• 『永遠を君に、情熱をあなたに』

  • 桃口優
    恋愛

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    あることを境に、永遠に続くことがあることを信じられなくなった坂下 小春。その傷を抱えながらも生きている彼女がたまたまケーキ屋さんに行った時、同じように何かを背負っているような高坂 楓と出会い…

第1話 もう何も信じたくないのに

大きなシャンデリアなどの明るくも妖しい照明があちこちで輝き、きらびやかで華やかだ。
そこで色とりどりのワントーンのきれいなドレスを着た女の子たちが笑顔を振りまいている。女の子じゃない人は、みんな同じ黒の統一されたスーツを着ている。
英語のよくわからない名前のシャンパンの名前があちこちで飛び交っている。

ここは「Club Princess Girl」というキャバクラだ。

「アリスちゃん」と私の名前が呼ばれたので、私はピンクのドレスを揺らしながら席に着いた。アクセサリーや香水などはつけないのが私のポリシーだ。高価なものを身につけていると、どうしても親しみにくくなるから。また、香りの好みは人それぞれで、ある人がいいと思っても別の人は気持ち悪く思う人もいる。それにお客さんが結婚していたり恋人がいる場合もあるから。人とよく接する仕事だから、色々と気を遣っている。
また、非日常的な場所でも多少の日常感があった方がより非日常が際立つと思ってもいる。

ちなみに、この名前はあの有名な物語から勝手に拝借している。本名は、全くファンタジーな名前じゃない。ありふれた普通の名前だ。ここに本物の夢があるかわからないけど、私自身は夢のある存在でありたいと思っている。
でも、ポリシーも夢も、私にとってアクセサリーの一つのような感じだ。
名前を呼ばれる度に、正直「めんどくさいな」と思っている。もちろん、それをお客さんにわかるようには絶対しないけど。

さすがにそこまでバカではない。
そもそもこんな仕事なんて全く楽しくないし、私がやりたい仕事でもない。
それなのに、お店では一日の中で何度も何度も私の名前は呼ばれる。
呼んでなんて一度も言っていないのに、本当にうるさい。
こうなるのは、お店で売上No.1をとっているからだ。

しかも、入店して間もない私がNo.1になった。
派手でキャバ嬢っぽい顔でもなく、どこにでもいそうな顔の私が、なぜこの順位なのかあまりわからない。
そのことをよく思わない女の子は多いけど、私は気にはならなかった。
神経が図太いのかそんなこと自体に興味がないかなんてどっちでもいい。
ただ、見せたくない笑顔を振りかざし、おもしろくもない話に共感して頷き本当に疲れるだけだ。
それでも、この仕事をずっとやめられない自分が一番嫌いだった。
本当にバカみたいだと思う。

私がキャバクラで働いている理由は、少し複雑で歪なものだ。
ホストに本気で恋をしたわけでもなく、借金があるわけでもない。正直そんな理由で働く女の子はかなり多い。
別に他人がどんな理由で働こうが私にはどうでもいい。
私にこれ以上面倒な役回りがこなければ、好きにしてくれたらいい。

私はというと、ただある人の影を追いかけてキャバクラで働いている。
ある人といっても、私がその人にもう一度会うことは決してできない。いや、私じゃなくても、それは誰にもできないことだ。
その人は、もうこの世にはいないから。
その人とかつて永遠を誓い合った。
堅実的で現実的な私が、その人といる時だけは本当に幸せで、この人となら永遠を信じてもいいかなと思えていた。

でも、その人は突然私の目の前から消えた。
交通事故で亡くなってしまったのだ。 

目の前から消えてしまった前日まで普通に話をしていた。何かの前触れもなく、予感も感じなかった。そして、まだまだ話したいことも伝えたいことがたくさんあった。
でも、それらすべてができなくなった。
命って、まるで定められているかのように終わりを迎える時は何をしてももう一度息を吹き返すことはないようだ。
私はその人の母親から連絡が来て、病院に急いで駆けつけた。何度も何度も名前を呼んだ。
でも、その人はこちらの世界に帰ってきてくれなかった。
その時の喪失感や絶望感は、すさまじいものだった。
世界は何も変わっていないのに、まるで世界の終わりのように私は感じた。
涙がどこからともなくどんどんあふれてきて、立っていられず泣き崩れた。
しばらくその場から動くことができなかった。
その人がもうこの世にはいないことはわかっているけど、その人に関係しているかもしれない何かを求めて仕事上たくさんの人と出会えるキャバクラで私はずっと働いている。
その人が亡くなった次の日に私はこのキャバクラに面接に行った。
何かをしていれば、気が紛れるとでも思ったのかもしれない。
そんな簡単なことじゃないのに。

お客さんとお話をする度に自分でも何をしているのだろうかといつも思っている。愛嬌を振る舞うことも、話をニコニコと聞くことも自分のためにしていることだ。そこに気持ちは一ミリも入っていない。毎回本気でお客さんと向き合っていればこの仕事は長続きしないだろうけど、さすがに自分でもひどいとわかっている。
そして、お酒をいくら飲んでも、酔うこともあの日のことを忘れることもできなかった。
こんな状態になっても、未だにあの人の影を少しでも見つけられていない。
私はふぅーっとため息をついた。
永遠に続くものは、この世にあるはずなんてない。
私は、もう永遠に続くものがあることを信じられない。いや、何かを信じること力はなかった。
何度も心を通わせたあの人も、私の目の前から突然消えてしまったのだから。
信じられないのに、その人の影を未だに追いかけている。
私は一体何をしているのだろう。
一番夢を見ていたのは、私だった。
私はそんなふうに感じながらも普段と変わらず愛想よくお客さんとお話をして、この日を終えた。
仕事帰りに、とあるケーキ屋さんが目に留まった。
それがなぜかはわからなかった。
でも、まるで吸い込まれるように私はそのお店の扉を開けて中に入っていったのだった。

第2話 忘れられない笑顔

そのケーキ屋さんは、外装はピンク一色で建物の形もかわいらしい感じだった。
ここは繁華街だから夜でも明るい。だから色もはっきりとわかったのだ。
お店の扉を開けたのは、私は色の中でピンク色が一番好きだからかもしれない。本当にいつの間にかお店の中に入っていた。

内装は、壁も床も全て白色で、外装と対照的だ。
でも色合いは、調和がとれている。
「いらっしゃいませ」とたくさんの店員さんのかわいくて明るい声たちが聞こえてきた。
そんな声を聞くと、まるで物語の中に入り込んだ気分になった。

そもそもこんな夜遅くに空いてるお店があることに私はびっくりしている。
前までこんなお店あったかなと思い出そうとしたけど、あまり印象に残っていなかった。
仕事終わりはいつもどこにも寄らずそのまま家に帰っていたからだろう。

お店の奥には大きな透明なガラスケースがあり、そこに色とりどりのケーキが並べられている。お店の中心には、丸い木の大きなテーブルが置かれている。
店内はケーキ屋さんとしてはかなり広いようだ。
ここは街の小さなケーキ屋さんというよりは、結構大きなケーキ屋さんに分類されるだろう。

その丸いテーブルにガラスケースに並べられているケーキより一段ときれいなケーキがあり、『試食会』という旗が飾られていた。
「試食会をしてるのですか」
私は遠慮がちに小さな声でそう聞いた。
「はい。今日はメロンを使ったフルーツケーキの試食会をしてます。本日のケーキは、私がお作り致しました」
ケーキに目をやると、まるで幸せを形にしたような優しい色をしていた。
そして、そう答えてくれた男性は、満面の笑顔だった。

頭の先から足まで白色でコーディネートされた姿は、普段鮮やかな色の服しか見ない私にとってはかなり新鮮だった。
自分の頭の少し上から聞こえてくる声もなんだか心地よかった。
でも、その笑顔に私は既視感を抱いた。目をすぐに離すことができなかった。
その笑顔は、永遠を探すことを諦めた私にあまりにも似ていたから。
この人は、笑うことで何か大きなものを背負っているのを隠しているのだと瞬時にわかった。
私は他の人よりそういう他人の感情に気づきやすい方だけど、これはそのためにわかったわけではない。
まるで星と星が互いに照らし合うかのように、私にはこの人のことがその時わかったのだ。

私が男性の言葉に反応できずにいると、「もしよければ、お一ついかがですか?」とその男性はカットされたケーキを私にくれた。ケーキは、男性のつぶらな瞳のようにかわいかった。私は先ほどのことにまだ戸惑いを感じながら、「ありがとうございます」とだけ言った。

周りを見渡すと、たくさんの女性の人がいた。
この男性は、試食会を目的に来た人だけでなく、お店に来た人全員にしっかり目がいっていてすごいなと思った。
もしかしてこの男性は、このお店の責任者だろうかと私は推測した。仕事上人のことをよく観察するようになって、パッと見ただけでどのような人か大体わかるようになった。そして、その予想は大概当たる。

様々なことを考えながらも、ケーキを口に運ぶと自然と「おいしい」という言葉がこぼれた。
とり繕ったりせずこぼれた言葉だったからきっと少し間の抜けた声だっただろうし、いつのまにか笑顔になっていたのもすごく恥ずかしかった。だってその姿はケーキに喜ぶ子どもみたいだから。

「そう言ってもらえて、光栄です」
男性は、私のケーキを食べている姿を少し驚いた顔で見ていた。
普通の人は気づかないレベルの驚き度合いだけど、人の気持ちに敏感な私にはそれがわかった。
私の笑顔は、驚くほど変だったのだろうか。

「このケーキ、本当にすごくおいしいです。私甘いものが好きでよく食べるのですが、こんなにおいしいケーキ初めて食べました。なんだか嫌なことも全部忘れられます」
私はお世辞ではなく本当にそう思ったから、男性にそう伝えた。
仕事以外では過剰なお世辞はあまり使いたくないと私は考えている。
むしろ、おいしさにテンションが上がりつい語りすぎてしまい少し照れが出てきた。

「試食会は、毎週開いております。またよければいらっしゃってください」
男性はそう言って立ち去ろうとしたので、「ちょっと待ってください」と私は引き留めた。
「どうかなさいましたか?」と男性はゆっくり振り返った。
自分で言っておきながら、何で引き留めたのかわかっていなかった。私は普段こんな行動をすることはないから。私たちには、なんらかの運命があるのだろうか。

「私の名前は、坂下 小春(さかした こはる)といいます。あなたの名前を教えてくれませんか?」
そう言いながら、私は自分のお店で使っている名刺も一緒に渡した。

「私の名前ですか。高坂 楓(こうさか かえで)と申します。このお店では見習いパティシエをしております。でもなぜ名刺をくださるのですか?」
私は『見習いパティシエ』と聞いてすごく驚いた。こんなに気配りができて、おいしいケーキも作れるのに、このお店ではまだまだ見習いになるらしいから。私の読みは珍しく外れた。でも、彼には何か光るものを私は確かに感じている。

「高坂さんですね。それはそこに私の連絡先が書いてるからです。また必ず来ますね」
彼はまだ不思議そうにしていたけど、段々恥ずかしくなってきたのでそれだけ言って私はお店を静かに出て行った。

お店を出てしばらくしても、彼のあの笑顔がどうしてか頭からずっと消えなかったのだった。

第3話 惹かれ合うかのように

私は、その日からケーキ屋さんの試食会の日の度にそのお店に行くようになった。
なぜだかわからないけど、嫌なことがあった日も試食会の日だといつの間にかワクワクした気持ちになっていた。
あの人がいなくなってからこんな気持ちになるのは初めてで、少し戸惑いもある。こんな私がそんな感情を抱いていいのかと申し訳なくもなった。

でも、まるで何かに引き寄せられるかのように自然と足はあのケーキ屋さんに向かっていた。
もちろん、毎回彼が試食会のケーキを作っているわけじゃないけど、ケーキ屋さんに行けば彼がいて、私はいつも声をかけていた。
別に明日行くなどの連絡を事前にしていないのに、不思議と行けばいつも彼に会えた。
声をかけるといっても、そんな長話をするわけじゃない。ただ会釈をするだけをする時もあった。
それだけでも十分だった。私の中で足りない何かが満たされていく感じがした。
彼も私の顔を覚えてくれて、私がお店に行くとすぐに近くに来てくれるようになった。

一方、仕事では、永遠を誓い合った人の影を変わらず追っていた。その人の名前は、(いつき)という。お客さんの話を聞きながら、「樹さんという人を知ってますか?」と私は軽い口調で聞いていた。「その人は誰?」とお客さんがしかめっ面になると、私は「最近人気がある人みたいだから聞いてみただけです」と話をさっと終わらせた。空気を読むのは得意だから、もし、お客さんがもっと話を聞いても大丈夫そうな雰囲気なら、樹が勤めていた大手企業のことで何か知っていることはあるかも聞いた。

樹はきっと私だけではなく、社会にいるたくさんの人に元気を与えていた。すごい人だったと思う。
もちろん、名前を言っても誰もがわかるほど有名な人でないことはわかっている。そして、こんなことを仕事場でしちゃダメなこともわかっている。
お客さんは女の子に会いにきているのに、他の男性の話なんて聞きたくないだろうから。
自分でも間違ってるとわかっている。
それでも樹の何かを知りたくて、私は毎日お客さんに聞いていた。
でも聞けば聞くほど、心が苦しくなった。
何も情報が得られないからではない。確かに本当に雲をつかむかのように難しい。
もし樹が生きているなら、探偵を雇うこともできる。
私はありがたいことにお金には困っていない。
探偵に頼めば亡くなってしまった人のことも調べられなくはないだろうけど、きっと面倒臭そうな顔をするだろう。死とは理由もなく忌み嫌われるものだから。できる限り誰かに迷惑をかけたくないから自分で探すことにした。

そんなことよりも私が生きていくのには、樹がいなきゃダメだと毎度わかることが一番苦しかった。
自分自身で、傷口を無理やり開いて傷つけていることはわかっている。新しい傷も自ら作っている。痛くて痛くて本当は立っていられないけど、なんとか持ち堪えることができていた。
こんな生活じゃダメなことはわかっているけど、生きるって本当に難しくて、この気持ちを無視することも、ただ感情をなくして生活することも私にはできなかった。

一日ってこんなに長かったのかとあの日からずっと思っている。
人生ってこんなに退屈なものなの? と誰かに問いかけたくもなる。
そんな風に思うと、いつもあのケーキ屋さんが頭に浮かんだ。頭に浮かぶとすぐに行きたくなった。

そんな風に何度もケーキ屋さん行っているうちに、私は彼にちょっとした仕事の愚痴を話すようになった。
仕事では聞き役のことが多いのに、私からすすんで話すなんて珍しいことだ。仕事の癖のようなものは抜けず、友達と話す時もつい聞き役になることが多かった。
そんな私が誰かに聞いてほしいと思ったのだ。

私がいるキャバクラで女の子たちのシフトを管理している『チーフ』というポジションの人の話が長いことなどを話した。
彼は暇ではないだろうに、嫌な顔せずいつもしっかりと話を聞いてくれた。
そんな日々を過ごしながら、私たちはゆっくりと仲を深めていった。

ある時、彼から電話がかかってきた。
名刺を渡したけど、この日まで彼から連絡があることはなく、この日が初めてだった。
正直お客さんは名刺を渡すとすぐに連絡してくるのに、新鮮さも感じていた。
でも、彼の声はどこか弱々しかった。
「どうしたの?」と聞くと、「突然電話して申し訳ないです。その、納得のいくケーキが作れなくて…」と彼は小さな声で言った。

その話を聞いて、私は彼のことを本当に真面目な人だなと尊敬した。
仕事が人生の全てではないけど、そこまで仕事のことで本気になれることは羨ましかった。
私は惰性で働いているだけだから。
仕事に対する熱意も全くない。

「今日仕事が終わったら、時間ある?」と私は彼に聞いた。
一人同じ場所でずっと考えていても、いいアイデアが出ない時もあるから。それにたまには誰かにゆっくり話したり、場所を変えてみることも大切なことだ。
彼は少し驚いているようだったけど、「あります」と返事をしてくれた。

私は今日先に予定が入っていたけど、それらは全て断った。今日は彼を優先したい気分になった。
普段はドタキャンを私は一切しない。わざわざ私のために時間をとってくれた相手に悪いから。でも、今日はそれよりも強い何かの感情があった。
彼の仕事が終わり、私たちはカラオケボックスに向かった。
もちろん私が歌を歌いたいわけじゃない。悩み事を誰かに話す場合、人が大勢いる場所より静かなところがいいと思ったからだ。

「ケーキのことは全然詳しくないけど、私でよかったら悩んでることを聞くよ?」 
私は彼にそう話しかけたのだった。

第4話 思いがけぬ返事に

彼は大きな目をパッと開いてしゃべり始めた。彼は今何を思っているのだろう。
彼の目は大きくてなおかつくりっとしていてかわいいなと私はこの時初めて気づいた。これまで何度も彼の顔を見ているはずなのに、今までどうして気づかったのだろう。

「頭で考えても、実際に何度もケーキを作っても思い描くケーキが全然作れないんだ」
「そうなんだね。それは前から? 最近のこと??」
私は頭から否定せずじっくりと話を聞くことにした。
「うーん、前からずっと思ってはいる」
彼はななめ上を見上げて、そう答えていた。

彼の言葉から彼は上昇志向が強い人だと私は感じた。何かをずっと考え続けることは、とても労力のいることだから。誰もができることではない。そのすごさに彼はきっと気づいていない。

「ずっと考えているんだね。まず、それはすごいことだよ」
「すごいこと?」
彼は驚いた顔をしていた。
「そう。つまりは、高坂さんが頑張ってるということ」
「僕なんてまだまだだよ」
「自分を簡単に否定しないであげてね」

他人は違う人を見つけるとすぐに否定したがる生き物だ。それはどうしようもできないだろう。でも、そんな環境下にいるからこそ、自分だけは自分を守ってあげてほしいと私は思っている。
「うん」
「ところで、高坂さんはどうしてパティシエになりたいと思ったの?」

これは私が気になるから聞いたのではなく、彼に原点に立ち返り考えてもらうためだ。
何かに迷った時は、初心を思い出すことは意外と効果があると私は思っている。
話を聞いているといつの間にか彼の力になりたいと思っている自分がいた。
普段は人の世話を焼くのはあまり好きではないのに、本当に彼は不思議な人だ。
今まで出会ってきた人と彼はなんだか違う気がした。どこか私と同じものを彼からは感じる。

「子どもの頃、誕生日になると親がケーキを買ってくれていた。それはごく普通なことだと思う。でもうちの親は毎年違うお店のケーキを買ってくれた。遠くのお店まで車で行ってくれた時もあった。僕は、今年はどんなケーキかな? と誕生日が来るのが楽しみだった。たかがケーキだけど、その頃の僕には何よりも最高のものだった。僕はケーキで誰かの人生のある瞬間を素敵なものにしたいと思ったから、パティシエになろうと思った」

「素敵なお話だね。高坂さんの中ではまだ納得のいくケーキが作れていないかもしれないけど、高坂さんのケーキを楽しみにしている人もちゃんといると思うよ。私もその内の一人だから」
私は彼の目をしっかりと見つめた。彼に救われていることが少しでも伝わればいいなあと思った。
「そうかな」
「そうだよ。納得のいくケーキはこれから先人生も長いのだからその間に一つでも作れたらいいんじゃないかな? 今はまず継続することが大切だと私は思うよ」
「うん。そうかもしれないね。悩みを聞いてくれてありがとう」

彼は少しすっきりしたような顔をしていた。そんな顔が見れて私もなんだか嬉しくなった。
私は今二人の雰囲気が温かいものになっていると感じたので、普通の会話をするようにさらにこう話した。
「これからもケーキ屋さん以外で会わない?」
私は彼ともっと仲良くなりたいと思っている。それなら試食会の時だけでなく、単純に会える時間を増やしたいと思った。そして、それは二人の関係をより深いものにしようという意味も含んでいる。
 胸がいつもよりずっと早く音を鳴らしている。

「二人で今後も頻繁に会うことは怖い」
彼はそう言いながら下を向いて突然落ち着きがなくなった。
私は確かに彼の言葉に驚いたけれど、それよりも彼の様子の変化が心配になった。

私は何かおかしなことを言っただろうか。
怖いとはどういうことだろう。
一方で、私の心の中で少しだけ暗くてもやもやした気持ちが生まれていた。断られるとは想像してなかったから。心は複雑なものだと改めて感じた。

「大丈夫? あっ、何か温かいものでも飲む??」
暗い感情をできるだけ表に出さないようにして、彼に声をかけた。
「いや、これ以上坂下さんの貴重な時間を奪うのは悪いから、いいよ。そして、どうして会えないかを今は話したくない」
彼は、はっきりとそう言った。

初めて私の名前を読んでくれたことは、素直に嬉しかった。
でも、私はその言葉にさっきよりも強い意志を感じた。
彼はやはり何か大きなことを背負っている。その大きさは私が抱えているものと同じぐらい厄介なものかもしれない。
彼からそのことを直接聞いたわけではないけど、辛い中にいる私だから気づくことってある。
いや、わかってしまったという方が正しいかもしれない。
そして、そうであるなら、今すぐに彼の背負っているものを取り除くのは難しいだろう。

私も「永遠に続くことはあるよ」と誰かに今言われても、絶対に信じられないから。そんなことで辛さがとれるならこんなにも苦労していない。
そんなことを考えていると、樹のことをまた思い出して、胸が苦しくなった。
どうして今樹の笑ってる顔が浮かぶのだろう。本当に樹は意地悪だ。

「うん。話さなくて大丈夫だよ。辛い中そこまで教えてくれてありがとう」
私はそのことについて深く追求をしなかった。彼もそれを求めていないことがわかったから。
もしも、彼の背負っているものと本気で向き合うなら、時間をかける必要もある。
それから私たちはゆっくりとカラオケ店を出て行ったのだった。

第5話 同じじゃないじゃん

あれから、私は変わらず試食会に毎回行った。
彼に話しかけるといつもと変わらず相手はしてくれたけど、なんだか距離感があった。
それでも、私はいつものようにお話や愚痴を話した。
単純に彼にお話を聞いてほしいなと最近強く思うようになっていたから。
彼の雰囲気も声も本当に柔らかくて、一緒にいると温かくて心地よい気持ちになれる。
でも、彼の抱えているものを聞くには試食会の時間だけではあまりにも短すぎる。それに無理やり聞いたらきっと彼は傷をつく。それだけは避けたかった。

だからといって、彼にはケーキ屋さん以外では会えないと言われた。
私の名刺は渡したから彼は私の連絡先知っている。でも、私は彼の名前しか知らない。
その関係性がなんだかもどかしく感じた。
もどかしい? なんでそんな風に思うのだろう。

メールアドレスなどを聞けば、試食会以外の以外の時間でもお話は聞けるかもしれない。メールならお互いに手が空いてる時に返事を返せて気が楽かもしれない。でも、きっと会わずに聞くほど彼の悩みは軽い内容のものではないだろう。その方法で聞くのは彼に失礼な気がした。

どうしたらいいのかわからないまま、もやもやした日々がしばらく続いた。
そんな調子だから私は仕事に行っても、ずっと上の空だった。
接客しながら、彼のことを考えている時もあった。
どうせヤケクソで働いているのだから、私が頭の中でどんなことを考えていようといいかとも思えた。
キャバクラではたくさんの人を接客しているから喜ぶような話の聞き方も、相手がどんな言葉を求めるかもすぐにわかった。
だけど、彼のことになるとどうしたらいいか全然わからなかった。
正直、困惑と悔しさの両方があった。
悔しさは、私が仕事を頑張ってきたプライドからきていると思う。『プライド』って厄介なもので、何かをする時にその邪魔をしてくる。
よく考えると大したことではないのに、その時の私は自分の本当に気持ちに素直になれなかった。

「ケーキなんてどこで買っても同じでしょ」と無性にイライラしながら、その日の仕事帰りにコンビニで適当に何個かケーキを買った。
じっくり選んだりもせずに目に入ったものをカゴに入れた。
でも、家に着いてケーキを一口食べた瞬間に、「同じじゃないじゃん」と涙が出た。
ケーキを食べるほどに涙は止まらずあふれてきて、私は泣き崩れてケーキを食べきれなかった。
形や色だけでなく、彼の作るケーキと何もかもが違った。
ケーキに詳しくない私でもそれはわかった。
ケーキ一つでこんなにも違いがでることに驚いた。

何が違うのだろう。
もちろん彼の作るケーキの味はおいしい。でもそれだけではなく、彼のケーキに対する妥協をしない熱意と思いがこもっていたから食べると幸せになるのだと今やっとわかった。
それと同時に私は、彼に申し訳なくなった。

あんなに頑張っている彼のケーキとチェーン店展開してるコンビニのスイーツが同じはずがないのに、私は感情的になり一時的とはいえ同じだと思ってしまったから。
こんなことのように彼の悩みもちょっとした私の言葉足らずのために知ろうとできていないのかもしれないふとそんな風に思えた。

そして、彼のことを仕事中も家にいる時も、いつも考えている自分がいることに今気づいた。それは何気にない時に頭に浮かんだ。
彼と会える日が毎週楽しみだった。
彼へのこの想いが『恋心』だとこの時になってやっと私は気づいた。
誰かに恋するなんてもうないことだと思っていた。樹が最後の恋人でよかったと本気で思っていた。
それにどうせ恋をしても、永遠にその人とは一緒にいられないのだから。
もう辛い思いはしたくなかった。
でも、そんな私の思いとは裏腹に彼に心惹かれていた。恋心を自分でコントロールすることはできないだろうけど、自分で自分のことが信じれなかった。
樹を忘れたわけではないけど、彼が私の心の中にはっきりといた。

私はすぐに家を出て、あのケーキ屋さんに向かった。
タクシーアプリで、タクシーを呼んですぐに乗った。現実的かもしれないけど、走っていくよりもタクシーの方が断然早いから。
何を伝えたいかなんて全然まとまっていなかったけど、ただ彼に会いたかった。
胸は、バカみたいにドキドキしていた。
「高坂さんのケーキはやっぱりすごいよ」としっかりと伝えたかった。

ケーキ屋さんに着き、彼を探したけど彼はどこにもいなかった。
ケーキ屋さんのスタッフに聞くと、彼は今日休みをとっているとのことだった。
いつもケーキ屋さんに行けば彼に会えたのに、今日は会えなかった。
子どもの頃とは違い、大人になると私たちは会いたい時にいつでも会えなくなる。

そもそも私は思いを寄せているけど、彼が私のことをどう思っているかわからない。私のことをどう思ってるか聞いたこともないし、話していて特別な好意を感じたこともこれまでになかった。
人が好いてくれているかまたは嫌っているかは、仕事柄私にはすぐにわかる。
それなのに、彼は人に対して情熱的になることがあるのだろうかと思うぐらい、私以外の人と話していてもいつもさっぱりとしていて本心が一切見えない。そんな人今まで初めてだ。

そして、こんな風にも思った。もしも二人が本当に思い惹かれ合っているなら、どんな状況でも会えるはずだ。惹かれ合う二人を、誰も何も邪魔をすることはできないから。それがきっと運命というものだ。
会おうと思った時に会えないのなら、私たちはお互いに運命の相手ではないのかもしれない。

彼は、今何をしていていて、どんなことを思っているのだろう。
いや、そもそもどこにいるのだろう。
私の心が、また彼のことでいっぱいになっていった。
私はケーキ屋さんのスタッフに何も伝言を頼まずに、ケーキ屋さんをうつむきながらゆっくりと出ていった。
前の電話の履歴から彼に電話するという発想がこの時は全く浮かばなかったのだった。

第6話 ただ会いたい

次の日も続けて私は彼のいるケーキ屋さんに行った。
店内はいつも通り明るい雰囲気がしていた。
でも、また彼はいなかった。
もしかしたらこのお店には不思議の世界につながる扉がどこかにあって、彼はそこを通っていったのかと一瞬本気で思った。

お店のスタッフに彼のことを聞くと、「彼は今忙しくていませんよ」と楽しそうに答えてくれた。
「忙しいのですか?」と私が聞くと、スタッフたちはさらに騒がしく教えてくれた。
「高坂は、大きなパティシエのコンテストで見事に入賞したんですよ!」
「彼が、賞をとった」
私はそう声をもらしていた。そしていつの間にか笑顔になっていた。

やはり彼には魔法が使えるのかもしれない。
それは、私のようなやさぐれた人でさえも幸せにすることができるとびきり素敵な魔法だ。
そして、彼が誰かに認められることは、私にとっても嬉しいことだった。
それは単純に彼のことが好きだからだけではなく、彼という真っ直ぐな人間を応援したいと心から思っているからだ。

その後で、東日本洋菓子コンテストというパティシエの大きなコンテストの工芸菓子部門で入賞したと詳しくお店のスタッフは教えてくれた。
でも、私は喜びと驚きですぐに頭がついていかなかった。

「あっ、そういえば」と少し落ち着いたスタッフが私にまた声をかけてくれた。
「高坂は、昨日あなたのお店に行ったそうですよ」
「私のお店に?」 
彼の大人しい雰囲気からキャバクラに行きそうな感じはしないから素直に驚いた。
そして、確かに名刺を渡したけれど、今まで一度もお店に来たことなかったのにどうして昨日お店にきてくれたのだろう。

「そうですそうです。高坂は入賞の知らせを聞くと『ちょっと彼女のところに行ってくる』とお店を急いで出て行ったのですから」
その時私は、彼に会いにケーキ屋さんに向かっていた。きっと行き違いになったのだろう。
行き違いになっていたけど、私の胸には淡い期待が浮かび上がってきていた。
彼もあの時、私と同じ気持ちになっていたのではないかと思った。
たとえそばにいなくても、私たちは繋がっていたのかもしれない。

「でも、会えなかったみたいで、珍しく落ち込んだ顔をしてましたよ」
「珍しくですか?」
確かに私から見ても、彼が落ち込んでいる姿はあまり見たことがない。でも、それは常に一緒に働いている同僚や先輩にとっても珍しいことだったのだろうか。
「珍しいですよ。高坂は本当に頑張り屋で私たちにすら弱音を見せたことがこれまで一度もないのですから」

その言葉を聞いて、私は心の中で嬉しくなった。
私には前に見せてくれたから、彼にとって心許せる相手ということかもしれないから。
また胸がドクンと大きな音を立てた。

「あと、高坂から伝言を預かってます」
「伝言?」
彼らしいといえば彼らしいけど、伝言じゃなくてメールをくれたらすぐに私の元に届いたのにと思った。
「はい。初めて二人で行ったあの場所に、7/31にきてほしいとのことです。僕はずっと待っています。前に言えなかった話をそこでしますからと言っていました」
場所はあのカラオケ店で、前に言えなかった話とは、『二人で今後も頻繁に会うことは怖い』という話だろう。 

そして、7/31とは今日だ。
私はその伝言が意味することはなんだろうと喜びと心配の二つの感情が同時に頭に浮かんだ。
どうして突然私に話そうと思ってくれるようになったのだろう。
さらに、彼の中で抱えているものは今どのような状態なのかわからなかった。

「彼は他に何か言ったり、いつもと変わった様子をしていませんでしたか?」
心配の感情の方が、私の中で強くなってきた。
「他には何も言っていませんでした。あっ、いや、おかしなことを言っていましたね」
「なんですか?」
私は胸がそわそわしてきた。
「この伝言はもし彼女が僕を訪ねてきたら伝えてほしいです。もし、彼女が来なければ無理に探したりして伝えなくていいですと言っていました」

「どういうことでしょうか」
私には彼がどうしてそんなことを言ったか全くわからなかった。
普通はどうしても伝えたいと思うから伝言を残す。伝わらなくていいことなら、わざわざ誰かに伝言しないはずだ。

「それは申し訳ないですが、私たちにもわかりません。高坂が人に興味を示すのは初めてで、私たちも驚いています。高坂はパティシエとしてお客さんには優しく丁寧で、評判はかなりいいです。まだ一人前とは言えませんが、パティシエとしての才能もしっかりあります。でも、それはたぶん仕事をしてる高坂であって、高坂という人間は少し違います。詳しい理由は聞いたことないですが、高坂はいつも自分から誰かと仲良くなろうとすることを一切せず、誰かが近づけやすい雰囲気や空気をあえて出していないのです。だからずっと一緒にいる私たちでさえ彼の考えていることがわからないのです。お力になれず本当に申し訳ないです」

私はその言葉を聞いて、彼の心の奥の方に少しだけ触れた気がした。
それはきっと『二人で今後も頻繁に会うことは怖い』という彼の言葉に大きく関係があるだろう。
それと同時に彼は今までずっと誰にも頼ることなく、一人で辛いことを耐えたり乗り越えてきたのかと思うと、自分のことのように胸が痛くなった。

「ありがとうございます」と頭を下げて、私はケーキ屋さんの扉を開けてでていったのだった。

第7話 引き裂かれるかのように

ケーキ屋さんを出て、まっすぐに彼の待つカラオケ屋さんに向かった。
彼のことをもっと知りたいし、彼にも私のことも知ってほしいからだ。
私は次に会った時に、永遠の話をしようと決めていた。
私たちは何度も会っているのにお互いに深いお話をほとんどしていなかった。それをすることでもしかしたら何かが変わるかもしれない。
足どりは自然と軽くなっていて、ドキドキもしてきていた。

「アリスちゃん」
そんな時だった。
突然私の名前が呼ばれた。
お店のお客さんには本名を教えず源氏名しか教えてないから、そう呼ぶ人がいてもおかしくはない。
でも、こんな道のど真ん中でその名前を呼ぶ人ははっきり言って常識がかなりない。私のお客さんにそんな人はいない。
そして、抑揚もなく間の抜けた感じで呼ぶのは一人しかいない。

私の目の前には、お店のチーフがいた。
どうしてチーフがこんなところにいるのだろう。偶然にしてはできすぎている。まさかお店から私のことをつけてきていたのだろうか。
そう思うと、恐怖が身体の中に流れ込んできた。

「アリスちゃん。これからどこにいくのかな?」
チーフは、地味で特徴のない顔で私の名前をニヤニヤしながらまた呼んだ。
「どこでもいいじゃないですか」
私は後退りながら、距離をとった。
「それがよくないんだなー。アリスちゃん、最近好きな人ができただろ。俺にはわかるよ」
「そんなことまで報告しなきゃダメですか?」
私は相手に流されないように、ゆっくり論理的に話した。
「女の子の管理をするのが俺の仕事だからね。恋人ができることで仕事に支障をきたされたら俺の仕事が増えるし」
「本当にそれだけですか?」
私はキッとにらんだ。

チーフの言っていることは完全には間違ってはいない。恋人ができることで、お客さんへの接客が雑になる女の子も残念ながらいる。
でも、私にはチーフがそれを注意したいだけじゃないことはわかっていた。

「今日はいつも以上に反抗的だな。俺にそんな態度とっていいの? 俺は仕事柄、アリスちゃんの電話番号も住所も全て知ってるんだよ。家で待ち伏せして、そいつにアリスちゃんのあることないこと全て吹き込むこともできるんだぞ」
「何が目的ですか?」
「それぐらい賢いアリスちゃんならわかるよね」
そう言われて、体がブルっと震えた。

チーフはただ話が長いだけでなく、これまで一方的に好意を押しつけてきた。誰かに好意を持つことは悪いことではないけど、それを押しつけてくるのはもはや『支配』だ。 
私が軽い感じで流しても無視しても、チーフはずっとつきまとってきた。
しかも、女の子たちのシフトはチーフが作っているから、シフトを自由に変えて一緒の日にいつも入れられていた。
彼にチーフのことを愚痴った時、そこまで話すと彼に余計な心配をすると思い、『話が長い』としか言えなかった。

「わかりました。明日お店に出勤した時に、チーフの望むことをします」
「楽しみにしてるよ。あっ、わかってると思うけど、逃げたりするなよ」
そう言って、チーフはどこかへ消えていった。
私はチーフの姿が見えなくなるとすぐに自分が働いているキャバクラに電話をかけた。
最後に言った言葉は、全て嘘だ。もうあのお店にはいかない。チーフの思い通りになんて絶対になってやらない。
店長が電話に出たので、「今日で仕事を辞めます」とまず言った。私はこれでもお店のNo.1だから、店長はなんとか考え直してくれないかと何度も言ってきた。

「女の子を管理することも、守ることもできないお店では働くことはできません」と言い、チーフのことを全て話した。
それならそいつをクビにするから、アリスちゃんは辞めないでほしいとまで言われたけど、「あいつをクビにするかどうかは勝手にしてくれたらいいですけど、私はもう辞めますから」と電話を一方的に切った。

確かに樹のことはまだ何もわかっていない。このもやもやとした気持ちもまだ行き場がわかっていない。でもこのキャバクラで働き続けるということは、今後も彼に迷惑をかける可能性があるということだから。それだけは何がなんでも避けたいという気持ちが心の中に新たに生まれていた。
だから、私の思いは一切ブレなかった。そして、心にある強い覚悟が生まれた。

家に着くと、お店関係の電話番号を全て着信拒否した。どこでチーフとつながっているかわからないから。 
今私が使っているSNSのアカウントもすべて消した。
その後携帯ショップに行き、スマホを買って電話番号も新しいものにした。メールアドレスも前のを削除し、新しいものにした。
さらに、また家に戻り荷物をまとめた。その荷物は一旦近くのトランクルームに保管するよう手配をし、私自身はネットカフェに行った。
ネットカフェで、今いる家を解約することを伝え、新しい家をすぐに探した。
すぐに入居できるところを探した。そして、いくつか目星をつけることはできた。
そんなことを一気にして、パソコンの画面をゆっくりと眺めるともうかなり遅い時間だった。

彼はまだあのカラオケ屋さんで待ってくれているだろうか。
もちろん、本当はすぐにでも彼に会いに行きたかった。連絡もしたかった。
確かにチーフのせいで、一人でお店の近くを歩くのは怖かったのもある。でも、それよりもまずは自分の身の安全が確保できないと今後彼と長く付き合っていくことはできないと思った。
こんな時でさえ現実的で、感情のままに動けない自分が本当に嫌だった。でも、生き方や考え方はすぐに変えられないようだ。

今からでも間に合うだろうか。
私は急いでネットカフェを出て、あのカラオケ屋さんに向かった。
外に出ると、寂しさを感じるほど静かで暗かった。

息を切らしながらカラオケ屋さんに着くと、店内の明かりは消えていて、もう閉店していた。
いつもならこの時間はまだ空いているのに、今日は何かあったのだろうか。
運さえも私の味方をしていないようだ。そう思うと無性に悲しくなって、涙が出てきた。
ハンカチを差し出してくれる人はいなかった。私はやっぱり『一人』なんだと感じさせられた。こんなにもたくさんの人が行き交っているのに、私のことを気にする人が誰もいないことが一番辛かった。

私は、彼に会うことができなかったのだった。

第8話 coming soon