• 『美藤堂はいから奇譚』

  • 古森 真朝
    ファンタジー

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    文明開化まっただ中な極東の国・桜華。帝都に住む英莉は、家を抜け出して道に迷ったところを西洋人の青年・カイルに助けられる。ある事情で白粉が要る彼女が案内されたのは、建物も主も不思議すぎる店だった。

第1話

誰よりもしあわせになんて、ならなくていい。せめて、まわりの迷惑にならずにすむようになりたい。
己のようなものがそう望むのは、ぜいたくかもしれない。が、さほど悪いことでもないはずだ。
だから――


(いい加減諦めてほしいのにー!!)

人ごみをかき分けて全力疾走しながら、口には出さずに心で叫ぶ。声にしたいのは山々なのだが、それをやったら確実に見つかるからしょうがない。

英莉(えり)はいたか!?」

「この辺で見かけたらしい、急げ!」

(ひええええええ)

いつの間にか背後に迫った声に冷や汗が浮かび、目の前に現れた角をとっさに曲がった。すぐそこにあった、一抱え以上ある木箱の陰に迷わず飛び込む。まくれ上がった前髪を押さえ、小さくなって息を詰める英莉のそばを、後からばたばた駆けてきた足音が通り過ぎていった。よし、とりあえずやり過ごせた。

「……でも、困ったなぁ」

今度は口に出して呟いて、そろっと視線を上げてみる。日の光こそ入ってこないが、屋根の合間から覗く空は青く澄んでいた。今日も快晴になりそうだ。

東洋の端に位置する島国、桜華国。その中心であるここ帝都では、開国以降さまざまな西洋文化が流れ込んできている。今まで木造の平屋が当たり前だった建造物も、堅牢な煉瓦造りで二階建て以上のものが次々に建てられており、街並みは近代的でモダンな雰囲気を醸し出すようになっていた。それ自体はまあ、いいのだが、

「どっちが大通りかわかんなくなった……!」

久しぶりに家を出たら、周りの風景が一変していたのだ。ついでに、背の高い建物が増えたせいで見通しが非常に悪い。さらには思った以上に早く追手がかかったせいで焦りまくり、とにかく撒かねばと必死で走り回ったあげく、それはもう見事に迷ってしまった。ここからいったいどうしろと。

だがしかし、あきらめるわけにはいかない。この脱走には、英莉の人生がかかっているのだ。

「とにかく、じっとしててもらちが明かないし、さっきとは反対側に……」

細い路地裏をカニのように横ばいで進み、ようやっとたどり着いた端から慎重に脱出、したはずだった。

どんっ!

「ぎゃっ!」
「うわっ!?」

いきなり右手側から衝撃が来た。受け身も取れずにひっくり返りかけたのを、どこからか伸びてきた手が支えてくれる。ついでに、焦りまくる声が頭上から降ってきた。

「ごめん、全然見てなかった! 君、怪我はしてないか?」

(……うわあ)

親切な声かけに、英莉の返事はなかった。というか、言葉を発することを忘れていたのである。

きっと盛大に転びかけたであろう自分を支えてくれ、心配そうな眼差しを向けている相手。おそらく二十代の頭くらいだろう、小柄な英莉より頭二つ分以上の背丈があり、仕立ての良い洋装に身を包んでいる。短くまとめた柔らかそうな髪は濃い灰褐色、切れ長で涼し気な瞳は明るいハシバミ色。白さが際立つ肌色と、彫りが深く端正な顔立ちの、明らかに西洋出身と思しき青年だった。こんなに近くで異国の人を見たのは、生まれて初めてだ。

「……大丈夫? 頭とか打ったかな」

「いっ、いえっ平気です、大丈夫です!!」

「そ、そうか? かなり吹っ飛んでたけど」

「そうです、ぶつかってすみませんでした! じゃあこれでっ」

何の反応も返ってこなかったからだろう、相手はますます気遣わしげに眉を下げて聞いてくる。その流暢な桜華語に驚きつつ、大急ぎで体勢を立て直した英莉だったが、再び走り出そうとしたところでいきなり閃いた。とっさに青年の袖口を掴んで、

「あのっ、この辺で白粉を売っているお店、知りませんか!?」

勢い余って結構大きな声になった。若い男性、しかも異国の人に聞いても無駄かもしれないが、もうこうなったらなりふり構っていられない。

「おしろい? って、化粧に使うあれか? 顔とか首にはたく」

「そうです、どうしても買わないといけなくて! でも久しぶりにこっちに来たら道に迷ってしまって……!!」

「――いま声がしなかったか?」

「おう、近くにいるぞ!」 

(ぎゃー!?!)

間の悪いことに、まだいた追っ手に聞き取られてしまった。こちらから姿は見えないが、声の感じからしてあまり遠くではない。

両手で前髪を押さえて真っ青になる。不自然なところで黙り込んだ英莉に、首をかしげて背後を顧みた青年が『あ』と察した表情をした。いよいよもってまずい……
と。

「はい、これ被ってて。少し重いけど我慢してな」

「、へ? あの」

なぜか上着を脱いで、頭から掛けてもらってしまった。目を点にしている英莉に笑いかけて、軽く右手を掲げた相手が指を鳴らす。それに合わせたようにふわっ、と穏やかな風が――いや、違った。

ごおおおおおお!!!

「「「わーっっ!?!」」」

凄まじい突風が吹き荒れた。風そのものも強烈だったが、さらにすごかったのはそれに乗ってきた桜の花びらだ。まるで舞台の上から黒子が降らせる紙のように、大量に降り注いで渦を巻く花吹雪で前が見えない。あちこちから通行人の悲鳴が上がった。

そしてそれは、英莉を追っていた人々にとっても同じだったようで。

「うわー! 目が、目があ~~~」

「く、口ん中に入った……うえぇ」

「い、息できねえ……悪い、おふくろに今年の盆は帰れねぇって伝えてくれ……」

「うおおお! 死ぬな銀次ィ!!」

「しっかりしろ、傷は浅ぇぞー!!」

「……う、うわあ」

まるで遭難しかけた登山部隊のような熱いやり取りを交わしている元・追っ手に、何ともいえないうめきを漏らす当事者である。居合わせた人々がほぼ例外なく混乱する中、一人だけいたって普通な御仁がいた。

「よし、今のうちに行こうか。白粉が要るんだな? 俺の知り合いが詳しいから連れてくよ」

「えっ、いいんですか! じゃなくて、その、今のって!?」

そう、一体どうやったのだろう。いくら春の真っ盛りとはいえ、合図と共に吹き荒れる花吹雪なんて聞いたことがない。被っている上着を押さえながら指摘しようとした英莉に、青年は笑顔で口元に人差し指を当ててみせる。

「落ち着いたら説明するから、今は名前だけな。カイル・アイビーバーグ、西のイングローズ連合王国から来ました。ではさっそくご案内しましょう、お嬢さん!」

夜会のお誘いのような優雅な一礼とともに、カイル青年が手を差し出してくる。ほんの少しだけ迷ってから、英莉はその指先をぎゅっと掴んだのだった。

第2話 

良く晴れた日、朝日を眺めながら紅茶をいただくのは気分が良い。

ひとりで静かに過ごしてもいいが、会話を交わす相手がいるとより充実した時間になる。お互いの好みだとか、時節だとかを考えて、茶葉やそれに添えるものを選ぶのは楽しい。

……まあ、今朝は急用ができたということで、あっさりすっぽかされてしまったわけだが。

「うちの書生は落ち着きがないこと……あの子は『お役目』があるから、仕方ないけれど」

仕方なく一人分の支度を整えながらつぶやいて、窓の外へと視線を向ける。季節は春の真っ盛りで、開けている窓から花々の良い香りが流れ込んでくる。庭の草木の若葉が目にまぶしい。

そのまま愛でるのもいいけれど、朝一番で花を少しもらって部屋に活けるのも素敵だ。あまり変わり映えのしない日々を送る身にとって、生命力を感じさせる瑞々しい香りは大きな癒しだった。少し遅くなってしまったが、今日はどう設えようか。

軽く首をかしげて思案しているところへ、かたんと物音がした。目を向けると、食器類を納めた戸棚(キャビネット)が開いている。その手前のテーブルに、出した覚えのないカップとソーサーが二組、ちょこんと並んでいた。

「――あら、ありがとう。もうすぐお客様がいらっしゃるのね? お茶請けは何がいいかしら」

ごく自然に見えない相手との会話を成立させて、この館の主はいそいそと動き始める。やはり自分はひとりより、誰かに振る舞いながらの方がお茶を楽しめるようだ、と思いつつ。


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市街地を急ぎ足で抜けて、そのまま南へ。

帝都の中心を流れる運河の下流、海へとつながる河口付近には広大な砂洲がある。開国した後、そこを周囲ともども埋め立てて整備したのが、国内でも有数の面積を持つ外国人居留地だ。

「この辺は国外から来てる宣教師とか教授とかの下宿と、その勤め先の女学校なんかが並んでるんだ。もう少し経つと、通ってくる生徒たちでにぎやかになるぞ」

「女学校……」

となりから解説してもらって、改めて見渡してみる英莉だ。ちょうど道の右手側、高い塀の向こうにそびえているのは、レンガ造りの朱い外壁ととんがり屋根が印象的な建物だった。規模からすると、あれが学校か。

いいなあ、と口に出さずにつぶやく。やむを得ないとはいえ家に籠もりきりの自分とは、天と地ほどに環境が違う。

海が近いせいか、時折潮の香りを含んだ風が吹く。借りた上着は丁重にお礼を言って返却したため、そろそろ汗が引いて乾いてきた前髪をそっと押さえた。そういえばほったらかしにしてきたが、追いかけてきた方は大丈夫だろうか。ケガをした様子はなかったが……

「……英莉さん? 大丈夫か? 疲れたのかな、あれだけ走ってたし」

「あ、平気です! すみません、歩きにくいですよね」

いろいろ考えて歩調が鈍ったのを、疲労から来るものと思われたらしい。気遣わしげにのぞき込んでくるカイルに急いで答えつつ、逆に申し訳なくなってくる英莉だ。真横について歩調を合わせてくれているから、上背がある相手にはどうにも窮屈そうなのである。

「ああ、これ? うちの国では女の子はみんなお姫様だと思って扱え、って教わるから、気にしなくて良いよ。おれも英莉さんと歩けて楽しいし」

「………………は、はあ」

今、爽やかな笑顔ですごいことを言われた気がするのだが。楽しいんですか、そうですか。

やはり目を点にしつつ答えていたところ、海風に混ざって甘い香りがした。顔を上げて視線を巡らせると、その出所はすぐにわかった。

「あれが目的地だ。おれたちは美藤堂って呼んでる」

「わあ……!」

思わず掛け値なしの歓声を上げて立ち止まる。
今いる道をもう少し進んだ、向かって左側。やや高い鉄柵を巡らせた向こうに、瀟洒な白い外壁を持つ洋館があった。

灰青色の屋根を戴く二階建てで、庭に面している一階部分が硝子張りになっている。その手前、ちょうど道から見えている庭先には、今を盛りと咲き誇る大きな藤棚があった。房になって垂れ下がる薄紫の花房から、先ほど鼻をかすめた甘い香りが漂ってくる。

神社の境内にあるような古木でも、ここまでたくさんの花をつけている様子は滅多にお目に掛かれないだろう。なるほど、建物の名前はここから取ったのか。

「――お帰りなさい、カイル。思いのほか早かったこと」

ふいに藤の向こうに見える扉が開き、柔らかな声音が耳を打った。英莉は何の気なしに視線を向けて、しかしその瞬間びしっ、と凍り付く。何故かというと、

(く、黒い! なんで!?)

中から現れたのは予想の通り女性だったのだが、その出で立ちが予想外すぎたのだ。

この麗らかな春先に全身真っ黒かつ長袖の洋装(ドレス)姿で、一部だけ結い上げている長い髪も当然黒。豪奢な巻き毛の向こうに覗く顔立ちは、舞台か活動写真の女優かと見まごうほどに整っているが、服装と髪型があいまって迫力すら感じてしまう。もしもこの人が表通りを歩いたら、通行人全員がざっと割れて道を譲るだろう。しかも。

「まあ、出会って早々に失礼だこと。これはきちんとした昼用洋装(デイ・ドレス)でしてよ」

「えっ、心読まれた!? もしかしてなんか憑いてる人!?」

「あらあら、返す返すも失礼ねぇ。英莉さんと仰ったかしら」

「名前ばれてるー!! やっぱり憑いてる、っていうかもう妖怪変化!?」

「……呪ってほしいのかしら? お嬢ちゃん(リトル・ミス)??」

「滅相もございませんー!!!」

どういったわけか内心をことごとく言い当てられたあげく、ぐーんと顔を近づけて凄まれてしまった。

叫んでカイルの背中に張り付いた英莉の頭上で、ぶはっと吹き出す声がする。恐る恐る顔を上げると、横を向いて肩を震わせる救い主の姿が目に入った。あれ、笑ってる?

「ちょっ、マダム、あんまりいじめないでやってください……!」

「さも楽しそうに笑い転げながら言っても説得力皆無でしてよ、貴方」

「そこはすみません。でもからかっちゃダメですよ、本当に素直で良い子なんですから」

「ま、人聞きの悪いこと。久しぶりのお客様とおしゃべりしたかっただけなのに」

「は、はひ……?」

冗談交じりの和やかな会話に、すっかり涙目になっていた英莉がきょとんとした顔になる。それにごめんね、と手振りで示しつつ、ようやく笑いを収めたカイルが口を開いた。目の前の黒づくめのご婦人を示しながら、

「……はー、ごめんな英莉さん。紹介が遅れたけど、この人は月下部(つきかべ)千尋(ちひろ)さん。おれの大家さんで、美容とか行儀作法の専門家だよ。白粉のことも詳しいから、力になってくれると思う」

類は友を呼ぶというが、不思議な人の知り合いは、やっぱり不思議な人だったらしい。

第3話 coming soon

時ならぬ花吹雪は、通りの半分ほどを埋めてようやく止んだ。たった数分、もしかしたら数十秒程度しか経っていないはずなのに、薄紅色の花びらは足首まで降り積もっている。一体どこから飛んできたのか。

いや、そんなことはさておいて。

「……平気か、銀ちゃん?」

「うー……悪いな(かん)(すけ)、取り乱した。まだ喉がガサガサする」

「あれはもうしょうがないって。馬車とか人力車すら車輪が滑って足止め食ってたし」

「でも楝汰(おうた)英莉(えり)さんが」

「ああ、うん、それはだいぶ差し迫ってるけどよ……」

なんとか呼吸困難から復活してきた銀次が、心底申し訳なさそうな視線を寄こす。そんな友人に悪いとは思いつつ、楝汰と呼ばれた方は腕組みをしてしかめっ面になった。

(まずい、完全に見失っちまった……!)

何せ視界を完全に遮るほどの花びら、そして声は確かに聞こえたが、正確な位置は把握できていなかった。おかげで立ち往生からの復帰と同時に、追いかけるべき相手の足跡が完ぺきに迷子である。おのれ桜、今回に限っては許すまじ。

(あのなあ英莉、こっちだって悪いと思ってるんだぞ!? ホントなら習い事でも女学校でも、好きなところにいくらでも行かせてやりたいんだっての)

最近はとんとご無沙汰になってしまった、追いかけている相手の笑顔が脳裏を過ぎる。あの子のためとは言いつつも、自由を奪って半ば閉じこめたような生活をさせている負い目は常に感じているのだ。それは楝汰の両親だって同じことだろう。

しかし、だ。

(いくら文明開化だ、四民平等だ、人間は精神性こそ大切だ――なんていっても、みんなやっぱり見た目から入るんだよなぁ)

酷なことだが、特に若い女性の場合には。容姿が世間一般の基準を満たしているかどうかが、割と本気で一生を左右してしまう。本人が望んで生まれついたわけでないと、誰もかれもが分かっているはずなのに――

「――なあ、楝汰。あすこの車夫さんがさっきからずっと雪掻き、じゃない、花びら掻きしてるぞ。聞いてみたら何かわかるんじゃないか?」

「お、本当か! ありがてえ、早速聞き込むぞ!!」

ついつい沈みそうになった思考を、勘助の穏やかな声が引き戻してくれる。とにかく今は早く見つけ出して、家族にばれる前に連れ戻そう。脱走した理由は帰るまでの道々で聞いて、出来るだけ相談に乗ってやろう。絶対そうしよう。

そんなことを、こっそり心に決めつつ。未だに桜に埋もれた大通りを、楝汰を先頭にした若者三名は全速力で、かつ慎重に移動していった。



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通されたのは、外から見えていた硝子張りの一室だった。

といっても全面ではない。庭に面した部分だけが、天井の一部を含めて透明な板硝子で作られている。表で咲き誇る藤の花越しに零れ落ちる、春の陽光があふれてとても明るかった。他の三面は淡い緑の壁紙で統一されていて、爽やかで落ち着いた雰囲気だ。

「さ、どうぞ。ちょうどお茶を淹れたところだから」

「は、はい。ありがとうございます」

「どういたしまして」

おっかなびっくりで部屋に入り、窓際に用意されていた丸いテーブルにつく。後半のお礼は黒づくめのマダムと、ごく自然に椅子を引いてくれたカイルへのものだった。円卓と揃えたデザインの椅子は、座面が綿を詰めた座布団のようになっていて、フカフカでとても気持ちいい。

「さて、カイルが貴女をご案内したということは、わたくしが力になれることがあるのかしら。白粉と言っていたけれど」

「そうなんです。どうしても必要で……ええと、色付きの白粉って、ここに置いてありますか?」

ちょうどいい温度の紅茶を一口含んで、気持ちが落ち着いたところで話を促してくれたマダムに、思い切って訊ねてみる。

わざわざ色付き、と銘打ってあるのは、これまで桜華で使われていた白粉の多くが白一色であったためだ。

薄付きで肌色を均一に明るくしてくれるのだが、一方で元々色白だと血色が悪く見えたり、くすみやそばかすなどの粗がある場合は上手く隠すことが出来ない。気になる部分をごまかそうと重ね塗りをすると、余計に目立つという悪循環が起こるのが常だった。

それを解決すべく作り出されたのが、昨今売り出された色付きの白粉だ。純白だけでなく淡い黄色、薔薇色などがあり、色白の女性でも自然に血色を演出してくれる。

また薄い緑や紫といった、一瞬驚くような色も取り揃えていて、こちらは隠したい粗にあわせて選ぶことが出来る。自分の思い通りの容姿になれる画期的発明として、いまや多くの女性たちから絶大な支持を得ているのだった。

「勿論置いていましてよ。貴女さえよろしければ、使い方もひと通り教えて差し上げましょう」

「ほ、本当!? ありが――」

「……しかし、です。使う用途が間違っていては、せっかくの品も意味がありません。不躾なことを聞きますが、お気を悪くなさらないでね。
貴女がお化粧をしたいのは、そのおでこに原因があって?」

真っすぐにこちらを見て、静かな声で指摘してきた相手に、一瞬顔を輝かせた英莉の動きが凍り付く。ややあって、

「…………そう、です。あの、見てもらった方が早いけど、驚かないでください」

ここまで来たら話さないわけにはいかない。家を抜け出した時以上に決死の覚悟で、さっきから押さえ続けていた前髪をそっと持ち上げた。

第4話

色の白いは七難隠す。桜華で昔から言われることばで、最も大切なのは肌の美しさということなのだろう。確かに、目元や口元といった部分的なことはさておき、面積の広い方に粗があるとどうしても目立つ。


その、何より大切であるはずの肌。おそるおそる前髪をかき上げた英莉の額に、くっきりと浮かび上がっているものがある。藤の花房が作る日陰のような、暗い青みがかった帯状の、大きな(あざ)だった。

さすがに言葉を失った二人に、悲しみとあきらめがない交ぜになった心持でため息をつく。そりゃあそうだ、身内ですら見るたびに絶望した顔をするのだ。本当なら他人の目にさらすこと自体、避けねばならないものなのだから。

「……わたし、母のお腹にいた頃に父が亡くなって。生まれてすぐ母も亡くなったから、その障りで痣が出来たんだろう、って言われてきました」

「妊婦さんが火事に行き会うと、子供に赤い痣が出来る。身内に不幸があると、黒い痣が出来る――ってやつか」

「はい、そうです。……よく知ってますね」

「俺の先輩がそういう言い伝えに詳しいんだ。……でも、そう言われたら辛いよな」

先ほどぶつかったときより、一層気づかわしそうな表情で労わってくれるカイルに、うっかり涙が出そうになってしまった。身内以外にそんなふうに言ってもらったのは、覚えている限り初めてだ。必死でこらえて短くうなずく。

そういう痣が出た場合、悪いのは死んだ人ではなく、その死に寄ってきた『穢れ』――目に見えない悪運や邪気なのだという。だからご両親もあなたも悪くないよと、英莉を引き取った伯父夫婦と従兄はいつも言ってくれる。しかし一方で、痣があるせいで彼らに迷惑をかけているのも事実だった。

「最初はもっと薄かったんです。灰がかった茶色みたいな感じで、これなら大人になる頃には消えるだろうって。でもこの二、三年で、何でかわからないけどだんだんはっきりしてきて……」

英莉は地の色が明るい方だ。本来ならありがたいはずだが、逆にそのせいで青黒い痣が目立つことになってしまった。人目に触れておかしな風評が立たないようにと、現在はほぼ家の自室に籠り切りの状態だ。

本を読むのが好きで、海外の文化にも興味がある。本当ならこの春から学校に通うはずだったのに、その目途すら立っていない。だから、

「だから、家族に心配かけるのは承知で、色付きの白粉を買いに来たんです。もしかしたら、ちょっとくらいは隠せるかもしれないから」

よしんばそれで見た目を誤魔化せたとしても、痣が消えるわけではない。根本的な解決にならないことは分かっている。だがそれでも、自分でも何かせずにはいられなかったのだ。

肩を落として俯いてしまった英莉の前に、すっと影が差した。おずおずと視線を上げると、椅子から立って目の前にやってきたご店主の姿がある。すらりとした手には、白粉の入った平たい容器と、色硝子で作られた美しい瓶が数本、しっかりと握られていた。

「顔をお上げなさい。胸を張って、顎を引いて、視線をまっすぐ前に向けて。――貴女は自分の意志で、自分の道を進むと決意したのでしょう。それでこそ桜華の、新たな時代の女性です。誇りを持って歩みなさい」

「っ、は、はい……!」

正面から目を合わせて、力強くも温かい激励の言葉をくれたマダムに、胸が熱くなって背筋がピンと伸びた。黒づくめの姿の向こうでは、ほっとした様子のカイルが口の形で『良かったな』と伝えてくれている。笑い返そうとした拍子に、少しだけ涙が出てしまった。

「さ、では早速参りますわよ。貴女は不本意でしょうけれど、もう一度よく見せて下さる? 色の配合を考えなくては」

「はいごう? ですか」

「ええ、個人個人で肌の色は微妙に異なりますから。痣の色を打ち消しつつ、地肌と乖離して見えないように調合していきます」

「ああ、なるほど」

「あと、粉末の白粉だけでは心許ないので。こちらは練白粉といって、本来は舞台に上がる役者の方々が使われるものです。伸びが良く色持ちもしますし、何より水分と顔の皮脂で崩れにくいのが特徴ですのよ。照明の熱と自分の動きで大量の汗をかきますからね」

「は、はい、ええと……?」

「まあまあ、よく肌理が整っていますね。理想的な状態でしてよ? 薔薇色と薄黄を混ぜて血色よく見せた方が健康的かしら……ああ、でも透明感も大切ですね。ほんの少しだけ紫も混ぜてみようかしら? それから」

「ええっとあの、すみません! なんかマダムさん、さっきと雰囲気が……!!」

「……うーん、ごめんな英莉さん。あと何時間かは座らされる覚悟をした方がいいぞ? マダムの専門家魂に火が付いたらしい」

「ひえええええ」

得意分野で頼られると燃える性質なんだよなぁ、と、笑顔だがどこか遠い目をしているカイルに呻いてしまった。それ、もしかしなくても日が暮れるやつだ!

照明がないのに大量の冷や汗をかき始めた当事者だが、すっかり仕事人と化したご店主はどこ吹く風である。いそいそと瓶のひとつを開けると、こちらも用意してあった脱脂綿に含ませて、英莉の額を拭うようにする。薬草と思しき清々しい香りと、ひんやりした感触が――と、

もぞり。

「、え゛っ」

「あら?」

ちょうど真上を脱脂綿が通過した瞬間、青黒い痣が蠢いた、気がした。

やや間をおいて拭うと、再びもぞっ、と動く。見えていない英莉は何となく『そう感じた』のだが、まったく同時にマダムが反応したから、たぶん勘違いではない。どういうことだ、これは。

「……い、いいいいま痣が、ううううごうごうご」

「まあまあ、とりあえず落ち着いて」

「無理です!! 何で!? ちょっと拭いただけなのにっ」

「あら、むしろ良いことでしてよ? 治す方法が解るかもしれないのだから」

「ええっ、ほんと!?!」

突然差してきた光明に、混乱しかけていた思考がぱっと切り替わる。勢いよく飛びついた英莉にうなずいて、美藤堂のご店主は背後の店子を振り返った。今までで一番楽しそうな口調で、

「ねえカイル、ここからは貴方の『専門』だと思うのだけれど。いかが?」

「――ええ、そうみたいですね。
英莉さん、ちょっと庭に出てもらっていいかな? この分なら、白粉で隠すより早く解決するかも」

こちらもいたって落ち着いて見守っていたカイルが、話を振られて穏やかに苦笑する。席を立ち、部屋の一面を覆う硝子のひとつに手をかけて開くと、一気に甘やかな藤の香りが流れ込んできた。

第5話

窓の外はすぐに庭ではなく、簀子のような台が敷かれている。八畳ほどもあろうかというその四隅には柱が立てられて、こちらも木製の屋根を支えていた。なんとそれが全て藤棚になっており、日の光が薄紫の花房を透かして美しい。

そんな光景を真下から見上げた英莉の額で、またしてももぞもぞと痣のうごめく気配がした。見えていないのに何故分かるのかは不明だが、その感覚に再度ぎょっとして足が止まった彼女に、先に立って外に出ていたカイルが軽く手招きをする。見れば柱のひとつひとつに、棚を構成する藤の木が巻き付いており、そのすぐ上に最も花が密集しているようだった。

「ちょっとこっちに来てもらっていいか? その方が上手くいくから」

「そ、そうですか? なんか、さっきから動きがどんどん大きくなってるような……」

「大丈夫だよ、喜んでるだけだから。藤の香りが好きなんだな、この子」

「こ、この子!?」

突然の生き物扱いに仰天した。この子って何だ、いったい自分の額に何がいるというのか。いや、さっきからうごうごしているのはわかっているけども!

ひえっ、と両手で額を押さえて青くなった相手に、カイルは柔らかく笑って片手を振ってみせた。心配いらない、ということだろうが、むしろこの状況で心配しない乙女がいたらお目にかかりたいものだ。

「平気だって。おれもマダムもいるから、大概のことは何とか出来るよ。……ところで、さっきの痣の話なんだけど」

「あ、赤いのと黒いのができる理由、ですか」

「そうそう。英莉さんのお母さん、もしかして火事の方も見たことがないか?」

「、はい!? 何で分かったんですか、まだ言ってないのに!」

「いや、さっき最初は色が違ったっていってただろ? 灰がかった茶色だったっけ。――その火事の原因って、雷が落ちたから?」

あっさり言われて絶句する。もちろん、まだ口にしていない内容を言い当てられたからだ。なんでだ、どこをどう聞いて分かった!

声もなく口をぱくぱくさせていると、後ろからやって来たご店主がふう、とため息をついたのが聞こえた。腰に手を当てて、英莉の頭越しに軽く店子を睨むようにする。

「……カイル、まさかとは思いますけれど、貴方自分の身の証を立てていないのかしら。かろうじて名前と在所を伝えただけなのではなくって?」

「うーん、参ったな。おれ、こっちに来てからマダムに全部見通されてる気がします」

「軽口は良いから、一刻も早く話してさし上げなさい。お可哀想に、英莉さんが混乱なさってるじゃありませんか」

「い、いえ、とんでもないです……」

もはやどこにどうツッコミを入れたらいいのかわからない。間に挟まれてふらふらし始めた英莉を気の毒に思ったのか、はたまたマダムの追求がその通りだと思ったのか、カイルはその場に屈んでこちらと目線を合わせてくれた。片ひざを折っている、いわゆる跪いた体勢だ。

「英莉さん、いろいろと後回しにしててごめんな。ちゃんと説明するよ。――おれがイングローズから来た、って話は覚えてる?」

「はい。ええと、欧州の西側にある国、ですよね? 今は確か女王様が治めてらっしゃるって」

「その通り。北海に浮かぶ島国で、全部で四つの地域が集まってできた連合王国だ。歴史が深い所とか、ちょっと桜華に似てるかもな」

確かに。伯父の持っていた世界地図で見たとき、同じ島国ということに親近感を覚えたものだ。こっくりうなずいてみせると、相手は安心した様子で話をつづけた。

「で、だ。うちは歴史が深い分、他所と違う決まり事とか組織とかがたくさん残ってる。欧州じゃ珍しく王女様にも王位継承権があるとか、王家を直接護る近衛騎士が今も任命されるとか――あとはおれたちみたいに、魔法とそれを専門に研究する人たちの身分が保証されてる、とか」

「――、へ?」

突然出てきた不思議な話題に、うなずきながら聞いていた英莉が一瞬遅れて固まった。魔法って、確か桜華でいうところの妖術とかを指すのではなかったろうか。それを研究する? というか今、おれたちと言わなかったか。つまりはカイルもそうだ、ということなわけで……

驚きのあまり目も口も真ん丸になった、いわゆるハニワみたいな表情で静止している相手に、『うん、まあそうなるよなぁ』と苦笑したカイルが再び立ち上がる。折良く吹いてきた春風が、頭上に連なる淡い紫の花々をざあっと揺らした。降り注ぐ陽光と甘い香りを掬い上げるように、片手のひらを上にしてこちらに差し出してくる。

「一番わかりやすいのは、実際に見てもらうことだな。絶対悪いようにはしないし、痣を治すために全力を尽くす。おれを信じて預けてくれる?」

ハシバミ色の瞳に真剣な光が浮かんでいる。素直に綺麗だな、と思った。……信じるも何も、もし少しでも嫌だと思ったなら、初対面の人の手を取ったりはしない。

何故だか泣きそうになってぎゅっと目を閉じる。それと同じくらい力いっぱい、差し出された手を握りしめた。

「……ありがとう。英莉さんには何も負担はないから、気持ちを落ち着けて楽にしてて。マダム、頼みます」

「安心なさい、美藤堂の敷地はわたくしの領域。何人たりとて邪魔は許さなくてよ」

不敵な笑みが心強すぎる。再度感謝の会釈を返して、片手を預けた英莉に向き直った。暖かい風に吹かれて髪が流れ、頭上に咲く藤にも似た痣が露わになる。カイルが見ている間にももぞもぞ、と、はっきり身じろぎしたのがわかった。まるで細身の蛇が尾を打ち振るような動きだ。

空いた方の手を伸ばし、刺激しないようにそっと額に触れる。やはり緊張しているのか、英莉がびくりと身を震わせた。よしよしと髪を撫でてやると、自分で息を整えて落ち着こうと努めている。律儀な良い子だとこっそり和んで、改めて痣に指先を添わせた。

「《野茨の園 ヒースの荒野 忍ぶ翼に応えて唄え
陰のラズモア 日向の四つ葉 夜の囀りに応えて躍れ》!」

低く厳かに唱えた声が、英莉の耳に届いた直後。ぱっと差し込んだ光が、閉じたまぶたの裏側を灼いた。

最終話 

麗らかな春の日差しより、なお眩い光が、天地を逆に駆け抜ける。その原因であるカイルは、瞬きもせず英莉を凝視
していた。正確には、ぎゅっと目を閉じている彼女の額を、だ。

足元から――露台に展開した魔法陣から、頭上の藤の花と同じ、淡い紫の光が立ち上る。鱗状の痣がひときわ激しく動いたかと思うと、右の端からすうっと姿を消した。ほぼ同時に、額に触れていた指先にふわっ、と純白の蕾が現れる。二寸程度の縦長で、内側からぼんやりと光を放っていた。

「――よし、上手くいった。英莉さん、目を開けてみて」
「は、はい……あれ、白木蓮? ですか」
「多分ね。ちょっと持っててもらっていいかな」
「あ、はい」

こくんと素直にうなずいた英莉に蕾を渡し、少しだけ距離を取ったカイルは、最初出会った時のように軽く指を鳴らした。と、

ぱあんっ!!

「ひゃあ!?」

手のひらに収まった白い蕾が、風船が割れるような音を立てて開いた。音自体にも驚いたが、何より仰天したのはその中身だ。

『うきゅーっ』

花の中で丸まっているのは、白い仔蛇、のようなものだった。しかし明らかに胴体が太いし、鋭い爪を備えた脚が二対あるし、極めつけにふさふさしたたてがみと、その中から覗く短い角のようなものまである。ついでに言うなら、蛇は甲高い声で可愛らしく鳴いたりしない。

英莉の手にすっぽり収まるくらい小さいが、これはどう考えても――

「なんで木蓮から龍が出てくるの……!?」

「ああ、やっぱりそうか。落雷で火事が起きたっていうから、もしかしたらと思ったんだ。英莉さんは聞いたことない? タツノオトシゴ」

「一応あります……けど、あれって海にいるし、別の生き物なんじゃ」

「あれ自体はね。でも、龍が自分の子どもを下界で孵すってのは本当なんだ。種類によるけど、時季は大抵春になる」

龍が移動すると雲が立ち、風や雨や雷が起こる。それに乗って降りてきた龍の仔は、地上でさまざまなものに宿ることになる。それは山中にある大きな岩であったり、あるいは樹齢数百を数える巨木であったり、時には人が作った像であったりと多種多様だ。大半はそうした無機物が『器』になるのだが、

「本当に珍しいんだけど、人間そのものに宿ってしまうことがある。その場合、『器』になるのは幼い子どもとか、若い女性とかが多いらしい」

「ですから、落雷時にたまたまそばに居たお母様と、そのお腹の中にいた英莉さんが役目を果たすことになったのでしょう。貴方、どうかしら」

『うきゅ』

さり気なく補足してくれたマダムの言葉に、すっかり手のひらで寛いでいる仔龍が元気よくうなずいた。生まれたばかりだというのに人語を解するらしい。普段なら全力で驚いて叫ぶはずだが、ここまで驚愕の連続だった英莉の心臓は若干麻痺していた。良いお返事をする小動物を見て、純粋に『あ、お利口。かわいい』と思うばかりである。

というか、今は害のない仔龍より、もっと率先して確認せねばならないことがあるのだ。

「……じゃあ、この子がさっきの痣、なんですね? 無事に生まれてきたなら」

「うん。もう二度と出てくることはないよ。おれが上手いこと介助出来てよかった――って、英莉さん!?」

『きゅー!!』

「~~~~……っっ」

皆まで言うのを待たず、突如ぼろぼろと涙をこぼし始めた英莉に、カイルと仔龍がそろって慌てふためく。申し訳ないと思ってはみるが、自力で止めるのはほぼ不可能だった。

(よかった、勇気出して外に出て! たまたま不思議で優しい人たちに会えて! この小さい龍さんもちゃんと生まれて来れて、ホントによかった……!!)

これでもう、周りの人に心配と迷惑をかけなくて済む。天気のいい日に家族と一緒に出掛けられる。もしかしたら学校にだって通えて、同じ年頃の友達が出来るかもしれない。

必死で堪えつつ、やはりしゃくり上げてしまう英莉の頬に、そっと触れたものがある。涙で霞んだ視界に、白い手巾と思しき布で顔を拭ってくれているカイルが見えた。眉を八の字にしたその表情が、今までになく情けないことになっていて、思わず泣きながら笑ってしまう。あんなに頼もしかったというのに、なんだか可愛らしい。

そんな微笑ましい光景を見守る店主の背後が、にわかに騒がしくなった。人力車の車輪が軋んで止まる音に続いて、礼を言う声とばたばた、という忙しない足音が混ざって近づいてくる。危険な部類のものではなさそうだが……

「――英莉ー!! ここかーっっ」

「ご無事っすか英莉さーん!!」

「おい待て、お前ら人んちの敷地で……」

「あっ、おーちゃん!」

「おーちゃん?」

「はい、わたしの従兄です。楝汰だからおーちゃん。あっちの二人はお友達で、伯父さんのとこの書生さんです」

「ごめん人前でその呼び方は止めて!! さすがにちょっとだけ恥ずかしいからッ」

ついでにさっき、カイルが出会いがしらに撃退した追跡者なのだが、その辺はわざわざ説明しなくてもいいだろう。なんせきっちりツッコミを返した楝汰、わりと当世風の男前だと評判の顔立ちが台無しになるくらい、それはもう険しい表情をしているのだ。その原因はというと、

「やいてめぇ、俥引きの兄さんから聞いたぞ! 俺らが立ち往生してた隙に、まんまとうちの従妹かどわかしやがって!!」

「かど……いや、誘拐はしてないぞ。道案内はしたけど」

「やかましいわ!! 百歩譲ってホントだったとして、その体勢からどう発展させる気だー!!!」

「発展て何ー!?」

どうもなにも、単に涙を拭いてもらってただけですが!?

あまりの剣幕に口を挟もうとして挟みきれず、もうこうなったら直接額を見てもらうしかないと、若干混乱しつつ前に出ようとしたとき、

『うっきゅー!!!』

ばりばりばりばりばりばり!!!

「「「あ゛~~~~~~っっ!?」」」

「きゃーっ、おーちゃんー!!」

ずっと大人しくしていた仔龍が高らかに鳴くと、突如降り注いだ稲妻が楝汰と友人たちを直撃。すぐに消えたものの、思い切りくらってしまった若者三人はその場にひっくり返ってしまった。瞬間的な電流で焦げたらしく、目を回した全員の髪がちりちりもこもこになっていて、まるでパーマネントを当てたどこぞのご婦人みたいな状態だ。さり気なく近寄って脈を取ったマダムが淡々と言ってくる。

「大丈夫、命に別状はなくってよ。ただの威嚇だったようですね」

「威嚇? って、この子には何もしてないのに」

「ずうっと貴女の中にいたんですもの、母親のように思っているのでしょう。生まれた時、目の前にいたカイルも同じことですわ。因縁をつけられていれば、当然助けようとするでしょうね」

『うきゅ!』

「……ああ、刷り込みですか。そりゃあ従兄さん達に悪いことしたなぁ」

ことにあとの二人は完全に巻き添えだし、申し訳なさもひとしおである。頬をかくカイルにしかし、ここの主は至って前向きであった。

「あら、ちょうどいいじゃありませんか。英莉さんの痣が消えたことと、そのいきさつも教えてさし上げられてよ? いい機会だし、貴方もこの機会に顔を売っておきなさいな。魔術師はいざというとき、信用と伝手の広さがモノを言うのですし」

「それはまあ、はい。仰る通りです」

「なら決まりですね。さ、こちらの哀れな被害者たちを室内に運びますわよ。……ふふふ、こんなにたくさんお客様がいらっしゃるなんて何時ぶりかしら?」

心なしか弾んだ声で、楝汰の襟首をがっちり掴んで引きずっていく黒づくめのマダム。その姿はご店主というより、小さい頃読んだ舶来の絵本に出てくる魔女そのものなのだが……いや、まあ、悪い人でないのは確かだし。ちゃんと手当もしてくれることだろう。うん。

若干の不安を覚えつつ、ふと見上げた先には、同じようにちょっとだけ心配そうな顔をしているカイルがいる。英莉の視線に気づくと、またいつもの穏やかな笑顔で片手を差し出してくれた。

「ごめんな、もう少しだけ付き合って。――では参りましょうか、お嬢さん!」

「はいっ。喜んで!」

今度こそ、自分に出来る最高の笑顔で応えた英莉の髪を、柔らかな春風が撫でていく。

美藤堂の庭に咲き誇る花々の香りと、にぎやかなやり取りを掬い上げて、暖かな風は居留地の海へと流れていった。

ー完ー