• 『地方銘菓で糖分を』

  • 斎木マコト
    お仕事

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    地方銘菓が大好きな友部理子が務める世田谷の小さなデザイン事務所「羊進円」。 スタッフは皆、独身で変人。そして甘いものが大好き! 毎回、地方銘菓を巡って事務所内で騒動に…。 甘くない恋愛&お仕事小説。

第1話 萩の月編 午後3時のミステリー 前編

白いカップにコーヒーを注ぐたびに、友部理子は心にトゲのようなものが刺さる。

表面はつるんとしたやけにツヤっぽい陶器で、見るからに安っぽい。きっと百円ショップか何かで買ったのだろう。経理の石井さんに聞いたらそれは当たりで、二年前に十セットを百円ショップで買ってきたが、割れたり欠けたりして、残ったのがこの六セットだという。ちなみにソーサーは一枚多くて七枚ある。

来客用なのでこのコーヒーカップの稼働は週に二、三回といったところだろう。そうだとしても、この事務所のスタッフも来客と一緒に打ち合わせで同じカップを使うのに。カップ一つでコーヒーの味は変わるのにと理子は心の中がモヤモヤする。

コーヒーを注いだその安物のカップとソーサーをトレーに三客並べ、こぼれないように気をつけながら理子は隣の会議室に運んだ。
会議室といっても八平米ほどの狭い空間にダイニングテーブルとパイプ椅子が肩身狭そうに並んでいるだけだ。

クライアントの中年男性と、その向かいに座る社長の伊藤さん、クライアントに説明している桜井さん。その前に理子はコーヒーをそっと置いた。小太りで毛髪の寂しいクライアントの男性が、理子に「ありがとう」と軽く頭を下げる。
会議室から戻ってきた理子にデスクの前で貧乏ゆすりをしていた中野さんが

「理子ちゃーん、俺にもコーヒーついでに入れて」 
と、声をかける。「あ、はい」と答えながら理子は心の中でため息をついた。

アシスタントとはいえ、自分がやっているのはほぼ雑用業務だ。いつになったら商品企画やデザインの仕事をさせて貰えるのだろう。そう思いながら中野さんのマグカップにコーヒーを注いだ。

理子がアシスタントを務める「羊進円」は、世田谷の桜新町にある古いマンションの一室をオフィスにしたデザイン事務所である。
オフィスといっても2DKで一間をスタッフ達が作業をするフロア、その隣の一間を会議室に使っている。

羊進円のホームページには『文房具、グッズの企画開発 デザイン』と書いてある。
そこに載っていたアシスタント募集の告知を見て理子は応募したのだ。

しかし、実際は文房具といっても、ロフトで売っているようなお洒落なものではなく、主に企業の「創業○周年記念」などで記念に配る文房具や、イベントで配布するノベルティグッズをデザインして作っている。
以前は自社でマスキングテープや付箋を作っていたが、今はやめてしまったのだ。

「理子ちゃん、このコーヒー、煮詰まってるじゃん」
中野さんがマグカップを手に苦い表情を浮かべる。

そのマグカップは昭和の有名なロボットアニメのキャラクターがプリントされたものだった。中野さん曰く、かなりレアなマグカップでネットでは数万の価値があるという。三十六にもなって子供っぽい趣味だなと理子は呆れてしまう。だから未だに独身なのだ、なんて意地悪な事を考える。しかし、この中野さんが事務所で一番の売れっ子だから、不思議なものだ。

でも中野さんだけではない。「羊進円」に所属する五人は皆、独身なのだ。 
四十五歳の社長の伊藤さん、三十六歳の中野さん、三十二歳の八木さん、二十八歳の桜井さん。
面接の時、二十六歳の理子に社長が「僕は独身主義なんだけどね、他の奴らは皆、独身でいい相手がいないのよ。理子ちゃん、良かったら結婚相手に考えてあげてね。でも、うちは一応、社内恋愛は禁止だからね。付き合うなら事務所をやめてね」

なんだそれは。付き合っていいのか、悪いのか。
理子は頭の中がパニックになった。
と、同時に彼氏いない歴が三年で、アラサーになった理子は結婚を前提にした彼氏が欲しかったので、内心、どんな人が事務所にいるのか期待していた。

しかし、働き始めて一ヶ月が過ぎその期待は泡と消えた。羊進円のスタッフは皆、変わった人ばかりだからだ。

「理子さんさ、領収書ある?あったらすぐ出してね」

経理の石井さんが無表情で理子に声をかける。唯一デザイナー採用でない石井さんは三十四歳、独身。いつもジーンズに青いチェックのシャツを着て、髪はボサボサでノーメイク。スカートを履いたところを理子は見たことがない。

他のスタッフには笑顔だが、理子には笑顔を見せない。理子も気まずいので必要最低限な事以外は石井さんに話しかけないでいた。
理子が羊進円に入るまで石井さんは唯一の女性スタッフだったから、紅一点のポジションではなくなって面白くないのだろうと理子は思っている。

そんな石井さんが使っているマグカップは以前、ある学習塾の卒業生に送るグッズとしてこの事務所で作ったものだった。表に鉛筆マークのキャラと『祝 卒業』とゴシックフォントでプリントされており、お世辞にも可愛いとは思えない。というかひどい。石井さんは多分「使えれば何でもいい」という考えなのだろう。そんな石井さんは社長が十年前に羊進円を作った頃からいる、唯一の創業メンバーなのである。

「奥のお客さんて、毎年来ている仙台の?」

中野さんが石井さんに聞くと「そ」と無表情で一文字だけで答える。中野さんは石井さんより二つ年上だが、理子から見たら部下のようだった。それほど羊進円のスタッフは皆、石井さんに一目置いているのだ。
それもそうだ。石井さんの機嫌一つで経費として落ちるか落ちないかが決まってしまう。やはり、財布を握られているのは弱いのだ。

会議室のドアが開く音がして、三人の廊下を歩いてくる足音が近づいてくる。

「お邪魔しましたー」

クライアントが作業フロアの入り口に顔を出して目を細める。
スタッフ一同、頭を下げる。「じゃ、僕、ちょっと品川まで送っていくから」と社長が声をかけてクライアントと一緒に外に出て行った。
桜井さんが手にした紙袋を理子に渡した。

「これ、差し入れに貰ったから。理子ちゃん、配って」

受け取った理子は、紙袋の中から箱を取り出す。『菓匠三全 仙台銘菓 萩の月』とある。

「わ、萩の月だ!」

思わず声に出してしまった。

「子供じゃないんだから」

桜井さんが苦笑する。

「関野さんの差し入れっていつも萩の月だよね。まあ、仙台から来てるからテッパン土産だけど」 

「たまには牛タン弁当とか、ずんだ餅とか変化球が欲しいよなー」

石井さんに中野さんがパソコンのデスクトップ画面を見つめながらこぼす。

「関野さんて、毎年ビニールファイルとメモパッドのデザインを発注される方ですよね?社長と地元が一緒の」

ずっと黙っていた八木さんが回転椅子ごと振り返り、無表情で言った。八木さんは黒フレームの眼鏡をかけていて、何を考えているかよく分からないが、理子を始め誰に対しても態度は丁寧で一定だった。

「そうそう。社長とは学生時代からの長い付き合いなの。だから挨拶兼ねてわざわざ仕事を頼んでくれるんだよ」

「今年はビニールファイルとメモパッドだけでなく、プラス、エコバッグが加わりました。ノベルティでお客様にプレゼントとかで」

桜井さんが作り笑顔で石井さんに答える。その目が笑っていない。桜井さんは羊進円のメンバーの中で驚くほど愛想がいい。羊進円に来る前は、健康食品の営業をしていたそうだ。その愛想とコミュ力を買われて、クライアントとの打ち合わせに社長が良く同席させている。

「そのエコバック、桜井が担当するの?」

石井さんの質問に「もちろんす!」と桜井さんが笑顔で答える。

「桜井、正念場だな。ここで変なもの作ったら大口クライアント逃す訳だから」

中野さんが意地悪な笑みを浮かべて桜井さんにはっぱをかける。

「プレッシャーかけないで下さい」

桜井さんが笑顔で自分のデスクに戻る。
理子はうっとりしながら箱の包み紙を開けていく。皆の会話など頭の中を素通りだ。
地方銘菓の王者、萩の月。
箱の蓋を開けると、中に小さな箱が八つ並んでいる。
ボックス イン ボックス。
これが萩の月が他の地方銘菓と比べて少し格上をアピールしているところだと理子は思う。

小さな箱に描かれた着物姿の女性がうっすらと笑顔を浮かべている。しかし、その視線は理子に向けておらず、少し外しているのが奥ゆかしい。
理子はスタッフ、一人一人のデスクに萩の月の箱を置き、残った三つを冷蔵庫の中に入れた。萩の月は冷やしてもクリーム部位が少し硬くなって美味しいのだ。

果たして自分はどう食べようか。家に戻ってから美味しいコーヒーをハンドドリップで入れてゆっくり頂こうか。それとも緑茶がいいかなあ。そのまま食べてもいいけど、凍らせて食べると、卵の味が濃いテイストのアイスクリームのようで美味しいのだ。

理子は萩の月の箱をそっと自分のデスクの片隅に置いた。

「萩の月って、一つ一つ箱に入っていてさ、過剰包装だよな」
信じられない言葉に振り返った理子は更に信じられない光景を目にした。

中野さんが渡されたそばから、萩の月を箱から取り出し、大口で齧るように食べだしているのだ。まるでスナック菓子を食べるように、あっという間に全部、口の中に入れて飲み込んでしまった。

その間、三秒。
犬のような早食い。「味わう」という感覚が中野さんにはないようだった。
勿体無いなあ。ちゃんとお茶を入れて大事に食べればいいのに。だって萩の月は東京では売ってない。たまにデパートの催事でしか扱ってない希少なお菓子なのだ。

理子はどうしても萩の月が食べたくなって、東京駅に買いに行った事がある。
東京駅には日本全国の美味しいものが集まっているから、てっきり萩の月は手に入るだろうと思っていた。しかし、東京駅の菓子メーカー「菓匠三全」のお店では、「萩の月」は売っていないという衝撃の事実を目の当たりにした。

唯一、他のお菓子と盛り合わせのセットの中に二つだけ「萩の月」が入っている商品があった。萩の月二つの為に、盛り合わせセットを買う贅沢は、東京で一人暮らしを始めたばかりに理子には出来なくて、泣く泣く諦めたのだ。
そんな事、中野さんは知らないんだろう。雑な食べ方を見て思う。

「箱なしの萩の月も売ってますよ。その分、ちょっとだけ料金が安いの。俺、昔、仙台駅で見たことあります」

「ふーん」

桜井さんの話に中野さんは興味なさそうに聞いて、煮詰まっていると理子に文句を言ったコーヒーを一気に飲み干した。
分かっていない。この男は分かってないと理子は思った。萩の月は、一つ一つが箱の中に入っているのが尊いのだ。

例えばお土産で貰った地方銘菓をその場で食べず、家に持って帰る場合、バッグの中に入れると、家に帰った頃にバッグの中で泳いでいるからか、潰れている事が多い。餡子やクリームがはみ出していたり、クッキーだと粉々になっていたり。それを見た時の落胆ぶり。地方銘菓の魅力の一つは見た目である。それを損なわれたら味が半減だ。

萩の月は、一つ一つが箱に入っている事でその脅威から免れていると理子は思う。

「それと萩の月のアウトレット商品っていうのがあるんですよ」

「アウトレット?」

思わず頭のてっぺんから理子は声を出してしまう。そんなの初耳だ。

「この『萩の月』を作ってるお菓子メーカーの工場があって、そこで製造過程でダメになった萩の月を安く売ってるんですよ」 

桜井さんが萩の月を小さく契りながら食べている。

「この中身のクリームとか飛び出ちゃった奴とか。味は全然変わらないけど、『萩の月パンク』って名前つけて売ってるらしいですよ」

萩の月パンク…。工場という名の人生のラインから外れ、非行の道に走り、着物から大量のスタッズがついた革ジャンに着替えた女の人を想像してしまう。

桜井さんは食べ終わった萩の月の箱をグチャッと潰してゴミ箱に投げる。
理子はまたしても驚く。萩の月の箱を軽々しく捨てるなんて!
理子はお菓子の包み紙やパッケージを大事に大事にとっておいてある。だってそれだけで一つのアート作品のようではないか。
と、そこに「ただいま〜」と社長が戻ってきた。

「理子ちゃん、コーヒー入れて。それと萩の月と一緒に会議室まで持ってきて。打ち合わせしよ」

「あ、はい」
打ち合わせって何だろう。怪訝に思いながら理子がコーヒーメーカーに新しく豆をセットしようとすると「桜井!」という怒鳴り声を背後に聞いて驚いて振り返る。

第2話 萩の月編 午後3時のミステリー 後編

「はい?」 

桜井さんが社長の剣幕に驚いて真顔で答える。 

「なんでお前は名刺を財布の中に入れてるんだ?それでもお前はデザイナーか?俺に恥をかかせやがって!」 

いつもの和やかな社長と打って変わってヒステリックな態度。
そう、羊進円の社長である伊藤。ついさっきまでニコヤカにしていたと思ったら、い きなりキレる山の天気のような変化の激しい感情を持っている。 
まるでジキルとハイド。 

理子は最初、驚いて羊進円で働き始めた事を後悔したが、怒りが過ぎるとケロリとにこやかになって後腐れはない。スタッフ達もあまり重く受け止めていないようだった。 

「いや、俺、ミニマリストなんで。名刺入れは持たない主義なんです」 

「デザイナーがミニマリストを売りにするな!センスない奴がミニマリストになるんだよ。ちゃんと持てよ名刺入れ。持てよ。あ、これパワハラ?俺、パワハラしてる?」 

めちゃめちゃパワハラしてる。そう思う理子だったが、もちろん口には出さない。 

「分かりましたよー」 

社長に怒鳴られた桜井は慣れっこなのか、流すように答える。 
「ち」と分かりやすい舌打ちをして、社長は会議室に入っていった。 
コーヒーを再び安物カップに注ぎながら、理子はこの後、会議室に入るのは地獄だな…と気が重かった。しかし、いざ、コーヒーを持って会議室に入ると、社長が満面の笑みで理子を迎えてくれる。 

「おー、萩の月を待っていたよー」 

この変わり身の早さ。さっき目を三角にして桜井さんに怒鳴っていたのは、幻だったのかと理子は頭の中がクラクラする。 

「理子ちゃんは『萩の月』もう食べちゃったの?」 
理子がコーヒーだけなので、社長は不思議そうな顔で聞いた。 

「私は家に持って帰って食べようと思いまして」 

社長は一瞬、目が点になり大笑いする。 

「そんなの、もう一個食べればいいじゃない。余ってるでしょ?」 

確かに頂いた萩の月は八個入りなので、羊進円のメンバー全員に行き渡った後は二つ余る事になる。 

「でも、それは新たに事務所を訪ねてくるクライアントにお出しするものなんじゃ…」 

そう言う理子に「それは来た時に考えればいいんだよ。この辺、洋菓子店いっぱいあ るんだから。うちは、大して儲かってないけど、そこまで経費使えない訳じゃないからね」と呆れた調子で言いながら、箱から萩の月を取り出してビニール袋を開ける。 

「いえ、せっかくですけど、私はコーヒーだけで」 

萩の月のような地方銘菓は一日に、二つ三つ食べるものではない。 
たった一つだけだから尊いのだ。 

まずは地方銘菓と一緒に味わった時、マリアージュが生まれるような飲み物を用意する。パッケージを愛で、期待値が上げていく。そっと袋を開けてお菓子自体の形をまた愛でる。そして一口頂き、甘さの質、食感、風味を全身で堪能しながら、飲み物を一口含み風味を倍増させる。そう。地方銘菓を味わうという事は、一つの儀式なのだ。 食べ終わった後「ああ、もう一つ食べたい」と後引く思いを残す。その余韻が尊いのだ。嗚呼、早く帰ってコーヒーを入れて萩の月食べたいよ! 

「どう?うちに来て一ヶ月になるけど、仕事は慣れた?」 

社長の言葉で、うっとり妄想中の理子は現実に引きずり戻される。見ると、社長の萩の月は既に咀嚼されて社長の体内におさまっているようだった。はや!理子は驚く。 

「そうですね。でも、皆さんの役に立っているか、正直まだよく分からなくて」 

「うちの奴ら、変わってるからねー」 

それは社長もですよ、という言葉を理子は慌てて飲み込んだ。 

「萩の月、美味しい!まだ余ってる?もう一個食べたい!」 

社長はにこやかに言う。 

「え、あ、はい…」 

あまりにも大人気ない申し出に理子は虚を突かれるが、キッチンの冷蔵庫の中から残った二箱のうちの一箱を取って、再び会議室に戻った。 

「ありがとうー。久々に食べるとうまいよね」 

  社長は二つ目もあっという間に食べてしまう。 

「社長は出身、仙台なんですよね?」 

「そうそう。でも地元にいる時はさしてありがたみも感じないものなんだよね」 

そうかもしれない。スカイツリーの近所に住む人はスカイツリーに滅多に登らないように。 

「理子ちゃんさ、この事務所でやりたい事はある?」 

「それはもちろん、デザインの仕事がやりたいです」 

「まあ、それはおいおいね」 

社長はニコニコして言う。おいおいとはいつの事なのだろう。 

「とりあえずさ、やってみたい事、作ってみたいもの、まとめて今度みせて」 

「あ、はい」 

採用されるのかなあ。でも、チャンスはチャンスだと理子は思う。 

「他、うちの事務所で気になる事ある?改善点っていうかさ」 

全部です。と答えそうなところを理子は慌てて飲み込む。 

「コーヒーカップ…」 

「え?」 

「来客用のコーヒーカップ…」 

「ん?」 

「皆さんが個人的に使ってるカップはいいと思うんですよ。でも、来客用に出すカップがあまりにも百均丸出しっていうか、安っぽいっていうか…」 

ピンときてない社長に理子は尚も続ける。 

「ほら、さっき桜井さんに名刺入れの件で社長も言ってたじゃないですか。デザイン事務所のコーヒーカップが百均ていうのはちょっと。カップが素敵だとコーヒーの味も美味しく感じますよ!」 

「理子ちゃん、コーヒー好きなわけ?」 

「はい。たまに自宅では豆から挽いてハンドドリップで入れたりするんです。休みの日はよくコーヒーの美味しいお店に行ったりして味を比べたり」 

社長はニコニコと目を細めて「じゃあさ」と口を開く。 

「理子ちゃんを羊進円のカフェ係に任命するよ」 

「は?」 

「事務所の経費でハンドドリップ用のセットとか、コーヒー豆とか買って美味しいの入れてよ。あと、そんなに来客用のコーヒーカップが気になるならそれも事務所の経費で買っていいよ。石井に言ってさ」 

「え、あ、はあ…」 

「うちの事務所の福利厚生の充実は理子ちゃんにかかってるよ!よろしくね!」 

なんだそれ。曖昧な笑顔を浮かべて理子は会議室をあとにする。打ち合わせってこれ? 
デザインの仕事じゃなくって、余計な仕事を増やしてしまったような…。 
判然としないまま、作業フロアに戻ってきた理子は自分のデスクの前に座る。 
とりあえず商品企画をまとめて、カフェに必要な商品をいくつかあげて石井さんに予算を相談するか。理子は忘れないようにメモ帳に書き、デスクの上に置いていた萩の月と一緒にトートバックしまおうと手に取った瞬間、あれ?と手が止まった。 

萩の月の箱が軽いのだ。慌てて箱の中を開けてみると中は空だった。 
どういう事?びっくりして理子はしばし止まってしまった。え?誰か、取り出して食べたって事?え、まさか…そんな、いい年してそんな…。いや、でも…。 
理子は振り返って作業フロアにいるスタッフを見る。皆、各々、作業をしている。 

石井さんは理子が配った時、すぐにバッグの中に入れた。石井さんは糖質制限をしていて、積極的に甘いものを食べていない事を理子は知っている。 
中野さんはさっき萩の月を犬のように一気喰いしてしまったから、あの調子でもう一つ食べてしまった可能性はある。 
桜井さんはやけに萩の月情報に詳しかったから、好物なんだろうなあ。 
八木さんを見るとベランダに出てタバコを吸っているようだった。でもデスクの上には萩の月の箱があった。未だに食べていないようであった。 

という事は、犯人は中野さんか桜井さん…?って、私ってば人を疑って最低だと理子は一瞬、反省する。でも、実際に箱の中は空だからなあ。 
理子は一回、心を落ち着けようとキッチンへ行き、冷蔵庫の中を開ける。すると、最後の一箱がなくなっている。思わず「あ」と理子は声をあげてしまう。 
その声にスタッフ一同、理子の方を見る。 

「どうしたの?」 

石井さんが声をかける。 

「あ、いえ。残りの二つの萩の月がなくなってて。一つ、社長が食べてあと一つ残ってはずだったんですけど」  

「あ、俺、食べちゃったよ」 

そう答えたのは桜井さんだった。  

「食べたかった?でも理子ちゃん、まだ食べてないじゃん」 

桜井が理子のデスクの上にある萩の月の箱を指差す。 
でも、その中は空っぽなんですけど。理子は全くもって解せない。 

「ごめんね、これ、欲しかったの」 

桜井、萩の月の箱を見せる。 

「さっき捨てちゃったからさ」 

「なんで?」 

中野さんが真顔で桜井さんに聞く。 

「私、羊進円の桜井と申します」 

桜井さんはおもむろに立ち上がり、中野さんに向かって萩の月の箱を開けて名刺を取り出した。 

「はあ?」 

中野さんが呆気にとられる。 

「名刺入れにしようと思って。これならクライアントの受けもいいじゃないですか」 

「あんたね、クライアントが菓子メーカーだったらどうすんのよ?」 

「それはケースバイケースで使ったり、使わなかったりですよ」 

理子は三人の話を脱力しながら聞いていた。変な人だなあ。うちの事務所の人たち。 
でも、とりあえず桜井さんが容疑者ではなくなった訳だ。じゃあ、一体、誰が? 
理子は机の上に置かれた空の箱を手にした瞬間「わ!」と落として立ち上がる。 
皆、驚いた表情で一斉に理子を見る。 
空だった箱が重いのだ。理子は恐る恐る蓋を開ける。 

「は、入ってる!」 

なくなっている萩の月が再び戻っていたのだ 。一体、これはどういうこと?たった数分のうちに何が起こったのか? 
この萩の月、神隠し現象。 

「そりゃ入ってるだろ」 

「え、それってギャグ?」 

中野さんと桜井さんが理子を見て言う。訝しげな表情だった。 

「あ、いや。でも、さっきはなかったから…」 

理子は尻つぼみ気味に答え「あ、なんでもないです。すいません、忘れてください」 
と、作り笑いを浮かべて坐り直す。 
どうなってるの?理子は萩の月の箱をトートバッグの中に入れる。 
そして腕組みをして考える。 

何、このミステリー。 
どんなトリック? 
誰が犯人? 
ただのいたずら? 

もしかしてアガサクリスティの「オリエント急行殺人事件」のように、この事務所の人間が皆、犯人? 
でも、何の為に? 
私の萩の月の中身を抜き、再び戻す。それに一体何の意味が? 
もしかして、何かの儀式? 

私ったら、本当にとんでもない事務所に入ってしまったのかしら。 
私の人生、どうなっちゃうの 

パニックの理子の瞳に涙が浮かんでくる。そんな理子の腕にボールペンで突く感触があった。振り返ると八木さんだった。無表情でボールペンで理子の腕をつついている。 

「な、なんですか?」 

「これ」と八木さんがスマホ画面を見せてくる。それは、羊進円のインスタのアカウントだった。八木さんが担当しているのだ。 

『先ほど、クライアント様から仙台銘菓萩の月を頂きました。スタッフ一同、美味しく頂きました。後半戦、仕事、頑張ります』 

という投稿と一緒にベランダのテーブルの上に置かれた萩の月の箱と、ビニール袋に入った萩の月の二枚が、投稿されている。 

「自分の食べてから気付いちゃって。さっき友部さんの萩の月の中身勝手に借りて、ベランダで撮って戻しておいた」 

「え?」 

「一言、言っておこうと思って。事後承諾でごめん」 

そう言って、八木さんは自分のデスクに戻った。理子は唖然となる。本当に変わった人達だ。誰一人、普通の人がいない。そもそも普通とは何なのかも分からなくなる。 
自分のスマホで羊進円のインスタアカウントを見る。 
フォロワー数は29人。全部、仕事関係者らしきアカウント。デザイン事務所のインスタにはあるまじ、デザイン性皆無。記録的な萩の月の写真。しずる感も皆無。 
それはそれで、理子には新鮮に感じた。

第3話 赤福編 午後2時のプロレタリア 前編

「これ、どういう事よ?」

石井さんの尖った声がデザイン事務所「羊進円」の作業フロアに響く。

「え、どういう事って」

友部理子は石井さんの硬いリアクションに戸惑った。

「なんでこんなもの買う必要があるのよ」

 理子が送ったメールを見て石井さんが言った。そのメールには理子が事務所の経費で購入予定の商品のリストが添付してある。
昨日、睡眠時間を削って理子が選び探したのだ。眠いけど楽しい時間だった。自分のお金では買えない欲しかったもの、憧れのものを事務所のお金で買えるのだ。

「え、社長から聞いてませんか?」

「何を?」

「羊進円カフェを作ってくれって頼まれて」

「はあ?」

石井さんが大声をあげたので、作業フロアの皆が理子に注目する。

「何よ、羊進円カフェって」

「事務所の皆さんがハンドドリップのコーヒーを楽しめるような環境を整えて欲しいと、この間の打ち合わせで社長に言われて…」

「へー、楽しそうじゃん」

桜井さんがパソコンをいじる手を止めて言った。

「何でコーヒーメーカーがあるのに、ハンドドリップで淹れなきゃいけないのよ」

「あ、味が全然違うんですよ。同じ豆でも。時間はかかりますけどね」

石井さんに理子が必死に訴える。

「確かにそうだよなあ。よくさ、髭をたくわえたシルバーヘアのマスターがいる純喫茶あるじゃん。ああいうこだわりマスターが入れてくれたコーヒーうまいもんなあ」

意外や、中野さんが加勢してくれる。

「理子ちゃんがこだわりマスターになって入れてくれるんだ」

「それはセルフでお願いします」

「何だ、それじゃあカフェじゃないじゃん」

当然だ。セルフでいちいち事務所の人にコーヒーを入れていたら、他の雑用ができなくなる。デザインの仕事に取りかかれるのは半永久先になってしまう。

「勝手に盛り上がらないでくれる?こっちは社長から何も聞いてないよ」

石井さんはため息をつく。

「それにさ、何でこんな高いものばっかり買うわけ?コーヒードリッパーとドリップポットとコーヒーミル、それとカップとソーサーを8客セットで八万四千円てどこのぼったくり業者よ」

「ぼったくり業者って!それ、アラビアですよ」

理子が声を尖らせると、八木さんがメガネのレンズを光らせて言った。 

「アラビアって北欧の食器のメーカーの?」

「はい。色々値段を比べて一番安い奴を探したんですよ」

「好きだねえ、女の子は北欧が」

中野さんが馬鹿にしたように言う。

「アラブだか北極だか知らないけど、そんな高いもの買わないで百均とメルカリで一万以内で揃えられるじゃん」

石井さんがイラついた調子で理子を見る。

「でも、羊進円はデザイン事務所ですよ。デザイン事務所でお客様に出すお茶のカップが百均というのは…」

石井さんの目が更に釣り上がる。 

「悪かったわねえ。センスなくて。百均で買っちゃってすいませんねえ」

「あ、そう言う意味じゃ。でもあの、社長が任せると言ってくれたので…」

「あれ?社長、いつ帰ってくるんですか?遅いですよね」

桜井さんが石井さんに言う。桜井さんはいつも石井さんの機嫌を取るような気の使い方をする。いつも無愛想でつっけんどんな石井さんも桜井さんには心を開いているようだ。流石は羊進円のムードメーカーである。

「やっと新幹線、動いたって。一時間前にLineが来た」

 石井さんはスマホの画面を見ながら答える。
社長は大阪に出張していたが、新幹線が人身事故で遅延していたのだ。 
理子はなんとなく、それから石井さんと交渉できずに一旦引き下がる事にした。これは社長がいる時に話さないとダメだ。

デスクに戻って、理子はネットに落ちている画像から昭和風のキャラクターをピックアップする。桜井さんから頼まれていた作業だった。
桜井さんはあるゲームソフトのポスターをデザインしていた。双六ゲームなので、昭和レトロなイメージのデザインでいくつかパターンを考えているのだ。
そのゲームソフトの会社は大手なので、桜井さん的には大きな仕事で気合いが入っていた。
画像をピックアップするだけだったが、理子にとって昭和のデザインや色使いは新鮮で集めるだけでも楽しかった。

「お疲れー」
社長が帰ってきた。

「参ったよー。三時間閉じ込められた、三時間!大阪から品川まで五時間もかかったよ。パソコン持っていきゃ仕事できたのになー」

作業フロアの中央デスクの上に、社長が荷物をドサっと無造作に置いた。

「グリーン車じゃないからケツ痛いよ、ケツ」

「どうして遅延したんですか?故障?」
中野さんが聞く。

「どっかの馬鹿が飛び込んだんだよ。こっちは忙しいのに。あ、理子ちゃん、コーヒー入れて、コーヒー」 

「はい」

飛び込んだという事は自殺という事か。こういう時に人は冷たいものだなと理子は思う。アカの他人の生死より自分の仕事が遅れる方が一大事なのだ。
そんな事をボンヤリ考えながら理子はコーヒーメーカーをセットして、社長のマグカップを探す。
社長のマグカップはディック・ブルーナのウサギが持ち手に付いているものだ。一般では売っておらず、ディック・ブルーナ美術展でのオリジナルグッズだという。

「あ、理子ちゃん、俺のも」

すかさず中野さんが頼んでくる。

「はいはい」

理子は中野さんのロボットアニメのキャラのマグカップを用意する。
つくづく仕事場で使うマグカップは本人のキャラクターを表していると理子は思う。
理子は以前、地元の雑貨メーカーに勤めていた。そこの職場は女性ばかりだったので、流行りのゆるキャラやフランフランのようなシックな雑貨メーカーのカップなどで、各々がセンスや個性を主張していた。石井さんのような塾のノベルティグッズなどありえない話だった。

「あれ?ハンドドリップで入れてくれないの?」

社長が理子に突っ込む。

「え?」

「言ってたじゃない。羊進円カフェをオープンしてくれるって」

「あー」

 理子はなんと答えていいか詰まっている。

「あ、その話、本当だったんですね」

と、桜井さんが助け船を出してくれる。

「さっき、理子ちゃんが石井さんにカフェグッズの見積もりを出してたんですよ」

「お、早速?いくら?」

「八万四千円です」

理子がおずおずと答えながら、社長と中野さんにコーヒーカップを出しながら答える。

「お、いいんじゃない。楽しみだね」

社長はコーヒーを飲みながら答える。

「え?高すぎませんか?コーヒードリッパーとドリップポットとコーヒーミルとカップとソーサーのセット。それで八万四千円ですよ」

石井さんが物凄い勢いで社長に言う。

「それだけおしゃれな羊進円カフェが出来るって事でしょ?いやあ、楽しみじゃないの」

社長は目を波打たせながらコーヒーを啜る。
その場の一同が石井さんを見つめる。石井さんはムッとした表情のまま回転椅子をクルッと回して背を向けた。

「それだけ投資するんだからね。楽しみにしてるよ、羊進円カフェ」

「はあ」

理子は社長のプレッシャーに曖昧な笑みを浮かべる。

「あ、ところでさ、皆、これお土産」

社長は紙袋からピンク色の折詰を取り出した。

「わ!赤福だ!」

理子は思わず声を上げる。

「だからさ、理子ちゃん。子供じゃないんだから」

桜井さんが苦笑する。
しかし『伊勢名物 ほまれの赤福』とプリントされたそのピンク色の包み紙はかなり歪んで破れている。
社長はその包み紙を笑いながら剥がして言った。 

「ごめーん、新幹線が停まってる間さ、腹減っちゃって僕、半分食っちゃったの」

社長が蓋を開けると中の赤福が半分ない。

「あー、赤福あるあるですね。途中で腹減って新幹線の中で食っちゃうっての」

中野さんが苦笑しながら言う。
十二個入りのうち、半分なくて底が半分見える。しかも隅っこにどっちゃり寄っていて、形が崩れている。
理子はがっかりする。赤福の特徴である餡子の上に描かれた三本筋が潰れているのだ。

「あー、ごめん、急いで帰ってきたら寄っちゃったね」

「これも赤福あるあるですねー」

今度は桜井さんが笑った。

「これ固まってるけど、一人一人ヘラで分解して食べて」

社長は折詰めの中にあるヘラを指差す。

「あ」

八木がそれを見て声をあげた。

「赤福のヘラって昔、プラスチックのはずだったけど木になってるんですね」

「え?プラスチックだったんですか?」

「あー、確かにそうだったねえ。懐かしいねえ。理子ちゃんは若いから知らないか」

社長は目を細める。
中野がヘラに手を伸ばして赤福を分解しようとすると

「ちょっと待ってください!」
八木が声を荒げた。

一同、驚いて八木を見るとスマートフォンを取り出し、潰れた赤福を俯瞰から激写している。

「お前、何やってんのよ」

「いえ、事務所のインスタに載せようと思って」

「あのフォロワー29人の寂しい奴ね」

「いえ、27人です。こないだ2人減っちゃって」

「寂しいなあ〜お前、誰か友達とかに頼んでフォロワーになってもらえよ」

「いないんで。友達」

「大丈夫なの?うちのインスタ。事務所のディスプロモーションになってない?それにお前も、もっといいもの載せなさいよ」

社長が目を瞬時に釣り上げる。

「味があっていいじゃないですか」

「今月中にとりあえずフォロワー百人作って。それが八木の仕事だよ」

中野さんは赤福を二つ一気にヘラですくって口の中に放り込んだ。

「あー!」

理子は思わず声をあげた。六個残った赤福を五人で分けろというのに、何の断りもなく一気に二個食べるとは。この男、五歳児なみの勝手さである。本当に三十六歳だろうか。
理子は唖然となって開いた口が塞がらない。

「何だお、お前〜。そんなくるみ割り人形みたいな顔して。しょうがないだお、くっついてんだから」

口をモゴモゴしながら中野さんが言う。

「中野ね、お前、これが赤福じゃなくてフグの刺身だったらその場の皆に殴られてるよ」

社長が呆れて言う。フグの刺身じゃなくっても殴りたい。赤福をこんなに自分勝手に食べるなんて。理子は腹の中がグラグラと煮えたぎりながら、キッチンからスプーンを三本取ってきて、石井さんと桜井さんと八木さんに渡した。

「これで皆さん、赤福取ってください」

三人は理子からスプーンを受け取り、箱の周りに寄ってきて各々が赤福をすくって「あーん」と口の中にほおり込み、モグモグと咀嚼する。

「赤福久しぶりだなあ。うまい」

八木さんが珍しく感情を声に出す。

「一つでも結構、腹にたまるよね」

「このアンコの筋ってさ、寿司のシャリみたいにアンコを指で押した跡かな?」

桜井さんが興ざめな事を言う。

「違いますよ!これは、五十鈴川というお伊勢に流れている川の流れを表現しているんです」

理子は折詰の中に残った一つの赤福を事務所にある唯一の皿、百均のソーサーの上に移し、コーヒーをカップに入れて自分のデスクに持ってくる。

第4話 赤福編 午後2時のプロレタリア 後編

嗚呼、久しぶりに頂く、たった一つの赤福。

上にのった漉し餡の五十鈴川が歪んでいるのが悲しい。出来たらコーヒーではなく、濃い緑茶で頂きたかった。そして出来たらあの「ヘラ」で頂きたかった。あのヘラで頂く事が赤福餅の醍醐味だと理子は思う。でも、社長と中野さんがヘラを使って食べていたから間接キスになってしまう。しかもこの事務所にはフォークもないので、結局スプーンで頂く事にする。

「ヘラがプラスチックだって事も知らなかったら、赤太郎も知らないよね?」

社長が理子に言う。

「赤太郎?」

「赤福のキャラクター。当時は画期的だったのかもね。商品の宣伝としてキャラクターを使うのは」

理子はスマホで赤太郎を検索する。かなり昭和のデザインだ。レトロで可愛い。
理子は思い直す。ヘラで赤福を食べられないなんて贅沢な悩みだ。お伊勢参りに行かなくても赤福が食べられるのだ。

だいたい赤福ほど本来の在り方を忘れられている地方銘菓はない。お伊勢様のお膝元のおかげ横丁にある店舗。そこでお参りした疲れをこの甘みでほんのりと癒す。そんな尊い餅であるはずだ。

それが関東圏の人間にとっては、赤福買っておけばOKでしょ?といったような、名古屋や大阪に出張した時の盤石な土産というポジションになっている。551の豚まんと勝手にセットにしている人も多い。決して551の豚まんが悪いわけではない。でも、赤福は神へのお供え物のようなありがたい存在だと理子は思う。

スプーンで赤福を二つに割り一つを口の中に頬張る。なめらかなこし餡に舌触りの良いやや硬めのお餅。噛み締めると面白いこの食感のコントラスト。餡が餅に比べて気持ち多いのも嬉しい。口の中に柔らかい甘さが広がり、理子はコーヒーを一口すする。

ああ、至福。理子の頭の中に伊勢神宮の霊験あらたかな風が吹いた。
と、その瞬間、ゴンっという鈍い音がして理子は現実に引き戻される。
振り返ると、桜井さんが頭をデスクの上に突っ伏している。

「さ、桜井さん?」

理子が声をかけても桜井さんは微動だにしない。

「どうしました?」

理子は桜井さんの元に駆け寄る。息はしているようだった。

「大丈夫ですか?」

理子は桜井さんの背中をさする。すると「ズズ」と引きずるような音がうつ伏せになった頭から聞こえてくる。どうやらいびきのようだった。

「あー始まった」

中野さんがニヤッと笑って桜井さんを見る。

「しょうがねえなあ。おい、八木、会議室のソファに運んで寝かせろ」

「…はい」

八木さんがため息をついて立ち上がり、突っ伏している桜井さんをデスクから引き剥がし、両腕を抱えて引きずりながら廊下に向かった。その間、桜井さんは一向に目を覚まさない。
理子は呆気にとられて見ていると、社長が細い目を更に糸のように細めて言う。

「あれ、理子ちゃん知らなかったっけ?」

「え?」

「あれね、脳の病気。あいつね、ナレコプシーっていう眠り病なのよ。いきなり寝て昏睡状態になったら二十四時間起きないの」

「病院に行かなくて大丈夫なんですか?」

「大丈夫。ただ突然寝るってだけだから」

そんな病気があるのか。本当に驚いた。

「まあ、その睡魔がいつどこで起こるか分からないから、それは恐怖ではあるな。あいつ、それで前の仕事クビになったり、公園で寝てたら財布と鍵取られたとか結構災難があったわけ。今回は事務所で睡魔がきてよかったねって感じだな」

中野さんが淡々と答える。

「あいつ、特に急ぎの仕事抱えてないよな」

社長がその場の一同に確認する。

「特に聞いてないけど。ゲームソフトのポスターはもう終わったし」

石井さんが答える。

「え?」

理子が驚く。
キッとその場の一同の鋭い視線が理子に注目する。圧倒されながら理子がおずおずと答えた。

「私、桜井さんに頼まれましたけど。ポスターのデザインの参考にする昭和のキャラクターの画像集めてって」

「何?!どうなってんだ!」

社長の目が瞬時に釣り上がり、ものすごい勢いで立ち上がった。瞬時にハイドに変貌する。会議室に桜井さんを運び戻ってきた八木さんに社長が詰め寄った。

「おい、八木!お前、何か聞いてないか?桜井のゲームソフトの仕事をよお!」

「…納期延ばして貰ってましたね。先方が気に入らなくてやり直しで」

「何い?いつまでだ?」

「今日のてっぺんですね」

「何い!貴様、それは本当か?」

社長は八木さんの胸ぐらを掴んで揺さぶる。ほぼ反社である。

「ほ、本当です」

八木さんは珍しく表情を歪めて答える。反社行為に無表情でいられるほど八木さんは冷静ではないのだ。

「どうすんだよ!あいつ、最低でも明日の夕方まで起きねえぞ!」

「落ち着いて下さいよ。前も一回あった事じゃないですか。先方に頼んで納期を一日ずらしてもらいましょうよ」

石井さんが社長に言う。

「お前ね、一度ずらして貰ってるんだぞ。あいつのことだから一度だけじゃないかもしれない。それにね、あのゲーム会社はこれから太い取引先になる可能性もあるんだ。下手こけねえぞ!」

社長は怒る自分に更にヒートアップして興奮して震えだした。

「中野!」

「へ?」

「お前が中心になって仕上げろ。八木と友部も手伝え!」

いつもは「理子ちゃん」なのにいきなり「友部」と社長に苗字を呼びつけにされ、理子は飛び上がりそうになった。

「えー、俺、今日、約束あるんですよー八木ちゃんやってよー」

「お前!ふざけんな!一人だけ赤福二個食べたろうがよ!」

中野さんはため息をついて上を見上げる。

「赤福、高くついたなー」

そしてスマホ画面を見て時間を確かめる。

「今、十八時半ね。んじゃまあ、やりますかねえ」

そこからの六時間を理子は忘れる事ができない。
作業フロアだけ、時空が歪み、時間の流れが変わったかのようだった。
中野さんは桜井さんが元々作っていたラフパターンを全て白紙にした。

驚く理子に「こういうのってゼロから作った方が早いんだよ」と中野さんは言う。それから中野さんは理子にキャラクターのポーズ、表情を何パターンも制作するように、八木さんはフォントのパターンをいくつも制作するように指示する。
出来上がるたびに中野がデザインした全体図に当てはめていく。

「これ、色変えて」「サイズはもう気持ち小さく」「このキャラクター、横顔にして」

次々に的確に指示する中野さん。理子は無我夢中で言われたに通り描いて描いて直して直してデータを中野さんに渡す。
時計を見ると、とっくに0時を回っていた。終電は終わっている。社長も石井さんもとっくに帰宅していた。

「おっしゃ。これ良いんじゃない?」

中野さんのパソコンの画面を見ると、賑やかで雑多な雰囲気が楽しい80年代風のイラストが出来上がっていた。フォントも踊っているようだが、ちゃんと読みやすい。
中野さんはデータを送信すると、多分到着するのを今か今かと待っていたであろうクライアントからすぐに絶賛のメールが中野さんに返信された。

「はい、絶賛コメント頂きました。お疲れー」

中野さんが時計を見る。

「1時前ね。0時前に終わらせたかったけど、一時間遅れかあ」

「いえいえ、ゼロからと考えるとかなりのスピードです。勉強させて頂きました」

八木さんがゆっくりと中野さんにお辞儀をする。理子も慌てて頭を下げた。
二人の丁寧な挨拶に中野さんは上機嫌になって「腹減ってない?俺様がご馳走してやる!」と立ち上がる。
こんな時間に?オープンしているのはファミレスかバーくらいだろうと訝る理子に、中野さんは「タバコ買いに行ってくる」と出て行ってコンビニで何かを買って帰ってきた。
ビニール袋から取り出したのは缶ビールと溶けるチーズとキャベツと小麦粉。それとなぜかベビースターラーメン。
八木さんは事務所にあるホットプレートを作業フロアの作業台の上にのせる。

「お、八木ちゃん。仕事が早いねえ。理子ちゃん、このキャベツ、千切りにして」

理子は言われた通りにキャベツを千切りに。その間、中野さんは水に小麦粉とウスターソースを入れてかき混ぜる。そしてホットプレートの上でキャベツを炒め出した。

「これって何ですか?」

「あれ、理子ちゃん、食った事ない?もんじゃ」

「中野さんの得意料理なんですよ。僕らのギャラも随分安くあげられたもんですよ」

八木さんが失笑する。

「何言ってんだよ。大盤振る舞いだよ。まあ、とりあえず飲もうぜ」

三人は缶ビールで乾杯する。冷たいビールが眠気と疲労感で包まれた理子の体に染み渡る。
中野さんはくわえタバコでフライ返しとお玉でもんじゃ焼きの生地をものすごい勢いで叩き出した。タバコの灰がハラっともんじゃの上に落ちて、理子は「ゲッ」と思うが見ないふりをする。
しかし、次第に焦げたソースとチーズの匂いが充満して理子の食欲をそそる。

「ほらほら、良い感じに焦げてきたぞ。食え食え」

中野さんが先に「本当はヘラを使うんだけどな、こうやって端っこを鉄板のヘリで焦げるくらいまでいい感じに焼いて食べるんだよ」とスプーンを使って手本を示す。 
理子も真似してもんじゃの生地の端っこをスプーンで切り、ヘリにくっつけて焼いてを食べる。

「ん!美味しい」

思わず声を出した。生地とチーズの香ばしさとキャベツの甘み。懐かしくてビールのすすむ味だった。

「八木、お前、食わねーのかよ」

キッチンの流し台で作業している八木さんに中野さんが声をかける。

「やっぱ、もんじゃはヘラで食べないと感じでないじゃないですか」

戻ってきた八木が手にしていたのは洗った赤福のヘラだった。
八木さんが赤福のヘラでもんじゃをつつき出す。

「あ、ちょっと動かないで下さい!」

八木さんが声を上げる。

「インスタに上げる写真撮るんで」 

八木さんは赤福のヘラでもんじゃをつつく自分の手元をスマホで撮っている。

「お前ね、そんなのアップしたらまたフォロワー減っちゃうよ」

「そうですかね。面白いと思うんですけど」

撮り終わった八木さんが理子に言う。

「そういえば友部さんが描いたおじさんのキャラ、可愛かったですね。ちょっと赤太郎に似てましたね」

「あ、確かにそうだなー。若い子が描くキャラじゃなかったしアナクロな雰囲気が良かったね」

「赤福食べて思い浮かんだんです」

初めて褒められたかもしれない。いや、かもしれないではなく、褒められたのだ。理子は嬉しさを噛みしめる。

「あの、今日は驚きました。意外とすごいんですね、中野さんて」

「『意外と』が余計だよ。『意外と』が!」

「もんじゃも美味しいし」

「何、惚れちゃった?俺に抱かれたくなった?」

「いえ、それはないです」

理子は間髪入れずに答える。

「何だよー」

駄々っ子のような口をきく中野さんに理子は呆れる。この男、こういう所がなければ尊敬できたのに。
中野さんの信じられないセクハラ発言。
赤福のヘラで食べ辛そうにもんじゃを口に運ぶ八木さん。
奥の会議室には桜井さんが爆睡している。 
そんなヘンテコな事務所で丑三つ刻につつくもんじゃは美味しくて、疲労感とアルコールの酔いに包まれた理子はどこかふわふわと夢心地だった。

第5話 東京ばな奈編 午後二十二時のモノローグ 前編

「どうも申し訳ございませんでした!」

世田谷のデザイン事務所「羊進円」の作業フロアで桜井さんが土下座をして叫ぶ。
よくドラマで見る土下座を理子は生まれて初めて肉眼で見た。
でも、これといった感慨はなかった。というのも、土下座している桜井さんもされている作業フロアの自分達もどこか芝居掛かっていていたから。
それと桜井さんがしでかした事の大きさから、いた仕方ないと思ったから。
大の大人が仕事の締め切りを守れず寝てしまう。そんなの五歳児かと思ってしまう。例えそれがナレコプシーという病気だからといっても。

理子以外の事務所のスタッフは桜井さんの被害に何度かあっていたのか、土下座に目もくれない。
唯一、中野さんがコーヒーの入ったマグカップを桜井さんの背中の上に置き「今日はお前、俺のカフェテーブルやれ」と言って鼻で笑う。
桜井さんは黙ったままその体勢でいる。

「おい、八木。早く、写真に撮れよ。で、インスタに上げろ」

「あ、確かに。いいネタですね」

八木さんが振り返って、カフェテーブルに化した桜井さんをスマホで撮影する。

「ちょっと、そんな画像アップしないでよ!」

見かねた経理の石井さんが声を荒げる。

「何で?バズるよ。フォロワー増えるって」

「バカ、炎上するよ。イジメだってさ。最近は厳しいんだから」

「そう?」

「それにこんな社員のいるデザイン事務所に仕事をお願いしようと思う?」

皆、四つん這いになり背中にマグカップをのせた桜井さんをジッと見つめる。

「まあ、確かに。狂ってる事務所だよな」

中野さんがケラケラと笑った。
そこに社長が「お疲れー」と出社してきた。
作業フロアで土下座をしている桜井さんを見て

「お、いい土下座だねえ」と目を細める。元々細い目が糸のようになる。
「あ、その背中のコップは何?江戸川乱歩の『人間椅子』のオマージュ?」

そう聞いてくる社長に中野さんは半笑いで答える。

「あ、惜しい。『家畜人ヤプー』のオマージュです。今日からこいつ、俺のカフェテーブルになります」

「ああ、そっち?お耽美だねえ。そういうデザインの仕事、たまには入らないかねえ」

二人の会話の意味がさっぱり分からない理子は『人間椅子』『家畜人ヤプー』とググってみる。「耽美派小説」とある。
今までの理子には全くない価値観で、ウィキペディアの説明を読みながら「ありえない」「気持ち悪い」と心の中でつぶやいた。

「あ、理子ちゃん、羊進円カフェの方はどう?準備進んでる?俺、こんな人間カフェテーブルは嫌だから」

「あ、はい。今、いろいろ注文してて届き次第、スタートします」

石井さんがチラッと理子を睨むが、理子はその視線に一切気付かない。

「それは楽しみだねえ」

微笑みながら社長は奥の会議室に入っていった。
あ、どうせ後から社長はコーヒー持って来いと言うだろうな。
理子はキッチンに行き、コーヒーメーカーに豆をセットする。
今日の豆は偵察に行った桜新町のオガワコーヒーに行って購入してきたのだ。
こんな静謐な工房のような雰囲気のカフェにできたらいいなと思いながら、理子はその雰囲気とコーヒーの味を楽しんだ。

理子が地方から上京し、この羊進円に勤め始めて三ヶ月。
事務所の仕事には慣れ、羊進円のスタッフの変人ぶりにも驚かなくなってきた。まあ、これは麻痺だからあまり良い事だとは思わないけど。
そろそろプライベートも充実させたいと思い始めた。

素敵な彼氏が欲しいなあ。仕事で出会いは全く期待できないからマッチングアプリにでも登録しようか。
でも二年前、まだ地元にいた頃、マッチングアプリで知り合った男の子とのデートはトラウマになった。格好良かったのに突然、毒親について赤裸々に告白されたのだ。それ以来、怖くなってマッチングアプリは退会してしまった。

東京で探したら、いい人はいるかな。
仕事のやり甲斐とプライベートの充実。これを普通に両立させている人がいるのに、自分はまだまだほど遠い。
と、事務所のインターホンが鳴り、理子は我に戻る。
モニターの画面を見ると運送会社の制服を来た男の人が映っている。

「あ!来た来た!」

理子はオートロックをオープンさせて玄関に小走りで向かう。外履きに履き替えて、扉の前に理子は立った。遠くから足音が聞こえる。扉のインターホンが鳴ったと同時に理子は扉を開けた。

「えーと、こちら、デザイン事務所『ようしんどう』ですか?」

「はいはい!」

理子は宅配便の男の人から段ボール箱を奪うように受け取り、受取票にサインをする。そのまま段ボールをキッチンに運んだ。
ウキウキと弾む気持ちで理子は段ボールに貼られたガムテープを剥がしていく。蓋を開けて、緩衝材を取り出すと中からプチプチに包まれたものが姿を現した。
理子はニマニマとにやけてしまう。
厳重に包まれたそのプチプチをそっと開ける。
中から白地に黒い細い線が描かれたカップが姿を現した。

「かわいい…」

理子は手にとって惚れ惚れと眺める。

カップに描かれた黒い線は、ただのまっすぐなストライプではない。手書きのような温かみを感じさせるライン。そしてその線の上に描かれた小さなドッド。シャープさの中にどことなく感じさせるとぼけた感じ。アラビアのマイニオというデザインだった。
黒い線でここまでモダンを作れるなんて、ライヤウォ・シッキネンは本当にすごい!
理子は静かに熱く感動していた。そして同じ柄のソーサも取り出し、カップをそっと置いてみる。
嗚呼、完璧だ!本当にこのデザインにして正解だった。自分のセンスを褒めたい。早くこのカップにコーヒーを入れたい!

「何それ?」

理子がキッチンで長い間、ぺたりと座り込んでいるので中野さんがわざわざやってきた。

「これ、見てください!めっちゃ可愛くないですか?」 

理子は中野にカップを見せる。

「随分地味だな」

勝手にプチプチを手に取って中野の答えに理子は驚く。この人は本当にデザインを仕事にしている人だろうか。

「何言ってんですか?これ、アラビアですよ」

「何それ、中東のメーカー?」

「違いますよ!北欧のフィンランドですよ」

「はー、好きだねえ、若い女の子は北欧が」

中野さんがニヤついて言う。

「何でも北欧風にデザインしときゃオッケーみたいな感じ、浅はかなんだよな」

「な…」

そう言うなり中野さんはいきなり振り返る。

「あ!八木!余計な事すんな!」

桜井さんの背中のコーヒーカップを八木さんが手に取っていた。
自由になった桜井さんが立ち上がるなり、ダッシュでベランダに逃げる。

「待て!桜井!」

中野さんが桜井さんを追う。作業フロアで所狭しと追いかけっこする二人を理子は呆れながら見ている。
何だろう、この三十六歳と二十八歳は一体…。
美しいアラビアのマイニオの隣でバタバタと騒ぐ、アラビアも知らない男達。どっちが浅はかなのか。
本当に変なデザイン事務所に入ってしまったものだ。
理子は脱力しながら包装を解いたカップとソーサーのセット八客を軽く水洗いした。
すると再び事務所のインターホンが鳴った。

「わ!来た来た」

梱包材を畳んでいた理子は飛び上がるように立ち上がった。一日に立て続けに宅配業者が訪れて、続々とコーヒーグッズが届けられた。  

カップとソーサーに続き、流線の形が美しいハリオのコーヒーポット。艶のないシルバーがどんなデザインのカップにも合うと思って即決だった。アラビアのカップが高かった代わりにこちらは値段が控え目だったのも、即決の理由だ。
そして白い、やや厚みのある波佐見焼のコーヒードリッパーを三つ。
三人分一気に入れられるようにだ。そのコーヒードリッパーを並べる為の真鍮製のコーヒースタンド。科学の実験のように、三つ並べられるものを探したら艶消しされた美しいラインのスタンドを手作り商品を売るアプリでみつけて、こちらも即決だった。

これでとりあえず最低限のものが揃った。
理子はコーヒースタンドの上にドリッパーを置く。まだ水も入れていないポットを持って、上からお湯を垂らすジェスチャーをしてみる。

エアコーヒードリップ。

うん、いい感じ。これで最低限の「羊進円」カフェが出来ると理子はご満悦だった。社長もこれだったら満足してくれるかしら。社長がコーヒーを飲みたい時は、このセットを会議室まで運んで入れるとするか。

理子は届いたコーヒーグッズが入っていた段ボールを潰してまとめ、梱包材はビニール袋にまとめた。
そして、領収書をまとめて石井さんに差し出した。

「石井さん、これ」

石井さんは理子から差し出された領収証を一瞥し、そのままパソコンの画面を見つめて入力している。

「あの…領収書です。羊進円カフェの」

理子の言葉を石井さんは無視してパソコン画面に向き合っている。

「あの…」

「知らない」

石井さんはパソコン画面を見つめながら尖った声を出した。

「え」

作業フロアの雰囲気がピリッと張り詰める。皆、背中で二人の会話を盗み聞いているかの如くである。

「知らないって…あの、私、自分のカードでたて替えてて…」

「私、聞いてない」

「え。あの前にリストを渡した…」

「私、それいいって言ってないよね。あんたが勝手に買っちゃったんじゃん」

「え、でも社長がいいって…」

「じゃ、社長に言ったら?」

「そんな。社長が石井さんに言えって」

「私、今、忙しいから話しかけないで」

「え」 

理子は愕然となって自分のデスクに戻った。
中野さん、桜井さん、八木さんは二人の会話を無視してデスクの前に張り付いている。
背中からは「関わってはいけない」というオーラが伝わってくるようだった。
普段はあれだけ理子をからかうのに、こういう時は誰もフォローしてくれないのだ。いや、それ以上に石井さんを怖がっていると言える。

全部で七万四千三百八十円。石井さんに最初に提出した予算より安くなっているのに。これを社長に払って下さいと言うのか。石井さんが払ってくれないからって。なんだか告げ口するようで気が重いなあ。
それに何で自分は石井さんに、こんなに邪険に扱われなきゃいけないんだろう。
理子は納得できなかった。

第6話  東京ばな奈編 午後二十二時のモノローグ 後編

その後、すぐに石井さんは立ち上がるなり、バッグとジャケットを持って「じゃ、お先に」とあっという間に帰ってしまった。
社長も「久々に会食だー」と取りつく島もなく事務所から出て行った。
中野さん、八木さん、桜井さんも特に締め切りがないので、夕方に退社してしまい、事務所には理子が一人残った。
理子は三人にそれぞれ頼まれた雑務が残っているのだ。

一人だけだと仕事に集中出来ていい。それでも一瞬、涙がこみ上げてくる。あんな言い方ってないよな。何だろう、石井さん、更年期かな?でも、更年期はもっと年上の女性がなるよな。ウィキには閉経前後五年ってある。閉経は五十歳くらい?石井さんは三十四歳。じゃあ、違うよね。
うじうじと考えてしまうので、理子は立ち上がってキッチンへと向かう。

今日届いたカップを手に取る。やはり可愛い。ニヤニヤついてしまう。悲しいときはこうやって綺麗なものを眺めていれば少し元気を貰える。
それとコーヒーと甘いものがあれば。
理子は自分の為にコーヒーを入れる事にした。

この羊進円カフェセットを最初に使うのは私だ。

ミネラルウォーターをケトルに入れてガス台にのせる。ドリッパーに紙のフィルターをのせて、オガワコーヒーのコーヒー豆をちょっと多めにセッティングする。
コーヒー豆を少し多めにすると不思議とものすごい贅沢をしている気持ちになる。なんて自分は安上がりなのだろう。
ドリッパーの横を軽いて豆を平らにしてからコーヒースタンドの上に置き、その下にマイニオカップをセッティングする。
と、その瞬間、入り口の鍵が開く音がした。驚いてキッチンから出て玄関を覗くと入ってきたのは桜井さんだった。

「どうしたんですか?桜井さん、びっくりした」

「あ、良かった理子ちゃん、いて」

キッチンからお湯がシュンシュンと沸く音がして、理子は慌てて戻りながら「あ、今、コーヒーを淹れるところなんですけど、桜井さんも飲みますか?」と声を上げる。

「わー。ラッキー。飲む飲む」

桜井さんの明るい返事が返ってきたので、もう一つのドリッパーにコーヒー豆をセッティングする。
ケトルのお湯が沸いたので、セッティングされたコーヒー豆の上にタラリと「の」の字にお湯を垂らす。
うん、このケトル、使いやすい。買って正解だ。

コーヒー豆が泡となって盛り上がり、深く香ばしい香りが立ち上る。その香りを嗅ぐと、理子の心は落ち着いていく。
タラリ、またタラリと泡を潰すように丁寧にお湯を注ぐ。
泡を眺めながら無心になれる。あまり丁寧にゆっくりとコーヒーを淹れていると冷めてしまうので、この辺りの時間のかけ方はなかなか難しいけれど。

「お、早速、使ってるんだね、今日届いたやつ」

桜井さんがキッチンを覗きにきた。

「それにしても随分、シャレオツなものを買ったじゃん。うちみたいな事務所には勿体無いくらいの」

「何言ってるんですか。デザイン事務所ですよ。うち」

「そうだけどさ。デザイン事務所にもピンキリあるでしょ」

カップの八分目までコーヒーが入ったのを見計らい、理子はソーサーの上にカップをのせる。美しくて惚れ惚れしてしまう。

「うわ!完璧。はい、どうぞ」

「聞いてないね」

桜井さんは苦笑しながらコーヒーを受け取って、作業フロアの中央テーブルの椅子に座った。

「こっちで飲もうよ。お菓子買ってきたよ」

テーブルの上に小さな紙袋置いた。

「えー?何ですか?」

桜井さんは紙袋から箱を取り出して理子に見せる。それはポケモンの柄が入った東京ばな奈だった。

「わ!東京ばな奈だ!」

「食べたことある?」

「ないんですよ!中々機会がなくって。今度、実家に帰る時にお土産に買おうかなと思ってたんですけど」

「実は俺もないの。実家東京だしさ。いつも横目で『ああ、なんかあるな』と見てたんだけど。今日の帰りさ、新宿駅のキヨスクに売っててまた目に入って理子ちゃんの事、思い出しちゃってさ」

「え?何で東京ばな奈で私なんですか?」

「東京ばな奈がって訳じゃなくて、理子ちゃんて地方銘菓が凄い好きじゃん。有名なお菓子屋のケーキの差し入れより、めっちゃテンション高いから」

「そうなんです!私、地方銘菓が本当に好きで。地方銘菓って、その土地の風土と産業を背負っててロマンを感じるっていうか」

「…風土と産業ねえ。大げさだなあ」

桜井さんは唖然としている。

「でも確かにその土地の広告塔でもあるよね。はい」

桜井さんは箱から一つ東京ばな奈を取り出して、理子に渡した。

「ありがとうございます。ピカチュウ、こんな風にプリントされてるんですね」

理子と桜井さんはビニール袋を開けて、おもむろに東京ばな奈にかじり出す。

「うわ、スポンジもクリームもふわふわですね。これなら小さい子もお年寄りもいけるし、サイズも大きすぎず小さすぎずで絶妙ですね。凍らしてもいいし、あ、これ積み上げて生クリームでデコレートしたらケーキみたいになっていいかも!」

「凄いね、理子ちゃんはデザイン事務所じゃなくて、お菓子メーカーの開発にいった方がいいんじゃない?」

「それだと同じお菓子ばっかり食べなきゃいけないじゃないですか」

「は〜。わがままだねえ」

理子と桜井さんは、早くも二つ目の東京ばな奈に手を伸ばす。

「バナナ風味も中々効いてますね、こういうお菓子って大概カスタードクリームだから。考えてみたらバナナ味の地方銘菓ってあんまりなかったような」

「うん、盲点だね。バナナって身近すぎる食材だからね」

「東京ばな奈も盲点でした。存在は知ってたけど買った事なかった。どうしても地方のお菓子の方を見てました。すぐそばにこんな地方銘菓があったんですね」

「青い鳥みたいな事言っちゃって。買ってきて良かったよ」

桜井さんはコーヒーカップを持って眺めながら言う。

「かわいいね、これ」

「ですよね?優雅な気持ちになりますよね?」

理子は賛同を得られて嬉しかった。

「なんだっけ?このカップ、アラブだっけ?」

「アラビアです」

「社長に言った?領収証の件」

「あ、まだです…」

理子は一気に心が重くなる。

「それ出して。俺から言うから」

「え」

桜井さんの思わぬ申し出に理子は驚いた。

「俺がうまい事やっとくから。あの時はごめんね、フォローできなくて。あそこで下手に入ると、石井さん更に拗らせちゃうからさ」

なるほど。この東京ばな奈はそのフォローだったのか。桜井さんて結構、気を使えるんだな。理子にとっては予想外だった。

「ずっと今まで紅一点だったのにさ、いきなり十個くらい年下の女の子が入ってきて、それで事務所の事を色々変えられたら、まあそりゃ石井さんも面白くないんじゃない。だからあんな女子中学生みたいな態度取っちゃったんだよ。あんまり気にする事ないよ」

「はあ」

確かに。理子は顔が熱くなる。事務所が良くなればと思っての行動だっけど、石井さんには不躾に感じられたわけか。
配慮が全くなっていなかったなあ。全く周りが見えていなかった。
難しいな、人間関係って。

「それと以前、お金でちょっと揉めたことがあったから、石井さんもその辺り神経質なんだよね」

「え、揉めたって?」

「ま、それはおいおい」

「はあ…」

理子は領収証をまとめて桜井さんに渡した。

「はい、確かに。これでこの前の仕事を寝飛ばしちゃったの、チャラにしてもらえる?なんか本当にごめん。朝まで仕事させちゃって。始発で帰ったんでしょ?」

「いえ。仕事ですから」

「今日は頼むから終電までには帰ってね」

桜井さんは立ち上がるなり、理子の頭をポンポンと軽く叩く。
え?と理子は虚をつかれた。

「じゃ、俺帰るわ。コーヒーごちそうさま」

そう言って桜井さんは出て行った。
残された理子は呆気に取られていた。
桜井が叩いた頭を触ってみる。

こ、これが少女漫画などで話題の「頭ポンポン」!

初めてされた。今まで付き合った彼氏にもされた事がなかった。
とりあえず嫌な気持ちはなかった。むしろ、石井さんと揉めた自分の為に、わざわざ戻ってきてくれた事が嬉しかった。しかも困っていた領収証の処理まで考えてくれている。優しいな。何も考えていない口だけのカフェテーブルだと思っていたのに。それによく見ると、笑うと爽やかなんだよな。

桜井さん、東京ばな奈を見たら私の事を思い出したと言ってた。

理子は東京ばな奈を手に取った。
え、桜井さんってもしかして私の事…。いや、まさか。あのカフェテーブルが。
でも、そのまさかかも。
私の彼氏候補がこの変人ばかりの羊進円に?
あまりにも近い距離であり得ないと思っていたけれど、もしかしたら青い鳥なのかもしれない。この東京ばな奈みたいに。

理子は東京ばな奈にプリントされたピカチュウに見つめられた気になって、思わず目を逸らした。

第7話 信玄餅 午後7時の成功譚 前編

「今月から友部さんを羊進円SNS係の後継者になって頂きます」

デザイン事務所『羊進円』に出社して自分のデスクに着いた理子に、斜め後ろのデスクに座る八木さんが恭しく言った。

「え、後継者って…」

「申し訳ない」
八木さんが頭を下げる。

「俺、今週から仕事が増えて手が回らなくなってしまって」

その大変そうな言葉とは裏腹に、八木さんは相変わらず無表情で淡々としている。 

「というのは表向きで、真相はクビだから」

真後ろのデスクで作業している中野さんが回転椅子をクルリと回して理子の方を向き、半笑いで言った。

「こいつ、SNSセンスないから。フォロワーが未だに二十六人だぜ」

「二十七人です。最高で二十九人だったんですけど」

「それ威張るところじゃねえから」

「私は別に構いませんけど」

インスタに一日一投稿あげるくらい、理子にとって大した負担ではなかった。

「ありがとう。助かります。これ、アカウントのパスワードです。」

八木さんは再び頭を下げて、理子にメモを渡してきた。

「とりあえず社長はフォロワー百人作れって言ってたから。でも、理子ちゃんなら楽勝じゃん。地元の親戚とか学生時代の友達とか、まだいっぱい繋がってるでしょう」

「そんな、保険の勧誘じゃないんだから」

中野さんに桜井さんが突っ込みを入れる。
やはり、いつも理子を庇ってくれる。
この前の夜の頭ポンポンといい、石井さんが落としてくれなかった領収証の処理を代わりにやってくれた事といい…。理子は桜井さんを意識してしまい、なんとなく目を合わせられなかった。

「お疲れー」

経理の石井さんが出社してきた。
先日の羊進円カフェセット騒動で、石井さんは理子と確実に目を合わせなくなってしまった。それ以来、理子はとにかく不快に思われないよう、気をつけるようにしていた。

「週末、地元で法事があったから、これお土産」

石井さんは作業台の上に四角い形の巾着袋をポンと置いた。白地に紫色の小花が描かれた可愛らしい不織布製の袋である。

「何、お骨?」

中野さんの不謹慎な発言に石井さんは一瞬、絶句して「喧嘩売ってんの?これは…」と、言葉にした瞬間

「わ、桔梗屋の信玄餅だー!」

理子はつい大声を出してしまった。 

「理子ちゃん、好きだねえ」

桜井さんが苦笑する。石井さんはチラッと理子に視線を向ける。

「あ、すいません。子供っぽくて。大好物なので」

「何、無邪気な女の子アピール?」

石井さんの突っ込みに一瞬、その場がピリッと張り詰める。
理子は何と返していいのか分からず、石井さんは自分のデスクについてパソコンをたち上げる。

「あ、友部さん。この信玄餅、インスタにあげなくていいの?」

この張り詰めた状況で理子に助け舟を出したのは、予想外に八木であった。

「あ、はい。そうですね、確かにこれは素敵な話題ですね」

何を考えているか分からない、いつも無表情で温度の低い八木さん。その八木さんがこんな気遣いをするなんて。SNS係を理子に押し付けてしまった負い目かもしれない。 
何にせよこの気まずい空気を脱する事が出来たので、理子はありがたかった。
作業台に置かれた巾着袋を素敵に見せられないか、理子は映えアングルを模索しながらスマホで画像を撮った。

「ねえ、まだ終わらない?俺、信玄餅、早く食いたいんだけど」

中野さんが理子に言う。

「え。もう食べるんですか?」

「俺、朝飯食ってきてないから、力出ねんだよ。早く糖分!糖分!」

理子は巾着袋を開けて中から信玄餅を取り出す。赤い菱形の武田家の家紋がプリントされたビニール製の風呂敷包みを見ると理子は心がときめく。
しかし、中野さんのような五歳児はこのパッケージの情緒など分かりゃしないだろうと思いながら手渡す。

「えー?こっち?」

中野さんがブー垂れた表情をした。

「こっちとは?」

石井さんが振り返って中野さんに無表情で言う。

「これ、プラスチックじゃん。最近、入れ物が最中の信玄餅出たじゃん。全部食べられる奴。俺、そっちが食べたかったー」

中野さんがビニール製の風呂敷を乱暴にむしって開けながら言った。

「それは悪かったねえ。最中の信玄餅じゃなくて。申し訳ありませんでしたねえ」

石井さんの怒りを押し殺した嫌味も中野さんには響かないようで、小さなポリ容器に
入った黒蜜をきな粉の上にかけている。楊枝で餅を三つほど一気に刺し「あーん」と口を開き、下から受けるように食べる。
きっとこの男は知らないんだろうな。このビニール製の風呂敷が一つ一つ、手作業で包まれている事を。そして「本結び」と言う特殊な結び方である事を。その尊さを知らないから、むしるように開けてガサツな食べ方をするのだと理子は呆れる。

「理子ちゃん、もう一個」

「え?」

「ぜーんぜん腹にたまんないからさ」

中野は信玄餅の巾着袋に手を伸ばした。

「あーちょっと!ダメです」

理子は思わず巾着袋を中野の前から取り上げた。

「何だよ」

「八個入りなんですから、一人一つです」

理子は信玄餅を一つ一つ皆のデスクの上に配った。

「うちの事務所は六人なんだから、あと二つ残るじゃねえかよ」

「お客様が打ち合わせで来るかもしれないじゃないですか」

理子は社長の分と残り二つを冷蔵庫の中に入れて、空になった巾着袋を折りたたみ、石井さんに言った。

「あ、石井さん。この巾着袋頂いていいですか?私、集めてて赤と紫は持っているんですけど、白は持ってなくて」

「理子ちゃん、そんなもの集めてるの?」

中野さんが呆れて鼻で笑う。

「『そんなもの』って、ひどいですね。これ、ハギレを入れたりスーパーのビニール袋入をれたりして使えるんですよ。部屋の中に並べて置くとコロンとしてて見た目も可愛いんです」

「へー。なんか可愛い」

桜井さんが笑う。

「何、今度は可愛いお嫁さんになれるアピール?」

石井さんがフンと鼻で笑い、意地悪そうに吐き捨てた。
「え」と理子は凍りついた。その場の男性陣も石井さんの毒気に一瞬、息を飲む。


「…いや、まあまあ。石井ちゃん、そんなに理子ちゃん責めるもんじゃないよ。自分が嫁に行けないからってさ」

笑いながら最悪のフォローを入れる中野さんに、理子は思わず「ぐえ」と言いそうになるのを慌てて飲み込む。
あんなセリフ、フォローという名の爆弾だ。火に油を注ぐどころか手榴弾を投げ込むようなものだ。石井さんは中野さんではなく理子に鋭い視線を向けて再び背を向けた。
あーあ。こういう年齢的なセクハラは、発言した男よりその場にいる比較対象とされている年下の女に対して憎しみが向かうんだよな。不思議な事に。
理子はもう石井さんに下手に気を使ったり、持ち上げる事をするのをやめようと心に誓った。とにかく最低限にしか関わらないのがベストだ。

それにしても自分はなぜここまで石井さんに敵意を向けられなければならないのだろう。子供の頃に見たオフィスドラマに出てくる御局様キャラのいびり。昔のドラマの中の出来事だと思っていたのに、まさか令和の時代の我が身におきるとは。
そういえば桜井さんがこの間、石井さんが以前、お金で揉めた事があるって言ってたけど、それって何だろう。国際ロマンス詐欺にでも引っかかったとか?
それと私へのこの敵意と何か関係あるのだろうか。

「お疲れちゃーん」

高い声で社長が出社してきた。今日はどうやら機嫌がいい。
理子が羊進円で仕事をするようになって三ヶ月が過ぎ、四ヶ月目に入った。
ジキルとハイドのようにコロコロと変わる社長の機嫌がだんだん読めるようになっていた。
一人称が「僕」の時は普通だが「俺」になるとやばい。普段は「理子ちゃん」と呼んでくれるが「友部」という苗字呼びだとやばい。「君ねえ」だと大丈夫だが「お前」だとやばく「貴様」だとハイパーやばい。などなど。
声のトーンが高い時は大抵機嫌がいい時だった。
作業フロアに入って来るなり、社長は目ざとくスタッフ達のデスクの上に置かれている信玄餅に気づいた。

「あれ?それ信玄餅じゃない。どうしたの?」

「週末、法事だったんで」

「あー石井ちゃんのお土産か。地元山梨だもんね。あ、じゃあ僕、仕事前に頂いちゃおっかな。理子ちゃん、コーヒー入れてよ。遂に羊進円カフェがオープンだね」

「あ、はい」

「せっかくだから、買ったばかりのカップに入れてよ。かなり高い金、払わせられたんだから」

社長は微笑みながら言う。その目はいつも通り笑っていないが、波打っている時は基本ご機嫌な時だ。
理子はチラッと石井さんを見るが、特に反応はない。

「あの、他に飲みたい方はいらっしゃいますか?」

「はーい」

中野さんと桜井さんが手を挙げる。
良かった。買ったばかりの波佐見焼のドリッパーは三つなので一気に入れられる。
理子はお湯を沸かしている間にコーヒースタンドにドリッパーを置く。
三つ並べると壮観だ。そしてアラビアのマイニオカップを用意する。うん、手にするだけでも心が踊る。
あ、せっかくだから画像を撮ってインスタにあげようっと。
フィルターと豆をセットする。オガワコーヒーの豆を入れて沸いたお湯を垂らす。
理子は作業ごとに画像を沢山撮った。

お湯を入れるとコーヒー豆がぷくぷくと泡立ち、カップに澄んだ茶色の液体が一雫、また一雫と落ちていく。いつもそれを眺める時、理子は無我の境地であったが、今回は映えアングル探しと画像を撮るのにせわしなかった。
淹れたコーヒーと信玄餅をトレーの上に載せて、会議室で仕事をしている社長に届ける。

「へーこれが噂の石井ちゃんを激怒させたコーヒーカップね。素敵じゃない」

げ。なんか、問題になっているみたい。理子の内臓は縮み上がる。社長はカップに口をつけて一口すすり細い目を見開いた。

「あ、美味しいねえ!やっぱりカップの飲み口が良いと味が違うねえ。理子ちゃんの言った通り、百均ショップのカップと大違いだね」

社長の感想を聞いて理子は嬉しさで体がじんわりと温かくなる。

「羊進円カフェに投資した甲斐があったよ」

社長は鼻歌を歌うように信玄餅のビニール袋を外し、黒蜜をかけまわす。

「まあ、自分より十歳くらい年下の可愛い女の子が入ってきたら、そりゃ面白くないよな。石井ちゃんも意外と女だよなあ」

クククと社長は笑いながら信玄餅を口の中に運ぶ。

「まあ、石井ちゃんの顔をたててうまくやってね」

はいと答えつつ、こちらが気を使っても相手が敵意むき出しだからなと理子は気が重くなる。

「で、理子ちゃん、うちの事務所で好きな奴できたんだ?誰?」

第8話  信玄餅 午後7時の成功譚 後編

「え?な、何でそんな事を聞くんですか?」
社長の不意を衝く質問に理子は声が裏返る。

「フッフッフ。僕、そういうの鋭いの」

ふっと社長が笑った時に信玄餅のきな粉がフワッと飛んだ。
社長は目を糸のように細くして理子を見つめる。付き合ってはいないが、自分が桜井さんを意識している事を気付いているのだろうか。

「ダメだよ。うちは社内恋愛禁止だからね。付き合う時はやめてもらうよ」
社長の細い目が一瞬、鋭く光る。

「そんな。それどころじゃないです。仕事で早く一人前になりたいんで」

理子は笑顔で会議室を出て行く。事実だった。雑用と羊進円カフェの運営と今日から新たに加わった事務所のSNS運営。
何屋か分からない仕事は忙しいが、まだまだデザインの仕事は半人前。彼氏は欲しいけど、まずは仕事だよなと理子は思い直す。

とりあえず羊進円のSNS係としてインスタのフォロワーを百人にする事を目標にする。
改めて羊進円の公式インスタをチェックする。八木さんは一日一投稿に記録のようなそっけない文章。何をやっている事務所か分からない。これじゃあフォロワーは増えないはずだ。むしろフォローしてくれた二十七人は何が楽しくてフォローしていたのか謎だった。

まずは朝、昼、夕方。人目に触れやすい時間帯に数多く記事を投稿して反応を見てからテーマを絞っていこうかな。
理子は『本日より事務所で羊進円カフェを始めました!』と羊進円カフェのタグを作って、毎日のお茶を投稿する事に決めた。これならコーヒー好きのフォロワーが増えるかもしれない。

理子はコーヒーを淹れた時に撮った画像をランチタイムに合わせてインスタに投稿することにした。
そして夕方。自分の仕事がひと段落した理子は信玄餅ネタを投稿すべく、画像に撮る事にした。
嗚呼、この透明の風呂敷包みは本当に可愛い。中が見える事で期待値が爆上がりだ。

「石井さん、信玄餅頂きます」

理子は作業している石井さんに声をかけるが、石井さんは振り向きもしない。
うう、面倒臭いなあ。いいもん。自分は信玄餅の世界の中に没入するのだ。
工場で一つ一つ手作業で結ばれたという結び目。それを理子は丁寧に外して皺を伸ばして畳む。これは今後、デザインで使うかもしれない。理子は地方銘菓の包み紙を捨てずにストックしているのだ。

次にそっと蓋を開けて黒蜜をかける。この時、理子は全部の蜜を使わず半分あえて残す。これは後のお楽しみ。
かけられた黒蜜をきな粉がはじき、黒い蜜玉がきな粉の上を転がる。それを楊枝で静かに崩し、きな粉とお餅に絡めておもむろに刺す。この時のムニっという感触が手から理子の全身に伝わってきて、期待値は三木谷カーブを描く。

きな粉が溢れないように左手で抑えながら、そっと口の中へとお餅を運ぶ。
噛み締めると、くにゅっという感触の後、黒蜜の香ばしい甘さときな粉の風味が口の中を駆け巡って幸せを感じる。その後、ゆっくりとコーヒーを一口。黒蜜とコーヒーはつくづく引き立て合うと理子は唸る。
味わっているうちは幸せで、石井さんとの面倒なトラブルを忘れられる。この忙しない事務所の中で自分だけ真空の繭玉の中にいるような、守られているというような、そんな気がしてくる。

お餅を食べ終わった後、信玄餅にはもう一つの楽しみがある。
それは残ったきな粉に半分残した黒蜜をかけて練り、きな粉玉にして頂く事だ。
理子はこれを『餅アフターのネルネール』と呼んでいる。このネルネールの為にあえて餅には多くの黒蜜をかけないのだ。

無心で練って出来上がったきな粉玉を口の中へと運ぶ。そして歯ではなく、あえて舌を使って口腔内で潰すようにして頂くのだ。口の中に残るきな粉の粒子のザラつきを楽しめる。そうしておもむろにコーヒーを一口、口内に含んで転がすように味わい、残ったきな粉を流すのだ。
信玄餅をじっくりと味わい尽くし、理子は「ほう」と一息つく。
その瞬間、理子を包んでいた繭玉がポンとなくなり、現実に引き戻される。

「あ、私、中身の画像を撮るの忘れた…」

食べ物を撮る時にありがちなミスである。つい食べるのに夢中になって忘れるのだ。包装されたものだけの信玄餅を載せるのは、味気無いなあ。
理子は中身も画像に撮ろうと冷蔵庫に入れた信玄餅を取り出した。するとめざとく中野さんが見つける。

「あ、ずるい!お前さ、人に一個だけって言っといて自分は二つ食べる訳?」

『ずるい』って子供か。三十六歳の男がつける文句ではない。

「違います。事務所のSNSにあげる用の画像を撮り忘れちゃったんで」

理子は新しい信玄餅を作業台の上にのせ、包みを開いた。

「あ、理子ちゃん、すごいよ。事務所のインスタ」

桜井さんが興奮した表情で理子に羊進円のアカウント画面を見せる。

「フォロワーが五十人になってる」

「え?すごい!何でですか?」

「今日の投稿にめっちゃ『いいね』がついてるね。あ、これ皆、北欧雑貨ファンの人みたいだね」

桜井さんがコメントをつけてくれた人のアカウントをチェックして言う。

「ほんと好きだよな。女は北欧デザインが。高い金かけて仕入れただけあったじゃん」

中野さんは馬鹿にしてるのか褒めてるのか分からない言葉で感心する。

「でもずっとフォロワー二十七人がいきなり五十、あ、五十二になってる。やっぱり俺はこういうの才能ないから友部さんに担当になってもらって良かったです」

八木さんが珍しく感謝の言葉を出した。

「八木ちゃんがそんな事言うの、珍しいじゃん。あ、もしかして理子ちゃんの事、狙ってるの?」

中野さんがニヤニヤしながら八木さんを見る。

「もう何、小学生みたいな事、言ってるんですか!そんな訳ないじゃないですか」

理子はムキになって怒った。桜井さんの前でこういう事を言われるのは困る。桜井さんを見ると、スマホの画面を見ていて会話に反応していない。

「そうですよ。本当に困ったアラフォーですよね」

八木さんも冷静にメガネのフレームを抑えながら言った。

「だいたい社長に社内恋愛禁止って言われてるんです。でもそもそも、それって何でですか?」

理子の言葉に中野さん、桜井さん、八木さんが一瞬、凍った。
ん?私、なんか変な事、言った?
中野さん、八木さん、桜井さんは凍ったまま、目線を石井さんに向ける。
んん?石井さんに関係ある事な訳?
しかし、石井さんはまるで会話が聞こえなかったのように、微動だにせずパソコンの画面を見つめている。

「り、理子ちゃん、俺にくれよー!餅くれよー!」

中野さんがその場の空気を変える為なのか、作業台に置かれた信玄餅を奪おうとする。

「あ、ちょっとやめて下さい!画像撮ってからにして下さい!」

「いーじゃん、くれよー!くれよー!餅!餅!」

二人がもみ合った瞬間、バン!と言う激しい音と共に石井さんが立ち上がった。
一同、驚いて石井さんを見る。

「ほんっと、くだらない」

低い声でそう言って、石井さんはバッグを抱えて勢いよく出て行こうとした。その瞬間、理子はぶつかりそうになったので避けたら中野さんの肩に勢い良くぶつかった。

「うわ!」

その勢いで中野さんが奪った信玄餅が宙を舞い、弧を描き、パソコンのキーボードの上に逆さまになって落ちた。
最悪な事に蓋が取れ、中の餅ときな粉がキーボードの上に派手に散らばった。

「うっ」

とまるで腹パンを食らった声をあげたのは八木さんだった。そう、そのパソコンは八木さんのものだった。

「八木ちゃん、ご愁傷様!これ、理子ちゃん、撮った方がいいんじゃない?衝撃映像」

「そうだよ!理子ちゃん!早く撮って撮って!」

中野さんと桜井さんが笑いながら理子を急かす。
そう言われると…。理子も反射的にスマホで撮り始めた。

「まあいいですよ。黒蜜をかけられる前で…不幸中の幸いです」

さすが八木さん、キーボードが信玄餅まみれになっても、動じない。淡々とキーボードの上に溢れた信玄餅を片付け始めた。

「これ、俺が食べちゃっていいですか?」

「え?あ、どうぞ」

八木さんは落ちた信玄餅を口に運びながら淡々と片付け、ベランダに出てパソコンを逆さまにしてきな粉を落とした。
と、その瞬間、風が吹き室内にきな粉が舞い散ってくる。

「うわ!」

「何やってんだよ、もう」

「すいません」

理子は作業台の上にあるハンディクリーナーで、きな粉を吸い上げる。

「大丈夫ですか?八木さんのパソコン」

「なんとか死なずに済んだみたいです。黒蜜をかける前で良かった」

「動画さ、信玄餅をキーボードの上にこぼした時の対応策ってタイトルでアップしようぜ」
中野さんははしゃぐ。

「でもこれ、事務所の下げ記事になりませんか?」
理子は撮った動画を見ながら言った。

「それは俺が映っているからですか?」
八木が無表情で理子に言う。メガネの奥の目が心なしか冷たい。

「いえいえそんな。とんでもない」

「とりあえず、フォロワー増やす事が先決じゃない?面白動画でもさ」
中野さんが笑いながら言う。とことん他人事である。

「俺は構いませんよ。アップされても」

「八木さんがそうおっしゃるなら後で投稿します」

信玄餅騒動後、理子は皆が帰った後も事務所に居残って大きな掃除機でカーペットを掃除した。同じく居残った八木さんが恐縮する。

「すいませんね、友部さん」

「いえ、とんでもない。元々はこちらの不注意ですから」

落ちたきな粉のざらつきで、石井さんがまた不機嫌になったらたまらない。理子は念入りにコロコロをかけながら八木さんに聞いた。

「あの、ところで社内恋愛禁止って奴なんですけど」

「ああ、はい」

「なんか石井さんに関係あるんでしょうか。あの話題で不機嫌になって帰った感じだったから」

「ああ実は。昔、あったみたいですよ。石井さん、事務所のスタッフと付き合っていたか何かして問題をおこしたとか」

「え…付き合っていた…」

あの化粧気も愛想もなくいつもジーンズの石井さんが、付き合っているというイメージが湧かなかった。

「で、問題とは」

「お金関係って俺は聞いてますけど。それ以上は知らないですね。それ以降、社内恋愛は禁止だって事くらいで」

お金。桜井さんも前に、そんな事を言っていた。

「友部さんが禁止を破ってこの事務所をやめる事になったら困りますよね。だから我慢します」

ん?
サラリと八木さんは言ったけど、それってどういう意味?って私、今、告白された?
え。八木さんに告白されちゃった?
理子はコロコロの手を止めて八木さんをみつめる。
八木さんはいつもと変わらず無表情でスマホを操作している。
と、その瞬間、スマホを見つめていた八木さんがクワッと眼を大きく開いた。

「と、友部さん!」

「え?」

「これを見てください」

八木さんがスマホの画面を見せる。羊進円のインスタアカウントだ。見るとパソコンのキーボードに落ちた信玄餅動画が五万再生され、フォロワーが百二十人になっている。

「うわあ!嘘でしょ?」

「凄い。たった一日で達成されるとは」

「そんな、八木さんのおかげです」

「とんでもない。友部さん、おめでとうございます」

八木さんが手を伸ばし、理子に握手を求める。理子はそれに応じて手を差し出す。始めた触れた八木さんの手は大きく、指は長かった。

「このまま是非、フォロワーを増やして下さい」

まっすぐ理子を見つめる八木さん。
よく見ると端正な顔立ちをしている。メガネの奥の切れ長の瞳。何気にまつ毛が長い。
無表情だから気付かなかった。八木さんて、イケメン…。
それに決してセクハラもパワハラもせず、下品な言葉も使わず品がある。私って意外と、いや結構、八木さんが好きなのかも…。
突然跳ね上がった羊進円の動画の再生回数と同じくらい、理子の心拍数も三木谷カーブを描いた。

第9話 うなぎパイ編 休日午後の告訴状 前編

最近、友部理子の頭の中は飽和寸前であった。

上京し、世田谷にある小さなデザイン事務所「羊進円」でアシスタントとして働き初めて五ヶ月がたとうとしていた。
仕事に慣れるどころか、理子は日増しに気持ちがいっぱいいっぱいになっていた。それは仕事の内容よりも、仕事場での人間関係での悩みだった。

とにかく「羊進円」のメンバー達は皆、変わっている。

社長の伊藤さんはジキルとハイド。いつもニコニコと穏やかなのだが、火がついた途端に『アウトレイジ』に出演していそうな反社に変貌する。その変化の激しさは山の天気のようである。

事務所内で一番の売れっ子、中野さんは既にアラフォーだというのに五歳児のように幼稚だ。いつも子供じみたイタズラや、理子に対しては下品なセクハラ発言をして困らせる。当然独身だ。

いつも淡々としている八木さんは常に無表情で何を考えているか分からない。僧侶のような落ち着きをみせている。つまり俗なところがない。

理子の三つ上の桜井さんは優しくて気遣いができる人なのだが、ナレコプシーという突然寝てしまう持病を持っている。これがいつどこでその持病を発動するか分からない為、締め切りを破ってしまい事務所内はそのフォローでパニックになる。

経理の石井さんは、この事務所において理子以外で唯一の女性。三十四歳独身。
「羊進円」の創業メンバーであり、石井さんの機嫌次第で経費が落ちなかったりするの為、社内のパワーバランスとしては社長の次に偉い。
ジーンズにシャツ姿で化粧っ気がなく、いわゆる女子力は低い。おまけに愛想もない。またこの羊進円にいた社員と付き合っていて、お金で問題を起こしたというまことしやかな噂が…。

理子はこの石井さんにどうやら嫌われたらしく、この数ヶ月、ほぼ無視されており、とても仕事がやり辛く困っている。立派なパワハラだと理子は思う。でも、こんな小さな事務所で訴える部署もない。

中野さんのセクハラや石井さんのパワハラで日々、心がすり減る中、桜井さんと八木さんから告白じみたことをされ、謎のモテ期を迎えている。
でもこの羊進円は社内恋愛が禁止で、付き合ったらクビと社長から言われている。あのアウトレイジ砲を浴びると思うと、そんな気には到底ならない。それでもなんとなく、桜井さんと八木さんの事を意識してしまう。

その上で次々にこなさなければならない仕事の雑務の数々。
理子は、心の中の何かが溢れ出しそうなものを抑えつけ、目の前の作業をなんとかこなしていた。

『ポップアップストアの看板や商品展示のデザインを考えて頂けませんか?』

ある日、そんなDMが「羊進円」のインスタに届いた。
二年間担当し、二十七人しかフォロワーを増やせなかった八木とは違い、理子がSNS担当になってからフォロワーの数は順調に伸び始め、一ヶ月過ぎて二千五百人を超えていた。フォロワーをチェックすると、コーヒーやカフェ、雑貨や食器好きが多いようだった。
理子は毎日「羊進円カフェ」というタグを作り、丁寧に淹れたコーヒーの紹介や、差し入れられたお菓子、羊進円の過去の仕事などをアップしていた。その効果が現れていたようだった。

インスタで仕事の依頼をしてきたのはスパイスの卸問屋だった。
手軽に飲めるマサラチャイ『スパイスマサラ』という商品を自社で開発し、その認知の為にポップアップストアを開きたいという。
ネットで調べてみると、ホームページはなくブログとインスタのみで宣伝している。インスタのフォロワーは三百人ほどだった。
理子がアップする写真の食器や、お菓子のレイアウトが前から気になっていたので是非考えて頂きたいという。

「すごい、理子ちゃんが獲得したクライアントじゃない」

桜井さんが拍手を贈る。

「てかさ、一ヶ月でこれだけフォロワーを増やせるって事はそっちの方が才能あるんじゃないの?クリエイティブというより、広報とかマーケティングやった方がいいんじゃない?」

珍しく中野さんが熱を込めて言うが、理子の嬉しい内容ではない。

「たまたまです。それに私がやりたいのは広報ではなくデザインなんです!」

理子は力を込めて言った。
今、自分は会社の中で何をしているのか分からない状態だ。このまま流されて言われた事をこなす日々から卒業したかった。
理子は会議室から出てきた社長にインスタにDMで依頼があった事を報告する。

「へー。昔は仕事を頼む時は紹介とか、知り合いのつてをたどって電話かメールってのが普通だと思ったけど時代だねえ。昭和世代の僕には不躾に思っちゃうけど」

どうやら今日はジキルで機嫌が良かった。

「今はこういう形で依頼が来る事がスタンダードなんですよ」

桜井さんがフォローしてくれる。

「ふーん。じゃあ、うちもホームページとか、もっと充実させないとね。それにしても、高い食器買わされたけど、あれのおかげで仕事が来たって事でしょ?投資した甲斐あったよね」

理子は思わず、デスクに座る石井さんを見る。ずっとパソコンを眺めている。さっきから一言も発していなかった。嫌味を言われるより、その沈黙が恐ろしかった。

「じゃ、それ理子ちゃんが担当してよ」

「え?」

「もう、アシスタントは卒業でいいでしょ。どんどん働いてそのコーヒーセットの何倍も、稼いでよ」

おお。ついに独り立ちデビュー。

「良かったじゃない、理子ちゃん」

「ほんとほんと」

「おめでとうございます、友部さん」

桜井さんと中野さんと八木さんが、理子に拍手を贈った。

「あ、ありがとうございます」 

胸が熱くなり込み上げてくるものを飲み込む。この五ヶ月、自分がやっていた事はコーヒーを入れる事、インスタの画像を撮ってアップする事、買い出しなどの使い走り、指示された通りのデザイン処理であった。やりながら「いつまでこんな事続くのかな」と思ってので「ようやく」という言葉が理子の喉元をつきあげる。
頑張らなければ。理子は気合いを入れる。

「あ、一応、フォローとして中野がついて」

社長が中野さんに言った。

「え!?」

つい理子は鋭い声を出してしまった。だって、依頼してきた卸問屋は多分若い女性をターゲットにしたいから声をかけてきたのではないか。理子が管理するインスタに反応するという事は。であったら、女子供をいつも馬鹿にしている中野さんが関わるのは真逆なのではないか。

「なんだよ、文句あんのかよ」

中野さんが拗ねたように言う。

「今、中野が一番仕事に余裕があるからね。だてに場数踏んでないから。それに交渉の時、おっさんがいるのも威嚇になるでしょ?そんじゃ、よろちくびー」

社長はどうしようもない昭和の下ネタを言って会議室に戻っていった。

「ち。おっさんって、なんだよ。ありゃハラスメントだな」

普段、口から出てくる言葉の七割がセクハラの中野さんが社長に舌打ちする。どの口がそんな事を言うのかと理子は呆れた。既に波乱の予感がする。

「近くに来たので」と『スパイスマサラ』のスタッフが事務所を訪ねてきたのは、インスタにDMを送ってきた三日後だった。
理子よりはちょっと年上とお見受けする女性スタッフの永井さんと小倉さん。
二人と理子と中野さんは羊進円の会議室で恭しく名刺交換をした。永井さんと小倉さんはスーツを着用しているのに対し、中野さんはジーンズにTシャツという部屋着のような格好である。明日、先方が打ち合わせに来て下さいますと伝えておいたのに。

わざわざかっちりしたシャツを着てきた理子は、中野さんが二日続けて同じ服だった事に心の中で舌打ちする。「なんか思っていたデザイン事務所と違う」なんて印象を持たれたら、どうしてくれるのか。
「突然の訪問、失礼します」と丁寧な挨拶と共に永井さんと小倉さんは『スパイスマサラ』のサンプルをテーブルの上に並べた。
ターバンを巻いたインド人のポップなイラストのパッケージが可愛いらしい。独自に調合されたスパイスがティーパックの中に入っていて、牛乳と共にカップに入れてレンジで二分温めるとマサラチャイが完成、という商品である。

「へーお手軽ですね!」

お茶が大好きな理子は食いついた。理子は自分でマサラチャイを作った事がある。鍋でスパイスと牛乳を一緒に煮立たせる際、目を離した隙に沸騰して牛乳がこぼれてしまった事があったのだ。

「あるあるですねー」

永井さんと小倉さんが笑った。

「マサラチャイって自分で作るとなると、ちょっとハードル高いんで」

「アンケートだと、牛乳を温めた鍋を洗うのが面倒とかって意見も多くて、だからレンジで一杯分だけ作れるように開発したんです」

おお。自分はこんな商品が欲しかった!理子はちょっと興奮してしまう。

「俺はこういうの、インドカレー屋で一回飲んだっきりかなあ。甘ったるくてちょっと苦手」

中野さんが衝撃発言をするので理子は凍りつく。思わず、会議テーブルの下で中野さんの脚をこずいてしまう。

「ん?何だよ?」

中野さんは失言した事を分かっていないようだった。
永井さんと小倉さんはそんな二人の様子を見て笑った。

「分かります。うちの会社の上司達がそんな感じだから」

「男の人はインド料理が好きな人以外は、あまり馴染みがないみたいで…」

そう言って、社内でスパイスマサラの企画を通す時の苦労を理子と中野さんに話してくれた。
スパイスには医薬同源効果がある。だからカジュアルな漢方のように売れば、エスニック料理の調味料としての認識しかない層や、若い世代に認知を広げられるのでは?と開発したのだという。

「スパイスの従来のイメージを覆して、若い女性にアピールするようなポップアップストアにしたいんです。それでご相談なんですが…」

永井さんは微笑みながら理子の目を見て言った。
二人が帰った後、理子は拍子抜けしていた。なんとこのポップアップイベントのデザインはコンペで決めるというのだ。
羊進円を含め、五つのデザイン事務所に声をかけていてその中から選びたいという。そんなの、今までアシスタントだった理子には荷が重すぎる。

「まあ、そんなにうまい話はないって訳よね」

ずっと黙っていた石井さんがここぞとばかりに言った。背中にちくっと刺さる言葉だったが理子は何も言い返せない。

「そんな大きくない会社なのに、コンペとは随分と偉そうですねえ」

八木さんが言った。多分、理子を慰めてくれているのだろう。

「何言ってんだよ。そんなの普通だろ?あっちだって社運がかかってんだから」

中野さんが強い口調で言った。理子は驚いて振り返り中野さんを見た。珍しくシリアスな顔をしている。

「でも、友部は今までアシスタントだったし、いきなりそんな大きい仕事、大丈夫な」

「関係ねえよ。誰だって最初はやった事ねえし」

石井さんの小言を中野さんが塞いだ。

「お前さあ、頑張って勝ち取ってこいよ、ポッポアップをよお」

え?何この熱いキャラ。中野さんてこんな人なの?理子は驚いた。そしてポッポアップじゃなくてポップアップなのだけど。そこは指摘しないでおいた。

第10話 coming soon

二週間後のコンペに向けて理子は猛然と頑張った。二十六年間生きてきて、理子がこれほどまでに集中したのは大学受験以来であった。
他の食品メーカーのポップアップストアのリサーチ、スパイスやスパイス料理の研究、競合他社の研究。休日はポップアップストアが開かれる予定のショッピングモールまで脚を運んだ。一日中行ったり来たりして客層のチェックをした。
それを踏まえて店内のレイアウトやデザインを何パターンも考えた。理子は思いつく限り、出来る限りの事をやりたかった。
驚く事に、コンペに集中していると他の悩みが気にならなくなった。石井さんの嫌味や、桜井さんや八木さんの事も。

一方、あれだけ熱い言葉を言ってきた中野さんは理子のやる事にノータッチだった。相談しても「俺、あんまりあの商品、興味ないんだよなあ」と言って逃げる。単に面倒臭いのだろう。
この仕事に関係のない桜井さんと八木さんの方が、悩む理子にアドバイスをくれた。二人の意見は一致している。

「クライアントは理子ちゃんのインスタを見て発注してきた訳だからさ。それって理子ちゃんのセンスを見込んでって事だから、自分のセンスを爆発した方がいいんじゃない?」

確かに永井さんと、小倉さんは若い客層にアプローチしたくてスパイスマサラを開発したと言っていた。という事は、下手なマーケティングでデザインするより、私が「好き」というものを爆発させちゃえばいいのではないか、という結論に理子は至った。

そこで思いきって、ちょっと北欧テイストを入れた店内のデザインを考えてみる。
鮮やかなレモンイエローの壁紙にブルーの棚を設置。そこにスパイスマサラを並べる。
中央部に置くショーケースは薄い木目の板でカバーして、試飲用の紙コップは白ではなく、壁紙と同じレモンイエローにする。お客さんに商品を説明する永井さんと小倉さんはエプロンではなく、レモンイエローのシャツにデニムを着用、そしてデニム素材のキャップをかぶる。

うん、これ良くない?理子はノリノリで店内をデザインする。よし、追い込みだと休日に事務所に来てまで作業していた。自分の部屋にいると誘惑が多いのだ。

「なんだ、来てたのかよ」

黒いスーツ姿の中野さんが作業フロアにやってきた。

「どうしたんですか?中野さん。スーツなんて着ちゃって」

「法事の帰り。ああ、あっつー」

中野さんは背広を脱いで、ネクタイを緩めながらドカッと椅子に座る。デスクの上にあるファイルで扇いで首元に風を送る。横目でちらりと理子のパソコン画面をのぞく。

「休日までご熱心ですねえ。手当が出るわけでもないのに」

ふざけた調子で中野さんが言った。

「勝ち取れって言ったのは中野さんじゃないですか」

「そんな事、俺言ったっけ?」

中野さんはシャツを脱いでTシャツ一枚になり、尚もファイルで扇いでいる。更にパンツのファスナーを下ろし始めた。

「ちょっと!何してるんですか!」

「何だよ、暑くて蒸れるからここで着替えて帰ろうと思ったんだよ」

なんて無神経な男なのか。でも中野さんはこの行為がハラスメントである事なんて分からないし、指摘したところで理解できないのであろう。

「あっちで着替えてきて下さい!」

「そんな照れる事ないって。見たら惚れるよ?」

「私の前で下着姿になったら訴えますよ」

「何だよ、怖いなあ」

中野さんは着替えを持って奥の会議室に向かっていった。
全くもう。せっかく集中して作業していたのに。手伝うどころか邪魔してくれてどうしてくれるのだ。
 ため息をつきながらパソコン画面を睨む理子の背後から「南仏っぽいな」と中野さんが声をかける。

「え?南仏?これ、北欧テイストなんですけど」

「また北欧かよ。好きだねえ、北欧が…」

先ほどのスーツ姿とはうって変わってTシャツ、短パン姿になった中野さんはカバンからうなぎパイを取り出した。

「やる」

うなぎパイを一つ理子に渡し、自分もむしるようにうなぎパイのビニールの包装を開ける。

「うわ!うなぎパイ、久しぶりです。どうしたんですか?」

「実家からパクッて来た」

「え、中野さんの実家って浜松なんですか?」

「沼津だけど。普通にいつも家にあんのよ、静岡県民の家には。」

中野さんはバリバリとうなぎパイをかじっている。口元からパイのかけらがボロボロとこぼれて膝の上、膝の上からカーペットの上に落ちる。んもう、掃除機をかけるのは私なのに。

「ちょっと、中野さん、ティッシュ敷いて下さい、ティッシュ」

理子はティッシュぺーパーを二枚引き出して中野の膝の上に敷いた。 

「ぐへへ。?夜のお菓子だからティッシュを使えってか?」

「はあ?」

理子は中野さんのセクハラ発言に凍りついた。
春華堂の『うなぎパイ』ほど誤解の多い地方銘菓はないと理子は思う。
なんと言ってもキャッチコピーが『夜のお菓子』なのだ。加えて「精がつく」象徴の「うなぎ」の形状をしているし。でも、中野さんがくれたうなぎパイは袋の中で三等分に折れていた。理子は袋を開けて折れたパイを一つ取り出す。

「ごめんね、中で折れてて」

中野さんがニヤついた顔で理子に言う。またかよと理子は鋭いため息をついた。

「死んで下さい」

「ヘッヘ」

理子はかけたパイをこぼれないようい口の中に運ぶ。甘さの中にどこかピリッとした引き締まった刺激を感じる。これはガーリックだ。ガーリックのタレを表面に塗っているところに、他のパイ菓子との明確な違いがある。

それにしても「うなぎ」「ガーリック」ときて「夜のお菓子」それはそれは誤解される訳だと理子はパイを噛みしめる。口の中でグラニュー糖のざらつきを感じる。このグラニュー糖を噛んだ時のプツンとした硬さが口の中でホロホロと崩れるパイ生地に食感のアクセントを加えて楽しい気分にさせてくれる。

ああ、これはコーヒーが飲みたくなる。

理子はキッチンに行き、午前中にコーヒーメーカーにセットしてそのままにしていた残りをカップに入れる。
立ったまま一口、口にする。煮詰まっているが、その煮詰まっているコーヒーの味も理子は嫌いではない。疲れている時や眠い時には淹れたてのコーヒーより煮詰まっているコーヒーの方がなぜか体に滲みるのだ。
中野さんの近くに行きたくないので、立ったままキッチンでうなぎパイとコーヒーを味わう。袋の中に残ったうなぎパイのかけらを手にすると、砕けたハートに見えなくもない。
コンペに向けて自分のテンションは高いと思っていたが、忙しさと慣れない仕事に複雑な人間関係にハラスメント。そして今回のこのコンペで勝てるかどうか、そのプレッシャー。理子の心は砕ける寸前だった。

「おーい、理子ちゃん、俺にもコーヒー」

理子は中野さんの言葉を無視してコーヒーをすすりながらパイをかじる。
沢山のパイ生地の層で出来上がったうなぎパイを理子は見つめる。層の数は数千層もあるのだ。それはなんと機械ではなく手で伸ばして作られる。
このパイ生地を作れる職人は春華堂でも限られた人しかいない。十年もの鍛錬を必要とする師範制度があるのだ。

そんな職人技の結晶であるうなぎパイが、中野さんのような低俗な人達の下ネタに使われるのはなんて悲しいのだろう。自分がここでの仕事がうまくいかなかったら、うなぎパイ職人に弟子入りしようかな。
きっとこんな雑念から無縁の尊い仕事であろう。毎日、バターの焦げる匂いやパイが焼ける甘い香ばしい匂いに包まれる仕事。それも素敵だ。理子はうなぎパイを味わう事に集中する。 

「こちゃん!」

「へ?」

理子は振り返ると中野が真横に立っている。

「だからコーヒー!」

「もう、自分で淹れてください。今日は休日なので私は雑用はしません」

「なんだよ。仕事しにわざわざ事務所まで来てるのに。仕事を選ぶんですねー!生意気ですことー」

理子は中野さんを無視して自分のデスクに戻った。

「なんだよ、生理?」

「なっ」

理子の顔がカッと熱くなった。 
歪んだ理子の表情にプッと吹き出した中野さんが更にニヤケ顔で続ける。

「それとも仕事ばっかりして欲求不満?あ、俺のうなぎパイ食べて興奮しちゃった?」

「い…」

理子は全身が怒りで震えだした。今まで生きてきて怒りで体が震えた事はなかった。

「いい加減にして下さい!!!」

理子は叫んだ。喉の奥が熱い。

「もう、うんざりなんですよ!中野さんの下ネタとセクハラ!毎日、毎日!地獄なんですよ!」

中野さんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして理子を見つめている。

「小さいデザイン事務所なことをいいことに言いたい放題で。中野さんが私に言ってきた事、やってきた事は普通の会社だったら処分させられますよ!」

「んもう、カリカリすんなよ、生理だからって」

「だから違いますってば!今度セクハラ発言したら、告訴します!法的手段に出ます!」

理子は絶叫する。そんな理子を中野さんは腕組みをしながら観察するように見て真顔で言った。

「あれだな。うなぎパイ食べて、精力があり余っちゃったんだな。さすがはマムシパワーだな」

中野さんは理子の魂からの怒りを全く理解できていないようだった。

「んもおおおお!」

理子の血管はぶちギレそうになった。「頭から湯気が出る」という慣用句を今、体感していた。
と、頭が水蒸気爆発をおこしたようなその瞬間、スッと頭部が冷たいもので撫でられた感覚に陥る。

「あ」

理子は急いでパソコン画面に向かった。そして北欧テイストの店内デザインを全て削除する。

「あー」

中野さんが理子のその行為に驚いた。

「なんだよ、頭おかしくなっちゃった?」

「中野さん、お手柄です!」

「あ?」

「中野さんのクソどうしようもないセクハラが役に立ちました!」

さっきまで怒り心頭だった理子は笑顔でパソコン画面に向かった。

第11話 coming soon