• 『depth body -高深度躯体-』

  • 平沼 辰流
    SF

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    沈没した駆逐艦から、幻の人体実験のデータがサルベージされた。市民軍所属のオーガストは放棄された海底研究所に潜入し、そこに眠る「完璧な人類」を調査する。だが壁に残された一発の弾痕がすべてを狂わせる……

第1話

海が暖かくなれば殺戮が始まる。

渦巻く銀色の群れに、黄色いヒレをきらめかしてアジが突っ込んだ。噛み砕かれたイワシがぱちぱちと爆ぜるように白い肉を散らし、横合いから丸々としたグラントたちがかっさらう。
上に目を向けると、アジサシたちがダイヴしているのが見えた。
万年筆みたいなくちばしが魚たちを引っ掛けて海面へと連れ去っていく。そうしてかき回されて出来た流れの中でも、やはり無数の死体が身をよじっている。

艦橋の耐圧ドアをくぐった瞬間、壁にゴムボールをぶつけるような音が聞こえてきた。
隣でシャノンが水中銃を構えたので、指圧式パッドに書きつけて教える。

「サメだ」

アーネスト・キング級駆逐艦に入ったのは初めてだったが、前級のズムウォルトと比べるとひどく枯れた設計に感じた。汽缶のせいで突き出た煙突が古臭いのかもしれない。
まったく、さっきから水死体とガラクタばかりだ。
艦橋やガンルームには何も無く、中甲板の食堂にも食い差しのタッパーがふよふよと浮いているだけだった。
シャノンは艦底も見るべきだと言ったが、機関室と洗濯室に何かあるとは思えなかった。

これが合衆国で最後の大型水上艦だったはず。
アークトーチで融けていくCICへのドアを見つめながら、ぼんやりと亡国というものを考えていた。日本から飛行機ごと取り寄せたタイプ93を2発かましたら、ダメコンに失敗して勝手に沈んだらしい。

「吸い出してくれ」
融け落ちた鋼板を蹴破って、シャノンに指示を出す。
彼は手首からUSBケーブルを引き出して、さっさと室内のコンソールの接続口に突き刺した。
その足元を目掛けて扉の穴から水がざばざばと流れ込んでいく。
この部屋にも大量の死体が転がっていた。ピンク色の肌にたかるハエたちが海水をかぶってもがく様を眺めていると、シャノンが空いた手でレギュレータを口から外した。

「サー、誰だって死んだらこうなります。どんなに清潔にした人間でも、その表皮はバクテリアや小さな虫の卵でコーティングされているものです」
「ん……不思議がってるように見えたか」
「本職はそのように解釈いたしました。不適切でしたか」
さあな、と言って僕はアークトーチを軽く小突いた。

「さてと。作戦記録、取得できました」
唐突にシャノンがケーブルを収納する。跳ねた潮が口に入ったらしく、紫色になった舌を出していた。
「早いな?」
「兵器のセキュリティなんてたかが知れています。戦車にもキイは無いでしょう?」
「まあいい。撤収するぞ。向こうの調査隊と鉢合わせたら面倒になる」
「撤収、了解しました」
彼はラフに敬礼をして、レギュレータを噛み直した。

浮上する途中でも、また魚群とすれ違った。イワシたちだ。肉片の散らばった海中めがけて、いっぱいに口を開いている。彼らが魚雷のように艦底に入って行くのを見ているあいだに、減圧時間が終わった。

海上の「モンス・メグ」に戻ると、ボランティアの男がギアを下ろすのを手伝ってくれた。先に上がったシャノンは既にウェットスーツまで脱ぎ終えていて、全裸で甲板に腰かけながら、ヘリウムで甲高くなった声を張り上げていた。
つくづくこの人はそつがない。
イスラエルのオズ旅団ではメカ屋をやっていたらしく、ブリーチングした髪が傷だらけの顔によく似合っていた。アフリカーナのようなシナモン色の肌をしていて、広い背中はあっちこっちで銃創が楕円形に盛り上がっている。

糖分補給のついでに船室に向かってみると、ドアノブに「着替え中」の赤いタグがぶら下がっていた。
構わず開けて、ウェットスーツを壁にかける。しばらくすると背後でごそごそと動く音がして、肩越しにハンドタオルが飛んできた。

「タグを掛けていたつもりでしたが」

振り向くと、第2班のロックスがジャンプスーツを半脱ぎにしたまま腕組みしていた。
洗濯していたお気に入りの眼帯がやっと乾いたらしく、潰れた片目に海賊みたいに引っ掛けている。
「僕も着替えたかったのでね」
「私を待っても良かったでしょうが」
「手と頭の作業だ」僕はうなった。「たかが下半身の機能で遠慮する必要があるか?」
「これまた今日は荒れてますね。首尾はどうなんです」
「ああ」
自分のベッドに腰かけて、食べかけのカロリーバーをかじり割る。かけらを飲み込もうとしたら舌の水分が抜けていて、小さくむせてしまった。

「死体がピンク色をしていた。水をかぶった汽缶が不完全燃焼を起こしたんだ」
「換気前に退避もできないド素人どもが相手なら、ラクで良かったじゃないですか」
「役立たずに情報を握らせる馬鹿はいない。あんなのじゃ期待はできないな」
ロックスは困った顔になって腕組みを解くと、残りの服を脱ぎ去った。背を向けてウェットスーツに袖を通しながら、「じゃあ頼るなら陸軍ですか……」と呟く。
「向こうも人手不足と聞いてる。またライフルを担ぐ羽目になるかもしれない」
「今のNY市軍はマサダでしたっけ?どうせSCARと似たようなものでしょ」

ロックスは鼻を鳴らして甲板に上がって行った。
この人も、ブートキャンプの頃から変わってない。彼女のベッドをちらりと見ると、こっちは散らかし放題だった。むしろ悪化してやがる。

彼女が哨戒に行って数分後、今度はシャノンが下りてきた。
「サー、解析が終わりました……」
言いかけながら僕がペニー硬貨をシーツに落としているのを見て、珍しく苦笑する。

「そいつ、本職の上官もよくやってました」
「殴られただろう?」
「もちろんです。大尉どのは?」
「まあ、ロックスの場合は殴り足りなかったらしいな」
僕は真面目くさった顔を作った。
「あの子は現地で調達された。寝床の作り方を教える暇なんて、とてもじゃないが無かった」
「ニューヨークなのに?」
「だからだよ。自分の名前を書けるってだけで、あの頃は上物だったのさ」

解析は、と尋ねると、シャノンは操舵室の隣に置いたラップトップに案内してくれた。
シャノンが腕に埋め込んだ端子を接続すると、ディスプレイが切り替わってハクトウワシの紋章を映した。
そこからFEMAだのペンタゴンだのと定番の名前がつらつら流れて行って、最後に40ページほどの計画書が表示された。

――『レガシィ・プロジェクト』

しばらく沈黙があった。

「本物か?」
「署名は物理も電子も確認できてます」
シャノンが指の欠けた手でキイを叩く。
「最後の更新日は2149年の5月。カリフォルニアが独立したときですね。知的財産の保護プロトコル更新と受精卵バンクのスタンドアローン化が完了したところで記録が終わってます」
「座標はどこだ」
「ナヴァッサ島の沖合い20キロメートルの海底です」
聞き覚えのある場所だった。
「……バイオスフィア3か」
ラップトップの電源が落とされて、シャノンは船尾の方へと休憩しに行った。

僕も休もうと思ったが、この戦時徴用船には残念なことにタバコも酒も無かった。
クレーンの側でロックスたちのボートが戻るのを待っているうちに、日が傾きだして、水面から一斉に鳥たちが飛び立った。
ロングアイランド湾と比べると、カリブ海の夜はディジタルだ。夕凪が吹いた一瞬で太陽は水平線を落っこちて、あいだの夕焼けはどこか遠くに飛ばされてしまう、
彼方からエンジンの音が近付いてくるのを聞きながら、そっと甲板に腰を下ろした。

『レガシィ・プロジェクト』

もう百年も前になるだろうか。
変わってしまった地球環境に適応できる新人類の創生。
人類のイデアの探求。黄金に輝くゲノムコード。
指を曲げると、かすかにモーターが軋んだ。ノイズまみれの視界にダメージ警告が浮かぶ。

西暦2160年。
人類は、今に至るまで何も変わっていない。

第2話

ニューヨーク市軍総司令フレア=ノイマンが僕のもとに来たのは、駆逐艦の調査から2ヶ月後のことだった。

小隊訓練の報告をまとめ、クイーンズヴィレッジの駅から吐き出されたらバイクでいつものパン屋に寄り、サブサンドイッチ用のロールパンとビターレモンの瓶を抱えて219番街のアパルトマンに戻る。
気分次第で瓶の中身はサケやビーフィーターのジンになるし、パンもガムやマフィンに変わったりするが、その他はここ40年のあいだ目立った変化がないルーティンだ。
この街ではみんな同じような顔をしている。
同じ笑顔を浮かべる店員から、お決まりのメニューを受け取り、似たようなニタつき面を貼り付けた警察に駐車違反を切られる。まったく気が狂いそうで仕方がない。

今日も玄関に野良ネコが座っていたので、頭のてっぺんを掻いてやった。
彼はしばらく気持ちよさそうにしていたが、やがて「みい」と鳴いて暗くなった外に走り出した。かなり前から腎臓を悪くしているせいで、だぶついた腹が重そうだった。
こいつだけはみんなと違って、ちゃんと見分けがつく。名前はまだ無いが。

エレベーターの前にはスーツ姿の女が立っていた。
「お待ちしておりました、オーガスト大尉」
彼女もいつものように柔らかく言って、錆びついた2Fのボタンを押した。
今どき珍しい天然ものの外皮を使っているから、彼女の首すじからはうっすらと汗のにおいがした。まだ睡眠不足が続いているようで、隈を隠すための化粧が分厚い。甲冑のように固く糊を利かせたスーツだって、触れたら指が切れそうだった。

エレベーターのゴンドラに揺られるあいだ、彼女はひと言も発せず、僕が部屋の鍵を開けたときに初めて「入っても?」と言った。
「本官を待っていたのでしょう」
僕はドアを開けて先を促した。
食事はと尋ねると、もう食べましたと言ってきたので、氷入りのグラスをふたつ用意してビターレモンを注いでやった。カウンターに出すと、フレア=ノイマンは上品に口を付けた。

「で、『レガシィ・プロジェクト』の話でしょうか」
僕もグラスを傾けるついでに、戸棚からカシューナッツの缶を下ろした。
「ええ。あなたもニュースを?」
「向こうの遺族団も面倒なことをしやがるもんです。ユニオンは何と?」
ユニオンの名前を出した途端、フレアは眉をひそめた。

西部アメリカ連合。
合衆国を名乗る貧乏自治州の寄せ集めだ。
かく言うこっちもNAFTAの切れ端が関税同盟として繋がっているだけなので、似たようなものだろう。思えば北米大陸もすっかりリンカン大統領の時代に逆戻りしてしまったものだ。

フレアは表情を繕うと、グラスをカウンターに置いた。
「向こうはベクタープラスミドによる遺伝子編集の特許をかさに、『レガシィ』に保管された受精卵の調査権を主張しています。このまま検査する名目で回収して、なあなあで済ますつもりでしょう」
「大したことには感じないな」
僕はナッツをかじった。「今さら周回遅れになった人間のDNAサンプルを取ったところで、根本主義者の客寄せパンダにしかならないだろう。我々には技術と労働力がある。勝手にやらせとけばいい」
「ですが、噂がもし本当なら不味いことになります」
「『超人兵士』か?」
つい鼻で笑ってしまった。

よくある与太話だ。
ヒトゲノムの97パーセントを構成するジャンク遺伝子――形質に寄与しない部分を、すべて『有用な』コードに置換した無駄のない人間。そんな代物がレガシィの実験で造られた、と。

「デッドメディアの見過ぎです。これだから旧来型の資本主義はいけない」
「しかしプロパガンダには使えます」
フレアが足を組み替える。いつもながら、長い分モーメントが大きくて面倒そうな脚をしていると思う。
「無くても『ある』と言えば、彼らは縋ってしまう。そうなれば暴走は目の前です」
「……正直に言う。何をさせたい?」
僕はナッツを掴んで口に運んだ。
カウンターの向かいでフレアが指を組み合わせる。丁寧に塗られたネイルが照明に反射した。

「『レガシィ・プロジェクト』の研究成果を調査して、『何も無かった』と報告してください」
「結論ありきか」
「我々は状況をコントロールしなければなりません」

フレアの義眼の奥で絞りが開く。
「レガシィの遺物が実在しようがしまいが、不確定要素は排除されるべきです」

その後、彼女はビターレモンをもう一杯だけひっかけて帰って行った。
「あなたが必要なのです」という昔の募兵ポスターみたいなセリフが、別れ際の挨拶。たぶん会った人間みんなに言ってるのだろう。
僕がふたつのグラスを食洗機にぶちこんだところで、ドアを引っかく音が聞こえてきた。
外に出てみると先ほどのネコだった。だぶだぶの腹を揺らしながら「うみぁ」と鳴いている。

「またウチで遊んでいくのか? 飯は出さないぞ」
構わないと言いたげにネコは頭を振って、部屋に入ってきた。
適当にくれてやったタオルを彼がもみくちゃにするのを眺めながら、フレアという女性について考えた。

イレギュラーが嫌いなところは彼女の祖父に似ている。
『経済の複雑性なんて、自販機にコインを入れたらスナック菓子が吐き出される程度で良い。
福祉は不公平によって必要とされる。規格化が足りていないからだ。あらゆる人間が、しかるべき入力に対してしかるべき出力を返すならば、全事象はマクロスケールで制御できるようになる』

……なるほど。
ヒトが個性的である必要はない。その結果がこの街か。

無意識に、壁に掛かっているライフルに目が向いていた。彼のもとで働いていた時代のものだ。
手に取ると、非常識な重さで肩が悲鳴を上げた。
そんな僕をネコは興味なさげに一瞥して、前足を舐め始めた。僕もベッドに腰かけて、ライフルのレンジファインダーに付いた埃をウェスでぬぐった。長年使った私物だから、ポリマーの外装はどこもかしこも傷だらけだ。

XM8E1/Fury。
試作型のモジュラーライフルに、口径20mmの炸裂弾ランチャーと火器管制コンピュータ内蔵のマルチスコープを組みつけたハイテク銃。「これが本来の姿だ」と調達したやつは言っていた。
僕に言わせてみれば、戦場じゃ車椅子のように小回りの利かないオモチャだった。

「まーおう」
ネコがベッドの下に潜り込んで、しまっておいたクッキー缶を引っかき出す。
傷が付けられる前に僕が取り上げると、彼は抗議の鳴き声を上げた。
「こいつの中身はお菓子じゃないんだよ」
フタを開けて、ぎっしりと詰まった金属プレートを見せる。ネコはその場で丸くなると、首を傾げた。
「ドッグタグって言ってな、本当は2枚あるんだが、持ち主が死ぬと片っぽをちぎって持ち帰る決まりになってる」
「うみゃ?」
「そうだ。人間の兵隊がこれだけ死んだ」
クッキー缶をライフルの脇に置く。
『最初』の僕が生まれたのは2042年。以来、120年分の軌跡だ。
覚えている中で最も古い記憶は、給食のタフィーをかじったときに乳歯が取れたこと。次に思い出せる範囲ではもうカタールのキャンプでカービン銃を分解整備していたり、幼いフレアと一緒にフロリダの遊園地を訪れたりしている。

超人兵士なんていない。
もしいたら僕はとっくにお役御免になって、今ごろはヒナギクいっぱいのお墓の下でうたた寝しているはずだ。

「みゅっ」
ネコがすっくと立ち上がって、ドアに向かった。どうやら夜食を探しに向かうらしい。
「あんまりジンジャーエールばっかり飲むなよ。腎臓悪くしてんだから」
僕がドアを開けると、ネコは何も言わずに出て行った。彼はいつだってクールに去ってしまう。

静かになった部屋でビターレモンをすすりながら、もう一度ライフルを磨いた。
ハンドガードを元の位置に戻そうとしたとき、ピンをクッキー缶の中に落としてしまった。ごた混ぜになったドッグタグをいくつもかき分けるうちに、ちょっと考え込んだ。
「……超人、か」
取り出したドッグタグをベッドに並べていく。
何十年もほったらかしにしていたせいで、汚れているやつがほとんどだった。

もし超人兵士がいたら、このうちの何枚が消えただろう。
1枚拭いてそっと置く。次のドッグタグも慎重に拭き取った。
今回は意識して丁寧にやることにした。今やらなければ当分は帰れそうにない。

第3話

海が青いと思っているのは人間だけだ。
30メートル辺りまでは確かに青い。そこまでなら人間の世界だ。エアが切れてもまだ浮き上がれるし、水圧で関節が軋むこともない。
海中もにぎやかで、マンタが羽ばたき、細長いヤガラや丸々と太ったハギとアジが傍らをすっ飛んでいく。海底をなぞればアナゴが顔を引っ込め、白化したサンゴの森を訪れると生き残ったコーラルフィッシュたちがたくましく生きている。
 だが50メートルを過ぎれば、黒々とした地球の腹がすべてを飲み込んでしまう。

ステンレスのソールが硬いものを踏んだ。
足を上げて確認すると、どうやら藻類の堆積物のようだった。深度600メートルの水圧で圧縮されてミルフィーユのようになった石灰質が、足裏をぼろぼろと剥がれていく。
べつだん珍しくもないので耐圧ケースを担ぎ直し、そっとあくびをかみ殺した。

「あ、もう通せました。所詮21世紀のシステムですね」
インカムからシャノンの声が飛び出し、非常灯の赤い光が辺りを照らす。来た道の方角に、踏み固めたばかりのマリンスノーが点々と浮かび上がった。
ロックスの口笛が止まる。「……現在時刻、1520。作業を開始します」
シャノンがくすくすと笑った。
「今の曲、『冒険野郎』だった?」
減圧室の中でたっぷり2週間も見せられたドラマだ。ヘルメット越しにロックスが渋い顔になる。
「仕方ないじゃないですか。もうリチャードディーンのツラが頭から抜けないんですよ……」
「上には『スローンズ』にしとけって言うべきだったかな」
「連作は見逃したら面倒くさいので結構です。話も無駄にフクザツだし――」
「任務中だ。うるさいぞ」
僕は舌打ちしてエアロックのハンドルに手を掛けた。

ニューヨーク市を出発して1ヶ月。
ユニオンが探査船を調達したというので、プランはすべて前倒しで進んだ。

サルベージされた記録によると、『レガシィ・プロジェクト』はバイオスフィア3実験の一環で実施されていたらしい。もっとも思うような結果が出ず、早々に予算は打ち切られていたようだ。
バイオスフィア3の方だったら僕も聞いたことがある。
海底のドーム内だけで完結させた地球環境のミニチュア。未来の地球を先取りするという名目で作った楽園は、地球環境の悪化につれてどんどん荒廃していった……と。

エアロック内の海水が抜けて、ロックスが耐圧ケースを下ろした。
てきぱきと中身のライフルを組み立てて、最後にケースレス弾薬の弾倉をバレル上部に差し込む。シェルスーツの肩をストラップに通したとき、眼帯が斜めにずれた。反射的に彼女が上げた手がヘルメットにぶつかる。
「もう外して大丈夫ですよ」
シャノンがヘルメットのフェイスプレートを跳ね上げた。彼の浅黒い顔が笑みを浮かべるのを見て、僕たちもプレートを上げた。

初めに感じたのは粘ついた空気だった。
切ったシイタケのような甘い香りに、顔を打つ暖かい風。森の香りだ、と気付くまで少しかかった。
「酸素の供給元はプラントじゃないのか」
「いえ……通路側の空気を引き込んだだけですが」
シャノンが唇を撫ぜる。グローブに付いていた塩の跡がくっきりと残った。
まだ新鮮な空気が回っている。この実験施設の中で、今でも何かが生きているということだ。
僕も自分のライフルを組み立てるついでに、防弾プレートをシェルスーツのポーチに差し込んだ。
 
「腐葉土のにおいだ。生態系がまだ循環している」
「本当ですか?」
ロックスに目配せして正面ドアを開けさせる。

手狭な連絡通路は一見すると変わった様子はなかった。
暗闇に足を踏み入れた途端、減圧症で気が遠くなった。さっさとフェイスプレートを下ろし、セカンドステージレギュレータを開く。ぜえぜえと喘いでいると、ロックスが先に進んでクリアリングを始めた。

「サー、大丈夫ですか」
後から来たシャノンが肩を貸してくれた。
「ああ。血液が沸騰してしまった……」
「深海用のヘリウムブラッドがあったはずですが。替えなかったんですか」
「腎臓の規格が古いんだ」僕は笑みを作った。「MILスペックの血だと、身体が対応できない」

2人で進んでいくと、ロックスは通路の突き当たりで立ち尽くしていた。
エントランスホールに繋がるゲートが開いていて、彼女が投げ込んだケミカルライトの緑色の光が漏れている。そのホタルのような光に照らされて、彼女は何かを見上げたまま口を開けていた。
「報告しろ」
僕が通信を入れると、やっと我に返ったようだった。
「えっと……樹が見えます。たぶんサクラかケヤキです……1本だけで立ち枯れてます」
「何があったか簡潔に言え」
「分かりません」
ロックスが振り向く。泣きそうな顔になっているのが薄暗闇の中でも分かった。
「光ってます。あれ、何ですか?」

エントランスホールは土で覆われていた。ゼニゴケ、シダ、イシクラゲ。湿気とわずかな光で育つ生物の死骸がそのままの形で積み重なって、その上に嫌光性の苔がコロニーを作っている。
あちこちでコバエが飛び交っていた。
広間の中央では、大樹が床を突き破ったまま腐って甘い香りを放っていた。その表皮もヒカリゴケと粘菌がびっしりと埋め尽くしていて、ときおり成長しきったヤスデが通るたびに脈打つように光が揺らいだ。

「地熱発電機が機能しているようです」
シャノンがナイフで地面を掘り起こして、目の高さに持っていく。
「環境収容力を超える前に、まとめて枯死している……ここの照明に寿命が来たのは8年前ってところでしょう」
「『家の電気を点けっぱなし』で職員がここを離れたってこと?」
ロックスが2本目のケミカルライトを折りながら言った。ぶん投げられたライトの軌跡が、壁を覆う菌糸のシルエットを照らし出す。
「さあ。放棄されたときの記録なんてどれも曖昧で、細かいところはどうだか……」
「だから私たち、急ぎすぎなんだって」
ロックスは睨むように僕を見た。
「隊長、生存者が残っているときの手順は?」
「ここに人間はいない」
僕はライフルに暗視スコープを取り付けた。ハンドルを引いて弾を薬室に送る。
生存者のことは、もちろん可能性として考えていることだった。
回答も用意済みだ。
「もし生きているやつがいても、もう人間じゃない」

広間の脇にある事務室は比較的マシな状態で残っていて、そこが今日のキャンプ地になった。
フェイスプレートを上げると、もう息苦しさは無かった。
携帯ランプに照らされた粘菌は原色のイエローをしていた。触ると思いのほか脆くて、指の上で埃のように崩れてしまった。
「さっきの話ですけど、殺すってことですか」
向かいでチョコバーをかじりながらロックスが言う。
僕が黙って見つめ返すと、彼女は眼帯を外してマガジンラックに入れた。白く沸いた片目がゆっくりと開く。
「私、ただの調査だと思ってました」
「そのときの話ってだけだ」
まだ彼女が不満そうだったので、僕はライフルを置いて座り直した。
 
「どのみち僕の命令だ。きみが責任を負う必要はない」
「分かってますよ。尉官って軍隊が部下に撃たせるためにいるんでしょう? 私が言いたいのは、こんなテキトーな情報ばっかりでまともに調査させる気があるのかってことです」
「無いんだろう。だからテキトーにやってる」

そのときシャノンが偵察から戻ってきた。慌ててロックスが眼帯を着け直す。
「来てください、隊長」
声が上ずっていた。彼は耐圧ケースを開くと、いそいそとスーツに防弾プレートを差し始めた。
「敵か?」
「弾痕です。誰かがライフルを撃ってます」
 ポーチを閉じるなり彼はかぶりを振った。

「我々より先に、武装した誰かが来たんです」

第4話

その人骨は土くれにまみれて倒れていた。

「頭部に1発。弾はウィンチェスターです。倒した机を掩体にしていたところを、狙い撃ちされています」
シャノンが着剣したライフルで土を除けていく。カビと腐葉土の下からは裂けたケブラーのジャケットが現れた。首から上の堆積物も取り除くと、粗い粒の土くれがバケツみたいに詰まった頭蓋骨が見えてきた。
「骨も内臓も天然もの。無改造の人間を働かせていたんですかね?」
「施設内で発生させた新生児なんだろう」

前頭骨の縁は引きちぎられたように裂け、てっぺんの縫合に沿って黒ずんだ血の跡がこびりついていた。
残った上顎の歯はきれいに並んでいるように見える。まだ若かったらしい。
「いや。弾はシグの.277だ」
僕が言うと、シャノンは首を傾けてきた。ライフルを借りて、頭蓋骨を軽く回す。ずたずたの前半分と違って、後ろ側にはしっかりと骨が揃っていた。
「ウィンチェスターだったら後頭部まで貫けている。目方の軽い弾だったから骨に当たって砕けた」
「NATO規格ですか? その口径は聞いたことがありませんが」
「イギリスの特殊部隊向けに開発された弾丸だった。ニューヨーク市軍でも発足当時にいくつかライセンス生産して使っていて……」
ロックスが折り畳み式シャベルを持ってきたので、話を中断して残りの部分も掘り出すことにした。

しばらくして全身分が揃った骨を囲んで、持参したパック入りのスポーツドリンクを飲む。
人骨は成人男性のものだった。ジャケットの劣化具合から見て、死んだのは10年ほど前の話だろう。
「兵士ですか?」
ロックスが周りをうかがいながら言う。
「さあな」
「まさかこれが『超人兵士』じゃないですよね」
シャノンの方を見ると、彼は大げさに肩をすくめてみせた。
この娘は死体に慣れていない。僕は胸ポケットに手を入れ――タバコが無かったので代わりにスポーツドリンクで唇を湿らせた。

「軍曹、人間の野生状態でのライフスパンは何年か知ってるか」
「寿命のことですか」
「30年だ」僕はドリンクを下ろした。「そこでだいたい世代交代が完了する。逆を言うなら、親世代が30年は生き残らなければ次代に知識と経験が継承されない」
ネブラスカを占領したとき、老人と子供しか残っていなかった町を思い出す。
あの場所はきっと次の干ばつで滅んだだろう。
「……躍起だった。虫と魚は世代交代を重ねて環境に適応しているのに、哺乳類連中ばっかり取り残された。ヒトゲノムの編集が許可された頃には、動物園もほとんど紙に描いたハリボテだらけって有様だったんだ」

そのヒトを改良する道のりも決して楽なものじゃなかった。
30億ビットの塩基対をコーディングするのは、砂粒を積み上げて超高層ビルを建てるようなものだ。慣れれば『それっぽい』ものは作れても、量産に堪えるコードには程遠く、数十体も複製するとすぐに奇形児まみれになった。
『レガシィ』が最後に送ってきた成果だって、発生過程で不調を起こした臓器を人工物に置き換えてどうにか実用レベルになるようなものだった。とても超人兵士を作る余裕があったとは思えない。

「じつは、地球最後のマッコウクジラを食べたことがある」
 僕は笑った。「浜に打ち上がってて、精液鯨って名前通りひどい臭いだった。でも、あのときは食うしかなかったし、その結果として僕は生き残った」
「えっと……はい?」
「連中よりは運が良かったって話さ。絶滅する前に何度もサイコロを回して、我々だけはどうにか『当たり』を引くことができた……あれでも当たりだったんだ。それ以上は存在しない。『超人兵士』もな」

その後、頭蓋骨を検めていると弾頭が出てきた。
脳の中を泳ぐうちにすっかりグシャグシャに潰れていて、正確な口径は分からない。それでも握ったときの感触は間違いなく重量135グレインの.277弾だった。
アパルトマンに掛けているライフルと同じ弾。こいつを撃ったのも、きっと僕と同じ生き残りだろう。
「……当たり、か」

『オーガスト』という男の遺伝子は頑丈で、よくクローンが作られていたそうだ。
僕が初めて他の『オーガスト』を殺したのはフランスだった。

当時の僕はCNRSの警備員で、『彼』はイギリスのMI6のエージェントだった。
恐らく、スパイとして彼の振る舞いは完璧だった。ただ通行証を通すとき、一瞬だけまごついたのが致命傷になった。
僕は拳銃を引き抜いて即座に射殺した。
ちっぽけな9ミリ弾は彼の気道を周りの肺胞道ごとずたずたに引きちぎって、脊柱に沈み込んだところで止まった。出血は少なく、死ぬまでには少し猶予があった。彼が大理石の床に伸びて、薄い胸からとくとくと白い人工血液を流すのを見つめていると、向こうも僕を認めた。

「『しまった』とは思った」
というのが、彼の第一声。

イギリスの諜報部が用意したボディは旧式で、外観をラテン系の女性に偽装してあった。正規品よりも前腕の比率が大きいせいで、指先の距離感を見誤ったのだろう。
彼の横に屈むと、ハーネスに差したマシンピストルが見えた。

「依頼されたのはDNAバンクか? それともワクチン?」
僕が頬をグリップではたくと、彼は片目を閉じてこちらを見た。
「守秘義務だ」
「どうせ死ぬ。話した方がいい」
「なぜレディスミスを使っている。MP7くらい支給されたはずだ」
「あの鉄砲は人間様専用だ」
「ああ……こっちもグロックだしな。3階で手あたり次第殺すことになっていた」
「守秘義務だったのでは?」
そうだったな、と彼は角砂糖のように白い歯を見せた。
「あと2秒遅かったら、こっちが撃ってた」
「でも今、死にかけているのはきみだ」
「そう。状況のせいだ。逆ならきみが死んでいる」
彼が数度まばたきをすると、喉からうがいをするような音が立った。
唇から白い血がひとすじこぼれて、細い気道が塞がったのが見て取れた。

上の階では撃ち合いが始まっていた。別動隊がいたらしい。
ぱらぱらと階段を跳ねる薬莢の音を聞きながら、『僕』たちは見つめ合う。
彼の唇が動く。さよなら、と言ったのかもしれないし、捨て台詞を吐いたのかもしれない。どのみち気が付けば死んでいた。

あの事件で生き残った僕も、2ヶ月後にテロに巻き込まれて死んだ。
感覚器からのシグナルは死ぬ瞬間までサーバー側でモニタリングされ、最新版の僕には120人分の『オーガスト』の記憶が詰まっている。

120回死んで分かったのは、どんな訓練も才能も、死ぬ確率をゼロに近づけることは出来るが、死ぬときはどうしようもなく、あっさり死ぬということだけだった。

「隊長」
枯れた大樹を見上げていると、ロックスがカロリーバーを持ってやって来た。
「ああ。ありがとう」
僕がフルーツ味のバーにかじりつくあいだ、彼女はシェルスーツに手を入れて胸を掻いていた。
この人もいかにもな戦後らしい女の子だと思う。
不快にならない程度に醜くなく、嫉妬されるほど美人でもない『ニューヨーク顔』。そういう個性を潰されたパーツのモンタージュ。唯一、傷ついた目を覆う眼帯だけが個性を主張している。
「どうされました」
「その眼帯、自分で選んだのか」
「まあ、はい。病院のやつってダサいんで」
「良いセンスだ」
微笑もうとしたとき、視界の隅で何かが光った。

考えるより先に、ロックスの身体を突き飛ばしていた。彼女の見開いた目が視界をスライドしていく。
ぱっと短いフラッシュが焚かれた。
次の瞬間には胸に燃えるような.277の弾頭が突き刺さっていた。
もどしそうになる不快感が腹から喉にせり上がる。遅れてやって来た苦痛が脳を蹴りつけて、意識が剥がれていく。

隊長、という叫び声だけが耳に何度もこだました。

第5話

ちゃりん、ちゃりん。規則的な金属音が鳴り響く。
ステンレスの小さなプレートがぶつかり合う音。ひとりの男が取り出してはため息をついて、またクッキー缶に戻している。

ああ。またひとり死んだのか。

1枚目を拾った日は今でも覚えている。
終わったときには戻れなくなっていた。

日課のようにビターレモンとロールパンを買って、病院へ。
自動ドアをくぐると看護ロボがいて、病室まで案内してくれた。
『本日、除籍の通知が来ました。処分は別に行われる手はずです』
ロボットはカルテをモニターに表示して、状況を報告してくれた。
相変わらず彼女は手足を外された状態で治療室に横たわっていた。今日は容体が安定していたようで、表情もいくらか穏やかに見えた。

「処分の日取りは?」
『不明です。明日かもしれません、来年かも』
「任せる」
腕を組んで、治療室のガラスにひたいを当てる。

彼女の腹は半ばまで裂けていた。ガラス細工のような長い髪が、呼吸に合わせてそよいでいる。削れた肋骨の下では傷ついた人工肺がいびつなリズムで膨らんでは、また小さくなる動作を反復していた。
たまに剥き出しになった肩関節がひくひくと動くのが見えた。失った腕を痙攣させるみたいに。
残った胴体が清められているのだけが幸いだった。

『骨盤上のターンテーブルは問題ありません、脊椎の損傷も代替可能な範囲でした。ただしイレギュラーなパルスがときおり発振されるため、四肢は安全性を考慮して切除しました』

無機質な文字列が、僕がまばたきするたびに視界に表示される。
看護ロボは古いアンドロイドだった。声帯が無くて、プリセットで会話するようになっている。愛想のひとつも振りまけず、ひたすらタスクを実行するだけの人形だ。
だからマニュアル通りの動きしかできない。

明らかに、今の彼女には過剰な処置だった。
姿勢を安定させるためと言うが、塹壕に飛び込んだ榴弾を抱いてこうなったのだ。動けるような体力があるようには見えなかった。
『あなた方は軍人ですから』
僕の視線を読んだらしく、看護師が横に回ってきた。
高解像度レンズと柔軟なシリコンで構成された笑顔が、脅迫するように近寄ってくる。
『もしご命令とあれば、善処しますが』
その目に恐怖が宿っているのを感じた。
ここで僕が、きみは民生品だもんな、と言っても答えはないだろう。彼は思考の一部を出力しただけで、しかもそれは旧式にとって、大変エネルギーが要る行為なのだ。

「助かるか」
僕が尋ねても、看護師は応えなかった。
そのままじっとしていると、通信が入った。
『受容器官、および言語野の修復は不可能でした』
そうかと呟き、看護師の肩越しに、ベッドの部下へと目を戻す。
こうなることは予感していた。なまじ彼女が優秀だっただけに、楽観視を決め込んでいたのかもしれない。

数日後、彼女の遺品を整理することになった。
こっそり兵舎に持ち込んだコミックス、酒保で買ったキングのペーパーバック、裏表紙に落書きされた聖書……彼女がクエイカーということは、そのとき初めて知った。
最後に1枚きりのドッグタグだけが残った。
もらっていいか、と主計科のやつに訊くと構わないと言うので、カーゴパンツのポケットに放り込んだ。
これからの数十枚の、1枚目だ。
あと何人の自分がこれを見ることになるのだろう。

目を開けたとき、まず見えたのはビニルの天井。
アーチを描いていて、ときおり接続されたポンプから空気が流れてくる。ぴっちりと張ってあってコインを落としたら月まで跳ねていきそうだった。
再圧チャンバーは、ハイテクになった鉄の肺そのものだ。
減圧症で沸騰した血液から泡を抜くために、高圧環境にダイヴァーを閉じ込める。ゆっくりと、深海の高気圧から、陸の空気へ。原理はシンプルで効果も絶大。僕のような人間もどきでも使える。
ちょっと手を顔にやって、目元が濡れているのに気が付いた。

もう夢なんて見ないと思っていたのに。

彼女と違って手足はまだ付いていた。
シェルスーツは脱がされていた。あらわになった右の胸に痣があって、そこで銃弾が止まったのが分かる。早めに防弾プレートを入れていて正解だった。無かったら今ごろは失血死だ。
「やっと起きましたか」
横合いからシャノンの浅黒い顔が現れて、ポンプを止めた。
携帯式チャンバーのファスナーが下ろされると、肺から抜けた空気で喉がヒュウヒュウと鳴った。
「ああ……」
シャノンの目の下には、黒インクで塗ったように大きな隈ができていた。隣に立っているロックスも同じだ。
僕が13時間ぶりの飯を食うあいだ、彼らは何も言わずにライフルの照準を調整していた。
彼らが1発も撃たなかったのは、上がり切ったハンドルの位置で察した。僕を撃ったやつはさっさと逃げ出したらしい。ロックスが僕の視線に気付いて、片方の眉を上げる。

「どうして私を庇ったんですか」
「ダメだったか」
「いえ……」と反射的に言いかけたところで、彼女は頬を膨らませた。「そうですね、あれは悪手でした」
「だろうな」
「あなたを失った方がチームとしての損失は大きいんです。隊長としての自覚を持ってください」

損失か、とぼんやりと思った。
目の前で彼女がニューヨーク人らしい顔をしかめる。
この人も『千ドルベビー』だった――特に期待もされず、はした金で誰でも親権を買える量産型の子供たち。
死んだところで大した損失にはならない。どうせスナックを自販機で買うように替えが補充される。次のロックスは両目とも見えているだろう。

「僕は古い人間でね」
意識して笑みを浮かべた。「それに、部下を助けて死んだ方が社会的評価が上がる」
「今、私はシリアスなんですが」
「この説明の方がきみの世代は納得してくれる。あれだ……『ナウい』だろ?」

シェルスーツを着込んでポーチを漁ると、砕けたセラミクス製の防弾プレートが出てきた。
「聖書だったら死んでいたな」
「敵は1人。下層に逃げ込んだようです」
シャノンが替えのプレートを渡してきた。彼は既にザイルを肩にかけて、下りる準備をしていた。
「非常階段は使えないのか」
「ブービートラップで封鎖されていました。エレベータシャフトなら降下できますが」
「じゃあ出発しよう。本当にスポッターは居なかったんだな?」

エレベータは通路を出てすぐ左にあった。
支点の強度確認も終わり、ロックスから順番に降下を始める。
ひと足下がるたびにぎちぎちとザイルが鳴って、はらわたみたいに垂れ下がったケーブルが背中を軽くたたく。エレベータのゴンドラはすぐ下の階層に止まっていた。天井を開けてみると、ゴンドラの中身は空っぽだった。

「行きます。ブリーチングをお願い」
ゴンドラに入ったロックスがライフルを構えて言う。
ハリガンツールを持ったシャノンがエレベータのドアをこじ開けるなり、彼女は外に飛び出して行った。

気が付くと周囲に空気の流れができていた。
エレベータシャフトから通路へと風が吹いている。通路を減圧しているらしい。
「クリア」
「了解」
ロックスを追ってエレベータを出ると、足が霜を踏んだ。壁にも一面に氷の結晶が張っている。
減圧どころじゃない。空気がぜんぶ抜かれている。
「……死体があります」
インカム越しに、ロックスが上ずった声でささやく。
「凍死体です。踏んだらその……割れました」
「クリアリングを続けろ。調査はこっちでやる」
「クリアリング続行、ウィルコ」

15メートルほど進んで、僕たちも死体を見つけた。6人の男性が戦闘服を着たまま倒れている。
「職員でしょうか」
「逃げるにしては重武装だ。クーデタかもしれない」
試しに1体をひっくり返す。
顔をフラッシュライトで照らした瞬間、思わず一歩引いた。シャノンも小さく声を上げる。

僕の顔だった。
凍った床には6体の僕が、氷漬けになって倒れていた。

第6話

ナイフで掘りだした銃は、レシーバーが割れていて使いものにならなかった。
ビスで留めた外装を撫ぜていると、シャノンが隣に膝をついた。検死が終わったらしく、シェルスーツの指にシャーベット状になった血と脂が付いていた。

「無改造の『オーガスト』タイプでした」
「分かっている」
死体はどれも同じ胚を分割して出来ていた。
クシクラゲの実験と同じようなやり口だ。クローニングも適当にやっているものだから、奇形に近い発生をしていた。左右で腕の長さが変わっていたり、耳たぶが欠けていたり。
見開いた目はどいつも深海魚のように飛び出ていた。急な減圧で口から食道の粘膜を垂らしている個体もあった。

ねじくれた指を一本折り取ると、年輪のような波模様が断面に表れていた。
ミオスタチンによる抑制が筋組織の発達に追い付いていない。おそらく三倍体の受精卵に成長ホルモンを投与して製造している。外見上の老化こそ著しいが、実年齢は8歳といったところだろうか。
「急造品だな。人民軍式だ」
「肉体に銃創等の外傷はありません」
シャノンが組織を入れたシャーレを確かめて言う。
「直接の死因は酸欠か?」
「気道の損傷が少なかったので、恐らくは」

誰かがフロアの空気を抜いて、このクローンたちを殺したのだ。
どいつも警備用に造られた兵士ではなかった。ありえる話としては、何か事故があって、そいつに対処するための量産品といったところか。

そのとき背後で派手な音がした。
振り向くとロックスがドアと格闘していた。僕たちが見ていると、彼女は凍り付いたノブを何度かライフルの銃床で殴りつけて、最後に肩をすくめてこっちを向いた。
「あ、うるさかったです?」
「クリアリングは終わったのか」
「この部屋だけです。くそが。熱湯でもぶっかけてやろうか……」
「凍結に水は逆効果だぞ」

ハリガンツールをシャノンから借りて10分ばかり格闘しているうちに、ひと際大きな氷が剥がれ落ちた。
こじ開けたドアにロックスが突入する。後から入ったシャノンも部屋の反対側を走査し、「クリア!」と声を張る。
「研究室のようです。死体を確認しました」
「シャノンは電子データの復旧を試せ。ロックスと僕で物理メディアを調査する」

フラッシュライトで部屋を照らしていく。
確かに研究室だった。壁際にプラスミド調製装置とインキュベータがある。
バイオトロンのひとつを開けると、枯れたイネの苗がぎっしりと詰まっていた。その横のやつには肉片の詰まったタッパーが並んでいて、抜けた水分が底の方で赤黒い水たまりになっていた。
「これ、ティッシュですか?」
ロックスがキムワイプの箱をつまんで言った。
机の下を見ると、取り口の破れた箱とピンポン玉が仕舞いこんであった。どこの研究室でも娯楽は似たようなものらしい。

床の死体は研究員のプレス証を付けていた。
アジア人男性、主任研究員。こちらも平々凡々。
白衣のポケットにはペンを挟んだメモ帳が入っていて、開くと日付と遺言らしき文言が並んでいた。しばらく読んでいるうちに、思わず顔をしかめてしまった。
「……『死に至る病』だと」
「はい?」
ロックスがキムワイプの箱を持ったまま近付いてくる。
僕はメモを振った。

「何らかの実験対象の封じ込めに失敗して、施設内部で粛清を行ったと書いてある」
「病原菌ですか」
「さあな。ずいぶんボカした書き方をしてあって、『死に至る病』としか分からない」
「絶望のことですね」
シャノンが研究用コンピュータに携行式電源を繋ぎながら言った。

「キルケゴールの本ですよ。死に至る病とは絶望である。絶望はすなわち罪である……」
流石、こういう理屈っぽいものには強い。
「抽象的なものを抽象的なもので表現してるだけじゃないか?」
「分かりやすかったら偉くなれんのでしょうよ、あの手のケイジジョウガクって」

数度ほどコネクタを繋ぎ直して、最後にシャノンはディスプレイをひっぱたいた。
「末端側はダメですね。このアマ、低温で磁気記憶装置がすっかりバカになってやがる。サーバーから吸い出せばいくらか分かることもあると思いますが……」
「時間が無い。やるなら直接繋ぎに行った方が早い」
「だったらひとつ下の階層になります」

エレベータを下るために研究室の外で荷物をまとめていると、ロックスが書類を詰めた耐圧ケースを運んできた。中身を選別するために苦心したらしく、隣に座るなり疲れた目をほぐし始めた。

「上にあった死体もその……あなただったんですか」
 彼女はライフルをかき寄せて、肩にかけた。
「恐らくな」
コンピュータから施設の自己診断プログラムにアクセスしたが、浮上ポッドは全基、空のまま射出されていた。武器庫のアクセス権も制限されていて、戦闘はほぼ一方的な虐殺だったことが想像できた。

そっと、スーツから防弾プレートを抜き出して、指先でこすってみた。
敵がいると分かれば備えはいくらでも出来る。次は負けない。

「私、『レガシィ』なんて都市伝説だと思ってました」
ロックスがぽつりとこぼす。
僕が見つめ返すと、彼女は眼帯をめくってみせた。

「目の在庫が無いって言われちゃって、このザマです。等級が高い人間は毎日のように取り換えてるってのに」
「優先順位だ。軍属は装具に保険が下りるから、そちらを選べばいい」
「『レガシィ』では新人類を研究してたんでしょう? 人間みんながおんなじになれば、私の目も間に合ったんじゃないかって思うんです。それが出来なかったってことは、研究もやっぱり失敗してたんですか?」
「最後まで近親交配の問題がクリアできなかったんだ」
と、シャノンが別の耐圧ケースを担いでやって来る。ようやくデータのサルベージが終わったようだ。

「似通った個体同士が交配すると、血が濃くなって遺伝子に同じコードが繰り返し現れるようになる。そうなるとちょっとの不具合が大きなバグになってしまうから、初めから完璧なコーディングを保持したまま発生させる必要があった」
「じゃあ、私たちは?」
「市長が替わったとき、難民を大量に受け入れたろ」
シャノンはつまらなそうに言った。
「あれで混血が進んだ。今は充分に血も『薄い』から健康被害も起こっていない」

彼の渋い顔を眺めているうちに、フレアの義眼を思い出した。
あの子の母は、彼女と同じ顔をした男と結婚した。もちろん子供も純粋なニューヨーク市民だった。みんな『ニューヨーク顔』をしていた。

――あらゆる人間が、しかるべき入力に対してしかるべき出力を返すならば、全事象はマクロスケールで制御できるようになる

フレア=ノイマンの身体は医者の予測をなぞるように壊れていった。
あの子の臓器が膿にまみれ、四肢がマヒしてもなお、彼女の祖父は無数の『フレア=ノイマン』同士を交配させた。ヒトの形すら保てなかった肉塊が浮かんだ保育器を、今でもはっきりと覚えている。

最期まであの男は『レガシィ・プロジェクト』のために死んだ。
次のバージョンで人間は完璧なコードを手に入れるはずだと。
いくら複製しても全きを保つ、黄金に輝く人類種のイデアを。

「サー、どうされました」
いつの間にかシャノンたちが準備を終えていた。
すまない、と返して立ち上がる。ちょっと考え事をしていたんだ。何でもない。
 
彼は不審がりながらも、今のところは離れてくれた。

いつだって完璧というものはあり得ない。ただ辻褄合わせだけがある。

第7話

あの男を殺したとき、僕はまだ大尉ではなかったし、名前だってオーガストではなくてエイス(8th)だった。
今になっても8番目という名前の意味は分からない。
受精卵クローンを分割したときのロットナンバーだったのかもしれないし、切り札のエイス(Ace)と掛けたのかもしれない。ただ、彼はそいつが最高のジョークみたいに『エイス』と僕の名前を呼んだ。

「エイス、これで終わりじゃないぞ」

ちゃんとあいつらは殺したか? 今日は30キロも走ったのか。とうとう部下が死んだのか――だが、これで終わりじゃないぞ。エイス、まだやるべきことは残っている。

僕が血まみれで執務室に入ったときも、彼は顔色ひとつ変えずに同じことを言った。
「エイス、これで終わりじゃないぞ」
もう昔とは違って、彼の手はひどく節くれていて、白髪も半分以上は抜けていた。それでもあの笑顔だけは、相変わらずベッドにコインを落としてはぶん殴ってきた大尉どののままだった。

「フレアか? それとも貴様の独断か?」
彼は僕に拳銃を向けて言った。
「トリガーを引くのは僕だ」
「そうだな。理由はどうであれ、貴様は『たかがその程度』でこれから人を殺す。それが重要だ」
彼はかっかと笑って、デスクに拳銃を置いた。
旧式のコルトが銀の地金に僕たちを映していた。分厚い硝煙が空を覆っても、ひどく月の明るい夜だった。

「……俺が間違ってたとは思わん」
そう言って、彼は笑みを消した。
「で、フレアはいくら難民を受け入れたんだ。市軍を蹴散らしたからには、人材は選んだのだろうな?」
どうせ知っているくせに、彼は確かめるように言ってくる。
突然、窓の向こうで大きな炎の花が咲いた。白んだ流星が地面に降り注ぎ、誰かの声が上がる。

「きみの部隊がキャンプを砲撃している。サーメイト弾だ。老人、子供、病人、前線に出なかった女ども……消火は間に合いそうもない。痛みを引き受ける気もなく、労働力にもなれないお荷物は全員死ぬだろう」
「ああ、プレゼントは喜んでいただけたようだな」
「どこまで本気だったんだ」
下の階からも銃声がした。
背後の扉ではフレアの私兵が銃を構えて、僕の合図を待っている。
この老人はいつでも命の勘定をしている。
その評価軸は決して倫理的ではないが、間違いなく一貫性のある男だった。僕がひとりで来たのも、個人的な敬意のつもりだった。

「どこまでとはな。本気というのは計量できるものではないぞ」
と彼は微笑んで、
「有無で言うなら今でも俺は本気だ。ただ、今回は後塵を拝する側を選んだというだけでな」
「『レガシィ・プロジェクト』は失敗したのか」
「知るか。連絡を寄越さなくなったビジネスパートナーなんぞ、信頼に足るとは思わん」

僕が右手を挙げようとしているのを見て、彼はため息をつき、「もう少し時間があると予想していたのだが」と呟いた。そして手が頭の高さまで上がったとき、僕を見つめた。

「エイス」
彼は最期に言った。
「世の中、辻褄が合うように出来ているものだ。本当に終わったとき、分かるだろう」

次の瞬間、彼の頭は風船のように破裂した。

「サー、異常ありませんでした」
シャノンがエレベータホールに戻って来る。
ライフルを握る彼の指から、融けた氷が赤いしたたりになって落ちていく。そんな脂と血にまみれた手を僕が見つめていると、彼は初めて気が付いたようにスーツの腰で拭いた。
「冷媒のノルフルランがまだ循環していました。サーバーが生きています」
そうか、と言った。

エレベータシャフトの底には『オーガスト』の死体が折り重なっていた。
ハエにまみれて腐乱した身体は、それでも『彼』よりはキレイなものだった。

「ロックスをどう思う」
シャノンが手を拭くのをやめる。
彼の灰青色の瞳が僕を見つめ、一度だけ瞬きをした。
「『ニューヨーク顔』に会うのは初めてでしたが、想像よりは可愛いモノでしたね」
「きみも、純粋なユダヤじゃないだろう」
「ええ」
言われ慣れてますよ、と言うように彼は笑った。

「でも今どき、肌の白黒なんて近所のトヨタの色ぐらいの意味しかないでしょう?」
「宗教も既にそうしたバリエーションのひとつになっている」
「個性そのものもね」
彼はライフルを背負うと、壁にもたれて腕組みした。こういうヨーロッパ人らしい仕草をされると、本当にアフリカーナみたいだ。

「21世紀以来、言われるほど人間は神秘的でも特別でも無くなってしまった」
彼はふっと鼻を鳴らした。
「真に科学的なら一回性は否定されなければなりません。そのときの思想、経験、あるいは人生すらも、『条件がそろった』だけの再現可能なケースとして扱うから対象になるんです」
「で、きみは科学的な人間なのか?」
「カキもチーズバーガーも食わない程度には非科学にぶら下がった個人ですよ、本職は」
まったく、この手の男が語る宗教は、いつも言い訳に便利だから困ってしまう。

ロックスも合流し、彼らはサーバールームに入っていった。
僕は外で警備しながら、ちょっと手をすり合わせたり、重たいブーツのかかとで床を叩いたりしていた。何故か心臓が痛いくらいに鳴っていて、何か物事が進むような予感があった。
最下層は虚無そのものだった。
リノリウムの床に、破れた壁紙。冷媒が回る低いうなりの他には、五感を刺激するものは何も無い。

果たして、正面からハーフブーツの音が聞こえてきた。
チャリチャリと鳴ってるのはライフルのストラップだろうか。
床を眺めていると生臭い血と鉄のにおいが突然、強くなった。間もなくすぐ隣の壁に誰かが寄りかかり、ふうっと灰色の煙を吐き出した。
嗅ぎ覚えのある匂いだった。キャメル。8番目と呼ばれた男が好きな銘柄だった。

「もう喫わないのか?」
彼は嗄れた声で言った。
「いや。でも任務中だ」
「つまらない男になったな。それとも22世紀の兵隊ってやつは、老後の健康を考えながら務めるのか?」
「ケリをつけに来たか」
「いや」彼はタバコを踏み消して、「答え合わせだ。お互いの、な」

彼が重たいライフルを下ろす。
丁寧に磨かれたポリマーの外装が、暗闇に淡く輪郭を浮かび上がらせた。

第8話

「上の死体はきみがやったのか」
「僕たちが、だ」
 彼は皮肉っぽく口角を上げた。
「何があった」
「絶望したのさ」
僕がメモ帳を取り出すと、「そう、それだ」と彼はうなずく。

「世界は有限大の情報で出来ている。少なくともここの連中は、そう考えていた」
彼はそう言って2本目のタバコをくわえた。カチカチとライターを鳴らすたびに火花が散る。

「そうした解釈内では、個人は社会というシステム全体における占有面積を示すだけの言葉になる。体格、知識、経験、年齢、性別、国籍。構成する属性が同じならば、同一人物の再生産は可能だ。理論上では」
「だが結果は発散した」
「その通りだ」
小さな灯がともり、彼の口の動きに合わせて揺れ動く。

「全世界の風を観測すれば嵐は予想できるかもしれないが、ニューヨークの竜巻のために北京でチョウの羽ばたきが起こす風の影響を計算できるやつはいない。完全に複製するには、人間の成長に関わる要素はあまりに細かく、遠く、多すぎた」

焼け崩れた刻み葉がはらはらと落ちていく。
彼は手のひらで灰を受けると、そっと握りつぶした。

「科学というものは、ときに物事を単純にしすぎる。世界の複雑さを、複雑なまま受け入れることが出来ずにデスクの上に並べられるスケールまで矮小化してしまう……」
「もともと人間とはそういうものだろう」
「予想外のことがあっても『運が悪かった』とな。昔は神のせいにしていたが、20世紀に入ってからは、その役目は科学が受け継いだ。『おまえの見通しが甘かったのが原因だ』と」

彼は細く息を吐いた。ウミヘビのような煙が廊下の暗がりへと消えていく。
また彼はタバコを飲むと、歯の隙間から煙を漏らした。

「しかし本当の世界はデスクの外にあるのだと全人類が知ったら。髪に感じた風凪、浜を転がる砂粒、海底の好熱菌の代謝……人類の分解能を超えたもので、僕たちの人生が計算不可能な振る舞いをするのだとしたら……予測を立てることに何の意味がある?」

ずいぶん長い時間が過ぎた気がした。
やがてポーンのチェスピースのように短くなったタバコが吐き出される。彼は破れかけたブーツで踏み消して、困ったように笑った。

「まあ、ここの連中は耐えられなかった。研究成果が全世界に広がったあとで『端から意味がありませんでした』と発表することもできず、口封じに研究員は全員処分されたわけだ」
「それなら海の上でもバレ始めてる」

僕も壁にもたれた。シェルスーツの外殻が背に押し付けられる。
彼はごちゃごちゃとしたスーツを物珍しそうに眺めてきた。
「やはりか」
「一度起こったことは何度でも起こる。いかにも科学世紀らしいことだと思わないか」
「あの眼帯の子には見覚えがある。『レガシィ』産のコードを使ってるな?」
「最後の『試験管ベビー』世代だ。このあいだ従来型の自然分娩が解禁された」
「で、人間がセックスで増える時代に逆戻りか」
彼はさもどうでも良さそうに言った。ここで何年も生存者の排除をしてきたのだから、もはや関係ないことなのだろう。
ふと、僕の人生をどこまで知っているのだろうと思った。

「外でマッコウクジラが絶滅したのは知ってるか」
「へえ。イカが増えるな」
ああ、とうなずく。
「でも海は相変わらずだ。上のバイオスフィア3も菌類だけで生態系を保っている」
「人間抜きでな」
「人間の不在を欠損と思うのは僕らの主観だろう。結局のところ、自然というのはどう外圧を受けようが適応し続けて、最終的に辻褄が合うように出来てるのさ」
「そうだとしたら、とんだ片思いだ」
「さっきの話も、人間にはお構いなく世界は回るってことだろう?」

ライフルの安全装置を下ろして、ロウレディの位置に持ち直す。
「たぶん自分たちで思うよりも、人間は自然に対して小さいんじゃないか……?」
「僕はそこまで人類種が未熟だとは思っていない」
「成熟は関係ないさ。成人なんてものは子供に戻れなくなった人間ってだけだ」
「変わらないな。やっぱりきみは、僕らしい」

彼は苦笑して、ブーツの紐を結び直した。
来たときと同じように、去るときも彼は音を立てなかった。彼の立っていた場所には踏み潰されたタバコのフィルタと燃え殻だけが残っていて、リノリウムに茶色い焦げ跡を付けていた。

「ああ」
どんなに環境が隔てていても、彼もやはり僕だった。

壁の向こうでは軋む音が響いていた。
地熱発電用のタービンがそろそろ限界を迎えてくる時期だ。研究所全体の崩壊が始まるまで、いくばくもないだろう。

また何かが変わってしまう。

大半の人間には見えない変化だが、ここの研究記録が失われることは、間違いなく世界のあり方に影響する。この出来事が原因で誰かが死ぬかもしれないし、逆に生かされる人もいるかもしれない。
その結果も、きっと僕はすべて観測しきることはできない。

サーバールームからロックスたちが出てくる。彼らも大した収穫が無かったことは、表情からうかがえた。
僕のもとに来るなり、ロックスは不機嫌そうに鼻を動かした。
「喫煙なさいました?」
踏み消された吸い殻はふたつ。よっぽどストレスが溜まっていると思われたに違いない。
「そう……そろそろ任務が終わると思って、景気づけをしていた」
「これから潜るのに正気ですか?」
「上で花見でもしていれば煙も抜けるさ」

脇からシャノンが進んでディスケットを渡してくる。
「ここの成果です。ひと通りサルベージできました」
「1世紀分の研究がたったのフロッピーもどき1枚か」
「旧媒体で8ゼタバイトなら充分でしょう」
彼はもう一枚のコピーを耐圧ケースに収めた。ときとして科学の発展は残酷だ。
「……デッドメディアになってしまったな。知り合いのライターも愚痴ってたよ。『俺が2ヶ月かけた記事ですらやっと10キロバイトぽっちなんだ』って」

エレベータシャフトを上りきると、変わらずサクラの樹はカビとコケに覆われて光っていた。
キャンプを設置した事務室でボトルの水を飲み込み、じっと緑の地獄を眺める。

湿っていく喉を感じつつ、ここが海に呑まれるところを想像した。
恐らく、何も変わらない。いくつかの深海魚が肥えて、どこか遠くの海が赤潮に覆われて、それで終わりだ。1ヶ月も経てば元の状態に戻って、この場所も忘れられる。

「ぼんやりしてどうしたんですか」
ロックスがこちらを見ていた。
ニューヨークらしい規格化された顔が、眼帯とヘルメットでデコレーションされている。外付けなのに、目の前の彼女はとても個性的だ。

「この景色をどう思う?」
僕はボトルを投げて寄越した。思いっきり投げたつもりだったが、彼女は慣れた手つきでキャッチして、ひと口飲み込んだ。
「初めて見たときは怖いって思ったんですけど」
ロックスは黄緑色に照らされた大樹を見上げて、小さく口もとを緩めた。
「そうですね、今は奇麗だと思います」
「奇麗か」

虫が通るたびちらちらと明滅する樹は、僕には墓標のように見える。飾り付けられたピラミッドとか、パゴダのようなものだ。

「たしかに、そうかもしれないな」
行くぞ、とシャノンに告げる。彼はフェイスプレートを下ろして敬礼を返した。
「了解。記録終了します。ロックス?」
「時刻1844、記録終了。ウィルコ」

彼女のスーツから電子音が鳴り響いた。

最終話

 雨の浜は、海から吐き出されたもので溢れている。

 潰れてディスク状になった魚の頭骨をカニがまたぎ、監視塔に止まったウミネコが波打ち際でばたつくタコをじっと見つめる。向こうで小さな埠頭と岸壁のあいだで二等辺三角形を作っている深みに潜ってみれば、さらに多くの死体が漂っていることだろう。
 ……どこを切り取っても普段と変わらない景色だ。

「あら」と隣でフレアが声を漏らす。
 見るとクラゲを踏んでいた。めくれあがった円い縁から空気が抜けていく。
「大丈夫です。死んでいます」
「はい?」
 僕はつま先でクラゲの膜をどかした。まだ新鮮で、蹴ると厚みのある感触があった。
「あなたは生き物を気持ち悪いと言うタイプじゃないでしょう」
 彼女は一瞬だけ目を丸くした。それから口もとを隠して、くすくすと笑う。
「そうですね。ええ、そうでした」
 一緒に散歩をしていると、彼女はよく驚く。昔はもっとつまらなそうな顔をしていたのに、今では僕の方が非日常になってしまった。

「ユニオンの調査船団が出発しました」
 海辺のカフェでアボカドのサブサンドイッチをふたつ注文し、空いた席を探していると、フレアが呟いた。
 彼女は黄色のレインコートを脱ぎながら、スタンドに差してあったタイムス紙をレジに置いた。今日はネイルを塗ってない。きれいなサンゴ色だった。
「そうですか」
「失望するでしょうね」
「交渉はやるのか」
 ええ、と彼女は微笑んだ。机に多めのチップを置いて、運ばれてきたカプチーノをすする。

「来週には出発するつもりです。一緒に来ていただけますね?」
「きみはいつも決まってから相談しに来るな?」
「フロリダの遊園地よりは気が楽ですよ。今度はちゃんと三食出るホテルに泊まれますし」
「ああ、残念だ」僕は笑顔を作った。「また星座を教えてもらえると思ったのに」
「百年も生きているのにそういうことは覚えているのですね」

 レシートを取ろうとしたら、彼女も同じことをやろうとしていて、指がぶつかってしまった。
 お互いの骨とモーターが軋み、しばらく見つめ合う。
「私に払わせてください」
 彼女は言った。
「あなたは、それに見合う活躍をなさったのですから」

 黄色いレインコートが店を出て行くのを眺めたあと、僕はカフェラテを注文し直して同じ席に座った。お釣りでもらったペニー硬貨を指先で転がしながら、彼女と食べるときはいつも払わせてもらってないな、と思った。
 さっきの彼女は柔らかい服を着ていて、化粧も薄かった。
 昨日は眠れたのかもしれない。そう考えると、サブサンドイッチと1杯のカフェラテというのは悪くない報酬のように思えた。

 久々の休暇は点滴バッグに入った薬のように着実に終わっていく。
 地下鉄に乗っていると、窓に映る虚像の僕がときおり照明と重なって、赤色や紫色に染まっていく。そのたび120回分の『オーガスト』の死に様が幻肢痛となって現れる。
 今日は青い窒息死体だった。

 あのときも難破船の調査だった――と記憶している。
 ふと確認すると、ボンベのガス圧が20を切っていた。
 既に深入りしすぎて浮上は無理だった。やがて針がゼロを差した瞬間、喉に海水が流れ込んできた。革の水筒みたいに肺が膨らみ、肺胞がぷちぷちとつぶれる音が胸から飛び出して、上半身が重くなる感覚があった。
 こうなれば吐いても吸っても変わらない。ただ、口の周りに小さな水流ができるだけで。

 身体と海の比重が完全に同じになったとき、見えたのは船底を這うカニだった。
 目は間違いなく合った。
 だが難破船の底には大量の死があった。ただのカルシウムの塊になったフジツボ、かじられて動けなくなった小魚、残骸に挟まれた大型魚――そこに僕が加わっても、彼には同じことだった。

 筋肉から力が抜けると、身体は勝手に沈んだ。
 目線が海底と同じ高さになり、死はより近付いてきた。既に意識の半分くらいは身体を抜けて、ここから出してくれと船底をたたいていた。残りの半分がカニを見つめて、ひとり無視される哀しさを感じている。

 あのカニは今でも元気にやっているだろう。
 代謝するから老いる。変われば死ぬ。変わらなければ、死ぬこともない。
 当たり前の話だ。

 疼痛をうったえる胸を押さえながら、ドアから吐き出されていく同じ顔の人々を見送る。
 クジラが消えたあとも海は変わらず青かった。では、僕がいなくなったらフレアやロックスたちはどうなるのだろうか。

 チャップリンの映画では人間は歯車だったが、本当に歯車だったら壊れたとき機械は止まる。社会はそこまでヤワじゃないし、人間も輪を離れたら他人同士で、そういう他人の代わりというのは簡単に見つかるものだ。
 きっとすぐに次の『オーガスト』は見つかるだろう。
 『レガシィ・プロジェクト』は失敗したが、もしかすると既に世の中というのは辻褄を合わせていて、個人というものを必要としないほど安定しているのかもしれない。

 いつものようにアパルトマンには駅前でビターレモンを買ってから帰った。就寝前のシャワーを済ませてベッドに座り、ふと思いついて下からクッキー缶を取り出す。
 凹んで傷だらけのフタを開けると、ぎっしりと詰まったドッグタグが見上げてきた。無名兵士たち。彼らが死んだあとも、僕は気にせず戦えてしまった。
 誰もがクッキー缶いっぱいのドッグタグのひとりだ。
 ……なんとも素晴らしいことじゃないか。

 ビターレモンを飲んでいるとドアを引っかく音がした。

「みゅう」
「また来たのか」
 僕が見下ろした先で、ネコがだぶついた腹を揺らして座る。
 爪を丸めた指で何かを転がしているので見ると、首の折れたネズミの死骸だった。僕の視線に気付いた彼が「みい」と誇らしげに鳴いて、僕の靴先を、毛玉みたいになったネズミでつつく。

「ん……くれるのかい」
「ぐぁーぅ、まーお」
「あ、留守を守ってくれたのかな」
 僕がネズミを拾い上げると、彼は当然の権利と言いたげに部屋に入ってきた。
 適当にくれてやったタオルにくるまるネコを横目に、洗面所のゴミ箱にネズミを放り入れる。

 最近は衛生もしっかりしてきて、ネズミなんてスラムでもそうそう見かけない。
 鼻をかんだティッシュを入れるとき、剃ったヒゲにまみれたネズミの尻尾が見えた。もしかしたらニューヨークで最後のネズミだったかもしれない。だとしたら我らがネコ氏は大したヒーローということになる。
 ゴミ箱の前で腕組みしながら、これも悪くない想像のように思えた。

「お手柄だったな」
 ベッドのところに戻るとネコは遊び疲れて眠っていた。
 そっと口を拭いてやったら、べたつく何かが付いていた。あれだけ言ったのに性懲りもなくジンジャーエールばっかり飲んでいたらしい。

 ちょっとカーテンを上げてベランダに出てみた。
 カリブ海と比べたら、この街のサイクルはずっとアナログ的で、いつまでも昼の残響だとか、夜の薄暗さが少しずつ残っている。駅前のガソリンスタンドでは店主が売れ残ったタイムズ紙の横に夕刊を差していた。その横ではハンバーガーを買っている家族がいた。

 なあ。
 と声に出さず呼びかける。
 僕だって大冒険をしてきたんだ。きみたちが想像もつかないものを見て、何百人もの英雄を看取ってきた。このあいだだって、海の底で素晴らしい発見をしたんだ。他でもない、この僕だけが。

 もちろん実際に僕がやったことはタバコを取り出して、そっと火を点けただけだった。
 久しぶりで喫い方をすっかり忘れていて、つい吸い込みすぎてしまった。咳き込むたびに「ぽっ」と小さな煙のかたまりが昇っていくのを見ていると、我ながら全然なっちゃいなくて笑えてきた。

 舌の上を塩辛い煙がなぞるように流れていく。
 ポケットに手を入れると、お釣りでもらったペニー硬貨がまだ入っていた。
 まあ、トータルで見ると悪い日じゃなかったのは確かだった。少なくとも、今の僕はひとつ語るに足ることを成し遂げたのだから。

 今の時代、人ひとりが生きていくにはそれで充分だ。

『depth body -高深度躯体-』了