• 『いざなぎ流陰陽師山葉の事件簿』

  • 楠木 斉雄
    ファンタジー

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    大学に入学したばかりの主人公は、所属学部の准教授からの依頼で都内で活動している少数流派の陰陽師の調査を請け負いますが、調査対象の彼女に次第に惹かれていき、数々の心霊事件に巻き込まれます。

第1章 死者からのメッセージ-僕のアルバイト

四月の下旬に入ったある日の午後、僕は都内にある葦田大学のキャンパスで一回生のための一般教養の講義を聞いていた。
天気が良いので汗ばむくらいに暖かく、百人以上収容できる大講義室は陽気に誘われて眠気をもよおしそうだ。
講義が終わると僕はそそくさと荷物をまとめた。

「今日はサークルの見学に行くのだろう」

鞄にノートを入れていた手を止めて顔を上げると、同じクラスの雅俊が鞄を肩にかけてこちらを見ている。

「今日は四時から同じ学科の修士課程の人と待ち合わせしているんだ」

「何それ、徹おまえ何かしでかしたのか」
雅俊にとっては上級生から呼ばれることはイコール叱られる話に直結するらしい。
さも無ければ僕の素行が悪いというイメージでもあるのだろうか。

僕は少しムッとした表情で雅俊に答える。
「ちがうよ。高校生じゃあるまいし悪戯して呼びつけられたわけではないよ」

雅俊とは大学入学後に知り合ったのだが、新入生歓迎会の日に終電に乗り遅れて泊めてもらって以来、互いに気安く話ができる友人的な立ち位置だ。

「文化人類学研究室のフィールドワークを手伝ってくれって話みたいだ」
考えていることが表情に出てしまう僕は少なからず自慢げに話していたのだろう。
聞き上手でもある雅俊はうまく話を合わせる。

「へえ、いいじゃん。その手の活動をしていたら就活の時にも履歴書に書けるんだろ」

「そうらしいけど、今回の話は研究室の修士課程の人が持ってきた話だから、下請け仕事の更に孫請け的な雰囲気ではないかな」

「違いない。それじゃ面白いサークルがあったら明日教えてやるよ」
雅俊はそのまま立ち去る素振りだったが、足を止めると僕の顔をしげしげと見てからおもむろに話を切り出した。

「今度な、高崎の知り合いつながりで合コンをするんだけど、一緒に行かないか」

「合コン? 俺はそういうのは慣れてないから何を話したらいいかわからないな」

雅俊はやれやれと言う表情で肩をすくめて見せる。

「それは新入生歓迎会の様子でよくわかっているよ。君は懇親会の席で女子学生相手にマニアックなゲームの話ばかりするかと思えば、いきなり柳田邦夫論を始める始末だったから俺も合コンの席を仕切ってほしいなどと期待しているわけではない」

僕は自分が適切な話題を使っていなかった事をおぼろげながら自覚していたが、雅俊の指摘に打ちのめされた。

「それでは、僕は何のために合コンに行くというのだ」
僕が憮然とした表情で尋ねると雅俊は僕の鼻先に人差し指を突き付ける。

「はっきり言ってお前はおとりだ。サラサラヘアのイケメンにほどほどの身長、それだけ恵まれた条件を活かすだけの社会的な素養がないのならば、むしろ黙って座っていてくれればいい」

「合コンに出席して黙って座っていることに何の意味があるんだよ」

僕の抗議を雅俊はニヤリと笑って受け流した。

「おとりと言っただろう。男子側にイケメンが一人いるだけで女子グループの食いつきは劇的によくなる」

「そ、そんなもんなの?」

雅俊の話を聞くうちに、新入生歓迎会等でいい雰囲気で接してくれていた女子学生たちが僕と話をするうちに次第に引いて離れていくような気がしたのは、気のせいではないことがはっきりした。

「話のネタは俺が振るから、おまえは適当に相槌を打っていればいいんだ」
僕は再びムッとしたが、雅俊は僕のことを馬鹿にしているわけではなく、むしろ気遣っていることも理解できる。

僕は手短に答えた。
「わかった、考えておくよ」

雅俊は僕の返事を聞くと片手を上げてから去っていく。

雅俊は鳥取県出身だと聞いていたが、東京での大学生活にすんなりと適応しようとしている。
内気な性分の僕は強気に生きていける彼がうらやましかった。

建物を出ると、キャンパスには同年代の学生があふれていた。
キャンパスの並木には緑の芽が吹き、青い空に映えている。
学生の多くは全国各地から集まってきているので見知った人間はほとんどいない。

義務教育の学校のように、近所に住んでいるというだけでいつも同じメンバーが教室という箱に詰め込まれるのとちがい、自由な雰囲気で勉強できるので僕は大学が気に入っていた。

僕は大学のキャンパスを出ると、最寄りの駅近くにあるカフェに向かった。
先輩が指定した亀田コーヒー店の中は、コーヒーの美味しそうな香りが立ちこめている。
店内に先輩の姿を探していると背後から声が聞こえた。

「内村君、ここよ。ちゃんと来てくれたのね」
僕を呼び出した文化人類学研究室の修士課程の西村さんはウエイティングスペースで僕を待っていた。
ジーンズにスエット姿の僕に対して、彼女は就職活動用らしき黒のスーツを着こなして、大人の雰囲気を醸し出している。

僕は席についてからメニューを見て、コーヒーが六百円以上するのを知ると、自分の財布の中身が心細くなった。
コンビニでおいしいコーヒーが百円で飲めるのに、専門店価格は新入生に優しくない。
僕がそんなことを考えている間に、西村さんはスタッフにあれこれオーダーしている。

「内村君飲み物はコーヒーでいいわよね」

「はい」
僕は急に呼びかけられて返事をする声が裏返ってしまったが、先輩は何事もなかったように笑顔を崩さない。
彼女は自分のバッグの中を探していたが、やがて、地図をプリントアウトした紙切れを取り出した。

「君にお願いしたいのはね、この地図に示したカフェでいざなぎ流の陰陽師が神事を行っているという噂の真偽を確かめてほしいの」

「陰陽師ですか」

「そう。君は確か新人歓迎会の時に柳田邦夫が好きだと言っていたでしょう。今回のミッションには適任と踏んだのよ」

そういえば、自己紹介の時にネタがないのでそんなことを言った記憶がある。
懇親会の時に彼女が声を掛けてくれたのは、その一件があったからに違いない

「そもそも、いざなぎ流とは何ですか」

「私もよく知らないけど、四国の山奥に残っている神道の一派でアミニズム的な要素を強く残しているらしいの。本当は陰陽師という名でカテゴライズするのは正確ではないのかもしれないけれど便宜上そう呼んでいるの」
彼女は説明を追加しようとしたものの、それ以上の知識は持ち合わせていなかったらしく結局諦めた様子だ。

「本当は、私が栗田准教授から仰せつかっているのだけど、就活もあるからなかなか時間がとれない訳」

はからずも、僕が雅俊に言ったとおり彼女は准教授から頼まれた仕事を孫請けに出したらしい。

「僕は何をしたらいいのですか」

「そうね、不眠とか、体調不良とか適当な理由を訴えて問題の陰陽師にお祓いのたぐいをしてもらうの。その上でどんな様式で祈祷を執り行ったかレポートにして報告して」

その時、注文した品物が来たので西村さんは話を切った。
彼女は飲み物だけでなくパンケーキにソフトクリームを乗っけたようなやつを僕の分も注文していた。

「調査にかかった経費はこちらで持つから、細大漏らさず領収書をとっておいて。そのうえで、報償費として一万円支払うわ」

単発の学生アルバイトの単価としては破格の報酬だ。
しかし、内気な人間である僕は知らない場所に乗り込んでいくのは気が引けた。

「その祈祷はネット予約とかできるのでしょうか」

「それほど本格的に営業している訳ではないみたい。あくまで口コミで広まっている程度ね。その地図のカフェが依頼の窓口と思われるので現地に行って聞いてみるのが最速だと思うわ。これも社会勉強だと思ってトライしてほしいな」

西村さんと面談して依頼の詳細まで聞いた後では断れる雰囲気ではなく、僕は引き受けることにした。

「やってみます。報告はいつまでに上げたらいいのですか」

「もともと、栗田准教授の趣味的な要素が強いからそんなに急がなくてもいいけど、五月末までには報告してね」

いつの間にかパンケーキを平らげていた彼女は、支払いは済ましておくからゆっくりするようにと言い残して伝票を持って席を立った。
就職を前にした人は本当に忙しいらしい。
渡された地図には彼女の携帯番号やメールアドレスも書いてあり、僕は彼女の手下としての地位を得たことを知った。
地図に示されているのはカフェの名前と所在地で、場所は下北沢界隈のようだ。

僕は赤羽の自宅から大学に通っているので方向が違うが、新宿から小田急線に乗れば下北沢はそんなに遠くない。
僕は実際に調査に乗り込むかは別にして、問題のカフェを下見に行くことにした。

下北沢駅で電車を降りて、駅前の通りに出ると高層建築は少なく通りも狭いが、いろいろな店が建ち並んでいて物珍しく、僕は少し駅周辺を見物することにした。
しかし、それは大きな間違いだった。
駅の周辺を散策するうちに僕はあっという間に道に迷っていた。
道が細くて、似たような町並みが続いている上に、見通しもきかないから町全体が迷路を形作っているようだ。

しばらく歩いた僕は露天でマッサージ屋をしているレゲエ風の髪型をした男性に気付いて愕然とした。
その人を駅前で見た覚えがあり、道に迷ううちに駅の出入り口近くに戻ってしまっていたのだ。

僕はしかたなくスマホに頼ることにした。
スマホの地図アプリに目的地を入力して、アプリの画面を見ながら慎重に進み、画面上に東北沢駅が見え始めたころに僕はやっと目的のカフェを見つけた。

そのカフェは、白を基調にしたエクステリアと出窓が目立つ建物だった。
店の前は沢山の観葉植物の鉢植えが並び、その奥には小さな花壇もある。
道路脇には中型の赤いバイクが置いてあった。

僕は看板を見てカフェ青葉という店名を確認すると本日の偵察任務は終了として、家に帰ろうとした。
しかし、後ろを向いて帰ろうとした僕は、目の前に品のいい老婦人が立っているのに気づいた。

その女性はエプロンをかけているのでカフェ青葉のスタッフと思われ、箒を持っているところを見ると店の前の道路を掃除していたところに違いない。

振り返りざま、しっかり目が合ってしまったので、僕は軽く会釈して通り過ぎようとしたが彼女は僕に話しかけた。

「まだ営業していますよ。コーヒーでも飲んで行きませんか」

ちょっと押しつけがましい気がしたものの、嫌味のない雰囲気だったため僕は彼女に勧められるままに店に入ることにした。
関係者に顔が割れてしまったから、無理に断ると今度来たときに悪目立ちすると思ったこともある。

老婦人と一緒に店内に入った僕は、思ったより広い店内に驚いた。間口は狭いが奥行きは広い作りらしい。

「いらっしゃいませ」

店の奥にあるカウンターの中からスタッフの女性が挨拶する。
カウンターの手前にはテーブルもいくつか並んでおり、インテリアはシックな雰囲気でまとめられている。

「あの人がオーナーですか」

僕が問いかけると、僕の横に立った老婦人は自分を指さした。

「オーナーは私」

彼女は「私」を一音一音区切って発音する。

僕は彼女が気を悪くしたのではないかと慌てたが、彼女は穏やかな笑顔を浮かべて言う。

「ごゆっくりどうぞ」

そして、老婦人は箒を持ったまま店の奥のスタッフ用らしきドアを開けて中に入っていった。
残された僕は改めて店内を見渡した。

僕の性格は、お店のスタッフがカウンターに一人いるシチュエーションだと店の端の方のテーブルにこっそり座るタイプだ。
しかし、今日は調査任務を帯びている訳で、お店のスタッフに聞き込みをしなければ話にならない。
僕は勇気を出してカウンターの方に歩み寄った。

「何にいたしますか」

スタッフの女性は、カウンターの内側で大きな機械をいじっていたので、バリスタと呼ばれる職種かもしれない。

その女性はカウンター越しにメニューを渡してくれたが、長い髪をポニーテールにまとめ、黒のパンツに白いシャツ、その上に黒のカフェエプロンを付けたのがすごく様になっていた。
僕は先程コーヒーを飲んだばかりなので、カフェラテを頼むことにした。
スタッフの女性がカウンターの中でラテマシーンを操作している間に僕は陰陽師の手がかりを探そうとした。

店内は趣味の良いインテリアでまとめてあり、陰陽師を連想させる雰囲気は見当たらない。
調査に来たとはいえ、場違いな雰囲気の陰陽師の話は切り出しづらい。

しかし、カウンターの上のメニューを何気なくめくった僕はスツールからずり落ちそうになった。

飲み物や軽食を表示しているページに続いて見開きを全部使って「祈祷、呪詛返し等お気軽にお申し付け下さい。いざなぎ流陰陽師」と書いてあったからだ。
文字の背景には先ほどのバリスタらしきスタッフの女性が巫女姿で、棒の先に紙のひらひらしたのを着けたものを持った写真が使われている。
僕は祈祷はともかくとして、呪詛返しという文言が気になった。とてもカフェで気楽に依頼する字面ではない。

その時、スタッフの女性がカフェラテのカップを僕の前に置いた。彼女はカウンター越しに渡さずにわざわざ回り込んで僕の横に立ってサーブしてくれたのだ。
僕は開いたままのメニューの写真を指さして尋ねた。

「すいません。あなたがいざなぎ流の祈祷をされるのですか」

「そうですよ」

彼女は何の躊躇もなく答えた。黒目がちな大きな目と整った鼻筋が印象的な美人だ。

「僕もお祓いしてもらいたいのですが」

勇気を出して、僕は彼女に申し出た。
頭の中では西村さんとの会話をリプレイして、お祓いしてもらう理由の部分を思い出そうと必死だ。

「ほう。何故お祓いが必要なのですか」

「最近、よく眠れないことが多いのでなんとかしたいと思いまして」

「基本料金で二万円いただきますがよろしいですか」
何故、不眠でお祓いが必要なのか、自分でもよくわからない理由を告げてしまったが、彼女はあえて指摘することはしない。

僕は慌ててうなずいた。
「はい。大丈夫です」

「それでは準備がありますから、私が呼ぶまでお待ちください」
彼女はさりげなく告げると、僕の目をじっと見つめてから店舗の突き当りの壁のドアを開けて奥に入った。

僕は彼女が妖の類で「呼びに来るまでは決してここを開けてはなりませぬ」と告げて奥に姿を消したような気分がぬぐえず、閉じたドアから目が離せなかった。
その時、僕が見つめていたドアが開き、僕は思わず身を固くしたが、入れ替わりに入って来たのは、お店のオーナーの老婦人だった。

「不眠解消のためにお祓いを頼んだそうですね」
老婦人はスタッフの女性とは違い遠慮なくつっこみを入れてくる。

「ええまあ」
僕は言葉を濁しながら、カップに目を落とした。カップのカフェラテの表面にはカフェラテの泡の濃淡を使って葉っぱの絵が描いてあった。
ラテアートというやつだ。
芸が細かいことに葉っぱには虫食い穴まで描かれている。

僕は飲むのが惜しいような気がしながらカフェラテのカップに口を付けたが、オーナーは聞かれもしないのにスタッフの女性の話しを始めた。

「最近あの娘の巫女姿が目当てで来る客が増えてね。繁盛するのはいいけど、少し趣旨が違うね」

「本来はどんな客に来てほしいのですか」
その辺は准教授の依頼とも関連があるからぜひ聞いておきたいことだ。

「そうね、私たちの目的としては悩みを持っている人や、困っている人を彼女のいざなぎ流の術を使って助けたいと思っているので、興味本位ではなく自分の困ったことを解決したいと考えている人に来てもらいたいわね」

メニューの続きに陰陽師の広告を掲載するくらいだから、オーナーも陰陽師の活動を容認するだけでなく後押ししている印象が強い。

「そもそも、カフェで陰陽師がお祓いするのはミスマッチな感じがするのですけど」

「あら、私は占いをして身を立てていたのよ。占いでコツコツと貯めたお金を使って念願だったカフェを始めたの」

それでも、陰陽師がカフェに潜んでいる理由にはなっておらず、僕がそれを指摘するとオーナーはフフッと笑って話を続けた。

「アルバイトで雇ったあの娘と話をするうちに彼女がいざなぎ流という神道の一派を伝える末裔だとわかったの。それは厳密には陰陽師でも神道でもない不思議な術を使う一派でもちろん占いとも違うけど、私の占いの時の顧客を押しつけてそのトラブルを解決してもらうことにしたのよ」

オーナーの話は漠然としていて実態は調べてみないとはっきりしない。僕は、あまり想像したくないと思いながら彼女に尋ねた。

「あなたも巫女の格好をするのですか」

「私は六星占術だったので巫女のコスプレなんかしませんよ」
オーナーは僕の見当違いな質問に怒りもせずにクスクスと笑う。
その姿は街角で占いをしていたというより、退職した夫とカフェを始めた品のいい奥様といった雰囲気だ。

その時、奥のドアが開いてスタッフの女性が顔を出した。
「準備ができました。どうぞ」

僕はカフェラテを飲み干すと、オーナーに案内されてお店の奥にあるドアを開けた。
スタッフオンリーの空間に足を踏み入れるのは、招かれた上でそうしていても何だかドキドキする。

ドアの奥は通路になっており、右手にはドアがあり左手が和室になっていた。
部屋には白木で作ったテーブルがあり、丸い鏡と葉っぱが付いた木の枝が置いてあるがそれは作業テーブルのように見え、部屋の中央の畳の上に設置された蔓を編んだ土台の上に、竹と和紙の切り紙細工を積み上げた造形物が存在感を放っている。

スタッフの女性は赤い袴と白い半着の巫女姿に着替えていた。
バリスタの仕事をしていた時、ポニーテールにしていた髪は降ろし、ストレートのロングヘアが白衣に映える。

僕は案内されて座布団に座ったが、彼女は僕の目の前で室内に置いてあった日本刀をさやから抜きはなった。長めの刀身がぎらりと光る。
思わず身を引いた僕を尻目に、彼女は長い刀身を使って白木のテーブルの上で和紙を切り始めた。

僕はこっそりスマホを出して写真を撮った。もちろんシャッター音は消音してある。

しばらく刀を振り回していた彼女は、できあがった和紙の造形物を部屋の中央に置いた祭壇のようなものに納め、静かに詠唱を始めた。

彼女が切った紙は立体感がある形状に仕上がっており、目に相当する形も識別できる。
僕は詠唱を聞き分けようと目を閉じて聞いていたが、その声は唐突にやんだ。
彼女が詠唱を途中で中断したと思って、僕は目を開けたが、目の前の光景に凝固した。

いつの間にか、彼女は再び日本刀を抜き放ち、切っ先を僕の喉元に突きつけている。

「貴様、不眠症を直そうとしてここに来たわけではあるまい、何をしに来たか説明してもらおうか」

彼女はあからさまに怒りの表情を浮かべるわけではなく、整った顔は無表情なまま、冷ややかに僕を見下ろしている。

僕は身動きできない状態で、視線を日本刀の刃先に移し、これって十分やばいよなと自問していた。

第2話 夢枕に立つ人影

初めて訪れたカフェのバックヤードに連れ込まれ、陰陽師などという得体のしれない職種を自称する女性に日本刀を突きつけらているのは芳しくない状況だった。

僕は何か釈明しなければと必死に考えるがパニックに陥った頭は筋道だった言い訳を紡ぎ出すことが出来ない。
そんな時に、背後から聞き覚えのある声が響いた

「あらあらあら、またお客さんにそんなことをして」
オーナーの老婦人が様子を見に来て、僕たちの状況に気付いたのだ。

「こいつが、つやつやした血色のいい顔をして不眠に悩んでいると言うから問いただしていたのです」
陰陽師を自称する女性は冷たい声でオーナーに事情を説明する。

「コスプレ系の風俗店と間違えて袴を脱がそうとしたおやじがいたからと言って、皆が皆そうとはかぎらないよ」

「あのオヤジが今度現れたら首と胴体をサヨナラさせてやる」
彼女の眼差しは鋭いままだが、とりあえず刀をさやに収めた。

「すいません。実は調査を頼まれていたのです」

僕はこっそり調べていたことがばれたからには、適当に誤魔化すのではなく正直に話して許しを得るしかなさそうだと思い、自分が請け負った調査の説明を始めた。

「調査だって。まさか税務署じゃないだろうね」
僕が使った調査という言葉に反応して、今度はオーナーの眼光が鋭くなった。

「違います。僕の大学で文化人類学の研究をしている准教授にいざなぎ流の祭祀を調べてこいと言われて現地調査に来たのです」
仕方なく僕は、依頼主である栗田准教授のことも白状する。

「客を装って隠し撮りをするのがおまえ達の調査の流儀なのか」

彼女は僕が写真を撮っていたことにも気づいていたらしい。
僕は陰陽師を自称する彼女の辛辣な指摘に対して、何か言い訳しなければと焦るがとっさに気の利いた受け答えができない。

「まあまあ、大学の調査だったら、宣伝になるかもしれないからいいじゃない。この子にいざなぎ流のことを教えてあげなさいよ」
陰陽師は、僕から目をそらすと、つまらなさそうにつぶやいた。

「オーナーがそういうなら仕方がない」
僕はどうにか彼女に許してもらえたようだった。

「お店はもう閉めたから、店のテーブルで話すといいわ」

気がつけば時刻は既に午後九時を回っている。
僕は、オーナーのとりなしに密かに感謝しながらバックヤードの和室から店の中に戻った。

カフェのテーブルに座ると陰陽師を名乗る女性は名刺をくれた。「いざなぎ流 別役山葉」と書かれている。

「名字が「べっちゃく」、名前は「やまは」と読む。君は名刺持っていないだろうから、学生証を見せてくれないか」

彼女は僕が話した内容をあまり信用していない雰囲気が感じられる。
僕はやむなく鞄から学生証を出して彼女に渡した。山葉さんは子細に確認してから学生証を僕に返して質問する。

「名前は内村徹、文化人類学科というのは本当のようだな。一体何を調べようとしていたのだ?」

僕は刑事に尋問される犯人のようだった。口を開こうとした時に、オーナーがトレイにナポリタンスパゲティーの皿を載せて僕たちの前に現れた。

「もう時間が遅いから、これを食べて行きなさい。怖い思いをさせたからお代はいらないよ」

「細川さんこんな奴にそこまで気を遣わなくても」
山葉さんは僕を軽くにらみながらオーナーに話すが、オーナーは微笑を浮かべたままで首を振る。

「いいんですよ。学生さんなら今度は友達を連れてきてくれると思うし、若い子はよく食べてくれるから作り甲斐があるわ」

オーナーが作ったナポリタンスパゲティーは、大きめの洋皿に小山のように盛りつけてある。
僕の前にいる山葉さんの前にも同じ量のナポリタンスパゲティーが置いてあった。

「あなたもそれを全部食べるのですか」

「そうだ、悪いか?」
僕の質問に彼女は不機嫌に答える。

「いいえ悪くないです」
僕は答えながら、彼女の機嫌を直す方法はないものかと表情を窺うが、彼女はそう簡単には打ち解けてくれそうにない。

「せっかくの細川さんのご厚意だ。君も食べなさい」

「はい」

僕は勧められるままに食べ始めた。
具材はベーコンと玉ネギ、ピーマンにマッシュルームで、普通の具材と調味料を使った何の変哲もないナポリタンスパゲティーだが絶妙においしかった。
きっと火の通し方や調味料のバランスが絶妙にいいのだろう。
僕は昼間、道に迷って歩き回り、お腹が空いていたので勢いよく食べ始めたが、山葉さんもそれに劣らぬ勢いで食べている。

「山葉さんは、お家が神社をされているのですか」
僕は片手にフォークを持ったままで尋ねる。

「私の父はいざなぎ流の太夫をしているが、神社のような建物はない。集落の中で皆と共に働いて、必要なときだけ祭祀を執り行うのだ」

彼女は不機嫌な雰囲気とは裏腹に、質問に答えてくれるので、僕は食べながらさらに質問することにした。
とはいえ、彼女は未だに僕に対する警戒心を解いてはいない。
整った顔立ちで鋭い視線を僕に向ける様は、うかつに触ると指が切れてしまう研ぎ澄まされた日本刀を思わせた。

「ご出身はどちらなのですか」

「高知県の草薙市だ。いざなぎ流の調査に来ているのに知らなかったのか」

彼女はフォークでナポリタンスパゲティーを巻き取りながら僕の顔を見て訝しむ。
僕はいざなぎ流が伝承される地域を下調べしていなかったのは失敗だったと悟った。

「あなたも陰陽師なのですか」

「私の住んでいた地域では太夫と呼ばれているが、私はまだ修行中だから太夫と名乗ることはしていない。陰陽師という呼称を使うのは一般の人が理解しやすいからだが、厳密に言うといざなぎ流の実情とは違う」

言われてみれば、僕は太夫という呼び方は歌舞伎や浄瑠璃に関連して聞いたことがあったが、それ以外では花魁に敬称として付けられていたことくらいしか思いつかない。

僕は次第に彼女に興味をそそられていく自分に気付く。

「修行ってどれくらいの期間が必要なのですか」

さあね。口伝で全ての祭文や必要な準備の仕方を教わるから十年以上かかる人もいる。私は父の元を離れてしまったから全てを教わることはできないかもしれないな」

話すうちに、僕は彼女が本物の陰陽師一族の末裔に違いないと確信していた。
陰陽師というネーミングとコスチュームで客を引こうとしているなら、ここまでディテールを話すことは不可能だ。

僕と彼女が大量のナポリタンスパゲティーをあらかた食べ尽くした頃に、オーナーがコーヒーを持って来た。
彼女はこのカフェのオーナーで細川さんというらしい。

「調査に来たのは本当のようだから、明日、逗子に行くときに連れて行ってあげたらどうかしら」

細川さんはコーヒーを僕たちの前に置きながら話し、山葉さんは食べるのを止めて答える。

「荷物持ちが来てくれたら助かるのは確かです。先方に失礼がないように余計なことを言わないなら連れて行きましょうか」

言葉の後半は、僕の方にも向けられていたようだ。

「本当ですか。是非連れて行ってください」

僕は個人的な興味もあって、彼女が祭祀を行う姿を見たいという気持ちが強くなっていた。
結局僕は山葉さんの「仕事」の現場を見せてもらうことになり、翌日の土曜日に再びカフェ青葉を尋ねることになった。

次の日の約束していた朝十時の少し前にカフェ青葉を訪ねると、細川さんがカウンターの内側から僕を手招きする。

「山ちゃんが待っているからこっちにお入り」

言われるままに僕がバックヤードに通じる扉からはいると、山葉さんが、赤い袴と白衣の巫女姿で何かの荷物をトランクに入れていた。

「おはよう、早いな。今日は見習いとして連れて行くからこれに着替えてくれ」

彼女は濃紺色の袴と白衣のセットを僕に手渡した。
彼女は同行する僕にコスチュームまで用意してくれたらしい。

「先方の許可もとらずに取材の人間を連れて行くわけにはいかないから、うちのアルバイトとして来てもらう。その代わり、今日見知った個人情報は一切他言するな」

他言したら、ただではすまない気がして僕は慌ててうなずいた。

「今日は、日本刀は持って行かないのですか」

「あれを持ち歩いていて警察に見とがめられたら銃刀法違反で捕まる。それに、依頼先で時間がかかりすぎるのも具合が悪いから、今日使う式神は作ってある」

昨日和紙を日本刀で切って作っていたオブジェを式神というらしい。
僕は彼女に銃刀法を気にするだけの常識があることを知り、少し安心して袴姿に着替えた。

「貴重品以外はそこに置いといていいよ。このケースを持ってついて来てくれ」

彼女は言い捨てると、先に立って僕を建物の奥へと案内した。そこは二階まで吹き抜けの空間になっていて大きな機械が設置してある。

「コーヒー豆の焙煎機だ。これぐらいのサイズでないと安定した味が出せない」

その横には店舗部分の上に当たる二階のフロアに続いている階段があり、更に奥のドアを開けるとそこはガレージとなっていた。

「今日はこれで行くから乗ってくれ」

そこにあったのは、ドイツ製の高級車だった。
濃紺のボディカラーで、トランクルームのM3のバッジは三色にぬってありスペシャルな雰囲気を醸し出している。

「このBMW M3は山葉さんの車なのですか」

「オーナーの車を借りたのだ、こっちに置いてあるのが私の単車だ、タンデムで乗っていきたいならそうしてもいいぞ」

「いいえ結構です」

先日店舗の前に置いてあったのは彼女のバイクだったのだ。
彼女はバイクで行ってもいいと言うが僕と荷物を積めるとは到底思えない。
彼女がM3のトランクを開け、僕が荷物を積み込みんだ後に山葉さんは宣言した。

「それでは、いざなぎ流の祈祷をするために出発しよう」

彼女は僕が調査のために同行するのを意識してことさらに言ったようだ。
車が動き始めると、どこかにセンサーがついているのか、ガレージのシャッターは自動で開いていく。

「細川さんってお金持ちなのですか」

僕の単刀直入な質問に山葉さんは苦笑した。

「お金持ちなのは確かだね。あの人は、下北沢の母と呼ばれていた有名人で、占いで財を成したのだ」

「何で占いをやめてカフェをはじめたのですかね」
僕は、通り過ぎていく下北沢の町並みを眺めながらつぶやく。

「彼女はコーヒーを自家焙煎するカフェを開くのが長年の夢だったらしい。あの店も大型の焙煎機が置ける物件を探していて見つけたそうだ」

気がつけば、彼女は混雑する下北沢界隈を抜けて玉川インターチェンジから第3京浜に乗っていた。
山葉さんが運転するM3はスムーズな加速でスピードを増していく。
3シリーズをベースに大排気量のエンジンを積んだスポーツモデルは日本の交通法規の下では実力を発揮できないにちがいない。

僕は質問するネタが尽き、車内をしばし沈黙が支配すると、彼女は気を使ったように僕に尋ねた。

「文化人類学とか勉強して、将来は何になれるのだ?」

彼女の質問はありきたりのようだが、僕は答えに窮した。
僕は将来何になるつもりだろうと自問する。
先輩の西村さんも商社系を目指していると言っていた。

「大学に残って研究を続けるのが夢です」

僕の口を突いて出たのはそんな答えだった。それだって、日頃から考えていたと言うよりは思い付きに近い。

「いいな。好きな分野の勉強を続けられて、それが仕事になるなんて」

彼女が嫌みで言っているのではないとわかるが、僕は何だか肩身が狭い気がする。
僕は話題を変えようと無難な話に振ってみた。

「山葉さんは交際している男性とかいるのですか」

さりげなく聞いたつもりだが、彼女はあからさまに不機嫌な表情に変わる。

「なぜ私が初対面に近い君にプライベートな話をしなければならないのだ」

「いえ、当たり障りのない話題にしようと思って」

彼女は分かっていないというように首を振ると諭すように僕に言う。

「妙齢の女性と二人きりの時にその質問をするのは当たり障りがないとは言えないよ」

「すいませんその辺に疎くて」

僕が恐縮していると、山葉さんはしばらくしてから口を開いた。

「いざなぎ流は式神や式王子と呼ばれる存在を使役する形で祭祀を行い、私は時々それらの存在の気配を感じる時がある。男性と親しく付き合うとそのような能力が失われるのではないかと思い、深く付き合うことはしていない」

ぼくは伊勢神宮や加茂神社では未婚の内親王が巫女として神に仕え、斎王と呼ばれていた故事を思い出した。
もしかしたら彼女は生涯いざなぎの神に仕えるのかもしれないと思うと妙に胸がふさぐような気分になり、僕は彼女に尋ねていた。

「いざなぎ流の巫女は、独身で神に仕える存在なのですか」

彼女は、ステアリングを握ったまま軽い雰囲気で答えた。

「いいや、私の祖母はいざなぎ流の博士まで務めたが、子を設け孫の私もいる。宗教的な理由ではなく私のこだわりと思ってくれていい。それに私は中高一貫の女子校を出て、大学も女子大に行ったから、男性との接するのが苦手な部分もあるのだ」

僕は思わずドライバーズシートの彼女の横顔を見た。
僕にとっての彼女は日本刀を振り回す神懸かりな巫女の印象が強いが、神道を奉じる家に育ち、中学校からずっと女子校に通ったという彼女はとんでもないお嬢様かもしれないと思ったからだ。
鼻筋の通った横顔は気品を感じさせるが、僕の視線を察知したように彼女は言う。

「なんだ、可笑しいのか」

「いいえ、そんなことないです」

彼女は助手席の僕に顔を向けて、問いただす。
「いや、今笑ったような気がした」

「そんなことないです。お願いだから前を向いて運転してくださいよ」

僕が哀願すると彼女はやっと目線を前に戻す。
運転を続ける彼女ととりとめのない事を話すうちに、彼女の口調が良く言えばジェンダーにとらわれない話し方で、時代劇のお武家様のような雰囲気を醸し出していることに気づく。
それが彼女の出身地による特徴なのか、いざなぎ流の継承者であるためなのかは僕にはまだ判別できない。

やがて、僕たちは逗子に到着し、彼女はカーナビの指示にしたがって逗子の市街地を抜けて三浦半島の西海岸を南下した。
幹線道路を外れて、なだらかな丘の上に登るとそこには病院のような施設があった。

「ここは、病院ですか」

「ホスピスだ。癌患者の終末ケアをする施設だよ」
彼女は駐車場に車を留めながら簡潔に答え、僕はホスピスという施設と彼女の仕事の関連性を考える。

「それでは今日の仕事というのは?」

「治療法が尽きたら神頼みをしたい人もいる。私のお得意様的な施設だ」

僕はどう返したらいいかわからなくて口をつぐんだ。
施設の入り口はこぎれいなロビーになっており、そこで依頼者の女性が僕たちを待っていた。

「お忙しいでしょうに無理を言ってすいません。今日はよろしくお願いします」

「別役と申します。こちらは助手の内村です。本日はご依頼ありがとうございます」

二人が名刺を交換するときに僕も名刺をもらった。
依頼者の名は谷脇由佳さんで、司法書士事務所に勤務していることがわかる。
由香さんは僕たちが質問するのより先に、自分が依頼した理由を話し始めた。

「私の父が末期の肺ガンでここに入院しています。父は剛胆な性格で神仏などおよそ信じない人だったのですが、最近おかしなことを言うようになったのです」

「ほう。どんなことを言われるのですか」
山葉さんは、興味を惹かれた様子で由香さんに質問する。

「亡くなった伯母が夢枕に立つというのです。そのようなことを口走る人ではなかったので心配で、気休めでもいいから何かして上げようと思って」
そこまで言って由佳さんは口を押さえた。

「ごめんなさい。私失礼なことを」

「いいんですよ。気休めになれば来た甲斐があります」
ビジネスに徹しているのか、山葉さんはソフトに対応している。

「病室で祭祀をすることはできますか」
山葉さんが尋ねると、由香さんは少し思案して答えた

「ええ、個室なので大丈夫だと思いますよ」

由香さんは周囲に音漏れしないか心配する様子だったが、山葉さんに答えるとソファから立ち上がり、僕達を病室へ案内した。
病室は海側に面し個室で、入り口のドアには谷脇義男と名前が表示されている。
谷脇さんの父親、義男さんはベッドの上で半身を起こして海を眺めていた。

「お父さん、いざなぎ流の太夫さんに来ていただいたわよ」
義男さんは僕たちを見回して言った。

「私の戯言につきあわせて済まないね」

「いいえ。大切なことだと思いますよ。本日はお呼びいただきありがとうございます」

 山葉さんは義男さんに挨拶すると僕を促してトランクから式神をはじめとする必要な品々を取り出した。
そして、僕に部屋の中央に祭壇のようなものを置くように指示する。

「それは「みてぐら」というのだ。祈祷で取り払った「すそ」と呼ぶ穢れの類を封じ込めるために使う」

山葉さんがボソボソとつぶやいた。
僕は自分に教えてくれているのだと気づき少しうれしくなる。
山葉さんは「みてぐら」に向かって一礼すると御幣を手に取り祭文の詠唱を始めた。
彼女は詠唱しながら緩やかに舞うような動きを始める。

部屋の中に彼女が祭文を唱える声が響き、彼女の動きにつれて白衣の衣擦れの音がそれに重なる。
舞のようなしなやかな動きにつれて山葉さんの黒髪がふわりと宙に舞い、僕は魅せられたように彼女の動きから目が離せなかった。
義男さんはベッドの上で目を閉じ、山葉さんが唱える祭文を聞いていた。
山葉さんは祭文の詠唱を終えると御幣で義男さんの頭上を祓い、一礼して祭祀を終えた。

「あなたのお姉さんが夢枕に立つことはないでしょう。何か気になることが起きたら対応しますので連絡してください」

山葉さんが静かに告げると、義男さんは黙って頭を下げた。
再び、トランクに荷物を詰めて帰ろうとした時、山葉さんは立ち止まって僕の方を見つめた。
正確には僕の背後の辺りを見ている様子だ。
僕は思わず、後ろを振り返って何もいないのを確かめてから聞いた

「どうかしたんですか」

「すまん、何でもないから気にしないでくれ」

彼女はそう答えると心なしか急いだ様子で部屋を後にした。
山葉さんはロビーまで見送ってくれた由佳さんから謝礼を受け取って一礼すると、僕を促してホスピスを後にした。
帰り道、彼女は来た道を通らず横浜を経由するルートを選んだ。

「他に用事があるのですか」

「いいや、違う道を通りたかっただけだ。この格好で町を歩こうとは思わないが、車から景色は見られるから」

僕自身も、横浜界隈に来ることはあまりない。
彼女とドライブしていると思えば気分は悪くない。

「今日はありがとう。やはり一緒に同行してくれる人がいると心強いものだ」

彼女に礼を言われて僕は意外な気がした。

「でも、僕はせいぜい荷物を持つ程度であまり役には立っていませんよ」

「内輪の人間が同行してくれるだけで、ずいぶんと気分が楽なことがわかった」

僕が彼女の言葉の意味を計りかねていると彼女は言葉をつづけた。

「出張でご祈祷する場合は、私はちょっとした好奇の目にさらされる。自分のやっていることは正しいと信じていても時に疲れることもあるが、仲間が一緒にいるからすごく心強かったのだ」 

「そうだったのですか。役に立てたならうれしいです」

僕は彼女が、宗教上の事柄なら何の躊躇もなくやってのけるタイプの人だと思っていたが、意外と普通の感覚を持っていることがわかりうれしくなった。
しかし、彼女が時折眉間にしわを寄せてこちらを見ていることが気にかかっている。
彼女がそんな仕草を見せるのは祈祷が終わって病室を後にする時以来だという気がした。

「僕に何か気になることでもあるのですか」
僕が彼女に尋ねると、彼女は慌てて目をそらして、小声で答えた。

「大丈夫だ。問題ない」

彼女が問題ないと言う以上、僕もそれ以上追及はできなかった。
しかし、その夜になってはじめて、僕は彼女のしぐさの意味を正しく理解したのだった。

自宅に帰った僕は、昼間の疲れが出たみたいで、早めに就寝したが、寝入りばなに、うとうとしながら夢を見た。
夢の中で、僕は田園風景の中、和建築の縁側に腰掛けており、目の前の庭を誰かが近寄って来るのに気がつく。
近寄ってくるのは年配の女性で作業用らしいズボンの上に割烹着を羽織っており、僕の目の前まで来ると穏やかな表情で何か話しかける。

そこで僕は目を覚ますと自分のベッドの上で半身を起こした。
今の夢は一体何だろうと自問する間も心臓は速いペースで鼓動を刻んでいる。
そして、気を取り直してもう一度眠りについた僕は、再び同じシチュエーションの夢を見てしまう。

割烹着姿の女性は先程より心なしか近寄っており、同じ言葉を話しかけてくるが相変わらず、僕には何と言っているのか判別できない。
目を覚まして起きあがった僕は、部屋のライトを付けて、ヘッドボードの時計を見たが、時刻はまだ夜の十時過ぎだ。

少し非常識な気もしたが、僕は昼間会った由佳さんにメールを送った。
メールの文面は昼間のお礼に付け加えて、祭祀に使うので義男さんの夢枕に立ったという伯母さんの写真を送ってくれというものだ。

僕はどうせ返事が来るのは翌日だろうと思っていたが、予想に反して十分もたたないうちに返事が届いた。
挨拶とともに送られてきた写真を見た僕は、首から背中にかけて冷たい感覚が走るのを感じた。

その写真の顔は、紛れもなく先ほど夢に現れた女性の顔だった。

第3話 死者からのメッセージ


死んだ人が夢枕に立つのはよく聞く話だが、自分が体験するのは話が違う。
もう一度寝たらさっきと同じように、あの女性が夢の中に現れ、更ににじり寄ってきそうな気がしたので僕はまんじりともしないで朝が来るのを待った。

やっと周囲が明るくなってきた朝六時頃、僕は雅俊にスマホでメールを送った。
相手はまだ寝ているはずなので、起こしてしまったら多分文句の一つも言われるはずだが、待ち切れなくなったのだ。

メールには悩み事があるから相談に乗ってくれと書いておいた。
雅俊から返事が来るのはお昼近くではないかと思っていたが、意外とすぐにメールの着信音が鳴った。
雅俊からのメールは何時だと思っていると文句を言いつつ、話を聞いてやるから下宿まで来いと書いてあった。

僕は家族が寝静まっている家からこっそり出かけようとしたが、物音で目を覚ました母親に小言を言われた。
僕は理由を説明するのが面倒くさくなり、急用があるからという説明の一点張りで母親を振り切って家を出た。

雅俊は高円寺にアパートを借りて住んでおり、僕は日曜日の静かな町並みの中を駅まで急いだ。
自宅近くの赤羽駅から直通運転の電車で新宿駅まで行き、中央線に乗り換えてから四駅目が高円寺駅だった。

雅俊が住んでいるのは住宅街にある二階建てアパートだ。
彼は自分が部屋にいる間は施錠しない習慣があった。
僕は他の住民に気を遣い、鉄製の階段で足音を立てないようにそっと登ってドアを開けた。
僕がいきなり訪れたのに雅俊の部屋はきれいに片付いている。
僕の部屋は手が届く範囲にいろいろな物が堆積してきて、普段僕が座っている場所はそこだけスペースが開いているからすぐにわかるのと大きな違いだ。

「どうしたん徹。むっちゃ顔色悪いやん」

雅俊の取って付けたような関西弁につっこみを入れる気力もなく、僕は部屋の中まで入った。

「短い間だが世話になったな。俺はもう死にそうだ」

「どうしたというのだ。一体何が起きたのだ?」

雅俊は少し面倒くさそうに僕に訪ね、僕は雅俊に先週末からの陰陽師にまつわる出来事を話した。
そして昨夜、依頼人の亡くなった伯母が夢枕に立ったため、丸一晩まんじりともせず過ごしていたことも付け加えた。

「それって、その伯母さんが夢に出てきただけなのだろ。どうって事ないじゃん」

「そんな訳ないだろ。送ってもらった写真の顔が、夢に出てきた人と同じだった時の衝撃がおまえにわかるか。」

「お祓いに行った時はその人の顔写真とか見ていなかったのだな」

「そうなんだよ」

僕はまた頭を抱えた。
これまで心霊現象などは信じていなかったので、どう考えたらいいのか整理がつかないのだ。

「そういうこともあるものだと割り切ってしまえばいいのではないかな」

「出雲大社のお膝元で育った奴にはそれで良くても、俺は心霊現象なんて存在しないと思っていたんだよ」

言い終わってからきつい返しをしてしまったと思ったが、雅俊はのほほんとした顔で指を一本立てたのを左右に振ってチッチッとやっている。

「俺の出身は鳥取県、出雲大社があるのは島根県」

どう違うのかイメージがわかなかったので、僕はスマホの地図アプリを起動して、広域にした中国地方の地図を眺めた。
山陰の兵庫県の左隣が鳥取県。そのもう一つ隣が島根県だ。

「訂正いたします。水木しげるロードの近所で育った奴にはそれで良くても、俺は心霊現象とか信じたくない」

「うん。それならいい」

雅俊の物事に動じない雰囲気のおかげでぼくも少し落ち着きを取り戻してきた。

「夢枕の伯母さんは、どんなことを話していた?」

「何だか英語みたいにも聞こえるんだけど、ハッキリしない」

「わからないままでいいから、ちょっと書き出してみろよ」

雅俊が渡してくれたノートに、僕は記憶を頼りに彼女の言葉を書いてみた。

『You chat oh say yeah oserashuni.』

しばらく見ていた雅俊は首をひねったが、自分も一行さらさらと書いて説明を始めた。

『You chat that o say that year ose・・・・.』

「英語ではローマ字の「O」一文字で神を表すこともあるから、こんな風に関係代名詞が入っていたのを省略したと考えると英語っぽくなる」

「おお、本当だ」

「ただし、最後の単語がわからないので結局は意味不明だ。何か似たような発音の動名詞だったんじゃないの」

こいつ英語強いなとぼくは密かに感心しながら、言われたように動名詞で思い当たる単語はないか考えてみた。
しかし、僕の乏しいボキャブラリーの中では当てはまる単語はなかった。

「知っている単語ではなかった」

「そうか、それでは発想を変えてこれは英語ではないと考えるのが正解かもしれないな。要するに、おまえや自分の弟にメッセージを伝えるのにわざわざ英語なんか使わないだろ」

「やっぱりそうかな」

「そうだよ。とりあえず、その陰陽師のお姉さんに相談してみよう」

雅俊は立ち上がると、外出の支度を始めた。
支度と言っても上着を羽織り、鞄を持つ程度なので、男子大学生の身支度は簡単だ。

「そういえば徹はその伯母さんをくっつけて来ているかもしれないな。知らない人を部屋の中まで連れ込まないでくれよ」

雅俊は冗談で言っているのだが、僕は昨日の山葉さんの目つきを思い出して、思わず周囲を見回した。無論、何も見えるわけではない。

「あの人には何か見えていたのかもしれないな。それも含めて聞いてみよう」

「そんな気がするね、俺としては問題のカフェでお昼時になったら、オーナーのおばあちゃんのナポリタンを食いたいな」

僕は山葉さんが作った料理を食べてみたいと思っている自分に気がついて慌てて頭を振った。
雅俊の下宿を出た僕達は新宿まで行き小田急線で下北沢に向かった。

小田急線の電車は新宿駅を出ると一度地上に出るが少し走ると再び地下を走行する。
外が暗くなったために窓ガラスに雅俊と自分の顔が映るが、その横にもう一人、人影が見えた気がして僕は慌てて周囲を見回した。
しかし、車内で立っているのは自分たち二人だけだ。
もう一度窓を見ると人影は消えていた。雅俊は気がついた気配もない、以前は目の錯覚として片づけられたことも、自分の霊感が強いと気づいた今では、気になることは否めない。
下北沢駅からカフェ青葉 までの道も三回目ともなるとさすがに迷わなかった。

「東京ってこんなにたくさん飲食店や雑貨屋が集中していても経営が成り立つんだからすごいよな」

「どういう意味だよ」

僕は雅俊が何を言いたいのかわからず尋ねる。

「地方だと人が少ないからむやみに飲食店を始めてもなかなか商売が成立しないってことさ」

下北沢に初めて来た雅俊の素朴な感想だ。しかし、彼はいろいろな視点で物事を見ていてそのあたりが僕と違う。
カフェ青葉に着くと、お昼時だけあってお客さんが多く混雑していた。

「いらっしゃいませ、そちらはお友達かな?」

カウンターの中の山葉さんは明るい表情で僕に声をかける。
僕はうなずきながら答えた。

「友達の雅俊です。今日は相談したいことがあるので、山葉さんの手が空いたらお願いします」

「僕は、日替わりランチ頼みたいな」

横から、雅俊が割り込んだので僕も同じのを頼んだ。

「後でゆっくり話を聞くよ。今は手が離せないから少し待ってくれ」

山葉さんはテーブル席の客にランチのトレイを持って行きながら僕に声をかける。しかし、その瞬間に彼女が、眉間にしわを寄せて僕の背後の虚空を見たのを僕は見逃さなかった。
霊視能力がある彼女には何かが見えているに違いない。

少し間をおいて、オーナーの細川さんが僕と雅俊の前にランチのトレイを置いた。
「いらっしゃいませ。今日のランチはスープカレーセットです。ご飯はお代わりしていいですよ」

手羽元が何本か入ったスープカレーを入れたボウルと、別の器にたっぷりと盛られたご飯とサラダそしてマッシュポテトが載ったプレートが添えられていた。
スープカレーの手羽元は柔らかく煮込まれており、スープはスパイシーで鶏肉の旨味をタップリ含んでいる。
雅俊が旺盛な食欲でランチプレートを平らげていく横で、僕は微妙に食欲がなかった。
僕らが食べ終わって、食後のコーヒーを飲んでいる頃には、お店も空いてきた。

「相談というのは何だ?」
客が帰った後、食器を回収し終えた山葉さんがカウンター越しに話かけてくるが、今日の彼女は機嫌がいいようだ。
僕はストレートに聞いてみた。

「山葉さん、僕の背後に何か見えているのではありませんか?」

「いいや、全く」

彼女は僕の揺さぶりにも動じず、落ち着いた声で答えるが、こころなしか目が泳いでいる。

「実は昨夜この人が僕の夢枕に立ったんですよ。見覚えはありませんか」

僕は昨夜、由佳さんから送ってもらった写真を画面に表示して彼女に見せた。彼女の大きな目が更に見開かれるのを僕は見た。
どうやら彼女は由香さんの伯母さん、つまり義男さんの姉の顔を見たことがあるらしい。
彼女がその人の顔を見る機会があったとすればその機会はただ一つ、霊となって義男さんの傍にいるときや、祈祷して浄霊した際に見たとしか思えなかった。
雅俊を見ると彼もうなずいて、もっと押せと言うように僕を見る。

「気がついているならなんとかしてくださいよ。僕は昨夜もおちおち眠っていられなかったのですから」

彼女が見るからに落ち込んだ様子で僕に告げた。

「徹君すまない。実は私の除霊は完璧ではない。時々取りこぼして周囲の人に飛び火してしまうのだ。由香さんの伯母さんの件はなんとかするから許してくれ」

「それって、駄目じゃん」

雅俊がポロッと漏らした言葉に彼女はますます落ち込んだ。
昨夜ひどい目にあった腹いせにもっと追及してやりこめたら気分が晴れそうだが、落ち込んだ様子の山葉さんを見ると僕は何故かそれ以上彼女を責めることができなかった。
僕はやむなく話題を変える。

「夢に現れた義男さんのお姉さんの言葉を書き留めたんですけど、意味はわかりませんか」

僕は雅俊の部屋から持ってきたメモを渡した。

「ほう。夢の中で聞いた言葉を憶えていたというのか」

山葉さんは急に生気を取り戻すとメモを子細に眺めた。

「これは、意味がわからないままに、聞いたとおりに字を当てたのだな」

「そうです」

彼女はメモを見ながらしばらく考えていたがやがて口を開くと僕に言った。
「一緒に逗子まで行って、夢の中で聞いたとおりに義男さんに伝えてもらえないか」

「僕が義男さんにこれを伝えるんですか?」

山葉さんがうなずく。
僕は夢で聞いたセリフを意味も分からないままに義男さんの目の前で言うことに少なからず抵抗がある。

「病床の義男さんの前で僕が神妙にそのセリフを言うが、義男さんにもその意味はわからず彼が逆上して怒り出す可能性はないのですか。」

「大丈夫。きっと伝わるよ」
山葉さんは誠実な雰囲気で僕に請け合ってくれるが、僕に話している間も山葉さんの目線は僕の背後に向いている。
僕はたまらず、後ろを振り返るが無論何も見えない。

「わかりました。やってみますよ」

幽霊の存在に追い詰められた僕は背に腹は替えられず引き受けることにした。

「なあ、今から問題のホスピスまで行くのか。もしそうなら俺も一緒に連れて行ってくれないか」

雅俊が尋ねたので、僕は山葉さんの顔を見る。彼女は僕たちに少し待ってくれと言って店の奥に消えた。
しばらくして彼女は戻ってくると僕たちに告げた。

「由佳さんに相談して今日窺うことにした。そちらの彼もいっしょに来てくれても差し支えない」

「僕は東村雅俊と言います。内村のクラスメートです」

雅俊は適切なタイミングで自己紹介をして、さらに言葉をついだ。

「山葉さんのことは内村から聞いています。僕もいざなぎ流に興味があるからよろしくお願いします」

「そうですか。こちらこそよろしくお願いします」

山葉さんは少し気圧された様子で引き気味に雅俊に会釈する。
雅俊も一緒に行くことになり、僕たちは再びオーナーの車を借りて出かけることになった。

「義男さんへのメッセージがちゃんと伝わってその人が成仏してくれたらいいよな」

山葉さんが支度をする間に雅俊が軽く言う。
成仏したらいいと言っているのは無論義男さんではなくて和美さんの霊の事だが、そう簡単に事が運ぶとは思えない。  僕は憂鬱な気分でそもそも神道では成仏って言わないはずだと心の中でつぶやいた。

第4話 古の祭文に舞う

僕達は山葉さんが運転するBMW M3に同乗して午前中のうちに逗子のホスピスに到着した。
ステアリングを握る山葉さんは、ジーンズに白いコットンシャツを合わせ、その上に黒のダウンジャケットを羽織っている。
彼女のヘアスタイルはカフェの仕事をしているときのポニーテールのままだが、ラフな格好でもBMWを運転する様子は、ちょっと買い物に出かけるセレブな奥様的な雰囲気が漂う。

「あのホスピスから依頼する人たちは、どうやっていざなぎ流のことを知ったのですか」

僕は昨日から疑問に思っていたことを尋ねた。

「患者同士の口コミが多いが、私の出身地の地縁関係で訪ねて来る人もたまにいる。谷脇さんは後者の方だな」

山葉さんは淡々とした雰囲気で答える。

「すると、谷脇さんも四国の出身ですか?」

「そうだ」
僕にとっては、事業をするのに口コミ以外に広報手段がないとは考えられない話だった。

「ウエブサイトで広告したりはしないのですか」

「カフェ青葉の本業ではないからね。私は客寄せのために時々御幣を振っていればいいのだ」

彼女の言葉はオーナーの説明とは少し違っている。
僕が思うには、彼女は照れ隠しにシニカルなことを言う傾向があるようだ。
ホスピスに着くと、入り口で由佳さんが出迎えた。
昨日も来たばかりだが、ホスピスと言う場所になじんでいる自分が怖い。

「二日も続けて来ていただいてすいません」
由香さんは恐縮した雰囲気で山葉さんに言うが、山葉さんは微笑を浮かべて由香さんに答える。

「いいえ。今日はうちの都合でフォローに来させていただいたので、謝礼も必要ありません」

皆がエントランスのエレベーターに乗り込んだところで由佳さんが僕に聞いた。

「本当に伯母が現れて何か言ったのですか」

「はい。それをお伝えするために来たのですが」

僕の言葉は自信がないため途切れる。伝えようとする言葉が意味をなさない記号の羅列だったらどうしようと言う思いが強くなっていくばかりだ。
エレベーターが目的の階に着いたので僕はそれ以上コメントせずに済んだが、病室に入ると義男さんが待ち受けていた。

「和美の言葉を伝えてくれるそうだな」

僕の夢に現れた女性は和美さんというらしい。
義男さんはベッドの上に半身を起こして、大きく目を開けて僕を見据えている。
痩せこけた顔に目ばかりが大きく見え、その目は心なしか充血しているようだ。
怖すぎる。
僕は助けを求めるように山葉さんの方を見たが、彼女は僕と目を合わさない、雅俊はうなずいてあごをしゃくってみせる。
僕は仕方なくメモに書き留めた和美さんの言葉を読み上げた。

『You chat oh say yeah oserashuni.』

言い終わってから、僕はおそるおそる義男さんの表情を伺った。さっきより更に大きく目を見開いている。
やっぱり怒り出すのだろうかと思い、僕が身を引きそうになったときに、義男さんが口を開いた。

「もういっぺん言うてくれんか」

もう一度言うようにリクエストしているようなので、僕は言われたとおりに、再度メモを読み上げる。

『You chat o say year oserashuni.』

雅俊バージョンで読んだところで、聞こえる音は同じだ。
皆が無言で見守る中で義男さんは目を閉じている。目の縁からは涙が伝い落ちた。
やがて彼は、口を開いた。

「すまんが、わしを十分間だけ一人にしてくれんか」

「十分たったら、みんなでここに来たらいいのね」

問いかける由佳さんに彼は無言でうなずいた。
廊下に出た一同は一旦ロビーに降りることになった。
エレベーターの中で由佳さんが僕の腕をつかんで問いつめる。

「あなた、ほんとに和美おばさんの言葉を聞いたのね?わざわざ古い方言を調べたりしてないわよね」

由香さんは意外ときつい雰囲気で僕を詰問する。
僕は何だかわからないが、彼女が言うような行為はしていないので黙ってうなずく。
エレベーターが一階に着いたので皆は思い思いにロビーで待機した。
由香さんはエレベーターの中で僕を問い詰めたことの説明を始めた。

「あなたが伝えてくれた言葉は私たちの出身地の方言なの。それも、私たちの世代では使っていない古い言い回しだったの」

由佳さんの言葉に僕は赤面した。英単語を当てて意味を考えていた自分が間抜けすぎる。

「掘った芋いじるな。だな」

おもむろに山葉さんが口を開く。

「What time is it now? と聞き間違えた外国人観光客が時刻を答えたって話ですね」

雅俊が応える。北海道かどこかで実際にあった話で中学校の英語の先生がよく使うネタだ。
それでも、好奇心には勝てないので僕は由佳さんに聞いた。

「どんな意味なのですか」

「『ゆうちゃっとおせや』で『言っておいてあげてください』みたいな意味になるの。『おせらしゅうに』は『大人のように』みたいな感じかしら」

由香さんは古い方言を丁寧に解説してくれるが、それが何を伝えようとしたかは、彼女にもわからないようだ。

「山葉さんも高知県の出身ですよね。どんな意味かわからないのですか」

僕が訪ねると彼女が首を振った。

「私の出身は高知県の東寄り、徳島県に接した山の中だ。谷脇さんは高知県の遙か西の海岸部の出身で言葉も私たちの言葉と違う」

話だけ聞いているとアメリカ大陸の大西洋岸と太平洋岸の違いを語っているような距離感だが、日本地図では小さく見える四国内の話のはずだ。
僕は思わず問い返していた。

「同じ高知県内でそんなに違いがあるものなのですか」

「高知県の海岸線の長さは七百キロメートルを超える。山が多くて交通も不便だから昔は人の往来も大変だったのだ」

山葉さんは躊躇なく断言した。

「おせらしくしなさいと言う言い回しは小さな子供に、いい子にしていなさいという意味で使っていたような気がするわ」

僕達の余談をスキップして、由佳さんが本題に引き戻す。

「姉弟の間だけに通じる意味合いがあったのかもしれませんね」

山葉さんが無難に話を引き取ったが、それ以上は僕たちが推測しても無駄のようだった。
十分が過ぎて、僕たちは再び病室に戻った。
病室では、先ほどよりは穏やかな表情になった義男さんが僕たちに語り始めた。

「わしは、お前さん方が和美の言葉を伝えるというからてっきりわしのことをなじる言葉だと思っていた」

「あなたが思っていた内容とは違ったのですね」

山葉さんが問いかける。

「そうだ。むしろわしのことを気遣ってくれている。わしは子供のころ泣き虫の甘ったれた子供だった。姉はそんな私に事あるごとに「おせらしくしなさい」と言って、叱責するのと同時に励ましてくれた。そこの人が伝えてくれた言葉は姉の口癖そのものだ。姉は人生の終焉に及んで死の恐怖に飲み込まれようとしている私に怖がらなくてもよいと教えてくれたのだ」

義男さんは目を閉じて続けた。

「わしは昔、姉に不義理なことをした。土木業の会社を経営していたわしは事業に失敗し、巨額の借金を連帯保証人の姉夫婦になすりつけて逃げたのだ」

「東京に越してきた時にそんなことがあったのね。私はちっとも知らなかった」

由佳さんが口を押さえて言った。

「お前はまだ小さかったから、知らなくても無理はない。私は東京に出て、新しい事業を立ち上げて再起を図った。姉夫婦にもいつか償いをするつもりだった」

義男さんは、ハンカチで目頭をぬぐった。

「しかし、そう簡単にいく世の中ではない。事業を軌道に乗せ、金を稼げるようになるには長い年月がかかった。姉夫婦に金を返そうと訪ねたときには、姉は体を壊して亡くなった後だった」

皆は静まり返って義男さんの話を聞いている。

「義兄は私が過去の罪を償おうとして支払った金を受け取り、私を許してくれた。しかし、私のせいで苦労をしたことが、姉の死期を速めたのではないかという思いは、常に私の頭から離れなかった」

皆がしんとして聞いている。

「やがて、私自身も病に倒れた。知っての通り、もう治療ができるような状態ではない。そんなときに姉がわしの夢枕に立ち始めたのだ」

僕は義男さんの顔を見て同じ立場ならだれかに助けを求めたくなるに違いないと思う。

「夢の中で姉は何かを告げようとするが、わしには聞き取れない。きっとそれはわしを恨む言葉に違いないと思っていた」

そこで彼は僕のほうを見た。

「ところが、あんたが伝えてくれた言葉は、子供のころ姉がわしを叱るときに使った言葉だった。彼女は駄々をこねるわしに『おせらしゅうしなさい』と言ったものだ。姉は叱るのと同時に励ましてくれていたのだな。終焉に向かう私に心の平安をもたらしてくれたことを感謝したい」

義男さんは話し終わると同時にせき込んで苦しげな息遣いを始めた。
父親の苦しそうな様子に気づいた由佳さんはベッドに駆け寄ってナースコールのボタンを押す。
駆け付けた看護師は酸素吸入用のバッグを義男さんの顔に押し当ててあわただしく呼吸を補助し始めた。
僕は山葉さんに耳打ちした。

「もう帰ったほうがいいのかもしれませんね」

「私もそう思っていたところだ」

僕らが暇を告げようとしたとき、義男さんは看護師の制止を押し切り、バックを外すと僕に告げた。

「わしは気がかりを抱えたまま、朽ち果ててこの世から消えるところだった。姉の言葉を伝えてくれてありがとう」

彼は僕に手を差し伸べた。
僕はそっと、義男さんの手を握る。
痩せて骨ばかりのような冷たい手。だが、何となく温かいものが伝わるような気がした。
ホスピスを出るとき玄関で見送る由佳さんが何度もお辞儀をしてくれ事と、義男さんの手の触感が僕の心に残った。
ホスピスから帰る車内ではしばらくの間、皆が無言だったが雅俊が沈黙を破った。

「山葉さんはBMW のM3に乗っているけど走り屋なのですか」

雅俊は場の雰囲気を切り替えようと関係のない話題を持ち出したようだ。

「そうでもないよ。この車はオーナーの細川さんの車だ。彼女はレーシングライセンスを持っているくらいでドライビングテクニックは相当なものだが、この車に関してはディーラーにそそのかされて、不必要なくらい高性能なグレードを買わされたと言っていたな」

山葉さんは雅俊に答えながらサングラスをかけた。太陽とは逆方向に走っているが、前の車からの反射がまぶしいらしい。

「僕はこの車、家庭用ゲーム機のドライブシミュレーションで使ったことがあるんです。途中から運転替わりましょうか」

山葉さんが雅俊の発言が本当か確かめるように助手席の僕を見るので、僕は音がするほど首を振った。
雅俊のゲームの腕前は知っているが、実車に同乗しているときに、腕前を披露されるのはごめんだ。

「遠慮しておこう、人の車だしな」

山葉さんは僕の表情を見て即座に答えた。
雅俊はむくれたが、山葉さんは機嫌よくステアリングを握っている。彼女の向こうには横須賀の海が見えていた。

第5話 神上がる刻

下北沢に着くと、山葉さんは眉間にしわを寄せて車から降りた僕の周囲を見回していたが、やがて笑顔を浮かべて言った。

「和美さんの霊はいなくなったようだな」

僕は義男さんに和美さんの言葉を伝えることに気を取られていたが、僕に取り憑いた和美さんの霊を除霊することが本来の目的だったのだ。

「本当ですか」

「きっと、気がかりだったことを弟の義男さんに伝えられたので安心したのだ」

彼女が嘘をつくとも思えないので、僕は今夜から安心して眠れると胸をなで降ろす思いだった。
僕が雅俊と一緒に、カフェ青葉を後にしようとしていると、細川オーナーと山葉さんが見送るようにして裏口まで来ると僕に言った。

「実はアルバイトしてくれる人を募集しているのだけど、夕方や休日にウエイターや食器洗浄の仕事をしてみませんか」

細川さんは温厚な笑顔を浮かべて僕を誘う。

「私が祈祷をするときの助手も兼ねて引き受けてもらえるとありがたい」

山葉さんも神妙な表情で僕に言った。
ぼくは魅力を感じないでもなかったが、少し考えさせてくれと答えてその場を辞した。

「なんで断っちゃうのかな。単純にアルバイトとして考えても条件はいいと思うぜ」

カフェ青葉から帰る電車の中で雅俊は僕をなじる。

「断った訳じゃない。ちょっと考えさせてくれと言っただけだよ」

「そう言ってから連絡取らないで放置するのが婉曲に断るときの常套手段だろ」

僕も大学に入学して以来、お小遣い稼ぎのためにアルバイトをしたいと思っていたのだが、僕には即座に「はい」と言えない理由があった。

「おれは幽霊とか心霊現象というものはすごく苦手なんだよ」

ぼそっとつぶやいた僕の顔を雅俊が見た。

「そういえば、ウッチーが今朝訪ねて来た時の顔色は、はっきり言ってひどかったもんな」

「そのウッチーってなんだよ」

「内村だからウッチーでいいだろ。今朝のおまえの顔色は、本当に土気色だったのだよ。なまじ霊感とかがある人は何かを感じるせいですごく恐がるというのは本当なのだな」

僕は和美さんが夢枕に立った後、夜が明けるのを待って雅俊に助けを求めるまでの長い時間を思い出した。

「栗田准教授のアルバイトの件もあるから、一度西村さんに報告してから良く考えてみるよ」
僕の言葉に、雅俊は仕方なさそうにうなずいた。

その夜、先週以来の陰陽師にまつわる顛末をパソコンのワープロソフトでA4用紙一枚にまとめた僕は、西村さん宛にメールで送った。
報告したのは山葉さんのいざなぎ流に関連した活動の状況とその儀式の内容についてで、依頼者の妹が僕の夢枕に立った話は抜いておいた。自分が絡む部分は報告したくなかったからだ。
しばらくして、西村さんから返信が来た。

「お疲れ様でした。詳しく書いてくれたので、このまま准教授に提出します。数日中に報酬を支払うためにこちらから連絡します」

簡潔な文面。自分が報告した内容で良かったのか不安になっていた僕はようやく一息ついた。

数日後、僕は四コマ目の授業を受けている時に授業用に大学から配布されているタブレットにメールが届いていることに気がついた。
講義が終わって、僕がメールを開こうとしていると雅俊が寄ってきた。

「ウッチー何もったいぶってメールを開いているんだよ?どうせID登録したサイトからのジャンクメールだろ」

メールを読み終わった僕は雅俊に言った。

「栗田准教授からだ」

ちゃんとしたメールを読んでいたと知れば雅俊は恐縮するかと思ったが彼は更に僕を挑発する。

「つまんないレポート書いたから研究課から除名するとか」

「違うよ。四コマ目が終わったら准教授室まで来いと書いてある」

准教授室は一年生には敷居が高い空間だ。僕は雅俊の僕への絡み方から判断して彼が暇なのだと判断した。

「雅俊。おまえも一緒に来てくれないかな」

「いいよ。どんな講評が聞けるか楽しみだ」

准教授の研究室は教養部のキャンパスから少し離れた所にある。
キャンパスから一度外の道路に出て歩いていく途中で、雅俊が口を開いた。

「陰陽師カフェのアルバイトの件はどうするんだよ」

「未だに悩んでいるよ。彼女が祈祷とか浄霊みたいな活動をしていなければ即座にアルバイトを始めたいと思うのだけど」

そんな話をしているときに、僕のスマホが鳴った
表示されているのはカフェ青葉の固定電話の番号だ。
通話ボタンを押した僕は、通話の相手がオーナーの細川さんだとわかり、微妙に気落ちしている自分に気がついた。

「内村君かい。ちょっと頼みがあって電話したんだけど」

「どうしたんですか」

「あなたも関わってくれた谷脇さんが亡くなったの。山ちゃんが葬儀の祭祀を頼まれたのだけど、人手が足りないから手伝いに来てくれないかしら。アルバイトの件とは別で今回限りでもいいからお願いするわ」

「谷脇さんは日曜日にはちゃんと話もできていたのに」

「癌の末期はそんなものなのよ。急変したらいつ亡くなるかわからない状態だったのね。葬儀は土曜日の午後なので朝十時くらいにうちに来てほしいのだけど」

僕は日曜日のことを思い出した。
谷脇さんが差し出してくれた手のやせ細った感触とそこから使わった温かい何か。

「わかりました。十時に行ったらいいのですね」

横から、雅俊が僕の脇腹を突っつきながら自分を指さしている。

「日曜に一緒にいた東山も連れて行っていいですか」

「いいわよ、二人来てくれた方が助かるわ」

通話を切った僕に雅俊がつぶやいた。

「あのじいさん死んじまったんだな」

「ああ、山葉さんが葬儀の祭祀をするって」

僕たちは寡黙になって先を急いだ。
准教授室では、栗田准教授と西村さんが迎えてくれた。
准教授とは新入生歓迎会の時に顔を合わせているはずだが、改めて対面した印象は、学究肌というよりは、エネルギッシュな実業家のようだった。

「今回はご苦労だったね。本物のいざなぎ流の陰陽師が都内にいるとは思わなかったよ」

「これが報酬。私もちょうど忙しくてばたばたしていたから助かったわ」

西村さんが報酬の入った封筒を僕に手渡すのを見ながら准教授が言う。

「先方とのコミュニケーションもとれているみたいだし、もう少し調査を継続してくれないか?」

「バイト代は必要経費+成功報酬を出してくれるそうよ」

西村さんが補足する。彼女は准教授のアシスタント的な役割もしているようだ。
僕は雅俊と顔を見合わせた。雅俊はやれと言うようにあごをしゃくる。

「是非やらせてください」

「よし、それでは問題の陰陽師がいざなぎ流の祭文を詠唱するときはこれで記録してくれ」
栗田准教授僕に渡したのは、コンパクトだがフルハイビジョンで録画できるムービーカメラだった。

「レポートを書くときには、祭祀が行われる状況と、できれば祭文の種類を聞いておいてほしい」

「わかりました。可能な限りメモをしておきます」

僕が答えると、栗田准教授は満足そうな雰囲気うなずいていた。
准教授室を出てから、僕はカメラキットの入ったポーチを見ながらつぶやいた。

「外堀からどんどん埋められていく感じだな」

「おまえはあそこで陰陽師の助手を務める運命なんだよ。あ、こら俺を撮るなよ」

「撮影の練習だよ」

僕はいやがる雅俊をムービーカメラで撮影しながらカフェ青葉のアルバイトの事を考えていた。
この状況ではカフェ青葉のアルバイトを引き受けないわけにいかないが、僕の心の中には根強い抵抗感が残っていた。

次の土曜日に僕と雅俊は、山葉さんのお手伝いをすべく青葉に集合した。
細川さんに案内されて、濃紺の袴と白の半着に着替えた僕達がガレージに入ると巫女姿の山葉さんが和紙でできた様々なアイテムを準備していた。
顔を上げた彼女は僕と雅俊に言う。

「無理を言ってすまなかったな」

「いいえ、喜んで手伝いますよ」

雅俊が答える脇で、僕は積み上げてある木の枝を手に取った。

「この木の枝は何に使うのですか」

「それは榊と言って神事に使うのだ。仏教で使う樒に相当すると思ってくれればよい。こちらの和紙で作った式神や式王子と分けてプラケースに入れてくれ」

「祈祷をするたびに山から採ってくるのですか」

「神社関係で需要があるから樒と同様にちゃんと流通しているよ」

彼女は苦笑しながら作り終えた式神をプラケースに入れ始めた。

「谷脇さんの葬儀は杉並区の斎場で執り行われることになった。火葬場に併設された式場で葬儀もできる施設だ」

「それ、俺の下宿の近所じゃないかな」

雅俊も僕と一緒に榊をプラケースに詰め込む。

「式場の準備は別の業者がやってくれるからうちは祭祀をするだけでいい。君たちには基本的に祭祀に必要な祭具の運搬と設営をしてほしいのだ」

山葉さんは簡潔に指示して荷物の積み込みを再開する。

「山葉さんは葬儀に呼ばれることも多いのですか」

「それはあまりないな、病気の時にうちにお祓いを頼んでも、葬儀は仏式でというのがほとんどだ」

日本人は宗教に関してアバウトと言われる所以だ。
斎場では葬儀は粛々と行われた。谷脇家は家族だけが参列するコンパクトな葬儀にしたかったようだ。
義男さんの遺体が安置された祭壇の前で山葉さんはいざなぎ流のみこ神の祭文を詠唱し、葬儀は粛粛と進められた。
遺体が荼毘に付されてから拾骨までは少し時間があったので、僕は斎場の庭園に出てみた。
少し歩くと、由佳さんと山葉さんも同じように外に出ているのに出会った。

「今の火葬場では、煙とか見えないものなのですね」

「フィルターとかが進歩したのですね」

由佳さんと山葉さんは空を見上げて話している。

「父のことではお礼を言いたかったの。あなた達のおかげで父は安らかに最後を迎えられた気がするから」

「お父さんの大事な葬儀を任せていただいて恐縮です」

謙遜気味に頭を下げる山葉さんを見て、由佳さんはフフッと笑って首を振った。

「言ったと思うけど父は神仏を一切信じない人だったの。自分が死んだら葬儀のあとは遺灰を故郷の海に撒けと言っていたくらいですから」

「無茶なことを言われると家族の方々も困りますね。葬儀というものは残された家族のためにあるようなものなのに」

山葉さんは苦笑気味に由香さんに答える。

「ええ。結局、本人も自分の死期を悟ると、自分は死ねば跡形もなく消えてしまうと考えて恐ろしくなっていたみたいなの。あなた達のおかげで最後の数日が心穏やかに過ごせたと思うわ」

「そういっていただけるとありがたいです」

山葉さんは低調に頭を下げ、由佳さんは僕に気がついて言った。

「あなたが叔母の言葉を伝えてくれたおかげで、父は死後も何かが残ると信じたみたいね。これまでの父なら叔母が夢枕に立っても自分の潜在意識が作った幻想だと切り捨てていたと思うわ」

そろそろ戻らなければと言い残して由佳さんは斎場の中に戻っていった。
山葉さんは深々と礼をして由佳さんを見送る。
後に残された僕達は何となく空を眺めていた。

「人の命って儚いものなんですね」

あまり人の死に際などに立ち会ったことがなかった僕はつぶやいた。

「人は流れていく音楽のようなものだといった人がいる。それぞれが奏でる旋律は流れ、やがて消えていくというのだ」

彼女の言葉は、僕の耳には人という音楽の旋律が紡ぎあげられた後には空しく消えていくものとして響いた。
なんだか寂しく思った僕は振り返って彼女の顔を見る。

「それぞれの旋律がめぐり逢い、美しい和音を奏でる瞬間に居合わせたらそれは幸せだと思わないか」

山葉さんは柔らかな笑顔を浮かべて僕を見返す。
彼女が伝えようとしたのは僕が感じたものとは違ったようだ。
僕は山葉さんの言葉を聞いて、谷脇さんのやせた手に触れたときの温かい感覚を思い出した。
死期が迫り冷え切っているはずの病人の手から感じたものは体温とは異なるものだったと僕は思う。
僕は山葉さんの考え方を好ましく感じ、もう少し彼女と一緒にカフェの仕事やいざなぎ流の祈祷の仕事をしてみようという気になった。

「アルバイトの件ですけど、僕を雇ってくれますか」

僕が懸案だったアルバイトを引き受ける意思を伝えると彼女はうれしそうな表情を浮かべる。

「本当か。霊感があっても口寄せで言葉を伝えられる者はそういないし、それでなくても一緒に祈祷を手伝ってくれるだけでも私はずいぶん心強いのだ」

その霊感が関わる部分に抵抗があるのですけどと言いかけた僕は口をつぐんでその場に佇んだ。
彼女が本当にうれしそうな顔をして微笑んでいたからだ。
花が終わり、新緑が瑞々しい桜の木を背景に巫女姿の彼女が微笑んでこちらを見ている。その情景は僕の心に鮮やかに刻まれた。
僕は、幽霊に遭遇する羽目になっても我慢しようという気になって、彼女にうなずいた。