• 『クレモナの異彩~ミケランジェロの弟子』

  • 西川佳苗
    青春

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    生涯忘れ得ぬ師と彼女の舌戦や琴線に触れた束の間のやりとりとは。芸術を愛して止まない者たち故の心の葛藤と、本能的な惹き合い、その顚末。

第1 話「序章 異国で()の人を想う」

キャンバスから時折覗く、モデルの本質を突くような、冷静な視線が女性にしては鋭い。
絵画という表現に対する熱い情熱が、彼女の手が走らせる絵筆に途切れることなく滾っていた。引き結んだ唇、なだらかな稜線を描く太い眉は、意志が強そうに見せるのと同時に、頑固な職人魂をうかがわせる。キャンバスに描かれた覇王のほうが、威厳がありながらもリラックスした、穏やかな表情をしている。彼女がたった今描き終えたばかりの両の目は、遠く海の向こうの新世界に思いを馳せる冒険者のように、生き生き輝いて見える。
「巨匠ミケランジェロに師事した君だ。完成を楽しみにしている」
 スペイン宮廷お抱え画家として新しく迎え入れられたソフォニスバ・アングイッソラがこの日モデルにしていたのは、スペイン国王フェリペ二世その人だった。後に無敵艦隊を誇ったヨーロッパの覇者。完成した肖像画を気に入ったフェリペ二世は、自らの三人めの妻エリザベス・オブ・ヴァロワの肖像も、彼女に託している。
もちろん(シィ、セニョ)です(ール)
 言われるまでもない。真剣そのもののソフォニスバの脳裏には、気まずいまま遠く国を隔てて離れ離れになった、師から授けられた助言の数々がこびりついていた。
 いいかソフォニスバ、――出会ってから別れるまで彼女を決して子ども扱いしなかった石頭の老匠の声は年相応にしゃがれていたが、彼の言葉には、創作に対する情熱をいつまでも失わない者の力強さがみなぎっていた。――あれは、情愛だったはずだ。
『大切なことは、立ち止まり、考え、筆を止めることではない。なるべく大勢の、後世の人々に作品を見てもらうことだ。依頼に応え続けなさい。依頼主を絶やさず、自らに描き続ける道を課すんだ。女性に生まれたからと禁じられた些細な術など、君には必要ない』
 生涯己の道を貫いたミケランジェロだったが、六十近く歳が離れたソフォニスバ相手にかっこうつけることなく、彼女相手に嘆いても見せる、とかく人間くさい男だった。
『私が好きなのは大理石だ。描きたいんじゃない、彫りたいのに、絵を描けと人は言う』
 贅沢な悩みだと人は言うだろう。ソフォニスバやミケランジェロ本人、あるいは創作の道に魂を捧げることを運命づけられた、生まれついての芸術家にしか共感し得ない葛藤だった。ソフォニスバもまた、若くして生涯を苦しい道に捧げる決意は固かった。
(私は、描き続ける)
 いつかまた、彼に認められる絵を描けたなら――。九十三歳で大往生するまで、生涯、絵を描くことに心血を注いだソフォニスバは、独身のまま三十に成ろうとしていた。
時は十六世紀(チンクェチェント)。花開いてもう長いイタリア=ルネサンスだったが、ルターの宗教改革を発端に欧州では宗教対立が深刻になり、芸術の分野でも、万能人と名高いレオナルド・ダ・ヴィンチや天才ラファエロを縦続きに(うしな)い、イタリア戦争の足音も迫っている。
 冒頭からさかのぼること数年。一五五四年、物語の始まりは、永遠の都ローマ。
単独、カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂を訪れたソフォニスバは二十二歳。
 当時南翼廊近くにある礼拝堂、とある枢機卿の墓上に設置されていたそれ(・・)を眼前にした誰しもと同様、ソフォニスバも例に漏れず息を飲み、唯立ち尽くした。紅潮した頬が熱い。瞼の奥が痛い。母を亡くした直後も決壊しなかった、頑なな涙腺さえ観念したようだ。
(『聖母(マリア)さまの、白)だ――)
 大理石像、とひと言で表現するには、主イエスをその腕に抱いて鎮座した聖母マリアは、あまりにも躍動的で、今にも動き出しそうにソフォニスバの目に映った。
 大の大人とはいえ、十字架からようやく降ろされたばかりの、傷だらけの我が子を女の細腕に抱いて、伏し目がちに、悲痛な色(無論すべて大理石の乳白色だ)を湛えて、だがどこか誇らしげに見つめるその瞳には、魂が宿っているのではないかとすら錯覚させた。
イタリア=ルネサンスの寵児にして巨匠、ミケランジェロの傑作『ピエタ』を前に、彼女は涙を禁じ得なかった。文字通り、時を忘れてそれに見入った。
 もしかしたら、悪漢に財布かなにかすられたかも知れない。が、そんなことは問題ではなかった。巨匠ミケランジェロの彫刻の中でも最高傑作と言って過言でないそれを、余すところなく鑑賞するには、時間がいくらあっても足らない。マリアの服のドレープの量感といったらどうだ。言葉にならない。深い溜め息が漏れた。まるで恋に思い悩む乙女だ。
ミレディ(お嬢さん)
 ソフォニスバに、背後から話しかける老人があった。老人と形容するには逞しい体格をしている上、彼女を呼んだその声は力強く、若々しい。少々猫背だったが、上背もある。
「どこかおかしなところでも?」
「いいえ……いいえ、完璧です。今にもマリアの目から涙がこぼれ落ちそう」
 そうすれば、イエスの腕はだらりと地に落ちて、母マリアは絶望し、息子の血で濡れた両手で顔を覆うにちがいない。ミケランジェロの彫刻には物語が、否、人生が宿っていた。
 瞬きすら忘れてピエタ像から目を離さずそう語るソフォニスバに感心したのか、老人は「来なさい」と促して、まだ大理石像に心奪われてぽうっと放心状態の彼女をシスティナ礼拝堂に案内した。それらは、圧倒的熱量、情報量、激情を以て立ち入る者を迎えた。
天井が高い。目の前、奥正面の壁には『最後の審判』、天井一面に描かれたフレスコ画を仰ぐ首が痛い。圧巻という言葉は、この空間のためにあるにちがいない。そう確信した。
「どうかね」
「ここで生涯を過ごしたいくらいだわ」
 アダムの創造、最後の審判。ソフォニスバもよく知る、キリスト教世界の聖書すべての物語が、そこに壮大なスケールで描かれていた。老人が可笑しがった。
「ここに住めるのは枢機卿に限られている。それもコンクラーベが行われる一時だけだ」
「まさか……マエストロ、――ミケランジェロ・ブオナローティ?」
 それが、ソフォニスバ生涯の恩師、ミケランジェロとの出会いだった。
「君は、絵を描くのか」
 ソフォニスバの利き手に筆だこを認めたミケランジェロは、改めて彼女の顔を正面からまじまじと見つめた。噂に違わず、ミケランジェロは遠慮のない人物だった。
「どう思うね」
「完璧だわ」
 訊ねられたからぱっと浮かんだ言葉を口にしたまでだったが、実際にはソフォニスバの感性はパンクしたか、麻痺してしまったかで、あまりのインプット量に情報が整理できず、いつもは小気味よく働く機知だって微塵も活躍しなかった。
「ミレディ。完璧など、この世界には存在しない」
 ミケランジェロの声が翳りを帯びた。完璧、と評したのが気に食わなかったのだろうか。我に返り、弁解しようとしたソフォニスバが他の言葉を探して伝え直そうとした時には、稀代のマエストロはとっくに姿を消した後だった。

(行ってしまわれた――)

第2話 出発点、そして分岐点

 ソフォニスバが単身ローマを訪れた経緯を語るには、時と、舞台を北に戻さねばならない。
 一五三二年。ソフォニスバ・アングイッソラは、イタリア北部の小さな都市クレモナの下級貴族アミルカーレ・アングイッソラの長女として生を受けた。生まれながら恵まれていたとは言い難い。彼女が物心つくより前に母ビアンカが早逝したため、ソフォニスバは六人の妹弟たちの面倒を看るのに日々忙しく、母の死に涙に暮れる暇もなかった。
 家族八人分の洗濯物を侍女任せにするのはなんだか申し訳なくて、ソフォニスバは毎日のように手伝った(さすがに水仕事は止められた)。真っ白なシーツに陽の光が透ける。
きれい、――ロンバルディアの風に揺れる大量の洗濯物。その下に隠れて、陽に照らされた地面に棒っきれで落書きすれば時を忘れた。道端に我が物顔で居座る猫を描いたり、しんみりする時には、記憶を辿って一生懸命に母の面影を形にしようとした。
(お母さん――)
「お姉ちゃん、とっても上手! もっと描いて!」
 ある日、末っ子である、まだ歩き始めたばかりの弟の手を引いて姉を探しに来た妹たちにばれた。姉弟七人がそろって楽しそうにしていた現場は、すぐ父に見つかってしまった。
(お父さま、怒るかしら)
 亡き母を思い出すのか、長女ソフォニスバと、母に生き写しの次女エレーナとは、特に距離を置きがちだった父の顔が、予想に反してぱっと華やいだ。
「すごいじゃないか、ソフォニスバ!」
 アミルカーレが人前で彼女の行いを褒め称え、抱擁してくれたのは、母がいなくなって以来、初めてのことだった。父は、絵を描く時間も充実させるようにと、まだ幼いソフォニスバに画材の一式をそろえて与えた。生まれついて真面目なソフォニスバは、朝に晩に、起きている時間を家事仕事と絵仕事、めりはりをつけて意欲的に取り組むようになった。
 一方で、妹弟の面倒を人任せにせず自ら看る生活は、ソフォニスバに自立心と、当時の貴族の子女にしては珍しい自活力を培った。加えて、女も男と等しく教養深くあるべしと、女子教育について『宮廷人』を著したカスティリオーネの影響を受けた父アミルカーレは、亡き妻の願いをも叶えるべく、我が子に出来得る限りの教育を施そうと努めた。
「僕も絵を塗ってみたい!」
「私もー」
 最年長であるソフォニスバの描き方は我流だったが、妹弟たちに指導することで、自らも改善点を見出したり、より面白い手法や見方、描き方の追究に勤しんだりした。
 アングイッソラ家が邸を構えていたクレモナは、イタリアでも有数の文化都市である。大聖堂や教会の壁画はトスカーナや北部の都市と負けず劣らず、ルネサンス芸術の恩恵を受けて美しく彩られ、姉弟の感性を磨くのに事欠かなかった。
「おお、いいね。これはいい!」
 思慮深く、自身も教養深かったアミルカーレは、幼子らが生み出した作品群を、時には手放しで、時には真実良いところを目敏く見つけては褒めちぎった。亡き妻の面影を受け継いだ愛娘たちの、朗らかで愛らしい笑顔。姉弟らの自己肯定感を高める最高の家庭教育だったであろう。だが十にも満たない頃から、妹弟たちの世話をこなすことに達成感を感じ、責任感と負けん気の強かった長女ソフォニスバは、父の賞賛だけでは満足できなかった。常に向上心を絶やさないことを己に課し、高みを目指す、長子らしい娘に育った。
 ねえソフォニスバ、――すぐ下の妹、エレーナが不思議そうに訊ねた。
「その絵、まだ完成じゃないの?」
 ソフォニスバのすぐ傍らから、姉が木炭で紙片に描きつけた素描を覗き込む瞳が美しい。一方で、小さな作家は、少女に似つかわしくない、眉間に皺を寄せて険しい表情のまま、分厚い唇をへの字に尖らせて「うーん」と唸った。まだ幼い弟アスドルバルに母の肖像を贈りたかったのだが、思うように上手く描けない。パン屑で消しては描き、消しては描き足しを重ねているうちに、頭の中にあったはずの完成形が迷子になってきた。ソフォニスバは愛おしい妹をしげしげと見つめた。母ビアンカの、青白いが美しかった顔に重なる。
(母さま)
 当時の良家の子女としては肉づきが薄く骨太で、ひょろりと背が高かったソフォニスバは、クレモナの街を歩いて見て周るのを妹弟の誰よりも好んだ。よく陽の光にあたっていたが故に肌が浅黒いソフォニスバとちがって、妹エレーナは陶器のごとく白い肌をしていた。実質、母代わりを務めていたソフォニスバは、勤勉な父に似たのか、顔の輪郭までその厳つさが酷似しているようだった。妹の、母譲りの器量が眩しい。ソフォニスバなりに母が恋しかったのだろうか、彼女は傍にいたがるエレーナと片時も離れようとしなかった。
 きっかけは、ふたりが共作した一枚の絵だった。
「なにを描いているんだ」
「これ、父上とアスドルバルよ!」
 それは、アミルカーレが末の弟アスドルバルを抱き上げている場面だった。子どもの落書きに過ぎなかったが、躍動感や捻りの効いた身体の線が見事だ。感嘆したアミルカーレは「神よ!」と天に感謝した。彼は、ソフォニスバとエレーナに花嫁修業をさせる前に、クレモナに工房をかまえていたベルナルディーノ・カンピに師事できるようはからった。
「うわあ」
 工房を覗いた姉妹は、感嘆の声を抑えられなかった。広い工房(ボツテーガ)の中では、たくさんの徒弟(ガルツオーネ)がそれぞれの仕事に真剣に向き合っている。木目の細かい()(プラ)の板木を薄く削る者、顔料を溶く者、大理石を削ったり磨いたりする者。木くずや石粉に塗れて大勢が働く中で響く、(たがね)が石を打つ独特な音は素人にはなかなかきついものがある。
 イタリアで古きから根を張ってきたギルドや徒弟制度の下では女性が工房で他の徒弟たちと共に学ぶことは許されなかった。だが、姉妹の才がずば抜けて秀でているのは親方も認めるところであり、芸術家の妻らしく柔軟な思考を持つ婦人アンナの元、姉妹は特別にカンピ邸の台所を工房に、オイルの調合を始め、兄弟子たちと同等に学ぶことができた。
「君たちの感性は、男のそれよりも繊細なのかも知れんな」
 親方も父アミルカーレ同様、褒めて若い才能を伸ばすのが上手かった。夫妻に、娘がいなかったのも手伝ったかも知れない。そんな姉妹に対する師夫妻の寵愛をよく思わないのは、もちろん兄弟子たちだった。中には、美少女エレーナに焦がれ、隙あらばものにしようと企む輩もいた。男勝りのソフォニスバが寸でのところで止めに入ったが、何度めかの強姦未遂の末、心底男相手に愛想を尽かした彼女は、とうとう俗世を見限る決意をする。
「そんな……私をひとりにしないで。エレーナ、」
「ソフォニータ、あなたは負けないで」
 高潔な父アミルカーレの元で育ったエレーナにとって、世俗の欲にまみれた若者たちの彼女を見る目には耐えられなかった。彼女は、実家アングイッソラ家から持参金をもらい、修道院に入って生涯神に仕える道を選んだ。
また置いて行かれてしまった、――べったりいっしょに過ごした時間が他の妹弟たちよりも長かったエレーナとの別離は、母の死と同じくらいソフォニスバには堪えた。だがいつまでもめそめそしてはいられない。まだ若いが、彼女の底力はその悲しみのすべてを創作への情熱に変えられることにあった。
(母さま……エレーナ……)
恋しく想う相手を思い出して描くことが多くなった。彼女は人を描くのが好きだった。
 夜、寝食を忘れて夢中になってする素描も、親方の作品に参加させてもらって描いた下絵も、木炭や絵筆手に動かしている間、ソフォニスバは心の底から充実する自身を感じた。
(私は、食べるのと寝るのと、――生きるのと同じに絵を描くことが好き)
 強い意志は、巨木が地に根を張るようにソフォニスバを形成していった。

第3話 運命の人

 一度根を張り巡らせた巨大樹が雨にも風にも、雪にも負けないように、ソフォニスバもまた、何事にも翻弄されず、女流画家として絵を描くことに没頭した。長じてめきめきと描画の才を開花させていくソフォニスバは、カンピ親方がミラノのスフォルツァ城に呼ばれた際もつき従い、親方の仕事を手伝い、技術を見て学び取った。師弟関係は良好だった。
そうして年長の親方と競作しながら生み出されたのが、現在はシエナ国立絵画館所蔵の『ソフォニス バ・アングイッソラを描くベルナルディーノ・カンピ』である。
キャンバスの中のキャンバスに、師と、師が描く自分がいる二重の肖像画という試み。
不思議、――筆を走らせながら、ソフォニスバは首を傾げた。
 カンピ親方が描く彼女には、ふっくらと丸い頬や目元が瑞々しく、年相応の華があった。彼女自身が捉えているソフォニスバという孤独な少女とは、異なる印象の顔をしていた。青年期としてのモラトリアムの中で、ソフォニスバは十八になろうとしていた。
 娘が描いた、二重の肖像画に類稀なる才能を感じた父アミルカーレは、暇を見つけてはソフォニスバに良作を見せようと連れて歩いた。きっかけは、ミラノを訪れた際に父娘で鑑賞した、スフォルツェスコ城に残された『ロンダニーニのピエタ』を前にしたソフォニスバの反応。きらきらと輝く瞳は、彼が妻ビアンカに求婚した夜に見た乙女のそれだった。
「ローマにも行ってみなさい」
 当時、ルネサンス美術の中心は往年のフィレンツェからローマに移行しようとしていた。ソフォニスバが感銘を受けた『ロンダニーニのピエタ』を製作したその人も、出身地フィレンツェで、()豪華(イル・マニフ)(ィーコ)のサロンに迎えられ、長年メディチ家をパトロンにしていたが、ロレンツォ・デ・メディチ死後、教皇庁の依頼に応えるべく拠点をローマに移していた。
 歓び勇んで単身ローマに旅したソフォニスバ(この時代、女性が単身旅行すること自体珍しいことだったが、彼女はカンピ親方の元でそういった術をも学んでいた)が真っ先に赴いたのが、サン・ピエトロ大聖堂だった。物語は、冒頭の場面に戻る。
 ソフォニスバは、開けた広場に出て佇んだ。サンタンジェロ城の向こうに広がる晴天の青、人々の往来を眺めていると、故郷クレモナとはがらりと異なる景色に、時を忘れた。
 何とはなしに鞄から紙片を取り出し、木炭を走らせる。ソフォニスバはしばしデッサンに没頭した。ふと目に捉えた、腰かけた老人と鳩をざっと下書きした背景に溶け込ませる。自然と、老人は先刻遭遇したミケランジェロの面影を帯びた。
「それは私か」
 背後からしたしゃがれた声に、驚いたソフォニスバが斜め後ろを振り返った。父とよく似た白髭を蓄えた老匠が、じっと彼女の素描に見入っている。なんだか服の下を覗かれている(無論、そんな経験はソフォニスバにはない)ようで、恥ずかしい。デッサンには、彼女の性格、癖、思惑、素顔すべてが浮き彫りになっていることだろう。
 ふむ、――御年八十を超えた巨匠、ミケランジェロは顎髭を撫でながら感心した。
「なるほど。君、名前は」
「ソフォニスバ・アングイッソラです。ローマには休暇で――」
「他のも描いて見せなさい。そうだな、あそこの父子を」
 話を遮って、ミケランジェロは彼女の線を見たがった。ソフォニスバは物怖じすることなく、すらすらと応えてみせる。父も親方も手放しで、あるいは助言をくれて、最後には褒めちぎってくれた。巨匠に素描を見てもらえる機会など、一生に一度あるかないかだ。
大丈夫、いつも通り描けばいい。何枚も、紙片の裏にも、絵を描いた。
 そうしてやる気と自信を奮い立たせた。が、背後に感じたのは冷笑だった。
「人に認められて当然だと驕っているな。否定されたことがないだろう。君に並ぶ才能の好敵手(ライバル)もいない。――哀れな」
 言葉を失う。手を止めた。もっと聞きたかった。訊いたら答えてもらえるだろうか。
 弁解する隙すら与えてもらえなかった。いったいどういう意味だろう。ソフォニスバの絵に、そんな驕りが表れていたとでもいうのだろうか。ミケランジェロは立ち去った。
 初恋であり、失恋でもあったのだと思う。もちろんアミルカーレの元、ありとあらゆる芸術に触れて育ったソフォニスバは幼少期より素晴らしい絵画や彫刻に囲まれて育ったのだから、宗教画や磔刑像にも数え切れないほど触れて感性を養ってきたし、彼女の繊細な感性に訴える作品は無数に存在した。
 だが、ミケランジェロの『ピエタ』が仕掛けた恋の罠は、フィレンツェで観たボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』や、ミケランジェロの『聖家族』よりも、ソフォニスバを捕らえて離さなかった。なにを隠そう、例のピエタ像は、ミケランジェロが一四九八年に枢機卿から制作を依頼されたもので、当時の彼は今のソフォニスバとさほど変わらない年齢だった。ソフォニスバも、ピエタを描いたことがある。十八歳の時だった。表現技法の見劣りについては、言い訳の仕様がない。今一度同じテーマに挑戦したところで、ミケランジェロの、乳白色(マリア様の白)ただ一色で表現された『ピエタ』には敵いそうにない。
 秘密を、作者の想いを、情念を、知りたい。父から受けた教育、親方の温情、なによりソフォニスバ自身の物事を俯瞰できる性格も手伝って、彼女は劣等感に苛まれた経験がないに等しい。どちらかというと、ひたすら前向きに描きたい絵を描くことが出来る恵まれた幼少期を送り、カンピ親方の元でありとあらゆる素材から、機会から、学びを得て来た。
 無論、芸術作品を前に感嘆した経験は無数にあったが、()()落ちた(・・・)ことはまだなかった。
(どうして、躍起になって教えを乞わなかったんだろう――)
 恋は女を美しくする。ローマから戻ったソフォニスバは、頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺める時間が増えた。伏せた睫毛が濃い影を落とし、恋する乙女を艶めいて見せる。
 たまたまだったが、巨匠自らソフォニスバを自身が造り出した空間に誘ってくれたのだ。貴重な機会を、みすみす逃してしまった。本来のコミュニケーション能力を、発揮できなかった。悔やんでも悔やみきれない。これだけ彼女の心を鷲掴みにした作品を生み出した張本人と言葉を交わす機会など、このままでは二度とないだろう。
 負けん気が強く、製作のため寝食に関して規則的な生活を心がけてきたソフォニスバが、みるみるやつれていった。紛うことなく、恋の病魔に冒されてしまっている。
話してみなさい、――見かねた父アミルカーレは、彼自身が偉大なる指導者だった。落ち込んだ様子の我が子を前に、慌てて医者に縋ったりしない。まずは、親自ら娘の話をヒアリングして原因と解決法を探る。まさしく人文(ヒューマ)主義(ニズム)的傾向の、素晴らしい父親だった。
「私に任せるんだ」

第4話 再び、ローマへ

 ソフォニスバの父アミルカーレは、なんとミケランジェロ本人に宛てて直接手紙を書きつけた。
まずは、ヴァチカンで愛娘の絵に目を留め、システィナ礼拝堂へと(いざな)ってくれたこと、言葉をかけてくれたことひとつひとつに深謝の言葉を綴った。少し大袈裟かも知れなかったが、既に御年八十を越えたミケランジェロは、まさに時の人である。言葉を尽くしての賛辞を受けて当然の著名人であり、貴族とはいえ、娘が新進気鋭の画家とはいえ、一介の父親が娘の面倒を見てくれるよう頼めるような相手ではなかった。だが、アミルカーレはそれを駄目元でもやってのける人間だった。彼の行動力は、後のソフォニスバの人生にもしっかりと足跡を残す。
 手紙は、こう続いた。『誉れ高いマエストロ、ミケランジェロ殿、……今一度、貴殿のお考えを娘にお聞かせ願いたい。……娘は必ず応えてみせることでしょう。そこでお願いなのだが、貴殿のスケッチをいくつか送っていただき、娘に着色させてみてはいただけないだろうか。……追伸 娘が貴殿の虜となっていることについては、私は事実を当然の運命と受け入れて、喜んで彼女を貴殿の(しもべ)として捧げる心算です』
 父は巨匠の指導を仰ぎたいと切望する娘に代わって筆を執った自身を、ミケランジェロの『従順なる(しもべ) アミルカーレ・アングイッソラ』と最後に署名して締めくくった。


 ミケランジェロのつきあい下手は当時から有名で、例えば、ヴィンチ村のレオナルドと比べれば、時に依頼主との関係をも無下にしてしまうような、不器用かつ無骨な男だったという。だがアミルカーレの丁寧な手紙が、かつて彼が若く無名だった時分にロレンツォ・デ・メディチに目をかけてもらった昔を彷彿とさせたのか、あるいは、娘への深い愛情に心動かされたか、とりあえずは手紙でされた依頼どおりスケッチを送って寄越してきた。
「お父さま、なんてすばらしいの!」
 感謝してもしきれない。改めて父の偉大さ、寛大さに感動したのはソフォニスバも然り。そんな厚遇に恵まれた若い画家が当時、他にいただろうか。ソフォニスバは早速、貴重な素材に目を輝かせて、昼夜問わず着色作業に夢中になった。言うなれば、大人の塗り絵の群を抜いた贅沢バージョンである。
すごい、――着色しながらソフォニスバは、黒炭による濃淡のみの素描だのに、今にも絵から事物が浮き出てきそうな、命あるものが動き出しそうな巨匠の表現に魅せられた。こんなの若輩が足元にも及ばない感性で着色してしまっていいのだろうか? だが断念してしまっては厚意を裏切ることになる。
(ミケランジェロは、なにを想いながらこれらを描いたんだろう)
 色を着ける前に、一枚一枚に散々思いを巡らせるのが、ソフォニスバの習慣になった。独り相手のことを思い耽るその行動は、やはり恋に似ていた。やがて、ミケランジェロのすべてのスケッチにソフォニスバの色が載せられ、巨匠の元に送り返されようとしていた。
「待って、お父さま、私、もう一度ローマに行きたい。彼に直接見てもらいたいの。直接、話を聞いてみたい」
 娘が若い情熱を燃やす姿に感動した父は、二つ返事で旅費、滞在費を工面してくれた。
 当時、ミケランジェロは現在のヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂が建てられた近く、ロレート聖母教会の傍に居を構えていた。永遠の都ローマはそれでなくとも誘惑が多い。が、目的は観光に非ず。ソフォニスバは、真っ直ぐ巨匠の居住地を訪ねた。

「ごめんください――」

 ノックするべきだった。田舎で半ば箱入り娘として育った彼女はすぐ反省した。強面の巨匠を真っ昼間から訪ねる強者などこれまでいなかったのだろう。施錠されていなかった扉をソフォニスバが何気なく開け放つと、壮年の男性ふたりの巨躯、裸体が彼女の両目に飛び込んできた。
「きゃあ!」
 どちらかというと可愛らしいというよりかは、野太く素っ頓狂な大声をあげてしまったソフォニスバも一応は貴族の娘、はっとして、開けてしまった大口を慌てて両手で塞いだ。
 抱えていた荷物が、大きな音を立てて辺りに散らばる。
 寝台から立ち上がり、今まさに衣を纏おうとしていたらしい男性からは歓迎されているらしい微笑を向けられたが、寝台に寝そべったままくつろいでいた老匠ミケランジェロは、気だるげに口を開いた。
こんにち(チャオ)は、お嬢さん(ミレディ)。どうやら、知らせよりも君の到着のほうが早かったようだ」
 見せてみなさい、――と、己が一糸纏わぬ姿であることなどなんでもないことのように手を差し出した。慌てて拾い集めた絵を再び抱えて、ソフォニスバは当代随一の巨匠の私室に踏み入った。その間に、ミケランジェロと懇ろなのだろう男性は着衣を終えたようで、嫁入り前の娘として、当然ながら見慣れない男性の裸体に緊張していた彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「トンマーゾ、もういい。今日は帰ってくれ」
「ほう、さすがマエストロ。お盛んだ。シニョリーナ、また近いうちに」
 彫刻のように彫りの深い、だが目尻の皺が人懐こいチャーミングな微笑にウィンクまでつけて見せた、トンマーゾと呼ばれた男性は陽気な上に、ソフォニスバに限らず、誰から見てもハンサムな類に入る顔の造形をしていた。カエサルの彫刻を彷彿とさせる巻き毛が柔らかそうだ。「そんなんじゃない」と、ミケランジェロがどすの利いた低い声でたしなめ、大きな目をぎろりとさせて睨みつけたが、物ともしない。ソフォニスバに投げキッスまでして揚々と扉から出て行った。
(かっこいい人だなあ)
誇り高い父親と、寛大なカンピ親方、世俗的な兄弟子たち。これまでの人生で接点があった異性の誰とも異なる性質を持った、まるでダヴィデ像のように屈強なトンマーゾは、ソフォニスバに鮮烈な印象を残した。彼女にとって異性の身体の細部を知る術は、彫刻の鑑賞が主だった手段だった。なるほど、立体は面白い。巨匠の手で生み出された傑作に魅せられてから、彼女は未だ手をつけていない表現技法にも興味を持った。
「それで?」
とりあえずは絵を受け取ったミケランジェロだが、彼女自身には目もくれない。はっと我に返ったソフォニスバは、今度こそ心のままに食い下がろうと口を開いた。
「あの、着色する許可を下さって、ありがとうございました。とても幸せな時間でした」
 ソフォニスバが着色して持参した絵に、ミケランジェロはざっと一通り、目を通した。ぎょろぎょろと落ち窪みながらも眼光鋭い目玉がよく動く様を見て、ぞんざいに扱われているのではないと判る。それだけ多くを観て、多くを見抜いてきた人の見方だ。
「だが、君の下絵ではない」
 ぴしゃりと言い捨てた巨匠は、やはり悪評通り偏屈な老人でもあったらしい。はなから決めてかかっていたのだろうか、すぐに次なる課題をソフォニスバに突きつけた。
「泣いている子どもを描いてみなさい」
 はい、――素直に頷きながら、ソフォニスバは内心(いいかげん、服を着て欲しい)と毒づいた。歳の割に引き締まった逞しい肉体とはいえ、婦人の前にいつまでも晒していていい姿ではないはずだ。それとも、
(ここに来たからには、女扱いはしないということか)
 半ば諦めて嘆息し、肩を竦めたソフォニスバは室内をぱっと見渡してミケランジェロの座す寝台が目に入らない位置に目敏く座椅子を見つけると、「失礼します」と詫びて、荷物から黒炭と紙を取り出した。まずはじっと思考を巡らせて紙に目を落としていたが、存外すぐに手を動かし始める。
(しっかりしなきゃあ)
 ここはカンピ親方の邸でも、大聖堂でも礼拝堂でもない。この空間の主は敬愛するミケランジェロその人で、彼と口を利き、作品を見てもらえるなど、まさに幸運で奇跡なのだ。男性器を見せつけられようが、性わりを見せられようが(いや、それはちょっと困るか)、ここに居させてもらえる幸運を、まずは感謝して精一杯創作に励まねば。
 果たして、覚悟を決めて素描に没頭するソフォニスバが聞いていようが聞いていまいがそもそもかまわなかったのだろう、ミケランジェロはぶつぶつ文句を並べ立てた。
「私はね、正直言うと、君を好きになれないんだソフォニスバ。君はいいお父上を持ったね。(シニョール)には感銘を受けた」
 ミケランジェロとソフォニスバでは、幼少期に親から受けた扱いがあまりにもちがい過ぎた。ブオナローティ家は、代々地方行政官を務める没落貴族で、五人兄弟の次男だったミケランジェロには文法学校を中退して芸術の道を歩むことを父親にとことん反対された過去と確執があった。フィレンツェでロレンツォ・デ・メディチに見出され、目をかけてもらえなかったら、今ここにこうしていなかったことだろう。
 だが、生まれる家は選べない。それはソフォニスバだって同じだ。
「自分が恵まれていることはわかっています。けれど、出自は自分で選べない。私だって好き好んで女に生まれたわけではありません」
「女であることは、君にとって足枷(コンプレックス)かい」
 哀れな妹エレーナの顛末を思い返せば、ソフォニスバは唇を噛んでしんみりせざるを得なかった。惜しかった。あるいは、妹のほうが画才はあったかも知れない。負けず嫌いな彼女は、妹にそう言って励ましてやることはついに出来なかったが、とにかく悔やまれる。
「学ぶ機会を奪われるのは、フェアじゃないとは思います」
 思わず顔を上げて唇を尖らせる。と、ミケランジェロとこの日初めて目が合った。老人、八十を越えているが、やはり眼力は衰えていないのだろう。
「ほう、それだけ恵まれていても高みを、――苦しい道を志すか」
 若者の反骨精神は嫌いじゃない。だが、それは苦い思い出でもある。ミケランジェロにも身に覚えがあり過ぎるのだ。兄弟子たちとの確執、一匹狼として生きる孤独。
 つまり、ソフォニスバの気骨にはミケランジェロも感心したようだった。それでも、
「君に、私が必要だとは思えない」

第5話 生活と創作

 冷たく吐き捨てられた言葉が、聞き捨てならない。憤ったソフォニスバは、手を止め、眉間に皺を寄せ、哀色に染まった目を潤ませながらも声を荒げた。
「そんなことない、じゃあ何故、下絵を贈ってくれたんですか?」
「私にとっては価値のない下絵ばかりだ」
 面と向かって投げかけたのを、そんな一言で一蹴される。むっと唇を尖らせたソフォニスバだったが、とにかく作品を観てもらう他ない、と、気を取り直して素描に集中せんと再び紙片に目を戻した。
(泣いている子ども、かあ)
眉間に皺を寄せて、じっくり課題について考えてみる。確かに、人が泣いている場面はあまり、――というよりも、全く描いたことがない。
 ソフォニスバの脳裏にありありと浮かぶ泣き顔は、末の弟のアスドルバルのだ。あれはいつだっただろう、(ざり)(がに)が、弟アスドルバルの指を挟んだのだ。驚いた弟が大泣きしたから、年長のソフォニスバやエレーナは心配した。が、彼と歳の近いミネルヴァやアンナ・マリーアは可笑しがった。それを描いた。
しかめっ面など描いたのは初めてだ。でも、なんだか楽しい。生き生きしている人々を、描き出す。素描に夢中で、ソフォニスバはいつの間にか背後に回って彼女の手元にじっと見入っていたミケランジェロに気づきもしなかった。
「やるな」
「いたんですか」
 ずっといたさ、――いつの間にか室内も夜気で冷え込んでいる。
どれくらい長い時間、描いていたのだろう。ソフォニスバの手元には、盛大に顔をしかめて泣き出さんばかりの男児と、不思議そうに見守る姉と思しき少女の素描。見事な出来栄えだった。この時彼女が描いたデッサンは、その後半世紀もの間、画家たちの間で模写されるほどだった。
「特に少年の頬の丸みがいい。くしゃっと顔を歪めた時、どの筋肉がどう動くのか、よく捉えている。上出来だ」
「ありがとうございます」
 彼女は謙遜とは無縁の娘だった。ミケランジェロのような堅物がいい点を見つけて褒めてくれるのだから、その言葉に嘘偽りはないのだろう。ソフォニスバは真摯に受け止めた。
 ソフォニスバの才能を、認めざるを得ない。そして、彼女のような小生意気な才能ある若人に口出しすべきなのは、石のように頑固な老匠に他ならないのかも知れない。かつてミケランジェロが、ヴィンチ村のレオナルドに焦がれ、崇拝すると同時に妬み、勝負を挑んだように。
 巨匠は、ばつが悪そうに、照れた童子がするみたいに頭の後ろをかきながら白状した。
「私にはロレンツォさまのように寛大な真似は出来ない。が、君を傍に置くことは出来る。これまでどおり、弟子はとらない。共作はしない。だが、見るのはいい。見て、なんでも私から盗むといい。私に見て欲しいものがある時は、とりあえず声をかけなさい」
 相手にするかどうかは別だが、――きまり悪そうにぶつくさ言うものだから、ソフォニスバは拍子抜けしてしまった。
(なんだ、不器用なだけで、優しい人なのかも知れない)


 育ちがいい所為か、お人好しでもあるソフォニスバは、老匠をちょっぴり見直した。が、翌日から師ミケランジェロと共同生活を送るようになって、前言撤回を余儀なくされる。
巨匠の作品づくりを、構想から、作業から、仕上げから、すぐ傍で見られるのはこの上なく貴重でもったいないくらいの厚遇と言えたが、その代わり、ソフォニスバは炊事洗濯、食事の用意、請求書などの公文書のゴーストライター、すべてを一手に担う羽目になった。
 苦ではなかったし、そもそも一家の家事を担ってきたソフォニスバだ。てきぱきこなすことは容易かったが、本来の目的はミケランジェロの元でおさんどんすることだったか?
(子どもみたいな人!)
 頑固じじいとの第一印象は、すっかり塗り替えられてしまっている。
「あの、朝からなにも口にされてないですよね?」
「だからなんだ」
 食卓に置かれたまま、もう硬くなってしまっただろうパンを尻目にソフォニスバがおずおずと話しかけるも、ミケランジェロが(たがね)を振るう手を止めることはなかった。
「お嬢さん。放っておくと、彼は三日三晩飲まず食わずなんてことを平気でやってのける男だ。よろしく頼むよ、気をつけてやって」
 部屋の片隅で、優雅に白のデカンタを楽しむ壮年のイケメンオヤジが両腕を組んでにこにこしながら不可思議な師弟の成り行きを見守っている、だなんてこともままあった。
「トンマーゾ、余計な口出しはするなよ」
 要するに、今までは家政夫兼庶務を、このやり手の男性がこなしてきたのだろう。彼のためとはいえ、お小言が煩わしくなったタイミングで、体のいい身代わりがクレモナからやって来た、といったところか。
冗談じゃないわ、――ソフォニスバが望む指導を仰ぐためには、ミケランジェロにはまだまだ長生きしてもらわねばならない。俄然、カンピ親方の元で奥方に仕込まれた料理の腕が鳴る。すべての道が集まるローマでは、珍しい食材にも事欠かない。
 が、ソフォニスバがどんなに美味しい料理をふるまって、代わりにトンマーゾが「美味い(ブオーノ)な!」と感心しても、ミケランジェロ自身は作業する手を止めないまま、左手に持ってそのままかじれる簡単な腸詰めや生野菜を好んで口にした。年齢の割に、この時代の人間にしては恐ろしく顎や歯が丈夫だ。大理石にも歯が立つらしい。
「石工に教わったんだ。大理石の良し悪しを判断するには、こうするのがいちばんだと」
 ソフォニスバは、師の真似をして大理石の欠片を舌で転がしてみた……が、歯が立つ、立たないの前に、当たり前ながら石の味しかせず、盛大に顔をしかめて舌を出した。
「大したお嬢さんだな」
 ソフォニスバが買い物に出かけている間、久しぶりに、トンマーゾはミケランジェロを寝台に誘うことができたのだった。仕事中、ずっとこわい顔で気を張りつめている巨匠も肩の力を抜いて、いくばくかリラックスした表情を垣間見せた。
「ものになりそうか」
「画家という意味でなら、今のままで十分一流だよ。彼女は」
「ほう、君が他人を手放しで褒めるなんてな。初めてじゃないか」
「そうか?」
「そうさ」
 いい傾向だ、――トンマーゾは満足そうに目を閉じて、筋張った両腕をうんと伸ばした。
「やはり女性はいい。肉が柔らかいし、華がある。甘い匂いもするしな」
 大らかなトンマーゾは、両刀(・・)だった。街を歩けば誰からも好かれ、声をかけられるし、愛想よく応対できる。憎らしいが、これもまた、ミケランジェロにはない才能だった。
「彼女は花というより、どちらかというと馬車馬だろう」
「そうさせているのは君じゃないか」
 まったく、ミケランジェロ・ブオナローティときたらこんなにも偏屈で人好きのしない変わり者だのに、大勢には理解し難くとも、深く関わった人間のすべてを虜にしてしまう魅力があるのだ。トンマーゾも彼に恋して囚われたひとりだった。だからソフォニスバの苦労は手に取るようにわかる。
「うら若い乙女に、恥をかかせるなよ」
「おまえが言うのか」
 ミケランジェロは今度こそ呆れて、大袈裟に嘆息してみせた。
なにを隠そうこのトンマーゾ、妻帯していてローマ郊外に居を構え、玉のような幼い娘がふたりもいるのだ。現代でいうところの介護士だったり見守り役、お目付け役として老匠の元に通い詰めて給金ももらっているのだが、平たく言うと愛人契約に近い。
ミケランジェロにとって、彼の存在は精神安定剤でもあった。外界を閉ざして創作に没頭するのは簡単だが、人間、外との繋がりをすべて絶ってしまうといとも容易く病んでしまう。元来、脆い生き物なのだ。
「ソフォニスバは、あるいは私以上に本物(・・)だよ」
「へえ、あなたがそんな風に言うなんてそりゃあ、雪でも降るかな」
 明るく朗らかに冗談を言いながら、トンマーゾはほんの少し寂しげに、すんと鼻を鳴らした。

第6話  「非力と無力」

(どこを切り取っても絵になるって、こういう景色のことを言うのかしら)
 ソフォニスバは雲ひとつないローマ郊外の青空を振り仰いだ。お日様が空高いところに燦々と輝いている。
 ミケランジェロに遣いを頼まれたソフォニスバは、ローマの城壁を出て、はるか昔――その建設を紀元前にまでさかのぼる聖堂の廃墟、その向こうに広がる紺碧を眩しい思いで目に焼きつけながら、そんな風なことを考えていた。
 かつてここに集い、ここで祈り、誕生を祝い、死を哀しんで埋葬した人々が、村が存在したのだ。
 照りつけるような暑さはともかく、気分転換に散歩する分にはちょうどいいあんばいである。
 焦がれた師ミケランジェロの元に居候するようになって数週間。永遠の都での生活には慣れつつあった。独りになるのは、ものすごく久しぶりだ。ソフォニスバは、なんとなくこれまでにあった出来事を振り返った。父や妹弟たち、親方夫妻、そして今は天才にして万能人、だのに実は人間くさい師ミケランジェロとの関係も、既に彼女の人生の一部だ。
こんなに恵まれていていいのだろうか。
廃墟の柱は野ざらしにされていて、ミケランジェロ作ピエタの白とは異なる白だった。人生に疲れて、くたびれ、ひび割れた女の白い手を思わせるくすんだ白。ソフォニスバはそれを尻目に、記憶の中の美しい白色を思い浮かべた。
(エレーナ)
尼僧になる道を選んだ妹はどうしているだろう。ローマ郊外からはミケランジェロから話に聞いたカッラーラの石切り場は見えない。大理石が獲れるその山肌は、きっとエレーナの肌色に似た美しい乳白色をしているのだろう。この目で見たい景色を、想像で補う。ちょっぴり、しんみりとした。
(青が眩しすぎるせいだ)
 この日の空を表現するのに、瑠璃(ラピスラズリ)がどれほど要るだろうというくらいの群青色だった。
 ソフォニスバだって長じれば長じるほどすらりと背が高く、凛とした淑女として周囲の目に映ったが、本人は己の見目には半信半疑どころか複雑なコンプレックスを抱えたままだった。
憧憬に、ぼんやりしていた。油断していたとしか言いようがない。
まだお天道様だって空高いところに在る真っ昼間、チッチと鳥が鳴く声が遠くでした。そんなのどかな場所で、だだっ広いオリーブ畑で、ソフォニスバは突然、廃墟に引きずり込まれ、男に組み敷かれた。視界が暗転した。男の巨躯と朽ちかけた大きな柱が暗い影を落とし、背面が感じた地面は湿っていた。
一瞬、ソフォニスバは自分の身になにが起きたのか判らなかった。が、
(落ち着いて)
自分に言い聞かせ、奮い立たせようとした。エレーナに同じことが起こったのを何度か救けたではないか。今回も自分で撃退できる。ソフォニスバはあらん限りの力を以て抵抗した。
だが甘かった。
(うそ、びくともしない!)
 当然だ。工房で、兄弟子が悪ふざけで小癪な姉妹の、大人しそうなほうにちょっかいをだすのと、野放図の無頼漢では比べものにならない。彼は本気で女を犯そうとしている。下手したら凶器で脅かされかねない。半端な抵抗が命取りになるかも知れない。
 殺されるかも知れない。そう過ぎった時、
(嫌! 私、まだなにも成し遂げてない!)
 ソフォニスバの脳裏に過ぎる後悔は、絵にまつわるそれだった。
 いよいよスカートの裾がソフォニスバの中心近くまでまくられて、彼女を絶望させた。素肌を滑るおぞましい感覚は、ざらついた男の手だ。まるで蛇が這うようだった。何者でもない、芸術になんて微塵も興味のない、絵筆を滑らせるような繊細なことなど生涯できない愚か者の手。
「助けて!」
 なんとか大声で叫んだのと、ミケランジェロに頼まれてなかなか帰って来ないソフォニスバを探しに来たトンマーゾが男に殴りかかったのは、ほぼ同時だった。ソフォニスバが身を起こした時にはもう、暴漢は尻尾を巻いて逃げ去った後だった。
 難なく悪漢を撃退することはできたが、ソフォニスバはそのまま身動ぎできないでいた。襲われたのも、救われたのも偶然だが、彼女が経験した恐怖は底知れない。トンマーゾは手を差しのべて、彼女を立ち上がらせねばならなかった。
 とりあえず、髪やら衣服についた枯れ葉なんかをさっと払ってやる。
「さすがにミケランジェロも心配していた。大丈夫かい、お嬢さん」
「……こわかったっ」
 ローマで数少ない、気心の知れた人(それにトンマーゾは、ミケランジェロにとってもソフォニスバにとっても肝っ玉母さんみたいな包容力があった)からの優しい気遣いに、慣れない環境に強張っていた感情が、堰を切ったように溢れ出た。多種多様な人々がたむろするローマは、地方都市クレモナに比べれば治安が悪い。どんなに天気のいい日中とはいえ、女子どもを一人歩きさせるべきではなかったかも知れない。
 クレモナの家族と離れてしばらく経つ。ソフォニスバは父アミルカーレよりも年嵩で、頼り甲斐のある体躯をしたトンマーゾの首肩に、まるで幼女がするように抱きついた。
 感情を上手くコントロールする術を身に着けて必死に絵で身を立てようと生きてきて、二十数年。一方で貴族の生まれである分、小癪で強気な本質で補っていた。唯の女であることを思い知ったソフォニスバは、頼れそうな腕の中でしばらく泣きじゃくった。無論、泣き止んだ後は羞恥心でいっぱいになる。
 ソフォニスバは肩を竦めて頭を下げた。
「すみませんでした」
「君が謝ることじゃないだろう」
 見苦しい姿を見せてしまったと、唇を尖らせてしょげていたソフォニスバが、すんなり頭を下げれば、トンマーゾは例の人好きのする朗らかな笑顔で「気にするな」と笑い飛ばしてくれた。
 ミケランジェロの元に帰る頃には、どっぷり日が暮れていた。いつも身綺麗にしているソフォニスバが、そこら中を泥だらけにして戻って来たから、遣いに出した本人もだいたいの察しがついたようだ。ぎょろりとした目を丸くして心の底から驚いた様子が窺えた。
「すまなかったな」
「いいえ」
 帰った途端、気丈に振る舞うソフォニスバに、ミケランジェロは改めて目を丸くした。
ソフォニスバは、恐ろしく頑固で気が強く、よく働く娘で、と同時にどうしようもないほど繊細だった。だから、父のような包容力のあるトンマーゾの前で泣いてしまった。が、彼女はミケランジェロの前では、決して素顔を晒さない。女だからという理由で、野で襲われてどうこうなるよりも、師の友人に手間をかけさせ心配させたことで、師の元を追い出されることのほうが、彼女にとってはよほど恐かった。すごく、すごく、恋しかった。
(ここにいたい)
ミケランジェロの仕事を、――初恋の相手の仕事を、もっともっと見て学びたかった。

第7話  「デッサン」

 遣い中、暴漢に襲われたあの日を境に、ミケランジェロの態度も幾分かソフォニスバに対して柔らかくなった。恋が叶う過程に通ずるものがあったかも知れない。
「君たちって似ているよね」
 例によって上手にふたりの間に立つトンマーゾが、人好きのする朗らかなにこにこ顔で面白がった。ミケランジェロが女性に多少なりとも振り回されるのは、七年前に没したヴィットリア・コロンナ(ミケランジェロは、彼女をモデルに描いた『クレオパトラ(一五三五年)』の素描を愛人トンマーゾに贈っている)以来、初めてのことだった。少なくとも彼はそう思った。
「どこが」
「どこがですか」
実質、師弟以外の何者でもない関係に落ち着きそうなミケランジェロとソフォニスバの返事が重なった。ますますイケオジの笑みが深まる。爺と孫というには歳が離れ過ぎているが、ちょいと仲の悪い父娘のようなふたりだ。ソフォニスバにとって父親というのは娘、息子をこよなく愛し慈しみ、出来得るすべてを与えてくれる至上の存在だったから、誰しもが認める巨匠とはいえ、こんな偏屈な老人に似ている、というのはちょっと心外である。
 だが同時に、うれしくもあった。
「もしかしたら、ソフォニスバが生まれ持っていた君に似た性質が、ここで君と生活するようになって、開花してしまったのかな?」
 だって、恋する相手と似ているだなんて、女の子だったらみんな舞い上がってしまう。
 ソフォニスバも例外じゃなかった。
 例の一件以来、ミケランジェロは遣いにトンマーゾを使い、ソフォニスバを傍に置いて仕事をするようになった。その姿だったり、彼の素描だったりを、ソフォニスバは懸命にデッサンしたり模写したりして過ごした。
「あれ。君、ミケランジェロの描く男性像ばかり模写してる」
 ふとソフォニスバの手元を覗き込んだトンマーゾが、あっけらかんとして指摘した。
「だって、どれもすばらしくて、完璧で――」
 しまった、とソフォニスバは慌てて片手で口を塞ぐ。
以前、完璧という感想をミケランジェロに厭われたソフォニスバは、慎重に言葉を選び、伝え直そうとした。
「あの、マエストロの描く男性って、……上手く言えないんですが、男も女も、ちゃんと肉感的で。そりゃあ、画家はみんな肉感的な表現がお上手ですけど、でも、あなたの描く人体は、別格。すべてが彫刻みたいで、それが絵であっても人は動き出しそうだし、風景は奥に広がっていて、見ている者の目の前に飛び出して来そうに錯覚するというか――」
「実直な感想だが、言わんとしていることはわかる」
 トンマーゾがうんうん、と頷いてくれたから、ソフォニスバはほっと胸を撫で下ろした。
 一方、巨匠は彼女の賞賛よりも、彼女の言葉から彼女の望みを汲み取ろうとしたようだ。
「君は、もっと立体的に描きたいのか」
 ミケランジェロが顔を上げてソフォニスバに問うた。見透かす目。相手の本質を見抜く目にぎょろりと睨まれて、ソフォニスバはまるで蛇に睨まれた蛙の気分だった。だが怖気づいてはいけない。なんのためにここに居させてもらっているのだ。
『直接、話を聞いてみたいの』
ミケランジェロの指導を受けられるよう便宜を図ってくれた父アミルカーレをそう説き伏せて、ローマ行きを後押ししてもらった。
「描けるかどうかはともかく、遠近法を生かすみたいに、浮かび上がるような……まるでそこに描かれた人が生きているかのような、そんな風に描けるようになりたい」
 ルネサンスの当時、レオナルド・ダ・ヴィンチを筆頭に、ミケランジェロも、ラファエロも、こぞって解剖現場を見学した。そうして、ルネサンス絵画の躍動感ある絵画芸術を生み出してきた。筋肉構造を細かに研究して、描き表した。解剖は、キリスト教世界ではルネサンス全盛期だろうが女人禁制だった。ソフォニスバに、彼らと同じ探究はできない。女性だから。どんなに才能や出自に恵まれようと、現代とちがって、性別は変えられない。
 だから、老匠はソフォニスバに今できる提案をした。
「では、デッサンをしてみようか。――トンマーゾ」
 ミケランジェロの指示で、トンマーゾは「お安いご用」とばかりに、彼女が初めて彼を目にした日と同じ、全裸になった。独身だろうが既婚だろうが、女性の前で男性が全裸になるなど、立派にセクシュアルハラスメントにあたる。が、ソフォニスバはもう動じたりはしない。神はアダムを先に造り、彼の骨からイブを造った。その所為か、女性が男性と同等に生きられるまでには、まだ何百年もの歳月を必要とした。そんな時代だった。
 機会のすべてを手中にするためには、いくつもの秘密を重ねなければならなかった。
 ソフォニスバは静かに銀筆を置いて、呼吸を整えた。
(落ち着くのよ、ソフォニスバ)
今この場に会すのは、一流の芸術家と、一流のモデルだ。それ以上でも以下でもない。
 ソフォニスバは、屠殺場でこれから捌かれる鶏や家畜を哀れむ職人のように、あるいは人の子を取り上げる産婆のように、――どちらも彼女に経験はないが――慎重にモデルに歩み寄った。彼女がなにも持たない両手をあげると、大柄なトンマーゾは家族にするように会釈をして、彼女が望むように頭を傾けた。人間の頭部は面白い。頭蓋骨や顎の形は、ひとりとして同じではない。ソフォニスバの指先や手のひらが、トンマーゾの首肩を、胸鎖乳突筋に沿って、辿るように上下する。トンマーゾは、ミケランジェロの傑作『ダヴィデ像』を彷彿とさせる造形をしていた。とはいえ、ダヴィデ像は彼が二十代の最後に取り組んだ作品なので、五十を過ぎてから知り合ったトンマーゾがモデルであるはずはない。だが、ミューズのひとりにちがいなかった。そんな男性を直接デッサン(・・・・)できるのだ。女性との皮膚のちがいや浮き上がる筋、骨の太さ。どれをとっても溜め息が出るほどの造形美。
 やがて、ソフォニスバの両手はトンマーゾの両脇を沿って見事に割れた腹筋(中年男の下腹部は多少たるんで、よりリアルだった)を辿り、やがて腰骨の辺りの凹凸を確かめた。
 ソフォニスバの手が止まった。躊躇したからだ。ミケランジェロがすかさず口を挟む。
「遠慮することはない。局部をデッサンするいい機会だ」
「でも、」
「彼の言うとおりだよ。大きな犬とでも思えばいい」
 トンマーゾがフォローしてくれたから、ソフォニスバは決意新たに手を伸ばし、未知の部位を画家(プロ)として探求した。真実、男ふたりにからかう意図はない。硬い太腿、大きな膝の皿、アキレスの泣き所。全身くまなくデッサンし終わるまで、かなりの時間を要した。
「そうだ、それでいい」
 ソフォニスバの丹念なデッサンに、ミケランジェロはとりあえず満足したようだ。
「では、描いてみなさい。題材はなんでもいい」
 師としてのミケランジェロは、これ以前もこれ以降も、ソフォニスバに具体的な指示は一切しなかった。彼女が彼女の意志で生み出した作品を観て、コメントを返す。
 負けず嫌いのソフォニスバもまた挑戦者だった。底意地が悪そうな頑固面をぶら下げて、珍しく彼女の一挙手一投足をじっと睨んで離さないミケランジェロに気づかれないよう、まだ仁王立ちしたままのトンマーゾに目を向け、彼の体を参考にしながらミケランジェロを思い浮かべ、老神ユーピテルを走り描きした。
「ほう」
 ソフォニスバが紙片から顔を上げた途端、いつの間に傍にいたのか、ミケランジェロはさっと紙片を取り上げて、まじまじとそれを観察した。愛人には「トンマーゾ、もういいぞ」と声をかけたが、彼女が彼を描いていたことには一切触れなかった。ソフォニスバは、師がなにか言ってくれるのをじっと待った。だがミケランジェロは、巻いた顎髭に触れながら「ほう」と唸ったきり、それ以上はなにも言及しなかった。

第8話 「その激情は未だ熟さず」

 その晩、ソフォニスバは初めて晩酌につきあうようにとミケランジェロに誘われた。
 モデルを担ったトンマーゾは既に自宅に帰った後だった。今ごろ、妻と可愛い娘たちと美味しいポモドーロ料理にありついているにちがいない。
「まあ座りなさい」
と、あれだけ人づきあいが悪いと悪評立てられる巨匠と、小さな卓をふたりで囲む。元々誇り高く、人と相対する際はしゃんと背筋を伸ばすよう厳しく躾けられたソフォニスバも、改めて居住まいを正し、彼の真正面に座した。ミケランジェロが、ボトルの封をしていたコルクを飛ばして差し出したから、察したソフォニスバはボトルを受け取って、まず師の杯に葡萄酒を注いだ。
軽くて丸い、とくとくと小気味よい音にミケランジェロのしゃがれた声が重なる。ミスマッチな空間だったが、ソフォニスバはその矛盾が嫌いじゃなかった。
「トスカーナのワインだ。カッラーラの石工が土産に持ってきた」
 言いながら、奪うようにソフォニスバの手からボトルをかすめ取る。と、彼女に自分のそれよりもなみなみと注ぎながら、淡々と産地や葡萄の話に興じたてみせる。
 心地よい空間だった。
 家族で食事した昔が懐かしい。が、大勢で囲む食卓と、芸術家として名を馳せる師と、ふたりきりで葡萄酒を嗜むそれは、まるでちがう。ソフォニスバは滅多にない師の歓待をうれしく思い、香りを嗅いだ後、こくこく喉を鳴らし味わうと、素直な感想を述べた。
「美味しいです」
 現に、想う相手と飲む酒は美味い。綻ぶように自然な笑みがこぼれる。時に、酒はいい。腹を割って話す手助けになる。だからミケランジェロも、単刀直入に本題に入った。
「だが私は、『(ざり)(がに)に手を挟まれて泣いている子ども』のほうがいいと思った」
 ミケランジェロは杯の中の葡萄酒を揺らしながら、昼下がりに観たソフォニスバが走り描きした老神ユーピテルを指して、率直な感想を語った。
「君は人の内側からにじみ出るものを描くことに長けている。肖像画を極めるべきだ」
 それは、誰かをモデルに物語を紡ぐことを得意とするミケランジェロの技を、少しでも知りたい、会得したい、盗みたいと挑んだソフォニスバを、否定する言葉だった。
「でも、」
 否定はしたが、彼女の才能を認めていないわけじゃない。その上で、師は言い聞かせた。
「得意を伸ばすんだ」
なぜって、金にならないと創作は続かない。いつの世も、したいことだけで食えている芸術家はいない。ミケランジェロも、売れない作家であればしなかった苦労を多く経た。
「私だって本当はずっと大理石と向き合っていたい。絵でもない、木像でもない。石だよ。私は、石とは相思相愛なんだ。だが世間はそれを許しちゃくれない」
 なおも言い募ろうとするソフォニスバを、ミケランジェロは例の鋭い目で制した。六十近い歳の差。ミケランジェロの分析はきっと的を射ているのだろう。なにせ経験がちがう。
「もちろん、私だって誰かの助言をそのまま受け止めたり、実践してきたりしたわけじゃない。だが私に助言できることがあるとすれば、他にはなにもない」
 引き際なのかも知れなかった。追い返されるかも知れない。ソフォニスバがふとそんな風に危惧したのはほんの乙女心だ。きゅっと、心臓が鷲掴みにされたかのように縮むのを感じた。胸が苦しい。この激情を言葉にするのは、人がどれだけ年齢を重ねても難しい。
 それでもソフォニスバが言い募れたのは、ミケランジェロとの間にやはり、芸術を介して相通ずるなにかを持ち得ていたからなのだろう。
「でも知りたいんです。私は女だから解剖を見て学ぶことはできない。男性の、女性の服の下を知らない。あなたみたいに描くことができない。それが悔しくてたまらない!」
 ソフォニスバの激情が溢れ出た。
ミケランジェロが引き出した。本音で語り合うために。
「君の作品には、葛藤が現れ出ている。素晴らしいことだ。愛憎を創作の力に変えられる。君は生まれついての画家だ。君に欠けているものなどなにもないように、私は思うがね」
 止めを刺すように、ミケランジェロは改まってゆっくり、はっきり告げた。
「私に教えられることなど、なにもないよ」
「あります!」
 突き放されることに慣れていないからって、黙って引き下がるのは嫌だった。どうしてそこまで執心するのかと問われても、上手く説明ができない。唯、思うまままくし立てた。
「ミケランジェロ、教えてくれませんか。トンマーゾをデッサンしてみてわかったことがあるんです。私は、私の葛藤を絵に表現している。それは私もわかっているんです。でも、私にはわからないが故に表現できないものがある。――愛です」
 ソフォニスバはぐっと堪えて、とにかく自身の思いの丈を具体的に言葉にしようと踏ん張った。彼女は詩人ではない。とにかくストレートに伝えるしか術を持たなかった。
「父や(きょう)(だい)たちが与えてくれた家族愛じゃない。私は異性愛を知らない。私が恋しく思うのは、あなたですミケランジェロ。あなたが、教えてくれませんか」
 回りくどい告白だった。ミケランジェロは大して面食らわなかった。年の功だ。仕方がない。ソフォニスバだってわかっていた。彼みたいな、男も女も愛した経験のある、ある種の玄人が、小娘の恋心など持て余すはずがない。彼がその気になれば、いかようにも応えることができただろうし、その気がなければ、やんわりと拒めばいいだけの話だ。
「私は、あなたが『男』を教えてくれるなら、一生結婚できなくてもかまわない」
 ええいままよ、と半分自暴自棄だったかも知れない。だが、ソフォニスバの瞳に迷いはなかった。乙女の真摯な訴えを無下にする男は、紳士とは言えない。それは、偏屈な巨匠ミケランジェロとて同じだった。うら若い娘が納得できるように諭さなければならない。
 さて、どうしたものか。(レオナルドだったら、全裸に剥いて裸婦の傑作一枚でも描いて満足させるだろうに)ミケランジェロは苦々しく思った。元々の生まれが悪くない彼は、自分を慕う女性を無下に扱うほどぼんくらではなかった。言葉を選んだつもりだった。
「恋人を持つのはかまわない。だが劣情に振り回されてはいけないよ。君は、その非凡な才能であらゆる人を虜にできるのだから」
 ソフォニスバは、叩かれる覚悟で食卓の上、そっとミケランジェロの指先に触れた。そのまま柔らかな手を重ねて引き寄せる。手が、震えた。彼が生み出す世界に、夢中なのだ。
「マエストロ、あなたも? 私は、あなたのことも虜にできますか」
 このまま、ミケランジェロに乱暴されてもかまわないと本気で思った。彼女をこんなに夢中にさせた男性は初めてで、きっと最後だ。なにをされても後悔しない。確信があった。
ミアモーレ(可哀そうな人)、私は、サン・ピエトロの広場で再会した瞬間から、君の才能に夢中だよ」
 ソフォニスバの手をやんわりと解いたミケランジェロが、自由になったその手で彼女の顎をくいと捕らえた。ソフォニスバはめくるめく口づけを予感した。
「ソフォニスバ……君だって、私に嫉妬しているだけ」
 そうして、ミケランジェロはソフォニスバに口づけなかったし、手も出さなかった。
 顎先に触れた指先が離れていく。立ち上がったミケランジェロが背を向ける。大理石の粉に塗れた手が恋しくて、食卓にひとり取り残されたソフォニスバは孤独を噛み締めた。

第9話 「薄情と純情」

「――恋に悩む乙女の顔だね」
 真っ昼間のローマ。
ふむ、――と、節くれ立ってはいるが、きれいな指先で顎髭を撫でながら腰に手をあて、ポーズをとったのは、例のごとく重役出勤してきたトンマーゾだ。彼の腰元にいるのは、玄関先の石段にしゃがみこんで頬杖をつき、深い溜め息を吐いたソフォニスバ。
留守を預かる身とはいえ、師・ミケランジェロ不在の作業部屋はなんとなく寂しくて、外で彼の帰りを待ち侘びていたのだった。
「いたんですか」
履き物の爪先が視界に飛び込んでくるまで人の気配に気がつかなかったソフォニスバが、半ばぎょっとして両手から顔を上げた。
この構図、()視感(ジャブ)だ。まるで『受胎告知』ではないか。処女マリアに天使ガブリエルが懐妊を告げる場面を描く、有名な題材である。
 去る晩、ミケランジェロに思いの丈すべてを告白してすっきりはしたものの、ソフォニスバは言葉にならない疲労感に苛まれていた。受け入れてもらえなかったせいでも、ミケランジェロに拒まれたからでもない。現に、ミケランジェロはなにもなかったかのように製作を再開して、ソフォニスバが用意した朝食にもちゃんと手をつけた。
 永年の愛人トンマーゾには、彼女の溜め息の理由が痛切に理解出来た。
「わかるよ、君。ミケランジェロは偏屈だが、妙に優しいところがある。でないとあんなピエタは造り出せない」
 うんうん、とソフォニスバも素直に頷いた。
あんな風に繊細な、――我が子を喪いながらも、もはや子が石打たれる心配はないのだと安堵する、複雑な母の感情をも大理石に浮き彫りにして後世の人々まで魅了する作品を遺すことができる人なのだ。異性の訴えの意味するところを丁寧に咀嚼した上で、丁重に断った。いかにも紳士ではないか。
 ところで、ミケランジェロと長年連れ添えるトンマーゾの包容力ってば、伊達じゃない。
Ti(愛 す) amo(る人), 君に落ち度はなにもないよ」
 おいおいと本当に涙をほろりとさせながら、すんと鼻をすすってみせる。
家庭持ち故だろうか。ソフォニスバは母親を知らないも同然だ。母ビアンカが存命で、恋の悩みを打ち明けることができたなら、こんな風に気持ちが軽くなったかも知れない。
 辣腕で、生粋のラティーノ、トンマーゾはとっておきのフォローも忘れない。
「とても魅力的だ。ミケランジェロも、君も」
 お似合いの二人なのに、すんなり相思相愛にならないのはどうしたことだろう。これにはトンマーゾもはて、と頭を傾げるばかりだった。お手上げらしい。
 この日もローマの空は青く澄み渡り、照りつける太陽が燦々と輝いていた。空の青も、精悍な好漢の笑顔も、目に染みる。
 ソフォニスバは、返答に困って曖昧ににごした。恥を捨ててストレートに迫ったのに、男に触れてもらえなかった。女に自信など持てるはずがない。
 同情もとい共感の表情を浮かべ、トンマーゾは肩を竦めて嘆息して見せた。
「彼は君に決して手を出さないだろう。大切な相手にはどこまでも愚直で誠実な男だから」
 誠実は、時に残酷だ。
トンマーゾはミケランジェロの人と成りを踏まえて励まそうと助言したまでだったが、ソフォニスバはどんな言葉で慰められようとも、自分に魅力がないせいと落ち込んで仕方なかった。自分の能力を信じて邁進するのと、自己肯定感を保つのとは別の話だ。
「ミケランジェロは私のことなんてなんとも、」
「そんなはずないじゃないか、君。少なくとも私は、芸術家として彼を追って来た相手に対して彼が親身になるのを初めて見た」
 ソフォニスバの両の目に希望の火が灯る。両頬を包んでいた両手を解いて、顔を上げた。可能性には縋ってみたくなるのは、芸術家の性なのかも知れない。
「そうでしょうか」
「そうだとも」
 長年ミケランジェロの傍で彼に寄り添い、精神的に支えてきたトンマーゾに断言されて、ソフォニスバは少しどぎまぎした。恋に悩む乙女の気が晴れるまで、もうひと押しだ。
 まだ浮かない顔の乙女を見かねたトンマーゾは、いかにもラティーノらしい提案をした。
「代わりに、私がお相手してさしあげようか」
 青天の霹靂だ。魅惑的な笑みを浮かべ、畏まって手を差し出す。ソフォニスバは呆れた。
「あなた、既婚者でしょう」
「関係ないよ。ソフォニスバ、君の魅力はまだ切り出したばかりの原石のように壮大で、未知なる可能性を秘めている」
 まるで(うた)うように褒め称えるのが、当時の口説き文句の常套手段だった。相手は一流の万能人をも惹きつける色男だ。透る声もいい。朗々として、まるで音楽に誘惑されるよう。
 トンマーゾみたいな精悍な顔立ちをした壮年の男性がうやうやしく手を取り、その甲にキスなんかしてくるものだから、ソフォニスバも満更ではない。異性に対して耐性がないに等しかったのもある。危なかったところを救われたことも手伝った。ラティーノの本分は、こういう機会を逃さず、女性をいい気持ちにさせんとすかさず手を出してくるものだ。
 手を引かれ、そっと立たされたソフォニスバは、漆喰の壁に押しつけられて、極自然な流れでトンマーゾに唇を奪われた。

最終話 「虚勢と孤高」

 ソフォニスバの頭の中が、真っ白になった。
 トンマーゾに唇を吸われて、喉から知らない女のそれみたいな、猫が甘えるような声が漏れ出る。清純な乙女にとって正真正銘、初めてのキスだのに、まるでどうするのがいいのかを知っているかのように自然と目を瞑っていた。蕩けるような感覚。脳髄の芯から痺れて、なにも考えられなくなっていく。気持ちがいい。抗わずに体の力を抜き、そのまま本能に身を任せたくなる。
 初心な乙女と生粋の遊び上手な男の密な空間を突如として破ったのは、出先から戻ったミケランジェロだった。トンマーゾを殴りまではしなかったが、彼らふたりを引き剥がしてソフォニスバを背に庇うと、彼と比べればまだ年若い男を怒鳴りつけた。
「トンマーゾ、二度と来るな!」
 一瞬、叩かれてもいない頬を押さえて呆けたトンマーゾが、明らかに傷ついた顔をした。(私の所為でふたりが別れたりしたら、どうしよう、)すっかりふたりの人柄に魅了されていたソフォニスバは、呑気にそんな風なことを思考した。ミケランジェロは、打ちひしがれた彼を無視して、ソフォニスバをそのまま自宅に押し込むように引っ張り込んだ。
 大きな音を立てて、扉が乱暴に閉められる。
 途端に、〝世界〟はミケランジェロとソフォニスバ、ふたりきりになった。
 ソフォニスバは、唯ぽうっとなって上背のあるミケランジェロを見上げた。いったい、自分の身になにが起こったのか、頭も心も状況を読み込めない。ミケランジェロがなにに対して憤慨しているのかがわからない。彼の怒りの理由を、知りたかった。
 そんなソフォニスバを、ミケランジェロは容赦なく怒鳴りつけた。
「なぜ自分を大切にしないんだ、見損なったぞ!」
 父親でもない男に、頭ごなしに叱咤されて、孫の年齢であるソフォニスバもむっとして言い返す。
「どうしてあなたが怒るんですか!」
 トンマーゾのようにミケランジェロと心も体も通わせた経験がないソフォニスバは、顎先をつんと上げ、子どものように唇をへの字に曲げて、思いの丈をぶちまけた。
「私を拒んだのはあなたでしょう、私はあなたの手に触れられたかった。私を変えて欲しかった。トンマーゾは私の心にぽっかりと開いた穴を埋めようとしてくれただけです!」
 ソフォニスバの言い分は、ふられた女のそれとしてもっともだ。
「それがどれだけ下劣な行為か、君にはまだわからないだけだ。私は心底、君が羨ましい、ソフォニスバ。穢れを知らない魂、高みを望む一途な姿勢、君のすべてが君の絵に魅力となって表れ出ている。――それを自ら台無しにするような真似を、君はしたんだ」
 両肩をものすごい力で掴まれて、大きく揺さぶられた。ミケランジェロが、
(泣いてる?)
 実際に涙を見たわけじゃない。だが、ミケランジェロのこんな悲痛な叫びを聞くのは、初めてだった。ソフォニスバに、哀れな子どもを宥めたいといった、母性のような感情が湧き起こる。今この時ピエタを題材に絵を描けば、いい作品に仕上がったかも知れない。それくらい、この不器用な万能人に、彼なりの最上級に想われていたことを知った。――ああ、私はもう大丈夫だ。
 唸るように、本心を絞り出すように、ミケランジェロは通告した。白状したのだ。その時のミケランジェロの助言を、彼女は生涯胸に抱いて過ごすことになる。
「君が秘める激情は完璧だソフォニスバ。私なら、老いぼれの絵を模写なんかしてないで自分の自画像を描く。君の肖像画はいい。実にいい。自分を描いてみなさい。自分の内に巣食う激情を暴き出して、世間に見せつけてやれ」
 間近で見ると青白く、大理石の粉をかぶった皺だらけで筋張った手が、ソフォニスバの顎をくいと持ち上げた。やはり、キスはされなかった。唯、唇と唇が触れ合いそうな距離で、ふたりは見つめ合った。吐息が混じり合う。ソフォニスバにとっては、永遠にも思える数瞬だった。

 それが、ソフォニスバがミケランジェロから受けた最後の助言だった。双方、気まずい雰囲気を払拭できないまま、彼女は追いたてられるようにローマを後にしたのだった。
 ポーランドがランクト美術館に、一五五六年にソフォニスバが描いた自画像が在る。
恩師にそう焚きつけられたソフォニスバは、二十四歳でそれを描いた。件の絵の中の彼女は、いまだ己の肖像画家としての才能に半信半疑なのだろうか、頑固そのものの硬い表情、そして、絵に対する真剣な、鋭利な刃もとい鈍器のように鈍く光る、鋭い眼差し。絵筆を持つ手指は、貴婦人に似つかわしくなく、日焼けしている。彼女が一流の画家として花開くのは、ミラノでアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドの肖像を描いたのがきっかけだった。ソフォ二スバの絵を気に入ったアルバ公は、彼女をスペイン王フェリペ二世に宮廷画家として推薦。その年の内に、ソフォニスバはスペイン宮廷に招かれた。それが、彼女の経歴の転機となった。

ソフォニスバ・アングイッソラ。
彼女は、一般に弟子をとらなかったとして知られるミケランジェロと、非公式ながら、確かに師弟関係あるいはそれ以上に、芸術家魂を通わせ、交流があった。芸術家の神髄は孤独にあるが、時に番いは必要で、その相手とは常に愛し合える確証などどこにもない。

(ミケランジェロは、この絵をどう思うかしら)

 ソフォニスバは、筆を走らせながら、頭のどこかでそんな風に彼の評価を得たがる自分がいることをいつも自覚していた。
だが、以後ソフォニスバがミケランジェロと再会することは、終ぞなかった。
 ミケランジェロ・ブオナローティ。享年八十九歳。ソフォニスバ三十四歳の時だった。彼女は既にスペイン宮廷お抱えになっていて、師がトンマーゾの腕の中で大往生したとの風の噂を耳にしたのは、だいぶ経った後のことだった。
(ミケランジェロ、)
 母ビアンカが死んだ時と同じく、涙は出なかった。
 当時としては珍しく、ソフォニスバは三十八歳まで夫を持たなかった。彼女の後援者、スペイン国王フェリペ二世は、ソフォニスバに持参金を持たせてシチリア総督に嫁がせている。子はいなかったが、仲のよい夫妻だったという。夫に先立たれたソフォニスバは、旅行中に乗船した船の船長と二度めの結婚をした。どちらの夫も、彼女の創作活動を出来得る限り支援し続けた。
 晩年、ソフォニスバは同じ志を持つ芸術家たちをサロンに招き入れ、かつてミケランジェロと舌戦を交わしたように芸術に対して意見を交わし合った。その中には、フランドル画家ヴァン・ダイクの姿も在ったと言う。ヴァン・ダイクの描いたソフォニスバの肖像には、彼女の意志の強そうな瞳が健在に描かれている。

『生き生き、君らしく描きなさい。決して、孤独になるな。君は強い。支援者を絶やすな。描き続けなさい。依頼に応え続けるんだ』

 そうして、彼女は恩師よりも永く、九十二歳まで画家として生き生き輝き続けた。

ー完ー

 この物語を、かつてお世話になった恩師 高畑勲先生に捧げる。