『気鬱の十兵衛』
伊賀谷著
歴史・時代
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不世出の天才剣士、柳生十兵衛三厳。一族の期待を一身に背負い、柳生新陰流を継ぐべきであった男は突然致仕をして隠棲した。その原因が鬱病によるものだったとしたら。一人の男の挫折から再生への物語。第1話 柳生家の朝
慶長十二年(一六〇七)。柳生十兵衛三厳は生まれた。
前年に祖父であり、剣聖と謳われた柳生新陰流の開祖石舟斎が没している。そのため、十兵衛は石舟斎の生まれ変わりとして一族の者たちにもてはやされた。
一族の期待に応えるように、十兵衛は幼い頃から麒麟児と呼ばれるにふさわしい剣の才を如何なく発揮し、成長していった。
そして、寛永二年(一六二五)。一介の旗本であった十兵衛の父、柳生宗矩が将軍家兵法指南役となって数年が過ぎている。十兵衛は将軍、、徳川家光の小姓を勤めつつ、宗矩に従って家光の剣術稽古にも就いていた。
十兵衛は十九歳。すでに剣人と呼ぶにふさわしい偉丈夫であった。天下が泰平になろうとする今において、戦国の世の剣豪がごとき野性味を全身から放っている。
冬の朝。雲の向こうで太陽が必死に温もりを送ろうとしているが、陽射しは大地にまで届いていない。
江戸城に近い愛宕下町にある柳生家の屋敷は少し慌ただしかった。家光の剣術指南を行う日である。
すでに宗矩は屋敷の外で白い息を吐く家臣たちに囲まれて登城の支度はできていた。銀煤竹の半裃を着た静かな佇まいの中にも、近寄れば肌に切傷ができるような鋭い気配が漂っている。
十兵衛は苛立ちながら門の外から屋敷内をうかがっている。藍色の羽織袴を身に着けていた。
「遅い。宗冬は何をしているのだ」
十兵衛には弟が二人いる。実弟である宗冬と、妾腹の友矩であった。二人は同い年の十三歳、友矩の方が早くに生まれているので長弟、宗冬が次弟になる。
本日の指南には十兵衛と宗冬がついて行くことになっていた。宗冬がまだ屋敷から出てこない。
「来ぬのなら行くぞ」
宗矩は昏い瞳を細めた。
「申し訳ござりませぬ。見て参ります」
十兵衛は頭を下げてから、屋敷の中へ駆けて行った。
宗冬の部屋に向かって、大きな足音を立てつつ十兵衛は廊下を歩いた。
「入るぞ」
襖を開けると、母であるおりんが座っていた。
「大きな音を立てて歩いて。十兵衛、お行儀が悪いですよ」
穏やかな声とともにおりんが振り向いた。その奥で横になった宗冬が布団にくるまっていた。
「宗冬、登城するぞ。父上もお待ちだ」
丸まった布団は動かない。
「おい、宗冬」
布団が少し動く。藤黄の袴がはみ出た。登城の準備はしていたようだ。
「頭が痛いのです。今日は休みます」
「将軍家光さまへの剣術指南の日だぞ。我が柳生家は将軍家兵法指南役だ。頭が痛いくらいで休むことができると思っているのか」
十兵衛が声を荒げると、宗冬はますます布団にくるまる。
「兄上と父上で行ってください」
宗冬の声はさらにくぐもった。
「宗冬は幼き頃より体が弱いのです。無理をさせずともよいでしょう」
おりんが優しく宗冬の布団に手を置いた。
「母上はお甘い」
「まあ、怖い」
わざと驚いたように大きく開けた口を袖で隠した。
おりんは宗冬には甘い。その反面、十兵衛には柳生家嫡男にふさわしい振る舞いを厳しく求めてくる。十兵衛はそれが腹立たしかったが、おりんが己一人に期待を寄せていることが誇らしいという気持ちもあった。
「殿と十兵衛が行けばいいことでしょう」
十兵衛は寄り添い合ったおりんと宗冬を見下ろしながら、怒りによる震えに耐えた。
「宗冬。おれが城から戻ったら稽古だぞ。それまでに頭の痛みを治しておけ」
言い捨てると、十兵衛は宗冬の部屋をあとにした。
門から出た十兵衛は宗矩に頭を下げた。
「申し訳ござりませぬ。宗冬は体が優れぬようで休みたいと申しております」
宗矩はわずかに顎をあげて思案している様子であったが、すぐに口を開いた。
「十兵衛、行くぞ」
「はい」
江戸城西ノ丸にある兵法稽古場に十兵衛と宗矩は控えていた。
しばらくすると家光が小姓を連れて現れた。家光は鉢巻を締め、襷を掛け、股立ちを高くとっている。
十兵衛は家光の足元に目をやると、革足袋をつけていた。
稽古場の床は冷たい。だが、十兵衛は素足である。
家光は十兵衛より三つ年上の二十二歳。色白で顔はふっくらしている。
「宗矩、本日は何をする」
勝気のある高い声であった。
「まずは燕飛の太刀の型稽古から始めましょう」
宗矩は柔らかい声音を発した。
「また型稽古からか」
家光は顔をしかめて苦笑いをする。
——当たり前だ。
十兵衛は歯ぎしりをこらえた。
柳生新陰流の稽古は手の内、足さばきなどの基本動作を叩き込まれてから、初めて型稽古に入ることができる。十兵衛から見たら家光は基本動作すら極めているにはほど遠い。にも関わらず、燕飛の太刀など秘奥の型稽古を許可されているのだ。
しかも稽古場の床が冷たいから革足袋をつけるとは。
型稽古は十兵衛が打太刀をを執り、宗矩が最後に勝ちを制する使太刀を執る。
二人が一通り手本を見せたあと、家光が木剣を持って宗矩に代わって使太刀となる。
家光に少しでも悪いところがあると、宗矩は十兵衛の方に歩み寄って叱咤した。そして十兵衛の拳や腕を木剣で容赦なく打ちつける。
家光は己が叱られているということが分かっているのか。
十兵衛は黙って耐えた。
宗矩からすれば十兵衛への修行でもあるのだろう。
それにしても、家光に対する宗矩の優しい態度。十兵衛は幼き頃から家では見たことがない。
十兵衛が必死で手に入れようとしているものを、家光はいともたやすく手にしていた。
第2話 宗矩の密命
――またか。
十兵衛の腹を内側から刺す痛みが襲い始めた。
腹下しの波が押し寄せて来たのだ。
近頃よくあることで、しばらくすれば波は去り、稽古の間は我慢できるはずだ。
「宗矩。打ち合いがしたいのう」
家光の顔は上気して赤みがかっていた。
「では、十兵衛めにお相手をさせましょう」
宗矩がわずかに十兵衛に顔を向ける。
「いや、おまえにしよう」
家光は壁際に控える小姓の一人に木剣の先を向けた。
指名された小姓は驚いて立ち上がった。万が一のために襷掛けなどの稽古の準備はできている。
宗矩は家光の要求を承諾し、家光と小姓の打ち合い稽古が始まった。
打ち合う二人は蟇肌竹刀を手にしていた。蟇肌竹刀とは蟇肌状にした革袋に割竹を入れて作った竹刀である。これなら打たれても怪我をすることはない。
「いやあ!」
家光は小姓に一方的に容赦なく打ち込む。当然であった。小姓が家光に傷をつけるわけにはいかない。
「はあ!」
家光に突き飛ばされた小姓が床に倒れる。
さらに、家光は小姓の腰をしたたかに蹴った。
「どうした。もう終わりか」
家光が息を荒げる。その目に愉悦の色が見て取れた。
十兵衛はわずかに腰を浮かせたが、宗矩の手に膝を押さえられて制止した。
「勝負あり。それまでにござる」
宗矩が稽古を止めた。
「お見事です。家光さまはお強くなっておられます」
「そうか」
家光は満足げに笑った。
「今日はここまでかのう。またたのむぞ、宗矩」
宗矩は頭を下げた。
十兵衛はできることなら音を立てて舌打ちをしてやりたかった。
その時――。
また腹下しの波が押し寄せて来た。これまでになく強烈だった。我慢ができそうもない。
――厠へ。
まだ家光と宗矩は話をしている。ここで座を立つのはまずい。
腹の中で液状のものが音を立てて渦を巻いている。
焦るほどに心臓が早鐘のごとく鳴り始めた。
全身にじっとりと冷や汗が出て来た。
――いつもと違う。
体の異変を抑えることができない。
じっとしていられなかった。声をあげて今すぐ稽古場から出て厠へ走って行きたい。
だが、それは許されない。
心の中が葛藤で満たされた時、ついに吐き気まで催してきた。目の前が暗くなって、景色がぐるりと反転し始めた。
呼吸がしづらくなって喘ぐ。
――おれは死ぬのではないか。
遠くの方から声がする。
「――十兵衛」
宗矩がこちらを見ていた。
「今日の稽古は終わりだ」
十兵衛は立ち上がって急ぎ足で宗矩の前を通り過ぎて稽古場の出口に向かう。
「どうした」
宗矩は珍しく少し驚いた声をあげた。
「申し訳ござりませぬ。厠へ急ぎとうございます」
十兵衛は声をふり絞った。
「十兵衛、家光さまが――」
「ははは、よいよい。我慢をしていたのだな。厠の場所は分かるな」
廊下を早足で歩く十兵衛の背後から宗矩と家光の声が聞こえていた。
下城した十兵衛と宗矩は、宗矩の部屋で対座していた。
「将軍への兵法指南中に中座するとはどういうつもりだ」
宗矩は腕を組んで十兵衛を見据えた。
「申し訳ござりませぬ。今日の腹下しはこれまでになく辛いものでした」
「腹下しがなんだ。戦場においては刀傷でさえ気合で治すものだ」
十兵衛は首を深く垂れた。
「十兵衛」
宗矩の呼びかけに、十兵衛は反射的に顔をあげた。
「柳生家を継ぐのはおまえなのだぞ」
「分かっております」
「家光さまに戦場でのご覚悟をお示しするのも、我ら兵法指南役のお役目と心得よ」
「はい」
「ところで」
宗矩は煙管盆を引き寄せて、流れるような仕草で煙管に煙草を詰めて火をつける。目を瞑って大きく煙管を吸い、鼻と口から煙を吐き出した。
「近頃、葭原で辻斬りが立て続けにあったことは知っていよう」
「耳にはしております。旗本奴の仕業でしょうか」
戦国の遺風が強く残っているこの時代。傾いた旗本や御家人で、徒党を組んで傍若無人な振舞いをする者たちを旗本奴と呼んだ。
葭原は数年前に開かれて大いに栄え始めている遊郭であった。例にもれず十兵衛も何度か訪れたことがある。
「十兵衛。辻斬りを止めよ」
「止める、とは。その者たちを斬れということですか。それは構いませぬが」
十兵衛の目に獰猛な光が灯った。柳生新陰流を実戦で試す機会はそう滅多にあるものではない。十兵衛の心は踊った。
宗矩はもう一度煙管を吸う。
ふと、十兵衛の心に何かが引っかかった。
「ですが、なぜ柳生がやらねばならぬのですか。町方のいざこざであれば、いずれ奉行所が動きましょう」
宗矩は今度はゆっくりと長く煙を吐き尽くした。
「奉行所、いや公儀が動くまえに片付けたい」
「何かをお隠しですか」
十兵衛は眉間をかたくした。
「我らは将軍家兵法指南役だ」
「まさか――」
十兵衛は宗矩の顔を見据えた。宗矩の表情からは相変わらず心が読めない。
「まだ竹は真っ直ぐに伸びてもらわねばならぬ」
宗矩が煙管の雁首で煙管盆を叩いて吸い殻を落とした。その音が、十兵衛にはこれ以上言葉を口にすることを禁ずる合図に聞こえた。
第3話 葭原の辻斬り
十兵衛は山野堀に沿った土手の上に生えた柳の木の陰に立っていた。藍色の着物に羽織を身に着け、頭には編笠を乗せている。
振り向けば土手を進んだ先に昼間のように輝く一画がある。それが葭原遊郭であった。
見上げれば柳の葉の隙間に煙月がある。
夜であったが十兵衛は土手を歩く人々の顔まで十分に判別することができた。
――父上、おれにどうしろと。
十兵衛は宗矩の意図を察していた。故に辻斬りが現れればすぐに分かる。
山野堀をこちらに向かって来る一艘の猪牙舟が十兵衛の目に入った。
舟から四人の男が降りて土手に上がってきた。先頭に立つ一人が提灯を持っている。
四人とも暗い色の羽織袴で身なりが良い。皆、頭巾で顔を隠していた。道行く人はどこぞの身分の高い武士だと思うであろう。
だが十兵衛には分かっていた。
日頃の稽古で体の使い方をつぶさに見ている。
三人の男に守られる形で真ん中を歩くのは、誰あろう徳川家光であった。
「まだ竹は真っ直ぐに伸びてもらわねばならぬ」
宗矩が発した言葉。家光の幼名は竹千代である。将軍家光が道を違えてはならない。いや、違えさせないように導くのが将軍家兵法指南役の役目。
将軍が辻斬りなどあってはならぬことであった。公儀に知られる分けにはいかない。ならば、お止めすることができるのは柳生のみ。
――まずい。
このような時に限って、腹の中から痛みが湧いてきた。腹下しになる気配。
――どうにでもなればよい。
十兵衛は木の陰から出て、四人の行く手を塞いだ。
「何者だ。どけ」
提灯を持つ男が鋭い声をあげた。
十兵衛は編笠を外した。
「じゅっ、じゅ」
真ん中に立つ男がかん高い声をあげた。家光の声に間違いない。そして十兵衛であることに気づいたようだ。
十兵衛は滑るように進み出る。抜く手も見せずに提灯を上下二つに切り裂いた。
束の間、辺りの闇が濃くなる。
「ごめん」
納刀した十兵衛はすでに家光の懐に入って体を沈めている。そのまま手を家光の首と股にかけて体を肩に担ぎあげた。
「あ!」
家光が声をあげた時には、十兵衛は家光を土手の下に向かって放り投げていた。家光は土手を転がって水音を立てて堀に落ちて行った。
「上様!」
二人の男が転がるように土手を駆け降りる。そのまま声をあげながら堀に飛び込む音が聞こえた。
残った一人と十兵衛は向かい合った。
「柳生新陰流とお見受けいたす」
頭巾の中からでも硬質な声がはっきりと聞こえた。木賊色の羽織袴を着た体は十兵衛と同じように屈強であった。頭巾から覗く眼差しからは壮絶な気配が漂って来る。
男は美しい所作で白刃を抜いた。
十兵衛も応えるように、いや、獰猛な気持ちを抑えることができずに刀を抜き放つ。
頭巾の男は中段に構えた。体は半身。剣先から十兵衛を見据えている。かなりの使い手だと十兵衛には分かる。
――これは。
どことない既視感。男は足を八の字に開き、刀の柄尻は腹から少し離している。
――清眼の構え。一刀流か。
将軍家兵法指南役には二流派がある。一つは柳生新陰流。もう一つが小野忠明の指南する一刀流であった。男は小野の門下であろうか。
二人の間合いはすでに二間(約三・六メートル)。
十兵衛は刀を下段に下げたままにした。いわゆる無形の位。相手の動きにしたがって自在に動く。それが柳生新陰流の真髄。
一颯の風が吹き、柳の葉擦れが聞こえた。
頭巾の男が斬り込んできた。
十兵衛は夜気を焼いて振り下ろされる白刃に背を向ける。刀を左肩に背負って頭巾の一刀を受けた。
燕飛の太刀の浦波と呼ばれる動きの応用。
そのまま十兵衛は右足を前に出しつつ体の正面を男に向け、背中から地を擦るように円を描いて刀を斬りあげた。
男の頭巾が裂ける。
とっさに男は裂けた左頬を手で押さえて退いた。指の隙間からわずかに血が垂れている。
「頭巾を狙った。ここで命を散らすこともなかろう。去れ」
男は頭巾の中から十兵衛を睨んだまま闇の中に消えて行った。
土手の下の堀の方からはもう声はしない。家光たちは舟で帰ったのだろう。
しばらく十兵衛は闇夜の中に立ち尽くしていた。
「ふふふ」
肩を震わせた。次第に大声をあげて笑った。
いつの間にか腹の痛みは消えていた。
「十兵衛は上様の道を正しましたぞ。父上のお望み通りに。柳生家のために」
月だけが十兵衛の哄笑を黙って聞いていた。
柳生家の屋敷に戻った十兵衛は葭原での顛末を宗矩に伝えた。
聞き終えた宗矩は瞑っていた目を開く。
「このたわけが」
十兵衛は畳に額を擦りつけんとばかりに平伏した。
「申し訳ござりませぬ。ですがあの場合は仕方なく」
「その場で腹を切ってでもお止めするのが兵法指南役、いや、忠臣というものである」
「な……」
十兵衛は言葉を失った。
「しかも一刀流の剣士をみすみす逃がすとは。必ずや柳生家の禍根となろう」
宗矩の言う通りかもしれない。
だが十兵衛の喉の奥から熱いものがこみ上げてきた。
「この十兵衛が腹を切ったら柳生家をいかがするおつもりか」
「おまえがいなくとも友矩と宗冬がいる」
十兵衛は顔をあげて宗矩を睨みつけた。
「気の迷いで剣の腕に驕っただけの主君に対して命を捨てて諌める。それが柳生の勤めなのですか」
「口を慎め」
「柳生を守るための犠牲になど、おれはなりたくない」
「十兵衛!」
宗矩の小さな瞳が十兵衛の目を射抜く。
「おれをお斬りなさるか。されば、たとえ父上でも斬りますぞ」
宗矩は口を開かない。十兵衛は引きつった笑みを浮かべた。
「父上は……。この十兵衛に勝つことができますか」
葭原の一件から数日が過ぎた。
家光からは何も言ってこない。怪我や病気になったという話も聞かない。
さらには宗矩も何事もなかったかのように辻斬りの件は口にしなくなった。
家光の剣術指南のために宗矩と十兵衛が登城する日が訪れた。
その時、異変が起きた――。