• 『バイカラー』

  • 桃口 優
    恋愛

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    愛の告白をした時。  相手が今まで誰にも話したことのない特別な秘密を打ち明けてきたら、あなたならどう感じますか?  まっすぐな思いと苦しみが混じり合った先に、どんな感情が生まれますか??

第1話 それぞれの告白

教室の窓から見える空は、水色と夕焼けの茜色とが重なり合うように広がっている。
まだ茜色が空を完全に染めていなくて、水色と茜色の二色が織りなす空は、まるで絵画のように美しかった。
見る人によれば、当たり前の景色だと感じるだろう。
でも、私もそんな『当たり前』が本当はアバウトなものでできているということを、ちゃんと理解できていなかったのかもしれない。
とにかく(ほたる)先輩は、まるでそんな二色の今の空と同じバイカラーのような人だった。

「付き合ってください」

時計の針を、少しだけ過去に巻き戻す。
私、中村 美紬(なかむら みゆ)は部活が終わってから蛍先輩を教室に呼び、思いを言葉にした。

窓は少し開けられていて、そこから風が入ってきて気持ちがいい。
その風で私の黒の長めのポニーテールの先が、左右に少し揺れている。

蛍先輩の本名は加藤 蛍だ。後輩はみんな彼のことを『蛍先輩』と呼んでいる。私だけ『加藤先輩』と呼ぶと変に目立つから、私も同じように『蛍先輩』と呼んでいる。

私と彼は吹奏楽部に入っている。
接点はたったそれだけなのに、彼とは部活の時以外にも、学校内で会えばわざわざ立ち止まって話をよくしている。
吹奏楽部は、他の部活に比べて部員数がかなり多い。単純に人気があるという理由もあるけれど、取り扱っている楽器が多いからその分活躍できる人も幅広くいるのだろう。

そんな中、部活の時以外でも話をする関係性は、自分で言うのは少し恥ずかしいけど、レアだと思う。
彼は柔らかくて、話しかけやすい雰囲気を持っている。
私はいかにも男性的な性格の男の人は、正直苦手だった。
そして、彼からなぜかいつも私に話しかけてきてくれたから、自然と私たちはそんな仲になっていた。
そんな雰囲気を持っているから、彼には友達がたくさんいた。
誰にでも優しいのに、少し守ってあげたいような一面もあるというギャップにときめいて近づいてきている女子も多かった。

私はそんな女子たちとは違う意味で、彼を人間的にも、異性としても素敵だと思っている。
私は彼といる時が一番気持ちが落ち着いた。実は私もしゃべることが好きだけど、なかなかうまく順序立てて話すことが苦手だ。それがちょっとしたコンプレックスなのに、彼はせかさず優しい声で最後まで聞いてくれるのがすごく私には嬉しかった。

一緒にいてこんなに心地いい人は、初めてだった。
私は、そんな彼を好きになった。
彼は私の告白を聞き、ゆっくりと髪を触った。
そんな姿さえかっこよく見えるのは、病弱そうながら透き通った白い肌の色のせいのだろうか。

「勇気を出して告白してくれてありがとう。でも、美紬の気持ちには応えられない。美紬のことが嫌いだからじゃない。むしろ、僕も美紬と話していていつも楽しいと感じている。でも、これはすごく個人的な理由からなのだよ」

彼はゆっくりとした口調で話している。
その声に、胸が少し苦しくなった。

「個人的な理由ですか!?」

私は予想外の言葉に、正直驚いた。
告白が絶対うまくいくとはさすがに私も思ってはいなかった。
でも彼の返事は、あまりにも意外なものだった。

「うん。僕が美紬の告白をちゃんと受け止められないのは、僕がゲイだからだよ。そして、実は僕は病気で、もうすぐ死んでしまうからだよ」

彼は、私のよりずっと大きな二つの告白を全く深刻そうな顔もせず、話している。
私の胸が、息苦しくなるほど痛くなってきた。
私がすぐに返事をできずにいると、「そもそも気持ち悪いし、突然言われてもどう反応していいかわからないことだよね」と、彼は儚げな笑顔を見せた。

「まずはっきり言えることは、蛍先輩は『気持ち悪くない』です。誰かを好きになる気持ちは、たとえどんな形でも素敵なものですから」

「美紬らしいね」

彼はホッとした顔を見せながら、「この話を誰かにするのは初めてなんだよ」と付け足したように言った。
彼が私をわかってくれていることは、幸せだった。
でも彼のそのホッとした顔を、なぜか直視できなかった。
一般的に誰かに「自分は、同性が好きだ」とカミングアウトしたら、聞いた人はひく人が多いだろう。

『多様性』を認めると最近よく世の中は言っているけど、結局は『多様性』を認められることは残念ながらまだ多くはない。
でも、私は元から物事に偏見をあまり持つタイプではないし、今彼の話を聞いても全くひかなかった。

「そんなことより、蛍先輩、死ぬんですか?」

「うん。そうだよ」

彼は笑顔を崩さないどころか、また弱々しく笑った。

「なんでそんな大変なことを、そんな顔で言えるんですか?」

私はなぜか涙が出てきそうになった。

「うーん、それはなんでかな。もう十分悲しんだからかな」

まっすぐ彼の顔を改めて見て、私は胸の痛みの原因がやっとわかった。
どうしてか彼の言葉を聞く度に、胸がどんどん痛くなっていた。
もちろん彼にフラれたからではないことは、すぐにわかった。
私の恋心と彼のそれが、今後何が起きても絶対に混じり合うことがないことが気にならないと言えば、嘘になる。
そのことで、胸は正直すごく苦しい。

やり場のない思いを、どうしていいか私にはまだわからなかった。
でも、その苦しさと今の胸の痛みとは関係がない。
この胸の痛みは、これまで味わってきたであろう彼の苦しみがまるで直接的に私の胸に響いてきたものだった。

きっと彼はこれまで同性が好きだということを誰かに言わなくても、ずっと後ろめたさを感じていたのだろう。
本当はそんな感情は持つ必要すらないものだ。
でも彼は、自分で自分の心を傷つけてきたのだろう。
そして、自分の命が尽きることにたくさんたくさん絶望しただろう。

死を受け入れることなんて、どんな人でも簡単にはできないから。
彼はまだ高校生なのに、それをしっかりと受け入れているのは本当にすごい。
でも、そんな辛さを今も、これまでも彼は私に全く見せてきていない。
一人で抱えられるほど小さなことじゃないのに、彼は平気そうな顔をしている。
「辛い」などわかりやすく言葉にしていないのに、彼の表情と言葉が、私の心の中に切なさをもたらしたのだった。

私は彼の言葉を聞いて、「蛍先輩」としか言えなかった。 

第2話 あなたのことを知りたい

私は何と言えばいいかわからなかったけど、この状態のまま話を終わらせたくないと言葉を繋ぎ合わせようとする。
不器用な私の不器用な言葉でも、自分の思う人ぐらいには伝えたいから。

「あっ、あの、」

「ん? どうかした??」

彼は、優しい声で言葉をいつものように掬いあげてくれる。

「さっきの話、もっと詳しく教えてくれませんか?」

「えっ、そんな大した話じゃないよ?」

彼は嫌そうな感じは全くしていなかったけど、あまり乗り気じゃなそうだ。
いや、そうじゃない。
彼は、私に気を遣っている。
辛いのは彼なのに、聞いた後の私のことを、わざわざ気遣ってくれている。

それが今わかったから、どんな形でも彼の、いや好きな人の力になりたいと思った。
私にできることがあれば、なんでもしたいと思った。
私の思いが、彼と混ざらないことなんてどうでもいいと思えた。

「そんなこと気にしなくていいです。蛍先輩が今までどんな気持ちだったかどんな辛いことがあったか、私に話してくれませんか?」

「うん。いいよ」

私の気持ちが彼に届いたかわからないけど、彼はそう言って話し始めた。
僕が同性を好きだと自分自身で気づいたのは、中学生の頃だった。
それまでは異性のことが嫌いではなかったけど、その思いが恋という感情にはなぜか発展しなかった。
男の子とは遊ぶし、女の子とも普通に話をしていた。
だから、自分でも不思議と思うことはなかった。
でも、中学生のある時にもしかして僕はおかしいんじゃないかと気づいてしまった。

僕は、仲の良い男友達の仕草に実はドキドキしていた。
それは、ただの感情ではなく、確実に恋というものだった。
僕は異性ではなく、同性に愛情を抱いてしまった。
僕は、絶対に相手に伝えてはいけないと瞬時に思った。
この感情が一般的におかしいのはわかってるし、男友達が僕のことを恋愛対象として見ていないことはわかっているから。

叶わないと最初からわかっている恋を始めようとするほど、僕には勇気なんてなかった。
そんな僕の思いとは裏腹に、その男の子だけじゃなく、次に僕が好きなったのもまた同性だった。
好きになった男の子にこれまで告白はもちろん一度もしていないし、誰にもこの悩みを打ち明けることなくもやもやとした気持ちを今まで一人で抱えている。
うん、一人でずっと抱えている。

彼は、同じ言葉を繰り返していた。
今彼は苦しそうな顔をしている。
彼の辛さ全てわからなくても、好きな人に思いを伝えられない辛さぐらいは、私にもわかった。
彼は何も間違っていないのに、どうして社会はそれを受け入れてくれないのだろう。
一人一人が少しずつ優しさをもてばきっと社会は彼にとっても生きやすくなるのに。

「まあ、難しそうに言ってるけど、ただ僕がゲイだったってだけの話なんだけどね」

彼は、自虐的に笑った。
そんな笑い顔を、私は彼にしてほしいんじゃない。

「蛍先輩は、何もおかしくないです!」

私はまだ考えがまとまっていないけど、口を動かした。
彼にちゃんと笑ってほしいから。

「そう言ってくれるのは、きっと美紬だけだよ」

彼は下を向いた。

「それなら、私がみんなの分も、蛍先輩に優しくします。そうしたらきっと、」

「ありがとう」

彼はまたホッとした顔をしていた。
そんな顔が見られて私はちょっと安心ができた。
好きな人には、やはりいい顔をしていてほしいから。
彼には、たとえ私が関係なくても悲しい顔をできるだけしてほしくない。

「病気のことも、詳しく教えてください」

私は、さらに彼に質問した。

「うん、いいよ。僕は血液の癌なんだ。僕のはそれとは違うけど、『白血病』とかが血液の癌のとしてよく知られてるよね。僕は子どもの頃から体が弱くて、よく入院をしていた。そして、入院中に癌がたまたま見つかったんだよ。見つかった頃には、もう癌はかなり進行していて手のうちようがない状態だった。若いと癌の進行が早いとお医者さんが言っていた。本当は病院でずっと入院して適切な処置をするのがいいと言われた。でも、僕はもうすぐ死んでしまうことに変わりないなら、治療はするけど好きなこともしたかった。だから、お医者さんに無理を言って来れる時はこうやって学校に来てる。そのせいもあるけど、もう本当に寿命が長くないんだよ。でも、僕は自分の選択に後悔はしていない」

「癌だと初めて言われた時、蛍先輩はどんな気持ちでしたか?」

私は言いたいことや聞きたいことはたくさんあったけど、頑張って順序立てて話そうした。

「悲しみと恐怖が同時に訪れてきた感じだったかな。情けないけど、これまで何度も何度も泣いたよ。でもその時も今でも頭は真っ白にはならなかった」

「それはどうしてですか?」

「よく思いがけないことがあると頭が真っ白になるというけど、僕はちょっと違った。だって頭が真っ白になったところで癌がなくなるわけじゃないし、残りの人生のことも考えなきゃダメなのだから。僕には真っ白になってる時間すら惜しく思うよ」

彼の言葉は、説得力があった。
大きな出来事があっても、時間とは止まってくれず日常は変わらず続いていくのだから。
私は正直どんな言葉をかければ、彼を元気づけられるかわからなかった。
簡単なことじゃないことはすぐにわかったけど、彼がどんな言葉を求めているかわからなかった。
でも、不思議なことに自然と口が動いていた。

「蛍先輩が辛いときには、私が必ずそばにいます。むしろ、そばにいない時があれば、すぐに名前を呼んでください。私はいつでも駆けつけます。私じゃ蛍先輩を完全に元気にできないかもしれないだろうけど、一人で悩むよりはきっと落ち着きますから」

「美紬。どうしてそんなことまでしてくれるの?」

「それは、蛍先輩が私にとって一番特別な人だということに変わりはないからです」

「ありがとう」

彼は、素敵な笑顔を見せてくれたのだった。

第3話 思い続けてもいいですか?

彼のことを知り、前よりも彼の力になれるかなと思った。
まだそのなり方はわかっていないけど、知らない頃よりは私にできることを考えられるから。
一方で、やっぱり私は彼のことが好きだなとも感じた。
もうフラれたのに、恋心って本当に厄介だ。
私には彼じゃなきゃダメみたいだ。
きっと他の人を好きになっても、彼への気持ちは消えない。そんな気がした。

でも、私の思いと彼の思いは、何をしても決して交わらない。
それは、変えることができない現実というものなのだ。
彼が、私のことを大切に思ってくれていることはわかった

痛いほど、心に届いた。
それは恋心ではないから自分の中で感情を整理したいのに、なかなかできない。
それなのに、こんなにも近く感じていることが変な感じだった。
だからついこんなことを言ってしまった。
その言葉が今後自分をさらに苦しめることになるなんて、その時は全く予想できなかった。

「これは、蛍先輩がいいならのお話ですけど」

「うん、どうしたの??」

ここが本の世界の中ならいいのにと私は思った。 
私は本を読むのが好きで、知らないことを知るのが大好きだった。
知らないことは、私にとってはお星様のようにキラキラして見えた。
たくさんのことを知っていると、いろいろな角度から物事を考えることもできる。
だからこそ私は彼の告白を聞いた時、気持ち悪いと思わなかったわけでもある。

所謂LGBTQのことも私は知識として知っている。
性にたいしても、多様性があっていいとも私は思っている。
恋や愛の形が人によって違うように、性の方向性も違うことは全然おかしなことではない。
でも受け入れることと自分の気持ちは全く別物だった。
こんなに心がぐらぐら動くなんて、本には書かれていなかった。

「もしも、蛍先輩が構わないなら、このまま思い続けていいですか?」

「えっ??」

彼は驚いているというより、反射的に声が出た感じだった。
確かに私の話は突拍子もないけど、基本的に落ち着いている彼が驚くところをあまり見たことがないし、今も驚いている顔はしていないから。

「フラれた私がおかしなことを言ってるのはわかってます。でも少しだけ私の話を聞いてくれませんか?」

「うん、いいよ」

彼の細い目が、じっと私を見てくれている。
相手の目を見て話を聞くこと。
それはコミュニケーションをとる上で当たり前とされることだ。
でも、それを毎回できている人はなかなかいないと思う。
そんな当たり前なことの大切さを、彼は私にいつも教えてくれる。
そんな誠実なところも、私は大好きだった。
もうなんで好きが本当に止まらないだろう。

「『諦められない』とかじゃないんです。ただ蛍先輩のことを好きじゃなくなる自分が想像できないんです。今もずっと好きだから、急に自分を変えるのが怖いのです。だから、私の気持ちが整理できるまでの少しの期間だけでもいいですから」

彼は何も言わずに話を聞いてくれている。

「思い続けますが、もちろんちゃんと自分の立ち位置はわかっています」

私はフラれた。
それは変えようのない事実で、それを無理矢理越えてはいけない。
その行為をすることは、私の告白を真摯に受け止めて返事をくれた彼の対してあまりにも失礼なことだから。
私は、自分の嘘偽りのない気持ちを言葉にしていく。全然上手くまとめられないけど、言葉にしないよりは絶対にいいから。

「わがままは言いませんし、蛍先輩にとって迷惑なことは絶対しません。『好きだ』と今後は一切言いません。もちろん、蛍先輩の恋の邪魔もしません。本当に一人勝手に思っているだけで、『この先何か起こるかもしれない』なんて期待も全くしません。あっ、あと、もし蛍先輩が私をうっとおしくなったら、遠慮せずに言ってきてください。その時は私はすぐに離れていきます」

「それで、美紬は本当にいいの?」

彼は、少し近づいてそう言った。
私の胸が意図せず、ドキッとした。

「私は本当に大丈夫です。蛍先輩を思うことができるなら、ただそれだけで幸せですから。むしろ、思えなくなる方が辛いです。身勝手なことを言っているのはわかってます」

この気持ちは、本当のものだ。
彼のことを思うこともできなくと思うと、心が苦しくなる。
それなのに、今なぜこんなに苦しいのだろう。ちゃんと思うことができているのに、どうして辛いのだろう。

「そっか。うん。思い続けていいよ」

「ありがとうございます」

「告白を境に美紬とぎこちない関係になったりして、前みたいに楽しく話せなくなったら美紬も居心地が悪いかなと少し考えていたのもあるから」

彼は、こんな時も優しい。
この優しさは、私だけに向けられるものじゃないとわかっている。
わかっているのに、嬉しくて仕方ない。心が温かくなっていく。

「私の告白は、もう忘れてくれていいですから」

私は、笑った。
いや、本当はちゃんと笑えているかわからない。
自分の顔が見られたらいいのにと思った。
余計な心配を彼にかけたくないから。

「それはさすがに忘れられないよ。忘れるのは美紬に失礼だから」

彼の優しさが、また胸に届く。嬉しいはずなのに、なぜか胸の奥がじんじんと痛い。
でも、その痛みを彼に伝えることはもうできない。
それはきっとルール違反だから。

「もう、蛍先輩は本当に優しいですね。優しさがあふれて外にこぼれてますよ」と私は戯けた。

「美紬は本当に太陽ような笑顔をするよね」

彼はそう言って、私を褒めてくれたのだった。

第4話 どうして私だったのかな?

家に帰ってきて、自分の部屋で鞄の中を片付けている時にあることを思いだした。
窓から見える空は、真っ黒だった。
星も輝いていないし、この辺は街灯も少ないから少し遠くさえもはっきりと見えない。

「病気のことを知っている人は、穂乃果の他には誰もいないから」と彼は言っていた。

それにしても思い出すことは、いつも彼のことばかりだ。その度に自分がどれほど彼のことが好きなのか自覚する。
こんなにも思っているのに、その思いは近づくことはないとも何度も何度も思い知らされる。
同性を好きなことはなかなか言い出しづらいのはわかるけど、自分の病気のことはまだ話しやすいのではないだろうか。

しかも、彼の場合はちょっとした病気ではなく、命に関わる病気だ。何かと手助けも必要な時もあるだろう。
彼は私の話を聞いてくれるけど、他の人はトロいし何を言いたいかわからないと私のことを相手にもしてくれない。だから、私には友達はほとんどいない。
そんな私とは違い、彼には友達がたくさんいる。
仲のいい友達に話してもおかしくはないのに、どうして彼は話していないのだろう。
話せば、きっとその人たちも何かしら助けになってくれるはずだ。

彼は優しいから、自然とその周りにも優しい人が集まってきている。似たもの同士が友達になるとは、本当に物事をうまく捉えた言葉だ。
彼は何度も不安になったのではないだろうかと、私は突然心が痛くなってきた。
今まで病気のことを誰にも話さず、ずっと一人で抱えてきたのだから。
それは今の空よりもずっと暗くて恐ろしいものだっただろう。

でも、私は自分のことじゃないのに、どうしてまたこんなに苦しくなるのだろう。
私は、本当にどうしてしまったのだろう。
そして、どうして私には話してくれたのだろう。
私は、彼にとってどんな存在なんだろうか。
恋愛対象ではないけど、少しは心許せる人なのだろうか。それともなんとも思っていない人なのだろうか。

特別な思いがないからこそ、話がしやすいということがあることを私は知っている。
その答えはわからないけど、彼の苦しみを少しでも背負いたいと私は思った。
このように言うと少し重く聞こえるだろうけど、辛いことは誰かに話すことで楽になると私は思っている。

確かに話したところで、病気は治らないし突然病気が消えたりもしない。
現実的には何も解決はしない。
でも、メンタル面が少しだけ穏やかになるはずだ。
体が健康で元気かということは、結構メンタル面が大事だと私は実感として知っている。
気持ちの持ち方一つで、日々の生活が明るく変わることもある。
彼にはできるだけ苦しんでほしくないと、私は思う。
彼の恋人にはもうなれないけど、それぐらいは思ってもいいだろうか。
それぐらいは、彼も許してくれるだろうか。

また、彼は「このことを誰かに言わないで」と私に言わなかった。
もちろん、そんなことを言われなくても、私は最初から誰にも言うつもりはない。
でも、どうして彼はその言葉を言わなかったのだろう。
誰かに言いふらされたら、彼だって面倒だろう。

もしかしたら、私を信頼してくれているのだろうか。そうだといいなあと思ってしまった。
彼の信頼できる人になれているなら、それはただ嬉しいことだから。
私が誰かに言おうと思わない理由は、シンプルなものだ。
そもそも彼を困らせたくないし、彼が困ることはしないと約束したからだ。
それに好きな人を困らせても、何も生まれないしお互いにとって意味なんてない。
恋の駆け引きなんてしたくないし、そもそも彼の気持ちは私の方に向くことがないのだから駆け引きをする意味もない。
何をしても、私たちは交わらないのだから。
とにかく彼が私だけに話してくれたのなら、その気持ちに私はちゃんと応えたいと思った。
それが彼のために、私ができることだろうから。
フラれても、どんな話を聞いても、私の気持ちはやっぱり変わらなかった。私は今も、これから先もずっと彼が大好きだ。

どうやったら彼の気持ちに応えることができるだろうか。彼は何を望んでいるのだろう。
あまり時間のかかることじゃない方がいい。悲しいけど、彼には長い時間は与えられていないから。
私は彼に今したいことは何か直接聞こうと思った。
彼のために考えることを放棄したわけではない。
私が何がいいだろうかとあれこれ考える時間も、惜しいと思った。
また、私が考えて彼のためにしたことが彼が今したいことでなかったならただの時間の無駄だから。もちろん、彼はきっと私がしたことに対して、望んだものと違っていてもそのことをあえて言わず文句なども言わないだろう。

彼はそんな性格の人だ。
でも、彼には気を使ってほしくないし、本心で楽しんでほしかった。
残りの時間なんて関係なく、彼にはずっと楽しんでいてほしいから。
そう思うと、私はすぐに彼に電話をかけた。

「蛍先輩、今忙しくないですか?」

「あっ、うん。大丈夫。どうかした??」

彼の声が、スマホ越しに心地よく聞こえてくる。

「いや、私はどうもしてないです。その、蛍先輩が今一番したいことって何ですか?」

私はまた、段取りを踏まず突拍子もないことを言ってしまった。

「一番したいことか。うーん、海に行きたいかな」

でも、彼はそれを変だと言わず、ちゃんと答えてくれた。

「教えてくれてありがとうございます。じゃあ近々私と一緒に海に行きませんか?」

「一緒に行ってくれるの? それは嬉しいなあ」

彼の喜んでいる顔が、頭にパッと浮かんだ。
その顔があまりにも素敵すぎて、私まで笑顔になっていた。
もう本当に彼はずるい。
私は彼の予定を聞き、一番最短の日付で海に行く約束をしたのだった。

第5話 海のとある言い伝え

約束の日はやってきた。
何か彼のために少しでもできることはないかと考えているうちに、その日になっていた。
もっと時間があったらいいのにと、普段考えることは確かにない。
でも、いつもギリギリまで物事をやらないというよくない癖が抜けていないのだろう。

私が私を責めたところで何も変わらないことはわかっているのに、どうしてもそんなことを考えてしまう。
私には、どんなに時間が経っても彼が死ぬことを受け入れられない。
彼のいない世界なんて考えることすらできない。考えたくない。
好きな人や大切な人が死んでしまうと言われて、今までと変わらない日常生活を送れる人はほとんどいないとはわかっている。
でもその人たちより私の方が、悩み苦しんでいると思った。いや、私のこの思いをその他の人と簡単に一緒にしたくなかっただけだろう。

私にとって、『好き』という気持ちは単純なものではなく、生きる原動力であり元気の源でもある。
だから、思う相手がいなくなることはすなわち、何も楽しくなく生きている気がしないのだ。
でも、その気持ちや思いを彼にぶつけるのは違うと私は感じている。
結局、まだ私は彼とどう接していいか、彼のためにどんな行動をしていていいかわかっていない。

私たちは駅で待ち合わせして、海に向かうこととなっている。
彼は待ち合わせの時間より少し早くに来ていた。
オーバーサイズの白いロンティーを着た彼は、かっこよくもあり弱々しそうでもあった。
海までは遠くて、電車に乗っても三十分以上はかかる。
私たちはお互いに車はもちろん、バイクも持っていないから、電車で行くことにした。

本当は二人っきりでゆっくりと海に向かいたかった。
彼が海に行きたいという思いを大切にしたいから。 

でも、現実はそんなに甘くない。たとえ彼が車やバイクの免許を持っていたとしても、弱っている彼に運転をさせることなんてとてもできない。私が車の免許を持っていない時点で、私たちには電車で行く道しかないのだ。
私はそれなら一層のことこの旅を楽しんでしまおうと思った。
私まで暗くなってしまったら、彼は明るく笑うことができないから。

時間帯がラッシュ時から外れていることから、駅にはいつもより人は少なかった。
それでも、ホームには人はちらほらいる。
電車に乗ると、窓から太陽の光りが入り込んで反射してきた。
電車の中にはたくさんの人はいたけれど、なんだか二人だけの秘密の旅のように思えた。

だって彼の本当の気持ちを知っているのは私だけなのだから。
もちろん彼の全ての気持ちを知っているわけではない。
でも、なぜか秘密感がどんどん高まっていく。
私は高まる感情を整えて、彼が海に行きたいと思った理由を聞くことにした。

「蛍先輩はどうして今海に行きたいと思ったのですか?」

今は季節は夏ではないから、海で泳げるほど暖かくはない。

「それは、」と彼は少し目線を逸らした。私は、「私には何でも話していいですから」と笑った。

それは本心からの言葉だったけど、そのことは彼に伝えないことにした。

「美紬は笑っちゃうかもしれないけど」と言いながら、彼は海に行きたいと思った理由を話し始めた。

「海は、たくさんの思いやものが眠っている場所という言い伝えを美紬は聞いたことある?」

「はい。その言い伝えなら、おばあちゃんに聞いたことがあります」

彼が今言った言い伝えはマイナーなものではなく、多くの人が知っているものだと思う。
海とは昔から神秘的で不思議なところとされているから。

「叶わなかった願い事、誰かの思いや涙、たとえ海で生まれなかった感情やものも最後には海に流れ着く。それは風に乗って、または別の方法で海までやってくる。海は拒んだりせず、すべて受け入れてくれるから海にはたくさん感情やものが眠っている」

「先輩は、以前海に流してしまったものをもう一度探したいのですか?」

誰しもが何かに後悔をして、今を生きている。全てがうまくいっている人なんていない。
でも、そんな強い思いを彼もこれまでしてきたのだろうかと考えると、少し辛くなった。
その思いの中に、きっと私は全く登場しないから。

「いや、そうじゃないよ。そんな寛大な海なら、もしかしたら僕の『寿命』もあるかもしれないって思った。そして、もしも『寿命』を見つけることができれば、僕は死なずに済むのかなとか考えちゃうんだ」

「それが蛍先輩の海に行きたい理由だったのですね」

私は胸の痛みを何とか言葉で隠して、返事をした。
それはあまりにも切実な彼の願いだったから。
彼がもし死ななければ、彼が思いを寄せている人ともうまくいく可能性も十分にありえることだ。
彼は、未来の様々な可能性をもう捨ててしまっている。
彼の辛さは、私が彼じゃないから実際にはわからない。でもその中にはまだ捨てなくていいものもあるのではないだろうか。

「変だよね。そんな言い伝えを真に受けて、しかも探し物は海にあるかもわからないもので、どうやって見つけるかさえもわかっていないのに海に行きたいと言い出してさ」

私がそんなことを考えていると、彼は早口でそう言った。
基本的に落ち着いてる彼にしたら、本当に珍しいことだ。
今もしかしてたら居心地が悪いのだろうか。

「蛍先輩は、変じゃないです。蛍先輩は誰よりも純粋で真っ直ぐです」

私は彼の目をじっと見つめた。
私が彼を大切に思っている気持ちだけでも伝わってほしいと思った。

「それを、美紬が言う?」と彼は突然笑い出した。

どこが彼のツボにハマったのか私はわからなかった。
ただやっと笑ってくれて、安心もした。

「何で笑うんですか?」と聞いても、彼は口を抑えながらずっと笑っていて教えてくれなかった。

そんな会話をしているうちに、目的地の海に着いたのだった。

第6話 私が見つけ出すから

海は、底まではっきりと見えるほど透き通っていてきれいだった。
灰色の砂浜と海の色のコントラストも美しい。
波の音も、静かでとても心地いい。
お昼を過ぎたばかりの海には人はほとんどいなくて、静かだ。
海がきれいだなんて考えたことなかった。
物事をじっくり見ることをしてこなかったとまた私は彼に気づかされた。

彼といると新しい発見がいつもある。
そんな関係性を恋人たちは相手に求めるものだろう。
でも、私は何をしても彼の恋人にはなれない。それなのに、関係性だけがどんどん深まっていく。
落ち込むと海に来たくなる人の気持ちが今ならよくわかる。

私はやはりへこんでいるのだろう。自分の気持ちなのに、何でこんなに気づくのはいつも後になってからのだろうか。
もしかしてそんな私のために「海に行きたい」と彼は言ってくれたのだろうかと、淡い期待が頭に浮かぶ。でも、そんなはずないとすぐに自分の考えを否定した。
だって彼の人生に、『私』という人は今もこれからもきっとそれほど重要ではないから。

「暗くなってはダメだ」と自分を奮い立たせる。

そんなことよりも、この海はまるで彼の心のように素敵なところだとわかった。
彼の心は、この海の静けさのように思いやりと優しさであふれているから。
そう思うと、私は海の中にまっしぐらに走り出していた。
彼の心のようなここなら彼が探している彼の『寿命』が見つかりそうな気がしたから。

何も言わず、海に向かって走り出した私を見て彼はすぐに「えっ、どうしたの?」と心配そうに声をかけてきた。
彼の優しさが、海に静かにとけていく。

私は「ここなら蛍先輩の『寿命』がある気がします!」とだけ答えて、どんどん海の中に入っていった。

服が濡れてしまうことなんて全然気にならなかった。
彼はさらに何か言ってきたけど、それには返事はできなかった。
ただ早く彼の『寿命』を探したかった。
言い伝えだから、確証なんてどこにもない。ましてや、『寿命』は海に流れ着くと言い伝えでも言われていない。
そんなことはわかっているけど、言い伝えが本当であることを私は今切実に願った。
彼の真っ直ぐな思いが報われてほしいと思った。

だから、私は彼の『寿命』が海の中にあることを信じて疑わなかった。
物事は誰かがまず信じないと、『本当のこと』には絶対ならないから。それなら、私が信じることで彼の願いを叶えたい。

私はバシャバシャと海の中に手を入れたり出したりを繰り返した。
何度も何度も歩きながらその動きを繰り返した。
彼がさっき言っていたように見つけた方は言い伝えには記されていないので、とにかく無我夢中で手を動かした。
海の水が冷たくて、手の感覚がなくなってきても私は手を動かすのをやめなかった。
海に来てどれぐらい時間が経ったかわからなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。
海に流れ着いたものは目には見えないけど、きっと探せないことはないはずだ。

この海のどこかに彼の『寿命』があるかもしれない。
彼も私を追って海に入ってきたけど、私は手を止めることをやめず、彼の声にも返事をせず、その後もひたすら彼の『寿命』を探した。
心の中は、彼を救いたい気持ちでいっぱいだった。そんな思いだけが私を動かしていた。

突然海の水面にぽたぽたと何かが落ちてきた。
それは透明で、まるで雨のようだった。
でもそれは雨ではなかった。

どうやら私はいつの間にか大粒の涙を流していたようだ。
どうしてこんなに涙が流れるのだろう。
彼のことを思うと、悲しくて苦しい。でもその中に愛おしさも混ざっている。
この気持ちは、どんな感情からきているのだろう。
この涙は、私のために流れているのだろうか。それとも彼を思って流れているのだろうか。

涙を流す私を見て、彼は走ってきて私の手をゆっくりと掴んだ。
彼の行動は予想外で、私はすごくびっくりした。
さらに、彼が私の手を捉えた瞬間、繋いだ手から彼の思いが私の身体の中に入ってくる感覚がした。
混ざることはないと思っていた私と彼の思いが今重なっていく。
夢にまで見たことなのに、私はさらに涙が込み上げてきてしまった。
彼の思いがあまりにも温かかったからだろうか。それとも、彼の本心がわかったからだろうか。

本当はその答えを、私はわかっている。
今まで涙に特別な意味があるなんて考えたことがなかった。
涙で何かを得ようとしたことがないと言った方が正しいだろう。
でも、この涙は、どうか奇跡を起こしてほしいと思った。
海に落ちる涙が、彼の『寿命』を見つけてほしい。
探し方がわからないのだから、そんな可能性だって十分ありえる。
私の思いと彼の思いが混ざった涙なら、もしかしたら彼の『寿命』を探し出せるかもしれない。

神様は、一生懸命に頑張っている人をしっかり見ていると私は思っている。
だってそうじゃなきゃ、人生とはあまりにも辛いことが多すぎるから。
それは毎回じゃなくてもいい。強く願ったことが神様の元にたまに届いてくれればいいのにと願う。
そんなことを考えることさえ、身勝手で許されないことだろうか。

彼に触れることで彼の本心を知った。彼は辛い思いをたくさんして生きることに希望を見つけ出せなくなっていた。でも本当は、心の中は常にぐらぐら揺れてどうしていいかわからない状態だった。また、生きたいと強く願っていた。彼は何でもできるわけでもなく、もちろん特別なわけでもなくて、私と同じようにずっと迷っていた。偶然の出来事であったとしても、私は彼のそんな思いを知ってしまったから、なおさら彼をほっておくことはできなかった。

第7話 ありがとう。もういいんだよ

「美紬」と彼が私を何度も呼ぶ声が聞こえてくる。
私は聞こえていたけど、その声にわざと返事をしなかった。まだ『寿命』を探すことをやめたくなかったから。
必ず見つけ出したかったから。
彼は再び近づいてきて、私の手を掴んだ。

彼は少し息が乱れていた。
彼の身体は大丈夫だろうか。
私のせいで無理をさせてしまったようだ。
どうして私はいつも空回りばかりするのだろう。でも、彼の言葉を今聞きたくたくなかった。こんな結末を思い描いていなかったのに。

「美紬、ありがとう。もういいんだよ」

私の思いとは裏腹に彼の声は、海一帯に響いていった。
今さっきまで私はなんとしても『寿命』を探そうとしていた。でも、その声がすごい勢いで私からその力を奪っていく。
それを私は止めることもできなかった。

「美紬の優しさは僕にちゃんと届いたから。その優しさだけで僕はもう十分だよ。僕のことをこんなにも思ってくれる人が、一人はいることで幸せだから」

「でも、まだ蛍先輩の『寿命』は見つかっていないです。私は、」

「何事も求めすぎちゃダメなんだよ。自分が思っている以上のものを手にしたら、それで満足しなきゃ際限がなくなるから。もっともっとって思ってしまうよね。僕は『寿命』を探すために海にきた。海に着くまでは、『寿命』を見つけようと思っていた。絶対に探し出してやるぐらいの気持ちだった。でも、海に着くと僕が探す前に、美紬が必死で僕の『寿命』を探しだした。それは僕にとって本当に予想外のことだった。すごく嬉しかった。だから『寿命』は見つからなかったけど、もう僕は満足してるよ」

彼は私の話を聞き終わる前に、そう話してきた。
彼の言葉が、どんどん私の身体の中に入っていく。

「蛍先輩はもっと欲張りになっていいんです」

私はなんとかして口を動かしてみるけど、どうにも弱々しい言葉にしかならない。

「たとえ欲張りになっても、どうにもできないことが僕にはたくさんあるから」

突然、彼の本音が私の心に刺さってきた。
私はそれに対して何も言うことができなかった。どうして、励ますことさえできないのだろう。そんな自分が本当に情けない。

「あっ、ごめん。こんなこと言われても困るよね」

彼はすぐにいつもの彼に戻った。
それが余計に私を苦しめた。
平気そうに装っているのが、わかるから。さらに、私のために気を遣って優しくしてくれているから。

「いや、私は大丈夫ですが」

そう言いながらも、私は本当は何も大丈夫じゃなかった。
どうしたら彼が辛い思いから抜け出せるか未だにわかってないから。
ただそばにいることしかできていないから。

「でも、美紬はまだ涙を流してるよ」

「これは、その…」

彼は私の顔を見て、儚げな顔な表情をした。
私は急いで両手で涙を拭いた。
でも、涙は全然止まってくれない。

「今だけでいいから止まってよ!」と心から思った。

彼にこれ以上余計な心配をさせたくないから。ただでさえ彼はどうにもできない状況なのに、私のことで彼をさらに悩ませたくない。
一層のこと、私のことを気にしないでいてくれたらいいのにと思ったけど、それは彼の性格上無理だろうとすぐにわかった。
私が今涙を流している理由と彼が思っている理由とは全く違うと思う。

でも、それを私はすぐにうまく言葉にできなかった。
何と言えば、この思いは彼に伝わるだろう。
いや、もしかしたら『うまく』話す必要はないのだろうか。
たとえわかりにくかっても、相手はしっかり聞いてくれるかもしれない。

そんな考えが、急にすっと心に落ちてきた。
でも、私はそれをちゃんと掬いとれなかった。
私はまだうまく話すことにこだわっていた。
とにかく私が今涙を流しているのは、彼のために何もできなかったからだ。

彼の心に触れられたのに、彼のほしいものがわかっているのに、私は何一つ力になれなかった。
彼のために行動しても、何もうまくいかない。私は本当に何をしているのだろう。
こんなにも彼のことを思っているのに、思うだけでは何もできないようだ。
人の心を変えるのってこんなにも難しいのだと痛感した。

私はまだ、自分自身を責めていた。
『寿命』を探せなかったことも、彼にあんな言葉を言わせてしまったことも、自分自身が何度も涙を流してしまったことも全部ダメだと思っている。
私がもっとしっかりしていれば、彼も私に甘えることができたはずだ。彼一人で辛いことを抱え込んで苦しまずにすんだはずだ。

また、彼が『求めすぎてはいけない』と言っていたことにも、本当は共感していた。
期待しすぎるから、その通りにならなかった時に落ち込むのだ。
初めから期待値を低めに設定したり、途中で満足すれば、へこむことは少なくなるだろう。
でも、私は期待しすぎることに身体がもう慣れているからきっと共感はできても、行動にうつすことはなかなかできない。

そして、私は彼の優しさに慣れてしまっていたようだ。優しくされること、どんな自分も受け入れてくれることがいつの間にか当たり前に思うようになっていた。
『当たり前』は、人の努力によって作り出されているのに、そんな大事なことを私はわかっていなかった。
こんなにも続けて人に優しくされることは今までなくて、きっと感覚さえも誤作動を起こしたのだろう。
私の口は、自然と動き出したのだった。

第8話 一つだけお願いしてもいいですか?

「何も求めないと言いましたけど、今一つだけお願いをしていいですか?」
「うん。どうしたの??」

彼は驚かずに、そう聞き返してくれた。
そう言った彼の目は、とてもきれいだ。
私はというと、自分が言った言葉に驚いていた。
なんでこんなことを私は今言っているのだろう。
こんな言葉言うつもりじゃなかった。

叶わない恋だと告白した時からわかっていた。だからせめてただそばにいさせてほしいとお願いをした。彼の迷惑になることはしないからとちゃんと約束した。それなのに、彼の優しさにちょっとだけ淡い期待を抱いてしまった。まさか彼といることで、彼の言葉や思いを『恋』だと錯覚してしまったのだろうか。

彼が私に恋することは彼の性の方向性から絶対にないことで、私もそれを無理やり変えたいとまで思っていない。
そんなことを、決して私は望んでいない。
じゃあ私は、一体彼に何を望んでいるのだろうか。
その答えを探すかのように、私の口はまた動き始めた。

「今だけでいいから、抱きしめてくれませんか? 蛍先輩が私に気持ちがないことはわかってます。抱きしめてもらったらそれ以上のことは本当にもう求めません。ダメですか??」

私は、彼の目をじっと見つめた。
彼のまつ毛が長いとこの時初めて気づいた。
彼がゆっくりと近づいてきた。
波の音が心地よく耳に聞こえてくる。

「美紬、ありがとう」

彼はそう言って、私の頭をぽんぽんとした。
海の先に、まぶしい太陽が沈んでいく様子が見える。
それから彼は何言わずに、ゆっくりと何度も何度も頭をなでた。

彼の手から優しさが伝わってくる。
すごく温かくて、心がほぐれていく。
でも、彼は抱きしめてはくれなかった。
そこには確かに一つの線がひかれていた。
私にはどうやっても越えられない線が目の前にあった。
自然と両手にぎゅっと力がこもる。
彼はそのことについて何も言わなかったけど、私にはそれが意味することはちゃんとわかっていた。

『抱きしめる』とは、特別な思いを抱いた人にしかしないものだから。
もちろん、ただ抱きしめるだけなら、誰にでもできる。
でも、『抱きしめる』とは愛を伝える行動でもあり、そこにもし愛がなければ虚しいだけだから。

彼の気持ちはわかっている。それなら、私は彼になぜ抱きしめてほしいのだろう。
もしかして、自分の思いを彼の心の奥に届けたかったのだろうか。
決して思いは交わらないけど、せめて彼の記憶に少しでも残りたかった。

私はわがままで、本当に身勝手だ。
そもそも彼のそばにいるという選択自体が間違っていた? 
今後何をしても好きになってもらえないとわかった時、すぐに離れればこんな気持ちにはならなかったのだろう。彼からしてもそばにいられても、迷惑だっただろう。

でも、離れることができないぐらい彼のことを好きな気持ちが大きかった。
私はたとえ自分が苦しくなっても、彼のそばにいたかったのだと今やっとわかった。
その思いはあまりにも独りよがりなもので、愛だなんてとても言えないけど、思いをなかったことにもできなかった。
たとえ今見つめ合っている視線が交わらなくても、それでもよかった。

「なんで蛍先輩が私にお礼を言うんですか。お礼を言いたいのは、私の方ですよ」

私はうつむきながらそう言った。
彼には私のように苦しい思いはしてほしくなかった。純粋でまっすぐな彼のままでいてほしかった。

「あぁ、そうだね」
「もう本当に先輩らしくないですよ。先輩はいつもキラキラしてるなのに」

私は、いつもように先輩をちゃかした。

「僕は、そんなにキラキラしてないよ」
「えっ、いつも無自覚なんですか? それは本当に罪な人ですよ」

そう言いながらも、私は必死で涙を流さないようにしていた。でも彼の顔を見ると、きっと堪えきれず涙を流してしまう。
だから、私はまだ顔を上げることができていない。 
早く顔を上げないといけないのはわかっているのに、なかなかそれができない。

「むしろ、自覚してキラキラオーラを出してる人って芸能人以外になかなかいないと思うけど」

「確かに一般人がすると、ただの『勘違いさん』になりますからね。さすが蛍先輩はわかってますね」

「その言葉は、褒めてるのかな?」

彼は、オーバーに首を傾げ戯けた。

「もちろん、褒めてますよ」

その姿を見て、心が救われた。彼はいつだって私を明るい気分にしてくれる。
私は彼のおかげで顔を上げ、彼とまた笑い合うことができたのだから。
私はこのままこんな会話がずっと終わらなければいいのにと思った。

彼も死ぬことがなくこれから先もずっと生きていて、彼の隣にはいないけど近くに私もいることができればいいのにという『愛情』を、私は海に静かに流した。

もう十分すぎるぐらいの優しさを彼からもらったから。
海はどんなものも受け止めてくれると彼が言っていたことを、私はまだ信じたかったのだろう。
私が信じるのをやめたら、彼がこの先ずっと生きていけないことを肯定することになってしまうから。

それだけはどうしてもしたくはなかった。
いつかまた彼のように何よりも深いこの『愛情』を探しにこようと思えたらいいな。きっとそんな日はやってくるから。
太陽はもう完全に沈んでいて、空の青色は夕焼けの色にとけこんでいたのだった。

第9話 彼の心の中で

世の中とは、本当に冷たくて残酷なものだ。
あの日奇跡は起こらず、あれからすぐ彼の命の炎は完全に消えてしまった。
彼の願いも、私の涙も、二人が心を通わせたことも、誰にもどこにも届かなかった。

彼は、私の前からいなくなった。いや、世界が真っ暗になったと言ったほうがいいだろう。
彼は私にとって光りだったから。彼のいない世界は一瞬で真っ暗な夜になった。
明けることのない夜が毎日毎日繰り返された。
そこでいくら彼の名前を呼んでも、彼はもう私の前に現れることはなかった。

夜を明けさせる方法もわからないまま時間だけがただ過ぎていった。
その日からさらに何日か経ったある日のことだ。
私はまだ夜の中にいた。今があの日から何日経ったのかもわからず、日常生活さえもしっかりとできないぐらいになってしまっていた。

いつものように自分の部屋の中で一人でいると、インターホンが鳴った。
どうしてかと誰かに聞かれたらうまく理由を答えられないけど、その時光りを感じた。
彼が戻ってきたのかなと慌てて起き上がり、インターホンの画面を見つめた。
でも、そこに彼は写っていなかった。
彼の母親がどこか寂しげに立っていた。

「蛍先輩のお母さん。もしかして蛍先輩がもどってきたのですか?」

彼が死んだという事実を受け入れることよりも、私は彼をただ待っているのかもしれない。
世界に灯りを再び灯せるのは、考えた結果彼しかいなくて、他の誰かじゃ到底無理だから。
私のこの考え方はどこか間違えているだろうか。今はもうそれを教えてくれたり気づかせてくれる人もいない。

「そうだといいんだけどね。今日来たのは、蛍の部屋の片付けをしていると美紬ちゃん宛の手紙がでてきたからよ」

「えっ!? 手紙ですか??」

私は予想外の言葉に驚いた。
彼からもらえるならそれは嬉しいけれど、正直それよりも彼に帰ってきてほしかった。

「そうよ。裏に小さな字で『美紬へ』と書いてあったから持ってきた。中身は見てないから安心して」

そう言った蛍先輩のお母さんの辛さを隠す顔に、彼の面影を見つけてしまって涙があふれでてきた。
彼もきっと私が弱っている姿を見ると、自分のことは後回しにして、同じようなことをするだろうから。
こんな些細なところに彼がいるなんて、思ってもみなかった。

「ありがとうございます」となんとか伝えて、私は扉を開けて手紙を受け取ることができた。
手紙はなぜかちょっとだけ温もりが残っていて、まるで彼の気配が残っているかのようだった。
私は自分の部屋に戻り、すぐに手紙を開けた。


美紬。突然手紙が届いてびっくりしてるよね。 美紬にどうしても伝えたいことがあったから書いてるよ。
海に行ったあの日、『ありがとう』と僕が言ったのを覚えてる?
あの時、美紬は『なんで蛍先輩が私にお礼を言うんですか』と聞いてきたよね。あの時はうまく言葉にできなかった思いを今伝えるね。
僕は美紬の気持ちを受け止められなかった。でも、美紬はそんな僕をしっかり受け入れてどんな時もそばにいてくれたね。さらに、僕のことを気遣い、僕のことを理解しようとしてくれたよね。僕が言うのもおかしいだろうけど、恋心がある相手にそんなことはなかなかできないことだよ。
そして美紬といると、本当は怖くて仕方なかった死を近くに感じなかった。美紬の前ではできるだけ見せないようにしていたけど、僕は余命宣告を受けてからずっとずっと怯えていた。美紬には『もう十分悲しんだから』と言ったけど、本当はそんなことは全然なかった。でも美紬といると驚いたり、楽しいことがたくさんあって、そんな風に感情が動くからこそ僕は生きてるんだなと強く感じられた。
また、美紬の明るさに僕は何度も救われていた。美紬の明るさは、人を元気づける力が確かにあるよ。それは僕が保証するよ。美紬といるともしかしたら僕はこの先も生きていけるかもしれないと確かな希望を感じていたから。
美紬。僕のことを愛してくれてありがとう。たくさんの優しさを注いでくれて本当にありがとう。
美紬がいたから、僕は最期の瞬間まで幸せを抱きしめながら生きられた。
美紬の感情を揺さぶり、辛い思いだけを残していなくなって、本当にごめんなさい。
でも、美紬の大きな愛は、確かに僕の胸に届いたから。


手紙を読んでいる時、彼の心の中に入り込んだ感覚になっていた。
嬉しいことも辛いことも、全てこの手紙の中には書かれていたから。
そして読み終えて私がまず思ったことは、「こんな私が少しでも彼の力になれてよかった」だった。
また、私といることで、少しでも苦しい気持ちにならず、穏やかな気持ちで過ごせていたことに私の心はだいぶ楽になった。
そして、私は彼という光りをいつまでも待っているだけではいけないと気づけた。いや、また彼が気づかせれてくれた。
私が彼が亡くなってからずっと元気がないと優しい彼が知ると、責任を感じるだろうから。
また、彼は私のしたことに満足していると言っていたけど、私はまだ自分の行動に納得できていない。
それらがわかったから、私はすぐにあることをするために家を出たのだった。

最終話 好きにならせてくれてありがとう

「好きだよ」

私はたどり着いた場所でその言葉を誰かに言うわけでもなく、ゆっくりと声にした。
「好きです」の方が私らしいけど、親しみを込めてそう呼ぶことを許してくれるだろうか。

ここも空と夕焼けがきれいに混じり合っている。
告白した時と今では、好きという気持ちが全然違うものに変わっていた。

今は好きだと思うと、一番にバイカラーの空が頭に浮かぶ。
空の水色と夕焼けの茜色の二色が混じり合った景色。
それは今まで気にも留めなかったものだった。
美しいものは世の中にたくさんあるのに、私はそれをじっくり見ようとしてこなかった。
その素敵さを、彼が身をもって教えてくれた。

彼は、本当にバイカラーのよう人だった。
きっと彼の愛あふれる優しさがそのように感じさせたのだろう。
彼といると、彼の好きな人への思いや優しさを心に感じた。それと同時に私に向けた優しさも強く胸に届いてきた。
また、彼のことを好いたり慕ってくれる人にも彼はいつだって優しかった。
そんな彼だからこそ、空の色と夕焼けの二色が混じり合った美しさを、いつも彼から感じたのだろう。
それは本来ふとした瞬間にたまたま起きることがあるぐらい珍しいものだ。
彼だからこそ、それを常にできたのだと思う。

また、「好きだよ」と言いながら、私は自分の思いや気持ちについて思い返した。
告白する前は、ただただハッピーな気持ちだった。
告白した後は、彼のことを思うと苦しい気持ちになった。そばにいるのに届かないのが、もどかしかった。
好きになることで苦しくなるなんて想像もしていなかった。
好きという気持ちはプラスなことしかないと思っていた。
だからこそ、苦しいと感じた時、私はこの感情をどうしていいのかわからなくなった。そのためにいっぱい彼に迷惑をかけた。

そんな時も、彼は私にいつも笑いかけてくれていた。
その苦しさを抱き抱えながら、好きという気持ちは一層強くなっていった。
今まで苦しいことや辛いことはできるだけ避けてきた。でも、好きとという気持ちと苦しいという気持ちは反発しているのように見えて、お互いに相手を支え合っていた。
そして、苦しさを受け入れると、彼の気持ちもわかることができた。

自分の気持ちを伝えるのが、『恋』じゃない。

もしも恋が一人で完結できるなら、相手は必要ないから。私たちは恋をする時、必ず目の前に誰か相手がいる。
だからこそ相手の感情や願いを考えられてこそ『恋』と呼べるようになるのではないだろうか。
また、恋には一緒にいた時間の長さは関係ない気もする。
長さよりも、どれだけその思いに、相手に、自分が向き合ったかが大切ではないだろうか。
もちろん、人によって物事の捉え方は違っていいと思っている。でも、そんな風に私は思えるようになったから、今またここに来ることができた。

私の思いや感情が混じり合って、身体と心の中に幸福感が生まれた。
彼の事を思い出すだけで、心はぽかぽかと満たされた。

私は今、最初に告白をした教室にいる。
教室は前に彼がいた時のままで、ここでもまた彼の名残りを感じた。
どうしてこんなにも何度も何度も彼との楽しかったことを思い出すのだろう。
時間は前と同じぐらいだけど、見える景色は前とまた違うものだった。
毎日同じ景色はないと今ならわかる。
それでいて、やはりきれいだった。
そして、私は何より彼に感謝の気持ちを伝えたいから、もう一度ここに来たのだ。

こんなにも好きにならせてくれてありがとうと彼に思いを届ける。
言葉は、スッと空に吸い込まれていった。
まるで彼が受け止めてくれたみたいだった。
誰かを好きになることは特別なことで、ありふれたことではない。
また、好きになることで、たくさんのことを大切に思うこともできるようになった。
話をする人はいても、感情が揺さぶられるほどの思いをさせてくれる人はきっとこの先も多くはいないだろう。それを彼は一瞬で私にさせてくれた。

私はトロくていつも気づくのが遅いから、彼がいなくなってだいぶ経って、こんな風に思っていることに気づけた。
そして、私がそのことを、まだ彼に伝えていないとわかった。
それをしっかり伝えたいと思った。これがたくさんの素敵な感情をもらった私が、彼に少しだけ返せることではないだろうか。

私はまだまだ彼に伝えたいことがある。届けたい思いがたくさんある。
彼にまだ満足してほしくないし、終わりになんかとてもできない。
また、彼のためにも終わりにはしない。
心の中にこの思いがある限り、終わりはきっと訪れない。
彼といた時間すべてが愛おしくて、今でも度々胸が熱くなる。
そんな時いつも彼を好きになってよかったと心から思う。
彼と過ごした過去に囚われるのではなく、過去と共に歩んでいこうと私はもう決めた。

私はこれからもさまざまな場所で彼に声をかけ続ける。
きっと思いは届くと私は信じているから。
「好きだよ」ともう一度言った時、涙が一粒地面に落ちた。
落ちた涙は、地面を揺らし視界がぐらぐらと揺れた。

そして、窓から光りが差し込んできた。

「美紬は素敵だよ」と彼の声が空から聞こえてきたのだった。

 ー完ー