• 『酒のことば』

  • 降谷さゆ
    その他

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    二十歳の誕生日、父さんから「飲みに行くか」と誘われた。厳格な父さんから逃げるように家を出て、顔を合わせるのは2年ぶりだ。 酒は人との関係を深めることも壊すこともある。そんな酒にまつわるショートショート。

第1話 嫌いじゃない

シワひとつないスーツに袖を通し、慣れた手つきでネクタイをキュッと締める。大手企業の役員という責任ある立場だからだろうか、威厳すら感じさせる佇まいは非の打ち所がなく、まるで隙がない。

毎日朝早くに家を出て、家族が寝静まるころに帰宅しては書斎にこもりパソコンに向かう。そんな生活を続けているのに疲れた顔なんて一切見せず、休日は家族との時間をとても大切にしてくれる。
それが子供のころから憧れていた俺の父さんだ。

俺は父さんを超えるどころか追い付くことすらできない。そう悟ったのはいつだろう。
理不尽に叱られたことなんて一度もない。父さんの言葉はいつだって正しい。だからこそ、一緒に過ごして父さんを見ていると自分自身の無力さや不甲斐なさを思い知って、大学への入学を機に逃げるように家を出た。
もう2年近く、父さんとは言葉を交わしていない。

そんなある日、届いた一通のメール。
『和馬、来週の土曜日飲みに行くか』
無駄のないシンプルなメッセージが父さんらしい。来週の土曜日は俺の二十歳の誕生日だ。
大学生になってからというもの、サークル活動や合コンに明け暮れる毎日で、勉強なんて全くしていないから会わせる顔がない。
どう返信しようか、いや無視しようか。そんなことを考えているともう一通メールが届く。
『十八時に駅前の串屋六兵衛で待っている』
俺が返事をしないことをわかっていたのだろう。昔から察しがいい。


行くか、行かないか。結論が出ないまま当日を迎えてしまった。返事をしていないから俺は来ないと思って、父さんもいないのではないだろうか?
それを確かめに行くだけだと自分に言い聞かせ、指定のされた店に足を運ぶ。
父さんのことだから堅苦しい敷居の高い店だろうと思っていたが、路地裏にあるその店はとても綺麗とは言い難いこぢんまりとした昔ながらの大衆居酒屋だった。

チリンチリン♪
ドアを開けると鐘の音が店内に響き渡る。
(あっ…………)
入口のすぐそばのカウンター席に座っていた父さんが音に反応してこちらに顔を向け、しっかりと目が合った。2年ぶりに顔を合わせる気まずさだろうか、緊張だろうか、俺はごくりと息を飲む。
「和馬、来たか」
少し父さんの口元が緩んだように見えた。記憶のなかの父さんよりも少し白髪やシワが増えて老けた姿に、2年という月日の流れを実感した。
「……俺が来ないとは思わなかったの?」
「なんだかんだお前は来るんだよ」
「なんだよそれ」
なんだか気恥ずかしくて、つい突き放すような口調になる。

「……おめでとう。今日から和馬も立派な大人だ」
そう言って丁寧に包装されたプレゼントの箱を俺の前に少しぶっきらぼうに置いて視線をそらす。父さんも少し照れているようだ。
「何これ?」
「成人祝いだ」
そうじゃなくて中に何が入っているか聞いているんだけど、と思いながら包装を解いてみると、ブランドに疎い俺でも知っている高級な腕時計だった。
「俺まだ二十歳だよ? こんな高いの……」
いったいバイト代何カ月分だろう。一年くらいかかるのではないだろうか。そう思うと気後れしてしまう。

そんな様子を見てか、落ち着いた口調で父さんが語り出す。
「父さんが二十歳になったときも同じように高級な腕時計を親父からもらったんだよ。これを持つのにふさわしい大人になれってな」
「…………」
「でもな、和馬。それはいい会社に勤めろとか、出世しろとか、そういうことじゃないんだ。父さんは今でこそ役員だけどな、嫌なことから逃げ続けていた若い頃には後悔の方が多いし、保身のために仲間を裏切ったことだってある。母さんからも情けないって何度言われたかわからない」
「……そうなの?」
初めて聞く父さんの若かりし頃の話。昔からずっと優秀で間違った選択なんてしない人だと思っていた。
「そんな自分にずっと嫌気がさしていてな、変わろうと思ったのも三十歳になるくらいだったからここまでくるのにずいぶんと遠回りをしたよ」
父さんは懐かしむように目を細めて少し先に視線をやる。

「……和馬、お前にはな、人として正しい道を選ぶ大人になってほしいんだ。そうしていれば結果なんて後から勝手についてくる」
「…………うん…………ありがとう」
父さんにありがとうなんてもうずっと言っていなかった。いつもだったら口に出せないこの言葉が、今は心の奥からすっと出てきた。
慣れない言葉に父さんも驚いていたが、ふっと笑みがこぼれて嬉しそうだ。

「ほら乾杯だ」
ドリンクメニューを見ようとしているうちに注文されて手渡されたのはビールだった。
「……俺ビール初めてなんだけど」
「ビール以外はあるのか?」
一瞬、眉間にシワを寄せて怒ったような表情になったから慌てて否定する。
「いや、ない! 酒飲むの初めて」
その言葉は本当だ。サークルの飲み会も合コンも未成年だった俺はいつも烏龍茶。
「……なんだかんだ真面目だよな」

カツン、とグラスをぶつけて乾杯し、恐る恐るビールに口をつける。
「…………どうだ?」
まじまじと俺の様子をうかがう父さん。
「…………」
なんだこれは、苦いだけでまるでおいしくない。大人はこんなものを好んで飲んでいるっていうのか? でも、なんでだろう……。
「どうだ?」
「……嫌い……じゃない」
その言葉に、ぷっと吹き出してからかうように笑われる。父さんがこんなに笑った姿を見たのはいつぶりだろう。
ビールの味は嫌いだ。今後も好きになれる気がしない。でも、なんだか今日飲んだビールは嫌いじゃない。


――それから三カ月後、父さんはこの世を去った。
俺と飲みに行く数カ月前から体調を崩しがちで、検査の結果は癌でもう長くないことを告げられていたそうだ。心配をかけたくないから和馬には言うなと母さんに強く口止めをしていて、だから飲みに行った日が生きている父さんと会う最後だった。

「父さんね、夢が叶ってすごく喜んでいたのよ」
「…………夢?」
「あなたを妊娠して男の子だってわかったときから、息子が成人したら一緒に飲みに行くんだって二十年も前から楽しみに待っていたんだから」


まだ自分には不相応な腕時計を見るたびに、あの日の父さんと過ごした時間と嬉しそうな笑顔を思い出す。
そして、あの日飲んだ苦いけれど嫌いじゃないビールの味もきっと忘れない。

~第1話:嫌いじゃない 【完】~

第2話 察して

「どうしたらいいかわかんねーよ」
ガンッ、と焼酎グラスがカウンターに叩きつけられる。
「なんで女って察してって無茶言うの? 俺はエスパーじゃないっての!」
大きなため息をついて私の隣で不貞腐れた顔をしているのは幼馴染の亮也。
「……女の私に言う?」

社会人になってから三年。毎月給料日のあとにこうして二人で飲むのがいつの間にかお決まりになっている。
先月は彼女ができたと自慢げに報告してきたのに、もう愚痴が募っているらしい。

「真奈は男友達みたいなもんじゃん?」
いたずらな笑顔をこちらに向ける。
「それ褒め言葉じゃないよね?」
「それだけ心許してるってこと。つーか真奈はその辺の女と違ってはっきりしてるじゃん。彼女も真奈みたいに言いたいことは口に出してくれればいいのにさー……」
はあーと再び大きなため息をついて、グラスに三分の一ほど残っていた焼酎を飲み干す。

亮也は彼女の控えめなところに女性らしさを感じて好きになったらしい。
行きたいところを聞いても、食べたいものを聞いても「亮也くんの好きなところに行きたい」と言うのに、自分の要望と違ったときはあからさまに不機嫌になって、その理由を聞いたら「察してよ!」と怒られたんだとか。
まあ、よく聞く男女の思考の相違だ。

「いるよね、そういう察してちゃん」
少し見下すような口調で返事をする。私はそういう女が一番嫌いだ。
「本当は行きたいところも食べたいものもあったってことだろ? 言ってくれなきゃわからないっての!」
「まあ、亮也は特に鈍感だから。デートなのにラーメン屋に連れて行ったんじゃないの?」
ゲラゲラと声を出して笑うと、すねた子供のようなムッとした表情で睨まれた。
「そこまで気が利かない男じゃないから!」

男は論理を重視し、女は感情で判断する。男と女では考え方が違うだとか、脳のつくりがそもそも異なるなんて言っている人もいる。
何が本当かはわからないけれど、性別も育ちも違う人間同士がすべてを分かり合えることなんてない。私はそう思う。

「それならはっきり意見を言うような人と付き合えばいいじゃん。その方がお互い不満がないんだし」
このセリフを言うのは何度目だろう。彼女に古風な女らしさを求めるくせに、男のことを理解していないというのが亮也のいつも抱える不満だ。
「そう都合のいい人なんていないから」
頬杖をついて、氷だけになったグラスをカランカランと音を鳴らして眺めている。
「……すみませーん、注文お願いします」
ちょうど通りがかった店員に声をかける。
「あ、俺は同じのもう一つ!」
「私は……アプリコットフィズで」
「なにそれ? そんなオシャレなの飲む人だっけ?」
私の手元のメニュー表をのぞき込み、聞き慣れないお酒の名前に怪訝そうな顔をしている。

アプリコットフィズ。甘くて優しい香りだけどさっぱりとした清涼感のカクテル。カクテル言葉は『振り向いて』。
私だって暇じゃない。幼馴染とはいえ、ただの友達にマメに付き合ったり、愚痴の聞き役になったりなんてしない。
……本当、この人は鈍感。


その数日後、亮也からメールが届いた。
『彼女にフラれた~。またいつもの店で話聞いてよ』
人の不幸を喜んではいけない。それなのに嬉しく思ってしまう性格の悪い自分に嫌気がさす。仕方ないな~なんて返信したけど、本当はフリーになった亮也に会えるのが待ち遠しかった。


なのに……。
店に着いて亮也から告げられたのは、彼女と復縁したことだった。
「彼女もさ、言葉にしないとわからないよねって謝ってくれたんだよ」
満面の笑みでそう言う亮也の顔を見ているのがつらい。
「へー……」
素っ気ない返事をしながら、私が口にしているのはカカオフィズ。コーヒーのほろ苦い味はまるで今の私の心のようだ。カクテル言葉は『恋する胸の痛み』。
以前よりお互いを理解できているとか、仲直りの記念に来週は二人で初めて旅行するとか、なんで私は胸が締め付けられるような思いでこんな話を聞いているんだろう。

「真奈? なんか今日変だぞ?」
「別に……」
鈍感なくせに、私の機嫌が悪いことはわかるんだ
「なんだよ、絶対何かあるだろ。いつもみたいにはっきりと――」
「――ごめん、具合が悪いんだ。今日は帰る」
泣きそうな顔を隠しながら、一万円札をカウンターに置いて逃げるように店を出た。二百メートルほど離れたところで一度振り返るが、そこには誰もいない。
(…………追いかけてくれないんだ)

帰宅してからスマートフォンをバッグから取り出すと、亮也からのメールが一通。
『無理すんなよ』
優しいような、素っ気ないような一言。このメールをどんな気持ちで送ったんだろう。きっと私の気持ちには一切気付いていない。

翌月も、その翌月も、亮也から飲みの誘いはあった。でも、仕事が忙しいとか、用事があるとか適当なことを言って断り続けていると、亮也からの連絡はぱったりと途絶えた。
これで終わった、そう思っていた。でも、亮也に最後に会ってから一年が経ったある日、再びメールが届く。
『真奈に大事な話がある。今晩いつもの店で待ってるから』
私の予定を聞くでもなく、一方的な約束を取り付けるメールだった。

店に着くと、見たことのない真剣な顔をした亮也がカウンター席に座っている。
「なに? 話って」
「良かった、来てくれた」
ヘラっと笑みを浮かべ、私が来たことに安心した様子だ。
「なんか久しぶりだね」
「そうだな。仕事だいぶ忙しかったんでしょ?」
「まあ、そうだね……」
久しぶりだからか、お互い少しよそよそしい。しばらく沈黙が続いたあと、口を開いたのは亮也だった。

「あの……さ、俺彼女と別れたんだよ」
「そうなんだ」
「うん、もう半年以上前。それでさ、いつもだったら真奈が話聞いて慰めてくれるじゃん。でも誘っても全然会ってくれないしさ」
「なにそれ、嫌み?」
「違うって! その……俺には真奈がいないとダメだなって気付いたんだよ」
「…………」
思いもよらぬ言葉に、驚いて固まってしまう。
「真奈は男友達だなんて言ったけどさ、好きだなって気付いたんだよ」
「…………」
ずっと心の奥で願っていた、一番ほしかった言葉。でも……。
「真奈?」
「…………ダメだよ」
「え?」
そう、私じゃダメなんだ。
「――私さ、彼氏ができたんだ。その人がやきもちを妬いちゃうから、亮也と会うのはこれが最後」
「…………そっか、遅かったか。…………幸せになれよ」
「うん、ありがとう」

この日私が飲んだのはピニャコラーダ。ラムとココナッツミルク、パイナップルジュースで作った甘いお酒。カクテル言葉は『淡い思い出』。
彼氏ができたなんて嘘。涙が出るほど嬉しい告白だった。でも、怖いんだ。臆病で本音を言葉にできず、こうしてお酒に想いを託している私もたいがい察してちゃん。
それを亮也に知られたら、きっと私のもとから去ってしまう。

だから、傷つく前に……。
さよなら。

~第2話:察して 【完】~

第3話 またね

はあー……、と大きなため息が漏れる。
金曜日の二十二時。世間はいわゆる『華の金曜日』、談笑する声で店内は賑わっている。
かくいう俺はというと、薄暗い洒落たバーのカウンターでひとりウイスキーに口をつけている。はたから見れば週末の夜を満喫している余裕のある男に見えているのだろう。

一年半ほど前、さえない毎日に嫌気がさして偶然立ち寄ったのがこの店で、それから毎週末訪れる常連になっている。この洒落た店に一歩足を踏み入れれば何かが変わる気がする、そんな期待があった。
しかしそんなのは夢のまた夢。俺と同様に一人で来ている人もそれなりにいるが、人見知りな性格のせいで声をかけるどころか、自分以外の人たちが楽しそうに会話している様子を目の当たりにしてより孤独を感じてしまう。
ほぼ空になったグラスがむなしさを一層引き立たせる。

都会に出れば明るい未来が待っているはず、普段は行かないような店に足を踏み入れれば何かが変わるはず……。そうやって上手くいかないことを全部環境のせいにして、俺自身は何も変わっていない。いつも偶然訪れる運を待っているばかりだ。
今日もただ時間だけが過ぎていく――。そう思っていた。

「ねえ、久しぶり! 私のこと覚えてる?」
突然かけられた声。自分に向けられた言葉だと理解できず、どもってしまう。
「…………あ、え? お、俺?」
「そう、君」
きょろきょろとあたりを見渡す挙動不審な俺を見てくすくすと笑っている女性。艶のある長くて黒い髪、白いブラウスにロングスカート。まるで清楚を絵に描いたような人だ。
「えっと……」
覚えているか、そう彼女は言った。ということは俺の知り合いだろう。しかし人の顔を覚えるのは元々得意ではない。彼女の顔をまじまじと見て記憶を遡っていく。
「やっぱり覚えてない? もう二十年くらい経つもんね……」
寂しそうに俯く彼女を見て申し訳なさでいっぱいになる。
「二十年……ってことは、崎館小の?」
「そう!」
崎館小、それは俺が通っていた小学校。卒業と同時に父の仕事の都合で引っ越してしまったから、当時の友達で今も交友がある人は一人もいない。
「もしかして……水野さん?」
「わ! 嬉しい!」
彼女の反応にほっと胸をなで下ろす。過疎が進んだ田舎の学校だから、一年生から六年生まで全員が同じクラス。話をしたことはほとんどなかったけれど、物静かなのに凛とした佇まいの水野さんに憧れを抱いていて、いつも遠目から眺めていた。それが俺の初恋だったのかもしれない。清楚で物腰柔らかな雰囲気は当時の彼女のままだ。

「よく俺のことが分かったね」
「だって全然変わってないんだもん」
くすっと口元を隠して無邪気に笑う彼女。その姿を見て緊張の糸が少しほぐれる。
「さすがに二十年も経って変わらないってことはないでしょ。水野さんは……その……大人っぽくなったね」
「ふふっ、ありがとう」
ちょっと照れた様子がとても可愛らしい。
「いつもこの店に来るの?」
「ううん、なんとなく飲みたい気分で。歩いていたら気になる看板を見かけたから」
隣の席に腰を掛ける彼女。つい先ほどまで目に映る世界はどんよりしていたのに、まるで霧が晴れたかのように澄み渡る。

「それより、水野さんなんてよそよそしいから下の名前でいいよ」
「じゃあ……えっと…………由美ちゃん?」
「うん! それがいい!」
小学生の頃も苗字で呼んでいたはずだから名前を間違えていないかちょっとだけ不安だったけれど、俺の記憶力もまだ衰えてはいないようだ。
「――って私から言っておいて申し訳ないんだけど、私は君のこと何って呼んでたっけ?」
「んー……みんなは“よっしー”って呼んでたけど、由美ちゃんは吉哉くんだったかな?」
「じゃあ敢えてよっしーで!」
吉哉くんと呼ばれたい気持ちもあったが、親しげに接してくれるのが嬉しい。昔は女子と話すことに少し恥ずかしさを感じていたし、由美ちゃんも男子と積極的に話すタイプではなかったからなんだか新鮮な気持ちになる。

懐かしい話に花を咲かせよう、そう思ったが俺と彼女が一緒に過ごした思い出はそこまでなかったし、話しているうちに酒もまわったのか二人とも記憶がかなり曖昧だ。
上京してからどんな生活をしていたのか、今は何の仕事をしているのか、いつの間にかお互いの近況を話すことに夢中になっていた。
「まさか由美ちゃんと大人になってからこうして再会できるとは思わなかったよ」
「私も、まさか偶然入ったお店でよっしーに会えるなんてびっくりだよ」
こんなに酒が上手いと思ったのは久しぶりだ。
「ねえ、よっしーは結婚してるの?」
「まさか、もうずっと彼女もいないよ」
「じゃあ私が立候補しちゃおうかなー!」
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
いたずらっぽい彼女の口ぶりからもきっと冗談のつもりだろう。でも、この広い大都会での再会、しかもこんな俺に対して好意的。これは偶然ではなく運命ではないだろうか。そう思うとこのチャンスを逃すわけにはいかない。
「…………このあとうちに来る?」

普段なら絶対に口にできない大胆な言葉。自分がこんなセリフを口に出したこと以上に驚いたのは、彼女がその誘いに乗ってくれたことだ。酔った勢いだとはわかっているが、この日ばかりは酒に感謝したい。
彼女の肩に手をまわしながら家に向かい、その後は男と女だ。同じ布団で一夜を明かす。

目が覚めるとカーテンの隙間から太陽の光が入り込んでいて眩しい。ふと横を見ると、すでに服を着て帰り支度を済ませている彼女。目が合うとなんだか照れ臭さとちょっとした罪悪感が生まれる。
「あ……昨日は………」
ぱっと目をそらし、謝るべきか、お礼を言うべきか悩む。でも、彼女は慌てるでもなく俺の隣に腰を下ろす。
「昨日はありがとう」
「あ! こちらこそ、ありがとう!」
彼女の言葉に、すうーっと罪悪感が消えていく。
「あのさ、また俺と会ってくれないかな……?」
「もちろん、また家に来てもいい?」
「それこそもちろん!」
ぱっとしない俺の人生が華やぎ始める。そんな予感。口元が緩んで仕方がない。


仕事に行く前に一度家に戻るという彼女を玄関で手を振って見送る。
『またね』
そう約束をして。


次に彼女が来たときは当時の懐かしい話をしよう。忘れかけていた記憶を少しでも思い出すため、クローゼットの奥にしまった卒業アルバムを引っ張り出した。
(水野……水野…………)

――見つけた。そしてその瞬間に背筋が凍り付く。

「水野…………千尋……?」
そこに写っていた女の子は当時想いを寄せていた水野さんに間違いない。でも、彼女の名前は『水野千尋』。
そうだ、由美という子は同じクラスに確かにいたが水野じゃない。『山下由美』、水野さんと仲良くしていた全くの別人だ。俺はこの二人の名前を混在していたんだ。

――それじゃあ昨晩一緒に酒を飲んで夜をともにした彼女は?
――またこの家に来ると言っていた彼女は?

「…………誰……だ?」

~第3話:またね 【完】~

第4話 嫌いなんだ

La verite est dans le vin.
――ワインの中に真実あり。
ラテン語のことわざで、酒に酔うと人は本音や欲望を表に出すという意味らしい。

生粋のワイン好きで自宅にはワインセラーがあって、ソムリエの資格まで持っているんだと自慢していた清水部長から教えてもらった言葉だ。
部長は週末になると同じ部の僕と山岸先輩に声をかけて、お気に入りの高級イタリアンに連れて行ってくれる。今どき飲みニケーションなんて嫌がる人の方が多い風潮だが、平社員には薄給のこの会社ではその誘いはまさに神の声。
長々とワインのうんちくを聞かされて、ブラインドテイスティングを披露されては「さすが部長!」と持ち上げることを期待されることだけを我慢すれば、豪華なコース料理と高級ワインを人の金で楽しめるんだ。こんなにありがたい話は他にない。


「中村くん、君も来るだろう?」
年末も近づいた寒い日の夕方、世界各国からバイヤーを招聘しての輸出商談会の成功を祈願した決起会という名目で部長からいつものワイン会の誘いがあった。
「明日のプレゼンがちょっと心配で……」
入社五年目、初めて任された大役。会場のセッティングやスタッフとの導線確認、商品サンプルの手配などは完璧に終わらせた。プレゼン資料も穴が開くほど読み込んで何度もリハーサルを行った。でも、人前に出ると緊張してしまう僕にとってはまだ準備不足ではないかと不安でいっぱいだ。
「張りつめすぎだよ。安心して任せられると思ったから今日のリハーサルは早めに切り上げたんだよ」
「本当ですか!?」
こと仕事においては人一倍厳しい部長のその言葉に嬉しくなる。
「ああ、大丈夫だよ。それにこんな重要な場で君一人に責任を押し付けたりなんてしないよ。いざというときはフォローするからそんなに気負うなよ」
「ありがとうございます!」
心強い言葉に、重くのしかかっていたプレッシャーが消えていくのがわかる。


殺伐とした執務室とは一変、優雅なクラシックの音楽が流れる店内。おいしい料理と部長おすすめのワインが目の前に並ぶ。
「いいか、ワインは赤と白の違いだけではなく四種類あってだな――」
少し酔いがまわると始まるお決まりのワインうんちく。
「ロゼとー……あとは何ですか?」
最近ワインに興味が出てきた山岸先輩が質問する。
「いや、色ではなく製法によって分けるんだよ」
なんでも発泡性とそうではないもの、アルコール度数の高い別の酒を加えたもの、果汁や果実、薬草、香草を加えたものがあるらしい。
「へー! 別の酒とか果汁を入れたらもうカクテルだと思っていました」
この話は純粋に興味がわいた。
「なんだか難しいっすねー……」
一方で、最初こそ興味津々だったものの説明を聞いているうちに酔いがまわった先輩は理解できていないようだ。呂律がまわらなくなってきたかと思ったら、ついにはテーブルに突っ伏していびきをかいて眠ってしまった。

「……先輩、ねえ、先輩って!」
これはまずい、と思って声をかけたときには時すでに遅し。
「おい! 山岸!」
「―――っは、い!」
いつにも増して凄みを利かせた声に先輩は飛び起きる。
「いいか、酒に酔うことでいい気分になったり、判断力が鈍ったりすることはわかる。だけどここは大衆居酒屋とは違うんだ。周りを見てみろ、きちんとした格好で静かに料理とワインを楽しむ、そんな店なんだよ。もういい大人なんだからTPOをわきまえてだな――」

ごもっともだ。だけど部長もそれなりに酔いがまわっているのか、お説教は永遠と終わらない。怒られている最中に先輩がまたうとうとしていたからってのもあるんだけど。

「あ、あの。明日も早いですし……」
なんとかその場を収めようと声をかけると部長もハッとした様子だ。
「悪いな、中村くん。君の緊張がほぐれればと思って誘ったのについ熱くなってしまって……」
申し訳なさそうに僕に頭を下げる。
「いえ、先輩は僕がタクシーで送り届けるので安心してください」
ベロベロになった先輩を抱えて店を出て、そこで部長とは別れた。
「また明日、よろしくお願いします」
「ああ、土曜なのに悪いが今晩はしっかり休んで明日に備えるんだぞ」


――翌日の商談会に部長は来なかった。
何度か携帯に電話をしたけれどつながらず、そうこうしているうちにプレゼンの時間になってしまった。普段仕事を休むことなんてめったにない部長がこんな大事な日に来ないことへの心配と、その状態でプレゼンを行うことへの不安はあったもののなんとか撤収作業まで終えることができた。
そしてその報告をしようと携帯電話を取り出したところ、一件のメールが届いていた。
『大事な日にすまん』
たった一言で事情は何も分からないけれど、ひとまず連絡が取れたことに安堵した。

月曜になって会社に行くと、部長の姿はあるが様子がおかしい。
目の下にはひどいクマがあって、服装も髪もまるで気にしていないように乱れていて、声をかけても聞いているか聞いていないかわからない反応だ。ふらふらと力なく歩く様子からもただ事ではないと誰もが気づいていた。だけど、何度聞いても「大丈夫」の一点張りで、仕事はなんとかこなしていることからも少しだけ様子を見ようということになった。
部内では大病が見つかったのではないかとか、身内に不幸があったのではないかとか、不倫をしていてバレたのではないかとか、根拠のない憶測が渦巻いている。

その週末、山岸先輩がしびれを切らして部長を個室に呼び出して聞いたところ、個人的な事情で体調も悪くないそうだからといつものイタリアンにまた三人で行くことになった。
こんな状態のときに誘わなくても……なんて思ったけど、それは山岸先輩の優しさだった。
「部長よく言ってただろ、ワインあるところに沈黙なし、って」
「あ、ことわざでしたっけ?」
「そう、会社じゃ言いづらいことも酒を飲んだら話してくれるかもしれないしさ」
「ですね!」

しかし、店に着いてからというもの部長は水しか口にしない。
「やっぱり体調が悪いんじゃ……」
心配そうに顔を覗き込むが、複雑そうな表情をするばかり。
「今日誘ったのやっぱり迷惑でしたか?」
先輩も申し訳なさそうだ。
「いや、二人には心配をかけて申し訳ない。俺の問題で……その……ワインはちょっとやめようかと思ってな」
へらっと笑う悲しげな表情とその言葉に先輩と目を見合わせて驚く。あれだけワインを愛していたのになんでと理由を知りたくてたまらないが、聞いてはいけないような気がして口をつぐんだ。
おまえたちは遠慮せずに飲んでくれという言葉に少々ためらうが、余計な気を遣わせてはいけないと思い、以前教えてもらった白ワインを頼んでちびちびと飲んでいた。
まるでお通夜のような沈黙が続く。

そのとき、深いため息をついて部長は目の前のグラスを手にグイっと一気に飲み干した。
「――あ! 部長、そっちはワインが」
声をかけたときにはもう遅かった。念のため部長の分の白ワインも用意してもらって、その横にチェイサーとして水を置いていたが、部長が一気に飲み干したのは白ワインだ。
この一週間ろくに眠らず食事もとっていなかった様子で、ぐわんと大きく頭が揺れた姿からも急に酒がまわったことが分かった。
「あ……あの、これ、水を」
咄嗟に差し出すが、そのグラスを手に持ったまま部長はうつむいて動かない。さすがに今日はお開きにして自宅に送った方がいいだろうということになり、店員にタクシーを呼んでもらった。

「ワインは……赤ワインは……嫌いなんだ」
帰りの車内で、部長はそう一言だけつぶやいた。


部長の自宅に着いてご家族に事情を話すと家でもずっと様子がおかしかったらしい。誰にも打ち明けられない何か重大なことを一人で抱え込んでいるに違いない。
「……しばらく休んでもらった方がいいんじゃないか?」
部長の家から最寄り駅に向かう途中、先輩とそんな話をしていると、街灯に照らされた看板が目についた。

『ご協力のお願い
 目撃者を探しています
 十二月五日 二十二時ごろ
 この場所で車と歩行者の関係するひき逃げ死亡事故が発生しました
 この事故を見た方、心当たりのある方は、下記に連絡をお願いします
 横部警察署 交通係 XX-XXXX-XXXX』

僕も先輩も、この看板の前で動けなくなる。
「まさか…………な」
「そ、そうですよ……だって……」
違う、そんなわけない。それを確かめたくて鞄の中に入れていたスケジュール帳を開く。

『十二月五日(金) 十四時 〇△社打ち合わせ、十六時 商談会リハーサル』
『十二月六日(土) 休日出勤:十時 輸出商談会』
十二月五日は商談会のリハーサル後に部長と先輩と決起会という名目でワイン会を開催し、終えたのは二十二時前。そこから僕と先輩はタクシーで帰った。
でも、普段は僕たちと同じく電車通勤の部長が、金曜は奥さんが用事があって出社前にお子さんを幼稚園に送り届ける当番になったと言って車で来ていたような……。

二人とも言葉は発しなかったけれど、きっと同じことを考えている。
しばらくそこに立ち尽くすことしかできなかった。


俺は……もう赤ワインは嫌いなんだ。
ドンッという衝撃、ゆすってもピクリとも動かない身体、じわじわと足元に広がっていく赤ワインのような鮮血。
酔いがサーっと引いたあのときの感覚と目に映った景色が鮮明に呼び起こされるからだ。
誰も見ていない。俺がワインを見て動揺したり、酔って余計なことさえ口にしなければ誰にもバレることはない。

La verite est dans le vin.
――ワインの中に真実あり。

~第4話:嫌いなんだ 【完】~

最終話 怖かった

人付き合いほど面倒なものはない。
人間というのは身勝手な生き物だ。一方的に相手に期待を押し付けて勝手に失望する。自分に都合のいいときだけすり寄って、都合が悪くなれば簡単に傷つけて去っていく。
愛情、友情、そんなものは全部幻想だ。そんな脆くて不確かなもの、俺には必要ない。

だから、入社初日に歓迎会の誘いを断った。
適当な言い訳をして断るのは簡単だが、こういうのははっきりと伝えなければ何度だって声がかかる。だから言ったんだ。
「酒も、馴れ合いも嫌いです」
……と。

酒を飲まなければ話せないことなんて大して重要なことじゃない。酒の場でしか築けない関係なら無理をして築く必要もない。俺は一人で平穏な日常さえ送れればそれでいい。


俺の父さんと母さんは元々同じ会社に勤めていた。
若手のエースとして一目置かれた存在だった父さん、要領が悪くていつも叱られてばかりの母さん。部署も違えば一緒に仕事をすることもなかった二人。その二人が初めて会話したのが会社の忘年会だったという。
酒の場でも上司に怒られて泣いている母さんの姿を見て放っておけなかったのが父さん。そこで声をかけたのがきっかけで少しずつ距離は縮まり、仕事終わりに二人で飲みに行くような仲になって結婚した。そう聞いている。

ただ、その幸せもそう長くは続かなかった。

――もうやめてっ!
――役立たずが俺に口出しするのか!
ガンッ、という鈍い音。
そのあとすぐに聞こえる泣き叫ぶ声。
それでも止まらない罵声。

ふすま一枚を隔てた隣の部屋で毎日怯えながら聞いていた。父さんは重要な役職についてからというもの重圧から逃げるために酒に溺れ、母さんに暴力と罵声を浴びせるようになった。まだ幼かった自分にはその様子が怖くて、悲しくて、布団にもぐってただひたすらに耳をふさいで耐えることしかできなかった。
やがて父さんと母さんは離婚し、母さんと二人で平穏に過ごせる日々が訪れる。……そう思っていた。
それなのに、今度は母さんが酒に溺れ、毎晩家に知らない男の人を連れ込むようになった。それからというもの、俺は邪魔者扱いだ。

『圭太さえいてくれれば母さんは幸せだから』
その言葉だけが生きる希望だったのに居場所をなくてしまった。母さん一人の稼ぎでは生活は厳しくて服はいつもボロボロ、満足に食事も与えられず痩せこけていって、周りの人たちはそんな俺を避けるようになったから世界に一人だけ取り残されたような気持ちでずっと過ごしてきた。

アイルランドの文学者、ジョージ・バーナード・ショーは言った。
『酒は人生という手術を耐えさせてくれる麻酔薬だ』と。

父さんも母さんもずるい。酒に溺れることでつらい現実から逃げたんだから。子どもだった自分には逃げ場なんてない。なにが麻酔薬だ。ほんの一時の快楽のために周りが見えなくなるようなものは麻薬であり毒物だ。
酒なんか見たくもないし、あのアルコールのにおいには吐き気がする。簡単に酒に溺れるような人間も嫌いだ。


時々昔のことを思い出しては、生きることに疲れた、そう思ってしまう。
死にたいわけじゃない。ただ、過ぎていくだけの毎日がこの先何十年も続くと思うと、今この瞬間に終わってもいいとさえ思う。

「……圭太、ここにいたんだね」
秋風が涼しい縁側。月も星も見えない夜空をただぼーっと眺めていた。声をかけてきたのは俺を引き取ってくれたばあちゃん。
「…………」
「どうしたの? 冷えるでしょう」
コトン、という音を立て、ばあちゃんは俺の手元に湯気が立つ湯呑みを置く。
「……酒は飲まないってば」
湯呑みを払いのけようとした手をばあちゃんがすっと握る。
「この甘酒はね、神様にお供えしたものなの。粗末にするのはいけないよ」
「…………」
「みんな神様にお酒をお供えして豊作や無病息災を祈るでしょ。お酒は神様が宿って人間と神様を結びつける神聖なものだから憎んだらバチが当たるよ」
「でもっ――」
言いかけて、一瞬口をつぐむ。
「そして世の中の人たちのことも憎んじゃいけない」
「――じゃあ、奪われてばかりの俺は何を憎めばいいんだよ!」
いつもならこんな風に怒鳴ったりしない。だけど、生きる希望を見失った俺に追い打ちをかけるような言葉に今日は我慢ができない。
「なんでそれをばあちゃんが言うんだよ! 自分の娘が酒癖の悪い旦那から暴力を受けて、その娘も酒と男に溺れて俺を捨てたんだぞ! それも全部俺が悪いっていうのかよ!」
ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。最後に人前で泣いたのは母さんが突然目の前からいなくなって、ばあちゃんに引き取られた日だったと思う。
俺に唯一寄り添ってくれたばあちゃんの心も離れてしまったような気がして、どうしようもないせつなさが込み上げる。

「憎むならその二人をうんと憎めばいい。だけどね、世の中の全ての人を憎んだら圭太は一人ぼっちになってしまうよ」
「……いいんだよ、一人で生きるって決めたんだから」
突き放すように投げ捨てた言葉。そんな俺の肩にばあちゃんはそっと手を置く。
「そんなこと言わないでよ。じいちゃんはもう天国に行ってしまったし、娘はどこに行ってしまったかわからないし、圭太がそんなことを言ったらばあちゃん寂しいよ」
「…………」
こんなに悲しそうなばあちゃんの顔を見るのはつらい。
「圭太にとって一人で生きていくことが幸せだったら父さんのことも母さんのことも忘れてしまうでしょ。それにばあちゃんとこうやって一緒にいてくれないでしょ?」
「それは……その……」
心がモヤモヤする。今の気持ちを上手く言葉にできなくてもどかしい。
「本当は圭太も誰かとつながっていたいんじゃないのかい?」
「……そんな……こと……」
その言葉にハッとする。そうだ、もうあんな両親のことなんて忘れてしまえばいい。だけど俺にはそれができないし、ばあちゃんから離れることも考えたことがない。

「いつかばあちゃんが安心して天国に行けるように、圭太がお友達と笑っているところを見せてちょうだい」
「……そんな縁起でもないこと言うなよ」
「いいや、いつか必ず来るんだよ。でも長生きするつもりだからね、ゆっくりでいいよ。圭太にも大切な人ができると嬉しいなあ」
ばあちゃんがいなくなる、そんなことは考えたくない。でもいつかその日はやって来る。その日が訪れたとき、俺はどんな思いで過ごしていくのだろうか。
「……ほら、長くこんなところにいたから身体が冷えたでしょう?」
そう言って、少しぬるくなった湯呑みを手渡した。
ほのかなアルコールの香り。いつもならこのにおいが苦手ですぐに鼻をつまんでしまうけれど、ほんの少しだけ口に含んでみる。
「…………優しい味がする」
「たくさんの人の手間と時間をかけてあるからね」
この一口で、冷え切った心まで温められたような気がする。
「ばあちゃん、ごめん。少しだけ……頑張ってみるよ」
俺のその言葉に、ばあちゃんはくしゃっとした笑顔を向けてくれた。父さんと母さんがいなくなって一人ぼっちだったとき、この笑顔に何度も救われたことを思い出す。

本当は、怖かった。
怖いのは酒でもなく、人でもなく、孤独になること。
大切な人を失う怖さを知ったから、離れていく前に自分から手放そうと決めて今まで生きてきた。そうすることで自分の心を守っていた。
自分で望んだはずなのに、一人ぼっちの人生には希望を見いだせなかったんだ。


定時を過ぎたのにまだガヤガヤとした執務室。
「佐々木、加藤、もう仕事終わった? このあと飲みに行かない?」
「おーいいね!」
「あと十五分待って!」
週末によく聞こえてくる同僚たちの会話。俺には関係ない。でも……。
「――あっ、あの!」
「あ、高野さん、どうしました?」
「……あの、俺も……行ったら……迷惑ですか?」
意を決して口にした言葉。断られたら明日からどんな顔をして出社しよう、そんなことが頭をよぎって心臓がバクバクとうるさい。
「え? 高野さんが?」
「――っごめんなさい! 迷惑ですよね!」
やっぱりだ。今まで自分からみんなを避けてきた俺なんかが一緒に行っていいわけがない。その場から逃げ出そうとガタンと椅子を倒して立ち上がる。
「――いや待って!」
そのとき、二人を誘いに来た浜田さんが俺の腕を強くつかむ。
「酒嫌いって聞いてたんでびっくりしたんです。僕らみたいな人たちのことも高野さんは嫌いかなって思ってたんで、正直嬉しいです!」
「……へ?」
思いもよらなかった言葉に、つい間抜けな声が出てしまう。
「いいじゃん! 一緒に行きましょ!」
「高野さんのプライベート謎だらけなんで教えてくださいよ」
佐々木さんと加藤さんも受け入れてくれた。それが心から嬉しい。無理やり気持ちに蓋をしていたけれど、心の奥底ではずっとこの輪に入りたかったんだと思う。
「あ……ありがとうございます!」
たぶんぎこちなかったと思う。でも、これが会社で見せた初めての笑顔。


イングランドの法律家、ジョン・セルデンは言った。
『責められるべきは酒を飲むことではなく度を過ぎることだ』と。
アメリカの政治家、ベンジャミン・フランクリンも同じようなことを言っていた。
『酒に害があるのではなく、泥酔する人に罪がある』と。

酒は時に人との関係を壊してしまう。
でも、人と人とを結び、関係を深めることだってある。

~最終話:怖かった 【完】~