• 『約束した夏』

  • 西川佳苗
    青春

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    あの夏、君と交わした約束は、大輪の花を咲かせることができるのか、それとも儚く散る運命か。あのころ、僕らはいっしょうけんめい泣いて笑って、そして恋をしていた。思うとおりいかないもどかしさすら、愛おしい。

第1話 プロローグ「夏の(おり)

振り返ると、君がいた
僕には君が誰だかわからなかった
君が泣き出しそうな顔をする
僕を映した瞳に憂いを浮かべ、深くうなだれて
そんな顔をさせたくはなかったけれど



「朋也?」
 君にそう呼ばれて、背後を振り返った。
 自分が『朋也』なる人物ではないことは、君が呼び止めたかった彼ではないことは承知の上で、何故か君の呼ぶ声が俺に向けられたものだと、本能的に確信が持てた。それだけ切実に聴こえた。
 振り返らなければ、ならなかった。君を、見つける為に。
「あんた、誰?」
 俺は彼じゃないと、思い知らせるために。冷たい言葉を浴びせるために。
 だけどそんな表情(かお)をさせたいわけじゃなかった。
 考える間もなく問いかけていただけ。君のことが知りたくて、君が誰だか、知らなかったから。
 君が、みるみる泣き出しそうな顔になる。小ぢんまり整った卵型の顔面が、大仰に歪む。
見れば、可憐、とか愛らしい、とかしか浮かばないような、大人しそうな女の子だった。憂いを含んだ瞳は黒目がちで大きく、色白なのに丸い頬はほんのりと朱を湛えている。天然なのか、肩より少し下、鎖骨辺りまで伸ばしたさらさらの髪は、光を含んでいるせいか、黒より少し明るく見える。
「五月じゃん」
 彼女に呼ばれる間際まで立ち話をしていた伊藤が彼女の名を口にする。俺は彼女のつむじばかり見ていた。三十センチ物差し一本分近く眼下にある彼女のつむじを、何故だか愛しく思った。
「知り合い?」
「中等部で同じクラスだったんだよな」
 彼女は(はる)(なり)五月(さつき)というらしい。きっと文字通り春生まれなのだろう、少しだけ開いた廊下の窓から、夏には珍しい乾いた風が吹き込んで、揺れた髪が眩しいほどに綺麗だった。
「可愛いじゃん、紹介しろよ。俺は神崎司(かんざきつかさ)。よろしくな」
 差し出した手は、君に握り返されることなく宙に留まった。彼女が、堪らず背を向けて走り去ったから。悲しげな背中から、目が離せなかった。


「ここは期末に出すから、各自必ず復習しておくように」
 教室中の生徒達から数学担当の中年女教師に野次が飛んだ。
 五月は、騒々しい中で独り頬杖をついてぼうっとしていた。
 七月いっぱいで前期後半の授業も終わろうとしている。七月初旬。また、夏が巡って来る。
 いわゆるエスカレーター式の学校のため、高校に進学はしたがメンバーはさほど変わらない。幼馴染の森崎(もりさき)(しょう)()や、中学からの親友、関口有紗(せきぐちありさ)も同じクラスだ。ごく稀に編入してくる生徒も在るが、この学校の編入試験のレベルの高さは世間に名高く、難関だった。
 去年の秋、ばっさりと耳の高さにそろえて切った五月の髪も、今では一年前の「あの夏」と同じに、肩の下数センチメートルのところまで伸びてきた。
 チャイムと共に6時間めの授業が終わった。担任の急用で帰りのホームルームが省略されたので、帰り支度を終えた五月はまっすぐ教室を出た。
「五月!」
 昇降口に続く階段の前で、彰太と立ち話していた有紗が手招きしている。この二人は中学三年生の春から付き合い始めて長いのだが、長身の美男美女二人が並んでいると絵になるなあと、いつも五月は羨望の眼差しで見上げるのだった。
 何、と五月が首を傾げて振り返る。
 有紗が少し困ったように整えられた眉をひそめて五月を見下ろす。五月の長い髪とは対照的に、耳の下でそろえて切った茶色がかった髪がさらりと揺れた。
「監督がね、五月に戻ってきて欲しいって。もうすぐ合宿もあるし、私だけじゃフォロー出来なくなると思うの」
 一瞬、五月の呼吸が止まった。鞄の取っ手を握る手に自ずと力が入る。
「強制はしたくないの。その…まだ一年しか経ってないし、五月が辛いのもわかるから。だけど、」
「わかった、考えておくね」
 オファーを遮るように、五月は有紗の言葉にかぶせ気味に答えた。優しい二人を見上げて、なるべく自然で明るい笑顔を向ける。そんな努力を、この一年繰り返していた。
 じゃあ私急ぐから、と踵を返した五月を見送って、有紗はほうっと一息ついた。肩を竦める。
「良かったな。五月、案外自然に笑うようになった」 
 からりと、お日さまを彷彿とさせる少年らしい笑顔を浮かべて隣でのたまう彰太を尻目に、そうかしら、と有紗は訝しげに呟いた。彼女には、五月が無理を圧して平静を装っているようにしか見えなかった。五月こそ、優しい子だから。


『五月が辛いのもわかってるから――』
 ずきん、と胸が痛んだ言葉を頭の中で反芻してしまった五月は足を早めた。
 辛い――。
 そんなことはない、なんて気休めさえいえないくらい、まだ彼を思い出すとたまらなく切なくなるのは否定出来ない事実だった。いつになったら、この辛く切ない思いは懐かしい思い出になってくれるのだろう。あるいは、そんな未来は永久に訪れないのかも知れない。
 それならそうと、罰を、十字架を背負う覚悟は出来ているつもりだった。
 強く、ならなきゃ。
 そう念じないと、あの夏から、一年前の夏から、一歩も踏み出せない。そう思った。
 現実から逃げてばかりいてはいけないと、ちゃんと理解っていた。彼や、彼と過ごした日々を思い出すと未だ辛いが、たくさんの思い出だってある。思い出はいつもきれいだ。
 彼と出会い、話をして、笑いあった場所。それがサッカー部。五月はマネージャーで、彼は一選手だった。彰太が主将として率いるサッカー部の、エースストライカーだった。
 もし、彼が帰ってきたら。その可能性はかなり少ない、分かっているけれど。帰ってきたら、笑顔で迎えてあげたい。
 だから、もう一度あなたがいたあの場所に戻ろう。
 立ち止まり、目を閉じて、心に誓った。――目を開けたら、前に歩き出そう。そして、止まってしまった時間と、恋と、まっすぐ向き合おうと。
 そう、決心したはずだった。
「――じゃあ、明日から部活入るだろ」
 同じ学年の男子に部活の勧誘をされているらしい、いるはずのない背中。見覚えのある、後ろ姿。姿勢が良く、刈り上げられた髪が好印象な。彼女の中で、何かが弾けた。
『五月――』
 振り向けばいつも暖かい笑顔で、まだ声変わりしきっていない、少年にしては少し高めの声で。名前を呼んでくれた彼に、瓜二つの後ろ姿。
(振り向いて)
 そう願うのに、どこかで怖がっている自分が煩わしかった。そんな五月の気配に気付いたのか、彼と思しき少年もまた振り向いた。
 ――朋也だった。
 心無しか、記憶の中の朋也より少し大人びていて、ひそめられた眉毛や意思の強そうな涼しい目元が、やけに彼に存在感を与えていて、記憶の中の朋也よりも印象が強い。
「朋也」
「あんた、誰」
 震える声で呟いた五月に、あまりにも素っ気ない言葉が返って来た。別人だからだ。五月の全身が凍りついたようにその場から動けなくなる。どうして、と。心が叫び、泣いていた。
「あんた、誰」
 訝しんだ少年に、再度尋ねられた。
 五月の大きな瞳が、みるみる憂いを帯びていく。
「あれ、五月じゃん」
 横から先程の少年が口を挟んだ。名を、伊藤といったはずだ。
「知り合いか」
「うちの部のマネージャーやってた春成五月。でもまた戻ってきてくれるんだろう?」
 少年が笑顔で尋ねた。
 彼よりもいくらか背の高い、朋也に似た印象を持つ少年は、意味深にふうんと鼻を鳴らしてから、屈託のない笑顔になった。声はいくらか朋也よりも低かったが、あまりにも面差しが朋也に似ている。
 こんなに似ているのに、似ても似つかない。
 「可愛いじゃん、紹介しろよ。俺は神崎司(かんざきつかさ)。編入してきたんだ。よろしくな」
 少年は軽い調子で言って、骨っぽいごつごつした手を差し出した。大きな手だった。
 手を取っても差し支えなかっただろう。だが五月はそうしなかった。
「どうした?」
 屈んで五月の顔を覗き込んだ司の瞳に、今にも泣き出しそうな、涙をたくさん溜めた大きな瞳が映った。それに耐えるように、形のいい小さな桜色の唇をかみ締めている。
 切ない瞳だった。見てしまった司までもが、きゅっと胸を掴まれる想いだった。
 五月は駆け出した。おい、と司が半ば呆然として小さな背中を見送る。
「そういや神崎ってさあ――」
 二人の様子を横から見守っていた伊藤が、五月が逃げ出した理由に思い当たって声をかけた。
「いや、何でもない」
 振り向いた司の、あまりにも朋也に似すぎている顔から目を逸らすしかなかった。


夏なんて、大嫌い
どんなに空が晴れて、青く澄んでいても
ひまわりがお日様の光を受けて、元気に並んでいても
一番星の見える夜空に、花火が咲いても
もうそこに、彼はいないのだから

第2話 五月と朋也「初恋」

夏の声が聴こえる。
空高く照りつける太陽と、梅雨が明けた後のしっとりとした空気の中。
雲一つない青い空の下。あの夏、十五歳だった僕らは、花火みたいな恋に落ちたんだ。


(――あ………。)
 五月は、思わず声を漏らすところだった。門の傍に立っている少年を日頃から意識しているからだ。遠目にその姿を捉えたり、気配を察知してしまったり、その度に緊張で胸が苦しくなる。
 革靴に履き替えて、校庭を正門に向かう。と、日に焼けた横顔を夕日に照らされ、どこか思い詰めた表情の大野朋也が佇んでいた。
 誰か、想い人を待っているのだろうか。
 その視線は彼の影が伸びる地面へと注がれていたが、彼もまた、遅ればせながら五月の気配に気づいて、ゆっくり顔を上げた。
 ふたりきり、ひたと目を合わせたのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。
 いつになく真剣な面持ちをした端整な顔立ちと、思い詰めて憂いを湛えた瞳に見惚れそうになった五月は、(かぶり)を振り、意を決してそ知らぬふりで通り過ぎようと試みた。
 「待てよ、春成」
 はっと気づいた朋也が、大して慌てることなくはしっと五月の細い手首を掴み捕まえる。瞬時にそう動けたのは、待ち人が紛うことなく五月だったからだ。
 男の子になんか触れられたことのなかった五月は、頭に血が昇ったかと思うくらい、真っ赤な顔をしていたにちがいない。夕方で良かった。そんな詮無い安堵が脳裏を掠めたが、五月はごく自然に振り返り、頭一つ分と少し背丈に差がある朋也を見上げることが出来た。
 「話があるんだ、ちょっといいか」
 うん、――彼の、いつとなく有無を言わせぬ張りつめた口調に、五月は唯頷くことしか出来なかった。
 眼前に、ぎこちなく並んだ二つの影が伸びている。二人の間には曖昧な距離が空いていたというのに、二つの影はそのうち寄り添うかのように重なり合った。
 両手で鞄の柄をぎゅっと掴み、俯いて歩く五月の少し前を歩いていた朋也が、少ししてようやく口火を切った。
 「好き、なんだ」
 変声期を終えた少年にしてはあまり低くはない声音で投げかけられた言葉に、五月の胸は飛び上がるような喜びに満ちていく。想いが、同じだった。通じ合ったのだ。
 「大野くん、私…私は」
 想いは同じだと伝えようとするのに、上手く言葉にならない。五月の返事が口をつく前に、振り返った朋也がいきなり抱きすくめるから、彼女は身動ぎすら出来なくなる。
 ワイシャツの上から、この年頃の男の子特有の汗臭さを感じても不快になることなく、五月は自分の身に起こっていることが唯信じられないでいた。まるで魔法みたいに彼女の言葉を封じた朋也が腕の力を抜くのを待って身を放し、遠慮がちに彼を見上げた。現実じゃないみたいだ。
 「今すぐじゃなくていいんだ。明後日の試合、必ず勝つから。終わった後、聞かせて欲しい」
 小さな肩を骨張った大きな手で掴まれて、五月は切なくて、胸が苦しくて、何も言えなくなってしまった。こんなふうに彼に見つめられるなんて、請われるなんて、思いもしなかった。
 「――ごめん、我侭言って」
華奢な肩から手を離して五月から目を逸らした朋也は、口早に謝ると夕日の中を駆け去って行った。
 五月は、唯いつまでも、彼の背中と、距離が開くのに比例して彼女の足元に伸びていく影をぼんやりと見つめていた。


(――まずいな)
 県大会決勝戦。前半四十五分を終えて、ベンチに戻ってきた彰太は、皆を見回してそう感じた。
 相手校は十年ぶりに決勝戦に上がってきた県立高校だ。
 そんなつもりは無かったが、相手の力量を甘く見ていたのか。前半戦、得点はどちらもあげられず、押されていたと見て取っていいくらいだ。
 そして特に、得点源である朋也に対する守りが固い。
 おまけに先程、相手校の選手と接触してしまった際に朋也が足を痛めてしまったらしいことも、彼がいくら周りに感づかれないようにしていても、親友の彰太の目には明らかだった。
「大丈夫か?」
 袋に入れた氷を座っていた朋也の足に押し当てる。朋也は顔をしかめて気の利く親友を迎えた。
「痛むのか」
「…痛くても気にしてる場合じゃないんだ。勝たなきゃ」
 思いつめた表情だったが、固い決意のこもった朋也の言葉は彰太には頼もしく聞こえた。
 彰太は五月の幼馴染でもある。彼女の気持ちは有紗から聞いて知っていたが、純情で一途なこの親友にそのことを伝えることはとうとう出来ないでいた。
 そして始まった後半戦四十五分。
 苦戦を強いられたことは間違いなかったが、相手校も油断したのか、残りわずか三分というところで隙が出来た。
「いいか、朋也に廻すんだ!」
 チームの誰もが、朋也のシュートの的確さとゴールへの執念を知っていた。
 チームメイトと観客、そして五月に見守られながら朋也は残り数十秒のところで勝ち越しゴールを決めた。
 澄み切った夏の空に、甲高いホイッスルの音が響き渡る。一対零。
 この日、朋也達サッカー部は、全国大会への切符を手に入れた。


 五月と朋也は、皆が解散して今はもう人気のなくなったグラウンド裏の杉林を歩いていた。前を行くのは先日とは逆で、五月だった。しばらく、二人は互いの距離を詰めることもなく黙って歩いた。朋也も返事を促す事なく、後ろからひたすら五月の背中を見つめるだけだった。
しっとりとした風が、木々の葉と、五月の髪を揺らす。まるで五月を急き立てるかのように。 
(わかってる)
 朋也は勇気を出して告白してくれたのだ。今度は五月の番だった。 
 おめでとう、格好良かったよ、――口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「本当は不安だったの。大野くんが怪我したの、わかっていたから」
 朋也は驚いた。
 同じフィールドにいたチームメイト達でさえ、彰太以外は気づかなかったのに。
 どうして。そう問い掛けた朋也に五月は続けた。
「だって、私いつも大野くんを見てた。とても楽しそうにサッカーするんだなって。サッカーが大好きって表情(かお)してる大野くんが、いつも気になって仕方がなかった」
(私のことも好きになって欲しいって、願ってた)
 泣く必要なんてないってわかっていたのに、五月は零れる涙を止めることが出来なかった。
「好き」
 真っ赤な顔をぐちゃぐちゃにしているのは承知していたが、五月は顔を上げてまっすぐ言った。
「大野くんが好き。サッカーしてる大野くんも、この間みたいな大野くんも」
 大好き。
 朋也にとっては、五月のこの一言こそ世界一の祝福の言葉だったに違いない。
 朋也は俯いてしまった五月の方へ歩み寄ると、大きな手で彼女の顔を上げさせ、その指で涙を拭ってやった。
 大きな瞳が潤んでいたのは、涙のせいだけだっただろうか。
 五月も、朋也の、まるで夏の日差しを思わせるような瞳に見入っていた。気付けば、五月の手は朋也の大きな手に包まれて、大丈夫とでも言い聞かせるように固く握られていた。
 黄昏の中、初めて交わしたキスは、お互いの唇を重ね合わせただけのぎこちないものだったが、幼い二人に切ない想いを刻ませた。
 それは、確かに幸せの予感だった。


 「五月、朋也くん来たわよ」
 母親に急き立てられて、五月はサンドウィッチを詰めたバスケットと紅茶を入れた水筒を抱えて玄関へと急いだ。長いさらさらの髪をすっきりまとめて、何着かお気に入りの服を引っ張り出してきては鏡の前で合わせてみる、という動作を繰り返して結局、ノースリーブで花柄のワンピースの上に白い薄手のパーカーという組み合わせに落ち着いた彼女は、朋也に花がほころぶような、はにかんだ笑顔を向けた。
「ごめんね、お待たせ」
 いいよ、と言う代わりに朋也は五月に自転車の後部座席に腰掛けるよう促した。
「いったい何処に行くの?」
 片目を瞑っていいから、とだけ言い渡されて、五月は訝しみつつ、恋しい朋也の腰に手を廻す。
(朋也のにおいがする)
 五月はささいなことにも感動を覚えた。幸せだったのだ。
 朋也は五月を乗せて自転車を海岸通に沿って走らせた。だがカップルやグループで賑わう海へ向かうのではないらしい。
 晴天が続いた所為か、日差しが強くてもからりと乾いた空気に海からの湿った風が心地よい。自転車は、海岸を離れて小高い丘へと上がる道に入った。
五月は一瞬息を詰めた。見渡したそこは、辺り一面の向日葵畑だった。
停車した自転車から降りて、五月は感嘆の声をあげた。小高い丘の頂には、一本の大きな広葉樹が生えている。五月はそこまで一気に駆け上った。頂から見えるのは、ずっと続く向日葵畑の黄金色、そしてその向こうには真夏の日差しを浴びてきらきらと輝く蒼い海。
「これを見せる為に?」
 五月は遅れて上がってくる朋也を振り返って尋ねた。
 頷きつつ、ビニールシートを広げた朋也の肩に、五月は後ろから抱きついた。
「嬉しい! ありがとう、朋也」
 頬を上気させ、大きな瞳をめいっぱい見開いてきらきらと輝かせた五月の笑顔が、朋也には眩しく思えた。彼女のこの笑顔が、見たかったのだ。
 木陰に敷いたビニールシートに腰掛けた二人は、五月お手製のサンドウィッチを平らげた後、木の葉が音を鳴らす大樹の下、他愛ないおしゃべりに花を咲かせた。
「え、花火大会行けるの?」
 夏休み前に配られたスケジュール表を見て、多忙だからと諦めていた花火大会。共に赴きたいと切に願っていたその人に誘われて、五月は思わず身を乗り出した。
「ああ。行こうよ、その次の日も、五月が良ければ、俺観たい映画があるんだけど」
 花火大会前日、八月十日、朋也は十五の誕生日を迎える。だがその翌日には合宿入りして、来たる大会に備えなければならない。
「嬉しいけど…。朋也、連日で疲れない?」
 多忙な朋也を気遣って、五月は心配げに尋ねた。瞳が陽の光を受けて、かすかに潤んでいるように見えたのは気の所為か。気持ちよさそうに寝転んでいた朋也は、起き上がって五月と正面から向き合った。そっと、白い頬に骨張った手が添えられる。
「大丈夫、俺が五月といたいんだから」
 五月が応えた日の彼を思い起こさせる、真剣な瞳にまっすぐ見つめられて、五月の胸は締め付けられるように切なく、言葉ではとても言い表せない思いでいっぱいになった。
 五月の大きな瞳がその中いっぱいにゆっくりと迫る朋也の熱っぽい瞳を捉えている。ファーストキスよりは少しぎこちなさが削がれた、でも触れるだけの優しいキス。たぶん唇と唇が重なっていた時間はほんのわずかなのに、幼いふたりには至極ゆっくりした時間に感じられた。
惜しむように離れた、乾いた唇の感触が残されるのを感じて、五月は堪らず溜め息を吐いた。咎めるというよりかは、どこか拗ねたような表情の五月と目が合った朋也は、すまなそうに頭の後ろを掻きながら、だが真面目故に怒ったみたいに真剣な顔をしたまま謝罪した。
「――ごめん、どうしても五月にキスしたくなった」
臆面もなく口にした朋也の言葉に、五月は唯恥らう他なかった。やっぱり夢を見ているみたいだ。
それは、幸せな時間であり、空間。そして現実だった。それでも、このキスが二人の最後のキスになるだなんて、いったい誰に予想出来ただろうか。

第3話 五月と司「プライドと偏見」

差し出された手をとってはいけないのだと思っていた
君は僕に、彼の影を見ていただけ
けれどもう遅い
君と僕と彼とで、どこまでも共に堕ちていく


「みんな、休憩だよー!」
 有紗といっしょに、日陰でドリンクやら軽食やらの用意を終えた五月がグラウンドに向かって声を張り上げた。
 土曜日の午後三時。照りつける陽はまだ空高く輝き、八月を、真夏の来訪を予感させていた。
 司が編入して来て、一週間程が経つ。
「五月、なんだか最近活き活きしてる。いいことでもあった? スコーンなんか焼いちゃって」
 有紗は五月の焼いたスコーンを紙皿に盛りながら、にこにこと目を細めうれしそうに指摘した。五月は肯定も否定もせず曖昧に微笑み返すと、額に手を当ててフィールドを遠くまで眺めた。
マネージャーである彼女たちの周りには、ぞろぞろとサッカー部員らが集って来ておやつにありついていたが、彰太と、そして司の二人は目途をつけられないようで、まだ練習に励んでいる。
「おかしいよな、顔は似てても性格全然ちがうのに、プレイスタイルはあいつ(・・・)と同じなんだよ」
 五月には黙っていたが、彰太までもがそう認め、感心して、有紗に漏らしたほどだ。
 意識しないようにはしていても、五月も認めざるを得なかった。
 声が違っても、性格が違っても。サッカーをしている司は、紛れもなく五月が好きで、好きで仕方のない朋也と同じで、どうしようもなく彼を彷彿とさせた。
 そっくり、ではなく、同じ。
 子どもみたいにサッカーを楽しんでいるのに、司の動きには一部の隙も無い。
 廊下など校内ですれ違ったりする時はつい余所余所しく振舞ってしまうのだが、部活の最中は、前みたく朋也といるようで、まるで朋也が戻って来たみたいに錯覚してなんだか楽しくなってきてしまい、五月は彼に対してごく自然に接することが出来た。
「彰太も神埼くんも、おやつ売り切れちゃうよーっ」
 呆れた有紗がグラウンドではしゃぐ二人に向かって五月よりも大きな声を張り上げて叫んだ。先ず彰太がやっとそれに気付いて、ようやくふたりして汗だくでこちらに駆けて来る。すでに日焼けしている精悍な顔立ち、額に光る汗粒までがなんだか眩しい。
「――へえ、五月ってお菓子とか作れるんだな」
スコーンを一口で平らげた司が感嘆の言を述べた。どちらかというと五月を下の名前で呼ぶ面々のほうが多いせいで、司も自ずといつの間にか呼び捨てに落ち着いている。海外での生活が長かったせいもあるかも知れない。司はイギリスのクラブチームでサッカーをしていたのだと、五月は人づてに聞いた。
なにか含みでもみたいに、有紗がここぞとばかりに五月の特技をPRする。
「五月、料理もすごく上手いのよ。なんだって作っちゃうんだから」
 大げさだよ、と有紗の世辞に五月は照れたように謙遜する。
「神崎くん、イギリスに住んでたんでしょ。本場のスコーンてもっとぱさぱさして、クロテッドクリームとかに合う感じなんじゃない? だから……口に合わないかも」
「いや、文句なしに美味いよ。俺は好き」
 間髪入れずにくれた感想と、五月に向けられたさわやかとしか言いようがない笑顔に嘘があるようには見えなかった。やはり育った環境故か、司は自身の意見をきっぱりと言葉にする性質だった。この時ばかりは、いつも優し気に、見守るように柔らかく微笑んでくれた朋也とは異なる印象を受ける。
 別人なんだと判って、ほっとする反面、なんだか落ち着かなくて、直視出来ない。頬が熱い。調子が狂うって、たぶんこういうことを差す言葉なんだろう。
「五月、顔赤くない? 日陰っつっても熱中症には気をつけたほうがいいぞ。ほら、水分摂れ」
 差し出されたペットボトルを持つ司の手。直接触れるわけではないのに、指先が近づくことにすら緊張して震えてしまう。
「そうだな、早めに切り上げるか」
 彰太も周りの誰も、そんな五月の様子を勘繰るでもなかったが、なんとなく気づかれたくない。
 熱いのは、夏でも、頬でもなかった。


 五月、――その日の夜、居間のダイニングテーブルで学校の課題に取り組んでいた五月は、台所で洗い物をしていた母親に声をかけられた。
「牛乳切らしちゃったの。ちょっとその辺で買ってきてくれる?」
 うんいいよ、と笑顔で快諾していったん部屋へ向かい、白い薄手のパーカーを手にとる。もう履き慣れたお気に入りのミュールをつっかけるのだって忘れない。
 気をつけて、という母の言葉を背に受けて、五月は玄関の外へ出た。
 いくら夏とはいえ、八時を過ぎるとさすがに外はどっぷり暗くなっている。
(少し冷えるかなあ)
 ショートパンツにキャミソール、パーカーといった薄着を後悔しているうちにあっという間に最寄のコンビニに辿り着く。
 いつも冷蔵庫に置いているのと同じ品を手にとって、目移りすることなくレジに並ぶ。決して多くはないが、店内には雑誌を立ち読みしたり、飲み物を買いに来ていたり、と人は少なからずいた。
 五月の前に並んでいたのは背の高い男性だった。出来合いのおかずや、パンを買い込んでいる。引き締まった足腰にジーンズを履きこなし、シンプルなティーシャツに上半身を包んでいるだけなのに、だらしなく見えないし、すらりとしていて、隙が無い。
 なんとなく見覚えのある背丈に、形のいい後頭部をしげしげと見上げていると、相手も五月の視線に人の気配を感じたのか、男が彼女を振り返った。
「――あれ、五月じゃん」
 背が高かったので顔はすぐには分からなかったのだが、確かに司だった。制服でもユニフォーム姿でもなかったせいか、普段とは、五月の見知った司とは全く別の人に見える。もっと大人の男の人だとの印象だった。
 驚いたまま、小さく唇を開いて司をじっと見つめてしまった五月は、どうした、と屈んだ司に顔を覗き込まれてなんとなく恥ずかしくなって、ううん、と(かぶり)を振ってから慌てて目を逸らした。


「――え、神崎くんって一人暮らしなの?」
 皮肉ではなく英国かぶれ故か、どうしても送っていくと言い張る司の勢いに気圧されるまま、五月の住む商店街周りの住宅街へと続く国道沿いの道をふたり並んで歩いた。街の明かりが、明るく照らし見守る月の光が、ふたりを優しく包む。
「ああ、親の仕事の都合。自炊もするんだぜ? 今日はたまたま、これで我慢」
 司はからりと笑って両手の荷物を持ち上げて見せた。
 育ち盛り、食べ盛りの成長期のはずだ。昨今は、コンビニ飯もタンパク質が摂れるアスリート向けの品が増えているとはいえ、高校生の小遣いでの頻繁な惣菜や外食は、健康的とはいえないかも知れない。五月はお人好しにも司を心配した。
「そうだ、時々でよければ夕飯作りに行こっか」
 思いつきで提案した五月に、驚いた司が一瞬足を止めた。
「週に一度か二度、部活帰りにどうかな」
 どうやら五月は既に頭の中であれこれ献立に思いを馳せている。司は呆れて肩を竦めた。
「そりゃあ嬉しいけど。おまえさ、一人暮らしの男のうちに上がり込むって、意味わかってる?」
 眉頭を上げて意味深な表情をしてみせた司の意図に、少し遅れて合点がいった五月は、思わず顔を真っ赤にした。予期したとおりの初心な反応に、司がしたり顔になる。ぷはっと噴き出した表情は、私服だからか、年相応の少年そのものだ。
「冗談、本気にするなって」
「神崎くんが言うと冗談に聞こえないよ」
「はは、ひでえな」
 唇を尖らせた五月が小言を言うと、司は本当にちょっと傷ついたような表情をして苦笑した。実際、イギリスの寄宿学校にいたという司は周囲に対して物怖じすることなく振る舞いがスマートで、五月を差しおいても周りからすれば非常にコミュニケーション能力が高い学生と思われて仕方なかった。
この夜、五月は深く考えることなく、同性異性関係なく、司と朋也の、人との接し方なんかを鑑みてそんな風に評したのだが、深く知りもしない彼をそんな風に決めつけてしまったことを、後に後悔することになる。でもそれはまた別の(はなし)
「ならさ、五月だって、サッカー部のマネージャーなんて男目当てだろって言われたらどうよ」
「全然そんなつもりないよ!」
 実際、多忙を極めるサッカー部のマネージャーになりたがる女生徒は稀で、それでも女手も欲しいと言う男マネの要望に渋々応える形で彰太が恋人の有紗を引き入れた時、彼女がつけた条件が彰太の幼馴染でもある五月もいっしょに、だった。そうして、五月は朋也と出会ったのだ。
「ほら、人に決めつけられるのって胸糞悪いだろ。五月はもう少し俺自身に興味持ってよ」
 そんな風に冗談めかしながらまるで口説き文句をのたまう司は、たぶんモテる類の人間なのだろう。彼が五月にかまうのは、たぶん第一印象のせいだ。五月がどうしても朋也の面影を重ねてしまうから。もちろん、誰も口にしないから、司は五月が口走った朋也という名の人間について知らないし、訊ねない。必要なら、誰かが、――五月が話すだろうと理解っているからだ。
どっちつかずな状況を払拭するには、五月にとってどんなにふたりが「同じ」でもやはり司と朋也は別人なのだと、もっときちんと判る必要があった。
ふたりは歩道橋を使って道の向こう側へ渡ろうと、階段を上がった。何事かを考え込んでいたらしい五月が口を開く。
「やっぱり、お詫びになにか作らせて。私、神崎くんのこともっと知りたい」
 そうすれば、朋也とは別人なのだと、言い聞かせることが出来る。司の言はもっともだ。だが司にとって、五月のこの言動は不意打ちだった。五月に他意はない。申し訳なさしかなかった。それでも、司の胸を高鳴らせるには十分だった。
 他愛もない冗談をさえ真面目に受け止めてくるくると表情を変える五月を可愛く思って、司は噴き出した。
「なによ、人がせっかくおいしいごはん食べさせてあげようってオファーしてるのに」
「…ああ、サンキュな」
 からかったりして、悪かった。そう言って、司は思いの外優しく微笑んだ。辺りは夜なのに、雲間から月が出ていても遠い上、街灯の明かりだって心許ないのに、なんだか夜気まで熱っぽくて、眩しい。この気持ちはなんだろう。
(朋也、)
 考えることを止めたくて、考えてはいけないような気がして、五月は心の中で朋也を呼び求めたが、声にはならなかった。少しずつ、司と向き合ってみたい衝動に駆られているような気さえする。
 柔らかく微笑んだ司が、いつとなく朋也のそれと似ている。どこかが疼く。気づかれたくない。
「なにかお礼しなくちゃあなあ」
 五月の複雑な心中を知る由も無く、司はぼやいた。
「でもなんか、意外」
 何が、と尋ねた司と五月は歩道橋の階段を下り始めた。
「だってもっと――」
 アンタ誰、と冷たく突きつけた司は、もっととっつきにくい印象だった。
 思考が他所に飛んでしまっていた五月の、例のミュールの爪先が階段を踏み外した。短い悲鳴をあげる間もなく彼女の身体はぐらりと宙に傾いた。
 危ない、そう叫んだ瞬間、すでに司は荷物を放り出して五月を抱えたまま階段を転がり落ちていた。幸い、踊り場部分までは、大事に至るほどの高低差はなかった。
「大丈夫か?」
 五月を傷つけないよう自分が下になった司は、五月を抱えたまま上半身を起こした。
 二人は、出会ってから初めて、同じ目線の高さでお互いの瞳を見つめ合った。
 漆黒の、深い色をした瞳に真摯に見つめられて、五月は吸い込まれてしまいそうな思いだった。だが視線を逸らすことさえ叶わない。
 そんな風に見ないで欲しい。――本当に?
 唇が震えるのが自分で分かる。たまらなく、朋也が恋しくなる。きっと彼もこんな風に、咄嗟に人を助けようとしたんだ。

第4話 五月と朋也「夏に残してきた秘密」

十五歳の夏。
花火大会の当日、五月と朋也は約束したとおり練習の後いったん帰宅した後、出かけたのだが、残念ながら雨が降って花火自体は中止になってしまった。
「来年に期待ってことか。次は浴衣もいいなぁ」
 すごく楽しみにしていた反面、ショックも大きい五月がしょぼくれた顔をしていると、優しい朋也は雨宿りしていた軒下で、さも当たり前みたいに一年後の夏もふたりの関係は続いているのだと、そういう前提で、五月に対する期待をも織り交ぜて和ませてくれた。
朋也の手が五月の頭をくしゃりと撫ぜる。幼少時に父親を亡くした五月はこういった類の経験があまりないせいで、どうしようもなく気恥ずかしくなるし、うれしい。
「今日ね、浴衣にしようか迷ったんだけど、慌ただしいかなってやめておいたんだ。やっぱり、浴衣着てくればよかったかな」
「結果的に雨降ったんだから、正解だったと前向きに捉えようよ」
 向日葵畑に赴いた時に履いていたミュール。お気に入りの靴に合わせたのは、人出が多そうだなと思い立って、なんとなくパンツスタイルにパフスリーブのチュニック。もう少し時間があればよかったな、昨日の夜に決めておけばよかったかな、――どきどきも後悔もすぐ顔に出る五月がいとおしくて、
「どんな服着てたって五月は可愛いよ。それに、いっしょにいられればそれでいい」
 歯痒くなるほどうれしい言葉をくれる朋也に、同じように好きっていう気持ちを表したいのに、五月は上手く言葉にできない。それがもどかしかった。もう少し、彼とつきあうまでに交友経験を重ねておきたかったような、初めての彼が朋也でよかったような、どっちつかずの気持ち。

「私も」

 いっしょにいられてうれしい。五月が言葉に出来るのは、それくらいだ。そう言って、そっと朋也の手の指先に躊躇いがちに触れれば、ひと回り大きな手が安心させるように包んでくれた。


「完全に惚気だな」
五月は、朋也との待ち合わせの前に、自宅から歩いてすぐのところにあるカフェに来ていた。そこは五月の幼馴染、彰太の母が切り盛りする小さな喫茶店だった。五月と有紗の会話を聞きながら、休日は例によって店を手伝わされている彰太が思わず苦笑する。彼女持ちで、五月は唯の幼馴染とはいえ、なんとなく複雑な心境だ。娘の父親ってこういう気持ちなのかしら。
「じゃあ大野くん、練習試合の後も合宿の前後も、休んでないの?」
 ぼやいた彰太を大して気にも留めずに、有紗は感心していた。一分一秒たりとも離れていたくないとかっていう、つきあいたての男女によくある現象だ。
「うん。私も休んでって言ったんだけど――」
『俺が五月といたいんだから』
 なにか思い出したらしい五月が頬を緩めて黙り込む。彰太が淡白な分、朋也がそんな風に親友の五月に入れ込んでいるのは、女としてちょっぴり羨ましい。でもなんだか有紗も母親みたいだ。
「今の五月、すごく可愛いもんね。なんて言うか、幸せそう」
 好きがあふれて仕方がないらしいのは、五月の様子を見れば一目瞭然だった。微笑ましい。
「今日も会うの? どおりでおしゃれしてると思った」
 えへへ、と笑って彼女の追及をかわし、「じゃあ行くね」と席を立った五月を見送った有紗は、休憩がてら彼女の隣の席に腰をおろした彰太を振り返った。だからといって彼女にベタベタ甘えてくるといったような、言動はない。彰太もまた、朋也とは異なるベクトルで硬派だった。
「ねえ、大野くんってそんなにタフだったっけ?」
「さあ…。ただ単に五月といたいだけなんじゃない?」
 仕事中という事情もあるだろうが、大して熟考せず適当にあしらうように席を立つと、彰太は有紗に背を向けて仕事に戻っていった。
 有紗と彰太は付き合い始めて三ヶ月。なのに二人の関係は進展もしなければ後進もない。有紗は普段のクールな感じからは想像がつかない物憂げな表情になった。
「――男の子が皆欲張りだったらいいのにな」
頬杖をついてため息を吐く有紗だった。ふたりの(はなし)はまた別の機会に。

(昼飯代、映画代だろ、あとは――)
 ふと、机の上に置きっ放しだった小さな白い箱のことを思い出してポケットに入れる。危ない危ない。忘れるところだった。
 十時三十分。
 そろそろ出ないと、十一時の五月との約束に遅刻してしまう。
 二人は駅前にある映画館の前で待ち合わせていたのだが、駅から近くにある五月の家とちょうど反対側にある朋也の住む家からだと、どう見積もっても二十五分はかかる。急がなくては。
 つきあい始める前、五月(ごがつ)に過ぎてしまった彼女の誕生日。五月は朋也がプレゼントを用意していることを知らない。驚かせるつもりだった。きっと喜ぶだろう、そう思うだけで暖かい気持ちになる。
 実は、朋也の認識では五月が思っているよりもずっと以前から、朋也は彼女のことを気に留めていた。たぶん、中学に入った年のこと。秋か冬か、最初に彼の目が彼女を焼きつけた時、制服は長袖を纏っていた。校外で、独り悔し涙を浮かべる五月を見かけた。大粒の涙をぼろぼろとこぼして、顔をぐちゃぐちゃにしながら、を我慢して泣く姿がなぜか綺麗だと思ったのに、話しかけることは出来なかった。彰太と有紗のおかげで五月がマネージャーを引き受けたと知って、思わず心の中でガッツポーズをしたことは誰にも話してはいないし、いつかあの時の涙の理由を訊きたいとも思っている。だがそれは、その頃から気になっていた事実をいっしょに明かさないといけないわけで。まだそんな風には、急に距離を縮められない。
 だから、五月に話した通り、明日も明後日も、来年も再来年もいっしょにいればいい。 
 交差点の信号が青から黄色に変わった。急いではいたものの、朋也はまじめに次の青信号まで待つことにした。――その時。小さな男の子が、転がるボールを追いかけて車道に飛び出した。

「危ないっ」

 朋也は、男の子の母親の悲鳴が耳に入るより先に、反射的に車道に飛び込んでいた。
 男の子を突き飛ばした朋也は、すぐそこにトラックが迫っているのに動けなかった。日頃の疲労のせいか、突然の目眩に襲われたのかも知れない。
 もろにトラックと衝突して、朋也の身体は呆気なく宙を舞った。人々の喧騒と、びっくりして泣き出した男の子の涙声。それらは聴こえていた。
意識が朦朧とする中、無意識に、音を頼りに五月の元に辿り着こうとした朋也は必死にポケットの中から白い箱を出した。残りの意識が完全に闇に吸い込まれるその瞬間まで、朋也は脳裏にかろうじて浮かぶ彼女の笑顔を掴もうとしていた。

(早く来すぎちゃったかな)
 五月は、約束より十分早く映画館前に到着していた。目の前を何組ものカップルが横切るのを尻目に、五月の表情にだんだん不安の色が見え隠れする。
 時刻はとっくに十一時を回っている。
(どうしたのかな………。)
 ミュールの先、今日のために有紗が塗ってくれた足先のペディキュア、夏らしいネイルカラーを見つめながら待っていると、交差点の方から一台の救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら目の前を通り過ぎた。
「今、そこの交差点で男の子をかばって中学生か高校生がはねられたって」
「ええ、怖い。あなたじゃなくて良かったあ」
(まさか、)
 若いカップルの無責任な会話に、五月は割って入った。
「それって高校生の男の子なんですか?」
「はっ? ああ、そう言ってたと思うけど」
 情報は曖昧だった。中学生か高校生かだなんて、制服を着ていなければ見分けはつかない。
 確証は無い、が、胸騒ぎがする。不安が止まらない。早く、朋也に会いたい。
 その時、館内放送が流れた。
『――春成五月様、大野様からお電話です。至急事務室までお越し下さい』
 五月はほっと胸を撫で下ろした。さっきの事故は朋也ではなかったのだ。そう、思った。
 事務室に入って、五月は喜び勇んで受話器を取った。
「朋也、どこにいるの? 心配したんだから」
『――五月さん、ですか? 朋也の父です』


 五月は必死の思いで病院へと走った。デートのためにおしゃれしたミュールは走りにくかったが、そんなこと気にはしていられない。
 ――息子が、トラックにはねられました。今、集中治療室にいます―――。
 五月が集中治療室の前に着いた時、ちょうど医師が中から出てきたところだった。一瞬、朋也の母親と思しき女性と目が合ったが、ふいとそらされてしまった。
「先生、息子は――――」
「息子さんは命をとりとめました」
 ほっと、その場にいた全員が安堵の溜め息をついた。気が付くと見慣れぬ母子もソファに腰掛けていた。
「……ですが、もう意識が戻る見込みはないと思われます」
 場の空気が、凍りついた瞬間だった。五月は、一瞬医師の言う意味を理解できなかった。
 もう、名前を呼んでも笑って振り向いてくれることがないのだと。大きな手が意図して触れることもないのだと。つまり、そういうことだ。
「ママ、まだお兄ちゃんおっきしないの? 僕、まだありがとうって伝えてないよ」
 そう言って母親の上に縋りつく。場の空気に怯えたのか、憐れな男の子は泣き出してしまった。
「――どうしてくれるの」
 その、朋子の静かな怒りは、男の子にではなく、事態を飲み込めずに呆然としていた五月に向けられていた。
「こんなことになったのは……っ」
 よせ、と今にも五月に掴みかかりそうな母親を、どこか朋也に似た雰囲気の父親がなだめにかかる。五月は呆然としてごめんなさいの言葉を発することも、動くことも出来なかった。
「朋也ぁ!」
代わりに、五月よりも、――世界の誰よりも朋也と長くいっしょにいて、愛しただろう母親が彼の名を叫んだ。気丈な母親の大粒の涙を前に、五月はなす術無く立ち尽くすしかなかった。


 その夏の大会。
 雨天だったとは言え、彰太(しょうた)達のチームは今までには無い惨敗を味わった。ベンチに五月の姿はなかった。
 姿を見せなくなった彼女を、一度彰太と有紗のふたりで見舞いに行ったが、五月は柔らかそうだった面影が失せて、少女から一気に何歳も老けてしまったかに見えた。光のないうつろな瞳の目元には泣きはらした跡があり、薄い儚い空気のみをふわりと纏うようになった。
 食欲も無く、食べたものを戻してしまうことも度々あるという。
「生きててくれたのが、唯一の救いだよ」
 彰太の言葉に、有紗が俯いて静かに呟いた。
「……こんなこと言ってはいけないのかも知れないけれど、死んでしまったほうが良かったのかも知れない」
 彰太は、何を言い出すんだと恋人を睨みつけた。
 だって、と有紗は言った。
「五月は、自分のせいで大野くんがあんなことになっちゃったって思っているのよ? 自分の責任だって。大野くんが死んでても生きてても、その罪悪感から逃れられないのは同じだわ。でも」
 有紗は唇を噛んだ。想像するのだに恐ろしい。
「もし、彰太が大野くんみたいになってしまって、一生目を覚ますこと無く静かな病室で器械をたくさん付けて眠っているのを見続けるなんて、私には出来ないよ」
 五月は、今実際にその立場にあるのだ。
「――有紗……。」
 彰太は声も無く泣き出した有紗の肩を、雨の中きゅっと引き寄せた。


 五月はベッドの中で優しい音を聴いていた。否、ぼうっとしながらも、朋也が遺した小さなオルゴールのメロディは、聴いていられた。くるくるとバレリーナが踊っている。朋也は五月が中学一年生を終える少し前まで踊っていたことを知っていたのだろうか。今、知る術はない。もうやめるしかない、やめようと決めて、独り公園で涙した木枯らしの吹くころ。
 彼はこの小さな贈り物を、病院に着くまでずっと握っていたのだという。
 曲は、リードの『愛の夢 第三番』。
 涙さえ枯れ果てた五月の奥に、その単調だが優しい音色は、まるで子守唄のように聞こえた。
(会いたい)
 会って、来年もいっしょだって言ったろ? そう言って微笑って欲しい。


 退部届を出して、長かった髪をばっさり切った。
普通に歩き、寝て、食べて、そして笑う。そんな日常を以前みたいに送れるようになるまで、長い時間を要した。根が真面目だからか、母親や、彰太や有紗に心配をかけたくなかったからか、なんとか毎日を過ごそうとした。


だから、他の人に感情を揺さぶられるようなことはあってはならないと、自分を戒めていた。

第5話 五月と司「融解」

目を、閉じてはいけなかった
触れた温もりがみるみる凍っていた時間を溶かしていく
傷つき未だ夏の檻の中にいた彼女には甘すぎる罠だった
甘美で残酷でこの上なく魅惑的な、禁断の果実

夏も終わりに近づく足音が聞こえる。
午後の練習を終え、片づけていた最中はヒグラシが急かすような鳴き声が夕暮れにこだましていたが、部員が着替えてキャンパスを後にする頃にはすっかり日は落ちて、ジージーゼミが待ち人をあまり長く待たせるなと警告しているかのようだった。
「悪い、待たせた」
「ううん、そんなことないから大丈夫」
 なんとなく、彰太や有紗を始めとする他の部員に、司と待ち合わせていることを悟られないように正門まで遠回りした五月は、言葉通り大して長い時間、待ちぼうけてはいなかった。
「肉はあるんだよ、もらいものだけど。どっか買いに寄ってく?」
「うん、せっかくのいいお肉みたいだし、玉ねぎとかセロリとか…林檎も欲しいかな」
「わかった」
 ふたり連れ立って歩き出してから、(そういえば朋也とは夜道を歩いたことがなかった…)と思い至る。朋也や彰太以外の男の子とこうして自然に話しながら校外で過ごすことが出来るだなんて、あの(・・)()になにもかも置いて来たかのように時を止めてしまっていた五月には、少し前まで思いもよらなかった。
 先日の、司との直のやりとりが五月には効いた。
『もう少し俺に興味持ってよ』
 朋也を彷彿とさせる彼だから遠ざけるのではなく、司自身を知っていければいい。
 おつかいや買い出しは、五月にとって手慣れた行為だったが、そういえば同性異性含めて友達とこんな風にあれこれ話しながら食材をそろえるのは、初めての経験で、新鮮だった。
「玉ねぎは?」
「玉ねぎは飴色に炒めたものを持って来たの。大きいのを4つ、焦がさないように3時間かけて弱火で炒めたんだ。今から始めたら日を跨いじゃう」
 もちろん週末ならそういう作り方もするんだけど、――と、五月も自然と冗談を言って笑えていた。なんだろう、なんか、素直に楽しい。楽しい時は笑っていていいって単純なことを、長らく忘れていたような気がした。誰に強制されたでもなく、自ら遠ざけていた。司も愉し気に軽口を叩いて応戦する。
「じゃあ、泊まってく?」
「っ………もう、そういうところだよ」
「だから、冗談だって。冗談が通じないやつだなあ」
「からかわないでよ」
 先日の夜道でも司は気づかされたのだが、ふたりでいる時の五月は、学校で接する時よりも、ころころと表情が変わる。本来は、表情豊かなのだろう。それに、哀れなことに怒ったところで善くも悪くも迫力が出ない。でも、五月いわく人たらしたる司に、訴えかける魅惑があるようで、
「実のところ冗談かどうか、俺もまだ自分でよくわかんないけど」
「え?」
 司が珍しく明後日の方向を見ながら、意味深に小声でぼそっと呟いたから、却って五月の気を惹いてしまった。ごまかしたりせず、ストレートに言葉にしようとするのが、司のいいところだ。
「五月が言ったみたいに、俺もおまえのこともっと知りたいんだよ。帰りは送ってくから」
「うん………。」
 確かに朋也とはちがう人。だけど、五月をどぎまぎさせる人でもある。それが嫌じゃない。


 司の住むマンションは、1DKだが幸いコンロが2口備えつけられていた。ふたり並んで立っても、狭い印象は受けない。
「うわあ本当にいいお肉だね。お肉から油が出るから、まずは塊のまま火を入れて、焼き色をつけるんだ。そうすると外は少しかりっとして、中はほろほろに解れるんだよ。で、赤ワインで締めるの。今日は料理用を家から持って来たから」
「ほんと用意がいいな。さすがマネージャー」
 司が素直に感心するから、五月も悪い気がしない。
 焼き色をつけた塊肉を、大量の飴色玉ねぎといっしょに1リットルほどの水を入れて煮込む。煮立ったら弱火にして灰汁を取る。灰汁を丁寧に取るのもコツだ。
「すった林檎も少し…と、トマトも入れると美味しいんだよ。人参とジャガイモのすりおろしと、セロリを葉っぱごと入れて、煮込むの」
 お料理番組みたいに解説しながら笑い合い、ふたりで食事を作るのは、楽しかった。
「あちっ」
「気をつけてよ」
器用なのかと思いきや、家庭科の経験がないらしい司がいろいろな表情を見せてくれるからか、五月も心から笑うことが出来る。
 センスのいいプレートに盛られたカレーライスから、湯気が立つ。うん、美味しそうだ。
 いただきます、――向かい合って、手を合わせる。なんだか小学校の給食みたいだ。と、司は、
「あーなんかいいな」
 ひと口食べるや否や、カレーの味よりも先に別の感想が口をついて出た。
「作ってくれたのもうれしいけど、それ以上に誰かといっしょに食べるってのが新鮮でさ」
 思わぬ感想に五月は胸を打たれた。彼女の家庭も母が忙しく、働いていて留守がちだったが、人一倍気をつけていたのだろう、五月は孤食を経験したことがない。
「勝手に哀れむなって。俺にとっては、夜は独りが当たり前だったってだけで、別にだからどうってことはないんだ」
 はにかむように、あまり家の事情を他人に話し慣れていないのか、どこか気恥ずかしげにそう言い訳した後、司はあっという間に一皿平らげてしまった。時間をかけて食べる癖があるらしい五月を眺めながら、しみじみ述べる。
「五月はさ、なんか学校では無理に笑ってんのかなあって思ったことが何度かあって。やっぱ、おまえ自然に笑ってるほうが可愛いよ」
 そうさせているのは、いっしょにいる司なのだと。認めたくなかったわけでもないが、五月にもそうと理解っていた。司は初心な五月にも至極わかりやすく言葉にしてくれるから、安心して真っ直ぐな言葉を受け止める気にさせられてしまう。
「………無理してたつもりはなかったんだけどね、あの、私マネージャーになる前、ちょっと挫折して――」
 本気でバレエの道を頑張りたいと決意した矢先、思うように背が伸びなかったりだとか、それでも体重制限を気にして、母親との共通の趣味でもあった料理を楽しめなくなったりだとか、経済的負担だとか、様々な事情を天秤にかけて、最後は自分の意志で諦めたのに、どこか納得がいかない我侭な自分もいて、人知れず公園で悔し涙を流したこと。司が自分のことを少し話してくれたからか、五月もかいつまんで口にすることが出来た。
「ごめん、いきなり暗い話しちゃって」
 朋也にも話しそびれた過去(それなりの時を経たから話せるようになったのかも知れなかったが)をぺらぺらと、憐れみを誘うみたいに話してしまった自分を恥じて、五月は食卓を片づける名目で離れようと立ち上がった。司の分も無論いっしょに片づけてしまおうと手を伸ばす。と、
「話したいと思った時に、話したいことを話せばいい」
 五月の手を捕った司の手が、朋也のそれよりも大きいと感じたのは、朋也とちがって彼らが成長しているからだ。離して、と言おうとしたのだろうか、五月は、咄嗟に掴まれた手ではなく、司の顔を仰ぎ見た。けれど彼はいつになく真剣で。それは、約束した夏の朋也と同じ顔、瞳で。でも、食卓を挟んでいる分、それ以上ふたりの距離が縮まることはなく、それでもしばらく間があった後、どちらからともなく触れた手は離れていった。
 あるいは、「朋也って?」とそのまま訊ねることだって出来た。そうしなかったのは、司が策士でもあったからだが、加えて最初の印象より五月がずっと純粋で、無防備で、それでいて手を引いてくれる誰かを求めているのだろう虚弱さを、ひしひしと感じ取っていたから。応えられるだろうか。一方、五月からすれば、訊かれないのが内心ほっとしながら、ちょっと狡いとも思う。
 そんな駆け引き、まるで恋みたいだ。


「送ってく」「いい、ひとりで帰れる!」結局、押し問答の末、司が譲って、折れた。だからだろう、行って来ます、と陰鬱な気分のまま、家を後にした五月を、司は通り道で待ち伏せていた。
 日曜日の正午。晴天、外の気温はすでに三十度。午後を過ぎれば更に上がるだろうとの予報だった。それでも、サッカー部は熱中症予防を徹底しつつ活動する。
「――おはよ」
 昨晩、五月が仰ぎ見たのと同じ真剣な面持ちで、司は有無を言わさず五月の隣を庇うようにして歩き出す。
「おはよ」
五月に振り解くような拒否権はないようだ。すんなり諦めて、力なく微笑む。朝はいい。心がざわざわしないから。それでも、昨夜、送っていくと気遣ってくれた司を振り払うようにして逃げ帰った形の五月には、なんとなく罪悪感が募る。
(――どうしよう、変に意識しちゃう……。)
 自然と、俯いて自分の爪先ばかり見てしまう。
 ふたりは言葉も無く、公園沿いの杉並木を並んで歩いた。高い杉の木から覗く日差しが、五月に去年の夏、朋也と歩いた杉林を思い起こさせた。
「カレー、美味かったなあ」
 また夕飯作ってよ、でもなく、傍で他愛の無い世間話をする司(多分に、五月の緊張を解そうとしてくれているのだろう)に、申し訳なく思いながらも適当に相槌を打つ。司は近道だからと、五月を例の交差点に連れ出した。
 朋也が事故にあった、交差点。約束した場所の、すぐ近く。
「待って、」
 一瞬、思わず立ち竦んでしまった五月を知ってか知らずか少し先に行ってしまった司を、動悸を抑えながら追う。赤信号で彼は立ち止まった。その時。
 反対側の歩道から、小さな男の子が車道へ飛び出していく光景が目に映った。飼い猫を追って。
 五月の脳裏に、見た訳ではない光景がまるでフラッシュバックするように浮かぶ。車が急ブレーキを踏むけたたましい音が今にも耳をつんざきそうだった。
 耳を抑えて叫んだ。(誰の名前を?)トラックのクラクションが辺りに轟く。
 男の子の泣く声が遠くから聞こえた気がして、五月は恐る恐る目を開けた。なんてことはない、すぐ傍で、司に助けられた男の子が半べそかいていた。
「びっくりしたか、がんばった。気をつけような、な?」
 咄嗟に男の子を引き戻し、頭をぐしゃぐしゃと撫でてやっているのは司だった。五月は周囲の人々と共にほっと溜め息をついた。男の子も司も無事だった。何処にも怪我などしていない。だが。
 だって、と泣きじゃくる男の子が指で示したのは、トラックに跳ねられて、血だらけでぐったりとしている猫の姿だった。
「いや……。」
 ふらっと後退した五月を不審に思った司が、男の子を追ってきた母親に預けて近寄ってきた。
「どうした」
 五月はもう手が付けられないくらいに混乱していた。青ざめて、目には涙をたくさん溜めている。
 そんな五月と同じ目を、司は何処かで見た覚えがあった。
 あれは何処でだっただろう。
 既に焦点が合っていない彼女に、五月、と呼びかけると、ふいに五月の光のない目が司の瞳を映した。
(――朋也……?)
 司の腕に縋り付いた五月の力は、次の瞬間がくりと抜け落ちた。


 乾いて上下が張りついたような唇からようやく大きく息を吐いて、五月はゆっくり目を開けた。と、そこは学校の保健室、ベッドの上だった。蛍光灯の光の下、慣れない目をこらす。
五月、――彼女を呼んだ人の、ぼんやりとしていた輪郭が少しずつはっきりしてくる。芯から心配して覗き込んだ、司の影だった。
「大丈夫か」
 普段どちらかというと周囲に無愛想で、はっきり物を言う司が、これほど優しい声を出さなければ、五月も錯覚することはなかったのかもしれない。
(――朋也、)
 どうしようもない焦燥、そして安堵の両方に襲われて、五月は唯単純に、生きていることを確かめたくなったのかも知れない。それほど、五月を気遣う司の姿は、朋也に生き写しだった。
「よかった」
 司の手を借りて起き上がると、五月はベッドから降りて、不思議そうに司を、そして彼の唇を見上げた。
 黙ってされるがままになっている司の唇に、小さな手でそっと触れて見た。
 ――温かい。
 目の前にいるこの人が確かに生きていることを確かめて、ほっとしたのと同時に、五月の胸をどうしようもない寂寥が襲った。離したくない。
 気づけば、五月は椅子に腰掛けていた司に向かって屈んで、そっと唇を重ねていた。
 最初驚きを見せた司だったが、立ち上がり五月を引き寄せると、確かめるように一度放して、今度は熱く彼女の柔らかい唇を出迎えた。
 どんなに深くお互いを確かめ合おうと、五月が自ら正気を取り戻すことはついになかった。

「――五月っ」

 五月を現実へ引き戻したのは、保健室の扉が乱暴に開かれる音と、彼女の名前を呼んだ声だった。

第6話 五月と司「懺悔」

たぶん誰も悪くなくて、そうとわかっていても、なにかの所為にしたかった
そんな幼さを幼さだとわかってないまま一生懸命に悩んで、僕らは大人になる


「五月!」
 自分の名前を呼んだのが誰だとか、そんなことを気にするよりも先に、五月は司の背に回していた手を反射的にぱっと解いて、彼から離れようとした。思ったより距離を取れなかったのは、司が五月の両の二の腕を掴んだまま離そうとしなかったからだ。自身は離れようとした分、余計に掴む大きな手の熱を意識してしまう。くぐもった声しか発せられないのが、恥ずかしかった。
「……神崎くん、離して」
「なんで」
 離して欲しいのか?
 飛び込んで来た第三者なんてまるで目に入らないかのように、司が真っ直ぐに目で問うてくるから、五月は言い返せなかった。同時に、自分の浅ましさに吐き気がした。司から離れなければ、と咄嗟に身体が動いたのは、やましい場面を見られてしまったとの自覚からだ。見られてはいけないことをしていた、と思った。でも、どこかで、朋也の面影を重ねたまま司とキスしてみたい、と狡い誘惑に駆られたこともわかっていた。五月に代わって怒声が響く。
「離せよ!」
「だから、なんでだよ。おまえに関係ないだろ、森崎」
 保健室に飛び込んで来たのは、彰太だった。五月の言動から、彰太は怒りの矛先を司に向けた。なのに、司があまりにも冷静に、五月を捕まえたまま他人事のようにのたまうから、彰太は扉の傍から動けなかった。元来、人好きのする彼が怯んでしまったのは、司の言うとおりだからだ。それでも、
「関係ある、五月には――」
 朋也がいる。彰太はそう言おうとして、躊躇ってやめた。当の五月から、幼馴染みから、なにも聞かされていないから。勘のいい有紗と、司と五月の関係について話題にのぼった時も、五月に限ってそれはないと、わかった気になって相手にしなかった。五月もあの夏以来、気が咎めて彰太とは昔みたく親身になって話をしなかったが、彰太もまた、朋也を思い出させてしまうのはどうかと五月と積極的に関わろうとしなかった。
 その間に、――僅か短期間の間にではあったが――、物事が動いただけなのではないか?
「俺が悪いのか?」
 司は五月ではなく、彰太に問うた。五月を庇うためか、彼女からキスしてきたのだと、事実は伏せて。幸か不幸か、傍からすれば司が彼女に手を出したように見えたのだろう。
「ちがう、神崎くんは悪くないよ! 悪いのは私、」
 はっと我に返った五月は、賢い司が人一倍決めつけられることを嫌っていること、実は傷つきやすい繊細な面がある人なのだということを思い出して、庇おうとした。自分の気持ちは正直、まだよくわからない。だが、司が悪くないことはわかる。優しい人だ。朋也と同じように、
「朋也は――」
 司の前で咄嗟に朋也の名前を口にしたのは、これで二度めだった。その先に続きがあったはずなのに、苦しくて言葉にならない。
(朋也には、もう会えないかも知れない)
 生きているのに。それが、この一年、ずっと、ずっとつらかった。会いに行っても話せないのだと、声すら聞けないのだと認めるのがこわくて、見舞いに行くことも出来なかった。項垂れた彼女を司だけが強く掴んで離さないでいてくれて、五月はひたすら有り難く思った。心の中で、彼の優しさにしがみついていた。朋也を直接知らない司だからこその、所業。
「待てよ、五月が悪いって道理だってないだろ。どうして俺とキスしたら駄目なんだよ」
 唇を噛んで、ぐっと堪えたようすの五月を目にした彰太も、言い過ぎたと反省したようだ。
「……司の言うとおり、俺には関係ない。悪かった。でも、」
 どうしちゃったんだよ、おまえら。彰太はたぶんそう訊きたがった。司が来て、彰太は素直に嬉しかった。まるで朋也がいた昔に戻ったみたいだった。同時に、五月がどう捉えるのかは懸念だった。有紗と気にかけていた。新しい友人として過ごせていると安堵していたのだ。
思い違いは、時に友人を傷つける。
「いや、いい。わかった。俺はもう行くよ。有紗も心配してた。後で来ると思うけど、どうする?」
 ふたりを残して、去っていいのかと彰太は暗に問うた。五月は、幼馴染みの気遣いにひたすら感謝した。
「大丈夫。ありがとう、彰太。有紗にもそう伝えて」
「五月が大丈夫なら、いいんだ」
 彰太が出て行ったから、再び保健室の扉が閉ざされた。司が離しさえすれば、あの扉を閉めるのは五月だった。彰太に信じられないと責められるまま、居た堪れなくて飛び出していただろう。司が離さないでいてくれたから、張り裂けそうだった心が、今はこうして落ち着いている。
 五月が肩の力を抜いたのを察してか、司はようやく掴んでいた五月の両腕を解放した。それが少し寂しい。それを悟られたくなくて、五月は一歩後ずさった。司は司で緊張していたようで、長い手足を投げ出すようにベッドの上に勢いよく座って、うーんと伸びをする。
「森崎の初恋って、五月だろ」
「そんなことない、保育園からいっしょだっただけ」
 そんな軽口を叩いて、五月の肩から力を抜かしてくれる人。
 司が五月を離さなかったから、五月は逃げ出せなかったのだが、今ふたりになって、五月は、一方的にキスされた側である司が彼女を突き放さなかったことが意外で、意外じゃないようで、彼が思ったとおりの人間で、五月自身どこかで離して欲しくないと思っていたから――うれしかった。
 だから、素直に謝ることも出来る。
「いきなり、ごめんなさい」
「五月が謝ることじゃない。嫌だったら避けたさ。俺からはしないけど」
 司のはっきりした態度に、五月は傷ついた。
「誤解するなよ。五月が混乱してるんだなってことはわかる。お互いに自分の気持ちがはっきりするまでそういうのはしないほうがいいってだけだから」
 やっぱり、司は五月より色恋のあれそれに慣れているのかも知れない。五月にとっては一大事だが、彼にとっては大したことじゃないのか(これまた偏見だってことに五月が気づいて後悔するのも、別の(はなし)だ)。でも、言葉足らずじゃない彼だからこそ、五月はいっしょにいられた。
 ただ、――司は珍しく探るみたいな目をして五月をじっと見、確認した。
「嫌いだったら、しないんじゃないの」
 真っ直ぐ見つめてくる司から、五月も目が離せなかった。司の言うとおり、生理的に受けつけないような相手とは、こんなこんがらがったことにはならない。
「嫌いなはずないよ、だって私たち――」
 友だちでしょう、と言いかけて、既に唯の友だちではいられなくなっていることに気持ちが追いつかなくて、五月は続く言葉を飲み込んだ。
 司は、五月から視線をそらして口を開いた。今だったら話せると、時期が来たと覚悟を決めたのかも知れなかった。
「怒らないで聞いて欲しいんだけど、」
 同時にふたりの人間を好きになってしまうことは、あり得ないことじゃない。偶々、ふたりの外見が似通っているからって、気になってしまったことは、罪じゃない。唯、いつまでも見ないふり、知らないふりでごまかすことは、出来ない。
「五月に、白状しなきゃならないことがある。俺、知ってるんだ。――大野のこと」

第7話 朋也と司「あるいは、僕から君へ」

縁があれば、人と人とはいずれまた巡り逢うとは言うものの、
今が大切な僕らにとって、それは世界の終わりにも感じられて。


「――ほんとうに、五月には言わなくていいのか?」
彰太は、朋也に悪いとは思いつつ、彼に、朋也本人に呼び出された病室で再三確認した。この場に有紗がいたら、なんと言っただろう。さすがに、朋也は彰太以外の誰にも連絡を取らなかったし、彰太も、託された秘密は有紗にすら漏らさなかった。
彰太が朋也本人から連絡を受けたのは、司が編入してくるよりも少し前のことだ。
どうせ元知った友だちと離れ離れになるなら、「事故に遭って意識が戻らない少年」のまま、皆の記憶から薄れて、やがて消えてしまえばいいと。朋也はそう望んだのだった。
「五月は、」
 彰太は言い募ろうとした。朋也が知らない五月の一年間を遠目に見ていたから。でも、彰太と朋也の思うところは同じなのだ。想い方が、ちがうだけで。
 誰も彼も、変わらない。始まった関係は、終わっていない。朋也は変わらない、五月への慈愛に満ちた、でもどこか影のある顔で言い訳した。
「失った一年の溝を埋めるのは、どんなにがんばっても無理だろうし、お互いつらいだけだと思うんだ。これ以上、五月につらい思いをさせたくない」
もし、後々なにかしらのルートで朋也の覚醒が五月の耳に入ったとしても、その頃には簡単に会えない距離がふたりの間にあれば、それはそれで。別離の選択は、浅はかだが、優しくて残酷な、幼かった彼の精一杯の愛情の形だった。


司が朋也を知り合ったのも、五月と出遭うよりも少し前のこと。
「叔父さんが勤めてる病院で俺、たぶん、大野の家族に間違われて」
 ――朋也!?
 朋也をこの世界に産み落とした女性だからこそ、母親なのだろうその人の慟哭は、少し後に出遭った五月のそれよりも切羽詰っていたように司には感じられた。
 五月にとっては、なにもかも青天の霹靂だった。朋也の意識が戻っていたことも、司が朋也とお互いを見知っていたことも。司は唯、
「黙ってて悪かった。五月が話す気になるまで、待つべきだと思ったんだ。でも、余計に追いつめたよな。ごめん」
 追いつめた。それは、五月の行為に対しての言だったのか、五月は知る由もなかった。司に朋也の話を出来ない理由を、考えなくてはいけないような気がしているのに、考えないようにしていた。朋也と話せない所為にしていたのかも知れない。
 司が朋也を直接知ったのは、しばらく経って、やはり病院に叔父を訪ねた時のことだ。彼を目にして動揺した母親だろうその人が、その日見かけた時には、打って変わって至極うれしそうな顔をしていた。足取りも軽く、彼女が出てきた病室に大野と札がかかっているのを確認して、興味本位で中を覗いたのだった。
 朋也が、そこにいた。五月が彼を朋也と呼んでしまった理由は、すぐにわかった。
「君は?」
五月は何も知らなかった。知らされていなかった。先の彰太の反応は、知っていた故なのだろう。そして五月がその事実を知らないことも、知っていた。五月に伝えなかったのは、口止めされていたから。朋也本人に。
「……どうして、」
五月は呆然とした。朋也はもう五月に会いたくないのだろうか。見舞いに行かなかったから? 意識がない内に、気持ちが薄れて、消えてなくなってしまったから?
そうじゃない、司はすぐに事実だけを伝えた。
「近々、遠くへ引っ越すらしい。養生とリハビリのためだと」
 意識が戻ったはいいが、朋也が同世代と同じような日常を送れるようになるには、努力と時間が必要なのは、想像に難くない。だが五月は、
(そんな――)
また、置いていかれてしまうのか。
「神崎くんは………朋也となにか話したの?」
「ああ。まだ体力だって十分に戻ったわけじゃないだろうに、誰か人と話したかったんだろうな。俺が、大野が通ってたのと同じ学校に編入すると知って、森崎には託せなかったものを預かってくれって、頼まれた。俺がサッカーをすると知って、いずれ五月とも知り合うと予感したのかもな。おまえの様子によっては、渡さなくてもいいからって。森崎に頼むと、あいつが苦しむから、俺に頼むって言われて………実は、ずっと持ってた」
 司が預かったのは、朋也の肉声を録音したメディア媒体だった。
「中身は聴いてないからな」 
 五月は、事態に追いつけないながら、一生懸命に考えようとした。なにをどう考えればいいのかはわからなかったが、色々なことが判った今、流されては駄目だ。何事も、自分で決めなければ。
「なんで、今そんなこと言うの?」
「それは――」
 本当にそうだ。五月にすれば、会いに行けば朋也はいると、声を聞けると知っていたら、先みたいなことは起こらなかったかも知れない。でもその考えは、ずるい。
 司は、まだまだ五月が捉えているほど、大人じゃあないのかも知れない。不安定だった五月と比べて、平静だっただけだ。そんな彼もまた、今はもう五月に揺さぶられている。
「じゃあ、五月はやっぱり俺はちがう(・・・)って思うの?」
 五月は、司に対してもっと早く教えてくれればよかったと思っているのだろうか。例えば、司の自宅にいたあの時? 自らは、朋也の話をする勇気なんて持てなかったのに?
「……わかんない」
 だって、もし目を覚ましたなら、朋也は誰よりも先に自分に連絡をくれるはずだと、五月はそう信じていたから。彼はそうしなかった。その事実が、五月に重く圧し掛かった。
(朋也は、会わなくても、平気なの?)
 考えるべきことは他にあるような気がするのに、ショックで、すぐ傍にいるのは司なのに、押し込めていた悲しさ堪えられなくなって、五月は涙した。司が手を伸ばした気配がして、五月は思わず拒んでいた。
「お願い、今は、触らないで」
 すごく身勝手な要求だった。五月も、朋也も。思い合っていても、考えることは別なのだと、そんな当たり前のことですら、幼かった彼らは生まれて初めて知ったのだった。
 涙が止まらないのは、朋也本人からの連絡がない以上、彼の決意は、彼にそう決意させた事情や、彼の家族の決断が、どうあがいても変わらないだろうと分かっているから。
 だから、司はかぶせて迫るしかなかった。朋也の考えを知る術は、彼の託された音声にしかないから。
「……どうする? 大野は、五月が聞きたくないなら、それでもいいって」
「聞きたいよ! 聞きたいに決まってるじゃない、でも、こわくて――」
 そんなはずはないと理性的な自分が解っていても、もう気持ちがなくなったのだと、そんな風に通告されたら、どうしよう。正気でいられる気がしない。だって、初めて好きになった人なのだ。あの夏から五月は、文字通りぼろぼろだった。ようやく楽しいと思える時間を過ごせる友だちが出来た。それでもずっとどこかで傷つき続けていて、立ち直れる気がしない。
「朋也は、神崎くんにこれを託したんでしょう? きっと、聞かれてもいいと覚悟したんだと思う……いっしょに、いてくれない?」
 ずるいとわかっていても。もし、司が甘えさせてくれたなら。その提案は、五月にとって賭けだった。
「わかった」
 司とシェアしたイヤホン。
 聞こえてきたのは、約束した夏と変わらない、朋也の声だった。


五月、たくさん心配かけたよな。「ごめん」じゃあ、何回言ったって足りないよな。
今日は、五月に最後のごめんを伝えたくて、こうして録音してる。
もちろん、会って話したかった。会いたかったし、電話したかった。――会いたいなあ。五月の顔が見たい。そんなに変わらないて信じたいけど、たくさん泣かせたかも知れないって思うと、気が引ける。
誰に聞いたわけでもないけど、あの日、五月が約束した場所でずっと待ってたってわかる。俺は、今すぐに五月に会いに行きたい。でも、五月の気持ちが今も俺にあるのかどうかがわからなくて、自信がなくて、結局俺は、五月に会う勇気を持てなかった。
きっと、会っても会わなくても、五月を傷つけたし、苦しめたと思う。俺たち、それだけ好き合っていたから。五月とふたりで過ごした時間は……五月がこれから出会う人たちとの時間と比べたら短いかも知れないけど、すごく楽しかった。好きになってくれて、ありがとう。どうか、泣かないで、笑っていて欲しい。


 慟哭が、止まらなかった。
 すごく勝手だと思った。朋也も、自分自身も。何も言わずに去ればいいのに。彼は、自分が悪者になりたくないから、こんなふうにメッセージを残したのだろうか。
素直に喜べない。朋也の意識が戻ったのはうれしい。ずっと会いたかったのも本当だ。でも、五月の感情はずっと約束した夏にストップをかけられたまま。急に動き出しても、心はついて行くことが出来ない。自分がどうしたいのかがわからない。朋也はたぶん、そんな五月を気遣って、会わない決断をしたのだろう。
録音から流れる恋人の声は、変わっていなかった。
想いがあふれる。短い時間だったかも知れないが、朋也といっしょにいたきらきらした時間のすべてを覚えていた。思い出は、鮮やかな色彩をも伴っていて、まるで昨日のことのようで。
 でもこれは、明らかに別れの言葉だ。それだけは判る。五月は、大好きな人にふられたのだった。なにかの罰が当たったのだろうか。そうじゃない。でも、あんまりだ。そう思った。
「五月は、どうしたい?」
 少し距離を空けて座した司が、五月に触れないまま訊ねた。彼の存在がひたすらありがたかった。どうしてこんなにも良くしてくれるのだろう。でも、その理由を明らかにするのはたぶん今じゃなくて、五月は、唯、司のの質問に答えた。
「このままはやだ……私は、ずっと朋也に会いたかったのに!」
「わかった」
司が踵を返して保健室から出て行ったから、五月は独り残された。

第8話 五月と、「Last Smile, Last Kiss. + Epilogue」

「朋也!」
 必死に呼びかけた五月の声は、轟音と重なってかき消されたかのように思われた。
 花火がぱっと夜空に咲いて、一瞬、世界が明るくなる。朋也の後ろ姿が夜闇にくっきり浮かんだ。大きな音にも、五月の声は負けなかった。病院の屋上で手すりに手をかけて、所在なく独り夜空を見上げていた朋也が、声がした方をゆっくり振り向いた。
 五月、――朋也の唇が、確かにそうかたどったのが、遠目にもわかった。朋也だった。話に聞いても、声を聞いても、唯衝撃を受けるばかりで、どこか未だ信じられなかった。この目で確かめて、五月はようやく実感することが出来た。朋也が、そこにいた!
「朋也」
安堵で、胸が苦しくなることがあることを、五月は初めて知った。彼女の傍には、司がいてくれた。保健室を飛び出した足で捕まえた彰太に頼んで、朋也の居場所を聞き出した司に、再度「どうしたい?」と問われて、再び迷い、踏み切れずにいた五月を、司は無理やり連れ出した。けれど、今ここで朋也を呼び止めたのは、五月自身だった。
「五月――」
 朋也は、確かに五月に会わないまま去る気だった。彼になにか咎められる前に、この期に及んで黙って立ち去られる前に、駆け出した五月はなりふり構わず立っているのがやっとの朋也の腕の中に飛び込み、逃がさないとばかりに抱き締めた。
「会いたかった。やっぱり、顔も見ないままさよならなんて嫌だよ!」
 自然な流れで五月の背に手を回した朋也の胸の中、五月は顔を上げた。両目いっぱいに涙を溜めている。たぶん、朋也に会えなかった間に彼女が流した涙はその何倍、何十倍で。
「好きだったから……大好きだったんだからぁ」
 この一年間がどんなに苦しかったとしても、初めて恋した相手が、キスした相手が、朋也だったこと。それは何物にも換え難い、五月の宝物だ。
 躊躇いがちに、朋也の指が五月の目元の涙を拭う。触れてくれるこの手が、好きだった。壊れ物を扱うみたいに触れる手だった。名前を呼ぶ声も、見つめる瞳も、
 内心、複雑なのだろう司の視線を感じていたのは、今は朋也だけだ。
「……俺も」
 再び五月女背に腕を回して、きゅっと先より強い力で抱き締めても、「好きだった」とは言えなかった。朋也にとって、それはまだ過去形じゃなかったから。でも、ほっとしてもいた。恐れることなどなかった。五月が好いていてくれた気持ちは、変わらない。たぶん、この先もずっと、朋也と同じように、五月の中に生き続ける気持ち。
晴れた夜空に次々と咲き乱れる夏の風物詩。ようやく、ふたりは再会することが出来た。
「なあ、」
 目のやり場に困って、堪えかねた司がわざと大きな声を出した。ふたりの邪魔をしたいわけじゃないが、自分と同じ顔をした朋也が、さもいとおしそうに五月に腕を絡めている様は、見ていて面白くない。これって妬いてるのだろうか。
「俺、帰ったほうがいいか?」
 努めて、平静な顔をして訊ねた。そうしてから、馬鹿みたいだと後悔する。黙って出て行けばいいものを。わざわざ、ようやく再会出来たふたりに割って入って。そんな司の心中を知ってか知らずしてか、五月は朋也と会うことが出来て嬉しい気持ちをそのままに、満面の笑みで司を振り向いた。まるで、大輪の向日葵が花開いたような笑顔だ。
「ううん、いて。いっしょに帰ろう」
 そう請われて、拒めるはずがない。司だって、聖人ぶりたくないが、誰もかれもが区切りをつけるべきだとは思っていた。そのために彼がいないほうがいいなら、と提案したが、五月はいて欲しいという。連れて来たのは司だ。連れて帰る責任もあるのかも知れない。
 彼女は、満面の笑みをそのままに、朋也に向き直って早口で説明した。
「司とは友だちになって間もないけど、大切な人なの。朋也に会わなかったら、ぜったい後悔するって、尻込みした私をここに連れて来てくれたの」
 五月の言葉を邪推するような朋也ではない。彼自身も、見ず知らずの司に大事な伝言を託したくらいだ。朋也は皆に愛され、信頼されていたのだろう人柄がわかる顔つきで司を真っ直ぐ見て言った。
「そっか。ありがとな、司」
遺恨を残されては困るという、自己中心的な思惑もなくはなかった分、司は調子が狂う。
「……おう」
 確かに似ているけど、似ていない。五月そっくりに柔らかく微笑う、司と同じ顔をした少年。少し離れてふたりの様子を見守っていた司は、長らく離れていながらも、笑い顔は似たままの彼らふたりを認めて、初めてちょっぴり悔しいと思った。
「………会えてよかった。やっぱり、記憶の中の五月より、本物のほうがいい。笑っててくれて、よかった。俺、元気になるから。五月も、」
 満足気にしみじみ呟いた朋也だったが、ふと優しい面差しが寂しげに曇った。五月、──司が背を向けている間に、朋也は声をひそめて訊ね、請うた。
「やっぱり、最後にキスしてもいい?」
 胸がときめくのは、約束した夏と同じだった。他に理由なんていらない。
 うん、――指先で顎をすくわれ、持ち上げられて、五月はキスする前から既に名残惜しそうに近づいてくる朋也の唇を迎え入れた。
 考えずとも、司としたキスとはちがうキスだった。触れてすぐ離れたけれど、熱く息を吐いた朋也が躊躇いがちにもう一度近づいて来るから、五月は朋也の服を掴んでいた両手に少し力を入れて、そっと引き寄せて促した。五月が朋也にしたのは、司としたキスだ。
五月の成長を、朋也は敏感に感じ取った。やっぱり、今いっしょにいるのは難しいように思う。それでも、ずっと恋しかった五月は、ずっと待っていた五月は、請わずにいられなかった。
「最後だなんて言わないで……ねえ、次は待ち合わせて花火を見よう? 今度こそ浴衣を着て、彰太も有紗も呼んで――」
 朋也は頷かなかった。唯、つらい思いをさせただろう五月をきゅっと抱き締めた。
「五月」
好きだ、――最後の三文字は、最後の花火が咲く音と共に夜のしじまに溶けて、たぶん、それが、朋也が五月の名前を呼んだ最後。
約束した夏の、結末(エンディング)だった。


 花火が終わって、想いが夜闇に溢れる前に、三人は別れた。五月は、さよならを交わす最後まで朋也と手指を絡めていた。どう距離を保つのが正解か、測りかねた司だったが、五月の横顔に不安と恐怖が見え隠れしているのを認めて、結局三人並んで屋上を後にした。
「じゃあ、」
「ばいばい」
 五月と朋也は、正面から向き合って手を振り合った。それは、友人同士の別れだった。彼女の傍に司がいるのをどう取ったのか、背を向けた朋也は振り返らなかったが、五月はいつまでも独り去って行くその背中から目を離せずにいた。いつ彼が振り返っても同じに微笑っていられるように、か細く手を振り続けて。
 朋也は振り返られなかった。それが、彼の優しさだったのかどうかはわからない。
 視界からその背中が消えてしまえば、まるで先の出来事は泡沫の幻だったかのようにも思えた。会って、触れて、ちゃんと想いを伝えたはずなのに。やり直せないのに。正解はないから、わからない。どんな別れだろうと、後悔は尽きない。考えても詮のないこと。
「帰ろう」
 切り出したのは、司だったのか、五月だったのか。
ひんやりとした夜気から逃れるように、帰途に着くべく、ふたりは外に出た。
「よく我慢したじゃん」
 少し、疲れた。五月がぽつりとそう言って立ち止まってしまったから、寄り道した夜の公園。花火大会から帰途に着く雑踏からは少し遠いせいか、せっかちな秋の虫が鳴く声ばかりが大きくて、却って余計に寂しい気持ちにさせられる。
 街灯にかろうじて照らされたベンチにふたり、腰掛ける。司の肩に、少し寄りかかった五月の肩が、震えている。夜気の冷たさの所為だろうか。
「司が帰るとか言うから……っ」
 彼を巻き込んでしまった。巻き込まずにはいられなかった。受け止めなければならない現実に、ひとり向き合う自信を持てないでいたから。
「俺の所為かよ。まあ、それでいいよ。俺は、『友だち』だし」
 司はわざと冗談めかして軽口を叩いた。
 近いようで遠い距離が、ふたりの間に却って居心地のいい緊張を保っていた。沈黙は苦ではないものの、ちょっとした気配や息遣いが相手に伝わってしまう。
 五月が司といられるのは、ひとえに彼が、五月が今大事にしたいだろう、朋也との束の間のひと時を噛みしめていたい、でも独りでいたくない相反する葛藤を理解して、暗に受け止めていてくれるからだった。
 人の優しさを痛感して、諦めた五月は(かぶり)を振った。
「ううん、神崎くんは、友だちじゃないよ」
 五月が、ちゃんと顔を上げて、司の目を見てそう告げたから、彼とて面食らった。こういうところは、冗談が通じない分、可愛らしいと思う。
 五月は、「たぶん」も「きっと」もつけなかった。わかることだけを、端的に明かした。司が彼自身に興味を持って欲しいと言ってくれたように、五月も彼に知って欲しいと思った。それでも、もちろん五月に葛藤はあったが、朋也に嘘は吐いていない。彼女なりの、一生懸命だった。
「ごめん、今は、そうとしかわかんないけど」
「いいよ、大丈夫。十分うれしいから」
 そんな風に言葉を交わして、曖昧でも笑顔で顔を見合わせた。やっぱり、五月は司との関係を大事にしたいと思った。先のことはわからないけれど、もしかしたら、幼馴染みの彰太や親友の有紗との関係みたいに、五月にとって大事な関係を築ける相手なのかも知れない。あるいは、
「神崎くんには敵わないなあ」
 やっぱり大人になりきれない部分で堪えかねて、夜空を振り仰いだ五月が肩を竦めた。
 司がふてくされたように小さく呟いたのを聞き漏らしてしまって、五月は再び端正な顔立ちを見上げた。
「え?」
「司でいいよ。さっき、一瞬呼んだだろ」


「――司!」
彰太と有紗が選んだのは、思い出が詰まった季節での、ガーデンウェディングだった。
既に、長身で抜群のスタイルを活かしたミニドレス姿の有紗が、バージンロードを歩くべく、エントランスでのスタンバイを終えている。
五月は、ベストマン役を引き受けたにも関わらず遅刻寸前で駆け込んで来た司を嗜めて、声は張らずに呼びつけた。
花嫁を待ち受ける、淡い白のタキシード姿の彰太もきまっている。でも、長年連れ添ったふたりには緊張はなく、始終穏やかで温かな空気に満ちた佳日と成った。
「似合ってる」
 有紗に付き添ってバージンロードを歩くブライズメイドの五月に、彰太の横に立った司が唇だけで伝えてくる。五月ももう照れたりしない。にこやかに、彼の元に向かうだけだ。
 神父の元に新郎新婦を引き合わせる大役を終えて、五月と司は最前列、自分たちの座席に着いた。
 誓いが始まる。
「汝、森崎彰太は関口有紗を妻とし、死が二人を分かつその時まで、生涯運命を共にすると、誓いますか?」
 五月は、唯うっとりと、大好きなふたりの晴れ舞台に一縷の憧れの情と共に見入っていた。ぽうっとなってしまっても仕方ない。それだけ素敵な式だった。
 彰太に続いて神父に問われた有紗が、彰太を真っ直ぐに見つめて決意を彼と同じくした。
「はい、誓います」
 五月は、まるで映画のワンシーンみたいな一幕から、目を離せない。でも、膝の上に置いていた左手を、司の座す側のベンチにそっと降ろした。
「では、指輪の交換を」
彼が、手を繋いでくれると期待したから。
 五月の手指が、薬指が感じたのは、司の指ではなく、華奢な造りの金属だった。すっと彼女の指にはめられたそれを、反射的に顔の前にかざす。プラチナが、一粒石が夏の陽を受けて、柔らかい光を放っている。(あたるから、職場ではつけられないじゃないか)
 ようやく研修先の病院が決まったばかりの恋人を振り返る。看護学部を卒業した五月のほうが早く働き出したから、こんなのはもっと先のことだと思って、忙しい合間に作ったふたりの時間で、話題にしたことすらなかった。
 司、――思わず呼んだ唇を塞がれるのと、神父が「花嫁にキスを」と新郎新婦と、その付き添いふたりを微笑ましく見やったのは、同時だった。
(やっぱり、司には敵わない――)
 潔く諦めた五月が、目を閉じて司のキスを受け入れる。たぶん、彰太と有紗は知ってたから遅刻を咎めなかったのだ。
「ここに、ふたりを夫婦と認めます」
 偶然と必然を繰り返し、約束を重ねたふたりが、もうひとつ、新しい約束を交わす夏がやってくる、いつかのエピローグ。みなが経た幾年の歳月、詳細は、またいつかどこかで語るとしよう。司のプロポーズの言葉を知りたいって? それは、―――――。

 ー完ー