖病棟……その中でも隔離室に入院している荒川 綾という患者は、寝ているとき以外は、一日中泣きながら叫び続けていた。
 叫び続けたあまり、声がすっかり枯れてしまっていて、元の声が想像できない。綾はまだアラサーのはずなのだが、老婆のようなしわがれた声だった。

「先生、隔離室の荒川さんですが、叫び声がすごいですね……」
 ナースステーションまで聞こえてくる叫び声に顔をしかめながら、看護師が言う。
 看護師と綾は同世代の女性であり、看護師からしてみれば、自分とのあまりの境遇の差を思うと、同情もする。しかし、綾の叫び声は耳障りなものでしかなかったのだ。

「君はまだここに配属されてばかりだから知らないだろうけれど、ここの隔離室の患者は皆あんなものだよ。自傷・他傷のおそれがあまりないだけでも、マシなほうだ」
 綾よりは年上であろう男性医師が、ぶっきらぼうに言う。
「とはいえ、あのしつこい叫び声は不愉快極まりないのは確かだね」
 耳栓でもするしかないか、と笑いながら医師は言うが、看護師は笑えなかった。

「どうして……どうしてこんなことになったのおぉ」
「私はこんな人生のはずじゃなかったあ!!」
「人生……やり直したい……」
 綾の叫び声は続いた。

「人生、やり直したい、か。それなら、試しに“あれ”を投与してみるか」
 医師がほくそ笑む。
「あれ、というのは……?」
 その不穏な空気に、看護師が不安そうに聞き返す。
「彼女の望みどおり、『人生をやり直せる薬』だよ」
 そう言って医師は注射器を持つと、綾のいる隔離室に向かった。

――

「綾、おはよー!!」
 懐かしい明るい声に、綾は天地がひっくり返るほど驚いた。
 だが、その直後、自分の置かれている状況に、さらに驚くこととなった。
 気が付けば、いつもの何もない病室ではなく、中学校……それも、自分が中学二年生のころに通っていたクラスの教室にいたからだ。

「どうしたの?」
 綾の動揺具合に、おはようと声をかけてきた女生徒、綾の大親友“だった”美穂が怪訝な顔をする。
「あのさ、鏡貸してくれない?」
 自分でも意外な一言が綾の口からは出てきた。その声は枯れているどころか、若々しい、女子中学生らしい声であったことに、またもや綾は驚いた。
 そして、美穂から鏡を借りて、自分の姿を見ると、それが一番の驚くべきこととなった。

「私……中学生だ……」
 そんなの当たり前じゃん、と何も事情を知らない美穂は笑っている。
 だが、綾からすれば、当たり前のことなどではない。自分は、アラサーの入院患者だったはずだ。
 記憶をたどると、いつものように泣き叫んでいたときに、主治医が病室に入ってきて、いきなり注射を打たれたような覚えがある。
 注射で打つ薬は強力だというから、幻覚に近い夢でも見ているのだろうか。

「あはは、綾ちゃん、なんだかおもしろ〜い!!」
 夢の中でも出てきてほしくないやつが出てきてしまった、と、綾は思わず舌打ちをしそうになった。美穂と同じく、親友“だった”さやかだ。
 綾は美穂とは幼稚園からの付き合い。小学校でもクラスが一緒のことが多く、ずっと親友と呼べる関係性だったのだ。
 そのバランスが崩れたのは、中学一年生のときに、ほかの小学校出身のさやかがその関係に加わったことがきっかけだった。

「……あんたのせいで」
 恨み言が口をつく。
「今、何か言ったあ? 綾ちゃん、怖いよぅ」
 綾はさやかにいら立ち、思わず殴りそうになったが、夢の中だろうとはいえ、さすがにそれははばかられた。

「よしよしさやか~、慰めてあげる」
 そう、こんなふうに美穂がさやかのことをかまうから、私は嫌々さやかとも仲良くしていたのだ、と再確認する。
 さやかはよくいえば天然……といっても天然がほめ言葉かどうかは異論があるだろうが、天然キャラとして存在していた。しかし、綾からすれば、単なるぶりっこにしか見えなかった。

「美穂ちゃん、やっさしい~。綾ちゃんは、最近さやかに冷たいよね!」
 そう言って、勝ち誇った目でさやかは綾のことをチラッと見る。
 さやかは美穂との関係性を張り合っているのか、この調子で自分に対しては悪意を感じる言動や行動をしてきていた。だから、綾にとってのさやかは、腹黒女でしかなかったのだ。

「綾、調子悪いの?」
 綾が黙っていることを不自然に感じたのか、美穂が心配そうに言う。
「うん、そうかもしれない。鏡、貸してくれてありがとう、顔色が見たかったんだ。とりあえず、保健室行ってくる」

 そう言って、なかば無理やり、綾は教室を出た。廊下に出ると、懐かしい人たちと風景だらけだった。
 見知った顔が、次々に綾へおはようと声をかけてくる。皆、中学二年生のころの姿のままだった。
 それは、綾がまだ幸せだったころの日常でもあった。夢でもうれしいけど、このまま永遠に目覚めなければいいのに……そう綾は心底願った。
 しかし突然、視界がぐにゃりと曲がり、強制的に、綾は現実に引き戻されることとなった。

第2話 怪しげな薬での人生のやり直し

「ようやく意識が回復したか」
 綾が目覚めると、そこはいつもの隔離室ではなく、もっと大掛かりな設備がある病室だった。
 ただ、目の前にいる人間は、いつもの主治医だった。
 さまざまな機械に繋がれていて、頭がガンガンするし、吐き気がして、底知れぬ気持ち悪さを綾は感じた。

「君は三日間も眠り続けていたんだよ」
 三日間も、と思うと同時に、三日間だけではなく、なんで永遠に眠らせてくれなかったのか、という怒りを綾は抱いた。
「どうだい。不思議な夢を見なかったかな?」
 そんな綾の心を知ってか知らずか、主治医はひょうひょうと聞いてきた。
「どうしてそれがわかるんですか?」
 驚きながらも、夢の中でもう十二分に驚いたので、綾は素直に答える。
「実は、君に投与した薬は、睡眠中に過去を再現できるという薬でね。まだ認可もされていない薬だから、何もかもが未知数だが、どうやら君には効果があったようだ」

 そう言って、主治医は満足そうに笑う。明らかに人体実験だ。自分はモルモットにされたのか、と思うと、綾はゾッとした。
 だが、過去の再現ができたことがうれしかったのは事実だった。

「さて、どんな夢を見たのか詳しく聞きたいところだが、起きたばかりではつらいだろう。またあとで来るから」
「待ってください!!」
 部屋を出ていこうとする主治医を、綾は思わず大声で呼び止めていた。やはりそれは、枯れた声だった。

「私、またあの夢が見たいんです」
「薬の投与でどんな副作用が起きても、後悔しないね?」
 主治医は、薬を投与するならこの書類にサインを、と書類を取り出し、綾にサインさせた。
 綾は、緊張と興奮で、手が震えた。怪しげな薬だし、訳がわからなかった。
 でも、どうせ自分は、ずっと死にたいと思って生きてきた。
 それなら、医学の発展にでも貢献して死ねれば本望だ、という勢いでのサイン……いわば悪魔の契約だった。

「じゃあ、早速注射を打つから」
 痛みを感じる間もなく、綾はまた夢の中へと入っていった。
「実は、この薬はただの夢を見せる薬じゃなくて、過去をやり直せる可能性がある薬なんだけどね……まあ、実際に体験してみればそれもすぐにわかるか」
 夢の中に入る最中に、主治医のそんな言葉が聞こえたような気がした。

――

「綾ちゃん、次の日曜日って何する予定なのぉ?」
 正確には戻ったわけではないのかもしれないが、次に綾が中学二年生に戻った場面は、この世で最も不愉快な人間、さやかに質問をされているときのものだった。
 そう、この質問で私は破滅することになったんだっけ……。綾は思い出す。

「とくに何も予定はないよ」
「そうなんだぁ」
 さやかが不満そうに答える。この答えでもダメなのかよ、と、綾は舌打ちしそうになった。

 昔、この質問を実際にされたとき……綾はさやかの質問の意図がわからなかったし、さやかのことが嫌いだったから、予定もないのに、予定が入っていると適当に答えてしまったのだ。
「さやか、綾ちゃんのことも、遊びに誘ったのに、あんたがいるなら行きたくないって断られちゃったぁ」
 まさか、のちのちそんなふうに大嘘をつかれるとは、思ってもみなかったから。

 さやかが言っていた日曜日は、美穂をはじめとした、親しい人間が集まって遊びに行く計画が立てられていたのだ。その計画を立てたのはさやかだった。
 なんで綾は来ていないんだ、と、当日話になったときに、さやかは嘘をついたというわけだ。
 ガラケーは普及しだしていたものの、便利なチャットアプリのようなものはまだない時代である。メールのやり取りだけでは、誤解が誤解を生んでしまったのだ。

 それからの展開は、地獄の一言だった。

第3話 地獄に落ちてから

 天然キャラとしてかわいがられているさやかを傷付けたということで、綾はハブにされることになった。
 それは露骨な無視ではなく、下の名前でなく名字で呼ばれるようになり、綾が話しかけたら会話が終わる、というような実に陰湿なものだった。
 当然、綾は授業でグループを作るときはひとりぼっちだし、遊びにも誘われなくなった。だが、これがいじめかどうか、となると難しいところだ。
 担任の教師などの大人に相談したところで、喧嘩してすれ違っているだけだね、で終わってしまうような状況だろう。
 綾は、ハブられたこと自体もつらかったが、皆がさやかのほうを信じたことが何よりもつらかった。
 そして、その信じた中には、美穂もいたのである。

『美穂、ごめんね』
 綾は自分が悪くないとわかっていながらも、美穂に謝罪のメールを送ったことがある。
『私は別にいいけど、さやかのことをこれ以上傷付けたら、許さないから』
 すると、美穂からはそう返ってきたのだ。

 この一件がきっかけで、綾は中学二年生の夏休み後に、不登校になったのだった。

 綾にとっての本当の地獄のはじまりは、不登校になってからだった。まだ不登校に今ほど理解がない時代である。そんな中、不登校になった綾には、誰もが冷たかった。
 なにせ、綾は露骨にいじめを受けているというわけではない。単なる甘えだと思われたのだ。

「あなたよりひどいいじめを受けている人もいるのに、なんであなたはズル休みしているの」
 担任には、そう言われた。
「夏休みボケがまだ続いてるんじゃない?」
 とは、担任だけでなく、両親にまで言われた。

 綾には、夏休み後に不登校になった理由が、自分の中ではちゃんとあった。
 夏休みのプール遊び、夏祭り、宿題で美術館に行く……そういったイベントすべてにおいて、本来なら自分がいた場所にいられなくなったことが、あまりにもショックだったのだ。
 毎年皆で行っていた地域のお祭りに一人で行ったときに、綾は打ちのめされた。
 さやかと美穂が、二人で楽しそうにお祭りに来ていて、綾を見つけたさやかは、勝ち誇ったように笑ったのである。
 その勝ち誇った笑みが忘れられず、綾はアラサーになってからも、それが夢に出てくるほどだった。

 綾は中学校の卒業式にも参列せず、卒業してからは、進学せずに引きこもりになる。
 不登校児が受け入れ可能な高校など、まだほとんどなかったし、仮にあったとしても、綾に進学する気はさらさらなかった。
 そう、中学二年生の一学期の一件からの不登校が理由で、綾の人生はどん底を歩むことになったのだ。

 両親は腫れ物に触るように綾を扱い、一方、綾本人はひたすら文章を書くことに熱中した。
 それは、たいていの場合、さやかに対しての復讐物語だったが、もはやまともな文章にはなっていなかった。
 幸か不幸か、綾の家はわりと裕福だったので、綾は金銭面では、バイトをする必要すらなかった。
 だからこそ、より引きこもりから脱することができなくなっていたのかもしれない。

 そのうち、綾は存在もしない相手と電話をし続けるなど、明らかにおかしな行動が目立つようになってきた。
 そんな綾をもてあました両親は、綾を精神病院に強引に入院させた。金さえ支払えば、いくらでも入院させておける病院である。ようは、綾は実の親にも見捨てられたのだ。
 もうどれぐらいの年数、入院しているかは本人にもわからないが、綾が“人生が終わった”アラサーになったことだけは確かだった。

第4話 今度こそは

 綾は、さやかを目の前にして、過去の自分は本当に弱かったのだな、と心底思った。
 今思えば、ひとりぼっちになることぐらい、たいしたことではないではないか。
 現実の、引きこもりから、精神病院に長期入院している状況に比べれば、些細なこととすらいえる。

「チラッと聞いたんだけど、日曜日、さやかが計画立てて皆で遊びに行くんだよね? 私も行きたいんだけど」
 だから、夢の中の会話の続きで、さやかにそう言ってやった。さやかは面食らったような顔をしていたが、すぐにいつもどおりのぶりっこに戻った。

「実はそうなんだよねぇ。でも、綾ちゃんのおうち、厳しいんじゃなかったっけぇ? ちょっと遠くに遊びに行く予定だからさぁ」
 なるほどな、さやかは何がなんでも、日曜日の遊びに綾を参加させたくなかったのだ、と、綾は理解した。遊びの最中にも、きっとうまく綾を悪者にしたのだろう。
 欠席裁判というやつだ。おそらく、それが最初から狙いで、自分で遊びの計画を立てたにちがいない。

「大丈夫だよ。私もさやかと遊びたいから」
 怒りを押し殺し、そう言うと、さやかは意外な反応を見せた。
「そうなの!? さやか、綾ちゃんに嫌われてたと思ってたから、うれしいなぁ」
 そう言って、さやかは綾に抱きついてきた。……気持ち悪い。そう思ったが、必死に我慢する。
 さやかは、詳しい待ち合わせ場所と時間を伝えてきた。よし、これで、過去とは流れが変わるかもしれない。

 ……というのは、実に甘い考え方だったのだと綾は思い知らされた。
 夢の中での日曜日、待ち合わせ場所に着いて皆を待っていても、誰も来ないのだ。何人かの携帯に連絡をしたが、遊びの最中だからか、返事はなかった。
 さやかは、綾に嘘の待ち合わせ場所と時間を伝えていたのだった。

「綾ちゃん、なんで昨日、来てくれなかったの? やっぱりさやかのこと、嫌いなの? ひどいよぉ」
 次の日、学校でさやかがあからさまに泣き真似をしながら言ってきた。やられた。そう思ったときは遅かった。

「さやか、待ち合わせ場所と時間、私には違うのを伝えたんじゃない?」
「ひどい! さやか、そんなことしないもん」
 そうだ、さやかがそんな意地悪をする理由がないと、ほかの面々も同意する。
「さやかのせいにするわけ? 綾、あんまりだね」
 美穂にそう言われて、綾は、心を鈍い刃物で切られたような気持ちだった。

 結局、夢の中でも、綾は再びハブにされることになった。
 美穂の誤解を解こうとしても、美穂は汚い物を見るような目で綾を見てきた。それでもめげずに、綾は美穂に話しかけたが、結果は同じだった。

「わざとらしく私のご機嫌取りをしてくるのは別にどうでもいいけど、さやかのことをまた傷付けたら、許さないから」
 過去の現実ではメールで言われた、そんな辛らつな言葉が、今度は美穂の口から直接出てきた。
 美穂以外の友達、いや、元友達も、同じような態度を綾にとってきた。ハブというよりは、もはやそれは、完全にいじめに発展していた。
 夢の中とはいえ、一度経験している憎むべき出来事をより苛烈な形で再体験するのは、綾にとって、本当に身を切り刻まれるようなつらさだった。
 また同じ思いをするぐらいなら、現実のほうがまだマシだと、どれだけ目を覚まそうとしても、目が覚めない。

 私は結局、さやかだけでなく、美穂をはじめとした、皆に嫌われていたんだ……。
 綾は、孤独な日々を再体験するうちに、そう自覚した。
 考えてみれば、明らかにさやかの行動は不自然なのだから、綾の味方をする人がいてもおかしくないのである。
 それなのに、全員が全員、さやかの味方をして、ハブが続いたということは……そういうことなのだ。

 さやかだけが悪いんじゃないなら、自分が悪いんだ。そう思うと、綾は、なんだか馬鹿馬鹿しくなった。
 何よりも、大親友だと思っていた美穂に、本当は嫌われていた。その事実が、綾を打ちのめした。

 夢が覚めないなら、無理やりにでも終わらせてやる。
 いつだか美穂と二人きりで肝試しをした、廃墟のビルの屋上に、綾は登った。

「それじゃあ、夢の中で、死ぬとしますか」
 そう軽く言うと、綾は屋上から飛び降りた。

――

「……綾、綾!! 起きて!!」
 まるで何かのドラマか漫画のシーンのように、綾は叩き起こされた。
 起こしてきたのは、美穂だった。
あれ? と思って周りを見ると、そこは相変わらず、中学二年生のころの教室だった。

 私は、夢から覚めることができなかったのだろうか。もしかして、永遠に夢から覚めないほど、薬を投与されてしまったのだろうか? 綾はゾッとした。
「綾、思わず起こしちゃったけど、この小説さあ、ひどすぎない? 私、綾のこと裏切ったりなんかしないよ」
 ところが、美穂の次の言葉に、綾は驚いた。
「だいたい、さやかってやつ、最低最悪だよね。こんな子がいても、仲良くならないよ」

 そう言って、美穂は笑っている。何がなんだか、綾には訳がわからなかった。
「ポカーンとした顔しちゃって、どうしたの? 小説書いたから読んでくれ、って綾が言ってきたんじゃない」
 そうか……と、綾は納得した。そういえば、さやかなんてもともと現実にはいなくて、私はまだ、中学二年生なのだ。
 小説を書くのが趣味だから、それを一番の親友の美穂に見せたんだっけ。
 自分自身の小説にのめり込みすぎて、まるでそれが現実に起きたことだと思ってしまったらしい。

 綾は、自分の間抜けさ加減にあきれるとともに、小説のようなことが現実でなくてよかったと、心底ホッとした。
「そうだよね、美穂、私と親友でいてくれてありがとう」
「ちょっと綾、何泣いてるのさ〜」
 大親友の美穂の笑顔に、綾は、心底安堵するのであった。

最終話 偽りのハッピーエンド

「……うーん、実験は半分成功、半分失敗かな」
 軽い調子で医師が言う。それは、綾の主治医だった。

「綾さんは、このままもう、目覚めないんですか?」
 さまざまな機械に繋がれて、どう見ても衰弱している綾を見て、看護師が心配そうに言う。

「そうだね、あとはこのまま、死ぬだけだと思うよ」
 こういう事態を予測して、親に見捨てられていて、なおかつ書類にあっさりサインしてくれるモルモットを選んでおいてよかった、と医師は笑った。
 看護師はどう答えていいのかわからなかった。

「そもそも、人生をやり直せる薬なんて、あるわけないんだよね。あるんだったら、不幸な人間は、誰もが使いたがるだろう」
「では、あの薬はいったい、なんだったんですか?」

 看護師の問いに、医師はまたも笑って答えた。
「催眠療法ってあるだろう。あの療法の定義もあいまいだが、まあ、あれを発展させた薬版だね。過去を再体験させて、なおかついいほうに人生を変えることができれば、現実でも前向きに生きていくことができる。そんな感じかなー」
 医師は、もはや説明するのも面倒そうだった。

「ま、綾さんは案の定、失敗したみたいだからね。今ごろ、薬の効果で、楽しい夢でも見てるんじゃないかな」
「それは……先生のやさしさでやったことですか?」
「どうだかね」
 そう言って、昼飯食ってくる、と言って、医師は去っていった。

――

 ……ごめんね、綾ちゃん。こんなことになるとは、思ってもみなかったの。
 だって、美穂ちゃんと綾ちゃんは、仲がよすぎて、さやかには入り込めない気がしたから。
 さやかは、美穂ちゃんを、独占したいだけだったのに。

「まあ、難しいこと考えてもしょうがないかぁ」
 そう言って、看護師は、制服を脱ぎ、自分も昼食に行くことにした。
 看護師の制服の名札には、○✕さやかと書いてあった。

ー完ー