• 『クレモナの異彩~ミケランジェロの弟子』

  • 西川佳苗
    青春

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    生涯忘れ得ぬ師と彼女の舌戦や琴線に触れた束の間のやりとりとは。芸術を愛して止まない者たち故の心の葛藤と、本能的な惹き合い、その顚末。

第1 話「序章 異国で()の人を想う」

キャンバスから時折覗く、モデルの本質を突くような、冷静な視線が女性にしては鋭い。
絵画という表現に対する熱い情熱が、彼女の手が走らせる絵筆に途切れることなく滾っていた。引き結んだ唇、なだらかな稜線を描く太い眉は、意志が強そうに見せるのと同時に、頑固な職人魂をうかがわせる。キャンバスに描かれた覇王のほうが、威厳がありながらもリラックスした、穏やかな表情をしている。彼女がたった今描き終えたばかりの両の目は、遠く海の向こうの新世界に思いを馳せる冒険者のように、生き生き輝いて見える。
「巨匠ミケランジェロに師事した君だ。完成を楽しみにしている」
 スペイン宮廷お抱え画家として新しく迎え入れられたソフォニスバ・アングイッソラがこの日モデルにしていたのは、スペイン国王フェリペ二世その人だった。後に無敵艦隊を誇ったヨーロッパの覇者。完成した肖像画を気に入ったフェリペ二世は、自らの三人めの妻エリザベス・オブ・ヴァロワの肖像も、彼女に託している。
もちろん(シィ、セニョ)です(ール)
 言われるまでもない。真剣そのもののソフォニスバの脳裏には、気まずいまま遠く国を隔てて離れ離れになった、師から授けられた助言の数々がこびりついていた。
 いいかソフォニスバ、――出会ってから別れるまで彼女を決して子ども扱いしなかった石頭の老匠の声は年相応にしゃがれていたが、彼の言葉には、創作に対する情熱をいつまでも失わない者の力強さがみなぎっていた。――あれは、情愛だったはずだ。
『大切なことは、立ち止まり、考え、筆を止めることではない。なるべく大勢の、後世の人々に作品を見てもらうことだ。依頼に応え続けなさい。依頼主を絶やさず、自らに描き続ける道を課すんだ。女性に生まれたからと禁じられた些細な術など、君には必要ない』
 生涯己の道を貫いたミケランジェロだったが、六十近く歳が離れたソフォニスバ相手にかっこうつけることなく、彼女相手に嘆いても見せる、とかく人間くさい男だった。
『私が好きなのは大理石だ。描きたいんじゃない、彫りたいのに、絵を描けと人は言う』
 贅沢な悩みだと人は言うだろう。ソフォニスバやミケランジェロ本人、あるいは創作の道に魂を捧げることを運命づけられた、生まれついての芸術家にしか共感し得ない葛藤だった。ソフォニスバもまた、若くして生涯を苦しい道に捧げる決意は固かった。
(私は、描き続ける)
 いつかまた、彼に認められる絵を描けたなら――。九十三歳で大往生するまで、生涯、絵を描くことに心血を注いだソフォニスバは、独身のまま三十に成ろうとしていた。
時は十六世紀(チンクェチェント)。花開いてもう長いイタリア=ルネサンスだったが、ルターの宗教改革を発端に欧州では宗教対立が深刻になり、芸術の分野でも、万能人と名高いレオナルド・ダ・ヴィンチや天才ラファエロを縦続きに(うしな)い、イタリア戦争の足音も迫っている。
 冒頭からさかのぼること数年。一五五四年、物語の始まりは、永遠の都ローマ。
単独、カトリックの総本山サン・ピエトロ大聖堂を訪れたソフォニスバは二十二歳。
 当時南翼廊近くにある礼拝堂、とある枢機卿の墓上に設置されていたそれ(・・)を眼前にした誰しもと同様、ソフォニスバも例に漏れず息を飲み、唯立ち尽くした。紅潮した頬が熱い。瞼の奥が痛い。母を亡くした直後も決壊しなかった、頑なな涙腺さえ観念したようだ。
(『聖母(マリア)さまの、白)だ――)
 大理石像、とひと言で表現するには、主イエスをその腕に抱いて鎮座した聖母マリアは、あまりにも躍動的で、今にも動き出しそうにソフォニスバの目に映った。
 大の大人とはいえ、十字架からようやく降ろされたばかりの、傷だらけの我が子を女の細腕に抱いて、伏し目がちに、悲痛な色(無論すべて大理石の乳白色だ)を湛えて、だがどこか誇らしげに見つめるその瞳には、魂が宿っているのではないかとすら錯覚させた。
イタリア=ルネサンスの寵児にして巨匠、ミケランジェロの傑作『ピエタ』を前に、彼女は涙を禁じ得なかった。文字通り、時を忘れてそれに見入った。
 もしかしたら、悪漢に財布かなにかすられたかも知れない。が、そんなことは問題ではなかった。巨匠ミケランジェロの彫刻の中でも最高傑作と言って過言でないそれを、余すところなく鑑賞するには、時間がいくらあっても足らない。マリアの服のドレープの量感といったらどうだ。言葉にならない。深い溜め息が漏れた。まるで恋に思い悩む乙女だ。
ミレディ(お嬢さん)
 ソフォニスバに、背後から話しかける老人があった。老人と形容するには逞しい体格をしている上、彼女を呼んだその声は力強く、若々しい。少々猫背だったが、上背もある。
「どこかおかしなところでも?」
「いいえ……いいえ、完璧です。今にもマリアの目から涙がこぼれ落ちそう」
 そうすれば、イエスの腕はだらりと地に落ちて、母マリアは絶望し、息子の血で濡れた両手で顔を覆うにちがいない。ミケランジェロの彫刻には物語が、否、人生が宿っていた。
 瞬きすら忘れてピエタ像から目を離さずそう語るソフォニスバに感心したのか、老人は「来なさい」と促して、まだ大理石像に心奪われてぽうっと放心状態の彼女をシスティナ礼拝堂に案内した。それらは、圧倒的熱量、情報量、激情を以て立ち入る者を迎えた。
天井が高い。目の前、奥正面の壁には『最後の審判』、天井一面に描かれたフレスコ画を仰ぐ首が痛い。圧巻という言葉は、この空間のためにあるにちがいない。そう確信した。
「どうかね」
「ここで生涯を過ごしたいくらいだわ」
 アダムの創造、最後の審判。ソフォニスバもよく知る、キリスト教世界の聖書すべての物語が、そこに壮大なスケールで描かれていた。老人が可笑しがった。
「ここに住めるのは枢機卿に限られている。それもコンクラーベが行われる一時だけだ」
「まさか……マエストロ、――ミケランジェロ・ブオナローティ?」
 それが、ソフォニスバ生涯の恩師、ミケランジェロとの出会いだった。
「君は、絵を描くのか」
 ソフォニスバの利き手に筆だこを認めたミケランジェロは、改めて彼女の顔を正面からまじまじと見つめた。噂に違わず、ミケランジェロは遠慮のない人物だった。
「どう思うね」
「完璧だわ」
 訊ねられたからぱっと浮かんだ言葉を口にしたまでだったが、実際にはソフォニスバの感性はパンクしたか、麻痺してしまったかで、あまりのインプット量に情報が整理できず、いつもは小気味よく働く機知だって微塵も活躍しなかった。
「ミレディ。完璧など、この世界には存在しない」
 ミケランジェロの声が翳りを帯びた。完璧、と評したのが気に食わなかったのだろうか。我に返り、弁解しようとしたソフォニスバが他の言葉を探して伝え直そうとした時には、稀代のマエストロはとっくに姿を消した後だった。

(行ってしまわれた――)

第2話 出発点、そして分岐点

 ソフォニスバが単身ローマを訪れた経緯を語るには、時と、舞台を北に戻さねばならない。
 一五三二年。ソフォニスバ・アングイッソラは、イタリア北部の小さな都市クレモナの下級貴族アミルカーレ・アングイッソラの長女として生を受けた。生まれながら恵まれていたとは言い難い。彼女が物心つくより前に母ビアンカが早逝したため、ソフォニスバは六人の妹弟たちの面倒を看るのに日々忙しく、母の死に涙に暮れる暇もなかった。
 家族八人分の洗濯物を侍女任せにするのはなんだか申し訳なくて、ソフォニスバは毎日のように手伝った(さすがに水仕事は止められた)。真っ白なシーツに陽の光が透ける。
きれい、――ロンバルディアの風に揺れる大量の洗濯物。その下に隠れて、陽に照らされた地面に棒っきれで落書きすれば時を忘れた。道端に我が物顔で居座る猫を描いたり、しんみりする時には、記憶を辿って一生懸命に母の面影を形にしようとした。
(お母さん――)
「お姉ちゃん、とっても上手! もっと描いて!」
 ある日、末っ子である、まだ歩き始めたばかりの弟の手を引いて姉を探しに来た妹たちにばれた。姉弟七人がそろって楽しそうにしていた現場は、すぐ父に見つかってしまった。
(お父さま、怒るかしら)
 亡き母を思い出すのか、長女ソフォニスバと、母に生き写しの次女エレーナとは、特に距離を置きがちだった父の顔が、予想に反してぱっと華やいだ。
「すごいじゃないか、ソフォニスバ!」
 アミルカーレが人前で彼女の行いを褒め称え、抱擁してくれたのは、母がいなくなって以来、初めてのことだった。父は、絵を描く時間も充実させるようにと、まだ幼いソフォニスバに画材の一式をそろえて与えた。生まれついて真面目なソフォニスバは、朝に晩に、起きている時間を家事仕事と絵仕事、めりはりをつけて意欲的に取り組むようになった。
 一方で、妹弟の面倒を人任せにせず自ら看る生活は、ソフォニスバに自立心と、当時の貴族の子女にしては珍しい自活力を培った。加えて、女も男と等しく教養深くあるべしと、女子教育について『宮廷人』を著したカスティリオーネの影響を受けた父アミルカーレは、亡き妻の願いをも叶えるべく、我が子に出来得る限りの教育を施そうと努めた。
「僕も絵を塗ってみたい!」
「私もー」
 最年長であるソフォニスバの描き方は我流だったが、妹弟たちに指導することで、自らも改善点を見出したり、より面白い手法や見方、描き方の追究に勤しんだりした。
 アングイッソラ家が邸を構えていたクレモナは、イタリアでも有数の文化都市である。大聖堂や教会の壁画はトスカーナや北部の都市と負けず劣らず、ルネサンス芸術の恩恵を受けて美しく彩られ、姉弟の感性を磨くのに事欠かなかった。
「おお、いいね。これはいい!」
 思慮深く、自身も教養深かったアミルカーレは、幼子らが生み出した作品群を、時には手放しで、時には真実良いところを目敏く見つけては褒めちぎった。亡き妻の面影を受け継いだ愛娘たちの、朗らかで愛らしい笑顔。姉弟らの自己肯定感を高める最高の家庭教育だったであろう。だが十にも満たない頃から、妹弟たちの世話をこなすことに達成感を感じ、責任感と負けん気の強かった長女ソフォニスバは、父の賞賛だけでは満足できなかった。常に向上心を絶やさないことを己に課し、高みを目指す、長子らしい娘に育った。
 ねえソフォニスバ、――すぐ下の妹、エレーナが不思議そうに訊ねた。
「その絵、まだ完成じゃないの?」
 ソフォニスバのすぐ傍らから、姉が木炭で紙片に描きつけた素描を覗き込む瞳が美しい。一方で、小さな作家は、少女に似つかわしくない、眉間に皺を寄せて険しい表情のまま、分厚い唇をへの字に尖らせて「うーん」と唸った。まだ幼い弟アスドルバルに母の肖像を贈りたかったのだが、思うように上手く描けない。パン屑で消しては描き、消しては描き足しを重ねているうちに、頭の中にあったはずの完成形が迷子になってきた。ソフォニスバは愛おしい妹をしげしげと見つめた。母ビアンカの、青白いが美しかった顔に重なる。
(母さま)
 当時の良家の子女としては肉づきが薄く骨太で、ひょろりと背が高かったソフォニスバは、クレモナの街を歩いて見て周るのを妹弟の誰よりも好んだ。よく陽の光にあたっていたが故に肌が浅黒いソフォニスバとちがって、妹エレーナは陶器のごとく白い肌をしていた。実質、母代わりを務めていたソフォニスバは、勤勉な父に似たのか、顔の輪郭までその厳つさが酷似しているようだった。妹の、母譲りの器量が眩しい。ソフォニスバなりに母が恋しかったのだろうか、彼女は傍にいたがるエレーナと片時も離れようとしなかった。
 きっかけは、ふたりが共作した一枚の絵だった。
「なにを描いているんだ」
「これ、父上とアスドルバルよ!」
 それは、アミルカーレが末の弟アスドルバルを抱き上げている場面だった。子どもの落書きに過ぎなかったが、躍動感や捻りの効いた身体の線が見事だ。感嘆したアミルカーレは「神よ!」と天に感謝した。彼は、ソフォニスバとエレーナに花嫁修業をさせる前に、クレモナに工房をかまえていたベルナルディーノ・カンピに師事できるようはからった。
「うわあ」
 工房を覗いた姉妹は、感嘆の声を抑えられなかった。広い工房(ボツテーガ)の中では、たくさんの徒弟(ガルツオーネ)がそれぞれの仕事に真剣に向き合っている。木目の細かい()(プラ)の板木を薄く削る者、顔料を溶く者、大理石を削ったり磨いたりする者。木くずや石粉に塗れて大勢が働く中で響く、(たがね)が石を打つ独特な音は素人にはなかなかきついものがある。
 イタリアで古きから根を張ってきたギルドや徒弟制度の下では女性が工房で他の徒弟たちと共に学ぶことは許されなかった。だが、姉妹の才がずば抜けて秀でているのは親方も認めるところであり、芸術家の妻らしく柔軟な思考を持つ婦人アンナの元、姉妹は特別にカンピ邸の台所を工房に、オイルの調合を始め、兄弟子たちと同等に学ぶことができた。
「君たちの感性は、男のそれよりも繊細なのかも知れんな」
 親方も父アミルカーレ同様、褒めて若い才能を伸ばすのが上手かった。夫妻に、娘がいなかったのも手伝ったかも知れない。そんな姉妹に対する師夫妻の寵愛をよく思わないのは、もちろん兄弟子たちだった。中には、美少女エレーナに焦がれ、隙あらばものにしようと企む輩もいた。男勝りのソフォニスバが寸でのところで止めに入ったが、何度めかの強姦未遂の末、心底男相手に愛想を尽かした彼女は、とうとう俗世を見限る決意をする。
「そんな……私をひとりにしないで。エレーナ、」
「ソフォニータ、あなたは負けないで」
 高潔な父アミルカーレの元で育ったエレーナにとって、世俗の欲にまみれた若者たちの彼女を見る目には耐えられなかった。彼女は、実家アングイッソラ家から持参金をもらい、修道院に入って生涯神に仕える道を選んだ。
また置いて行かれてしまった、――べったりいっしょに過ごした時間が他の妹弟たちよりも長かったエレーナとの別離は、母の死と同じくらいソフォニスバには堪えた。だがいつまでもめそめそしてはいられない。まだ若いが、彼女の底力はその悲しみのすべてを創作への情熱に変えられることにあった。
(母さま……エレーナ……)
恋しく想う相手を思い出して描くことが多くなった。彼女は人を描くのが好きだった。
 夜、寝食を忘れて夢中になってする素描も、親方の作品に参加させてもらって描いた下絵も、木炭や絵筆手に動かしている間、ソフォニスバは心の底から充実する自身を感じた。
(私は、食べるのと寝るのと、――生きるのと同じに絵を描くことが好き)
 強い意志は、巨木が地に根を張るようにソフォニスバを形成していった。

第3話 運命の人

 一度根を張り巡らせた巨大樹が雨にも風にも、雪にも負けないように、ソフォニスバもまた、何事にも翻弄されず、女流画家として絵を描くことに没頭した。長じてめきめきと描画の才を開花させていくソフォニスバは、カンピ親方がミラノのスフォルツァ城に呼ばれた際もつき従い、親方の仕事を手伝い、技術を見て学び取った。師弟関係は良好だった。
そうして年長の親方と競作しながら生み出されたのが、現在はシエナ国立絵画館所蔵の『ソフォニス バ・アングイッソラを描くベルナルディーノ・カンピ』である。
キャンバスの中のキャンバスに、師と、師が描く自分がいる二重の肖像画という試み。
不思議、――筆を走らせながら、ソフォニスバは首を傾げた。
 カンピ親方が描く彼女には、ふっくらと丸い頬や目元が瑞々しく、年相応の華があった。彼女自身が捉えているソフォニスバという孤独な少女とは、異なる印象の顔をしていた。青年期としてのモラトリアムの中で、ソフォニスバは十八になろうとしていた。
 娘が描いた、二重の肖像画に類稀なる才能を感じた父アミルカーレは、暇を見つけてはソフォニスバに良作を見せようと連れて歩いた。きっかけは、ミラノを訪れた際に父娘で鑑賞した、スフォルツェスコ城に残された『ロンダニーニのピエタ』を前にしたソフォニスバの反応。きらきらと輝く瞳は、彼が妻ビアンカに求婚した夜に見た乙女のそれだった。
「ローマにも行ってみなさい」
 当時、ルネサンス美術の中心は往年のフィレンツェからローマに移行しようとしていた。ソフォニスバが感銘を受けた『ロンダニーニのピエタ』を製作したその人も、出身地フィレンツェで、()豪華(イル・マニフ)(ィーコ)のサロンに迎えられ、長年メディチ家をパトロンにしていたが、ロレンツォ・デ・メディチ死後、教皇庁の依頼に応えるべく拠点をローマに移していた。
 歓び勇んで単身ローマに旅したソフォニスバ(この時代、女性が単身旅行すること自体珍しいことだったが、彼女はカンピ親方の元でそういった術をも学んでいた)が真っ先に赴いたのが、サン・ピエトロ大聖堂だった。物語は、冒頭の場面に戻る。
 ソフォニスバは、開けた広場に出て佇んだ。サンタンジェロ城の向こうに広がる晴天の青、人々の往来を眺めていると、故郷クレモナとはがらりと異なる景色に、時を忘れた。
 何とはなしに鞄から紙片を取り出し、木炭を走らせる。ソフォニスバはしばしデッサンに没頭した。ふと目に捉えた、腰かけた老人と鳩をざっと下書きした背景に溶け込ませる。自然と、老人は先刻遭遇したミケランジェロの面影を帯びた。
「それは私か」
 背後からしたしゃがれた声に、驚いたソフォニスバが斜め後ろを振り返った。父とよく似た白髭を蓄えた老匠が、じっと彼女の素描に見入っている。なんだか服の下を覗かれている(無論、そんな経験はソフォニスバにはない)ようで、恥ずかしい。デッサンには、彼女の性格、癖、思惑、素顔すべてが浮き彫りになっていることだろう。
 ふむ、――御年八十を超えた巨匠、ミケランジェロは顎髭を撫でながら感心した。
「なるほど。君、名前は」
「ソフォニスバ・アングイッソラです。ローマには休暇で――」
「他のも描いて見せなさい。そうだな、あそこの父子を」
 話を遮って、ミケランジェロは彼女の線を見たがった。ソフォニスバは物怖じすることなく、すらすらと応えてみせる。父も親方も手放しで、あるいは助言をくれて、最後には褒めちぎってくれた。巨匠に素描を見てもらえる機会など、一生に一度あるかないかだ。
大丈夫、いつも通り描けばいい。何枚も、紙片の裏にも、絵を描いた。
 そうしてやる気と自信を奮い立たせた。が、背後に感じたのは冷笑だった。
「人に認められて当然だと驕っているな。否定されたことがないだろう。君に並ぶ才能の好敵手(ライバル)もいない。――哀れな」
 言葉を失う。手を止めた。もっと聞きたかった。訊いたら答えてもらえるだろうか。
 弁解する隙すら与えてもらえなかった。いったいどういう意味だろう。ソフォニスバの絵に、そんな驕りが表れていたとでもいうのだろうか。ミケランジェロは立ち去った。
 初恋であり、失恋でもあったのだと思う。もちろんアミルカーレの元、ありとあらゆる芸術に触れて育ったソフォニスバは幼少期より素晴らしい絵画や彫刻に囲まれて育ったのだから、宗教画や磔刑像にも数え切れないほど触れて感性を養ってきたし、彼女の繊細な感性に訴える作品は無数に存在した。
 だが、ミケランジェロの『ピエタ』が仕掛けた恋の罠は、フィレンツェで観たボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』や、ミケランジェロの『聖家族』よりも、ソフォニスバを捕らえて離さなかった。なにを隠そう、例のピエタ像は、ミケランジェロが一四九八年に枢機卿から制作を依頼されたもので、当時の彼は今のソフォニスバとさほど変わらない年齢だった。ソフォニスバも、ピエタを描いたことがある。十八歳の時だった。表現技法の見劣りについては、言い訳の仕様がない。今一度同じテーマに挑戦したところで、ミケランジェロの、乳白色(マリア様の白)ただ一色で表現された『ピエタ』には敵いそうにない。
 秘密を、作者の想いを、情念を、知りたい。父から受けた教育、親方の温情、なによりソフォニスバ自身の物事を俯瞰できる性格も手伝って、彼女は劣等感に苛まれた経験がないに等しい。どちらかというと、ひたすら前向きに描きたい絵を描くことが出来る恵まれた幼少期を送り、カンピ親方の元でありとあらゆる素材から、機会から、学びを得て来た。
 無論、芸術作品を前に感嘆した経験は無数にあったが、()()落ちた(・・・)ことはまだなかった。
(どうして、躍起になって教えを乞わなかったんだろう――)
 恋は女を美しくする。ローマから戻ったソフォニスバは、頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺める時間が増えた。伏せた睫毛が濃い影を落とし、恋する乙女を艶めいて見せる。
 たまたまだったが、巨匠自らソフォニスバを自身が造り出した空間に誘ってくれたのだ。貴重な機会を、みすみす逃してしまった。本来のコミュニケーション能力を、発揮できなかった。悔やんでも悔やみきれない。これだけ彼女の心を鷲掴みにした作品を生み出した張本人と言葉を交わす機会など、このままでは二度とないだろう。
 負けん気が強く、製作のため寝食に関して規則的な生活を心がけてきたソフォニスバが、みるみるやつれていった。紛うことなく、恋の病魔に冒されてしまっている。
話してみなさい、――見かねた父アミルカーレは、彼自身が偉大なる指導者だった。落ち込んだ様子の我が子を前に、慌てて医者に縋ったりしない。まずは、親自ら娘の話をヒアリングして原因と解決法を探る。まさしく人文(ヒューマ)主義(ニズム)的傾向の、素晴らしい父親だった。
「私に任せるんだ」

第4話 再び、ローマへ

 ソフォニスバの父アミルカーレは、なんとミケランジェロ本人に宛てて直接手紙を書きつけた。
まずは、ヴァチカンで愛娘の絵に目を留め、システィナ礼拝堂へと(いざな)ってくれたこと、言葉をかけてくれたことひとつひとつに深謝の言葉を綴った。少し大袈裟かも知れなかったが、既に御年八十を越えたミケランジェロは、まさに時の人である。言葉を尽くしての賛辞を受けて当然の著名人であり、貴族とはいえ、娘が新進気鋭の画家とはいえ、一介の父親が娘の面倒を見てくれるよう頼めるような相手ではなかった。だが、アミルカーレはそれを駄目元でもやってのける人間だった。彼の行動力は、後のソフォニスバの人生にもしっかりと足跡を残す。
 手紙は、こう続いた。『誉れ高いマエストロ、ミケランジェロ殿、……今一度、貴殿のお考えを娘にお聞かせ願いたい。……娘は必ず応えてみせることでしょう。そこでお願いなのだが、貴殿のスケッチをいくつか送っていただき、娘に着色させてみてはいただけないだろうか。……追伸 娘が貴殿の虜となっていることについては、私は事実を当然の運命と受け入れて、喜んで彼女を貴殿の(しもべ)として捧げる心算です』
 父は巨匠の指導を仰ぎたいと切望する娘に代わって筆を執った自身を、ミケランジェロの『従順なる(しもべ) アミルカーレ・アングイッソラ』と最後に署名して締めくくった。


 ミケランジェロのつきあい下手は当時から有名で、例えば、ヴィンチ村のレオナルドと比べれば、時に依頼主との関係をも無下にしてしまうような、不器用かつ無骨な男だったという。だがアミルカーレの丁寧な手紙が、かつて彼が若く無名だった時分にロレンツォ・デ・メディチに目をかけてもらった昔を彷彿とさせたのか、あるいは、娘への深い愛情に心動かされたか、とりあえずは手紙でされた依頼どおりスケッチを送って寄越してきた。
「お父さま、なんてすばらしいの!」
 感謝してもしきれない。改めて父の偉大さ、寛大さに感動したのはソフォニスバも然り。そんな厚遇に恵まれた若い画家が当時、他にいただろうか。ソフォニスバは早速、貴重な素材に目を輝かせて、昼夜問わず着色作業に夢中になった。言うなれば、大人の塗り絵の群を抜いた贅沢バージョンである。
すごい、――着色しながらソフォニスバは、黒炭による濃淡のみの素描だのに、今にも絵から事物が浮き出てきそうな、命あるものが動き出しそうな巨匠の表現に魅せられた。こんなの若輩が足元にも及ばない感性で着色してしまっていいのだろうか? だが断念してしまっては厚意を裏切ることになる。
(ミケランジェロは、なにを想いながらこれらを描いたんだろう)
 色を着ける前に、一枚一枚に散々思いを巡らせるのが、ソフォニスバの習慣になった。独り相手のことを思い耽るその行動は、やはり恋に似ていた。やがて、ミケランジェロのすべてのスケッチにソフォニスバの色が載せられ、巨匠の元に送り返されようとしていた。
「待って、お父さま、私、もう一度ローマに行きたい。彼に直接見てもらいたいの。直接、話を聞いてみたい」
 娘が若い情熱を燃やす姿に感動した父は、二つ返事で旅費、滞在費を工面してくれた。
 当時、ミケランジェロは現在のヴィットーリオ・エマヌエーレ二世記念堂が建てられた近く、ロレート聖母教会の傍に居を構えていた。永遠の都ローマはそれでなくとも誘惑が多い。が、目的は観光に非ず。ソフォニスバは、真っ直ぐ巨匠の居住地を訪ねた。

「ごめんください――」

 ノックするべきだった。田舎で半ば箱入り娘として育った彼女はすぐ反省した。強面の巨匠を真っ昼間から訪ねる強者などこれまでいなかったのだろう。施錠されていなかった扉をソフォニスバが何気なく開け放つと、壮年の男性ふたりの巨躯、裸体が彼女の両目に飛び込んできた。
「きゃあ!」
 どちらかというと可愛らしいというよりかは、野太く素っ頓狂な大声をあげてしまったソフォニスバも一応は貴族の娘、はっとして、開けてしまった大口を慌てて両手で塞いだ。
 抱えていた荷物が、大きな音を立てて辺りに散らばる。
 寝台から立ち上がり、今まさに衣を纏おうとしていたらしい男性からは歓迎されているらしい微笑を向けられたが、寝台に寝そべったままくつろいでいた老匠ミケランジェロは、気だるげに口を開いた。
こんにち(チャオ)は、お嬢さん(ミレディ)。どうやら、知らせよりも君の到着のほうが早かったようだ」
 見せてみなさい、――と、己が一糸纏わぬ姿であることなどなんでもないことのように手を差し出した。慌てて拾い集めた絵を再び抱えて、ソフォニスバは当代随一の巨匠の私室に踏み入った。その間に、ミケランジェロと懇ろなのだろう男性は着衣を終えたようで、嫁入り前の娘として、当然ながら見慣れない男性の裸体に緊張していた彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「トンマーゾ、もういい。今日は帰ってくれ」
「ほう、さすがマエストロ。お盛んだ。シニョリーナ、また近いうちに」
 彫刻のように彫りの深い、だが目尻の皺が人懐こいチャーミングな微笑にウィンクまでつけて見せた、トンマーゾと呼ばれた男性は陽気な上に、ソフォニスバに限らず、誰から見てもハンサムな類に入る顔の造形をしていた。カエサルの彫刻を彷彿とさせる巻き毛が柔らかそうだ。「そんなんじゃない」と、ミケランジェロがどすの利いた低い声でたしなめ、大きな目をぎろりとさせて睨みつけたが、物ともしない。ソフォニスバに投げキッスまでして揚々と扉から出て行った。
(かっこいい人だなあ)
誇り高い父親と、寛大なカンピ親方、世俗的な兄弟子たち。これまでの人生で接点があった異性の誰とも異なる性質を持った、まるでダヴィデ像のように屈強なトンマーゾは、ソフォニスバに鮮烈な印象を残した。彼女にとって異性の身体の細部を知る術は、彫刻の鑑賞が主だった手段だった。なるほど、立体は面白い。巨匠の手で生み出された傑作に魅せられてから、彼女は未だ手をつけていない表現技法にも興味を持った。
「それで?」
とりあえずは絵を受け取ったミケランジェロだが、彼女自身には目もくれない。はっと我に返ったソフォニスバは、今度こそ心のままに食い下がろうと口を開いた。
「あの、着色する許可を下さって、ありがとうございました。とても幸せな時間でした」
 ソフォニスバが着色して持参した絵に、ミケランジェロはざっと一通り、目を通した。ぎょろぎょろと落ち窪みながらも眼光鋭い目玉がよく動く様を見て、ぞんざいに扱われているのではないと判る。それだけ多くを観て、多くを見抜いてきた人の見方だ。
「だが、君の下絵ではない」
 ぴしゃりと言い捨てた巨匠は、やはり悪評通り偏屈な老人でもあったらしい。はなから決めてかかっていたのだろうか、すぐに次なる課題をソフォニスバに突きつけた。
「泣いている子どもを描いてみなさい」
 はい、――素直に頷きながら、ソフォニスバは内心(いいかげん、服を着て欲しい)と毒づいた。歳の割に引き締まった逞しい肉体とはいえ、婦人の前にいつまでも晒していていい姿ではないはずだ。それとも、
(ここに来たからには、女扱いはしないということか)
 半ば諦めて嘆息し、肩を竦めたソフォニスバは室内をぱっと見渡してミケランジェロの座す寝台が目に入らない位置に目敏く座椅子を見つけると、「失礼します」と詫びて、荷物から黒炭と紙を取り出した。まずはじっと思考を巡らせて紙に目を落としていたが、存外すぐに手を動かし始める。
(しっかりしなきゃあ)
 ここはカンピ親方の邸でも、大聖堂でも礼拝堂でもない。この空間の主は敬愛するミケランジェロその人で、彼と口を利き、作品を見てもらえるなど、まさに幸運で奇跡なのだ。男性器を見せつけられようが、性わりを見せられようが(いや、それはちょっと困るか)、ここに居させてもらえる幸運を、まずは感謝して精一杯創作に励まねば。
 果たして、覚悟を決めて素描に没頭するソフォニスバが聞いていようが聞いていまいがそもそもかまわなかったのだろう、ミケランジェロはぶつぶつ文句を並べ立てた。
「私はね、正直言うと、君を好きになれないんだソフォニスバ。君はいいお父上を持ったね。(シニョール)には感銘を受けた」
 ミケランジェロとソフォニスバでは、幼少期に親から受けた扱いがあまりにもちがい過ぎた。ブオナローティ家は、代々地方行政官を務める没落貴族で、五人兄弟の次男だったミケランジェロには文法学校を中退して芸術の道を歩むことを父親にとことん反対された過去と確執があった。フィレンツェでロレンツォ・デ・メディチに見出され、目をかけてもらえなかったら、今ここにこうしていなかったことだろう。
 だが、生まれる家は選べない。それはソフォニスバだって同じだ。
「自分が恵まれていることはわかっています。けれど、出自は自分で選べない。私だって好き好んで女に生まれたわけではありません」
「女であることは、君にとって足枷(コンプレックス)かい」
 哀れな妹エレーナの顛末を思い返せば、ソフォニスバは唇を噛んでしんみりせざるを得なかった。惜しかった。あるいは、妹のほうが画才はあったかも知れない。負けず嫌いな彼女は、妹にそう言って励ましてやることはついに出来なかったが、とにかく悔やまれる。
「学ぶ機会を奪われるのは、フェアじゃないとは思います」
 思わず顔を上げて唇を尖らせる。と、ミケランジェロとこの日初めて目が合った。老人、八十を越えているが、やはり眼力は衰えていないのだろう。
「ほう、それだけ恵まれていても高みを、――苦しい道を志すか」
 若者の反骨精神は嫌いじゃない。だが、それは苦い思い出でもある。ミケランジェロにも身に覚えがあり過ぎるのだ。兄弟子たちとの確執、一匹狼として生きる孤独。
 つまり、ソフォニスバの気骨にはミケランジェロも感心したようだった。それでも、
「君に、私が必要だとは思えない」

第5話 生活と創作

 冷たく吐き捨てられた言葉が、聞き捨てならない。憤ったソフォニスバは、手を止め、眉間に皺を寄せ、哀色に染まった目を潤ませながらも声を荒げた。
「そんなことない、じゃあ何故、下絵を贈ってくれたんですか?」
「私にとっては価値のない下絵ばかりだ」
 面と向かって投げかけたのを、そんな一言で一蹴される。むっと唇を尖らせたソフォニスバだったが、とにかく作品を観てもらう他ない、と、気を取り直して素描に集中せんと再び紙片に目を戻した。
(泣いている子ども、かあ)
眉間に皺を寄せて、じっくり課題について考えてみる。確かに、人が泣いている場面はあまり、――というよりも、全く描いたことがない。
 ソフォニスバの脳裏にありありと浮かぶ泣き顔は、末の弟のアスドルバルのだ。あれはいつだっただろう、(ざり)(がに)が、弟アスドルバルの指を挟んだのだ。驚いた弟が大泣きしたから、年長のソフォニスバやエレーナは心配した。が、彼と歳の近いミネルヴァやアンナ・マリーアは可笑しがった。それを描いた。
しかめっ面など描いたのは初めてだ。でも、なんだか楽しい。生き生きしている人々を、描き出す。素描に夢中で、ソフォニスバはいつの間にか背後に回って彼女の手元にじっと見入っていたミケランジェロに気づきもしなかった。
「やるな」
「いたんですか」
 ずっといたさ、――いつの間にか室内も夜気で冷え込んでいる。
どれくらい長い時間、描いていたのだろう。ソフォニスバの手元には、盛大に顔をしかめて泣き出さんばかりの男児と、不思議そうに見守る姉と思しき少女の素描。見事な出来栄えだった。この時彼女が描いたデッサンは、その後半世紀もの間、画家たちの間で模写されるほどだった。
「特に少年の頬の丸みがいい。くしゃっと顔を歪めた時、どの筋肉がどう動くのか、よく捉えている。上出来だ」
「ありがとうございます」
 彼女は謙遜とは無縁の娘だった。ミケランジェロのような堅物がいい点を見つけて褒めてくれるのだから、その言葉に嘘偽りはないのだろう。ソフォニスバは真摯に受け止めた。
 ソフォニスバの才能を、認めざるを得ない。そして、彼女のような小生意気な才能ある若人に口出しすべきなのは、石のように頑固な老匠に他ならないのかも知れない。かつてミケランジェロが、ヴィンチ村のレオナルドに焦がれ、崇拝すると同時に妬み、勝負を挑んだように。
 巨匠は、ばつが悪そうに、照れた童子がするみたいに頭の後ろをかきながら白状した。
「私にはロレンツォさまのように寛大な真似は出来ない。が、君を傍に置くことは出来る。これまでどおり、弟子はとらない。共作はしない。だが、見るのはいい。見て、なんでも私から盗むといい。私に見て欲しいものがある時は、とりあえず声をかけなさい」
 相手にするかどうかは別だが、――きまり悪そうにぶつくさ言うものだから、ソフォニスバは拍子抜けしてしまった。
(なんだ、不器用なだけで、優しい人なのかも知れない)


 育ちがいい所為か、お人好しでもあるソフォニスバは、老匠をちょっぴり見直した。が、翌日から師ミケランジェロと共同生活を送るようになって、前言撤回を余儀なくされる。
巨匠の作品づくりを、構想から、作業から、仕上げから、すぐ傍で見られるのはこの上なく貴重でもったいないくらいの厚遇と言えたが、その代わり、ソフォニスバは炊事洗濯、食事の用意、請求書などの公文書のゴーストライター、すべてを一手に担う羽目になった。
 苦ではなかったし、そもそも一家の家事を担ってきたソフォニスバだ。てきぱきこなすことは容易かったが、本来の目的はミケランジェロの元でおさんどんすることだったか?
(子どもみたいな人!)
 頑固じじいとの第一印象は、すっかり塗り替えられてしまっている。
「あの、朝からなにも口にされてないですよね?」
「だからなんだ」
 食卓に置かれたまま、もう硬くなってしまっただろうパンを尻目にソフォニスバがおずおずと話しかけるも、ミケランジェロが(たがね)を振るう手を止めることはなかった。
「お嬢さん。放っておくと、彼は三日三晩飲まず食わずなんてことを平気でやってのける男だ。よろしく頼むよ、気をつけてやって」
 部屋の片隅で、優雅に白のデカンタを楽しむ壮年のイケメンオヤジが両腕を組んでにこにこしながら不可思議な師弟の成り行きを見守っている、だなんてこともままあった。
「トンマーゾ、余計な口出しはするなよ」
 要するに、今までは家政夫兼庶務を、このやり手の男性がこなしてきたのだろう。彼のためとはいえ、お小言が煩わしくなったタイミングで、体のいい身代わりがクレモナからやって来た、といったところか。
冗談じゃないわ、――ソフォニスバが望む指導を仰ぐためには、ミケランジェロにはまだまだ長生きしてもらわねばならない。俄然、カンピ親方の元で奥方に仕込まれた料理の腕が鳴る。すべての道が集まるローマでは、珍しい食材にも事欠かない。
 が、ソフォニスバがどんなに美味しい料理をふるまって、代わりにトンマーゾが「美味い(ブオーノ)な!」と感心しても、ミケランジェロ自身は作業する手を止めないまま、左手に持ってそのままかじれる簡単な腸詰めや生野菜を好んで口にした。年齢の割に、この時代の人間にしては恐ろしく顎や歯が丈夫だ。大理石にも歯が立つらしい。
「石工に教わったんだ。大理石の良し悪しを判断するには、こうするのがいちばんだと」
 ソフォニスバは、師の真似をして大理石の欠片を舌で転がしてみた……が、歯が立つ、立たないの前に、当たり前ながら石の味しかせず、盛大に顔をしかめて舌を出した。
「大したお嬢さんだな」
 ソフォニスバが買い物に出かけている間、久しぶりに、トンマーゾはミケランジェロを寝台に誘うことができたのだった。仕事中、ずっとこわい顔で気を張りつめている巨匠も肩の力を抜いて、いくばくかリラックスした表情を垣間見せた。
「ものになりそうか」
「画家という意味でなら、今のままで十分一流だよ。彼女は」
「ほう、君が他人を手放しで褒めるなんてな。初めてじゃないか」
「そうか?」
「そうさ」
 いい傾向だ、――トンマーゾは満足そうに目を閉じて、筋張った両腕をうんと伸ばした。
「やはり女性はいい。肉が柔らかいし、華がある。甘い匂いもするしな」
 大らかなトンマーゾは、両刀(・・)だった。街を歩けば誰からも好かれ、声をかけられるし、愛想よく応対できる。憎らしいが、これもまた、ミケランジェロにはない才能だった。
「彼女は花というより、どちらかというと馬車馬だろう」
「そうさせているのは君じゃないか」
 まったく、ミケランジェロ・ブオナローティときたらこんなにも偏屈で人好きのしない変わり者だのに、大勢には理解し難くとも、深く関わった人間のすべてを虜にしてしまう魅力があるのだ。トンマーゾも彼に恋して囚われたひとりだった。だからソフォニスバの苦労は手に取るようにわかる。
「うら若い乙女に、恥をかかせるなよ」
「おまえが言うのか」
 ミケランジェロは今度こそ呆れて、大袈裟に嘆息してみせた。
なにを隠そうこのトンマーゾ、妻帯していてローマ郊外に居を構え、玉のような幼い娘がふたりもいるのだ。現代でいうところの介護士だったり見守り役、お目付け役として老匠の元に通い詰めて給金ももらっているのだが、平たく言うと愛人契約に近い。
ミケランジェロにとって、彼の存在は精神安定剤でもあった。外界を閉ざして創作に没頭するのは簡単だが、人間、外との繋がりをすべて絶ってしまうといとも容易く病んでしまう。元来、脆い生き物なのだ。
「ソフォニスバは、あるいは私以上に本物(・・)だよ」
「へえ、あなたがそんな風に言うなんてそりゃあ、雪でも降るかな」
 明るく朗らかに冗談を言いながら、トンマーゾはほんの少し寂しげに、すんと鼻を鳴らした。

第6話 coming soon