• 『自由と不自由』

  • モトオ・ヒロシゲ
    現代文学

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    ある男女のありふれた日常。 季節が移ろうように、ゆっくりと変化していく。 そんな日々の、2人の出来事。

第1話 利口な前髪

その香りで君が言わんとしていることを全て理解できるまでになっていた。
発しているのではなく自然と佇む姿に彼女らしさを感じた。
髪の心地を確かめる。黒髪に朝日が反射し、その艶が眩しく感じる。眼球が正常に働く状態ではない、まだスタンパイにも満たないフェーズの中でアラームが鳴る。それはまるで自分の状態を無視して介入してくるキャッチセールスや繁華街でお構いなしに声を掛ける居酒屋のバイトのようだ。

言葉なき時代に互いの感情をどのように示していたかを考えるのは子供でもできることであり、容易に答えに辿り着く。その行為自体が神格化され、またある種の汚さのような位置付けにあるのも、言葉という説明可能な手段が如何様にもそれぞれの事象を語り尽くせることに起因するのではないだろうか。付与された説明は何かにとっての都合の良さを助長させるためのまやかしにすぎない。その事実を認識しない、あるいはできないうちは真実を知ることや理解できる環境下にないと言えるだろう。

僕は語らない。君によりよく伝えるために、都合よく生成された言葉を使いたくない。しかし君はありったけの言葉を使う。それは僕にとってコンビニで売っているプライベート商品のカップ麺に過ぎないのだけれど、この世界で君が僕とコミュニケイトするにはその手段を用いるしかないと君自身は認識しているのだろう。これを否定しないでおこうと思う。それが当たり前となった世界で君はそれ自身を疑う事はまずないだろう。大幅な地殻変動でも起きない限り、その当たり前を当たり前であると認識することすらサボるのだから。

それでも状況が変われば、そのやり方を否定しようにも否定できない。方法は限られてくるからだ。君が使うありったけの愛を言葉で感じることができるようになったのはおそらくこの頃からだったかもしれない。

起きたの?
君の耳たぶを優しく触る。まず右耳から始まり、少し伸ばしてみると君は言う。
起きたね。
次に左耳たぶを触り、伸ばしてみる。
今日も元気だね。

君はキッチンに行って浄化された水を飲む。
コーヒー飲む?
人差し指のみを上に向けた状態で第二関節だけを使ってお辞儀させる。

差し込む朝日が切なくて
一度はカーテンを閉め直す
それでも僕らは朝日を見たくて
コーヒーを飲みながら歓迎するんだ

コーヒーと君の匂いが混ざり合った時、朝を感じる。君の朝の匂いを感じながらブラックを飲む。君の匂いすらも絶妙にブレンドされ、緻密に計算された芳醇な飲料としての在り方を良い意味で逸脱していた。

君の匂いはどこから発せられているのだろうか。それは所謂そこにある匂いではない。君が持つ君しかない匂いだ。そして僕にも僕にしかない匂いがある。君の匂いはいつも何かと混ざり合うことで絶妙な輝きを示し、それを毎度僕が掬い上げ、愛でる。君には一度も聞いたことがなかったけれど、僕の匂いをどう感じていたのかな。

いつの頃からかわからないが、言葉という道具で君に伝えることができなくなってしまったことを残念に思うこともある。それでも僕には残された受話器で君に応答することができる。そしてそれぞれの個性を感じ分けることができる僕は無敵なのだと言い切るだけの自信があった。ありたっけの君を感じ、生き続けることができることが何よりの幸せだった。

その黒髪とコーヒーの黒は異なる色だ。もちろん状態が違うから当たり前だと君は言う。でも、根本的に異なると考える。君の黒髪は光の吸収量が多く、まるでそこからエネルギーを変換したかのように表面の艶に潤いを与える。純朴なストレートの黒髪に迷いはなく、切長の奥二重をより一層際立てる。眉毛から僕の人差し指第一関節ほどの距離に前髪の先端が並ぶ様子は、先生の言うことをよく聴くお利口さん揃いだった3年3組の整列に負けず劣らずだった。
君の髪を指で梳かそうとするといつも笑顔で怒る。

やめてね。
僕がね、猿が毛繕いするポーズでその行為をすることは、僕らにとっての当たり前なんだということをいつも示そうとするのだけれど、決まって君は指を優しく払ってお利口さんだからやめてねと言う。
君の前髪の方がお利口さんだろうと毎度思うのだが、そのことは全く理解されていない。
はいはい、お利口さんだから大人しくしてね。
変なことは伝わる。人生とはそういうものだ。

第2話 晩夏のプール

水中で僕らは平等だった。
言葉を正確に伝え合うことができないからだ。

そのプールは僕らの身長よりはるか深く、底無しのように感じられるほどだった。そういった意味で僕らは恐怖を覚えなければならないのだけれど、全くそれを感じなかった。街に行けば必ずいる盲目状態のカップルとまではいかなくても僕らの視野は狭かったと思う。そりゃそうか。水中での視野なんてたかが知れているだろうな。あの時君は何て言ったのだろうか。あの言葉だけは水中から出て確認をしなかった。地上で確認したどんな言葉よりも、確認しなかったあの言葉が気になるのはなぜだろうか。言葉の所在を確かめるように、愛でていとおしいように感じたあの言葉はただの言葉じゃない。まるで僕を包み込むような柔らかさと守ってくれるような頑丈さを持ち合わせていたと思う。

持ち運び可能なマーシャルのスピーカーから福居良のアイウォントゥートークアバウトユーが鳴り響いていた。彼女の好きなアーティストの1人だ。確かシーナリィーというアルバムだったはずだ。僕はジャズのような音楽を聴いたことがなかったのだが、彼女が頻繁に流すプレイリストを聴くたびに虜になっていった。そこから音楽についての興味が湧き出すようになった。朝から福居良を聴くことは僕たちの中では定番であり、日常でもあった。声があるわけではないが、彼女はよく言葉とも言えない音を合いの手のように入れていた。ある日は母音のみを用いて音楽に合わせる、なんて制約を設けたこともあった。意外と上手いのは彼女が昔バンドのボーカルギターだったことに関係しているのだろう。にしても手数が多い。

彼女が言う。また潜ろう。
君の髪が僕の顔を覆う。その長い黒髪はまるで水中下では役割を変えた別の何かのように感じられた。髪から君の顔が露わになった時、笑った表情が見えた。広角が自然と上がった。そして湧き上がる感情たちがある沸点を超えていた。水の中だろうと陸の中だろうと変わらないんだね。カエルも同じ気持ちになるのかな。なんであんな気味の悪い鳴き声をするんだろうね。それを言ったらカエル可哀想か。僕らは広がる青空を眺めて水中に浮いていた。息が上がり、水滴なのか汗なのかわからない状態で日を浴びていた。あの鳥から見たらさ、水中に人間2人と浮き輪がこっちを見ているなって感じなんだろうね。バードアイって言うんだっけか。人間以外だったら何になりたい?私はね、、、

この後のことはよく覚えていない。彼女が何になりたかったのかも忘れてしまった。でもこの時の感情は決して忘れることはない。平等の定義はそれぞれの位置付けによって大きく左右されるとは言え、彼女の鼓動や言葉や想いが、波のように水面を揺らす。その様子を見れただけでも十分だった。これが失う兆候だったのかも知れない。晩夏の貸切プールでアーリーサマーが流れていたのは何だか滑稽だった。

第3話 ハッピー・トゥゲザー 

喫茶ノベルでジンジャーレモンティーを飲んでいた。入口に近い席にいたため、客の出入りの度に気を遣わなければならず、落ち着かない時間を過ごしていた。君が来たかなと毎度心躍らせるが、学生カップルや老夫婦が入店していくだけで一向に君は現れない。 

ごめん、遅れるというメッセージが約束の時間から約30分前に来たのみでそれ以降の連絡はない。午後14時のノベルは賑わいほどないものの、満席だった。狭い店内のカウンターも席が埋まっている。そこに座るのは常連のようだ。僕は割と来ている方だが、この通りなので店員とは顔見知り程度の距離感だった。そして街で会ってもおじきをする関係性だった。それでも店員が覚えてくれているのは嬉しかったし、来店するとどの店員も笑顔で挨拶してくれる。 

当たり前のことではあるのだが、仕事では卒なくこなすものの、プライベイトではおざなりになっている人は多い。そう言った意味ではこの店の採用基準は信頼におけるものであると勝手に思っている。店主の見た目は堅物そうでとっつきづらい印象を覚えるのだが、常連との会話で時折見せる屈託のない笑顔はシワの多いブサかわ犬のように愛嬌があった。入店から20分ほど経った後、君にメッセージを送った。 

店にいるよ。そろそろ着きそうかな? 

窓側の一番右に座っているカップルたちがこれから何をするかを話していた。男の子は水色のタンガリーシャツに紺色のウールニットを着ている。パンツは赤茶で太畝のコーデュロイパンツにダークブラウンのローファーを合わせている。隣に置いているのは上質な黒の2WAYレザーバッグで年季が入っているが、手入れが行き届いていて大事に使っている様子が窺えた。 

女の子の方は、ベージュのチノパンにボーダーのタートルネック。靴は黒のローファーで白ソックスを挟んでいる。クラウンパントの鼈甲色の眼鏡をかけて知的な印象である。ウディアレンの映画のようにファッショナブルな光景は目の保養だった。あの時代のフランス映画のワンシーン(ウディアレンはアメリカ)を間近にしているように眩しく、会話の内容も最近見た映画の感想や音楽の話、これから行く写真展の話をしていた。僕はチラチラ見ていたし、会話の内容を聴いていたこともあり、そのことを自覚した自分をやれやれだなあと思ってしまった。男性の方がエリックロメールの特集上映の話をし、女性の方は最近観たホンサンスの感想を言う。すると隣の老夫婦が最近観たスペイン映画の話をしている。今日は映画祭りだな。僕も負けじとこれから名画座の二本立てを見に行くのも悪くないな。確かウォンカーウァイととホオシャオシェンだったはずだ。ジンジャーレモンティーが冷めてきた。さすがに心配になってきた。彼女にメッセージを送った方がいいな。しかし何を書こうか。遅れてきたことのない彼女に何を書くかを真剣に悩んだ。疑問文で打った後にこちらから再度送ること自体に後ろめたさすら感じる。しかしその後ろめたさより心配が勝るのも事実であるなかで僕は店を一度出て彼女に電話しようとした。 

電話をかけ左耳に立てかける。彼女が出る。ごめん。待っているよね。今もう最寄りだからごめんもう少し待っててね。 
僕は気づいた。彼女に初めて電話をかけた。そして携帯電話越しの声を初めて聴いた。生音ではない声に無機質さを感じるけれど、それでも君の温かさが滲み出る独特な表情を持った声に僕は安堵した。そして言った。それはもちろん彼女には伝わらないし、この雑踏の誰にも聞こえない言葉だ。それでも声なき言葉の裏側には彼女へのリスペクトと存在のありがたみを強く込めていた。 

僕は店に戻った。するとしばらく彼女は店に入るやいなやごめんね、昔の後輩と会って少しだけの話のはずだったけれど、地元トークで盛り上がってしまって。怒っている? 
僕は首を横にふる。 
ねえ、電話の最後、わたしになんて言ったの? 
その時の彼女の表情は、優しいさざ波の見える海岸沿いの旅館で働いていたいつかの若女将のものと似ていた。僕は椅子の下で彼女の両手を優しく強く握った。彼女は理解した。そう、彼女は僕が何を言ったのかを悟ったのだ。 

その後、今日の一杯であるハーブティーを頼み、彼女は千鳥格子のコートに合わせるマフラーについて僕に意見を求めた。えんじ色がいいかネイビーがいいかで迷っているようだった。そして彼女が言うにはそのハーブティーは上品な味すぎてお口に合わなかったらしい。僕も飲んでみたかったが、その頃には彼女が全て飲み干していた。なんだかんだだなと思った。 

名画座で二本立てを観た後の駅から家への帰り道、ウォンカーウァイの映画ブエノスアイレスでみたような綺麗な空が広がっていた。帰宅後から寝るまでの間、トニーレオンの表情や仕草の物真似をしていたことに彼女は全く気づいていなかった。 

第4話 coming soon