『英雄(ヒーロー)だけがいる世界』
降谷さゆ著
ミステリー
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成績優秀、スポーツ万能。羨ましいほど順風満帆な人生。優しさと正義感に溢れる幼馴染の彼・川田浩人は、昔から私の英雄(ヒーロー)だった。そんな英雄が突然死んだ。自殺か、それとも事件か……。彼の目に映っていた世界とは?第1話 プロローグ
幼いころから、いつも私は彼の背中を見ていた。
「亜希ちゃん、僕がいるから大丈夫だよ」
通学路にいた大型犬が怖くて動けなくなったとき、クラスメイトからいじめられて教室に入るのを躊躇っていたとき、体育の授業で転んで泣いてしまったとき、彼はいつも優しく私の手を引いてくれた。
「さあ、行こう!」
少年の小さな背中。それでも、泣き虫で臆病な私にとって、その背中はとても大きく見えて、いつだって頼もしかった。
どんなときも弱音なんて吐かず、自信に満ち溢れていて、常に人の輪の中心にいるような私にはちょっとだけ遠くて眩しすぎる人。大人になってからも困っている人には真っ先に手を差し伸べ、自分で選んだ道を進み、不正や嘘を許さない正義感が強い人だった。
近所に住むいつも一緒の幼馴染から恋人へと関係は変わっていっても、彼・川田浩人は何も変わらない。ずっと私・立花亜希の英雄だった。
そんな英雄が、私の前から突然いなくなった。
*
『都内オフィスビルで転落死 事件、自殺の双方向で捜査 警視庁
東京都新宿区で三月三十一日の正午ごろ、十二階建てのオフィスビルの屋上から、ここで勤務する会社員男性、川田浩人さん(27)が転落死した。警視庁は関係者に事情を聞くなど詳しく調べている。
捜査関係者らによると、事故現場となったビルの屋上は通常施錠されていて、従業員の立ち入りは禁止されているが、鍵が壊された形跡があったことが分かっている。
警視庁捜査一課は男性が直前まで通常通り勤務していたという証言からも、自殺、事件の双方向の可能性で慎重に調べる。
四月一日 東進新聞朝刊』
*
線香のにおいとお焼香の煙が立ち込める葬儀会場。つい先ほどまで大勢の参列者がいたこの場所も、今は息遣いまで聞こえるほど静まり返っている。
「亜希ちゃん、ごめんね。浩人がこんなことになってしまって……」
言葉を震わせて、私の隣で憔悴しきっているのは彼のお母さん。幼いころから家族ぐるみで付き合っていて、いつも温かい笑顔を向けてくれていた彼のお母さんのそんな表情を見ると、胸がぎゅっと締め付けられて苦しくなる。
「いえ……そんなこと……」
静かに首を左右に振りながら返事をするが、それ以上はなんと言葉をつなげていいかわからなくて黙り込んでしまう。
つい二日前に病院のベッドで横たわる彼と対面し、通夜も葬儀も終えたというのに、視線の先にある祭壇に飾られた写真の彼は見慣れた笑顔。もうこの世にはいないということが現実だとは思えない。
月曜日の昼下がり、休憩を終えて席に戻ろうとしたときにかかってきた彼のお母さんからの一本の電話。
伝えられたのは彼が会社のビルの屋上から落ちたこと。急いで彼の元に向かったけれど、即死だったと聞いた。何度呼びかけても返事をしてくれない彼を目の前にしたら頭が真っ白になって、そこから先のことはよく覚えていない。
悲しさと寂しさでいっぱいのはずなのに、まるで他人事のようにずっと地に足がつかない不思議な感覚に陥ってしまう。
だって、彼が亡くなる前の晩、私は彼と一緒に過ごしていたんだから。
『この春から新しいプロジェクトを任せられたんだ。これからもっと頑張らないと』
キラキラした瞳で、誇らしそうにこれから先のことを話してくれた。だからその翌日に彼がいなくなってしまうなんて、夢にも思わなかった。
よく学生時代の友人と出かけては楽しそうにその日の出来事を教えてくれたし、何をやっても器用で人より優秀だったから仕事で悩んでいるなんてことは今まで一度も聞いたことがない。
だから自ら命を絶つ選択をするなんてことは想像できないし、ましてや慕われることはあっても、死に追いやられるほど恨まれるようなことも考えられない。
「亜希ちゃん、浩人はどうしてこんなことになったんだろうね……」
「…………」
彼のお母さんもきっと私と同じ気持ちだ。
「まだまだこれからっていうときに……」
「……私……浩人とずっと一緒にいたのに……何もわからなくて……」
悲しい。悔しい。ずっとそばにいたのに、誰よりも彼を理解しているつもりだったのに、彼の死の原因が何一つ思い当たらない自分に腹が立つ。
「……ごめんなさい」
こんなことになる前に気付けなかった自分の無力さを、謝ることしかできない。
「どうして亜希ちゃんが謝るの? 浩人は真面目で一生懸命な子だったから、もしかすると一人で何か抱え込んで……」
「――そんなはずない!」
自分でもハッとするほど声を荒げてしまった。
「……そんなはず、ないです。絶対に」
確かめるように、自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。
「だって、笑ってた。前の日までいつもの浩人だったから……」
目の奥が熱くなると同時に、理由もわからない彼の死を全く受け入れられていないことを思い知る。
「そうね、ごめんね。亜希ちゃんを残して自分から命を絶つなんてあるはずないわよね」
その言葉に、強く、何度も頷く。拭っても拭ってもぼろぼろと零れ落ちる涙が止まらない。
「……私、知りたい」
「え?」
「あの日、ううん。あの日だけじゃない。どうして浩人がこんなことになったのか知りたい」
こんな気持ちで彼の死を受け入れられるはずなんてない。
私は彼の死の真相を知りたい。
第2話 疑う苦しみ
ガヤガヤと賑わう大通り。街に出ると浩人の死なんて何もなかったかのように変わらない日常が広がっている。
友人同士の雑談、街頭ビジョンから流れる音楽、街頭演説、そんな今までは気にも留めていなかった音がすべて耳障りで、隠れるように細いわき道に入っていく。
ほんの五分ほど路地裏を進んでいくと、まるで別の世界に足を踏み入れたかのようにひっそりと佇む昔ながらの喫茶店の看板が目につく。
ここが今日の目的地。私と浩人の高校生の頃からの友人で、浩人とは同じ会社の同期でもある吉野達也との約束の場所。
カランカランと心地よい鐘の音を鳴らしながらドアを開ける。
「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ」
カウンターの奥から声をかけてくれた老人はこの店の店主のようだ。店内には私のほかに読書をしている女性が一人だけ。クラシックが流れる店内と店主の穏やかな雰囲気に安堵する。
店内の一番奥の席に腰を下ろしたところで、入り口からまた鐘の音が聞こえて振り返る。私と達也くんが会うのは年末の同窓会以来。いつも浩人や共通の友人が一緒だったから、こうして二人で会うのは初めてかもしれない。
「あ! 亜希ちゃん、お待たせ」
「達也くん、久しぶり。ごめんね、突然呼び出したりして……」
ここまで走ってきたのだろうか、だいぶ暖かくなったとはいえひんやりと風が冷たい春先だというのに彼の額には少しだけ汗がにじんでいて、申し訳なくなる。
「全然、今日は仕事も休みだし。それより、浩人のことは突然だったね……」
「うん……、達也くんも驚いたよね」
「……そうだね」
眉をひそめて複雑そうな表情を浮かべている。それもそのはずだ、浩人と達也くんも長い付き合いだし、亡くなる一週間前の仕事帰りにも二人で飲みに行くような仲だ。浩人はよく達也くんのことを『一番心を許せる友達』と話していた。きっと私と同じように突然の浩人の死に驚き悲しんでいるだろう。
この店のこだわりだというコーヒー豆を使ったブレンドコーヒーがテーブルに二つ運ばれてくる。ほんの少し続いた沈黙を破ったのは彼の方だった。
「それで、俺に聞きたいことって? 浩人のことだよね?」
「うん。達也くんならもしかして浩人がどうしてこんなことになったのか、何か心当たりがあるんじゃないかと思って」
「心当たり……か」
手元のコーヒーカップを見つめ、口をつぐむ。
「なんでもいいの。私、こんなことになって浩人が考えていることとか、職場でのこととか何も知らなかったんだって……だから……」
葬儀の日と同じだ。幼馴染で恋人、それなのに私は何も知らない。悔しくて、もどかしくて、そんな気持ちで涙が出そうになる。
「警察は? 翌日に新聞に載っていたのは俺も見たけど、その後は?」
「屋上につながる非常階段にも入口にも監視カメラはなくて、でもドアに残っていた新しい指紋は浩人のものだけだって……」
「じゃあ……警察は自殺……って?」
「まだわからない! 誰かと一緒に屋上に行ったかもしれないし、浩人に限って自殺なんて!」
「ちょっ……!」
焦った彼の制止でハッとする。自殺、という言葉に店主と離れた席で本を読んでいた女性がこちらに視線を向けたことに気が付いた。
「ご、ごめん。つい……」
「気持ちはわかるよ。あいつに限ってそんなはずない、ってことだろ?」
小さなため息をつきながら彼は言う。私が声を荒らげるまでもなかった。二人とも考えていることは一緒だ。
「うん。自ら死ぬことを考えていたなんてどうしても信じられないの」
「……じゃあ亜希ちゃんは、浩人が誰かに殺されたと思ってるの?」
先ほどより声をひそめ、私の本心を探るように静かに確認する。
「……事故……か、誰かに殺されたんじゃないかって、正直そう思ってる」
殺された、そんな恐ろしいことは考えたくない。それでも、その可能性がずっと心の奥底にあって、もし犯人が存在するのなら特定したいという気持ちが私をとらえて離さない。
少し悩んでから彼は再び口を開く。
「事故はないと思う」
その言葉に私は思わず目を見開く。
「で、でも、お昼休みだったんでしょ? 息抜きとか、外の空気を吸いたいとか……」
「ない」
強く頷きながら、断言する。確信を持ったその言葉に私は何も返せない。
「俺たちが普段いるのは五階、屋上には十階までエレベーターで行って、そこから十二階まで非常階段を使うしかない。行ったところで立入禁止だし鍵がかかっていることは同じビルで働く人なら誰でも知ってるんだよ」
「…………」
「屋上にはビルの下からでも見えるくらい高いフェンスがあるし、鍵だって壊されていたんだ。偶然落ちたなんてことは絶対にない」
「……そう……だよね」
納得するしかない。頭ではわかっている。私は自殺も殺害も信じたくなかったんだ。だから、せめて事故であってほしい、そう願っていたんだと思う。
「あいつは仕事で行き詰まったときは決まって一階に降りてビルの裏にある緑地に向かうんだ。昼食はいつも四階の社食だし、理由がないと屋上なんて行かないんだよ」
「それじゃあ、仕事で悩んでいるようなことはなかった? それか、私のことが負担になっていたりとか……」
話しながら、だんだんと目元が熱くなる。
「……ないよ」
涙を堪えられず下を向いて顔を隠していると、先ほどまでの重い口調とは違って、優しく彼はそう言う。
「亜希ちゃんも聞いてるでしょ? 社内のMVPに選ばれたとか、花形部署に異動になったとか、この春からプロジェクトを任されたとか。うんざりするくらい俺も自慢話を聞かされてたよ。まあ、実際あいつの実力だし、努力しているのはいつも見てたから純粋にすごいなって思ってたけどさ」
「……うん」
小さく頷く。
「亜希ちゃんのこともよく話してたけど、のろけ話ばっかり。近況報告だって言うけど、本当に亜希ちゃんのことが好きなんだなって思ってたよ」
「…………」
その言葉に救われる。浩人が何か思い詰めていたのに私だけが気付けなかったわけじゃない。確証は何もないけれど、浩人と親しかった達也くんがそういっているんだ。信じたい。
「ありがとう」
「ん? なんでお礼?」
「浩人は私の前でも達也くんの前でも変わらない浩人なんだなって思ったらなんだか安心したの」
「……そう……だね」
安堵もつかの間、一瞬の沈んだ空気と口ごもった彼を私は見逃さなかった。
「……ねえ、達也くん。……何か……思い当たるんじゃないの?」
鋭い口調で彼を問い詰める。
「…………」
優しいまなざしを向けてくれていた彼が、今は目を合わせてくれない。
「何か知ってるなら教え――」
「――知らない!」
私の言葉を遮るように、そして悲しそうな表情で彼は頭を抱える。
「俺だって知りたいよ。事故の可能性はない。あいつが自殺なんてするわけない。じゃあ誰かに殺されたって思うしかないだろ。でも、そうすると職場の仲間や友達を殺人犯だって疑わなければならない。でも、俺の身近な人がそんなことをするなんて考えたくもないんだよ!」
「……ごめん……私、無神経だった」
「…………」
ごくりと喉が鳴る音が聞こえるくらい彼は一気にコーヒーを飲みほした。
「亜希ちゃんは……」
「……うん」
「いや、ごめん。俺もあの日から冷静じゃいられなかったんだ」
先ほどまでの穏やかな口調に戻っていた。それでも表情はまだ暗く、身近な人を疑ってしまうことの苦しさがひしひしと伝わってくる。
「……亜希ちゃんには浩人はどう映ってた?」
「え?」
予想外の質問に困惑する。
「浩人はすごいよ。勉強もできて、スポーツもできて、仕事だってずば抜けてできた。だから俺は昔からあいつには敵わないなって思ってた。でも……」
「……でも?」
一呼吸を置いて、一段と真剣な表情で彼はまっすぐに私に視線を向ける。
「あいつみたいにはなりたくないって思ってたよ」
第3話 振りかざした正義
昼間は穏やかな春の日差しが降り注いでいたのに、日が落ちると吹き付ける風が冷たい。
喫茶店を出る頃にはもう外は真っ暗。重い足取りで一人自宅へと足を運ぶ。きっと足取りが重いのは私だけではない。
別れ際、達也くんは自分が知っていることは全部話すと私に約束してくれた。でも、きっとその話を聞くということは浩人や達也くんと関わってきた人たちを疑うことになる。
「少しだけ時間がほしい」
急かすことも、問い詰めることもできず、私はその時を待つことを選んだ。
今すぐにでも聞きたい。だけどそれと同じくらい聞くのが怖かった。
*
その時、は意外にもすぐだった。
三日後、仕事を終えてスマートフォンを確認すると達也くんからメッセージが届いていた。
『お疲れさま。仕事っていつも何時に終わる?』
『お疲れさま。定時の十八時にはいつも終わるよ』
『このあとって予定ある? 亜希ちゃんに会わせたい人がいるんだけど……』
『大丈夫だよ。どこに行けばいいかな?』
数回メッセージのやり取りをして、十九時半に浩人と達也くんが会社から近いからとよく行っていた居酒屋で会うことが決まった。私の職場からも三駅のところ。時間をつぶしてから行くこともできたけれど、気持ちが落ち着かず、三十分ほど前に着いてしまった。
お店の正面のガードレールに腰を掛けてぼんやりと空を眺めていると、遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「亜希ちゃん! 早いね」
声のする方を見ると、達也くんだった。会わせたい人がいる、と言っていたのに一人で小走りでこちらに向かって来る。
「達也くん、お疲れさま」
「お疲れ。もしかしたら早めに着いて待ってるんじゃないかと思って、俺だけ先に仕事を切り上げたんだ」
私が不思議に思っていたことに気付いたのだろうか、一人で来た理由を説明してくれる。
「忙しいのにごめんね」
「いや、俺も会わせる前に伝えたいことがあったから」
達也くんは真剣な表情だけど、この間のように重い雰囲気ではない。
「俺さ、亜希ちゃんに話すかどうかずっと悩んでいたんだけど、俺が亜希ちゃんだったらどんなことも知りたいと思ったんだよね。それに、俺も信じている人たちが浩人を殺したなんて疑い続けたくないから、あの日浩人に何があったのか亜希ちゃんと同じく知りたいと思ったんだ」
「達也くん……ありがとう」
「気にしないでよ、俺と亜希ちゃんだって学生時代からの友達なんだし」
「うん!」
きっと今日私にメッセージを送ってくれるまで、すごく悩んだと思う。それでも忙しい合間を縫ってこうして時間を作ってくれて、私の気持ちを考えてくれたことが嬉しい。
「あ、会わせたい人なんて伝えたけど、山下圭太って亜希ちゃんも知ってるんだよね?」
「山下さんって……二人と同期の?」
「そう、海外の工場から資材の調達をしている部署にいるやつ」
まだ記憶に新しい名前。一年半ほど前だっただろうか、休日に偶然ショッピングモールで会って、浩人と山下さんと三人で食事をしたことがある。その後は私が会うことはなかったけど、浩人から何度も名前を聞いていた。
体育会系のイメージの浩人や達也くんとは真逆の、眼鏡をかけてとても物静かで真面目そうな人だったから、浩人が親しげに会話していたのが少し物珍しく見えて覚えていた。
「その山下さんを今日呼んだのって……」
「……亜希ちゃんが聞いたらショックな話がある。でもあの日、山下は昼過ぎまでずっと俺と一緒にいた。だから山下は違う。それは絶対だから」
言い聞かせるように、しっかりと落ち着いた口調で話す。
「わかった。ごめん、同期の人を疑うような言い方をしちゃって……」
「仕方ないよ。俺だってあの日から周りがみんな怪しくも見えるし、俺だってきっと疑われているんだろうな」
諦めるような言葉が痛々しい。私の知らない浩人がいた職場。そのビルから理由もわからず浩人が落ちたんだから、きっと身近な人には疑いの目が向いている。
そんなことを話していると、遠くから小さく手を振っている人影が見えた。
「お待たせ」
「おー! お疲れ」
現れたのは山下さん。以前会ったときから変わっていない。
「あ、ご無沙汰しています。立花亜希です。」
「こんばんは、山下です」
丁寧に頭を下げて挨拶をしてくれて、それにつられて私も深々とお辞儀をする。やっぱり真面目そうという印象通りの人のようだ。
店内に入ると入口近くのカウンター席は早い時間からお酒を飲んでいるサラリーマンたちで賑わっていたが、達也くんが気を利かせてくれたようで静かな奥の個室に案内をしてもらった。
ひとしきり達也くんから私と山下さんの紹介をしてもらったあと、少しだけ沈黙が続く。
(……どう切り出したらいいんだろう?)
ちらりと正面を見ると、眉を寄せて私と同じように話の切り出し方を悩んでいるであろう達也くんの姿。
(……私から言わなきゃ!)
「あ! あの!」
「立花さん、僕と川田に何があったか聞いた?」
勇気を振り絞って切り出そうとした瞬間、口を開いたのは山下さんだった。
「……あ、はい。一年くらい前でしたっけ、不正……だったか違法取引で、山下さんが巻き込まれていたのを浩人が上司に報告して解決したということは聞きました」
『…………』
達也くんと山下さんが目を見合わせて呆れたようにため息をつく。
「ごめんなさい! 私電機メーカーの仕事のこととかよくわからなくて、全然違っていたらすみません」
とっさにぺこぺこと頭を下げて謝る。間違っていたらとても失礼なことを言ってしまった。
「いや、僕が不正に加担させられていたことは本当です」
「……解決……してないんですか?」
恐る恐る質問する。
「川田が報告したことで僕に指示を出していた上司は懲戒処分で解雇になったし、業務も見直されて不正はなくなりました」
「……じゃあ……良かった……んですよね?」
先ほどの二人のため息の理由がわからない。浩人がしたことは正しいことだし、解決したのにどうしてこの場はこんなにも重い空気になっているのだろう。
「会社としては良かったんだよ。でも浩人はやり方がよくなかったんだ」
私にもわかる言葉で達也くんが説明をしてくれる。
「浩人はさ、不正とか絶対に許せないって人じゃん。だから経理の俺に相談していた山下の話が耳に入ってその足ですぐに上司に報告に行ったんだよ」
「……それのどこが間違っていたの?」
まだわからないと首をかしげてしまう。
「僕は先輩と一緒に証拠を集めて監査部門に内部告発の文書を提出するところだったんです。通報者が特定されてしまえば報復を受けることもあるし、順番を間違えば証拠を消されてしまうことだってありますから。幸いにも川田が報告をしたときには証拠はそろっていたので後者は避けられました……が……」
山下さんにそこまで説明をしてもらって、ようやく二人の言いたかったことがわかった気がする。
「……前者の……報復を受けた……って……ことですか?」
二人は静かに頷く。
「この一年、山下は仕事どころじゃなかったんだよ。嫌がらせは数えきれないし、脅迫までされていたんだ。一緒に証拠を集めた先輩は耐えきれずに辞めちゃったし」
「……浩人はそのことを知っていたんですか?」
私が浩人からこの話を聞いたとき、その責任を感じて思い悩んでいるような様子はなかった。
「浩人は知らないよ。見えてないんだ」
「見えていない?」
「山下たちが証拠を集めていることも、監査部門に報告するということも浩人は聞いていた。だけど、今この時も不正は行われているんだからって山下の制止を振り切ったんだよ。問題が明るみに出てからは山下がずっと苦しんでいることには全く気付かず、自分が会社のために行動したんだってあちこちに自慢げに話していたからさ……」
「…………」
「社内でも目立つ存在だった川田には脅迫どころか嫌がらせの一つもありませんでしたからね」
終始丁寧だった山下さんの言葉に、ほんの少し棘を感じた。
「ごめんね、亜希ちゃん。聞きたくなかったよね」
黙って首を振ることしかできない。
「僕があの日、川田が亡くなった日、吉野と一緒にいなかったら真っ先に容疑者でしたね」
「――そんな!」
「すみません、でもこの話をしたのは川田の正義で苦しんだ人がいるということを伝えたかったんです。正義は振りかざすものじゃない。僕は川田を恨んでいてもおかしくない人の一人にすぎません」
心に真っ黒な闇が少しずつ流れてくる。
浩人はいつも正しくて、いつもまっすぐで、私はそんな彼にずっと憧れていた。そして浩人の周りの人も私と同じだと信じて疑わなかった。妬まれることはあったとしても、恨まれるようなことがあるなんて夢にも思わなかった。
「……亜希ちゃん、もうやめよっか?」
第4話 崩れゆく憧れ
私の知らなかった浩人のこと。聞かない方が良かったかもしれない。
でも、浩人は良かれと思って、仲間を助けたくて、考えるより先に行動してしまったんだと思う。山下さんが苦しんできた一年という長い時間を考えると擁護することはできないけれど、きっとそれは彼なりの正義。
「……でも……ここでやめたら浩人にあの日何があったのかわからない」
「聞いても亜希ちゃんが傷つくだけかもしれないよ? ただでさえつらいときなんだから」
「そうですよ。自殺以外の可能性があるかもしれないとわかったんですし、あとは警察に任せたらどうですか?」
二人とも私の気持ちを考えて、これ以上話すことをやめようとしてくれている。私が見ていた浩人がすべてではなかった、それだけでも知れてよかったとは思っている。でも、二人の話を聞いて、浩人の周囲で起きた出来事をより詳しく知りたい気持ちも大きくなっている。
「山下さんはさっき、恨んでいてもおかしくない人の一人にすぎないって言っていましたけど、ほかにもいるってことですよね?」
改めて言葉の意味を確認する。
「……そうですね、不正を働いた上司もそうですし、辞めてしまった僕の先輩も恨んでいるでしょうね」
「今、その二人は……?」
もしかしたらその二人のどちらかが……。実際に誰かを疑うということはとても恐ろしい。達也くんの気持ちが今になってようやくわかる。
「あの問題はニュースでも話題になったので、上司は人目を避けて遠方に引っ越していったと噂で聞きました。本当かどうかはわからないですけれど」
「先輩は実家に戻ったんだっけ?」
「ああ、親の仕事を手伝うと聞いたよ。地元は確か東北だったと思うけど」
「その二人を最近この辺りで見かけたという話はあるんですか?」
一つずつ可能性を探っていく。
「うーん……俺はないかな」
「僕もないですね」
「……」
「でも、よくよく考えるとその二人の可能性はゼロじゃないにしても、低いかもしれません」
「え?」
「もう退職していますから、ビルに入るのは容易ではないと思います」
「そう……だよな……」
ひとかけらの可能性が消えそうになり、もどかしさを感じてしまう。知るのは怖い、でも曖昧にはしたくない。
「入館証とかカードキーを返却していないとか、複製していたって可能性は?」
「絶対にないとは言い切れませんが、その辺の管理は徹底しているので……」
少し悩んでから、達也くんが口を開く。続けられた言葉は私にとって衝撃的なものだった。
「その二人に絞るのはまだ早いんじゃないかな?」
「えっ……?」
ドクンと心臓が脈打つ。視線を送るが意図的に目をそらされてしまった。
「今の言葉でわかったでしょ? だからこれ以上はやめようって言ったんだよ。俺や山下が知っているだけでもまだほかにもいる」
その言葉は今まで聞いた達也くんの言葉のなかで一番冷たかった。
「もう一度聞くよ、まだこの話を続ける?」
*
お店を出て山下さんを見送り、私と達也くんの二人きりになった。知る限りを教えてほしいと食い下がる私に、山下さんは次の提案をしてくれた。
「吉野、歌舞伎町に連れて行ってあげたら?」
「……あの店か。山下は?」
そう聞く達也くんに、自分は絶対に行かないと断固として拒否をした山下さん。なんでもその歌舞伎町のお店にいる人のことが苦手だという。その返事に達也くんも納得した様子で、それ以上引き止めることはしなかった。
「……ごめんね、私のわがままで」
手元のスマートフォンで何気なく時間を確認するともう二十二時近い。いくら私にとっても高校時代の友人だからって、平日の仕事終わりに時間を割いてもらっているのが急に申し訳なくなった。
「いいよ、ここまで来たらとことん付き合うよ。心当たりは全部当たってみよう」
私の罪悪感を消してくれるように、優しく微笑みかけてくれたその表情に少し救われる。
「ありがとう」
「本当に気にしなくていいって! この間、知っていることは全部話すって約束したじゃん。俺もこのままだとモヤモヤして気持ち悪いし。それに……」
「それに?」
一度私の目を見てから、達也くんはうつむいてつぶやく。
「疑うことから早く解放されたいんだ……」
*
疑うことから解放されたい、重すぎる言葉。
きっと彼は山下さんに会わせてくれたのも、山下さんの上司や先輩の話をしてくれたのも、この人は違うと一人ひとり確認をしたかったんだと思う。身近な人が犯人でなければいいと願う気持ちと、犯人がいるのであれば特定したいという気持ち。その狭間にい続けることはどれほどつらいことだろう。
浩人と毎日同じ職場で過ごしていたからこその苦悩。私とはまた違った思いを彼は抱えている。
かける言葉が見つからなくて、しばらく無言で並んで歩いた。
一駅分くらい歩くと、夜も更けてきたというのに人通りが増えてきた。ギラギラと光り輝く電飾に、お酒を含んだ人々でひしめき合う夜の街。
浩人を失ったばかりの私にとって、この場所は居心地が悪い。光が、雑音が、空気が、どれも耐え難い。
「……大丈夫?」
一瞬、ぎゅっと目をつぶって立ち止まった私に気づき、すっと腕を引いてくれる。
「もうこの角を曲がったらすぐだから」
華やかな表通りとは一線を画したような、看板の電球がチカチカと切れかかっている古いスナック。ここが山下さんの提案したお店のようだ。扉を開けて店内に入ると、先ほどまでの街の光景が嘘だったかのように静まり返っている。
「すみませーん」
達也くんが声をかけると、奥から一人、栗色の長い髪を綺麗に結った黒いドレス姿の女性がカウンターに現れた。私や達也くんと同年代か、少し若いだろうか。
「あれ? 吉野先輩! 一緒にいるのは彼女ですか?」
「桃花ちゃん久しぶり、この子は俺と浩人の高校時代からの同級生」
「……こんばんは」
店自体は寂れているが、目の前の可愛らしい煌びやかな女性にちょっとだけ尻込みしてしまう。
「こんばんは、そういえば川田先輩のことは大変でしたね」
笑顔で挨拶を返してくれたが、突き放すような言い方だった。
「桃花ちゃんも知ってたの?」
「一応私の先輩でしたから、いろんな人から聞きましたよ」
返事をしながら私たちをカウンター席に案内し、注文したお酒とお通しを手際よく用意してくれる。
この桃花ちゃんという子は、浩人と同じ部署で働いていた後輩だということ、そしてトラブルがあって半年前に退職してこの店で勤めていることを達也くんがこっそり教えてくれた。
「桃花ちゃん、今日は一人なの?」
「今ママが買い出しに行っちゃって。一時間もしないうちに戻ると思いますよ」
コトン、と目の前にお酒を置いて、彼女は私たち二人の目の前で頬杖をつく。
「……で? 友達が死んだばかりなのに男女で楽しそうに飲みに来るなんて、川田先輩も可哀そうですね」
先ほど感じた冷たさは気のせいではなかった。今の言葉には悪意さえ込められている。ケラケラと笑っている様子に背筋がぞっとする。
「そんなんじゃないよ、浩人を恨んでいる人から話を聞いてまわっているんだ」
目の前の彼女の反応を確かめるように、達也くんは言葉を濁さずにそう伝える。
「え? 私を疑っているんですか? 吉野先輩ひどすぎません?」
疑いの言葉をかけられたことなど、何も気にしていないようだ。それどころか、彼の死に興味津々といった様子。
「川田先輩って自殺じゃなくて殺されたんですか?」
「まだわからないよ」
「まあ、あの人が自殺なんてするわけないよね。今頃殺した人は清々しているんだろうね」
「――そんなっ!」
あまりの辛辣な言葉に胸が痛くなる。
「何、お姉さん?」
「あ、あの、それはあまりにもひどいんじゃ……」
その言葉を口に出した瞬間、敵意をあらわに睨みつけられる。
「もしかしてあの人のこと好きだったの? やめときなよ、確かに顔はまあまあいいかもしれないけど悪趣味だよ」
「…………」
「……桃花ちゃん、そのくらいにしなよ」
悪趣味、その言葉にこれまでのすべてを否定された気持ちになる。黙り込んでしまった私を見てすかさず達也くんが止めに入るが、それが彼女の怒りに火をつけてしまったのか、ガンッと机を殴りつけて言葉を続ける。
「だってそうでしょ、あの人に私の人生は壊されたんだから!」
「……人生を? ……壊した?」
「そう。でも残念、私はあの日この店のママと銀座でショッピングをしていたから犯人じゃないよ。それに私だったらビルから突き落として即死なんて簡単に死なせたりしない」
「…………」
怖い。彼女の口から発せられる言葉には大きな恨み、憎しみが込められている。
私にとって憧れだった浩人は、みんなにとっての憧れではなかった。私が見てきた彼はもしかすると幻想だったのではないか、彼女を見ているとそう思ってしまうほどだ。
「私は絶対に許さない。あ、私だけじゃないかもね」
第5話 フィルター越しの世界
許さない、彼女は語気を強めてそう言った。そして「私だけじゃない」その言葉も気になって仕方がない。
「あの……初対面で失礼なのは承知ですが、浩人とあなたの周囲で何があったか教えてくれませんか?」
彼女の怒りを鎮めるように恐る恐る聞く。
「……お姉さん、本当にあの男が好きなの?」
信じられないという表情で私をまじまじと見つめてくる彼女に、大きく頷いて答える。
「私は立花亜希といいます。川田浩人とは幼馴染で、学生時代から付き合っていました」
「そういうわけだからさ、俺からもお願い。亜希ちゃんに桃花ちゃんやその周りで何があったか教えてあげてよ。俺も詳しい事情までは知らないんだ」
「……吉野先輩がそこまで言うなら」
しぶしぶだけど事情を聞いて了承してくれた様子から、なんとなく根は悪い子じゃないんだと感じた。彼女の敵意は浩人にだけ向いている。
はぁ、とため息をついて手元のハイボールに少し口をつけてから、今度は落ち着いた様子で話しはじめてくれた。
「私、川田先輩の一年後に入社して、最初は何も接点はなかったんですけど、半年前に辞めるまで一緒のチームだったんです」
「……あ! 桃花さんって、小野さんですか?」
そういえば、以前浩人から男性ばかりのチームに小野さんという女性が加わって、その子の指導係になったという話を聞いたことがある。
「あ、私のこと聞いていました?」
「はい、とてもハードな仕事なのに誰よりもテキパキこなす子がいると。浩人にプライベートの相談をしていたくらい関係は良かったんじゃないんですか……?」
一瞬、彼女の眉間にしわが寄るのが見えた。山下さんのときと同じ、浩人から聞いていたことと現実はまた相違があるようだ。
「……違う……んですね?」
「仕事以外の相談なんて一度もしたことないですよ」
「そう……だったんですね」
捉え方は本当に人それぞれだ。浩人が見ていた世界と、彼女に見えていた世界も違う。
「私、あの人の承認欲求のためにすべてを奪われたんです」
「え?」
その言葉に耳を疑ってしまう。達也くんの反応を見ても、その言葉に違和感があるようだ。
「ねえ、嫌な気持ちにさせたら申し訳ないけど、俺は桃花ちゃんが問題を起こしたって聞いているんだよね」
「吉野先輩だって短い期間とはいえ一緒に仕事をしたじゃないですか! 私が問題を起こすような人に見えました?」
「いや、ごめん。そうは思っていないんだ。ただ、いろんな人から聞いていた話と食い違っているようだから、桃花ちゃんにも誤解があるんじゃないかと思ったんだ」
「誤解? それなら退職まで追い込まれませんよ!」
このままでは話が進まない。彼女に冷静さを取り戻してもらわなければと、その場を取り繕うために二人の間に割って入る。
「ごめんなさい! 私たちは詳しい事情を知らないんです。だから、順を追って教えてくれませんか?」
「…………」
小さなポシェットから出した紙煙草に火をつけ、彼女はふーっと天井に白い煙を吐き出し少し落ち着きを取り戻す。
「私の話を信じてくれますか?」
*
彼女、小野桃花さんは浩人たちの後輩で、一年前の企画開発部への移動を機に、浩人と同じチームに所属。企画開発部といえば、花形の部署で優秀な人ばかりが集まっていたという。
その中でも浩人と桃花さんは若手ながらも成果を上げ続け、特に目立つ存在。二人で担当する仕事も多く、表面上は上手くやってきたそうだ。
「あの人、私が一人で担当して成果を出した仕事でも『俺の後輩が』って、なにかと自分のおかげで上手くいったみたいな言い方をするので嫌いだったんですよね。まあ、私も大人なのでいちいちそれに対してどうこう言ったりしませんでしたけど」
「それで、なんでトラブルになったんですか?」
「……私には付き合っている人がいました」
一呼吸おいて、彼女は再び語り始める。
桃花さんの恋人、それは浩人の上司にもあたる加藤芳樹さん。桃花さんの十歳年上で、目立つ存在ではなかったが、着実な仕事ぶりと落ち着いた振る舞いで配属されたばかりの桃花さんを気遣ってくれて、その優しさに出会ってから間もなく惹かれていったという。
一生懸命な彼女に加藤さんも同じ気持ちを抱くようになり、二人で食事に行く機会も増え、三カ月ほどですぐに交際に発展。
まさに幸せいっぱい。そんなある日、浩人と桃花さんが一緒に資料の確認をしているとき、桃花さんのパソコンに表示されたメールの通知を浩人が偶然目にしてしまった。
『差出人:加藤芳樹
本文:今晩桃花ちゃんの家に行ってもいい?』
社内恋愛、さらに同じチームということで二人の交際は秘密にしていた。仕事中にふさわしくないメールが画面に映し出されたことに焦り、とっさに彼の忘れ物を預かっていたから返すだけだと言い訳をする。
しかし、浩人はそのことを怒るわけでもからかうわけでもない。深刻そうな表情で今すぐ別れるように言ったという。
「確かに仕事中だったから、私たちが悪いことはわかっていました。でも、二人の関係にまで口を出される筋合いはないって言って、その日は川田さんとそれっきり顔を合わせず帰宅しました。そしたら……」
事態が急変したのはその翌日。出勤すると、なんだかいつもと空気が違う。普段は気さくに話しかけてくれる人たちがみんな目を合わせてくれない。それどころかひそひそと何かを話している様子からみんなに二人の関係を言いふらされたんだ、そう思った直後、部長に呼ばれて会議室について行くとそこには加藤さんの姿もあって、想像が確信に変わる。勤務時間内に会社のパソコンで個人的なやり取りをしたことを咎められるんだと。
しかし、その後に伝えられたことは想像を遥かに超えるものだった。
「私、加藤さんが結婚していてお子さんもいるだなんて聞いていませんでした」
「え……それって……」
「そうです、不倫だったんです」
悲しい笑顔を向けてくる桃花さんの気持ちを思うと胸が痛くなる。
「でも、知らなかったのなら会社も桃花さんを責めることはできないんじゃないですか?」
「言ったでしょ、出社したらとみんなの様子がおかしかったって」
「じゃあ浩人が……?」
浩人は桃花さんと加藤さんの関係を知り、その日の夕方に外出先から戻ってきた加藤さんを執務室で責め立てた。その話は当然ほかの社員の耳にも入り、翌日には周知の事実となってしまった。
「悪いのは結婚を隠していた彼ですよ。でも、あのとき川田さんが私に別れろと言った理由を教えてくれれば私から別れを切り出しました。彼を責めるにしてもわざわざ社員が残っている執務室で話すなんてあまりにも無神経です」
長い爪が手のひらに食い込むほど、彼女はぎゅっとこぶしを握り締める。
「私は彼が大切なことを隠していたという事実だけで涙が止まらないほど悲しかった。それなのに、不倫女ってレッテルが貼られて、今まで親しくしていた人たちから白い目で見られて、取引先にまで伝わったんですよ。退職するその日までどんな気持ちで過ごしていたかわかります?」
「…………」
かけてあげる言葉が一つも見つからない。
「ごめん、さっきは桃花ちゃんに非があるような言い方をしてしまって……」
達也くんは申し訳なさそうに頭を下げる。
「私、ずっと希望していた部署に念願叶って配属になって、期待に応えようって毎日頑張ってた。人を好きになっただけだった。それなのに川田さん、私が会議室から出たあと何て言ったと思います?」
「…………」
二人とも黙ってただ首を横に振る。
「大事な後輩を正しい道に導けて良かったよ、だって」
「あいつ……」
隣に座っている達也くんは怒ったような、呆れたような、そんな表情で手元のグラスを空にする。
「本当に大事な後輩だと思っていたのならもっとやり方を選んだだろうし、私が追い込まれていることにも気付きますよね? 退職日もあの人は笑顔で私を見送ったんですよ。信じられない」
その言葉通りだと思う。桃花さんの気持ちを考えた言動だったとは到底思えない。
「……私、何か間違ったことをしましたか?」
諦めるようにそう言うと、桃花さんはそれ以上語らなかった。
「桃花さん、急に押し掛けたのに話してくれてありがとうございます。私、浩人がどんな人だったのかようやくわかった気がします」
一番近くいた。だけど私の目には憧れや恋心というフィルターがかかっていて、都合のいいところしか見えていなかった。彼の優しさや正義感は人のためを思っているようで、自分のためでしかない。
第6話 閉ざされた心
三人の間に流れる沈黙。
カチカチと古い掛け時計の針が動く音だけが店内に響く。
「……ありがとうございます」
沈黙を破ったのは桃花さん。ありがとう、そんな言葉をかけてもらえるなんて思いもしなくて、ポカンと口を開けていた私を見て桃花さんはクスクスと笑い出した。
「お姉さん、すごく間抜けな顔してるよ」
「えっ! だってお礼を言われるようなことなんて」
「ううん、二人は私の話を信じてくれたんでしょ? あの日から私の言葉を信じてくれた人は一人もいなかったから」
穏やかな、優しい笑顔。やっぱり彼女は悪い子ではない。
「つらかったですよね、ずっと。……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
自分でも、一瞬その言葉が出てきたことに驚いた。でも、浩人の人格を作った一端はきっと幼いころからそばにいた私にもある。だからこそ、謝罪の言葉は本心だった。
「私、ずっと浩人を頼っていました。浩人はすごい、浩人は私のヒーローだって子供のころから言い続けていて、それが過剰な自信や正義感につながってしまっていたのなら、桃花さんにつらい思いをさせた原因は私にも……」
「……亜希ちゃん、俺は違うと思う」
私の言葉を遮ったのは達也くんだった。
「確かに浩人は昔から褒められてばかりだったよ。俺だって浩人には敵わないとか、たくさん言ってきた。でも、本当に優しいやつならちゃんと周りを見ていたはずだよ」
「……うん」
複雑な気持ちで返事をする。達也くんの言葉は腑に落ちて、その通りだと思った。
「それで、二人はあの人を殺した犯人を探しているんですよね?」
「あ、えっと……誰かに殺されたかはまだわからないんですけど、その可能性があるのなら知りたいんです」
「桃花ちゃん、心当たりがあるの?」
ドクン、と鼓動が早くなる。
「私が付き合っていた加藤さん。あとは加藤さんの同期で私たちと同じチームだった佐田さんはあの人を恨んでいたと思いますよ」
「佐田さん?」
「浩人からも周りからも特に揉め事があったなんて聞いたことはないけど」
「まあ殺したいほどかはわからないですけど、後輩だったあの人の方が佐田さんより先に昇進したことをかなり妬んでいたみたいですから」
少しずつ把握していく浩人を取り巻く環境。キラキラした世界を思い描いていた。でも、現実は恨みや妬みといった黒い感情で溢れていた。
「……そのお二人は、今どこで何をしているかわかりますか?」
「加藤さんは不倫が発覚した直後、地方の支店に異動しました。左遷ってやつですね。急に企画開発部から地方に異動になったのはおかしいって奥さんが言い出して、その流れで不倫もバレたんじゃないかって噂ですよ。その後どうなったかまでは知りませんけど」
「佐田さんはそのまま今の部署にいるよ」
「…………」
「……亜希ちゃん?」
うつむいて黙り込んでしまった私に達也くんは心配そうに声をかけてくれる。
「あ、ごめん。ちょっと頭がごちゃごちゃになって……」
異動したとはいえ今も社員の加藤さんは本社のビルに立ち入ることはできるはず。そして浩人と同じ部署に所属していた佐田さんが浩人を屋上に呼び出すことは容易だろう。
疑い出したらきりがない。でも、犯人と決めつけるには彼らのことを私は知らなすぎるし証拠も何もない。それに私が調べてわかることはもうすでに警察も調べがついているはず。
「私……どうしたいんだろう……」
『え?』
達也くんと桃花さんが驚いた表情で私の顔を覗き込む。
「あ、えっと、犯人がいるのであれば知りたいんです。でも、その人を私が特定したいっていうよりは、浩人に何があったか知りたいというか……」
上手く言葉で伝えられない。知りたい、それは本当。
「……なんとなくわかるよ」
「うん、犯人のことじゃなくて、あの人のことを知りたいんでしょ?」
私の拙い言葉で二人は理解してくれた。そして桃花さんの言葉通りだ。
浩人が自ら命を絶ったというのは考えられなかった。そして人から殺意を抱くほどに恨まれていることも考えられなかった。でも、身近にいた人たちからの話を聞いて殺人という可能性もゼロではなくなった。
その原因は浩人の独りよがりな正義感。ただ、それは自分自身の承認欲求のためだったのだろうか?
かつて私を守ってくれたときのような優しさがあったと信じたい。
「わ! もうこんな時間だ」
「あ、長居しちゃったね。達也くん帰りは大丈夫?」
気が付くともう終電まであまり時間がない。桃花さんにお礼を告げて足早に店を出て、達也くんとはそれぞれ逆方向の電車に乗り込む。
(……浩人は最後、何を思っていたんだろう?)
人もまばらな電車に揺られながら、そんなことを考えていた。
*
あの日から眠れない日々が続いている。
山下さんと桃花さんの話を聞いてから、頭に浮かんだ人がいる。決して疑っているわけではない。ただ私もよく知るその人物の本心を知りたいと思った。
(もう何年も避けられているからな……)
その人物をすぐに訪ねようと思ったけれど、ある時期から会うことを避けられてしまったので、なかなか気が進まなかった。
でも、こうして悩んでいるうちにモヤモヤが募って心が落ち着かない。日曜日の今日を逃すとまた次の週末まで会えなくなってしまう。
「――よし!」
~♪~♪~♪
意を決して電話をかけるとすぐに出てくれた。
『もしもし、亜希ちゃん?』
いつものような明るさがない彼のお母さんの声。
「こんにちは、急にお電話してしまってすみません」
『いいのよ、浩人がいなくなってから寂しくて』
「……あの、突然ですが今日そちらに伺ってもいいですか?」
『あら! 亜希ちゃんなら大歓迎よ』
「それで……明人くんと少しだけお話したいんですけど、今日はご自宅にいらっしゃいますか?」
明人くん、それは浩人の三つ下の弟。
昔はよく三人で一緒に遊んでいて、私と同様に浩人の後ろをいつもくっついて歩いていた。お兄ちゃん、お兄ちゃん、って浩人を頼りにしていたちょっとだけ弱虫の彼。でも気遣いができて優しい笑顔が印象的な私にとっても可愛い弟のような存在。
でも、その笑顔を見ることはなくなった。
『明人は家にいるけど……部屋から出てくれるかしら……?』
戸惑った様子だけど無理もない。明人くんは中学生のころから学校に行くのを嫌がり、悩みを聞こうと私や浩人が何度も声をかけていたけど、そのうち部屋に引きこもってしまい会うことすら拒絶されてしまった。それから数年経って私たちは大学生になり、家から少し離れた場所に住むようになったことで、そのまま明人くんとの距離ができてしまった。
時間が解決するだろうという思いもむなしく、今も部屋に閉じこもった生活は続き、浩人の通夜や葬儀ですら「行かない」の一点張りだった。
「大丈夫です。ドア越しでもいいので、ちょっとだけ話したいんです」
『亜希ちゃんがそれでいいなら……ごめんね』
「いえ、私の一方的なお願いなので」
電話を切ってすぐに身支度をして家を出る。駅ビルで購入した焼き菓子を片手に電車の座席に腰を掛けてふと窓からの景色を眺めると、彼が落ちたビルが遠くに小さく見える。
(ヒーローは……私のそばにずっといたよね……?)
*
電車を降りて、彼の実家が近づいてくると心臓がドクドクと波打つのがわかる。
何度もお邪魔したことはあるのに、数年ぶりに明人くんと話をするということでどうしても緊張してしまう。
「――あ!」
視線の先の人影に、つい驚いて声を上げてしまう。
彼の実家まであと五分くらいの距離。子供の頃によく三人で遊んだ公園の木陰にあるベンチに座っている人は見慣れない姿をしていたけど、よく知る人物。
「…………明人くん?」
「…………」
一瞬だけこちらを見て、無表情だけどペコっと頭を下げてくれた。昔は童顔で頬がぷっくりとしていて幼い印象だったが、今は骨ばった顔やスウェットから見える手首から痩せこけてしまったことがわかる。
「隣、座ってもいいかな?」
「……うん」
目は合わせてくれないけれど、拒絶されているわけではないようだ。
「今日は……その……買い物?」
家から出られたの、と聞きそうになったが咄嗟に言葉を変えた。
「……コンビニ」
すっと手元のビニール袋を持ち上げ私に見せてくれる。
「そっか」
言葉が続かない。元気かどうか聞くのも今の明人くんにはどうかと思ったし、引きこもっている彼に近況を聞くのも気が引けた。
「……母さんから聞いて」
「え?」
すっと紙パックのジュースを手渡してくれる。
「……ありがとう」
「亜希ちゃんが僕と話したがっているって。母さんが近くにいない方がいいんじゃないかと思って」
小さくて聞き逃してしまいそうな声。でも、今も変わらずに亜希ちゃんと呼んでくれたこと、私を気遣って家から出てきてくれたことが嬉しい。そしてなにより、手渡してくれたジュースは昔私が好きでいつも飲んでいたもので、それを覚えていてくれたことに目頭が少し熱くなる。
「明人くんが私と会ってくれて嬉しいよ」
「……兄さんが、いなくなってくれたから」
「――え?」
その一言で、すべてを悟った。彼が心を閉ざしたのは浩人のせいだ。
第7話 最後に見た世界
いなくなってくれた、悲しくも彼の安堵すら感じる言葉。
十年もの長い期間、彼は心を閉ざし、たった一人狭い部屋で過ごしてきた。
――友達にいじめられたの?
――授業についていけなくて悩んでいるのなら教えるよ?
――部活がつらいなら辞めてもいいんだよ?
そんな私と浩人の言葉に、明人くんは耳をふさいでいた。今になってその理由がわかる。彼が殻に閉じこもってしまった原因はもっと近くにあったのだ。
本当であれば、心のよりどころになるべき家族が、兄である浩人が彼を長年苦しめていたんだ。
「明人くん……ずっと気づいてあげられなくてごめん」
彼の大切な時間を、人生を奪ってしまった。ごく普通に、友達と楽しい学校生活を送って、社会に出てからもきっと気遣いのできる優しい彼ならみんなから愛されて充実した人生を送っていけるはずだった。
「……亜希ちゃんもようやく気付いたんだ」
呆れたような、皮肉のような言葉。それに小さく頷いて答える。
「明人くんは浩人にずっと苦しめられていたんだね」
「……うん」
眩しそうに目を細めながら青空を見上げ、彼は言葉を続ける。
「昔は憧れてたんだけどな。浩人はすごい、浩人を見習え、浩人だったらできるのにって比べられるようになって、最初こそ兄さんみたいに頑張ろうって思っていたんだけど……」
「うん」
「兄さんに宿題を教えてもらおうと部屋に行ったときに言われたんだ」
「……浩人はなんて?」
「俺には教えてくれる兄はいなかったから明人は楽でいいよな、って。その言葉でわかったんだ、僕は出来損ないなんだって。どんなに頑張っても兄さんみたいにはなれなかった」
「そんなことない! 明人くんには明人くんの良さがあるじゃない。浩人になろうとしなくていいんだよ」
「――僕自身を見てくれたことなんて一度もないくせに!」
穏やかな明人くんの強い口調に身をこわばらせてしまう。
「亜希ちゃんのこともずっと嫌いだった。浩人が正しい、浩人を頼ればいい、浩人が助けてくれるよって、そればっかり。僕だってずっと一緒にいたのに、いつだって兄さんの名前しか出さなかったじゃないか」
「…………ごめん」
謝罪の言葉以外、何も出てこない。彼の言う通りだ。私は明人くんとも幼馴染なのに、きちんと向き合っていなかった。浩人の弟、ずっとそう思って接していたことに気付かされる。
「三人でいてもいつも孤独だった。兄さんはどんどん遠い存在になるし、亜希ちゃんの目に僕は映っていなかった。家でも学校でも兄さんの名前ばかり出されて比べられて、ずっと兄さんさえいなくなってくれればって……」
孤独、劣等感、だんだんとその気持ちが大きくなって、彼は居場所を失ってしまった。
(お兄ちゃん、亜希ちゃん、僕もできたよ!)
(お兄ちゃん、亜希ちゃん見て! すごいでしょ!)
幼い頃、浩人と私の後ろを追いかけていた明人くんの姿が脳裏に浮かぶ。
可愛らしいお花を見つけた、虫を捕まえた、縄跳びができるようになった。そんなとき、彼は僕を見て、褒めて、って必死で訴えかけてきてくれていた。それなのに、私は前を走る浩人のことしか見ていなかった。
明人くんすごいね、その一言をかけてあげていたら彼の心を救えていたのかもしれない。
「できない僕が悪いんだ。兄さんはよく言ってたよ、なんでできないのかわからない、簡単だろって。兄さんにとっては簡単なことが僕は何もできないんだ」
投げやりにそうつぶやく彼にどんな言葉をかければいいのだろう。どうしたら彼を救えるのだろう。きっと彼は私からの慰めの言葉なんて求めていない。こうなる前に気付くべきだった。気付けるタイミングはいくらでもあったのに。
「私は……大切なものをたくさん見逃してきたんだね」
都合のいい部分しか見てこなかった自分自身に腹が立つ。後悔しても遅すぎる。彼の長年の苦しみと悲痛な思いを知って涙が止まらなくなる。
「……みんなそんなもんだよ」
「ごめん、ごめんね。ずっと……ごめん」
「もういいよ」
明人くんは私の涙が止まるまでずっと隣にいてくれた。
少し日が傾いてきたところで、私たちは公園を後にして浩人と明人くんの実家にゆっくりと向かっていった。
*
ご両親にご挨拶を済ませ、浩人との思い出に浸りたいからと部屋に入りたいと申し出た。
ここで何か事件の真相が見つかるとは思っていない。でも、今なら浩人が何を思って日々を過ごしていたのか、以前よりも理解できる気がした。
そして一度深呼吸をしてドアに手をかける。
(変わらないな……)
浩人が高校を卒業するまで過ごしていた部屋。子供用の学習机と教科書やたくさんの参考書が並んだ本棚、それとベッドがあるだけでちょっと殺風景。でも、それが勉強熱心だった浩人らしい。何度も遊びに来たことがある私にとっても懐かしさを感じる。
「ちょっと埃っぽいでしょ? あの子、社会人になってからは夏休みとお正月くらいしか帰ってこなかったから、普段はあまり掃除してなくて」
お茶を持ってきてくれた浩人のお母さんがちょっと申し訳なさそうに言う。
「いえ、こんなことになるのなら、一緒に実家に帰ろうって私からも言えばよかったんですけど……」
「あ、でもね、亡くなる三日前に平日だったんだけど一度帰ってきたのよ。部屋にあった何かを取りに来たんだと思うけど、なんだか最後に会いに来てくれたんじゃないかって思っちゃって……」
「浩人が来たんですか?」
「そう、珍しいでしょ。あ、私が長居していたらお邪魔よね。ゆっくりしていってね」
目元にうっすら涙が浮かんだのが見えた。それを隠すように浩人のお母さんは部屋を後にした。
日々の出来事は私に逐一報告してくれた浩人が、帰省したことは一言も教えてくれなかった。私の実家もご近所だからいつもなら声をかけてくれるのに。大した用事ではなかったからいちいち言わなかったのだろうか。
彼のお母さんは「もし自殺なら遺書があるかもしれないから一通り探してみたんだけど、何も見つからなかった」と言っていたが、見逃している彼の死の手掛かりがあるかもしれない。
浩人の許可もなく机や押し入れを開けるのは忍びないけれど、私はどうしても知りたい。
*
三十分ほど目につくところを探してみたけれど、これといった手掛かりは見つからない。そもそも実家に残された物は少ないから、本当にここには何も残されていないのかもしれない。
(何か残っているのならアパートの方……かな……)
そう思いながらふと本棚を見ると、一冊の本が目に留まる。
『世界の偉人大全』、浩人が中学生になって最初の誕生日にお父さんからプレゼントされたもので、いつも目を輝かせながら読んでいたのを覚えている。
(俺たちとそんなに変わらない年齢で活躍してた人たちが大勢いるんだよ! すごいよな、俺もいつか本に名前が載るような英雄になりたいな!)
毎日大切に持ち歩いていたその本は、当時の彼の宝物だった。思い出に傷をつけないようにそっと手に取ると、ページの間に少し日焼けした古い紙が挟まっている。丁寧に開いてみると、それは原稿用紙のようだ。
(これ……浩人の自分未来史だ)
うっすらと記憶の片隅に残っていた『自分未来史』の存在。中学二年生の頃だったろうか、夏休みの宿題で将来の自分に思いを馳せて作文にしてくるという宿題があった。
みんなが部活での活躍や有名な進学校に入学すること、将来なりたい職業を書いているなか、浩人は歴史上の人物が後世の人々のために成し遂げたことに感銘を受けて、自分も世のため人のためになりたい、そのために努力し続けたいということを書き綴っていて、地域の作文コンクールでも金賞を受賞していて、表彰式でとても誇らしそうにしていたことを覚えている。
堂々とした字で書かれた作文、そこには家族や友人、先生方への感謝の言葉が並んでいる。そしてその大切な人たちの未来のために活躍したいという意気込みがひしひしと伝わってくる。
この時の浩人は自己顕示欲の塊なんかじゃない。ヒーローに憧れた純粋でまっすぐな少年だ。私の記憶の中の浩人は確かに存在していた。
『未来の僕へ。ここに書かれた通りに人生を歩めていますか?』
原稿用紙の最後の一文、中学二年生の浩人の問いに大人になった浩人はどう答えるの?
最後に見た世界は輝いて見えた?
最終話 エピローグ
自分未来史、これは浩人の大切な思い出。
優しくて、正義感に溢れていて、努力を惜しまない人。そんな私が憧れた浩人が、この一枚に詰まっている。
でも、達也くんや山下さん、桃花さん、そして明人くんから聞いた話を思い返すと、浩人の行いは自分本位でたくさんの人の人生を狂わせてしまい、決して正しい道だけを歩んできたわけではない。浩人のことを知れば知るほど理想が崩れ、自分の見てきた世界が信じられなくなっていく。
(もう……やめよう)
綺麗な思い出をこれ以上汚したくない。せめて私の心の中では、中学二年生の浩人が思い描いた英雄のままでいたっていいよね。
丁寧にたたみなおした原稿用紙を本に挟み込み、元通りにしまっておこう、そう思ったときだった。本の表紙の裏に太いフェルトペンで書き込まれた文字に気が付いた。
原稿用紙の幼い子供の文字とは少し違う。見覚えのある大人になってからの浩人の字。
ドクン、と大きく心臓が脈打つ。
…………見つけて……しまった。
*
空が青い。
午前中の仕事を一通り終え、非常階段から屋上にのぼって空を仰ぐ。いつだって晴れた日の空は好きだが、今日ほど澄んで見えた日はなかった気がする。
成績優秀、スポーツ万能。社会に出てからも期待され、それに応え続けてきた。俺に憧れる人だって少なくはないだろうし、隣にはいつも「すごいね」って褒めてくれる恋人だっている。
ほしいものはすべて手に入れてきたし、願ったこともすべて叶えてきた。羨まれるばかりの人生。
(でも……)
大人になるにつれて人生はつまらないと感じるようになっていた。新しいことを始めたときのワクワク感、何かを成し遂げたときの達成感、そんな感情も久しく抱いていない。
はたから見ると順調すぎる人生を歩んでいると思う。ただ、俺はこのままでは満足ができなくなってしまっている。どれだけ称賛されても満たされない。
そんなとき、ふと自分未来史の宿題が出たときの先生の言葉が頭に浮かだ。
「みなさんには『ああ、いい人生だった』と最後に思えるような人生を歩んでもらいたいと思っています」
いい人生とは何だろう。平穏に過ごす毎日が俺にとってのいい人生ではないということだけはわかる。みんなの記憶に残り続けるような、そんな人生を望んでいる。
(……その答えがやっと見つかったよ)
『中学二年生の浩人へ
思い描いていた通り未来は明るい。
みんなが俺を認め、称賛してくれている。
ここまで努力をし続けた自分に感謝をしたい。
ただ、順調すぎる人生はつまらない。
活躍するのが当たり前になってしまうからだ。
いい人生、それを実感する方法をずっと探していた。
そしてようやく見つけたんだ。
「英雄ほど若くして亡くなってしまう」
この答えにたどり着いたとき、世界が輝いて見えたよ。
俺は突然の死を遂げる。
多くの人に惜しまれながら、人生を終えるんだ。
その衝撃はいつまでも大勢の記憶に残る。
この上ない最高のエンディングだろ?
二十七歳の浩人より』
今の世の中、剣豪も革命家も必要とされていない。憧れる政治家も科学者も存在しない。じゃあ俺の存在を認めさせるにはどうすればいいか、それをずっと考えていた。そして思い出したよ、昔大切にしていた本の存在を。
答えは簡単だ、英雄と呼ばれる人は自らの命を懸けていたんだ。惜しむ人がいるからこそ、後世に語り継がれていく。
それなら今が絶好のタイミングだ。これからを期待されているときに、俺を必要としている人たちを残して命を落としてしまうという悲劇が俺にこそぴったりだ。
みんなを悲しませてしまうことは忍びないが、いつまでも綺麗な思い出として記憶に残り続けるだろう。
空が青い。
今日この日をずっとずっと待ち望んでいた。
「いい人生だったよ」
人生最大の幸福を感じながら、大きな一歩を踏み出した。
*
中学二年生の浩人に送られたメッセージは、私の胸の奥にそっとしまい込んだ。
浩人は自分の目に映るちっぽけな世界で過ごしていた。
そこは自己顕示欲に支配されていて、外の世界が見えない閉鎖された空間。その世界では英雄だったのかもしれない。
そんな世界に追いやって、死を選ばせてしまったのはきっと私。
浩人の傲りや間違いに気付けたのなら、そしてそれを伝えられたのなら、きっと彼にはもっと広い世界が見えていて、幼い頃に思い描いた英雄に少しは近づけただろう。
――あんな人通りの多い場所で巻き添えになった通行人がいないのが奇跡。
――これ目撃者はトラウマでしょ。
――誰にも相手にされないから死ぬときくらい注目されたかったんじゃない?
――後始末する人の身になれよ。迷惑かけずに一人で死ね。
ビルの向かいにあるマンションの住人が日課で撮影していた空の写真。そこにフェンスを乗り越える浩人が写っていて、その写真がインターネット上のとある掲示板に掲載されたことで、浩人の死は自殺だったと世間が知ることになった。
幸せを感じながらこの世を去った浩人。周囲からの恨みや冷酷な世間の声は届かない方がいい。
だから亡くなってしまった今はもう、彼はちっぽけな世界にい続けてほしいと願っている。
「亜希ちゃん、僕がいるから大丈夫だよ」
そう言って優しく手を引いてくれた私の英雄は、もうどこにもいない。
ー完ー