• 『92‘ナゴヤ・アンダー・グラウンド』

  • 栗林 元
    青春

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    風俗や水商売専門の広告会社アドプランニング遊。未払い広告費回収を担当する通称「強行班」と呼ばれる一人チーム。それが久利だ。バブルが弾けた92年、事件を追って名古屋の夜をチンピラ営業マンが走る!

第1話 「世界で一番熱い夏」 (1992年夏)(前編)

「社長はまだ戻っておりません。日を改めてまた来てくれって言われてます」
 カウンターに立った事務の男が、もう勘弁してくれよという表情で、そう繰り返した。
 額に汗が浮かんでいるのは、暑さのせいだけでもないだろう。
「困りましたねえ。今日がお支払い日でしょう。うちは本来、先月いただく予定だったんですよ、御社の広告費」
 久利は、困ったような表情を作って言った。その隣では後輩社員の山村が唇をかみしめて立っている。
 名古屋市中区錦三丁目の高級レストラン・ビストロ・ルビーの運営会社、有限会社タチバナの事務室だった。四階建てビルの一階と二階がルビーの店舗で三階が従業員の控室、そして四階がこの事務室なのだ。
 十畳ほどの小さな事務室で、入り口のカウンターの向こうには四台の事務机が島を作っていた。そこに座る女事務員が終業の準備をしながら、薄ら笑いを浮かべて久利達を見ている。出入り業者を見下す中小企業の社員によくいるタイプだ。
 タバコのヤニで茶色く曇った窓ガラスの外には日没間近の薄暮の空が広がり、街の随所でともり始めたネオンサインの光が涙越しに見ているかのように滲んで見えた。この涙は、担当・山村のものに違いない。
 今日は月末の支払日で、出入りの業者が次々と集金を済ませて帰っていく中、久利の勤務先・アドプランニング遊の扱った求人広告費の小切手だけ用意されていなかったのだのだ。
 実は先月の支払日も、「弊社の〆の関係で来月です」という理由で集金できなかった。
 壁に掛かった予定表には締め日も記されていて、先月の時点でも営業担当の山村が注意深ければ、それが嘘だということはわかるはずだ。
 山村によればビストロ・ルビーを経営する有限会社タチバナの社長は、求人広告への電話が一本もなかったという理由で、広告費を払いたくないのだという。
 間違いなく嫌がらせである。
 事務の男は苦笑いをしながら、
「社長から、来月までには、」と言いかけた。
「他社さんにはお支払いしてるじゃないですか!」と久利は部屋中に響く大声でその言葉を遮った。
 男はびっくりして固まった。
「それとも私どもの求人広告費用なんて踏み倒してもいいと思ってるんですか?
 だとしたらちょっと心外だなあ」と久利。
 言葉は穏やかだがその音量は怒声と呼ぶのがふさわしく、女事務員も机の前で固まっていた。
 紺ブレザーにチノパンツという、当世の広告営業の「制服」を着ているものの、その口調は、広告業界マンガ「気まぐれコンセプト」というより東映「仁義なき戦い」の方が近かった。
 隣に立つ山村の膝が震えだしたのがわかる。
 彼は昨年入社したばかりの後輩だ。気の弱さを絵に描いたような男で、一張羅の撚れたビジネススーツ姿は、三十過ぎた信金勤めのサラリーマンに見えた。
 彼もまた「気まぐれコンセプト」の描く軽やかでおしゃれな広告マンのイメージとは程遠い。
 久利はその内面、山村はその外見が世間がイメージする広告代理店のイメージを裏切っていたのだった。
 久利の勤務先、アドプランニング遊では、飲食業など水商売(社内では「さんずい」という隠語で呼ぶ)のお客が多く、経営的にも貧弱で気づかぬうちに閉店して消えている店も少なくない。
 そのため、原則、前金取引なのだが、山村のような新人営業マンはお客の勢いに押されて後金で請けたりする場合がままある。
 その結果が、広告結果に対する不満からの支払い拒否などにつながるのだ。
 言うまでもないことだが、結果にかかわらず、新聞や求人誌などの媒体に「掲載」することに料金が発生する。社長の気持ちには一片の理もない。
 そして毎月の回収会議の席上で、山村はリアルに涙を流しているのだった。
「社長さん、本当に今日は来られないんですか?」と山村が震える声で聞いた。
「今日はこちらには来ませんので」と事務の男がきっぱりと言った。その顔は「大声程度ではびびらんぜ」と虚勢を張っているようだ。根はヤンキーのなのだろう。
 困ったなという表情で山村が久利の表情を盗み見た。
「では、また日を改めますので、それまでに必ずお金をご用意しておいてくださいよ」と久利は引き下がった。
 山村は、ここから出られると思って少しほっとした表情だ。店の男の表情にも安堵の色が浮かんでいた。

エレベーターに乗ると、1階のボタンを押そうとした山村に、
「地下!」と久利が言った。
 山村は怪訝そうにB1のボタンを押した。
 地下一階は駐車場になっている。その一角がスタッフ用になっている。
「社長は何乗ってるの」と久利。
「ベンツです。真っ白の。今はないですね」と山村が答えた。
「居留守じゃないわけか」と久利は確認するように呟いた。
「久利さん、用心深いんですね」
「伊達に強行班なんて呼ばれてねえよ」と久利は苦笑い。
 二人は外に出ると駐車場への入り口が見える向かいの喫茶店に入った。
 名古屋市中心部は戦後の焼け跡からの区画整理で、碁盤目のように区切られている。ここ錦三丁目も同様で、一方通行の車線が交差するように街を区切っていた。そこをタクシーが列を作り、のろのろと走っている。
 店へ出勤するホステスやマスター達、定時で仕事を切り上げて街へ繰り出してきたサラリーマン達が乗っているのだ。
 ネオンの光が強くなり、空は薄暮だが街はもう夜であった。店へ向かうホステス嬢や呼び込みの兄ちゃん達が目立ち始めた。
 喫茶店の窓際に座りコーヒーを頼むと入り口を見張る。
「社長、来ますかね」と言う山村に、
「確か携帯電話もってたよな社長」
「ええ、ドコモのムーバだって自慢してました」
「携帯持てるぐらいなら広告費も払えるだろうに。
 今頃、山村帰りましたよ、って店の奴が電話してると思うな」
「持久戦ですね」と山村が呟いた。
 そして、
「だから具体的に再訪問の日時を言わなかったんですね」と言った。
「帰社時間は心配するな。上には遅くなるって言ってあるから。必ず回収させてやる」
 毎月の回収会議で、山村はその未収の多さでいつもやり玉に挙がるのだ。これを回収すれば、案件は目に見えて減る。
 コーヒーを半分ほど飲み終えた時、山村が小さく、「あ、」と言った。
 見ると、白いベンツがゆっくりと地下駐車場に入っていく。
「よし、行くぞ」
 久利は伝票を持って立ち上がった。
 強行班の本領発揮だ。

 エレベーターの脇の階段に身を隠すようにして久利と山村は社長が上がってくるのを待った。
 エレベーターが停まり扉が開くと、携帯電話を耳に当て大声で話しながら社長が出てきた。
 久利は足を忍ばせて社長の背後に近づくと、一緒に事務室に滑り込んだ。そして、
「社長、いつもお世話になってます!」と背後から叫んだ。
 びっくりして振り返る社長。
 迎えに出た事務の男が怒気を含んだ声で、
「日を改めるんじゃなかったのかよ!」と叫んだ。
 久利が右手を挙げると、そこには高そうな万年筆があった。
「これをそこに落としてるのに気づきまして、戻ってきたら偶然社長をお見かけしましてね。
 ちゃんと戻ってこられたじゃないですか」
 久利はそう言うと、にやりと笑って、ブレザーの胸ポケットに万年筆を戻した。
 社長の表情を見て集金は成功したと感じた。

 社へ戻る車の中だ。ハンドルを握る山村が、
「久利先輩は、どこでああいう集金方法を知ったんですか?
 マンガですか?」と聞いた。
 声が明るいのは懸案の回収案件が一つ減った安堵感からだろう。
「マンガって何だよ。モーニングに載ってる”ナニワ金融道”かよ」
「いや、先輩はむしろ”ミナミの帝王”かと」
「なにそれ、新しいマンガ?」
「最近、漫画ゴラクで始まったんです」
 俺たちの常識は所詮マンガなんだなと久利は苦笑いした。
「俺、以前、回収セミナーっての受けてんだよ。社命でね」
「そんなセミナーがあるんですか!」
「貸金業法が厳しくなって、もう最近はないけどな。
 笑っちゃうのが一緒に受けてた連中。どんな奴だと思う?全員サラ金の営業マンなんだよ」
「僕たちサラ金と同類なんですか」と言う山村の声はため息混じりだ。
「ちなみに、今回のは時間差攻撃って手法で、居留守で逃げてる経営者を嵌める、一番穏便な方法だ」
「さ、さすが強行班ですね」
 そう言った山村の驚いたような表情を横目で見ながら、その目が「ヤクザを見る堅気の目線」だと気づいてうんざりした。
 学生の頃、資生堂の「揺れるまなざし」(76年)やサントリーローヤルの「ランボオ」(83年)なんてCMを観て、憧れて飛び込んだ広告業界で、俺はヤクザの様な取り立てをやっている。それも、二行三行の求人広告で。
 名門校に進みながら、受験でも就職でも失敗した負け犬には、絵に描いたようにふさわしいかも知れないと思い至り、苦笑いが浮かんだ。
 皮肉なことに、それが、山村には不適な微笑みに見えているのだが、久利はそれに気づいていないようた。

 山村と別れて社を出た後、久利が向かったのは中区丸の内三丁目にあるスナック・ノンノンだった。錦三(きんさん)とは久屋大通を挟んだ北側で、実はアドプランニング遊と同じ町内である。
 今度は自分の案件の集金であった。
 ノンノンの入るゴールデン・プラザは大通りから二本奥にある東西に走る一方通行の道路に面した雑居ビルだ。 不動産業界ではペンシルビルと呼ばれるような細長い六階建てで、美濃銀行と尾州組(ゼネコン)のビルの隙間に建っている。
 その五階がノンノンだった。まだ開店まで一時間ある。カウンターの前に止まり木椅子が八脚。ボックス席が二つ。小さな店であった。
 カウンターの中ではママの和泉和子とホステスのメグが二人で開店準備中だ。三十代後半の和服の似合う方がママ。ノースリーブのロングドレスで今風に髪を盛っている若い女がメグだった。
 カウンター前に座って、膝の上のアタッシュケースから領収書を出しかけた久利に、
「久利ちゃん、集金少し待って欲しいの」と和泉和子が言った。
「でも、今日いただかないと掲載ストップしちゃいますよ」
 久利の言葉にはルビーの時のような怒気はない。和子ママとは入社以来のお付き合いで、こんなことは初めてだった。むしろ、意外な言葉に戸惑っている。
 ノンノンの入るゴールデン・プラザビルはかつての地元信金が運用する会社の持ち物で、他に第二、第三、第四まで同じ名前のビルがある。それだけにテナントとして入るには厳重な審査があり、このビルに入っている店との取引は安心だというのが業界のもっぱらの噂だった。
「昨日、ちゃんと支払い用の現金用意してチーママのミチコちゃんに渡したのよ。それがね」
 その和子の言葉を受けるようにメグが、
「ミチコさん、連絡取れないのよ。今朝から」
「昨日、ちょっと様子が変だったの。不安そうな感じ。で、午前中に電話かけたけど出ないのよ」
「私も店に来る前にミチコさんち寄ってから来たんだけど。アパートに居ないのよ」とメグ。
「ねえ、久利ちゃん、ミチコ探し出してくれない?
 他への支払いのお金もあるのよ」と和子が泣きついてきた。
 哀願するようなまなざしが色っぽい。さりげなく面を伏せると和服の襟から背中へのラインにうなじのほつれ毛が匂うようななまめかしさだ。
「和泉さんに言われると嫌と言えないじゃないですか」と久利は苦笑い。
 和泉ママは、某大手企業の会長の愛人で、彼の援助でこの店をやっている。
 五年前の入社早々、求人広告の担当としてやってきた久利の、素人っぽい営業ぶりを「可愛い可愛い」と笑いながら、以後ひいきにしてくれた恩もある。
 ママから渡されたメモにはミチコのアパートの住所が書いてあった。
「お金もそうだけど、心配なのよミチコちゃんが、いろいろ複雑だから」と、言葉を切ったママの最後の一言が気になった。

 アドプランニング遊の駐車場から車を出すと、ミチコのアパートのある昭和区へハンドルを切った。
 車は中古のスズキ・マイティボーイで色は黒だ。当時、国産車の中で一番安いという謳い文句で、「金はないけどマイティボーイ」というCMソングが記憶に新しい。
 底辺広告会社の新人が持ち込みで使うにはちょうど良い車だった。営業に使うため、ガソリンは全額会社負担で、これが何よりありがたい。
 桜通りを東に進み、栄のネオンを通り過ぎて車道まで来ると、再びネオン街の灯りが前方の空を染めているのが見えた。
 名古屋駅、栄町と並ぶ名古屋の繁華街、今池だ。特に交差点を囲む大型パチンコ店の灯りは、街路灯が不要なほど明るい。
 こういった街につきもののヤンキー系の人種が運転するガタイのでかいワゴン車や、街を裏から仕切っているヤクザの高級車などが、我が物顔で走っている。共通するのは車体色が真っ黒か真っ白で、顔とも言えるグリルがダースベーダーのように厳ついことか。
 久利の運転する軽自動車などは、虫けらのように扱われている。トヨタ自動車のお膝元である名古屋圏は、厳格な車ヒエラルキーができていて、どんなに金のない若造でも、車には金をかけるのだ。
 春岡を越えたところで左折し、急に車が少なくなる。住宅街なのだ。
 川名公園に面した、川名荘という二階建てのコーポの前で車を停めた。各階三部屋ずつで、ミチコの部屋は二階の端だった。
 階段を上がると部活帰りらしい男子高校生がいた。ミチコの部屋の前で困惑している。
「留守なの?」と聞くと、
「ご家族の方?」と逆に聞き返された。
「勤務先の関係者でね。様子を見に行けって言われて来た訳よ。君は?」
「関悠紀夫っていいます。
 ルイさんの同級生だけど、もう一週間も休んでるので、プリント持参しました」
 聞くと、ルイさんってのはミチコの妹で高校二年生だという。姉妹揃って行方がわからないというのは尋常じゃない。
 隣の部屋のドアがガチャリと開くと、学生風の男の顔が覗いた。そして、
「昨日の夜中に、一騒動ありましたよ」と恐る恐る切り出した。
 男は近くの私大の三年で、昨夜、ゼミの準備をしていた時、その騒動を聞いたのだという。
 会話の内容はわからなかったけど、男の大声と女の怒りの声が異様だった。
 複数のもつれるような足音が階段を降りて、車に乗って去る気配がしたのだという。
「見なかったの?」
「怖くて無理ですよ。触らぬ神に祟りなしってやつで、部屋の中で凍り付いてました」
 そのとき、ブレーキの音がして表の道路にくすんだ緑色のワゴンが停まった。車体の横に、木の葉の擬人化したキャラが描かれている。ウインクしてVサインをしていた。
 ドアが開くと社内に流れていた音楽が大音量で流れ出す。
「あ、あの車ですよ」と学生。
 女が一人、よろめくように降りてくると、車内から男の大声が何か言い、ドアを閉め切らないうちにタイヤを鳴らして走り出した。テールライトを目で追いかけると、公園の角を回って今池方面に走り去って行くのが見えた。
「バカヤロー!」
 車に向けて叫んだ女こそ、ノンノンのチーママ・ミチコだった。
 二階から見下ろしている久利達を見上げると、はあっと大きくため息をついているように見えた。
 ミチコは階段を上がってくると、隣の学生に頭を下げると「ざわつかせてごめんね」と謝罪した。
 悠紀夫には「心配かけてごめんね」と告げて家へ帰らせた。
 部屋の鍵を開けて、久利を部屋上げると、
「ママの指示?」と聞いた。
「ああ、ママ心配してた。俺もね」と久利。
「優しいのね」
「俺の心配は広告費の集金だ」
 ミチコはふんっと笑うと、
「ルイを人質に取られてる」と吐き捨てるように言った。
「人質?」
「ルイ、やばいバイトしてたのよ」
「やばい?」
「デートクラブ」
「高校生だろ?」
「黙ってたのね、きっと。私がもっと見てあげなければならなかったのに」
 名古屋市内をエリアにしたデートクラブだという。街中の電話ボックスにペタペタと張られているカードに記された番号に電話すると、ラブホテルを指定され、そこへデート嬢を派遣してくれるシステムだ。
 クラブはその送迎と仲介をするだけで、実際の「性の売買」はデート嬢の自主性に任されているというのが表向きで、実際には売春斡旋である。
「なんで人質に」
「テレフォンクラブに電話をかけて、クラブを通さずに一本釣りをやってたのよ。それがクラブの逆鱗に触れて、損害賠償せいやって」
 テレフォンクラブ、いわゆるテレクラは、フリーダイヤルの通じる店で、男客はそこに掛かってくる女性の電話を待つ。友達の居ない女性や出会いを求める女性が広告を見てそのダイヤルにかけてくる。言わば「出会い」をビジネスにしたものだ。
 六年ほど前から流行し始め、成田アキラのルポマンガで爆発的にヒットした。後輩の山村もちょくちょく通っているらしい。
「上手いこと考えたな、妹さん」
「何、言ってんのよ」
「いや、マーケティング的には、って意味な」と慌てて言いつくろう久利。
「私がいけなかったんだ、仕事にかまけて」
 ミチコとルイの姉妹は二人で暮らしている。聞くと、両親からの虐待から逃れるためだという。
 親の虐待、夫婦間のDV等、病んだ時代だと世間では言われていたが、単に今まで隠されてたものに日が当たり出しただけかも知れない。
「ねえ、久利ちゃん、助けてくれない。ルイには将来もあるの。警察沙汰に巻き込まれたくないの」
「場所は?」
「しっかり覚えている」
 もう引き返せないなと久利は覚悟を決めた。

 名古屋市中小企業振興会館、通称・吹き上げホールの前で停車した。時刻は21時を回っている。
 乗ってきたマイティボーイは、そのまま若宮大通に路駐してハザードランプを点滅させる。助手席にはミチコが座っている。
 乗る前には「可愛い車ね」と言っていたのだが、ここまで来る間に軽自動車の狭さに閉口したようだ。むっつりと押し黙っている。妹が心配なのだろう。
 ここは片側四車線で中央分離帯はテニスコートほどの幅がある。百メーター道路という異名を持つ。名古屋市を東西に走る大通りで、南北に交わる久屋大通とともに名古屋最大の道だった。追突の心配はあるまい。
 久利は、ホールの前の電話ボックスに飛び込むと、受話器を上げテレフォンカードを挿入した。会社から支給されているカードで、ピンクの文字で「広告ならアドプランニング・遊」と描かれている。一昨年に作られた社の「十周年記念カード」だった。
 呼び出し音の後、
「県警中署です」という女性の声。
「久利と申します。防犯の都倉さんお願いします」と言った。
「お待ちください」とオペレーター。
 待つほどもなく、都倉が出た。
「珍しいな、同窓会でもあるのか」と聞き慣れた声が言った。久利にとっては大学の少林寺拳法部の同期だった。
「ちょっと野暮用でね。教えて欲しいんだ」
 聞きたかったことは、例の木の葉キャラのワゴン車のことだった。
「あれは、エバーグリーンっていう産廃回収会社で、ちょい訳ありだ」
「どんな訳よ?」
「王道会の企業舎弟だ」
「企業舎弟? 例の暴対法の締め付けから逃れるために、構成員のチンピラ達に合法的な仕事をさせるための方便という」
「文藝春秋の記事だとそうなるな」
「じゃ、その車に乗ってる奴は王道会の構成員ってわけか?」
「または準構成員かそれ以下か。まあ無関係じゃないわな。
 何か関わってるのかよ、おまえの仕事に?」
「仕事と言えば仕事だが」と、久利は大まかな事情を話した。
「やんわり脅されてる感じだな」
「今から、乗り込んで、穏便に話を付けて来るんだが、一時間経っても俺から電話がなかったら、ここに電話して欲しいんだ、俺がいるから」と例のデートクラブのフリーダイヤル番号を告げた。
「たまたま俺が夜勤でよかったな」と都倉。
「君にも、いずれお手柄になる件かもよ」
「期待はしてねえよ。まあ怪我には気をつけろよ」
「まだ体は動くから怪我はしねえと思う」
「俺が言ってるのは、怪我をさせるなってことだ」
 以前、チンピラに絡まれて「過剰防衛」で相手を怪我させたことがあったのだ。
 都倉の奔走で不起訴にはなったが、有段者は素手でも武器携行と同じ扱いを受けると痛感したのだった。
「了解」と言って苦笑いすると電話を切った。
 いよいよ敵陣だ。

※この物語はフィクションであり、登場する個人、団体、企業、事件などはすべて架空のものです

第2話 「世界で一番熱い夏」(1992年夏)(後編)

 丸太町の交差点を左折して裏通りに入ると、そのマンションが見えてきた。
 一頃流行した煉瓦風の外装の茶色い壁で、入り口にはブロンズの龍の像が鎮座している。豪奢なムードをこれでもかと演出していて、判りやすい高級車をこれ見よがしに乗り回すような名古屋の成金達に媚びた建物だった。
 特にこの不動産屋の扱うマンションには、一発当てた成金が多く、審査の基準も甘いのかヤクザ関係や風俗営業のオーナーなど、通常は入居を断られるような住人が集まる傾向があり、久利たちの業界でも有名だった。
 マンションの駐車場からエバーグリーンの営業車が出ていくところだった。若い娘を二人、後部座席に乗せている。
 産廃の営業仕事のない夜間は、デート嬢の送迎に活躍しているのであろう。
 ロビーに入ると、管理人室の窓の横に紙が貼ってある。「来月、オートロックの工事が入ります」というお知らせだ。
 築二十年ぐらいのこのマンションも時流には乗ろうと言うことか。とりあえず、今夜はエレベーターまで自由にアプローチできる。
 エレベーターに乗るとミチコは四階を押し、
「角部屋よ」と言った。
「人数は?」
「社長と電話番、そして運転手の三人。後は待機の女の子達」
「どんなタイプ。話が通じるタイプかとか」
「背後をちらつかせて脅すタイプかな」
「なるほどね」
 エレベーターを出て部屋の前に立った。ドアには何の表札もない。
 久利はレンズの死角に回った。
 ミチコがインターホンのボタンを押すと、
「どなた?」とぶっきらぼうな女の声が返ってきた。
「ミチコよ。追加持ってきた」
「どうぞ」という女の声は眠そうだ。
 錠を外す音。
 夜十時を回って深閑と静まりかえった廊下には意外と大きく響いた。
 ドアが開くと、薄いネグリジェの若い女が立っていた。ネグリジェを透かして胸に入れた刺青が見える。下にはパンティしか履いていない。
 女は少し酔っ払った様な声で、
「翔ちゃーん、ミチコさん」と奥へ声を掛けると玄関横の寝室に戻った。
 脱ぎ散らかされ女物の靴が何足も転がっている。その靴を跨ぐようにして、ミチコと一緒に部屋へ入った。
 玄関から続く廊下の奥に、居間と続きになったダイニングキッチンがあった。事務机が向かい合わせに二台置かれている。およそ事務仕事は似合わない涼しげな風貌のイケメンと、頭を青々とそり上げた若い男が座っていた。東映Vシネマに出てきそうだ。襖を隔てた隣室からはテレビゲームの音と女達の話し声が漏れ聞こえてくる。ポケベル持たせる待機が主流の今、部屋待機とは古風だなと感じた。
 奥のデスクに腰掛けているイケメンがミチコの横に立つ久利を見て、
「ミチコ、誰やそいつ」と言った。
 関西なまりだが、本物の関西なまりかどうかはわからない。名古屋のチンピラは凄む時に関西弁を使う奴が結構いるのだ。
 久利は営業マンらしくアドプランニング・遊の久利だと告げた後、
「先般、ミチコさんがお渡ししたお金、店のお金なんですよ。それを返してもらいに来ました」
 坊主頭が、
「寝ぼけたこと言ってんじゃねんよ。怖い人呼んで痛い目みるぞ」と薄笑いしながら続けた。
「あのお金の中には、ウチにお支払いいただく広告費も入ってまして、それをいただかなければ社へ戻れないのです」と言って微笑む久利。営業用の明るい声で、一向に動じていない。
「聞いてんのか、怖い目見るぞ」と坊主が怒鳴った。
「ウチの回収会議ほど怖いものは滅多にないっすよ」と笑顔で言い、
「自分、怖いの慣れてますから」と今度は地声で続けた。
「私」という主語をさりげなく「自分」に変えている。この主語で語るのは昔から軍隊や底辺大学の体育会(しかも武道系)に限られている。つまり、こっちも、ただの一般ピープルじゃねえですよ、と久利は示唆しているのだ。
 大学で四年も少林寺拳法をやっていたので、怪我しないように殴られるのは得意だ。それを活かして刑事事件に誘い込むという最終手段も念頭に置いていた。
 幸い、今日は白いシャツを着ている、鼻血などが出ても第三者に判りやすいアピールができる。
「てめえ!」と立ち上がり掛けた坊主をイケメンが押さえた。こいつが翔ちゃんなのだろう。
「ルイは?」とミチコが叫ぶと、隣の部屋との間の襖が開いて、
「姉ちゃん」という声。
 隣の部屋はデート嬢達の控え室なのか、数人の娘達がお菓子を頬張りながらTVゲームをやっていた。モニタの中で星の形のキャラクターが飛んだり跳ねたりしている。
 びっくりしたような目でこちらを見つめている娘がルイなのであろう。確かにミチコと目元が似てる。
 特に拘束されているようには見えなかった。何しろ手にはファミコンのコントローラを持っている。
「兄さん、つまらんことで喧嘩は損だぜ」とイケメン翔が言った。
「同感です。お金さえ返していただければね」
「それじゃウチの体面丸つぶれやん。業界内に示しが付かない」
「お得になるような面白いことも考えついてるんですけど」
「面白いこと? なんやねん、それ」と、翔が食いついてきた。
「ルイは、事務所通さずにテレクラで客をとったと聞いてますが」
「そうや。これは金だけの問題やないで、いざというとき、危険な客からルイを守ってやれないってことでもある」と坊主が口を添えた。
「そうですよね」と言いながら、それを売春の斡旋って言うんだよ、と喉元まで出かかる言葉を押さえ、
「自分は仕事でテレクラの広告とか扱う関係で色々聞いてますけど。あの業界、掛かってくる電話の本数が少ないと客が離れちゃうんですよね」と続けた。
 男達の顔から怒気が消えた。興味を持ったようだ。
「あと、掛かってきた電話の相手と性的な関係に持ち込めたという成功体験が口コミで広がると店も喜ぶんです。あのマンガみたいにね」
 あのマンガとは言うまでもなく成田アキラの「テレクラの秘密」シリーズだ。
 話している久利の目は、クライアントをたらし込む営業の目になっていた。
「テレクラのお店と契約して、客がいるのに電話が全然ない時間に、お宅のデート嬢が店に電話を掛けるんですよ。どうせ待ち時間があるんでしょう。電話一本につきいくらと料金決めておく。そして客が拾えたらそれは結果的にお宅の売り上げになるでしょうが」
「確かにな」と翔。
「おまえ、頭ええな」と坊主。
「ただ、高校生に客斡旋しては駄目ですよ」
「高校生だって?」という翔に久利は目線でルイを示した。
「おい!」とイケメン翔が坊主を睨んだ。
「すんません。ルイは来月18歳だってことで、まあいいかと」
「ばかやろう。気をつけろよ。暴対法で、ちょっとでも隙を見せたら潰されるんだぞ、今は」
 そのときデスクの電話が鳴った。坊主が慌てて受話器を取り、外見からは想像もできないような声で、
「エスコート・クラブ・雅(みやび)でございます」と言った。そういう屋号なんだ、と久利は苦笑い。
 スピーカーから、
「県警の都倉というもんだが、そこに久利っているか」と言う声が聞こえた。 二人の狼狽が伝わってきた。
「すみませんね。保険替わりです。話は円満に解決したって伝えますので替わってください」と久利は微笑んで手を伸ばした。
 坊主から受話器を受け取った久利は、
「心配掛けたけど、誤解は解けたぜ」と言って不安げな二人にウインクした。
 翔はデスクの上の手提げ金庫を空けると銀行の封筒に入ったままの現金をミチコに返した。
 坊主がルイを連れてきてミチコに預ける。
「ありがとうな。じゃまた一時間後に俺から電話する」と言って久利は続きの電話を切った。
「お手数掛けました」
 久利はそう言うと、ジャケットから一枚の紙を出した。市内のテレクラの一覧表だった。
 実はアドプランニング・遊では扱い媒体であるレジャー雑誌「プレイギャル」でテレクラ特集を企画していたのだ。
 1ページ20万円の広告掲載料を小分けにして売りさばく連合広告という手法で、地方紙や地方版やタウン誌など、先輩社員達の言葉を借りれば「広告業界の底辺の仕事」だった。
「このリストに当たってみたら?」
「いいのかよ」と坊主。
「どこも過当競争で電話が鳴らなくて困ってるからねえ。さりげなく電話してくれるところ知ってるよ、って言っとくわ」
「あんた、こういう交渉ごとになれてるね」と翔。
「蛇の道はへび、ってやつですよ」と言って久利苦笑いを返した。
 一種のはったりだが、嬢たちにポケベルも持たせず、部屋で待機させるような周回遅れのクラブだからいいだろうと思った。
 自分でもこの笑顔は不敵な面だろうなとも意識していた。そういう演技ができるのも営業の力のうちだ。

 一夜明けた、翌日の夕方。
 中区丸の内三丁目にある四階建ての雑居ビルに傾いた日の光が射している。
 一階の壁には水道協会ビルという銘板が嵌められているが、それよりも派手で大きな「アドプランニング・遊」(業界では、アド遊と略されている)という看板がその上に掛かっている。
 かつて、名古屋市の外郭団体が入っていたビルで、その団体が整理消滅した後に、ちゃっかりと潜り込んだようだ。
 アド・遊のメインの扱い媒体は、中部スポーツ、地元の夕刊紙・中京タイムス、最近名古屋に進出した夕刊紙・日刊ゲンザイ。さらには、名古屋観光というパチンコチェーンが出している「プレイギャル」という風俗情報誌も扱っていた。
 この扱い媒体を眺めれば、この広告会社がどんな会社かは一目瞭然だ。
 地元に本社があるブロック紙・中部新聞のスポーツ紙「中部スポーツ」の広告集稿用の末端代理店としてもかなりの扱いを持っているため、新聞社の子会社アド中部エージェンシー(略してアド中)のサブ代理店にもなっている。
 回収会議は午後いっぱいかかった。 四階の会議室から、疲労の色の濃い社員達が出てきた。この後、三々五々、夜の街に散っていく。愚痴や文句を吐くために、安い居酒屋で飲む連中、後の半分は、これから営業周りに出る連中だ。
 ビル一階の自販機コーナーで、ベンチに座って缶コーヒーを飲んでいる久利のところに、憔悴しきった表情の山村がやってきた。
「久利先輩、昨日はありがとうございました。今回はあれのおかげで、多少ですが専務達のあたりが柔らかかったです」
 そう言った山村の頬には流れた涙の痕があった。
 会議の席上では、「君の回収、上手くいってるのはみんな手伝ってもらった件ばかりじゃないか」と言った指摘で部屋中から失笑が漏れたのだった。
 その笑いは、自分たちが専務などの管理職の攻撃対象から外れている安堵感でもあった。
 会議の間中、その連中に「じゃあ、おまえ達がやってやれよ」と叫びたいのを堪えていた。
 山村の上司や同僚は、面倒な案件との関わりを恐れて、「強面の久利さんじゃなきゃ」とか「強行班の出動ですね」などと久利をおだてあげ、問題クライアントを押しつけて逃げているのだ。
「先輩の案件はスムースな案件ばかりでうらやましいです」と山村が言った。
「いや、そうでもないぜ」と言いながら昨夜の一件を思い出している久利。
 あれをスムーズとは言えないだろうと苦笑いが浮かぶ。

 テレクラ・リンリンは新今池ビルの地下にある。同じ並びには個室ビデオ・ドリーマーやピンク映画専門館・今池地下劇場などがある。昭和の末ごろから、こぎれいになっていく名古屋の地下街の中で、この地下街だけは今でも薄暗く汚かった。
 リンリンは冷房がよく効いていた。まくった袖から出した肌がひんやりとしている。
 店長にプレイギャル掲載広告原稿のゲラ拝をお願いしていた。
 確認を待っている間、さりげなく出入りする客を見ていた。三十にさしかかったばかりのサラリーマンが目立つ。
 なんだか山村を思わせるような地味で奥手な男達。従来ならお見合いなどで身を固めるはずの男達が、平成の世の恋愛至上主義の世相に煽られて、不器用に恋愛活動に挑んでいるのか。
 電話ブースのある個室から、頻繁に着信の音がするが、瞬時に受話器が取られる。
「ウチは早取り競争でしてね。そのかわり通話時間に課金してます」と店長が言っていたことを思い出した。掛かってきた電話を誰よりも早く取るために、男達は受話器を持ってボタンを押さえて待つのだ。彼らは着信と同時にボタンを放すため、電話のベルは「リン」と鳴るか鳴らないかで取られているのである。
「これで結構です」と言った店長の声で久利は我に返った。
「じゃ、次号から三ヶ月の1クールで掲載しますんで」
 そう答えて、OKの署名をもらった原稿をアタッシュケースに戻していると、店長が声を潜めて言った。
「久利さん、さっきやばそうな坊主頭がさくら電話の営業に来たんですよ」
「へえ、そうなの」と平静を装う久利。
「でも、うち、もう別の所と契約してるんですよ」と店長。
「え? そうなの? そんな仕事有るの?」
「テレクラは、みんな大なり小なりやってますし、中にはデートクラブの資本が入った店もあるわけよ」
「なるほど、みな考えることはいっしょだねえ」
 平然と答えた久利だが、背中のあたりを汗が一筋流れたのがわかった。どうやら冷や汗のようだった。
「で、その人、どうしたの。おとなしく引っ込んだ?」
 店長はニヤリと笑うと、
「ウチのやってるデートクラブから、うちの嬢が掛けてるから大丈夫です、って言ったら帰ったよ」と小声で言った。

 新今池ビル地下街のリンリンを出て地下鉄駅へ向かう地下通路で、例の坊主頭が待っていた。オーバーサイズ気味のダメージジーンズをズリ下げて履いている。昨今はチンピラヤクザもグランジなのか。
 きびすを返して戻ろうとすると、そこにはイケメン翔が退路を断つように立っていた。今夜の出で立ちは、まさに、客引きに出てきた錦三のホストだった。前後を挟まれたのだ。
「昨日はどうも。奇遇ですね」と腹をくくって言うと、
「偶然じゃねえよ」と坊主頭。
「昨日は、使えないビジネスプランをありがとう」と翔。
「他社が早かっただけで、プランは悪くないでしょう」ともうやけくそだ。
「一緒に来てもらおうか、組の事務所に」
「話なら、ここでもできるけど」
「事務所でしかできないこともあるわけよ」と坊主が舌なめずりをした。
 ジーンズの尻の方から何かを取り出した。二本の樫と思しき棒が鎖で繋がれている。ヌンチャクだ。
 そのとき、今池地下劇場の入り口から寄り添うようにして出てきたカップルが、そのヌンチャクを見て「ひっ」という声を上げて駅の方に小走りで逃げていく。カップルは男同士だった。この劇場はそういうハッテン場として有名なのだ。
 久利は顔に苦笑いを浮かべ、ヌンチャクを指さすと、
「これで過剰防衛にはならねえな」と呟いた。
 その笑みが引き金になった。
「舐めやがって」
 坊主が右手のヌンチャクを順手に持ち直すと、久利の左のこめかみを狙って振り抜いてきた。
 その坊主の右手を左手の押し受けで停めると勢いの付いたヌンチャクの棒は、久利の傾げたこめかみを掠めて、坊主頭の鼻を直撃した。
 そのまま坊主の右手首を引き、肘の上の急所を締めると、坊主はつま先立つように飛び上がりヌンチャクを取り落とした。天秤という技だ。坊主の鼻から一筋血が流れる。
「てめえ!」という翔の声。
 見るとパンツの尻ポケットから白い何かを取り出している。手のひらに収まるような形。どうやらバタフライナイフのようだ。
 翔がそれを開こうとした時に、
「そこまでだ、止めておけ」という声がした。
 180センチ近い上背のスーツ姿の男だった。ダブルのスーツをだらりと前開きに着ている。シャツの襟はイタリアンで、七十年代末のセンスだ。
「親っさん!」と翔は、頭を垂れて挨拶をした。
 どこかで見た覚えがある顔だ。
「おまえらにゃ、荷が重い相手だよ。学生少林寺あがりだ」
 え? と思ってもう一度顔を見る。
 大学同期の近藤だった。応援団、副団長をやっていた。当時より太っているのですぐにはわからなかったのだ。
「久しぶりだな」と声を掛け、
「この業界だったのかよ」と続けた。
「ま、親の家業が稼業ってことかな」と近藤。
「笑えねえ洒落だ」と言う久利に、近藤はがははと豪快に笑った。
 唖然としている翔と坊主に、
「俺の知り合いだ、もう納めてくれ」と言って事務所へ帰らせた。
「事務所って近いのか」
「ここの三階だ」
「今池国際劇場の上か」
「ああ、あのウニタ書房の上だ」
「もう、あまりこの業界に近づかない方がいいぜ」という近藤に、
「そうもいかなくてね」と久利は勤務先のアドプランニング・遊の名前を告げた。
「首まで、どっぷりつかってるじゃないか」と近藤は苦笑いし、
「困った時は言ってくれ」と言った。
 背中を向けて歩きながら、後ろも見ずに手だけをひらひらと振っていた。
 県警の平刑事・都倉に、極道の近藤。落ちこぼれの俺には、ふさわしい友人達だと思い、久利の唇が歪む。苦笑いだ。
 ふと足下を見ると坊主頭のヌンチャクが落ちている。拾い上げてまじまじと見た。「いい品じゃん」と呟いた。
 アタッシュケースから茶封筒を出し、鎖の側を下にしてヌンチャクを入れた。棒が二本突き出してるが、武器には見えまい。
 もらっていくことにした。

 カウンターの向こうでミチコと並んで働いているのはルイだった。
 和子ママはまだ来てないようだ。
「久利ちゃん、今日はおごりよ」とミチコが言い、水の入ったグラスをカウンターに置いた。
「今日はこの後、まだ訪問先があるから、おごりは次回で」と久利。
「先日は済みませんでした」とルイが頭を下げた。
「まあ、あんな連中とつるんでては駄目だよな」
「てへっ」とルイは舌を出した。やることがマンガっぽい。
「例の悠紀夫君は? 心配してたぜ」
「あの、だっせい子?関係ねえすよ」とルイは半笑いだ。
「どんな奴がいいんだよ」
「翔さんみたいなタイプ」
「カスの極みだな」と久利は吐き捨てた。そして、
「悠紀夫みたいな奴が、おまえのようなズベ公を日常に引き留めておいてくれるんだぜ」と続けた。
「ず、ズベ公? それ何」
 どうやら、既に死語らしい。
「悪い、忘れて」と言ってため息をつく久利。
「本当に、この子ったら。もうこの店で監視しながらバイトさせることにしました」とミチコ。
「あそこはもう止めたわ。もっといい仕事見つけたし」
「もっといい仕事?店のバイトだけじゃないのかよ」と聞くと、
「違うよ、今池のマニアなお店がね、古い下着を買ってくれるの!」とルイが言った。
「ブルセラショップか」と、もう一度ため息をつく久利。
「履き古しを1300円で買ってくれるのよ」とルイ。
 そのとき店に流れる有線の曲アップテンポなロックに換わった。
「この歌、大好き!」とルイの顔がぱっと輝く。
 プリンセスプリンセスの「世界で一番熱い夏」だった。
 この娘の底抜けの明るさは、たくましさかもしれないなと思った。

 ☆

 平日の夜なので、ビデオレンタル・ルックの店内に客の姿はなかった。立地が名古屋との市境に位置する長久手町。しかも周辺には造成中の宅地が広がっていて、荒野の中の一軒家的なイメージだ。
「久利ちゃん、君の言ったソフト、未だに借りられていてね、十分ペイしているよ」と店長が嬉しそうに言った。
「嬉しいですね」
 久利が提案したのは5年前に風切られた「ゆきゆきて神軍」という原一男監督のドキュメンタリー映画だった。
 話題になった割に公開期間が短く、見逃した映画ファンも多かった。
 ビデオでリリースされた時、この作品を仕入れるかどうか迷っていた店長に仕入れを勧めたのが久利だったのだ。
「市内のレンタル屋で、この作品置いてるのウチだけみたいで、この長久手の店に瑞穂区から車飛ばして借りに来てくれるのよ」と店長が驚いた。
 以来、ちょっとマニアックな作品を集めていくことで、多くの個人経営のビデオレンタル店が廃業していく中で、この店は健闘を続けていたのだ。
「近くのレンタル店にない作品でも、この店にはある、って重要な武器だわ」と店長。
 多くのレンタルチェーンが売れ線のソフトを大量に購入して一気に大勢の客にレンタルする戦略をとるなか、この個人店は、レアな作品を網羅して、図書館的なポジショニングに成功しているのだ。
「今度の五周年だけど、地域版で記事広告うちたいんだけど、久利ちゃん書いてみない」と店長が言った。
「いいんですか?」
「例のビデオの話で、ビデオ図書館っぽくファンを獲得したウチの店をさ、植草甚一とか、雑誌ポパイのコラムみたいなノリで書いて欲しいんだよなあ」
「ええですね、そういうの得意です。ライター料金なしでいいので、僕に書かせてくださいよ」
 広告扱いだけでも、いい料金になる。何より、クリエイティブな広告の仕事に飢えていたのだ。
「君は、そういうコラム、上手いと思うんだ」
 店長はそう言ってニヤリと笑った。 底辺かも知れないが、やっぱり広告の仕事は面白い。だから止められないんだよな。
「ありがとうございます」
 そう言う久利の笑顔には皮肉な色はみじんもなかった。

第3話 「サヨナラ」(1992年秋)(前編)

お洒落な住宅が並ぶ通りを抜けると真新しい地下鉄駅に出た。高層アパートとショッピング街が印象的だ。
 夕暮れ時の表通りはきらびやかな灯りに映えて、行き交う人々も若やいだ雰囲気である。名古屋市名東区の藤が丘駅だ。
 地下鉄とはいうものの、二つ前の上社駅からは地上を走っている。駅舎も高架の上で未来感があった。
 東へ東へと街が拡張してきた名古屋市の一番新しく急成長中の街が藤が丘だった。
 駅前の中京銀行の駐車場に止めた車の中で、久利と山村は今回の回収作戦を練っていた。
 助手席で回収表を見ていた久利が顔を上げると、
「一年半ってのは長いけど、遅れてる理由は何?」と聞いた。
「やっぱり、問い合わせがさっぱりで、腹立ててるんです。もう今は新聞紙じゃない、求人誌の時代だったのに騙されたって」
「信頼度が欲しくてあえて中部新聞だって言ったの社長の方だろう?」
「ええ、当初ウチからは求人誌を提案しました」
「で、結局問い合わせゼロだったんだ」
「一件はあったそうですけど。決まらなかったと」
「じゃあ、社長の言い分はヤクザの難癖とかわらんじゃん」
「そ、そうなんですけど」
「請求書の再発行は?」
「二回出してます」
「一年半で二回は少ないなあ。毎月出すことも圧になるんだぜ」
「それも嫌みっぽくて、ちょっと抵抗がありまして、」
「払わねえ方がよっぽど嫌みだよ」
 どうも社長が難物らしい。実際、会ってみるのが一番だ。
「まあ、当たってくだけろだね」
 久利はそう言って助手席の背に深々と背を預けると、
「ゴー!」と言った。

 その工場は藤が丘の駅から程近い長久手町にあった。
 造成中の宅地の外れで、宅地以外の三方は畑であった。広々と広がる荒野の中にぽつんと立っているようにも見える。
 自動車部品の孫請け工場らしい。
 部品倉庫の一角が仕切られて事務所になっていた。
 久利と山村は、その事務所で社長と対峙していたのだ。四十代前半だろうか、髪に白いもの混じり始めた中年である。他には地味な印象の事務の女性がデスクで伝票仕事をしているだけだ。
「すまんね、どうやらウチの検収漏れだったようだ」と社長が薄ら笑いを浮かべて言った。
 年下の久利と山村を、見下すような態度だ。いつも元請けの企業担当からこんな扱いを受けているんだろうなと久利は思った。その反発が自分より格下の広告会社の若い営業に向かうのだ。
「まったく効果のない広告だったから、出したことも忘れていたよ。支払いを忘れるのもしょうがないね」と皮肉たっぷりの物言いだ。
 山村は困ったような笑みを浮かべて、
「社長は毎月そうおっしゃるじゃないですか」と泣き声で言った。
「請求書再発行してくれた?」
「今まで二回出していますよ」
「二回じゃ少ないよ」と言って社長は嘲るように笑った。
 山村は舐められている、と久利は感じた。
 社長の態度は、自分より小さい動物を玩具のようにいたぶる猫科の獣を思わせた。
「社長、今回は再発行した請求書を持参いたしました」と久利が封筒を渡した。
「判った、じゃあ月末の支払日に予定しておこう」と社長は言った。
「いや今回は、明日お願いします。また来ますので」と久利はきっぱりと言い切った。
「おいおい、ウチの支払日を無視するのかねアドプランニング・遊さんは?」
 久利は手にしていたバインダーノートを、目の前の机に力一杯叩きつけるようにして置いた。
 バン!
 事務所中にその音が響く。
 ぎょっとして凍り付く社長。久利の「堪忍袋の緒が切れた」という演技だ。
「社長さんよ、今まで御社の検収漏れで散々待ってきたんですよ。
 しかも私どもは、二回も請求書再発行して辛抱強く待ってきたんだ。
 まともな会社は検収漏れなんてしない! ところがお宅はその二回でも検収漏れしてる。
 最後ぐらい、こっちの都合に合わせるのが礼儀ってもんでしょうが」
 呆然と立ち尽くす社長。
「明日、お支払いください。そうしないと、また月末にはお忘れになってるかもしれないじゃないですか?」
 そう言った久利は、皮肉たっぷりに満面の笑みだ。それが返って底知れない。
「じゃ、また明日来ますので」
 久利はそう言うと、山村の方を向くと、顎で「行くぞ」とサインした。

 翌日、アドプランニング遊の一階の自販機コーナーである。エレベーターホールの一角に自販機と灰皿が置かれ、喫煙スペースにもなっていた
 終業間近の夕暮れ時、窓からは日没直前の薄暮の空が覗いている。頻繁にエレベーターのドアが開き退社する連中が降りてくる。
 ベンチに座って缶コーヒーでブレイクしている久利に、内勤の女の子たちが会釈をして帰って行く。
 帰れるのは経理や総務の内勤だけだ。営業は、このベンチでエナジードリンクを飲んでまた夜の街に営業に出る。ご丁寧に自販機の腹には「24時間戦えますか」というリゲインのポスターが貼ってあった。
 ベンチに腰を下ろしている久利の元に山村がやってきた。手にはそのリゲインを持っている。
「先輩、昨日はすっとしましたよ。
 今日、午前中に行ったら、社長の奴すんなり払ってくれました」
 山村の声は弾んでいた。
「あの手の奴は、相手がおどおどしてると図に乗るタイプだからなあ。俺みたいにヤクザになる必要はないけど、堂々としてればいいんだよ」
「それが僕には難しい。全然反響なかったといわれたら、すいませんって言っちゃう」
「そういうときは、謝罪はするな」
「どう言えばいいんですか」
「残念です、でいい」
「そうなんですか」
「すいません、と言うと、罪を認めたなと思われて相手は図に乗る。悪いことはしていないんだから、残念ですという気持ちの表明にとどめておくんだよ。クレーム話法ってやつだ」
「先輩、すごいですね」
「普段から隙は見せない。今回のように、追い詰められてから、ヤクザの様に凄んで一発逆転するのは最低の方法さ」
 そう言うと、久利は飲み終えたコーヒー缶をボックスに投げ入れた。

 開店前に撮影を終えることができて久利はほっとした。プレイギャル誌の広告記事用の写真である。
 ここは女子大小路にあるキャバクラ・JJだ。
 女子大小路は、かつてここにあった中京女子短大(現・至学館大学短期大学部のこと)にちなむ名前で、300メーター弱の距離から小路と呼ばれている。この街が居酒屋、スナック、クラブ、ゲイバー、ホストクラブ、外人パブ、音楽系クラブなど1700件以上の店が集まる名古屋第一の歓楽街だったせいか、女子大という名前が性的なアイコンとして通用するせいか今でも延々と女子大の名が残っている。だが、最近はその名古屋第一の座を錦三丁目、通称錦三(きんさん)に奪われつつあった。
 チーフの黒服と挨拶をしてカメラマンを返した頃、喧しい娘達の声が聞こえてきた。店のキャバ嬢たちがバックヤードから現れ始めたのだ。
 全員、女性らしさは強調しているが全体的に落ち着いているところは、キャバクラがタイム制とはいえクラブに準じるエロのない接客業だからか。
 それでも髪やアクセサリの端々に各人の個性が残っていて、髪を盛ってる娘や、メイクやネイルにギャルの片鱗を漂わせてる娘もいて面白い。
「あら、久利ちゃんじゃない」という声を掛けられ驚いて振り向くと、そこに静香がいた。

 内藤静香と初めて会ったのは中学一年の春だった。
 放課後の部活の後、教室へ戻った時のことだ。扉を開けた途端、きゃあという悲鳴に振り向くと、着替えている最中の静香が脱いだ体操服で前を隠して叫んでいる。
 慌てて教室を出た。当時、久利の通う田舎の中学には部室がなかったのだ。
 着替えの終わった頃、教室に入ったのだが、なんとも気まずい。
 慌てて詫びる久利に、静香と一緒にいた女生徒が大爆笑をした。マンガみたいな出会いだと。それが二人の救いになった。
 それがきっかけで静香と友達になったのだ。冗談が言い合える異性の友達。
 彼女を異性として意識し始めたのは三年生になってから。それでも表面は友達のままだ。
 卒業式を翌日に控えた朝。朝礼に際してのフォークダンスの時間に、静香と初めて手を握り合った。
 その別れ際、静香は久利の手を離す寸前に、ぎゅっと握って来た。
 はっとして顔を見ると、なんとも不思議な表情で見つめている。
 これは、告白なのか?
 だが、それを確認することなく二人は卒業して別れ別れになったのだった。
 いや違う。夢いっぱいで都会の高校に進学するあの春、久利は田舎の中学の思い出と一緒に静香を過去に封印したのだ。

「卒業以来じゃん」という静香の声。
「静香、キレイになったねえ」という久利の声もうわずり気味だ。
 大人の化粧をした内藤静香は、少女の頃の面影をかすかに残しているからこそ、とても美しく感じられた。
「シズカです、よろしく」と言って静香は名刺を渡す。
「店ではカタカナなのね」と頷く久利。
 開店前の儀式が始まりかけ、久利は会釈をすると店を出た。
 彼女は今、どう暮らしているんだろうか。今度はじっくり話してみようと思った。ここへは仕事で何度も来る予定だしな。
 この年になると、愛した女より、愛してくれる女の方がずっと大切なのだということが判ってくる。
 久利の頬に浮かんだ笑みには、珍しく皮肉も悲しみもなかった。

 ☆

「さあ、今朝のお買い得情報は、本日から発売のフレークアイス、フミちゃんどうぞー」
 元気いっぱいの女性MCのアナウンスで、カメラが切り替わり、ピラミッド型に紙パックの積まれたテーブルの前の娘に切り替わる。
 ここは、中区大須二丁目の名城テレビのスタジオだった。
 久利はスタジオの隅でクライアントとオンエアの様子を見ている。
 クライアントは名城牛乳の専務だ。広告扱いは別代理店なのだが、商品プロモーションの案として持ち込んだ「試供品頒布当日のテレビモーニングショーでの告知」を採用されて今日に至っているのだ。
 アドプランニング遊のような弱小広告会社は利益を上げるために何でもやる。
 久利自身、キャラのぬいぐるみに入ったことも珍しくないし、大須のイベントでは信長になり、名城公園を舞台にしたイベントでは加藤清正にも扮したことがある。
 今回はコスプレがないだけ、まともな仕事だよな、と思っている間にオンエアは無事終了した。
「専務、では視聴者プレゼント用に後日送り先住所FAXしますんで」という久利に、
「ありがとう、商品プレゼントで、こんなプロモできるとは助かるよ」と専務。
「てっきり、もうご存じかとおもってましたよ」と笑いながら、暗に、現在お取引中の広告会社さんは教えてくれなかったんですね、というビームを浴びせ続けた。
「自分、少し後片付けがありますので」と言って、専務がスタジオを出るまで頭を下げて見送る久利に、
「商売上手やねえ」と言う声。
 D(ディレクター)の長谷川だった。今回の話を振ってくれた本人だ。
「また同じようなネタがあったら教えてください。新規クライアント開拓のええネタになりますんで」
「ところで、最近、書いてる?」
「いや仕事が忙しくてそっちには手が回りません」
「惜しいなあ。佳作まで獲ってるのに」と長谷川。
 佳作というのは、東京にある名城テレビのキー局が主催した「ビジネスドラマ原作大賞」のことで、昨年の第二回で久利の応募作品は佳作四編の一つに入っていたのだ。
 好景気を反映してか、佳作四編の賞金が各50万円、大賞ならば300万円という賞金総額500万円が売り文句の大盤振る舞いだった。
「広告の仕事も小説と同じぐらい面白いもんでして」と久利は苦笑いした。
 本音を言えば、まだ才能に自信がなく、名古屋から東京の出版社まで営業には行く勇気も金もなかったのだ。当然、会社を辞めるわけにもいかない。
「久利さん、実は相談があるんだけど」と長谷川が声を落として言った。そして、指でスタジオの外を指し示す。「場所を変えて」というサインだった。

 名城テレビの一階ロビーには喫茶ルームがある。部外者は入れない場所で、タレントやマネージャーが打ち合わせに使ってたりもする。窓の外には若宮大通りが走っている。幅広い歩道に植えられている銀杏が黄色く色づき始めていた。
 その窓際のテーブルに長谷川と向かい合って座った。
「相談ってなんですか」
「ちょっと固めのドキュメンタリー作りたいんだ」
「珍しいですね」と久利が驚いたように言った。
 名城テレビは名古屋の民放では最後発で、10年前の1983年に開局していた。CM料も他局より一桁安く、局の営業が「同じ予算でうちなら10倍の本数出稿できます」とやけ気味に豪語するほどだった。
 確かに他局のタイムテーブルで数カ所に線が引かれる程度の予算でも、名城テレビのタイムテーブルだと全面が赤線で真っ赤になっていた。
 クライアントからも「大砲と言うよりマシンガンだね」と褒めているのか笑っているのかわからない評価が出ていた。
 ドキュメンタリーを作る、そんな冒険じみたことをやれるようになったのかと感慨深く感じた。
「ウチはゲリラみたいな戦い方してる局だけど、やる時はやりまっせ、って感じだよ」
「その意気やよし、ですかねえ」と久利。
「うちでもさ、ATPのテレビグランプリドキュメンタリー部門に挑戦しようってことになってね。社会問題や裏社会に関して切り込めるネタ探してるんだよ」
「そういうことを知ってそうな相手というのが俺ってことですか?」
「そのとおり!」と長谷川。
「あまり嬉しく感じないのはなぜだろう」と久利、苦笑い。
「それって卑下することじゃないよ。ジャーナリズム的には」
「俺はジャーナリズムにも一抹の懐疑心を持ってまして」
「あら、聞き捨てならない」
「第四の権力・マスメディアって、政府や体制だけでなく、個人にも牙むいてる側面ありますからね」と言った後、ニヤリと笑って、
「とインテリ気取ってみました」と続けた。
 長谷川は、
「深夜帯でニュース番組のコーナーの拡張のような形で企画したいな」と言った。
 久利の目を見つめると、
「何かネタあったら耳打ちしてよ、お願いね」と言った。目は笑っていない。真剣だった。
 長谷川はレシートを取ると、
「ゆっくりしてってね」と言って立ち上がった。
 まあ、長谷川のようなDに頼られるのも悪くはない。特に弱小代理店の営業としては。

 ☆

 若宮大通りとクロスする久屋大通りは、名古屋の中心部を南北に走り栄町、矢場町という繁華街を繋いでいる。
 隣接するエリアには名古屋市役所を始め県庁などの庁舎が集まる官庁街、百貨店の集まる栄町などがある。
 六年前に東急ハンズをテナントとするアネックスビルが建ってからは、若い客が集まる街になっていた。
 最近ではバドワイザーの協賛するビアガーデンが評判になり、その会場を闊歩するバドガールが話題になった。
 週末の土曜日だけあって、人通りは多い。その賑わいを横目に、久利は表通りを一本裏に引っ込んだビルの地下一階にいた。
 個室ビデオ・ドリーマーの栄店だった。広告掲載誌(例のプレイギャルだ)を届けに来たところだった。
 この店は平日のサラリーマン客がメインの客層なので土曜日の客は少ない。
 暇そうな店長は、
「菊池えりさんのサインもらったんですよ」と壁に貼った色紙を誇らしげに示していた。
 店内には個室ビデオに来る淋しい客達の孤独感が漂っている。
 早々に仕事を終えると、階段を上がった。昼下がりの陽光が眩しい。休日出勤の久利にとっては、週末の華やいだ喧噪もまた眩しさの対象だ。
 歩道のそこここで露店が出ている。外国人が目立った。手製のクラフトっぽいアクセサリーや偽ブランド品の店が多い。以前は、この手の店はイスラエル人が多かったそうだが、五年前のイラン・イラク戦争以来、難民として流入したイラン人も多かった。
 県警の都倉に言わせれば、裏で変造テレカや違法薬物なども売っているらしい。もっとも匂わせるだけで、詳しくは語らなかったので、彼にとっては裏取り中のホットな案件なのだろう。
 夜までタイトな予定もなかったので噴水広場に足を向けた。
 ギターの音と歌が聞こえてきたからだ。
 噴水を背にしてギターを抱えた青年が歌っている。アップテンポのパンクっぽい歌で、歌詞に少し文学性を感じた。ブルーハーツから火が付いたJパンクってやつか。髪は短めでユニクロっぽいコーデは地味目だが、それが歌で勝負してる感あった。何よりメロディラインにオリジナリティがある。
 傍らにはギターケースが置いてあり、そのケースが投げ銭の受け皿を兼ねているのだろう。白いコインと数枚の紙幣が入っていた。
 その傍らにはシングルCDが置いてあり、「シゲル」というミュージシャン名を書いたPOPが置いてある。
 少し離れた所に折りたたみ椅子を置き、恋人と思しき娘が座っている。曲に合わせて楽しげに体を揺すっている。
 内藤静香だった。すっぴんに近い薄い化粧はJJの時よりずっと学生時代の彼女を思わせた。
 そうか、今の彼女の心をつかんでいるのは彼なのか。
 彼らの前に半円を書くようにして聴衆がいる。まだそれほど多くはないが、それでも足を止めて聴いているのだ。
 一曲歌い終えるとシゲルは頭を下げた。拍手が湧く。
 静香も聴衆を煽るように大仰な動きで手を叩いていた。
 オリジナルの曲と併せて、「夏の魔物」などスピッツの曲も歌っていた。悪くない。

「彼女こそが、僕のファン第一号だったんです」とシゲルが言った。
 静香はその横で嬉しそうに微笑んでいる。
 久屋大通りの東にある喫茶店のテラス席だった。
「彼女の人を見る目は間違いないぜ」と言いながら久利は笑った。その笑いに自嘲が混じっているのは久利しかわからない。
「CD、今ちょっと話題なのよ」と静香。
 インディペンデント、要は自費プレスなのだが、それが天白区にある本屋の店頭で話題になっているという。
「あの店か」と久利は呟いた。
 ヴィレッジヴァンガードという尖った本屋で、店頭に飾ってある英国車MGミジェットが話題になり、お洒落系タウン誌でも頻繁に記事になっていた。置いてある本もこだわりがうかがえて、特にサブカル系の本が多かった。
「おかげで、名古屋のミュージシャンからお声も掛かるようになって、いよいよ前座でライブハウスに出れるようになったの」
「でも気がかりなことが一つ」とシゲル。
 静香もその言葉に顔を曇らせた。
「音楽業界って、薬系の事件少なくないのよね」
「覚醒剤か?」
「ううん、葉っぱの方。アーチスト界隈は葉っぱなのよ」
「大麻か。ダウン系なのね」
「そう、でも大麻から入ってシャブへ行く人もいて」
 その話は県警の都倉からも聞いたことがあった。大麻でダウンさせた後、覚醒剤でアップさせるのが効くらしい。そこまで行くともう重症だと。
「まさか君たちやってるの?」
「シゲちゃんはやってないけど、」
「お世話になってるジョージ先輩がどっぷり浸かってて、それが見てて苦しいんです」とシゲル。
「おまえもアーチストならやれよ的な圧もあるんだって」
「童貞を小馬鹿にするヤリチン先輩の心理か」と久利。
「ねえ、久利ちゃん、助けてくれない?」
「ええ?」
 この既視感は何? と久利は思った。
「ノンノンのママから聞いたのよ、久利ちゃんって事件屋だって。トラブルメーカーだって」
「それを言うならトラブルシューターだよ、ていうか俺は広告マンであって事件屋じゃねえし」と憮然として答える久利。和子ママの無邪気な笑顔を思い浮かべてため息をついた。
「その先輩、イラン人の売人ともうツーカーで」
 そりゃ、警察だろうと言いかけたが、静香の真剣な目に見つめられると断ることもできない。この目力は静香ではなくシズカの方かもなと思った。

第4話 「サヨナラ」(1992年秋)(後編)

 新今池ビルのテレクラ・リンリンの店頭だ。店長が退屈そうに店番をしている。
「景気はどうっすか」と聞いてみた。
「ぼちぼちね。警察に睨まれてるし」
「警察?」
「犯罪の温床になってるんじゃないかって」
「確かに準風俗っぽいけど」
「以前、恋人商法ってあったじゃない?」
「ああ、百科事典やダイヤモンドね」
 恋人商法とは独身の男性に声を掛けて友達になり、三度目のデートで「実は」と高額な百科事典やダイヤモンドの原石を売る商法である。
「ああいう孤独につけ込む連中が、テレクラに来る寂しがり屋の男を狙って電話掛けてくるらしいのよ」
「あの手この手ですねえ、って感心しちゃいけないけど」と久利は苦笑い。
 こんなネタが聞けるのも営業の面白さだ。
「で、君の方は最近はどう?」と店長が上を見た。
 このビルの三階にあるヤクザの事務所を指している。大学の同期の近藤が若頭か何かをしてるらしいが、先月ちょっとしたことで関係ができてしまった。
「あれ以来会ってないですよ。関係もありません」と苦笑いする久利。
「あそこも大変だったんですよ。昨年は」
「あれですか」と久利。
「あれ」とは、昨年、名古屋で頻発した暴力団の抗争事件である。地元の連合会が解体されて、その多くが神戸系の王道会の傘下に吸収されているのだ。神戸の組織のトップが、名古屋の組織に移ってきたとも言われている。
 三階にある近藤の所属する組もそのとばっちりを受けたらしい。もともと近藤の組は中村区のソープ街大門を縄張りに抱えていた地付きの組だったはずだ。
「デリヘルなんかの風俗を裏で牛耳るグループ企業作ろうって話があって、今、この界隈はきな臭いのよ」
 このテレクラ・リンリンもその渦中にあるらしい。
「私はその手の関係では、無色透明ですから」と久利は念を押しておいた。そんな関係、広告商売では百害あって一利なしだ。
 次はリンリンの隣の個室ビデオ・ドリーマーだ。ここへも掲載誌を届けに入る。
 四方の壁中のアダルト・ビデオが迫力だ。ウインドーはポスターで塞がれ外からの目線をシャットアウトしている。
 バスケットを手に提げた客がカウンターから個室に向かう。バスケットには、ビデオとおしぼりと飲み物が入っている。
 客も店員もお互いに目線を合わせないのがマナーってところか。
 リンリンといいドリーマーといい、性欲ビジネスは廃れないなあと感じた。
「ねえねえ、久利さん、長久手のルックさんの記事書いたのって君だってね」
 店番の青年が言った。言葉使いがややお姉系だ。
「ええ、ど、どこでそれを?」
「中部ユニバースの営業からよ。彼もルック出入りしてるから」
「ああ、そうですか」と合点のいった久利。
 中部ユニバースとはビデオ作品の卸元である。
「この記事広告書いた人、映画好きなんだなってわかりました」と青年。
「ありがとう。うれしいな。私、シナリオとか独学してたんで」
「僕も映画好きでしてね。映像専門学校出てるんですよ」
「ええ、そうなの? 意外!」
「で映像だけでは食えませんから、こうやって色々バイトを」と言って店を見回して笑った。そして、
「映像の方の仕事もAVの撮影助手ですけど」と苦笑い。
「だからサインもらえるんだ」と壁に貼られた菊池エリの色紙を見た。
 時々小説を書いてる久利にとっては、夢を追う同志に出会った気分だった。「ご武運を」と言って店を出た。
 ドリーマーを出たところで、後輩の山村を見た。声を掛けようとして思いとどまる。
 山村は、今まさに、テレクラ・リンリンに入っていったからだ。他人の恥部を見たような気分だ。
 淋しさ持て余してるのだろうか。久利は広告業界に入ったばかりの昔の自分を思った。
 大学の体育会で武道ばかりやっていた久利は、お洒落な私大の広告研究会で女子大生達とちゃらちゃら遊んでいた連中が跋扈する広告業界では浮いていた。
 押っ取り刀で、ジタバタとファッションやライフスタイルを変えたのだが、三年後に、そんな自分に強い自己嫌悪を感じて、一人で文芸趣味に戻っていったのだった。
 そんな昔の自分を見ているようで、山村という後輩は久利の心にとげのように刺さっていたのだ。

 翌日の午後だ。アドプランニング・遊の本社である。
 三階の会議室で今まさに回収会議の真っ最中だった。営業が全員集められ、未収案件の報告をする。異様に回収の遅い案件や信用度の低い客先をチェックする。
 普段、営業から軽視されている経理が、このときとばかりに居丈高になる会議でもある。
 経理部長の花沢が、
「山村君、今月はかなり未収減って大変だったね」とねぎらった。
「ご心配掛けて。残りも頑張ります」と平伏する山村。
「久利さんもありがとうな。後輩のために奔走してくれて」と言って言葉を切った花沢は、
「でも山村君、君の解決した案件は久利さんが関わったものばかりじゃないか。自分で解決したものひとつでもあるか」と言った。
 山村はうなだれて机の上を見ている。会議の席上で公開リンチかよ、と久利は思った。
 失笑の声も漏れてくる。笑ったのは営業の吉良だった。青学出身で広告研にいたという絵に描いたような軽薄さで、ある意味世間が抱く広告営業の姿でもあった。
「久利さん、君にも問題はある」と花沢は続けた。
「もう少し、穏やかにやって欲しいんだ。お客からはあの男は何だ、とか、もう二度とお宅には頼まんとか苦情の電話が半端ない。そこんところよろしく頼むよ」
 久利はかちんときた。
「言わせていただきますが、ここまで山村の案件がこじれても、彼と一緒にクライアントのところへ行って頭を下げた上司や仲間が居ましたか?
 みんな、難を恐れて逃げてたじゃないですか。俺のことを強行班だのなんだのとおだて上げて、逃げ回ってるじゃないですか」
 会議室がしんと静まりかえった。
「うちのような客筋だと否応なくヤクザと絡んだりする時もあるけど。社の利益や営業の安全守るために、事務所に行くのいつも俺じゃないですか」
 ぐるりと見回すと、管理職の連中も困ったように視線を外す。
 久利は立ち上がると、
「次の仕事がありますんで」と言って会議室を出た。
 もっと大人になれよ、と内心自分にぼやきながら、それでも言いたいことを言い切った気持ちよさは否定できなかった。

 一階の自販機コーナーで、缶コーヒーを片手にベンチに座っていると会議を終えた営業達が降りてきた。
 吉良が、
「先輩、怖い物知らずというか、さすがですね」と早速すり寄ってきた。
「やけっぱちの裏返しだよ。いつ辞めてもいい会社だし」と久利はとことん自嘲気味だ。
 吉良の後にやってきたのは山村だった。
「先輩、すみません」
「いきなり謝罪かよ。もっと自信持て。最近、やばい体験の数ではおまえが一番だぜ。それを自信に変えるんだ」
 山村は失敗も多いがそれを隠したり糊塗したりはしない。だから助け甲斐があるのだ。
 吉良などは、いいかっこをするために未収案件を自腹を切って解決してると思われるケースがあったからだ。
「先輩、明日の夜、クライアントと飲むんですけど、先輩も一緒に来てくださいよ。日頃のお礼です」
「うちで接待できるクライアントって珍しいじゃん」
「あのパパイヤ共済さんですよ」
「あれか」
 パパイヤ共済とは、五年前に設立された中高年の年金対策を目指す壮年組合の貯蓄型定期である。労働組合や農協などの共済スタイルで、組合にも農協にも入っていない中小企業のサラリーマンを中心に話題になっていた。
「どこからの紹介なんだよ」と聞くと、
「アド中さんです」と山村。
 アド中とは、正式にはアド中部エージェンシーという中部新聞の専属広告代理店である。
 アドプランニング・遊のような小代理店は中部新聞とは直取引ができないため、アド中を通して広告を投げるのである。
 中部スポーツの場合、広告掲載のバックマージンは30%なのだが、アド遊は5%をアド中に落として25%が取り分になるのである。
「ゆくゆくは全労済や県民共済みたいな大クライアントになるかもしれません」
 そういう山村の顔は野心に満ちていた。
 彼が元気で意欲的なのは悪くない。ただ、アド中がそんなおいしい客をすんなり紹介してくれることが解せなかった。直で扱えない何かがあるのだろう。

 その夜、キャバクラ・JJのカウンター席である。この店は大半がボックス席だが、カウンター席も4席だけあるのだ。久利はその端っこに座っていた。
 店はまだ空いている。混み出すのはこの後二時間程後か。
「あれよ」とシズカが顎をしゃくった先のボックスに二人組の男がいた。
 一人は痩せた中年で、もう四十は優に超えているだろう。肩まで伸ばした長髪に白いものが混じっている。絵に描いたようなミュージシャン姿に、これがジョージ先輩だろうと思った。
 もう一人は、小太りの中年で、夜だというのにサングラスをかけ、鼻の下には髭を蓄えていた。太ったフレディ・マーキュリーといったところだ。興業関係者だろう。
「ジョージさんすごい」というキャバ嬢の嬌声が聞こえてくる。
「彼、有名なの?」と聞くと、
「四年前にヒットを飛ばしてる。夜のヒットスタジオで、ちょっとだけ映像流れたのよ」
 聞くと、ランク外の注目曲というコーナーだという。わずか数秒のインサートだが、それでも名古屋ではスターなのであろう。それが名古屋だ。
「彼のプッシュでシゲルは注目浴びたから、恩はあるんだけど」とシズカの気持ちも複雑そうだ。

 あくる翌日の栄公園、噴水広場だ。
 名城テレビのディレクター長谷川が同行していた。
 シゲルの歌が終わって聴衆が拍手を送っている。
 静香は隣に立って、シングルCDを手売りしていた。
「いいんじゃない? 無名の新人を通して、夢を追う現代の若者心理を描く」と長谷川。
「地方の音楽シーンを背後から蝕むドラッグカルチャーとかもね」と久利が言うと、
「それは、あくまでハプニングという形でね」と長谷川、苦笑い。
 シゲルがギターを抱えてやってきた。
「こちらが、このあいだ話したディレクターの長谷川さん」と久利が紹介すると、シゲルはぺこりと頭を下げた。
「君の活動をドキュメンタリーで追いかけたいんだ。それを通して現代の若者にとっての夢や希望を探りたい」
 長谷川の熱っぽい言葉に、
「光栄です!」とシゲルは頬を紅潮させた。
 静香もやってきて、凄いよシゲちゃんと背中を叩く。
「もう、やばい連中とは手を切らなきゃな」と久利。
「テレビのドキュメンタリーが入ると聞いたら、先輩達も引いてくれると思います」
 そう言うとシゲルは静香と顔を合わせて微笑んだ。

 長谷川と別れると、久利はアネックスビルに向かい、その地下にある地下鉄久屋大通駅への階段を降りた。
 黄色い公衆電話が五台並ぶ電話コーナーがある。NTTのムーバが登場して以来、携帯電話ユーザーが現れて、最近はここも少し空き始めていた。
 おなじみ会社支給のテレホンカードを挿入すると、県警中署に電話を入れた。
 呼び出し音の後、
「中署です」という女の声。
「久利と申します。防犯の都倉さんお願いします」と言った。
「お待ちください」とオペレーター。
 待つほどもなく、都倉が出た。
「早いなあ」と驚くと、
「うちの部内ではおまえのことは、俺の情報屋って扱いになっている」と都倉がさらりと言った。
「ええ? かんべんしてくれよ。おまえもか」と苦笑い。
「おまえもかって、どういうこと?」
 久利は客先から事件屋扱いされている現状を伝えた。
「おまえらしいな」と笑った上で、都倉は声をひそめ、
「その葉っぱネタ、俺たちも協力するぜ」と言った。
 どうやら、別の筋から追いかけていたらしい。
「シャブと一緒にイラン人が持ち込んでる。で、ヤクザの資金源につながってるんだ」
「シゲルや静香に害がないようにしたい」
「任せとけ、麻取(マトリ)とも競合してるから極秘案件だ。メディアには出ない」
「その節は頼りにしてるぜ」と言って電話を切った。

 その夜、久利は山村と一緒に中区丸の内にある料亭・河甚にいた。
 河甚は名古屋市最古ととも言われる老舗料亭で、信長の清洲越しで名古屋に来た商人・河原屋甚左衛門が始めたと言われている。
 官民問わず接待で使う分には間違いない店だった。
 広い座敷席の上座にパパイヤ共済理事長の大友達彦が座っている。
 五十歳前後だろうか、白髪交じりではあるがまだ髪はふさふさで、メタルフレームのメガネが金融機関の理事長らしさを醸し出していた。
 その右手には、三十前後の女性が秘書然として控えていた。肩の張った今風のスーツが、今風の出来る女を主張していた。
 久利に向かって艶然と微笑みながら、
「秘書の大友ユリでございます」と名刺を出した。
「大友さんというと?」と久利が聞くと、
「ええ、達彦の娘です」とユリは微笑んだ。
「こんな優秀な娘さんがスタッフとは、理事長もご安泰ですね」と久利は歯の浮くような台詞を平然と口にする。それが嫌みにならないのは「技」なのだろう。
 感心したように眺めていた隣の山村が、理事長の空いた杯に気づき、素早く徳利を差し出す。
「先生、どうぞ」
「山村君、君とアド遊さんには、来る参院選の広告もお世話になるつもりだからよろしくな」と理事長が言った。
「先生、ご出馬の噂は本当でしたか」と久利。
「共済組合の理事長として、国政の場で働きたい思いが昂じましてね」と苦笑を浮かべる理事長に、
「体がいくつあっても足りませんよ」とユリが笑った。
「今後も山村をよろしくかわいがってやってください」
 久利はそう言いながら、どうしてアド遊なんだろうという疑問が頭を離れないのだった。

 翌日の午後。久利はマイティーボーイの助手席に山村を乗せパパイヤ共済本社に来た。
 共済の本部は、東区清明山の近くの国道沿い、四階建てのビルの一階と二階に入っていた。千種区の閑静な住宅街に隣接している。ビルの三階と四階は小さな貸ホールになっている。隣の駐車場が時間貸しを併用してるのは地価の高い東区だからか。
 パパイヤ共済ビルと銘打たれてはいるが、当の共済もテナントの一つに過ぎないことは密かに調査済みだった。
 理事長に昨夜のお礼をした後、大友ユリと打ち合わせのある山村と別れ、久利はビル一階のホテルのようなエントランスロビーでソファに座って山村を待っていた。
 受付嬢はどこかの事務所からの派遣だろうか、しっかりとした受け答えの美人である。
 このスタッフ、栄の「電通名古屋ビル」レベルだなと久利は思った。スタッフ派遣会社も電通や放送局には選りすぐりの美女を送り込むのだ。
 同時に「名城テレビより格上だわ」とも想い、直ぐに「すまん」と心の中で同局に詫びた。
 ビルのドアが開くとブリーフケースを下げた一人の男性が入ってきた。
 まっすぐに受付に向かい、
「理事長にご面会したい」と言った。
「お約束はございますか」と受付嬢。
「何回も電話したけど取り次いでもらえなくてね」と男は皮肉な笑みを浮かべた。
「お名前をお願いします」
「梶田晋平法律事務所の梶田です」
 受付は「かしこまりました」と言うと、内線電話を取って声をひそめて梶田の来訪を告げた。
 内線から返った答えに対して、
「ええ、受付に見えてます」と言った。
 受付女性は梶田に、
「内容を伺ってもよろしいですか?」と聞いた。
「先月来、お問い合わせをしてる契約者の解約の件ですよ。ちなみに書面でも問い合わせてます」
 受付女性は「かしこまりました」と頷くと、
「こちらでお待ちください」と久利の目の前のソファを指した。
 梶田は久利の正面に座った。
 どこかで見たことのある男だと思って見ていたら、相手の方も同じような目でまじまじと見返してくる。
「あのお、」とどちらからともなく切り出した途端、
「久利か」
「晋平か」と同時に声が出た。
「卒業以来だな」と言う梶田に、
「もう十年以上経ってるし」と久利。
 高校の同級生であった。聞くと東区で法律事務所を開いているという。
「検事になってる奴もいるぜ、隣のクラスの稲葉とか」
 久利の高校は地元の名門校だったので、同窓生には法曹界や検察界に進んだ者や国家公務員、医者や学芸関係が珍しくない。
「知らなかったよ」と言うと、
「久利は同窓会とか全然来ないしな」と梶田。
「まあね」と答えながら、行かない理由は君たちが眩しすぎるせいさ、と心の中で答えた。
「今日は、何?」と聞くと、
「守秘義務があるからそれはちょっと」と口を濁す。
 そこへ山村が戻ってきた。見送りに来た大友ユリが、梶田の方に向かい、
「梶田さん?」と聞き、「こちらへ」と言って奥へ誘う。
 梶田と目で挨拶を交わした久利に、
「あの方、お知り合いだったんですか?」と山村が聞いた。
「高校の同窓生だ」と答える。
「あの人、ちょくちょく来てるみたいですけど」という山村。
 その時、久利のポケットベルが鳴った。見ると記憶にない番号だ。
 受付で電話を借りた。
 呼び出し音一回で電話が通じた。
「久利ですが?」
 電話の向こうからは半泣きの女の声が、
「助けて!」と言った。
 静香の声だった。
「シゲちゃんと一緒だけど、久利ちゃんを呼べって」
「あんたが久利か。いろんな所に首突っ込んでるってな」
 受話器の向こうの声が男に変わった。
「一度じっくり話そうやないか」
「何の話だ」
「取材の件だよ」
 男はジョージだった。久利は今すぐ行くことを告げると場所を聞いた。堀川沿いの倉庫街だった。
 電話を切ると山村に二カ所への連絡を頼んだ。名城テレビの長谷川と中署の都倉だ。
「午後の会議、遅刻しますって言っといてくれ」
 久利は山村にそう言いおくと、駐車場に置いてあるマイティーボーイに向かった。
 車の中は熱かった。日射しは秋だが、車内はまだ夏だった。ウインドを空け風を通す。
 イグニションを回してエンジンを掛ける。
 グローブボックスの中を探って最初に触ったカセットテープを取り出してプレーヤーに挿入した。
 パット・ベネターの「ハート・ブレイカー」のイントロが流れ出す。
 ギアをローに入れ、アクセルを踏む。と、
「テンション、上がるぜ」と呟いた。

 水主町まで出た後、堀川西岸沿いを南に向かうと直ぐにその倉庫は見つかった。
 倉庫としては小さいが、壁に鮮やかなペンキで「スタジオ・J」と描かれている。こんな時でも、その書体が「インパクト」と「Times New Roman」と判るのが広告マンのサガだった。
 スタジオの名前の下には、消えかけた文字で中西興業と書かれていた。
 扉の前に白人の男が一人立っていた。半袖から覗いた二の腕には軍隊で入れたと思しき刺青。ファッションモデルもかくやという恐ろしいほどのイケメンでもあった。イラン人だろう。
 車を降りると流ちょうな日本語で「久利さん?」と聞いてきた。
「いきなり呼ばれてね」と答えると、
「こっち」と言って中へ誘われた。
 倉庫の中は音楽スタジオに改装されていた。中央には折りたたみ椅子に座らされたシゲルと静香。その前のソファにジョージが座っているのが見えた。
 入り口にはジャージを着た若い女が咥えタバコで立っている。これまた彫りの深い顔立ちで浅黒い肌からラテンアメリカのメスティソ美人だと思われた。
 夜の納屋橋近辺に立っているコロンビア娘らしい。うっすらとほうじ茶のような匂いもした。
 ソファにふんぞり返る男に
「あんたがジョージさんか」と聞くと、
「そういうあんたが、シゲルをつけあがらせた久利ってか」とジョージ。
 久利より十歳ほど年長だけあって舐めたような言い方だ。
「久利ちゃん、ごめんね」と半泣きの静香。シゲルの顔には殴られた痕があった。
「シゲルの取材の件だけど、窓口を俺の事務所にしてくれないか」とジョージが猫なで声で言った。
「若い奴に大麻を強いる様な奴の事務所は信用できないんですよ」と久利はうっすらと苦笑いを浮かべて言った。
「凡人に何が判る。アーチストには大麻の刺激も必要なんだよ」とせせら笑うジョージ。
 舐めてるのは久利が一般ピープルだからか。その歪んだアーチストしぐさが久利のルサンチマンを刺激した。
「未だにウッドストック気取ってるのですか。四半世紀前ですよ。そんな周回遅れだから、名古屋でくすぶったまま後輩いびりしか楽しみがねえんじゃないの?」
 うっと言葉を飲み込んでいるジョージにたたみかけるように、
「本当に才能ある奴は薬なんかに頼らねえよ」と、思い切り挑発した。
「てめえ!」と判りやすい反応をするジョージを、イラン人がまあまあとでもいうように押さえた。
「ジョージさん、太いお客なのよ。私も、それ守らないとねえ」とセールスマンのような口調。
「アムジ、ちょっとお灸を据えてやって」とジョージが言った。
 アムジと言われたイラン人はニヤリと笑うと指の骨を鳴らして首を回した。
 久利より頭一つは身長が高い。胸板の厚さも二倍ほどありそうだ。洒落にならない。
「アムジ、ケ ボニート(すてきよ)」とコロンビア娘が嬉しそうな声を上げた。
 アムジは素早く近づくと左手で久利の胸元を掴んだ。久利は待ってましたとばかりに、その手首を掴んで閂に固めようとしたが微動だにしない。恐ろしい筋力だ。
 呆気にとられた瞬間、アムジの右拳が顔面に飛んできた。唇が笑っているのが見える。尻餅をつくように腰を落としてアムジを前のめりさせ拳の勢いを減衰すると同時に、相手の左脚に右膝をぶつけるようにして絡めて倒した。柔道の足がらみだ。
 相手の上に乗りマウントを取ったが一瞬にしてひっくり返され、逆に首を絞められる。
 薄れる意識の中で、軍隊武術にはかなわねえと思った。イラン・イラク戦争で数年前まで戦場駆け回ってた連中だし。見よう見まねの柔道技は少林寺拳法しかやってない俺には無理だったのねと反省していた。

 意識が戻ると、久利はスタジオの隅で寝かされていた。
 警官と思しき男女で周囲は騒然としている。
「薬物反応あり」
「尿検要」など警察用語が飛び交っている。
「気づいたか」と声を掛けられた。
 見ると都倉が笑っている。
「俺、落ちてたの?」
「ほんの一瞬な」
「まさか本当に来てくれるとは」
「表に停まってるマイティボーイが目印になって直ぐ判ったぜ」
「静香とシゲルは?」
「無事だ。彼らは協力者って立場だから心配するな」
「ありがとう助かったよ」
「こっちもイラン人組織を切り崩していく端緒になったかもしれん」
 周囲を見るとジョージが手錠を掛けられていた。
「小便なんて出ねえよ、さっきしちゃったし」と叫んでいる。
 刑事の一人が、
「カテーテルで膀胱から直接取るから痛いけど我慢しろよ」と言った。
「え?」と、呆気にとられるジョージ。
「カテーテル持ってきました」と言ってやってきた女性刑事がジョージに向かってにやりと笑う。
「滅多にない体験かもね」と久利は呟いた。
 表に出ると、長谷川がいた。カメラクルーを伴っている。
「いい絵が撮れましたよ」と言って久利にウインクすると、クルーと一緒に警察の動きに併せて場所を移動した。
 ちょうど手錠を掛けられたイラン人がパトカーに乗せられるところだった。
「ディオス ミオ!」とコロンビア娘が半泣きで叫んでいる。
「イランの売人とコロンビアのパンパン(娼婦)ってカップル多いんだ」と都倉が言った。
「孤独感で惹かれあうんだろうな」と呟く都倉の横顔は、社会学を専攻してた学生時代を思わせた。
 アムジの車からの押収物には売人の携帯電話番号が書かれた変造テレホンカードや覚醒剤などもあり、違法コンビニとでも言えそうなアイテム数だったらしい。

 ☆

 店内にはサザンオールスターズのバラードが流れていた。
 開店直前のキャバクラ・JJである。
「今日はJ・POPデーでして、みんなで歌おうよ、なんです」と黒服。
 久利は広告掲載誌を届けに来たのだった。
 チーフの黒服は、
「広告は好評でして、オーナーも喜んでました」と言った後、
「そうそう、シズカさんシゲルと一緒に東京に行きましたよ」と教えてくれた。
「そうでしたか」と久利は初めて聞いたように答えた。
 実は、静香からその話は聞いていた。ジョージらの大麻関係の噂を絶つために新天地へ行くのだという。
 名古屋にいるよりはずっと可能性はあるだろう。夢のために名古屋を飛び出せる二人が少しうらやましかった。

 その日の終業後、久利は丸の内三丁目のゴールデン・プラザビルにいた。
 スナック・ノンノンのカウンターだ。店内には小さなボリュームで有線放送が流れている。
「ひどいじゃないですか」とカウンターの向こうの和泉和子ママにこぼす。
「ごめんなさいね。こんな大騒動になるなんて」と和子は笑っている。
「今の俺、この近辺のお店の駆け込み寺みたいになりかけてます。そりゃ広告のお仕事も来てますけど、トラブルネタもあるんです。断るのに苦労してます」
「だってトラブルメーカーとして優秀なんだもん」とママ。
「いや、だからそれはトラブルシューターですよ、っていうか事件屋じゃねえですから」
 その様子にミチコも大笑いだ。
「久利さん、あまり淋しそうでなくてよかった」とミチコがグラスを出した。
「彼女とは、卒業の時にサヨナラしてるからさ」
 ミチコがそっと微笑みかけてきた。ちょっと弱ってる男はこういう笑みにコロリといくのだ。
「君は商売、うまいなあ」と久利は苦笑。
 流れる曲が変わった。イントロだけで、四月に出た「サヨナラ」(GAO)だと判る。
「好きなのよ、この歌、紅白にでるかもね」とママ。
 胸に迫るようなメロディを聞きながら久利は気づいた。
 静香とのサヨナラは、「15歳の自分」とのサヨナラでもあったのだと。

 ☆

 平日午後のビデオレンタル・ルックは客が少ない。店長も暇を持て余しているので、久利はいつも大歓迎される。
「評判上々だよ、例の記事広告」
 店長は喜色満面だった。
 壁には、その記事が貼ってあった。
「西区からも人が来るのよ」
「想定してた商圏より広いですね」
「それだけじゃなくて、あの記事広告読んだ雑誌ベリーが取材に来た!」
「そうですか!」
 ベリーは(株)アンプが発行する情報マガジンで、先行する(株)名古屋トレンド通信が発行アイラインと並んで、名古屋の二大情報誌と言われていた。
「でね、僕の友人が今池でパブ・ゴリラっていう店やってるんだけど、今度マスターを紹介するから記事広告書いて欲しいんだ」
「いいですよ、大歓迎。メディアは何ですか?」
「雑誌アイライン。
 そのお店がさ、映画やマンガや音楽やらのサブカル系なのよ。久利ちゃん詳しいでしょ、そういうの」
「ええ、ありがとうございます。テンション上がるわー」
 久利は、大きく頷きながら、胸に湧き上がる興奮に震えた。
 初めて広告の仕事で評価されたのだ。CMでもないし、「揺れるまなざし」でも「ランボー」でもないが、自分のコラムが評価されたのだ。
 これこそ広告の仕事だよ、と思うのだった。

第5話 「悲しみは雪のように」(1992年冬)(前編)

クリスマスまであと一週間。空気が澄んでいるのか星のきらめきも鮮やかな夜空の下だ。
 小牧市の住宅街は、名古屋の都心の灯りから遠いため、オリオンの三つ星まではっきりと見えた。
 午後十時を過ぎて家々からは夕餉の気配も消えている。
 この小牧市は名古屋市の北に隣接するベッドタウンだ。名古屋鉄道の沿線沿いにいくつもの分譲住宅地を抱えている。
 この田神住宅もその一つだ。まだ新しい建売住宅が並んでいて、住人達も子育て中の夫婦が多かった。
 久利は、住宅街の一角に車を停め、一件の民家を注視していた。
 山村の取引相手、銀巴里商事の社長宅である。
 滞っている未払い広告料は300万円近かった。
 社長は「必ず払う」と言いながら、絶対に久利達と会おうとしなかった。逃げているのだ。
 返品や差し押さえが不可能な「広告」という商品は、相手が潰れたり逃げたりすれば、全額を広告会社が背負ってしまう。この案件は寸秒を争う緊急案件だと感じた。
 幸い、登記簿から社長の自宅が判明した。住所を見ると、久利の済むワンルームの賃貸マンションから近い。そこで、山村に替わって出張ってきたのだ。
 玄関口では、
「主人はまだ帰ってきていません」の一点張りだった。だが、駐車場に社長の車はある。居留守だろうと判断した。
「明日、もう一度連絡します」と言って一端退いたが、明日家を出るところを捕まえて話をしようと決め、こうして車の中で夜を明かす覚悟を決めたところだった。
 うとうとしかけたとき、コンコンと車の窓を叩く音がした。目を開けると警官がのぞき込んでいる。
 窓を開けると、
「近隣の住人から、不審な車があると通報がありました。降りてください」

 翌日、出社と同時に久利はアドプランニング・遊の社長室に呼ばれた。
 部屋には社長の湯沢と経理部長の花沢がいた。
「例の銀巴里、訴訟案件になったから、もう営業は関わらなくていいよ」
 社長はにやりと笑ってそう言った。
「警察から連絡受けて、びびったよ。
債務者宅への夜討ち朝駆けは法律違反ですよと、警告まで受けました」と花沢が忌々しそうに言った。
「まあまあ、そこまでやったから訴訟案件になった側面もある」と湯沢が取りなすように言った。
「でも、もう以前とは違います。貸金業法など改正の話も出ているし、刑事訴追されては逆効果だ」と花沢。
「まあ、経理も、ここまでやらないと営業の手を離してくれないですしね」と久利は皮肉に笑った。
 花沢は苦虫をかみつぶしたような表情だ。

 一階の自販機コーナーである。久利はベンチに腰を下ろして、午前中からエナジードリンクを飲んでいた。昨夜の疲れが抜けないのだ。
 エレベーターが降りてくると、山村が出てきた。
「先輩、やっぱりここでしたね」
「最近、事務所でみんなと居るのがおっくうでね」
「僕の回収ですみません」と山村は頭を下げた。
「謝るなよ。俺も昔は先輩に救われてきたんだ」
「ええ?久利さんが」
「君みたいに何度も救われた。先輩にお礼を言ったら、この恩返しは、自分の後輩を救うことだぜ、って言われたんだ。だから気にするな。
 今度は君が後輩を救えばいいんだ」
「なんか、いい話ですね」
 そう言って山村は「はっ」と気づいたような表情になった。
「最近、そんないい話によく出会うんです。セミナーのおかげかな」
「セミナー?」
「ライフチェンジャーってセミナーですよ」
 聞くと、山村が最近通っている自己啓発セミナーだという。
「おかげでネガティブになりがちな僕も、ポジティブシンキングが出来るようになりましてね。そうすると色々な気づきがある。さっきの先輩の言葉とか」
 久利には、山村の真面目さが虚無的になる前の自分のように見えた。
 近年、彼のような地味で真面目で、いわゆる「いけてない」連中のコンプレックスや寂しさにつけ込む商売が増えている。久利はそれが少し気になった。
 エレベーターが降りてきた。
 中からはデザイナーの岩田女史たち社内の女性陣が声高にしゃべりながら降りてきた。
 岩田は久利のコラム広告などを担当していて、彼が小説を書いていることを知っている数少ない社員の一人だった。
 岩田は微笑んで何か言いかけたが、山村との深刻そうなムードを察して黙礼して通り過ぎる。他の女性達は山村の姿を一瞥し、クスクスと笑いながら通り過ぎる。
 山村は困惑したような表情で彼女たちから目を逸らした。
 失礼な連中だと思った。テレビのせいだろう。テレビで見る芸人達のお笑いネタが、「いけてない奴」や「変な奴」を揶揄したりあざ笑ったり、そんなクラスのいじめのような笑いでいっぱいになっているのだ。
 頭の悪い俺たちは、そんな芸人気取りで山村のような若者を笑いのネタにしている。まさに、山村は昔の俺なんだ、と久利は思った。

 その夜、平日だというのに、キャバクラ・JJの店内は賑わっていた。
「ご盛況ですね」と営業トークの久利に、
「宴会流れのお客ですよ。羽振り良さそうですから、せいぜい稼がせてもらいます」とチーフの黒服が答えた。
 ボックス席を二つ併せて三人の若者が掛けている。キャバ嬢と併せて五人だ。
「このコミュニケーション・スキルでどんなお客も心の壁を取り払ってくれるんだよ」
 力説するリーダーらしきイケメンを嬢たちが目をきらめかせて見つめている。他の二人は彼の話に追従するように手を叩いている。地味なスーツの若者で一人は銀縁めがね、もう一人は七三分けの髪で、山村のように「いけてない」のが特徴だ。
「店にやってくる、ちょっと自信のなさそうな男性諸君に、このセミナー紹介してね」と彼らは商売熱心だ。
 やがてリーダーは手洗いに席を立った。どこかで見た記憶のある顔だなと思ったが、相手もそのようだ。
 手洗いから席に戻る途中、久利の前にやってくると、
「その節は、どうも」と頭を下げた。
「君は、あの」
「ええ、近藤さんの組にいた如月翔です」
「組は辞めたのかい」
「おかげさまで、あれがいい機会になりました」
「けっこうなことだ。まっとうな道なら応援するぜ」
 翔はにっこり笑うと、
「今は、コミュニケーション・セミナーを主催してます」と言った。
「すごいじゃないか」
「元ホストですから」と翔は苦笑い。
「今日も、そのセミナーの打ち上げの流れです」といい、ボックス席の二人に目線を投げると、
「僕のセミナーで、彼らみたいな男でも、気軽に女性に話しかけたり出来るようになるんです。お客様と堂々と渡り合えるようになるんです」と言った。
「凄いね」と答えながら、先日勧誘を受けたデスビア・ダイアモンドを思い出していた。
 デスビア・ダイアモンドとは結婚前の若い男女にパーティーのような乗りで、結婚指輪用にダイアモンドの原石を売るマルチ商法だった。
 久利と山村は偵察をかねてそのパーティに潜り込んでいたのだ。
 主催者側の若者はポルシェに乗っているというのが自慢の俗物だった。
 英国のダイアモンドの会社、デビアスとよく似た名前に怪しさを感じた久利は、「デスビア? デビアスじゃねえのかよ」と言って主催者を慌てさせたのだった。
 山村が、
「先輩、よくデビアス社なんて知ってましたね。やっぱり日経とか読まないとな」と言ったのだが、久利は「いや、ゴルゴ13で読んだんだよ」と苦笑い。
 久利は昨今はやりの自己啓発セミナーにも同じような匂いを嗅ぎ取っていた。
 翔は久利に名刺を渡すとボックス席に戻っていった。
「伊達に元ホストじゃないな」と黒服。
「有名なの?」と聞くと、
「ホスト時代には有名でしたよ、売れっこで」と吐き捨てるように言った。少なからぬ恨みがうかがえた。店の女の子が何人もはまったのかもしれない。
 手にした名刺を見ると、セミナーの主催者名はライフチェンジャーだった。
 店を出て表に出ると山村に出くわした。同じ年頃のサラリーマンと三人組だった。
「遅くまで大変だな」と声を掛けると、
「違いますよ、プライベートです」と答えて、二人をセミナーで知り合った友人だと紹介した。近くでセミナーのパーティがあったようだ。
 二人は山村同様、人畜無害で地味な連中だった。
「そうか、思いっきり羽根伸ばしてこい」と言うと、
「僕だって広告マンなんです。トレンドに敏感にならなきゃ」と山村は力んだ。
 二人は「さすが、マスコミ関係ですね」と憧れるように言った。
 マスコミ関係とは、広告会社の営業が飲み屋で自分を飾る常套句である。本当のメディア関係者はこんな曖昧なことは言わない。
 同様に法曹関係と名乗る者は弁護士や検事ではなく司法書士だし、医療関係と名乗る者は医者ではなく薬剤師だったりする。
 久利がそんな皮肉な見方をするのは自分自身の落剥感の故だろう。
 三人の背中を見送りながら、そう気づいて苦笑いした。

 翌日の午後、アドプランニング・遊の事務所で溜まった伝票を整理している久利の元へ、山村が意気込んでやってきた。駐車場から走ってきたような勢いだ。
「正式に決まりましたよ!」
「何がだよ」
「パパイヤ共済の大友理事長が次期選挙での前進党の公認候補になったんです」
 前進党とは政権与党内の反主流派が離党して誕生した保守系の野党である。
 その公認を取り付けたと言うことは、「共済組合の理事長」という実績だけではなく、同時に多額の献金を党にしているはずだった。
「今から、今後の打ち合わせで大友理事長のところへ行くんです。同行、お願いいたします」と山村。
「わかった」
 久利は立ち上がると山村に言った。
「この件、慎重に行こうぜ」

 パパイヤ本社ビルに到着すると、入り口に立つ制服姿の警備員に驚いた。先月来たときにはいなかったはずだ。
「ずいぶんものものしいな」と久利が呟くと、
「一応、共済会社なので警備会社と契約したって聞いてます」と山村。
 受付は例の美人だ。ただ前回見たときよりは表情が暗い。疲れているのだろうか。
 久利たちに気づくと微笑んで、
「理事長たち応接室でお待ちですよ」と言った。

 応接室の豪華さは滑稽なほどだった。フロアはカーペットで覆われ、ソファとテーブルの応接セットも高価に見える。
 さすがに暖炉はないが、代わりに革表紙の何かの全集が並んだ書棚と高そうな洋酒の瓶が収まったサイドボードなどがあった。建物にそぐわない雰囲気で撮影のセットを思わせた。
 久利と山村は、そのソファで理事長の大友達彦と秘書の大友ユリと向き合っていた。
 理事長の大友達彦は地味だが高価なスーツ姿であった。
 秘書の大友ユリはえんじ色の地味なスーツだが、今風に肩が張ったシルエットだ。スカートに入ったスリットがかなり上まで来ていて、ソファに腰を下ろした時など、その奥が見えそうになる。対面に座った山村は目のやり場に困っているようだ。
「先生、党からの公認が降りたとのこと、おめでとうございます」と久利が頭を下げた。
「長年の夢が叶ったよ」と理事長。
「先生の悲願でしたものね」とユリ。
 聞くと、パパイヤ共済組合の前身である中高年の年金相談センターの頃から、国政に打って出る野望があり、日本年金党という政党まで立ち上げたことがあるという。選挙の結果は惨敗だったとのこと。
「今回、前身党の公認になれたことで、本格的に国政で活躍できそうだ」
「共済組合の方は大丈夫ですか?」と久利が聞くと、
「理事長が参院の代議士になることで、ますます盤石になるはずですよ」とユリ。
「そうそう、新たに営業部門に若いスタッフも入ってくれましたしね」と言う理事長に、ユリはにっこりと頷き、
「彼らは優秀ですよ。中高年の男女をどんどん加入させてます」と言った。
 山村は、来る選挙に備えて選挙広告の概要と法的な仕組みを説明し、併せて前回選挙の資料を渡した。
「選挙広告の表現などは、色々制限などもありますので、何でもご相談ください」と山村は頭を下げた。
「私どもも、山村さん達を頼りにしてます。よろしくね」とユリ。
 客先を出た後、山村は饒舌だった。
「大きな話になりそうですね。うれしいなあ」
 現在は印刷関係の案件と求人広告が数回だったからだ。
「よかったな」
「社内の連中に一泡吹かせてやりますよ」
 元気な彼を見るのは嬉しかったが、同時に心配も感じる久利だった。

 地下鉄久屋大通り駅のある交差点で山村と分かれた久利は、そのままアネックスビルの地下にある公衆電話コーナーに向かった。
 五台の公衆電話機がすべて使用中だ。仕事の電話を入れる営業マンらしきスーツ姿が多い。ポケットベルで呼ばれたのであろう。
 いずれは携帯電話が普及するのだろうと思われたが一体いつの頃やら。
 携帯電話の契約には保証金と新規加入料で合計15万円近く必要で、さらに通話料が別途掛かるのだ。中小企業や個人がおいそれと手が出せるものではなかった。
 ようやく空いた電話機の受話器を取るとテレホンカードを挿入してプッシュボタンを押した。
 短い呼び出し音の後「中署です」という女性の声に。
「防犯の都倉さんお願い」と告げた。
 女性の声は、緊張感を増して、
「至急繋ぎますね」と言った。
 待つほどもなく都倉の声が、
「よお、どうした」と返ってきた。
「彼女の緊張っぷりが気になるんだけど」
「ああ、おまえの名前、情報屋(たれこみ屋)って扱いになってるから。前に言わなかったっけ?」
「いや聞いてたけど、それってリセットはされないわけね」という久利の声から、ほろ苦い気持ちが伝わってくる。
 都倉は「がはは」と笑って、
「要件は?」と聞いた。
「パパイヤ共済って知ってるか?」
「最近話題の中高年向け共済組合だろ」
「ああ。そこに関して悪い噂はないかい?」と久利。
「特にはない、逆に何か悪い噂があるのか」と聞き返された。
 久利は、自分の勤務先と取引が始まりかけていること、おいしい仕事なのに新聞社の直系代理店が扱わないことなど、感じていた疑念をぶつけてみた。
「俺の口からはなんとも言えんな」と答えた都倉は、やはり何か知っているようだ。
「君の担当分野じゃない訳か?」
「経済犯・悪質商法は生活安全・防犯などのジャンルで、まあど真ん中だ」と都倉は苦笑いした。
「そりゃ言えねえわな」と言う久利に、「おまえの同級生の弁護士に聞いてみたらどうだ。あの梶田晋平先生」
「知ってるのかよ、彼を」
「この業界は狭いからな。地裁のビルでよく見かけるな。遣り手だそうだぜ」
「そうなのか」
「刑事案件が多いそうだ。相談にはもってこいだぜ」
「わかった、聞いてみる」
 電話を切ったが、警察と司法の狭い業界の両方に、首まで浸かっている俺ってどうなんだよと、苦笑いが浮かぶ久利だった。

 駅からアネックスビルを地上に上がる。栄公園の噴水広場を横目に見ながら、そこで歌ってたシゲルとそれを見つめてた静香を思い浮かべた。二人は東京で上手くやってるだろうか。
 個室ビデオ・ドリーマーの栄店は久屋大通り駅から歩いて五分だ。大通りを一本裏に入った雑居ビルの地下にある。
「毎度、お世話になってます」と言いながら店長に広告掲載誌を渡すと、
「久利さん、雑誌ベリーに載ってる、パブ・ゴリラのコラム広告、久利さんが書いてるんだって?」
「ええ? ようご存じですね」
「今池店の店長から聞いたのよ」
「ああ、そうですか」
 広告はビデオレンタル・ルックの店長から紹介されたもので、サブカル系のネタを核にした蘊蓄系のコラム記事と店の紹介をほどよく混ぜた記事スタイルだった。
「70年代のバンドデシネを持ってくるなんて、いい線行ってますよ」と店長。
「おや店長もお詳しいですね」
「今池の彼と同じで、僕もアート系なのよ。丸善でヘビーメタル誌とか買ってましたよ」と一瞬、遠い目をした後、
「あ、そうそう、今池の彼、今度AV撮ることになったみたいよ」と言った。
「本当ですか?」
「偽ドキュメント風のシナリオ書いてたし」
「へえー」と久利。
 自分と同じように創作に夢持ってる彼が、一歩目標に近づいたようで久利までうれしくなった。

 冬の日は短い。店を出て地上に出ると、早くも夕刻を思わせる暗さの空を背景に、並木に巻き付けた煌びやかなイルミネーション飾りがクリスマスムードを盛り立てている。
 大通りに戻ると、通りの反対側の歩道を歩く山村がいた。一人の女性と談笑している。
 商談であろうか、山村の態度が自信に満ちて見えるのが少し意外だったが、悪くはない。
 ここ何回かの集金同行で、彼は目に見えて成長してる。
 隣の女性に話しかける笑顔にもそれは現れていた。
 二人はセントラルパーク地下街に降りていく。その山村の背に心でエールを送る久利だった。

 アドプランニング・遊のビルは四階建てだ。一階にはビルの管理会社の事務室と玄関ホール、自販機コーナーがある。営業部は二階、そして三階がロッカールームとデザイン制作部門だった。
 三階でエレベーターを降りた久利は、制作と書かれたドアを開け、デザイン室に入った。右手に紙袋を下げている。
 制作部でデスクに向かって仕事をしていたのは、デザイナーの岩田美子だけだった。クリエイティブ職らしく、ジーンズとTシャツに暖かそうなジャケットを羽織っている。
「一人なんて珍しいね」と久利が聞くと、
「竹内君は撮影、チーフの鷲見さんは取材よ」と岩田女史が答えた。
「君の割り付けしてくれたベリーのコラム広告、お客関係で好評でさ」
 そう言って久利は紙袋を掲げて岩田女史に捧げるようにして「ありがとう」と言った。
「あら、」と驚く岩田女史に、
「フジヤのショートケーキ。三人で食べてな」と久利。
 制作の連中には予算の少ない仕事で苦労を掛けているからだ。予算不足で外注に出せず、彼ら自ら作業する仕事も馬鹿にならない量がある。
「うれしいわあ」と言う女史が、
「そういえば、」と語り出した。
 聞くと、先日の夜、デザイナー専門学校時代の仲間とディスコ・ラージマハルに言った時、そこで山村に会ったと言うことだった。
「山村もディスコぐらいはいくだろうよ」
「それが、彼女らしき人と一緒だったのよ」
 なるほど、驚きどころはそこなのか。でも、山村だって若者だ、ガールフレンドの一人や二人はいるかもしれない。
「彼も、ようやくモテネ期を抜けるのかもね」と女史。
 もてなくったってええやん、と思うのだが、普通の若者にとってはもてることが最重要課題なのだろう。それはいつの時代でもそうなのかもしれない。
 二階の営業部は雑然としている。各デスクの上に進行中の広告原稿が山積みになり、その山の合間に吸い殻が山盛りの灰皿が置かれている。漆喰の壁はたばこの煙で薄茶色に染まっていた。
 新年からは一回に喫煙コーナーが設けられ、それ以外の館内は禁煙になることが決まっていた。分煙だそうだ。
 久利は自分のデスクに座ると、受話器を取り上げ、梶田晋平法律事務所の番号をプッシュした。
「梶田法律事務所の梶田です」
 本人が出た。
「久利です。この間、パパイヤで会った」
「おお、久しぶり、その節は」
 秋口にパパイヤ共済本社ビルで会っていた高校の同期である。
「実は、」と久利は声を潜めた。事務所の連中には聞かれたくなかったのだ。
「お宅も守秘義務があろうからうかつなことは言えないだろうけど、例のパパイヤ、どうなの?
 俺の会社、取引拡大しても大丈夫なのかと不安になってね」
 梶田は電話の向こうで「そうか」と言って一瞬黙り込んだ後、
「実は定期共済の解約トラブルがある。契約者は満期になると解約の代わりに新たなスーパー定期に誘われるんだ」
「解約させたくないのはいろんな共済の常套手段だと思うけど、資産運用もしてるだろうし」と久利が聞くと、
「それが少々強引でね、満期金を出すのを極端に嫌っている。集めた金を運用してるかどうかも怪しい気がする」
「そりゃまずいじゃないか」
「あと、最近は契約者の集め方が催眠商法的で、ちとやばそうなんだ」
「あのセミナー商法とかか?」
「そう、どうやら連中の定期商品の営業をやってる外部企業があるらしいんだ」
「きな臭いな、警察とか睨んでないのかなあ」
「今は観察中じゃないかな。苦情の声がでかくなると踏み切ると思うぜ。
 俺はそうなる前に自分の依頼者の案件を片付けたいけどね」
「すごくドライなのね、晋平」と久利が言うと、
「大人になったってことかな。
 まあ、依頼者を救った後、あそこが弾けたら、他の被害者たちの組合を作って救済とかに回るのはやぶさかじゃないけど」と梶田。
「確かに。
 俺も正義のためと言うより勤務先が被害被ることの方が心配だから同じだな」と言う久利に、
「お互い、もう三十過ぎたからな」と梶田は苦笑いで答えた。
 礼を言って電話を切った。彼のような高校のOBが、検察など司法関係にはちょくちょくいた。彼の代以降は警察にもキャリアとして入庁しているようだ。
 久利の高校は自由放任で有名な高校で左翼系の学生も多かったが、70年代後期には、学生もシラケ世代となり、学生運動に走るような生徒も減っていた。体制側の官僚や司法に回る連中も少なくなかったのだ。
 一方、久利の大学の方の同期は、地方公務員が多い。県警や教員や自治体の職員が少なくない。
 そして、その両方の情報網に救われることも珍しくなく、名古屋圏という大きな市場の「田舎」的な性格に助けられてもいるのだった。

第6話 「悲しみは雪のように」(1992年冬)(後編)

 デスクワークを終えて一階の自販機コーナーへ降りてきた。
 山村と吉良が話しているところだった。ちょっと意外な組み合わせだ。
 久利に気づいた二人が、
「どうも」と挨拶をする。
「先輩、山村君、最近垢抜けたと思いませんか?」と吉良。
 その言葉に悪意がないのが意外だった。
「そうですか?」と照れ笑いする山村。
 確かに、以前のように信金の職員然とした撚れたスーツ姿ではなかった。
 紺のブレザーにフランネルのパンツ、シックなニットのベストの下はボタンダウンのシャツだった。
「そういや、”気まぐれコンセプト”に出てくる広告会社営業マンのユニホームみたいな感じ」
「なんだか、業界になじんだみたいで照れくさいです」と山村。
「これから久利先輩とは別方面の面倒見るからな」と吉良は山村に笑いかけ、
「先輩、自分これから外回りなんで」と言って出て行った。
 吉良を目礼で見送ってから山村に向き直り、
「セミナーのおかげかい?」と聞いた。
「ええ、本当にライフがチェンジした感じです。受講料は高かったですけど、誰にでもフラットに話しかける自信つきました。営業にも活きそうですよ」
「そのセミナーやってるのこいつかい?」と言って如月翔の名刺を見せた。
「そうですよ! 先輩、知り合いだったんですか?」と山村はうれしそうに笑った。そして
「彼、パパイヤ共済の定期を売る契約会社もやってるんですよ。
 そこで知り合ったんですよ僕ら。
 成績もいいらしいですよ」と続けた。
「へえー、一度、会ってみたいな」と久利は水を向けた。彼の脳内で危機管理のアンテナが立ったのだ。
「きっと、気が合いますよ。似てるんですよ先輩に」
 山村はのんきに微笑んだ。

 地下鉄東山線今池駅の次が池下駅だ。かつては市の外れの住宅街だったエリアで、今でも大通りを外れると閑静な、しかもハイソな邸宅の並ぶエリアになっている。建っているマンションやメゾンも、昨今のものではなく、昭和三十年代に建てられたような落ち着いたものが多い。
 戦後の新興住宅街が時を経て高級住宅街に変わったのだ。近隣には覚王山日泰寺、中高一貫の杉山女学院などがある。
 世俗にまみれた今池と一駅しか離れていない場所とは思えない。
「アップタウンか」と呟いて、直ぐにビリー・ジョエルの歌「アップタウン・ガール」が脳内BGMとして風景に重なった。
 さしずめ俺はバックストリート・ガイなのねと自嘲気味に思い、そんな自分の広告屋らしい軽薄さに、久利は一人で苦笑いだ。
 その池下駅からほど近い雑居ビルの地下一階に画廊喫茶アミーがあった。
 扉を開けると、店主の趣味なのか印象派風の油絵が壁に並んでいるのが目に入る。
 ぐるりと見回すと一番奥の席に、如月翔が座っていた。
 久利の姿を認めると、にっこり笑って手を上げた。
 半年前のヤクザな印象は皆無だった。あの時は、デートクラブの事務所での金銭トラブルだったので、Vシネマに出てくるイケメンなヤクザにしか見えなかったのだ。
「山村さんから、久利さんが会いたいそうだ、って聞いてうれしかったですよ」と翔が言った。
 自分の前に並んでいる皿を示して、
「このハンバーグサンドがここの自慢でして、おすすめです。頼んでおきました」と言った。
 人の心に入り込むのがうまい。本来の彼はこちらなのだろう。
「自虐的な山村が、けっこうポジティブになってて驚いている。ありがとう。
 でもセミナー料は法外みたいだけど」と言うと、翔は苦笑いした。
「僕がセミナーで教えてるのは、ありのままの自分に自信を持つことです。
 でも僕も教わっているんですよ、久利さんに」
「俺に?」
「そうですよ、あの雅の事務所で、久利さんの口車に乗せられた時」
 雅とはあのデートクラブの屋号であった。
「口車か」と久利は苦笑い。
「あのセールストークを聞いて、ホスト時代の自分を思い出しましてね、
 言葉と演技で客を掌の上で転がす感覚、営業トークそのものだと気づいたんですよ」
「それって、褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」
 久利は、営業職になって二年目頃の自分を思い出していた。相手の気持ちが手に取るようにわかりだし、それに応じた後の会話の伏線を張りながら会話ができるようになったころ。
 あくまで売る商品が良品だということが前提だが、まさに掌の上で相手の気持ちを転がすような万能感。営業が最初に感じる面白さであった。
「セミナーは、彼のようないけてないモテネ君を餌食にしてるようなもんですが、その代わり必ず自信を持たせます。あれは、自己暗示なんです」
「彼とデートしてるの、JJのキャバ嬢だろ?」
「よくご存じで。彼女たちとの交友で彼らは経験値を積むんですよ。セミナー料には、その料金も入ってるんです」
「商売上手だな」
 経験値という言葉に、人生もゲームなのだという彼のドライな認識がうかがえた。
「これは、ほかならぬ久利さんに学んだんですよ」
 翔にそう言われると返す言葉がない。
「パパイヤの定期を売ってるらしいけど」
「ええ、ユリさんから請われて」
「そこまで営業って仕事に魅了されるとはね」
「面白いですよ。数字を上げる快感もね」
 食事を済ませて店の外で彼と別れた。
 別れ際の如月翔の笑顔が実に魅力的で、これじゃ素人はイチコロだなと思った。

 翌日の昼近く、久利は仕事持ち込みの愛車マイティボーイで、平和公園の中を走っていた。
 ここは戦後の戦災復興都市計画で、名古屋市内の多くの墓地を移設した公園墓地である。中央には平和堂というお堂があり、春には桜の名所になるほどの公園だ。諸設備もまだ新しさを保っていて、そのおかげで心霊的なおどろおどろしい雰囲気は皆無だ。
 路肩や木陰に多くの車が停まってる。休憩を取るタクシーや、サボっているセールスマンがシートを倒して居眠りしてたりする。
 ゆっくりとその間を走りながら、久利は猪子石から猫洞通りを目指していた。
 車内に流れるAMラジオ番組では、お笑いタレントのMCがゲストのアイドルとトークをしていた。
 リスナーからのハガキを読みつつ、
「その彼には困りますなあ」とか、
「そりゃ、どん引きですわなあ」など、いけてない独身者やモテネ男を笑いものにする毒舌でリスナーの笑いを誘ってる。
 聴いていて腹が立ってきた久利はラジオのチャンネルをFM愛知に替えた。流れてきたのは、シカゴの「What Does It Take」だった。昨年出たアルバムの曲で、こういう無害な曲こそ仕事中にふさわしいぜ、と思った。
 そういえば先月末、名古屋の広告業界では、来年の開局を予定する愛知県域での二局めの民放FM局が話題になっていた。仮名称はFM名古屋だ。正式名称はどんな名前になるのだろうか。
 株主は地元の中部新聞やテレビ局に加え大手私鉄と自動車メーカーが並んでいる。音頭をとっているのはやはり大手広告代理店で、久利たち弱小代理店は当然のように蚊帳の外だった。
 あれも広告会社、これも広告会社だ。
 目的地の店の前にマイティボーイを留めてそうため息をついた。
 名東区の住宅街の中にある、ミルキーという名の美容室だった。通りに面した個店で、三台分の駐車場が店舗の前にあるが停まっている客の車はない。二階がオーナーの住居にもなっている。
 おしゃれな筆記体のネオンが架かっているが店全体を退廃の空気が覆っている。周囲の店がクリスマス飾りなどの演出をしている中、この店は秋の紅葉の飾りを残したまま休業中だ。
 玄関を入るとオーナーが客用のソファに座って缶ビールを片手にたばこを吸っていた。
 三十代半ばだが、服も髪型も美容師らしく流行にそっている。とは言え若つくりで少し無理がある。さらに顎の不精髭が休業期間の長さを物語っていた。
「今日こそ、払ってもらいますよ」
 久利は挨拶もそこそこに言った。
「悪いねえ」と言うオーナーはちっとも罪悪感を感じていないようだ。
 広告は新聞の行数広告で「居抜きで美容院の店を売る」という不動産広告。行単価9000円で二行で18000円だった。本来は電話とファックスで完了して、振り込み確認後掲載のはずなのだが、旧知の客の上、提稿時間ギリギリの依頼だったので、なし崩しに後金になったのだ。
「今週末には払えると思う」
 オーナーはいつもの調子でヘラヘラとうすら笑いを浮かべている。
 近所の話では、何かトラブルがあって大金が必要なため店を手放すようだった。
「もうこれで三回目ですよ。仏の顔もなんとやらって言うじゃないですか。
 名東区までやってきて、手ぶらで帰る僕の気持ちわかりますか」とまずは泣き落とし。
「でも、ないもんはないからなあ」と相手は開き直る。
 久利はここで、態度を一変させる。いつもより早いのは、もう三回目だからだ。
「払えない、金はない?
 でもたばこ吸う金やビール飲む金はあるんですよねえ!」と声が1オクターブ低くなっている。
 もう営業の溌剌明瞭な声ではなく、地声になっていた。
「いいかげんにしてくださいよ!
 18000円ですよ。
 向こう三軒両隣に頭を下げて3600円ずつ借りれば払える金額ですよ」
 オーナーは久利の大声にびっくりして凍りついた。
「待ってますから、借りてきて払ってくださいよ」
「わかった、冗談だよ」というとオーナーは、壁にハンガーで掛けてあるジャケットから長財布を出すと、一万円札を二枚出した。
「釣りはいいから」と言うオーナーに、
「それやったら、自分はヤクザと同じになりますんで」と言って釣りと領収書を返す。
「すまんね、すまんね」というオーナーの声を背で聴きながら店を後にした。
 乱暴に車を発進させた。集金できた安堵やうれしさとはほど遠い気持ちだった。
 俺は今でも十分ヤクザだ。そう感じて久利は唇をかんだ。
 FMからユーミンの「サーフ&スノー」が流れてきた。広告マンを主人公にした映画「私をスキーに連れてって」の主題歌だ。
 あの映画の中で、東京の若い広告営業マンはプロジェクトを成功させ、ゲレンデの恋も成就する。
 一方、名古屋の小代理店の久利は、未払いの広告料金を怒声を浴びせて脅し取るチンピラ広告営業マンだった。
 あれも広告会社、これも広告会社か。そう思った久利の頬に浮かぶ笑いは実に苦いものだった。

 新今池ビルのパーキングからビルの入り口に回ったところで山村に出会った。一階のパチンコ屋の前だった。
 地下街から階段を上ってきたところだ。
「お、奇遇だね」と声をかけると、山村はドギマギしながら、
「パ、パチンコです」と答えた。
 パチンコは一階だから、きっと、地下の個室ビデオかテレクラだろうと思ったが、それを言っても気の毒だ。
「この間はセントラルパークで彼女といるところも目撃してるし、名古屋は狭いな」と久利。
「あの彼女とは別れました。今は新しい出会いの準備中です」と山村は自虐的に笑った。
 強がりだろうと思った。あの女は、山村の経験値を上げるために、翔が言い含めたキャバ嬢だ。
 だが、その山村の強がりを久利は笑うことができない。
 自嘲気味に、一人回収チームとかチンピラ営業だと苦笑いして見せる自分とどこが違うのだろうと思った。
 むしろ、強がれるようになった山村を褒めてやりたかった。
「ポジティブだねえ」とだけ言っておく。
「セミナーのおかげですよ」と山村はあくまで肯定的だ。
 授業料は法外だが、一定の効果はあるようだった。

 月刊タウン誌「アイライン」を発行する名古屋トレンド通信本社は新栄にある。
 新栄は今池と栄町の間に位置する町で、その中央を片側四車線の国道19号線が南北に走っている。隣の春日井市や多治見市に通じる幹線道路なのだが、とにかく名古屋という街は広い道路が街を縦横に走り、車がビュンビュンと行き交う街なのだった。
「アイライン」は女性向けのおしゃれ系タウン誌で広告セクションと編集は同じフロアだった。もともと記事と広告の境界線が薄いタウン誌だ。
 編集の磯谷が久利の担当になる。まだ二十代後半で、ラフなセーターとジーンズ姿がいかにも編集ぽい。
「ベリーさんのコラム広告拝見してますよ」と磯谷が言った。
「いやあ、お恥ずかしい」と久利。
「久利さん、テレ東さんのコンテスト入賞されてるんですね。名城テレビの長谷川さんから聞きましたよ」
「ええ? 長谷川氏とお知り合いなんですか」
「狭い業界ですからね」
「テレ東のあれは、佳作の一人にすぎませんよ」
「でも賞金50万でしょ、立派なもんです」と言って磯谷が切り出したのは、新しいエッセイ風の広告シリーズの企画だった。
 聞くと、アイライン誌では、そのための書き手を探していたのだという。
「広告営業をされた方なら、雑文だけ書いてきた若い人とは違い、コンプライアンスなども飲み込まれてますしね」と。
「確かに、自分は社でも”書ける営業”的に便利に使われてますわ」と久利は苦笑い。そして、
「実際に、具体的なクライアントはいるんですか?」と聞いた。
「実はここを考えています」と磯谷が提示したのは地元に本社のある日本最大の自動車メーカーだった。
 対象の商品は新しい小型のRVで、「街を探検」というコンセプトで、近隣三県の各所を、その車で回る記事を考えているという。
「実は、今、頭にある企画があるんですけど」
 そう久利が話し出したのは、東海三県の旧い映画館を巡るルポルタージュだった。
 平成に入り、映画館はシネマコンプレックスが中心になり、街からは大きなスクリーンが消え始めていた。
 映画ファンだった久利は、前々からそれら旧館を写真と文で残しておきたかったのだ。
「映画は、その時代の鏡でしたからね。平成に入った今、昭和の思い出を残しておく旅に、平成の車で出かける。悪くないんじゃないかなあ」
「いいですね、昭和のレトロってこれから来ますし」と磯谷も乗ってきた。
「6月に廃刊になった”ほっちぽっち”ってありましたでしょう?
 実はあそこに提案したかったんです」
「ほっちぽっち」は文化系の地方エンターテイメント雑誌というタウン誌だったのだが、より女性寄りファッション寄りの「ベリー」や「アイライン」、文化情報寄りの「東海ランナー」に押されて廃刊してしまったのだ。
「あそこのようなカルチャー系の記事も充実させたかったんですよ。渡りに船だな」と磯谷。
「そこでお願いなんですけど、ぜひ、このタイアップ記事、署名記事にしてほしいんです」
「ライターとしての今後のキャリアにするんですね。いいでしょう。早速企画書のたたき台作ってください!」
「作りまっせ、候補地ももう絞ってありますから」と久利のテンションも上がる。
 クリエイティブな仕事に、ここまで、飢えていたのだなと、あらためて久利は腑に落ちたのだった。

「凄いじゃない」とカウンターの向こうのミチコが言った。
「いよいよライター業、本格始動じゃないの!
 じゃ、この一杯はお祝いね」と和泉和子ママが焼酎のお湯割りをカウンターに置いた。梅干しが入れてある。
「この後も仕事入ってるんだけどなあ」とぼやく久利。
「記事に名前が載るってそんなに大事なの」というミチコに、
「会社員との二足のわらじだけど、仕事が増えるように知名度上げたいんだ」と久利。
「いずれは小説書きたいんでしょう?」と聞くミチコ。
「そっちは難しいんだよなあ」
「やっぱり文章書くのって大変なの?」と聞くママに、
「文章書くことより、会社員と小説家の脳みその切り替えが難しいんだ」と答える。
「書くときは、脳をその状態に持って行くんだけど、そうなる前に日常の仕事が襲ってくる。
 まるで滑走中に何度も速度が落ちて永遠に離陸できない飛行機みたいなもんです」
「へえー、そうなの。
 でも、作家だろうと営業だろうと、どっちの久利さんも好きよ」というミチコ。
「あらら、君は商売上手いなあ」と苦笑いする久利だった。

 中区錦三丁目にある花梨は知る人ぞ知る高級クラブだ。
 夜の商工会議所という別名があり、企業人や政治家の客が多いことで有名だ。
 当然、久利は仕事で来ている。仕事でしか入れない店なのだ。とはいえこんな高級店から営業広告など出ない。
 明朝掲載の訃報広告、俗に黒枠などとも言われる死亡広告の取材だった。
 臨時ものと呼ばれる広告で、金額は馬鹿にできない。地元ブロック紙だけでなく、全国紙の中部版にも同じ体裁で掲載することが決まっていて、広告料も軽く100万円超えであった。
 もっともその葬儀に集まる香典で広告費以上の金が動くんだろうから企業にとっては痛くもかゆくもなかろうと思った。
 死亡したのは地元中堅企業の役員だった。死去した事実と今後の式の予定が喪主と葬儀委員長の名で書かれている。
 電話取材時に文章をフォーマットに落とし込み、すでにゲラ状態にした原稿を店に持参したのだ。
 客席のVIPたちを眺め、早くもノンノンに戻りたくなった。
 店の黒服が、
「お聞きしております、こちらへ」と言って案内してくれた。
 依頼主は奥のボックスにいた。下腹が突き出た中年で、葬儀には直接関係しないらしく、当該企業の総務系の平役員だろうと思った。
 ボックス席には若い男と痩せた中年男のコンビもいて、平役員を接待する取引先だろう。
 ボックス席に座るような指示もなかったので、やむなく通路に片膝をついた中腰でゲラを渡した。俺はボーイかよと声に出さずにぼやく久利。
 平役員はでっぷりとした腹の上に原稿を置いて確認している。
 原稿をチェックした上で、
「大丈夫だ」と言ってゲラにサインをした。そして、その後は「よろしく」と言って手を振るともう久利の方には一顧だにせず、
「役員はつらいよ。社葬の責任者だ」と自慢げに苦笑いしてホステスたちを見回した。さすがにホステスたち、
「すごいですわ」とお世辞を忘れない。
「役員には役員の苦労がおありなんですね」と接待コンビも揉み手で愛想笑いをしている。
「では」と席を立った久利の目に、奥のボックス席で盛り上がるグループが飛び込んできた。
 ひときわ大きな笑い声。
 パパイヤ共済の大友理事長と秘書のユリ、そして如月翔だった。そしてもう一人は新聞でもおなじみの前進党の幹事長・子母沢一郎だった。
 三人で子母沢の接待なのであろう。
 久利の胸に違和感が湧き上がる。
 ここは年金共済の役員が遊びに来るような店ではなかった。政治家への一歩を踏み出して気が大きくなっているのだろうか。
 子母沢を見かけた客が、席を立って挨拶に来るたびに、
「次期選挙で、我党の候補として立つパパイヤ共済理事長・大友君だ」と幹事長が紹介する。
 ホストの大友理事長の鼻の穴は満足そうに膨らんでいる。
 如月翔は、百戦錬磨のホステスたちを如才なく操って子母沢を喜ばせている。ホステスというツールを使って、掌の上で遊んでいるのだ。
 そしてユリはその翔の隣にぴったりと座り、賞賛するようなまなざしで見つめている。傍目にみてもぞっこんなのがわかる。
 久利は店を出た。
 錦三丁目の交差点で、たばこ屋の軒先の公衆電話から中部新聞の広告局に電話を入れ、ゲラ拝のOKを伝える。
 大口案件の終了で気分が緩んだ。
 だが小さな代理店にとっては、黒枠が大口案件なのだと思い、また自分の仕事の卑小さに歯がみするような気分になった。
 さらに、そんなルサンチマンを抱える自分の矮小さに歯がみする。
 この時間帯、この街はネオンと街灯で昼間より明るい。
 そのまま帰る気になれず、丸の内三丁目のカフェ・バーに入った。
 扉を開けるとレッド・ホット・チリ・ペッパーズが流れてくる。
 ペニー・レーンと呼ばれる店で、一晩中テレビにMTVを流している店だ。
 久利のような広告営業や広告デザイン関係の人間がしばしば足を運ぶ店だった。
 ウイスキーの水割りを頼んで、テーブルに肘をついてテレビモニターを眺めていると曲が変わった。
 浜田省吾の「悲しみは雪のように」だ。
 ボーイが運んできた薄い水割りのグラスに、
「孤独で、
 君のからっぽの
 そのグラスを満たさないで」という歌詞の一説が重なった。
 水割りを飲み干した久利は、
「皮肉だな」と一人呟くのだった。

第7話 「約束の橋」(1993年 春)(前編)

 岐阜市の柳ヶ瀬商店街は名古屋の大須と並び称された商業地区だったが、近年は、衰亡する地方商店街の例に漏れずシャッターを下ろした店が目立った。
 開いている店の中にも、仕舞い忘れた正月用の飾りが店頭の隅で埃をかぶっているようなところもあった。
「アーケードのせいなのかなあ、こっちの寒さはやっぱりきびしいですね」と山村が言った。
 アーケードが通りの空を覆い、蛍光灯の薄い明かりが寒々とした光を通りに落としている。
「もともと木曽川越えると三度ぐらい気温低いみたいだぜ」と久利。
「もう二月も半ばですよ」
「春は名のみの風の寒さや、ってやつだな」
「なんですか、それ」
「音楽の授業でやらなかった?
 早春賦って歌の歌詞だよ」
 アーケードの下、二人が向かっていたのは、市議選候補、畑中さゆりの選挙事務所だった。
「うちで岐阜の選挙戦広告取材するとは思いませんでしたよ」とこぼす山村に、
「金津園のソープ街や西柳ヶ瀬の飲み屋街ってうちのお客だろう?
 だから柳ヶ瀬商店街にもうちの出先がある。そこでアド中部エージェンシーの助っ人としてかり出されるわけよ」と久利。
 選挙広告は新聞広告の掲載回数が「国政選挙の場合は五回、市議選の場合は二回」というように、公選法で決められている。
 今回の岐阜市議選の場合、地元の岐阜日々新報とブロック紙中部新聞の岐阜版が法定回数の中で広告を取り合う形になる。
 中部新聞系列のアド中部エージェンシーだけでは足りずに、サブ代理店のアドプランニング・遊の営業もかり出されるのである。
 今回、アド遊の岐阜営業所に名古屋から助っ人として派遣されたのが山村と久利だった。
 山村は選挙広告初体験、今年の参院選に立候補するパパイヤ共済理事長・大友達彦の選挙広告の練習としての意味もあった。
 大友理事長は、昨年末に前進党の比例枠を獲得していた。

 畑中さゆりの選挙事務所は商店街の北の外れにあった。
 入り口横に大きな写真があり華やかな笑顔の美女が微笑んでいる。畑中さゆり本人である。
 閉店した大型洋装店の店を利用しているのだろう。店に残る華やいだ雰囲気が写真に彩りを添えている。三十代半ばであろうか。
「美人ですねえ」と声を潜めて山村が感嘆した。
「昨年までテレビ岐阜のアナウンサーとして、地元の顔だったそうだ」と久利。
 事務所が開いて間がないためか、まだ人も少ない。
「ごめんください」と声をかけると、候補者本人が現れて、
「どうぞ」と答えた。
 にこやかな笑顔が印象的だ。写真通りの若さである。
「このたびは、ご出馬おめでとうございます」と頭を下げた後、
「選挙広告のご案内に伺いました」と切り出した。
「そういえば、さっき岐日さんの営業も来てたわ」
 さすが地元紙、動きが速い。
「もうお決めになられましたか?」と久利が聞くと、
「まだです。でもあちらは名簿お渡ししますって言ってくれて、迷ってるの」と微笑んだ。
 名簿とは電話運動のための元になる名簿で、地元学校の卒業生名簿や商店街や自治会などの名簿などだ。
 言外に、お宅は何をしてくれるの? とでも言いたげだ。
 こちらには、手持ちの駒など何もない。名簿どころか、アド遊は社員全員が愛知県民で岐阜には人脈すらない。
 山村は早々に、もうお手上げだ的な表情を浮かべている。第一、彼女のいたテレビ岐阜の親会社が岐阜日々新報社であった。
 久利は苦笑いのような表情を浮かべると、
「そうですか、こちらではまだそんな営業されてるんですね」と少し驚きを込めて呆れたような眼差しで言った。
「え?」とでも言うような怪訝な表情になった美女に、
「候補者先生を名簿で釣ろうなんて、失礼な話じゃないですか」と同意を求めるように微笑むと、さゆりも、
「ま、まあ、そうかも」と言った。
 予想外の言葉に戸惑っているのがわかる。
「名古屋でも十年ぐらい前までは、そのような営業が跋扈してましたけど、
 今はそのような営業したら新聞社から怒られます」と名古屋というワードにさりげなく力を込めた。
 ほお、という顔の候補者に久利はたたみかける。
「先生のようにお若い候補者は、従来のような慣習に捕らわれた選挙運動だと苦労されますでしょう?」と聞いた。
 はっとした表情を浮かべると、
「そうなのよ、」とさゆりは口を開いた。
 立候補を決めてから事前準備で体験した理不尽な扱いを語り始めた。
 マドンナ候補と持ち上げられても、それは女性候補を一段低く見る意識の裏返しで、高齢の先輩市議たちからはセクハラまがいの扱いもある。
 テレビのアナウンサーという抜群の知名度と美貌に対する嫉妬は、味方であるべき女性政治家からも感じるという。
 部外者である久利にだからこそ聞かせられる話だった。
 うんうんと頷いては、「それは大変ですねえ」とか「お察しします」と聞いている久利に、畑中さゆり候補の距離がぐんと近づいたのが感じられた。
 結局、久利は広告扱いを獲得し原稿のラフまで制作した。その上で公示の当日の掲載証明をいただく段取りまで決めてしまったのだ。
 事務所を出てアドプランニング・遊の岐阜営業所へ向かう道すがら山村が感心したように言った。
「名古屋と岐阜では営業が違うんですね」
 久利はにやりと笑うと、
「あれは、口から出まかせだ」と言った。
「え? そうなんですか!」
「ここでは、名古屋ではもう、というのがキラーフレーズなんだよ」
 きょとんとする山村に久利は解説した。
 岐阜と名古屋は鉄道でわずか1時間で接続している。岐阜市民の多くが名古屋で働き、名古屋で遊び名古屋で金を落とすのだ。商店街に閑古鳥が鳴くのもそのためだ。
 そして彼らは否応なく名古屋と岐阜を比較することになる。
「名古屋人が東京や大阪に対して抱いているようなコンプレックスを、岐阜人は名古屋に対して抱いてるんだよ」
 名古屋の大手書店の店頭には「名古屋本」というコーナーがある。
 そこには少なくない数の本が、東京・大阪と比較して「だから名古屋はダメなのだ」と叫んでいる。日本を外国と比較して「だから日本はだめなのだ」と叫んでいる同様の本の劣化版である。
 実は岐阜県の大型書店には同様の「岐阜本」のコーナーがあり、そこでは隣県の名古屋と比較して「だから岐阜はだめなのだ」と叫んでいるのだ。
「ふ、深いですね」
「ま、岐阜の人が聞いたら不快だろうけどね」と久利は皮肉な笑みを浮かべた。
「ひとつコツを学びましたわ」と言う山村に、
「名古屋の選挙広告はまた違うんだぜ」と久利。
「どういうことです?」
「ここでは、戦いの構図は、地方紙対ブロック紙のメディアの戦いだけど、名古屋の場合は、圧倒的なシェアのブロック紙の扱いを、どの代理店が獲るかという、代理店対代理店の戦いになる。
 商品である媒体が同じだから、難度は今回の比じゃねえんだよ」
「甘くないですねえ」と山村。
 でも、それに慣れていくのが営業なんだと久利は思った。
「こういった名古屋と岐阜の地域感情は営業に利用できるんだぜ」と久利が言った。
「それ、教えてくださいよ」
「実は俺、最初はアド中の社員だったんだ。そのころ岐阜へ転勤したことあってな、」
 アド中部エージェンシー時代に、久利は大手学習塾の岐阜支社を開拓したことがあった。
 初めて飛び込んだ時、
「名古屋から来たばかりで、地元の縁故もなく、商売がやりにくいんです」と苦笑いしたところ、それが支社長の琴線に触れたのか、大きな仕事をくれたのだ。
「運がよかったのですか?」
「それが運ではなかったんだ」
 実はその支社長は東京からの単身赴任で、地元社員から紹介される取引先業者が、ことごとく県岐阜商の先輩後輩だったり、岐高の同期だったりという縁故関係だったことに衝撃を受けていた。そして、その浪花節のようなドロドロした地縁関係にうんざりもしていたのだ。
 そこで名古屋からやってきた都会的な営業をする若者に心をつかまれてしまったわけだ。
 愚痴を吐かせて心をつかむのは、先ほどの畑中さゆり候補で実証済みで、山村は感心したように聞いている。
「この経験を生かして、大手企業の岐阜支社をいくつも開拓できたよ」
「すごいじゃないですか」
「でも、あざとい手法だぜ。支社長が本社に戻って地元出身の支社長が誕生した途端、拡大した扱いごと地元業者に逆戻りなんだ。反動がでかい」と久利自身は冷めていた。
「それで、ですか?
 うちのような会社に来たのは?」
 久利は笑って答えない。そして、
「この手法は、俺たちみたいな名古屋の広告会社が、全国区の大手広告会社にしてやられてることを、岐阜で岐阜のローカル会社にやっているだけなんだよ」と皮肉な笑顔を浮かべるのだった。

 翌日、久利は瑞穂区の弥富通りに面した民営アパートの一室にいた。
 早めの昼食をとるために営業マンたちの車が近隣の飲食店に駆け込むためか、道路は空いていて丸の内のアド遊本社から15分ほどで着いた。
「早いねえ、呼びつけちゃったみたいで恐縮しちゃうな」と社長が笑った。
「道路が空いてまして、むしろ早すぎてすんません」
 いつもの社長のおっとりとした言い方にこっちが恐縮する。
 久利より五歳ほど年長なのだろうか、人当たりも柔らかく、同居している内縁の妻らしきカナさんと一緒にウサギを飼っている優しい人だった。外見もぽっちゃりしていて柔和な笑顔が印象的だ。
 とても背中に入れ墨を背負っているようには思えない。
 社長はすでに自分で求人原稿をまとめていた。
「プロの目で掲載基準とか確認してね」と言ってきれいにまとめた原稿用紙を手渡した。
 内容は、スポーツ中部掲載用の求人広告で、のぞき喫茶と呼ばれる風俗店「アトリエ・トミー」のものだった。
 掲載基準はすべてクリアしている。もう四年近い付き合いのある社長だ。このあたりの感触は熟知している。
「問題ないです」と告げながら、久利は求人広告用の原稿を組版用の指示を入れた形に清書していく。
 行数ものと呼ばれる求人原稿は、新聞社でもまだ活版印刷で活字を植字する組版で制作される。
 記事下広告の大半が写植原稿になったが、この行数ものだけは未だに植字工が活字を拾っているのだった。
 前払い広告料を集金して、さて帰ろうかと思ったとき、社長が、
「これ見て欲しいんだ」と一冊の雑誌を広げた。
 表紙には「熱烈!写真塾3月号」とある。俗に写真投稿誌と呼ばれるエロ本で、最近はコンビニの店頭でも買える。
 開かれたページにはマジックミラー越しに扇情的なポーズをとるモデル嬢の写真が掲載され「のぞき喫茶潜入しました」と書かれている。投稿者のハンドル名は「ぬこ丸トミー」となっていた。
「宣伝記事ですか?」と聞くと、
「それなら問題ないけど、これ盗み撮りなんだよなあ」と社長。
「間違いなくうちの店内よ」とお茶を持ってきたカナさんがこぼした。
「客の盗撮ですか」
「宣伝用なら顔を隠すとか配慮するけどね。
 これ誌面では顔にモザイク入ってるけど、元写真は顔バッチリ写ってると思う。
 これじゃ、うちのモデル嬢が安心して舞台に立てないよ」
「アトリエ・トミー」では、ストリップで言うところのダンサーたちをモデル嬢と呼んでいる。
 店の中央の舞台を個室が囲んでいて、マジックミラー越しにステージ上の部屋の中でポーズを取る嬢を観ながら客には自慰に励んでもらうわけだ。
「これだと女の子が困るし、客の顔も映っていると大変なことになる」
「確かに、大変ですね」と言ったあと、嫌な予感がした。
「うちのモデル嬢たちの中には、この仕事で家計を助けながら大学行ってる子もいるのよ。顔ばれしたらかわいそう」とカナさん。
 確かに、この店では「お触り」も「手仕事」もないから、素人娘が働いていても不思議ではなかった。
「確か久利さん、探偵っぽいことしてたよね」
「ええ? 誰から聞いたんですか!」
「うちのワイフがノンノンって店で聞いてね。この久利さんてアド遊の久利さんじゃないのって言うんだ」
「ノ、ノンノン!」
「あそこのママ、私の先輩なの」とカナさん。
「やっぱりそうだった」とうれしそうな社長の笑顔に、抗うことができない久利だった。
 直ぐ当たる予感にろくなものはないのだ。

 週末の土曜日だ。
 名古屋市の北に隣接する清須市である。
 アトリエ・トミーは国道22号線の西に隣接する脇道に面していた。
 倉庫だったとおぼしき建物の前に何台もの車が停まっている。その中に久利の愛車マイティーボーイもあった。頭を道路に向けて駐車してある。
 その倉庫建築の入り口にはアーチ状の「アトリエ・トミー」の看板が掛かっている。電飾も点っているが、昼下がりの明るさの中では「開店中」という意味しかない。
 無骨な倉庫の建物と電飾の組み合わせが洋画に出てきそうなアングライメージで、この背徳性が客の心をそそりそうだと、久利の中の作家脳が思った。
 店内へ入ると十畳ほどの部屋があり、劇場のもぎりのような受付がある。受付にはティッシュやローションが売る売店が併設されている。
 その奥に映画館のような両開きのドアがあり、そこを入ると小部屋のドアが並んでいる。
 そのドアを開けるとマジックミラーになったガラスを透してステージが見える。そこには女性の部屋が再現してあった。
 部屋は360度全方位を鏡で囲われている。マジックミラーは全部で10枚ありステージが十角形であることがわかる。
 ステージの部屋を十個の小部屋が囲んでいるのだ。
 噂には聞いていたが、実際はこうなのかと久利は興味津々である。
 その久利が待機しているのは、そのうちの入り口に一番近い部屋だった。
 鏡の中のステージでは、鏡の上部に付いているリクエスト用のランプ点灯に答えてモデル嬢たちが鏡の前を移動して、下着を見せたり着替えたり、自慰行為を見せたりと大忙しだ。
 そんな見世物も、一時間も観ていると飽きてきた。
「ほぼ、毎週土曜日に来てる客が怪しいんだよね」と社長は言っていた。
「あの人、いつも大きな鞄持ってるし、時々シャッターの音が聞こえたような気がするの」とカナさん。
 彼女が実質的な店長で、モデル嬢が急遽休んだときなどは、ステージにも立つということで、確かにかわいらしい女性でもあった。
 ドアを小さくノックする音で、現実に引き戻された。
 薄くドアを開けるとカナさんだ。
「励んでた?」という小声の問いに、
「やってません!」と小声で応えると、
「今、例のぬこ丸さん、7号室に入りましたよ」と告げて受付へ戻っていく。
 7号室は一番奥の部屋だった。久利の窓から真正面に見える鏡の向こうに彼はいるのだ。
 久利は部屋のドアを薄く開けたまま待機を続けた。

 40分ほど経過した後、7号室の鏡に点っていたランプが消え、モデル嬢がランプの点灯した別の鏡の前に移動した。
 久利は薄く開けた扉から様子をうかがう。奥の部屋の扉が開閉する音がして、足早に歩く足音が目の前を通り過ぎる。
 劇場の扉を開閉する気配と同時に部屋を出て後を追う。
 受付へ出ると、大きなショルダーバッグを下げた若い男の背中が店を出るところだった。やや小太りでダウンジャケットとジーンズの地味なスタイルの学生風だ。こいつがぬこ丸トミーとやらか。
 受付のカナさんが久利を見て、無言で大きく頷くとポラロイド写真を一枚、久利に渡した。写真は、天井から撮ったもので、7号室内でカメラを構える男の姿が写っていた。
「20枚ほど撮ったから」と微笑むカナさん。
 久利は目で了解の合図を送ると男を追って店を出た。
 ショルダーバッグの若者は、店の前の駐車場で白いトヨタのマークⅡの助手席のドアを開けた。
 バッグを投げるように入れると、運転席側に回って乗り込んだ。直ぐにエンジンがかかる音がした。
 久利もゆっくりとマイティボーイに乗るとイグニションを回してエンジンをかけた。
 走り出した白いマークⅡを追って、黒いマイティーボーイもゆっくりと駐車場を出た。
 マークⅡは国道22号に合流し、名古屋方面に走って行く。車速が上がると、軽自動車での追尾はなかなか難しい。
 いい車に乗りやがって、久利は苦笑いしながらマイティボーイのアクセルを踏んだ。

 マークⅡが停まったのは二階建ての白いアパートの前だった。
 窓の数から各フロアに四部屋だろうと思った。
 北区の住宅街の一角だ。隣の区画には志賀住宅や鳩岡住宅などの公営アパートの白い建物が建ち並んでいる。
 久利も速度を落とすと、道路の脇に車を留めた。路駐だが、このエリアなら短時間は大丈夫だろうと、営業マンの勘が告げていた。
 若者は車から降りるとショルダーバッグを肩に揺すり上げ、アパートの入り口を入った。
 その背中を追うように、久利もアパートに入る。まるでアパートの住人のような自然さで、男も久利が自分を追ってきたとは毛ほども思っていないのか、軽く会釈までしてきた。
 男の部屋は一階の一番奥だった。
 久利はその手前の隣の部屋のドアの前で、
「ご在宅かなあ、」と呟きながら、アタッシュケースからパンフレットを出しインタホンを押すそぶりをした。
 男の部屋の鍵が開き、ドアを開けて男が部屋へ入る瞬間、その背中に密着するように久利も部屋に入り、ドアを閉めた。
 押された男が前のめりに膝をつき、
「なんだよ!」と叫んで振り返る。
「大事な話があってね」と言いながら部屋を見渡す。
 部屋は1LDKだった。玄関から見て正面にダイニングキッチン、そして玄関横の四畳半らしき部屋は、窓に暗幕が張ってある。かすかに現像液特有の酸っぱい匂いがする。間違いない。
 点けっぱなしの赤い照明が、壁一面に貼られた写真と、まだ乾燥のために部屋に渡された紐に洗濯ばさみで吊された印画紙を照らしていた。
「なんだよ、あんた! 警察呼ぶぞ」と男はもう一度言った。
「警察呼ぶと困るのは君じゃないのかい、ぬこ丸トミーさん」
「な、何のことだ、」
 ハンドル名を呼ばれてうろたえるぬこ丸のショルダーバックから一眼レフカメラが見えた。
「へえ、キャノンのEOSかあ、ええカメラ持ってるんだなあ」と言うと、
「店からつけてきたのかよ」とぬこ丸が聞いた。
「大変だったよ軽で追いかけるのは」と言ってポラロイド写真を渡した。
 写真にはカメラを手にしたぬこ丸の顔もしっかり写っていた。
「店側は大ごとにする気はないみたいだけど、これはまずいよね」
「どうするんですか」
「今まで撮影したフィルムと紙焼き全部出してくれる?
 それ店に渡して二度と来ないと約束してくれればいいよ」
「ほ、本当に?」
「また雑誌に送ったりしたら、このポラロイド写真、あんたの親御さんや隣近所にばらまくから。店の人、20枚ぐらい撮ったらしいから」
「そんな、」
「君、働いてるの?」
「学生です」
「ふーん、そうなの。
 あの店にはね、あそこの稼ぎで家計を助けてるけなげな女子大生もいるわけよ。マークⅡに乗ってる大学生にはわからないだろうけどね」
 久利の言葉に、ぬこ丸青年はすっかりしょげかえった。
 説教をして念書を書かせた上で、久利はフィルムと紙焼きを回収するとアパートを出た。

 翌日の昼前に、社長の部屋へ行き、フィルムと紙焼きを渡して首尾を報告した。
「高校時代から写真部だったそうで、その頃に投稿の味を覚えたようです。もうしませんって反省してました」
「暴力や脅しはしてないだろうね?」という社長に、
「私は堅気ですからご安心ください」と久利。
「ヤクザに心配される堅気って皮肉やねえ」と社長も苦笑いし、
「これ、お礼」と言って封筒が差し出された。厚さから見て五万円ぐらいか。
「受け取れません、受け取ったら堅気じゃなくなっちゃう」と固辞する久利。
「それだと私の気が収まらないんだよなあ」と社長。
「じゃ、代わりに何か情報お聞かせください」
「情報?」
「店や企業の倒産しそうなところとか、気をつけたらいいようなところとか」
 この社長なら、裏社会からそんなネタ持っていそうだ。
「そんなことでいいの」
「ええ、実は広告商売の与信管理になるんですよ」と久利。
 社長は腕を組んで考えていたが、はっと気づいて、
「久利さんとこのアド遊さんて、例の新しい共済やってなかった?」
「パパイヤ共済ですか?」
「それ!」
「実は、」と社長が語り出したのは、夜の世界で飛び交っている噂だった。
「最近、あそこの若い営業が主婦を狙って共済商品を売りまくってるんだ」
「元ホストのセミナー屋でしょう」
「そうそう、詳しいね」
「多少、因縁ありまして」
「連中にしてみれば、素人の主婦なんて赤子の手をひねるようなもんだし、毎月すごい掛け金が入ってるらしい」
「解約に関して多少トラブルがあるらしいですね」
「それもそうだけど、連中の夜毎の接待が静かな話題でね」
「昨年末に私も花梨で見ましたわ」
 花梨は知る人ぞ知る高級クラブで、中京圏の政財界の要人が出入りするため夜の商工会議所とも呼ばれていた。
「どこからあの金が出てくるのかと、もっぱらの噂でね」と社長が皮肉な笑みを浮かべた。
「裏でやばい商売でもしてるんですか?」
「それならまだましだよ。どうやら連中、共済で集めた金を使い込んでるらしい」
「運用した余剰金ではなく、積み立ててる金に手をつけていると」
「そう、自転車操業だよ。新しい加入者の金で配当金と称して金を回す。
 英語でポンジ・スキームって言ったかなあ。ようは投資詐欺だ」
「そんな言葉知ってるなんて、社長、インテリですね」と驚く久利に、
「一応、俺、経済学部中退だよ」と社長は苦笑いした。
「解約でトラブり出したってことは破綻間近ってことですね」
「例の理事長の立候補とどっちが先かってとこかな」
 その社長の言葉を聞きながら、大変なことになりそうだと思った。
 パパイヤ共済とアドプランニング・遊の取引内容を思い浮かべる。印刷物の納品も先月終えていて求人広告もない。入金待ちの残もそれほどないはずだった。
 今なら、なんとか手を打てるはずだ。

最終話 「約束の橋」(1993年 春)(後編)

三の丸一丁目にある中部新聞社の社屋の裏に、マイティボーイを路上駐車すると久利は通用口に向かった。
 警備の窓口で社名と名前を記入して入場証をもらうと首から提げた。エレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け上がる。
 久利たちアドプランニング・遊の営業が中部新聞系の媒体に広告を掲載するときは、新聞社の子会社・アド中部エージェンシーを通して原稿を送っている。
 そのアド中は、中部新聞本社の三階にある広告局の一角にコーナーを持っていた。
 久利は三階の廊下から局の中をうかがい、アド中の席にサブ代理店担当の岡田がいるのを確認して入室した。
 サブ代理店が局内の奥まで入れないよう、アド中のコーナーは入り口近くに位置している。
「どうも」と声をかけると、
「お、久利さん」と岡田がうれしそうに言った。
 久利がアド中にいた頃からの友人だ。
 少し声を潜めて、
「聞きたいことがあるんだけど」と言うと、
気配を察した岡田は、
「席替えようか?」と同じ三階にある喫茶コーナーへ誘った。
 喫茶コーナーは社員食堂の一角にある。
 ランチタイムが終わった直後で、工務スタッフが職場に戻り、三階の食堂は閑散としていて、後片付けの厨房の音だけが響いていた。
 テーブルに紙コップのコーヒーを置くと、岡田と向き合った。
「ズバリ聞くけど、なぜパパイヤ共済を直でなくサブ代理店のアド遊に投げたの」
「与信管理だよ。広告料金の支払いに不安があったからリスク回避でお宅に投げた。今までと同じだよ」
「本当に支払いの不安だけ?」
「どうゆうことだよ」
「あそこには、一部で嫌な噂があってね」
「噂?」
「そう、まず営業の仕方が、催眠商法っぽい。そして、ポンジ・スキームの自転車操業じゃないかって」
 岡田ははっと気づいたような表情になった。「そういえば、」と話し出した。
 当初、アド中部エージェンシーが直で扱う予定だったのだが、編集の方から、それとなくサブへ回せという指示があったというのだ。
「その指示は、どこから? 経済部?政治部? それとも社会部?」
「直接じゃないから、わからない。四階からの指示としか聞いてないから」
 三階の広告局では、四階にある編集部を「四階」という隠語で呼んでいる。時には、目線を上に投げて「あそこ」と言ったりもする。
 記事を作っているセクションと、実質利益の大半を産んでいる広告セクションでは、目に見えぬ確執があるのだろう。
 共通しているのは、中小広告会社を下に見る姿勢だけだ。
「聞かせてくれてありがとう」
「何か兆しあるのか?」と岡田。
「多分、社会部あたりは嗅ぎつけてるかもな」
 そう言うと久利は腕を組んでため息をついた。

 中部新聞本社のある三の丸一丁目から徒歩10分の、三の丸二丁目に愛知県警本部がある。
 一階のロビーのベンチで久利は都倉と並んで座っていた。
 年が明けてから、都倉は中署から県警本部に異動になっていたのだ。
 都倉は禁煙パイプを咥えているが、それが楊枝を咥えているようなヤクザな印象を与えてくるのは、刑事生活が染みついたせいか。
「ついに全館禁煙になりやがってさ」と話すたびに口元で禁煙パイプが上下する。
「情報屋(たれ込みや)の俺が押しかけてはまずかったか」と久利が聞くと、
「大丈夫だよ、たれ込み屋よく来るし」と都倉。
「たれ込み屋はジョークだよって、否定して欲しかったんだがな」と久利は苦笑い。
「例のパパイヤ共済の件だけど」と話を向けると、都倉は、
「その客とは距離置いた方がいいぞ」と間髪入れずに答えた。
「何かの予定があるのか?」と久利が小声で聞くと、
「これ以上は言えない」と都倉は目線を逸らせて口を閉じた。禁煙パイプも微動だにしない。
 察してくれよということか。近々警察動くのかもしれないなと思った。

 アドプランニング・遊に戻ると山村が一階の自販機コーナーで缶コーヒーを飲んでいた。
 このビルも今年に入ってから館内は禁煙になり、自販機コーナーの奥に喫煙コーナーが作ってあった。分煙だそうだ。
「先輩、この時間に戻るなんて珍しいですね」と山村が言った。
 喫煙コーナーに誰もいないことを確認して山村に聞いた。
「例のパパイヤ、今、取引内容どうなってる」
「先月は売り上げありませんけど、4月以降に大きな引き合いがあります。選挙の準備関係や、集会の仕切りとかイベント系で」
 山村の弾んだ声が痛ましかった。大きな額でやりがいある仕事、自分も若かったらわくわくしたろう。
「悪いが、あそこはやばい」
 久利は、包み隠さず調べたことを話した。
 山村は呆然としていた。
「あの仕事で、どれだけ自信回復したか」
 何より山村がしょげたのは如月翔が、セミナー受講者を「金」としか見てなかったことだ。
「セミナーで得た自信も偽物だったのかな」という山村に、
「動機は不純だけど、翔の教えたスキルは本物だ。だからこそパパイヤがあんなに金集めてる」
「大友理事長、なぜこんなことするんだろう」
「彼の願いは、国会議員になることだ。共済もそのための道具に過ぎないんだろう」
「証拠はまだないんですよね」
「ああ、だから警察も乗り込めない。だけど時間の問題だ」
「どうすればいいんですか」
「あそことの取引をやめる」
「どうやって辞めるんですか?
 お宅は怪しいから取引できませんって言うんですか?」と山村は頭を抱えた。
「方法はある」
 久利はそう言うと山村に、「上司が挨拶したい」という理由でアポを取らせた。パパイヤ共済への訪問は一時間後とした。

 暦の上では春でも、二月の日はまだ短い。日差しはすでに夕方だった。
 そのオレンジ色の日を浴びながら久利のマイティーボーイがパパイヤ共済本社の駐車場に滑り込んだのは午後5時だった。
 久利が運転席から降りると、助手席から出てきた山村が、後部から大きなショルダーバッグを出して肩にかけた。
 二人とも無言で入り口を入る。山村の口は緊張で引きつり真一文字に食いしばられていた。
 受付の女性は以前の娘から代わっていた。
 前の娘はテレビ局や電通の受付にいそうな美人だったが、今回はサラ金の窓口にいそうな庶民的な娘になっていた。
 入ってきた二人を見て慌てて立ち上がりお辞儀をする。ネイルでもいじっていたようだ。
「会議室でお待ちしてます」という娘に、笑顔で応えて奥へ進む。
 会議室の扉を開けると大友理事長と秘書のユリ、前進党の地方議員とおぼしき男の三人が談笑しているところだった。
 選挙立候補の打ち合わせ中らしい。
 久利は三人に笑顔を向けると、
「いつも山村がお世話になってます」と頭を下げた。
「おお、久利さん、いつも山村君が頑張ってくれてますよ」と大友理事長。
 大友ユリは、
「こちら名古屋市議の新藤先生です。今度の国政選挙で応援いただけることになりました」と久利たちに男を紹介した。
 すぐに新藤に向かい、
「私どもの広告を扱ってくれる代理店さんです」と久利たちを紹介した。
「実は、本日伺いましたのは、他でもない選挙広告についてでございます」と久利。
「何か不都合でもあるのかね」と理事長。
「選挙広告の目的は選挙での勝利です。今のままでは勝てません」
「どういうことな?」とユリが首をかしげた。
「実は、私どもアドプランニング・遊は、風俗業や遊技業などの広告を主体にしております。
 それが立候補される大友先生の看板に泥を塗る可能性があります」
 山村も含む全員が、唖然として口をつぐんでいた。
 久利は全員を見回すと、
「お世話になった大友先生の顔に泥を塗る可能性は排除せねばなりません。残念ですが、私ども、パパイヤ共済さまの広告扱いから降りる決心をいたしました」と、きっぱりと言った。
「そんな急な。第一、これからうちはどこを使えばいいの」
「業者の紹介はできませんが、これを参考までに」と言って、久利は名古屋の広告業名鑑を机に置いた。おそらく応じる業者は少ないだろう。
 ユリと大友は怒り出した。当然だろう。
「無責任すぎないかね。アド遊さん」
「本当の理由は何!」
 二人の口から出る批難の声を浴びながらじっと口をつぐんでいた久利は、一礼して立ち上がると、山村からショルダーバックを受け取り、ファスナーを開けて中に詰め込んできた雑誌を机の上にぶちまけた。
 名古屋の風俗業ガイド誌「プレイギャル」と「遊(ユウ)トピア」のバックナンバーだ。
 机の上で山を作った雑誌達はセンター挟み込みのヌードグラビアを広げて散らばった。
 モデル達は全員、現役のソープ嬢で、顔に掛けた目だけを隠すベネチアン・マスク以外、一糸も纏わぬ裸体であった。
 大友ユリが、
「きゃ、」と言って、汚らわしいものでも見るかのように目をそらした。
 間髪を入れずに久利は床に土下座した。山村が慌ててそれに従う。
「我が身の恥をさらすようですが、このようなメディアをメイン媒体とする弊社のような代理店と付き合っていると、大友先生のイメージダウンになります。
 涙をのんでお取引を諦めます」と久利は言い切った。
 理事長とユリが驚いたように目を見開いている。
 この後、久利は「先生のために」という理由で今後の広告扱いを固辞し続けた。
 市会議員・新藤の、
「アド遊さんの言うことももっともだ。私が対立候補なら、このネタ、イメージダウンに利用するかもしれないあ」という言葉ですべてが決まった。
「表向きは、これを理由に弊社との取引を再考した、と言うことにしていただいてかまいません」
 理事長は渋々同意した。
 久利は膝を払って立ち上がると、深々と頭を下げて会議室を出た。山村も無言で従う。
 駐車場に出ると、久利の顔に一斉に汗が噴き出してきた。

 マイティボーイが停まったのは古出来町の交差点だった。高校時代に通学で利用したバス停で車を停めると、
「悪いがここからバスで社に帰ってくれ」と山村に告げた。
「ありがとうございました。僕だけではできませんでした。でも、上にどう説明しようかな」
「説明は俺がするから心配するな」
 久利はそう言って山村を下ろすと、交差点を左折して今池方面に向かった。
 バックミラーには怪訝そうに久利を見送る山村がいた。その山村の横を通り過ぎながら、白いクラウンが同じように左折してきた。
 山村を下ろすときも、このクラウンは後方でハザードランプを点けて停車していた。
 パパイヤ共済のパーキングで何度か見た記憶のある車だった。尾行されているのだ。
 久利はそれを確認すると今池に向かってアクセルを踏んだ。

 新今池ビルの一階はパチンコ屋が入っている。その東側は舗道と続いた回廊になっていて、回廊と舗道の境界には、二階の今池劇場の掲示板が表に向いて立っている。
 ガラスの引き戸の中には、日にたたかれて色が落ち、カラカラに乾いて反り返った映画のチラシが画鋲で留めてあった。「氷の微笑」と「レザボア・ドッグス」の二本立てだ。
 ビルの隣のタワーパーキングに車を預けて表に回った久利は、その掲示板の裏側で左右から現れたスーツ姿の男達に囲まれた。
 振り向くと、そこには腕を組んで如月翔が立っていた。
「なんだか不穏だね」と言うと、翔は、
「久利さん、何を知ってるんですか」と聞いてきた。表情は穏やかだが目は笑っていない。
 表通りの舗道からは掲示板が陰になって人の目を遮っている。
 掲示板を背にした久利は三人に囲まれていた。さりげなく見回すと左の男は見覚えがあった。
「髪伸ばしたのか?」と聞くと、
「ヤクザ廃業と同時にね」と男は言った。昨年デートクラブの件でもめたときの坊主頭だった。今はスーツの似合う営業マン風だ。
 もう一人はメタルフレームのメガネにコールマン髭をはやした男だが、スケベな顔にしか見えない残念さがあった。
 翔以外の二人に共通するのは、東映のVシネマに出てきそうな三下の不良感だった。
「俺は仕事があるんだがな」と言って地下を顎で示した。
「行く前に、何を知ってるか教えてくださいよ」と翔。
「それは例えば、どんなこと」とはぐらかす久利。
 翔が目配せすると、元坊主がにやりと笑ってスーツの内ポケットから黒い警棒のようなものを出した。
 久利の顔の前に突き出されたそれは、火薬が爆ぜるような音と同時に火花を散らした。
 スタンガンだ。
「聞いてたのは噂だけだったけど、今、確信に変わったよ。
 おまえら詐欺の片棒かついでるんだぜ」
 翔の顔がさっと曇った。
「営業やってて楽しかったろう? 客からありがとうと言われてうれしかったろう?」
「それは僕のスキルですから」と翔は胸を張った。
「客を掌の上で転がしてるように感じたろうけど、それは違う」
「どういうことですか」と翔。
「客は営業を信頼して掌に乗ってくれたんだ。転がしてるんじゃない。転がされてくれてるんだよ」
 翔は黙り込んだ。元坊主とコールマン髭もその翔を目にして戸惑ったようだ。
「信用してくれた客を騙しているんだ」と久利はさらに追い詰める。
「俺はきれい事は言わねえが。インチキ商材を売りつけるって行為は、営業、セールスって仕事に泥を塗ることだ。
 同じ営業として、それが悲しい。営業って仕事にプライド持ってるからな。俺」
「警察には言ったのかよ」と元坊主。
「証拠もないし、俺が知ってるのは噂だけだ」
「じゃあ、なぜパパイヤの仕事から逃げたんだよ」と翔。
「与信管理だよ。
 知ってるだろう、アド遊での俺のあだ名。回収強行班、一人チーム。
 ちょっとでも可能性があれば動くんだ」
 翔の目を見て久利は言った。
「俺たちアド遊はパパイヤ共済さんから広告取引を打ち切られた。理由は、アド遊がエロ広告屋だからだ。
 そういうことにして選挙まで乗り切ってくれ。俺たちはもう無関係だ」
 翔は大きく息を吐くと、二人に目配せをした。
 髭も元坊主も「いいんですか?」という表情を隠せない。
「いいんだ。この人はチクるようなタマじゃねえ」
 自分に言い聞かすように話すと、翔は久利に背を向けた。
 遠ざかる翔の背中を見ながら、あれは昔の自分だと久利は思った。
 一歩間違えれば、
「俺も翔と同様に営業の暗黒面に落ちていたかもしれない」と。

 アドプランニング・遊に戻ると営業部の時計は午後七時を指していた。部内は無人だ。壁の予定表を見ると帰宅してない営業も直帰になっている。
 久利は上司のデスクの前に立つと、ジャケットの内ポケットから出した封筒をデスクに置いた。
 封筒には精一杯の丁寧な字で「退職届」と書いてある。封筒の中には「一身上の都合で」という理由の届けと、もう一通、パパイヤ共済に関する事後報告がしたためられてある。
 周囲の誰もいない社員のデスクに、軽く一礼すると部屋を出た。
 三階の制作へ回ると、今日もまたデスクワークをしているのはデザインの岩田美子だけだった。
「遅いじゃないか」と言うと、
「締め切り近いのが一本あってさ」と岩田女史は苦笑いした。
 久利が会社を辞めることを告げると、
「ライター一本で行くの?」と聞いてきた。
「驚かないの?」
「予感はしてた。早いか遅いかだけで」
「わかってるんだな、俺のこと」
 そう言うと岩田女史はにっこりと笑い、
「ご文運を」と言った。
 久利はうれしそうに笑うと部屋を出た。

 駐車場に出るとちょうど戻ってきた山村がいた。
「お疲れさん」と言うと、
「僕は見てただけですから、本当のお疲れは先輩ですよ」
「実は今、会社辞めてきた」と告げると、
「ぼ、僕のためにですか、」と気色ばんだ。
「いやいや、俺は自分のために辞めるんだ」と苦笑いで否定する。そしてジャケットの内ポケットから封筒を出し、
「パパイヤの件、上司にはこう説明したから。おまえも口裏合わせろ」と言って山村に渡した。
 パパイヤ共済が破綻する頃にはわかってくれるだろう。そう遠いことではないはずだ。
 マイティーボーイに乗り込んでイグニションを回す。
 バックミラーに映る山村が深々と一礼しているのが見えた。
「よせやい」と呟いてアクセルを踏む。
 丸の内三丁目から夜の街に向かった。最後の挨拶回りでもするかと思ったのだ。
 FMラジオを付けると歌が流れ出した。佐野元春の「約束の橋」だった。
 夕闇が迫るナゴヤのネオン街を流しながらいつかこの時代を小説に書ける時が来るだろうかと思った。

 スナック・ノンノンの店内は空いていた。
 この店は、サラリーマン達の帰宅前の最後の一服のための店になっていて、混み出すのは夕食後、午後8時過ぎからだった。
 流れている有線放送の曲は稲垣潤一の「思い出のビーチクラブ」だった。
 カウンターに座った久利は、
「懐かしいじゃん」と呟いた。新人の頃によく聞いていたからだ。
 客の少ないこの時間帯は店内に流れる有線放送の歌も、若い娘達の好むJ-POPの曲が多かった。年配の客が増える時間帯には演歌にしたりジャズにしたりするようだ。
 カウンター越しに久利の前にママの和泉和子が座り、その隣でミチコがグラスに瓶ビールを注いだ。
「実は今日、会社辞めてきました」という久利の言葉に、
「まあ、」と和子。
「後任は多分、山村です」
「ああ、あの人ね」と頷く和子。
「これからどうするんですか?」とミチコが聞いた。
「しばらくライターとしてやってみますよ」
 そういった久利の表情は何やらすっきりとして見えた。
「なんだか、憑きものが落ちたみたいね」
「ママ、うまいこと言うじゃないか」と久利は苦笑いしながら、「憑きもの」ってのは会社員生活そのものだったのかもしれないと思った。
「ということでもうあまり店には来れないかも」
 それを聞いたミチコはしばらく考えて、
「じゃあ、」と言って名刺入れから名刺を出し、黙って久利に差し出した。
「ああ、名刺は前に貰ってるよ」と言うと、
「それ私の本名と電話番号」
「ええ?本当かよ」と驚く久利。
 よく見ると名刺の角は丸くないしノンノンのロゴも入っていない。
「あらあら、初めてだわチーママがそれ渡すの」と和子ママが微笑んだ。
「私の一番悔しいことって何だと思う」とミチコが聞いた。
「わからない」と久利。
 ミチコは悪戯っぽく笑うと、
「本命の人から、商売だって思われることよ」といってにっこりと笑った。
 店内に流れる有線の曲が替わった。
「これも懐かしい曲だな」と久利が照れたように呟いた。
 曲は大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」だった。

ー完ー