• 『掌の宇宙』

  • 星埜まひろ
    青春

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    僕は宇宙人というあだ名で呼ばれている。でも何も言い返さない。だって本当の事だ。僕は宇宙人なんだ。ただ宇宙から迎えを待つ僕の前に「私も宇宙人なんだ」と名乗る少女が現れる。2人の宇宙人が迎える世界とは

第1話

「やーい、宇宙人」
  まつ毛の長い男の子が、僕のことを冷やかす声が聞こえる。
 過去の話だ。でも、今も変わらない。
 
 物心ついた時から今までずっと、宇宙人というあだ名で僕は呼ばれている。僕があまり感情を表に出さないというそんな些細な理由でだ。
 
「悔しかったら地球人になってみろよ」
 
 そう言われても、僕は何も言い返さない。何を言っても無駄な気がした。否定をしても、肯定をしても、彼らは僕のことを馬鹿にするだろう。
 
 無表情のまま黙っている僕を見て、また誰かが僕を宇宙人と呼ぶ。
 
 だって本当の事だ。僕は宇宙人なんだ。だから言い返す必要なんてない。皆が気づく少し前から、僕はそれを知っていた。
  
 本当の僕は宇宙の生命体で、なんらかの理由で人間の皮を被って生活させられているのだ。12年もこの世界で生きているのは、周りに宇宙人だと勘付かれているから。僕がもっと人間らしく生活できるようになれば、きっと大きな宇宙船が僕のことを迎えに来て、本当のパパとママ、そして本当の友に会えるはずなのだ。
 
 そうでなければ、僕の人生は……。
 
 
 
 宇宙人にも平等に朝は来る。
 
 布団から起きて、パジャマのまま部屋を出る。
 
 リビングのダイニングテーブルの上には、コンビニの菓子パンと、パックジュースが1つずつ置いてあった。
   
「今日はメロンパンか」
 
 椅子に座り菓子パンの袋を開け、黙々とメロンパンを胃の奥に押し込む。人の気配はしない。母らしき人間は、もう働きに出たようだ。
 
 父に値する男は、僕の9歳の誕生日に居眠り運転のトラックに轢かれ、あっけなく死んだ。
 
 僕が母と呼ぶ女は、その日から昼夜問わず働き詰めの日々を送ることになった。母らしき人間と会話ができるのは、僕の学校の休みの日と、あの女の仕事の休みが重なった日だけだが、最近はそういう時間もなくなってきている。
 
 成長期の僕の体は、菓子パン1つでは残念ながら満足できなくなっている。だがあの女はそれに気づかない。僕もあえて伝えない。
 
 僕が成長していることを、あの女に伝えたら、何かが壊れてしまうような気がした。母らしき人の中では、父に値する男が死んだあの日から、時間が止まっているのかもしれない。僕はそう思っている。
 
 菓子パンを食べ終え、学校の身支度をする。いつも決まった時間に決まったことをする。おまじないみたいなものだ。洗顔、歯磨き、着替え。少しでも順番が狂ったら気味が悪くて仕方がない。
 
 今年の春から、僕は中学生になった。
 
 小学生だった頃とは違い、制服を着て登校しなければいけなくなった。
 
 制服はどうも苦手だ。こんなものを着ていたら、仲間たちに僕が宇宙人だと気づいてもらえない気がして怖い。でも規則を破るつもりはない。面倒ごとはもっと苦手だ。
 
 仕方なく、今日も学ランに袖を通す。少し大きめの黒い衣服を纏うと、僕はどこにでもいる地球人の中学生のように見えた。

 大抵、僕は誰よりも早く登校する。誰もいない教室が好きだからだ。
 
 自分の席につくと、教科書がたっぷり入ったリュックから、文庫本を1冊取り出して、読みかけのページを開く。
 
 本は嘘みたいだから好きだった。いや、嘘みたいな本が好きだと言った方が正しいかもしれない。
 
 今読んでいる本の内容は、神様から嫌われてしまった天使が人間にされてしまい、天界に戻るために孤軍奮闘するという話だ。
 
 主人公の天使の境遇が、僕と似ていて共感できる。
 
 軽く10回は読んだと思うが、何度読んでも飽きない。
 
「それ、『天乞い』でしょ」
 
 背後からいきなり声をかけられて、思わず振り向くと、そこにはセーラー服を着た見知らぬ少女が立っていた。本に集中しすぎて、彼女がすぐそばにいることに全く気がつかなかった。
 
「その本、図書館のやつ? それとも君が買ったの? あー、でも図書館に置いてあるやつより少し古い気がする」
 
 少女は屈託のない笑顔で、立て続けに僕に質問してきた。まるで以前から僕と知り合っているかのように。気がつくと彼女は僕の前の席の机に腰掛けていた。
 
「あの、」
 
 口がうまく動かない。
 
「ん?」
 
「君さ、誰なの?」
 
「ああ、私は紺野歩希。君の隣のクラス」
 
 紺野と名乗る少女はそれだけ言うと「で、その本は君の?」とさっきと同じ質問を僕にぶつけた。
 
「そう、だけど」
 
 小さな声で答えたが、誰もいない教室では響きすぎてしまった。
 
 こういう時、どういう反応が正解なのかわからない。彼女は、僕に何を求めているのだろうか。僕は今どんな顔をしているのか。本物の地球人だったら、一体なんて返すのだろう。
 
「教えてよ、君がどうやってその宝物を見つけたのか」
 
 頭の中でぐるぐると考えている間に、紺野歩希は既に僕に新しい難題を問いかけている。

第2話

 すうっと息を吐く。呼吸を整えないと、うまく頭の中を整理することができない。
 
「最初は、図書館で見つけたんだ。黒い表紙の本が好きで、『天乞い』もそうだったから。それで、そのまま読んで、それで」
 
 それでも言葉がうまく出てこない。やっぱりだめだ。どうしても人間の言葉は僕には合わない。早く喋ろうと焦れば焦るほど、思ってることは声にならない。
 
 紺野歩希の顔をチラッと見ると、僕が思っているよりもなんともない顔をしていた。急かしているようでもないし、待っているようでもない。その顔を見て、もう少しだけならなんとかなるかもと思えてきた。
 
「それで、話の内容も面白かったから、手元に置いておきたくなった。でも、近所の本屋さんには置いてなかった。だから、ネットで調べてみたんだ。それでもなくて、だけど、たまたま入った駅前の古本屋さんに置いてあってそこで買った」
 
 なんとか、言いたいことを全部言い終えることが出来た。紺野の顔色はさっきから全く変わることなく、ただ微笑んでいる。
 
「赤鬼の看板のお店?」
「うん、そう、それ」
「おかしいなあ、私もそこのお店は何度も通ってるのに」
 
 紺野は僕の話を最後まで聞き終えると、独り言なのか僕に話しかけてるのか全くわからない声音でブツブツと呟き始めた。
 
 それにしても、僕以外に『天乞い』を知っている人がいるなんて。元々僕は人付き合いをしない方だが、それにしてもこの本はあまり有名ではないっぽい。ネットで調べてもレビューどころか本紹介さえ書かれていない。著者は滝川克彦という名前らしいのだが、彼の情報もどこを探しても見当たらなかった。
 
「君、これは読んだことある?」
 
 紺野は人とおりブツブツと唱え終えると、リュックの中から一冊の文庫本を取り出した。その本には『ぱらぱらぱれりん 著 滝川克彦』と書かれている。
 
「い、いや、読んだことない。この本の存在を知ったのも初めてだ」
「私も最近これを見つけたんだよ。それこそ、あの鬼の看板の古本屋で。でも、共有できる人がずっといなかった。そりゃ、こんなマイナーな本を読んでいる人なんていないもん」
 
 滝川克彦の素晴らしさを知っている人が身近にいるなんて、僕も思いもしなかった。そもそも、こうして人と本の素晴らしさを語ることも、僕にとっては不思議なことだった。
 
 なんとなく紺野という存在にも慣れてきたので、初めてまじまじと彼女の顔を見てみる。さっきまでは全く気づかなかったが、とても大きな瞳の女だ。宇宙の向こう側のようで、この世の全てを吸い込んでしまいそうだった。その綺麗な藍色の瞳を、それ以上直視することが出来ず、視線を髪の毛にずらす。肩まで伸ばした髪は、よく晴れた日の夜空のように透き通っていた。 
 
「君は滝川克彦の本を読んでいた」 
 
 僕の視線を全く気にすることなく、紺野は話を続ける。
 
「君って、宇宙人って呼ばれてるんでしょ」
 
 急に紺野が話題を変えた。
 
 いくら聞きなれたあだ名でも、初めて会う人間にその話をされるとは思ってもみなかった。
 
「そうだけど」
「そっか、噂が本当で良かった」
 
 何が良かったのか。紺野はさっきからすごく楽しそうに笑っている。僕の話を聞いている時よりもずっと。
 
「私も実は宇宙人なんだ」
 
 何を言うかと思えば。こいつが宇宙人? 僕をからかっているのだろうか。でも、紺野の目には一点の曇りもない。
 
「だから君を見つけられたのかな。それとも、滝川克彦の本が宇宙人の教科書とか?」
 
 僕の反応を気にすることなく、また紺野は自分の世界に没頭している。
 
「ほ、本当に宇宙人なの?」
「うん、多分ね。」
「じゃあ、証拠は?」
「あ、疑ってるねえ。いいよ、放課後私の家に来なよ。いいもの見せてあげる」
 
 呆気に取られているうちに、話はとんとん拍子で進み、紺野は「じゃあ、放課後にね」とだけ言ってそのまま教室から出て行った。
 
 どれくらいの時間僕らは話していただろうか。すごく長い時間話していたような感覚だが、教室にはまだ誰も来ていない。ということは、ほんの5分程度しか会話をしていないということだろう。
 
 母らしき人物以外の人間(彼女は自分を宇宙人と呼んでいたが、とりあえず今は人間ということにしておこう)と長い会話をしたのは初めてだった。
 
 もしかしたら、紺野は本当に宇宙人なのかもしれない。そうじゃなきゃ、僕がこんなに話せるはずもない。いや、やっぱりそんなことあるわけがない。同じ学校に2人も宇宙人がいるなんておかしい。
 
 僕は、紺野歩希が放った一言に惑わされながら、長い1日を過ごそうとしていた。

第3話

 その日の放課後は、人生で1番騒がしい放課後になった。
 
 ホームルームを終え、席から立ち上がった瞬間、ドアの向こうから「宇宙人君! 帰ろう!」と大きな声で叫ぶ声がする。顔を見なくても、その声の主が紺野歩希だとわかる。6歳から学校生活を送ってきたが、一度も誰かに帰ろうと言われたことなんてなかった。そんなことを言う奴は、今日初めて話しかけてきた紺野以外いるはずがなかった。
 
 そう思っているのは僕だけではない。クラスメイトたちは僕と紺野を交互に見比べてはコソコソ話にもなっていない声量で話し始める。
 
「おい、紺野歩希が宇宙人に話しかけてる」
「なんであんな美人があいつなんかに」
「パシリにでもされてるんじゃねえのか」
 
 実際、クラスメイトたちが不思議がるのもわかる。僕と紺野にはなんの接点もない。
 
「おい、宇宙人君」
 
 ドアの向こうにいる紺野だけが、この意味深な空気の中で異質な存在だった。
 
「人間がうるさいから早く行くぞ」
「う、うん」
 
 周りの目など気にすることなく、紺野はさっさと玄関まで歩く。未だに教室はざわめいていたが、僕も教室を後にした。急いで玄関まで向かうと、紺野はもう上履きからローファーに履き替えていた。
 
「遅いよ宇宙人君。時間は無限にあるわけじゃないんだよ」
「わかってるよ」
 
 今にも走り出しそうな紺野に置いていかれないように、急いで外靴に履き替える。
 
「そんなことより」
「なんだい宇宙人君」
「その宇宙人君って呼び方やめてくれよ。僕にだってちゃんとした名前があるんだ」
 
 まるで何を言っているかわからないというような顔で、紺野は僕の顔を見つめる。
 
「私は君の名前を知らないから、仕方ないじゃないか。私が君について知っているのは、君が宇宙人と呼ばれていることと『天乞い』を知っているということだけなんだよ」
 
 確かに、そう言われてみれば僕はまだ紺野に名乗っていなかった。
 
「晴山若葉。僕の名前だ」
「よし、じゃあ晴山。早速私の家に行くぞ」
 
 いきなり呼び捨てなことも気になったが、まさか紺野の家に行くなんて思っても見なかった。
 
「晴山も気軽に紺野って呼んでよ」
 
 紺野は楽しそうに言い捨てると、玄関のドアを開け、早足で歩いていく。
 
 なんてマイペースで自分勝手な奴なんだ。それでも、なぜか反論する気は起きなかった。重いドアを体全部を使って開ける。外は夏の日差しに照らされ、ジリジリと僕の視界を揺らす。
 

 紺野の家は学校からそこまで遠くはなかった。無言で歩いていたが、気まずくなる前に到着した。
 
 紺野の家は、どこにでもありそうな一軒家で、宇宙人の住処とは到底思えない外観だった。
 
 紺野が家のドアの鍵を開けると、玄関には靴がまばらに散乱していた。靴箱の上には見たことのない置物が陳列されていて、生活感で溢れている。
 
「おじゃまします」
「はいどうぞ。今は誰もいないけどね」
 
 靴を脱ぎ、揃えてから紺野の後ろをついていく。掃除が行き届いたリビングを通過し、少し狭い階段を登ると、紺野の部屋らしき場所に案内された。部屋には小さなテーブルと簡易ベッド、それと本棚しか置かれていなかった。とりあえず鞄を部屋の隅に置き、テーブルの近くに腰掛ける。
 
「ここで待ってて、今お茶を用意するから」
「そんなものはいい」
 
 急いで部屋から出て行こうとする紺野を咄嗟に呼び止める。
 
「僕の質問に君はまだ答えていない」
「答えるまでもないよ」
 
 紺野は僕に背を向けたまま、真剣な声で呟いた。
 
「答えるまでもない。君ならわかる」
 
 紺野は振り返り、僕の正面に座る。
 
 僕の目を、覗き込むようにずっと見つめる。逸らせない。いや、逸らす必要がないと僕にはわかった。その目は、宇宙色に輝いていた。
 
 しばらくの間、僕らはお互いを見つめ合っていた。一言も言葉を交わさず、瞬きをすることすら惜しんだ。それはきっとほんの少しの時間だったろう。だが、僕たちがお互いのことを信用に値する存在だと認識するには十分すぎる時間だった。それは愛し合う人同士の逢瀬のようなものではない。もっと、遠くにあるような軌跡だ。
 
 小さい頃、宇宙人と人間が人差し指と人差し指をくっつけ合って友情を確認し合う映画を見た。でも、僕たちは触れ合わなくてもわかった。映画の登場人物は異種同士だったが、僕と紺野は同じなんだ。同じ星の生命体。
 
「紺野、君は孤独なんだね」
 
 交信を終え、最初に言葉を発したのは僕だった。
 
「晴山、君の目を見て私は確信したんだ」
 
 続けて紺野も口を開いた。2人の間にはさっきまでとは違う風が流れている。
 
「あの本はきっかけに過ぎない。私たちは出会うべきして出会ったんだ」
「君が僕を見つけた」
「私が見つけたんじゃない、君が光っていたんだよ。煌々と、まるで宇宙の中の1つの惑星のように」
「君の目が宇宙色だったから僕のことが見えたのかもしれない」
 
 しばらくお互いを見つけた感動に浸っていると「そうだ、見せたいものがあった」と今度こそ紺野は部屋を出て何かを探しに行った。

第4話

 紺野はすぐに部屋に戻ってきた。たくさんの小さな球体を抱えている。紺野は、それらの球体を壊さないように、そっとテーブルの上に置いた。
 
「これは、何?」
「見ればわかるよ」
 
 紺野に促され、球体の1つを手に取る。その球体は少しも歪みのないまんまるで、質感はビー玉に似ていた。はっきりとした紫色に、無数のキラキラが散りばめられている。一見スーパーボールのようだが、目を凝らして見つめると、その中は無数の星々がまるで息をするように煌めいていた。
 
「これは」
「晴山にはどう見える?」
「宇宙だよ、本当の宇宙みたいだ」
「やっぱり、そう言うと思ってた。私は、これを宇宙の球体と呼んでいる。何でできているかは全然わからないけど、家の押し入れの奥に入ってた。これを見つけた日から、私は宇宙人なんだと確信したんだ」
「宇宙の球体……」 
「私は、宇宙の球体は宇宙人の魂なんじゃないかと思ってるの」
「魂?」
「うん、他の球体も見てくれる?」
 
 手に持ってる球体とは、別のものを手に取ってみる。それは、さっき持っていた球体とは全く違う輝きを放っていた。さっきまでの球体は、紫色の中に黄金の星が煌めいていたが、今手にしている球体は、オレンジ色の中に灰色の隕石みたいなものが散らばっている。
 
「まるで、生きているみたいだな」
「そうでしょ。私はこの球体が、宇宙人の生きた証として残したものなんじゃないかって考えてるわけ」
「もしそうだとしたら、僕たちも宇宙の球体になれるのかな」
「当たり前じゃん、宇宙人なんだから」
 
 それから、僕と紺野は会話をやめ、宇宙の球体を観察した。金色のものもあれば、少しの輝きもない漆黒の球体、どれも全く違う輝きだった。
 
「あ、これ」
 
 僕は1つの球体を見つけた。その球体は、全体は濃い藍色なのだが、小さく黒い粒子がふわふわと浮いている。
 
「この球体、まるで紺野みたいだな」
 藍色の球体を紺野に渡す。
「ふうん、晴山には私がこんな風に見えているんだ」
 
 紺野は藍色の球体を持ちあげ、食い入るように眺めるとそれを傍に置き、テーブルの上の球体を物色し始めた。
「じゃあ、晴山はこれだ」
 
 今度は紺野が1つの宇宙の球体を僕に渡した。
 その球体は深緑色で、透明な霧が全体を覆っていた。
 
「晴山は絶対にそれだ。きっとその球体は晴山の子孫の魂だよ」
 
 紺野は得意げに笑う。手渡された深緑色の宇宙の球体を見つめてみる。紺野の宇宙色の目には、僕が別の色の宇宙に見えているのか。そうだとしたら、僕はこんなに綺麗な色をした宇宙人なのか。
 
「その球体、晴山にあげるよ」
「え、でもこれは紺野の大切なものだろ」
「大切なものだから、晴山に持っていて欲しいんだよ。それに、その球体は晴山に似合ってるし」
 
 紺野は僕の手から深緑色の球体を奪い取り、無理やり僕の鞄の中に詰め込んだ。
 
「私はこれを入れておこう」
 そう言うと、藍色の宇宙の球体を自分の鞄の中にしまう。
 
「そろそろ帰ろうかな」
「わかった、気をつけて帰って」
「そういえば、なぜ僕が宇宙人と呼ばれてるって知ってたの?」
「笹野君が教えてくれたよ」
「そっか、じゃあまた」
「うん、また明日」
 
 あのまつ毛が異様に長い男は、クラスが変わっても僕のことを宇宙人と読んでいるのだな。
 
 そんなことを考えながら、家までの道を、ゆっくり、ただゆっくりと歩き続けた。 
 
 
 紺野の家で交信をしてから、僕たちはほぼ毎日一緒にいた。気がつけば夏も終わり、秋に差し掛かろうとしている。紅葉色の街並みは、紺野の家で見たオレンジ色の宇宙の球体によく似ていた。
 
 僕たちは、昼休みになるとロビーに集まり、宇宙の球体について話した。くだらない話もたくさんした。宇宙人は物理的な衝撃では死なないこと、宇宙食は食べないこと、血は黄緑色をしていて、暗闇でも見つけられるように光るということなど、お互いが知っている宇宙人について話し続けた。そして、何度もお互いの色をした宇宙の球体を見せ合った。
 
「宇宙の球体の話は誰にもしちゃダメだよ」
「僕に話し相手がいると思うか?」
「確かに」
 
 休みの日には図書館に行き、宇宙の本を読んだり、小説を読んだ。紺野からもよく本を借りた。前に話をしていた『ぱらぱらぱれりん』は、内容のほとんどが頭に入ってこないほど、とち狂った話だった。紺野は僕に本の感想を求めたが、「気持ち悪かった」と言うことしかできず、紺野は不満げに頬を膨らませた。
 
 放課後には紺野の家に行き、様々な宇宙の球体の観察に勤しんだ。周りの人類は急に親しくなった僕と紺野を見て、ヒソヒソと噂をしていたが、何も気にならなかった。
 
 僕は生まれ変わった気分だった。迎えを待つ宇宙人から、仲間を見つけた宇宙人になり、気持ちは高揚していた。僕と紺野のことは僕らだけにわかっていればいい。心からそう思えた。
 
 紺野の家では、一度も家族の姿は見かけなかった。それに、家族の話もしなかった。特に興味はなかったし、紺野の方も僕に何かを質問してくることもなかった。
 
 僕たちはただ、いつまでも宇宙の球体を眺めていた。紺野の家から自分の家に帰っても、僕はずっと深緑色の球体を手に持って過ごした。すっぽりと掌に収まるその球体が、僕が紛れもない宇宙人であるという証拠な気がして、寝るときでさえ握りしめていた。そうすると、安心して眠ることができた。
 
 紺野も、そうしているのだろうか。そうであったらいいなと思う。紺野は、僕とは違う。多分、友達もいて、きっと宇宙に帰らなくても、そのまま生きていける。でも、どうしようもない孤独が襲ってくる夜があるのなら、それを拭い去るように、あの紺野によく似た藍色の球体を抱きしめて、布団の中でうずくまっていて欲しい。
  
 布団の中から腕を出し、球体を持ったまま、掌を天井に伸ばす。早く惑星に帰りたいな。願いを込めて、目を閉じる。紺野が待つ朝に着くように。

第5話

 冬になっても、僕と紺野は変わらないままだった。ただ、変わらなくても変わっていくものはある。
 
「おい、宇宙人」
 
 廊下を歩いていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。振り返ると、そこにはまつ毛が異様に長い笹野恭平が立っていた。僕を憎々しげに睨みつけている。
 
「やあ、久しぶり、笹野君。中学に入ってから話すのは初めてだね」
「お前、調子に乗るなよ」
 
 それだけ吐き捨てると、笹野は大股で立ち去った。一体何だと言うのか。
 
「晴山!」
 笹野がいなくなり、すぐに紺野がいつものように僕の肩を強く叩く。でもいつもよりもその力は強い気がした。
 
「おう、なんだ」
「大切な話がある」
  
 いつものふざけた薄ら笑いは紺野の顔には浮かんでいない。「あとで家に来て」とだけ言って、紺野は僕を置いて先に玄関へと向かった。
 
 もう紺野の家にも通い慣れたものだ。1人で行っても迷うことはない。
 歩いて10分くらいで紺野の家にはついた。ドアノブに手を回す。鍵はかかっていない。
 
「お邪魔します」
 内側からドアに鍵をかける。部屋で待っているであろう紺野の元へ向かう。部屋のドアを開けると、紺野はベッドに腰掛けていた。その顔つきは、どこか憂いを帯びている。
 
「遅かったね、晴山」
「君が帰るのが早すぎるんだ」
 
 お決まりの軽口を交わしながら、僕もテーブルの近くに腰掛けた。
 
「それで、大事な話ってなんだ」
「うん、実はこれを晴山に見せたかったんだ」
 
 紺野は徐にベッドの下から何かを取り出した。
 それは、小さな果物ナイフだった。
 
「りんごの皮でも剥くのか」
「そんなことが大事な話なわけないだろう」
 
 僕の冗談に呆れつつ、紺野は手の中で果物ナイフを弄ぶ。
 
「人間は危険だ」 
 果物ナイフを見つめながら、紺野はポツリと呟いた。
 
「人間は、私たちを物理的に攻撃する。自分の醜さを棚に上げて、気に食わないものに刃を向ける。だから、私たちにも武器が必要なんだ。自分を守るための小さな武器が」
「何かされたのか」
 紺野は首を横に振る。
「何かされてからじゃ遅いんだ。晴山、君もわかっているでしょ。私たちが孤独だったのは、人間の見えない刃が私たちを苦しめてきたからなんだよ」
 
 紺野の言いたいことはわかる。直接的じゃないにしても、僕は周りの人間から避けられて生きてきた。親と呼んでいる人は、今の僕を見ようともしない。今でこそ、それらのことは僕にとってどうでもいいことだが、もし、どれか1つでも埋まっていたら、僕の心は空っぽじゃなかったかもしれない。宇宙人じゃなかったかもしれない。
 
 でも、紺野は僕が知っている限り、そんな悩みとは無縁の人間に思えた。紺野の宇宙色の目は確かに孤独を訴えているが、彼女の孤独の理由を僕は知らないままだ。
 
 紺野は深く息を吸った。
 
「今朝、母に宇宙の球体を捨てられた」
 
 今にも雫がこぼれ落ちそうなその瞳は、空虚を見つめていた。
 
「こんなくだらないもの、いつまでも持っていないで勉強しなさいって。母はそう言って、燃えるゴミに宇宙の球体を全て捨てた」
 
 紺野は、僕と出会ってから初めて母親について語った。
 
「紺色の球体は……?」
「あれは私の鞄の中に入っていたから、気づかれずに済んだ。だからもう宇宙の球体は2つしかないんだ」
 
 僕たちの間に重たい沈黙が流れる。でも、僕の言いたいことはとっくのとうに決まっていた。
 
「2つあれば充分だよ」
「え?」
 その日、紺野は初めて僕の目を見た。
「僕と君の2つの球体があれば、それで充分じゃないか」
  
 リュックから深緑色の球体を取り出し、紺野に渡す。紺野の大きな宇宙から、雫が一粒流れ落ちた。
 
「そうだ、そうだったね」
 
 紺野は小さく笑い、今度は自分の鞄から紺色の球体を取り出して僕に渡してくれた。2つの球体は、静かに、時に力強く僕と紺野を照らした。
 
「このナイフは晴山にあげるよ」
「いや、いらないよ」
「りんごの皮でも剥けばいい」
 
 紺野が僕にナイフを押し付ける。いつものように楽しそうな笑顔で。
 
 僕たちはその日、床に寝転がってずっとお互いの球体を見ていた。紺野の部屋はいつにも増して音が無く、まるで世界に2人しか呼吸をしていないみたいだった。

第6話

『お前の大事なものは預かった。返してほしければ23時に学校の屋上まで来い』
 
 授業をすべて終え、帰り支度をしようとリュックを開けると、乱雑な文字で書かれたメモ帳が入れられていた。
 
 嫌な予感がしてリュックの中をくまなく確認する。
 
 ない、僕の球体が。
 いつだ、いつ盗られた?
 
 考えるよりも先に足が勝手に動いていた。教室を飛び出し、紺野のもとへと向かう。
 
 廊下の向こう側から顔を真っ青にした紺野が、僕に駆け寄って来るの。手には小さな紙切れを持っていた。
 
 俯きながら、紺野は僕にその紙切れを黙って手渡す。紙切れには僕のリュックに入っていたメモ帳と全く同じ内容が記されていた。
 
「球体、ないのか?」
 
 紺野は両拳を強く握りしめ、首を縦に振った。歯を食いしばっている。怒りをどうにか抑えようとしているみたいだ。さっきまで泣いていたに違いない。目はひどく腫れていた。その赤く腫らした藍色の目を、今は憎しみの炎で燃やしている。
 
「今はどうすることもできない。とにかく23時まで待とう」
「晴山は来れるの?」
「僕の家には朝も夜も親がいない。児玉の方こそ大丈夫か?」
「私も、晴山と一緒」
「じゃあ、23時に校門で会おう」
「うん、約束」
 
 そして僕たちは別々に家まで帰った。パラパラと雪が振っている。僕の足跡がアスファルトに刻まれ、また雪が隠す。それを何度か繰り返して、家についた。腕時計で時間を確認する。まだ16時。紺野はもう家に帰っただろうか。
 
 制服のままベッドに体を預ける。何もする気が起きなかった。目を瞑っても全く眠れない。居ても立っても居られないのに、何もできないのはこんなにも辛いのか。自分の無力さに苛立ちが募る。
 
「くそっ!」
 
 怒りのあまり、壁を思い切り殴った。どこにぶつければいいかわからないこの気持ちが、少しでも沈むかと思ったが、どうやら逆効果だったようだ。拳が痛い。壁も痛いことだろう。
 
 それからもずっと、何もできずに時計の秒針と心臓の音をひたすら数えていた。

 地獄のような時間を過ごし、ようやく約束の時間になった。冬の夜は冷え切っており、制服だけでは寒かったので、黒色のダッフルコートに白いマフラーを身につけた。
 
 家から校門まで走る。時刻は22時50分。紺野の姿はまだなかった。ダッフルコートの右ポケットには、以前紺野からもらった果物ナイフを入れておいた。ナイフをお守りのように強く握りしめる。
 
「おまたせ」
 5分後、紺野はセーラー服に白いステンカラーコートを着て現れた。
「じゃあ、行こうか」
 
 どちらから言うでもなく僕らは手を繋いで校舎の中へ向かった。はぐれてしまわぬように、しっかりと紺野の右手を掴んだ。紺野の横顔には、放課後の時のような怒りは感じられず、冷静な印象を受けた。
 
 ゆっくりと玄関のドアを開ける、真夜中だからだろうか。いつも過ごしている学校が違う建物の用に感じる。教室も図書室も、理科室もなんだか不気味な雰囲気をまとっているようだ。僕たちは階段を音を立てないように1段1段丁寧に上がった。
 
「こんな状況じゃなければ真夜中の学校なんて最高の冒険だったのにね」
「そもそも真夜中に学校に入れることを初めて知ったよ」
「セキュリティがガバガバだなあ」
 
 僕を励まそうとしてくれているのか、紺野はいつも通り楽しそうに僕に話しかけてきた。その言葉とは裏腹に、紺野の右手からは冷たい緊張感を感じる。
 
「晴山は見かけによらず体温が高いんだね」
 僕の左手を見て微笑む。
「晴山と私はいつも正反対だ」
 いつになく饒舌な紺野の呟きに、僕はただ頷くことしかできなかった。
 
 あっという間に2階、3階、ついに屋上の扉の前まで来てしまった。隣でゴクンと生唾を飲む音が聞こえる。
 
「開けるぞ……」
 
 紺野の返事を聞く前に、重たい鉄の扉を体全体で開ける。ギギィッと鉄の錆びついた嫌な音が耳に残った。
 

第7話

「遅かったじゃないか」
 
 大きな満月。無数の星たち、そして真っ青なダウンジャケットを着た笹野恭平が、僕たちを待ち構えていた。
 
「やっぱり君か」
 
 薄々勘づいてはいた。僕にここまでの嫌がらせをしてくるやつなんて1人しかいない。ただ、ここまで手の込んだことをしてきたのはこれが初めてだ。
 
「宇宙人君、紺野歩希、よく来たなあ。そんなにこれが大事かい?」
 
 笹野はズボンのポケットから2つの球体を取り出していやらしく笑う。まぎれもなくそれは僕たち2人の宇宙の球体だった。
 
「球体を返して!」
 
 先程まで落ち着き払っていた紺野が、球体を目にした瞬は声を荒げた。
「はは、大げさだなあ」
 
 笹野は薄汚い笑顔のまま、2つの球体を片手で弄に。
 
「お前らの話はな、放課後も昼休みもずっと聞いていたんだ。宇宙人やら宇宙の球体やら楽しそうに話していたもんなあ」
 
 まるでスポットライトのように、満月が笹野を照らす。
 
「何が宇宙人だ、馬鹿馬鹿しい。こんな汚いガラス玉をニヤニヤ見つめて気持ち悪いんだよ。おい、晴山。お前は確かに宇宙人だよ。だがな、特別な存在ってわけじゃない、お前はただあぶれた欠陥品なんだよ。欠陥品ごときが幸せそうにヘラヘラ笑って生きてるんじゃねえよ!」
 
 笹野は今まで見たことないほどの憎悪の眼差しで僕を睨みつけている。
 
「笹野君、僕が君に何をしたっていうんだ」
「理由なんてねえ、ただ気に食わねえんだ」
「なんだそれは。答えになってないじゃないか」
「そもそもお前がなんで歩希の特別なんだ」
「どういうことだ」
 
 言われている意味が全くわからなかった。なぜここで紺野の話になるのか。
 
「俺はずっと歩希が好きだった。お前らがつるむ前からずっとだ。何度も告白をして、何度も振られて。そんなのは仕方ない。でも、なぜお前に負ける」
 
 笹野の目に憎しみが込められていく。
 それなのに、僕はなぜか他人の話を聞いているようだった。だって、それは本当に僕には関係のない話に聞こえたから。
 
「俺じゃなくて、なんでお前だ。おかしいだろ。お前に負けているところなんて1つもない。俺がお前に負けるわけがないんだよ!」
 
 静かな屋上で、笹野の声だけが響き渡る。
 
「幼稚な男」
 紺野がやっと口を開いた。冷静と興奮の間にいるのか、目では笹野を睨みつけたままだが、口調を落ち着きを取り戻していた。
 
「本当にくだらない。晴山は私の魂の片割れだ。そこらのクズな人間とはわけが違う。それに、お前みたいな卑怯なやつと違って晴山は私のことを笑ったり騙したりしない。私の大切なものを馬鹿にしたりしない。私の薄っぺらい薄橙色の皮の向こうを見てくれるんだ。お前みたいに私の容姿だけを見て人格を判断しないんだ。欠陥品はお前の方だ」
「なんだと……」
 
 笹野の顔が真っ赤に染まる。青色のダウンジャケットのせいで、夜なのにきちんと赤だとわかるくらいに。
 
「こっちが優しくしてりゃいい気になりやがって。所詮宇宙人とつるむやつなんてろくな女じゃねえんだ」
 
 笹野の敵意は僕ではなく、僕と紺野にシフトチェンジしたようだ。
 紺野が僕の左手をさっきよりも強く握った。
 
「そっちがその気ならお前らの大事にしてるもんなんて全部ぶっ壊してやるよ!」
 
 笹野は球体を持っている方の腕を天に向けた。
 まさか……。
 
「やめろ!」
 僕が叫ぶのと同時に笹野は腕を思いっきり地面に向けて振りかぶった。
 パリン!
 ガラスが割れる音が、僕たちの鼓膜を振動させる。
 
 視界には、かつて宇宙の球体だったものが深緑と藍色の砂となって雪と混ざり合っていた。もうそれは、僕たちが憧れを抱いた宇宙ではなかった。掌の宇宙はこれで全て消滅してしまったのだ。
 
「どうだ、宇宙なんてねえんだ。お前らが信じるものなんて所詮この程度なんだよ」
 
 笹野は勝ち誇ったように笑っている。
 僕の心の中では、到底言葉にできないような感情がぐるぐる回っていた。怒りとも悲しみともわからない泥の中にあるような汚い感情だ。
 この感情を、少しでも早く共有しなければ、僕は。
 急いで紺野の顔を覗く。
 
「紺野……」
 
 そこにはもう、かつて僕が見た藍色の宇宙はなくなっていた。紺野の目には一点の光もなく、暗黒と呼ぶにふさわしい瞳になってしまった。
 
「悲しいか? 悔しいか? 所詮お前らは宇宙人でもなんでもねえんだよ。ただの欠陥品だ。これからは宇宙人じゃなくて2人仲良く欠陥品って呼んでやるよ」
 
 笹野は愉快で仕方ないとでも言うように、足元の砂を何度も何度も踏み潰す。
 
「……してやる」
 聞こえないくらいの低い声が、隣から聞こえてくる。僕はもうその顔を見ることができない。
「あ? なんか言ったか?」
「宇宙人だって証明してやる。」

第8話

 紺野の芯のある声が屋上に響き渡る。
 
「おい、何をするつもりだ」
 
 嫌な予感がした。紺野に問いかけるも、何も返事が返って来ない。その真っ黒い瞳にはもう僕のことなど見えていないようだ。
 
「面白い、やってみろよ」
 笹野が挑発する
「お前ごときに何ができるって言うんだ」
「私は、人間の攻撃なんかに屈しない。お前が宇宙の球体を壊しても、宇宙の球体が夢だったわけじゃない」
 
 紺野が走り出す。笹野を通り越し、紺野は屋上を覆っているフェンスに手をかけ、闇雲に登り始めた。笹野の顔から余裕の表情が消える。
 
 フェンスの向こう側に紺野がいる。まるで僕と笹野とは違う空間にいる生物のようだ。紺野は空に背を向けている。あと1歩でも後ろに下がれば、きっと紺野の体は重力に負けてしまうだろう。
 
「私はここから落ちても死なない」
 紺野の声は随分遠くから聞こえた。
「宇宙人はどんな衝撃を受けようとも死なない。今からお前にそれを証明してやる」
「いいぜ、と、飛べよ」
 笹野は挑発するような素振りを見せたが、彼の体は僕から見てもはっきりとわかるくらいガタガタと震えていた。
 
「飛ぶな紺野!」
 なんとか声を出すことができた。 
「どうして?」
 紺野の2つの暗黒が僕を捉える。
「晴山も私が宇宙人じゃないと疑うの?」
「そうじゃない、そうじゃないけど」
「なら止めないで。私の決意は変わらない。それに落ちてもすぐに屋上に戻ってこれる。待っていて」
 
 僕にはもうどうすることもできなかった。これ以上何かを言ってしまえば、たとえ紺野が飛ぶのを辞めたとしても、僕たちは僕たちに戻れないような気がしたのだ。
 
 右ポケットに入った果物ナイフを握りしめる。紺野を見つめたまま。
 
 一瞬、児玉の目が藍色に光ったように見えた。初めて会ったときと同じ、宇宙色の瞳。でもそれは本当に一瞬の出来事だった。瞬きをした直後、目の前には藍色の宇宙も、紺野歩希もいなかった。
 
 グシャッと鈍い音が脳天を貫く。後は何も聞こえてこない。
 
「おい……本当に飛んだのかよ」
 
 笹野は腰が抜けたようにその場に崩れ落ちた。歯をカチカチ鳴らし、目には大粒の涙が浮かんでいる。
 
 先程まで紺野がいた場所へと歩く。フェンス越しに下を覗くと、雪に埋もれたアスファルトと、白いステンカラーコートが真っ赤に染まっている。そして、かつて紺野歩希と名乗っていた生命体がただの塊になって寝転がっていた。緑色の液体など、どこにも見当たらない。
 
 紺野歩希は人間だった。赤い血で染まる紺野を見て、僕はそのどうしようもないほど残酷な現実を1人で噛み締めていた。
 
 後ろを振り返ると、笹野はまだ崩れ落ちたままの状態でいる。僕は笹野の方に戻り、彼の目の前でしゃがみ込む。右ポケットに入っていた果物ナイフの刃を彼の体に向ける。

第9話

「お、お前……」
 まさか僕が刃物を持っていると思わなかったのだろう。笹野はナイフを見て目を大きく見開いた。
 
「君のせいで紺野は死んだ」
「俺のせいじゃない! あいつが自分の意志で勝手に死んだんじゃないか!」
「君が球体を壊したから、僕らの世界も歪んでしまった」
 
 果物ナイフを更に笹野に近づける。
「ヒイッ」
 悲鳴を上げ逃げようとするが、恐怖のあまり思うように体が動かず、ただガタガタと震えている。
 
 結局僕は果物ナイフをポケットにしまった。
「僕は君を殺さない。これは紺野にもらった物だから、君の体に触れて汚れてしまったら勿体無いからだ」
 ポケットの中で冷たく光るナイフは、まるで紺野の掌のようだ。
「それに、君が紺野と同じ日に死ぬなんてくだらないからな」
 
 笹野はもう何も言わなかった。まるで生きる屍のように、ただ呆然と地面を見つめている。
 
 僕は笹野を置いて屋上を後にし、紺野と2人で来た道を1人で戻った。左手も今はひとりぼっちだ。
 
 外に出ると、雪は来た時よりも積もっていた。紺野の体を探す。キョロキョロ周りを見渡すと、白い雪には似つかわしくない赤色があった。
 
「紺野……」
 雪がクッションになったのだろうか。後頭部からの出血以外、紺野にこれといって目立つ外傷は見当たらなかった。大量の血液がなければ、仰向けに倒れている紺野は、ただ眠っているようにも見えた。だが、彼女の宇宙はもう二度と開かない。僕を救ったあの藍色は、もう二度と楽しげに笑うことはないのだ。
 
「馬鹿だなあ、紺野は」
 先程までかすかに体温があった右手に触れる。
「君に出会うまでの僕は、1人でだって生きていけた。でも君に出会ってからの僕は、1人でいることが怖くなってしまったんだ。もともと1人だったけど、誰かの温もりを知ってしまった今、もう元には戻れない」
 
 再び、ポケットから果物ナイフを取り出し、今度は自分の心臓に刃を突きつけた。
「本当に馬鹿だよ。紺野が宇宙人じゃなくても、僕が宇宙人じゃなくても、それでもよかったじゃないか」
 紺野は何も答えない。
「でもやっぱり、僕も馬鹿だ」
 
 ナイフを持った手に強く力を込める。必ず、同じ所へ行けるように。こんな小さな刃でも貫けるように。
 
 息を止め、体にナイフを押し込む。瞬間、激しい痛みが襲ってきた。口からドロっとした液体が垂れてくる。も左手で液体を拭うと、それはとても綺麗な赤色をしていた。ああ、僕もやっぱり人間だったんだなあ。
 
 ついに自分の力では体重を支えきれなくなり、紺野の死体に覆いかぶさる。体からはどんどん赤色の血液が溢れ出している。
 そこで意識は途絶えた。
 
 

 2つの真っ赤な青春は、まるで抱きしめ合うように重なり合う。少年の左手と少女の右手はいつまでも固く握りしめ合っていた。けしてはぐれぬよう、必ず同じ場所でまた出会えるように。 

最終話

 締切に追われているにもかかわらず、滝川克彦は久々に地元に帰省していた。特にスランプというわけではないが、書きたいことが思い浮かばない。
 
 特にやることもないのでぶらぶらと散歩をする。昔通っていた中学校が目の前で克彦を見下ろしている。
 
 遠くの方で何かきらきら光っているものが見える。
 
「なんじゃこりゃ」
 
 きらきらしたものを掴んで太陽に透かしてみると、それは遠くで見つけた時よりも更にきらきらしていた。それは非常に丸く、スーパーボールのような見た目をしているが、質感はガラス玉のようだ。
 
 生まれて初めてこんな綺麗なものを見た。その丸の半分は、星が降り注ぐ夜空のような藍色をしていて、そしてもう半分は、草木が生い茂る大地のような深緑色で見事に混合していた。見れば見るほど不思議な色合いだ。
 
「まるで、宇宙みたいだな」
 
 世の中に知れ渡っている宇宙とはかけ離れた色だったが、なぜかその丸は克彦に宇宙を連想させた。掌に収まる宇宙。幻想的で、ずっと見ていたかった。
 
 辺りを見渡し、誰も見ていないことを確認してから丸い宇宙をパーカーのポケットの中に忍び込ませる。家に帰ってじっくりと観察しなければ。
 
「良いアイデアが浮かびそうだ」
 
 生まれた星が違う2人の宇宙人が、地球で巡り合い、手を取り合って争ったり切磋琢磨をしながら、最終的に1つの宇宙となって混ざり合う話。
 
 止まらないアイデアに思わず顔がにやけてしまう。
 
「俺もいつか宇宙になりてえな」
 
 克彦は呟く。
 
「よし、タイトルは『掌の宇宙』だ」
 
 手には2人を握りしめたまま。

ー完ー