『たぬき小品』
ヒロ・ミエノ著

ファンタジー
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人は騙し騙される。たぬきもまた然り。生きるとは死ぬとは、何をか言わんや。たぬきにまつわる小文4話。第1話 「どろん」
ぱちぱちと榾火が爆ぜる。囲炉裏の前で啜り泣く爺は朴訥と礼を述べた。
「兎さん有り難うな……そのうえ狸汁まで作ってくれて……」
兎はついに婆の仇を打ったのだ。
「爺さん、それは兎汁ですよ」
どろんと兎は狸にもどる。釣り鍋に長い耳がぷかと浮かんだ刹那、爺は狐の姿に変わった。
暫しの沈黙の後、狐は高笑いして言う。
「あはははっ! 狸さん有難うよ。あの時お前さんが来てくれなかったら、今頃どうなっていたことか知れない。全く感謝している」
狸は今度は狐になった。
「いや何、私もあなたには随分御世話になりましたからね。そのお返しです。しかし考えてみれば妙なものですねえ。人間というものは全く恩知らずで困ります」
「うん。本当にそうだ。人間はひどいものだ」
二匹の狐は笑い合う。
「それではお達者で」
「ああ、お前さん方こそ達者で暮せよ」
次の瞬間、二匹の狐はどろんと消えた。
押入れに隠れていた一匹の狸は、二匹の狐が消えたことを確認して大きな安堵の溜息をついた後、呟く。
「さて、兎汁を喰うか」
その時、戸を叩く音がした。
「どちら様ですか」
玄関の戸を引いてみると、外に一人の男が立っている。
男は黙って一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「差出人は書いてありません」
「誰だか判らないんですか」
「はい」
「じゃあ仕方がない。預りましょう」
「宜しくお願い致します」
男は深々と頭を下げた。
そうして再び男が顔を上げた時には、もうそこには何もなかった。
狸も家も、囲炉裏も鍋も。
ただ雪の中に、赤い木の実が落ちているばかり。
そうして、男もどろんと消えた。
手紙の中にはたった一行だけこう書かれていたのであった。
──狸汁美味し──
「どろん」完
第2話 大日如来 その一
この村の者たちは猟を生業としており、動物を殺める彼らは、大日如来に深く帰依をしていた。
或る日、山を降りる一人の男がいつものように如来の真言を唱えていた。
「オンアビラウンケンソワカ……」
すると、なんとそこに金色に光り輝く大日如来が現れたのだ。
男が畏れおののき思わず目をつむったその間、如来はどろんと狸に戻り、山へと去っていった。
狸が大日如来に化けていたのだ。
それからというもの、男は狸に化かされたとも知らず、いっそう大日如来に信心を捧げるようになった。
男の住む村の外れには古びた小さな寺があった。
無住ではあったが、信心深い村人たちが毎日参拝する寺である。
或る日のこと、その寺の境内に一匹の子狸が迷い込んだ。
見れば、目やにで目も開かない病気の子狸である。
村人はその子を拾い上げ、寺で育ててやることにした。
しかし数日後、村人たちは信じられない光景を見ることになる。
なんとその子が人の言葉をしゃべったのだ。
「僕は人間になりたかったのです」
村人たちは驚き俄かに気色の悪さを覚え、その子を山に返して大日如来に熱心に祈りを捧げた。
祈りは夜まで続き、月明かりが辺りを照らし始めた頃である。
本堂の扉が音もなく開き、そこに僧侶姿の男が現れたのだ。
村人が一斉に僧侶姿の男の前に平伏すると、僧侶は静かに語りかける。
「私は大日如来だ」
なんと、僧侶は自分のことを大日如来と名乗ったのである。
人々が呆気に取られていると、僧侶は村人たちに問いかける。
「願いは何か」
村人が顔を見合わせる中、手を挙げる者がいた。
それは、山から戻ってきて、いつの間にか村人たちの間に紛れ込んだ、あの迷子の子狸であった。
僧侶は子狸を抱き上げると、そっと頭を撫でながら言う。
「うむうむ、分かっておる。お前はまだ子供だが、人間になりたいという立派な願いを持っている。私の力を持ってすれば、きっと人間の子になれるであろうよ」
そう言った瞬間、僧侶と子狸はぱっ姿を消してしまったのだ。
それから村は大騒ぎである。
翌日、村人たちは皆こぞって山に入り、僧侶と子狸を探し回った。
しかし、いくら探しても見つからなかった。
それから二日後、寺宛に一通の手紙が届いた。
そこにはこう書かれてある。
「拝啓、あなた方のご厚意により、無事に人間の子に変身することができました。ありがとうございます。これからは人間として生きていきます」
村人は大日様のご加護であると、涙を流し悦んだ。
が、次の瞬間、手紙はどろんと柿の葉っぱに変わり、本堂から二匹の狸が飛び出したのである。
一匹は大きな腹をした狸と、もう一匹は、あの子狸だった。
大きな狸は言う。
「化け如来はわしじゃ!」
子狸も言う。
「僕らはどうせ人間になんかなれないんだ!」
しかし、一人の男が叫んだ。
「ならば、我々と共に祈ろう!」
こうして、村のあちこちに小さなお堂が建てられ、この狸たちと共に、毎日沢山の人々が熱心に祈り続けるようになったのであった。
第3話 大日如来 その二
いつしか、村の人たちは皆、狸のことを狸如来と呼ぶようになっていた。
狸たちも、心優しい村人に安心をしたのか数を増やし、気が付けばいたるところに現れるようになった。
或る日のこと、村の真ん中に突然大きな木が生えた。
その木にはたくさんの小さな赤い実がなっている。
しかし、いかにも美味そうであるのに、誰も手に取ろうとも食べようともしないどころか、近寄ろうとすらしなかった。
村人は、何やら変なものでもついているような感じで、それを見上げていた。
そんな中、一人の若い娘がやって来て木の下に座り込み、一生懸命絵を描き始めた。
するとそこへ一匹の老いた狸が現れ言う。
「お嬢さん、何をしているんです?」
「今ね、木の絵を描いているところよ」
「どうして絵に描く必要があるのです?」
娘は少し考えてから答えた。
「絵がうまくなりたくて、そのための練習をしているのよ」
「なるほど。じゃあ、私が手伝ってあげましょう」
狸はそういうと娘の隣に腰を下ろし、どこからか筆を取り出して器用に絵を描き始める。
しばらくして描き上がった絵を見て、娘は驚いた。
なんと、そこには、まるで本当に生えているかのような躍動感に溢れた立派な木の姿が描かれてあったのだ。
老いた狸はその絵を娘に手渡すと言った。
「いいかい? これはただの木じゃないんだよ。生きてるんだ。この木の本当の姿をよく見てごらん」
娘は目を凝らすと、その幹からは幾つもの枝が伸び、先には小さな芽が出始めていた。
そして、その芽は次第に大きくなり、やがて綺麗な花をつけたのだ。
娘がその様子に見入っていると、老いた狸はそっと消えてしまった。
数日後、またもや村に一本の木が生えてきた。
今度は、随分と小さい。
娘は不思議に思いながらも、その木の絵を描いた。
しばらくすると、なんとその木から、可愛らしい青い小鳥が生まれた。
やがて、その青い小鳥は飛び立つと空高く昇っていき、見えなくなってしまった。
或る日、村人たちはいつものように祈りを捧げていた。
しかし、この日は様子が違っていた。
今までのどれよりも立派な祠が、何者かによって寺の境内に建てられていたのだ。
村人が驚いていると、そこに僧侶姿の狸が現れて人々に向かって静かに語りかける。
「この村は、我々狸への信仰によって成り立っていると言ってもいいでしょう。皆さんの熱心な祈りのお陰で、我々狸はこの村を守ることができているのですよ」
村人は僧侶の狸に礼を言うと、その立派な祠の前に集まりさらに熱心に祈りを捧げ始めた。
村人の大日如来への信仰は、自然と化け狸への信仰と変わっていってしまったのである。
或る日、山の中ではぽっかりと開けた広場に数匹の狸たちが集っていた。
狸たちは輪になり、何やら真剣な表情で話し合っている。
やがて話し合いが終わると、一斉に立ち上がり、一匹が叫ぶ。
「よし! 皆のもの、行くぞ! 」
そう言うと狸たちは一斉に走り出した。
皆が目指す先は村の外れにある、あの寺であった。
寺では、いつものように僧侶姿の狸が村人に語りかけていた。
「さあ、皆さん、今日はお供え物を持ってきた人はいますか?」
村人は皆手を挙げる。しかし、
「私は持っていません」
「俺もだ」
「私も……」
などと言いながら手を挙げなかった者もいた。
僧侶は困った顔をして言う。
「困りましたねえ。これじゃあ我々のお腹は膨れませんよ」
すると、一人の娘が手を挙げた。
「お腹が空いたならこれをどうぞ」
娘が差し出したのは、村に生えたあの小さな赤い木の実であった。
僧侶は言う。
「ありがとうございます。では、みなさんもどうぞお上がりください」
早速村人たちはその実に群がり始めた。
しかし一人だけ手をつけない者がいた。
村人たちの中で一番年老いた男である。
「わしはこんな得体の知れないものを食うわけにはいかぬ」
僧侶は言う。
「ご安心下さい。それは毒ではありませんし、あなた方人間にとっても害はありませんよ」
それでも男は頑として実を食べようとしない。
その時、山から駆けてきた狸たちが寺に集まってきた。
彼らは、その様子を見て口々に言う。
「爺さん、心配することはないよ。こいつは食っても大丈夫だ」
「そうだよ。こいつを食べたって死ぬことはありゃしないよ」
「だから早く食いなよ」
しかし男は首を振るばかりである。
そんな様子に業を煮やしたのか、一匹の狸が叫ぶ。
「もう面倒くさいから、無理やり食わしちまおうぜ」
狸たちは一斉に男に飛びかかると、瞬く間に彼を押さえつけ、その小さい赤い実を口に押し込んだ。
男は必死に抵抗するが、狸たちの力には敵わない。
とうとう男は観念して、実を噛み砕き飲み込んでしまったのだ。
すると、たちまち男の体は変化を始めた。
まずは毛が抜け落ち、しわしわの肌はつるりと滑らかになっていく。
顔つきも変わっていく。
目は細くなり鼻は高くなり、頬は赤く染まった。
手足の指は細長くなっていき、爪は黒く鋭く尖っていく。
男は呆然と自分の体を見つめていたが、ふいに笑い出すと、村人たちに言った。
「いやあ、皆さん、どうやら私は狸如来様の遣いになることができたようです」
そう言うと、男は寺の奥へと入っていってしまったのだ。
第4話 大日如来 その三
その日から、村人の中に狸如来の遣いを名乗る者が続々と現れ始める。
彼らの体はいずれも変化しており、そして寺へ上ったまま戻ってはこなかった。
しかし、それを訝しむ者が村人たちに言う。
「皆の者、騙されてはいかん。狸如来に祈れば何でも願いが叶うなどということは絶対にないのだ。そのうち、この村は狸だらけになってしまうぞ」
しかし、村人は一向に耳を貸そうとはしなかった。
その日も狸如来の遣いと名乗る男が一人、寺へと上って行った。
しかし、男は暫くすると元の人間の姿となって村へ戻って来たのだ。
その顔を見た村人は仰天した。
なんと、その顔には無数の傷跡があり血塗れになっていたのだ。
男は息を切らせて人々に告げる。
「大変だ! 寺に化け物出たぞ!」
村人たちが寺へと駆けつけると、例の祠から大量の化け物が飛び出してきたのだ。
化け物は次々に村人たちを襲っていった。
村人たちは逃げ惑ったが、化け物たちのあまりの数の多さに次々とやられていく。
化け物の正体は、どうやら山の狸のようであった。
その光景を遠くから見ていた僧侶は満足げに笑みを浮かべると、ぱっと姿を消してしまった。
寺は陥落し、戦っていた人間は狸如来の遣いの姿に変えられてしまい、村に残る人々に襲いかかった。
村人たちは逃げ回ったが、遂に追い詰められてしまう。
村人たちの前に狸が立って言う。
「さあ、皆さん、覚悟はよろしいですか」
「お願いです。どうかお許しください」
狸は言う。
「そう言われてもねえ。もう遅いんですよ」
次の瞬間、狸たちは一斉に村人たちに飛びかかった。
村人たちも応戦したが、多勢に無勢、次々に倒されていく。
狸は村人たちを蹴散らすと、その肉を食べ始めた。
しばらくすると、一匹の狸が何かを感じたのか、ふいに動きを止める。
他の狸たちがそれに気が付き振り向くと、一人の娘がそこに立ち尽くしていた。
すでに腹の膨れた狸は、幼いその娘を見逃して寺へと戻っていく。
狸たちがいなくなった後、娘はその場にへたり込み、それから暫くの間、立ち上がることができないでいた。
ようやく落ち着いた頃、娘の足は自然に寺の方へと向かっていた。
途中何度も立ち止まりかけたが、何とか勇気をふり絞り辿り着くことができた。
娘は寺の裏手へと回り、そっと窓を覗いてみる。
中にはたくさんの狸がいたが、皆眠っているようだ。
娘は、意を決して寺の奥へと入っていく。
部屋の中には仏像が祀られるべき蓮台の上に老いた狸が座っていた。
その狸の姿を見て、娘は思わず声を上げる。
「あっ!」 その狸は以前、娘と一緒に木の絵を描いた老いた狸であったのだ。
こちらに気づいた老いた狸に娘はすぐに平伏する。
「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ」
娘は再び顔を上げ言う。
「私共はずっと、狸如来様をお祀りしてきたつもりです。それが間違いだったというのでしょうか」
狸は言う。
「いや、違う。そうではない。私はお前たち人間に真実を伝えに来たのだよ」
「真実……ですか」
「そうだ。私はこの村を、この寺を守るために、敢えて悪者になろうとしたのだ」
「どういうことなのでしょう」
狸は言った。
「私はね、本当はこんなことをしたくはなかったのだ。だが、仕方がなかった。私は元々人間だった。この寺の住職たったのだよ。しかし、ある時私はある病に罹ってしまったのだ。医者は治せないと言う。私はどうしても諦められなかった。そこで私は大日如来様の力を借りることにしたのだ」
狸は言葉を続ける。
「しかし、いくら大日如来様の力でも、完全に病気を消すことはできなかった。だからといって、このまま放っておけばやがて死んでしまうだろう。私は考えた末にある決断をしたのだ。それは、狸に魂を売るすることだった」
「狸に、魂?」
娘は不思議そうな顔をする。
「そうだ。私は人間の肉体を捨て、狸の体となった。そして今、こうして生きている」
「しかし、どうしてそのような真似をなさったのですか」
「簡単なことだ。私は死ぬのが怖かったのだ」
「では、あなた様はただの化け狸の遣いだったのでございますか」
「そういうことになるかな」
娘は言った。
「では、あなたの言う人間に伝えたい真実とは何ですか」
狸は言った。
「こんな私が言えたものではないがな、人というのは実に愚かなものなのだ。自分にとって都合の悪いことは、全て他人のせいにする癖がある。そうやって他人を責めることしかできないのだ。自分の過ちを認めようとしないのだ。自分が傷つくのを恐れているだけなんだ。かつての私がそうであったように」
娘は言った。
「私は、そうは思いません。人は誰かを憎むことで自分を保とうとするのです。そうしなければ、生きていけないのです」
狸は言う。
「ならば聞く。あなた方が信奉する大日如来様、仏法はそれを望むか」
娘は答えた。
「望んではいらっしゃらないでしょう。しかし、信じていなければ生きてはいけないのが人の世です」
狸は言う。
「それならいっそ死んだほうがましではないかね。いいかね、人の世は人の世、仏の世は仏の世なのだ。人間の尺度でものを言ってはならんぞ」
娘は言う。
「私はもう死んだも同然。例え仏の教えに反することであったとしても、この村を守りたいだけです」
「そうか」
狸は、ゆっくりと立ち上がる。
「もう時間がない。私は行かねばならぬ」
娘は慌てて言う。
「待って下さい。私はどうすれば良いのですか。あなたが人間に伝えた真実とは一体何なのですか」
狸は答える代わりに娘に向かって手をかざし念じた。
娘は意識を失い床に倒れこむ。
狸は娘の体を担ぎ上げ外に出る。
そこには狸の群れが待ち構えていた。
狸たちは一斉に娘に群がり、その肉を食らい始め、瞬く間に娘を飲み込んでしまった。
すると今度は住職の狸が、そこにいる狸たちを次々に食べ始めた。
やがて一匹残らず全ての狸は食い尽くされ、村に残るのは住職の狸のみとなった。
そこへ、猟を終えた一人の人間の男が山から降りてきた。
男は大日如来の真言を唱えはじめた。
「オンアビランウンケンソワカ……」
すると、狸は金色に光り輝く大日如来となり、男は畏れおののいて思わず目をつむる。
その間、如来はどろんと狸に戻り山へと去っていった。
しばらくして目を開けた男は、村へと帰っていった。
誰もいなくなった寺の境内に、青い小鳥がちっちと飛んだ。
「大日如来」完
第5話 死売り~私と先生~ その一
会計は一四〇〇円と良心的な店であった。
私は財布から二枚お札を出した。
「気をつけてね」
そう言うと、女将は私に釣り銭を渡す。
私は帰路に就いた。
寝ぐらへ戻り、木の葉銭の入った財布を投げ出すと、ころりと何かが転がる。
木の実であった。
──してやられた!店の女将は最初から私の正体を見抜いていたのであろうか?ならば女将も人外か?──
掌にのせた赤い木の実に向って、私は訊ねる。
「僕を狸って知ってたのかい?」
返事はなく、ただ私の掌の上で赤い実はごろりとしているばかりであった。
翌日、私はまた同じ店に行ってみた。
そしてまた昨日と同じように木の葉銭で勘定をすると、何事もないように釣り銭を返される。
「気をつけてね」
女将は笑顔で言った。
寝ぐらに帰って見てみると、それはやはり赤い実であった。
──一体これは何の木の実であろうか──
それからというもの、毎晩のように通った。
そして毎晩同じ赤い木の実の釣り銭を貰った。
ある日のことである。
私が店を出ると、すぐに誰かに呼び止められた。
振り向いて見ると、そこに背の高い男が立っている。
男は私を見て微笑した。
「君、狸だね?」
「ええ、まあ」
私はぺこりと頭を下げた。
「ちょっと、そこまで一緒に行かないかね? 」
私は男の後に付いて歩いた。
街灯の下に来ると、男は立ち止まって振り返り、
「僕は人間だよ」
と笑顔で言う。
「そうですか」
「うん、そうだよ」
男は再び歩き出したが、そのまま会話は途切れてしまった。
特に話すこともなく、何だか酔いも覚めてしまいそうで、私は正直なところ早く寝ぐらに帰りたいと思っていた。
「ところで君はどこに住んでるんだい?」
「僕の家はここから少し遠い処にあるんですよ」
私は適当な嘘をついた。
「それは大変だねえ」
男は相変らず笑う。
「ええ、まあ」
「じゃあ、今夜はうちに泊まらないかい?」
突然そんなことを言われて、私は困った。
それに、この人は一体誰なんだ。
「いえ、結構です」
と、私が断ると、男は残念だというように首を横に振り、再び前を向いて歩き始める。
「明日もまた飲みに来るといいよ」
男は背中越しに言った。
「はい」
「待っているからさ」
酔っていた私はつい調子に乗って、
「はい、待っていて下さい」
などと口走ってしまった。
第6話 死売り~私と先生~ その二
次の日、私は約束通り店に行った。
昨夜の男のことを思い出しながら戸を開けたが、そこには誰もいない。
がらんとした店内を見回すと、客は私のみのようである。
時計は八時を指していた。
この時間でこれでは、もうあの男も来ないかもしれないと私は思った。
それでも一応、カウンターでいつものように酒とおでんを注文する。
ふっと女将の顔を見ると目が合った。女将は優しい顔で私に言う。
「いつも一人なんだね」
「はい」
少しの沈黙があった。
「今日は本当は待ち合わせだったんだろう? あの人なら、少し前に来たわよ。来たらよろしく伝えてくれってさ」
「そうですか」
少し遅かったようだ。
「今夜はあんまり遅くならない方がいいと思うけど」
そう言いつつ、女将は酌を取ってくれた。
──今夜はあんまり遅くならない方がいい──
私は少しだけその言葉が引っかかっていた。
──狸である私の身を案じてくれているのであろうか──
私は言われる通り、お銚子一本で帰ることにした。
店を出ようとすると、女将が呼び止める。
「忘れ物だよ、お釣りお釣り」
女将は私の掌に赤い木の実を置いた。
「これは何の木の実でしょうか?」
女将は笑いながら言う。
「なんでもいいだろ? だったら、お前さんのいつもの木の葉銭は何の葉っぱだい?」
私は答えられないでいた。
やはり女将は、私を狸と知りながら相手をしてくれていたのである。
「それと同じさね」
「何だかいつもご馳走になって、相済みませんね。狸の僕に、どうしてかまってくれるんです?」
女将は目を細めて笑う。
「そりゃあ、あれだよ。あんたが可愛いからだよ。気をつけてね」
女将はそのまま、店の奥へと消えていった。
私は嬉しかったが、店を出ると照れ隠しに一人こう呟いた。
「僕は可愛くなんかありませんよ……」
ある晩、私はいつものように店に向かった。
戸を開け中に入ると、一人の客がカウンターに座っている。
あの男であった。
男は、私に微笑みかける。
「待っていたよ」
私が隣りに腰掛けると、持っていた鞄の中から一冊の小さな本を取り出した。
「この本を読んでみるといい」
「これは何の本です?」
私は尋ねた。
「これはね、僕が書いた小説だ」
「へえ、小説家なんですね」
私は感心した。
男は続ける。
「君はどんな話が好きかな」
「そうですね、僕は……」
それから、私達は色んな話をした。
男は私の知らない世界の物語をたくさん話してくれたし、色々なことを教えてくれた。
話し上手で、私はすっかり魅了されてしまった。
そして、私はいつしか男のことを「先生」と呼ぶようになっていた。
「ところで、君は何故この店に来るんだい? 」
私は先生は訊ねる。
木の葉銭でただ酒が飲めるから、などとは言えるはずもなく、
「ここは落ち着くんですよ」 と答えた。
「そうかい。僕もね、この店が好きなんだ。それに、ここの女将さんもね」
「ええ、とても感じの良い方ですよね」 私は同意した。
「うん。君もそう思うだろう?お、もうこんな時間か。じゃあ、そろそろ帰るとするよ」
先生はそう言うと、立ち上がり鞄を持ち上げた。
「ええ。お気をつけて」
先生はうなずいて、ゆっくりとした足取りで出口の方へ向かう。
後ろ姿を見送っていると、先生は戸にかけていた手を止めこちらに振り向き、私に向かって手招きをした。
そばまで行くと先生は私の耳元で囁く。
「一緒に帰ろう」
私は驚いてその顔を見ると、先生は真剣な眼差しで私を見つめていた。
もう少しいるつもりであったが、私は何も言わずにうなずき、一緒に店を出ることにした。
先生は私より先に歩いた。
街灯の下に来ると立ち止まり、振り返ってこう言う。
「このまま何処かへ行こうか」
「ええ、何処でも構いませんよ」
「じゃあ、今晩こそは僕の家に泊まってくれよ」
先生は微笑んで私を見つめた。
私が手を差し出すと、先生は何も言わずに握り返してくる。
指と指を絡ませ、私は恋人同士になったような気がしていた。
そして先生は私に言う。
「君を好きになってしまった」
体が熱くなる。
「僕も先生が好きです」
二人は抱き合い、そのまま唇を重ねた。
部屋に着くなり先生は私を抱いた。
激しい愛撫に、少しくらくらした。
そして私は先生と結ばれた。
第7話 死売り~私と先生~ その三
朝を迎え、隣りで眠る先生の顔を見詰めていると、目が覚めたのか先生は起き上がり、私の髪を優しく撫でて、口づけをしてくれた。
「先生が男を抱くなんて、思ってもみなかったです。僕、実は初めてだったんです」
先生は少し驚いた表情を見せたがすぐに笑顔になり、もう一度私に口づけをする。
先生が準備した簡単な朝食を食べた後、私は寝ぐらに帰った。
寝ぐらに戻り、横になった私は考える。
──あの人は小説家と言ってたけれど、一体何者なんだろうか? あの人は人間だと言ったけれど、果たして本当なんだろうか? 狐じゃないのか?──
そんなことを考えているうちに、私は眠ってしまった。
その日も私は店に行き、いつもと同じようにカウンターに座り酒を飲んだ。
しばらくして女将がやってきて隣に座り酌を取りながら、こう話しかけてくる。
「昨夜はどこに行ってたんだい?」
「先生のところです」
「ほう、それでどうだった?」
女将は悪戯っぽく笑う。
「いいえ、別に」
答えに困った私は、そう濁した。
女将はそんな私を面白そうに見ていたが、ふっと真面目な顔になって言う。
「あんまり深入りしない方がいいと思うけどねえ」
私は何故だかどきりとした。
「あいつは悪い奴だよ」
「そうでしょうか?」
女将は少しの間、黙っていたが、やがてこう言う。
「あんたはいい子だから、心配してるんだよ」
「あ……ありがとうございます……」
女将は、にこと笑ったかと思うと、また真顔になって私に言った。
「昨日のことは、誰にも言っちゃいけないよ」
「わかりました」
私はうなずいた。
女将も黙ってうなずく。
勘定を済ませ店を出ようとすると、背後から声をかける者がいる。
「やあ!」
振り向くと先生がいた。
先生は嬉しそうな顔でこちらに近づいてくる。
「昨夜は楽しかったね。もう帰るのかい? 今来たところなんだけど、もう少し付き合ってくれないかい? 場所を変えてもいい。もちろん僕の奢りだ」
まくしたてられるように言われた私は、うなずくほかなく、先生と一緒に店を出ようとすると、女将が引き止めてきた。
女将の方を見ると、小声で何私にか言っているようであったが、よく聞き取れないので近づこうとすると、今度は大声で怒鳴られた。
「行かない方がいいって!」
私は思わず足を止めた。
「気をつけないと大変なことになるよ!」
私には女将の言葉の意味がよくわからなかった。
しかし、先生はすでに店の外に出てしまっている。
私は女将に軽く頭を下げて店を出て、あとを追った。
先生は私の方をちらりと見て、私が来るのを確認すると再び歩き出した。
私が横に並ぶと、先生は言った。
「無理してついて来なくていいのに」
「いえ、大丈夫ですよ」
それから私達は無言のまま歩いた。
しばらくすると、先生は私に訊ねてきた。
「さっきの女将さんは何て言ってたんだい? 」
「いえ、特に。お気になさらないでください」
先生は、それ以上は聞いてこなかった。
一軒の店の前で立ち止まった。
店の看板には『スナック』とだけ書かれてある。
「ここに入ってみないか?」
うなずいて店に入ると、客は奥のテーブルに一人いるのみであった。
先生はカウンターに腰掛け、私にも座るように勧める。
ウイスキーの水割りを二つ注文すると、先生は煙草を取り出し火をつけた。
煙が立ち昇っていく。
私が店内を見渡していると、奥の客と目が合った。
それは五十歳くらいの男で、頬骨が高く、目の下には深い隈ができていた。
男は私を見て、にやりと笑う。
私は慌てて一瞬目をそらしたが、恐る恐る視線を戻してみると、相変わらず私に微笑みかける男の顔があった。
私は曖昧に笑みを浮かべ男に会釈をすると、男は私に向かって手招きをしてきた。
何だろうと男に近づくと、男は私の腕を掴み、自分の方へ引き寄せてくる。
私はバランスを失い、男の胸に倒れこむ形になった。
男は私を抱き寄せて、耳元で囁く。
「やっと捕まえたぞ」
私は驚いて男の顔を見ると、その目は獲物を狙う蛇のように冷たく光っていた。
私は恐怖を感じて、逃げ出そうとしたが、男の腕の力が強くて逃れることができない。
助けを求めカウンターを見たが、先生はこちらに向かって微笑むばかりである。
それはまるで悪魔のような微笑であった。
その時私は悟ったのだ。
──私は罠に嵌められた──
私を捕まえたまま男は言った。
「どうせ死ぬなら、俺の役に立ってから死んでくれよ」
私は抵抗した。
「離してくれ」
「うるさい。お前の肉を俺に食わせてくれ」
そう言うと、男は私を羽交い締めにしたまま、首筋に噛みついてきた。
私は悲鳴を上げ必死で叫んだが、私の声など聞こえないかのように、男は私の血を吸いはじめる。
肉が引き裂かれる感覚があり、それから私は次第に意識を失っていった。
気がつくと、私は男に抱えられていた。
そして私を路地裏に連れて行き、男はそこに私を投げ捨てる。
手も足ももがれ、ぼろぼろになった私は仰向けに倒れたまま、動くことができなかった。
男が私の体を足で踏みつけると、私の腹からは臓物が飛び出た。
男は私の顔を覗き込みながら何か満足そうにうなずくと、その場を去っていく。
男の姿を見送った私は、再び気を失ってしまった。
私は不思議な景色を見ていた。
辺りは赤い色に染まっている。
それは大量の木の実であった。
じゃらじゃらとした赤い木の実の絨毯の真ん中に、黒い塊が見える。
じっと見つめていると、その塊は動き出した。
やがてそれが人間であることが分かった。
そして、その人間は先生であった。
先生はゆっくりと起き上がり、こちらへ歩み寄る。
そして、私を見下ろして静かに口を開いた。
「残念だが君はここで死ぬしかないんだ。仕方がないんだ。僕は君を殺さなければならない」
そう言うと、手に持っていた鞄から大きな包丁を取り出し、それを振り上げた。
第8話 死売り~私と先生~ その四
私は飛び起きた。
汗びっしょりになっており、背中が冷たい。
私は自分の体を確かめるように触ってみる。
しかし、どこも痛むところもなく、五体は満足であった。
噛まれた首も無傷であるし、血も出ている様子はない。
私は安堵のため息をつき、また横になった。
ふとポケットに違和感を覚え手を突っ込むと、そこには赤い木の実が入っていた。
明くる日の晩も、私は寝ぐらを出ていつもの店に行き、カウンターに座った。
女将がやって来て、顔を寄せて小さな声で言う。
「昨日は大変だったねえ」
私は少し驚いた。
──昨夜のことを何故知っているのであろうか──
「あいつに酷い目にあわされなかったかい?」
私は少し考えて答えた。
「スナックで、客の男に首を噛まれました。そして、路地に捨てられて。でも、多分それは夢だったんだと思うんです」
私は、昨夜の一部始終を話した。
女将は黙って聞いていたが、話が終わると言った。
「あんたはあいつに気に入られてしまったみたいだねえ。あいつはあんたの血だか肉だかが欲しいんだろうよ」
女将は苦笑して酌を取りつつ言う。
「あんたはあいつに殺されてしまうかもしれないよ」
私はうなずいた。
しばらくすると、先生が店に入って来た。
私の隣の座り、何か困った様子でこう言う。
「どうしてまだ生きているんだ?」
私は答えられないでいた。
先生は女将に向き直しこう告げる。
「今日はもう帰るよ」
女将は黙っていた。
「今度会ったら、僕に食べられてもらうからね」
私をぎろりと睨みそう言うと先生は店を出た。
私は先生が店を出た後も、入り口をぼんやりと眺め続けた。
次の夜は店には行かなかった。
寝ぐらを出た私は、あてもなくただひたすら歩き続け、気が付くとそこは知らない街であった。
道端に座り込み、財布から取り出した木の葉銭や木の実を地面にばら撒いた。
「これでいい。これでいいんだ」
私は自分に言い聞かせるように呟いて、そのままぱたりと寝転び目を閉じる。
瞼の裏には女将がいた。
「あんたは本当に馬鹿だよ」
「そうですね」
女将はため息をついた。
「あんたはあのとき、あいつに殺された方が幸せだったかもね」
女将はそう言うと、私に背を向けた。
私は女将に言う。
「私は、女将さんに助けてもらったように思います。」
女将は振り向くと、私の頭を撫でてくれた。
「あんたがいい子だからだよ」
女将は私の瞼の裏で微笑んだ。
目を開けて辺りを見回すと、そこは見慣れた寝ぐらの風景の中であった。
私はどこにも行っていなかったのだ。
どこまでか行ったつもりでも、どこにも行けていないのだ。
それは薄々勘づいていたことでもあった、
──私は本当に女将に助けられたのであろうか?実は女将に騙されているのではないか?──
それは、わからない。
しかし、どちらでもいいことなのかも知れない。
私は、私の生きる目的や希望は、もうすでにないことが明らかになった気がしていた。
──おそらく私は死ぬのであろう、それももうじき──
私は、床の上に散らばった木の葉銭と木の実に視線を落とした。
それから私は夜の街へ出た。
──私にはもう時間がないんだ──
こんな事が頭に浮かぶ。
しかし、何の時間であろう。
ただ、何か焦っているのは確かである。
──そうか、死ぬまでの時間がないのか──
私は走り出し、街の外れにある川へと向かい、急いで死ぬことにした。
そうせざるを得ない衝動があった。
しかし、橋の上で立ち止まり、欄干に手をかけ下を覗き込んだ私は、とても飛び降りる勇気もないとこに気がついた。
水面に月が揺らめいている。
私が橋の上から川を眺めていると、背後に気配を感じた。
振り返ると、そこに立っていたのは先生であった。
「死ぬつもりかい」
「ええ」
「じゃあ、今すぐ死のう」
先生は私の肩を抱くと、私を川に突き落とそうとする。
私も必死に先生に抱きつき、二人は橋の下の川へと落ちていった。
水面にあった月は川底に光を届け、仄かに明るい。
水の中で先生は私の唇を奪い舌をねじこまねじ込み、私はその舌を受け入れ沈みながら絡み合わせていく。
唇を離した先生は私の首筋に噛みつき、背中に鋭く爪を立てた。
そして私の血を飲みはじめる。
私の血潮が先生の喉に鳴る音が聞こえる。
私の体を締め付ける先生の腕の力は強さを増していった。
薄れゆく意識の中で、私は抵抗もせず先生に語りかけた。
「先生、僕は先生に殺されるなら本望です」
先生は言った。
「お前の肉を俺に食わせてくれ」
先生は私の頬に噛みつくと、その肉を喰いちぎった。
今度こそ、私は絶命したようだ。
先生は死んだ私の遺骸を抱え上げ岸に上がり、その場に投げ捨てあの店へと向かった。
女将が先生に微笑みかけている。
「どうだい、美味しかったかね」
先生はうなずき言った。
「今までで一番うまかった」
「そりゃあ、良かった」
女将はその微笑みをこちらに向け、死んだ私に手招きをする。
呼ばれるままに女将に近づくと、女将は耳元で囁いた。
「どうせ死ぬなら、私の役に立ってから死んでおくれよ」
女将の口づけをうけた私は、ようやく天へと昇ることができた。
女将は微笑みながら、先生に酌を取っている。
「死売り~私と先生~」完
第9話 狸と年増の女 その一
吾輩は狸である。
名前はまだない。
いや、あったかも知れぬが忘れた。
狸であるから、人を騙すことを生業としている。
生業というか、それが狸の本分である。
もっとも、狸などよりも人間のほうが巧妙に嘘をつくものもないのではあるが。
ことにいい具合の年増の女だと、何だか胸の中を見透されたようにころりと騙されそうで不安になる。
去年の初夏の頃にこんなことがあった。
吾輩が夜鳴き蕎麦屋に化けていた晩のことである。
その時屋台に来た女は、三十半ばといったところでろうか。
顔つきはどこかあどけなさもあったが、体付きはいかにもなかなか男好きのするよく熟れたふくよかなもので、そのくせ着ているものは粗末な浴衣一枚きり。
売女であろうか、とにかく吾輩好みのいい女であったのだ。
その女はこう言う。
「私お金がないのよ」
あからさまに金のなさげな女の風態ではない。
「いやぁ忘れちゃってさ。明日またお代を払うってのじゃダメかい?」
女はそう言うが、吾輩はこの手口にかけては百戦錬磨である。
それに騙すにはちょうどよい。
「では出汁を一滴残らず飲んでしまったらお代はいりませんから」
吾輩は早速蕎麦を一杯こさえて女に出してやった。
もちろん蒲鉾も二切れ入れてやった。
女はそれを箸でつまんで小指を立てながらうまそうに食う。
この辺まではよかったのだが、それから先がいけない。
「ところでアンタ、この辺じゃ見ない顔ね」
女が急に吾輩を訝しく言い始めたのである。
内心焦った。
今更狸にも返れまいし、ここは何喰わぬ顔をしてごまかすよりほかに道はない。
「いいえ、何を仰いますやら。私はここいらをもう三年の上は流していますよ」
と、吾輩は平静を装って答えた。
しかし女は、なおも疑い深そうな目を吾輩に向けるばかりである。
浴衣の襟元から女のたわわな胸が溢れそうである。
吾輩は情けなくもそれに目を取られてしまった。
女はその視線を感じたのか、少し襟元を引き合せるようにしながら、こう言った。
「私の体がそんなに珍しいかい?」
今思えば、ここで吾輩の負けは確定であったのだ。
ごくりと吾輩の喉な鳴る音がはっきり聞こえた。
女は急に笑い出す。
大きく開かれた口から覗いた歯並びは整っており、磨き立てた真珠のような光沢を放っている。
吾輩には、すでにその女を視姦することへの躊躇いは微塵もなかった。
いちもつは金槌のように硬くいきりたっている。
やがて女は笑いを収めて言う。
「貴方のお股にある物は、とても珍らしい形をしてるようだけど」
着物を押しのけちょろと突き出たものは、いびつで小さい。
吾輩は狸である身を恥じると同時に、この情けないいちもつを女に野次られた悦びを覚えていた。
女は吾輩の顔色を読んで、もう少し遊んでみようかしらと考えたのであろうか、凝と見つめたまま自分の袂に手を入れ何かを取り出した。
それは小さな紙包みであった。
吾輩のいちもつからは、これ見よがしと先走った汁が糸を引いている。
「それは……何ですか……?」
と訊ねる声までうわずっている始末だ。
女は何とも言えず妖艶な微笑を浮かべると、それを吾輩に差し出し、こう囁いた。
「今夜はこれで我慢なさい」
手渡された包みを開いてみると、ぽろと赤い木の実が幾つかこぼれる。
紙の内側には人間の女陰の絵が描かれてあった。
その絵を見た途端、吾輩は自分の中の理性というものがたちまち崩れて行く音を聞いたような気がする。
そしてその音が聞こえた途端、吾輩はなんと恥ずかしいことに狸の姿に戻ってしまったのだ。
気が付くと吾輩は、我を忘れてその紙をむしゃぶりつくように舐め廻していた。
女はそんな吾輩を姿を妖艶な笑みのまま満足そうに眺めている。
やがて女は地面に這いつくばり紙の女陰を舐め回す吾輩の前に坐り込み、吾輩の小さくいびつないちもつを指先で支え持った。
つままれたいちもつは更に硬くなる。
「あらぁ大変ねぇ、狸のくせに一丁前の人間みたいに硬いじゃないのさ。小さいけど」
快感に身を任せた吾輩は、獣そのものの声を上げて果て、失神してしまった。
女は初めから吾輩を狸と見抜いていたのだ。
最初からこのあさましい生き物をたぶらかすつもりであったのであろう。
まんまと罠にはまった自分が腹立たしい反面、吾輩はこの年増の女にどこかそれを期待していたようにも思う。
それ以来吾輩は時々この女の夢を見ては必ず夢精をしてしまう。