• 『自由と不自由』

  • モトオ・ヒロシゲ
    現代文学

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    ある男女のありふれた日常。 季節が移ろうように、ゆっくりと変化していく。 そんな日々の、2人の出来事。

第1話 利口な前髪

その香りで君が言わんとしていることを全て理解できるまでになっていた。
発しているのではなく自然と佇む姿に彼女らしさを感じた。
髪の心地を確かめる。黒髪に朝日が反射し、その艶が眩しく感じる。眼球が正常に働く状態ではない、まだスタンパイにも満たないフェーズの中でアラームが鳴る。それはまるで自分の状態を無視して介入してくるキャッチセールスや繁華街でお構いなしに声を掛ける居酒屋のバイトのようだ。

言葉なき時代に互いの感情をどのように示していたかを考えるのは子供でもできることであり、容易に答えに辿り着く。その行為自体が神格化され、またある種の汚さのような位置付けにあるのも、言葉という説明可能な手段が如何様にもそれぞれの事象を語り尽くせることに起因するのではないだろうか。付与された説明は何かにとっての都合の良さを助長させるためのまやかしにすぎない。その事実を認識しない、あるいはできないうちは真実を知ることや理解できる環境下にないと言えるだろう。

僕は語らない。君によりよく伝えるために、都合よく生成された言葉を使いたくない。しかし君はありったけの言葉を使う。それは僕にとってコンビニで売っているプライベート商品のカップ麺に過ぎないのだけれど、この世界で君が僕とコミュニケイトするにはその手段を用いるしかないと君自身は認識しているのだろう。これを否定しないでおこうと思う。それが当たり前となった世界で君はそれ自身を疑う事はまずないだろう。大幅な地殻変動でも起きない限り、その当たり前を当たり前であると認識することすらサボるのだから。

それでも状況が変われば、そのやり方を否定しようにも否定できない。方法は限られてくるからだ。君が使うありったけの愛を言葉で感じることができるようになったのはおそらくこの頃からだったかもしれない。

起きたの?
君の耳たぶを優しく触る。まず右耳から始まり、少し伸ばしてみると君は言う。
起きたね。
次に左耳たぶを触り、伸ばしてみる。
今日も元気だね。

君はキッチンに行って浄化された水を飲む。
コーヒー飲む?
人差し指のみを上に向けた状態で第二関節だけを使ってお辞儀させる。

差し込む朝日が切なくて
一度はカーテンを閉め直す
それでも僕らは朝日を見たくて
コーヒーを飲みながら歓迎するんだ

コーヒーと君の匂いが混ざり合った時、朝を感じる。君の朝の匂いを感じながらブラックを飲む。君の匂いすらも絶妙にブレンドされ、緻密に計算された芳醇な飲料としての在り方を良い意味で逸脱していた。

君の匂いはどこから発せられているのだろうか。それは所謂そこにある匂いではない。君が持つ君しかない匂いだ。そして僕にも僕にしかない匂いがある。君の匂いはいつも何かと混ざり合うことで絶妙な輝きを示し、それを毎度僕が掬い上げ、愛でる。君には一度も聞いたことがなかったけれど、僕の匂いをどう感じていたのかな。

いつの頃からかわからないが、言葉という道具で君に伝えることができなくなってしまったことを残念に思うこともある。それでも僕には残された受話器で君に応答することができる。そしてそれぞれの個性を感じ分けることができる僕は無敵なのだと言い切るだけの自信があった。ありたっけの君を感じ、生き続けることができることが何よりの幸せだった。

その黒髪とコーヒーの黒は異なる色だ。もちろん状態が違うから当たり前だと君は言う。でも、根本的に異なると考える。君の黒髪は光の吸収量が多く、まるでそこからエネルギーを変換したかのように表面の艶に潤いを与える。純朴なストレートの黒髪に迷いはなく、切長の奥二重をより一層際立てる。眉毛から僕の人差し指第一関節ほどの距離に前髪の先端が並ぶ様子は、先生の言うことをよく聴くお利口さん揃いだった3年3組の整列に負けず劣らずだった。
君の髪を指で梳かそうとするといつも笑顔で怒る。

やめてね。
僕がね、猿が毛繕いするポーズでその行為をすることは、僕らにとっての当たり前なんだということをいつも示そうとするのだけれど、決まって君は指を優しく払ってお利口さんだからやめてねと言う。
君の前髪の方がお利口さんだろうと毎度思うのだが、そのことは全く理解されていない。
はいはい、お利口さんだから大人しくしてね。
変なことは伝わる。人生とはそういうものだ。

第2話 晩夏のプール

水中で僕らは平等だった。
言葉を正確に伝え合うことができないからだ。

そのプールは僕らの身長よりはるか深く、底無しのように感じられるほどだった。そういった意味で僕らは恐怖を覚えなければならないのだけれど、全くそれを感じなかった。街に行けば必ずいる盲目状態のカップルとまではいかなくても僕らの視野は狭かったと思う。そりゃそうか。水中での視野なんてたかが知れているだろうな。あの時君は何て言ったのだろうか。あの言葉だけは水中から出て確認をしなかった。地上で確認したどんな言葉よりも、確認しなかったあの言葉が気になるのはなぜだろうか。言葉の所在を確かめるように、愛でていとおしいように感じたあの言葉はただの言葉じゃない。まるで僕を包み込むような柔らかさと守ってくれるような頑丈さを持ち合わせていたと思う。

持ち運び可能なマーシャルのスピーカーから福居良のアイウォントゥートークアバウトユーが鳴り響いていた。彼女の好きなアーティストの1人だ。確かシーナリィーというアルバムだったはずだ。僕はジャズのような音楽を聴いたことがなかったのだが、彼女が頻繁に流すプレイリストを聴くたびに虜になっていった。そこから音楽についての興味が湧き出すようになった。朝から福居良を聴くことは僕たちの中では定番であり、日常でもあった。声があるわけではないが、彼女はよく言葉とも言えない音を合いの手のように入れていた。ある日は母音のみを用いて音楽に合わせる、なんて制約を設けたこともあった。意外と上手いのは彼女が昔バンドのボーカルギターだったことに関係しているのだろう。にしても手数が多い。

彼女が言う。また潜ろう。
君の髪が僕の顔を覆う。その長い黒髪はまるで水中下では役割を変えた別の何かのように感じられた。髪から君の顔が露わになった時、笑った表情が見えた。広角が自然と上がった。そして湧き上がる感情たちがある沸点を超えていた。水の中だろうと陸の中だろうと変わらないんだね。カエルも同じ気持ちになるのかな。なんであんな気味の悪い鳴き声をするんだろうね。それを言ったらカエル可哀想か。僕らは広がる青空を眺めて水中に浮いていた。息が上がり、水滴なのか汗なのかわからない状態で日を浴びていた。あの鳥から見たらさ、水中に人間2人と浮き輪がこっちを見ているなって感じなんだろうね。バードアイって言うんだっけか。人間以外だったら何になりたい?私はね、、、

この後のことはよく覚えていない。彼女が何になりたかったのかも忘れてしまった。でもこの時の感情は決して忘れることはない。平等の定義はそれぞれの位置付けによって大きく左右されるとは言え、彼女の鼓動や言葉や想いが、波のように水面を揺らす。その様子を見れただけでも十分だった。これが失う兆候だったのかも知れない。晩夏の貸切プールでアーリーサマーが流れていたのは何だか滑稽だった。

第3話 ハッピー・トゥゲザー 

喫茶ノベルでジンジャーレモンティーを飲んでいた。入口に近い席にいたため、客の出入りの度に気を遣わなければならず、落ち着かない時間を過ごしていた。君が来たかなと毎度心躍らせるが、学生カップルや老夫婦が入店していくだけで一向に君は現れない。 

ごめん、遅れるというメッセージが約束の時間から約30分前に来たのみでそれ以降の連絡はない。午後14時のノベルは賑わいほどないものの、満席だった。狭い店内のカウンターも席が埋まっている。そこに座るのは常連のようだ。僕は割と来ている方だが、この通りなので店員とは顔見知り程度の距離感だった。そして街で会ってもおじきをする関係性だった。それでも店員が覚えてくれているのは嬉しかったし、来店するとどの店員も笑顔で挨拶してくれる。 

当たり前のことではあるのだが、仕事では卒なくこなすものの、プライベイトではおざなりになっている人は多い。そう言った意味ではこの店の採用基準は信頼におけるものであると勝手に思っている。店主の見た目は堅物そうでとっつきづらい印象を覚えるのだが、常連との会話で時折見せる屈託のない笑顔はシワの多いブサかわ犬のように愛嬌があった。入店から20分ほど経った後、君にメッセージを送った。 

店にいるよ。そろそろ着きそうかな? 

窓側の一番右に座っているカップルたちがこれから何をするかを話していた。男の子は水色のタンガリーシャツに紺色のウールニットを着ている。パンツは赤茶で太畝のコーデュロイパンツにダークブラウンのローファーを合わせている。隣に置いているのは上質な黒の2WAYレザーバッグで年季が入っているが、手入れが行き届いていて大事に使っている様子が窺えた。 

女の子の方は、ベージュのチノパンにボーダーのタートルネック。靴は黒のローファーで白ソックスを挟んでいる。クラウンパントの鼈甲色の眼鏡をかけて知的な印象である。ウディアレンの映画のようにファッショナブルな光景は目の保養だった。あの時代のフランス映画のワンシーン(ウディアレンはアメリカ)を間近にしているように眩しく、会話の内容も最近見た映画の感想や音楽の話、これから行く写真展の話をしていた。僕はチラチラ見ていたし、会話の内容を聴いていたこともあり、そのことを自覚した自分をやれやれだなあと思ってしまった。男性の方がエリックロメールの特集上映の話をし、女性の方は最近観たホンサンスの感想を言う。すると隣の老夫婦が最近観たスペイン映画の話をしている。今日は映画祭りだな。僕も負けじとこれから名画座の二本立てを見に行くのも悪くないな。確かウォンカーウァイととホオシャオシェンだったはずだ。ジンジャーレモンティーが冷めてきた。さすがに心配になってきた。彼女にメッセージを送った方がいいな。しかし何を書こうか。遅れてきたことのない彼女に何を書くかを真剣に悩んだ。疑問文で打った後にこちらから再度送ること自体に後ろめたさすら感じる。しかしその後ろめたさより心配が勝るのも事実であるなかで僕は店を一度出て彼女に電話しようとした。 

電話をかけ左耳に立てかける。彼女が出る。ごめん。待っているよね。今もう最寄りだからごめんもう少し待っててね。 
僕は気づいた。彼女に初めて電話をかけた。そして携帯電話越しの声を初めて聴いた。生音ではない声に無機質さを感じるけれど、それでも君の温かさが滲み出る独特な表情を持った声に僕は安堵した。そして言った。それはもちろん彼女には伝わらないし、この雑踏の誰にも聞こえない言葉だ。それでも声なき言葉の裏側には彼女へのリスペクトと存在のありがたみを強く込めていた。 

僕は店に戻った。するとしばらく彼女は店に入るやいなやごめんね、昔の後輩と会って少しだけの話のはずだったけれど、地元トークで盛り上がってしまって。怒っている? 
僕は首を横にふる。 
ねえ、電話の最後、わたしになんて言ったの? 
その時の彼女の表情は、優しいさざ波の見える海岸沿いの旅館で働いていたいつかの若女将のものと似ていた。僕は椅子の下で彼女の両手を優しく強く握った。彼女は理解した。そう、彼女は僕が何を言ったのかを悟ったのだ。 

その後、今日の一杯であるハーブティーを頼み、彼女は千鳥格子のコートに合わせるマフラーについて僕に意見を求めた。えんじ色がいいかネイビーがいいかで迷っているようだった。そして彼女が言うにはそのハーブティーは上品な味すぎてお口に合わなかったらしい。僕も飲んでみたかったが、その頃には彼女が全て飲み干していた。なんだかんだだなと思った。 

名画座で二本立てを観た後の駅から家への帰り道、ウォンカーウァイの映画ブエノスアイレスでみたような綺麗な空が広がっていた。帰宅後から寝るまでの間、トニーレオンの表情や仕草の物真似をしていたことに彼女は全く気づいていなかった。 

第4話 オータム・リーブス

歩こう歩こう私は元気。
名曲が隣から流れる。少し音痴だがそれももう慣れた。

川沿いの一本道を秋の装いで歩く。この道は永遠に続いていそうだよね、なんて君は言ったけれど、僕はそれ自体が嘘っぱちに思えなかったんだ。だから、この続いていく道を君と歩くことに特別感を抱いていたし、落ち葉を踏んでいくことが押し花を道路に並べていくような気分にさせた。それは傍目から見ると綺麗なものではないのかもしれないけど、僕たちにとっては誰かのための道標を残す意味合いもあったのだろうと思う。その記録は風ですぐ飛んでいってしまうかもしれない。そんな脆弱性を孕んでいる中で、僕たちの歩みは加速する。

どんどん行こう。

デコボコ砂利道。

あれ友達も作らないといけないな。

僕は川沿いに生息するシラサギを指さした。あの気高いシラサギを仲間に入れるの?どうやって向かい入れるの?僕は右肘を曲げ、腕を胸の前に曲げ歩くのをやめた。するとシラサギが勢いよくこちらの方に飛んできた。次の瞬間シラサギは僕の右前腕部に止まった。

ワシかよ。すかさずツッコミが入る。
僕は出発進行のポーズをとり彼女にまた進むように促す。すると彼女はスマホから福居良のオータムリーブスを流し始めた。その瞬間、シラサギは僕の元から離れていった。短い滞在だったなと少し残念がった僕を彼女は宥めた。

歩こう歩こう私は元気。
名曲が隣から流れる。音痴に拍車がかかっている。
そして僕たちは歩いていく。どんどんと。

オータム・リーブスが終わった頃に僕たちの前方で、踏んだ落ち葉を辿ってきたのだろうシラサギがこっちをじっと見ていた。

第5話 音楽と情景 

君の口が動いている。発するために動いていることは容易にわかるのだが、その輪郭すら掴めない。どうしたことか。広がる眼前の光景が一瞬にして形を変えたような気がした。君の容姿すらも別の何かに変貌してしまったように感じる。僕の状態は危うさを孕んでいた。降っているはずのない雨を感じる。吹いていないような風を感じる。別の感覚に耳をすませ、僕は恐怖を打ち消そうとした。彼女がその様子に気づいたようで、何かを話している。冷静さを失った僕は彼女の唇の動きを読み取ることもできていない。この世界で取り残された1人として存在している。そして僕はまた別の世界へ誘われるのではないか。その世界に希望はあるのだろうか。そして、その世界は彼女のいる世界と繋がっているのだろうか。変わったことは事実として明らかにそこに存在しているのは確かで、拭いきれない事実としてそこにある。だとするならば残された武器でこの世界を攻略し、ありったけの君を感じようではないか。僕はカバンからメモ帳を出し、こう書いた。「僕の世界から一切の音が消えた、消えてしまった」次の瞬間、立ち崩れていた僕を立ち上がらせ、ベンチのある方まで寄り添い運んでくれた。おぼつかない脚の中でのその歩みに強さはなく、弱さしかなかった。しかし彼女が僕を掴む手は今までのどんな瞬間よりも強く、痛みを感じるほどだった。ベンチに座る頃には本当に痛みがピークだったので、彼女の腕を払い除けた。それでも彼女は嫌な顔をせず、その事実を自分ごとのように認識し、そして理解した。 

ここから僕たちのコミュニケーションは大幅に変わっていった。 

基本的にはスマホのメモアプリでお互い会話する。カフェでは対面の席ではなく、隣り合った席に座る。席選びが重要になってくるわけだ。カウンターがあればもちろんその店は入る基準を満たしたことになる。また窓際の横並びの席が僕たちの中では満点に近い。そうした席のあるカフェは近所に何軒かある。喫茶ノベルもカウンターしか座らなくなった。でもそのおかげでマスターや店員と仲良くなったのは事実だし、怪我の功名のようなことも数多くある。不便なことは多いが、そこに広がる世界は絶望ではない。ただ音楽を聴けなくなったのはとても悔しい。君が選曲する曲をともに聴き、笑い、踊ることができないのは辛かったし、何より彼女の方が堪えたようだった。流しても1人で楽しまなくてはいけない事実に正直者の彼女は居た堪れない気持ちになっていたことだろう。それでも彼女は音楽を流し続けた。聴こえる、聴こえないと言う事実の前に僕と共に過ごしているほんの細やかな添え物のような存在として、また別の楽しみとして返還させていたのだと思う。僕はというと消える前によく聴いていた福居良の旋律が頭の中で刻まれていた。それは音としてではく、情景として時折顔を出すのであった。その景色はとても美しい。そのことを君にも何とか共有したいと思い、僕はカメラを買った。いわゆるコンデジと呼ばれる持ち運びに便利なカメラだ。家電やガジェットに疎い僕はこのカメラが良いのか悪いのかもわからない。ただ店に行った時にそのフォルムに惹かれて購入した。僕たちはシーナリィーに入っている曲で感じる情景に近い場所を探すべくレンタカーを借りた。東北の方にありそうだな。東北道を走っている最中、左の方からやってきた落ち葉がドア窓の壁面にこびり付いて何分間か離れなかった。音を失った世界でこれから何が待ち構えているのか不安でいっぱいだった。実態のない音に近い感覚の何かが僕の頭の中でループしていた。それはヌジャベスの名前の知らない曲だと思う。音を聴けなくても記憶の引き出しにある音源を自由にかけることはできるのだと感心した。そのことに関しては彼女に感謝しなければならない。四六時中、音楽を流し続けてくれたおかげで、僕のプレイリストは充実したのだから。 

第6話 シャインマスカットと僕

シャインマスカットが送られてきた。種がなく皮ごと食べれることもあって面倒ではないのが利点だ。そして自らで買うことがないのは敷居が高いと思っているからだろうなと思う。どこから送られてきたかというと君の叔父からだった。叔父は山梨で生活していて定期的に農家のご近所さんから葡萄などの果物を頂くそうだ。彼女が言うには、シャインマスカットが送られてきたのは初めてのことだという。食べる分だけを目の荒いザルに載せ洗う。何個かのマスカットは果梗から離れる。離れる際に中身が飛び出そうとしているものもいる。十二分に洗った後で緩やかに湾曲している平皿に盛って2人で食べようとした。彼女はメルカリで購入者とやりとりをしている。その他にも質問などが数多くきているようである。両手で巧みにスマホを操作し、画面を凝視している彼女に僕はシャインマスカットを食べさせる。口を開けてくれるタイミングでシュートする。たまに鼻のほうに行ったり、顎の方に行ったりしてしまうのだけど、彼女は嫌な顔をせず何かを言って食べていた。彼女の口に入れるゲームに熱中した結果、洗った分の残りがわずかになった。自分も食べたいと思ったので、自らの口に入れようとした時、彼女の口が開いた。おいおい、そろそろ僕にも食べさせてくれよ。とメモ帳に書こうとしたがそれを諦めた。僕は少し強めの勢いで彼女の口に入れた。スマホをいじっていた手が止まる。彼女と目が合う。そしてこっちに近づき、羽交締めに近い技を繰り出してきた。僕は参ったアピールをしつつもテーブルの方にこっそりと手を置き、平皿に残ったわずかなシャインマスカットを取り、一瞬で自分の口に入れた。流石にバレたので彼女はこの間一緒に見た新日本プロレスで誰かがやっていた技を真似て僕に試した。僕は必死に参ったアピールをしながら、マスカットを洗った時に身が出てきた様を思い出しなぜか笑ってしまった。そして次の瞬間、僕は本体部である果梗から離れた。そう、何かが離れたようだった。

第7話 不完全と優しさ

宅急便が来た。僕は君のところに駆け寄り、来たことを知らせる。すぐに玄関に向かう君の足取りは早い。3辺の合計が80センチほどの段ボールの送り主は僕の母からだった。開けていいかと君が尋ねる。僕はばつ印を手の前で示し、先ほどまでの柔軟運動の続きを行う。彼女は多分このようなことを言っていたはずだ。食べ物だよね?早く開けて食べよう。しかし僕は食べ物の匂いとは思わなかった。無臭に感じたのだ。というより朝から何の匂いもしない。君の寝起きの匂いも枕やベッドシーツの匂いも、君が大事にしているヨコマルというぬいぐるみすら匂いがしなかった。鼻の風邪かなとも思ったが調子が悪いわけではない。彼女は小包を開けていた。みかんと林檎だ。いつもの僕なら気づく。間違いなく気づくのだ。そっか。そういうことか。また一つ、僕の世界から消えたのだ。行きつけの魚介系つけ麺が目の前に提供された時にあの匂いを嗅ぐことができないのかと思うと物凄く残念だな。これを君に言うべきか、言うにしても何と言うべきか。またこんな感じに?「僕の世界から匂いが消えた。消えてしまった」これじゃあオマージュじゃなくリピートだよな。深刻さがまるで伝わらない。僕にとってこの事実は大事なのに、あっさり済まされても仕方ないような伝え方だな。彼女がきて、鼻の方を指差し、気づかなかったの?と言う。僕は頷いた。その後で麺をすする様子を示しため息をついた。彼女は察したようだった。君は自分を指差し、僕は頷いた。彼女は両手を上にあげ、そこから孤を描くように両手を離して手を胸の前に合流させた。僕は頷いた。一つ一つ無くなっていく事実に、これから何を失うかを想像することはそう難しくない。失う前に失った後の世界を想像することも同様だろう。しかし実際にそうなった時に見える景色は、決してそれ以前には見えなかった景色なのだ。小包がいつもより大きく見えるのは何でだろう。この時食べたみかんも林檎も、本当の彼らではない味がして少し苦い味がした。苦くなった事実に母に対して申し訳ない気持ちになった。段ボールの上の方にあったみかんは少し上部がへこんでいた。しかしそこから身が出ていることはなかった。一つでも多く入れてあげたいという気持ちを感じる一方で、僕は悔しさでいっぱいだった。涙が混じり余計みかんも林檎も味が苦くなっていった。せっかくお母さんが送ってくれたのに美味しく食べなさいとでも言うように、君は僕の隣に来てキスをした。味はわかるわけでしょとでも言いたいのだろうか。またゆっくり慣れていこうね。君はいつも優しい。徐々にポンコツになっていく不完全な人間に、どんな時も優しい。そんな君に応えることができるのだろうか。僕は僕でいることが今まで以上に嫌になった。ヨコマルがこっちを見て何かを言いたそうにしていた。

第8話 お香は、ただの煙

最近君がハマっているものがある。それはお香だ。産地はわからないがどこか有名な焼物の平皿にお香を載せるのが日課になっている。僕にとってはただの煙に過ぎなく、目に染みるような気がしているほどだ。君は在宅で仕事をするので、匂いによって家事と仕事の切り替えをしている。そこで最近多用しているのが、お香だ。彼女のデスクには仕事をする前に必ずお香がセットされている。僕はそこを横切るたびに目がチカチカしている。彼女はそのことに気付いておらず、毎度気持ちよくお仕事に励んでいる。彼女に言うべきか言わないべきか、僕は完全に迷っていた。すると彼女の方からこの件に関して話題を振ってきた。以下の文章がメモアプリでの一連の会話である。 

お香のことなんだけどさ 
おうおう、どうした? 
シュウくんは全然匂っていないんだよね? 
うん、匂ってはいないけど 
新入りを追加しようと思うんだけど、シュウくんどう思う? 
いやその前にさ、目がチカチカするから導入を見送って欲しい 
レギュラーも解雇ってこと? 
補欠もね 
もっと早く言ってよ。てっきり無臭無害かと思っていたからさ 
無臭はあってたね 
スプレー状のフレグランスも導入しようと考えていたからさ 
そっちでいいじゃん 
いい匂いのがあればいいけど 
あるよ、お気に入りのがあるはずさ 
なんでそう言い切れるの? 
人には必ず好きな匂いってものがあるだろう?だからそれを補完するように各メーカーがあらゆる匂いを作っているはずなんだ 
好みの匂いに調合する人もいるって言うもんね 
そうだよ、お香はただの煙だしやm 
煙? 

完全に墓穴を掘った。煙という表現は避けようと思い入力していたのだが、完全に手がすべった。 

彼女から羽交い締めにされる朝。仕事早くしてよと心は叫ぶが君に届かない。 
お香は、ただの煙とは口が裂けても言えないし、言わないように気をつけなければならない。

第9話 カエル

 遠くの方までやってきた。知らない駅で降りる。辺鄙な所に来てしまったなと反省はしつつも、電車の途中で寝てしまったから自己責任である。改札を出ると周りには田んぼが広がっていた。空気が美味しそうな気がする。田んぼ以外何もない。トラクターを巧みに操るおじさんがいる。彼に話を聞いてみようと思う。聞いたところによると、しばらくは田園風景が広がっていて、歩いて30分のところにショッピングモールがあることがわかった。とりあえずはそこを目標に歩くことにした。勢いよく飛び出したのは良いが遠くの知らないところに来たのはまずかったな。出ていくときに君の泣き顔が見えたので、流石に出ていくのはまずいとも思ったのだが、やはり足が動いていた。彼女も将来のことを考えている。そんな中で生まれたズレのようなものを今回戻すことはできなかった。そしてうまくできない自分に腹がたって彼女の前にはいられないという気持ちが強くなっていたのも事実だった。この道をまっすぐいくと目的地に辿り着く。辿り着くまでは無数の分岐点があり、選び尽くせないほどの選択肢があることも事実だ。ただ目的地という一点に集中する場合、他の選択肢を選ぶという考えは微塵も浮かばない。彼女にとってもそれは同じことだ。例えばある事柄がその人にとっての当たり前であるとしよう。するとそれを疑うことも存在の否定すらもしない、なんてことは各々に心当たりがあることだろう。彼女にとっては疑いもしない当たり前のことで僕にとっては選択しなければならない事象であるという、差があるだけなのだ。あのままの関係性に安住していたのも事実だ。このままお互いの関係性を別の方向に成長させていけば僕たちの関係が壊れることもどこか頭の片隅にはあった。だとしても、今までのことがなかったかのように感じられるのはなぜだろうか。僕よりも高い建物がない場所で僕は誰よりも何よりも自分が小さい人間のようにも感じられた。普通の幸せを望むことは誰にも等しく与えられた権利だろうということも十分に理解できていた。彼女への負担を考え、これ以上関係性を成長させて次のフェーズに進むことが怖かったのかもしれない。だとしても、彼女が言ったあの言葉を聞いて嬉しかったのは紛れもない事実だった。彼女は僕に優しい。今までもそうだし、これからもそうだろう。そして子供ができてからもそれは変わらない。だが、僕はこれからも失っていく感覚の多さに辟易し、恐れ嘆き悲しむ日々が続いていく中で正直自分の感情を都度整理していくだけで精一杯だった。彼女は優しいが所詮他人だ、と頭のどこかでこだまさせる自分がいた。僕のことは僕しかわからない。寄り添い気にかけてくれる優しさには感謝しているが、今回のことは僕にとって全く準備ができていないことだった。次は何を失うかという怖さと比例してショッピングモールまでの距離がとても長く感じた。

彼女から連絡が来た。

ごめん。ちゃんと話がしたい。今どこにいる?

ショッピングモールの駐車上脇に公園があった。そこにカエルの形をした椅子があったので僕は座った。何を返そうか迷っていた。次の瞬間、僕は思い出した。彼女の友達のY子ちゃん家族と湖に行った帰りに寄った公園ではないか。そこでY子ちゃんの子供の悠くんがカエルに帰りたいですとかカエルに甦りとかくだらないギャグを言っていたのを思い出したのだ。僕たちはその場所をカエル公園と名付け、その後も時折話題に出していたのだ。

カエル公園にいる。

僕はそう一文だけを送った。するとショッピングモールから遊び終えただろう子供が駆け寄ってきた。

「僕の特等席見せてあげる。」

彼は友達らしき子供にそう言って僕の近くまでやってきた。すると彼は不満そうな顔で家族の下に駆け戻っていった。彼の帽子がその弾みで飛んで僕の足元に落ちたのでそれを拾って彼の方へ走っていった。僕は笑顔で彼に帽子を渡すと彼は言った。

「帰ってきた。そして僕も特等席へ返り咲く。」

そう笑顔で言ってあの席に自慢げに座った。

僕は走り出した。

何もないこの場所で駆け抜けるのは気持ちが良かった。久しく味わっていないこの爽快感を彼女に伝えたくて僕は全速力だった。駆け抜けて駆け抜けて僕は駅に着いた。あと2分で戻る電車が来るらしい。待っている間にメッセージが来ていることに気が付いた。

そう。暗くなる前に帰っておいで。

家の最寄りのスーパーで何か買って行こうと思い寄り道した。普段行かない子供の駄菓子コーナーに行くと僕の心に刺さったお菓子があったので2つレジに持っていった。それはカエルの顔がチョコレートになったお菓子だった。

家のインターフォンを鳴らすと数秒後にドアが開いた。
そして僕はあるメモを見せ、調達したカエルチョコを渡した。

「帰ってきた。そして僕も特等席へ返り咲く。」

第10話 ノロくんカメくん

言の葉の庭で流れていた音楽が聴こえる。この映画を観た後に本気で靴職人を志したこともあるくらい靴は好きだ。と言うより何かを作るのは元々興味があったことである。だからyoutube,でよく職人・匠の技特集というチャンネルを観ている。最近観たのは青森にある松山漆と呼ばれる漆器職人の動画だ。東京で販売会をすると松山という名称からか島根だと間違えられるらしい。僕はいまだに島根と鳥取の位置を間違えてしまう。そのたびに各県民たちに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 

松山は愛媛だよ。と君がメモを見せる。 

そもそも二択の設定が間違っていた。愛媛県民の皆さんごめんなさい。しかも最近愛媛に住む友人からみかんが届いていたじゃないか。僕としたことが友人を勝手に島根か鳥取に移住させていた。そんな身勝手な移住と裏腹に君はみかんを呑気に食べる。皮の剥き方がうまい。僕は皮の剥き方が苦手で綺麗に剥くことができない。皮が一枚で繋がっている状態で剥いたことは人生で一度もないのである。昔、年下の親戚に笑われたことを思い出した。嫌な思い出だ。彼女は何かにつけて鈍臭い僕の失態(言うほどでもないのだが)にケチをつけるミニクレーマーのような存在だった。服の畳み方が遅い僕に、ノロくんというあだ名をつけ、走るのが遅い僕にカメくんというあだ名をつけた。何かにつけて二文字カタカナにくん付けというルールを守っていることも鼻についた。 

彼女はもう大学生くらいか。周りの友達とうまくやっているのだろうか。人付き合いが苦手なのは僕との関係性だけに言えることではなく、周りの親戚に対しても同様だったのだ。しかし、彼女と気が合うこともあった。彼女は工作や裁縫などが得意で学生の僕に斬新なニットをプレゼントしてくれた。そのニットは今でも所有していて毎年ローテーション入りをする優秀なニットだ。シルエットがとてもゆったりしていて腕裾のところが窄まっておらず、切りっぱなしになっている点がお気に入りだ。そういえば先日彼女から変なメッセージが来ていた。すぐにフォルダを見返す。 

足のサイズはいくつ? 

彼女と話したことのあるフランス製のガレージシューズでも買ってプレゼントしてくれるのかな。そんなことを当時期待したが返信した後は一向にメッセージがない。 

ある日、宅配便が届いた。例の彼女からだ。 

品名には靴と書いてある。やっぱり僕の欲しいものを覚えていてこのクリスマスに近い時期にプレゼントしてくれたんだ。開封すると見事にそれは僕の思い描いた欲しい靴ではなかった。 

今までみたことのない靴だが僕の理想を超えて堅牢で渋い靴のディテールと風合いに釘付けだった。どこのメーカーの靴だと気になった僕は靴中の印字を見た。そこには英字でkaoruko nakajoと書いてあった。 

僕の脳内プレイリストでkashiwa daisukeが流れる。 
そして言の葉の庭の各シーンがダイジェストのように何度もリピートしたのだった。 
入ってきた箱を見ると一枚のメモが入っていることに気がついた。 
靴職人 kaoruko nakajoより シュウくんへ 

なんだ。僕の名前知ってるじゃないか。あのルールは廃止か。素直になったな。 

第11話 曖昧な海 

もがいて 
もがいて 
もがいた先に広がる 
曖昧な海 

泳げないその身体で 
必死に泳ごうとした 

あの海は広くて 
迷ってしまったけれど 

それでもどこかを目指したくて 
必死にもがいた 

ある人が言った 

完璧じゃなくていい 
不完全だから美しいんだろう 

ただそこにいること 
当たり前なことがどれだけ幸せか 

ありがとう 

溺れかけている私を救った人たちへ 

いま向かう場所は違ってもいつか落ち合おう 

曖昧な海を抜けるまで 
ひたすら泳ぎ続けるから 

ある無名の音楽家の楽曲に「曖昧な海」という作品がある。youtubeにそのMVがアップされていて、そのステイトメントとして紹介されているのがこの文章だ。音が消える前にこの曲をよく聴いていた。そしてこのステイトメントを何度も読んでいたこともあり覚えていたのだ。この曲を聴かせようと思ったのは、彼女自身が苦しみ、抜け殻のようになってしまったからだった。僕のため、いや正確に言えば僕らのために生きようとしてきた彼女が失った代償はあまりにも大きい。僕らのコミュニケーション手段は極端に不自由な存在となってしまった。そして無理難題を押し付ける魔界の意地悪婆さんなるものが天罰を与えているかのようにも感じられた。彼女にこの曲を聴かせる前に文字入力をし、音声変換してそのステイトメントを聴かせた。彼女は言葉を喋ることで音声入力し、それを文字変換させる。 

「聴きたい。」 

そう綴られた画面を見て僕はすぐにそのMVを流した。 

この出来事の前と後で大きく何かが変わったわけではない。僕の方といえば徐々に失っていく可能性があるという当初の医師の診断が今ではもしかしたらそれ自体もう何もないかもしれない、つまり他に感覚を失うことはないかもしれないという診断に変わった。初めて失ってから数年経っているが何も変わらない日常を過ごしている。もしかしたらある時点でそれがスタートしたり、トリガーのようなものがあっていつかそれが動き出すようになるかもしれない。それは担当医師にも僕にも彼女にもわからないことだ。ただ僕は、彼女が盲目状態になってしまった時には必死にもがいていた曖昧な海を抜けることができていた。彩り豊かで居心地良いその海から必死に泳いであの青い海にようやく辿り着いたのだ。大変かもしれないけれども彼女もその曖昧な海を抜けて僕たちは青い海で再会することができる。僕はそう思っていた。だから僕は彼女と別れた。そう。僕たちが一緒になるという未来はあの瞬間から崩れ去っていたのだ。 

最終話 その先へ

イツカは言った。
「次の休みにどこかに行こうよ。」
僕はこう返した。
「山に行くか。」
イツカは言う。
「男の人って山好きだよね。」
「いや、みんながみんなそうではないよ。」
「山って何が楽しいの?」
「キャンプしたり、自然と触れ合えるだろう。」
「山に行こうより、キャンプ行こうって言われる方が響きがいい気がするんだけど。」
「んじゃキャンプ行こうか。」
「海行こうね。」
僕たちは結局次の休みに海に行くことにした。最初から海がいいならそういえば良いのにと思ったが何も言わないことにした。
ここは日本海側の海で周りには家族連れが多く、僕たちくらいの年代のカップルは見当たらなかった。もしかすると見当たらなかったのではなく、見ないようにしなかったのかもしれない。僕らはあの時から多くが変わってしまい、自由が増えたように感じる。声が自由になったこと、耳や匂いに関してもそうだ。僕の世界は広がったように思える。しかし、あの時の状態だからこそ感じられる何かがあった気がするのだ。それをどう説明すれば良いのかわからない。今の幸せと不幸せだと思っていた境遇を天秤にかけてしまう自分がいることもまた事実なのである。イツカは以前の不自由だと感じていた僕を知らない。自由さを獲得した僕と出会って今ここにいる。彼女はどうしているかわからないし、もう終わったことであるのに不意に思い出してしまう。そのことに僕は罪悪感を感じてしまっている。イツカが好きだ。それは紛れもない事実なのに、どうして過去が僕を追ってくるのだろうか。彼女の幻影が僕を追ってくる。
目の前の海がカラフルに感じる。海岸線が雲を食べた瞬間、僕は溺れているような気持ちになった。溺れかけた僕を救ってくれたのはいつも彼女だということを思い出した。イツカが1人で待っている。矛盾した気持ちのまま僕はイツカが戯れている海の方に向った。溺れているわけではない。幻想だ。そう。僕はこの海を泳いでいる。カラフルなあの海はまやかしだ。
言葉を自由に操れる存在となった瞬間、僕には獲得したものと喪失したものがある。言葉で説明した多くの言い訳をないことにはできないし、今発しているこの言葉たちにも嘘はない。でも自由とは考え方次第なのだということを、失った事実を再確認した。もがいてもがいてもがいた先に僕は自由と不自由さを再認識した。矛盾し続けるかもしれないその事実を受け入れる覚悟はできていた。それが人間なんだということを。だから君は永遠に別枠なんだ。僕は海へダイブしてイツカのもとへ行った。

「めっちゃ水飲んだ。おい大丈夫か?」とイツカに言った。
「大丈夫ってなによ、急にどうしたの?」
「わからない。俺も」
僕は初めて俺と言った。
「少し痛かったけど私は嫌いじゃない。」
イツカは恥ずかしそうに言った。
「帰るか。」
僕はイツカの頭を撫でて、そう言った。

宿へ向かう途中、ある道の駅に寄った。トイレの脇の方が公園になっていたので僕たちはそこで時間を過ごすことにした。
「遊具によく頭ぶつけてたんだよね私。それでお母さんがあんまり公園に行くなって言って、家で本ばかり読んでてさ。芥川や夏目を読み始めたのはその頃なんだよね。」
「本はあまり読まなかったな。唯一好きで読んでたのは養老孟司のバカの壁かな。」
「どういう本なの?」
「実はあまり覚えていないんだ。著者が医学系の教授で解剖学とかそっち系だったかな。」
「シュウくん理系だもんね。私は化学とか物理とか生物?そっち系はさっぱりなんだよね。」
「このカエルは何類かわかる?」
「何類?生物類じゃないの?」
「なんだよそれ。生物類なんて分類ないだろう。非生物類は何なんだよ?」
「宇宙にいる、まだ発見されていない生命体。生命はあるけど生物ではないから非生物類。」
「すげーこじつけだな。」
「正解は何?」
僕はカエル公園にいた子供を思い出していた。
あの子供が言ったフレーズがどんな言葉かを必死に思い出そうとした。
「シュウくん、もったいぶらないで早く教えてよ。」
「ちょっと待ってて。」
僕はそう言って絞り出そうとしたが、出てこない。
車椅子の女性がトイレに入ろうとしている姿が目に映った。どうやらバリアフリーになっていないようで入り口で必死になって入ろうとしているが、中々段差を超えることができない。どうやら今トイレは工事の途中で段差ができてしまっているようだった。
イツカが走り出した。
「大丈夫ですか。」とイツカは彼女の進行の妨げを取り除いた。彼女がありがとうと言ったとき少し顔が見えた。その瞬間、思い出した。
「帰ってきた。そして僕も特等席へ返り咲く。」
と口に出した時、イツカは僕のもとへ戻ってきた。
「答えは何なの?」
「両生類だよ。小学生で習っただろ?」
「習った。ああスッキリした。じゃ旅館に行こっか。」
駐車場に戻ると車いすから降ろして車に乗せようとしていた男性の顔は汗だくで地面に多くの汗が滴っていた。そして車に乗せてもらった女性の顔は幸せそうだった。

完ー