• 『香菜さんの男子禁制酒場』

  • 斎木マコト
    恋愛

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    地方の山間の町にある居酒屋「円」は美人だが口の少々悪い女将、香菜さんが一人で切り盛りしている。 そこにはいつも訳ありの女性客がやってきて…。 美味しい料理とお酒が彼女達の心を癒す、グルメなフェミ小説。

第1話 四十一歳の娘 前編

居酒屋『円』の扉を開けて一歩店の中に入ると、岩田由紀子の嫌な予感は嘘のように消え去った。

「美人女将が一人でやっているお店なんですよ」

夕飯を食べたいけど、このホテルの近くで美味しいお店ありますか?と聞いた由紀子に、フロントの中年男がウキウキとした笑顔でそう答えた。
古民家を改築したお店でお洒落な内装で、カウンター席があるから女性の一人客も居心地いいと思いますよ、とフロントの男は言う。料理も美味しいしお酒もいろいろ揃ってて、地元の客も多いし、自分もたまに行くんです。
いや、あんたの情報はどうでもいいし。そう由紀子は心の中で毒づく。

『古民家を改装』『カウンター席』『地元の客も多い』そしてとどめは『美人女将』

いかにもな香りがプンプンする情報だった。
その「いかにも」とは何か。
和服にエプロン、もしくはノースリーブのトップスにエプロンを着た美人女将がカウンターの向こうに立っている。長い髪を一つにまとめて白いうなじを見せている。
カウンターには常連のくたびれたおっさん客が数人。デレデレと欲望の視線を美人女将に向けている。それを、アルコールによる「酔狂」の視線であると誤魔化しながら。

「ママ、聞いてよ。うちの奴にこの間怒られてさ」

「仕事がきつくてさ。でも子供を大学に入れたいからやめられねえよな…」

男の客達は家族持ちである事をアピールした愚痴を女将にこぼす。
女将はうふふと微笑んで彼らに「大変ね」と優しく声をかけて鍋の蓋を開ける。
白い湯気がふわっと美人女将を包み込みフォーカスがかかり、常連客には女将が妖精のように見える。
そう、居酒屋の美人女将とは妖精なのかもしれない。
男達が描く、都合の良い幻想の女。
そんな幻想の女を由紀子は仕事で沢山見てきた。うんざりするほどに。

だからフロントの男に居酒屋「円」を薦められた時、嫌な予感がしたのだ。でも、こんな地方の山間の町でアルコールが飲める店なんて、常連客がカラオケを乱れ歌うような場末のスナックみたいなところしかないだろう。それよりはましだ。

遠くまで来たのだから、その土地の美味しいものを食べたいと思うのは旅行者の我儘ではないだろう。店の空気が「いかにも」ならば、テイクアウトにして部屋で飲むか。
そんな気持ちで入った居酒屋「円」の美人女将は決して妖精ではなかった。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

そう言って由紀子をカウンター席に案内する女将は、キリッとした眉毛にキレ長な瞳を持つクールビューティー。長い髪を一本にまとめ、白い長袖シャツの上から濃紺色のエプロンをつけている。包丁より薙刀を持った方が似合いそうな、ピンと貼りつめたオーラが漂っていた。

カウンターの隅に座る由紀子に女将は「飲み物は何にしますか?」とおしぼりを渡しながら聞く。

「この地方の地ビールってありますか?出来たら土地ものを頂きたいなと思って」

「ありますよ」
女将が由紀子の前に小さな瓶ビールと薄貼りグラスを置いた。

「隣の海の町に小さな醸造所があって、そこで作られたペールエールなんです。ちょっと苦味が強目ですけど、コクがあって美味しいですよ」

苦味、どんとこいである。
今、自分は人生の苦味を味わっている真っ最中なのだ。 
由紀子は手酌でグラスにビールを注ぐ。琥珀色の綺麗な色をしている。ビールの色を
「綺麗」なんて思う自分に由紀子は驚く。今までそんな心の余裕なんてなかったのだ。
一口のつもりが思わずグラスに半分ほど一気に飲んでしまう。今日は東京から四時間も車を運転してこの山の町に辿り着いたのだ。由紀子は体の芯から疲れていた。

女将が由紀子の目の前に、藍色の小皿にのった茹で落花生を出してくれる。
珍しいお通しだなと由紀子は思った。そういえばこの土地に来る前、落花生が名産だと何かの記事で読んだな。何の媒体の記事だっけと思い出しなら口の中に放りこむ。香ばしい甘さが口の中で弾ける。再びビールを一口飲んだ。

「おネエさん、どこから来たの?旅行?」

カウンター席の一番奥に座った赤ら顔の中年男が由紀子に話しかけてくる。
うわ、出た。由紀子は身構える。外で女が一人飲む時、一番煩わしいのが酔っ払った常連おやじに話しかけられる事である。

「ちょっと、やめましょうよ、タクさん」

赤ら顔の男の隣に座った若い男性がたしなめる。色の白い、柔かな表情をしたイケメンである。
「すいません」と苦笑しながら小さく頭を下げる男性を見て、どうせ飲み屋で話しかけられるなら、こんな若いイケメンならいいのに由紀子は思う。

同じ言動も、赤ら顔のおっさんからされると鬱陶しいが、若いイケメンの男性からされると嬉しい。こんな勝手な受け手の在り方。
若くて綺麗な女を優遇する男社会と自分の価値観はさほど変わらないじゃないかと自嘲する。でも一方でこうも思う。アラフォー以上の女が若いイケメンを好むのは男社会への無意識な報復なのかも、と。

また面倒臭い事をグルグルと考えてしまった。頭を空っぽにしたいから、こんな山あいの町まで車を走らせて来たのに。

「いえいえ。気にしてませんよ。東京から来たんです」

由紀子は社交辞令を発揮して薄く微笑んで答える。

「それは、ようこそ。はるばるいらっしゃいました」

女将が少しおどけた調子で由紀子に言う。

「私もここでお店を始める前は東京で働いてたんですよ」

「へえ。何の仕事してたんですか?」

女将が企みの笑みを浮かべて答えた。

「料理本の編集者」

「えー、意外」

「そうですか?結構いるんですよ。料理本の編集者で食べ物屋さんをやる人って」

なるほど道理で。女将のこのキリッとした厳しさを感じる佇まいはマスコミで締め切りや予算と格闘していた名残であろう。

「そこの遼介君も、2年前まで東京で働いてたんだよね」

女将が色の白い男性の方を向いて言う。
遼介と呼ばれた男性は由紀子に向かって軽く会釈する。

「東京では何の仕事してたんですか?」

「不動産の営業です」

遼介がはにかみながら答える。

「へえ。今は何を?」

「移動スーパーの運転手をやってます。」

「二人ともすごい転職ですね。地元がここなんですか?」

「全然」

女将と遼介が同時に答えるので、由紀子は思わず吹き出してしまう。

「僕はたまたま、今の仕事の求人広告を見て」

「私もたまたま。旅行で来て、この土地の食材に惚れちゃったんですよね」

「へー。なんか羨ましいな」

「たまたま」で東京から車で四時間かかるこんな田舎に移住できるなんて、随分と人生思い切れたものだ。

「私も移住しちゃおっかな…今の暮らしも疲れちゃったし」

東京での暮らしも仕事も全て捨てて、こんな自然豊かな山の町で暮らしてみたい。でも、いざとなると未練が残る。あれほど「クソだ」と思ってたのに。

「お、さては…失恋したな」

遼介の隣に座っていた「タクさん」と呼ばれる中年男が半笑いで言った。
でた。由紀子は心の中でため息をつく。

日本の中高年の男は、妙齢のシングル女性が転職したり引越したり旅行したりすると、その理由をなぜか「失恋」と結びつける。その度に笑って流すが、まるで女は恋愛する事が人生の目的と思われているようで脱力してしまう。

「ちょっと、あんたいい加減にしなよ」

ドスのきいた声で女将がタクさんを睨みつける。

「そういう失礼な突っ込みするなら今後出入り禁止にするから」

「ええ?失礼?失礼なの?俺の質問」

「もうさ、失礼って分かってないところが終わってるよね」
まさに由紀子が思っている事をそのまんま女将が口にしてくれて、胸がすく思いだった。 

「あ、いいです。大丈夫です」

「本当にごめんなさいね。アホな客で」

「確かに私、失恋したようなものですから」

「え?」

そう、私は失恋、いや大失恋した。長年大恋愛していたと思っていた相手に。
それは仕事だ。

由紀子は東京のドラマの制作会社でプロデューサーをしていた。
その制作会社はテレビ局の子会社である老舗で、由紀子が子供の頃から見ている多くの名作ドラマを制作していた。就職が決まった時は感無量だった。

由紀子は最初、監督志望だった。助監督として撮影現場についたが、初めて間近で見る芸能人に抱く興奮など瞬時に消えるくらい現場は過酷だった。
立ちっぱなしに動きっぱなし。次から次に雑用が言い渡されて寝る暇もない。途中で倒れた由紀子は監督は諦め、プロデューサーを目指す事にした。

プロデューサーの仕事は予算管理に脚本の制作、役者やスタッフの選定、現場の仕事をスムーズに行くようにケアをする事。バランス力と調整力、気遣いが必要とされる。

由紀子は五年、アシスタントをしながら自分の企画書を出し続け、二十代のうちにプロデューサーデビューを目指した。自分の企画が採用されれば、どんなに若かろうとプロデューサーになれるのだ。しかし、出しても出しても通らない。自分よりはるか年上の先輩でも中々プロデューサーになれないのだ。それは仕方なかったのかもしれない。

そんな中、同期入社の女の同僚が二十八歳にして漫画原作のドラマでプロデューサーデビューが決定した。しかも地上波のゴールデンタイム。異例の抜擢に嫉妬で狂いそうになった。なぜなら、彼女が考えた企画が選ばれたのではないからだ。人気少女漫画の映像化なので若い女のプロューサーがいいだろうと上司が彼女を指名したのだ。それってどうなのか。オリジナルの企画書を出し続けている自分や他の先輩社員ではなくて、なぜ彼女が選ばれたのか。由紀子は不服だった。

コケればいいのに。

自社のドラマなのにそう思った。先輩達も由紀子と同じ気持ちだった。
しかし蓋を開けると、ドラマは当たった。高視聴率が続き同僚は「注目の次世代クリエーター」としてマスコミ媒体に取り上げられるようになった。
極めつけはドラマの最終回の放送と共にドラマの公式ブログで自身の結婚を発表したのだ。しかも相手は一回り上の売れっ子脚本家だった。

完敗だった。毎日忙しくてプライベートは寝るだけの由紀子に彼氏などいなかった。たまに声をかけてくるのは妻子持ちの中年スタッフばかりだった。
しかも口説かれるというより、いきなり手を握られたり肩を抱かれたりといったセクハラまがいの事ばかりされるのも辛かった。

三十代、四十代になってもプロデューサーになれず、未婚のままいつも仏頂面でアシスタントプロデューサーをしている先輩を見ていると由紀子は自分の未来がこれなのかと戦々恐々だった。

やめようかな。でも、三十までは…。

しかし半年後、由紀子に転機が訪れる。あるホームドラマのプロデュースをやれと上司から命を受けたのだ。当初、担当するはずだった五十代の男性プロデューサーが退社する事になったからだ。大抜擢だった。

なぜ先輩達ではなく自分なのか。それはきっと自分が企画書を出し続けていて、それを上司達は評価してくれたのだろう。

かくして由紀子も二十八歳にしてドラマプロデューサーとなった。

第2話 四十一歳の娘 後編

分からない事や大きな問題は上司達が裏で処理してくれた。 
脚本家はキャリアのある大御所だった為、由紀子のアドバイスなど必要なく、勝手にマーケティングして視聴者受けを考えて構成して描いてくれた。 
結果はそこまで視聴率は伸びなかったものの、佳作として評価された。 
由紀子と同僚を制作会社は「二十代プロデューサー二人娘」として売り出した。 
プロデューサーになると驚くほど周囲の反応が変わる。 

スタッフや役者の指名権を持っている為「自分を使ってくれ」と営業という名の食事の誘いや、有名アイドルのコンサートの招待、ブランドバッグが贈られてくる。 
セクハラのような失礼な扱いはされなくなったし、アシスタント時代、邪険に扱ってくる演出家達は分かりやすく媚を売ってきた。 

役者達も「由紀子さん、綺麗ですよねー」と口説いてくる。もちろん気分は良かったが、テレビ局の女性プロデューサーが役者と付き合い、その役者がスターになったら捨てられたという例をいくつも知っていた。陰で「本気にしちゃって」と嘲笑されていたそんなミーハーな俗物になるものか。由紀子はそんな色恋営業をはねのけた。 

以来、毎年、一本の連ドラをプロデュースしてきた。ドラマは放送されるまで準備に半年以上かかる。一つのドラマの放送が終わるとまた次のドラマの準備。気がついたら十二年たち、由紀子は四十代になっていた。 
その間、同僚は二人、子供を出産した。由紀子は結婚はおろか、十二年間彼氏も出来なかった。  

でも自分にはドラマがある。プロデューサーとしてのキャリアがある。そう思っていた矢先、由紀子は制作部から映像の二次使用を管理する部署へ異動になった。納得できない異動に由紀子が上司に抗議すると、こんな答えが返ってきた。 

「若いプロデューサーを育てたいから」 

由紀子は打ちのめされた。 
若くないプロデューサーは、もうプロデューサーではないという事か。 

今まで由紀子は毎日のように業界人達から何かしら営業や食事の誘いがあったが、彼らは蜘蛛の子散らすように去っていった。彼らにとってプロデューサーでない人間は、無職に等しいのだ。そうか、彼らが興味を持っていたのは私ではなくて、私の役職だ。そんなの分かりきっていた事なのに。 

辞めちゃおうかな、会社。 

でも私、四十一だ。養ってくれる旦那もいない。この業界でしか働いた事ない。このご時世、老舗の正社員であるだけありがたいのかもしれない。 
由紀子や同僚に活躍の場を奪われて辞めていった男性社員達は、他の制作会社で活躍している話は聞かなかった。やはりテレビ局の子会社は強いのか。あれほど皆で「一人も出来る奴がいない」と馬鹿にしていた親会社のブランドに自分達は救われていたのか。 

心に緞帳が垂れ込むような毎日を過ごしていた由紀子は、街でばったりと井川さんに会った。 

スクリプターの井川さんは由紀子より五歳年上で何度か仕事をした仲だった。 
スクリプターは撮影した素材を全て記録する仕事だ。その為ずっと撮影現場にいる必要があるので、必然的にプロデューサーの由紀子と話す機会が多くなり仲良くなった。由紀子がまだ経験が浅い時は、現場でどう動くのか気を使いながら教えてくれた。結婚を機に仕事をしばらく休んでいたと聞いている。 
数年ぶりの再会が嬉しくて、由紀子は井川さんをカフェに誘った。 

「今、何のドラマを担当しているの?」 

井川さんに聞かれて由紀子は黙る。一番痛い質問だった。 

「実は異動になって、今はプロデューサーやってないんです」 

「え?何で?ユキちゃん、なんかやらかした訳?」 

「そんな。ちゃんと仕事してましたよ。なんか、若いプロデューサーを育てたいからって。今、ドラマ見る若い視聴者が減っちゃったから、そこを呼び戻そうとスタッフを若返りさせたいって」 

井川さんは一瞬、目を見開き、大きなため息と共に言った。 

「うわあ、ホント最悪だなあ、オタクの会社」 

オタク。いつも温厚だった井川さんが使う言葉ではなかったので、由紀子は驚いた。 

「親会社から圧力かけられて、そのストレスを女にぶつけてるんだよ。ほんとクソ」 

クソ。またまた由紀子は驚いて言葉を失った。 

「すごいよ、オタクの会社の社員のセクハラ。私は打ち上げの席で酔った津山に首をしめられて壁に叩きつけられた事があるんだよ。『井川さんはすごいセックスしそう』とかも言われたね。桑田にはサブで『築山ディレクターに股間におもちゃでも突っ込まれたの?』てニヤニヤした顔で言われたし。人がまるで体で仕事取ったみたいな言い方しやがって、私は慰安婦じゃないんだよ。ほんとクソな奴ら」 

慰安婦。目を見開いたのは由紀子の方だった。 

津山は由紀子の十期上のディレクターで、何度も仕事をしてよく気を使ってくれる兄のような存在だった。桑田は部長でプロデューサー。由紀子は事あるごとに桑田に相談して指導を仰いだ父のような存在だった。そんな猥褻な言動を彼らから投げかけられた事はなかった。 

その由紀子の心の内を察したのか、井川さんは見たこともない嫌悪の表情を浮かべた。 

「ああ、なるほどねえ。身内にはセクハラはしないのか。セクハラしても文句言えないフリーランスを狙ってやるんだ。選んでセクハラしてるんだ。更に最悪。そうだよね。一応、あなたにはスタッフの指名権があるし嫌われたら大変だもんなあ。こっちは鬱病で働けなくなってギャラも入らなくて大変だったんだから。いいよね、社員は」 

まるで人が変わったような井川さんに由紀子は返す言葉もない。 

「だいたいユキちゃん自体、オタクの会社の二人娘作戦をどう思っていた訳?人質みたいなもんじゃない」 

「人質?」 

「だってそうでしょ?親会社を怒らせたから大山さんとか、倉橋さんとか功労者の男のプロデューサーを全部排除して、若い女のプロデューサー差し出してご機嫌とって。まるで人質じゃない。それであなたに頭下げなきゃいけない男性スタッフのストレスはこっちにくるし、コンテンツのレベルは下がってる自覚は本人達にはないし。それで仕事の合間に親会社の愚痴ばかり。戦わずに若い女を盾にしてそれであなたが若くなくなったら、お役御免で新たに若い女を人質に出すって、どこまで腐ってんのよ」 

井川さんは一気にまくし立てる。 

「え、え。ちょ、ちょっと待って下さい。どういう事ですか?二人娘作戦って」 

「ユキちゃん。知らないの?でも、そっか。そうだよね、言える訳ないよね。本人に。でも出入り業者の間では有名な話だよ。娘作戦以来、一気に制作能力落ちたって」 

井川さんは由紀子を哀れむような視線を向けた。 
そこから由紀子の記憶は曖昧だった。 
部屋に戻ってベッドに倒れこみ、翌日は会社を休み車に乗り込んだ。 

そういう事だったのか。十二年前に私と同期がプロデューサーにいきなり抜擢されたのは。そういう事情があったからなのか。才能があったからではない。ただその時、たまたま二十代の女だったからだ。 
何だったのだろう。私の十二年間は。いや、新卒から数えると十八年か。滅多になれない職業だと思っていた。いっぱしのクリエーター気取りだったが、私の仕事は「娘」だったのだ。 
私が学生時代から愛して入社したあの制作会社。自分も愛されていると思ったら、裏で売られていたという訳か。 

「知らなければ良かった」 

由紀子の言葉に女将は厳しい視線を向ける。 

「あの時、井川さんに会わなければ。井川さんにそんな話を聞かされなければ、私は違う部署で地味だけど穏やかな会社員人生がおくれたのに…」 

遼介とタクさんが由紀子の横顔を見つめる。なんと声をかけていいのか分からないのだ。 

「知って良かったんじゃないですか?」 

「え?」 

由紀子は顔を上げる。女将は続けて言った。 

「知らなかったら、そのまま元娘として存在していくんですよね。その会社で」 

元娘。そうか。あの会社で女性の社員は娘か元娘しか存在しないという訳か。 

「まあ、ひとまずお腹を満たして下さい。長い運転で疲れたでしょうから」 

由紀子の前に丼が置かれた。 
かき揚げ丼だった。かき揚げが随分と分厚い。四センチはある。 

「うわ。揚げ物なんて久しぶり。丼ものも」 

「でしょうねえ、お互いに」 

女将は含み笑いをする。 
由紀子はなるべく太るものを食べないようにしていた。その筆頭が揚げ物だ。炭水化物もなるべく取らない。だから丼ご飯なんていつ以来だろう。 
かき揚げは箸でちぎれないので、由紀子は思い切って齧りついた。 

「お、豪快にいったねえ」 

脇目で見ていたタクさんが呟き、遼介に静かに突かれて下を向く。 

「あ」 

天つゆと思っていたタレに爽やかな酸味がある。 

「これ、ポン酢ですか?」 

「そう。カボスで作ったの。この辺りの土地では、結構カボスが採れるから」 

だから揚げ物もサッパリ頂けるわけか。かき揚げの具材は小エビではなく、大きめの車海老を荒く切ったもの、くし切りにした甘い玉ねぎ、そして三つ葉だと思った青葉はパクチーだった。 

「珍しい。私、パクチー大好きなんですよね」 

「女の人は好きですよね、パクチー」 

そうだ。男は嫌いな人が多かった。だから打ち上げや会食の店を選ぶ時は、パクチー料理を出さないような店をと由紀子はいつも配慮していた。 

パクチーと車海老のかき揚げは、東南アジアのネオン街のように色どりが鮮やかだった。海老のプリッとした食感にパクチーの風味が刺激を与えて、玉ねぎの甘さが包み込む。次から次に舌の上を意外な美味しさが踊り、由紀子は白いご飯を夢中でかきこんだ。 

気がついたら丼の中は空っぽだった。ペールエールも飲み切っていた。由紀子は満足気に大きく息を吐いた。 
長い間、自分に禁じていた事を一気にしたような開放感に満ち溢れていた。  

「ごちそうさまでした。なんか、久々に腹にたまるものを食べて、元気でたって感じです」 

「ふふ。良かったです」 

女将は由紀子に微笑みかける。 

「なんだなんだ。長い夜になりそうだな。俺達、付き合うよ」 
タクさんがグラスを由紀子の方に傾けて言った。 

「いえ、私はこれで。やる事があるのでホテルに戻ります」 

「えーそうなの」 
残念そうなタクさんに由紀子は笑顔で答える。 

「また来ます。会社を辞めてきたら」 

「え?」 
驚くタクさんと遼介を尻目に由紀子は素早く立ち上がり、支払いを始めた。 

「是非、またきて下さいね」 

「もちろん。また話を聞いて下さい」 

そう言って入り口の扉を開けて出て行こうとした瞬間「あ」と由紀子は振り返って女将に言った。 

「お名前を伺ってよろしいでしょうか?」 

唐突な質問に女将は驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んで言った。 

「香菜です。岡本香菜」

「香菜さん」 

「はい」 

「また来ます、香菜さん」 

「嬉しいな」 

「え?」 

「いつも大抵『女将』って呼ばれるから」 

そう照れ臭そうに微笑んだ。 
由紀子は微笑み返して店を出た。 

決めた。私は「娘」から人間になる。 
岩田由紀子という人間として生きていこう。 
これからホテルの部屋に戻って辞表を書く。そして明日、会社に提出しよう。 

あとの事は分からない。次の就職先なんてこのご時世、すぐに見つからないかもしれない。でも元娘として生きるよりはましだ。 
女が人間として生きていく事は社会では辛いことが多いかもしれない。でも、そんなの自分だけじゃない。 
自分と同じように人間として生きていきたい女はどこかに必ずいるはずだ。 
この店の女将のように。 

由紀子は夜空を見上げる。 
この地方特有の強い風が、由紀子の体に吹き付けてくるが寒くはなかった。炭水化物のおかげで体が熱いのだ。 
由紀子はホテルに向かって走り出した。 

(本日のお品書き) 
○クラフトビール 
○茹で落花生 
○パクチーと車海老と玉ねぎのかき揚げ丼(カボズポン酢仕立て) 

第3話 この世で最も嫌いな女、それは美味しんぼの栗田  前編

「あら、珍しい」

居酒屋「円」の古い木枠の扉を開けて入ってきた客を見て、カウンターに立つ香菜さんは高い声を出した。

「来ちゃったわよ」

企みの笑みを浮かべてカウンター席に座ったのは、ちょっと太めな中年女性だった。

「どうしちゃったのよ?繁美さん?主婦がこんなところで」

カウンターの端っこで飲んでいた常連のタクさんが声をかける。繁美さんと呼ばれるその珍客は地元のスーパー楓屋のベテランパートであり、お惣菜コーナーのチーフである。

「あら、やだ、タクさん。あんたいたの?」

「『いたの?』はないでしょう?『いたの』はー」

タクさんがビールグラスを片手に声を荒げる。 

「だって職場の人とあんまり飲みたくないから。遼介君と飲めるのは嬉しいけどね」

タクさんの隣で居心地悪そうに微笑む遼介を繁美さんは見る。

「はー。のっけからエイジハラスメントだよ」 

タクさんが枝豆をさやから押し出して、苦い顔で噛みしめる。

「夜、初めて来たけど、昼間と随分雰囲気が変わっていい感じじゃない?」

繁美さんがコードを脱いでカウンター席に座った。

「え?昼間って?ここ、ランチやってるんですか?」

夜にしか『円』に来た事のなかった遼介が驚いた表情で香菜さんに聞いた。

「あ、違う違う。ほら、緊急事態宣言の時にね、お昼にお弁当出してて、たまに繁美さんが買いに来てくれたの」

「敵情視察にね、チェックしてたの」

繁美さんが不敵な笑みを浮かべる。

「ここのお弁当も楓屋弁当の参考にしたのよ。パクリよ、ちょいパク」

スーパー楓屋は、コロナ禍にオリジナル弁当を数種類開発し、これが大好評で沢山売れに売れた。そのお弁当を作ったのが繁美さんなのだ。

「あらー光栄です」

香菜さんが嬉しそうな微笑みを浮かべる。

「私も何度か買ったんです。楓屋プロデュースのお弁当。この町のいろんなお店の名物が入っていて、お買い得ですよね」

オリジナル弁当は、コロナ禍でお客さんが来なくなったこの町の飲食店や、お惣菜屋に声をかけ、人気のメニューや惣菜を詰め合わせにしたものだった。
外出できないお客さんとお客さんが来なくて困っているお店を救うWin-Win弁当として注目を集め、地元のテレビ局が取り上げ繁美さんはZOOM取材を受けたりしたのだ。

「どうしたのよ、今夜は。忙しい年末に家の事、ほっといていいわけ?」

タクさんが聞くと繁美さんは吐き捨てるように答える。

「一年に一度くらい主婦が外で飲んで何が悪いってのよ!あ、ビールでお願いね」

「こわー」

繁美さんの剣幕に、タクさんと遼介は思わず身を縮める。かなりの迫力だ。 

「そうそう。なんなら一年に一度と言わず、週に一度飲みにきて下さい」

香菜さんが海の町で作られた地ビールの瓶と足付きグラスを繁美さんの前に差し出した。

「ほんと。そんな生活だったら最高。あら、このグラス、可愛いじゃない」

「ふふ。流石にお目が高い。最近、仕入れたイッタラ のものなんです」

「イッタラ ってフィンランドのメーカーですか?」

「あら、遼介君、流石女子力が高い。ここぞってお客さんの為に何客が仕入れたんだけど、冷製スープとかジュレとか食器にも使えるかなと思って」

「イッタラ だかバッテラだか知らないけど、どういう事よ?俺達には普通のグラスでさ。客を差別していいのかね」

「うっさい。うちでグラスや皿をいくつも割っといてそんな台詞を言うな。出入り禁止にならないだけありがたく思え!」

ピシャリと香菜さんがタクさんに止めを刺す。
ぽってりとした可愛らしさを感じさせるフォルムの足付きグラスに繁美さんはビールを注ぐ。レモン色をしたヴァイツェンの細かい泡がグラスの中でモコモコと成長を遂げる。その泡にキスするように繁美さんは一気にビールを喉に流し込む。

「ちょっとちょっと。乾杯もしないで何よ」

タクさんが繁美さんに絡む。

「えあ〜。うまい!あんた、さっきからうるさいわね。別に乾杯したい気分じゃないの」

繁美さんは既に半分以下にしてしまったグラスに残りのビールを注ぐ。

「人様が作った料理を食べながら一人で美味しい酒飲むって時間を過ごしたい時があるの!」

「嬉しいなあ。そんな時間を過ごす店に選んで貰えて」

香菜さんは内から喜びがあふれ出すように言って、繁美さんの前にお通しの豆皿を出した。その上には、五百円玉サイズの小さなコロッケがのっている。

「はい、これ一口コロッケ」

「ビールにあうのきたわねえ」

繁美さんがコロッケを一口で食べてしまう。

「熱っ、あふっ。あら?これってジャガイモじゃなくて里芋?」

「そう。里芋を潰したものなんです。ねっとりして、クリームコロッケみたいでしょ?」

「いいわねえ!クリームコロッケよりカロリー低いし、簡単だし。また中に入ったクリームチーズと粗挽きコショウがガツンときいてるわ。ビールにも合うし、コショウを少なめにしたら子供のお弁当のおかずにいいわね」

繁美さんは残りのビールを飲んだ。

「これ、真似していい?楓屋スーパーのお弁当に」

「どうぞどうぞ、嬉しいです」

「ありがとう。やっぱり外で食べるのって勉強になるわねえ。それにこのサイズの揚げ物をたった一つだけ揚げたてで食べられるのって本当に贅沢よねえ」

 繁美さんは唸るように言う。 

「やっぱ、今夜、この店に来て良かったー」

「やばい。嬉しい。繁美さんにそんな風に言って貰えて本当嬉しい。お店続けてて良かったー。コロナでもうやめちゃおうかと思ったけど、本当に良かったー」

繁美さんと香菜さんがお互いを褒め合う。香菜さんなんか、涙ぐんでいる。

「なんか、いいですね。そういうの」

遼介がしみじみ言った。 

「俺もお客さんにそんな風に思って貰える仕事が出来たらいいなあ」

「あら、出来てるじゃない、遼介君」

「そうですか?」

「そうよ。あなたの移動スーパーで買ったものをたまたま山から降りてきたからって、楓屋で買おうとするお客さんいるのよ。遼介君の名前だして」

「え?本当ですか?」

「本当よ、お弁当とかお惣菜とか。楓号で買ったのが美味しかったからって」

「えーなんか、嬉しいな」

遼介は目尻を下げて照れ臭そうに微笑む。

「うわ。何、この気持ち悪い感じ」

タクさんがケッという感じで持っていたグラスをカウンターに置いた。

「エセヒューマンの空間って感じ、俺、耐えられないからやめてくんない?」

「ちょっといい加減にしてよ。あんたの口から出る言葉、全部否定じゃない」

香菜さんがタクさんと一触即発となった瞬間、繁美が言った。 

「じゃあ、この気持ち悪いエセヒューマンの空間をぶっ壊していい?」

繁美さんが意地悪い笑みを浮かべる。
タクさん、香菜さん、遼介の三人は驚いた表情で、繁美さんの次の発言を待った。

「あんた達さ、この世で一番嫌いな女って誰?」

繁美さんの唐突な問いに三人は顔を見合わせた。

「何それ、どんな問いかけよ?」

「いいから。パッと思いついた女が誰か、言ってみて」

「えー誰だろう。苦手な人は結構いるけど『この世で一番嫌い』となるとなー」

香菜さんが上を見上げて考える。

「え?苦手な人、いるの?」

「そりゃいるわよー。いない訳ないじゃん。聖人じゃあるまいし。生きてたら苦手な人の一人二人、いや、三人四人、五人…?でもこの世で一番嫌いとなるとなー」

「こえーなー」

「そう言うタクさんは?」

「うーん。俺はいないなあ。若い頃、借金して貢いだキャバ嬢とか『あいつめ、結局金目当てで』とか、そりゃ思う事もあったけど。もうこの歳になるとねえ。あーいい勉強させて貰いましたって感じかな」

「へえー、あんたキャバ嬢に貢いでたんだー。へえー」

「あ、繁美さん、今の話、うちのに言わないでね!頼む!」

「まあ、それはあんたの今後の心がけ次第よね」

「脅しかよ。人がせっかく正直に答えたのに。じゃ、ここは若者の意見という事で遼介はいるかな?」

話の矛先を変えようと、タクさんが慌てて遼介に話を振った。

「え?俺ですか?いやあ、いませんねえ。まず、嫌いな人があまりいないんですよねえ」

遼介が曖昧な笑みで答えた。

「あら、流石、遼介君ね。最近の若者は徳が高い子が多いわよねえ」

「若くないですよ、もう三十超えてますから」

遼介が慌てて否定する。

「まあ、あれだ。お前は好き嫌いの前に人に興味がないからな。サイコパスだ、サイコパス」

「ひどい!ひどいなあ…」

遼介は芝居がかった調子で頭をカクッと深く下げる。

「ああ、危ない!グラスにぶつかるでしょ」

「だって人の事をサイコパス呼ばわりですよ!」

「なんか、あんた達の答え、つまらないわあ」

繁美さんが三人を薄目で見つめる。

「じゃあ、繁美さんがこの世で一番嫌いな女は誰よ?」

「よくぞ聞いてくれたって感じよ」

繁美さんが小鼻を広げる。

「私がね、この世で一番嫌いなのは栗田よ」

「栗田って?」

「『美味しんぼ』のク、リ、タ」

「はあ?」

タクさんが素っ頓狂な声を出す。

「そんな。ク、リ、タって噛みしめるようにまた」

遼介が苦笑する。

「笑いごとじゃないわよ!栗田ってのはね、本当にいけ好かない女なのよ」

「あーでも私、分かる!世界で一番って訳じゃないけど、私も栗田嫌いー」

香菜さんが興奮して珍しく声のトーンが大きくなった。

「でしょ?まず何よあの女。若い時から会社の金でいいもんたらふく食べちゃってさ」

「そうそう!」

「あたしなんか全部、自腹よ。スーパー楓屋の惣菜開発の為に美味しいものを自分の足でみつけて、自分の金払って食べて自分の中に蓄積していったわけよ。栗田は全部、経費で落として食べてるじゃない」

「え?でもそれってさ、仕事じゃん、栗田の。東西新聞の企画でうまいもの対決とかなんかする記事を書く為だろ?」

「そう、仕事よね。それは分かる。私も料理雑誌の編集者やってたから。経費で美味しいものを店に行って食べたりしてたから。でもねえ、栗田って…」

香菜さんが言いずらそうな、奥歯にものが挟まったような感じで言い淀んだ。

第4話  この世で最も嫌いな女、それは美味しんぼの栗田 後編

「いいのよ香菜ちゃん。言っちゃって。今夜は吐きだそう、栗田への不満を吐き出そう」

香菜さんは、ワイングラスに赤ワインを注ぎ一口飲んで一呼吸入れる。香菜さんは仕事中は滅多に飲まないから珍しい。

「栗田って新聞社の正社員じゃないですか。同じマスコミでも私がいた弱小編プロとは雲泥の差。もちろん、使える経費も雲泥の差だし、取材対象も大手の新聞社が相手となると対応良いわけじゃない。弱小編プロと違って。門前払いなんて扱い、そんなにないと思うのよ、栗田って」

「そうそう!」

「なんか巨大権威をバックに楽な仕事をして好き勝手美味しいもの食べているのに、なぜか本人は食文化を守って啓蒙しているジャーナリスト気取りっていうか。まあ簡単に言うと『何様よ?栗田』って感じ?」

「そう!ほんとそう!香菜ちゃん、よくぞ言ってくれたわ」

繁美さんが思わず立ち上がり、カウンター越しに香菜さんと固い握手を交わす。

「こわー。女ってこわー」

タクさんがぽかんと口を開けている。『唖然』という言葉はこういう表情を示す時に使うのだろう。

「俺はちょっと違う角度でダメなんです。栗田さん」

「お!」

香菜さんと繁美さんは、目は輝かせて遼介の次の言葉を待つ。

「栗田さんというか、山岡もなんですけど。出された食べ物に対してガタガタ能書きばかり語るじゃないですか。食べるものがあるだけありがたいという気持ちは彼らにはないのだろうか。ガタガタ能書きばっか語ってないで、黙ってありがたく食えよ!って子供の頃から思ってましたね」

静かに語る遼介のその言葉に、並並ならぬ重さを感じて三人は一瞬黙る。

「まあまあ、そのガタガタ語る能書きって食の蘊蓄だろ?貴重な情報だろ?『美味しんぼ』ってそれを読ませる漫画だろ?そこを原作者はめちゃめちゃ取材して労力かけて書いてる訳だろ?それ否定したら話が成立しねえじゃねえかよ。そもそも論だよ、そもそも論」

「まあ、そうですけど…」

「だいたいさ、そんなに嫌いなら三人とも読まなきゃいいじゃないの?。俺なんか、ここ数十年読んでねえけどな」

タクさんが呆れる。

「私だって二十巻くらいまでしか読んでないわよ。あの女が腹がたって読み続けてらんなかったのよ」

「だったらもう蒸し返さなくていいじゃん」

「よかないわよ。読まなくなってからの空白期間、結局、私には栗田以上に腹の立つ女が出てこなかったのよ。すごい女よ。栗田が山岡と結婚したっていうのは、風の噂で聞いたけどね。ほんとどこまでもすごい女よ…」

繁美さんの剣幕は止まらない。いつの間にか、香菜さんが飲んでいた赤ワインのフルボトルを奪って飲んでいる。

「風の噂ってググればわかるじゃんよ。それにもう読んでなきゃいいじゃない。だいたい結婚相手、山岡だよ?山岡みたいなグータラ男との結婚なんてどーだっていいじゃねえか…」

「どーだって良くないわよ!」

繁美さんと香菜さんがユニゾンで叫ぶ。タクさんは驚きのあまり、付いていた肘をガクッと滑らせる。

「あんた、山岡をただのグータラ変人サラリーマンだと思ったら大間違いよ」

「そうよ!あいつとんでもないボンボンじゃない。しかも只の金持ちの息子じゃない。親父は海原雄山よ。山岡が持っているのは只の資産じゃない、圧倒的な文化的資産なのよ。金で換算できないわ。山岡と結婚するってのは、その文化的資産を頂くって事なのよ。とんでもない強かな女よね、栗田って」

「そこよ!そこなのよ!分かってる!香菜ちゃん」

繁美さんは再び立ち上がり、香菜さんと硬い握手を交わす。

「飲む?」

繁美さんが赤ワインのボトルを香菜さんに向ける。

「飲む飲む」

香菜さんは繁美さんにグラスを差し出し、なみなみと注いでもらう。

「山岡と栗田の間に、三人子供ができましたしね」

「ほんと?かー!やるわねえ、栗田!」

「あーもう、海原家は完璧に栗田に取り込まれたね。恐ろしい女」

香菜さんと繁美さんが喚く。

「苦手とかいいながら詳しいじゃない、遼介君。なんだかんで栗田の事、好きなんじゃない?男ってああいう一見コンサバな委員長タイプに叱られたい願望あるじゃない」 

「違いますよ。町中華とか旅行でゲストハウスに行くと、小さい本棚にあるんです『美味しんぼ』のコミックスが。つい、暇つぶしに読んじゃって」

「ああ、あるなあ。『ゴルゴ13』もあるなあ」

「『こち亀』もあるわねえ」

「僕は、栗田さんが山岡と海原の親子の間を取り持つような差し出がましい真似をするのがちょっと…」

「そうそう!あのでしゃばり女」

「人にはどんなに親しくても踏み込んじゃいけない領域ってあると思います」

「その通りよ、遼介君。でもね、栗田の目的はあの親子の和解の先にあるものだからね、海原の文化的資産だからね。愛するパートナーの家族愛を回復するように見せかけてね。腹黒いわよね」

「…そうか。そう考えたら僕は逆にホッとします。栗田さんが善意でやっているんだと思って読んでいて苦しかった。僕が山岡だったら別れてしまうところだった。でも善意じゃなくてあれは打算なんですね」

「そうそう!」

香菜さんと繁美が再びユニゾンで叫ぶ。

「もう、あんた達、怖いよー。俺、この場にいたくないよお」

タクさんが泣きそうな顔になっている。

「じゃ、出て行けば」

繁美さんがタクさんに真顔で言った。

「え」

「あーこの台詞、私はね、あんたじゃなくて旦那に言いたいのよ!文句があるなら出て行けってね」

「なんだー、年末に夫婦喧嘩してここに来たって訳ねえ。そんで『美味しんぼ』の栗田に八つ当たり?」

「何があったんですか?」

「私、実はヘッドハンティングされちゃって」

「ヘッドバンキングの間違いだろ」

「ちょっと、タク!お前、退場!今度何か喋ったら、退場!」

サムいオヤジギャグにカッとなった香菜さんがタクさんを睨んで指を指す。
タクさんは黙って俯いた。

「どこからの引き抜きですか?」

「それが、日の国屋さん」

「えーすごい!高級輸入食材屋さんじゃないですか。しかも全国展開してるし」

「楓屋弁当を食べた担当者がね、地産地消コーナーを強化したいから、是非手伝って欲しいって。しかも正社員待遇」

「すごい!」

香菜さんと遼介は繁美さんに拍手を送る。

「それがそんな喜ばしい事じゃなくってね、旦那にチラッと話したら『お前何考えてるんだ』って。あのスイカ腹の男」

繁美さんはワインを煽るように飲む。

「まだ子供の受験も終わってないし、お姑さんの介護も始まったばかりで、誰が家の事をやるんだって。そんな五十のおばちゃんを社員待遇なんてうまい話ないだろうって」

繁美さんは途中から涙ぐむ。

「私は本当はね、東京に出て食の仕事をしたかったの。食べる事が大好きだからね。だから学生の頃から自腹切って勉強してきた。食べ歩きしたり、海外の屋台を研究したりね。でも卒業と同時に妊娠したから、諦めてこの土地に残って子育てしてた。子供が少し大きくなって手がかからなくなったらパートに出て家にお金入れてね。それでも美味しいものがあると聞いたら、少ないおこずかいをやりくりして車を飛ばして買いに行ったし、通販で取り寄せたり地元の人から郷土料理習ったり、この数十年、出来る限り勉強してたのよね。栗田が会社の金で高価なものを飲み食いしている間ね。そうしたら神様は見ていた。私にそんな夢のような話が舞い込んできた。それなのに、千載一遇のチャンスを旦那が潰そうとしてるのよ。ファミレスのハンバーグが何より美味しいっていうトンチキ味覚の旦那がさ。皿だって作家ものなんて分かりゃしない。そんな高いものを買うな。百均の皿でいいだろって。山岡だったら死んでも使わないようなツルツルペラペラの安っぽい皿よ。それどころか、お寿司のパックの蓋に色々おかずとかのせちゃうような男がさあ」 

「もう、それやるしかないよ、繁美さん!楓屋やめてやっちゃいなよ!」

香菜さんが繁美さんの呪詛を止めるように言った。

「だって私はもう五十だし、栗田と違って田舎のパートタイム主婦で、旦那のお義父さんは海原雄山と違って農家だし…」

「そもそも、比べるのが間違ってるんじゃないですか?」

香菜さんが繁美さんの前に鮮やかな藍色のパスタ皿を置いた。
クリーム色のショートパスタが盛り付けられている。
ところどころくすんだグリーンと黄色の具材がちりばまれていて、藍色の皿とお互いに色が引き立てあっている。

「はい、どうぞ。赤ワインに合いますから、ゆっくり食べて心を落ち着けて下さいね」

「何それ?さっきからすごい匂いなんだけど」

タクさんが店内に漂う濃厚な匂いを全て吸い取るような勢いで嗅ぐ。

「ゴルゴンゾーラソースなの」

「あら、ワインが進みそうねえ。いただきます」

さっきまで泣き叫んでいたカラスがなんとやらで、繁美さんは早速パスタをフォークで刺して口の中へ。

「あら?これって、パスタじゃないわ!モッチモチで。ニョッキ?」

「ふふ、何でしょう?」

「あ!お餅?」

「正解です。短冊サイズに切って入れてみました」

「へー、面白い使い方ねえ。合う合う!ゴルゴンゾーラソースと」

「でしょ?一回、トッポッキで作った事があって。日本のお餅でもいけるかなって」

「正月にお餅余ったら真似してみるわ」

「是非」

ソースの中に埋まった、1センチ四方の黄色い具材を繁美さんはフォークで刺して見つめる。

「これって…」

恐る恐る口の中へ運ぶ。

「あ、栗の甘露煮!意外と合うわね!ゴルゴンゾーラと」

繁美さんはワインをクイッと飲んだ。

「本当にワインにぴったり。グビグビ進んじゃう。それにゴルゴンゾーラのパスタって途中で飽きるけど、栗の甘さがアクセントになって最後まで飽きないで食べちゃう。」

「題して、御節の残りでイタリアンです」

「なんか最近は、甘栗とかモンブラン見るだけで栗田を思い出してイライラしてたけど、栗田もやるわねえ」

「すごい。栗を擬人化するほど栗田が嫌いだったんですね」

遼介が失笑する。  

「ゴルゴンゾーラって、家では中々手が出せない食材だけどさ。子供が臭いって騒ぐから。でも栗の甘露煮と合わせるって良いわね。今までキントン以外の使い道ってケーキに入れて焼いたりとかとか、デザートでしか考えた事なかったわ」

「そんな風にこの料理を理解してくれるのって、繁美さんがこの土地で長い間、スーパーのお惣菜売り場で働いていたからだし、家庭の仕事もしてからだと思うんですよね」

香菜さんが繁美さんに諭すように言った。

「それは栗田にはない武器じゃないですか」

「…そうよねえ、栗田には五十人前の惣菜、一気に作るなんて事、出来ないわよね」

「そっちの資産を大切にしましょうよ。お互いに」

「そうよねえ」

繁美さんがしみじみと呟き、ワインを飲む。

「ていうか、そもそもさ、フィクションのキャラクターと自分を比べるってのが…」

「うるさい!」

繁美さんと香菜さんがユニゾンでタクさんの言葉をピシャリと止めた。

「楓屋スーパー、やめるんですか?」

遼介が繁美さんに伺うような目で聞いた。

「年明けに店長に相談するわ」

「おー!」

繁美さんのその腹からの声に、並並ならぬ決断を感じてその場の三人が思わず拍手を送る。

「女、五十にして夢を叶えるわよ」

繁美さんが立ち上がってワイングラスを高らかに掲げる。
まるでニューヨークの自由の女神のようだった。
その神々しい力強さに、圧倒された香菜さんとタクさんと遼介は、無言で自分達のグラスを繁美さんに向かって掲げた。

(本日のお品書き)

○ブラックペッパーをきかせた里芋の一口コロッケ
○お餅と栗のゴルゴンゾーラソース

第5話 旦那に殺意を抱く時 前編

山間の町にある古民家を改造した居酒屋「円」は香菜さんと呼ばれる、キリッとした涼し気な目をした女将が一人で切り盛りをしている。 
そう聞くと、客の殆どは地元の男性客で溢れかえっていると想像するだろう。 
しかし、なぜか女性の一人客が多い。 

それは男性客が女性客に絡むと香菜さんが怒ってレフェリーの如く、イエローカードを出し、騒ぐと「退場」とレフェリーの如くレッドカードを出されるので悪酔いする下品な客が少ないからだ。 
男性にとっては多少、居心地は悪いが、ちょっときつい物言いで怒られる事を喜ぶ酔狂な男もいる。また、なんだかんだで香菜さんが作る料理と見立てる酒の旨さに足を運ぶのだ。 

一方で女性にとっては居心地が良い。一度来ると常連になる。 
それが「円」の魅力であり、香菜さんにとって誇りだ。今夜のお客様もそんな常連になる一人である。 

「あれ?理恵さんどうしたの?」 

「あれー!遼介さん?」 

『円』に入ってきた小柄で若い女性と、カウンターの奥に座る遼介はお互いに固まった。 

「なあに?二人、知り合い?」 

さえ箸で煮物をつつきながら香菜さんが訪ねる。 

「お?もしかして、遼介の元カノか何か?」 

遼介の隣で顔を赤くしてレモンサワーを飲んでいるタクさんがニヤつきながら聞く。 

「遼介君、その男の首、締めていいよ」 

香菜さんが鍋の蓋をしめて言った。 

「はい」 

遼介がタクさんの首を軽く締めて左右に揺する。 

「やめろー先輩いじめはやめろー」 と、タクさんは大げさに騒いだ。 

「うちの実家の近くを遼介さんの移動スーパーが通るんです。それで実家に帰った時、 よく利用してたんです」 

『理恵さん』と呼ばれる女性はダウンジャケットを脱いでカウンター席に座った。 
ジャケットの下は上下グレーのスウェット姿。その理恵を見て、遼介は軽く驚いて言った。 

「あれ?実家に戻ってるんですか?」 

「ううん、家出してきた」 

「え?」 

遼介とタクさんと香菜さんが、一瞬、目を丸くして理恵さんを見つめる。 

「あ、ビール下さい」 

「あ、はい。どれがいいかな?」 

香菜さんが冷蔵庫から冷やしていた地ビールを三種類見せる。 
海の町にある醸造所で作られている、この地方人気の地ビールだ。 

「あ、IPAがいいです。このビール、うちにも置いてるんです。人気ですよね」 

香菜さんからグラスとビールを受け取り、理恵さんはグラスに注ぎ始める。   

「料理屋さんやってるの?」 

「いえ、旦那とゲストハウスをやってるんです。海の町で。そこのカフェスペースでお客 さんに出してます。うちは一本、五百円取ってます」 

「あら、うちより百円安い」 

「ちっちゃいスペースで出してるだけなんで。でも私は節約しているから滅多に飲まないんですけど、今夜は特別!」 

理恵さんは美味しそうに味わうようにビールを飲んだ。そこに香菜さんが、揚げたての餅アラレを出す。 

「わーい。これ、懐かしいな。お婆ちゃんちみたい」 

「まだまだ正月の生餅が余ってるのよー」  

理恵さんは早速、アラレを口に放り込む。 

「あ、これ、山椒がかかってるんですね!うん、大人の味」 

理恵さんは口にしたアラレを追うようにスルスルとビールを美味しそうに飲む。 

「帰りは大丈夫ですか?理恵さんの実家、今、車を運転出来る人いないですよ ね?」 

遼介が聞いた。遼介は週三回、理恵さんの実家の近くを移動スーパーの車で回っている。だから家族構成も家族の事情も知っているのだ。 

「大丈夫。この近くのビジホに泊まってるから」 

遼介とタクさんと香菜さんは三人、顔を見合わせる。 

「あ、家出って実家からじゃなくて、海の町のゲストハウスからね。この年で家出したなんて恥ずかしくて親に言えないよ。婆ちゃん、心配するし」 

「お子さんはどうしたんですか?」 

「置いてきた。今、旦那と二人」 

理恵さんはふつふつと沸いてくる怒りを押し戻すように、ビールを飲む。 

「大丈夫なんですか?」 

「大丈夫じゃないと思うけど、大丈夫じゃない事を知って貰いたかったから」 

理恵さんは持っていたグラスを乱暴にカウンターの上に置いた。 

「このままだと私、旦那を殺してしまうと思って」 

理恵さんの物騒な言葉に、三人は再び顔を見合わせる。 

「えーと、喧嘩でもしたんですか?」 

「旦那がアホな事を言い出して、もうほんとやってらんなくって」 

理恵さんはまるで挑むようにアラレを頬張る。 

「そんな勢いで食べると、口の中、切っちゃうよ」 

香菜さんが苦笑しながら理恵さんに注意する。 

「え?アホな事ってなに?なに?」 

タクさんが身をのりだして聞いてくる。目はギラつきその額はテカテカに光っている。 

「おい、そこのテカってるおっさん!」 

香菜さんがタクさんを牽制する。 

「あ、大丈夫です。私も吐き出したいんで。ちょっと聞いてもらえませんか?」 

理恵さんがタクさんをまっすぐ見て言った。 

「うん、聞く聞く!おじさん、聞くよー」 

タクさんが隣に座る遼介を押しのけて身を乗り出す。 

「実は、うちの旦那がフードトラックやりたいって言い出したんです」 

「へえ!」 

理恵さんの意外な答えに三人は思わず、大きな声をあげた。 

「え?ダメ、なの?」 

「今はまだコロナが終わった訳じゃないし、いいんじゃないですかね。お客さんも喜ぶと思いますよ」 

「そうだよな。海の町も別の楓号が走ってて、盛況だって聞いてるよ。ゲストハウスみたいな観光業はまだお客さん戻ってこないから、いいんじゃないの?」 

移動スーパーの運転手として働くタクさんと遼介は、この辺境の地で食料を運ぶという 仕事がいかに重要な事か身をもって知っているし、そこにはプライドがあるのだ。 

「そんな遼介くん達みたいな立派な考えじゃないんです、うちの旦那」 

タクさんと遼介の言葉を聞いて、理恵さんは脱力して答える。 

「映画の『シェフ』って知ってますか?三ツ星レストランのシェフがフードトラックやる話、それを観て影響されちゃって」 

「あー…」 
なぜか香菜さんがため息のような声を出した。 

「あ!俺、その映画大好き!泣けるよね。あの映画はね、子供いる親父にとってはもう、応援歌みたいな映画だよ」 

「あ、そういえばタクさん、前に言ってましたね。楓号もその映画に出てくるフードトラックみたいなデザインにしたいって」 

「そうなんだよ、あのフードトラックのデザイン、可愛いんだよ。俺、辛い時とかたまに見直すよ、あの映画。どん底の時、あの主人公に自分を重ねて『頑張ろう』って思うんだよ」 

タクさんがいつになく熱弁する。 

「どん底ねえ」 

「あれがねえ…」 

香菜さんと理恵さんがそれぞれ鼻で笑うような調子で言う。 

「な、なんだよ…」 

二人のリアクションにタクさんが戸惑った。 

「あれがどん底なんて、マジふざけんなっつうの」 

「ほんと。私、あの映画大嫌い。観てて白けるのよね」 

「どうして!どうしてだよ!?」 

まるで心外だと言うように、タクさんは女性陣に食らいつく。 

「レストラン、クビになっちゃうんだぜ?どん底だろ?」 

「自業自得ですよ!あんな下品なツィートして、オーナーに逆らって」 

「本当にそう。自分が作りたいものを作りたきゃ、他人の資本に頼るなっつーのよ」 

「そうですよ、それになんであれがどん底なんですか?あの程度で?元カノがスカヨハですよ?それで未だにいい関係で着崩れた格好でベッドに寝転んで『あなたの作ったペペロンチーノ、最高〜アハーン』なんてエロい声出して。それのどこがどん底なんだっつーの!」 

「ああ!確かに俺もそれは思ったな」 

黙って聞いていた遼介が急に身を乗り出す。 

「あれは男にとっては天国のシチェーションですよね。あのシェフのルックスでスカヨハと付き合えるって。前の奥さんも美人だし経済力はあるし精神性は高いし。彼がどん底なら、彼女がいない俺は一体、何なんだろう…底なし沼ですね。いやあ、悲しくなっちゃいますね」 

遼介が自嘲気味に言ってグラスについている水滴を撫でる。 

「何だよ、お前。人を見てくれで差別して。それにどっちの味方だよ?だいたい映画だろ?フィクションだろ?」 

「いや、フィクションだからこそ、もっとリアリティを感じさせるキャスティングをするべきだと俺は思いますね。もっと中年で人間味ある女優さん、沢山ハリウッドにはいるでしょう?それをよりによってスカヨハって。地球上の男の夢ですよ」 

「そうそう!遼介君、男なのによくぞ言ってくれたわ。私もね、まずあそこで『はあ〜?』って突き放された気分なの。それと許せないのはね、どん底設定なのにあの男、一つも孤独じゃないのよ。一人じゃないのよ。まずただで愚痴を聞いて励ましてくれる人がいる。それがなんとスカヨハよ。前の嫁も好意的だし部下からの信頼も厚くって、逆境でもついてきてくれて仕事を手伝ってくれる。息子もパパが大好き。何これ。天国じゃない。そんなところで好きな料理が作れないなんて我儘言ってんじゃねーよ、あの男!」 

一気に言い切って、香菜さんは肩で息を切っている。   
『ねーよ』という香菜さんの乱暴な言葉に理恵さんはもちろん、遼介もタクさんも呆気に取られて香菜さんを見る。 

「あ…」 

我に戻った香菜さんは「ごめんなさい、私、お客さんの前で」とバツの悪い顔をして言った。 

「実は私、離婚してて…」 

三人、唖然とした表情で香菜さんを見つめた。 

第6話 旦那に殺意を抱く時 後編

「それで、仕事も辞めて東京からここに一人で引っ越してお店を始めるまで、ほんっとーに色々あって。全部一人でやってきたから。お金を持ち逃げされちゃった事もあったし。だからもうあの映画を見た時、あの男の甘えとお花畑などん底にただただ驚いて最初から最後まで唖然としてしまったのよね」 

「お花畑などん底…」 

タクさんがうわ言のように呟いた。 

「お花畑などん底ってなんか分かります。私はあの映画をクソバカ男のクソロマンだと思いました」 

「クソバカ男のクソロマン…」 

理恵さんの言葉を受けて、タクさんが再びうわ言のように呟いた。 
理恵さんはともかく香菜さんが遼介やタクさんの前で自分の事をこんなに赤裸々に語る のは初めてだった。いつも明るくて男前の香菜さんが客前でこんな事をこぼすのは、よっ ぽどの出来事があったのだろう。  

「なんかごめんね。私ったら、お客さんの話を聞く立場なのに、愚痴というか悪口巻き散らかしちゃって」 

「そんな事ないですよ!」 

遼介と理恵さんは一緒に叫ぶ。 

「俺はすごい香菜さんの意見を聞けてホッとしたんです。俺はあの映画を観たとき、スカヨハの元カノ設定を含めて『何だろう、このファンタジーは』って思ったんですよね。俺にとって全く現実味のない世界だった。ものすごい遠くの惑星でおこっている出来事というか。それで他の人はどう思っているんだろうとネットで検索したら、皆、絶賛で激賞な訳ですよ。感動だって。男なら絶対に泣けるって」 

「俺の事?」 

「まさしくです。だからあの映画を観て全くそんな事を思えない自分が、何だかひどい人間に思えて辛かった。そんな事、誰にも言えないし」 

「私もです。香菜さんが私の代わりに怒ってくれたみたいでホッとしました。逆にありがとうございますって感じ」 

「そんな…」 

「なんか俺だけ取り残されちゃって」 

タクさんがつまらなそうに固くなった餅あられを齧っている。 

「うちの旦那、あの映画に触発されて借金してまでやろうとしてるんです。フードトラッ ク」 

「いいじゃん。他人の資本じゃないじゃん。偉いじゃねえかよ旦那」 

「でも夫婦の借金になるわけですよ?実はコロナでお客さんが減っちゃったから、旦那は港でバイトして生活費を稼いでくれてたんですよ。朝早いし体は慣れてないから疲れて帰ってきて、だから育児手伝ってくれなくても仕方ないと思って、ずっとワンオペで育児とゲストハウスの運営をしてたんですよ。それに対して、うちの旦那、全く労いの言葉もないし、帰ってくると「飯がない」って私に更に家事をやらせようとするんですよね。まるで外で働く事の方が偉いって感じで。それでも子供抱えながら作った料理に対して、手抜きだとかたまには俺、うずらの卵が入った餡かけ焼そば食いたいとか言い出して。そんなの勝手に外で食って来いよって。こっちは毎日、子供の世話の合間に簡単な料理、ガソリンみたいに口の中に押し込んでるんだよ。目が離せないから毎日髪も洗えないし、友達と外に遊びに行く事なんて、もう何光年前の昔なんだろう。自分の事なんて全部後回し。そういうの、あの馬鹿、全く分かってなくて餡かけ焼そばですよ?うずらの卵入りの」 

「子供は今、幾つなの?」 

「もうすぐ2歳です」

「あーそりゃもう、悪魔だなあ。天使の顔をしたイヤイヤ悪魔」 

二人の娘さんの親であるタクさんは父親の顔を見せて笑った。 

「そうなんです!その悪魔の面倒な世話は一切やらず、遊んだりとか育児のいいとこ取り ばっかして。その上でフードトラックやりたいとか馬鹿なんじゃないの?あの男!」  

理恵さんは涙ぐみながらマシンガンのような勢いで話し続ける。 

「理恵さん、どうどう」 
遼介が優しい声で落ち着けようとするが、その言葉は耳に入らないのか理恵さんの勢いは止まらない。 

「じゃあせめて、借金しないでお金が貯まってからにしようって。子供が三つになるまで待ってよって言ったんです。だって、料理の仕込みを、私が絶対に手伝う事になるから。ゲストハウス運営しながらそんなの絶対無理。悪魔の面倒を看ながら無理無理。でも、旦那、分かってないんですよ。私がずっと一人で面倒をみてて、夜中に泣いても旦那が朝早いから私が一人であやしてて…。一緒に住んでるのに、全然分かってないんですよ…。だからあんなクソバカ男のクソロマンに…。殺したい、ほんとマジ殺したいですよ」 

顔は怒っているのに、理恵さんの瞳から涙がハラハラと流れている。 

「分かった。理恵ちゃん、寂しいんだ」 

理恵さんは一瞬、目を見開き香菜さんをじっと見つめる。 

「寂しいよね。一緒に暮らしてるのに相手は自分の事、見てくれないんだもん」 

香菜さんの言葉に理恵さんはひゃーんと子供のような声をあげて泣き出した。 
タクさんと遼介は動揺し、なんと声をかけていいか分からずお互い「お前がいけ」とつつき合っている。でも香菜さんは冷静だ。 

「寂しい気持ちを殺意で押し殺してたのよ。分かるな、私もそういう時があった」 

理恵さんはおしぼりで顔を抑え、声を押し殺して泣いている。 

「ちょっと今夜は私も愚痴っちゃったから、皆にご馳走させて」 

香菜さんはそう言って、大きな鍋の蓋を開けた。湯気が勢い良く立ち上り、店内の張り詰めた空気を緩めてくれる。 

「何、キューバサンド作ってくれるの?それともウズラの卵入りの餡かけ焼きそば?」 

タクさんがふざけた調子で言うと、一瞬その場にいる三人が無表情になってタクさんを睨んだ。 

「…すいません」 

タクさんが殊勝な態度で不謹慎な発言を謝った。 

「はーい、熱いから、気をつけてね」 

香菜さんは三人の前にそれぞれ、蓋がついたホタル茶碗とレンゲを置いた。 

「お、茶碗蒸し?あ、このサイズだと小田巻?」 

タクさんと遼介が茶碗の蓋を開けて言った。 

「それは食べてのお楽しみ」 

「あ、上に餡がかかってる。蟹肉ですか?うわあ、豪華だなあ」 

遼介のテンションが上がる。 

「ほら、理恵ちゃんも」 

香菜さんに促され理恵さんは顔をあげて、おずおずと茶碗の蓋を開ける。 

「湯気、あったかい…」 

うわ言のように呟きながら、理恵さんはレンゲでひとくちすくって口の中に入れる。 

「蟹の出汁、効いてる…」  

理恵さんはハラハラ泣きながら食べている。 
赤みがチラつく蟹餡の下には真っ白な楕円形の具と丁寧に結んだ三つ葉が出てくる。 

「具は…これは百合根と、三つ葉ね。あれ?これってうどんじゃなくて、餅?もう、餅使 いすぎだろ。あ、でも合うねえ」 

蟹餡と一緒に柔らかくなった餅をタクさんは口の中に入れてハフハフしている。 

「このカニ餡のとろみと、お餅の粘りが絡み合って面白い食感ですね。しかもお餅、一 度炙ってるから香ばしさもあって味にふくらみが…。あ、俺、今、山岡みたいな事言 ってますね」 

遼介も顔をほころばせながら食べている。 

「俺、一人暮らしだからこんな手間のかかった料理、食べるの久しぶりです」 

「私も…」 

理恵さんがホロホロと泣きながら遼介に続く。 

「具材を丁寧に処理してあるこんな手間がかかった料理も、こんなにお出汁を効かせた料理も、こんなにあったかい料理も本当に久しぶり…」 

「小さい子供がいて仕事持つ主婦はねえ、時短料理ばっかになっちゃうからね。あえて手 間暇かけたものを作ってみました。どう?ちょっと気持ちは落ち着いた?」 

理恵さんはゆっくりと頷く。 

「じゃあさ、明日、家に戻ったら旦那さんにさっきぶちまけた事、落ち着いてちゃんと言ったほうがいいよ」 

「え?」 

「自分のこと、ちゃんと見てくれなくて寂しいって」

「そんな事…」 

「そんな事?大事な事でしょ?だから家出までして泣きながら叫んでるんじゃない。殺したいなんて喚いてるんでしょ」 

「ごめんなさい、私、初めて来たお店で…」 

「うん。私に謝るくらいなら旦那さんにちゃんと伝えなよ」 

理恵さんは小さく頷いた。 

「俺の嫁も子供がまだ小さい頃、酒飲み歩く俺の事を殺したいと思ってた事あったのかな ー」 

タクさんがしみじみとした調子で言った。 

「あるでしょ、そりゃ」 

「今もそう思ってるんじゃないですか?」 

香菜さんと遼介は笑いながら言う。 

「えー!マジかよ!やめろよ」 

タクさんが本気で怖がっている。 

「あ!」 

理恵さんが急に立ち上がった。 

「どうしたの?」 

「旦那からのline無視してたら電話が」 

カウンターの上に置かれた理恵さんのスマホがバイブ機能で小刻みに揺れている。 

「出て出て!さっきの事、ちゃんと言って」 

スマホを見つめる理恵さんに「早く!」と急かす香菜さん。 
理恵さんはスマホを持って立ち上がり、小走りで店の外に飛び出した。 

「あー、ダウン着ないと外、寒いんじゃないかな」 

理恵さんのダウンジャケットを手に取って、追いかけようとした遼介を香菜さんが「ダメダメ」と止める。 

「大丈夫。熱い会話してんだから、ほっときなって」 
遼介と香菜さんとタクさんは入り口の扉をじっと見つめ、その向こうの会話を想像しながら微笑んだ。 

(本日のお品書き) 
○お餅のアラレ 山椒風味 
○ユリ根とお餅の茶碗蒸し 蟹餡がけ 

第7話 マンスプレイニングと言う名の公害 前編

東京から車で片道4時間かかる山間の町。

そこには古民家を改装したお洒落で小さな居酒屋『円』がある。
『円』は香菜さんというキリッとした美人女将が一人で切り盛りしている。この女将、料理は美味いがかなりの気分屋。

メニューはその日に仕入れた食材と気分で決める。だから「いつもの」なんてオーダーは出来ない。
ただこの山間の町は豊かな山の食材と、隣町の海から採れる海の食材に恵まれているので、何を食べても美味しいし、まずハズレはない。
ただ困った事に香菜さんには「好きな食材にハマると、徹底的にその食材を使ったメニューを作る」という癖がある。

「ブーム」という奴である。
パクチーだったり、チーズだったり、山芋だったり、ついこの間まではなぜか餅。
まるで親の仇のようにその食材をアレンジしたメニューが次々に出てくるから、苦手な客は辛いかもしれない。でも、今までにない食材のアレンジメニューに触れる事によって、苦手を克服した客は多い。
『円』の常連であるタクさんと遼介もその一人である。

「なんだ、また山菜?」

目の前に出された小さなキッシュをジッと見てタクさんは言う。中に入っている具材はぐるぐると渦を巻いた植物。どうやらワラビとコゴミである。
今、この山の町は山菜が採れる季節になった。タクさんと遼介は山の町で移動スーパーの運転手をしている。この時期、限界集落を巡っていてよく売れる商品が重曹だ。
山菜のアク抜きとして使われるのだ。そしてアクを抜いた山菜を使った料理をお客さんから逆に差し入れとして頂いている。
それなのに『円』でも連日、コシアブラ、フキ、ウド、たらの芽、セリ、行者にんにく、フキノトウと山菜責めのお品書きが続いている。タクさんと遼介は少々、山菜に食傷気味であったのだ。

「『また』って何よ。『また』って。嫌なら食べなくても、あ、なんなら来なくてもいいわよ」

「ひでえなあ。嫌なら来るなって。チンピラ経営かよ」

タクさんはグチグチ言いながら一口食べる。目の前に出されたキッシュをあまり気乗りせず、じっと見つめていた遼介も一口、口の中へと運ぶ。
その瞬間、二人は目を見開き見つめ合う。

「いけるな、これ」

「ですね!複雑な苦味とエグ味のパンチが効いててビールに合います!」

「フッフッフッフ」

苦手だと言っていた人が「美味しい」と評価を変えると、香菜さんは勝ち誇ったような顔をする。こうところは本当に勝気で大人気ない人なのである。

そんな癖の強い香菜さんが切り盛りする「円」は、母性や安らぎを求める男性客にとっては居心地が悪いところなのかもしれない。
その上、下品な言動をする酔客には厳しくレッドカードを叩きつけ、態度によっては永久に出入り禁止を申し渡すらしい。
タクさんもしょっちゅうイエローカードを出され、二ヶ月に一度はレッドカードを叩きつけられる。それはしょうがない。タクさんは酔うとかなりうざいのだ。では永久に出入り禁止になった客は一体何をやったのだろうと遼介は思う。
香菜さんに聞いたら、かつて二人、そんな男性客がいたらしい。
そして今夜、遼介が一緒になった客は、永久に出入り禁止を申し渡された三人目の客の話だ。

「こんばんは」

 ぱっと見、四十代後半、グレーヘアにメガネをかけた男性客が微笑んで店内に入ってくるなり、香菜さんの表情が硬くなったのを遼介は見逃さなかった。

「あら、高森さんいらっしゃい。どうぞお好きな場所に座って下さい」

香菜さんは瞬時に笑顔を作ってその男性客に言った。

「言われなくてもそうするよ」

高森はカウンターの真ん中に座って端っこにいるタクさんと遼介にチラリと目をやった。 
週に最低二回は「円」に訪れる常連、タクさんと遼介も、一度も見かけた事はない客だった。そもそも住人が皆顔なじみのこの山間の町で、初めて見る顔である。
もしかして、東京に住む香菜さんの元旦那?と遼介はタクさんに目で伺うが、タクさんは首を傾げる。

「とりあえず合格」

高森は香菜さんに微笑んで言った。

「え?」

「二回しか来た事のない客の名前をちゃんと覚えていて。女将として合格かな」

一瞬、香菜さんの顔が強ばるが「そりゃあ接客業ですから、覚えてないと失礼ですよね」と笑顔で高森の前にお箸を並べながら言った。

「あ、この箸置きって、山奥の財前窯のものでしょ?」

濃い藍色の勾玉の形をした箸置きを手に取って高森が言った。

「よく御存知ですね。私、あそこの窯の焼き物、大好きなんです。大らかでゆったりした感じがして」

「へえ。僕はあそこの二代目と知り合いなんだよ。前に財前窯を取材した事がきっかけでね。それ以来、デザインの相談とかされるんだよね」

「…そうですか…」

「僕を通せば安く仕入れられられたのに。あ、今度、二代目言っておくよ。『円』の美人女将をよろしくって」

香菜さんが笑顔で高森に目礼を送る。
『取材』『デザインの相談』という言葉から、タクさんと遼介は高森の職業を想像する。テレビ?出版?メディア?香菜さんはこの山の町でお店をやる前は、東京で料理雑誌の編集者として働いていたから、その関係者だろうか。
スタンドカラーの白シャツの上にツィードのベスト。銀縁フレームのメガネ。何となくインテリをアピールしたこだわりのスタイリング。謎だ。気になる。
タクさんと遼介の値踏みするような視線に気付いた高森は軽く頭を下げる。

「初めまして。高森と言います」

「どうも西村です。あれ、あんた、こっちの人?」

タクさんがお得意の不躾な質問をぶつける。

「東京です。でも半年前からこの町で週末移住っていうのをやっているんですよ」

「週末移住?」

「僕は自分でウェブメディアを運営してましてね。主に地方創生の分野なんですが、こっちにオフィスを兼ねた住居を構えていて、行ったり来たりしながら仕事をしてるんですよ」

「へえ。それは理想的な働き方ですね」

遼介が感心して話しかける。

「正直、コロナで東京にオフィスを構えているのが難しくなったっていうのもあるけど。でもこうしてこんな美人女将がいるお店を知って、ラッキーだったよね」

高森は目を細めて香菜さんを見つめた。

「それはありがとうございます」

香菜さんは微笑みながら言った。
タクさんは「ケ」という顔をしながらビールをあおった。

「あ、これ忘れてた。お土産」

高森は香菜さんに小さなペーパーックを渡す。白い和紙に金色の稲穂をかたどった模様が描かれている。

「そんな。気を使わないで下さい」

「いいから。ちょっと開けてみてよ。これ、手に入れるの大変だったんだ」

香菜さんがペーパーバッグから取り出した小さな箱には『大吟醸生チョコ』とある。

「へえ!日本酒のチョコじゃん!美味しそう」

目ざとく見たタクさんが、自分への差し入れでもないのに声をあげた。
香菜さんの笑顔は強張っている。
高森はチラッとタクさんに目をやるがスルーして香菜さんに対して言葉を続ける。

「この前、差し入れした黒糖焼酎のマロングラッセはどうだった?」

「ごめんなさい。私、前も言ったんですけど、甘いものが苦手で」

「うん。覚えているよ。でもさ、甘いものが楽しめないって、人生の楽しさの半分を失っていると僕は思うんだよ。何とか甘いものの美味しいさを君に知って貰いたいから、こうして差し入れしてるんだ。君は美味しいものを作る仕事だよね。これを食べてもっと食の世界を勉強した方がいいよ」

目を細めて優しく諭すような声で高森は言った。

「そうですね。ありがとうございます」

死んだ魚の眼をしながら香菜さんは棒読みで答えた。

「えーと、今夜は何にしようかな。まず、海の町のビールを頂こうか」

海の町のビールとは、隣町にある小さな醸造所で作られた地ビールの事である。この地方では人気のお土産でもあるのだ。

「はーい。今日は4種類ありますけど何がいいですか?ピルスナー、ヴァイツェン、IPAにポーター」

香菜さんは、高森の前にグラスを出しながら聞いた。

「女将が選んでよ。これから出してくれる料理に合うビール」

高森は笑顔で香菜さんに言う。

「でも、好みもありますしねえ」

「大丈夫。僕は食に関しては何でも楽しめるからお手並み拝見といきますよ」

「はあ」

香菜さんは気の無い返事をして高森の前に黒ビールのポーターを出した。

「へえ。食後に飲む黒ビールをあえて食前酒にねえ」

高森はグラスにビールを注いで一口、味わうようにして飲む。
続いて香菜さんは山菜のキッシュを出した。

「へえ、お通しにキッシュとはお洒落だね。あ、これ具が山菜だ」

「はい。ワラビとコゴミなんです。この山の町では今の季節、シーズンなんですよ」

「ふーん。山菜をキッシュにするとは変化球で来たねえ」 

高森はフォークで器用にキッシュを切り、口に運んで咀嚼する。

「うん、美味しいんじゃない?」

「ありがとうございます」

高森はポーターを一口飲んで口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。

「うん、面白い組み合わせだね、結構合う。でも、このエグ味のある前菜でビールを出すならヴァイツェンをセレクトした方がベターな選択だったかな。苦味がないからね。まあ、あえてコクのある黒ビールでマリアージュを狙う、その心意気は買うけどね」

「はあ」

高森は更にキッシュを食べ進める。

「以前、僕はフランスに行った時に芽キャベツを使ったキッシュを食べた事があるんだけど、それよりはちょっと劣るかな。あのキッシュは本当に『春を頂く』って感じだったな。食べた瞬間、温かな風が吹くっていうの?あ、ゴメン、ちょっとキザだったね。このキッシュ、ワラビとコゴミだとちょっとエグ味が強すぎるかな。あ、タラの芽の方が良かったんじゃない?うん、タラの芽がいいよ」

「はあ」

「でもさ、山菜って下手したらおひたしか天ぷらがテッパンだよね。シンプル イズ ベストっていうの?それをキッシュみたいなお洒落な凝ったお惣菜にするのは、いかにも女性の料理人って感じだよね。僕は悪くないと思うな。そういう女将のチャレンジングな姿勢、微笑ましいよね」

高森はニコニコしながら穏やかな調子で語り続ける。

「はー」

たまりかねたように香菜さんが大きなため息をついた。その尋常でない様子にカウンターの奥に座る遼介は体が硬直する。
遼介はHSP体質なので人の感情や周りの空気に影響されてしまう傾向にある。
香菜さんは両手を腰に当てて無表情で二十秒ほど、一点見つめていた。見つめていたというより、空を見ていてその瞳には何も映っていないようだった。無である。 

香菜さんから発せられるオーラは鋭く熱量があった。何か、マグマのような感じ。何かがおこるのではないか。遼介の鼓動は早くなる。む、胸が苦しい…。
と、香菜さんは顔を上げて高森をまっすぐ見て言った。

「すいません、お引き取り願いますか?」

第8話 マンスプレイニングと言う名の公害 後編

果たしてこれは夢だろうか、現実だろうか。
カウンター席に座る遼介とタクさんは、今、目の前で繰り広げられている光景が自分の人生と地続きのものかどうか判然としなかった。
香菜さんが目の前の客に向かって「帰れ」と言っている。しかもその客は酒を飲んで暴れた訳でも、他の客に絡んだ訳でもない。ドッキリでも仕掛けているのか?

「え?何?そんな、またまたー」

香菜さんに「お引き取り下さい」と言われた高森は一瞬呆気に取られたが、笑顔で取りなすように言った。冗談だと思っているようだが、心なしかその声は震えている。

「お代は結構ですから、お帰り下さい」

香菜さんははっきりした声で高森に言った。その目はキリッとしている。
どうやら香菜さんは自分に怒りを抱いているらしい。ようやく高森は気付いたようだった。

「え。ど、どうしてそんな事言うの?」

「不愉快だからです」
 香菜さんはぴしゃりと返す。

「そんな〜。そんな事言わないでよ。せっかくこっちに週末移住してきていい店を見つけたと思ってるんだから、仲良くやりましょうよ」

「ごめんなさい。無理です。申し訳ありませんが二度と来ないで下さい」

香菜さんは高森に向かって頭を下げる。
唖然とする高森をタクさんと遼介がチラチラと横目で眺める。取りなす隙もない雰囲
気だった。
すると、笑っていた高森の表情が急に変わった。眼鏡の奥の目が怒っている。

「そんな事言われて、こっちも不愉快だ」

高森の穏やかだった声のトーンが硬く鋭くなった。

「金を払う客を大切にするのが接客業の基本だろ。それを帰れとは失礼じゃないか。僕がここで器物破損行為や迷惑行為をしたらともかく。一体、君は何様なんだ」

「ですからお金は頂かないと申し上げているんです」

「そういう問題じゃないよね」

ここまで言われても、どうやら高森は出ていかないつもりでいるらしい。プライドを著しく傷つけられたようだっだ。このままで帰れるかという
ところだろう。

「人がわざわざ来てやっているのに『帰れ』と言うからには、それなりに納得する理由を御教授頂きたいものですね」

高森のトーンが少し柔らかくなった。しかしそれは、年下の女に喧嘩を売られて怒った自分が大人気ないと思ったのではなく、余裕を見せる事で上にたつ、いわば「懐柔」であるかにように遼介には見えた。

「何が不愉快なのかな?」

「私が作ったものへの長ったらしい評価と感想です」

「そんな…。当然じゃない。君がやっているのは料理を提供してお金を貰う事でしょ?」

高森は失笑する。

「食べた人間が感想を言う。それを作り手がフィードバックして、更に美味しい料理を開発して良いサービスをする。結果として良い店になって、売り上げが上がる。こんなウィンウィンな事ってないよね。僕はただでコンサルしているようなものなんだよ」

「そんなの、誰も頼んでませんよ」

無表情ではっきりと言う香菜さんに、高森はウッとつまりつつ言い返す。

「じゃあ、何かい?君は客が食べた感想を言っちゃいけない。そういう事か?」

「あなたが言っているのは感想じゃない。マンスプレイニングです」

「マンスプレイニング?」

カウンターの端で香菜さんと高森の言い合いを黙って聞いていたタクさんが、思わず頭のてっぺんから声を出した。

「あ、ごめん。話に入っちゃって。でも、マンスプレイニングって何?」

「マンは男性の『man』プレインニングは説明するという動詞の『explain』。この二つをかけ合わせた言葉が『マンスプレイニング』主に男性が女性に知識が豊富であるのをひけらかす事です」

香菜さんは淡々と説明する。

「そこには『女は何も知らない、自分より知識がない』という見下した考えがあります。だから私はあなたの話を聞いていて不愉快なんです」

「ちょっと、ちょっと、待ってよ」

高森が笑いながら香菜さんの話を遮る。

「何?ここはフェミニズムを教える大学か何か?女将は上野千鶴子か何かな訳?」

「正論を突きつけられて反論できないから、そんな風に茶化す事で逃げる。殿方の常套手段ですよね」

「逃げる?こっちは穏便にすまそうとしてるんだよ!」
高森は再び声を荒げた。

「それはこちらもです。本来なら『とっとと出て行け』って塩でも撒きたいところですから」

高森は絶句する。タクさんと遼介もはらはらと怯えながら会話の行方を見守っている。

「料理の感想を言う形をとりながら大して面白くもない上に価値もない自分の知識や経験の自慢話をちょいちょい挟みつつアドバイスして善行気分。それはさぞ気持ちいい事でしょうねえ。それであなたの自己顕示欲が満たされ自己肯定感が上がる訳ですから。こちらとしては聞かされるうちに徐々に体が蝕まれる。分かりやすいセクハラやパワハラのような暴力性がない事が逆にマンスプレイニングの恐ろしさなんです。暴力ではなく公害です」

香菜さんの遠慮のない言葉に遼介は膝を叩きたい気分だった。
これは女性だけではない、若い男性もやられがちだ。オヤジの説教と講釈という名の元に。女性だって男性にマンスプレイニングする。聞かされた後のモヤモヤと腹立たしさ。あれは「下に見る」という差別というの名の公害の被害だったのだ。

「私の居酒屋にはマンスプレイニングを聞くというサービスはないし、メニューの料金に含まれていないんです。こちらで提供するのは、お酒と酒の肴なので。マンスプレイニングをしたければ、銀座のクラブとか、カウンセリング
とか話を聞く事が料金に含まれているところでお願いします」

香菜さんの言葉に顔を潰された高森の表情は強張り、かすかにこめかみが震えていたが途端に笑顔になった。そのめまぐるしい表情の変化を遼介は見逃さず、腹の底が震える思いだった。まさに顔が潰れていた。
 高森はゆっくりと大きな拍手をする。

「アッハッハ。これはこれは、小料理屋会の上野千鶴子か小倉千加子といったところかな。ご大層な弁舌、お疲れ様でした」
高森は席を立った。

「残念だなあ。ウェブスタッフとの仕事の打ち上げや宴会は、ここを貸し切ってやろうと思ったのに。売り上げに貢献できたのにな」

フッと香菜さんは鼻で笑った。

「ご安心下さい。うちは貸切りお断りなんです。私、疲れてまで働きたくないものですから」

チッと高森は小さく舌打ちをして立ち上がる。

「あ、これ、忘れ物です」

香菜さんは高森が持ってきた大吟醸生チョコが入った和紙の紙袋を差し出した。

「お持ち帰り下さい。私は言ったはずです『甘いものは苦手』だと。それを知ってて押し付けるのは強制です。子供の頃、習いませんでしたか?『人の嫌なことはするな』って」

高森は紙袋を奪うようにして受け取った。

「今夜はうちのウェブメディアにこの店を掲載する相談もあったんですけどね」

慇懃無礼な調子で言う高森に、香菜さんは満面の笑みを浮かべてこう返した。

「それは残念です。でも『セレクトした方がベターな選択』なんて同じ意味の言葉を反復するような脇の甘い人が構成するメディアが、いつか掲載されて頂けて嬉しいと思えるウェブメディアになる事をお祈り申し上げます」

高森の瞳は一瞬、燃えるような怒りの色を見せ、踵を返して出ていった。
扉が乱暴に閉められた後、『円』の店内はしばし沈黙が流れる。
が、タクさんと遼介が示し合わせたように拍手をした。

「いやあ、すげえ、すげえもの見ちゃった」

「ええ、本当に」

香菜さんは脱力した表情をして二人を見る。

「ちょっと、人のマンスプレイニング被害を楽しまないでよね」

「いや、だって俺達が割って入る感じでもないしさ。めんどくせえ男とめんどくせえ女がめんどくせえ話題を言い合ってるっていうか」

「ふ。確かにね。あーでもやっちゃった。久しぶりにやっちゃった!私、大っ嫌いなの。
ああいう男!語る男!特に食を語る男!虫酸が走んのよ。編集の仕事している時にもいっぱいいたけど。まあ、でもどこにでもいるって事かあ」

さっきまで勢いの良かった香菜さんだったが、しでかした事の重大さに肩を落としているようだった。

「どうすんの?ああいう男、ネット掲示板とかに悪口を書くタイプだと思うよ」

「いいんだもん。すっきりしたから。あんな男が協力する売り上げに頼るほどこっちは落ちぶれてないっつーの。ああいうの我慢してたら病気になっちゃうもん」

香菜さんはまるで自分に言いきかせるように言いながら、手元を動かし始めた。
そんな香菜さんを遼介はみつめながら、女一人、社会で仕事をするといろいろあるんだろうなと思う。
高森みたいな男を遼介はいろんな場所で見てきた。見ていた遼介も良い気持ちではなかった。しかしマンスプレイニングされている女性達は皆、微笑みながら話を聞いていた。だから彼女達が不快に思っているとは思わなかった。
あれはそうか。利害関係があるから聞いてあげていたんだな。高森みたいに仕事をチラつかせる奴が多いから。

「はい、嫌なところ見せちゃったから、これは私のおごり」
香菜さんは遼介とタクさんの前に焼きおにぎりを出した。

「やったー」

焼きおにぎりには味噌が塗られ、その味噌もいい感じで焦げている。

「あれ?この味噌って…」

「そ、蕗味噌。それをね、塗って焼いたの」

「へえ」 

遼介とタクさんは、熱々の焼きおにぎりを手で割って口に運ぶ。

「うん。焼くと蕗の風味がまた変わるね。あれみたい、あれ…」

とタクさんは何かを言おうとしたが「やっぱりやめた」と言葉を飲んだ。

「何よ」

「だってあんなやりとり見せられたら、料理の感想言うの、怖いよ。俺、責められたくない」

「大丈夫、タクさんの感想はいつも上からじゃなく下からだから」

「なんだよそれ。ほら、あれ、葉っぱの上に味噌乗っけて焼く奴、あれ思い出した」

「あ、嬉しい。そう!味噌の朴葉焼き。そこから思いついたんだー」
 香菜さんは鼻歌を歌うように言った。

「でもさあ、自分だって『山菜はちょっと』って嫌がる俺たちに山菜料理出してるところは、あの男と変わらなくない?」

「何よ、いいじゃない。私はハマるとその食材ばかり使っちゃうって事は知ってるでしょ?おかげで今夜は美味しい料理が食べられたじゃない」

「まあ、それは事実ですけどね」
 遼介とタクさんは笑う。

「でもさ、美味しいものを楽しめるのって、それはまあ幸せな事だとは思うけど」
香菜さんはふと独り言のように言い出した。

「こんな仕事しておいてこんな事言っちゃうのはあれだけど、まずいものを楽しめる人の方が豊かだなあと思う。そういう人、好きなんだよなあ」

あれだけ完膚なきまでに相手を言い負かす香菜さんはバツイチだ。
彼女と結婚していた相手はどんな男だったんだろう。付き合っていた男達はどんな人間だったんだろう。
遼介は想像がつかなかった。
だけども、なんだかとても気になった夜だった。

(本日のお品書き)
 ○ワラビとコゴミの山菜キッシュ
 ○蕗味噌の焼きおにぎり

第9話 その名誉男性、女衒につき 前編

接客業は笑顔が命と言われている。
お客様は神様なのだから大切に扱わないといけない。そんな昭和の流儀を宮沢遼介は大切にしている。

遼介は東京から車で四時間かかる山間の町で移動スーパーの運転手として働いている。お客さん達は高齢者が多い。ニコニコと自分を孫のように可愛がってくれる。家族に縁遠い幼少期を送った遼介はそれがありがたく、その笑顔に答えなければと笑顔で返す。

そもそも遼介は争いが嫌いだし、不穏な人間関係の中にいると苦しくなってしまう。だからその場の空気を読むのは得意で、その空気に適した言動を取ってしまう。
極度のHSPなのだ。人の感情が自分に感染ってきてしまう。それを防ぐ手段が「笑顔」なのである。
だからなのか「目が笑っていない」と言われる事もあるし「愛想笑い」とも言われる。まるで太宰治の『人間失格』の冒頭にある写真の男の扱いである。薄っぺらい笑顔という事である。
たまにパニック発作がおきてしまうのも、無理をして笑っているからだろう。

その遼介が先輩ドライバーであるタクさんと共に仕事終わりでよく飲む居酒屋が『円』である。
ここに来ると遼介は本来の自分に戻ったような気分になり、いつになく饒舌になる。
それはアルコールが入っているからというのもあるが、タクさんとこの『円』の美人女将、香菜さんが自分より年上なのに大人気ないからだ。気を使わなくてすむのだ。
香菜さんの年齢は分からないが、確実に昭和生まれである。ちなみにバツイチ。そして一人で居酒屋を切り盛りする接客業の鏡である。

しかしこの香菜さん「お客様は神様、接客業は笑顔が命」という昭和の流儀を無視して、感情が表情に出てしまう。接客業なのに好き嫌いが結構激しいのだ。この間など、したり顔で蘊蓄を語る男性客を追い出してしまった。
驚きと同時に「羨ましい」と遼介は強烈に興奮してしまう。自分も香菜さんのように自分の感情を解放し苦手な人間にぶつけられたら。

多分、香菜さんなりに気をつけているかもしれない。しかし、嫌なものは嫌なのだろう。そこに遼介は、最終的には全て自分で責任を負うという覚悟というか諦観のようなもの香菜さんが抱いている感じがして、格好良いなと思う。
最近は香菜さんの表情や言動から、香菜さんが好きな客、苦手な客が分かってきた。
苦手な客だと香菜さんのきりりとした眉毛の右の端が、ピクリと動くのだ。
今夜の来たおひとりさま客の顔を見た時、香菜さんは笑顔で迎えつつ右眉がピクッと動くのを遼介は見逃さなかった。

「わー、玉希さん、お久しぶりです。わざわざ来て頂いちゃって」

「はるばる来ちゃったわよー」

香菜さんに『玉希さん』と呼ばれた女性はニコニコしながらカウンターの中央席に座った。

「Facebookをたまに見てたけど、素敵なお店じゃなーい」

玉希さんは斜めがけしていた黒いショルダーバッグを隣の席に置いて、自分の席に座った。そのショルダーバッグが、シャネルのマトラッセである事を遼介は見逃さなかった。
玉希さんは店内を見渡しながら「趣あっていいじゃん」と尚も続ける。

「あ、こちら柏樹玉希さん。東京で編集プロダクションを経営しているやり手女社長。昔、私もお仕事を紹介して頂いたんです」

カウンター席の端に座り、チラチラと二人の様子を見ている遼介とタクさんの視線が気になるのか香菜さんは玉希さんを紹介した。

「やめてよ、やり手女社長だなんて」

笑う玉希さんに遼介はなるほどと腹落ちする。ハイブランドであろうゴールドのごつい指輪を三つ付け、ショートの耳元には軽く二カラッとはありそうなダイヤのピアス。ジーンズにスニーカーにサマーセーター。カジュアルなアイテムだが、全てハイブランドのロゴが入っていた。指先には派手なジェルネイル。いかにもバブル世代のマスコミの女性という感じだった。

遼介は東京の不動産会社で働いていた時、彼女のような女性に家賃十八万以上の物件をよく案内していた。家族世帯でも平均十万を切る都心で、単身で十八万から三十万の物件を借りてくれる上客が多かった。
案内しながら、自分には縁のないゴージャスな内装の部屋を見て、この女性達は一体どんなすごい仕事をしているのだろうと不思議でならなかった。

「もうね、やり手でも社長でもなんでもないのよ」

「え?」

「畳もうかと思って、会社」

「えー!そうなんですかあ?」

「不況だから出版社はどんどん潰れちゃうし、広告はウェブに取られちゃうしね」

「まあ、そうですよね。ウェブ展開はされないんですか?」

「安くてやってらんないわよ!」

「そりゃあまあ、バブル世代の紙媒体と比べたらそうでしょうけど。飲み物はどうされますか?ビール?」

「うん、お願い」

香菜さんは玉希さんの前にグラスと海の町で作られた地ビールの小瓶を置いた。
玉希さんは手酌でビールをグラスに注いだ。ビールの種類はペールエール。今夜のお通しに合うものを香菜さんは選んだようだった。

「はい、どうぞ」

濃い藍色の小皿の上にのっているのは、サーモンピンク色のアン肝だった。表面がまるでクリームブリュレのように軽く炙られている。 

「あれ?アン肝だよね?この表面は何?」

「まあ、食べてみて下さい」

玉希さんは箸で表面を軽くつつく。カリッとした固い感触を箸の先に感じる。それからアン肝を割るように切って一切れを口の中へ。アン肝の濃厚な旨味を爽やかな甘みが包みこむ。意外な味の組み合わせに玉希さんは目を見開いた。

「あ、甘い。これってジャム?」

「梨のジュレを薄く伸ばしたものをアン肝に塗って軽くあぶったんですよ」

「へー、流石ね。これならワインにも合いそう。まるで、なんちゃってフォアグラね」

玉希さんは一切れ、また一切れとアン肝を口の中に運び、ビールを美味しそうに飲んだ。

「あー。昔は良かったわあ。マデラ酒をかけて焼いたフォアグラがのったステーキ食べて、一本二十万はするワインを飲んで。いい時代だったわあ」

「すいません。なんちゃってフォアグラと地ビールで」

「いいのよ。私もそんな脂っこいものを受け付ける胃腸じゃないんでね」

「俺、二十年前に東京で働いてたけどそんな食生活おくった事ないけどなあ。なんか、異次元の話を聞くようだけど」

酔っ払ったタクさんが、いつものように話に割って入っていった。

「あら、東京で何やってたの?」

玉希さんは初対面の人間と話し慣れているのか、タクさんとフランクに話し始める」

「ミュージシャンやってたんですよ。こう見えてもバンドでドラムをやっていて、メジャーでアルバムを二枚出したんですよ」

タクさんは両手で箸を持ち、玉希さんにポーズをつけてみせる。

「へえ。レーベルは?」

「大正屋レコードって言うだけど」

「ああ、なんか、あったわね。そんなの」 

玉希さんは鼻でフッと笑い、明らかに小馬鹿にした上に興味のないリアクションを取った。
タクさんは箸を持った両手を気まずそうに下げた。女のこういう態度には慣れている。金と権力を持っていない人間は自分の視界には存在しない、残酷なスルー力。それは東京のショービズの世界で散々経験し、今、タクさんはこの山の町で移動スーパーの運転手をしているのだ。

「こちらには取材か何かですか?」

気まずい空気を変えるように香菜さんが話しかける。

「この町で空き家になった古民家をみつけてコワーキングスペースを作ろうと思って。で、東京の事務所の家賃を浮かせたいから荷物こっちに持ってくるの」

「え?玉希さん、移住するんですか?」

「まさか。こんな何もない町」

「え、じゃあ…」

「この町、去年から、移住して事業を始める人間に助成金出すようになったのよ。だから暇な若い子を管理人においてブログとSNSだけはやらせてね」

「え、じゃあ事業はしないって事ですか?」

「一応形だけね。だってこんな辺鄙な町にコワーキングスペースにしても、どうせ人は来ないでしょ。で、いくつか雑誌の取材受けて『移住系女子』なんて本を出せば、事業している感じなるから助成金はおりるって訳。それで事務所の家賃は浮かせるって感じかな」

「さすがはやり手社長ですねー」

タクさんは玉希さんの計画をおだてるが、遼介はとてもそうは思えなかった。それって
法律には抵触してないのだろうが地方の財源を搾取しているようにしか見えない。

「それって助成金詐欺なんじゃないですかね」

遼介の心のうちのモヤモヤを香菜さんがズバリと言葉に出して言う。

「ちょっと詐欺はないでしょ、詐欺は」

「だって形だけなんですよね?」

「でもブログとSNSが拡散されるかもしれないじゃない。ちゃんと助成金分の宣伝はしてるわよ」

「すごいですねえ。D通より高い宣伝料ですね」

「貰えるものは貰っとかないと。ところで香菜ちゃん『美人女将のお店』っていう単行本を出版しようと思ってるんだけど、出ない?」

「ごめんなさい。私はそういうのはちょっと…」

香菜さんは、小さくため息をついて言った。数年ぶりに急にこの女が訪ねてきたのにはこういう理由があるのだ。
遼介は香菜さんの表情から戸惑いというより、静かな怒りを感じていた。

「あら、なんで?勿体ないわよ!香菜ちゃん美人なのにインスタとかで顔出しもしてないんでしょ?」

「うちは居酒屋なので。料理とお酒が主役です」

「そんな〜。昔のよしみでお願い」

「ごめんなさい。お断りします」

香菜さんはぴしゃりと玉希さんを見て言った。

「あら、こわーい。香菜ちゃんは真面目だからね。これは失礼しました」

玉希さんが苦笑いを浮かべながら小さく頭を下げる。

「今の若い子って、香菜ちゃんみたいな真面目な子が多くてやり辛いのよー」

玉希さんはビールを勢い良く飲んだ。

「広告出してくれるスポンサーとの飲み会に連れていったら、ダブダブの黒いシャツとロングスカートとか履いてきて、愛想も悪ければお酌もしないの。後からに注意したら『私の仕事は編集の見習いでキャバ嬢じゃない』なんてこっちが怒られちゃうのよ。私の時代は、察してノースリーブとか膝上のスカートとか履いて気に入られようとしたものよ。ほんと話が通じなくて」

「え。そういうのって意図的なの?ノースリーブとか膝上スカートとか」

タクさんが思わず口を挟む。

「当然じゃない」

「それ、だって『気に入られる』ベクトルが違うんじゃないでしょうか。編集者の技術やセンスで気に入られるならともかく、女性の魅力でクライアントに気に入られても」

遼介がタクさんに加勢する。

第10話 その名誉男性、女衒につき 後編

「ちょっとちょっと、この能天気な道徳男子達は何?編集者の技術も人脈も何もない若い娘がそのくらいやらなくてどうするのよ。じゃなきゃ、広告料なんて引っ張ってこれないわよ」 

玉希さんの語気が強くなって、二人を睨んできたのでタクさんと遼介は慌てて目をそらした。 

「最近さあ、パパ活アプリっていうの?ああいうのが流行っちゃったおかげで、飲み会に若い子連れていけないのよ。断られちゃうのよねえ。ただでおっさんと飲み食いするの嫌ですなんて言う訳よ。その辺の若い女の子がおやじとただお茶や食事をするのに対価を求める訳よ。恐ろしい時代になったわよ」 

「当然じゃないですか」 

香菜さんが唖然とした表情で玉希さんに言った。玉希さんは「え?」と口の中でつぶやいた。 

「女の二十代という貴重な時間を、恋愛対象でもない既婚者の男達の暇つぶしに付き合って、欲望の視線を浴びてセクハラめいた質問を浴びせられる。これは本来、水商売の女性がそれなりの高額な対価をもらって請け負う事です。もし対価が支払われないのだとしたら、搾取以外の何物でもない。それを水商売を仕事にしていない若い女性達に気付かせのがパパ活アプリという訳です」 

真顔で理路整然と説明する香菜さんを玉希さんがぽかんと口を開けてみつめている。 

「あら、じゃあ香菜ちゃんは女の子がパパ活アプリやるの、賛成って訳?売春してる子もいるのよ」 

「賛成な訳ないじゃないですか。ただ若い女の子をクライアントやスポンサーの席に同席させてご機嫌をとって大きな仕事を受注する。それ若い女の子にとって対価のないパパ活みたいなもんだって言ってるんです。そういうの、若い女性を売っている『女衒』行為だって気付いた方がいいですよ」 

「な」 

玉希さんの顔は一瞬にして赤くなった。それはビールの酔いからくるものではない事は 一目瞭然であった。 

「ちょっとちょっと、あんまりじゃない?香菜ちゃん。はるばる来た客相手に『女衒』呼ばわりって」 

玉希さんは顔を引きつらせながら言った。 

「あら、お気に触るようでしたら失礼しました」 

香菜さんは笑顔を浮かべて玉希さんに頭を下げる。これほど気持ちのこもっていない、 口先だけのお詫びを遼介は初めて聞いた。 
二人を張り詰めた緊迫感が包み込み、それは居酒屋『円』の店内中に充満する。 
タクさんも遼介もまるで剣道の試合会場に紛れ込んだ気分で、口を挟めるなんて雰囲気ではなく、前を見つめ静かに飲みながら眼球を必死に動かし脇目で二人の様子を見守っている。 

「言わせてもらうけど、私が若かった時代はもっと酷かったわよ。だってセクハラなんて言葉がないわけだから。率先してミニスカート履いて、ノースリーブを着て、猥褻な言葉や触ってくるジジイ共を笑ってかわして、ホテルに連れ込まれそうになったのを振り払って逃げてきたのよ。そりゃあ、悔しくて泣いた日はいっぱいあった。でも、それを乗り越えて今の編プロの社長としての私があるの。この業界で三十年以上の仕事を続けられているのよ。それを今の若い子はなんでも『セクハラ』だ『パワハラ』だ『搾取』だって言うのよ。それを乗り越えなきゃこの業界で仕事なんてできっこないし生き残れない。それなのに香菜ちゃんには『女衒』とまで言われてるなんて心外だわ」 

「だって、それはたまたまでしょうね」 

「たまたま?」 

「たまたま玉希さんの感覚が鈍かったから生き残れたんじゃないですか?」 

「鈍い?」 

「私も編集者として働いていた時、近い事されて耐えられずに降りた仕事あるし、それでやめた人もいっぱいいますよ」 

「『鈍い』じゃなくて『我慢強い』と言って貰いたいわね」 

「自分が我慢していた事を、若い子にも強いるんですか?やめさせる事が上の世代の務めなんじゃないでしょうかねえ」 

「あらあら。『務め』なんて言葉が出ちゃって。ほんと香菜ちゃんって真面目よねえ」 

「だってきっと今の若い子は我慢しても、玉希さんが今つけてるピアスや指輪は買えないもの。我慢の対価も今の時代、桁違いに少ないですからね」 

「そう言われるとねえ。やっぱり時代のせい?泉谷しげる歌いたい気分だわ」 

「何ですか?泉谷しげるって?」 

二人の会話が分からない遼介がタクさんの耳元に小さく呟く。 

「ああ、知らねえよなあ。『すべては時代のせいにして』って歌があってだなあ…」 

遼介とタクさんは玉希さんに聞かれないように小さな声で話す。遼介はすかさずスマホでその歌をイヤホンでこっそり聴いてみる。遼介もタクさんも生まれる前の曲だが、なぜか今の自分にグサグサと刺さってくる歌詞だった。 

「時代じゃなく、自分のせいじゃないですか?その歌の通り」 

香菜さんは真顔で玉希さんに言った。  

「もう、何なのよ!さっきから!ひどいじゃない!この店は客をいじめる訳?これこそ、 女将ハラスメントよ!」 

玉希さんは耐えきれず立ち上がって大声で叫んだ。 

「私だってね、これでも世の中が平和であればいいって願ってるわよ!世界平和を祈ってお遍路に行ったり、これからの若い世代の為に地球環境がよりよくなる為にゴミを出さないようにしたりね、社会貢献してるわよ!」 

香菜さんは失笑しながらこう返した。 

「世界平和とか環境とかでっかい事を言う前に、身近な人間を売るのを方をやめた方がよっぽど社会貢献なんじゃないでしょうか」 

「人を売る?」 

「だって玉希さんがやってる事って、若い女の子を飲み会に呼んで仕事を取る女衒業だけ じゃない。頼んでもないのに人を美人女将にくくって本にしようとしたり、地方の助 成金もらう為に若い子をおいてコワーキングスペース事業やってるふりをしようとし たり。全部、人を売ったりダシにして利益を得ようとしている訳じゃないですか。そ れがいかにゲスいことか、自覚した方がいいですよ」 

玉希さんは打ちのめされたようで脱力したのか、パタッと椅子に座り込んでしまった。 

「…確かにそうかも」 

「え?」 

「この年まで自分に『これだ』っていう専門の分野がなくて自信がなかったは事実よ」 

俯く玉希さんの手元を遼介は横目で見る。ボトックスを打っているのか顔の皺はないが、手の甲には血管が浮き立ち深い皺があった。老年の人間の手であった。その手の甲に玉希さんが生きてきた長い年月と苦労を遼介は感じた。 

「はい、これ食べて帰って下さい。今回は言い過ぎました」 

香菜さんは玉希さんの前に小さな丼茶碗を置いた。 
玉希さんが蓋を開けると黒い小さな粒々と蒸しあげたばかりのシラスが陰陽のマークのように配置され、真ん中に糸のように刻んだシソが盛られている。 
玉希さんはレンゲを使って一口、すくって口の中に入れる。 

「この小さな粒々って」 

「キャビアではございません。トンブリでございます」 

「ああ、なんちゃってキャビアね」 

「名付けて『没落貴族丼』です」 

「言うわねえ、本当に」 

玉希さんは脱力しながら一口、また一口とご飯を口の中へ運ぶ。プチプチと口の中で弾けるとんぶりは、叩いた梅干しと和えてあり酸味が効いて玉希さんの酔いを覚ましていく。 

「没落貴族だの、詐欺師だの、女衒だのってさあ。名誉毀損ものよ」 

「すいません」 

「下の世代から勝ち逃げ世代だのって責められるのは慣れてるけどね。ほんと皆、バブル世代が嫌いよね。憎んでるわよん。でもさ、そんなにバブル世代に生まれたのが悪い事なの?景気のいい時代に生まれたのは私のせいじゃないわよ」 

まるでヤケで食べているように、玉希さんは丼ご飯を次々に口の中に運ぶ。 

「香菜ちゃんだって、そこの道徳男子達だって、あの時代に生まれてたら私みたいな考え方になるわよ。自分達だけが清貧みたいな顔しちゃって何?」 

「まだそんな事、言っちゃってるんですか」 

香菜さんが右の眉毛をピクリと上げて言った。 

「時代に合わせて考え方をアップデートしていかないと、フランス革命時代の貴族みた いになっちゃいますよ」 

「バブル世代は狩られるわけね、怖いわね」 

玉希さんは食べ終わるなり、立ち上がってシャネルのマトラッセの中から同じくシャネルの金色の長財布を取り出した。 

「あ、お代は結構ですよ」 

香菜さんは微笑んで言う。もちろんその右の眉毛の端はヒクついている。 

「この町の助成金を貰うわけにはいきませんから」 

「…そう。ごちそうさま」 

玉希さんは財布をバッグの中にしまった。 

「でも、安心して。この町にコワーキングスペースを作るのは諦めるから」 

「良かった!」 

香菜さんは心の底からホッとしたような顔をした。 

「あなた達みたいな平民に暴動をおこされたらかなわないからね」 

玉希さんは意地悪そうな笑みを浮かべて出入り口まで歩いていく。 

「じゃ、香菜ちゃん、道徳男子達、今夜はありがとう。忘れられない夜になったわ」 

扉に手をかけて玉希さんは振り返って言った。  

「でも最後にいいかしら?」 

「何ですか?」 

「私はバブル世代に生まれて、ほんっとーにラッキーだったわあ!」 

唖然とした表情を浮かべる店内の三人を尻目に、玉希さんは毅然と前を向いて出て行っ た。 
しばし、三人はぽかんとしてお互いの表情を見合う。 

「…塩撒いたら?塩」 

タクさんが香菜さんに言う。 

「いや、そんな気力ないな、もう、疲れた…」 

香菜さんは丸椅子にストンと座り、地ビールの小瓶の栓を開けてグラスについで一気飲みする。 

「どこまでも平行線っていうか。エネルギー吸い取られたって言うか」 

「確かに!あの人っていうか、あの世代のエネルギーって何なんですかね?」 

遼介は香菜さんに激しく同意する。いつも主役だと思っている、自分が大切にされるのは当たり前だと思っている。あの世代の自己肯定感の高さは一体何なのだろう。遼介は心底羨ましかった。 

「それは時代に愛されてたからじゃない?」 

香菜さんは残りのビールをグラスにつぎながら答えた。 

「だから時代のせいに出来るのよ」  

なるほどと遼介は腹落ちする。相手が何であれ『愛』を知っている人間は、それはそれで厄介だ。失う怖さを味わうから。 
だったら最初から知らない方が幸せなんだろうか。自分のように。 
店内に漂う白けた空気を変えようと、遼介は香菜さんに言った。 

「塩、俺が撒きます」 

遼介は香菜さんから半ば奪うように塩が入った壺を手に取る。 
店の外に出て勢いよくその塩を撒きながら、その行為がこの店の為なのか、自分の為なのか、遼介はよく分からなかった。 

(今夜のお品書き) 
○あん肝のフォアグラ風 
○なんちゃってキャビアとシラスの没落貴族丼 

第11話 coming soon