• 『92‘ナゴヤ・アンダー・グラウンド』

  • 栗林 元
    青春

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    風俗や水商売専門の広告会社アドプランニング遊。未払い広告費回収を担当する通称「強行班」と呼ばれる一人チーム。それが久利だ。バブルが弾けた92年、事件を追って名古屋の夜をチンピラ営業マンが走る!

第1話 「世界で一番熱い夏」 (1992年夏)(前編)

「社長はまだ戻っておりません。日を改めてまた来てくれって言われてます」
 カウンターに立った事務の男が、もう勘弁してくれよという表情で、そう繰り返した。
 額に汗が浮かんでいるのは、暑さのせいだけでもないだろう。
「困りましたねえ。今日がお支払い日でしょう。うちは本来、先月いただく予定だったんですよ、御社の広告費」
 久利は、困ったような表情を作って言った。その隣では後輩社員の山村が唇をかみしめて立っている。
 名古屋市中区錦三丁目の高級レストラン・ビストロ・ルビーの運営会社、有限会社タチバナの事務室だった。四階建てビルの一階と二階がルビーの店舗で三階が従業員の控室、そして四階がこの事務室なのだ。
 十畳ほどの小さな事務室で、入り口のカウンターの向こうには四台の事務机が島を作っていた。そこに座る女事務員が終業の準備をしながら、薄ら笑いを浮かべて久利達を見ている。出入り業者を見下す中小企業の社員によくいるタイプだ。
 タバコのヤニで茶色く曇った窓ガラスの外には日没間近の薄暮の空が広がり、街の随所でともり始めたネオンサインの光が涙越しに見ているかのように滲んで見えた。この涙は、担当・山村のものに違いない。
 今日は月末の支払日で、出入りの業者が次々と集金を済ませて帰っていく中、久利の勤務先・アドプランニング遊の扱った求人広告費の小切手だけ用意されていなかったのだのだ。
 実は先月の支払日も、「弊社の〆の関係で来月です」という理由で集金できなかった。
 壁に掛かった予定表には締め日も記されていて、先月の時点でも営業担当の山村が注意深ければ、それが嘘だということはわかるはずだ。
 山村によればビストロ・ルビーを経営する有限会社タチバナの社長は、求人広告への電話が一本もなかったという理由で、広告費を払いたくないのだという。
 間違いなく嫌がらせである。
 事務の男は苦笑いをしながら、
「社長から、来月までには、」と言いかけた。
「他社さんにはお支払いしてるじゃないですか!」と久利は部屋中に響く大声でその言葉を遮った。
 男はびっくりして固まった。
「それとも私どもの求人広告費用なんて踏み倒してもいいと思ってるんですか?
 だとしたらちょっと心外だなあ」と久利。
 言葉は穏やかだがその音量は怒声と呼ぶのがふさわしく、女事務員も机の前で固まっていた。
 紺ブレザーにチノパンツという、当世の広告営業の「制服」を着ているものの、その口調は、広告業界マンガ「気まぐれコンセプト」というより東映「仁義なき戦い」の方が近かった。
 隣に立つ山村の膝が震えだしたのがわかる。
 彼は昨年入社したばかりの後輩だ。気の弱さを絵に描いたような男で、一張羅の撚れたビジネススーツ姿は、三十過ぎた信金勤めのサラリーマンに見えた。
 彼もまた「気まぐれコンセプト」の描く軽やかでおしゃれな広告マンのイメージとは程遠い。
 久利はその内面、山村はその外見が世間がイメージする広告代理店のイメージを裏切っていたのだった。
 久利の勤務先、アドプランニング遊では、飲食業など水商売(社内では「さんずい」という隠語で呼ぶ)のお客が多く、経営的にも貧弱で気づかぬうちに閉店して消えている店も少なくない。
 そのため、原則、前金取引なのだが、山村のような新人営業マンはお客の勢いに押されて後金で請けたりする場合がままある。
 その結果が、広告結果に対する不満からの支払い拒否などにつながるのだ。
 言うまでもないことだが、結果にかかわらず、新聞や求人誌などの媒体に「掲載」することに料金が発生する。社長の気持ちには一片の理もない。
 そして毎月の回収会議の席上で、山村はリアルに涙を流しているのだった。
「社長さん、本当に今日は来られないんですか?」と山村が震える声で聞いた。
「今日はこちらには来ませんので」と事務の男がきっぱりと言った。その顔は「大声程度ではびびらんぜ」と虚勢を張っているようだ。根はヤンキーのなのだろう。
 困ったなという表情で山村が久利の表情を盗み見た。
「では、また日を改めますので、それまでに必ずお金をご用意しておいてくださいよ」と久利は引き下がった。
 山村は、ここから出られると思って少しほっとした表情だ。店の男の表情にも安堵の色が浮かんでいた。

エレベーターに乗ると、1階のボタンを押そうとした山村に、
「地下!」と久利が言った。
 山村は怪訝そうにB1のボタンを押した。
 地下一階は駐車場になっている。その一角がスタッフ用になっている。
「社長は何乗ってるの」と久利。
「ベンツです。真っ白の。今はないですね」と山村が答えた。
「居留守じゃないわけか」と久利は確認するように呟いた。
「久利さん、用心深いんですね」
「伊達に強行班なんて呼ばれてねえよ」と久利は苦笑い。
 二人は外に出ると駐車場への入り口が見える向かいの喫茶店に入った。
 名古屋市中心部は戦後の焼け跡からの区画整理で、碁盤目のように区切られている。ここ錦三丁目も同様で、一方通行の車線が交差するように街を区切っていた。そこをタクシーが列を作り、のろのろと走っている。
 店へ出勤するホステスやマスター達、定時で仕事を切り上げて街へ繰り出してきたサラリーマン達が乗っているのだ。
 ネオンの光が強くなり、空は薄暮だが街はもう夜であった。店へ向かうホステス嬢や呼び込みの兄ちゃん達が目立ち始めた。
 喫茶店の窓際に座りコーヒーを頼むと入り口を見張る。
「社長、来ますかね」と言う山村に、
「確か携帯電話もってたよな社長」
「ええ、ドコモのムーバだって自慢してました」
「携帯持てるぐらいなら広告費も払えるだろうに。
 今頃、山村帰りましたよ、って店の奴が電話してると思うな」
「持久戦ですね」と山村が呟いた。
 そして、
「だから具体的に再訪問の日時を言わなかったんですね」と言った。
「帰社時間は心配するな。上には遅くなるって言ってあるから。必ず回収させてやる」
 毎月の回収会議で、山村はその未収の多さでいつもやり玉に挙がるのだ。これを回収すれば、案件は目に見えて減る。
 コーヒーを半分ほど飲み終えた時、山村が小さく、「あ、」と言った。
 見ると、白いベンツがゆっくりと地下駐車場に入っていく。
「よし、行くぞ」
 久利は伝票を持って立ち上がった。
 強行班の本領発揮だ。

 エレベーターの脇の階段に身を隠すようにして久利と山村は社長が上がってくるのを待った。
 エレベーターが停まり扉が開くと、携帯電話を耳に当て大声で話しながら社長が出てきた。
 久利は足を忍ばせて社長の背後に近づくと、一緒に事務室に滑り込んだ。そして、
「社長、いつもお世話になってます!」と背後から叫んだ。
 びっくりして振り返る社長。
 迎えに出た事務の男が怒気を含んだ声で、
「日を改めるんじゃなかったのかよ!」と叫んだ。
 久利が右手を挙げると、そこには高そうな万年筆があった。
「これをそこに落としてるのに気づきまして、戻ってきたら偶然社長をお見かけしましてね。
 ちゃんと戻ってこられたじゃないですか」
 久利はそう言うと、にやりと笑って、ブレザーの胸ポケットに万年筆を戻した。
 社長の表情を見て集金は成功したと感じた。

 社へ戻る車の中だ。ハンドルを握る山村が、
「久利先輩は、どこでああいう集金方法を知ったんですか?
 マンガですか?」と聞いた。
 声が明るいのは懸案の回収案件が一つ減った安堵感からだろう。
「マンガって何だよ。モーニングに載ってる”ナニワ金融道”かよ」
「いや、先輩はむしろ”ミナミの帝王”かと」
「なにそれ、新しいマンガ?」
「最近、漫画ゴラクで始まったんです」
 俺たちの常識は所詮マンガなんだなと久利は苦笑いした。
「俺、以前、回収セミナーっての受けてんだよ。社命でね」
「そんなセミナーがあるんですか!」
「貸金業法が厳しくなって、もう最近はないけどな。
 笑っちゃうのが一緒に受けてた連中。どんな奴だと思う?全員サラ金の営業マンなんだよ」
「僕たちサラ金と同類なんですか」と言う山村の声はため息混じりだ。
「ちなみに、今回のは時間差攻撃って手法で、居留守で逃げてる経営者を嵌める、一番穏便な方法だ」
「さ、さすが強行班ですね」
 そう言った山村の驚いたような表情を横目で見ながら、その目が「ヤクザを見る堅気の目線」だと気づいてうんざりした。
 学生の頃、資生堂の「揺れるまなざし」(76年)やサントリーローヤルの「ランボオ」(83年)なんてCMを観て、憧れて飛び込んだ広告業界で、俺はヤクザの様な取り立てをやっている。それも、二行三行の求人広告で。
 名門校に進みながら、受験でも就職でも失敗した負け犬には、絵に描いたようにふさわしいかも知れないと思い至り、苦笑いが浮かんだ。
 皮肉なことに、それが、山村には不適な微笑みに見えているのだが、久利はそれに気づいていないようた。

 山村と別れて社を出た後、久利が向かったのは中区丸の内三丁目にあるスナック・ノンノンだった。錦三(きんさん)とは久屋大通を挟んだ北側で、実はアドプランニング遊と同じ町内である。
 今度は自分の案件の集金であった。
 ノンノンの入るゴールデン・プラザは大通りから二本奥にある東西に走る一方通行の道路に面した雑居ビルだ。 不動産業界ではペンシルビルと呼ばれるような細長い六階建てで、美濃銀行と尾州組(ゼネコン)のビルの隙間に建っている。
 その五階がノンノンだった。まだ開店まで一時間ある。カウンターの前に止まり木椅子が八脚。ボックス席が二つ。小さな店であった。
 カウンターの中ではママの和泉和子とホステスのメグが二人で開店準備中だ。三十代後半の和服の似合う方がママ。ノースリーブのロングドレスで今風に髪を盛っている若い女がメグだった。
 カウンター前に座って、膝の上のアタッシュケースから領収書を出しかけた久利に、
「久利ちゃん、集金少し待って欲しいの」と和泉和子が言った。
「でも、今日いただかないと掲載ストップしちゃいますよ」
 久利の言葉にはルビーの時のような怒気はない。和子ママとは入社以来のお付き合いで、こんなことは初めてだった。むしろ、意外な言葉に戸惑っている。
 ノンノンの入るゴールデン・プラザビルはかつての地元信金が運用する会社の持ち物で、他に第二、第三、第四まで同じ名前のビルがある。それだけにテナントとして入るには厳重な審査があり、このビルに入っている店との取引は安心だというのが業界のもっぱらの噂だった。
「昨日、ちゃんと支払い用の現金用意してチーママのミチコちゃんに渡したのよ。それがね」
 その和子の言葉を受けるようにメグが、
「ミチコさん、連絡取れないのよ。今朝から」
「昨日、ちょっと様子が変だったの。不安そうな感じ。で、午前中に電話かけたけど出ないのよ」
「私も店に来る前にミチコさんち寄ってから来たんだけど。アパートに居ないのよ」とメグ。
「ねえ、久利ちゃん、ミチコ探し出してくれない?
 他への支払いのお金もあるのよ」と和子が泣きついてきた。
 哀願するようなまなざしが色っぽい。さりげなく面を伏せると和服の襟から背中へのラインにうなじのほつれ毛が匂うようななまめかしさだ。
「和泉さんに言われると嫌と言えないじゃないですか」と久利は苦笑い。
 和泉ママは、某大手企業の会長の愛人で、彼の援助でこの店をやっている。
 五年前の入社早々、求人広告の担当としてやってきた久利の、素人っぽい営業ぶりを「可愛い可愛い」と笑いながら、以後ひいきにしてくれた恩もある。
 ママから渡されたメモにはミチコのアパートの住所が書いてあった。
「お金もそうだけど、心配なのよミチコちゃんが、いろいろ複雑だから」と、言葉を切ったママの最後の一言が気になった。

 アドプランニング遊の駐車場から車を出すと、ミチコのアパートのある昭和区へハンドルを切った。
 車は中古のスズキ・マイティボーイで色は黒だ。当時、国産車の中で一番安いという謳い文句で、「金はないけどマイティボーイ」というCMソングが記憶に新しい。
 底辺広告会社の新人が持ち込みで使うにはちょうど良い車だった。営業に使うため、ガソリンは全額会社負担で、これが何よりありがたい。
 桜通りを東に進み、栄のネオンを通り過ぎて車道まで来ると、再びネオン街の灯りが前方の空を染めているのが見えた。
 名古屋駅、栄町と並ぶ名古屋の繁華街、今池だ。特に交差点を囲む大型パチンコ店の灯りは、街路灯が不要なほど明るい。
 こういった街につきもののヤンキー系の人種が運転するガタイのでかいワゴン車や、街を裏から仕切っているヤクザの高級車などが、我が物顔で走っている。共通するのは車体色が真っ黒か真っ白で、顔とも言えるグリルがダースベーダーのように厳ついことか。
 久利の運転する軽自動車などは、虫けらのように扱われている。トヨタ自動車のお膝元である名古屋圏は、厳格な車ヒエラルキーができていて、どんなに金のない若造でも、車には金をかけるのだ。
 春岡を越えたところで左折し、急に車が少なくなる。住宅街なのだ。
 川名公園に面した、川名荘という二階建てのコーポの前で車を停めた。各階三部屋ずつで、ミチコの部屋は二階の端だった。
 階段を上がると部活帰りらしい男子高校生がいた。ミチコの部屋の前で困惑している。
「留守なの?」と聞くと、
「ご家族の方?」と逆に聞き返された。
「勤務先の関係者でね。様子を見に行けって言われて来た訳よ。君は?」
「関悠紀夫っていいます。
 ルイさんの同級生だけど、もう一週間も休んでるので、プリント持参しました」
 聞くと、ルイさんってのはミチコの妹で高校二年生だという。姉妹揃って行方がわからないというのは尋常じゃない。
 隣の部屋のドアがガチャリと開くと、学生風の男の顔が覗いた。そして、
「昨日の夜中に、一騒動ありましたよ」と恐る恐る切り出した。
 男は近くの私大の三年で、昨夜、ゼミの準備をしていた時、その騒動を聞いたのだという。
 会話の内容はわからなかったけど、男の大声と女の怒りの声が異様だった。
 複数のもつれるような足音が階段を降りて、車に乗って去る気配がしたのだという。
「見なかったの?」
「怖くて無理ですよ。触らぬ神に祟りなしってやつで、部屋の中で凍り付いてました」
 そのとき、ブレーキの音がして表の道路にくすんだ緑色のワゴンが停まった。車体の横に、木の葉の擬人化したキャラが描かれている。ウインクしてVサインをしていた。
 ドアが開くと社内に流れていた音楽が大音量で流れ出す。
「あ、あの車ですよ」と学生。
 女が一人、よろめくように降りてくると、車内から男の大声が何か言い、ドアを閉め切らないうちにタイヤを鳴らして走り出した。テールライトを目で追いかけると、公園の角を回って今池方面に走り去って行くのが見えた。
「バカヤロー!」
 車に向けて叫んだ女こそ、ノンノンのチーママ・ミチコだった。
 二階から見下ろしている久利達を見上げると、はあっと大きくため息をついているように見えた。
 ミチコは階段を上がってくると、隣の学生に頭を下げると「ざわつかせてごめんね」と謝罪した。
 悠紀夫には「心配かけてごめんね」と告げて家へ帰らせた。
 部屋の鍵を開けて、久利を部屋上げると、
「ママの指示?」と聞いた。
「ああ、ママ心配してた。俺もね」と久利。
「優しいのね」
「俺の心配は広告費の集金だ」
 ミチコはふんっと笑うと、
「ルイを人質に取られてる」と吐き捨てるように言った。
「人質?」
「ルイ、やばいバイトしてたのよ」
「やばい?」
「デートクラブ」
「高校生だろ?」
「黙ってたのね、きっと。私がもっと見てあげなければならなかったのに」
 名古屋市内をエリアにしたデートクラブだという。街中の電話ボックスにペタペタと張られているカードに記された番号に電話すると、ラブホテルを指定され、そこへデート嬢を派遣してくれるシステムだ。
 クラブはその送迎と仲介をするだけで、実際の「性の売買」はデート嬢の自主性に任されているというのが表向きで、実際には売春斡旋である。
「なんで人質に」
「テレフォンクラブに電話をかけて、クラブを通さずに一本釣りをやってたのよ。それがクラブの逆鱗に触れて、損害賠償せいやって」
 テレフォンクラブ、いわゆるテレクラは、フリーダイヤルの通じる店で、男客はそこに掛かってくる女性の電話を待つ。友達の居ない女性や出会いを求める女性が広告を見てそのダイヤルにかけてくる。言わば「出会い」をビジネスにしたものだ。
 六年ほど前から流行し始め、成田アキラのルポマンガで爆発的にヒットした。後輩の山村もちょくちょく通っているらしい。
「上手いこと考えたな、妹さん」
「何、言ってんのよ」
「いや、マーケティング的には、って意味な」と慌てて言いつくろう久利。
「私がいけなかったんだ、仕事にかまけて」
 ミチコとルイの姉妹は二人で暮らしている。聞くと、両親からの虐待から逃れるためだという。
 親の虐待、夫婦間のDV等、病んだ時代だと世間では言われていたが、単に今まで隠されてたものに日が当たり出しただけかも知れない。
「ねえ、久利ちゃん、助けてくれない。ルイには将来もあるの。警察沙汰に巻き込まれたくないの」
「場所は?」
「しっかり覚えている」
 もう引き返せないなと久利は覚悟を決めた。

 名古屋市中小企業振興会館、通称・吹き上げホールの前で停車した。時刻は21時を回っている。
 乗ってきたマイティボーイは、そのまま若宮大通に路駐してハザードランプを点滅させる。助手席にはミチコが座っている。
 乗る前には「可愛い車ね」と言っていたのだが、ここまで来る間に軽自動車の狭さに閉口したようだ。むっつりと押し黙っている。妹が心配なのだろう。
 ここは片側四車線で中央分離帯はテニスコートほどの幅がある。百メーター道路という異名を持つ。名古屋市を東西に走る大通りで、南北に交わる久屋大通とともに名古屋最大の道だった。追突の心配はあるまい。
 久利は、ホールの前の電話ボックスに飛び込むと、受話器を上げテレフォンカードを挿入した。会社から支給されているカードで、ピンクの文字で「広告ならアドプランニング・遊」と描かれている。一昨年に作られた社の「十周年記念カード」だった。
 呼び出し音の後、
「県警中署です」という女性の声。
「久利と申します。防犯の都倉さんお願いします」と言った。
「お待ちください」とオペレーター。
 待つほどもなく、都倉が出た。
「珍しいな、同窓会でもあるのか」と聞き慣れた声が言った。久利にとっては大学の少林寺拳法部の同期だった。
「ちょっと野暮用でね。教えて欲しいんだ」
 聞きたかったことは、例の木の葉キャラのワゴン車のことだった。
「あれは、エバーグリーンっていう産廃回収会社で、ちょい訳ありだ」
「どんな訳よ?」
「王道会の企業舎弟だ」
「企業舎弟? 例の暴対法の締め付けから逃れるために、構成員のチンピラ達に合法的な仕事をさせるための方便という」
「文藝春秋の記事だとそうなるな」
「じゃ、その車に乗ってる奴は王道会の構成員ってわけか?」
「または準構成員かそれ以下か。まあ無関係じゃないわな。
 何か関わってるのかよ、おまえの仕事に?」
「仕事と言えば仕事だが」と、久利は大まかな事情を話した。
「やんわり脅されてる感じだな」
「今から、乗り込んで、穏便に話を付けて来るんだが、一時間経っても俺から電話がなかったら、ここに電話して欲しいんだ、俺がいるから」と例のデートクラブのフリーダイヤル番号を告げた。
「たまたま俺が夜勤でよかったな」と都倉。
「君にも、いずれお手柄になる件かもよ」
「期待はしてねえよ。まあ怪我には気をつけろよ」
「まだ体は動くから怪我はしねえと思う」
「俺が言ってるのは、怪我をさせるなってことだ」
 以前、チンピラに絡まれて「過剰防衛」で相手を怪我させたことがあったのだ。
 都倉の奔走で不起訴にはなったが、有段者は素手でも武器携行と同じ扱いを受けると痛感したのだった。
「了解」と言って苦笑いすると電話を切った。
 いよいよ敵陣だ。

※この物語はフィクションであり、登場する個人、団体、企業、事件などはすべて架空のものです

第2話 「世界で一番熱い夏」(1992年夏)(後編)

 丸太町の交差点を左折して裏通りに入ると、そのマンションが見えてきた。
 一頃流行した煉瓦風の外装の茶色い壁で、入り口にはブロンズの龍の像が鎮座している。豪奢なムードをこれでもかと演出していて、判りやすい高級車をこれ見よがしに乗り回すような名古屋の成金達に媚びた建物だった。
 特にこの不動産屋の扱うマンションには、一発当てた成金が多く、審査の基準も甘いのかヤクザ関係や風俗営業のオーナーなど、通常は入居を断られるような住人が集まる傾向があり、久利たちの業界でも有名だった。
 マンションの駐車場からエバーグリーンの営業車が出ていくところだった。若い娘を二人、後部座席に乗せている。
 産廃の営業仕事のない夜間は、デート嬢の送迎に活躍しているのであろう。
 ロビーに入ると、管理人室の窓の横に紙が貼ってある。「来月、オートロックの工事が入ります」というお知らせだ。
 築二十年ぐらいのこのマンションも時流には乗ろうと言うことか。とりあえず、今夜はエレベーターまで自由にアプローチできる。
 エレベーターに乗るとミチコは四階を押し、
「角部屋よ」と言った。
「人数は?」
「社長と電話番、そして運転手の三人。後は待機の女の子達」
「どんなタイプ。話が通じるタイプかとか」
「背後をちらつかせて脅すタイプかな」
「なるほどね」
 エレベーターを出て部屋の前に立った。ドアには何の表札もない。
 久利はレンズの死角に回った。
 ミチコがインターホンのボタンを押すと、
「どなた?」とぶっきらぼうな女の声が返ってきた。
「ミチコよ。追加持ってきた」
「どうぞ」という女の声は眠そうだ。
 錠を外す音。
 夜十時を回って深閑と静まりかえった廊下には意外と大きく響いた。
 ドアが開くと、薄いネグリジェの若い女が立っていた。ネグリジェを透かして胸に入れた刺青が見える。下にはパンティしか履いていない。
 女は少し酔っ払った様な声で、
「翔ちゃーん、ミチコさん」と奥へ声を掛けると玄関横の寝室に戻った。
 脱ぎ散らかされ女物の靴が何足も転がっている。その靴を跨ぐようにして、ミチコと一緒に部屋へ入った。
 玄関から続く廊下の奥に、居間と続きになったダイニングキッチンがあった。事務机が向かい合わせに二台置かれている。およそ事務仕事は似合わない涼しげな風貌のイケメンと、頭を青々とそり上げた若い男が座っていた。東映Vシネマに出てきそうだ。襖を隔てた隣室からはテレビゲームの音と女達の話し声が漏れ聞こえてくる。ポケベル持たせる待機が主流の今、部屋待機とは古風だなと感じた。
 奥のデスクに腰掛けているイケメンがミチコの横に立つ久利を見て、
「ミチコ、誰やそいつ」と言った。
 関西なまりだが、本物の関西なまりかどうかはわからない。名古屋のチンピラは凄む時に関西弁を使う奴が結構いるのだ。
 久利は営業マンらしくアドプランニング・遊の久利だと告げた後、
「先般、ミチコさんがお渡ししたお金、店のお金なんですよ。それを返してもらいに来ました」
 坊主頭が、
「寝ぼけたこと言ってんじゃねんよ。怖い人呼んで痛い目みるぞ」と薄笑いしながら続けた。
「あのお金の中には、ウチにお支払いいただく広告費も入ってまして、それをいただかなければ社へ戻れないのです」と言って微笑む久利。営業用の明るい声で、一向に動じていない。
「聞いてんのか、怖い目見るぞ」と坊主が怒鳴った。
「ウチの回収会議ほど怖いものは滅多にないっすよ」と笑顔で言い、
「自分、怖いの慣れてますから」と今度は地声で続けた。
「私」という主語をさりげなく「自分」に変えている。この主語で語るのは昔から軍隊や底辺大学の体育会(しかも武道系)に限られている。つまり、こっちも、ただの一般ピープルじゃねえですよ、と久利は示唆しているのだ。
 大学で四年も少林寺拳法をやっていたので、怪我しないように殴られるのは得意だ。それを活かして刑事事件に誘い込むという最終手段も念頭に置いていた。
 幸い、今日は白いシャツを着ている、鼻血などが出ても第三者に判りやすいアピールができる。
「てめえ!」と立ち上がり掛けた坊主をイケメンが押さえた。こいつが翔ちゃんなのだろう。
「ルイは?」とミチコが叫ぶと、隣の部屋との間の襖が開いて、
「姉ちゃん」という声。
 隣の部屋はデート嬢達の控え室なのか、数人の娘達がお菓子を頬張りながらTVゲームをやっていた。モニタの中で星の形のキャラクターが飛んだり跳ねたりしている。
 びっくりしたような目でこちらを見つめている娘がルイなのであろう。確かにミチコと目元が似てる。
 特に拘束されているようには見えなかった。何しろ手にはファミコンのコントローラを持っている。
「兄さん、つまらんことで喧嘩は損だぜ」とイケメン翔が言った。
「同感です。お金さえ返していただければね」
「それじゃウチの体面丸つぶれやん。業界内に示しが付かない」
「お得になるような面白いことも考えついてるんですけど」
「面白いこと? なんやねん、それ」と、翔が食いついてきた。
「ルイは、事務所通さずにテレクラで客をとったと聞いてますが」
「そうや。これは金だけの問題やないで、いざというとき、危険な客からルイを守ってやれないってことでもある」と坊主が口を添えた。
「そうですよね」と言いながら、それを売春の斡旋って言うんだよ、と喉元まで出かかる言葉を押さえ、
「自分は仕事でテレクラの広告とか扱う関係で色々聞いてますけど。あの業界、掛かってくる電話の本数が少ないと客が離れちゃうんですよね」と続けた。
 男達の顔から怒気が消えた。興味を持ったようだ。
「あと、掛かってきた電話の相手と性的な関係に持ち込めたという成功体験が口コミで広がると店も喜ぶんです。あのマンガみたいにね」
 あのマンガとは言うまでもなく成田アキラの「テレクラの秘密」シリーズだ。
 話している久利の目は、クライアントをたらし込む営業の目になっていた。
「テレクラのお店と契約して、客がいるのに電話が全然ない時間に、お宅のデート嬢が店に電話を掛けるんですよ。どうせ待ち時間があるんでしょう。電話一本につきいくらと料金決めておく。そして客が拾えたらそれは結果的にお宅の売り上げになるでしょうが」
「確かにな」と翔。
「おまえ、頭ええな」と坊主。
「ただ、高校生に客斡旋しては駄目ですよ」
「高校生だって?」という翔に久利は目線でルイを示した。
「おい!」とイケメン翔が坊主を睨んだ。
「すんません。ルイは来月18歳だってことで、まあいいかと」
「ばかやろう。気をつけろよ。暴対法で、ちょっとでも隙を見せたら潰されるんだぞ、今は」
 そのときデスクの電話が鳴った。坊主が慌てて受話器を取り、外見からは想像もできないような声で、
「エスコート・クラブ・雅(みやび)でございます」と言った。そういう屋号なんだ、と久利は苦笑い。
 スピーカーから、
「県警の都倉というもんだが、そこに久利っているか」と言う声が聞こえた。 二人の狼狽が伝わってきた。
「すみませんね。保険替わりです。話は円満に解決したって伝えますので替わってください」と久利は微笑んで手を伸ばした。
 坊主から受話器を受け取った久利は、
「心配掛けたけど、誤解は解けたぜ」と言って不安げな二人にウインクした。
 翔はデスクの上の手提げ金庫を空けると銀行の封筒に入ったままの現金をミチコに返した。
 坊主がルイを連れてきてミチコに預ける。
「ありがとうな。じゃまた一時間後に俺から電話する」と言って久利は続きの電話を切った。
「お手数掛けました」
 久利はそう言うと、ジャケットから一枚の紙を出した。市内のテレクラの一覧表だった。
 実はアドプランニング・遊では扱い媒体であるレジャー雑誌「プレイギャル」でテレクラ特集を企画していたのだ。
 1ページ20万円の広告掲載料を小分けにして売りさばく連合広告という手法で、地方紙や地方版やタウン誌など、先輩社員達の言葉を借りれば「広告業界の底辺の仕事」だった。
「このリストに当たってみたら?」
「いいのかよ」と坊主。
「どこも過当競争で電話が鳴らなくて困ってるからねえ。さりげなく電話してくれるところ知ってるよ、って言っとくわ」
「あんた、こういう交渉ごとになれてるね」と翔。
「蛇の道はへび、ってやつですよ」と言って久利苦笑いを返した。
 一種のはったりだが、嬢たちにポケベルも持たせず、部屋で待機させるような周回遅れのクラブだからいいだろうと思った。
 自分でもこの笑顔は不敵な面だろうなとも意識していた。そういう演技ができるのも営業の力のうちだ。

 一夜明けた、翌日の夕方。
 中区丸の内三丁目にある四階建ての雑居ビルに傾いた日の光が射している。
 一階の壁には水道協会ビルという銘板が嵌められているが、それよりも派手で大きな「アドプランニング・遊」(業界では、アド遊と略されている)という看板がその上に掛かっている。
 かつて、名古屋市の外郭団体が入っていたビルで、その団体が整理消滅した後に、ちゃっかりと潜り込んだようだ。
 アド・遊のメインの扱い媒体は、中部スポーツ、地元の夕刊紙・中京タイムス、最近名古屋に進出した夕刊紙・日刊ゲンザイ。さらには、名古屋観光というパチンコチェーンが出している「プレイギャル」という風俗情報誌も扱っていた。
 この扱い媒体を眺めれば、この広告会社がどんな会社かは一目瞭然だ。
 地元に本社があるブロック紙・中部新聞のスポーツ紙「中部スポーツ」の広告集稿用の末端代理店としてもかなりの扱いを持っているため、新聞社の子会社アド中部エージェンシー(略してアド中)のサブ代理店にもなっている。
 回収会議は午後いっぱいかかった。 四階の会議室から、疲労の色の濃い社員達が出てきた。この後、三々五々、夜の街に散っていく。愚痴や文句を吐くために、安い居酒屋で飲む連中、後の半分は、これから営業周りに出る連中だ。
 ビル一階の自販機コーナーで、ベンチに座って缶コーヒーを飲んでいる久利のところに、憔悴しきった表情の山村がやってきた。
「久利先輩、昨日はありがとうございました。今回はあれのおかげで、多少ですが専務達のあたりが柔らかかったです」
 そう言った山村の頬には流れた涙の痕があった。
 会議の席上では、「君の回収、上手くいってるのはみんな手伝ってもらった件ばかりじゃないか」と言った指摘で部屋中から失笑が漏れたのだった。
 その笑いは、自分たちが専務などの管理職の攻撃対象から外れている安堵感でもあった。
 会議の間中、その連中に「じゃあ、おまえ達がやってやれよ」と叫びたいのを堪えていた。
 山村の上司や同僚は、面倒な案件との関わりを恐れて、「強面の久利さんじゃなきゃ」とか「強行班の出動ですね」などと久利をおだてあげ、問題クライアントを押しつけて逃げているのだ。
「先輩の案件はスムースな案件ばかりでうらやましいです」と山村が言った。
「いや、そうでもないぜ」と言いながら昨夜の一件を思い出している久利。
 あれをスムーズとは言えないだろうと苦笑いが浮かぶ。

 テレクラ・リンリンは新今池ビルの地下にある。同じ並びには個室ビデオ・ドリーマーやピンク映画専門館・今池地下劇場などがある。昭和の末ごろから、こぎれいになっていく名古屋の地下街の中で、この地下街だけは今でも薄暗く汚かった。
 リンリンは冷房がよく効いていた。まくった袖から出した肌がひんやりとしている。
 店長にプレイギャル掲載広告原稿のゲラ拝をお願いしていた。
 確認を待っている間、さりげなく出入りする客を見ていた。三十にさしかかったばかりのサラリーマンが目立つ。
 なんだか山村を思わせるような地味で奥手な男達。従来ならお見合いなどで身を固めるはずの男達が、平成の世の恋愛至上主義の世相に煽られて、不器用に恋愛活動に挑んでいるのか。
 電話ブースのある個室から、頻繁に着信の音がするが、瞬時に受話器が取られる。
「ウチは早取り競争でしてね。そのかわり通話時間に課金してます」と店長が言っていたことを思い出した。掛かってきた電話を誰よりも早く取るために、男達は受話器を持ってボタンを押さえて待つのだ。彼らは着信と同時にボタンを放すため、電話のベルは「リン」と鳴るか鳴らないかで取られているのである。
「これで結構です」と言った店長の声で久利は我に返った。
「じゃ、次号から三ヶ月の1クールで掲載しますんで」
 そう答えて、OKの署名をもらった原稿をアタッシュケースに戻していると、店長が声を潜めて言った。
「久利さん、さっきやばそうな坊主頭がさくら電話の営業に来たんですよ」
「へえ、そうなの」と平静を装う久利。
「でも、うち、もう別の所と契約してるんですよ」と店長。
「え? そうなの? そんな仕事有るの?」
「テレクラは、みんな大なり小なりやってますし、中にはデートクラブの資本が入った店もあるわけよ」
「なるほど、みな考えることはいっしょだねえ」
 平然と答えた久利だが、背中のあたりを汗が一筋流れたのがわかった。どうやら冷や汗のようだった。
「で、その人、どうしたの。おとなしく引っ込んだ?」
 店長はニヤリと笑うと、
「ウチのやってるデートクラブから、うちの嬢が掛けてるから大丈夫です、って言ったら帰ったよ」と小声で言った。

 新今池ビル地下街のリンリンを出て地下鉄駅へ向かう地下通路で、例の坊主頭が待っていた。オーバーサイズ気味のダメージジーンズをズリ下げて履いている。昨今はチンピラヤクザもグランジなのか。
 きびすを返して戻ろうとすると、そこにはイケメン翔が退路を断つように立っていた。今夜の出で立ちは、まさに、客引きに出てきた錦三のホストだった。前後を挟まれたのだ。
「昨日はどうも。奇遇ですね」と腹をくくって言うと、
「偶然じゃねえよ」と坊主頭。
「昨日は、使えないビジネスプランをありがとう」と翔。
「他社が早かっただけで、プランは悪くないでしょう」ともうやけくそだ。
「一緒に来てもらおうか、組の事務所に」
「話なら、ここでもできるけど」
「事務所でしかできないこともあるわけよ」と坊主が舌なめずりをした。
 ジーンズの尻の方から何かを取り出した。二本の樫と思しき棒が鎖で繋がれている。ヌンチャクだ。
 そのとき、今池地下劇場の入り口から寄り添うようにして出てきたカップルが、そのヌンチャクを見て「ひっ」という声を上げて駅の方に小走りで逃げていく。カップルは男同士だった。この劇場はそういうハッテン場として有名なのだ。
 久利は顔に苦笑いを浮かべ、ヌンチャクを指さすと、
「これで過剰防衛にはならねえな」と呟いた。
 その笑みが引き金になった。
「舐めやがって」
 坊主が右手のヌンチャクを順手に持ち直すと、久利の左のこめかみを狙って振り抜いてきた。
 その坊主の右手を左手の押し受けで停めると勢いの付いたヌンチャクの棒は、久利の傾げたこめかみを掠めて、坊主頭の鼻を直撃した。
 そのまま坊主の右手首を引き、肘の上の急所を締めると、坊主はつま先立つように飛び上がりヌンチャクを取り落とした。天秤という技だ。坊主の鼻から一筋血が流れる。
「てめえ!」という翔の声。
 見るとパンツの尻ポケットから白い何かを取り出している。手のひらに収まるような形。どうやらバタフライナイフのようだ。
 翔がそれを開こうとした時に、
「そこまでだ、止めておけ」という声がした。
 180センチ近い上背のスーツ姿の男だった。ダブルのスーツをだらりと前開きに着ている。シャツの襟はイタリアンで、七十年代末のセンスだ。
「親っさん!」と翔は、頭を垂れて挨拶をした。
 どこかで見た覚えがある顔だ。
「おまえらにゃ、荷が重い相手だよ。学生少林寺あがりだ」
 え? と思ってもう一度顔を見る。
 大学同期の近藤だった。応援団、副団長をやっていた。当時より太っているのですぐにはわからなかったのだ。
「久しぶりだな」と声を掛け、
「この業界だったのかよ」と続けた。
「ま、親の家業が稼業ってことかな」と近藤。
「笑えねえ洒落だ」と言う久利に、近藤はがははと豪快に笑った。
 唖然としている翔と坊主に、
「俺の知り合いだ、もう納めてくれ」と言って事務所へ帰らせた。
「事務所って近いのか」
「ここの三階だ」
「今池国際劇場の上か」
「ああ、あのウニタ書房の上だ」
「もう、あまりこの業界に近づかない方がいいぜ」という近藤に、
「そうもいかなくてね」と久利は勤務先のアドプランニング・遊の名前を告げた。
「首まで、どっぷりつかってるじゃないか」と近藤は苦笑いし、
「困った時は言ってくれ」と言った。
 背中を向けて歩きながら、後ろも見ずに手だけをひらひらと振っていた。
 県警の平刑事・都倉に、極道の近藤。落ちこぼれの俺には、ふさわしい友人達だと思い、久利の唇が歪む。苦笑いだ。
 ふと足下を見ると坊主頭のヌンチャクが落ちている。拾い上げてまじまじと見た。「いい品じゃん」と呟いた。
 アタッシュケースから茶封筒を出し、鎖の側を下にしてヌンチャクを入れた。棒が二本突き出してるが、武器には見えまい。
 もらっていくことにした。

 カウンターの向こうでミチコと並んで働いているのはルイだった。
 和子ママはまだ来てないようだ。
「久利ちゃん、今日はおごりよ」とミチコが言い、水の入ったグラスをカウンターに置いた。
「今日はこの後、まだ訪問先があるから、おごりは次回で」と久利。
「先日は済みませんでした」とルイが頭を下げた。
「まあ、あんな連中とつるんでては駄目だよな」
「てへっ」とルイは舌を出した。やることがマンガっぽい。
「例の悠紀夫君は? 心配してたぜ」
「あの、だっせい子?関係ねえすよ」とルイは半笑いだ。
「どんな奴がいいんだよ」
「翔さんみたいなタイプ」
「カスの極みだな」と久利は吐き捨てた。そして、
「悠紀夫みたいな奴が、おまえのようなズベ公を日常に引き留めておいてくれるんだぜ」と続けた。
「ず、ズベ公? それ何」
 どうやら、既に死語らしい。
「悪い、忘れて」と言ってため息をつく久利。
「本当に、この子ったら。もうこの店で監視しながらバイトさせることにしました」とミチコ。
「あそこはもう止めたわ。もっといい仕事見つけたし」
「もっといい仕事?店のバイトだけじゃないのかよ」と聞くと、
「違うよ、今池のマニアなお店がね、古い下着を買ってくれるの!」とルイが言った。
「ブルセラショップか」と、もう一度ため息をつく久利。
「履き古しを1300円で買ってくれるのよ」とルイ。
 そのとき店に流れる有線の曲アップテンポなロックに換わった。
「この歌、大好き!」とルイの顔がぱっと輝く。
 プリンセスプリンセスの「世界で一番熱い夏」だった。
 この娘の底抜けの明るさは、たくましさかもしれないなと思った。

 ☆

 平日の夜なので、ビデオレンタル・ルックの店内に客の姿はなかった。立地が名古屋との市境に位置する長久手町。しかも周辺には造成中の宅地が広がっていて、荒野の中の一軒家的なイメージだ。
「久利ちゃん、君の言ったソフト、未だに借りられていてね、十分ペイしているよ」と店長が嬉しそうに言った。
「嬉しいですね」
 久利が提案したのは5年前に風切られた「ゆきゆきて神軍」という原一男監督のドキュメンタリー映画だった。
 話題になった割に公開期間が短く、見逃した映画ファンも多かった。
 ビデオでリリースされた時、この作品を仕入れるかどうか迷っていた店長に仕入れを勧めたのが久利だったのだ。
「市内のレンタル屋で、この作品置いてるのウチだけみたいで、この長久手の店に瑞穂区から車飛ばして借りに来てくれるのよ」と店長が驚いた。
 以来、ちょっとマニアックな作品を集めていくことで、多くの個人経営のビデオレンタル店が廃業していく中で、この店は健闘を続けていたのだ。
「近くのレンタル店にない作品でも、この店にはある、って重要な武器だわ」と店長。
 多くのレンタルチェーンが売れ線のソフトを大量に購入して一気に大勢の客にレンタルする戦略をとるなか、この個人店は、レアな作品を網羅して、図書館的なポジショニングに成功しているのだ。
「今度の五周年だけど、地域版で記事広告うちたいんだけど、久利ちゃん書いてみない」と店長が言った。
「いいんですか?」
「例のビデオの話で、ビデオ図書館っぽくファンを獲得したウチの店をさ、植草甚一とか、雑誌ポパイのコラムみたいなノリで書いて欲しいんだよなあ」
「ええですね、そういうの得意です。ライター料金なしでいいので、僕に書かせてくださいよ」
 広告扱いだけでも、いい料金になる。何より、クリエイティブな広告の仕事に飢えていたのだ。
「君は、そういうコラム、上手いと思うんだ」
 店長はそう言ってニヤリと笑った。 底辺かも知れないが、やっぱり広告の仕事は面白い。だから止められないんだよな。
「ありがとうございます」
 そう言う久利の笑顔には皮肉な色はみじんもなかった。

第3話 「サヨナラ」(1992年秋)(前編)

お洒落な住宅が並ぶ通りを抜けると真新しい地下鉄駅に出た。高層アパートとショッピング街が印象的だ。
 夕暮れ時の表通りはきらびやかな灯りに映えて、行き交う人々も若やいだ雰囲気である。名古屋市名東区の藤が丘駅だ。
 地下鉄とはいうものの、二つ前の上社駅からは地上を走っている。駅舎も高架の上で未来感があった。
 東へ東へと街が拡張してきた名古屋市の一番新しく急成長中の街が藤が丘だった。
 駅前の中京銀行の駐車場に止めた車の中で、久利と山村は今回の回収作戦を練っていた。
 助手席で回収表を見ていた久利が顔を上げると、
「一年半ってのは長いけど、遅れてる理由は何?」と聞いた。
「やっぱり、問い合わせがさっぱりで、腹立ててるんです。もう今は新聞紙じゃない、求人誌の時代だったのに騙されたって」
「信頼度が欲しくてあえて中部新聞だって言ったの社長の方だろう?」
「ええ、当初ウチからは求人誌を提案しました」
「で、結局問い合わせゼロだったんだ」
「一件はあったそうですけど。決まらなかったと」
「じゃあ、社長の言い分はヤクザの難癖とかわらんじゃん」
「そ、そうなんですけど」
「請求書の再発行は?」
「二回出してます」
「一年半で二回は少ないなあ。毎月出すことも圧になるんだぜ」
「それも嫌みっぽくて、ちょっと抵抗がありまして、」
「払わねえ方がよっぽど嫌みだよ」
 どうも社長が難物らしい。実際、会ってみるのが一番だ。
「まあ、当たってくだけろだね」
 久利はそう言って助手席の背に深々と背を預けると、
「ゴー!」と言った。

 その工場は藤が丘の駅から程近い長久手町にあった。
 造成中の宅地の外れで、宅地以外の三方は畑であった。広々と広がる荒野の中にぽつんと立っているようにも見える。
 自動車部品の孫請け工場らしい。
 部品倉庫の一角が仕切られて事務所になっていた。
 久利と山村は、その事務所で社長と対峙していたのだ。四十代前半だろうか、髪に白いもの混じり始めた中年である。他には地味な印象の事務の女性がデスクで伝票仕事をしているだけだ。
「すまんね、どうやらウチの検収漏れだったようだ」と社長が薄ら笑いを浮かべて言った。
 年下の久利と山村を、見下すような態度だ。いつも元請けの企業担当からこんな扱いを受けているんだろうなと久利は思った。その反発が自分より格下の広告会社の若い営業に向かうのだ。
「まったく効果のない広告だったから、出したことも忘れていたよ。支払いを忘れるのもしょうがないね」と皮肉たっぷりの物言いだ。
 山村は困ったような笑みを浮かべて、
「社長は毎月そうおっしゃるじゃないですか」と泣き声で言った。
「請求書再発行してくれた?」
「今まで二回出していますよ」
「二回じゃ少ないよ」と言って社長は嘲るように笑った。
 山村は舐められている、と久利は感じた。
 社長の態度は、自分より小さい動物を玩具のようにいたぶる猫科の獣を思わせた。
「社長、今回は再発行した請求書を持参いたしました」と久利が封筒を渡した。
「判った、じゃあ月末の支払日に予定しておこう」と社長は言った。
「いや今回は、明日お願いします。また来ますので」と久利はきっぱりと言い切った。
「おいおい、ウチの支払日を無視するのかねアドプランニング・遊さんは?」
 久利は手にしていたバインダーノートを、目の前の机に力一杯叩きつけるようにして置いた。
 バン!
 事務所中にその音が響く。
 ぎょっとして凍り付く社長。久利の「堪忍袋の緒が切れた」という演技だ。
「社長さんよ、今まで御社の検収漏れで散々待ってきたんですよ。
 しかも私どもは、二回も請求書再発行して辛抱強く待ってきたんだ。
 まともな会社は検収漏れなんてしない! ところがお宅はその二回でも検収漏れしてる。
 最後ぐらい、こっちの都合に合わせるのが礼儀ってもんでしょうが」
 呆然と立ち尽くす社長。
「明日、お支払いください。そうしないと、また月末にはお忘れになってるかもしれないじゃないですか?」
 そう言った久利は、皮肉たっぷりに満面の笑みだ。それが返って底知れない。
「じゃ、また明日来ますので」
 久利はそう言うと、山村の方を向くと、顎で「行くぞ」とサインした。

 翌日、アドプランニング遊の一階の自販機コーナーである。エレベーターホールの一角に自販機と灰皿が置かれ、喫煙スペースにもなっていた
 終業間近の夕暮れ時、窓からは日没直前の薄暮の空が覗いている。頻繁にエレベーターのドアが開き退社する連中が降りてくる。
 ベンチに座って缶コーヒーでブレイクしている久利に、内勤の女の子たちが会釈をして帰って行く。
 帰れるのは経理や総務の内勤だけだ。営業は、このベンチでエナジードリンクを飲んでまた夜の街に営業に出る。ご丁寧に自販機の腹には「24時間戦えますか」というリゲインのポスターが貼ってあった。
 ベンチに腰を下ろしている久利の元に山村がやってきた。手にはそのリゲインを持っている。
「先輩、昨日はすっとしましたよ。
 今日、午前中に行ったら、社長の奴すんなり払ってくれました」
 山村の声は弾んでいた。
「あの手の奴は、相手がおどおどしてると図に乗るタイプだからなあ。俺みたいにヤクザになる必要はないけど、堂々としてればいいんだよ」
「それが僕には難しい。全然反響なかったといわれたら、すいませんって言っちゃう」
「そういうときは、謝罪はするな」
「どう言えばいいんですか」
「残念です、でいい」
「そうなんですか」
「すいません、と言うと、罪を認めたなと思われて相手は図に乗る。悪いことはしていないんだから、残念ですという気持ちの表明にとどめておくんだよ。クレーム話法ってやつだ」
「先輩、すごいですね」
「普段から隙は見せない。今回のように、追い詰められてから、ヤクザの様に凄んで一発逆転するのは最低の方法さ」
 そう言うと、久利は飲み終えたコーヒー缶をボックスに投げ入れた。

 開店前に撮影を終えることができて久利はほっとした。プレイギャル誌の広告記事用の写真である。
 ここは女子大小路にあるキャバクラ・JJだ。
 女子大小路は、かつてここにあった中京女子短大(現・至学館大学短期大学部のこと)にちなむ名前で、300メーター弱の距離から小路と呼ばれている。この街が居酒屋、スナック、クラブ、ゲイバー、ホストクラブ、外人パブ、音楽系クラブなど1700件以上の店が集まる名古屋第一の歓楽街だったせいか、女子大という名前が性的なアイコンとして通用するせいか今でも延々と女子大の名が残っている。だが、最近はその名古屋第一の座を錦三丁目、通称錦三(きんさん)に奪われつつあった。
 チーフの黒服と挨拶をしてカメラマンを返した頃、喧しい娘達の声が聞こえてきた。店のキャバ嬢たちがバックヤードから現れ始めたのだ。
 全員、女性らしさは強調しているが全体的に落ち着いているところは、キャバクラがタイム制とはいえクラブに準じるエロのない接客業だからか。
 それでも髪やアクセサリの端々に各人の個性が残っていて、髪を盛ってる娘や、メイクやネイルにギャルの片鱗を漂わせてる娘もいて面白い。
「あら、久利ちゃんじゃない」という声を掛けられ驚いて振り向くと、そこに静香がいた。

 内藤静香と初めて会ったのは中学一年の春だった。
 放課後の部活の後、教室へ戻った時のことだ。扉を開けた途端、きゃあという悲鳴に振り向くと、着替えている最中の静香が脱いだ体操服で前を隠して叫んでいる。
 慌てて教室を出た。当時、久利の通う田舎の中学には部室がなかったのだ。
 着替えの終わった頃、教室に入ったのだが、なんとも気まずい。
 慌てて詫びる久利に、静香と一緒にいた女生徒が大爆笑をした。マンガみたいな出会いだと。それが二人の救いになった。
 それがきっかけで静香と友達になったのだ。冗談が言い合える異性の友達。
 彼女を異性として意識し始めたのは三年生になってから。それでも表面は友達のままだ。
 卒業式を翌日に控えた朝。朝礼に際してのフォークダンスの時間に、静香と初めて手を握り合った。
 その別れ際、静香は久利の手を離す寸前に、ぎゅっと握って来た。
 はっとして顔を見ると、なんとも不思議な表情で見つめている。
 これは、告白なのか?
 だが、それを確認することなく二人は卒業して別れ別れになったのだった。
 いや違う。夢いっぱいで都会の高校に進学するあの春、久利は田舎の中学の思い出と一緒に静香を過去に封印したのだ。

「卒業以来じゃん」という静香の声。
「静香、キレイになったねえ」という久利の声もうわずり気味だ。
 大人の化粧をした内藤静香は、少女の頃の面影をかすかに残しているからこそ、とても美しく感じられた。
「シズカです、よろしく」と言って静香は名刺を渡す。
「店ではカタカナなのね」と頷く久利。
 開店前の儀式が始まりかけ、久利は会釈をすると店を出た。
 彼女は今、どう暮らしているんだろうか。今度はじっくり話してみようと思った。ここへは仕事で何度も来る予定だしな。
 この年になると、愛した女より、愛してくれる女の方がずっと大切なのだということが判ってくる。
 久利の頬に浮かんだ笑みには、珍しく皮肉も悲しみもなかった。

 ☆

「さあ、今朝のお買い得情報は、本日から発売のフレークアイス、フミちゃんどうぞー」
 元気いっぱいの女性MCのアナウンスで、カメラが切り替わり、ピラミッド型に紙パックの積まれたテーブルの前の娘に切り替わる。
 ここは、中区大須二丁目の名城テレビのスタジオだった。
 久利はスタジオの隅でクライアントとオンエアの様子を見ている。
 クライアントは名城牛乳の専務だ。広告扱いは別代理店なのだが、商品プロモーションの案として持ち込んだ「試供品頒布当日のテレビモーニングショーでの告知」を採用されて今日に至っているのだ。
 アドプランニング遊のような弱小広告会社は利益を上げるために何でもやる。
 久利自身、キャラのぬいぐるみに入ったことも珍しくないし、大須のイベントでは信長になり、名城公園を舞台にしたイベントでは加藤清正にも扮したことがある。
 今回はコスプレがないだけ、まともな仕事だよな、と思っている間にオンエアは無事終了した。
「専務、では視聴者プレゼント用に後日送り先住所FAXしますんで」という久利に、
「ありがとう、商品プレゼントで、こんなプロモできるとは助かるよ」と専務。
「てっきり、もうご存じかとおもってましたよ」と笑いながら、暗に、現在お取引中の広告会社さんは教えてくれなかったんですね、というビームを浴びせ続けた。
「自分、少し後片付けがありますので」と言って、専務がスタジオを出るまで頭を下げて見送る久利に、
「商売上手やねえ」と言う声。
 D(ディレクター)の長谷川だった。今回の話を振ってくれた本人だ。
「また同じようなネタがあったら教えてください。新規クライアント開拓のええネタになりますんで」
「ところで、最近、書いてる?」
「いや仕事が忙しくてそっちには手が回りません」
「惜しいなあ。佳作まで獲ってるのに」と長谷川。
 佳作というのは、東京にある名城テレビのキー局が主催した「ビジネスドラマ原作大賞」のことで、昨年の第二回で久利の応募作品は佳作四編の一つに入っていたのだ。
 好景気を反映してか、佳作四編の賞金が各50万円、大賞ならば300万円という賞金総額500万円が売り文句の大盤振る舞いだった。
「広告の仕事も小説と同じぐらい面白いもんでして」と久利は苦笑いした。
 本音を言えば、まだ才能に自信がなく、名古屋から東京の出版社まで営業には行く勇気も金もなかったのだ。当然、会社を辞めるわけにもいかない。
「久利さん、実は相談があるんだけど」と長谷川が声を落として言った。そして、指でスタジオの外を指し示す。「場所を変えて」というサインだった。

 名城テレビの一階ロビーには喫茶ルームがある。部外者は入れない場所で、タレントやマネージャーが打ち合わせに使ってたりもする。窓の外には若宮大通りが走っている。幅広い歩道に植えられている銀杏が黄色く色づき始めていた。
 その窓際のテーブルに長谷川と向かい合って座った。
「相談ってなんですか」
「ちょっと固めのドキュメンタリー作りたいんだ」
「珍しいですね」と久利が驚いたように言った。
 名城テレビは名古屋の民放では最後発で、10年前の1983年に開局していた。CM料も他局より一桁安く、局の営業が「同じ予算でうちなら10倍の本数出稿できます」とやけ気味に豪語するほどだった。
 確かに他局のタイムテーブルで数カ所に線が引かれる程度の予算でも、名城テレビのタイムテーブルだと全面が赤線で真っ赤になっていた。
 クライアントからも「大砲と言うよりマシンガンだね」と褒めているのか笑っているのかわからない評価が出ていた。
 ドキュメンタリーを作る、そんな冒険じみたことをやれるようになったのかと感慨深く感じた。
「ウチはゲリラみたいな戦い方してる局だけど、やる時はやりまっせ、って感じだよ」
「その意気やよし、ですかねえ」と久利。
「うちでもさ、ATPのテレビグランプリドキュメンタリー部門に挑戦しようってことになってね。社会問題や裏社会に関して切り込めるネタ探してるんだよ」
「そういうことを知ってそうな相手というのが俺ってことですか?」
「そのとおり!」と長谷川。
「あまり嬉しく感じないのはなぜだろう」と久利、苦笑い。
「それって卑下することじゃないよ。ジャーナリズム的には」
「俺はジャーナリズムにも一抹の懐疑心を持ってまして」
「あら、聞き捨てならない」
「第四の権力・マスメディアって、政府や体制だけでなく、個人にも牙むいてる側面ありますからね」と言った後、ニヤリと笑って、
「とインテリ気取ってみました」と続けた。
 長谷川は、
「深夜帯でニュース番組のコーナーの拡張のような形で企画したいな」と言った。
 久利の目を見つめると、
「何かネタあったら耳打ちしてよ、お願いね」と言った。目は笑っていない。真剣だった。
 長谷川はレシートを取ると、
「ゆっくりしてってね」と言って立ち上がった。
 まあ、長谷川のようなDに頼られるのも悪くはない。特に弱小代理店の営業としては。

 ☆

 若宮大通りとクロスする久屋大通りは、名古屋の中心部を南北に走り栄町、矢場町という繁華街を繋いでいる。
 隣接するエリアには名古屋市役所を始め県庁などの庁舎が集まる官庁街、百貨店の集まる栄町などがある。
 六年前に東急ハンズをテナントとするアネックスビルが建ってからは、若い客が集まる街になっていた。
 最近ではバドワイザーの協賛するビアガーデンが評判になり、その会場を闊歩するバドガールが話題になった。
 週末の土曜日だけあって、人通りは多い。その賑わいを横目に、久利は表通りを一本裏に引っ込んだビルの地下一階にいた。
 個室ビデオ・ドリーマーの栄店だった。広告掲載誌(例のプレイギャルだ)を届けに来たところだった。
 この店は平日のサラリーマン客がメインの客層なので土曜日の客は少ない。
 暇そうな店長は、
「菊池えりさんのサインもらったんですよ」と壁に貼った色紙を誇らしげに示していた。
 店内には個室ビデオに来る淋しい客達の孤独感が漂っている。
 早々に仕事を終えると、階段を上がった。昼下がりの陽光が眩しい。休日出勤の久利にとっては、週末の華やいだ喧噪もまた眩しさの対象だ。
 歩道のそこここで露店が出ている。外国人が目立った。手製のクラフトっぽいアクセサリーや偽ブランド品の店が多い。以前は、この手の店はイスラエル人が多かったそうだが、五年前のイラン・イラク戦争以来、難民として流入したイラン人も多かった。
 県警の都倉に言わせれば、裏で変造テレカや違法薬物なども売っているらしい。もっとも匂わせるだけで、詳しくは語らなかったので、彼にとっては裏取り中のホットな案件なのだろう。
 夜までタイトな予定もなかったので噴水広場に足を向けた。
 ギターの音と歌が聞こえてきたからだ。
 噴水を背にしてギターを抱えた青年が歌っている。アップテンポのパンクっぽい歌で、歌詞に少し文学性を感じた。ブルーハーツから火が付いたJパンクってやつか。髪は短めでユニクロっぽいコーデは地味目だが、それが歌で勝負してる感あった。何よりメロディラインにオリジナリティがある。
 傍らにはギターケースが置いてあり、そのケースが投げ銭の受け皿を兼ねているのだろう。白いコインと数枚の紙幣が入っていた。
 その傍らにはシングルCDが置いてあり、「シゲル」というミュージシャン名を書いたPOPが置いてある。
 少し離れた所に折りたたみ椅子を置き、恋人と思しき娘が座っている。曲に合わせて楽しげに体を揺すっている。
 内藤静香だった。すっぴんに近い薄い化粧はJJの時よりずっと学生時代の彼女を思わせた。
 そうか、今の彼女の心をつかんでいるのは彼なのか。
 彼らの前に半円を書くようにして聴衆がいる。まだそれほど多くはないが、それでも足を止めて聴いているのだ。
 一曲歌い終えるとシゲルは頭を下げた。拍手が湧く。
 静香も聴衆を煽るように大仰な動きで手を叩いていた。
 オリジナルの曲と併せて、「夏の魔物」などスピッツの曲も歌っていた。悪くない。

「彼女こそが、僕のファン第一号だったんです」とシゲルが言った。
 静香はその横で嬉しそうに微笑んでいる。
 久屋大通りの東にある喫茶店のテラス席だった。
「彼女の人を見る目は間違いないぜ」と言いながら久利は笑った。その笑いに自嘲が混じっているのは久利しかわからない。
「CD、今ちょっと話題なのよ」と静香。
 インディペンデント、要は自費プレスなのだが、それが天白区にある本屋の店頭で話題になっているという。
「あの店か」と久利は呟いた。
 ヴィレッジヴァンガードという尖った本屋で、店頭に飾ってある英国車MGミジェットが話題になり、お洒落系タウン誌でも頻繁に記事になっていた。置いてある本もこだわりがうかがえて、特にサブカル系の本が多かった。
「おかげで、名古屋のミュージシャンからお声も掛かるようになって、いよいよ前座でライブハウスに出れるようになったの」
「でも気がかりなことが一つ」とシゲル。
 静香もその言葉に顔を曇らせた。
「音楽業界って、薬系の事件少なくないのよね」
「覚醒剤か?」
「ううん、葉っぱの方。アーチスト界隈は葉っぱなのよ」
「大麻か。ダウン系なのね」
「そう、でも大麻から入ってシャブへ行く人もいて」
 その話は県警の都倉からも聞いたことがあった。大麻でダウンさせた後、覚醒剤でアップさせるのが効くらしい。そこまで行くともう重症だと。
「まさか君たちやってるの?」
「シゲちゃんはやってないけど、」
「お世話になってるジョージ先輩がどっぷり浸かってて、それが見てて苦しいんです」とシゲル。
「おまえもアーチストならやれよ的な圧もあるんだって」
「童貞を小馬鹿にするヤリチン先輩の心理か」と久利。
「ねえ、久利ちゃん、助けてくれない?」
「ええ?」
 この既視感は何? と久利は思った。
「ノンノンのママから聞いたのよ、久利ちゃんって事件屋だって。トラブルメーカーだって」
「それを言うならトラブルシューターだよ、ていうか俺は広告マンであって事件屋じゃねえし」と憮然として答える久利。和子ママの無邪気な笑顔を思い浮かべてため息をついた。
「その先輩、イラン人の売人ともうツーカーで」
 そりゃ、警察だろうと言いかけたが、静香の真剣な目に見つめられると断ることもできない。この目力は静香ではなくシズカの方かもなと思った。

第4話 coming soon