『京都木屋町姉小路西入、カクテルバー「スモーク」の物語』
楠木斉雄著

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上司のパワハラのために会社を辞めてしまった主人公は京都のカクテルバーでアルバイトを始めます。彼女を雇った長身イケメンのマスターは温和な雰囲気の青年でしたが、ちょっと変わった趣味を持っていました。目 次
第1話 私は会社を辞めました
鈴音が上司の谷口係長の机にバッグから出した封筒を置くと、谷口係長は鈴音が差し出した封筒の表書きをみて目をしばたかせた。
封筒の表には辞表という二文字が書いてあったのだ。
「何だこれは。どういうつもりだ」
谷口係長は、鈴音がこの3日間ろくに寝ないで仕上げた資料のあら探しをしていたところだった。
彼はあら探しばかりしてだめ出しをする上司で、それが耐えられなくなった鈴音は、いつの頃からかバッグに辞表を入れて持ち歩いていた。
今日、その辞表を谷口係長にたたきつけてしまったのだ。
居丈高に喚き始めた谷口係長を鈴音は冷たい目で見詰める。
想定外の事態が起きるとパニックを起こす小心な男だと鈴音は醒めた気分で考える。
先ほどから彼が発している言葉は同じフレーズの繰り返しが多かった。
鈴音は係長の机をバンと平手で叩いた。谷口係長はビクッとして沈黙した。
「もうたくさんです。あなたの指導ではどんな人でもまともに仕事が出来るようになるとは思えませんから」
天川鈴音は二十三才、この春に大学を卒業したばかりだ。
希望していた広告関係の会社に就職できて喜んでいられたのは、新入社員の集合研修が終わるまでだった。
谷口係長の下に配属されてからは、賽の河原で石積みをするような徒労感しか感じられない日々が始まったからだ。
連日の深夜までの残業、作成を指示された資料を懸命に作っても、こんなものでは使い物にならないと却下にされることの繰り返しが続いた。
社会に出たら、仕事は厳しいものだと肯定的に受け取った鈴音は懸命に頑張っていたが、ある日、給湯室でお茶を入れているときに、鈴音が不在だと思ってしゃべっている谷口係長とその取り巻きの一人、川村の会話を聞いて愕然としたのだった。
「谷口係長。最近天川をしごいてますけど、去年の新野みたいにメンタルヘルスの不調で長期の病気休暇を取られたりしたら、人事部から睨まれてしまうのではありませんか」
川村は上司の谷口におもねりながらも、まともなことを言っていたのだが、谷口は聞く耳を持たなかった。
「何を言っているんだ川村君。今の新入社員はゆとり教育で骨なしになっているんだよ。最初に根性をたたき直さないと、まともに仕事をさせるわけにはいかないんだ。クライアントから苦情でも来た日には全て僕の責任になるだろ」
ゆとり教育を受けた人たちは鈴音よりも遙かに年上だし、ゆとり世代だから仕事が出来ないという話もあまり聞かない。
谷口係長は自分の先入観だけで考えているようだ。
しかし、鈴音がショックを受けたのは、谷口係長が新人に根性をつけるというよくわからない精神論で無駄な作業をさせていたことが明らかになったからだ。
自分が懸命に努力をしていたことが、だめ出しのために無駄手間をかけさせられていたと知った鈴音は目の前が暗くなる思いだった。
それ以来、鈴音の心の中に徐々に谷口係長への不満が募り、今日ついに爆発してしまったのだ。
鈴音は目の前で硬直している谷口係長に気がついて意識を現実に引き戻した。鈴音の剣幕にすくみ上がっていた谷口係長は気を取り直したらしく、鈴音の辞表をわしづかみにした。
「こんなものは受け取るわけにはいかん。きみはもっと真面目に仕事に取り組めばいいのだ」
先ほどまで、三回ほど繰り返していた誠心誠意がんばればいつかはまともに仕事が出来るようになるという彼の持論のマイナーチェンジバージョンだ。
そのうえ、谷口係長は何を思ったのか鈴音の辞表を左手に握りしめて、右手で鈴音の片手をつかんだ。谷口係長のじっとりと汗ばんだ生暖かい手が自分の手首をつかんだので鈴音は総毛立った。
「何するの。放して」
谷口係長の手を振りほどこうとした鈴音は、意図したわけではないが片手に持ったバッグを振り回す結果になった。
京都の実家から大阪にある会社まで通っている鈴音は通勤の電車内で読むためにバッグの中にペーパーバックの小説を三冊ほど入れていた。
そこそこの重量を底の辺りに入れられたバッグは振り回された遠心力によって、かなりの威力を伴って谷口係長の鼻を直撃していた。
無言で鼻を押さえてしゃがみ込む谷口係長。鼻を押さえた手からは鼻血が垂れている。
事務所の中はしんと静まりかえった。
その後、どうやって事務所を出たのか鈴音は憶えていない。本町にある会社から地下鉄に乗って淀屋橋まで行き、京阪電車の乗り場に着いて、やっと鈴音は我に返ったのだった。
鈴音は淀屋橋駅発京都方面行きの京阪電車の特急に乗ると、電車の窓ガラスに額を押しつけた。
ガラスは冷たいがのぼせた頭を冷やすにはまだ足りない。
先ほどの悪夢のような出来事は退社時刻の五時を回ってからのことだ。
十一月の日暮れは早く、窓の外の淀川は真っ暗で見えなかった。
鈴音は思った。いっそ、窓を開けて淀川に飛び込んでしまいたいと思ったが、特急電車の窓が開く訳もない。
今日は人生で最悪の日だと鈴音はぼんやりと考えていた。
電車が伏見稲荷駅を過ぎた辺りで、鈴音はこのまま家に帰るのがいやになった。
鈴音の家は下鴨神社の東側の住宅地にあり、よくしゃべる母と物静かで優しい父、そして東京の大学に通っている2才年下の妹が鈴音の家族だ。
両親は大好きだが、今の事情を話せば一波乱有るのは目に見えている。
二人に怒られるならまだしも、悲しい顔をされそうな気がして、鈴音はどうしても真っ直ぐ家に帰りたくなかった。
鈴音は家の最寄りの出町柳駅まで行かずに三条京阪駅で電車を降りた。
そして鴨川に架かる橋をあてもなく歩き始めた。
観光都市の京都だけに旅行者らしき人もいるが、京阪三条界隈は地元民も多い。
四条通りの祇園あたりが観光地化しているのとちょっと違うところだ。
人の流れは木屋町通りの交差点で、南の四条通りに向かう流れと直進して河原町通りに向かう流れに二分されたが、鈴音は木屋町通りを北向きに歩いた。
さしてあてがあるわけでもなく、人ゴミから離れたかったのだ。
少し歩くと道の反対側の柳の下に小さな橋の欄干が見えたので、鈴音は信号待ちの車の間を通って木屋町通りを横切った。
木屋町通りの横には道路に並行して小さな河が流れている。
森鴎外の小説の舞台にもなった高瀬川だ。
鈴音は橋の欄干に手をかけてさらさらと流れる川面を見詰めた。
一瞬飛び込もうかと思ったが、この河の深さは膝くらいしかないのを思い出して思いとどまったが、鈴音は飛び込もうなどと思った自分にも腹が立ってきた。
「なんで私が川に飛び込まなければいけないのよ」
悪いのは、まともな仕事をさせてくれなかった会社の方だ。
鈴音は橋から西に続く路地に踏み込んだ。
普段なら一人では足を踏み入れないような薄暗い通りだ。
道路の北側には教会らしき古めかしい建物や、ホテルが並んでいるが、南側は雑居ビルや平屋の店舗が雑然と並んでいる。
鈴音は道路にはみ出して置いてあった看板を蹴飛ばしそうになった。
看板には「BAR SMOKE」と書いてあり、鈴音はその看板の店が階段を下りた地下にあることに気がついた。
急な階段の下でライティングされたドアに呼び寄せられるようにして、鈴音はその店に入る。
薄暗い照明に照らされて、きれいに磨かれた木目調のカウンターと沢山のウイスキーのボトルが目に入る。スツールが八席並んだカウンターと、テーブル席が三つある小さなお店だ。
お客は一人だけでカウンターをはさんで相手をしているのがマスターのようだ。
店内には低音量でスタンダードジャズが流れている。
「いらっしゃいませ」
常連らしい先客に会釈をして、オーダーを取りに来たマスターを見て鈴音の心は少し和んだ。
マスターは百七十五センチメートルぐらいのほどほどの身長に白いシャツに黒のパンツとベスト、そしてカフェエプロンを着けていた。
涼しげな目元の顔に柔らかな笑顔を浮かべている。
多分、接客用の笑顔だが、鈴音はささくれて乾いていた自分の心に潤いが戻ってくるような気がした。
マスターはおしぼりと水に加えて、輪切りにしたバゲットの上にチーズなどの具を載せて焼いたオープントーストを鈴音の前に並べた。
「これはお通しです。うちの自慢は、フレッシュフルーツを使ったカクテルとシングルモルトウイスキーです。こちらがメニューですよ」
マスターは冊子になったメニューを鈴音に渡す。鈴音がぱらぱらとメニューをめくると、ウイスキーの名前が並んだページに続いて、写真入りのカクテルが並んだページが目に入った。
「ソルティードッグを下さい」
「はい。少しお持ち下さい」
マスターはカウンターの先ほど居た辺りに戻るとグレープフルーツを取り出して、鈴音が注文したカクテルを作り始めた。
本当にフレッシュな果実を使って作っているんだ。本格的なバーに来たことがなかった鈴音はそれだけで感動していた。
マスターはグレープフルーツを搾った果汁とウオッカをタンブラーに注いで、かき混ぜている。
それだけの話だが彼の動作は茶道に通じた人がお茶を点てるような優雅さがあった
「ソルティードッグです」
鈴音はマスターがコースターに乗せて出したたタンブラーを手に取った。
グラスの縁にはきれいに塩が付いており、一口飲むとグレープフルーツのさわやかな香りと酸味が口の中に広がった。
「おいしい」
鈴音が感想をもらすと、マスターは再び微笑んだ。
「ごゆっくりどうぞ」
マスターは、カウンターの後で何か片付け始めた。
常連客らしい男性は先ほどまでの話の続きを始めた。
「それでな、仲田君。キャラメルパパのマスターが君の作るカクテルをすごく意識しているみたいで、ぼくにどんな作り方しているか教えてくれって言うんやで」
「大竹さん僕のカクテルの秘密を教えたのですか」
マスターはいたずらっ子のような表情で尋ねた
「教えたよ。フレッシュフルーツを使って作ってはるよって言ったら、うちでは手間がかることはできないと諦めた様子やった」
大竹さんと呼ばれた客は楽しそうに笑う。
「僕のカクテルはオーソドックスに作っているだけですよ。それにキャラメルパパは大きな店ですからこことは営業スタイルも違ってきますからね」
鈴音は二人の会話を聞くともなく聞いていた。
お通しとして出されたオープンサンドはボリュームがあっておいしく、鈴音は自分が空腹なのを今更のように気がついた。
「君かて、誰か雇ったらええやん。立て込んでいる時間帯は飲み物作るのが間に合わないことも多いやろ」
「一応、ハローワークに求人は出していますよ。でもなかなかいい人が見つからないのです。大竹さん知り合いでここの仕事が出来そうな人はいませんか」
マスターの目線を追った鈴音は壁にアルバイト募集のチラシが貼ってあるのを見つけた。
勤務時間帯は午後五時から午前一時まで、時給は千二百円と書いてある。コンビニのアルバイトに比べたら時給はいい方だ。
「うーん。家庭がある人はこの店の営業時間はしっくり来ないし、ちょっと考えさせてや」
「やっぱりそうですよね」
マスターは残念そうにつぶやき、大竹さんは腕時計を見てつぶやいた。
「あかんもうこんな時間や。僕は朝が早いからそろそろお暇するわ」
「お勤めご苦労様です」
マスターは小さな紙切れに鉛筆で数字を書いて渡した。
お会計の金額をそうやって教えているのだ。
代金を払った大竹さんは、また来るよと片手を上げて店を出た。
鈴音はそろそろ自分も帰らなければと思った。
酔っぱらう程飲んだらますます家に帰りにくくなってしまう。
鈴音は店の中を見渡して、先ほどのアルバイト募集の張り紙を見た。
明日から会社に行くつもりはなかったので、このお店で雇ってもらえたらいいのにと鈴音が考えていると背後からマスターの声が聞こえた。
「うちでアルバイトしてくれるんですか」
驚いた鈴音は振り返った。
「どうして私が考えていることがわかるんですか」
「簡単な推理です。あなたはその張り紙をさっき十秒以上じっくりと見ていました。普通は求人のチラシとわかればすぐに目をそらします。おおむね二秒くらいですね。そのうえ、帰り際にもう一度見返していたので間違いなく求人に応募しようとしていると思ったのです」
鈴音は自分の行動はそんなにわかりやすいのだろうかと思い少し恥ずかしくなった。
しかし、話が通じているなら聞いてみない手はない。
「ここで働くには何か資格がいりますか。私はお酒のこととか詳しくないですが、一生懸命憶えます」
日本の社会では新卒で入った会社を辞めて再就職しようとすると著しく不利だ。
就職活動で苦労した鈴音はそのことは身にしみていたが、もう一度自分の会社に出勤したいとは思わない。
両親には文句を言われるに違いないが、鈴音はこのお店で働いてみようと決心したのだった。
鈴音の判断にはマスターが優しそうでイケメンだったのが影響しているかも知れない。
「本当にここで働いてくれはるんですね。僕としては経験は不問やし、資格もいらないけど、一つ試験をさせてもらっていいですか」
「試験があるんですか」
鈴音は落胆した。やはり世の中甘くないようだ。
「試験という程でもないですけど、さっき出したお通しに使ったっていた食材を全て言ってください。全部当てたら採用した上で時給を三百円上げますよ」
三百円アップしたら破格の時給である。鈴音は必死でさっき食べたお通しのオープンサンドの味を思い出そうとした。
「えーと、使ってあった食材はまずフランスパン。それから具材がベーコン、マッシュルームの他にオニオンとピーマンが入っていてその上にチーズを載せて焼いてありました。食材としてはマーガリンとトマトソースも入るのかしら。」
マスターは意外そうな顔をした。鈴音は記憶に残る食感を辿り続けた。
「それ以外にもう一品ピクルスみたいなのが入っていました。それが普通のピクルスではなくて・・・」
マスターは真面目な顔になって鈴音を見詰めていた。
「あれは、柴漬けの味ですね」
「すごい。今までのベストアンサーさっきいた大竹さんのお答えやったんですけど、彼は柴漬けだと判らなくて、キュウリのQ太郎やて答えたんですよ」
そういえば柴漬けとキュウリのQ太郎は食感が似ている。
「僕は、京都らしさを演出しようと思って、高島屋の近くの漬物屋さんの柴漬けを使ってたんですが、誰も判ってくれなくて悲しい思いをしていたのです」
マスターはカウンターからなにやら書類を持ってくると鈴音に渡した。
「臨時職員として雇用するための契約書です。一度お家に帰って目を通してください。その上で働いてくれる気があったら。事前に連絡した上で夕方四時くらいに履歴書を持って来てください」
この人は、私が訳ありでお店に来たことに気がついていると鈴音は思った。
それ故、頭を冷やして考えてから返事をしてくれと言っているのに違いない。
鈴音はマスターの気遣いが判ったので、大人しく家に帰ることにした。
「ありがとうございます。また連絡します」
マスターはうなずくと、代金を書いた紙切れを鈴音に渡し、それには千円と書いてある。
鈴音はお金を払いながらマスターに尋ねた。
「本当に時給千五百円にしてくれるんですか」
マスターはそれを聞いて凝固した。しばらくして彼は口を開いた。
「武士に二言はありません」
スモークを出て、京都の町を歩いた鈴音は何だか町の空気が軽くなったように感じた。
「ソルティードッグおいしかったな。」
鈴音は独り言をつぶやいて家への道を歩き始めた。
第2話 カクテルバーの業務
鈴音は烏丸御池にあるハローワークで求人情報を検索して、自分が勤めていた会社がいかに条件が良かったか知ることになった。
当たり前かも知れないが、中途採用で同じような処遇の企業を探しても全く見つからなかったのだ。
そうかといって、もとの会社に戻っていいと言われたとしても、もう自分には無理だった。
大阪の地下鉄谷町線を降りて、会社があった本町方面に歩くことを考えただけで胃のあたりにしこりが出来るような気がするのだ。
「また明日探してみよう」
鈴音はログアウトして端末から離れた。
鈴音が仕事を辞めてから既に一週間が過ぎていた。
求人情報の検索くらいならスマホでも出来るのだが、家にいるのが居心地が悪くて、仕事を探してくると言って家を出るのが日課になっていた。
元の会社の人事担当者から会社を辞めないように慰留してくれる電話もあったが、鈴音は断った。
同じメンバーがいる会社に戻っても再び同じ事が繰り返される気がしたのだ。
鈴音はハローワークを出た後はスモークに行ってみるつもりだった。
カクテルバーで働きたいと相談すると、昭和の時代を生きてきた両親は「水商売に就くなんて」と古い言葉を持ち出して反対した。
しかし、鈴音がハローワークでちゃんとした仕事が見つかるまでのアルバイトだと話すと渋々許してくれたのだ。
鈴音には負債があった。
大学進学の時に借りた奨学金の返済がはじまっていたが、勤務年数が一年に満たないと失業手当も出ないため、何かアルバイトをしないことにはたちどころに返済が滞る。
しかし、妹が大学に通っているので両親に負担をかけるわけにはいかない。
御池通りに出た鈴音は地下鉄の東西線に乗り、京都府役所前で降りた。
三条京阪まで行ったほうがBAR SMOKEには近いが、わざわざ一つ手前の駅で降りたのはスマホで連絡を入れるためだった。
鈴音は人混みの中でスマホを使って通話するのが嫌いで、府役所前辺りは人気が少ないので気兼ねなく通話できると思ったのだ。
鈴音が御池通の歩道でスモークを呼び出してみると、三回ほどコールしたところで、マスターが出た。
「先週、アルバイトの相談をさせていただいた者ですが。」
一週間前のことなので、自分のことは忘れているかもしれないと思い、鈴音はおそるおそる聞く。
「ああ、天川さんですね。アルバイトしてくれる気になったのですか」
マスターが自分を憶えていてくれたことが鈴音を安堵させた。
「すいません。遅くなりましたが今から伺ってよろしいですか」
「よろしいですよ。入り口の鍵は開けていますからいつでも来てください」
通話を終えた後で、マスターののんびりとした口調を思い出すと、鈴音の張りつめていた神経がゆるんでいくのがわかった。
「よろしいですよなんて普通言わないでしょ」
鈴音はくすっと笑うとスモークを目指して河原町通を歩き始めた。
スモークは地下1階にあり、そこに行くには通りから急な階段を下り無ければならず、看板は階段の下にしまい込まれていた。
開け放されたドアから中を覗いてみると、マスターが掃除をしている。
マスターはモップがけのためにてーブルの上に上げていたらしい椅子を降ろしながら鈴音に声をかけてきた。
「もう来てくれないのかと思っていましたよ。まあ掛けてください」
ああ、このちょっと緩くて暖かい雰囲気がいい。そんなことを考えながら鈴音は勧められるままに椅子に座った。
マスターは鈴音が持参した履歴書に目を通していたが、おもむろに口を開いた。
「折角来て貰ったのだから今夜から手伝って貰っていいですか」
「こ、今夜からですか」
「何か予定でもあるのですか?」
鈴音は思わず聞き返したが、別に断る理由はない。
「いいえ。それではこのまま仕事をさせて下さい」
マスターは笑顔でうなずいた。
「今日は、ヒールのある靴で来られていますが、明日からはスニーカーを履いてきた方が楽ですよ」
「そうなのですか。私はおしゃれしないといけないのかと思っていました」
「基本的に立ち仕事ですからね。少しでも足にかかる負担は減らした方がいいと思います」
鈴音はちょっと感動した。先週まで勤めていた広告代理店だったら、根性でやりきれとか精神論の世界になるところだ。
「それから、鈴音さんにお願いしたいのは出入金の記帳と、食品の在庫品管理なんです。僕はそういうのは苦手なもので」
「アルバイトの私にそんな大事なことを任せてくれるのですか」
「あなたの履歴を見るかぎり十分に出来るはずです。それに、僕はアルバイトではなくて臨時職員として働いて貰うつもりです」
鈴音は思わず立ちあがった。
「わかりました。一生懸命やらせてもらいます」
鈴音は、殆ど初対面の自分を信頼して大事な仕事を任せて貰えることが嬉しかったのだ。
「レジとか記帳用のパソコンは何処にあるのですか」
早速、簿記ソフトや税務申告用の証拠書類の所在を確認しようとした鈴音の質問にマスターは困った顔をした。
「それが、レジとパソコンはまだ無いのですよね」
「はい?」
鈴音の顔は笑顔のままで凍り付いていた。
第3話 副業は私立探偵!?
「それでは一体どうやって収支を把握しているのですか」
「最初は、手書きで記帳をしていたのですが、このお店は夜遅いし、僕は昼間副業をしていることもあるので、続かなかったのです。」
そんな話あり得ないと、鈴音は眩暈を感じながら質問を続ける。
「マスターはこのお店をいつから経営しているのですか」
「今年で二年目ですよ」
「去年の確定申告とかどうやったのですか」
「それはね。購入品やここの家賃、光熱費の領収書はまとめてあるし、お客さんに支払いの請求額を見せるときに書いた紙に日付を入れてクッキーの箱に保管してあったので事なきを得ました」
マスターは悪びれるどころか自慢げに言う。鈴音はため息をついた。
「よくそれで許してもらえましたね。でも、今年の会計年度も終わりなのに改善できていないのではありませんか」
「そのために誰か雇おうと思ったのです」
マスターは人なつこそうな笑顔を浮かべた。鈴音は思った。この店は私が出納管理をしっかりしないと文字通りの丼勘定なのだ。
「わかりました。私が言うのも僭越ですができればレジスターとパソコンを買ってください。年内に試運転して、一月からそれを使って出納管理をしましょう」
「そうですね。レジスターを販売している営業の人が来たことがあるので名刺が残っています。早速発注しましょうか」
マスターは腰を上げてスマホを手に取っている。
「ちょっ、ちょっと待った」
鈴音が慌てて声をかけたので、マスターは温厚な顔で振り向いた。
「なにか?」
「高価な品物をいきなり注文したらだめです。同じスペックの製品の見積もりを他社からも取って競合させないと」
マスターは意味が分からない様子で鈴音の顔を見つめている。
「そんなもんなのですか」
「そうですよ。それでね、お目当ての会社の方が高かったら、他社の見積もりをちらつかせて、他の会社はこの値段やけど値引きせーへん?っていって値引きさせるんですよ」
そこまで説明して、マスターもやっと鈴音の意図を察したようだ。
「さすが関西圏の人ですね。そんなこと思いも寄らなかった」
「そんなの普通ですよ。関西圏って言わはるけどマスターは何処の出身なのですか」
鈴音は普段は標準語で話すように心がけていたが、既に素の話し言葉が出始めていた。そして関西圏という言い方もちょっと引っかかったのだ。そういう言い方をするのは東京の人に多い。
「僕ですか。僕は沖縄の出身なのです」
沖縄と聞いて、鈴音の頭にはパイナップルとシーサーとハイビスカスの花の映像が渦巻いた。
裏を返せば沖縄繋がりで知っているものがそれくらいしかないのだ。
意表を突かれたので鈴音は少し落ち着いてきた。そして自分がマスター相手にまくし立てていたことに気がついた。
「すいません。私今日来たばかりなのに言いたい放題言ってしまって」
「いいのですよ、頼りになりそうです。ちょっと飲み物を作るので待っていてくれませんか」
マスターは鷹揚に言って、席を立つとカウンターに歩いていった。
鈴音が待っていると彼は、カクテルの入ったグラスを運んできて鈴音の前に置いた。グラスの縁に塩をまぶしたスノースタイルで白色のカクテルが入っているところは一見するとソルティードッグだ。
「これを飲んで中身を当ててください」
またテストなのかなと鈴音が訝みながらカクテルを口に含むと、意表を突いた香りと味が口の中に広がった。
「何だか判りますか。」
「判るというか、思い切り梨の味がするのですけど」
「そのとおり、うちは季節限定で旬の和フルーツのカクテルも作るのです。それ以外に気がついた点はありますか」
「梨が少し古くなっている気がします」
「やはり判りますか。うちはカクテルにフレッシュフルーツを使っていますが、僕は仕入れの時につい買いすぎてしまうのです。でも古くなってしまうと当然味も落ちるので必要な量を適時に仕入れていくようにしたい」
「そのための管理を私にしろとおっしゃるのですね」
マスターは笑顔でうなずいた。
「レジスターとパソコンは見積もりを取るようにします。ソフトウエアで必要なものはありますか」
鈴音は少し考えてから、自分が使ったことのある会計処理ソフトを告げた。当面自分が使うのだから使い慣れたソフトが良い。
「それでは、もう少ししたら開店時間ですから準備をしましょう。今日は天川さんの仕事はドリンクや料理をお客さんに運ぶのと、お客さんのお勘定係をお願いしましょう」
「はい」
鈴音は元気よく立ちあがった。
開店後も夕方の早い時間は客の入りは少ない。真っ先に現れたのは鈴音が始めてきたときにマスターと歓談していた大竹さんだった。
「あ、とうとうアルバイトの人を雇いはったんやね」
大竹さんは開口一番に鈴音のことを話題にした。鈴音はさりげなく会釈する。
「大竹さん、アルバイトではありません。僕のビジネスパートナーとしてがっちり働いて貰うつもりですから」
「そうか、それは失礼しました。僕はとりあえずボウモアをツーフィンガーで。ところで、彼女この間お店で見かけた気がするけど」
「そのとおりです。その後、首尾良くスカウトに成功しました」
皆、見ていないようでも他のお客の様子などを見ているものらしい。鈴音はマスターが自分でスカウトしたと言ったことに、何気ない気遣いを感じて嬉しかった。
「天川さん、ボウモアとはスコッチの銘柄です。ツーフィンガーとはショットグラスにこれくらい注ぐこと。ワンフィンガーだとこの半分です。天川さんはグラスにミネラルウオーターを入れてください。ストレートでウイスキーなどを飲む方にはチェイサーと言ってお水を出すのです」
マスターはショットグラスにお酒を注ぎながら、さりげなく説明してくれる。
鈴音はグラスにミネラルウオーターを注ぎながら、この調子で教えてくれるならなんとかやっていけるかなと思う。
次に来たお客はカップルで、男性の方がかなり年上に見えるがそう珍しいことでもない。
女性の方は少し雰囲気が派手だが鈴音と同年代に見える。
二人は揃ってソルティードッグを注文した。鈴音が運んだカクテルを飲みながら歓談している様はとても仲が良さそうだった。
しばらくすると、大竹さんは帰って行った。カップルの女性も残った男性に手を振って店を出て行った。
女性が出入り口を出ていくと、残った男性は飲み物を手に持ってカウンターの方に移動した。
「俊ちゃん。ちょっと副業の方で頼まれて欲しいのだけど」
「いいですよ。どんな用事ですか」
マスターはグラスを拭きながらのんびりと答えた。
「うちの奥さんの素行調査を頼みたいのだけど」
「構いませんけど、目的はどんなことですか」
男性はマスターが話を聞く様子を見せたので身を乗りだす。
「最近、若い男と歩いているところを見たと言う人がいる。二、三日でいいから調べてみてくれないかな。」
マスターはドリンクの時とは違う色の紙切れにさらさらと金額を書き込むとカウンターに乗せた。
「三日間でこれくらい、必要なら証拠写真も撮りますが」
「その金額で写真も撮ってくれるの?」
「はい」
マスターは表情を動かさないで答えた。
「それではよろしく頼む。今日のお代はいくらかな?」
マスターはいつもの紙切れに金額を書くと彼に渡した。
「支払いは彼女にお願いします」
マスターが告げると彼は財布を手にして、鈴音の前に来た。
「君は新しく入った人だね。名前は何て言うの」
「鈴音と言います」
「そう、僕は広田といいます。よろしくね」
広田さんから代金を受け取りながら、ちょっとノリが軽い人だなと鈴音は思った。
広田さんが店を出ると、お客さんが途切れ、鈴音はマスターに聞いてみた。
「マスターは副業って一体何をされているのですか。」
マスターはそれを聞いて爽やかな笑顔を浮かべる。
「実は昼間結構暇があるので私立探偵の真似事をしているのです。依頼があるのはさっきのような素行調査が殆どですけどね」
探偵と聞いて鈴音の頭に浮かんだのはアニメの名探偵シリーズだった。
現実にそんな職業があろうとは思ってもいなかったのだ。
「さっきの広田さん、奥さんとあんなに仲良さそうなのに素行調査を頼むんですか」
するとマスターは、人差し指を口に当てて見せた。
「さっき来ていたのは広田さんの不倫相手なのです。奥さんは別にいます」 鈴音は広田さんの顔を思い出しながら、自分が不倫しているのに奥さんの素行調査を頼むなんてと思い、あきれていた。
第4話 ワトソン君のポジション
鈴音の「スモーク」での初仕事は深夜一時に終わり、閉店後の片付けを手伝おうとする鈴音をマスターが手で制した。
「天川さんは先に上がってください。帰りはタクシーを使うこと。料金は領収書を持ってきてくれたら翌日精算します」
「でも毎日だと結構な金額になるから。自転車で来ましょうか。」
鈴音にしてみたら自分の一時間分の時給以上の金額を毎日の通勤に使うのは合理的と思えなかったのだ。
「いいんです、通勤手当は経費で落とせるはずですからタクシーを使ってください。多少とはいえお酒を口にする場合もありますから自転車で来て貰うわけにはいきません」
マスターは譲らず、鈴音は彼のことを真面目な人なのだと感心すると同時に、自分を気遣ってくれるのが何だか嬉しい。
マスターは食器を洗って掃除してから帰ると言ってシンクに向かって皿を洗っている。
食器洗いと言っても、鈴音がある程度片付けていたので最後の数組分なので、翌日まとめてやってしまえば良さそうなものだが、マスターは一晩放置したらゴキブリ繁殖の温床になるからと頑張っている。
食器の中にはパスタなどの皿もあるので衛生面に気を使っているのだ。
「スモーク」はショットバーだが軽食を取りながら長く居座る人もおり、マスターの気まぐれパスタ的な軽食の裏メニューが存在する。
常連客は好き勝手に注文しているのだ。
今日のパスタはぺぺロンチーノをベースに生ハムとルッコラ、そしてチーズをトッピングした一品だった。
鈴音が最初に訪れた時に食べた「突き出し」も早い時間にはバゲットのようなボリュームのあるものを準備し、時間が遅くなるともっと軽いオードブル系の内容に変えている。
調理もこなしながら、お勘定や食器の回収まで行うのは大変なので、スタッフを増やすのは合理的な判断に違いないと鈴音は思う。
お客さんの回転を見ているとそれに見合った売り上げはありそうだ。
「あの」
鈴音が声をかけるとマスターは手を止めた。
「明日の昼間は探偵のお仕事もするのですか」
鈴音の問いにマスターは照れくさそうな顔で答えた。
「探偵と言うほどのことではありませんが、広田さんのお家を起点に張り込みをして奥さんの行動を追跡するつもりです」
鈴音はちょっと間をおいて言った。
「私も見学させて貰っていいですか。本物の探偵がどんなことをしているか見てみたいのです」
マスターは困ったような顔をしていたが、やがて言った。
「給料は出せませんよ。その代わり手伝ってくれた分おやつでも出します」
にべもなく断られると思っていた鈴音は、マスターのポジティブな反応に嬉しくなった。
「明日の朝ここに来ればいいですか」
「いいえ、お店には来ません。天川さんのお家は下鴨でしたね。出町柳駅のところの鴨川のデルタは知っていますか」
鈴音はうなずいた。正しい意味のデルタは三角州を意味するが、マスターは加茂川と高野川の合流点のことを言っている。
二つの川が合流して鴨川となるのだが、合流点の真ん中にある三角状になった土地を地元のピープルは鴨川デルタと呼んでいるのだ。
「デルタから西側の橋を渡った所に花屋さんがあります。明日の九時に花屋さんの前で待っていて下さい」
鈴音がその辺りを思い浮かべると、何となく花屋さんがあったような記憶はあり、家から歩いて行くにも負担にならない距離だ。
「わかりました、九時に待っています。お先に失礼します。」
マスターに挨拶して鈴音は「スモーク」を後にした。
午前一時過ぎとはいえ、三条通りに出たら人通りはある。鈴音はすぐにタクシーを拾うことが出来た。
翌朝、鈴音は家を出ると歩いて待ち合わせの場所に向かった。
鴨川デルタは公園になっている。こぢんまりとした森に続いて、川の合流点の河川敷には芝生の広場もある市民の憩いの場だ。
週末ではなく通勤時間帯も過ぎているので、その辺りは小さな子供連れの母親がそこここにいるくらいだった。
公園を東西に横切る道路はショートカットになるらしく、業務用のトラックが頻繁に行き来している。
待ち合わせ場所の花屋さんはすぐに見つかった。鈴音は広い歩道上でマスターが現れるのを待った。
昨夜はマスターが仕事をしていたため、どこから来るのか詳しく聞いていなかったので、京阪電車の駅がある出町柳の方向を見たり、循環系のバスが通る河原町方面を見たりで何となく落ち着かない。
しばらくすると、鈴音の目の前に白いミニバンが止まった。自動のドアが開いたので、荷物の配送かと思った鈴音は少し後に下がった。
しかし、そのバンのドライバーは荷物の積み卸しを始める様子はなく、鈴音がぼんやりしているとバンの中から声が聞こえた。
「天川さん乗ってくださいよ」
鈴音が慌てて開いたドア化から中を覗くと。ドライバーズシートからマスターが身体をねじってこちらを向いている。
「すいません。自動車で来ると思っていませんでした」
鈴音は慌てて二列目のシートに乗り込みながら言った。
「いいんですよ。僕も車で行くと言い忘れていました」
マスターはドアを閉じると、スムーズにミニバンを発進させた。少し西にある河原町通の交差点を左に曲がり、河原町今出川の交差点も更に左折した。
「マスターはどこに住んでいるのですか」
「僕ですか。吉田町に部屋を借りています」
鈴音にはマスターが近場に住んでいるのが少し意外に思えた。
気がつくと鈴音が座った座席の横には三脚にセットされた望遠レンズ付きの一眼レフのデジタルカメラが置いてある。
「すごいカメラですね」
「盗撮する場合は相手に気付かれないのがベストです。夜の闇に紛れたり、物陰から望遠レンズで撮影するのが主ですが、それが出来ない場合は隠しカメラで撮影します」
鈴音は盗撮という言葉にどきっとしたが、マスターは涼しい顔で運転を続けていた。
ミニバンは今出川通りを東に向かっており、東大路との交差点を直進したところだ。
「今日はこれから何処に行くのですか」
「広田さんのお宅は比叡平にあります。目立たないように車を止めて張り込みに入りましょう」
比叡平は京都から比叡山の方に上っていく道の途中に造成された新興住宅地だ。ミニバンはマスターの言葉通りに白川通りを北進した後、右折して坂道を上り始めた。
第5話 依頼が多い素行調査
比叡平は京都から比叡山に登っていく道の途中に造成された新興住宅地だ。ミニバンはマスターの言葉通りに白川通りを北進した後、右折して坂道を上り始めた。
鴨川デルタから比叡平に行くつもりなら、鈴音を下鴨神社で拾ってから御影通りに進めばすんなりと比叡平がある山中越方面に行くことができる。
わざわざ鴨川デルタまで行って今出川通りに出ると遠回りになるのだ。
鈴音はマスターに指摘しようかと思ったが機嫌よくステアリングを握る彼の横顔を見て口をつぐんだ。他所から来た人は往々にして道を知らないものだ。
比叡平は京都の五山の送り火で有名な大文字山の裏側辺りに開発された新興住宅地だ。
比叡平というと京都市の一部と思っている人も多いが実は滋賀県の大津市に属している。
マスターがミニバンで走っている道は京都から大津市に抜ける山中越えと呼ばれる峠道の一部だ、急なカーブが連続する山道を峠近くまで登った辺りで、突然山の中に住宅地が見え、比叡平に着いたことがわかる。
マスターは住宅街の比較的広い道路の路肩に車を止めるとエンジンを切った。
「ここから広田さんのお家とガレージが見えます。奥さんの動きがあるまでここで監視しましょう」
「監視って何をするんですか」
鈴音の問いにマスターは、助手席のダッシュボードをあけると何か取り出しながら答えた。
「ボーッとして待っているだけです。この車はウオークスルーですから助手席に移動してオセロゲームでもしませんか。」
彼が取り出していたのは携帯用のオセロゲームのセットだった。
何でオセロやねんと心の中で突っ込みを入れながらも鈴音は言われるとおりに助手席に移動すると、マスターを相手にオセロゲームを始めた。
探偵業の現場に連れてきてくれと言ったのは鈴音の方なので、彼のやり方を尊重するのだ。
オセロゲームの序盤戦は白色の鈴音は早々と三ヶ所の隅っこ取ってしまったので優勢のように見えた。
オセロゲームでコーナーを取れば有利なことは誰もが知っているが、鈴音が取ったコーナーの白石の横には一コマ隙間があるところが多かった。マスターはいつの間にかその隙間に黒石を置いていく。
ゲームが終盤にかかった頃、鈴音は取りこぼしのように一つ残っていたマスターの黒石が効いてくるのを意識した。
ゲーム版の辺の部分に最後に残った一マスにマスターが黒石を置けば逆転されてしまうことに気がついたからだ。
「もしかして、わざと隅を取らせたのですか」
「そのとおり、オセロゲームは皆がコーナーを取ることを最優先するので、その後の展開まで意識していない人が多くなります。他のコーナーに注意を引き寄せている間に、ポケットに潜り込んでいけば戦略的にはコーナーを取ったのと変わりません」
このゲームにそんな戦略があったのかと鈴音は唖然としてオセロのボードを見詰めた。
「動いた!」
突然、マスターが叫んだので鈴音はどれが動いたのだろうかと、オセロゲームのボードを見詰めた。
「違う、広田さんの奥さんの方です。ゲームの続きは後でしましょう」
マスターはオセロゲームのコマの配置をスマホで撮影するとボードごと二列目の座席に放り出したが、マグネットが付いているのでコマは散らばらない。
鈴音が顔を上げると、監視していた広田さんの家のガレージから白いBMWのミニが出て来るところだった。
鈴音はちらっとゲームのボードを見てその状態から再開してくれなくてもいいのにと思った。
マスターはミニバンを発進させたが、ミニが走っていく方向とは逆方向だった。
「マスター方向が逆ですよ。広田さんの奥さんは向こうに行っちゃってますよ」
「今Uターンして真後ろに付けたら目立ちすぎます。別の出口から幹線道路に出て、距離を置いて追尾するんです」
マスターは言葉通りに裏通り住宅街の細い道に左折すると裏通りを疾走し始めた。
「マスター危ないです。住宅地の生活道を他所から来た車がスピードを出して走るのは駄目なのですよ」
鈴音は言ってしまってから思わず口を押さえた。正論だがこの場面で言うべきではなかったかもしれない。
「すいません。ゆっくり走ります」
マスターは意外と素直に鈴音の話を聞いてスピードを落とした。
私が余計なことを言ったばかりにターゲットを見失ったらどうしようと、鈴音は気が気ではない。
マスターは団地内で何度か右左折を繰り返すといつの間にか最初に登ってきた京都と滋賀を結ぶ峠道に戻っていた。
京都方面に向けて進むと百メートルほど前方にある別の交差点から先ほど見かけた白いミニが団地方面から出てくるのが見えた。
「すごい」
ミニのドライバーから見たら、通りすがりの車が後から来ているようにしか思えないはずだ。
感心する鈴音の横でマスターは平静な顔でステアリングを握っていた。
マスターが距離を置いて追尾するミニは、京都の町に降りていくと白川通りを北上し、北大路に入ってから西に進み、高野川の手前で左に曲がった。
「どうやらカナット洛北に行くつもりのようですね」
「いやだな。買い物に来たお母さんと鉢合わせしたらどうしよう」
カナット洛北と隣のイズミヤは天川家に近いため、母がよく買い物に行く場所だ。
鈴音は今、ハローワークで職探しをしていることになっているので母と顔を合わせると具合が悪い。
「大丈夫。そう簡単には鉢合わせしませんよ」
マスターは安請け合いするが鈴音は何だか心配だ。そんなことを話している間にターゲットの車はショッピングモールの駐車場に入って行く。
マスターも次第に距離を詰めながら続いた。
ターゲットである広田さんの奥さんは駐車場の隅の方に車を止めたが、その近くには空きスペースは見あたらない。
「天川さん彼女から目を離さないようにしてください」
マスターは自分の車を止めるために空きスペースを探している。
鈴音は言われたとおりに広田さんの奥さんの行方を目で追う。
鈴音にとっては初対面の人だ。
整った顔立ちに肩に届くストレートの髪、その黒い髪は遠目にも手入れが行き届いているのがわかる。
鈴音は自分の髪の毛が枝毛だらけで荒れているので何だか羨ましくなった。
しかし、鈴音は彼女がコートをバッグと一緒に手に持ったままの状態なのに少し違和感があった。
そのうえ、彼女はショッピングモールの中に入る出入り口とは反対の方向に歩いている。
マスターがやっと空きスペースを見つけて車庫入れを始めた時、鈴音は叫んだ。
「マスター、彼女は別の車に乗りましたよ。男の人が運転しています」
マスターはとりあえずミニバンを止めると、後部座席から一眼レフのデジタルカメラを取った。
「天川さん。どの車ですか」
「向こう側の通路を出口に向かっています」
鈴音が指さすと、マスターはサイドウインドウをあけてパシャパシャと連写した。
マスターは三脚が付いたままのカメラを鈴音に押しつけると再び車を発進させた。
「今の写真で報酬をもらえるのですか」
鈴音の問いにマスターは首を振った。
「離婚調停などで使うには弱いですね。情事に及んでいる現場の写真か、明らかに行為に及んでいたと判る建物から並んで出て来るところを写真に取らないと、決定的な証拠写真にはなりません」
マスターの口から情事に及んでいる現場などという言葉を聞いて鈴音はちょっドキドキした。
第6話 レーザー盗聴機実装
駐車場を出たターゲットの乗る自動車を追って、マスターのミニバンは川端通りに出て左折した。
方角で言えば南にあたる。
「あの車は何という車ですか?」
機械には疎い鈴音が聞くと、マスターは即座に答えた。
「あれはトヨタのクラウンです。ちなみにこの車は三菱デリカです」
どちらも何となく聞いたことがある名前だ。鈴音にとってクラウンはよく見かける高級そうな車というイメージだ。
「自家用車は意外なところで知人に見られたりするものです。相手の車に乗り換えるのは、かなり怪しい行動ですね」
「そうですか?誰かと御飯食べに行くときはお店の駐車場が少ないから一台に乗り合わせたりしませんか」
マスターは運転しながら考え込んだ。
「そうか、僕は密会を前提に考えてばかりいたけど、その可能性もあるんですね」
何をするにしても思いこみで判断するのは禁物だ。
鈴音達が追跡するクラウンは、鈴音とマスターが待ち合わせをした出町柳駅の辺りを通り過ぎて更に直進した。
川端通りは鴨川沿いの南北の通りで、河川敷との境には桜並木がある気持ちのいい道だ。
冬枯れになった並木越しに鴨川の河川敷に舞い降りるカモメの群れも見えている。
自動車数台をはさんで追跡するマスターのミニバンは丸太町通りや御池通などの大きな通りとの交差点でも信号に引っかかって置き去りにされることもなく順調に尾行を続けた。
広田さんの奥さんが乗り合わせたクラウンは三条通をこえて更に南に下り、四条大橋の交差点の手前でウインカーを出した。
「祇園方面に行くのかな」
マスターがつぶやいたが、彼の予想に反してクラウンは交差点の手前にあるカフェの駐車場に入っていった。
「赤いモミの木に来はったんですね」
「鈴音さんも来たことがあるんですか」
マスターの質問に鈴音は当zンという雰囲気で答える。
「赤いモミの木の大きなホットケーキは有名ですからね」
川端四条交差点の北側には老舗のレストランや京の町屋風のバーが並んでいる。
赤いモミの木も、その一角を占め、昼間はカフェ、夜は雰囲気のいいバーとして営業する有名店だ。
問題のホットケーキは上から見たら普通の大きさだが高さが二十センチメートルはあるビッグサイズで、季節に応じた期間限定のトッピングを楽しめる名物スイーツだ。
四条河原町界隈にあるデパートで買い物をすると、その辺りはお茶してから電車に乗って帰るのにちょうどいいロケーションだ。鈴音も買い物に来たときに何回か赤いモミの木を訪れたことがあった。
四条大橋の交差点の信号が赤になったので、マスターのデリカはちょうど赤いモミの木の駐車場前の道路に停車した。
マスターは鈴音からデジタルカメラを受け取ると、助手席のウインドウ越しパシャパシャと写真を撮っている。
「窓を開けなくてもいいのですか」
「今窓を開けたら光線の関係で車内が見えてしまいます。この距離でも、車の中からカメラを向けているのが見えたら気づかれます」
鈴音の問いにマスターはファインダーを覗いたままで答えた。マスターは明るさの違いを計算しながら、気付かれないように行動しているらしい。
広田さんの奥さんと連れだって歩いているのは三十代の前半くらいの渋い雰囲気の男性だ。
「店内が満員でウエイティングになっていますね。今僕たちが店にはいると席が空くのを待つ間に間近で顔を見られるので具合が悪い」
「それでは、この辺から見張ったらどうですか」
「定石どおりにいくとそうなります。でも僕は二人の会話を盗聴したいんですよね」
盗聴という言葉に鈴音はどきっとした。よく盗聴器発見サービスとか広告でも見かけるからだ。
マスターみたいな虫も殺さないような好青年が盗聴器を仕掛けるなんて反則だと鈴音は思う。
「でも、コンセントのタップ型とか結構知名度が上がってしまったし、仕掛けに行くと当然相手の目にもとまりやすい」
それはそうだと鈴音はうなずいた。
「今日はちょうど鈴音さんも手伝ってくれるので、レーザー盗聴器を試してみようと思うのです。車の外で受信機を持って立っている役をお願いできますか」
「いいですけど。私にも出来るのですか」
そこまで話したときに信号が青に変わったので、マスターは後続車の邪魔にならないように左側の歩道に乗り上げて止まった。
マスターは座席の間を歩いていくと、三列目の座席に置いてあったバッグから何か取り出してきた。
ドライバーズシートまで戻ってきたマスターが手渡してくれたのは、一辺が二十センチほどの立方体の黒い箱に、派手な赤いリボンが付けてある代物だった。
「これを胸の辺りに持って、赤いモミの木の駐車場脇の道路に立っていて欲しいんです」
「こんな派手なプレゼント系の箱抱えて立っているって、どういうシチュエーションを想定しているんですか」
「いやほら、連れの人と待ち合わせしているとかあるでしょう?」
そんなんありえへんと思い、鈴音は箱を持ったまま肩をすくめた。
しかし、マスターは鈴音の考えには気づきもせずにレーザー盗聴器の説明を始めた。
「ご存じだと思うけど音というのは空気の振動です。もし窓ガラスの傍で会話をしていたら、音を受けてガラスも振動しています。ここまではわかりますね」
鈴音はうなずいた。
「レーザー盗聴器は会話が行われている近くの窓ガラスにレーザー光線を当てることによって窓ガラスの振動をレーザー光で拾って、再び音にするシステムです」
鈴音は自分が持っている箱に目を落とした。この目立つ箱がレーザーとどう関係があるのだろうと不思議に思っているのだ。
「問題は、ガラスに当てたレーザーは音の情報を持っているけれど、ガラスに入った角度と同じ角度で反射してしまうことです。反射したレーザーをどうにかして受けないと盗聴することは出来ません。今日は鈴音さんがいるからやっと試すことが出来ます」
「そんな高度なことが出来る機械ってものすごく高いんじゃありませんか」
落としでもしたら大変だと思いながら鈴音はプレゼントの箱に偽装されたレーザー受信機を見た。
「自分で作ったから、五千円もかかっていませんよ。必要なのはレーザーの発信器とカドミウムサルファイト系の光伝導セル、そしてピックアップした音声を増幅する回路ですからね。その箱の表側に、レーザー光を受けるための窓が開けてあります。僕が目標の窓ガラスに当てて反射してきたレーザー光をその箱を使って受けて欲しいのです」
この人は何処でそんなスキルを身につけたのだろうと思い、鈴音はマスターの素性を殆ど知らないことを思い出して何だか薄気味が悪くなった。
「でもどうやったら、反射したレーザーを受けているってわかるんですか」
「するどいですね」
マスターは鈴音の方に身を乗り出すとダッシュボードを開けてプラグタイプのヘッドホンを取り出した。
「鈴音さんはスマホを持っていましたよね。このヘッドホンをスマホに繋いで音楽でも聴いているような格好で立っていてください。僕がスマホ経由で立ち位置とか身体の向きを指示するのでその通りにしてくれたらいいのです」 本当に出来るのかなと、鈴音はリボンの付いた箱とマスターの顔を交互に見ながら不安を隠せなかった。
第7話 お駄賃はホットケーキ
鈴音はマスターのミニバン、三菱デリカを降りるとレーザー盗聴器の入った箱を抱えてゆっくりと歩道を歩いた。
耳に嵌めたヘッドホンは、胸ポケットのスマホに繋いでいるが、音楽を聴いているわけではない。通話中の音声が聞こえる状態だ。
「僕は何処かでUターンしてきて道路の鴨川沿いに車を止めます。天川さんは赤いモミの木の駐車場脇の街路樹の辺りで待機してください」
マスターの指示がヘッドホンから聞こえる、背後ではマスターのミニバンが走り去る気配がした。
鈴音は指示されたとおりに、街路樹の下に立ち、リボンの付いた箱を胸の辺りに持った。箱の外側の面には窓が開いていて、ガラスで反射したレーザー光を受けるようになっているらしい。
「天川さん今、赤いモミの木の前に戻ってきました。こちらを振り向かないでそのまま立っていてください」
ヘッドホンから声が響いた。意外と早くマスターが戻ってきたので鈴音はほっとした。
しかし、こんな所に立っていたら店内からは丸見えだ。派手なリボンをかけるラッピングはあまり見かけないのですごく目立つ気がする。鈴音は気が気ではなかった。
それから相当長い時間、箱を抱えて立ち続けていた。
そろそろ箱を抱える腕もしんどくなってきたと思い始めたころに、マスターが話しかけてきた。
「どうにか会話が拾えたと思います。そろそろ撤収しましょう」
「どうしたらいいですか」
胸ポケットのスマホが声を拾ってくれるか自信がなかった鈴音が箱を抱えたまま、聞いてみると、マスターは聞こえたらしく指示を返す。
「そのまま、四条通の方に歩いていってください信号を渡ったら南座が見えると思うのでその前で待っていて下さい。僕は今から回り込んで拾いに行きます」
カフェ「赤いモミの木」からは、鈴音がマスターの三菱デリカから降りたのは見えていなかったはずだ。
マスターは悪目立ちした鈴音と自分の車を店内から見ている人に関連付けさせたくないのかも知れない。
鈴音はそんなことを考えながらゆっくりと歩いて四条通りの交差点を渡った。すぐそこに歌舞伎座「南座」が見えている。
南座の前の歩道を歩いていると、待つほどもなくマスターのミニバンが目の前に寄ってきた。
川端通りを北方向に走り去ったのに、あっという間に回り込んで鈴音の回収に来てくれたのだ。
鈴音が、自動で開いたドアから二列目のシートに乗り込むと、マスターはデリカを発進させて素早く車の流れに乗った。
「今日はこれくらいにして引き上げましょう」
マスターの言葉が意外だったので、鈴音は聞いた。
「もう尾行はしないのですか」
「天川さんの指摘が気になったので、盗聴した音声を聞いてみたいのです」
マスターは生真面目に答える。
鈴音とマスターはミニバンをマスターが借りている駐車場に置いてから、「スモーク」の店内に入った。
時刻はお昼に近くなっている。
マスターはカウンターの内側のオープンキッチンからスタッフオンリーのスペースに入るとラップトップパソコンを持って出てくる。
そして、店内に三つある4人掛けのテーブルにラップトップを置いて起動した。それから、鈴音が抱えていた箱を開けて、中からSDカードを取り出すと、パソコンのスロットにセットする。
マスターはそのまま何気なく、メディアプレイヤーで音声を再生しようとしている。
「レーザー盗聴器ってそのまま音声で聞けるようなものなんですか」
鈴音は専用のソフトウエアを使って音声に変換するのだろうと思っていたので、そのまま音声ファイルとして再生できるのが意外だったのだ。
「さっき言った通り、ガラスで反射したレーザー光さえ拾えたら、音声としてピックアップするのは比較的簡単なのです。今日は天川さんの協力のおかげで初めて実戦投入することができました。うまくいっているかどうかはこれから聞いてみないとわかりません」
マスターはパソコンの音声出力のボリュームを上げながら言った。
「あの」
鈴音が声をかけたので、アスターは顔を上げた。
「何ですか。」
「私のことを、鈴音と呼んでくくれませんか」
鈴音は、天川さんと呼ばれると何となく他人行儀な感じがしていたのだ。
「いいですよ。実は今日、何回か「鈴音さん」と呼んでしまっていましたけどね」
「あれ、そうでしたか」
鈴音は気づいていなかったので少し気まずい感じがしたが、マスターは頓着しないでパソコンの操作を続けている。
しかし、ボリュームを上げたパソコンからは、何も聞こえてこなかった。
「おかしいな。うまく反射光が当たるように調整したつもりなのに」
マスターがつぶやいたとき、パソコンから音が聞こえ始めた。
しかし、それははっきりした会話ではなく、ノイズのような感じだ。食器のぶつかる音や、ざわめきのような声、それに自動車のエンジン音などがかぶさっている。
それらの音は、ときおりぷっつりと途絶えて無音になる時間もあった。
「通りの反対側からレーザー光を当てたので、バスやトラックが通過するときに、レーザー光が遮られたのですね」
「それじゃあ、ノイズみたいな音が出ているときは、うまくレーザーを拾えていたんですね」
「そのとおりです」
マスターは微笑んだ。
鈴音は、マスターに微妙に笑窪ができることに気が付く。
『吉良さんには、主人の行きつけの店を彼に気が付かれないように予約してホームパーティーができるように交渉するのを手伝ってほしいのです』
だしぬけに話し声が聞こえたので鈴音は驚いた。思ったよりもクリアな音声だ。
しかし、バスやトラックでレーザー光が遮られたか、鈴音が身動きして受信機が動いたとみられるときは会話が途切れている。
『・・そんな事せえへんでも、普通にお家でパーティしてあげたほうがええんちゃうの。まさと君は工務店してはるから、顧客と・・・・・確実に準備した場所に来られるとは限らなしいし。・・』
会話は、その後も途切れ途切れだが聞き取ることができた。二人とも自分の子供のことを共通の話題にしているようだ。
そして十分ほどでノイズ交じりの音声は途切れた。
「会話の内容から判断すると、広田さんの奥さんの尚子さんのお子さんが幼稚園に通っていた時のお友達のお父さんが吉良さんですね。吉良さんは奥さんがお勤めに出ているので、自営業の旦那が幼稚園の送り迎えに来ていたので尚子さんと知り合った。子供たちがこの春から小学校に入って、会う機会がなくなっていたので久しぶりに連絡を取って再会した。というところですね」
「今の会話でそんなにいろいろわかるんですか」
「半分は広田さんから事前情報として聞いていたことですが、これで確認できました。ちなみに広田さんのお名前は真人さんです」
「それでは、奥さんは浮気していたわけではないんですね」
「それはわかりません。明日からも尾行して、事実関係を確認できてから真人さんに報告です」
マスターはパソコンを片付け始めた。
鈴音は浮気の有無はさておき昼間から出かけてお茶している尚子さんがなんだかうらやましくなって口に出した。
「専業主婦の人って時間を自由に使えていいですね」
「お勤めしていた人にはそう見えても、専業主婦や自営業の人にはそれなりの気苦労があるのですよ」
マスターはやんわり答えたが、鈴音は考えを見透かされたような気がして口をつぐんだ。
マスターはパソコンを片づけると鈴音に言った。
「お腹がすいてきたからお昼にしましょう。外から見ていたら赤いモミの木のホットケーキを食べたくなりました。今からさっきのお店に行きませんか」
実は鈴音もそう思っていたので、何回もうなずいた。
「盗聴を手伝ってもらったから僕がおごります」
「本当ですか。わあい」
鈴音がマスターと一緒に「スモーク」の店舗を戸締りして階段を上ると、階段の上にはよく晴れた空が見えていた。
第8話 バースプーンの使い方
マスターの探偵業を目の当たりにしてから二日後、鈴音は開店前の「スモーク」でバースプーンの使い方を練習していた。
バースプーンはビルドスタイルのカクテルを作る際に、タンブラーに入れた材料を混ぜるためのスプーンだ。
長い柄の片方が細いスプーンとなっており反対側の端にはフォークが付いている。
そして、回しやすくするためか、長い柄の部分はらせん状になっている。
今のところ、鈴音がお客さんに出すカクテルを作る予定はないが、お運びさんと経理だけでは味気ないからカクテルの作り方を教えてくれと、マスターにおねだりしたのだ。
その結果マスターから仰せつかったのが、氷と水が入ったグラスをバースプーンでかき混ぜる練習だった。
「マスター。カクテルってあのシャカシャカって振るやつで作るんじゃないんですか」
鈴音がぎごちなく氷と水をかき混ぜながら聞くと、付き合いのいいマスターは鈴音の口調に合わせて答えた。
「シャカシャカするやつはシェイカーと呼びます。シェイカーを振るのは上級編に入ってからです。まずはバースプーンで上手にステアできるようになってください。上手になってきたら、ロングカクテルを作るのを手伝ってもらうかもしれません」
「わかりました」
返事は良いが、実は鈴音はどんくさかった。
マスターはスプーンの背がグラスの内側に当たる状態で混ぜるようにとスプーンの持ち方から教えてくれたのだが、マスターのお手本のように上手に回すことはなかなかできない。
マスターは鈴音の手元をじっと見てから指摘した。
「バースプーンの持ち方はそれでいいですから、回すときは薬指で押し出して中指で押し戻すような感じで回してください。あまり手に力を入れないほうがスムーズに回せますよ」
鈴音はマスターに言われるように手に力が入りすぎているらしくスムーズに回せない。
回すことに意識しすぎると手全体でゴリゴリ動かしそうになるし、手首を固定すると今度はスプーンがずり落ちそうになる。
「できるだけ腕は固定して、親指と人差し指は軽く添える程度にするんです。」
「難しいですう」
鈴音は早くも泣きを入れたがそれでも手元は動かし続けている。
マスターはくすっと笑ってから鈴音に言った。
「そのバースプーンは鈴音さんの練習用にしていいですから、開店前や閉店後に練習してみるようにしてください。そろそろお店を開けましょうか」
「はい」
鈴音は練習用セットを片付けると開店の準備を始めた。
開店前の鈴音の任務は階段を下りた地下にある店内に収納してあった看板を地上の道路までもって上がって電源を入れることだ。
看板をセットした鈴音がゼイゼイ言いながら店内に入ってくると、マスターは店内をきれいにセットアップし終えていた。
「鈴音さん。フルーツの仕入れをずいぶん減らしたみたいですけど。大丈夫ですか」
鈴音はここ数日の売上を分析して、必要以上の仕入れをしないように発注量を減らしたのだ。
伝票を見ながら心配そうな様子のマスターに、鈴音は言った。
「このお店は固定客が多いみたいです。オーダーする飲み物のし好も急な変化はないはずなので、その発注量で充分だと思います。いざとなったら私が明治屋まで走って買ってきますよ」
マスターの発注量では、使い切れなかったフルーツを箱単位で無駄にしていたので、経理を任された以上、無駄な買い物はできない。
「そうですね。経理のプロのご意見に従いましょう」
鈴音は経営関連の仕事をしていたわけではないが、マスターは勝手に経理のプロと決めつけている。
「マスターは今日の昼間も広田さんの奥さんを尾行してはったんですか」
「ええ。今日もスクーターで後を付けました。昨日は一人で買いもの、今日はママ友らしき女性とブランチを楽しんでいただけで、彼女が浮気をしている証拠はつかめませんでした。鈴音さんが言ったように彼女は白の可能性が高いですね」
二日前、鈴音はマスターがアルバイトでやっている素行調査を手伝ったのだが、マスターは翌日からは同じ車を続けて使うと気づかれるからとスクーターを使った尾行に切り替えていた。
「彼女が浮気をしていないという証拠しか出てこなかったら、マスターは報酬をもらえないんですか」
「そんなことはありませんよ。ちゃんと調査料をもらいます。今日は広田さんが結果を聞きに来るはずですから、ありのままに報告しましょう」
鈴音はうなずいた。
見学させてもらったマスターの探偵業は意外と地味なものだったが、また手伝いたいような気がする。
一昨日の私立探偵初体験は、マスターと一緒に食べたホットケーキの味と一緒に鈴音の記憶に楽しい記憶として刻まれていた。
お店を開けたからと言って、すぐにお客が来るものでもない。
お店としてはそんな時間が長いとよろしくないのだが、お客が来るのをぼーっと待っている時間も鈴音は嫌いではない。
やがて、入り口のドアベルが鳴って最初のお客さんが店内に現れる。
「いらっしゃいませ」
今日最初のお客さんを迎えようとした鈴音の笑顔は、入ってきた二人連れの顔を見て凍り付いた。
鈴音は慌てて傍らにいたマスターの片手をつついた。
「マスター。広田さんの奥さんが一緒にお茶していた吉良さんと現れましたよ。尾行したのがばれちゃったんでしょうか」
ひそひそと囁く鈴音にマスターも同じように小さな声で答えた。
「尾行がバレたとは限りません。普段通りの態度で接客してください。」
鈴音はうなずいたが、緊張してこめかみのあたりがどくどくと脈打っているのを感じた。
こっそり後をつけた相手と対面することになると、これほどまでにどきどきしなければならないのかと、鈴音は探偵業のやましい部分を思い知らされていた。
第9話 私のお店をうちを修羅場にしないでください
広田さんの妻である尚子さんは吉良さんと並んでカウンター席に座り、二人のコートを預かった鈴音はクロークにかける。
鈴音が戻った時にはマスターはミキシンググラスの横にベルモットとタンカリーのジンを用意していた。
「マティーニグラスを用意してください。お二人の注文はドライマティーニです」
鈴音が言われたとおりにグラスを用意していると、吉良さんが口を開いた。
「工務店をされている広田さんをご存じないですか?私は知り合いの吉良と申しますが」
マスターはミキシンググラスに氷を入れる手を止めた。鈴音はマスターの前にマティーニグラスとオリーブを並べながら耳をそばだてた。
「ええ。広田さんならよくおいでますよ」
マスターは何食わぬ顔で受け流す。鈴音は自分には無理だと思い、ちょっと感心した。
「こちらは広田さんの奥さんの尚子さんです、実はちょっとお願いがあるんですが」
マスターは尚子さんに会釈してから聞いた。
「どんなことですか」
「実は来週、夫の誕生日が来るんです。この数年彼が忙しかったり、子供の習い事があったりで、まともにお祝いをしたことがなかったので、今年はお祝いをしてあげようと思ったのです」
尚子さんの言葉を吉良さんが引き継いだ。
「ご主人の好きなお店で家族が待ち伏せしてサプライズで誕生パーティーを開こうという趣旨だそうです。 広田さんはこのお店によく出没されるようだから、テーブルを一つ、時間で貸し切りにしていただけないかとおもいまして」
「そんなことでしたら喜んでお引き受けしますよ。ただ、ここでは軽食程度しか料理は作れませんがよろしいですか」
「もちろんです。貸し切り料金とかも必要でしたらお払いしますので」
「いいえ注文された分の代金だけで結構ですよ」
マスターはさわやかな笑顔で答えた。尚子さんの表情が緩むのがわかる。
「それから、バースデイケーキを囲みたいというのでしたら、ケーキを持ち込みされてもかまいませんよ」
「それはなんだか悪いみたいですけど」
「お得意様の誕生日ならそれくらいは我慢します」
途中から手を動かしていたマスターは出来上がったドライマティーニを二人の前に置いた。
長い脚が付いた浅い杯状のマティーニグラスに透き通った液体が満たされ、その中にオリーブが入ったおなじみのスタイルのカクテルだ。
二人はあっという間にドライマティーニを飲み干した。
「それでは、主人の誕生日はこの日ですので、午後7時から2時間、席の予約をお願いします」
尚子さんが卓上カレンダーで指さした日を、マスターはメモに書き留めて言う。
「わかりました。店の奥側のテーブルを予約席にしてお持ちしています」
尚子さんと吉良さんは、一杯だけで帰るつもりだったがもう一杯カクテルを飲みたくなったからと、次のカクテルをオーダーした。
吉良さんがジントニック、尚子さんがソルティードッグだ。
二人は、今度のカクテルはゆっくりと飲みながらしばらくの間、子供の担任の話や広田さんのことを話してから帰っていった。
マスターも時折話に引き込みながら歓談する様子は大人の雰囲気でかっこいいと鈴音は少しあこがれてしまうくらいだ。
2人がお店を出ると、マスターは大きなため息をついた。
「どうやら尾行の件はばれていなかったようですね」
「マスターでも緊張しはるんですね」
鈴音は平気そうな顔で応対していたマスターも実はドキドキしていたのだとわかり、マスターに親しみが増したような気がする。
「でも心配の種が増えましたよ。ご家族がサプライズパーティーを準備した会場に広田さんが彼女を連れて現れたら修羅場になるのは必至です。どうにかして広田さんに注意を促さないと」
マスターの言葉を聞いて鈴音は思わず口を押えた。
それは、えらいことになってしまうという状況だ。
「どうやって伝えたらいいでしょうね?」
「それですよ。サプライズパーティーの話で予約を受けたので露骨に伝えるわけにもいきません」
何かいい方法を考えなくてはと、次々とお客さんが入れ替わっていく間、鈴音はカクテルを運んだり、お勘定の清算をしながら考え続けていた。
しかし、名案は浮かばない。
マスターもその話題を口にすることはなかった。やがて、夜が更けたころになって広田さんが「スモーク」を訪れた。素行調査の結果を聞くのが目的らしく、今日は女性は連れていない。
「調査の結果はどうだった」
鈴音が運んだソルティードッグを飲みながら、広田さんはカウンターに乗り出しそうな勢いでマスターに訊ねる。
「そうですね。3日間の調査なので断定はできませんが、おそらく奥さんは白だと思います。幼稚園に通っている娘さんのお友達のパパと連れ立って歩いている場面を写真に撮りましたが、普通のママ友とお出かけする場合と同じ行動パターンです」
「そうなのか。祇園を男と二人連れで歩いていたのを見たという知り合いがいたので、てっきり不倫しているのかと思っていた」
相変わらず自分が不倫しているのを棚に上げている。初対面の時から心よくなく思っていた鈴音は思わず言ってしまった。
「広田さんは、ご自分が不倫をやめて、奥さんを大事にしはったほうがいいと思いますよ」
マスターがぎょっとした表情で振り向いた。
「はあ?」
広田さんは口を開けて絶句している。
しまった、また余計なことを言ってしまった。鈴音は自分の口に手を当てたがもう手遅れだった。
第10話 不倫男の実態
「なんだよ、この店は客のプライベートにご意見するのか?」
広田さんはカウンターに肘をついて親指と中指で自分のこめかみをつかみながらぶつぶつとつぶやいた。
「すいません。悪気はないのですけど、彼女は思ったことをポロッと言っちゃうところがあるのです。あまり気にしなくていいですからね」
マスター、全然フォローになってないじゃないですかと、鈴音は文句を言いたかったがさすがに口に出すことはできない。
「あれほどずけずけ言われたら気にするわ!」
広田さんは、ぼそっと言ってソルティードッグのグラスの縁の塩をなめた。
声には出していないが最後に「あほ」と付け加えられたような気がして鈴音は首をすくめる。
「マスター、グレンフィディックのストレート。ツーフィンガーで」
「広田さんはあまりアルコールにお強くないから」
マスターはそんなに飲まない方がいいと言おうとしていたようだが言葉を飲み込んだ。ロンググラスを片手に持った広田さんが上目使いに睨んだからだ。
マスターがショットグラスに注文されたスコッチを注ぎ、鈴音がチェイサーのグラスを出したが、広田さんはたっぷりと注がれたスコッチを一息で飲み干した。
鈴音が見てもおいしそうに飲んでいるようには見えない。
「マスター次はね、アードベッグをツーフィンガーで」
マスターは黙って別のショットグラスに注文されたスコッチを注ぐ。
鈴音の言葉が広田さんの何かのスイッチを押してしまったようで、もはや止めても無駄だとあきらめたようだ。
鈴音は広田さんが荒れ始めたらどうしようと気が気ではなかった。
しかし、数分後には広田さんは、ポロポロと涙を流していた。
「広田さんは泣き上戸だったのですか」
「さあ、僕も今日みたいな彼は初めて見ました」
彼に聞こえないように鈴音とマスターがひそひそ話をしていると、広田さんの声が響いた。
「二人とも聞いてくれよ。俺は朱美ちゃんに二股かけられていたんだ」
鈴音はマスターと顔を見合わせた。マスターは恐る恐るといった様子で広田さんに訊く。
「朱美さんって綺麗な人でしたけど、何してはる人なんですか」
「いわゆるキャバ嬢」
その答え方からすると、彼はそうなることをある程度予期していたのかもしれない。
「どれぐらい貢ぎはったんですか」
マスターはあまり聞きたくないけど、話の流れで仕方ないといった感じで訊いている。
「ケリーバッグが欲しいていうから、エルメスのショップで買うて上げたし、ほかにもあれやこれやブランド品を買うてたから」
ブランド品には疎い鈴音にも、それは7ケタ台に乗る金額だと察しがついてきた。
朱美さんにしてみればプレゼントをもらうのが目当てのお付き合いで、広田さんの他にもターゲットになる男性がいたのだろう。
「うちの奥さんの素行を気にしている場合じゃなかったのだよな。いや、わかっていたけど現実から目をそらしたかっていうか」
「広田さんすいません。私余計なことを言ってしまって」
鈴音は今更ではあるが広田さんに謝った。広田さんは首を振りながら言った。
「もうええねん。本当はな、ばかばかしくなってきたから彼女との関係を清算しようと思っていたところや。誰かに背中を押してもらいたかったていうやつかな。鈴音ちゃんが背中を押すどころか真正面からぶった切ってくれたから踏ん切りがついたよ」
「え、どうしはるんですか」
鈴音が見ている前で広田さんはスマホをいじり始めていた。どうやらSNSアプリのLIMEのトークを入力しているようだ。
「朱美ちゃんが二股かけているのがわかったからもう別れようと書いて送るつもりや」
そう言うと、広田さんはLIMEトークの送信ボタンをしばらく躊躇してからぽちっと押す。
鈴音はそんなん送っても、彼女は貰う物をもらった後やから喜ぶだけやないやろかと思ってじっと見ていた。
返事が戻ってきたのは十数秒後だった。広田さんは食い入るように画面を見つめる。
「レスポンス早っ!」
鈴音が思わずつぶやいたのでマスターは口の前に指を当てて見せる。その横で、広田さんは力なく笑って見せた。
「バイバーイやて。笑顔のスタンプまでついているし」
鈴音もマスターも、力なく肩を落とした広田さんにかける言葉がなかった。
少し時間が経過して落ち着いた広田さんはもう無茶な飲み方はやめて、マッカランのストレートをちびちびと飲み始めた。
「広田さんの奥さんは美人やと聞いていますよ。奥さんとケンカしてはるわけでもないでしょう?」
マスターが水を向けると、広田さんはぼそぼそと話し始めた。
「そりゃあ、新婚のころは仲も良かったよ。でも子供ができた頃から僕も仕事が忙しくなり始めて、クライアントと飲みに行ったりすることが多くなったんや。そのうち、早く家に帰っても奥さんは子供をかわいがっているばかりで、僕は邪魔扱いされているような気がしてな。だんだんと家に寄り付かなくなってしまったんや」
今どきは、お父さんも一緒に育児に参加するのが格好いいのにと、鈴音は思ったがさすがに口には出さない。
マスターは優しい顔で広田さんに言った。
「これを機会にまた、仲よくされたらどうですか」
「そうやね。そうしたほうがいいんやね」
広田さんは自分に言い聞かすようにつぶやくとショットグラスのマッカランを一口飲んで、フウッと息をついた。
第11話 ミックスジュースの作り方
それから数日が経過した夕方、鈴音はカウンターのシンクに缶詰があるのを見つけてマスターに尋ねた。
「マスター、どうしたのですか缶詰なんか用意して。うちはフレッシュフルーツを使うのが売りじゃなかったのですか」
鈴音はカウンターに並んだ桃の缶詰とパインの缶詰を見て怪訝に思ったのだが、マスターは得意げに説明を始める。
「ミックチュジューチュを作ろうと思ったのです」
「かんでるやないですか」
「すいません」
二人の間に沈黙が流れた。
鈴音は沈黙に耐えられなくなって口を開く。
「マスター、何かネタを持っているなら突っ込まれて引っ込んだらダメです。私の突っ込みは軽いジャブみたいなものですから、そこで「ミックチュジューチュっていうたらミックチュジューチュやねん」みたいな感じで返して話を引っ張ってから能書きを垂れるんですよ」
結局、鈴音はマスターに小言じみたことを言ってしまう。
「そうなんですね。すいませんでした」
マスターは鈴音に謝ると生真面目に言う。
「ミックチュジューチュっていうたらミックチュジューチュやねん」
なにもそこから始めなくてもと、鈴音はバーテンダー兼経営者なのに、関西ノリの会話のやり取りに不慣れなマスターに軽いめまいを感じたが、とりあえず彼の話に付き合うことにした。
「何か特別なレシピがあるのですか」
「ミックチュジューチュというのは、カフェとか喫茶店で古くから作られているミックスジュースのレシピのことなのですよ。鈴音さんも幼少のみぎりに古くから営業しているレストランとかで飲んだことがあると思いますよ」
鈴音の頭にクリームイエローのちょっと濃厚なジュースのイメージが浮かんだ。
「そう言えば、何となく思い浮かぶ気がします」
「缶詰の他に、バナナとオレンジそれにアイスクリームを加えてジューサーにかけるのです。今日は広田さんの奥さんが、ご主人のためにサプライズの誕生パーティーを開く日です。お子さんも来るからミックスジュースも用意しておこうと思ったのです」
マスターは、それ以外にもフライドチキンやサンドイッチ、そしてナポリタンパスタと子供受けしそうな軽食メニューを準備している。
「そうだ、鈴音さんは四条河原町のレッドサーティーンアイスクリームにアイスクリームを取りに行ってくれませんか。尚子さんと相談してホールケーキスタイルのアイスクリームをオーダーしていたのです」
「それっていいですね。パーティーでごちそうも食べるとスポンジケーキがちょっと重く感じることもありますもんね」
「鈴音さんなら別腹ですとか言って食べられますよ」
鈴音はちょっとむっとしたが、強いて笑顔を浮かべるとお使いに出ることにした。
姉小路通りから四条通りまでは少し距離がある。鈴音は往きは木屋町通りを歩き、レッドサーティーンアイスクリームでバースディ用のアイスクリームを受け取ってからは河原町通りを歩いて戻った。
発泡スチロールのケースには多めにドライアイスを入れてもらった。
広田さんの到着がいつになるかわからないからで、彼には吉良さんがそれとなく連絡して「スモーク」を訪れるように仕向けるようだ。
広田さんは自分が不倫していたのだから同情の余地はないのだが、鈴音は彼が不倫相手の朱美さんに二股かけられていたと打ちひしがれていた様子を見て、奥さんと仲治りできればいいなと思う。
「スモーク」に戻ってみると丁度、尚子さんとお子さん二人がお店の前に到着したところだった。
「いらっしゃいませ。どうぞお店の中に入ってください。階段が急だから気を付けてくださいね」
言葉の後半は尚子さんに手をひかれた子供二人が気になったからだ。小学校入学前、いわゆる年長組くらいの女の子と3歳くらいの男の子がちょっと怖そうな顔で鈴音を見上げている。
鈴音がしゃがみ込んでこんにちはと声をかけると、女の子がこんにちはと挨拶を返してきた。男の子は尚子さんの手を握ってスカートにくっついている。
「今日は無理を言ってすいませんね」
「いいえ、お気になさらずに」
尚子さんは男の子を抱えて階段を降り始め、女の子には「階段に気をつけなさい」と声をかける。
鈴音は女の子の手を引いて階段を降りることにした。
手を握ると女の子ははにかんだような笑顔を鈴音に向ける
小さな手の暖かくてやわらかい感触を感じて、子供ってかわいいなあと鈴音は思う。
店内に入ると、鈴音は3人を予約席にしていたテーブルに案内し、マスターはさっそくサンドイッチの類を並べ始めた。
「あ、食べ物は主人が来てからでいいですから」
尚子さんは、慌てたようにマスターに声をかけた。
「わかりました」
マスターは料理を並べていた手を止めて、言われた通りに回収を始めた。
その後、別のお客さんが来たので、マスターと鈴音はそちらの対応に追われていたが、広田さん母子はじっとテーブルで待っている。
鈴音は小さい子達がお行儀よくして偉いなあと感心する反面、ちょっとかわいそうで気になっていが、尚子さんは固い表情で座ったままだ。
「マスター、広田さんの奥さん何だか顔色悪くないですか」
「そうですね。僕も旦那にサプライズパーティーを仕掛けているにしては、なんか雰囲気暗いと思っていたのですよ」
鈴音とマスターがひそひそ話をしているときに、入り口のドアベルが鳴り、広田さんご本人が現れた。
鈴音の目の隅で尚子さんがハンドバッグを手にして立ち上がったのが見えた。
広田さんは今日も一人で、何気なくカウンター席に向かおうとして、尚子さんと子供たちの姿を認めて凝固した。
「尚子、どうしたんだこんなところで」
尚子さんが口を開こうとしたときに、子供たちが声をそろえて言った。
「お父さんお誕生日おめでとう」
「誕生日?僕のためにわざわざこんな席を準備してくれたのか」
広田さんの顔に嬉しそうな表情が広がっていった。
尚子さんは何か言いかけていた口を閉じると黙ってうなずいて椅子に座る。
その後は子供2人を中心に和やかな団欒が始まった。
多少子供の声が大きくても雰囲気を察した他のお客さん達は笑顔こそ浮かべるが、文句を言う人はいない。
広田さん一家は、夫妻がカクテルを飲む間には子供たちがミックスジュースを飲み、最後にアイスクリームのバースデイケーキを食べて、和やかに帰っていった。
「広田さんこれで奥さんと仲直りできたらいいですね」
鈴音はうまく事が運んだと素直に喜んでいたが、その横でマスターはぼそっとつぶやいた。
「このまま収まってくれたらいいんですけどね」
最終話 ルージュと赤いカクテル
やがて、年の瀬も近くなり、鈴音はマスターが購入したレジスターのセットアップや税務申告の準備に取りかかっていた。
大きな会社に勤務していた鈴音は実務で経理関係にタッチした経験はないが、それでも、マスターの経営状況なら子供のお小遣い帳程度の記帳でどうにかなりそうだ。
レジスターをパソコンにつないで経営支援ソフトを使えば、仕入れ関係の日々の記帳さえしておけば税務申告くらい楽勝のはずだ。
しかし、それは一月から始まる次の会計年度の話だった。
十二月末で終わる今年の会計年度についてはマスターがため込んでいる仕入れ関係のレシートや伝票の山と、売り上げ関係の唯一の証拠となるマスター手書きのお会計金額のメモが頼りだ。
課税金額を決める売り上げの証拠書類が、本人手書きのメモしかないと思うと鈴音は汗が出てきそうだが、マスターはそれで無事に昨年度の申告を済ませている。
鈴音は今年も同じ税務署職員が担当してくれるのを祈る気分だった。
鈴音は、レシート類の金額をパソコンに入力して、同時に紙に張り付けてドッジファイルに閉じる作業を地味に進めた。
「鈴音さん、そろそろお店を開けませんか」
鈴音がマスターの声に我に返ると、もう開店時刻が迫っていた。
「すぐ準備します」
鈴音はパソコンや書類をカウンターの裏側の棚に突っ込んで片付けると、電飾の看板を抱えて入口の階段を登る。
看板をセットして、スイッチを入れて店内に戻ろうとした時、鈴音は店の前にたたずんでいる女性に気が付いた。それは尚子さんだった。
ベージュ色のコートをまとった彼女は無表情に鈴音を見つめていた。
「こんばんは。いまから開店しますけど寄って行かれますか」
鈴音は取り合えず声をかけた。彼女の様子から「スモーク」に用があると思ったからだ。
尚子さんは黙ってうなずくと、店内に戻る鈴音の後に続いた。
「いらっしゃいませ。本日のお客様第一号になっていただきありがとうございます。」
店内に入ってカウンターに座った尚子さんにマスターは陽気に声をかけた。
「先日は無理なお願いを聞いていただきありがとうございました」
尚子さんは、無表情なままで答えた。
「何かお飲みになりますか」
鈴音は、お通しのバゲットを乗せた皿を出しながら、彼女に訊く。黙ったままの彼女に鈴音は重ねて勧めてみた。
「この「あまおう」のソルティードッグはいかがですか。今日から始める季節限定メニューですよ。出回り始めたばかりのイチゴの「あまおう」をぜいたくに使ったカクテルですよ」
「それをいただくわ」
マスターは手元にある紙切れにメモをしてから「あまおう」のソルティードッグを作り始めた。
彼は何も言われなければ支払いのシステムを変える気はなさそうだ。
マスターは出来上がったカクテルをグラスに注ぎ、コースターに乗せて彼女の前に出す。
「綺麗な色」
尚子さんはグラスを手に取って「あまおう」のソルティードッグを眺めた。新鮮なイチゴをたっぷりと使ったソルティードッグは真紅に染まっている。
彼女は一口飲むとグラスを置き、グラスを見つめたまま静かな口調で言った。
「あなた達でしょう。私の主人の浮気を止めさせたのは」
尚子さんの言葉を聞いて鈴音は凝固した。
先ほどまで鈴音が彼女の応対をしていたので、何か答えないといけないのだが、何と答えたらいいのかわからない。
「そう言われたらそうかも知れませんね。」
鈴音の代わりにマスターが答え、尚子さんは持っていたハンドバッグから柄の部分まで一体成型されたステンレスの包丁を取り出してカウンターに置いた。
「サプライズパーティーをした夜に、もし夫が女連れで現れたら私はこれで刺そうと思っていたの」
鈴音彼女の言葉の意味を理解すると頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出して彼女に問いかけていた。
「それでしたら、何故サプライズパーティーなんかされたのですか?あんなにかわいいお子さんがいるのに、その目の前でお父さんを刺してしまうつもりだったのですか?どうしてそんなことをしようと思ったのですか?」
鈴音は彼女が自分たちを咎めるように話していたのを思い出して、詰問したのはまずかったかと思って自分の口を抑えたが、時すでに遅かった。
「夫は子供が出来てから次第に家に寄付かなくなって、下の子供が出来た頃から女を作って遊び歩くようになったのよ。私が二人も子供を産んで子育てに苦労しているのに、手伝いもしないで他所の女と遊んでいるなんて私は我慢が出来なくなっていたの。サプライズパーティーを企てたのは顛末がわかれば子供たちにもパパがいなくなった理由をそれとなく理解してもらえると思ったからよ」
鈴音が何と答えたらよいかわからず黙っていると、マスターが周囲が明るくなるような笑顔を浮かべて言った。
「刺さなくて良かったじゃないですか。実行に移して傷害罪で逮捕されたら、たとえ裁判官に同情されたとしても実刑は免れなかった可能性が高いですからね」
母親が父親を刺した家庭の子供がどうなるか考えると鈴音はマスターの言う通りだと思うが、尚子さんは反論する。
「良くないわ。私は夫の行動を綿密に調べて、計画を立てたのに。夫が浮気をやめたのは後になってわかったけど、あの日依頼、彼はすっかりマイホームパパになってしまったの」
マスターは笑顔を浮かべたままで言った。
「そんな回りくどいことを計画したのは、誰かに止めてもらいたかったからですよ。今日もこうして僕たちに話してくれたから、尚子さんはきっと大丈夫です。ご主人は不倫していたことをすごく反省していますから、どうか仲良くしてあげてください。お子さんのためにもよかったと思いますよ」
尚子さんは黙ったまま、「あまおう」のソルティードッグを見つめていたが、手を伸ばして グラスに入った赤いカクテルを口に運ぶ。
「雨降って地固まるになればいいですね」
尚子さんはマスターの言葉には答えずに、グラスのカクテルを飲み干した。
「おいしかったわ。おいくらかしら」
尚子さんの言葉に、マスターは手書きの紙切れを差し出した。
尚子さんが無言で差し出したお札を鈴音が受け取り、レジスターを処理してお釣りを渡す。
「ごちそうそうさま」
尚子さんは鈴音が渡したコートを羽織ると、ヒールの靴音を残して出口に向かった。
「尚子さん包丁忘れていますよ」
マスターはよせばいいのに、尚子さんがカウンターに置いたままの包丁を持ち上げて彼女を呼び止めた。
「それはマスターにあげるわ。果物の皮むきにでも使って」
尚子さんの言葉を聞いて、マスターの顔がほころんだ。
「ありがとうございます。」
マスターの声を聴いて尚子さんは振り返って初めて笑顔を浮かべると再び前を向いて階段を上っていった。
「マスターはわかってはったんですか」
鈴音は尚子さんの足音が聞こえなくなってからマスターに訊いた。
「具体的に何をするつもりかはわかりませんでしたが、何か企んでいるなとは思っていました」
「やっぱり探偵とかしてはると違うんですね」
鈴音はもしも尚子さんが凶行に走っていたらと思うと、冷や汗がにじみでる。
「劇場型犯罪の一種と言えるかもしれませんね。尚子さんは自分の不満を何かの形で世間に認めてもらいたかったのかもしれません」
マスターはテレビのニュース報道を見た時のように軽くコメントするが、鈴音は広田さんが不倫相手を伴って現れていた場合の惨状を思い浮かべて気が気ではない。
「だからって包丁で刺したら自分もおしまいじゃないですか」
鈴音は広田さんの顔を思い浮かべた、少し軽薄な感じがするが悪い人ではない。
「結局、尚子さんは実行には移しませんでした。思い浮かべるのと実行に移すまでには大きな壁があります。それ以上に今回のお手柄は鈴音さんですよ。大胆な直球勝負で広田さんの浮気を粉砕してくれましたからね」
マスターの言葉を聞いて鈴音は目を丸くした。
「私そんなことしましたか?」
「しましたよ。あれが無かったらこの店に血の雨が降って床に溜まっていたかもしれませんからね」
マスターは機嫌よく笑っているが、鈴音はマスターの言葉に微妙なニュアンスをかぎ取っていた。
「マスター。今のはおやじギャグですね」
「え、そうなんですか?」
マスターは軽い雰囲気で鈴音に問い返すが、鈴音は自分の荷物から白っぽいキツネをかたどった貯金箱を取り出した。
「これからは、おやじギャグを言ったら一回に付き五百円をこれに入れてもらいます」
「なんでそんな話になるんですか」
マスターは鈴音の理不尽な宣言に不満そうな声を漏らすが、鈴音は譲らない。
「ここは関西ですからね。つまんないおやじギャグを言ったら罰金刑なんです」
「そんな話聞いたことないですよ」
マスターは情けない声を出すが、すでに財布から五百円玉を出してキツネの貯金箱に入れようとしていた。
素直な人なのだ。
しかし、マスターもさりげなく逆襲を始めていた。
「鈴音さんに「あまおう」のソルティードッグを味見してもらおうと思っていましたが、おやじ呼ばわりされたから止めておきましょう」
今度は鈴音が慌てる番だった。
「え、え?私あれを飲みたいと思っていたんですよ。そんないけず言わないで作ってくださいよ」
マスターは渋い顔をして見せたが、手元にはスノースタイルにしたロックグラスが二つ置いてある。
彼は言葉とは裏腹に既にイチゴを取り出してカクテルを作る準備を始めていた。
ー完ー