『噂の女』
清田 睦月著
現代文学
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ルーティンを愛するエンジニアの「僕」は自動運転のような繰り返しの日々を送っていた。ところがコーヒーのストックが無くなったある朝から、完璧に構築したはずの生活が少しずつ破綻していく。第1話
プログラミングは満点が合格ラインの厳しいテストだ。一つも間違いのないプログラムのみ実行される。実行されないプログラムは廃棄される。それか成功するまで容赦なく上書きされ続ける。どれだけリユースが進んでも不良品のプログラミングに行き場はない。彼らは使命を果たすために生成されるのだから。
突然話しかけられて驚いただろう。
僕は時々こうして頭の中に話しかける。他者との会話ではないから声に出さずに済んで便利だ。それでも自然と言葉遣いには気を遣う。なんでもない独り言なのに。本当は誰かに話しかけているつもりかもしれない、目には見えない誰かに。
見えないものが成功と失敗を分けるのはプログラムでは案外多い。何度も見直して、どれでもプログラムに欠点が見つからないとき、上手く作動しない原因は余分なスペースキーのせいだったというケースは多い。
僕が今教えたから、次の不具合からはまず余分なスペースキーに注意してコードを確認するだろう。この空白は本当に必要だろうか?って。実は目に見えないものは見つけられないわけではない。
余分なスペースや「‘」と「“」の打ち間違い等の簡単なコードミスを見つけるためには猜疑心と休憩が大切だ。あとちょっとで完成だというときほど、休んだ方がいい。0から1を作るのはアドレナリンで乗り切れても、気の遠くなるような確認作業では体力の方が大事だ。プログラミングは出来上がってからの動作確認が大変なのだから。
確認作業の段階ではあらゆる可能性を否定し、それ以上変化しない完璧な状態に近づけていかなければいけない。
だから今日も正午過ぎに一度休憩を挟んで集中を高めてから認作業に取り掛かろうと予定していた。
けれどもコーヒーがない。
棚の奥まで探してもドリップバックが見つからなかったので、僕はカフェラテが飲める場所を探して仕方なく外出した。
一番近くのコンビニではコーヒーマシーンの牛乳が切れていてカフェラテが作れないと断られた。コーヒーだけなら作れるという。ブラックコーヒーは飲めないから困った。代わりに箱入りのドリップバッグとペットボトル入りのカフェラテを選んだ。牛乳パックなら店頭に幾つもあるのに、と恨めしかったが、ルールなら仕方ない。
ルールはプログラミングでは最も優先される。エンジニアはまずコード表記ルールを学び、論理演算のルールの下、コンピューター言語で管理されたサーバーのルールで人間言語を把握し直す。
店員に凝視されているのに気がつき、僕はようやく口からペットボトルを離した。代金と引き換えに店員から商品を受け取るなり、僕の手はキャップを捻り開けていたのだった。
だから作業の途中で外出したくなかったのだ。人間言語から放たれた脳は人間ルールからも少しずつはみ出していく。プログラミング言語に染まった僕の脳みそは人間言語と人間ルールを手放そうとしているみたいだ。出不精が祟って自分でも気付かぬうちに人間言語圏で無礼な行為をするのは嫌だった。少し前にコーヒーを飲み損ねてから次々とツイてない出来事が起きる映画を見たが、今日はまさにそんな感じだ。
コンビニからの帰り道、僕の目がふと墓地に引きつけられたのは卵色の布がひらりと風に吹かれたからだった。墓地の四方を囲む強固な壁がファイアーウォールの実体化なら、はみ出した柔らかいスカートは実体化したバグそのものみたいに異質だった。
酒盛りの女は、ある墓の前でワインボトルのなで肩を抱き、風に煽られ前後に揺れていた。ボトルの中身は灯ったばかりのカーライトを反射して、時々水飴みたいに美味そうに光った。
コーヒーがない、妙な女がいる。これらのバグが僕に示そうとしていることはなんだろう。
バグはいつも何かを伝えてようとしている。バグはプログラムを停止するゴミではなく、機能を制御してまで重大な欠陥を教えるメッセンジャーだ。このバグは何を伝えるためにそこにいる?
第2話
意識が酒盛りの女に引かれていくのとは反対に、足は墓場の向こう側―向こうというより
上―僕の住むマンションに向かった。早く自分の部屋に帰ってデバッグしたかった。
僕は二十八階建てのマンションの最上階に住んでいる。このマンションのエレベーター
は十六階まで止まらない。かつては人が住んでいたが、今では十五階までの全部屋にコン
クリートが詰められ、住居機能を失っている。
津波が到達した場合に備えているという説明だった。けれども実際は下半身が分厚いコ
ンクリート壁でできた巨人のようなマンションが守るのは入居者の命ではなく、内陸にあ
る都市機能が集約した中心区だ。
十五階分の完全な暗闇をエレベーターで垂直移動していると、僕はいつもマウス・ポイ
ンターになったような気分になる。ガラスに反射したエレベーター内の非常灯が、真っ暗
な背景に散りばめられたコードになる。僕は文字列の間を失踪していく。上から下へ、下
から上へ。横へは行けない。コードは上から順に実行されるルールがあるから。僕はプロ
グラムの星空をロケットのように駆け抜ける。
暗闇に閉じ込められた僕は宇宙に初めて行った猿を思い出す。これからどうなるかはわ
からないけれど、とりあえず生きられるだけ生き続けなさい。そう言って豊かな大地に両
足をつけた人々は余裕で猿に手を振り、震える猿を月へと送り出したのではなかったか。
「どうしてこんなところに住んでいるの」
と、これまでに飽きるほど聞かれた。その度に「親の買った家だから」と良い年の実家
暮らしを開き直ってきた。
けれども大抵の人は、僕の答えに不満そうな顔をする。
海抜一〇メートル地帯に防潮堤の使命を背負った高層マンションが建てられるのは、津
波が予想される地域でよくある都市設計だ。安売りされる高層マンションに移り住んでき
たのは年寄りや難民がほとんど。別に珍しい話ではない。
興味津々なのは、僕の住む高層マンションが墓地にぐるりと囲まれていることの方なの
だった。つまり、「なぜこんなに死に近いところに?」。
海側の土地価格は津波予想地区になったことで暴落した。人影がなくなると俄かに芽吹
く植物のように、墓がにょきにょき生えてきた。墓は一つできたらその隣、もう一つでき
たらまたその隣、とまるで生殖しているかのように群生し、静かな石像の森を形成した。
墓が繁茂するにつれて人は少しずつ減っていく。マンションで死んだ人間の多くが、今
度はごく小さな新居、マンションの足元の墓の中に新居を移したのだった。
住めば都とはよく言ったもので、僕は「こんな」マンションのことも気に入っている。
こんなマンションに自分の他にどんな住人が住んでいるのかは知らない。ほとんど誰と
も出くわさないので、建物から音がしたところで住人ではなく鳩や鼠の生活音だと思って
いる。
宅配業者の車がアイドリングしているのかと下を見てみたら、墓を新設する工事音がマ
ンションの壁に反射しているだけだった時もある。ひょっとすると住人は、僕以外にはも
う誰も残っていないのかもしれない。
弱い生物は天敵を恐れ、安心を求めて住処を移動する。僕たち一家も鉄道を乗り継ぎ、
国境を越え、ここまで生き延びてきた。
国民の九割がインターネットさえあれば生きていけると答えたアンケートはいつのもの
だったか。もし僕に権利があったら「とてもそう思う」と回答する。コンピューターは安
価ではないが学位よりは無理なく購入できる。現に僕はインターネットで身につけた知識
を持ってオンライン出社して、プログラミングを売って生活しているし、大半の買い物は
ウェブサイトから済ませる。最近見た夢の中ではプログラミング言語で会話していた。
インターネットで日常の大半が片付いてしまうから出無精になっただけで、窓の外が嫌
いな訳ではない。マンションの影に沈む海底都市のような墓地は今はひっそりとしている
が、陽によって表情がくるくる変わる。
コンピューター上のウインドウでは命令と承諾が理路整然と一方通行を繰り返している
が、現実の窓は混沌だ。眺めていると飽きることがない。特に過労気味でオーバーヒート
した脳を使って意味のない想像を膨らませるのはとても楽しい。
ベランダから見下ろした車たちは、まだ日付も変わる前だというのに背にじっとり露を
つけている。駐車場にはぽつぽつと家族乗りの大きい車が停まっていた。主人に置き去り
にされたファミリーカーは今では違法薬物の取引所として役目を与えられた。そのすぐ背
後には乗車待ちの人影のように墓が静かに立っている。
酒盛りの女が腰掛けていた墓石は突飛な縦型で目立っていた。それに、お兄さんの歌に
使われていた文字によく似た碑文。
僕のお兄さんは亡命してくる前、歌人として生計を立てていた。故郷では詩歌はポップ
カルチャーではなかったので、言葉を歌に変え、歌で飯を変えていたお兄さんは比較的売
れっ子の作家だったに違いない。
けれども、この国に来てからは一つも歌を作らなかった。お兄さんは動詞の活用を覚え
るより前に病気になって死んでしまった。
僕はお兄さんの歌を読んだことがなかった。二度と帰れない故郷の言葉を記念碑的に覚
えるよりも、この国の言葉で生活するのに必死だったから。故郷の戦争は見せ物だとわか
っていたけれど、本物の暮らしは押し潰されかけていた。
第3話
僕は酒盛りの女がいた場所を見ようとした。つま先立ちになってベランダに身を乗り出すと、ようやく桜の木が見えた。木のすぐ横にあるのが、あの墓だった。しばらくじっと観察していると、影が動いた。
「え」
腕の力を頼りにベランダの手すりに掴まり上半身を空中に突き出すと、影の中で大きな黄色い目が光っている。ご近所さんだった。
ご近所さんは僕から目を逸らさずに墓石の角につまずきながらベランダの真下にやってきた。
コーヒーを切らしたこと、酒盛りの女がいることに加わる第三のバグとして、ご近所さんが僕の部屋にやってきた。
ご近所さんはガラスに顔をつけ、ベランダ越しにマンションの足元に広がる墓地を見ている。外見ほどは古びていない室内にさっさと一通り視線を移し、
「ずいぶん高い」
と言った。
ご近所さんはアレルギー体質なのか、潤んだ目をしきりにこすっては鼻をすすり、不安そうに目をぎゅっとつむった。ご近所さんの大きな目と突き出た小さな鼻は忙しなく動き、表情を読み取ろうとするだけで僕の脳は容量不足になりそうだった。
落ち着かない様子のご近所さんをどうにか落ち着けようと戸棚を開けると、同じチョコレートの箱が幾つも出てきた。いつ買ったのかすぐには思い出せない外国製のチョコレートを取り出し、来客用の小皿に開けた。
ご近所さんが僕の正面の席に座り、
「あなたもあの墓を見ていたんでしょう」
と言った。
僕は頷いてから答えた。
「誰かが墓に座って酒を飲んでいました」
「着飾った女の人ですね、毎晩います。墓参りの途中でよく見るんです」
「あの女が腰掛けている墓には妙な文字が書いてあるんですよ。見たことない形の文字だから、最初はあの女の落書きじゃないかと思ったんです」
「ああ、女性はたくさんお酒を飲んでいそうでしたね」
彼女を見てとっさに「酒盛りの女」と名付けていることは言わなかった。
「酔っ払って落書きしたなんてことも、いかにもありそうでしょう。それにここらは最近急に人が減って、いたずらも多いですからね。でも近づいてみたら彫り込みでした。彼女の仕業ではありませんでした」
ご近所さんは話しているうちに興奮してきたのか、最後には瞬きと同時に大きな耳までわずかに動いた。
「そうですか」
ご近所さんは椅子を後ろに押しながら左にずれた。僕はつまらない相槌を打ち、会話を途切れさせてしまったのだった。二人いるにしては静かすぎる時間が十分にできたところでご近所さんは言った。
「あの霊園には私の大切な人の墓があるのでよく行くんです」
とご近所さんは続けた。
「そうですか」
僕はやっぱり一辺倒に簡素な返事しかできなかったけれど、ご近所さんはもう気にしていなかった。
「不安なことよりも楽しいことの方が多い状態を幸せと呼ぶとしたら、その人との生活は間違いなく幸せな日々でした」
ご近所さんはコーヒーをすすり、チョコレートを齧った。
「ただね、ある時『死んでも一緒になろう』と言われたんです。それが私には耐えられなかった。だって飼い主とは寿命までのほんの何年かを楽しく過ごせればいいとばかり考えていたんだから。先のことなんか考えていませんでした」
「飼い主?」
「ええ、Kainushっていうんです、彼の名前です」
「ああ」
ご近所さんは潤んだ目を半回転させ、泣き笑いのような複雑な表情をした。
「大変な約束をしましたね」
「ええ。でもさらに悪いのは私が流されて、同意したことです。人生最悪の嘘ですよ、いいや、嘘にも満たない。何も考えていなかったんです。そうだね、って相槌ぐらいの軽い気持ちで。生きているものが死んだ時の約束をするなんて不気味だと気が付けばよかったんです。それから少しも経たないうちに彼は死にました。でももっと不気味なのはいずれ私も確実に死ぬってことですよ。死んだらそれ以上変わりようのない状況が無限に続きます。私の嘘と、私たちの不毛な約束も永久保存されてしまう」
プログラムなら元のコードを新しいコードで書き換えられるのに、と僕は不憫に思った。
最終話
近くまで行ってみると「春日霊園」と看板があるけれど、霊園というより墓地という方
がふさわしいような、壁の中を大小の石が質素に並んでいるだけの合同墓所だった。自宅
の近くにあったのに墓地の正面入り口に行くのは初めてだった。ご近所さんは僕の半歩後
ろでとんがった鼻を一度ひくつかせた。
酒盛りの女は礎石に上がり、のっぽの墓と目線を合わせるように対坐していた。酒盛り
の女の背に薔薇のような陽光が斜めに差し、健康な背骨の盛り上がりが薄いブラウスに背
骨の影が細かく落ちた。
僕は酒盛りの女の後ろ、墓の正面に立つと、
「この墓の前で毎日酒を飲んでいますよね」
と尋ねた。
酒盛りの女はおっとりした口調で答えた。
「私は雇われの酒飲みですからね。指定された場所で指定された種類の酒を誰よりも美味
そうに飲む。それが私の仕事ですから」
僕は「ああ」と言った。
「墓については何か知っていますか」
酒盛りの女は瞬きをして、
「変態的な要望もなく、一般的な飲み方でこの場所で楽しく酒盛りをする。最近も特に業
務内容に変化ありません」
と言った。
酒盛りの女は実に美味そうにボトルを煽り、飲み下すときに眉間に皺を寄せた。深い皺
がアクセントになって美しい顔がより華やかに見えた。薄い首の皮膚の下で小さく脈が打
つのを見、僕は彼女から目を逸らして尋ねた。
「この墓に刻まれた言葉がどういう意味だかわかりますか」
妙なこと聞くと思ったのか、女は不思議そうに細い顎を突き出して顔をして見た。
酒盛りの女は、
「本当にわからないの?」
と尋ねた。
「さあ」
「また、お忘れですか」
酒盛りの女は僕が黙っているのを見て、ワインボトルの細い首を掴んだ。
酒が潤滑油となって女の口は機械式に動く。
「先生、本当に思い出せない?」
女の実行キーは酒なのだった。女は酒を飲むことで自分の使命、託されたプログラミン
グを実行する。女の役割は酒を飲むことではない。僕のバグを治すことだった。
「また全部忘れちゃったの、先生。私のこと本当に誰だかわからない?」
ふとあたりを見渡すと、ご近所さんの姿はない。
最初からご近所さんはいなかったのだ。彼は全身に巣食った末期癌が見せる幻覚だ。カ
フェオレと一緒に摂ったモルヒネは脳の注意を逸らして幻覚をより濃く心に映し出す。
月給制で雇ったアルコール中毒の女を見る。彼女をスカウトした時を思い出す。かろう
じて骨を薄い肉が隠しているような痩せぎすのレジ打ちの手を見て、彼女に決めたのだっ
た。アルコール以外口にしない彼女は色鮮やかな服を重ねて着る。体温が低くいつでも寒
いのだ。袖口から覗く極彩色は、死の世界に近づきたがる透き通った肌によく馴染んでい
た。
「申し訳ないわ」
「謝らないでよ、先生。今さら困っちゃう。今日はもうお宅まで送りますね」
酒盛りの女から流れてくる酒の匂いが充満するとそれが合図みたいにエレベーターは上
昇しだした。
「先生、今はどんなタンカを作っているの」
「若い人の生活を書こうとしているの。コンピューターでプログラミングをしている人の
話」
「それで今日はああいうぼけ方をしていたのね。大丈夫、作品だけ読めばみんなは先生が
痴呆老人だって気づかないよ。まだまだ売れる。だけど、くれぐれも難民キャンプの話な
んかしないでね、もう暗い話は聞きたくないの」
「私もぜひ明るい歌を作りたいと思っている」
短歌作家になったのは私の方だ。お兄さんは短歌作家になれていない。亡命後にこの国
で言語を習得し、お兄さんが亡くなった後にお兄さんが作った短歌を翻訳した作品が私の
デビュー作だった。
私は母と歳の離れたお兄さんに代わる代わる抱っこされて、何も持たずにこの国まで亡
命してきた。
故郷は、かつては「黄金の国」と呼ばれるほど質の良い金が産出された国だった。母は
故郷の金貨を早々に売り払い大金に替えると、子供たちのために平屋を買った。間も無く
して黄金の国の金貨よりも上質な金貨が出回るようになり、黄金の国の金貨は急激に価値
が下がってしまうことになるので、母は強運だった。
しかし幸か不幸か、生活するに困らない金があったから、母もお兄さんも周りの人とは
最低限の関わりのみで言葉を覚えることもなく、こざっぱり生きて死んだ。初めにお兄さ
ん、続いて母が死んだ頃、私はまだ飯代も稼げない子供だった。
黄金の国の遺産で育った私が焦るように早々と大人になった時、不動産会社が平屋の建
っている土地を売って欲しいと言い出した。平屋はその頃の私にとって、狂おしい懐かし
さを感じさせる厄介な存在になっていた。
私が不動産会社の用意した紙に何点かサインすると、こぢんまりした庭付きの平屋は十
カ月ほどで高層マンションになった。
他に住みたいところもないからと、勧められるままに今のマンションに移り住んでから
わかったのは、平屋と同じ緯度経度でも景色はまったく違うということだった。
短歌はお兄さんが私に残してくれたギフトだった。私はお兄さんの短歌を丁寧に書き換
え、やがて一つの文化として短歌はこの国に根付いた。長い、長い旅だった。その頃には
私は老人になっていた。
「介護ケアのついている集合住宅に入った方がいいんじゃないの。今ならまだ良くなるか
もしれないでしょ」
「私がここにいて給料を払わないと貴女の生活が困るでしょう」
と、私は笑ったが、酒盛りの女は笑わなかった。
「もっと先生にとって良い治療ができる人を見つけたの。今度会ってみない?私、先生の
ことが心配なんだよ」
と、酒盛りの女は幽霊みたいに白い顔で言った。
私はお金を包んで女に渡す時、一度部屋を振り返った。雪崩れたコーヒー豆の箱が床に
散らばっているのが見えた。机の上には黒々としたコーヒー豆が丁寧に来客用の小皿に乗
せられている。
「先生、」
女は心配そうに私を見つめて何か言いかけたが、私にはその表情で十分だった。
私の中には癌や認知症、その他数えきれないほどのバグがある。けれどもそれが治され
たら、私は一体どうなるのだろうか。
治療とはできるだけ生まれたての新品の身体に近づけることだろう。生活していれば食
器を割ってしまうように、生きていれば人は傷つく。お兄さんのことを思い出しては胸を
掻きむしりたいほどの寂しさの波に襲われる。病院に行って頭のネジを何回か締めてもら
えば、見えない傷まで取り除けるかもしれない。そうしたらもっと楽になれる。
けれども名前がある生きた人物としてのお兄さんは、もう私の頭の中にしか残っていな
い。お兄さんは何も残せず死んでいったんだ。インターネットで検索しても意味はない。
お兄さんがいたことを証明できるのは、されど私の壊れた頭だけなのだ。
扉を閉め部屋に入ると、ベランダに人影が立って待っていた。
かつて平家が経っていた土地を斜め上から見るような位置に開いたマンションの窓から
外を見ていると、肉体から離れて自分自身を俯瞰しているような不思議な感覚がする。し
ょっちゅうお兄さんの幻影が勝手に現れるように原因は、癌と認知症に加えて高層階がど
こか浮ついた気分にさせるせいもあるはずだ。
「飼い主がしっかりしてくれなきゃ困る」
と、お兄さんが私を見て笑った。私はお兄さんの幻影に向かって話しかける。
「認知症の老人を弄んだね」
「お前が僕のことまで忘れてしまったからちょっとむかついたんだ。それにお前だって楽
しんでいただろう」
癌細胞は十九で死んだお兄さんとなり、私がお兄さんを忘れる日まで二人分の命を生か
す。
「おかえり」
「ただいま」
私は息を大きく吸い込んで再び規則正しい生活に帰った。
-完ー