• 『恋の忘れ方』

  • 桃口 優
    ファンタジー

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    あなたには、忘れられない恋はありますか? その恋をもし忘れられたらいいなと思ったことはありますか?? これは、恋に悩み苦しむ人とその恋をなくしてくれる女性との不思議な物語。

第1話 初恋

 月が、今夜も欠けている。
 その周りにちりばめられてる星々も輝きが弱い。

 私、藤野 夕愛(ふじの ゆあ)は見上げて、ため息をついた。
 ここ最近ずっとまん丸い月を見ていない気がする。いつ見てもなぜかどこかが欠けている。
 月が空を照らさないから、夜の世界はいつまでも静かで暗いままだ。
 暗闇は嫌いだ。ある時が自然と思い出されるから。

 風が強く吹いて、静寂を乱した。
 街灯によってライトアップされた大きな金木犀の木が揺れた。
 そのオレンジの小さな花びらが、私のいるところまでポタリと舞ってきた。
 『舞う』という言葉を使ったけど、金木犀に桜のような優美さは残念ながらないとされている。『舞う』というより『落ちる』という言葉の方が合っているのかもしれない。そして、その舞う姿をわざわざ見にくる人は少ないだろう。

 いや、この世界では舞い散る姿に美しさを見出されているものは、きっと桜だけだろう。
 どの花も咲いている時はきれいだとかかわいいともてはやされるのに、散ってしまえば誰も見向きをしない。
 まるで人生のようねと思いながら、私は落ちた花びらに触れた。
 花びらは、なおかわいらしさを保っていた。
 でも、どうしてこの金木犀の木はわざわざこんなにライトアップされているのだろう。

 私は疑問を無理やり胸にしまい込んで立ち上がり、そのまま自分のお店の中に入っていった。
 お店の入り口には、天井からカラフルな水風船がいくつか連なっているものを数個垂れ下げている。それはかなり変わっているけど、のれんの役割をしている。また、その丸いものの中に灯りを入れていて、キラキラとさせている。
 店内の壁紙は水色よりずっと濃い青色一色にしている。さらに、キツすぎない程度の甘い花の香りを漂わせている。
 お店自体は、決して広くない。個人経営の洋服屋さんぐらいの大きさだろう。
 でも、広くないからこそお店にはこだわりをかなりもたせた。
 店内に、アンティーク調の銀色のかけ時計を法則性もなくいくつもかけた。でもそれらの時計はすべて止まっていて、なおかつ指し示している時間も全てバラバラにした。つまり、どれも正しい時間を示していない。
 このお店の中には、『時間』という概念はいらないと思った。
 人は皆まるで時間に追われるように生活している。
 このお店に来た時ぐらいはゆっくりしてほしかったから。

 また、店内で黒猫を自由に生活させている。
 「黒猫は不吉だ」という迷信のような言葉だけで黒猫は人に嫌われがちだけど、黒猫自体はもしかしたら人を好きかもしれない。
 大多数の意見によって、ある感情がねじ曲げられていたらそれは大変なことだ。
 私は、猫好きだけど、それだけでこの黒猫がお店にいるわけではない。
 黒猫のつぶちゃんは、立派なうちのお店の看板娘なのだ。

 お店の内装・装飾品全てはここに来る人が、今の汚れた世界の中ではない別の世界にいるかのように感じてもらうためにこのようにしている。
 不思議さや怪しさは、人を非現実の世界に連れていってくれるから。
 私がいつものように上下に揺れる椅子に腰をかけていると、つぶちゃんがにゃーっと鳴いた。
 どうやらお客さんが来たようだ。
 見た目は三十代ぐらいの男性だ。

 このお店にやってくると、その人の名前も年齢も地位も一瞬で意味のないものになる。
 なぜなら、私がそれらを相手に一切聞かないし、たとえ相手が勝手に話してきても私は言う言葉を変えることはないから。
 私が言うことはいつも決まっている。
 男性は、少し驚いているような様子だ。何かぶつぶつ言っている。
「忘れられない恋はありますか?」と、私は彼に近づいていった。
 歩くとかんざしについた色鮮やかな飾りが揺れて、音が鳴る。
 これは、過去を呼び起こす『鈴』だ。この音を聞くと、人は心の奥のにある思いを自然と話すようになる。
 これは魔術でも陰陽道でもない。そんな真っ当なものではない。

「忘れられない恋? それよりもここはどこですか?? 僕はどうしてここに来たのかわからないのです」
 私はその質問には答えず、男性の目をただじっと見つめた。
 男性がここに来ようと思って来たのではないことを私は知っている。ある理由からいつの間にかここにたどり着いていたのだから。
 ここは来ようと思ってすぐに来れるような場所ではないことを男性に伝えるのは時間の無駄だろう。だって、人は自分の知らない世界のことを信じようとしないから。

 リーンリーンと私はまたゆっくりとかんざしを鳴らす。
 男性は少し顔をそらして、その後で小さな声で話し始めた。 
「あぁ、忘れらない恋なら、あります。もうその人には何年も会っていないし、今その人が何をしているかも知らない。でも、ずっと僕の心の中にはその人がいる。いくら他の女性に恋をしても、その人のことがすぐに頭に浮かんでしまう。他の女性に失礼なことはわかってます。だから付き合ってもすぐにダメになります。その人のことを考えると胸がすごく苦しいのです。でも、それは、僕の大切な初恋なのです」
 彼はまだ話していたけど、私はそれをさえぎって、「その恋、なくします」と言ったのだった。

第2話 初恋の終わり

私は、まっ赤な着物の袖をゆらゆらと揺らしながら、お店の奥の方に男性を案内した。
 店の奥には小さな机が一つと椅子が二つ用意してある。椅子は、私がいつも座ってる上下に揺れるものとお客さん用のものだ。
 そして、男性が椅子に座る前にぐっと近づき、その男性を真下から見上げた。 
 突然距離が近くなると、人は驚くと共に何かしらの隙ができる。
 また、人は上から見下ろされるより、見上げられる方が話をしやすいらしい。見る角度も大切だ。

 その隙を、私は見逃さない。
 私は、まるで心の中をのぞくように男性の目をまっすぐと見据えた。
 私は少しでも高さがでる下駄を見る角度の理論から履かず、薄い黒の草履を履いている。
 また、この着物には、柄や模様は何も描かれていない。帯の色も黒一色だ。
 このお店でお客さんをお出迎えする時は、私はいつもこの着物を着て、この草履を履いている。
 誰かに「この格好をしてください」と言われたわけではない。私自身が好きでこの格好をしている。
 無地な着物はそこまで珍しくもない。ただこの着物の赤色の濃さは人を惹きつけるような異様さもあるし、草履は怪しくお店の雰囲気と合っている気がしたから。

「あなたの恋をなくします」

 私は改めて、先ほど言った言葉を繰り返した。
 同じ言葉を短時間に続けて言うことで、脳にある考えを司るところに響きやすいから。
 そして、私は翡翠色の丸い『鏡』を男性の前に置いた。
 それは、自立できるタイプのもので、顔全体を映し出すことができる大きさだ。
 もちろん、普通の鏡とは違う。
 黒き力が込められたものだ。

 この鏡が、この男性の恋をなくすのに必要なものなのだ。人によって使うものは変わってくる。恋とは幾重にも思いが重なって生まれる感情だから。
「鏡は、本来は今の自分を写すだけのものではありません。過去の姿を忘れ、現在を知り、その後の未来を想像させる役割もあります」
 男性はよくわかっていないような様子だったけど、私は話すことをやめなかった。
 相手の反応をいちいち気にする必要はない。私はやるべきことをするだけだから。
 この鏡で自分の姿を自発的に見てもらうことがまず大切だから。

「あなたには、この鏡に今何が見えますか?」
 私は鏡の向こうから声をかけた。きっと今男性には私の顔は見えておらず声だけが聞こえてくる感覚だろう。
「何って、僕が映ってるだけです」
「本当にそれしか見えませんか??」
 私がそう言うと、鏡が光り始めた。
 光りは男性を包むこんでいく。きっと今男性には先ほどとは違うものが見えているはずだ。
 さらに、私は初恋について小さな声で話し始めた。
 スピード感を出しながら同時並行で違うことを考えさせることで、脳は小さな混乱を起こすから。
 私はその混乱が生み出すものを必要としている。
「先ほど『僕の大切な初恋』と言っていましたが、そもそもそれが間違っています。あなたの思いは、最初から見当違いなのです」
 私は初めに男性を否定した。否定には思いがこもりやすいから。

「誰しも初めての恋はあります。それはあなただけじゃない。そこになんの特別感もありません。それは、ただの人生の通過点です。あなたが勝手に初恋だから大切だと感じているだけです。きっと大それた理由はないでしょう。それは『妄想』に近いと言ってもいい。それにあなたは、その初恋を今後発展させることはきっとない。他に大切なものはもっとあります。時間は有限ではないのです。それなのに、その恋にいつまでもこだわり縛られているつもりですか?」
 私は最後の言葉を言い終えると、鏡をさっと片付けた。

 言葉は、人を元気にすることもできれば、意志を奪うこともできる。
 私がただただ自分の思うことを好きに言っているわけではない。私が発する『言葉』も、恋をなくす道具の一つなのだ。
 私が用意した全てのものが重なり合って、大きな力となる。
 様々なことを緻密に計算して、私は行動をしている。
 男性は、うつろな目になっていった。
「恋を終わらすことは、悪いことだけではないです。新しい恋をすることができるのですから。初めは戸惑うかもしれません。でもあなたなら、きっと大丈夫です」
 私は、最後に男性の手にゆっくりと触った。
 この優しさにも、意味があってほしいと私は思う。
 でも、残念ながら優しさになんらかの力を込める方法を私は知らない。
 男性は小さくうなづいた。

 話が終わり、私は熱いコーヒーを差し出した。
 そして、しばらく様子を見ていたけど、男性から暗き悩みはきれいに消えたようだった。
 あの後、恋の話も、初恋の話も一切出てこなかったし、何よりも男性の表情がお店に来た時より明るくなっていたから。
 コーヒーも実は普通のコーヒーではない。すべて飲むとここに何をしにきたか、ここで何があったかを忘れるように念を込めてある。
 男性からしたら、このお店にはたまたま迷い込んできただけで、ここでは何も起きていないことになる。
 納得がいかないところもあるけど、それでいいんだと自分に言い聞かせる。
 男性に帰り道を教えて、私は男性が帰っていくのを遠くから見送った。
 その後ろ姿は、どこか肩の荷がおりているようにも見えて少しだけホッとしたのだった。 

第3話 片思い

『片思い』とは、非常にやっかいな病だ。
 私は前回のようにお店にやってきたある女性のお話を聞きながら、そんな風に思っていた。
 恋の中でも、『片思い』を終わりにすることは特に難しいから。
 むしろ、どこが終わりというのが明確にない。
 自分で自分の行動を決定することは、実は難しい。

 たとえ相手に気持ちがないとわかっても、相手を好きな気持ちを切り替えることは簡単なことではない。気持ちや心は自分でコントロールできそうで、できないものだ。
 だから、いつも行動を決められない。
 現に、この女性はもう立派な大人だ。私生活や仕事のことは一切知らないけど、きっと私なんかよりずっと真っ当に生きている。それなのに、現在進行形で叶うかもわからない片思いを長い間ずっとしている。私からしたら大切な今を無駄に使っている。
 しかも、この女性は相手に何かしらのアクションをかけることすらできていないようだ。香水の甘い匂いがする女性からそのような言葉は一言も出てきていないから。
 一歩でも踏み出さなければ、いつまで経っても可能性は0%のままだ。0に何をかけても1にはならない。
 何もしていないのに、その恋を忘れることができずただ苦しんでいる。
 いや、『片思い』という状態に、安心感を抱きつつあるのかもしれない。
 今の状態なら、自分が傷つくことなくひたすら相手のことを思うことができるから。
 それはあまりにも虚しいものだときっと女性は気づいていない。
 これらの情報は、前回と同じようにかんざしについてる『鈴』を使い、女性が聞き出した。
 私の前では、嘘をつくことも何かを隠すこともできない。

 女性は、ある程度話し終えると、突然私に「あなたはきれいね」と話しかけてきた。
 予想外の行動に驚いていると、女性はさらに「羨ましい」とつぶやいた。
 私は、この女性は自分に自信がないから何か行動ができないかもしれないと思った。
 同情はする。『自信』は様々な行動に影響を与えるから。
 むしろ女性の顔を見た人は、「醜い」というよりも、「美しい」という人の方が断然多いだろう。それぐらい整ったきれいな顔をしている。
 それなのに、この女性は自信がないために、行動ができない。
 羨むだけでは何も変わらない。変えることはできない。
 でも、そのことをわざわざ教えるほど私は優しくはない。
 たとえどんな状況でも、私がお店ですることに変わりはないのだから。
 私は紅色の唇を緩め、「私なんて対した人じゃないですよ」とさらっと言った。
 これは謙遜ではなく、本心からの言葉だ。
 確かに「肌が白いね」とか「小さなほくろが目の下にあってかわいいね」と言われたことは何度かある。
 でも、そう言われたのも、もうかなり前のことだ。
 言われていた時は、子どものようにすごく喜んでいた。本当に単純だったと、今では思う。
 今はもう褒められても、何の感情もわかない。
 私の心は、完全に枯れてしまったのだろう。

 私は小さな雑念を軽く吹き飛ばし、すぐに次の行動をすることにした。状態とは刻々と変わり、機会を逃せばもう待ってくれることはないから。机の下からとある小さな置き時計を女性の前に置いた。
 これは、このお店で唯一動いている時計だ。もちろん普通の物ではないけど。
 この時計の秒針は、普通の時計の十倍早く動く作りになっている。
 日常的にあるものが大きく変わると、人は大抵その変化にすぐについていけない。
 何が起きたのかわからなくなり、脳内はパニックを起こす。
 その時計をしっかりと見せながら、「あなたの恋なくします」と私はささやいた。
 かなり早く動く秒針が、女性の目を時計に集中させた。
 秒針は違和感をどんどん膨らませていく。
 それと共に女性はどんどん静かになっていく。

「一つだと完成しないものが、実はこの世の中にはたくさんあるのです。例えば、ハートの形って、二つのパーツでできていることを知っていましたか? ハートは真ん中で縦半分に二等分に分かれる。でも、切れ端の形はそれぞれでどのハートとも一致し、ハートのができるわけではないのです。誰かが持っている別のハートが自分のと一致すればやっとハートという形になれる。それが、『恋』というものです。つまり、ハートの片割れを大切にずっともっていても、一向にハートは出来上がらないのです。あなたが誰かに片思いしていることは、あなたの今の時間だけでなく、あなたの今後の全ての可能性を無駄にしているのです。それでもまだ思い続けるのですか?」

「もう、思うことはやめます」
 女性は確かにそう言った。無理やり言わされた感じは一切なかった。
 でも、表情は苦しそうだった。
 そして、そのまま何も言わずにお店を去っていった。
 私はこの女性の恋を忘れさせることができた。私は今回も間違ったことはしていない。
 それなのにどうしてこんなに後味が悪いのだろう。
 これじゃあ、まるで私が「悪者」みたいだ。
 私のしてることがおかしいことだというなら、私はどうしたらいいのだろう。
 私は何をすると許されるの?
 「私の行動を邪魔しないで」と、心に強く言葉を投げかけた。
 でも、当たり前だけど、なんの返事も返ってこなかったのだった。

第4話 復縁を繰り返す恋

 看板娘のつぶちゃんが、「にゃーにゃー」と鳴いていた。
 つぶちゃんはいつもは「にゃー」としか鳴かない。いつも違うことには、私はすぐに気づく。いや、気づくように最近なった。
 二回続けて鳴くとはどうしたのかなとお店の外に行くと、男性と女性の二人がお店の前に立っていた。
 「二人同時にきたから、二回鳴いたのね。すごいね」と私はつぶちゃんの頭をなでた。
 ゴロゴロと喉を鳴らしながら、つぶちゃんはさらに甘えてきた。
 もう一度つぶちゃんを毛並みにそって優しくなでてから、私は二人の目をしっかりと見て、「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
 二人はぎゅっと手をつないでいた。
 まとっている空気感も温かい。
 左薬指にキラキラとした指輪はしていないから夫婦ではなく、二人はカップルのようだ。
 でも、このお店にたどり着いたということは、恋のことで問題や悩みを抱えているということになる。
 ここは、人生の分岐点ような場所だから。

 私は二人をお店に招き入れて、いつもの方法でお話を聞くことにした。
 二人の出会いは、マッチングアプリだった。付き合いは長く、もう十年にもなる。
 でもその間に何度もケンカをしてその度に別れて、またすぐにくっついてを繰り返している。それがお互いにとってよくないことだということはわかっているようだ。
 まだその別れられない理由までは聞けていないけど、完全に別れることができず、ずるずる付き合いを続けている二人だということはわかった。

 お話を聞いていて、私はなんだか違和感を感じた。
 二人は優しい顔立ちだし、すごく仲がいいように見える。
 その雰囲気からケンカをしている姿を想像することができなかった。
 また、『マッチングアプリ』という言葉に、私の体が自然と反応した。
 スマホ一つで簡単に、どんな人かもわからない人とつながれてしまうことは怖いと思わないのだろうか。
 そういう出会い方が、最近増えているのは私も知っている。それ自体がよくないとは思わない。
 ただそれで知らない人と『縁』ができ、つながってしまうことが問題なのだ。
 私は「そのせいで…」と、あることを思い出しそうになったけど、強制的に思考を止めた。

 いくら悔やんでも、もう変えられないことってあるから。
 それに、今は私のことを考える時ではない。
 とにかく『縁』とは、一度できると簡単にはなくせない。また、『縁』は今の世では絶対的で、大切なものと思われている。
 考え方は元からあるわけではなく、人によって作られ、その一つの考え方だけが正しいと言われるようになる。
 『正しさ』とは、多数派の考え方であることにすぎない。

 別れられない理由は、過去にあった。お互いに辛い時相手に優しくしてもらったから、ぎくしゃくせず思いがしっかり重なっていたのを知っているから、今もきっとそんな風に戻れるとずっと信じている。
 その思いは、女性の方がやや強そうだ。
 だから、私は女性に話しかけることにした。

「人は変わります。どんな人でもずっと同じであることはないのです。それはいい意味でも悪い意味でもあります。信じ続けても、もう過去の彼は戻ってきません。それよりも今と向き合うこと方が大事だと思いませんか?」
「なんでそんなことをあなたに言われなきゃダメなんですか」
 男性が、突然私と女性の話しているところに割り込んできた。

 基本話をしている人を私が言葉で制御することはできるけど、その近くにいる人まで私の力は及ばない。 
 一対一ではないというイレギュラーはこのようなことを生じさせる。混乱を生み出す側の私が、どんな状況でも相手に圧倒されてはいけない。
 私は、男性をにらみつけた。
「それはあなたが、彼女を日頃から十分に安心させられていないからです。あなたがしっかりしていないから、他人の私が間に入らなきゃダメになってるんですよ。あなたたちの今の状況をあなたは本当にちゃんとわかっていますか?」
 男性は黙った。きっと男性も自分のダメなところがわかっているのだろう。

 私はその様子を確認し、マッチを擦り、アロマキャンドルにその火をつけた。
 『炎』は、人を落ち着かせることも、興奮させることもできる。
 古来より人は『炎』を自在に扱ってきているけど、まだ知られていない部分がたくさんある。
 炎は、勢いよく燃えている。
 女性は、その炎に一瞬で釘づけになった。

 私は、また女性に話しかけた。
「あなたは本当はこの炎のようになりたいと思っているのではないですか? 自分のことはどうでもいいと思えるぐらいの恋をしたいと思っている」
 そこで、私はあえて言葉を切った。
「その相手は、目の前にいる人ではないです」
 女性は涙を一粒流した。
 その涙が、女性の感情全てを語っていた。
 二人は熱いコーヒーを飲み終えて、ここであったことを忘れたはずなのに、ここにきた時のように手を繋ぐことはもうなかった。
 何が正しいかなんてやっぱり私にはわからない。
 それでも、この二人にとって今の恋を忘れ、前に進めることを私は祈ったのだった。

第5話 許されない恋

 世の中には、守らなければいけないルールというものが存在する。
 他人と接する上で、常識をその他のことより優先することは大事だ。この世では全体の輪を乱す行動は、理由も聞かずによくないこととされる。
 さらには、どんな理由でも許さないことというものもこの世にはある。

 お店に訪れてきた若い女性のお話を聞きながらそんなことを思い出していた。『若い』といっても、年齢を聞いたわけでもないから私の見た目と比べて自分より若いだろうと勝手に思っただけだ。
 この女性は、自分の会社の得意先の営業マンと不倫をしているようだ。相手はかなり年上で、一回りぐらい離れているらしい。しかも、相手も結婚していて、子どももいる。
 所謂ダブル不倫というものだ。
 二人の年齢差や相手が会社の得意先の人だという情報は、私にとってはどうでもいいものだった。でも、すべて聞くことで新たにわかることも時折あるから私は話を止めることはしなかった。
 それに私自身がそのような点にこだわると、このお店に矛盾が一つ生まれるから。

 『矛盾』は、その場の空気を一瞬で変えることができてしまう。だからこそ、矛盾点がないよう細心の注意を払わないといけない。
「どうして不倫なんてするんですか?」
 注意しなきゃと心で思っていたのに、馬鹿げた質問を私はしてしまった。
 勝手に心配になり、声をかけてしまう。
 本当に私はお人好しすぎる。
 これじゃあ、かつての自分と何も変わっていないと自分自身が虚しくなった。
「なんでって、夫が私に関心をなくしたから」
 女性は悪びれる様子もなく、そう言い返してきた。
「先にその旦那さんとちゃんと離婚してから、今不倫している方と付き合うという選択肢もありましたよね?」
 一度口から言葉が出ると、止まらなくなった。
 自分の言動が、どんな影響を及ぼすかを私も含め多くの人はわかっていない。それは本当は恐ろしいことなのに、私たちは簡単に言葉にしたり行動を起こしてしまう。

「だって彼は今の家庭を捨ててまで、私と一緒になってくれないことは付き合う前からわかってたから。彼は私がなんと言おうと私の元にやってきてはくれない。それなら私だけ一人になるのはおかしいですよね?」
「おかしくないです。相手と幸せな未来がないと事前にわかっているなら、その人に本気で恋をしなければいいんです。それほど難しいことではないはずです。『不倫』は、この世では絶対に許されないこととされているのを知ってますよね」
「寂しかったんだもん」
 女性はぷいっと横を向いた。その姿はなぜか純粋な子どもみたいだった。
「そんな個人的な理由で、不倫が認められるわけないじゃないですか!」
 私はこの女性を自分がなんとか変えたいと思っているのだと気づいた。どうやらこのおせっかいな性格は簡単には変えられないようだ。
「別に誰かに認めてもらう必要はないし。私は彼と少しでも一緒にいられたらそれだけで幸せなんだから」
「だから、その幸せ自体が認められないんです。世の中にはしてはいけないことがあるんです。いくらあなたが若いといっても、していいことと悪いことの分別はつきますよね?」
 私の言葉は、どんどん強くなっていった。
「世の中や周りの人にどうしてそんなにも合わせなきゃダメなの?」
「それは…」
 私は返答に迷ったわけではなく、はっと我に帰ったのだ。
 過去に余計な言動をしたから、私は今ここにいるのだ。
 そして、ここで私がすることは訪れてきた人の恋をなくすことだ。
 自分がすべきことを忘れてはいけない。
 それにある時を『思い出した』だけで、今の私はもうそんな風には思っていない。今は、『ルールは社会で生きていく上で確かに必要なものだけど、必ずしも全てを守る必要はない』と感じている。少しぐらいずるくてもいいのだ。ルールは人を不自由にし、縛るものだから。

「そうですね。合わす必要はない時もあります。あなたのことをよく知らないのに、無礼な発言をしてしまいすみませんでした」
 そう言ってから、静かに一度深呼吸をし、また集中した。
「顔をしっかり上げて、私の姿をよくみてもらえますか?」
 私はそう言いながら、いつもより少し強く椅子を上下に動かした。
「姿を?」
 女性は頭を斜めに傾けていた。その女性の動きに合わせながら、私はさらに椅子を動かした。
「ゆらゆらと揺れる椅子は、どこかあなたに似ていませんか? 自分のことをしっかりみてくれる人を探しているのですよね。でもあまり揺られていると、この椅子のようになりますよ」
 私がそう言いながら勢いよく立ち上がった。椅子はその力に耐えられず大きな音を立ててひっくり返った。
 もちろん、この椅子も普通の椅子ではない。人の心を同調させる力がある。

 いや、このお店にあるものの全ては恋をなくすために使うことができると言った方が正しいかもしれない。ある機関がこれらのものを全て用意してくれた。私はただここに来るように言われただけだ。
「あなたは、この椅子とは違う。少しだけ道を誤っただけです。あなたはまだ元に戻れます」
「私が間違えていました。教えてくれてありがとうございます」
 女性はそう言いながら、頭を突然下げた。
 私はすぐにどう反応していいかわからなかった。自分がそうするようにしたのに、反応できないなんておかしいのはわかってる。矛盾しているとわかりながら、どうしても納得することができなかった。

 私はその言葉に何も返事することができなかった。
 だって私がしていることは、『救い』なんかじゃないから。お礼を言われるようなことじゃない。そんな立派なことを私はしていない。
 私はただかつて犯した罪と向き合っているだけなのだから。

第6話 もう届かない恋

 満月が、暗闇を照らし出していた。
 今夜久々にきれいな月が空に現れたのに、私はなぜかよくないことが起きそうな気がしてならなかった。
 あれほど満月を待ち望んでいたのに、おかしなことだ。
 満月には不思議な力があるとよく言われるけど、この気持ちはそのようなものではないと断言できる。

 私は、もう不確かなものは信じないから。
 気持ちとは、やはり複雑だと改めて思った。
 光りに照らし出された先には、何かを背負っているように見える男性が立っていた。もちろん、物ではなく思いをだ。

 私は、すぐにその男性がこのお店のお客さんだとわかった。
 だって、こんな強い思いをもっているのだから。
 男性は私が話しかける前に、自発的に言葉を発した。
「もう届かない」
「届かない?」
 私はこんな状況は初めてで、正直不安になっていた。いつもは私が鈴を鳴らして、相手に話をさせているから。

 男性の眼には、私はどのように写っているのだろうか。
 どうして知りもしない人に、突然話しかけてきたのだろう。
 それと同時に言葉にはできない『恐怖』が押し寄せてきた。

 この気持ちは一体なんだろう。
私は何に怯えているのだろうか?

「どんなに思っても、どんなに言葉にしても、妻にはもう届かない」
 私が行動を起こさなくても、この男性はどんどん話してくる。
「奥様は、どうされたの」
「どうって、私が聞きたいぐらいです。病気を患っていたわけでもないし、心が弱っていたわけでもない。それなのに突然私の目の前からいなくなったのですから」
 私が話し終わる前に、男性は私の言葉に自分の言葉を被せてきた。
「つまり、奥様は事故に遭われたのですか?」
「『事故』? 一人の人が亡くなったというのに、あなたはそれを『事故』という言葉で簡単にまとめてしまうのですか??  私の気持ちを一切考えようとしないからそんな言い方ができるですよ」
 男性の言葉がグサグサと胸に刺さり、圧倒されそうになる。
 それと共に、私の心の中で『怒り』が静かに湧き上がってきた。
 この私が人の気持ちを考えていない?

「私は、妻のことを心から愛しています。結婚してからもずっと妻に恋をしています。妻はいつも私を一瞬で夢中にさせました。私も妻に気持ちをいつも伝えていました。でも、今はそれがちゃんと届いていたか確かめようがない。一人で妻のいない家で生活していると、毎日妻の愛情がたくさん見つかるのです。その度に私は自分の思いが妻に届いていたか自信がなくなっていくのです。私はこの世で妻の愛を見つけられます。でもこの世にはいない妻の元に、何かを届ける方法を私は知らないのですから。今できることはないことはわかってはいるのですが、何かできることはないかといつも考えてしまいます」
 男性は少し足を開き地面をじっと見つめていた。その姿から後悔ともどかしさを強く感じることができた。

 本当は誰かに文句を言いたいのかもしれない。でも悪意があって妻を誰かが殺めたわけではないから、その相手すら見つけられない。だから、気持ちをどこにぶつけていいのかわからないのだろう。
 こんなにたくさんの情報があるのに、私は男性に何も言うことができなかった。
 私はこの男性に、今の自分を重ねてしまっていたから。
 私も過去の自分の言動を後悔し、今も苦しんでいる。
 それなのに、今はこのお店で来た人の恋をなくすということしかできていない。
 本当はこんなのでいいのだろうかと常に悩んでいる。

 男性は、また話をし始めた。
 私は、話をさせることはできても、話を止める方法を知らないからただ聞くことしかできない。
「過去に戻って時間をやり直すことは、今の科学技術ではできないことはわかっています。でも、仮にここがやり直せる世界だとしても、それは何を生み出しますか? それはただの自己満足でしかないじゃないですか」
「あなたが、前に進めることもあります」
 私の声は今震えていないだろうか。
「私も馬鹿ではないので、あなたの言おうとしていることはわかります。昨日今日妻が亡くなったわけではないので、『妻を忘れよう』とか『自分の人生を生きよう』と考えた時もあります。でも、妻への愛情がそれをさせてくれないのです。他の人じゃ、全然足りないのです」
「あなたがずっとそんな状態だと、亡くなった奥様は安心できないと思います。少しでも奥様のお気持ちも考えてあげてください」
 自分でもありきたりで、弱い言葉だと言ってからすぐにわかった。
「おかしなことを言わないでください! 妻のことはずっと考えています。妻のことをいくら思っても、もう戻ってくることはない。顔を見ることも、見せることもできない。そんな状態で、どうやって安心なんてさせられるのですか」
 案の定、男性は私の言葉の矛盾点を激しくついてきた。
 男性に飲まれるのを感じる。
 私はこの男性の恋を今までのようにすぐになくすことができなかった。

 私はあの時のように、あの真っ暗なところに無理やり連れていかれるのだろうかとガタガタと震えてきた。
 もうあそこには行きたくない。
 恋は、やはり人生の中で大きなことなのかもしれないと私は思ったのだった。

第7話 制御はできない

 私はこれまでお店に来た人のことを思い出すことにした。
 短い時間の間に、本当に様々な人が来た。
 皆、恋に悩んでいた。
 その人たちの関わりで、何か新しく知ったことはないだろうか。目の前にいる人に今かける言葉は見つからないだろうか。
 『関わり』に、私はまだ期待をしているようだ。
 かつてあんなことがあったのに、私は全然変わることができていないみたいだ。

 恋が、もしも人の運命や今後の人生そのものを大きく変えるものだとしたら?
 そう考えると、自分がしてきたことにゾッとした。
 これじゃあ、あの時と何も変わっていないことに今更気づいた。
 このお店で、正しいことをしてきたかと自分に問いかけるのが怖くなった。
 誰かに恋する気持ち自体は、自分自身で制御することはなかなか難しいことだ。
 恋は論理的なものではなく、本能的なものだから。
 解き明かすことができないからこそ、恋とはキラキラしているのかもしれない。
 制御できないのに、運命や人生を変える力があるなら本人だけでなく、周りの人も言動に注意をしなければいけない。
 何気なく言った一言が、その人の人生を大きく変える可能性も十分にありえるのだから。
 重要か重要でないかは他人が決めるのではなく、本人が決めることだ。
 側からはささいなことに見えても、本人にとったらすごくすごく大切なことだったということはよくあることだ。

 私はそのことをもう知っているのに、これまでお店でお客さんにいつも考え方を押しつけてきた。
 一番矛盾してるのは、自分だと最初からわかっていた。
 でもそれをすることが私の犯した罪と向き合う唯一の方法だと言われたので気を強くもってお話などをしていた。
 でも、あの人たちは、私に一体何をさせたいのだろう。
 ここで恋を終わらせる理由はあるらしい。初めて私がここに連れて来られた時、教えられた。それは、「恋を終わらせることで、その人の人生を前に進めさせる」というものだった。でも、その言葉だけで、詳しいことは何も教えてくれなかった。
 私には、自分の犯した罪を思い出し、何度も認めさせることで私を苦しめているようにしか思えなかった。
 それに、どういう経緯かはわからないけど、このお店に来た人たちの人生は私のために利用されていいわけがない。
 思い出していると、ある気づきがあった。ここに来た人の中で、はっきりとは思い出せないけどどこかで見た人もいた。どうしてだろう?

 頭の中で様々な考えが同時に浮かぶ。それらは重なりそうで、重ならない。
 とにかくこのお店で私が今までしていたことに、私の意思は一ミリも入っていない。全てある人たちにそうするように命令されていたのだ。
 そして、ここは完全にある理由から人工的に作られた場所なのだ。偶然できたわけじゃない。
 大罪人に命令に逆らうという選択肢はない。でも、私にも心はある。そして、感情もある。

 こんなことをしていいのかと本当はずっと悩んでいた。
 胸が苦しくて仕方なかった。
 言動が、自分やその人のその後にどう影響を及ぼすかはすぐにはわからない。もしかしたらずっとわからないかもしれない。
 それには悪い言葉や行動だけではなく、よい言葉や行動も含まれている。
 何が原因で、運命や人生が変わるかなんて予測することは、簡単なことではない。
 そもそもそんなことをいちいち考えながら何かをする人は少ないと思う。行動に一つずつ理由をつけていたらいくら時間があっても足りないから。どんな人にも与えられている時間は等しく、二十四時間しかない。そんなことに時間を割くぐらいなら、もっと楽しいことに時間を使いたいと思うのが普通だと思う。
 私もかつては、多くの人と同じようにそう考えていた。

 でも、ある言動により一つの結果が生まれることは確かなことだ。さらに、言葉にしたり行動すると、それはその時だけでとどまらず、今後の様々な出来事にも何かしらの影響を及ぼし続けることも多い。
 そして、時間が経ち、自分がとった言動により何かが起きたとわかった頃には、もう改善することができない状態になっているのだ。 
 人は生きている中で後悔をたくさんするけど、それと同時に同じ過ちを何度も繰り返す。
 いや、思い描く姿に変われないから後悔すると言った方が正しいのかもしれない。
 人は、弱い生き物だから。

 私は過去のことをさらに思い出してみることにした。
 私はかつて道に迷って困ってそうな人がいたから、声をかけた。そして、道案内をした。
 特にそのことで何か起こるとは予想もしてなかった。
 また、その人に感謝されたり、周りの人にあの人はいい人だと思われたかったわけでもなかった。そんな邪な気持ちは本当になくて、ただその人の力になりたかっただけだった。
 よく言えば、純粋だった。悪く言えば、周りを全く見えておらず世の中を知らなすぎた。
 だってそんな些細な行動などが、今の私の現状に繋がったのだから。

 私は、ある日突然捕らえれた。そして、何が起きてるかもわからないまま罪を告げられ、牢屋に入れられた。
 でも、牢屋の中よりももっと怖いところがあった。
 あの真っ暗なところは、本当に恐ろしかった。
 少し過去の自分のことを思い出して辛くなってきたので、考えを強制的に止めることにした。
 自分を守れるのは、自分しかいないから。他人なんて力になってくれない。
 今まででお店でしてきたことと自分の過去のことを思い出したけど、結局目の前にいる人にかける言葉は何も見つからなかったのだった。 

第8話 思い出にする

 私がこの人の恋をなくさなければいけないと改めて思った。
 それが今の私のすべきことであり、この人のために私ができる唯一のことだから。
 人はその時々で、できることは実は限られている。たとえ何かをしてあげたいという気持ちがあっても、様々な制約がかかりできないことも多い。
 いや、それも一つの事実だけど、別の観点からみるとそうしなければ私が「あの真っ暗なところ」にまた連れて行かれることになる。
 正直そのことの方が私には気になることだった。この人には少し申し訳ない気持ちになるけど、生きていく上で自分のことを考えることも大切なことだから。
 「あの真っ暗なところ」とは、罪が深い人を裁く特殊な裁判所のことだ。
 普通の裁判所は、明かりに照らされている。
 裁判官がいて検察官がいて、罪人を弁護してくれる人もいる。裁判を傍聴している人もいる。
 その中で公正に判決がくだされる。

 でも、この特殊な裁判所は、判決を決める人と罪人しかいない。明かりは全くついておらず狭くて真っ暗で、不気味なところだ。罪人は話すことも動くことも許されていない。
 どこにも公正さはなく、独断で決められたことを伝えられ、罪人にはそれを受け入れることしかできない。
 合法か違法かとあえてわけるなら、限りなく違法に近いだろう。違法だと知りながら、平然と行われていることは世の中に確かにたくさんある。それにはもちろん大小はある。小さければ、道端へのゴミのポイ捨ても含まれる。すべて正しい行動をしている人はきっとこの世にはいないだろう。でもこれほどまでの規模のものとなると今も存在しているということはどこかの層に社会的に強く認められているのだろう。
 とにかく、そこで私は刑を伝えられた。
 まるで、底が見えない沼に入ってしまったような感覚になった。暗い中で、未来が突然見えなくなって怖くて仕方なかった。
 昔からずっと裁判所は二つ存在していたらしい。ただ多くの人にそのことが知られていないだけだ。
 普通の裁判で裁けない人や公に裁くことができない特殊な事情がある人は、このもう一つの裁判所に無理やり連れて来られる。
 さらに、罪人は裁判所から出るとすぐに二十四時間監視されることとなる。腕に特殊な器具を取り付けられ、すべての行動が記録とデータ化されたくさんの知らない人たちに共有される。罪人に自由は一切保証されていない。
 また、この裁判所の関係者が、あのお店を作り、私にお店に来た人とどう接するか命令した。
 この裁判所の一番怖いところは、罪人が罪と向き合っていないとわかるとまた無理やり裁判所に連れていくことができることだ。あの重い暗さを何度も味わうと考えただけでゾッとする。さらに、罪人が裁判所に行く度に刑がさらに重くなるようになっている。

「あなたの恋をなくします」
 私はある覚悟を決めて、そう言った。
「恋をなくす? そんなこと求めていません。やめてください」
 男性は強く反発を示した。
「恋をなくしたくない気持ちはよくわかります。あなたがこの恋をどれほど大切にしているかもしっかり伝わりました。でも、なくすと言っても完全に消えてしまうわけではないのです」
「どういうことですか?」
 男性は首を傾げた。
「思い出にするのです。確かに恋はなくなりますが、永遠に形として残ります」

 当たり前だけど、今ある縁を深めることは裁判所関係の人に禁止されていることだ。私は今命令されていること以外のことをしている。
 一般的に縁が深まることで、人は周りが見えなくなりその縁に固執し忘れることが難しくなるから。
 たとえ恋を忘れさせることができても、私が今していることは無罪とされないだろう。罪がさらに増えることになる。現に今腕にある器具は赤く光り、警告を知らせている。
 それでもいいと、私は諦めではなく心から思ったのだ。
 忘れてしまうならせめて思い出としてずっと残っていてほしいと私は感じた。
 私はお店の入り口まで行き、のれんとして使っているカルフルな水風船を一つとってきて、この男性に見せた。

「あなたが、奥様といて一番幸せだった時はどんな時ですか?」
 丸いものは、安心感を与え、心に少しの隙を作る。
「一番幸せだったのは、特別ではない日常の何気ない瞬間に、二人で笑い合っていた時です。今でもその時のことを鮮明に思い出せます」
「それは素敵な時間ですね」
 私は男性を肯定する。肯定には優しい思いがこもりやすいから。
 男性はまた話をし始めた。
 それと共に、水風船は男性の思いや力を吸いとっていく。
「大丈夫です。あなたの強い思いがこもったこの水風船はちゃんとあなたに渡します。たとえ恋がなくなっても、あなたがこの水風船が何がわからなくなっても、一生大切に持っておくように念を込めておきますから」
 道具も使い方によっては、お店に来た人に寄り添うこともできる。これを人は力の『悪用』と言うのかもしれないけど、そんなことはどうでもよかった。
 この男性の強い思いが、私を変えた。ただそれだけだから。
 男性は、水風船をしっかり抱えてこの場を去っていったのだった。

第9話 coming soon