『オタクが野菜に目覚めた場合』
楠木 斉雄著
現代文学
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勤務先が倒産し彼女にもふられ、希望のない生活を送っていた功は偶然、農業に興味を持ち、新天地を求めて四国へと旅立った。農業で身を立てることは簡単ではなかったが、功は新たな生活を切り開いていく目 次
第1話 プロローグ
「おい、功聞いているのかよ」
一樹の声に功は我に返った。
「ゆりかもめ」の窓の外にはテレビ局のビルが見えており、見慣れた造形がゆっくりと動いている。
功はこれといって当てもない職探しの先行きのことをぼんやり考えていたのだ。
「そんなことだからおばさんがわざわざおれに電話をかけてきたりするんだよ。功が最近ぼーっとしていることが多いから、どこかに連れ出してくれってな」
一樹は高校時代からの友人で大学を出てからも時々連絡を取り合っている
「ごめん。それで、何だっけ」
「やっぱり聞いてなかったな。今日は気分転換に引っ張り出したのだから、会社が倒産だの、再就職先だのと辛気くさいことを考えるなって話だよ」
「おまえ、人の深刻な事情をさらっというなよ。しかも声がでかい」
功にしてみればいまさら気にするような話でもないが、一樹のお節介な言動は、いやおうもなく半年ほど前のことを思い出させる。
功は大学を卒業して、都内の印刷会社に就職して一年ほど勤務したところだった。
営業部に配属されたものの、あまり外向的とは言えない性格が災いして成績はふるわない。
それでも、得意先の情報をくれた先輩のおかげもあって、やっと、契約が取れ始めた頃だった。
いつものように出社すると、会社の入り口にシャッターが降りていた。近づいてみるとシャッターには張り紙がしてある。
「債権者の皆様へ」と始まったその紙は、功の会社が不渡りを出して倒産したことを告知するものだった。
「冗談ではない」
思わず声に出した功は、通用口に回ってドアを開けようとした。
もちろんドアが開くはずはないのだが気が動転している功は、ドアノブをがちゃがちゃと回す。
「おい宮口、こっちに来い」
入社以来、営業のノウハウや、取引先の癖を教えてくれてきた石倉が功を見つけて、裏通りから手招きした。
「石倉さん。いったいどうなっているのですか?このこと知っていたんですか?」
「いや、俺も今朝出勤してきて初めて知った。昨日は専務も常務もこんな話おくびにも出していなかったというのにな」
詳しい話を聞こうと思っていたときに功のスマホの呼び出し音が鳴った。
相手を確認するとカタログの印刷を発注してくれた功の顧客の番号だ。
功が通話ボタンを押そうとすると、石倉が止めた。
「馬鹿、出るな。この状況で何を話すんだよ。顧客の番号は着信拒否にしといた方がましだ」
そうはいっても、社会人として事情を説明したほうがいいのではと、功は未練がましくスマホを見ているが、石倉は自分のスマホで誰かを呼び出そうとしている
「ダメだ、部長にもつながらない。先週末までは経営が苦しいようなそぶりも見せていなかったのに。トップの連中が示し合わせていたのだな」
「何か連絡とか来ないのでしょうか」
石倉は虚無的な視線を宙に投げた。
「計画倒産だとしたら、経営陣は50人ばかりの社員なんか見限って雲隠れだろうな。もともと新入社員の募集をかけるときに残業代込みで初任給を表示するような会社だ、推して知るべしだろ」
功は事態がわかってきて固まっているが、石倉は功を置いて歩き去ろうとしている。
「石倉さんどこに行くのですか?ちょっと待ってください」
「その辺をうろうろしていて債権者に捕まったら面倒だよ。とりあえず帰った方がいい、何か情報があったら連絡してやるよ」
石倉は先輩らしく希望を持たせる言葉を残して言い残し立ち去った。
しかし、数日たっても石倉から連絡が来ることはなかった。
無論、その月の給料はもらえずじまいで、後日、部長が連絡してきて未払いの給料の支払いを求めて訴訟を起こそうと話したのだった。
そのうえ、新たな会社を立ち上げるから一緒にやらないかと声をかけられたときには期待すらしたのだが、出資金を要求されるにいたって、功も完全にあきらめの境地に至った。
「いいかげんにしろよ」
功が回想にふけっていると、どすの利いた声と共に一樹の拳が、功のみぞおちに決まった。
もちろん本気ではないが、油断していた功はむせかえる。
「幸運の神様は後頭部がはげているから後を追っても捕まえられないって言うだろ。もっと前向きにならないと人生の黄昏を迎えたじじいみたいだぜ」
よく分からない格言をたれて説教をする一樹は、ちゃんと話の相手をしないと2発目もくれそうな様子だ。
功は涙目になりながら分かったからやめろと手を振ってみせる。
「うん。どうやら俺の知っている功君が戻ってきたみたいだな」
人のみぞおちに正拳突きを入れておいてひどい言いぐさだった。
「私もよくよく運のない男だな」
そううそぶいてやると、今度は一樹が功の頭髪をつかんで頭を揺らし、功は最近抜け毛が気になっていたから、あまり頭を触らないで欲しいものだと秘かに思う。
「功、再就職にこだわってないで、奈緒子ちゃんと仲直りしたらどうなんだ。彼女が腹を立てたのは別におまえが失職したからじゃないと思うのだけど」
真顔に戻って、お説教を続けようとする一樹を功は手で制した。
「奈緒子は勤務先のドクターと婚約したらしいよ」
一樹はあわてて何か言おうとしたが、功は続けた。
「俺の黒歴史をつまびやかに紐解くのはもうやめてくれ」
功は窓の外を眺めた。遠くにゴールデンブリッジや東京湾が見える。
その界隈で体験した奈緒子にまつわるささやかな思い出が脳裏に蘇り、功をさらに陰鬱な気分にした。
会社倒産のどさくさにケンカ別れしてしまった奈緒子のことを思い出したからだ。
功は大学で同じゼミだった奈緒子とつきあっていた。
会社が倒産した週末に奈緒子とお出かけする予定がはいっていたので、気乗りがしないまま彼女と待ち合わせしたキャッシュオンデリバリー形式のカフェまで出かけた。
時間より少し遅れて来た奈緒子は、のどかな表情。
そんな彼女に積極的に話したいネタではなかったが、勤務先倒産の話をしないわけにも行かず、功が会社倒産の一部始終を話すと奈緒子もさすがに驚いた様子だった。
「元々大した会社じゃないんだから、そんなに落ち込まなくてもいいでしょ。一樹君だって派遣会社勤務なんだし、何かてきとーな仕事探したら」
彼女なりにフォローしてくれたのだが、ネガティブモードに入っていた功は素直にその言葉を受けられなかった。
「奈緒子はいいよな、医療事務の資格があって、親のコネで病院勤めができるから」
奈緒子の父親は弁護士事務所をやっていて結構繁盛しているらしい。
父親が仕事で関わりがあった総合病院に紹介してもらった話を聞いていたのでつい口に出てしまったのだ。
「何言ってるのよ全然関係ない話でしょ。それよりも、今度うちの両親にあってもらう日だけど、来週の日曜日でどうかしら」
奈緒子はスマホの予定表を見ながら勝手に話を進めようとしている。
新機種が出たときに一緒に買ったので功の持っているスマホと同型だ。
「その話なのだけど、勤務先がつぶれちゃったからなんだか体裁が悪いので、もう少し先にしようよ」
功がそう切り出すと、奈緒子は険しい表情で画面から顔を上げた。
「どういうことよ」
「いや、ほら初対面で挨拶するときに会社がつぶれて失業中ですっていうのもなんだかさえないだろ。すぐに新しい仕事を探すからそれからにしてよ」
奈緒子はムッとした表情で功に応じる。
「今までも、会社に入ったばかりだからとか、自分で営業の契約をとってからにしてくれとかさんざん引き延ばしてきたくせに。私の両親に会ってこれからも私とつきあっていくつもりがないのでしょ」
「そんなことはないよ、すぐに仕事を探すからそれまでの間まってくれ」
「もうたくさん、そんなにいやなら、私と別れたらいいでしょ」
優柔不断も過ぎると人を怒らせてしまう。功があたふたしている間に、奈緒子はバッグをつかむと出ていってしまった。
功のまぬけなところは、すぐに追いかけて謝らなかったことだ。
意固地になって就職活動をしているうちにあっという間に一ヶ月が過ぎたが、そう簡単に仕事が見つかるわけもなかった。
さすがに、何かフォローをしなければとおもって奈緒子に近況を伝えるメールを送ってみたが、戻ってきたのは「どちら様ですか」という冷たい文面だった。
その続きの文面は簡潔だった。もう連絡は取ってくるな。会うつもりもないと事務的に伝える内容だ。
勤務先のドクターとつきあっている話を大学時代の友達に聞いたのはその少し後のこと。
それ以後の功は、惰性のようにハローワークで仕事を探して午前中を過ごし、午後からは日銭を稼ぐためにコンビニのバイトをする日々を送っていた。
何か違うのではないかなと思わないのでもなかったが、他にすることも思いつかない。
そして、功の脳裏にはいつも、あの日の会社の入り口に降りたシャッターの映像が思い浮かぶようになった。
それは、功のこれからの人生もシャットアウトするかのように立ちふさがっているのだ。
功はさいたま市にある実家から会社に通勤していた。
両親は健在で父親は中堅家電メーカーを定年退職したばかりだ。
失業手当もあるし実家にパラサイトしてアルバイトでもしていれば当座生活に困る訳ではない。
しかし、先の見通しが立たない生活は功の気分を蝕んでいた。
そう遠くない将来に両親が先だった家の中で誰にも知られないまま孤独死する自分の姿が見えるような気がする。
今日という日の功の気分はそんなところだ。
功は、孤独死した自分を、最初に発見してくれるのはこいつだろうかと思って一樹を振り返った。
一樹は「やっちまったよ」と顔に書いてあるような表情で功を見つめていた。
気を遣ってくれる数少ない友を困らせるのもあまりよろしくないので、功はにっこりと笑って一樹に告げた。
「そろそろ着くよ。コミケ見たらダイバーシティに行ってガンダムも見ようか」
そして、功は一樹の頭にそっと手を置いた。
第2話 農業との邂逅
一樹と功は展示場前駅でゆりかもめを降りて、東京ビックサイトに向かった。
今日はコミックマーケットが開催されているのだ。
コミックマーケットは一般的にはコミケと呼んだ方が通りがよい。
エントランスを歩いていると、同人誌とおぼしき出版物をキャスターで引っ張っていく人々や、アニメのキャラクターのコスプレをした人が目につく。
「ほら功、あそこのけものフレンズの女の子かわいくない?」
「ファーストガンダムおたくのくせに節操のないやつだな、美紀ちゃんにちくるぞ」
功は軽口をたたいているうちに少し気分がほぐれてきた。
一樹も功も高校生の頃から取り立ててスポーツができるわけでもなく、学業成績もごく普通。
功は席が近かった一樹と、アニメの話がもりあがったのがきっかけでアニメ研に入った。
その後功と一樹は同じ大学に進学し、大学時代はアニメおたくとしてキャンパスライフを楽しんでいた。
就職してからはそれほど趣味にかまける時間があるわけでもなく、一樹と会うのもしばらくぶりだったのだ。
功が考え事をしている間に、一樹はコスプレイヤーを見とれて別の会場から出てきた中年の男に思いきりぶつかっていた。
なにやら詫びの言葉をつぶやいているらしい一樹に向かって、スーツ姿のその男性が何か声高に話している。
その男性は肩幅が広く胸板も厚い。
浅黒い顔にカールがかかった短髪は、そのスジの人を連想させた。
功としては他人のふりをして立ち去りたい気分だが、友を見捨てていくわけにも行かない。
成り行きを見守っていると、その男と目が合ってしまった。
「君もお友達かね、時間があったら少し話を聞いていかないかい」
どうやら、因縁を付けられていたわけでは無いようだ。
話を聞いて行けと言われて初めてその男の出てきたブースを見てみると、そこには「農業人フェスティバル2012 全国就農相談会」という大きな看板が出ていた。
一樹はぶつかってしまった手前、断ることもできずその男について会場に入っていく。
どうやら一緒に行かざるを得ない状況になってしまったようだ。
案内された会場はなんだか就職説明会の会場とよく似た作りだった。
違うのは、パーティションに仕切られたブースに入っているのが企業ではなく地方自治体らしいことだ。
一樹と功は「まほろば県」と書かれたブースに案内されたが、近隣のブースは西日本の県名が並ぶ。
どうやら全国の都道府県がそろっているらしい。
「二名様ご案内」
先ほどの男が居酒屋の客引きのように告げると、机の上にパンフレットを並べていた男が言った。
「岩切さん、また別の会場にきた人を引っ張り込んだんじゃないでしょうね」
「いいじゃないか植野君、少しでも多くの人に話を聞いてもらうのが我々の仕事なんだし」
図星だったはずだが、悪びれもしないで男は答える。
功はおそるおそる聞いてみた。
「あの、あなた方はどういう仕事をされているんですか」
「僕たちはまほろば県の職員で、まほろば県で新しく農業を始めようとする人のお手伝いをするのが仕事です。今日は、東京からまほろば県にきて農業をしようと志す人に、就農のノウハウや、受け入れできる施設を説明するために来ています」
功は一樹と顔を見合わせた。
彼ら二人は公務員のイメージからは程遠い気がしていた。
植野と呼ばれた職員も色黒で何となく目つきが怖い。
「まずはまほろば県の概要から説明しましょうか。まほろば県は太平岸に繋がる海に面していて気候は温暖。施設園芸といってビニールハウスで野菜を作るのが盛んです」
功は壁に貼ってあるポスターを見た。
ポスターの写真では、緑の山並みを背景に若い男女が並んで野菜を抱えており、岩切氏は話しを続けた。
「周囲には自然もたっぷり残っているし、海に行けば魚釣りもできるとってもいい所です」
功としては、こうやって説明されるまではまほろば県がどこにあったか記憶が定かでなかった。
「もし興味がおありなら、我々が運営している研修施設で短期研修もやっているので、野菜の栽培体験をしたり、農家を視察したりして、農的体験の機会を提供できます」
そこで、植野がパンフレットを広げて話を引き継いだ。
「研修期間中は県が運営する宿泊施設に安く泊まることもできますよ。本格的に農業を始めるための研修を受ける場合は四月入学の長期研修で一年間実際に野菜を作りながら技術を学べるようになっています」
「要するにまほろば県に移住して農業をしないかとおっしゃりたいのですね。」
一樹が話の腰を折る。
「うん。平たく言うとそういうことだね。直近では二月に三日間の短期研修もあるから興味があるなら是非ご参加下さい」
岩切氏はどこからともなくカラーのパネルを取り出してきた。屋外で飲食に興じる若い男女の写真で、その中には岩切氏の姿も見える。
「この写真はね前回の短期研修の打ち上げというか懇親会の写真。研修生と職員でバーベキューしているところ」
「いいなあ俺こういうイベントに参加してみたい」
食い意地の張った一樹は野外バーベキューの写真に食いついてしまった。
ひょっとして本当に参加するつもりなのかと思っていると、やおら功の方に振り向いた。
「俺は会社があるからちょっと無理だな、功おまえ見学に行ってみたらどうだよ」
功は何故俺に振るのだと抗議を込めた目線を送ったが一樹は知らん顔だ。
自称公務員の二人は一樹のフォローに少し勢いづいた気がするので、ここは何か別の質問をして話の矛先をそらさなければと功は考えを巡らせた。
「野菜作るのって儲かるものなのですか」
「いい質問だね。僕たちが勧めているのは施設園芸といってビニールハウスで野菜を作る経営形態です。設備投資に結構お金がかかるけど、経費を引いても売り上げの3割は利益が残るんだよ」
「売り上げがどれくらいかというと、三反のハウスでニラを栽培して、ざっと一千万円くらいかな。がんばって面積を増やせば経費引き後の利益だけで一千万円プレーヤーも夢じゃない」
功は「さんたん」と言われてもなんだか解らず、アメリカの小説なんかで百エーカーの農場を持ってとか言うように面積のことだろうかと思ったままに聞いてみると、岩切氏は機嫌よく答える。
「面積なのは正解。でも反はメートル法の単位なので三反イコール三千平方メートルのことだよ。学校の体育館ぐらいの面積だと思ってくれたらいいよ」
「結構お金がかかると言っていましたけれど、どれぐらいかかるのですか」
功がさらに質問すると、岩切氏は、まほろば県の標準仕様らしいビニールハウスの写真を見せて、これを建てるのに一千平方メートル当たりおおむね千五百万円かかると教えてくれた。
あまりの金額に功はどん引き状態になった。
とうてい個人が準備できる金額ではないと思い、岩切氏に思った通りに伝えると植野氏がすかさずリースハウスだとか、新規就農者を対象とした給付金制度の話を始めた。
しかし、金額に打ちのめされた功はそのまま聞き流す。
「でも、野菜の栽培って難しいのでしょう。僕らは全然経験もないし無理ですよ」
話の腰を折って帰るきっかけを作るつもりだったのだが、岩切氏は空気が読めないのか生真面目なのか丁寧に説明を続ける。
「そのために、さっき植野君が説明した「農業体験研修所」があるし、それに加えて、栽培する品目が決まったら、その品目を実際に栽培している農家の元で研修を受けることもできます」
「本当を言うと、農家が教えてくれる研修が一番大事なのだけど、研修生があまりにも経験がないと受け入れ側の農家の負担が大きいから、基本的なことを農業体験研修所で覚えてもらうのだよ」
植野氏が岩切氏の話を補足した。
「その農業体験研修所で教えてくれるのはどういう先生なのですか」
「もちろん経験豊富な職員が懇切丁寧に指導します」
そういいながら岩切氏は自分を指さしてにっこり笑っており、功は彼がどこまでが本気で話しているのか不安になった。
「もちろん、専門分野については担当の県職員が講義に来るし、農家の方が講師になって教えてくれる場合もあるよ」
植野氏も話に加わり、彼らの勧誘活動のツボの部分に入ったようだ
「まあ、いきなり長期研修というのは敷居が高いから、二泊三日の短期研修があるので興味があったらその当たりからがお勧めだよ」
「さっきも言ったと思うけど直近の予定が三月で、トラクターやうね立て機の取り扱いがメインです。参加する気になったら是非ここに連絡してください」
植野氏がパンフレットと相談受付カードを手渡してくる。
これに記入したら解放してくれるのだろうかと思い、一樹と顔を見合わせた功は、そそくさとカードに記入して挨拶もそこそこにブースを後にした。
一樹は「農業人フェスティバル2012」の会場を後に、てコミケの会場に向かいながら言った。
「俺、最初はそのすじの人の事務所につれていかれるかと思ったよ」
一樹は、ほっと一息ついてつぶやき、功も緊張が解けた表情でつぶやく。
「そのすじの事務所なんかこの辺にないだろ。まあ何事も無くて良かったじゃないか」
功は一樹と話しながら、もらってきたパンフレットを眺めていた。
「功、おまえ気分転換かねて、さっきの何とか研修所に行ってみたらどうだよ。」
一樹はアニメおたくといっても結構外向的な性格だ。
屋外バーベキューの写真に釣られて四国まで出かけて行きかねないが、功はそうも行かない。
「そういわれても、初対面の人ばかりの中で研修ってちょっときついな」
「どうせ再就職先が無くて煮詰まっていたんだろ、目先を変えるにはどこかに出かけてみるのがいいんだよ。農業始めるための体験研修受けに行くと言えばなんだかお題目が立つじゃん」
一樹は功のためにと勧めているが、どうやら本音の部分では自分が行きたそうな口ぶりだ。
「まあ、実態がどんなものか分かったものじゃないから、俺が強いて勧める話でもないな」
「気が向いたらだけど、参加について検討してみようかな」
気分転換に引っ張り出した一樹の意図どおりに、功の気分は少しだけ前向きになっていたようだ。
「ほんとか、もし参加したら、バーベキューについて是非俺にレポートしてくれよ」
一樹は、押しが強い割に空気を読む。
それ以上無理強いしないで、本来の目的地であるコミケの会場へと歩き始めた。
コミケの会場は実は就農相談会の隣だった。
思わぬ寄り道があったが、功はコミケで掘り出し物を探したりして結構気分を変えることができた。
ガレージセールで購入したザクのイラストが描かれたTシャツを抱えた功は、一樹と途中で別れて帰路についた。
一人になって、思い出したのはやはり行きがけに遭遇した新規就農相談会のことだった。
通りすがりの人間を捕まえて相談の押し売りをしていた公務員の岩切氏を思い出すと顔は怖いが微笑ましく感じられる。
そして野菜を育てることで所得一千万円といっていた岩切氏の言葉が、なんだか頭にこびりついていた。功は初期投資数千万円を忘れたわけではないが、のどかな田園風景の中で野菜を育てながら年収一千万円という生活も悪くないかなと思い、体験研修への参加を考え始めていた。
第3話 新天地を求めて
結局、功は冬のさなかに、新宿駅のバスセンターから四国にあるまほろば県を目指す夜行の長距離バスに乗った。
高速バスの座席はリクライニング機能もあるが、功は慣れないせいで寝付くことができない。
「寝ている間に移動できるから結構楽だよ」という岩切氏の話を真に受けたのが間違いだったと功は少し後悔する。
功が農業人フェスティバルで会った数日後に、パンフレットを見ながらおそるおそる電話をすると、岩切氏はきちんと対応したのだ。
あまつさえ「是非いらっしゃい」と日程に合わせた交通機関まで教えてくれたのだ。
岩切氏は相談会でのアバウトなのりとは違い、作業用の着替えや滞在に必要な経費など、功が気が回らないことまで指示してくれた。
しかし、移動手段のセレクトは、人によって好みが分かれるのだ。
夜行バスは東名高速道路を延々と走っていく。
時間調整なのか、サービスエリアでしばらく止まったりするのだが、降りた客の人数確認が面倒なのか乗客は降ろしてくれない。
ときおり、うつらうつらと寝入りかけるがすぐに目を覚ますことの繰り返しだ。
眠れないままに高速からの夜景を見ようかと思ったが、夜なので景色といえるほどのものは見えない。
バスは名古屋をすぎて名神高速道路に乗り入れ、さらに大阪から中国道と山陽道を経由する。
翌朝、周囲もすっかり明るくなった頃に功はやっとまほろば県の県庁所在地であるまほろば市に到着した。
寝不足の功はなんだか朦朧としながら駅のまわりを歩くが、旅はまだ終わりではなく、農業体験研修所があるわだつみ町までは一時間以上の汽車の旅が控えている。
まほろば県のJR線の車両は汽車、つまり電車じゃなくてディーゼルエンジンで動く列車で、鉄道おたくなら「キハ」がどうとか言って喜ぶのだろう。
功は汽車の切符を買うべく痛む背中を伸ばしながら、バスターミナルに隣接した駅舎に向かった。
功がまほろば駅で目的地のわだつみ町までの切符を買おうとしていると、横に立っていた女性と目が合った。
その女性は功を見てにっこり笑いながら手を挙げるので功は自分の後ろに彼女の知り合いでもいるのかときょろきょろしてみるが、周囲にはそれらしき人はいない。
「あなた、宮口君でしょ。」
名前を呼ばれて功はギョッとしたが彼女は微笑みかける。
「ええ、そうですけど、・・。」
功は平静を装って答えるが、知らない土地でいきなり名前を呼ばれて内心穏やかでない。
「私は今日、わだつみ町の農業体験研修所に行く予定なの。」
両手を腰に当ててにっこりしながら彼女は続ける。
「講師の岩切さんから、この列車にアニメ系おたくの宮口君という子が乗るはずだから、見つけたら身柄を確保してまほろば駅まで連れてきてくれ。とメールがあったの。」
功は何となく事情はわかってきたがそれでも腑に落ちない。
「何の目印もないのになんでぼくとわかったんです。」
「岩切さんもまほろば駅で見つけられたらぐらいのつもりだったみたい。私もこんなに簡単につかまえられるとはおもわなかったわ。」
そう言うと、なんだか笑いのツボに入ってしまったみたいでクスクスと笑っている。
「ごめんなさい、ザクのTシャツ着た男の子がなんだか情けない顔して歩いてくるから、きっとこれだわって声かけてみたの。」
自分の胸元を見ると、モスグリーンのザクTシャツがジャケットの間からのぞいている。
素人目にはガンダム関連の絵柄とはわかりにくいデザインのはずなのにと思うが、彼女は功の様子を見ながらうなずいている。
年齢は二十代の後半ぐらい、ショートカットのあっさりした顔立ちだが、好感度アンケートをしたら過半数が好感を持つと答えそうな雰囲気だ。
山ガール系のファッションに、小振りなリュックサックを担いでいるのがなんだか旅慣れた雰囲気に見える。
「見た目だけでなくて、人の流れに逆らってうろうろしていたから目に付いたのよ」
そういえば、通学時間には少し早いはずなのにホームから降りてきて街の方へ流れていく高校生が多い。
「私は谷崎茜。今日からの研修を一緒に受けるからよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
茜に挨拶を返しながら功は少し気分が弾むを感じ、出だし好調な気がしている。
「茜さんも、高速バスで来たんですか」
「ううん。あれはちょっとしんどいから昨日飛行機で来て、友達のおうちに泊めてもらったの」
茜は列車の発車時刻が迫っていたのか功と話しながら改札のゲートに向かっており、功もあわてて切符を買って後を追った。
ホームには既に列車が入っており、功たちが乗り込むと発車し、功が車内を見回すと周囲には空席が目立つ。
「この時間帯は西の方に行く人は少ないのよ。」
茜さんは「どっこいしょ」とかわいいかけ声とともに網棚に荷物を載せると、ボックス型のシートにおさまった。
功は通路を挟んだシートに座ると硬くなった背中を伸ばした。
「宮口君はなんで農業体験研修を受けることにしたの?」
列車が動き出すと茜さんが尋ねるが、功もさすがにバーベキューの写真に釣られてきたとは答えにくい。
岩切さんの話を聞いて農業に興味が出てきたからだと答えると、彼女は信じてくれたようだ。
「昨夜泊めてくれた友達と私は野菜ソムリエの資格を取っていて、いつか自分が作った有機野菜を通信販売したいと思っているの」
「ゆうきやさい?」
「化学合成農薬や肥料を使わないで、自然にあるものだけを使って栽培した野菜のことなの。」
「それっておいしいんですか」
「野菜本来の栄養とか風味を引き出せるからとてもおいしいと思うんだけど」
そこまで言った茜さんは、ちょっと困った顔で功を見た。そして彼女は一般向けのモードに切り替えた口調でかみ砕いて説明を始めた。
「一般的に農業をする人は農業協同組に加入して、そこで肥料や農薬を買ったり、作った野菜を出荷したりするの」
農協と言う言葉くらいは知っていたので功がうなずくと彼女は続けた。
「でも、有機野菜は販路が確立されていないから、自分で通信販売したり、顧客に直接売りに行ったりしないといけないの」
「野菜の栽培もして販売も自分でやるのは大変でしょう」
「大変なのは確かだけど、外国産の野菜から農薬の成分が検出されたりして、食品の安全・安心に消費者の関心が向いているの。それに答えられるように有機栽培のJAS認証を取って安全でおいしい野菜を作りたいの」
一生懸命に話す彼女を見ていると、功も彼女が作った野菜を値段にかまわず買いたい気分になるくらいなので、彼女が訪問販売をすれば品物はよく売れるに違いない。
しかし、功は話に出てきた認証という言葉がわからないので茜に尋ねた。
「JAS認証も知らないの?」
彼女は少々あきれたようだ。
業界用語というのか、農業分野の専門用語は功にとってはなんだか分からない単語が多い。
茜さんはため息をついた。
「そうか、宮口君は農業とはどんなものかまず見てみたいというレベルなのね。」
功は何も知らないのは事実だから仕方がないと思い素直にうなずいて見せた。
「それでも東京からのこのこやってきたのは岩切さんの人徳というものかしら。」
気を取り直した彼女は、自分が農業を始めたきっかけを話し始めた。
「私は、もともと料理が好きだったのだけど、ラタトゥイユをレシピにそって作ろうとすると、材料の中に必ずズッキーニが入っているわけ。お店で探せばあるにはあるのだけど結構高いの」
功はズッキーニを知らないのでイメージがわかないのだが話に水を差さないように黙って聞いている。
「それで、ある日ネット通販でズッキーニの種子を取り寄せてマンションのベランダで育ててみることにしたの。大きめのプランターにホームセンターで買ってきた野菜用の土とか堆肥とか入れて、当時の私としては相当頑張っていたと思うわ」
「うまく育ったのですか?」
流石の功も結末が気になって茜に質問する。
「それはもう。私はズッキーニってカボチャの仲間らしいって聞いていたから、ひょろひょろした茎にかわいいズッキーニが付いているのをイメージしていたのだけど実物は違っていたの」
功はそもそもカボチャの姿からしてよく知らない。
「育ってくるほどに、ごつい姿になったの。太い茎に新聞紙の半分ぐらいの葉がわさわさとついてちょっとした木のようなたたずまいだったわ。」
得体の知れない植物をイメージして首をひねっている功を尻目に彼女のズッキーニ話は盛り上がる。
「もちろん、ズッキーニの収穫はできたのだけど、仕事が忙しい時があって、夜遅くに帰ってきてお水をやるだけでしばらく放っておいたことがあったの。気がついたらすごいことになっていたの」
「いったいどうなっていたのですか?」
磯は固唾を飲んで茜に尋ねる。
「ズッキーニってお店で売っているのは、若い果実を収穫したものだったのね、私がしばらく放置したせいで、直径十センチ長さ六十センチの巨大ズッキーニができあがっていたの」
野球のバットをさらに太くしたくらいの実がプランターの植物にできている所は功の想像力の及ばないところだった。
「失敗なのだけど、面白かったから野菜の栽培を自分でやってみたいと思うようになったの」
彼女は趣味から始まって農業を志しており、自分が好きなことを仕事として選ぼうとしているのが何だかうらやましく思えた。
結局、好奇心に負けた功はスマホでズッキーニを検索してみたが、画面に出てきた写真は短めのキュウリみたいに見えた。
「さては、ズッキーニを知らなかったな」
めざとく画面をのぞき込んだ茜が指摘し、今更言い訳するわけにもいかないので、功は笑ってごまかすことにした。
話をしている間も列車は川を越えトンネルを抜けて走り続けており、停車駅の周辺以外は山がちな風景が多い。
「そろそろわだつみ町に着くわよ。」
茜さんは立ち上がって荷物を担いでおり、功もあわてて降りる準備を始めた。
車窓から見えるホームの向こうには、岩切氏がちょこんと右手をあげて待ちかまえていた。
第4話 農業という不思議な仕事
功が農業体験研修所に到着すると研修と名がつくものにはつきもののオープニングセレモニーが始まった。
所長の挨拶に始まり、これもおきまりの参加者の自己紹介がはじまり、今回の参加者が五人しかいないと判明する。
功と茜、定年退職して農業を始めるために来たという吉田、大手居酒屋チェーンが経営する農園で働いているが、そろそろ自立したいと画策している小松と自分の会社が農業分野に参入するので社命を受けて参加したという森本だった。
もう一人参加者に見えた若い女性は農業機械実習を手伝いに来てくれた臼木農林業公社の研修生の川崎だと紹介された。
自己紹介が終わると功たちは農業用機械の取り扱いについて座学の講習を受けた。
功も運転免許を持っているが、農業用のトラクターは勝手が違い、畑の畝を作るのに使う管理機に至っては、ハンドルにレバーがたくさん付属していて操作を間違えそうだ。
功たちは講習が終わると早くもトラクターの操作実習を受けることになった。
功達研修生五人は更衣室で作業のできる服装に着替えてから実習棟に集合するように指示された。
身軽に動ける服装のストックがあまりない功は秘蔵していた高校の体育のジャージを着用した。
校章をきれいに取ってしまえば体育ジャージとは解るまいと思った功のもくろみは甘かった。
研修棟で集合する早々に、茜さんはにやにやと笑いながら功に近づき、
「功君それってもしかして、高校の時の体育のジャージじゃないの」
彼女は露骨に聞いてくるし、川崎も微妙に笑いをこらえているようだ。
「どうせ汚れるんだから何着いてもかまんろう、なあ功君」
その場をフォローしてくれたのは年かさの吉田だった。
「そうそう、研修受けるのに着るものなんてどうでもいいべさ」
森本もフォローしてくれたが、二人ともちゃんとした作業服を着用しているのは言うまでもない。
そこに教官の岩切が現れ、農業機械の操作実習がスタートした。
「それではみなさん、安全第一で研修を始めましょう。まずはそこの体育ジャージのきみからトラクターを動かしてもらおうか」
話を聞いていた訳ではないはずなのに、岩切氏は体育ジャージという文言まで使って真っ先に功を指名する。
功は気を取り直して倉庫の中に鎮座しているトラクターによじ登り、エンジンをかけた。
軽くアクセルを踏んでトラクターを動かすとステアリングを切って倉庫から外に出し畑へと向かう。
午前中の座学をちゃんと聞いていたのでそこそこ動かせる。
しかし、功が道路からの段差をなるべく垂直になるようにしてかわし、方向を変えようとしたときに、サッカーの試合でで審判が使うようなホイッスルが鳴り響いた。
「はいそこの体育ジャージ君、ブレーキの連結を解除して」
川崎の声が響き、功は午前中の講義の注意事項の一つを思い出した。
トラクターは左右のブレーキを別々かけて方向を変えるようになっている。
道路を走行するときはブレーキペダルを連結して片方のペダルを踏めば左右均等にブレーキがかかるようにしており、畑に入ったら連結を解除するのだが、教わったばかりだったのに功は失念していた。
「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか」
「ぶつぶつ言わない」
功が小さな声でつぶやきながら連結を解除していると、すかさず彼女の突っ込みが響く。
運動系のクラブや体育会に縁がなかった功は、大きな声で指摘されるのはどうも苦手だ。
功は気を取り直して畑に進入すると、ローターをおろして「耕運」を始めた。
トラクターを低速で進ませながら、エンジンとドライブシャフトでつながっているローターの回転する爪で土を耕していくのだ。
初めて使う機械を難なく使いこなして、なんだか某アニメのキャラクターのようだと一人で悦に入っていると、トラクターが畑に残っていたでこぼこのせいで方向がずれ始めた。
「ここはペダルで方向を修正しなければ」とペダルを踏み込むと、方向はさらにずれた。
「なにやってんの、逆でしょ逆」
お手伝い要員の川崎の声が再び響く。
功はあわてて方法を修正し、畑の端まで到達するとローターをあげて方向転換する。
そして最初にローターの幅だけ帯状に耕してきた隣の部分を新たに耕運していく。
これを繰り返して畑全体を耕すのだが、練習なので数回往復したら次ぎの人に交代することになる。
功はトラクターをいったん畑から一段高い道路に戻すとおもむろにブレーキペダルを連結してからエンジンを止めてトラクターを降りた。
次ぎに乗った吉田の運転振りを見学していたが、吉田とてスムーズに操作している感じではない。
そして時折、川崎の厳しい指摘が飛んでおり、功は皆が練習するために来ているのだからそんなものだと納得した。
吉田が森本と交代するのをぼんやりと見ていると隣から声が響いた
「さっきの運転でちゃんとできているからね。上出来だよ」
いつの間にか功の隣に来ていた岩切が功の運転ぶりを褒めてくれたのだが、功は川崎の素性が気になっていた。
「川崎さんは何故あんなに怒鳴っているのですか」
功から見て川崎は同年代くらいに思え、見た目もかわいらしいのにイメージが違うことはなはだしいのだ。
「彼女は声が通るから、今日は特にお願いしたんだ」
岩切さんの答えは、往々にして説明になっていないことがあり、横にいた茜さんが補足した。
「あの子はこの農業体験研修所を去年修了した修了生なの。みんなは真紀ちゃんと呼んでいるいい子なのだけれど、技術的な面ではいろいろと思い入れがあるのだと思うわ」
見た目が研修生のように見えるのも道理だと功は納得する。
「それに加えて、ここにいるときに、自分が担当して一生懸命育てていたおナスを新顔の研修生に手伝わせたら、間違えてほとんどの主枝をちょん切られてしまったことがあるの」
「それってダメージ大きいんですか」
功は主枝といわれてもよくわからなかったが、とりあえず話を合わせた。
「ショックは大きかったみたいね。それ以来、彼女は新顔研修生に対して厳しいのよ」
功にとってはいい迷惑な話だった。
トラクターに乗っている森本も真紀に何か言われないかとビクビクしているのが功にも見てとれる。
しかし、功は翌日の栽培実習に入ったときに彼女がイライラしていた原因について身を持って体験することになるのだった
研修二日目の朝、功たちは指導教官が運転する軽四輪のワンボックスワゴン二台に分乗し、同じわだつみ町内にある臼木農林業公社に向かった。
本来なら農業体験研修所の研修用温室で栽培技術の研修を受ける予定だったが、臼木農林業公社の研修用ハウスで天敵昆虫がうまく定着しているのでそちらを借りて実習することになったらしい。
その温室を管理している農林業公社の研修生の一人が真紀だった。
わだつみ町は海に面していている土地柄だが、少し内陸にはいると緑の木々に覆われた山が連なっており、山の間を曲がりくねって流れる川沿いにわずかに農地がある程度だ。
臼木というのはその山あいの集落だ。
「臼木では、集落営農法人というのを作ろうとしていたんだけど、この辺の土地柄もあって、そう簡単に皆の合意が得られなかった」
岩切さんが説明してくれる。
「それで、農作業の受託を行う農林業公社を作って、同時に新規就農希望者の研修受け入れもできるようにしたんだよ」
功は農業に関する業界用語を知らないので話の中身があまり理解できない。
「農林業公社といっても、窓口でトラクターを貸してくれるってわけじゃない。地元の農家が事務局に稲作の作業を頼むとオペレーターさんが作業をやってくれる仕組みです」
その事務所に功と茜そして岩切氏が到着した時にはもう一台の軽四輪のワンボックスワゴンに乗っていた残りの三人の研修生と川崎は既に事務所で待っていた。
事務所にはいると川崎は上役とおぼしき職員となにやら剣呑な雰囲気で話している。
「真紀、西山の姿を最後に見たのはいつなんだ」
「昨日から見てない。ハウスの開閉も私がした」
「体験研修の指導は岩切さんにお願いするから西山の宿舎を見てきてくれないか、施錠されていたらこれを使ってくれ」
「西山さんに何かあったの?」
川崎は職員が手渡す合い鍵を受け取りながら、も訝し気に尋ねる。
「西山からの手紙が郵便で届いたんだ、婚約者が手術を受けることになったので、まほろば県で農業をするのはあきらめて大阪に帰ると書いてある」
「携帯は?作業中は携帯を車に置きっぱなしの局長と違って西山さんはわりとすぐに出てくれるのだけど」
「つながらない。電源を切っているみたいだ」
それでも彼女は何か言いたそうにして立っている。
「研修用には西山が使っていたハウスを使うから行ってくれ」
職員がそれとなく察して彼女に指示すると、彼女は事務所を出ていった。
真紀は異聞が不在の間に功達研修生に自分の温室を使わせたくなかったらしい。
「その西山君の話は本当なのか。山本局長」
岩切さんが心配そうに手紙をのぞき込み、農林業校舎の事務局長らしき職員は岩切に答える。
「一声かけてから帰るなり、電話するなりできたはずなのにわざわざ手紙を送ってくるところが気になるな」
気遣わしげな表情の山本だったが、手紙を机の上に放り出すと功たちの方に向き直り、一転して穏やかな表情で言った。
「私は臼杵農林業公社事務局長の山本と申します。内輪のごたごたで失礼しましたが、予定通り研修を始めましょう。川崎の代わりに僕も指導を手伝います」
山本事務局長は功達研修生を研修用温室に案内した。
「今日研修してもらうのはナスの収穫と整枝作業。それから時間があったら誘因作業もやってもらいます」
岩切は研修生に先の細い収穫用のはさみを手渡していく。
「まず収穫だけど、僕が手に持っているのがMサイズなのでこの大きさを基準にして収穫してください。出荷基準はそこの壁にポスターがあるからそれを見て、自信がなかったらそこの秤で重さを確認してください。」
「Sサイズより小さいのを取った人は研修最後の日のミーティングの時に何か芸をしてもらいます」
岩切の説明はわかりやすいのだが、失敗したら罰ゲームと言われると気の小さい功は微妙にストレスを感じ、茜に本当に罰ゲームをやらされるのか尋ねた。
「岩切さんが覚えていたらご指名があるかもしれないけど、せいぜい歌を歌えとか瞬間芸をやれというぐらいでそう大したしたことないわよ」
彼女はこともなげに答えるのだが、そういうのが苦手な功はさらにストレスが増える結果となった。
岩切の罰ゲームを意識して、功は時々秤で重さを確かめながら真剣そのものに収穫をする羽目になったが、それ故に収穫した果実は規格に沿ったものだ。
そしてナスと言う作物は収穫しながら枝の剪定もしなくてはならないのだった。
岩切の説明では、ナスは一つの株から三本の茎を伸ばして主枝にする。
それぞれの主枝からは枝に当たる側枝が出ているが、側枝には一個だけナスの果実が付いている
その果実を収穫すると枝そのものを根本の葉っぱを一枚残してちょん切ってしまうのだ。
葉っぱの根本からはちゃんと芽が出るようになっており、出てきた枝にまた花がついて実がなるというシステムらしい。
功が収穫作業に慣れてきて少しスピードアップした時背後から大きな声が響いた。
「ああっ、やっちまったよ」
背後から聞こえた声に、功が振り返ると山本局長がにやにやしながら、こちらを見ていた。
「今切ったのが何かよく見てみなよ」
そう言われて、手元のちょん切った枝をよく見てみると、それはどうやら大事な主枝の方だったようだ。
「ど、どうしたらいいんでしょう」
昨日からさんざん言われていたのに、功が真っ先に失敗をしてしまったのだ。
「切ってしまったものはどうしようもないけど真紀のやつ激怒するんじゃないかな」
「あら、今日の罰ゲーム第一号は宮口君みたいね」
茜まで近くに寄ってきたのでちょっとした人だかりになり、結局岩切も顛末を耳にすることとなったが、岩切は意外と優しかった。
「功君そんなに困らなくてもいいよ。成長は遅れるけど上の方の側枝を主枝の代わりに伸ばすことができるんだ。それに、ワイヤーの高さまで伸びたら摘心といって主枝を切ってそれ以上伸びないように止めるからそれほど気にしなくていいよ」
功は周囲のナスの状態を見たが、すでにワイヤーの辺りまで伸びて「摘心」した枝も多い。
功は岩切の言葉でどうにか気を取り直すことができた。
山本局長は功の肩をポンと叩くと壁際に戻っていき、功は皆が自分をからかっていたことに気が付いたのだった。
第5話 最初の壁
功達研修生はナスの収穫作業に続いて誘引作業の研修に入った。
ナスなどの果菜類は茎にひもを巻き付けて引っ張り上げてやらないと自分の重さでおれてしまう。
そのため、頭上に張ってあるワイヤーに茎に巻き付けたひもで引っ張り上げる作業を誘引と言うのだ。
野菜の茎は生育中はどんどん伸びていくので、一度ひもを緩めてから新しく伸びた茎に巻き付け、ひもをワイヤーに結び直す作業を数日おきに繰り返す必要がある。
功たちが研修したハウスでは時期的にすでに摘心した枝も多かったので、まだ伸び切っていない枝を使って誘因作業を体験することになった。
功が割り当てられたエリアで誘引作業をしていると、同じ研修生の吉田が話しかける。
「功君。そんなに枝ごとにきっちりと巻き付けていたら、日が暮れてしまうよ。間を飛ばして緩くまいてもちゃんと決まるものだよ」
吉田の言葉は要約するとひもの巻き方はもう少しルーズでいいからペースアップしろと言っている。
「そううまくできませんよ。それに腕を上げっぱなしだから疲れてしまって」
「そんなことを言っていたら自分が農業始めたときにどうするつもり?実際に経営するならこのハウスの十倍ぐらいの面積を一人で回していくんだよ」
功は周囲を見回したが研修用のハウスは2アールの面積だと説明で聞いており、吉田言うとおり、今の功のペースでは研修用ハウスの面積をこなすすだけでも一日では終わらない。
「早くしないと先生に叱られるよ」
吉田は功の背中をポンとたたいて自分の作業に戻った。
彼の言葉は方言が多くて聞き取りずらくその仕草も粗っぽいが、その眼差しには親しみがこめられているように功は感じた。
二月とはいえ温室の中は蒸し暑く、研修生たちは汗を拭きながら野菜の茎にひもを巻き付けてワイヤーに結び直す作業を黙々と続ける。
まるでどこかの新興宗教に加入して修行させられているみたいだと、功が不穏当なことを考え始めたころに、やっと割り当てられた作業が終わった。
ほっと息をつきながら振り返ってみると功が作業したのは二十メートルに満たない長さでしかない。
吉田さんの言う通りで、相当スピードアップしないと本物の農家にはなれそうにないが、それでも功は自分の作業の効果に驚いていた。
作業前は枝や葉が伸びすぎて通路や畝の真ん中にはみ出していた茎が功の誘引作業の成果で綺麗に整列しているのだ。
「物作りの感動とはこういうものなのか」
功が今までにした仕事は努力の結果が目に見えることはあまりなく、あるとすれば受注した印刷物の完成品だが、それも大半はクリエイタースタッフの手によるものだ。
功は自分の作業が形として残ったことに大げさなくらいに感動していたのだった。
その時、出かけていた川崎が戻り、山本局長に鍵を返しながら報告していた。
「西山さんの部屋、荷物が運び出されて空き部屋状態になっている」
「やっぱりそうか、引き留められないように、完全に引き払ってから手紙で連絡してきたのかもしれないな」
腕組みをして考え込む山本局長に、岩切が尋ねる。
「彼は研修支援の補助金をもらっていただろう。就農しなかったら全額返還になるかもしれない」
「役場の農業振興課に相談してみるよ、結局なるようにしかならないだろう、本人に就農する意志がないのに無理矢理農家に仕立てるわけにも行かない」
山本局長は肩をすくめた。
「それよりもこれから田植えのシーズンなのに、オペレーターが1人減る方が痛いな」
二人が深刻な話をしている時、背後で叫び声があがった。
「誰、ここの主枝を切ったのは」
それは川崎の声だった。
功は自分が失敗した茎のことだと気づいて、おそるおそる手を挙げると、彼女は功の前につかつかと歩いて来た。
功が言い訳の言葉を考えていると、山本局長が助け船を出す。
「真紀、初めての作業なのだから大目に見てやれよ、この前みたいに全部の主枝をちょん切ったわけでもないのだし」
真紀は立ち止まると、鼻から息を吹き出してから功を指さした。
「今日の所は大目に見てやるけど、今度からこんな間抜けなことをしたら許さないわよ」
言いたいことを言うと彼女はくるりと後ろを向いて温室から出て行き、功は自分がそんなに悪いことをしたのだろうかと涙目になって彼女の後ろ姿を見送るのだった。
その時、硬い雰囲気を和らげるようなのんびりとした声が響いた。
「皆さんちょっとこちらに集まってください」
岩切の声に研修生たちはぞろぞろとそちらの方に集まっていく、岩切はA4サイズのラミネート加工された資料を何枚か抱えていた。
「野菜のハウス栽培では、アザミウマ類や、アブラムシ、それにダニ類などの害虫の発生が問題になります。」
資料にはあまり見たことがない昆虫の写真が印刷されている。
「まほろば県ではこれらの害虫を補食する天敵を活用する農業に取り組んでいます。害虫を餌とする天敵昆虫が作物に害を与える昆虫を食べて農薬の使用量を減らす試みです」
功はアブラムシ以外の昆虫は名前すら知らず、あまつさえアブラムシも最初はゴキブリのことかと思ったくらいである。
功は密かに他の研修生の様子を窺った。
茜はにこにこしながらうなずいているが、その他二名は功同様、怪訝そうな顔つきだ。
「このハウスでは、市販されているスワルスキーカブリダニや、タイリクヒメハナカメムシ、コレマンアブラバチ等と土着天敵のクロヒョウタンカスミカメとタバコカスミカメが放飼されています」
岩切は紙芝居よろしく次々と虫の写真を見せてくれる。
「天敵昆虫の密度がかなり高いので割と簡単に見つけられるはずです。せっかくの機会だから観察してください」
拡大用のルーペを渡されて初めて虫のサイズの見当が付いた。
野菜の害虫を含めて昆虫に関する知識が皆無の功は岩切が見せる写真の昆虫たちがテントウムシぐらいのサイズと思いこんでいたが、実際のサイズは二ミリメートルとかそれ以下のサイズらしい。
功は虫を見ようとルーぺを片手にあちこち探してみるがそれらしいものを見つかることができない。
横から見ていた茜がナスの葉を指さした。
「ほらそこ、葉っぱの上を高速度で移動している点が見えない?それは多分スワルスキーカブリダニよ。葉っぱの裏側にはナミハダニがいると思う」
功がアドバイスに従って高速移動中の「点」をルーペでズームアップしてみると、そいつは見るからにいかつい感じの虫だった。
スワルスキーなんたらダニとかいうロシア人のような名前のダニらしい。
天敵というからにはこいつは肉食系に違いないと功は一人で納得する。
ついでに葉っぱの裏ものぞいてみるとさっきのロシア人みたいな名前のダニよりちょっとスマートな感じのダニがあちこちにいるのが見えた。
こちらは草食系つまり害虫に違いない。
「ナスの葉っぱ一枚にこんなミクロの生態系が展開されていたとは知らなかった」
功が一人で感心していると、今度は岩切が手招きしている。
功がそちらに行ってみると、岩切はナスの枝にとまった黒い点を指さしている。
そこにはアリそっくりの昆虫がおり、功がルーペを使ってよく見ようとして近づくと瞬間移動したみたいに姿が見えなくなった。
「き、消えた」
きょろきょろと辺りを見回してももうその姿は見えない。
「さっきの虫がクロヒョウタンカスミカメ。カメムシの仲間だからちゃんと羽があって飛ぶことができるんだよ」
「害虫を天敵の昆虫で退治するなんて概念としては理解できても、実用に仕えるのですか」
功が露骨に訊ねると、岩切はお得意のラミネート加工した資料を取り出して説明を始めた。
圃場内の害虫の密度の折れ線グラフに、化学農薬の散布時期、天敵昆虫の導入時期を示した資料だった。
天敵昆虫の投入から経時的に害虫の数を示すグラフは右肩下がりに減少していた。
逆に天敵の数は増加している。どうやら天敵昆虫を実用レベルで使っていることを示しているようだ。
功の頭は一時にたくさんの知識を詰め込まれて消化不良を起こしそうだったが、研修生の一行は昼食を挟んで農業体験研修所に戻った。
午後からの研修テーマは管理機でのうね立て作業の実習だ。
その機械は手押し式動力うね立て機というべき機能を持っているが、ローカルな呼び名として管理機と呼ばれており、それを使って野菜を植えるためのうねを作る練習だった。
管理機というのは小さいけれどちゃんとエンジンが装備されていて、二つ付いたタイヤで自走する。
操作する人は後ろに伸びたハンドルを持って押していく格好だ。
一番大事なのが本体の後ろについた二つの爪でこれが高速で回転して土をはねとばすことでうねを作っていくのだ。
畑の一番端のうねを作るときは片側に土をはね上げるのだがつぎのうねからは両側に土をはね上げなければならない。
そこで土を跳ね上げる爪の一つを違う向きの爪に変えてやる必要があり、研修の最初のメニューは、この爪の交換作業だった。
二人一組で一台の管理機にとりついて順番に爪の交換作業をするのだが、功は茜とペアになった。
教官の指示でロック用のピンをはずしてシャフトに爪を取り付けているボルトを抜くと爪がはずれる。
そこにピッチの違う爪を持ってきて逆の手順で取り付けるのだ。
「功君、その状態で最初の爪と逆になっているよね」
「そういわれるとなんだか自信ないな」
管理機には操作用のレバーがたくさんついている。
管理機本体の前進、後進切り替えレバーに本体の変速機レバー、爪の正転、逆転レバー、爪の高速回転と低速回転といった具合だ。
シャフトの回転方向がよく分からないので爪の向きだけでは正解かどうか自信がないのだ。
「岩切さん爪のセットこれで大丈夫ですか」
功は二つのチームを交互に見回っていた岩切を捕まえて聞いいた。
「多分大丈夫、今両方にあげる状態だと思うから茜さんにも、あとで同じ手順をやってもらって」
教官なのに岩切は自信なさげに答えた。
「うちの現場では後進で使う人が多いから最初のセッティングがあっているとは限らないんだ。一回試しに回してみよう」
「どうして前進と後進があるんですか。」
「初心者には目線が定めやすいのと機械に挟まれる危険が少ないから前進で使うのを推奨しているが、慣れてきたら後進で使う人も多くてね」
功が作業を終えて茜の順番が来ると、彼女自身の研修なので作業を手伝うわけにも行かず、功はぼんやりと眺めていた。
彼女は慣れた感じでてきぱきと作業をしていたのだが、途中で手を止めると遠くの方を見ている。
目線の先を追うと遠くの幹線道路を乗用車が走っているのが見え、彼女と一緒に見ていると、その車は赤いVWゴルフで農業体験研修所の入り口から進入し研修が行われている圃場に向かってくる。
「あのゴルフこっちに来るみたいですね」
「そうみたいね」
圃場脇の駐車場に到着したついたゴルフから降りた人を出迎えるように歩いていた岩切が何事か話しながらこちらに近づいてくる。
「管理機は使えるようになった?」
その人は茜が作業している脇まで来てなれなれしく話しかけた。
「見ての通りでしょ。そっちは、はるばる県の北部まで出かけた成果はあったの」
「ナッシング」
彼はそう言って、肩をすくめてみせる。
功はなんだかいけすかないやつだと感じるが、どうやら茜の知り合いらしく、
二人が研修そっちのけで何か話し込んでいる間に功は別の車が自分たちの圃場に接近しつつあるのに気がついた。
周囲が水田で見通しがいい上に、人や車の往来が少ないから人の動きが目に付くわけで、それが昨日研修会場だった臼木農林業公社の車だとわかる。
やって来たのは山本事務局長で、岩切に用があったらしいが、茜と男性に気がつくと少し険しい表情をしてこちらにやってきた。
「榊原君、北の方まで出かけて農地は見つかったの?」
「いいえだめでした」
彼の名は榊原というらしい。
「この間も話したとおり、わだつみ町内で就農してくれないと、2年間の研修費のうち町が助成した分を返還してもらう話になるからね。もう一度就農先について考え直してくれる気はないかな」
山本局長は渋い顔で榊原に話す。
お金が絡むシビアな話のようで、功は昨日の失踪事件に続いていったいどうなっているのだろうと気が気でなかった。
「金を返せと言うのだったら返しますからもう好きにさせてもらえませんか。僕は有機農法で作った野菜を顧客に直接販売したいと思って、農業を始めたのです」
榊原は険しい表情を浮かべて言葉を継いだ。
「集落営農組織の職員になれとか、個人で営農するなら農協の部会に所属しろとか押し付ける割に、農地を貸してくれる人も紹介してくれない。就農しろと言われても農地がなければ無理でしょう」
研修生たちは固唾をのんで事の成り行きを見守っている。
のどかに研修を行っていた農業体験研修所には一転して険悪な空気が立ち込めた。
第6話 ささやかなやりがい
「榊原君、山本局長も心配しているんだから、もう少し前向きに話を聞いてくれ。それに彼のところの西山君が、婚約者が手術を受けると言って大阪に帰ってしまったんだ」
榊原はまっすぐに山本局長を見つめた。本当なのかと問うような彼の視線に、山本局長が無言でうなずき、榊原は気まずそうな顔で口を開く。
「僕も条件のいい農地さえ見つかればわだつみ町で就農したいのだから、土地を確保するための手助けをしてくれてもいいじゃないですか」
西山の話を聞いて榊原は少しトーンダウンしていた。
「わかった。農地や住宅の確保についてはこちらの方でも手を尽くしてみるから何とか町内で就農する方向で考え直してくれ」
山本局長は生真面目に答える。
「そう言ってくれるなら、考えてみます」
山本局長の言葉に、榊原も態度を柔らげた。
「実は目星を付けていた農地があるのです。農地の管理者の方と話はついているのだけど、なかなか借りるための手続きが進まないのです。手伝ってもらえると助かるのですけど」
「初耳だな。いつの間にそんな農地を見つけたんだ?」
山本局長は怪訝な表情で聞く。
「谷沿いにある耕作放棄地を借りようとしているのです。農業委員会に頼んだら、土地を管理者している人を紹介してくれて、相続権がある人の連絡先も教えてくれて、後は自分で交渉しろと言われたのですが、そこから話が進まないのですよ」
「それは難しいだろうな。人づてに頼んでみるから、詳しく教えてくれないか」
山本局長は苦笑し、榊原は無言でうなずいた。
「それじゃあ、まずは場所を教えてくれ。それと話は変わるが、週明けからうちでアルバイトする気はないか。西山がいなくなって手が足りないんだ」
山本局長は失踪した西山の代わりのオペレーターを探しに来たところで、そこそこ仕事ができる西山を見つけることが出来たようだ。
「そりゃ、僕もバイトできれば助かりますけど」
「よし、榊原君が来てくれたら急場に間に合う。とりあえずうちの事務所まで来てくれ、土地の話も向こうで聞くよ」
山本局長は岩切に研修の邪魔をしたことを謝りながら自分が乗ってきた車に向かい、 榊原もその後に続いて、二人は車を連ねて研修所の敷地から出て行く。
功は遠ざかる2台の自動車を見送っている茜に榊原と山本事務局等が揉めていた事情を尋ねてみた。
「あの二人ずいぶんもめていましたけど一体何があったのですか?」
「榊原君は以前私と一緒に研修を受けたことがあるの。その後、臼木農林業公社で研修生をしていたのだけど研修期間が終了してからも農地が確保できなくて、アルバイトしながらあちこちで土地を探しているのですって」
「農業を始めるためには自分で土地も探さないといけないのですか」
「そうよ。彼の場合は条件がいろいろあるらしいから、農地を貸してくれる相手が見つからなくて苦労しているみたい。まほろば県って過疎化とか高齢化が進んでいるとか言われているわりに、いざ農地を借りようとすると貸してもらえる農地がないのよね」
「でも、東京とか大阪で岩切さん達がまほろば県に来て農業してくださいって勧誘しているから、当然農地とか家も準備してくれると思いませんか」
「そうなのよ。農地は個人の資産だから行政は口を出せないとか建前はあるみたいだけど、真相はよそ者に貸してくれる農地はあまりないってことみたいよ。ありえないでしょ」
県レベルの自治体が移住者を募集しているのだから田舎に行けば宅地も農地もいくらでもあると思っていた功は愕然とする。
「榊原君も一年近く土地を探して空振り続きだから神経がささくれ立っているのよ」
来客のために研修を中断していた功達は岩切に促されて作業を再開した。
茜が管理機を畑まで移動させると、おもむろにパワーを上げて耕転を始めるが、エンジン回転があがって爪も回転しているけれど、思ったほど、土を跳ね上げてくれない。
「やっぱり爪の向きが逆みたいだからセットし直してください。功君やってもらえるかな」
岩切の声で、功が作業することになった。
功は畑から管理機を出して安定のいい場所で爪の交換作業をはじめた。
功の普段の生活では実用に使う機械をいじることはまず無い。
小さな管理機とはいえパーツを交換してロック用のピンを木槌でたたいてはめ込んだりしていると、なんだかメカニックになったみたいでうれしかったのだが、それは傍目にも分かったようだ。
「今、アニメに出てくるメカニックの人になった気分なんでしょ」
横で見ていた茜が功を冷やかす。
「そんなこと無いですよ」
図星だった功は照れ隠しに否定したが彼女にはお見通しのようだ。作業を終えてお試し運転をしてみると管理機の爪は盛大に土をはねとばし始めた。
「ちょっと待って、今うねの位置決めをしているから」
今日の研修では岩切だけでなく矢井田という教官も指導に来ており、矢井田と川崎が巻き尺を使ってうねのセンター位置と管理機が通る位置を決め、畑の反対側でも同じ作業をして最後に石灰を使って管理機が通るラインを引いている。
「慣れてきたら目印だけ付けてうねを作れるようになるけれど、皆さんは石灰のラインを目安に畦立てをしてください」
準備ができたのを見て取った岩切は作業を始めるように指示する。
「功ちゃんおさきにどうぞ」
茜さんに促されて、功は白いラインの始まる位置まで管理気を持っていくと、ギアは低速、方向は前進と確認しつつエンジンのパワーを上げる。
功が耕運を始めたのは一番端のうねなので、管理機の左側に向けて盛大に土が飛び散っている。
「簡単じゃん」
功が調子に乗ってうね立て作業を進めていると、管理機はあらぬ方向に曲がりはじめた。
どうやらその辺では土がきれいにこなれていなかったらしいく、元の白いラインに戻そうとすると、機械のパワーと土の抵抗に逆らうようになるのでありったけの力が必要だった。
考えてみるとその場所は昨日、ペダルを間違えて川崎に怒鳴られたところだった。
下準備がうまくできていないと次の段階でつまずくという事例だ。
畑の端までうねを作ったところで、功は茜に交代し、彼女は管理機の爪を両側はね上げにセットし直して作業を続けていく。
ぼんやりと作業を眺めていたら岩切が功の目の前にぐいっと鍬を突き出した。
「君はこれで曲がったところを直しなさい」
「それって、人力でやるんですか」
「そうだよ。彼女が戻ってくるまでに直して」
功は問題の場所まで走っていくと畦が曲がった個所を直し始めた。
功は鍬など使ったことがなく、ドラマなどで見たイメージで鍬を振り上げて硬い土に打ち下ろしていると、追いついてきた岩切が功から鍬を取り上げた。
「鍬も使ったこともないんだね。そんなに力任せに打ち付けたら壊れてしまうよ。鍬はこうやって土を削りながら引っ張ってくるものだ。それから寄せてきた土を上に持ち上げてうねの形を整える」
岩切は模範演技を見せてから鍬を返してくれたので、功は鍬を受け取ると、見よう見まねで作業を始めた。
硬い土を削りながらひっぱてくるのはなかなか大変で、少しずつ土を盛り上げてまがったうねをきれいに直していく。
功は農業もそう簡単にできるわけじゃないと思い少なからず気分がへこんできたが、それでも必死で土をかき集めて形を整えた頃に茜の管理機が通過した。
すると、功がなおした部分の上にも新たに土がかけられて、うねの曲がった個所は跡形もなく修正されている。
功はちょっと感動して眺めていた。
「練習といっても、きれいに仕上がった方が何だかうれしいだろ」
隣に戻ってきていた岩切が穏やかな表情で話しかけてくる。
「そうですね、働いた分が形になって残るのって何だかうれしいですね」
「そんなことでやりがいを感じるなんて、君はいままでどんな仕事をしていたんだ?」
岩切が不思議そうな表情で問いかけたが功は曖昧に笑って肩をすくめて見せるのだった。
第7話 移住を決意
研修最後の夜は、お約束となっているらしい打ち上げパーティーが用意されていた。
農業体験研修所の事務所の脇にテーブルやいすがセットされ東京ビッグサイトで見せてもらった写真のように、バーベキューのコンロまで用意されている。
バーベキューコンロの炭火で名産のまほろば牛を焼き、特産のカツオのたたきなども同時に味わえる趣向だ。
パーティー会場の横は広々とした畑が広がっており、夕暮れが近づく空が目に映る。
研修施設の職員や、長期研修中の研修生そして今回研修に協力した臼木農林業公社の面々も参加して宴会が始まった。
「どうだい宮口君、農業をやってみようという気になったかい」
岩切が、地元特産の焼酎を功のグラスに注ぎながら声をかける。
「そうですね。設備投資のお金さえ何とかできたらトライしたいですよ」
それは功のいつわらざる本音だ。
「ちなみに、君は有機農業にこだわりがあったりする?」
「いいえ別にそんなことは考えていませんが」
功は岩切の質問に答えながらコップに注がれた焼酎を飲みあぐねて困っていた。
功にとって焼酎はアルコールが強すぎる酒なのだが、岩切はお茶のような感覚で口にしているように見える。
岩切は功の答えを聞くとゆっくり飲んでくれと言い残してそそくさと席を離れていった。
岩切は主催者側として研修生全員に酒を注いで回るつもりらしい。
功が焼酎のたっぷりと残ったグラスを片手に、暮れていく景色を眺めているといつの間にか真紀が功の横に来ていた。
「お疲れ様でした。慣れない作業ばかりで大変だったでしょう」
真紀は研修中と違って優しい言葉をかけてくれるが、彼女が抱えているのは地酒の吟醸酒の一升瓶だった。
功は無頓着に日本酒を注ごうとする彼女にグラスに入っているのが焼酎だからと断ったが、彼女は事も無げに言う。
「そんなの早くあけちゃいなさいよ」
彼女は功が焼酎を飲みあぐねていたとは思わないようで、さらに一升瓶を押しつけてくる。
功はやむなくグラスの焼酎を一気飲みする羽目になってしまい、功の脳裏にはまほろば県の酒の席で自分が最後まで生き延びることができるのだろうかという不安がよぎった。
「功ちゃんはまほろば県に来て農業を始めるつもり?」
研修二日目当たりから功の呼び名は「功ちゃん」が定着している。
「魅力も感じるけど、自営で農業始めるほどお金がないからどうしようかと思っているんだ」
功の所持金は会社勤務の期間とその後のアルバイトによって貯めた貯金が百万円を少し超えるくらいだ。
それだけ貯められたのも実家に住んでいるおかげだが、功の言葉を聞いた彼女は、秘かに微笑みを浮かべた。
「それならいいことを教えてあげる、うち農林業公社に研修生としてきたら、技術研修を受けながら毎月一五万円の研修手当がもらえるの。待遇いいと思わない?」
いきなり話を持ちかけられてもそう簡単に決められることではないし、昨日から話を聞いていたら、研修生と言いつつ農業機械のオペレーターもしているような気配だ。
「僕は農作業をしたのも初めてで、経験が全然ないから無理ですよ」
功は正直に自分の能力的に無理だと言ったつもりだったが、真紀はそう思っていないようだ。
「大丈夫、オンザジョブトレーニングって聞いたことがあるでしょ。実務をこなしながらスキルアップしていくから、すぐに戦力として使えるようなるわ、私もいろいろ教えてあげるし」
功は研修初日の彼女の小うるさい指導ぶりを思い出して少々尻込みしたが、バイト生活の収入を考えると、そこそこの研修手当がもらえて、将来も農作業受託組織のオペレーターとして暮らしていけるのならなんだか悪くないような気がする。
「持ち出しなしで研修が受けられて、後々は職員として採用してくれるならそんなに悪い話ではないかな」
功はうっかり本音をもらしてしまった。
「よし、あなたは臼木農林業公社の研修生になって働いてくれる気があるということね。局長、彼はやる気あるみたいよ。早くきて」
彼女の言葉の後半は山本事務局長に向けられていたようだ。
「助かるよ。常時動けるオペレーターが確保できなくて困っていたんだ。四月から研修生扱いにするけどできたら三月から非常勤として手伝ってほしいのだけど」
功の視野の死角にいた山本事務局長が、スライドインするように功の目の前に現れて、勧誘を始める。
彼は三月からと言ったが、二月は残すところあと一週間ほどしかない。
「住むところについても、今ちょうど空きが出たからすぐに世話ができると思う」
功たちも一部始終を見た、研修期間途中で大阪の実家に帰った西村が住んでいた宿舎をあてがうつもりらしく、功はなんだか複雑な心境だ。
「何にしても、地元の連中がなかなか戻ってこないのに、縁もゆかりもないあんたがこうして、まほろば県まで来てくれるのが俺はうれしいよ。とりあえず飲んでくれ」
そういって山本事務局長が差し出してくるのはボルドー産とおぼしき赤ワインのボトルだった。
功はここの連中は何故各自が違う種類の酒瓶を抱えているのだろうと絶望的な気分になりながら自分のグラスの吟醸酒を飲み干し、おとなしくワインを注いでもらった。
「結構飲めるじゃないか」
功は山本事務局長の声がなんだか遠くから聞こえてくるような気がしており、既に悪酔いしつつあるのは明らかだった。
「山本局長に聞いたけど、臼木農林業公社の研修生になるつもりだって?」
いつの間にか戻ってきた岩切が功に話しかけたが、功は意識がもうろうとし始めている。
「成り行きでそんな話になりつつあるんですけど」
功はさっきのお返しに岩切さんのグラスになみなみと焼酎を注いたが、岩切はむしろ嬉しそうにしている。
「功ちゃんが農林業公社に来たら、一人前の農家になれるように私がビシバシしごいてあげるわ」
真紀が気炎を上げるので、功は思わず首をすくめたが岩切は真紀の元気そうな様子に相好を崩した。
「そいつは頼もしいな。宮口君はうちの長期研修生にしようと思っていたのに、山本君に先手を取られたよ」
そんな会話が交わされている脇で、功はグラスだけを持ってその一角を脱出した。この連中と一緒にいては酔いつぶれてしまうと思ったのだ。
そして研修生仲間の吉田達が歓談している輪の中に入って、功もまほろば牛のバーベキューにありつくことができた。
「功ちゃんもまほろば県に来て一緒に農業をしようよ」
そう言いながら、吉田がテーブルに置いてある酒瓶を見回し始めたので、功は先手を打ってその辺にあった缶ビールを吉田のグラスに注いだ。
これ以上アルコール度数の高いお酒を飲まされてはかなわないと思いその場の酒の種類を比較的アルコール度数が低いビールにしたかったのだ。
吉田は酒の種類には頓着しないらしく、功にも缶ビールを注いでくれた。
「農業って、きついけどやりがいがありますよね」
功が水を向けると、吉田はうれしそうに答える。
「そうとも、いいことを言うね。まほろば県も農業の後継者が少なくなってきているから、功ちゃんもここに移住して農家になってくれればいい」
「功ちゃんは割と人当たりがいいから、オペレーターやっても地域にとけ込めるわよね」
テーブルの向こう側にいた茜も功に気付いて話に加わる。
彼女は、農業体験研修所の長期研修生の人とベビーリーフにする野菜の種類がどうとか、功の理解が及ばない話を再開するが、功と吉田はグラスを片手に茜たちを眺めている。
「茜ちゃんは美人だね」
つぶやく吉田に功もうなずいてみせるが、横合いから功の希望を打ち砕く声が響いた。
「彼女は、榊原さんが農家として軌道に乗るのを待っているらしいわよ」
声の主は真紀で、彼女もいつの間にか吉田たちのグループに移動してきたのだ。
おおむね察しが付いていることでも、だめ押しされると何だか気落ちするもので、
功は恨めしげな目で真紀を見た。
しかし、真紀は功のそんな様子に気づく素振りもなく微笑んでいる。
「研修生の件は、山本局長は本気で期待しているからまじめに考えてね」
功は地元からこれほど勧誘されるとは思っていなかったので、意外な気分で周囲の人々を眺める。
「川崎さんはこの辺の農家の後継者なの?機械の扱いも上手だよね」
真紀は微笑みながら首を振り、功が油断して空にしていたグラスに再び吟醸酒をなみなみと注ぎながら言った。
「私は東北の出身なの。おじいちゃんとおばあちゃんは農業をしていたけど、私はここに来て初めて野菜とか触ったのよ」
そういえば、彼女の話し方やイントネーションは地元の人たちとは違っている。
功は東京からまほろば県までの道のりの遠さを思い出したが、東北からここまではさらに遠い。
「なんで、そんな遠くからここに研修に来たの?」
「私のおばさんの旦那がわだつみ町の漁師さんなの。おばさんが気仙沼市に住んでいた時に、水揚げのために漁船で寄港したおじさんと恋に落ちたんだって」
親類のつてがあったから研修に来たってことなのかだろうかと考えながら、真紀が吉田に一升瓶からお酒を注いでいる姿を目にしたところで、功の記憶はとぎれた。
目が覚めた時、功は農業体験研修所の事務所に寝かされていた。
床の上には新聞紙が敷かれ、毛布まで掛けられている。
二日酔いで痛む頭を押さえながら起きあがると、枕元には洗面器までおいてあった。
上半身を起こしたままぼんやりと周囲を見ていると、ソファーに座ってコーヒーを飲んでいた岩切が功に話しかける。
「大丈夫か。酔っぱらって、変な踊りをしていたから、急性アルコール中毒を心配したよ」
岩切の言葉を聞いて功はやってしまったと頭を抱えたい気分だった。
大学時代の記憶から身に覚えがあり、ヲタ芸の踊りを披露してしまったと察しがついたからだ。
別の意味で頭痛を感じながら壁の時計を見るともう朝の六時になろうとしていた。
「それから、まほろば牛のバーベキューを食べながら、あのかわいい牛ちゃんがこんな姿になるなんてとか言って泣いているからびっくりしたよ」
功は皆が起きてくる前にこっそり東京に帰る方法はないだろうかと本気で考え始めた。
しかし、地方では公共交通機関が少ないので、早朝から姿をくらますのは不可能だった。
「農林業公社の山本事務局長が朝になったら渡してくれと言ってこれを置いていったよ」
岩切りが示したのは、臼木農林業公社研修生募集要領と書いた物々しい書類だった。
「君にとっては急な話だとおもうけど、こういうのも何かの縁だと思うから前向きに考えてやってよ」
功はパラパラと書類をめくってみた。A4用紙にぎっしりと文字が並んだ書類だ。最後の方には申込用紙や履歴書のような書式もついている。
「僕は全然農業の経験がないのに、研修生になって大丈夫なんですか」
功がそう聞くと岩切はコーヒーカップを置くと真顔で答えた。
「大丈夫だよ。そもそも農業研修生というのは農業の技術を身につけるために所定の期間研修するための制度だ。それに、山本君や真紀は一緒に仕事をするパートナーとしてシビアな目で研修生候補を探している。君は彼らのお眼鏡にかなったんだよ」
功は本当なのかなと二日酔いで霞が掛かったような頭で考えながら起きあがり、岩切に散歩に行ってくると言い残して外に出た。
空は明るくなり始め一面に朝靄が立ちこめている。
しばらく歩くと、研修所の隣の農家の敷地が見えてきた。
そこは肉用牛を飼っている農家で、茶色の毛並みの牛が柵の中を歩いており、功はその茶色い毛並みの牛こそが肉用牛のまほろば牛だと聞いていた。
前日も散歩に来てしばらく眺めていたため、バーべキューの席で酔っぱらった時に思い出したに違いない。
「バーベキューにされなくて良かったね」
声をかけると、その牛は返事の代わりにしっぽを二回振ってみせる。
功は牛の顔に個性があるとは思っていなかったが、まほろば牛はつぶらな瞳の可愛らしい顔立ちをしている。
二月下旬なのに辺りでは菜の花が咲いており春の雰囲気が色濃く、夜が明けてくるにつれて朝靄はうすれていく。
辺りの森は冬でも落葉しない照葉樹が多い。そのため田や畑の向こうに見える山は緑が濃く、霧が晴れてのぞいた青空が映える。
「ここで暮らしていくのもいいかもしれない」
どんよりした雲間から日差しが差し込むように功の気分は明るくなった。
功は、少し日常から離れたおかげで、これまで引きずっていたいろいろなことを吹っ切ることができたような気がしていた。
三月早々に引っ越してきて研修生として農業を勉強しようと、功は心に決めて農業体験研修所の事務所に戻った。
第8話 報告会が送別会に
功はまほろば県の農業体験研修所で短期研修を終え、夜行高速バスで東京に帰ったが、朝早くに新宿に着き電車で家まで帰るとそのまま寝込んでしまった。
バスで眠れなかったのに加えて、疲れが一気に出てしまったのだ。
夕方になって、功はどうにか起きあがって荷物の片付けを始めたが、汚れものをまとめたところでスマホのメール着信音が聞こえた。
出かける前に研修の日程を教えていた一樹からの様子を教えろというメールだった。
結局、功は汚れた衣類の洗濯を母親に頼んで出かけることにした。
一樹が指定したのは近場の居酒屋だった。
いつの間にか功が農業の研修に出かけた話が仲間内に広まってしまったらしく、友人たちが集まって「報告会」の様相になっている。
店に着くと一樹の彼女の美紀と大学時代の仲間の秀志も来ており、そのメンバーが揃うのも久しぶりだ。
秀志にいたっては、この一年ほどメールのやりとりしかしていなかった。
「秀志、最近おこもりになって外に出てこないと聞いていたんだけど」
功は自分のことを棚に上げて、引きこもりニートになりつつある秀志をからかったが、秀志は功の言葉など意に介していなかった。
「いやいや、蝶になる前のさなぎの身の僕としても、功君が新たな世界に旅立つと聞いて、見届けない訳にはいかないと思いましてね」
「ちょっと待て、今何て言った。引きこもりを美化した表現を勝手につくってるんじゃねーよ。」
一樹が秀志の言葉をからかうと、美紀がたしなめる。
「一樹、からんじゃだめよ。せっかく降臨してくれたんだからもっとソフトに接してあげなきゃ」
功は秀志の言葉が自分が現世から離別していくように聞こえて不安な気分になった。
「それはいいけど俺が天国にでも行きそうな言い方はやめてよ。ちょっと遠かったけど国内にニ、三日出かけていただけだぜ」
秀志は温厚な笑顔を浮かべるのみでそれ以上は語らない。
久しぶりに顔を合わせた上に、レアなキャラクターである秀志の存在のおかげで妙に場が盛り上がる。
「それで、研修の内容はどんな感じだったんだよ」
一樹は功に研修の様子を話すように促す。
「そうだなあ、農業用の機械をいじったり野菜の栽培管理を教わったりしてなかなか有意義だったかもしれない」
「なんだよそれ、農業の研修だから当たり前じゃん」
何を期待していたのか一樹は功の答え方が気に沿わないようだ。
「いや、当たり前のレベルを超えていたよ。今の農業はタイリクヒメハナカメムシやスワルスキーカブリダニのような市販の天敵昆虫に加えて、クロヒョウタンカスミカメのような土着天敵まで使って野菜を食害する害虫を退治して農薬の使用量を減らしているんだ」
「なんだそれは。西日本では召喚魔法が流行っているのか」
一樹のボケは皆がスルーしたが、美紀は功の話に関心を持ったようだ。
「そんな話をヘルシー系のブログで読んだことがあるわ。有機野菜って体に良くておいしいんでしょう」
功は真っ先に茜を思い出したが、自分たちが研修をしている横で山本事務局長ともめていた榊原の顔も浮かぶ。
二人は確か有機農業を目指していると言っていた。
榊原が農地が見つけられないのも、有機農業志向だから農地が貸してもらいづらいと誰かが言っていたことも記憶をよぎる。
「自分で作った有機野菜でラタトゥイユを作りたいから農業を始めたって人もいたよ」
「すごい。その人格好いい」
「でも、それで生活していくのは大変みたいだね。現実は厳しいんだよ」
「ふーん。功君いい経験してきたのね」
美紀が感心している横から、一樹は話に割り込んだ。
「スワルスキーカメムシの話はもういいから、参加者にきれいなお姉さんとかいなかったのか」
一樹はそちらに話を振りたかったようだ。
「さっき話した有機農業希望のお姉さんが茜さんと言ってかわいかったな。それから研修の手伝いに来ていた真紀さんもちょっと性格きついけど美人だった」
一樹は功に気分転換をさせることに重点を置いていたようなので、功も話しに乗ってみせる。
「その真紀さんとか茜さんの写真無いのかよ」
一樹にの要求に功はポケットからスマホを出した。
あまり写真を撮った憶えはなかったのだが大量の画像が残っており、どうやら最後の晩に酔っぱらって写真を撮っていたらしい。
「この人が真紀さんだろ」
「いやそれは茜さん、隣にいるのが榊原さんだな」
画面の中でにっこり笑ってワイングラスを掲げている茜さんと、いつの間に現れたのか榊原氏が笑っており、写真でみるとお似合いのカップルなのがしゃくに障る。
功の気分が少し沈んだのをよそに、秀志は勝手に写真をスクロールする。
「ぬおお、これが真紀さんか。」
横から写真を見ていた一樹がわめく。
見ると功のスマホの画面で真紀が日本酒の瓶を抱えてにこやかに微笑んでいる。
功の記憶では研修作業中に怒鳴られていたイメージが強かったのだが、写真で見るとすごくかわいい。
「いいなあ、俺もこの子と一緒に農作業したい」
ぽつりとつぶやいたのは秀志だ。
「おれはナンパをするためにまほろば県に行くわけではない」
功が冷たく切って捨てると、秀志はスマホを功に返し、あらかた食べたホッケの開きをつつきながら、功に問いかけた。
「功君、それでは冷やかしで短期研修に行ったのではなくて、本当にまほろば県に行って農業を始めるつもりなのですか」
そう聞かれると、もちろんだと即答はしにくい自分に気がついた。やはりまほろば県は遠いのだ。
「とりあえず、行ってみるよ。当分の間、研修しながら自分に向いているか試してみようと思っている」
功がそう答えると秀志はホッケの中骨から引っぺがした身のかけらを口に入れながら言う。
「やはり奈緒子さんのことがショックなのですね。向こうにもきれいな女性がいるみたいですし、新しい土地に」
続けようとする秀志を美紀ちゃんが横から突ついて黙らせてしまった。
一樹は、ほっけの残骸をとりあげながら功に見えないところで、秀志に口をつぐむように身振りをしているようだ。
秀志を黙らせた一樹はアサリの酒蒸しとビールのお代わりををオーダーしてから功の方に向き直る。
「功、本当に四国に住み着くつもりなのかよ、農業なんか全然興味なかったくせに大丈夫なのか」
「自分が勧めておいてどういう言いぐさだよ」
そういいながら、功は引っ込み思案な自分が出かけただけでなく知らない土地に移住して飛び込んでいこうとしている理由が自分自身でも分からなかった。
功が黙り込んでしまったので、美紀が取りなす。
「やってみたら面白かったってこともあるのよね」
美紀も一樹から功の近況を聞いて相当気を遣っているみたいだ。
「多分、あそこでは自分が必要とされているような気がするからじゃないかな」
やっと就職した会社はつぶれるし再就職しようとしても仕事が見つからない功なのに四国では皆が歓迎して迎えてくれた事が強く印象に残っていた。
居心地の悪い沈黙を最初に破ったのは秀志だった。
「良い考え方だと思いますよ。実は僕も農業で生活できないかと思っていたんです。四国に農地があるとか情報を提供してくださいね」
「秀志君も農業始めるの?引きこもりになっているのにそんなアクティブなことを始めて大丈夫なのかしら」
美紀ちゃんが、つっこみを入れるのだが秀志は引かない。
「ひきこもりだからこそ、自分で経営できる農業を志しているんですよ」
功は短期間とはいえ自分が見た限りでは内向的な性格では、農業には向かないような気がしたが黙っていることにした。
「それじゃあ、落ち着いたら連絡するから、秀志も現地を見においでよ」
功は半ば社交辞令で言うと、秀志は文字通りの意味で受け取ったようだ。
「そうします。早く呼んでくださいね。デイトレで事業資金を貯めときますから」
秀志は、間違いなく本気で考えていることが言葉の端々から伝わる。
その傍らから一樹が功の方ににじり寄ってきた。
「おまえって、寂しがりやのくせに結構冷たいよな。人が心配しているときは上の空だし、四国みたいな遠くに行くのもさっさと一人で決めてしまうし、なんだか友達甲斐がないってもんじゃないか」
一樹は、友情押し売りモードのジャイアンのようなことを言ってなじるが、功はそう言われてみればそうかなと黙り込んだ。
一樹は功の様子を見て、ため息をついて言葉を継いだ。
「まいいや、俺は功が少し元気そうになっったからうれしいよ。ちゃんとした農家さんになって軌道に乗ったら、おれ達をまほろば牛のバーベキューパーティーに招待してくれよ」
「それいいわね、私もいざなぎ川でカヌーに乗ってみたいと思っていたの、一樹と一緒に行ったら泊めてね」
功はもちろんだよと答えるながら、こいつらは観光地に無料宿泊所ができた乗りで遊びに来るつもりではないかなと思ったが、来てくれた暁には歓迎してやればいいだけだと気が付き、口元が緩むのを感じた。
功の送別会がお開きになった後、功は少し歩いてから振リかえると一樹と美紀、そして秀志がそろってこっちを見ているところだった。
「バーベキュー食わせろよ」
遠ざかっていく一樹が叫んだ。
「おまえらこそ、本当に来いよ。結構遠いんだぜ」
功は手を振った。
一樹達が気を遣ってくれていたのを痛いくらいに感じ、本当に彼らが来てくれたら、バーベキューくらい準備しなければと思い、功は口には出さずに心の中のメモ帳に書き留めた。
翌日、功は意を決して両親に自分は四国に移住するつもりだと告げた。
父はしばらく黙り込んでうつむいていたが、やがて、顔を上げるとにっこりと笑って言った。
「そうか。おまえが考えて決めたことなら、頑張ってやってみろ」
父は前向きな言葉で励ましてくれるが、その顔には諦めの色が浮かんでいるよう見える。
「でも四国って随分遠いわね、農業だったら千葉とか茨城でもできそうな気がするけど」
功は母の言うことはもっともだったと感じ、成り行きで事を決めている自分を責められているような気がした。
そんな功の考えを察したように父が言う。
「住み着くつもりになったくらいだから、何か気に入るものがあったのだろう」
少し考えて母もぽつりと言った。
「そうね、家にいてふさぎ込んでいるよりも、前向きに何かしてくれた方がいいかもしれない」
「そうとも、市民農園を借りて野菜を作ってみたいと思っていたくらいだ。功が農業を始めたら手伝いに行ってやろう」
二人とも自分に言い聞かすように話している。
功は反対されると思っていたので安堵したが、同時に両親が無条件に賛成しているわけでは無いのも肌に感じた。
息子が鬱状態でろくに口もきかないのと、少し前向きなったが遠くに移り住んで農業を始めることを秤にかけた苦しい二者択一の結果なのだろう。
「近いうちに、引っ越して研修を始めるよ」
功がそう告げると、二人は黙ってうなずいた。
第9話 まほろばの人
移住すると決めても、人一人が引っ越すのはそう簡単にはいかないものだ。
功はとりあえず住居を確保しないと話にならないと思い駅前のアパマンショップ辺りで安いアパートを探すつもりだと山本事務局長に告げたのだが彼は功を笑い飛ばした。
「そんなもんあるわけないだろ。地方の小さな街は人の動きが少ないから、アパートや賃貸マンションは少ないんだ。公社の研修生宿泊施設を使ってくれ」
功は失念していたが、臼木農林業公社には研修用の宿泊施設があり、そこに住むことができるとのことだった。
山本事務局長の話では、研修生を受け入れるために、廃校になった小学校の職員用住宅を使えるように町役場を始めあちこちに掛け合ってずいぶん骨を折ったらしい。
窓口になってくれる山本事務局長と何回か連絡を取り、研修生用宿泊施設への入居日が決まり、ようやく功はまほろば県に足を運ぶことになった。
功は手持ちの資金が目減りしないように、今回も苦手な高速バスで再びまほろば県を目指すことにした。
功はよく眠れないまま高速バスに揺られて翌朝JRに乗り継いでわだつみ町に着いた。
駅のホームに降り立つと、町並の向こうに海が見えている。
そこにはコバルトブルーと呼ぶのがふさわしい海が水平線まで広がっている。
わだつみ町を通る鉄道は第3セクターだが、JRも相互乗り入れしている。
人件費節約のためか、乗車中に乗務員が切符を回収するシステムで、駅の改札は無人だ。
駅前の広場はロータリーになっているが、木陰になった片隅にタクシーが停車し、車内で運転手が居眠りしている以外は人気がない。
山本事務局長は誰かを迎えにやると言っていたが、それらしき人影はなかった。
功が周囲を見回してしていると、駅のロータリーにワンボックス型のライトグリーンの軽四輪自動車が早い速度で侵入し、タイヤを軋ませながら功の前で急停車した。
功は危険を感じて身を引いたが、運転席から作業服姿の真紀が顔を出す。
「迎えに来たよ。出がけに事務所の前で野口君に捕まってどうでもいい話をしばらく聞かされたから遅くなっちゃった。待った?」
「今着いたばかりだよ。野口君て誰?」
真紀の話は時として理解しづらいところがある。
「野口君は野口君だよ、公社の近くの農家でニラ栽培の先生もしてくれるからすぐに仲良くなると思うよ。彼は私を見かけたら寄って来るんだけど、今日みたいに予定がある時は困るのよ。」
功が真紀にも苦手な相手がいるのものだと考えながら荷物を持って軽四輪自動車に乗り込もうとすると、彼女は手招きしながら荷物を積めるようにテールゲートを開けてくれた。
功がラゲッジスペースに荷物を放り込んでテールゲートを閉めると、彼女は車のキーを功の目の前に差し出した。
「駅で功ちゃんを回収したら運転してもらえって局長の指示よ。午前中に町内の主立った地区を一回りして来いって」
そう言われても功はまだ右も左も解らない状態だ。
「僕はこの辺に土地勘がないんだけど」
「私がナビするから大丈夫、とりあえず運転してよ。この車トロくさくて運転しているとイライラするの」
功はナビシートに乗り込む彼女を横目に運転席に座った。
「ペーパードライバーにいきなり運転させて同乗するとはいい度胸だね」
「交通量が少ないから問題ないわ。山本事務局長も言っていたけれどまずは練習よ」
功は運転席に座って操作系を眺め、軽四輪自動車がオートマチック仕様と確認して一安心した。
功は軽四輪自動車を発進させると真紀の指示に従って駅前のロータリーから2車線の道路に乗り入れた。
そして川沿いに伸びる道路を走行する。
功が事前に勉強した知識によると、道路脇の川はわだつみ町を南北に流れて海にそそぐイザナミ川のようだ。
川の水量は豊富で水は青く澄んでいる。
真紀の案内で流域に点在する集落を回ると彼女は告げる。
「わだつみ町は見ての通りであまり土地がないの。元々は漁師町なんだけど少ない土地でも収入を上げるために、キノコの栽培もしているのよ」
「キノコの畑はどこにあるの」
隣で彼女がむせるのが聞こえた。何の気なしに聞いてしまったがどうも失敗だったらしい。
「功ちゃんって天然入ってるところがなんだかいいわ」
彼女はニヤニヤしながらが言う。
「メルヘンチックに地面からキノコが生えてるところをイメージしてたんでしょ。この辺で作っているキノコはエリンギが主流よ。培地を入れた瓶を使って空調施設で栽培するの」
どこにそんな施設があるのかと見回していると、彼女が指さした。
「ほら、あれがその一つ。」
彼女が指した方向にある建物は、見た目は倉庫のような地味なたたずまいで、そうと言われないとわからない。
「川崎さんも研修生用の宿舎に住んでいるの?」
「ううん。港の近くに私のおばさんの家があるから、そこに下宿しているの。」
功は短期研修の時の懇親会で、彼女のおばさんの話を聞いたことをかろうじて思い出した。酔いつぶれたときは往々にして記憶が飛んでいることが多い。
「功ちゃんは研修生になるってことは大学とか行かないの?」
功は自分がずいぶん若く見られていたことに気が付いた。彼女が気安い口調で話していたのは自分より年下と思っていたためのようだ。
「大学はもう卒業しているよ」
功があっさりと告げると、真紀は驚いたようだ。
「うそお。みんなが、功ちゃんって呼んでかわいがっているから、私よりも年下だと持っていた。失礼しました先輩」
彼女は居住まいをただしたが、本気で言っているのかは定かでない。
「歳が上だからって変に気は使わなくていいよ。仕事では川崎さんが先輩だからね」
功は変に持ち上げられてもやりにくいだけだと思ってそのとおりに真紀に告げる。
「うん、功ちゃんのそんなところが皆に好かれるのよね。私のことは真紀って呼んで。呼び捨てが恐れ多かったら真紀ちゃんでもいいわ」
「それでは真紀ちゃん。僕は何処に行ったらよろしいですか」
わだつみ町の主要道路は町の真ん中を抜ける国道一本だけで道に迷うことはないが、道なりに走っていたら、すぐに隣町に抜けてしまう
「ごめん案内するのを忘れていたわ。この辺が川沿いの集落では大きい方の伊佐よ。臼木は川沿いよりも一段高い高原みたいになっているから、ちょっと集落のたたずまいが違うのよね」
真紀が示した伊佐集落は集落といっても川の両側にぽつぽつと家が見える程度だ。
周囲には山が迫っていて田んぼや畑もあまり広くない。家の近くにはこじんまりしたビニールハウスが見える。
「このまま道なりに進むといざなぎ町まで行ってしまうから次の交差点で右に曲がって」
功は言われるままに国道から脇道に入ったが、道路の細さに思わずアクセルを緩めてしまった。
その道路はガードレールも無く、対向車が来たらすれ違うのに苦労しそうだ。
崖と言っても差し障りの無い急斜面は一面の杉林となっており、細い道はつづれ織りに登っている。
「この道はいったいどこに行くの」
「どこって、うちの事務所がある臼木に決まっているでしょ。この前も研修に来ておナスの主枝をちょん切ったりしていたじゃないの」
功はそんなエピソードは思い出さなくていいのにとちょっと苦々しく思う。
「こんな道だったっけ。人に運転してもらうのと自分が運転するのとでは印象が違うのかな」
功が山肌にへばり着くように付けられた道のヘアピンカーブですんなり曲がりきれなくて、ハンドルを切り返していると真紀がにこやかに眺める。
「そう言えばあのときは荷稲の方から登ったような気がするわ。あっちの方がもう少し道が広いみたいね」
「ましな道があるならそっちの方を案内してほしかったな」
功がぼやくと、彼女はわざとらしい東北弁で言った。
「あんたはこれからここで仕事をするのだから、これぐらいの道には慣れねばなんねさ」
功はちょっとむかついたが運転に必死で言い返す余裕がなかった。
幸い対向車が一台も来ないうちに坂を登り切り、峠とおぼしきところを超えた。
周囲はいつしか名前も知らないような広葉樹の林になり、更に坂道を下ると林はとぎれて眺望が開けた。
「ここからが臼木よ。農作業受託の仕事は町内全般が対象になっているけど、あらかたこの地区内から受託するから、地元のつきあいは大事にしてね」
広いと言っても先ほどまでの国道沿いの谷底の土地よりはという意味で、決して広大な農地が広がっているわけではない。谷に沿って走る道をしばらく行くと見覚えのある建物とビニールハウスが見えた。
前回の研修でもお世話になった臼木農林業公社だ。
車を止めて事務所に入ると山本事務局長と事務員の岡崎が功を出迎えた。
「思ったより遅かったけど、どこか寄っていたのか」
山本事務局長が尋ねた。
「うん、町内案内してこいって局長がいうから伊佐まで行ってから山越えしてきた」
「ええっ。あんな道通らせたのかよ。せっかく来てくれた新人君なのに、いきなりいじめたらだめだよ。せっかくだからわだつみの港の方も案内してやったら良かったのに」
先ほど通った道は事務局長でも驚くような曰く付きの悪路だったらしく、功は真紀を冷たい目で見た。
「これから、一緒に仕事をするなら、あれぐらいの道をでびびってたら使いものにならないでしょ。それに私海嫌いだし」
真紀は平然と答えたが、事務所内にはなんだか微妙な沈黙が訪れた。
「もうお昼だからご飯にしたら。2人の分もお弁当をたのんでおいたから」
沈黙を破ったのは岡崎だった。
彼女は年齢不詳でソフトな雰囲気を醸し出している。
「金子商店の日替わり弁当っておいしいんだけどメニューが一週間ローテーションだから飽きて来ちゃうのよね」
「真紀。金子商店の弁当も買ってやってよ、売れ行きが悪いと弁当のデリバリー事業から撤退するかもしれないって大将がこぼしていたし」
やりとりを聞いていると、職場としての雰囲気は悪くなさそうだ。
「へいへい、毎日ご飯食べに出かけるわけに行かないもんね」
そうつぶやいた真紀は事務所の床に文字通りの意味で転がっていたナスを拾い上げると事務所の奥に消えた。
功が気配を感じて振り返ると山本局長が功のそばに立っている。
「功ちゃん、今日運転してもらったハイゼットだけど実は研修やめて故郷に帰ったやつが残していった車なんだよ。」
そういえば、公用の車らしからぬボディーカラーだった。
「三十万円で売ってくれと頼まれているが、良かったら買い取ってもらえないか」
功が運転していたのは研修を受けた時に騒動になっていた西山が所有していた車だったのだ。まほろば県の農村部では自動車を持っていないと生活が成り立たない事は想像に難くない。
功もまほろば県で中古車を探そうと思っていたところで渡りに船だが、車の年式とか考えると少々高い気がした。
「もう少し安くなりませんか。」
功としても気が引けるのだが、背に腹は代えられない。
「そうだよな、俺も三十万円は高いと思っていたんだよ。どう見ても十万円以下の代物だもんな」
山本事務局長はあっさりと三分の一まで値下げしてくれた。
「局長もう一声安くしてくださいよ。」
功が我ながら少々図々しい思いながもう一押ししてみると山本事務局長は少し考えてから答えた。
「それじゃあ、登録費用は別にして、車両本体は五万円ということでどうだろう。手続きを自分でするのは面倒だとおもうから、ここの車のメンテナンスを頼んでいる修理工場を紹介するよ」
それは功にとってはハンマープライスだった。
「買います。登録手続きの代行もお願いします」
「よし、契約成立だな。お金は西山の口座に振り込んでやってくれ。」
山本事務局長は銀行の口座番号とメールアドレスを書いたメモ功に渡した。功がいつ振り込みしようかとメモを見ていると山本事務局長は言った。
「そんなのそのうちでいいよ」
彼は功を来客用らしい応接セットの方に案内し、テーブルの上には業者が配達してきた弁当が二つ乗っている。
ここでお弁当を食べなさいということらしいく、功が弁当の箱を開けていると後ろから山本事務局長の声が聞こえてきた。
「理香ちゃん、徳弘モータースに電話して車の登録手続き頼んでやって、西山が乗っていたハイゼットの件だって言えばわかるから」
理香というのが岡崎の名前らしい、彼女はお昼時なのにてきぱきと電話をかけ始めた。
功が聞き耳を立てていると、目の前にみそ汁の入ったお椀が置かれた。
真紀が事務所の台所でみそ汁を作って戻ってきたのだ。
「事務所の中で料理つくったりできるんだね」
「給湯室にシンクとガスコンロもあるから、みそ汁ぐらいつくれるよ。ちなみに具に入っているおナスは私が作ったのだからちゃんと味わって食べてよ」
彼女はソファーに座るとおもむろに弁当を食べ始めた。みそ汁の具はさっき彼女が拾っていったナスのようだ。
金子商店の弁当は焼き魚がメインで一見地味な印象だったが功はアジの干物とおぼしき魚を食べてそのおいしさに驚く。
単なるアジの干物なのだがジューシーで肉厚な干物は功の干物のイメージを変えるのに十分だった。
コンビニのアルバイトで賞味期限切れになった幕の内弁当を食べたことがあるが、コンビニ弁当の焼き魚とは別物と言ってよかった。
「地元の魚や野菜を使ったお弁当なんか口に合わないかもしれないわね」
電話を終えて、お茶を持ってきた岡崎が功に言うとに功は勢いよく答えた。
「口に合わないなんてとんでもない。凄くおいしいですよ」
それは功が地元の新鮮な食材のおいしさを知る最初の出来事だった。
第10話 居酒屋喜輔
昼食の後、山本事務局長は功を研修生用の宿舎に案内した。
「功ちゃんと真紀は自分の車で来てくれ。西山の車は任意保険を功名義に切り替えたそうだからそのまま乗っていいよ」
山本事務局長は農林業公社の軽四輪トラックで先行した。
臼木という集落は山の上の高原状の地形に農地が広がっており、山の麓にある川沿いに点在する集落よりも広々としていた。
一車線しかない細い道でも地元の人は相当なスピードで走行し、置き去りにされそうになった功は後を追うのに必死だ。
功は先行する山本事務局長の軽四輪トラックを見失いそうになったが、古びた家並みの中に軽四輪トラックと真紀の車が止まっているのを見つけて安堵した。
功は自分の車を止めて、先に到着していた山本事務局長達に近寄る。
「山の上なのに結構家があるのですね」
「ああ、むしろ谷沿のエリアはほとんど土地がないから、昔は山の上の民の方が栄えていたのだが、最近はご多分に漏れず過疎化が進んでいる。ここにも小学校があったが廃校になって久しい」
山本事務局長が示す方向には、木造のこじんまりした校舎と小さな校庭があり、校庭の周囲には桜らしき並木もある。
功は、山本事務局長が教職員用住宅を研修用宿舎に改造したと言っていたのを思い出し、ひょっとしたらこの近くにその建物があるのだろうかと思って周囲を見回した。
「ここが研修生用の宿舎だよ」
功の様子を見て山本事務局長は功たちが車を止めた空き地にの脇に立つ建物二棟を指さしたが、功はその建物を見て目を疑った。
そのたたずまいは相当にクラッシックなもので、見た目は廃校になった校舎の脇に朽ち果てそうな木造平屋建て建物が残っているといった風情だ。
山本局長は功の背中をポンと叩いた。
「そんな顔をするな。これでも使えるようにガス給湯の風呂や、合併浄化槽をつけるのに相当苦労したんだ」
研修生用の宿舎の中に入ると確かにリフォームされて小綺麗な状態になっていた。
平屋建ての建物には二部屋にキッチンとバストイレが付いており、不動産屋なら2DKバストイレ付というところだろう。
建物の外見だけ見て引き気味だった功は、内部の居住環境を見て案外悪くないと思いなおすのだった
「ここの家賃っていくらなのですか」
功が聞くと、山本事務局長が一本の指を立てて見せた。
「十万円?」
功は東京の賃貸物件の相場を思い起こし、意外に広々した宿舎の間取りを見ながら自分には不相応な世帯用の物件ではないかと考えて聞き返したが、山本事務局長の顔に笑顔が広がった。
「違う一万円。この田舎でそんなに高い家賃は取らないよ。」
2DKバストイレ付きで月一万円?と思い功は耳を疑った。
しかし、ロケーションを考えれば住人が減って学校が廃校になった地区に新たな農業者を呼ぶための研修生用宿舎なのだ。研修生の住居にするためだけに補助金とかを使って整備してくれたのに違いない。
食べ物はおいしいし家賃も安く田舎暮らしも悪くないと考えながら、功は二人に手伝ってもらい部屋の掃除を始めた。
つい最近まで人が住んでいたので部屋の内部はそれほど汚れてもいない。
しばらくすると宅配業者の車が宿舎の前に到着し、功が埼玉の実家からから発送した功の布団や着替えなどを玄関に運び込んだ。
「なんだ要領が良いやつだな。俺は仕事に戻るけど真紀は夕方まで手伝ってやってくれ」
山本事務局長は軽四輪トラックに乗って事務所に帰ろうとしたが、なにかの紙袋を持って戻ってきた。
「そうそう、これをわたすのを忘れていた。いつまでも学校のジャージで作業するわけに行かないもんな」
それは真紀や局長が着ているのと同じタイプのベージュ色の作業服と作業用の長靴だった。功のために準備してあったらしい。
「私はちょっと残念だな、あのジャージでトラクターに乗る功ちゃんの勇姿を地区のみんなにも見せたかったのに」
真紀が混ぜ返すが、功は拘泥しないで受け取った作業服を検分している。
「支給品だけど二年に一回ぐらいしか更新できないから大事につかってくれ」
山本事務局長は機嫌よく事務所に戻り、功と真紀は部屋の掃除を再開した。
功が部屋の中をほうきで軽く掃いてから荷物をほどこうとすると、真紀が見とがめた。
「信じられない、これから自分が住む部屋なのだから雑巾がけぐらいしなさいよ。西山さんが掃除してなくてダニとか増えていたらどうするのよ」
西山はひどい言われようだが、功はそんなもんかなと思いながら素直に畳やフローリングの上を雑巾がけしていた。
しかし、ふと気がつくと真紀は前の住人が置いていったキャンプ用の折りたたみ椅子にふんぞり返って寛いでいる。
「何で手伝わないでのんびりしているんだよ」
功が問いかけると彼女は椅子に座ったまま答えた。
「私が適切な指示出しをするからてきぱきと片付くのよ。ありがたく思ってほしいわ」
真紀は功の手に負える相手ではなさそうで、功はなんだか疲れた気分になり休憩したくなってきた。
宿泊施設の入り口には自販機があったことを思い出し、功が飲み物を買いに行こうとしたら、真紀の声が追いかけてきた。
「私の分はホットのカフェラテにしてね。」
功は手伝ってもらっているから何か買うつもりだったが、当然のように言いつけられると何だかむっとする。
宿舎の外に出た功は、屋外に設置してある自動販売機でカフェラテを買いながら、こんな場所に設置して電気代相応の売り上げがあるのだろうかと余計な心配をしていると、背後から男性の声が響いた。
「あんた農林業公社に研修に来る人だろ」
功は飲み物を自販機から取り出すと慌てて立ち上がった。
いつの間にか宿舎の前に軽四輪トラックが止まり、この辺りでは珍しく思える二十代後半に見える男性が立っている。
「俺は野口っていうんだ。この先のビニールハウスで野菜を作っている。よろしく頼むよ」
「ぼくは宮口功といいます。こちらこそよろしくお願いします。まだ来たばかりだからいろいろと教えてください」
功は、営業モードのスイッチを入れて挨拶する。
「今日引っ越してきたんだろ?。朝方、真紀ちゃんが駅まで迎えに行くと言っていたのを聞いたよ」
「ええ、彼女も手伝ってくれて掃除したりしているところです」
それを聞いた野口は功に詰め寄ってきた。
「やっぱり彼女も来ているのだな。俺も引っ越しを手伝ってやるよ」
功はめんどくさいことになりそうな気がして、断ろうとしたが、野口はさらに言葉をつづけた。
「ところで、真紀ちゃんて美人やろ、そう思わない?」
「そうですね」
「そうだろう。でも手を出すなよ。俺が先に目をつけていたんだからな」
妙に人なつこい「野口君」は功に言いたいことを言うと、ずかずかと研修用宿舎に上がり込んでいく。
カフェオレとジュースの缶を抱えた功は慌てて野口を追いかけた。
室内に入ると、野口を相手に真紀が早口でまくし立てているところだった。
「野口君あんた何でこんなところで油売っているのよ。明日の朝も収穫と出荷があるんだから。夕方までに圃場の管理をしないとだめじゃないの」
「新しい研修生が来たって言うから様子見がてら手伝いに来たんだよ。大事にしないと西山君みたいに夜逃げして帰ってしまうぜ」
「功ちゃんはもう後がない人生を歩んでいるみたいだからそんな心配いらないわよ。それにお掃除もあらかた終わったから、野口君に用はないわよ」
後がない人生とか勝手に決めつけられて功は気分を害しながらご要望のカフェラテを真紀に渡す。
真紀はサンキューと鷹揚に受け取ってカフェラテを飲み始めた。
野口はめげずに真紀を相手に今度映画見に行こうとか口説いているが、どうも脈はなさそうだ。
手伝うほどの用事が残っていなかったこともあり、野口は早々に帰っていった。
「この辺りに映画館なんてあるの?」
「あるわけないでしょ。野口君はまほろば市にあるシネコンに行こうって誘っているのよ。彼はいい人だけど、私からみると、おっさんくさいところが目につくのよね」
功は彼女に年下と思われていたので複雑な心境だが、おっさんくさいと言われるよりはましかと気を取り直した。
掃除が終わった後で、功は真紀と一緒に事務所に寄ってから役場に転入手続きに行くことにした。
事務局長が電気や水道を使えるようにしてくれていたので、どうにか今夜から寝泊りが出来そうなので山本事務局長と真紀にそのことを告げる。
「今日の午後は予定空けているから、役場まで案内してあげる。局長それでいいでしょ」
「いいよ。真紀はそのまま直帰していいからな。研修用ハウスは俺が閉めておくよ。五時に閉めたらいいんだな」
真紀は機嫌のよい表情でうなずき、彼女と事務局長の関係が良好なことを伺わせる。
功は真紀の車に先導されて入手したばかりの自分の車を駆ってわだつみ町の中心部に向かった。前を走る真紀の車は型落ちのブルーのインプレッサで、テールにはSTIのバッジが光る。
功の車がワンボックスの軽自動車なのに彼女はあまり頓着しないでスピードを上げ、功は遅れまいと懸命に軽自動車を走らせた。
わだつみ街の中心部にある役場に着くとあっという間に転入手続きが完了し、功は何か食料を仕入れてから帰ると言って真紀と別行動を取ろうとした。
しかし、真紀は自分も買い物があるからとスーパーマーケットまで案内してくれた。
「小さな街だから顔見知りばかりになるわよ」
彼女の言葉どおりにスーパーマーケットの駐車場では野口と鉢合わせし、スーパーマーケットの隣が農協の購買部や出荷場になっていることが判明する。
「俺は液肥を買いに来ていたんだ。今からちょっと飲みに行かないか。喜輔に地物のカツオが入ったらしいよ」
何気なく誘ってくれた野口の言葉に、日頃はつれなくしているはずの真紀が食いついた。
「もしかしておごってくれるの?野口君気前いい!」
明らかにおごる気はなかった彼は功の方を見てたじろいだが、男気を見せて言った。
「もちろんだ。新人君の歓迎のためにご招待しよう。お昼前に港に入ったカツオなんて港町でないと食えないからね」
喜輔というのは野口の行きつけの居酒屋のことで、町の真ん中を抜ける二車線の道路に沿って歩けば五分もかからない場所に有ると言う。功は二人と共に歩くうちにこの町の主要な機能は駅前の半径百メートルほどのエリアに集中していることに気が付いた。
ほとんどの商店や飲食店もその辺に集まっているから便利だ。
野口が案内した居酒屋喜輔はわだつみ町中心エリアから少し外れたところにあり、少し薄暗い店内には発泡スチロールやガラス製の浮き等の漁具が天井や壁のあちこちからぶら下げてある。
しかし、観光客を意識しているわけではなく、地元住民が気兼ねなく飲食できるお店のようだ。
「いらっしゃい」
「今日は山本さんのところの新しい人を連れてきたよ」
「あそこも農林業公社にかわったんだね。何かと大変だな」
カウンター越しに野口と話しているマスターは功と真紀に会釈して見せる。
「こいつは同級生なんだ。昔はろくでもないやつだったけど、ちゃんと居酒屋を経営しているから大したもんだよな」
野口が功と真紀にマスターを紹介した。
「余計なことは言わなくていいんだよ。最初はビールでいいのかな」
マスターは髭の濃い顔に柔和な微笑みを浮かべて突き出しの小鉢を出す。
中に入っているのは見慣れない海産物とムールー貝を一回り小さくしたような二枚貝だ。
「これっていったいなんていうものですか?」
知らないものを食べるは勇気がいるので、功は野口に海産物の正体を聞いた。
「私もこれ見たことはあるけど、食べるのは初めてだと思う」
真紀も、どうやって食べたらいいのか分からない様子だ。
「これはカメノテというんだ。見たところがカメの手首みたいだろ。食べ方っていってもこうして中身を出せばいいだけだよ」
カメノテは、は虫類的なきめの表皮をした「手首」状の部分に爪のような殻が集まってできた「手」がくっついている。
野口がカメノテを手に取って平たくなった「手」の部分に縦方向に圧力をかけるとパカッと割れて中身が出てきた。
手首部分の中身はピンク色の肉質なのだが掌部分は何だかもじゃもじゃしたエビの足みたいなのが詰まっている。
「どの部分を食べるのですか」
「ピンク色の部分がおいいしいけれど、先の方も食べられるよ。貝はムラサキイガイと言って真ん中にはみ出してる糸くずみたいなところをつまんで食べるといいよ」
エイリアンの解剖でもしているような趣の功に、野口が苦笑しながら言った。
「甘エビの塩辛みたいな味でおいいしいですね」
カメノテを食べた功は思わずコメントを漏らした。
カメノテは塩茹しただけなのだが、濃厚な味でなかなかおいしく、ムラサキイガイも多少小粒だがムールー貝のような味で美味だった。
真紀も自分の小鉢のカメノテをその姿に臆することなく食べている。
「他所で食べていなくてもおいしい食材ってあるんだよな。他県ではヒトデがごちそうっていう地域もあるらしいよ」
野口は二人の食べっぷりを見ながらマスターに告げる。
「大将。ご自慢のカツオとアオリイカを刺身で出してやって」
「はいよ。野口も農業仲間になってくれる人は大事にしないといけないからな」
マスターは人数分のジョッキを置きながら答えるが、功はジョッキの大きさに目を丸くする。
「うん。西山君は大阪に帰ってしまったし、その前にいたシキミ君は結局、居つかなかったからな」
榊原だろ。野口がアバウトな話をしているので功は心の中でつっこみを入れた。
「そういいえば、あんたは、何で東京からわだつみ町に来ようとか思たんだ?。わざわざこんな片田舎にこんでも仕事はありそうなものなのに」
野口は功に訊ねた。急に話を振られ手功は少し慌てる。
「そう簡単ではないんですよ、実は半年ほど前に勤めていた会社が倒産したんで、新しい就職先を探したけれどなかなかいいところが見つからなくて」
日本の就職システムは、中途採用を軽視しているため、大卒で入社した会社がつぶれてしまった功は正規ルートから弾かれて、なかなかいい仕事には就けないのだ。
「県がお台場で新規就農相談会をしている時にたまたま近くを歩いているところを農業体験研修所の職員につかまってスカウトされたって聞いたわよ」
真紀が余計なことを言うので、功はなんだか居心地が悪くなった。
農業に対して熱意があるようなことを言わなければと考えていると、野口がおもむろに口を開いた。
「そんな中途半端な気持ちで研修受けて大丈夫なのか。農業を始めるには初期投資も必要だから借金だってしないといけない。一旦経営を始めた後で農作業がしんどいとか言って投げだしたら、周囲に多大な迷惑をかけることになるんだぜ」
野口の口調は厳しく、功は自分の気持ちを見透かされたような気がして凍り付いた。
第11話 「カメノテの誓い」
「野口君、そんないい方しなくてもいいでしょ。彼は私たちと一緒に働いてくれるつもりで研修に来てくれたんだから」
「それはそうだ。でも農業でもしようかって軽いノリで経営を始めて、ちょっとしんどくなると何もかも放り出して逃げたやつがいたから、手放しでは信用できない」
真紀がとりなそうとするが過去に何かトラブルがあったらしく、野口の表情は厳しいままだ。
「僕は、初期投資の問題もあるから、研修が終わったら職員として雇用してもらって、技術的にやっていけるようになったら自分で経営しようと思っているのです」
「ふーん意外と手堅く考えているんだな」
功が自分の計画を説明すると、野口も納得した様子だが今度は真紀が顔色を変えていた。
「功ちゃんそれはちょっと話が違うかもしれない」
功は真紀の表情を見て不安になりつつ尋ねる。
「それってどういうこと?」
「山本事務局長がいろいろ話したのだと思うけど、あの人は今の体制でできることと、自分がやりたいと思っている集落営農法人を立ち上げてからの話を混同するところがあるの。今の農林業公社の体制で研修を受けて、そのまま公社職員になることはできないわ」
功の心の中では真紀の言葉を受けて不安が広がっていく。
「なんで職員になれないの」
「公社の職員は、採用試験を実施して最終は理事会で承認されないといけないの。今の受託面積では、正職員を増やす話にはならないと思う。山本事務局長はいつか、集落の農地をすべてまとめた集落営農法人を作るからその時は職員にになって一緒に仕事をしてくれって言うつもりだったと思うの」
真紀は一生懸命説明してくれるが、給与が保証されるのと個人経営で放り出されるのでは話が違う。
功は目の前が暗くなりそうな気分だが、この二人に文句を言える話ではなかった。
功は農業経営で高所得をあげられるという話に興味を持ったのがまほろば県に移住することを決めた理由の一つだったことを思い出すが、最初から数千万円単位の負債を抱えて農業を始めるのはあまり気が進まないので、法人に雇用してもらうことで農業を始める第一歩と考えていたわけで、それが無理なら当初の目的通りに自分で経営開始もいいかもしれないと自分に言い聞かすように考えて落ち着こうと努めた。
功が頭の中で高速で考え事をしてそろ盤まで弾いているとは知らず、真紀と野口は黙り込んだ功を挟んで、互いに身振りでお前がフォローしろと押し付けあっている。
気まずい沈黙を破るようにマスターがカツオとイカの刺身を持ってきたので、真紀が小さな歓声を上げ、功も顔を上げた。
刺身皿にきれいに盛り付けられたイカの刺身は透き通った身の色が鮮度の高さを示しており、カツオの刺身は皮つきで提供されているが刺身一切の皮部分にそれぞれに更に包丁が入っている。
「今日のところは、美味しいものを食べて飲んでくれよ」
野口に勧められるままに一口食べた功は、刺身の食感に驚いた。
カツオの刺身はもっちりとした歯ごたえと弾力で今までに食べたカツオとは全く別物だ。功の顔を見た野口は、得意そうに言った。
「美味いだろ。その日の朝に水揚げされたカツオの刺身を食べられるのは地元だけだからね。そのカツオは沿岸で一本釣りされたカツオをそのまま持ち込んでいるから冷凍して流通しているのとは別物だ、そしてカツオは皮も美味いがそのままだと硬く感じるので皮の部分に包丁を入れてあるのがマスターの工夫だ」
野口はイカの刺身も勧めたが功がイカの刺身を口に運ぶ横で真紀の声が響いた。
「このイカってやわらかくてすごく甘みがある」
グルメ番組のレポーターみたいなコメントだが、一口食べた功は同感だった。
「このイカはなんて名前のイカですか」
スルメイカとは違うのはグルメならずともわかるところだ。
「紋甲イカだ。産卵のために岸近くに寄ってくるんだ。このイカは胴の中に芯みたいなのがあるんだぜ」
野口の話が聞こえたのか、マスターはカウンターの向こうで白い色の船のような形状の物体をかざして見せ、功は初めて見るイカの骨的な物体に目を丸くする。
野口は、功と真紀がうまそうに食べる様子を見てまんざらでもなさそうで、おもむろに二人に訊いた。
「話は変わるけど二人とも将来もこのわだつみ町で一緒に農業をしてくれるつもりなんだよな?俺は一緒に野菜を作って出荷する人が増えるのは歓迎するからな」
厳しいことも言ったが、野口君は自分たちを歓迎するつもりらしいとわかり、功はうれしかった。
「素人考えかもしれないけど、同じ野菜を作る人が増えたら競争相手が増えて値段が下がったりしないんですか」
少し酔っぱらってきた功は考えたことをそのまま聞いてしまうが、野口は真面目に答える。
「本当に素人の考え方だな。たとえば真紀ちゃんがどこかのスーパーマーケットに、真紀印のナスというブランドでナスを売ることになったとしようか」
「真紀ちゃんは一生懸命ナスの世話をするけどナスも生き物だからどうしてもまとまって収穫できない時期もできてくる。そうするとスーパーマーケットの方ではお店のナス売り場に穴が空かないように別のナス産地のナスを仕入れて売らざるを得なくなる」
耳新しい話なので、功も真紀も真剣に耳を傾けた。
「真紀ちゃんのナスがまた取れるようになったら、スーパーマーケットもまた店に置いてくれるけど、そんなことが度々続くとスーパーマーケットとしては、真紀ちゃんのナスよりも、安定して出荷してくれる別の産地のナスを店頭に並べたくなるということがままある訳だ」
野口はジョッキのビールで口を潤して話を続けた。
「真紀印のナスでなくて、わだつみ町の農協の名前で売る場合でも事情は同じだ。ある程度の出荷数量を保たないと他の産地に売り場を取られてしまう。そのため、部会組織を作って生産者の人数を確保しようと頑張っているわけだ」
野口君が一息ついたところで今度はカツオのたたきが運ばれてきた。まほろば県のご当地メニューの鉄板的なアイテムと言って良い一品で、野口は手振りで食べるように促しながら話を続ける。
「そういう訳で俺としては、一緒にニラを作ってくれる仲間は増やしたし、それだからこそ研修受け入れもしている。わかってくれたかな?」
「はい、よくわかりました野口君、このカツオのたたきも最高、何でこんなにおいしいの」
真紀はいつのまにか、地酒の純米吟醸をオーダーして飲んでいる。
「それは、塩たたきと言って塩を主体に味付けしているから素材の味が活きるんだ。塩だって地元で海水を天日乾燥して作ったのを使っている」
野口君の説明を聞いたマスターは、瞬間嬉しそうな表情を浮かべた。
「そのお塩を作っているところを知っているわ。港から東に行ったあたりでしょう」
「そう、松ノ浦の手前の辺りだね」
カツオから塩の話へと二人の話が弾んだ。
「松ノ浦の沖合で釣り用の筏ってやっていなかった?」
「やっているよ。今度一緒に釣りに行って見ようか」
「行きたい。どんな魚が釣れるの。私釣りってあまりやったことがないのよね」
「そうだな、鯵とかが多いけどこれからの時期ならイサギとか鯛もつれるかもしれない。違う仕掛けを使ったらさっき食べたイカもつれるしね。今度予約入れるから一緒に行こう。」
「わかった。今度予定を見てから連絡するね」
野口はいつもより真紀のノリがいいので、約束を取り付けようと必死だったが、彼女は確約しない。
その時、功が野口に訊ねた。
「野口さん失礼なことを聞くけど、年間所得いくらぐらいあるんですか」
「本当に失礼だよ。まあ、俺は人格ができているから教えてやるけどな。今年の青色申告の所得額はこれくらい」
野口が割りばしの袋にさらさらと書いて見せた金額は八桁の金額だった。
「すごいじゃないですか。本当にこんなに所得が上がるんですね」
「声が大きいい。人前で沢山稼いでいますなんて言うもんじゃないんだよ」
野口は口の前に人差し指を当てて見せたが、真紀も金額を見て目を丸くしたのを見てまんざらでもなさそうだ。
「なあ、研修が終わったら、臼木で就農しろよ。俺が近所にいるから絶対に失敗しないように教えてやる。一緒にニラを作ってバリバリ稼ごうぜ」
野口君は先ほどの話のフォローの意味も込めて明るく呼びかけ、功はゆっくりとうなずいた。
「よし、本気だな。今日は一緒に飲めてよかったよ。この三人はいつまでも良き友として農業を続けることを誓おうぜ」
野口君はフレンドリーなだけでなく熱い人なんだなと功は思い、今まであまり接したことがないタイプの人だが、弟子入りすれば頼りになりそうだと考える。
「何だか三国史の桃園の誓いみたいね」
話を聞いていた真紀がいいノリで話に乗る。
「お、いいことを言うね。俺たちの場合はさしずめカメノテの誓いってところだな」
功は何故カメノテが出てくるのかわからなかったが、野口の人柄に影響されて気分が前向きになるのを感じた。
飲み会がお開きになると、真紀は家が近いからと歩いて帰って行き、野口は携帯で運転代行サービスを呼んでいる。
功達のように自動車で出かけてきてお酒を飲んでしまったときに、車を運転して家まで運んでくれるのが代行運転サービスだ。
野口は功の近所に住んでおり、ついでにと功の分も頼んでいるようだが、二台分頼むけど帰りの車は一台で済むはずだから安くしろと無体なことを行って値切っている。
代行業者が来るのを待っている間に野口は功に言った。
「功ちゃん、さっき真紀ちゃんと釣りの話で盛り上がってるときに話のこしを折ってくれたな」
功はそういえばそうだったかと気づいて微妙に緊張した。
「責任取って真紀ちゃんと一緒に釣りに行く話をセッティングしてほしいな。功ちゃんも一緒に行っていいから」
彼にしてみれば、あの時追い打ちをかけて、釣りに行く日程まで詰めておきたかったに違いない。
「僕はまだこちらに来たばかりだからちょっと落ち着いてからでいいですか。それに釣りの道具も持っていないし」
「いいよ。春先からからイセギがよく釣れるようになるからそれを狙っていってみよう。道具は二人の分も準備するから頼むぞ」
そこまで言われると断るわけにも行かない。功は野口君の携帯番号を教えてもらい、真紀を釣りに誘うことを約束させられてしまった。
功が代行業者の運転で宿舎に帰ったときには夜十時を回っていた。荷物から引っ張り出したふとんにもぐりこんだらいつの間にか寝てしまっていた。
夜中に目が覚めた功は宿舎の外から聞こえてくる音に気がついた。
コロコロと聞こえる音が折り重なるように聞こえ、功はしばらく聞いているうちに、それが蛙の声だと気が付いた。
周囲の水田で冬眠からさめた蛙たちが一斉に鳴いているのだ。
功は、自分が自然が豊かな集落の中にいるのを改めて実感して改めて眠りについたのだった。
第12話 マダニの功罪
功が臼木農林業公社の研修生になって一週間が過ぎた。
功にとっては山本事務局長と一緒にあいさつ回りをしたり、農業用機械の基本操作を教わっているうちにあっという間に過ぎた一週間だった。
金曜日の夕方、その日の業務を日誌に付けるように言われた功が、事務所のパソコンで日誌を書いていると、山本事務局長がおもむろに話し始めた。
「月曜日の朝に地区の田役があるんだ。地区の皆さんへの顔見せも兼ねて、功ちゃんに初仕事に行ってもらおうか」
「それって、どんなことをするんですか」
功は画面から顔を上げて山本事務局長に尋ねた。いきなり田役と言われても功には何の事だかわからない。
「もうすぐ田植えが始まるから、地区の住民が共同で農業用水路の草刈りや、土砂を取り除く作業をするんだ。用水路の流れが悪いと田んぼに水を張ることができないから大事な作業だぞ。おれも一緒に行くから一緒に作業をしてくれ」
功に異論があるわけもなく、月曜の朝に功と山本事務局長は、夜も明けきらぬうちから集合場所に出かけた。
早朝に集合したメンバーは各自が持ち寄った草刈り機で水路の周りの雑草を借る作業に取り掛かる。
功も農林業公社の草刈り機を使って作業に参加した。
草刈り機は小さなエンジンからシャフトで回転を伝えて、円形の歯を回して草を刈る機械だ。
迂闊に扱うと近くにいた人に大けがをさせてしまうので、功には真紀が徹底的に取り扱いをレクチャーしたばかりだ。
功はしばらく草刈りを続けたが、勢いよく回っていた草刈り機のエンジンは、息をついたかと思うと、ぷすぷすと止まった。
どうやら燃料が無くなったみたいなので、功は燃料タンクを置いた場所に給油に向かい、まだ惰性で回っている円形の歯を刈り飛ばした草に押しつけて止めた。
さっき野口がやっていたのを早速まねてみたのだ、何だかプロの仕草のようでかっこいい。
功は歯の回転が止まった草刈り機を担ぎなおすと、急な斜面をゆっくりと降りていった。
「ガス欠だろ、ちょうどきりがいいからみんなで休憩しようか」
功の様子に気が付いた野口が声をかけ、皆で休憩を取ることになった。
集落の共同作業のはずなのだが、参加者は少ない。野口君の他には功と山本事務局長、そして、区長の金子区長の総計四名だ。
作業の参加者は思い思いに腰を下ろして、持参した水筒からお茶を飲んだりしており、皆が集まっている近くの斜面には刈り取った草が積み上げられていた。
見た目はふかふかの状態に見えたので、功はその上に寝転がってみようとした。
「そんなところに寝転がったら、切り株が背中に刺ささっちまうぞ」
誰かが言ってくれた言葉の意味が功の脳内で理解されるのと、背中に無数の切り株がぷすぷすと刺さるのはほぼ同時だった。
「いてて」
功はあわてて起きあがったが皆は口々に小言を言う。
「おまえ、草刈りしたばかりなのに、そんなことしたら草の汁が付くだろ。作業服は頻繁に更新できないって最初に言っておいただろ」
「もう少し考えて行動しないといかんよ」
山本事務局長や金子区長にたしなめられて功はなんだかばつが悪い。
「ほら、こっちに来てお茶でも飲めよ」
野口が番茶が入った大きなやかんを掲げて見せたので、功はホッとして彼の近くに座った。
功は、今回の仕事はたかが用水路周辺の草刈りだと高をくくっていたが、用水路は地区から北へ山の斜面に沿って延々と続いている。
「この用水路は一体どこから来ているんです」
よそ者の素朴な疑問だが、区長の金子区長さんは嬉しそうに話を始めた。
「臼木の用水路はここから三キロメートルほど上流から続いている。そこには大きな滝があって滝坪を満たす豊富な水に目を付けた時のまほろば藩の家老の野上兼山が、水の乏しい臼木に水路を引くことを考えたと言われている」
しまった。このおっさん話が長そうだと功は気づいたがすでに手遅れで、心なしか野口が功を見る目が冷たくなったような気がする。
「兼山は滝壺の標高が臼木よりも高いことを測量により割り出した。本来の川の流れはそこから西に流れ、臼木の辺りまで来たときは遥か下の谷底を流れているが、彼が作った水路は山の中腹を通って、現在の臼木の集落まで達し、一帯を豊かな土地に変えたのだ」
山本事務局長と野口は黙ってお茶をすすっており、二人とも同じ話を散々聞かされてきた雰囲気が漂う。
「水路が作られたのは江戸時代の話だ。それまでは、臼木の中程を流れていた川も田植えの時期には水が無くてとても水田が作れるような水量では無かった。それが水路ができたことによって米作りができるようになり、人も増えたのだ」
「そんな時代によく高低差を測量できたもんですね」
功が疑問を口にすると野口君はこれ以上余計なことを言うなと言いたげに功をにらんだ。
そして山本事務局長がお茶を飲んでいる金子区長が再び口を開く前に説明を始めた。
「それはな、夜に提灯を持った人を水源まで並ばせておいて、谷の反対側から見て高さを目測したんだよ」
金子区長は自分の代わりにあっさりと説明されたので不満げだったが、再びお茶を飲み始めた。
しかし、水路というのは素掘りで幅四十センチメートル程度の溝でしかない。
それが延長三キロメートルも山の中腹の斜面をのびている訳で、当然のように途中で斜面から崩れた土砂によって埋もれかけたり、周囲が草に覆われたりしている。
それを雑草を刈り払い、詰まった土砂を綺麗に掃除して水が流れるようにするのだから、一大事業と言っても過言ではなかった。
しかし、今日集まった人数はわずかに四人だ。
功は午後からどこまで進めるか考えてみたが、どう考えても一日では終わりそうになかった。
とはいえ、集まった者は作業をするしかなく功たちは休憩を終えると再び作業を開始した。
金子区長の計画は、先に水路の全長にわたって草刈りを済ませてその後で水路の掃除にかかるつもりのようで、功たちは水路の両側に分かれてひたすら草を刈って進んでいく。
作業をしながら山の斜面に沿って回り込んでいくと、功たちが作業をしている水路からほど近いところで、高速道路の延伸工事が行われているのが見えた。
高さが数十メートルに達するクレーンやシールドマシーンという掘削装置が持ち込まれてハイテクを結集した高架橋やトンネルが作られている。
高速道路は隣のいざなぎ町から長いトンネルとなっており、橋脚高い高架橋で谷をまたぐと再びトンネルに入り臼木の集落を素通りしていく計画だ。
高速道路の工事現場を見ていると功は土を掘った水路を補修するのがなんだかばかばかしくなってきた。
高速道路の予算をほんの少し分けてくれたら全面コンクリートの水路にできそうだと思ったからだ。
お昼近くになって、功たちはどうにか水路の延長の半分を過ぎる辺りまで進んでいた。
「それにしても、今日は集まりが悪いね。この出役には毎年少ないと言っても十人ぐらいは集まってくれる。十人いれば班分けして区間を割り当てて作業を始めるからもっとはかどるんだよ。金子さんちゃんと集落のみんなに知らせた?」
山本事務局長が金子区長に尋ねた。
くま手をもって、刈り取った草を集めに行こうとしていた金子区長は立ち止まると一呼吸置いてから振り返ると言った。
「もちろん、区の予算を使って対象者全員に通知をしたよ。わしもこれほど人の集まりが悪いのは何故だろうかと訝しんでいるところだ」
金子区長は一息ついていてからさらに続ける。
「今日のうちに終わらなかったら、日を改めてやり直す時間はないから農林業公社に業務委託して最後までやってもらいたいのだが」
「田役ってそういうもんじゃないでしょ。もう少しちゃんと皆に周知しておいてもらわないと」
野口君はいつになく厳しい意見を口にする。
そのとき、集落の方向から岡崎と真紀が歩いて来るのが見えた。
水路沿いには自動車が通れる道はないから歩いて昼食を運んできたのだ。
「皆さんお疲れ様。飲み物と弁当を持ってきました」
お弁当と飲み物は金子商店の品物だ。区長が自分の商店に発注したら問題になりそうな話だが、他にお店がなければ仕方がない。
とりあえず食事を始めようとする皆の横で、岡崎が言った。
「今朝から公社の事務所に、自分は田役に出なくてもいいのかって問い合わせが何件も来ているけど、どういうことかしら」
岡崎の言葉を聞いて山本事務局長は改めて金子口調を問い詰める。
「金子さん一体どんな文面でお知らせを出したんだよ」
皆の視線が金子区長に集まり、彼は仕方なく話し始めた。
「実は、高齢者は作業を免除すると付け足した」
「そんなことを書いたら誰も出てこないよ。臼木の集落は町まで勤めに出ている者を除いたら六十五才以上高齢者がほとんどじゃないか」
野口君が指摘すると金子区長さんはうなだれた。
「去年の水路役の後で、しばらくしてから今西さん方のじいさんが肺炎で亡くなっただろ。わしは、あれが水路役で無理したのが祟ったのじゃないかとずっと気がとがめていた。八十を超えるような人は無理して出てこないでくれというつもりで書いたんだよ」
それを聞いて皆はしん静まった。何となく気づまりな空気の中で沈黙を破ったのは山本事務局長だった。
「世間一般では六十五才以上は高齢者とされているからな。理香ちゃん事務所に帰ったら問い合わせしてくれた人たちに電話して、昼から作業に来てくれるように頼んでやって」
「わかった、そうするわ」
岡崎は温和な笑顔を浮かべる。
岡崎と真紀が事務所に帰ろうとしたときに真紀が功の腕をつかむとぐいと引き寄せた。
「これ何?ほら功ちゃんの耳の下にくっついているやつ」
皆が功のまわりに集まった。
「それはダニじゃ。さっきその辺に寝そべったときに着いたんだろ。最近イノシシやらシカやら増えたからダニも増えて獲物が来るのを待ちかまえていたのだな」
金子区長が断言するが、功は自分で見えない位置なので気になって仕方がない。
「誰か取ってくださいよ」
「いや待て、素人が取ると口の部分がちぎれて皮膚の中に残って腫瘍ができると聞いたことがある。犬神の診療所にいって見てもらった方がいいよ」
「そう言えばマダニが媒介するウイルス病で重症になったニュースを最近見たような気がする」
皆の話はどんどん物騒な内容になっていき、先ほどから何となく寒気がしていた功がそのことを話すと山本事務局長は功に宣言した。
「おまえは、もう作業はいいから病院に行ってこい」
支所長の療養宣告が出て、功は診療所に行くことになった。
しかし、一キロメートルを超える距離を歩いて帰り、自分の車で診療所に行くまでの間マダニは功の血を吸い続けている。
診療所で診察を受けるときには、功は誇張ではなく涙目になっていた。
初老に差し掛かった温厚そうな診療所の医師は、功の訴えを聞いてから診察に移った。
「これは見事なダニが三匹も食いついているね。一体どこの藪の中をうろついていたんだい」
「地区の田役で水路の管理作業をしていたのですよ」
「そうか、それは感心だ。ちょっと痛いかもしれないが辛抱してくれよ」
医師は功の視野の外で何かの器具を使ってダニを皮膚から取り除いている。
「除草作業中にやられたみたいで、何だか寒気がするのですけど、変な病気に感染していませんよね」
功は必死で訴えるが、意思は意に介していなかった
「ウイルスで症状が出るのは、もう少し後になってから。あんたは動いて汗をかいたのに着替えもしなかったせいで風邪を引きかけているようだね」
どうやら診療所の医師は心配ないと言っているようだ。
「ほれ、これがあんたに食いついていたダニだ」
そう言って銀色のトレイに乗った三つの物体を見せてくれた。
「こんなにでかいんですか」
功に食いついていたダニは、一センチメート近くありそうな丸い球体だった。
丸い胴体に比べて小さな頭部付近に足がまとまっていて何だかグロテスクな形態だ。
「血を吸うとふくれるからね。無理に取ると口器が皮膚の中に残るが、満腹になると勝手にとれる。こいつらは満腹になっていたから簡単にとれたよ。記念に持って帰るか?」
ダニを差し出す先生に。功はいりませんと断った。
「今日は帰って休みなさい。何日かたってから高熱が出たらまた来ればいい」
功は医師に礼を言ってから診療所を出ると、森の中で寝転がるのはやめておこうと心から思っていた。
功はその夜微熱が出たが、ただの風邪だったようで翌日には治った。
しかし、集落では功のことが田役の最中にダニにやられて倒れた研修生として、話に尾ひれが付いて広まっていた。
翌朝、功が農林業公社の近くを歩いていると、突然生垣越しに声をかけられた。
「ここに来たばかりなのに、ダニにやられて倒れるなんて気の毒にね。体調に気を付けて無理しないようにしなさいよ」
腰の曲がったおばあさんが気の毒そうな顔をしてこちらを見ていた。そこは、これまでに何度も通って人の気配がないと思っていた家だった。
そこから少し歩くと、目の前にホウレンソウの束が突きだされた。
「昨日は大変だったみたいだな、これを持って帰って食べなさい」
先ほどの家の隣の家から現れた高齢の男性だった。
功はほうれん草を受け取ってから礼を言って歩き始めたが、ここに引っ越して来て以来、集落の住人たちがひそかに自分を見ていたことに気が付いた。
ラッシュ時の新宿駅の西口辺りに居たら目に入る範囲に数百人の人がいるはずだが、自分に注意を払う人など皆無のはずだ。
しかしここでは、集落外から来た人間は注目の的なのだと功は気が付いた。
山本事務局長達が集落の人に会ったら挨拶をしなさいと言っていた由縁だ。 功にとってダニに刺されたのは災難だったが、集落の共同作業に参加している最中だったおかげで、集落の皆に好印象を与えることができたのかもしれなかった。
第13話 ライフプランと交付金
功は夜が明けた直後の研修用のビニールハウスの中でミツバチの巣箱をじっと見詰めていた。
ミツバチの巣箱の正面には丸い蓋が付いている。
丸いフタは三つのパートに分かれていて、小さな穴が開いた部分、大きな開口部がある部分、そして開口部がなくてミツバチの出入り口を完全にふさぐ部分となっている。
今は大きな開口部の部分が巣箱の出入り口に来ており、ミツバチが自由に出入りできる状態だ。
功は出入りするミツバチが途切れた瞬間に蓋を回して入り口を完全にふさぐつもりで様子をうかがっていた。
「功ちゃん今よ」
功の後ろから見ていた真紀が囁き、功は素早く巣箱に近寄り、丸い蓋を回して巣箱の入り口を完全にふさいだ。
これで巣箱の中からミツバチが出てくることはない。
功は木でできた巣箱をそっと持ち上げると脇に抱えるようにして運び始めた。
箱の中ではブンという羽音が響き、ミツバチ達が騒ぎ始めた。そして巣の外に出ていたハチ達は何をするんだという雰囲気で功の後を追ってくる。
功が通り過ぎた後で、真紀は小さな箒を振り回して追ってくるミツバチ達をけん制した。箒は柔らかいのでハチ達が致命傷を負わないというのが真紀の主張だ。
功と真紀が巣箱を運び出しているのは蜂蜜を盗むためではなく、功の研修用ハウスでワタアブラムシが発生して農薬を散布しなければならなくなったからだ。
功は運び出したミツバチの巣箱を臼木農林業公社のイチゴ用ハウスに運ぶ。
西山がイチゴ栽培も希望していたので1アールほどの小さなハウスにイチゴの圃場が設けられていたのだ。
主がいなくなったイチゴのハウスは岡崎と真紀の手で細々と維持されていた。
功はイチゴハウスの見通しの良い、明るい場所に巣箱を置こうとしたが、真紀は首を振った。
「そんな直射日光が当たる場所に置いたらハチが皆死んじゃうでしょ。日陰でなおかつアリが来ないところじゃないとだめよ」
功はミツバチの巣僕を抱えたままで周囲を見回した。巣箱の重量は20キログラム近くあるので結構重い。
「難しいな。ベニヤ板で日よけを作ってはどうだろう。その辺からコンクリートブロックを拾ってきてその上に巣箱を置いて、箱の上にはベニヤ板の屋根を作るんだ」
「そうね。それなら合格かしら。ちょっと待って先に足場を作ってあげるから」
真紀は先に立って駆けていくと、手近にあったコンクリートブロックを二つ並べ、その上に木の板を渡した。
巣箱を置くのにおあつらえ向きの台座の出来上がりだ。
功はミツバチの巣箱をそっとおろすと入り口を開けようとした。
「待って、少し落ち着いてからでないと皆飛び出して来るから」
「そうだね、事務所でお茶してから開けに来よう。屋根もその時でいいかな」
功は真紀の先に立って農林業公社の事務所に向かって歩き出した。
功たちの本来の研修開始時間は8時半だが、今はまだ夜が明けたばかりで、事務局長や岡崎が出勤してくるまでたっぷりと時間があった。
「大体、功ちゃんがアブラムシの発生に気が付くのが遅いのよ。発生初期ならマシン油乳剤とか微生物農薬でも抑えられるからハチちゃんを避難させなくても済んだのに」
「ごめん。気が付いたときはナスの一株の上の方の葉が真っ黒になるくらい増えていたんだ」
ミツバチはナスの受粉用にビニールハウスの中を飛ばせているのだが、ミツバチは農薬には弱く、害虫防除用の農薬を散布したら当分の間ビニールハウスの中に戻すことはできない。
「ネオニコチノイド系の農薬を使ったら、もう今シーズン中はハチ達を入れるのは無理ね」
「え、そんなもんなの」
「そうよ。人には毒性が少ないけどマルハナバチの場合は農薬を散布してから五十日経っていても、バタバタと死ぬのよ」
功はがっくりと肩を落とした。
功も研修でナスの世話をするようになると、自分が担当するナスの花が咲き、次第に果実が大きくなることが楽しみになっており、収穫適期となったナスの光沢のある果皮を見ると、その美しさを誰かに自慢したくなるくらいだ。
しかし、ミツバチがいないと功自身が、ナスの花一つ一つに植物ホルモン剤をかけるか振動を与えて花粉を飛び散らせないとナスの実が着かない。
「それじゃあ、あのハチ達はこれからどうするの?」
「そうね、イチゴの花の蜜でも集めてのんびり暮らしてもらったら」
真紀は他人事のように答え、功は仕方なく自分ミツバチの代わりに受粉作業を行う覚悟を決めた。
ミツバチを無事にイチゴのビニールハウスに移動し終えて、功と真紀は本来の研修開始時間まで一休みすることにした。
臼木農林業公社の事務所には職員と研修生がお金を出し合ったドリップ式のコーヒーサーバーがあり、功と真紀が買い置きのお菓子をつまみながらのんびりコーヒーを飲んでいると、山本事務局長が事務所に現れた。
彼の普段の出勤時間よりかなり早い時間帯だ。
「お前達ずいぶん早いな。どうしたんだよ」
「午前中に農薬散布するからハチちゃんを避難させていたのよ」
「感心だな。俺が早めに出てきてやっておこうと思ったのに」
山本事務局長は機嫌のよさそうな顔をして腕組みをしていたが、やがて功と真紀に向かって言った。
「今日は二人の研修計画の件で一緒に役場まで行くけど、その帰りに昼飯おごってやるよ。心がけがいいから、サービスしてあげよう」
「本当に?、おごってくれるなら私は石窯焼きピザがいいな」
真紀は遠慮なく店のリクエストを始めていた。
研修計画というのは、功や真紀が農業を始めるために技術を身につける計画だ。
功は研修期間中は国の交付金として毎月十二万五千円の研修手当てがもらえると聞いていた。
国の交付金は県と町役場を経由して農林業公社から功に支給されるのだが、そのためには申請手続きが必要になる。
役場の二階にある小さな会議室で功と真紀は町役場の職員や県の出先機関の職員から制度の説明を受けた。
功や真紀は研修機関でもある臼木農林業公社の研修生となるので、研修の実施についてはほとんど問題がなかった。臼木農林業公社は国の交付金を使うことを視野に入れて研修カリキュラムを整備していたから、そのまま国の制度に乗ることができるという。
二人が考えなければならないのは、研修終了後に就農してからのライフプランに他ならなかった。
功は最初、農林業公社の職員として働けると思っていたが、それは勘違いだと判明していた。
研修が終わったら自分で農業経営を始めなければならないとしたら、国や県の支援制度が使えるか否かが重要な問題と言ってもよかった。
「榊原の話とか聞いて不安があるかもしれないが、臼木の農林業公社としても責任をもって就農後も青年就農給付金の制度に乗れるように努力するよ」
山本事務局長は真面目な表情で語った。
無論、功もわだつみ町に来て以来自分で経営を始めるプランを考え始めている。
「その給付金っていうのは一体どういう内容なのですか」
功が尋ねると、まほろば市にある県庁から事業説明に来ていたという植野氏が鞄からパンフレットを取り出して説明を始めた。
功は農業人フェスティバルで彼と会ったのを思い出す。
「青年就農給付金というのは年齢が四十五才以下で独立自営就農に対して強い意欲を持っている農業者に、研修期間は二年間、経営開始時期は五年間を限度に年間百五十万円を給付する制度です」
植野氏は慣れているのかスラスラと説明する。
「農業を始めるには技術を身につける研修が不可欠ですがその間は収入が無くなるので本来なら生活費をためておく必要があります。そして、技術的に未熟で経営が不安定になりがちな就農直後の時期も出荷が思うようにできずに生活費に事欠くことも考えられます。その時期を乗り切るための給付金です」
功が違和感を持ったのは、給付金と言う言葉だった。
「それは、育英会の奨学金みたいに時期が来たら返済しなけらばならないお金ですか。」
功の問いに町役場の森永さんが答えた。
「給付金は貸付金じゃないから返さなくていいのですよ。使用目的にも制限は付かないから安心して使ってもらえます。」
功は年間百五十万円のお金をただでもらえるということを理解して驚いた。
功がコンビニでバイトして稼げるのがせいぜい年間百万円程度でありアルバイトで一年間しんどい思いをして稼げる以上の金額がポンともらえるなんてあり得ないような気がしている。
それも制度をフルに使えば総額は一千万円を越えそうだ。
功は信じがたい思いとともに、自分がその給付金をもらえる立場であることを理解した。
「もっとも、経営を開始してからの給付金は、所得制限があります。独立自営就農後の農業所得が二百五十万円を超えると給付は停止されます」
野口の所得は一千万円を軽く超えており、功は彼らの言う所得が売上高なのか、経費引き後の純利益に相当するかが気になった。
「農業所得って売上高のことですか」
森永と上野が顔を見合わせ、直接の窓口となる町役場の上野が説明する。
「いいえ、売り上げから諸経費や専従者給与を引いた金額ですよ」
「所得制限を超えることを心配しているんですか。頼もしいな」
植野が嬉しそうな表情でつぶやいた。
「それはそうだろ、こいつは基幹農家を目指しているのだから。給付金をもらうために所得が二百五十万円を超えないような経営計画を五年分作るのは制度の主旨と違うと思うな」
「その通りですね」
山本事務局長が何となく偉そうに話すのを、植野が謙虚な表情で聞いている。
独立自営就農と言うと大仰だが、経営を初めてうまくいかない場合のセーフティーネットができたということだった。
「それでは川崎さんも宮口さんも農林業公社で二年間研修を受けた後に、ニラの施設栽培で就農するという計画ですね。施設は県のリースハウスを使い、町も義務負担金を予算化するということで間違いないですね」
「公社の研修生ですからそれは大丈夫です」
植野と森永が、公的機関の予算が絡む堅い話をしている横で、真紀は山本事務局長の袖を引っ張った。
「ねえ。私ナスの栽培の方が好きなんだけど、なんでニラの話になるのよ」
苦情を言う真紀に、山本事務局長はぼそっと言った。
「後で事情を話すから、このまま通してくれ」
真紀は不満を抱いた表情のままだがとりあえず口を閉じた。
「四月に始まる人・農地プランの話し合いの時に、この二人の新規就農の話もするのですか」
森永の問いに、山本事務局長は固い表情で答えた。
「集落営農法人結成の件でもめた挙句に話が流れた後だ。農地集積のためにプランを作りましょうなんて話をしたら紛糾するのは目に見えているから、研修生の就農給付金のためにプランを作ってくださいと言ったほうがすんなり話が通ると思う。どのみち、人・農地プランというのは作らないわけにいかないのだろ」
「そうなんです。うまく話をまとめてくださいよ」
役場の森永は山本事務局長に頭を下げた。
功達の計画を立てると言いながら、既定路線の確認のような話し合いが終わり、山本事務局長は真紀と功を連れて役場を出た。
「私のナスの話はどうなるのよ」
外に出るなり、真紀は山本事務局長に食い下がった。
「真紀がナス栽培が上手なのは認めるが、あれは加温栽培だ。最近の原油高で重油がどんどん値上がりしているから経営収支が成り立たなくなってきている。一生懸命作っても赤字にしかならないようでは仕方がないだろ」
「そんな。それだったら何故研修メニューに残しているのよ」
真紀は真剣な表情だったので、山本事務局長も真面目な顔で説明を始めた。
「国の研修用給付金も、去年まで使っていた町の補助金も支給要件に年間一千五百時間の研修時間が義務付けられていた。ニラ栽培の作業だけでは研修時間が稼げないんだよ。お前達は賢いからわかってくれるだろ」
山本事務局長の言葉を聞いて、真紀は唇をかんで俯いていたが、やがて顔を上げて言った。
「仕方がないわね。ニラの計画で認めてあげるから約束通りピザおごってよ」
彼女はいつもの表情に戻っており、思いのほか立ち直りが早いようだ。
「いいとも。早速行ってみよう」
いい雰囲気に戻って食事に行こうとたときに、役場のサイレンが鳴り始めた。
どうやら正午の時報として使っているらしいが、都会なら確実に近所から苦情が出る音量だ。
サイレンを聞いた真紀は心なしか表情を曇らせて海の方を眺めた。
局長が彼女の顔をのぞき込みながら何か声をかけるが真紀は手で局長を遮った。
「大丈夫。いつまでも変な気の使い方をしないでよ」
真紀は功に手招きしながら役場から高台に上る坂道を歩き始めた。
局長は怪訝そうに見ている功に気づくと、苦笑して彼女の後を追う。
真紀と山本事務局長が目指していた店は、石窯焼きピザ「フェデリコ」と看板がかかっていた。
丘の上の高台にあるのでわだつみ町の港や海岸線が見えるロケーションだ。
遠くまで続く白い砂浜と松林、そしてコバルトブルーの海のコントラストがきれいだ。
真紀のおすすめは地元産サルエビをふんだんに使ったシーフードピザだった。
真紀と山本事務局等は余ったピザの争奪戦を繰り広げて騒々しい。
しかし、功は話の合間に真紀が遠い目をして海を見ているような気がしていた。
第14話 農地守る超高齢者
功は臼木農林業公社を目指して軽四輪トラックのハンドルを握っていた。
研修用ハウスで収穫した野菜をわだつみ町の農協の出荷場に持ち込んだ帰り道なのだ。
マニュアルトランスミッションの軽四輪トラックの運転も慣れてくれば難しくはない。
わだつみ町の真ん中を南北に縦断して流れるイザナミ川に沿って町内唯一の幹線道路の国道を走りながら功は周囲の景色を眺めた。
水量の多いイザナミ川の流れに山肌の緑が映える。
常緑樹が主体の周囲の山肌にはところどころ山桜が交じって花びらを散らしていた。
どこかの観光地をドライブしているような風情だ。
功が収穫した野菜の出荷調整作業場に戻ると、功が帰着に気付いた真紀が空のコンテナを下ろすのを手伝う。
功と一緒にコンテナを下ろしながら真紀が告げた。
「今日の午後は作業の委託が来たから一緒に、林さんの田んぼをトラクターで耕運しに行くわよ」
臼木農林業公社では農作業の受託を行っており、研修生も研修の一環として作業に従事することになっている。
仕事に慣れるまでの間は、功はオンザジョブトレーニングとして真紀と一緒に作業することになっている。
午後になり、功と真紀は四トントラックの荷台に三十二馬力のトラクターをつんで出かけることになった。
「この辺の道はたいして交通量ないからトラクターで走って行ってもいいんだけど、今日は功ちゃんのトレーニングも兼ねているからトラックに積み込むところからレクチャーするわ」
彼女は簡単に言うがトラックの荷台にトラクターを積むのは結構大変だった。まずは、アルミ製の渡し板をガレージから運んできて荷台にセットするのだがこれが結構重い 。
運んできた板ニ本をどうにかトラックの荷台にセットすると、待ちかまえていた真紀がゆっくりとトラクターを前進させる。
二メートル近い長さのアルミの渡し板なのだがトラックの荷台に登るにはかなりの急傾斜になってしまう。
見ている方がはらはらしそうな角度でトラックの荷台に上ったトラクターは、荷台の奥でピタリと止まった。
功がぼんやり見ていると荷台から飛び降りた彼女が言う。
「功ちゃん、ボーっとしてないで固定するのを手伝ってよ」
彼女はトラックの反対側からロープを投げる。
トラクターを運ぶ際には走行中に荷台の柵にぶつからないようにロープでしっかり固定しないといけないのだ。
功は荷台の側面に着いているフックにロープを引っかけて真紀に投げかえす。
ロープのやり取りを何度か繰り返して荷台の端まできたところで、彼女がロープをしっかりと結びつけて固定した。
「それ、なんていう結び方なの」
その結び方をすると、緊密に固定できるがほどくのは簡単だ。
「さあ、ひとがやってるところを見て憶えたから名前知らない」
功がせっかく訊いたのに真紀の答えはなんだか気合いが入らない。
トラックに乗り込んで今日の現場に向かうと、十分もかからずに林家に到着した。
林家は町道脇の小高い石垣の上に母屋と納屋がある作りで、出迎えてくれた林さんに二人が挨拶する。
「まあ、二人も来てくれたら何だか申し訳ないわねえ」
林さんはたしかな足取りで功と真紀を家の近くの圃場に案内する。
彼女は高齢者なのに背筋が伸びてかくしゃくとした動きだ
「あんたがダニ事件で有名な宮口君ね、よくこんな田舎に来てくれたわね」
功が「田役」の最中にダニに刺された件は集落全域に知れ渡っていた。
「縁があったんですよ。ここはいいところですね」
功は当り障りなく応じたが、林さんが聞き及んでいたのはダニ事件だけではなかった。
「聞いた話では、都会でお医者さんをしている彼女に婚約破棄をされて自暴自棄になっていたそうね。」
功の身の上話が歪曲されてさらに痛い話になっているが、功は否定することもできなくて黙っていた。
「あやしい企業で働いたり、引きこもりになったりで大変だったらしいけど、これからちゃんとやっていこうとする人には私達も協力するからね。頑張っていくのよ」
話の内容が全くでたらめなわけでなく、事実と少し似ているのがやっかいだ。
功が訂正するために口を開こうとしたら、真紀が功の耳元でささやいた。
「たいして変わらないから黙っていなさいよ」
功は九割方事実と違うと思ったが、結局口を挟む機会を逃がしてしまった。
「今日お願いするのは、道路沿いの一筆と、もう一段下の一筆であわせてニ反六畝なの。できたら家の上段の畑も耕運してほしいけどそのトラクターでは無理かしらね。下の方の残りの田んぼは戸別所得補償の保全管理水田にする分だから、また今度の時にお願いするわ」
功はほとんど意味がわからなかったが、真紀は作業委託の申込用紙にさらさらと言われた内容を記載していく。
「わかった。とりあえず道路際の二筆は耕運して、おうちの上の畑は後で見て見ようか。申込書はこんな感じで書いたから後でハンコを押してね。支払いは公社の事務所にお願いします」
彼女は依頼内容を完璧に理解して事務もこなしている。
功が自分も頑張らなければと気を引き締めていると真紀の指示が飛んできた。
「功ちゃんが道端の方やってみて」
「了解」
功はおもむろにトラックの荷台にブリッジをセットしてロープをほどきにかかった。
積み下ろしの手間を考えるとトラクターに乗ってきた方が早そうだった。
功が作業する水田は、町道からトラクターで降りていけるようにスロープが付けてあった。
功は水田にトラクターを乗り入れると、ローターをおろして耕運を始める。
出発前のミーティングで二回耕運と確認していたので、一気に最後までやってしまうつもりだ。
トラクターのパワーを上げて耕運を始めたら圃場の脇から声をかけても聞こえない場合が多い。
真紀が愛用のホイッスルを吹いたらどうにか聞こえるかもしれない。
一通りの作業が終わって、田んぼから農道に乗り上げた功はふうっと一息ついた。
ローターに雑草が絡んでいないか気になったのでエンジンを止めるるとシートから降りる。
耕耘する間続いていたエンジン音が消えると、功の耳に蛙の鳴き声が飛び込んできた。
山の中とはいえ、四国のこのあたりでは春の訪れは早い。
水田の畦には菜の花が咲いているが、実莢も付けて少しくたびれた雰囲気だ。
功が耕運した水田は、きれいにこなれた土が一面に広がっており、功は満足して自分の仕事ぶりを見渡した。
作業が終わったときに結果が見えるのが功のささやかなやりがいの一つなのだ。
功が道端に落ちていた木の枝でローターに絡んだ草を取っていると、ホイッスルの音が響いた。
顔を上げると、道路の上の家から林さんと真紀が手招きしている。
功はトラクターを置いて二人のいる場所まで歩いた。
「お疲れ様。ちょっと休憩しなさいよ」
林さんは、功の作業が一段落つくのを見計らって、飲み物とおやつを用意していたのだ。
功と真紀は、林家の縁側に座って休憩させてもらうことにした。
「今までは、まほろば市に住んでいる息子が週末に帰ってきて田んぼの仕事をこともしてくれていたんだけど、今年は腰を痛めて何にも出来なくなって困っていたのよ。こうやって作業にきてくれると助かるわ」
「彼は研修生に成り立てで、業務を憶えないといけないからどんどん仕事をください」
真紀はお茶とともに出されたお菓子を食べながら話す。
「林のおばあちゃん八十才で一人住まいでしょう、オクラの栽培とか手伝いが必要なら遠慮なく言ってくださいね」
林さんは笑顔でうなずくが、功は彼女が八十才と聞いて驚いていた。
お年寄りの見ためは人によって差があるもので、功は林さんが自分たちと一緒に背筋を伸ばして歩いている様子を見て七十才前後と思っていたのだ。
「息子が仕事を定年退職したら、こちらに戻って畑仕事をしてくれると思って頑張っていたんだけど、うちの子はヘタレで根性がないから駄目みたいね。今時はお米を作ってもお金にならないから無理は言えないし、あなた達がこの集落に居着いて農業してくれるならうちの土地を使ってもらおうかしら」
「林のおばあちゃんはまだまだ現役で行けるでしょう。一人でオクラを一反も収穫してるから若い人顔負けだってうちの事務局長も言ってたわよ」
「ありがとう。でも、もうそろそろ引退する時期ね。オクラは採っただけお金になるから、孫にお小遣いをあげられるとおもって続けていたけど、今年は息子が農作業できなくなったからうねを立てることが出来ないわ」
林さんの言葉を聞いた真紀は、功を見ながら言った。
「彼がうね立ての練習したいらしいんですよ。練習がてらボランティアとしてやってもらったらどうかしら。私も指導役として手伝います」
功はそんな話をした憶えはないが、とりあえずうなずいて見せた。
「まあ本当?。もしやってくれるなら、ボランティアと言ってもお礼はさせてもらうわ」
いつの間にか功がお手伝いをする話が成立しており、真紀は功を見てうなずき返す。
「先月は福島まで帰っていたんでしょ?。ご両親は元気だったの?」
林のおばあちゃんはお茶を飲みながら何気なく聞いた。
功はハッとして真紀の顔を見た。福島と言えば、東日本大震災やその後の原発事故で大変だった事が記憶に新しい。
功自身も都内で地震に遭遇し、公共交通機関がすべて止まった中、明け方近くまで歩いて自宅に帰ったのだ
「両親は今は郡山に住んでいて元気です。この間は家のある町に一時帰宅の許可が出たから家の様子を見に行っていたの」
「家は被害を受けたの?」
「家は地震でも倒れなかったし、津波の被害もなかったんだけど、家の中は、地震の時に倒れたりした物がそのまま。窓ガラスが割れたところから獣が入り込んだみたいでぐちゃぐちゃになっていたから、どうしても持って来たい物だけ回収してきたの」
林のおばあちゃんも、真紀の話が思ったよりも深刻だったのか黙ってしまう。
「両親は、避難指示が解除になったら家に戻りたいと思っているみたいだけど私はここで農業で生活できるようになったら、両親やおじいちゃんおばあちゃんを呼びたいと思っているの」
少し間を置いて林さんが口を開いた。
「テレビのニュースではよく見たけど、被災した人は今でも苦労をしているのね。真紀ちゃんが自分で農業を始める時に土地が見つからなかったら私のところに相談においで」
「ありがとう林さん」
そう答える真紀の顔に、林さんが目をとめた。
「真紀ちゃん、あなた鼻血が出てる」
「えっ?うそでしょ?」
真紀は鼻のあたりを押えてから手を見たが、彼女の手のひらは赤く染まっていた。
第15話 花木に囲まれた廃墟
「これで押さえなさい」
林さんは鼻血を出した真紀におしぼりを差し出すが、真紀はトラックまで走り、助手席に置いてあったポーチからポケットティッシュを取り出して鼻に詰めている。
そして、ウエットタイプのお手ふきを出してサイドミラーで見ながら顔を拭き、使い捨ての立体マスクを着用して戻って来た。
「最近土埃を吸い込むと鼻血が出やすいみたいで困っているの」
真紀が自分達の前で鼻血の処置をしたくなかった事を功はそれとなく察した。
「ちゃんと鼻血が止まるまではじっとしていなさいね、今日はもうやめて帰ったほうが良くないかしら」
林さんは心配して作業を止めようとするが、真紀は首を振った。
「ううん。力仕事じゃないし大丈夫よ。次は私の番だからそろそろトラクターに乗るわ。功ちゃんは裏の畑のアクセスを確認しておいて」
そう言い捨てると彼女はトラクターに歩いていった。
残された功は林さんと顔を見合わせた。
「賑やかな子ねえ」
林さんはぽつりと言って真紀の後ろ姿を見送っている。
騒々しいと言わないのは、思慮深く言葉を選んでいると思えた。
「功君も東日本大震災の被災者なの?」
真紀がいなくなったので質問の矛先は功向けられる。
「いいえ僕は埼玉出身です。農業が好きだからまほろば県に来たんですよ」
功は訊かれそうなことを先回りして答えた。
これ以上身の上話に尾ひれがついて拡散されては困るからだ。
林さんは一動作で立ち上がると、湯呑を片付けようとしている功に告げた
「後で片付けるからそのまま置いといていいわ」
林さんは功を手招きしながら歩き始めていた。
八十歳なのに、まだ当分は現役農業者として頑張ってくれそうな雰囲気だ。彼女は家の裏手にあるという畑に通じる道を見せようとしているのだ。
「うちで畑を耕す時はね、この道から手押しの耕耘機を上げて使っていたの」
問題の畑は林家の裏にあり、家の敷地よりさらに一・五メートル程高くなっている。
のり面は石垣になっており、上に登る道は道幅が一メートルほどあり、結構広いのだが、功達のトラクターには狭すぎた。
功がトラックの荷台からブリッジを渡したら登れるだろうかと作戦を考えていると、林さんがあそこをみてごらんと指をさした。
そこは、川向こうの斜面に見えている畑だった。
功達がいる家や真紀が耕運している水田は背後の山から谷底の川まで続く斜面を階段状に切り開いた棚田の上にあるのだが、川向こうの斜面も同じように棚田になっている。
しかし、よく見ると、雑草が生い茂ったり灌木が生えて見るからに荒れた土地が多かった。
「あの斜面の上の方に林家の家の先祖からのお墓もあるのよ。でも、川向こうには道がなくてトラクターもコンバインも入れにくいからどうしても荒らしてしまう人が多くてねえ。あそこの家がある辺りに花が沢山咲いているのが見えるかしら。」
そう言われてみると桃らしき花を始めとしてユキヤナギとか水仙の花も咲いているように見える。古い家も見えるが庭先に植えたにしては花々が咲いている範囲は広い。
「きれいな花が咲いていますね。桃園なんですか」
林さんはゆっくり首を振っていった。
「あの家の人達は花が好きでね。自分たちがいなくなってからも通りかかった人が楽しんでくれたらいいと言って周囲の畑にいろいろな花木を植えていたの。東北や関東から来た人が見て綺麗だと思ってくれたらきっと喜んでいるわ」
何となく話が飲み込めなくて功は聞いた
「その人達はどこにいったんですか?」
林さんはゆっくりと空を指さして見せ、彼女の仕草を理解した功はうまく言葉が継げなくて沈黙してしまう。
功の様子を見た林さんは、微笑みながら言葉を継いだ。
「決して変な話ではないのよ。あそこに住んでいたおじいちゃんとおばあちゃんが自分たちだけで生活できなくなって街に引っ越すときに花を植えていっただけのこと。でもそれから半年も経たたずに二人とも亡くなったから、自分達の余命が判っていたのかもしれないわね」
淡々と話す林さんはむしろ楽しそうな顔をしている。
「この辺りの家も畑もはそんな風にして次第に山に戻っていくものと思っていたの。他所から若い人が来てくれるようになったから大したものね。山本家の悪ガキもいつの間にかちゃんとしたことをするようになったものだととみんなで関心しているのよ」
林さんは山本事務局長のことを言っているようだ。
功と林さんがそんな話をしている間に、真紀は作業を終えたらしく、トラクターが作業道を登ってくるのが見えた。
功は林さんに会釈してから、家の敷地から下の道路に駆け下りた。そしてトラックの前で真紀を待ちかまえる。
戻ってきた真紀はブリッジを乗せたままのトラックの荷台に、前進でトラクターを乗せようとしていたが、功は後進でトラックに乗せるように身振りで伝えた。
真紀は最初怪訝な顔をしたが、トラクターを回頭させると後進でじわじわとブリッジを登る。
功が身振りで誘導するとトラクターは見事に荷台に収まった。
「何で向きを変えさせたの?」
真紀はトラクターのエンジンを止めると功に訊ねた。
「上の畑に続く道はトラクターでは通れそうにないけど、トラックの荷台からブリッジを渡したら上にいけそうなんだ」
功の説明に、真紀は懸念を示した。
「それ危ないんじゃないの。ちゃんとブリッジを固定できたら良いんだけど」
「とりあえずやってみようよ。今度は僕が運転するから」
功がトラックのエンジンをかけながら言うと真紀は様子を見るつもりらしく林家の庭に歩いていった。
功は荷台にブリッジを載せるとトラックをゆっくりと動かしてねらった位置に寄せていく。
ブリッジを架けると思ったよりも安定しており、十分トラクターで渡れそうだった。
自分がやろうかという真紀を制して、功はトラクターの運転席に座った。
「功ちゃん気をつけてよ、ドジなことをされると私が山本事務局長に怒られるから」
真紀はいつになく心配そうだが、功は躊躇なくラクターを始動した。そして、少しパワーを上げるとあっという間にブリッジを渡りきっていた。
問題の畑は家の裏手の山際なのだが意外に面積が広い。
功がトラクターで全面を耕運し終えて、さあ仕上げにかかろうかと思っていると、真紀のホイッスルの音が響いてきた。
功は一体何だろうと思いながらエンジンを切ってそちらを見ると、真紀と林さんが肥料桶を持って立っている。
その後ろには林家の管理機まで鎮座していた。どうやら、時間があるから肥料を撒いてうね立てまでするつもりらしい。
「苦土石灰と肥料を撒くからちょっと待っていて」
待っていろと真紀は言うが、ぼんやり待ってるわけにも行かないので功もそのへんからバケツを調達してきて、肥料散布部隊に参加することにした。
功と林さんが苦土石灰を撒き、その後から真紀がオクラの元肥用の肥料を散布する作戦だ。
「ほらほら、そんなに厚く撒いたら肥料にむらができちゃうでしょう。肥料は薄く撒くのが基本よ」
背後から真紀が小うるさく指示する声が響く。
功はいつものことなので聞き流して平然と作業を続けるが、功と一緒に作業していた林さんは楽しそうに笑って言う。
「あらやだ、私も一緒に叱られてるみたいよ」
彼女にとっては多人数で作業をすることが久しぶりなのかもしれない。
肥料を撒いた後はトラクターで仕上げの耕運をし、最後に管理機でうねをあげていくのだが、功がトラクターで仕上げた後を追いかけるように真紀が管理機でうねを立てて行くので、あっという間にうね立て作業も仕上がってしまった。
功と真紀は仕事が終わって帰ることになったが、とりあえず、上段の畑からトラクターをトラックの荷台に移動させる任務が残っていた。
功はここで落ちたら洒落にならないので慎重にブリッジを渡って荷台に載せることにした。功にとっては、ジェット戦闘機で空母に着艦するくらいに緊張を要する作業だ。
功が無事にトラクターを荷台に移し、真紀と一緒にブリッジを回収してトラクターをロープで固定していると、林さんが二人に告げた。
「どうもありがとう。おかげで今年もオクラがを作れるようになったわ。お礼に今夜は家で宴席の準備をするから事務所の二人にも声をかけて一緒に来なさい」
真紀は仕事でやっているのだからと断ろうとするが彼女は譲らなかった。
「年寄りの言うことは聞きなさい。山本君にも電話しておくからみんなで来くるのよ」
念を押されては真紀も断れず、功と真紀は彼女にあいさつをしてから、事務所に帰った。
功がトラクターを洗ってから片付けようとしていると、真紀が倉庫の脇で手招きした。
「ブリッジで荷台から畑に橋渡ししてトラクターを移動したことは山本事務局長には言わないでよ」
真紀はいつになく、真剣な表情だ。
「あれは、やはりまずい使い方だったかな」
「当たり前でしょ。私が怒られるからとにかく局長にはだまってて」
真紀にも現場指導係としての責任があるのだ。
そんなやりとりをしているときに、山本事務局長が急に二人の前に姿を現わした。
功と真紀は話を聞かれていたのかと慌てたが、山本事務局長はそんな二人の様子に怪訝そうな表情をした。
「おまえ達、林さんちで一体何をやったんだ」
功と真紀は顔を見合わせ、真紀が先に口を開いた。
「ごめんなさい、余計な事をしたかもしれない」
彼女はそう前置きをしてから今日の出来事をかいつまんで話した。もちろんトラクターの橋渡しの話は抜きだ。
「別に謝らなくていいよ、トラクターの作業は作業受託のメニューにあるから追加で料金もらえばいいし、管理機は林家のものを使ったからお手伝い程度の話だ。いいことをしてあげたと思うよ。林さんからさっき電話があって、晩に一席構えるからみんなで来いと言うから何事かと思っただけだよ」
「委託業務で行ったのにお礼してもらっていいんですか」
功が生真面目に訊ねると、山本事務局長はひらひらと手を振って見せた。
「こんな田舎だから、堅苦しいこと言わなくていいよ、林のばあちゃんがせっかく一席構えたのに行かなかったらかえって悪いだろ。この際だからみんなで行くぞ、気を遣うんだったら金子商店で酒でも買って行けばいい」
山本事務局長の考え方は意外とフランクだった。
結局、その日の夕方は岡崎も加わり、四人で林さんの家にお呼ばれし、ささやかな宴会となった。
もともと、集落の中で農作業を手伝ってもらったら、その晩におもてなしをする習慣があるらしい。
その夜は、林さんが山本事務局長の過去を暴露して座は盛り上がった。
山本事務局長は若い頃にロックバンドを作ってメジャーデビューを目指していたというのだ。
本人は必死で否定するが、岡崎の証言も飛び出した。
「そうなのよ、同級生の間でもあこがれの存在でかっこよかったのにねえ」
すっかり過去形にされているのがかわいそうなところだが、山本事務局長にもイケている時期があったらしい。
「事務局長がボーカルだったんでしょ、今度の忘年会の時にお披露目してよ」
「絶対にいやじゃ。」
真紀が水を向けたが、山本事務局長はかたくなに拒絶する。
功は、皆にいじられて機嫌が悪い山本事務局長を見ながら、いつか彼が農林業公社の仕事を始めたいきさつを聞いてみようと思っていた。
第16話 フカセ釣りの達人
功は研修の一環として、ニラの出荷調整作業に取り組んでいた。
隣では真紀も同じ作業をこなしている。
「いいか、出荷調整というのは、ニラの外葉を取って綺麗にするのと同時に、一束百グラムの束を作って輪ゴムで束ねて農協の特殊包装材の袋に詰めるまでだ。いかに短い時間できれいに仕上げるかを考えてやってくれ」
功たちに指示しているのは野口で、功と真紀は現地農家研修として、同じ地区内にある野口の家に研修に来ているのだ。
「ニラの販売量が増えるかどうかは、栽培技術に加えて、この出荷調整作業をどれだけこなせるかが鍵を握っている。俺が雇っているパートの皆さんは一日に四百袋近く詰める非常に優秀な方がそろっているんだ」
指導係の野口は、近所の人に加えて、わだつみ町の町中で、コンテナで持ち込まれたニラを自宅で出荷調整作業する人も加えると常時五人以上雇っている。
彼は実は十アール辺りの出荷量が年間で十トンを超えるトップクラスのニラ栽培農家なのだ。
野口は続けた。
「俺の販売量を左右する要因の一つは出荷調整のおばちゃんの腕の良さだ。だからおばちゃん達は大事にしているつもりだ。他の農家に引き抜かれないように年に一回は慰安旅行に連れて行くぐらいだ」
「でも野口さんが費用をもって旅行に連れて行ったら結構お金がかかるでしょう」
貧乏性の功が聞くと、野口は笑った
「わかってないなあ、それぐらい福利厚生費として経費で落とせるから俺の懐はそんなに痛まないんだよ」
野口は余裕で答え、話だけを聞くと簡単そうだが、彼の言葉には謙遜もあるようだ。
野口のハウスを訪ねてよく見ているといろいろなところに密かに手を加えて工夫した痕跡があった。
燃料代の高騰のために無加温で栽培する人もいる中で野口は省エネ型加温機を導入して、夜間のハウス内の温度を一定の温度以上保っている形跡があった。
「最近重油が高いのに何で野口さんは加温しているのですか」
野口は感心したように功を振り返った。
「お前見かけによらず鋭いな。このビニールハウスは冬でも締め切っておいたら昼間の温度は三十度以上になるのは知っているだろ」
功は出荷調整作業をしながらうなずいた。
「すると、昼間は換気をして夜は開口部を締めて保温しても昼夜の温度差はかなりあるのでニラの葉っぱの先に結露して水滴ができてしまうのだ。もし明け方の冷え込みでこの水滴が凍ってしまうと葉っぱの先は黄色く変色する。そうなると出荷するときの等級が2ランクも落ちてしまうので、販売額はがた落ちになる。」
野口は実際に葉先が黄色くなった株を功に見せてくれた。
「それに加えて、灰色カビの予防とか、夜温をあげた方が葉っぱの伸びもいいとかいろいろなメリットを秤にかけると、設備投資や燃料のランニングコストを考慮しても加温した方が良いと結論に至ったわけだ」
その時、野口の腕時計がピピッと鳴った。
「はい作業時間終了。今の十分間でできた袋数から三時間作業した時の袋数を計算してみて。そしてそれをプロの方々と比べて彼女たちの実力を理解してください」
功は自分の作業では三時間に換算すると百袋も仕上がらないことに気が付いて愕然とした。
「それでは十分間ほど休憩時間にしようか。」
野口が休憩を宣言しての十分間の休憩となり、功が作業場から出て外の空気を吸っていると、後ろから野口の声が響いた。
「功ちゃん、真紀ちゃんを誘って釣りに行く話はどうなっているのかな」
「あっ!」
功はわだつみ町に来た最初の日に野口に仰せつかった約束をすっかり忘れていた。
功は野口の方に振り返ると、愛想笑いを浮かべて言った。
「ちょっと彼女の都合を聞いてくるから待っていてくださいね」
功は野口の作業場で椅子に座ってくつろいでいる真紀を見つけると、耳元でささやいた。
「この前、野口さんと喜輔で飲んだ時に釣りの話が出たのを覚えている?」
「ああ、覚えているわ。イサギとかタイが釣れるって話だったと思うけど」
「野口さんが僕と真紀ちゃんに一緒にいかないかって言っている。道具は僕たちの分も用意してくれるって」
「ほんと?。行く行く。前から釣りに行きたいと思っていたのよ」
彼女は椅子から立ち上がった。
「丁度、野口さんもいるから日程を詰めようよ」
功が先に立って歩くと彼女もいそいそと後に続く。
功は、三人で日程の打ち合わせをしているときの野口の嬉しそうな顔が妙に印象に残った。
農業研修生の研修は土日は休日となっている。
山本事務局長に言わせると、休日の間に農地を探したりその他諸々の地元との調整をしなさいというのだが、指導農家と親睦を深めるために釣りに行くのも調整の範疇に入るに違いない。
今回の釣行は土曜日の朝四時半に、功が車を出して野口を彼の家の前でピックアップし、途中で真紀も拾ったうえで松の浦という漁港から釣り筏に行くことになっている。
約束どおりに、朝四時半に野口の家まで行くと、既に玄関には明かりがついていた。
野口家の庭先に車を止めて玄関まで歩いていくと、気配でわかったのか玄関の戸を空けて野口が顔を出す。
「おはよう、約束の時間に来てくれるから上出来だ。今日は車も出してもらって申し訳ないね。俺の車はクーラーが乗らないし、軽トラでは3人乗れないからどうも具合が悪くてね」
「いいんですよ、惜しげのない車だから。それより釣り道具まで準備してもらって申し訳ないです」
「気にしなくていいよ。君は彼女を誘い出してくれた功労者だからな」
野口はやたら大きいクーラーや、数本の釣竿を功の車に積み込みながら機嫌よく言う。
「さあ行こうか、途中でエサと氷を買っていくぜ」
ナビシートに乗り込んだ野口君は、功がダッシュボードに貼り付けていたガンプラに気がついた。
「あ、これってサクだね、噂に違わずアニメおたくなんだな、後ろにMSー06とかステッカー張ってあるから何だろうと思ったけどどうせモビルスーツの型番だろ。車のボディーカラーもこいつと一緒だし」
「えへへへ、そんなところですね」
野口の観察眼が意外と鋭いのに功は驚いたが、ダッシュボードのサクに気づいてもらえたのはちょっとうれしいところだ。
「さあ行こうか。本当はここから山越えで行った方が近いけど、真紀ちゃんを拾うから一旦わだつみの町まで行くよ」
地名がまだよくわからない功は言われたままに、わだつみの町に車を乗り入れた。
野口は釣具屋で、電話で事前予約して、ほどよく解凍されたエサを仕入れた。
町はずれにある真紀の叔母宅まで迎えに行くと真紀も既に起きて待っていたが、彼女は朝は苦手らしく、半分寝ているような雰囲気だ。
わだつみの町を抜けて海岸沿いに細い道を走ると、芸術家が作ったオブジェじみた構造物が見えてきた。
「その建物は、海水を濃縮して塩を作っているんだよ」
野口が功に教えていると、目が覚めてきた真紀が後部座席から身を乗り出す。
野口君が指示する方向に行くと道は急斜面をつづれ折りに登り始めていた。
「釣りに行くのに山の上に行くんですか」
功の疑問に野口は苦笑した。
「一旦登ってからもう一度海岸まで降りるんだよ。海岸線が険しくて道がないから松の浦に行くにはこのルートしかない。」
走るうちに、車は坂を登り切り尾根の上に到達した。
夜が明けかけた東の空が赤く染まり、暗い海とのコントラストが際だっている。
「その緑のやつをアニメのゲロロ軍曹で見たことがある。何て言うんだっけ」
明るくなったので彼女もダッシュボードのガンプラを見つけたのだ
「それはサクⅡだよ。」
ゲロロ軍曹とは地球侵略に来たカエル型宇宙人の物語だが、劇中でガンプラを作るシーンがよく出てくるのだ。
「ゲロロ軍曹って何?」
野口君の質問を聞いて真紀がのけぞる。
「何でゲロロ軍曹を知らないの。それぐらい誰でも知っているでしょ」
そう言われてもきょとんとしている野口君を見て功が説明した。
「この辺はゲロロ軍曹を放送していたテレビ局のキー局がないんだよ。多分テレビ放送されていなかったのではないかな」
それを聞いた真紀はショックを受けたようだった。
「そういえば最近ニュースサテライトも見た記憶がない。そんなことに一年以上も気がつかなかったなんて」
それほど驚かなくてもいいような気がするが、彼女にとっては一大事だったようだ。
功の運転する車は綴れ折りになった急な坂道を下り、小さな港がある集落に着いた。
港からは渡船で釣り筏に渡り、三人が釣り筏に降り立った時にちょうど東の水辺線から太陽が昇ろうとしていた。
「今日はシンプルな仕掛けにしたけど、これで沢山釣るぞ」
野口君が功たちのために竿にリールと仕掛けをセットして渡してくれたが、仕掛けといえるようなものは糸の先に付いている針だけだ。
「これって針しか付いてないんですけど。ウキとかおもりは付けないんですか。」
「功ちゃんフナ釣りじゃないんだからさあ、だまされたとおもってそれでやってみな。そのラインはフロロカーボンで高いんだから。天秤仕掛けとかおもちゃみたいなのを使うより絶対食いがいいよ」
野口は功に説明しながら柄杓で撒き餌の赤アミとオキアミをミックスしたものを撒き、巧みに竿を操って糸を送り出している。
功と真紀は見よう見まねで同じようにするが実は結構難しかった。
「ラインの比重が水の比重に近いから、撒き餌と同じ速さで流せるんだよ。こうやって竿を振ってラインにたるみが出た分を水面に落とせばうまくいくよ。今日は棚は五十メートルぐらいと思っておいて」
黙々と竿をふること十分以上、そろそろ飽きてきた頃に野口の竿がヒュッと鳴った。
次の瞬間に竿は弓なりに曲がっていた。
何かがヒットしたわけで、野口君は慣れた様子で竿を立てながらリールを巻き取るが、時々ジャーっと音がしてラインが引き出されていく。
ラインを切られないように一定以上の力がかかるとリールのドラグ機能が効いて魚がラインを引き出しているのだ。
ぼんやりと野口の様子を見ていた功に真紀ちゃんが声をかけた
「それ、引いてるんじゃないの」
真紀に指摘されて功が慌てて竿を立てると、竿を持つ手に魚の動きが感じられた。
功があわててリールを巻こうとすると、野口が叫んだ。
「大きいぞ、竿を立ててしばらく泳がせろ。あわてて巻くとラインを切られる」
魚は海面下五十メートルにいるのに強い引きで左右に走っているのがわかる。
一生懸命に竿を立て、それから竿先を下げながらリールを巻こうとするが、ドラグが効いて引き出される方が多いくらいだ。
傍らではいつの間にか獲物を寄せてきた野口がタモを手にしている。
左手で竿を操って魚を寄せた野口君は一気にタモで魚をすくうと、網から半分ほどしっぽが出た状態で、筏の上に放りあげた。
六十センチメートルを優に超える魚体が筏の上をはねる。
「それ、ひょっとしてマグロですか。」
「違う!カンパチだよ知らないのか。」
野口に一喝されたが、功にとってカンパチとは回転寿司の皿に乗っている白とピンクの切り身のにぎり寿司しかイメージがなかった。
ブリとカンパチを食べ比べて区別が付くかもすこぶるあやしい。
野口君はナイフをサクッと突き刺してカンパチを活け締めすると港の自動販売機で大量の氷を入れてきたクーラーに放り込んだ。
その間も功と魚の攻防は続いており、まだまだ抵抗しているが少しずつ、弱ってきているのがわかる。
その横で真紀が叫んだ
「な、なんか来ているみたい」
彼女の竿も竿先が水面に近づくほどたわみ、大物を予感させた。
筏で釣りと言われて。小アジでも釣るのかと思っていた功の予想はいいほうに裏切られていた。
彼女も大物の手応えに懸命に竿を操っているがしばらくすると、急に手応えが無くなった気配だ。
カリカリとリールを巻き上げるとラインの先には針も何も付いていなかった。
「岩場に潜り込まれてばらしたね。仕掛けをつけ直すから貸して」
野口君が道具箱から釣り針を取り出しているようだが、魚の相手に一生懸命の功はそちらを見る余裕がない。
「すごい引きだったけど、私のもカンパチだったのかしら」
「多分そうだ。ちょうど群れが回遊してきたんだね。これが、釣り針を付けるときの内掛け結びだからそのうち憶えてよ」
野口君が真紀の世話をしている横で、功は地道にリールを巻いていた。
そして力尽きた魚が大きな輪を描きながら次第に水面に近づいてくるのが見える。
「野口さんタモ貸して。あがってきたよ」
「あ、こいついつの間にか寄せてきている。もう少し巻いてからこっちまで引っ張ってこいよ」
野口がタモで取り込んだのは、七十センチ近いカンパチだった。よく見ると頭にひどい傷が付いている。
「ほら、こいつも根に潜り込んでラインを切ろうとしていたんだ。よく上げたもんだね」
「飲み込んでいるみたいで針がとれないんですけど。」
「ラインを切ったらいいよ。いま真紀ちゃんの分を付けるから結び方を見ておいて。針はこれを使って。」
功は野口の結び方を見て、見よう見まねで針にラインを結ぼうとしたが結構難しい、一回失敗して再びトライし、薬指や小指も動員してなんとか成功したが、見ていた野口君は苦笑していた。
「器用なのか不器用なのかわかんないやつだな。エサのオキアミはしっぽを切ってから二匹がけにしよう。まださっきの群れがいるかもしれないから頑張るぞ」
「今度は私も釣るわよ。」
真紀は一人だけ逃げられたので悔しそうだ。
仕切り直した功たちは。先ほどのカンパチの群れをもう一度補足しようとしたが、彼らもそういつまでも同じ所に留まってはくれなかった。
「なんでオキアミのしっぽを切るわけ?」
当たりがなくなり、暇になった真紀が野口に尋ねる。
「しっぽを付けたままだと水の抵抗を受けてクルクル回るから不自然な動きになるんだ」
当たりが無くなったため、功達はとりとめのない話をしながら思い思いにリールや竿を操っていた、それでも野口は合間にクロダイやヒラアジをちゃんと釣っているからさすがだ。
そのうちに、功の竿に久々に当たりがあった、先ほどのようながつんと来るような引きではないが、リールを巻くのは結構骨が折れる。水面まであげてみると三十センチメートルほどの何だか平べったい魚だ。
「なんですかこれ、ひょっとしてマンボウの子供?」
「ウマヅラハギだ、結構おいしいよ。今の何メートルぐらいで当たりがあったかわかる?。」
「六十メートルくらいでしたね。」
功はリールの表示を見ながら答えた。
「底の方も少し流れがあるね。いい具合だけど、五十メートルぐらいのところで釣ってみようか。」
釣りに詳しい人なら餌取りが多くなったので棚を上げるとか言うのだろう。
功達が餌も変えて少し浅いところで釣り始めたところで、今度は真紀の竿が大きくしなった。
「きたっ。何かきたけどさっきのと手応えが違う。ウマヅラハギの大きいやつかしら。」
リールを巻きながら真紀が叫んでいる。その横で野口が自分のラインを巻き上げてからタモを構えていた。
「違う。大物がかかっているから慎重に上げて。」
確かにカンパチのような走り方ではないが、力強い引きが続いており、ゆっくりと水面まで上げてきた魚体は鮮やかなピンク色だった。
「鯛だ。五十センチはある」
頭からタモですくった鯛を筏に引き揚げた野口君は功に言った。
「写真撮ってあげてよ。あんたの携帯なら綺麗に撮れるだろう」
野口はまだ時々暴れる鯛を怖がる真紀の両手に持たそうとしている。
スマホを出した功はカメラを起動すると二人の方に向けた。
鯛を抱える真紀と隣でVサインの野口。
クローズアップした真紀のポートレイトカット。
そして鯛がビチビチとはねて驚く二人。
功は、失敗した写真は後で消せるからと思い立て続けに撮影しながら、真紀が素で笑うとこんな顔をするのだと少し場違いなことを考えていた。
大物が釣れた釣行は盛り上がる。
野口君は獲物を肴に自分の家で宴会しようとしきりに誘っていたが、真紀はおばさんに自慢したいからと、大きな鯛を抱えて家に帰っていった。
結局、近所の功だけが野口家にお呼ばれする格好になった。
機嫌よくビールを注いでくれる野口に、ニコニコしながらおもてなししてくれる彼のお母さん。
釣ったばかりのカンパチやイセギの刺身は弾力のある歯ごたえで功がかつて食べたことがない美味しさだった。
夜も更けて席を辞するときには、野口は自分で釣った魚は持って帰れと、三枚におろしたカンパチとウマヅラハギを持たせてくれた。
大きめのボウルからベロンとはみ出した魚の切り身を眺めながら、これをどうやって食べたらいいのだろうと功は悩んでいた。
第17話 海に映る雲
新緑が目立ち始めた山あいの道路を赤いVWゴルフが疾走していく。
絵になる光景かもしれないが、後ろをついて行く功は大変だった。
功が運転しているのは古びたキャブオーバータイプの軽四輪自動車なので、先行する車のぺースについていくのは無理がある。
「行き先がわかっているから無理について行かなくてもいいよ。運転しているのが茜さんだから、後続車に気を使ったりする余裕がないのだろう」
ナビシートの山本事務局長がのんびりとした口調で言う。
今日は日曜日で研修はお休みなのだが、農業体験研修所で一緒に体験研修を受けた茜が榊原と一緒に功を訪ねて来たのだ。
互いの近況を話しているうちに、たまたま通りかかった山本事務局長が宿舎の外に止めてあった榊原の車に気付いて立ち寄ったため、いつのまにか、榊原が見つけた耕作放棄された農地を見に行くことになったのだ。
「休日に付き合わすみたいになって悪かったね。昨日は野口や真紀と釣りに行ったのか?」
「ええ結構、釣れましたよ。僕は七十センチ級のカンパチを釣ったし、真紀ちゃんはでかいタイを釣っていましたよ」
「そうか、そりゃよかった」
山本事務局長は前を行く赤い車影に目を戻した。
榊原は受託作業の手伝いに来てくれるのでしばしば会っていたが、仕事がある時に山本事務局長が呼び出しているため事務所に常時いるわけではない。
山本事務局町は懸案になっていた榊原の農用地確保のために耕作放棄地を使えるかどうかを今日見定めるつもりなのだ。
しばらく走ると茜が運転するゴルフは、幹線道路を外れて山沿いのわき道に入っていく。
そして、対向車が来ればすれ違うのが困難な細い道を抜けて行き、道路端の空き地に駐車した。
そこは両側を切り立った山に挟まれた谷間だった。
谷の奥まで小川に沿って道路が通じており、反対側の山裾との間の水田が点在している。一筆が十アールに満たない水田が数十センチの段差で谷奥までつづいているのだ。
そして、その水田の管理状況は残念ながらあまり良くなかった。
人の背丈ほどの雑草が生い茂り、中には灌木も混じっている。
「耕作放棄されて五~六年というところだな。これをいったいどうするつもりだ」
山本支所長が問いかけると榊原は答える。
「もちろん、自分で開墾してきれいにしてから、野菜を作る。これ全部合わせたら一ヘクタール超えるから僕の計画にちょうど良いんだ」
榊原のポジティブな考え方は変わっていない。
「まさに開墾だな。こんな所を苦労して畑にするより、もっと日当たりも良くて条件の良い土地を探した方がいいと思うけど」
「あんたはそう言うけど現に一年以上かけて探しても、僕の希望に合う農地は貸してもらえない。貸してさえもらえるなら、この土地を少しづつ使えるようにした方が早そうだよ。それに、ここは周囲からの農薬のドリフトの心配がないし、化学肥料や化学農薬の使用履歴も過去数年間に遡っても無いわけだから、有機JASの認証が取りやすいんだよ」
この二人が話をするといつもこんなやりとりになる。
「わかった。そこまで言うなら農地の利用権設定を農業委員会に頼むようにしよう。その前に、この雑草、をうまくやれば補助事業使って片付けられるかもしれないが事業申請する気はあるか」
「そりゃあ、補助金が出るならそれに越したことはないけど。俺がやろうとしている有機栽培でもそういうの認めてもらえるわけ?」
支所長はしばらく考えていたが、榊原に向き直った。
「日曜日だが役場の森永君に聞いてみよう。どのみち農業委員会には行かなければならない」
山本事務局長はすでに自分の携帯電話を取り出していた。
休日お構いなしで役場の職員に確認するつもりらしい。
山本事務局長が通話をしている間に功は榊原に尋ねる聞いてみた
「ここではどんな野菜を作るんですか」
「うん面積が一番大きくなるのはブロッコリーだと思うな。後は、菜花にトマトとかパプリカなんかの果菜類も入れていきたいね」
榊原は無農薬で栽培を売り物に通販や直接販売をするつもりなので、功たちが計画している一種類の野菜だけ作る経営形態とは違う。
「栽培もしながら自分で販売するのって大変なんじゃないですか」
「しばらく会わないうちに勉強したみたいだね。言われるとおりお得意さんを作って、戸別販売するのも限界があるみたいでね、『キャロット坊や』とか『厚生会』みたいな専門の仲卸業者に卸したり、最近増えた地元スーパーの直販コーナーに置いてもらうことも考えてるよ」
榊原と功がそんな話をしているのを隣で茜が笑顔で見ている。
ここに農場ができた暁には榊原と茜が仲良く野菜を作って暮らしていくのだろう。
体験研修の時、茜のほのぼのとした雰囲気に好意を抱いていた功は少し心が痛む。
「榊原君。おまえ補助事業を使える要件というやつをほとんどクリアしてるから、自分の負担は無しで工事ができるかもしれないよ」
「うそ、そんな事ってあるわけ。うまいこと言ってだまそうとかしてないよな」
榊原は軽いノリで山本事務局長に答えるが、山本事務局長は真面目な顔で榊原に尋ねる。
「うちで研修している時に認定就農者の認定は受けただろ」
榊原が頷いた。
「少なくとも五年は主食米以外をつくることっていう条件があるが、あんたは畑があれば当分の間野菜を作ってくれそうだからね。他にもいろいろあるんだが、国の交付金に県の補助事業を追加して負担金はなしにしてくれるらしい。後は土地の持ち主との交渉だが、以前連絡して頼んでいたので森永君があらかたの地権者と連絡を取ってくれたようだ」
山本事務局長の言うことが本当らしいと納得した榊原は茜とはしゃぎ始めた。
「それで、俺は何をすればいいの」
一通り騒いだ榊原は山本事務局長に訊ねた。
「いろいろあるよ。土建屋でも造園業者でもいいから数社から工事の見積書を取って、事業申請書を書けってことらしい。とりあえず町役場の係長に相談に乗ってもらえよ」
「森永君じゃないのか」
「担当が違うってよ」
榊原はしばらく考えていた。
「俺はお役所系の書類を作るのは、死ぬほど苦手なんだけどな」
「自分のことだから文句言わずにやれ」
山本事務局長が言葉少なく叱咤すると、榊原はゆっくりとうなずいた。
両側から迫る急な斜面に挟まれたわずかな荒れた土地。丈の高い草と雑木が生い茂った谷が榊原にとっては、これから生きて行く生活の場となるかもしれなかった。
榊原や茜達と別れた功は宿舎に帰って昨日釣った魚の料理にチャレンジした。
料理と言ってもすでに三枚におろしてある魚を刺身に切るだけだ。
自分の持っている切れない包丁で不揃いな厚さの刺身が出来上がったが、素材が良いおかげでとても美味しい。
釣り上げた直後の弾力のある歯ごたえは無いが、代わりに魚の旨味は強くなっており、都内の料亭で食べたら相当な金額だろうなと思える。
功がカンパチの刺身を食べ終えたころに、功の耳に聞きなれた自動車のエンジン音が響いた。
それは真紀の乗っているインプレッサSTIの音だった。
功が窓からのぞくと真紀のブルーのインプレッサが走り去るのがちらりと見えた。
休日なのになぜ彼女がこのあたりをうろうろしているのだろうと功は怪訝に思った。
臼杵集落は幹線道路から外れたロケーションなので、わざわざ来ない限りは通りかかる可能性はない。
功が宿舎の外に出てみると、宿舎の前の町道を野口の車がこちらに来るのが見えた。
彼が父親と共用している黒のセダンだ。
功の姿を認めると野口は車を止めてサイドウインドを上げた。
「功ちゃん、真紀ちゃんがここを通らなかったか?」
「彼女のインプレッサが通るのを見ましたよ」
功の言葉を聞くと、野口はがっくりとうなだれた。
「いったい何があったのですか」
功に問いかけられて、野口は車を宿舎の駐車スペースに寄せて、今しがたの出来事を話し始めた。
野口は真紀を昼食に招いていた。
前日の夕方は釣行から帰ったばかりということもあり、叔母に釣った魚を見せたいという真紀は自宅に帰ったが、日曜日の朝に改めて食事に招待したら真紀はあっさり応じたのだ。
野口は母親にも頼んで、前日に釣った魚の料理を準備した。
カンパチをはじめ、皮つくりにしたクロダイやヒラアジの刺身、大物のあらを使ったあら煮や潮汁、そして目先を変えてフィッシュフライも作った。
真紀は約束の時間丁度に野口の家に現れ、庭先に自分の車を止めて玄関に向かう真紀がスカートをはいているのを見て野口はドキッとする。
日頃の彼女は無粋な作業服姿が多いからだ。
「おじゃまします」
玄関から上がり込む真紀を野口はいそいそと迎えた。
「いらっしゃい。今料理を出すからこっちに座ってよ」
田舎の家は、客用の広間がしつらえてある。座布団を敷いた席に真紀を案内した野口は、料理を運び始めた。
「すごい。野口君こんな盛り付け自分でできるのね」
真紀が歓声を上げるのを聞いて、野口はここ数か月の間彼女を誘ってきた努力が報われる思いだった。
だが、野口が暖かい料理を運ぼうと台所に戻ったときに、母親は野口の服の裾を掴んで止めた。
「今日はおもてなしするけど、あの子と付き合うのはやめなさい」
何の冗談を言っているんだと思った野口は少し引きつった笑顔で言い返した。
「なんでそんなことを言うんだ。農業に興味があってあんなに気が利く子はこの辺にいないだろ」
しかし、野口の母は引く気配を見せなかった。
「あの子は福島の原発事故で放射能を浴びているからお前の嫁にすることはならん」
野口は自分の顔から血の気が引くのを感じた。
テレビや新聞の報道で放射能汚染に関する風評被害の話や、県外に避難した人たちが学校でいじめに遭ったりしていることを散々見て、自分は絶対にそんなことをするまいと思っていたのに、こともあろうに自分の母親がそれを言い始めたからだ。
「いくらお母ちゃんでも、人として言っていいことと悪いことがある。その言葉取り消せ」
野口は目をいからせて母親に詰め寄った。
野口は両親を大事にしていて近所でも評判なのだが、彼にも譲れないことがある。
「いいや。あの子がいい子だとは思うが。野口家の後取りを産んでもらうわけにはいかん」
野口の母親も一度言い始めたら聞かないところがあった。
二人が何度目かの押し問答をしている時に庭先から車のエンジン音が聞こえた。
野口が話を聞かれていた事を悟り、玄関に出た時には真紀は自分の車で走り去った後だった。
野口は一部始終を功に話し終えてから頭を抱えた。
「功ちゃん、俺はどうしたらいいだろう。きっと俺の母親の言葉は彼女を傷付けているはずだ」
当たり前だろと功は心の中で毒づいたが口には出さなかった。
野口の打ちひしがれた様子は気の毒になるくらいだったのだ。
そして、功は野口よりも真紀の事が気がかりだった。
「野口さんは、今日は彼女を追いかけないほうがいいと思いますよ。僕が彼女のおばさんの家に電話をかけて、家に帰っているか聞いてみます」
功の言葉は野口を聞いてさらに落ち込ませたが、功は構わずに真紀の叔母の家に電話をかけた。
「真紀ならまだ帰っていないわよ。野口さんのお家でお昼をいただくと言っていたから、夕方になるんじゃないかしら」
真紀の叔母は普段と変わらない様子で答える。
功がそのことを告げると、野口はゆらりと立ち上がった。
「やっぱり俺は探しに行くよ。真紀ちゃんに何かあったら俺は自分で腹を切る」
功は腹を切るという時代がかった野口の言動にあきれて彼の顔を見たが、野口は本気のようだ。
功はため息をついて言う。
「それじゃあ、僕も一緒に探します。手分けして町内を回ってみましょう」
結局、野口を手伝うことになった功は、わだつみ町の中心街から東に行くことにした。野口はそこから西に向かう予定だ。
探したところで自動車で移動する真紀が町内にいるかも定かでないが、何もしないと野口の気が済まないに違いない。
功はあてもなく田舎道をうろうろしながら途方に暮れた。
そのうちに、功は前日釣りに行った時に通過した道に入り込んだ。
そして海岸から山の上に向かう道を走るうちに、真紀がその辺りに海を見に来ることがあると言っていたのを思い出した。
功は真紀が訪れると言った場所を必死で思い出しながら車を走らせ、山の尾根に出て道なりに走るうちに、彼女のインプレッサが道端に止めてあるのを見つけた。
そこはヒノキの林を伐採した後、新たな苗木も植えずに放置されて荒れ放題の斜面だった。
荒れた斜面故に、見晴らしがいいので真紀が景色を眺めるために時折立ち寄るらしい。
その時、真紀がひときわ大きく怒鳴った声が功に届いた。
「畜生、バカにしやがって」
真紀は怒鳴りながら一抱えもありそうな石を持ち上げると力いっぱい斜面の下に投げおろした。
石は斜面をしばらく転がって止まるが、功は若干身の危険を感じながら、斜面の下から真紀のいるところに登り始めた。
「馬鹿野郎!」
再び真紀の声が響いた時、功は足元の切り株に気を取られていた。
真紀の声に顔を上げると、功の目の前に直径が5センチメートルほどもある枯れ枝がクルクル回転しながら飛んでくるところだった。
枝は功の頭にぶつかり、功は頭を抱えてうずくまった。
「いってええ」
功が痛みにうずくまったままでいると、頭の上から声が聞こえた
「功ちゃん、こんなところで何しているのよ」
功の姿に気が付いた真紀が功の少し上まで斜面を下りていた。
「ご挨拶だな。いくら人気がない場所でもこんな大きな枝を投げたりしたら危ないだろ」
功はいつもと変わらない口調で応えるが、真紀はすぐに功が野口から話を聞いて自分を探しに来たのだと悟った。
「こっちに来るな」
真紀はさらに手近に落ちていた木の枝を投げつける。
今優しい言葉などかけられたらきっと泣く。真紀はそんな姿を見られたらなんだか自分の負けのような気がしたのだ。
「野口さんから話を聞いたよ。彼とお母さんの話を聞いたんだよね」
「そうよ。たいして広くもない家で声高に言い争いをして聞こえないわけがないでしょ」
真紀はさすがに物を投げつけるのはやめたが、功には心なしか彼女の髪の毛が逆立っているように見える。
「野口さんも心配していたから、もう帰ろうよ。あの人は真紀ちゃんに何かあったら腹を切ると言っていたよ」
「ふざけるな。腹を切る以前にあんな母親がいるなら私を呼ばなければいいのよ」
真紀は、野口とまじめに付き合うことさえ考えていなかったのに、その母親が自分を冷たく拒絶する言葉を聞いて、自分自身の価値が暴落したような気がしていた。
功は真紀の癇癪が手に負えないような気がして途方に暮れる。
「どうして、こんな南の果てのような土地に来ても原発事故の風評が私を追いかけてくるのよ。もう我慢できない」
真紀は再び木の枝を投げつける。
功は木の枝をかわして真紀のそばまで来たが、どんな言葉をかけたらいいか思い付きかなかった。
真紀は暴れるのをやめて斜面にしゃがんで、遠い海を見ている。
功もその横に並んだ。
はるか下の波打ち際から水平線まで広がっていく海面には、午後の日差しを受けた雲の姿が映しこまれていた。
二人が無言で見つめる前で雲はゆっくりと流れていく。
「どこに行っても生きていくのって大変だよね」
功は思わず自分の本音をつぶやいた。
楽園を探し求めてもそんなものはどこにも存在しないのかもしれない。
真紀の目からポロポロと涙が流れ落ちた。
「ばかぁ」
真紀が小さくののしってから泣きじゃくる背中に功は手を添えた。
功は、気の利いた慰め一つも言えない自分にうんざりしながら、真紀の隣に黙って寄り添っていた。
第18話 鍵の隠し場所
梅雨入りすると、天気の善し悪しにかかわらず蒸し暑い日が多くなる。
四国にあるまほろば県は暑いのが当たり前のような土地柄だが、臼木は標高が高いので少しマシな方だ。
臼木の集落はちょっとした高原になっており周囲が緑に囲まれているおかげだ。
しかし、加温栽培用のビニールハウスの中は過酷な環境だった。
ナスの茎は功の身長より高く伸び、栽培の終期に入った今はナスの果実も足もとから頭の上の高さまで様々な高さに点在している。
収穫に適したサイズのナスを探して収穫し、枝を切り戻す作業を続けるうちに功は視界が頼りなくゆがむのを感じた。
サウナの中でヒンズースクワットをするような体の使い方をするうちに熱中症気味になったのだ。
功は意識を失ってビニールハウスの銀色のシートを敷き詰めた地面に倒れた。
功が再び意識を取り戻して目を開けると、視界に飛び込んできたのは臼木地区の上の抜けるような青空だった。
「気が付いたのね、功ちゃん」
岡崎が功を仰いでいた団扇を止める。
「俺はもしかして倒れていたんですか」
「うん、ちょうど通りかかった野口君が見つけてくれたの」
功が慌てて起き上がると、作業服はびしょびしょに濡れている。
「それは山本事務局長が体温を下げなければといって水を掛けたの」
「熱中症の応急処置って、水を掛けるんでしたっけ」
功が尋ねると岡崎はクスクスと笑う。
「あの人もちょっと粗忽なところがあるから。あら、まだ休んでいていいのよ」
功が起き上がろうとするのを岡崎が引き留めようとしていると、山本事務局長が研修圃場の見回りからもどってきた。
「功ちゃん大丈夫か」
「もう大丈夫ですよ。作業の続きをしなくては」
立ち上がろうとする功を山本事務局長者心配そうにのぞき込む。
「農作業がきついから東京に帰るなんて言わないよな」
「言いませんよ」
功は山本事務局長が心配そうな理由がわかっておかしくなる。
彼は功が研修をやめるのではないかと心配していたのだ。
「ナスの栽培をいつまでも続けても意味はないから早めに収穫を打ち切って片付ければよかったんだよな。俺の失敗だよ」
山本事務局長は珍しく反省の言葉を口にしている。
この先はニラの定植作業の第二弾や受託作業の水稲の収穫なども控えているので彼の言う通りなのだが、ナスは収穫可能なのでついそのままにしていたのだ。
そのとき、功のスマホの呼び出し音が鳴った。
液晶の表示は真紀からの着信だと示していた。
「真紀ちゃんからですね。今どこにいるんだろう。」
「そう言えばいつもなら研修ハウスにいる時間なのに真紀の姿が見えなかったな。」
山本事務局長がつぶやいている脇で功が通話ボタンを押す。
「功ちゃん、すぐに来て、林さんの家の玄関が閉まったままで、声をかけても返事がないの。何かあったのかもしれない」
音量が小さいと研修中に通話を取った時に聞こえないことが多いので功のスマホは受話音量を大きめにしている。山本事務局長にも内容は聞こえた様子で、彼は真剣な顔で言った
「体調が悪くて、寝込んでいるのかもしれない。功ちゃんも行って様子を見てやれ。ハウスの開閉とかは俺が見ておくよ。うちの業務用の車を使え」
山本事務局長は車両の鍵置き場の方をあごで示しながら指示し、功は車庫の出しやすい位置に置いてあったタウンエーストラックの鍵をフックからひったくって車庫に走った。
林さんの家は車で行けば5分もかからない。功が到着すると玄関口の道路脇に真紀のインプレッサが止めてあるのが見える。
道路から一段上がった庭先に行くと真紀が玄関先から林さんを呼んでいる、功が到着するのと前後して、林さんの隣家の矢野さんも騒ぎに気づいて顔を見せた。
「今朝出勤する途中で何気なく林さんのおうちをのぞいたら、いつもなら、家の中に取り込まれている牛乳と新聞がそのままになっていたから気になって様子を見てみたの。玄関からいくら呼んでも反応がなくて」
真紀の説明を聞いていた矢野さんが口を開いた。
「私はね、林さんに万一の時があったら玄関を空けてくれと頼まれて、鍵の場所を教わっているの。それを使ってみようか」
矢野さんは林家の門口のポストの方に歩き始めた。
「どこにあるんですか」
真紀が矢野さんの後を追う。
「ポストの下に古い牛乳箱があってね、その中に軍手を入れてあると聞いているの」
その言葉が終わらないうちに、真紀は牛乳箱から軍手を取り出していた。逆さにして振ると鍵が転がり出てくる。
「ありがとう矢野さん」
真紀はそのまま玄関に走り、鍵でドアを開けて中に入った。
功と矢野さんもその後に続く。
「林さんいたら返事をして。」
真紀が家の中を探し始めたときに、功のスマホの呼び出し音が鳴った。
表示には山本事務局長の番号が出ている
「どんな様子だ、家の中に入れたのか。」
スマホから聞こえる山本事務局長の声も心配そうだ。
「今、隣の矢野さんに鍵の場所を教えてもらって中に入ったところです。真紀が家の中で林さんを探しています。」
功は、スマホで山本事務局長に状況を伝えながら、真紀の後を追った。
「もし具合が悪いんだったら、こちらから消防に連絡するからそのまま切らずに状況を伝えてくれ。」
功は支所長の指示を聞きながら家の奥に進んみ、台所に入ったところで、床に倒れている林さんと、耳元で必死に呼びかけている真紀を見つけた。
「体調不良で倒れていたみたいです」
功は事務局長に報告した。
「今、理香が救急車の出動要請をしている。もし虚血性心疾患だったらここのAED持って行くから症状を確認してくれ」
山本事務局長は簡単に指示するが、功は途方に暮れた。医者でもないのに症状の判断ができるわけがない。
「意識があるか、呼吸をしているか、心臓が動いているかを確認するんだ。」
山本事務局長もそのことに気が付いたらしく、功がわかるように指示して、状況を救急隊に伝えることにしたようだ。
「いびきが聞こえるから呼吸はしています。呼びかけには反応していません」
そう伝えると、理香と支所長が何かやりとりしているのが聞こえた。救急司令部からの指示が理香と山本事務局長経由で伝言ゲームよろしく功まで伝わっているのだ。
「それじゃあ動かさないで救急車が到着するまで待つんだ。真紀には気道を確保するように伝えてくれ。一旦切るぞ」
功は真紀に近づくと、彼女に伝言を伝えた。
「真紀ちゃん揺さぶったらだめだ。支所長が気道を確保するように伝えろって言うんだけどわかるか?」
真紀は呼びかけるのをやめると、周囲を見回した。
「去年支所長と一緒に救命救急研修を受けたの。AED使ったり心臓マッサージしたりするやつ。なんとかできると思う」
真紀は食事用テーブルの椅子から座布団を取って二つ折りにしすると、林さんの頭の下に入れようとするのだがうまくいかない。
「林さんの頭を持ち上げて。」
功は言われるままに反対側から林さんの頭の下に手を入れて持ち上げる、真紀は林さんの頭の下ではなく首の下に二つ折りにした枕を差し入れた。
その状態では頭頂部が下がって顎が上がってしまうが、それが真紀の目的だったらしい。
「救急車呼んだ?」
「今こっちに向かっている。僕は道路に出て誘導するよ」
功は林さんの介護を任せて家の外に出た。
言葉通りに救急車を誘導するためだが、意識不明の林さんを見ているのがいたたまれないのもあった。
山本事務局長が救急車の出動を要請したのが十分ほど前とすれば、あと十分ほどで救急車はここまで到着する。
しかし、それからが問題で、地域で救急受け入れを行っている県立の総合病院に運ぶには一時間近くかかる。まほろば市の医大病院に運ぼうとすればさらに、三十分ほど輸送時間が延びる。
脳の中で血管が破れて出血しているような状態だったら一分を争うのに、病院に搬送するために貴重な時間が浪費されていく。
功が待ち受けていた救急車が到着したのは十分以上経過してからだった。
救急隊員は家の中にはいると林さんを担架で搬送し、救急車が出ようとするとき矢野さんが、ボストンバッグを持って家から出てきた。
「これは林さんが、自分の身に何かがあったときに一緒に搬送先に運んでもらおうと荷造りしていたものなの。あなたが付き添って持って行ってあげて」
矢野さんはボストンバッグを真紀に渡した。
「わかった。私同乗していくから、功ちゃん山本事務局長に連絡しておいて」
真紀は功に言い残すと救急車に同乗して行ってしまった。
残された功に、矢野さんは礼を言う。
「あなた達よく気が付いてくれたわね。隣に住んでいる私でも気が付かなかったくらいなのに。おかげで林さんは命を拾ったかもしれないわ」
矢野さんは功に礼を言って自宅に戻って言った。
功は考えた末、林さんの家に施錠してから鍵をもとの場所に隠すことにした。
そして、功は真紀のインプレッサを覗いてみた。真紀は通勤途中で林家の以上に気づいたためドライバーズシートに財布と携帯が放り出してあり、キーもその横に並んでいる。
功はどうしたものかと山本事務局長に指示を仰いだ
「お疲れ様。功ちゃんは真紀の車を運転してあいつを迎えに行ってくれ、消防に勤めている知り合いに搬送先を聞いてみる。トラックは俺が回収に行くからそのまま置いといてくれ。キーは車に付けといてもいいよ、乗り逃げするようなやつはこの辺にはいないから」
功に異論があるわけもなかった。
救急車の搬送先が判明したら車の出そうと待機していると、山本事務局長から連絡が来た。
「林さんは硬膜下出血だったらしい。救急車では時間がかかりすぎるから、ドクターヘリを飛ばしてくれたそうだ。犬神の福祉・健康センターのランデブーポイントで拾っていったらしいんだが、そのときに真紀も一緒に乗っている。行った先はまほろば市の高度医療センターだ。功ちゃん場所はわかるか」
首都圏からわだつみ町に移住した功はまほろば県の地理には疎い。
「わかりません。道を教えてくださいよ」
「じゃあ教えるぞ、まずいざなぎ町から高速道路に乗るんだ。そのまままほろばインターまで行ってそこで高速を降りる。まほろばインターのトールゲートを出たら左のルートに入って、そのまま道なりに走っると市街地を通り過ぎてトンネルが見えてくるんだ。二本目のトンネルを抜けたら左側が目的地だ 。」
「それだけで本当にたどり着けるんですか。」
功はポケットに入れていた手帳にメモしていたが、道順があまりにも簡単なので、不安になった。
「俺の言うことを信じろ。不安だったら真紀の車のナビを設定したらいい。今から医療センターの代表番号を言うぞ」
支所長の言う番号をメモした功は真紀のインプレッサのエンジンをかけるとナビゲーションの設定を始めた。
功にとっては初めて使うナビなのだがその辺はおたく的スキルでどうにかなる。
ルート検索が終わったナビは音声案内を始めた。
「これよりルート案内を開始します」
功はカーナビゲーションの液晶画面でルートの先をたどっり、目的地が医療センターとなっているのを確認してからスマホで山本事務局長に話しかけた
「ナビの設定ができたのでこれから迎えに行きます」
「気をつけて行け。途中で給油したらその領収書も持って帰れよ」
山本支所長は燃料代が功の負担にならないように気を遣っている。
設定したルートは片道で百キロメートルを超えていたが、隣町のいざなぎ町からは高速道路が使える。
功はステアリングを握っておもむろに出発した。
いざなぎ町のインターから高速道路に乗ってまほろば市を目指し、医療センターに着くまでには二時間足らずだ。
インターを降りてからは市街地の煩雑な道を予想していたが、意外にも支所長の言ったとおりに道なりに走るとあっさり目的地に着いた。
医療センターに着いたので真紀に連絡をとりたいが、真紀のスマホは功の目の前に転がっている。
外来受付のそばにインフォメーションセンターを見つけた功は、事情を話して林さんの病室を教えてもらった。
院内の案内板を見ながら脳神経外科の病棟に行き、手術室の辺りを探してみると、ソファーを並べたスペースで真紀を見つけた。
「真紀ちゃん、大変だったね」
声をかけると真紀はうつむいていた顔を上げた。
「功ちゃんもしかして迎えに来てくれたの」
「それ以外にありえないだろ。室長がインプレッサに乗って真紀を回収しにけって言うから来たんだよ。林さんの様子はどうなの?」
真紀はポケットからティッシュを取り出すと鼻を拭きながら言った。
「うん、硬膜下出血だけど命には別状ないって。矢野さんが渡してくれた鞄に家族の連絡先もあったから病院の人が連絡している。でも、なかなか連絡が付かないみたい。」
功が真紀に持ってきた携帯と財布をわたしていると、功のスマホの呼び出し音が鳴り、それは山本事務局長からだった。
「今着いたところです。真紀ちゃんにも会えました。林さんは今手術中です。」
功が伝えると、山本事務局長は落ち着いた声で告げた。
「林さんの息子さんに連絡が取れたのでもうすぐそちらに着くと思う。お前達はもう引き上げていいぞ。研修作業とか考えなくていいからゆっくり帰ってくれ。」
山本事務局長の言うとおりで引き上げ時だった。
功は真紀に声をかけて帰ろうと腰を浮かしたが背後から功と真紀に声をかける人がいた。
「わだつみ町の農林業公社の方ですか」
功が振り向くと、声の主はスーツ姿の中年の男性で額に浮いた汗をハンカチで拭いている。
「はい、そうです」
功が答えると男性は慇懃に礼を言う。
「私は林と申します。今日は母が倒れているのを見つけて搬送していただいたそうで、何と言ってお礼を言って良いか。どうもありがとうございました。」
男性は功と真紀に深々とお辞儀をし、功は男性の目元の辺りが林さんに似ていると思った。
真紀は立ち上がって、発見したときの状況を説明した。
同じフロアにあるナースステーションからも担当の看護師が来て病状の説明をし始めた。
「真紀ちゃん帰ろう。」
引き際だと思って真紀に声をかけると、彼女は何度も振り返りながら病棟を後にした。
医療センターの駐車場に来たものの、真紀は何だかぼんやりとしているように見えたので、功が運転してわだつみ町を目指すことにした。
功はまほろば市のインターから高速道路に乗り、わだつみ町方面に車を走らせた。
お昼時で交通量は少なく運転は楽だ。
功がしばらく車を走らせたてふと気がつくと隣に座った真紀はポロポロと涙をこぼしており、鼻の頭も赤くなって鼻水まで出ている。
「どうしたの、林さんも一命を取り留めて、泣くよう話ではないだろ」
功が問いかけると、真紀はセンターコンソールから取り出したティッシュで鼻をかみながら言った。
「ごめんなさい。親しくしてくれた林さんが死ぬかもしれないと思ったから気が動転してしまって。そのうえ関係のないいろんな事を思い出して涙が出てきた。」
功は真紀の様子が気になったが運転中なので迂闊に視線を向けられない。
まほろば県の高速道路はセンターラインにポールが立っており、隣の車線を対向車が走る対面通行の個所があるので、功は圧迫感を感じていたのだ。
どこかで車を止めようかと思っていると真紀が訥々と自分のことを話し始めた。
「まほろば県に来てから誰にも話してなかったけど、福島にいる頃私には、つきあっている人がいたの。高校の先輩で健一って名前で、彼は高校を卒業してから町役場に勤めていたんだけど。私も高校を卒業して、小さな水産工場の事務の仕事が決まっていた。四月に就職したらもっといろんな事ができるようになるかなと思っていた頃に、東日本大震災が起きたの」
高校卒で誰かと付き合っていたとしても別に不自然な話ではない。
「地震の揺れはひどくて家具が倒れたりしたけど、家自体はつぶれなかったし、津波も近くまで押し寄せてきたけど、家は被害を受けなかった。祖父母も両親も家にいたし、出かけていた妹も無事に戻ってきたから。みんな無事で良かったねって言っていたの。でも、彼とは携帯でも、災害伝言板でも連絡が取れなくて、どうしてだろうと思っていたの。そうしたら今度は原発が危ないから避難しないといけないって話になって。皆で双葉町の方に逃げたの」
功は埼玉出身なので福島の地名は詳しくないが、彼女の話す町名を東日本大震災の報道でたびたび耳にしたのを覚えていた。
地震に続いて起きた原子力発電所の放射能漏れの事故で、空間放射線量が高い地区として報道されていたからだ。
「双葉町は浪江や南相馬から逃げてきた人が多すぎて避難所に入りきれないぐらいだった。避難所になっている学校の体育館の外で、救援物資をもらうために並んでいるときに、彼のお母さんに会えたんだけど、そのとき初めて彼が行方不明になっていることがわかったの。そのまま彼の所在がつかめない日が続いて、そのうちに、震災の日に彼を見かけた人の話とか聞くと、どうも海岸の方に避難誘導に行ったのかもしれないというのがわかってきたの。それでも、けがをしてどこかに入院していて連絡が取れないのかもしれないとかいろいろ考えていた。でもしばらくしてから、DNA鑑定で彼の遺体が確認されたって連絡が入ったの」
彼女はもう一回鼻をかみ、鼻の頭は赤くなっている。
「その時には彼はもう仮埋葬されていたらしくて、掘り起こして本葬にするときに彼の両親が私も呼んでくれた。彼に合わせてくれって頼んだけどやめた方が良いって言って結局合わせてもらえなくて、火葬にされたお骨は拾ったけど、これって一体何だろう、何でこんなにかさかさしているんだろうと思ったのを憶えている。葬儀の後で避難所で暮らしながら 、何か始めないといけないと思っているんだけど、立ち上がる元気もないような日が続いて。いつのまにか季節が冬になっていた。そんな頃にまほろば県に住んでいたおばさんが、気分転換にまほろば県に来ないかって声をかけてくれたの。おばさんっていううのがね私より五才しか年が違わないけど、気仙沼で仕事をしていたときにまほろば県の漁師さんと大恋愛してまほろばに嫁いだのが親戚中で有名でね、しばらくの間のつもりでまほろばに滞在していたら農林業公社が研修生を募集していたからそこに行くことになったの。何も知らない私に周囲のみんなが優しくしてくれたし、トラクターに乗ったりおナスの世話をして、一生懸命農作業をしていると他のことを忘れられるような気がして、そんなことをしているうちに今に至った訳」
功は何か言おうとしたが、気の利いた言葉を思いつかなかった。
「ごめん功ちゃん、つまんない話を聞かせてしまって」
「そんなこと気にしなくて良いよ」
功は寡黙になって運転を続けた。
「私が何でこの車に乗っているかわかる?」
真紀の質問に功は黙って首を振った。
「これは健一が乗っていた車なの、彼の家も津波の被害はなかったからガレージに無傷で残っていたんだけど、彼の両親がガレージでほこりをかぶっているのを見るのもつらいからって、私がまほろば県に来るときにくれたの」
功は自分が握っているステアリングやメーター類を改めて眺めた。何となく彼女のキャラクターと合っていないような気はしていたのだ。
「さっきうたたねしてから目を覚ましたら、ほんの少しの間だけど、健一の運転する車に乗ってドライブしているところだって錯覚してしまったのよ。もちろん運転してるのは功ちゃんだし、すぐに我に返ったんだけど」
功は真紀の言葉を聞いて、彼女の様子がおかしかった理由を理解した。
「健一さんって僕に似てたの?」
功が尋ねると、彼女は功の顔をじっと眺めている気配だった。やがて彼女はぽつりと言った。
「全然似てね」
身も蓋もなかったが、彼女はかまわず話を続けた。
「一瞬だけど彼と一緒にいる錯覚をしたせいで、もう元には戻らないんだって自分を納得させていたのが全部振り出しに戻ってしまったの。さっきは半分は自分に言い聞かせるつもりでいろんなことを話したけど、つまらない話をちゃんと聞いてくれてありがとう」
功は彼女が抱えていたものを理解し、普段は傍若無人に振る舞っている真紀が口にするお礼の言葉が何だか痛かった。
「お腹空いたからお昼にしない?。この近くに鍋焼きラーメンの美味しい店があるらしいよ」
結局、普段どおりに接した方がよさそうだと思った功は、のんびりした口調で言った。
一旦高速道路を降りなければならないが、山本事務局長も文句は言わないだろう。
功の提案にミリョクヲ感じたのか真紀も話に乗ってきた。
「ほんとだもうお昼すぎてるし何だかお腹空いてきた。鍋焼きラーメンってどんなかんじなのかしら。」
「鍋焼きうどんみたいに土鍋に入ったラーメンが出てくるらしいよ」
「何よそれ、私は普通のどんぶりに入ったラーメンのほうがいいわ。」
最寄りのインターチェンジで高速道路を降りた功は、いつもの様子に戻った真紀とラーメン屋に向かうのだった。
第19話 水田を渡る風
林さんの事件があってから数日後、梅雨も明けて功が臼木農林業公社に来て初めての夏が訪れ、功はナスのハウスの片付けも終わったのでちょっと一息つけるかなと思っていた。
「功ちゃん、林さんの田んぼの草刈りをするから手伝ってよ」
だしぬけに真紀が草刈り機を二台担いできて一台を功に押しつける。
林さんの水田は六反近くあって、段差もあるから畦畔の草刈りは大変だ。
功は考えていることが顔に出やすい性質なので、功が気乗りしていないことに感づいた真紀はさらに草刈り機を押しつける。
「それって、頼まれた業務じゃないじゃん、公社の燃料使ってかまわないの?」
「うるさいわね、使ってもせいぜい五リットルぐらいだから、蒸発とかのロスの範囲内でしょ」
真紀はどうしてもやるつもりらしく、観念した功は渋々準備を始めた。
草刈り機のエンジンは二ストロークなので燃料にオイルを混合してやる必要がある。
草刈り機専用の携行缶に五リットルほどガソリンを入れてから、計量器でガソリン五リットルに対応するオイルを量って加えると今日使う草刈り機用の燃料が出来上がる。
臼木では草刈り機の燃料を飲料用のペットボトルに入れて携行する人も多いが、それは実は違法であり、臼木農林業公社では赤い携行缶を使っている。
「結局、巻き込まれるんだよな」
燃料缶と、草刈り機を軽四輪トラックの荷台に積み込みながら功はぼやいた。
御本人の真紀は功が準備している間に運転席に収まって上機嫌だった。
林さんの圃場に行くと、畦畔の雑草はかなりの草丈になっていた。
除草作業は隣り合って作業してると危ないので、道路から谷にむけて続いている棚田の中央辺りから斜面の下に向かって真紀が作業し、功は道路の有る斜面の上側に向かって作業していくことになった。
草刈り機にもいろいろなタイプがある、肩からベルトで固定してハンドルが付いているのが一般的で、エンジン部分を背中に背負ってトルクチューブで動力を伝えるのもある。
トルクチューブ付の草刈り機はエンジンの重量を支えなくていいので楽なのだが価格が高い。
臼木地区でよく使われているのは、ハンドル無しでエンジンと刃先が棒状のシャフトでつながっている軽量タイプだった。
急な傾斜も多い棚田の畦草を刈るには軽量タイプの方が持ち上げて高い位置の草を刈ることもでき様々な使い方が出来る。
しかし、燃料タンクは小さめなので頻繁に給油する必要があった。
何回目かの給油にあぜ道を登っていると、下の方で黙々と草を刈っている真紀が見えた。
振り返ると道路を挟んで林さんの家が見える。
春先に田植えまでの作業で時々来ていたのでなじみのある眺めで、休憩時間にお茶を入れてもらったりしたことを思い出すが、今はその家に住む人はいない。
お隣の矢野さんが田んぼの水管理をしているそうだが、雑草の退治まではとてもできないのだろう。
次第に雑草がはびこるのを見て草刈りをしようと思い立った彼女の気持ちもわからないでもなかった。
草刈り機に燃料を補給していると、同じようにガス欠になった真紀も登ってくる。
「お疲れ様、ちょっと休もうよ」
真紀は、事前に準備していたらしい冷たい茶のサーバーを軽トラックから降ろしたす。
農作業の休憩時間に水分補給するのは熱中症防止のためにも大事なことだが、大量に汗をかいた作業の後はジュースやスポーツドリンクでは濃すぎるため冷やしたお茶を飲むことが多い。
お茶の種類は地元産の番茶を冷やして使うことが多く、時間がない時は麦茶の水出しパックも活躍する。
道縁に二人で座り込んでお茶を飲んでいると、林さんの田んぼが見渡せた。
まだ十分に実っていない稲穂は軽くて風によくなびき、風が吹き抜けていくと田んぼの海を波が渡っていくようだ。
「子供の頃ね、おじいちゃんの田んぼを見て、『ねこのバスが通ってる。』って喜んでたのを思い出すわ。」
「へ?」
功は真紀に聞き返してから、彼女も功と同じ景色を見ていたのだと気がついた。
世の親が子供によく見せるアニメの一場面のことを言っていたのだ。
「そうだね、風が渡っていくのが見えるみたいだ。この辺の山だったら、人外のなにかが棲んでいてもおかしくないような気がする。」
その時、目の前の道路を妙な動物が走り抜けていった。
「今通ったの何?タヌキか?」
「違う。犬でしょ、首輪していたみたいだし。野口君が飼っている犬じゃないかな」
後ろ姿を見てもタヌキみたいに見えるが、尻尾をクルッと巻いている。
子供の頃飼っていた豆柴のチョビを思い出した功は、チョビを呼んでいたように口笛で呼んだ。
すると、用ありげに走りすぎていったその犬は立ち止まって、先ほどよりゆっくりとした足取りでこちらに戻ってきた。
「何をしたの。他所の家の犬なのにどうして功ちゃんが呼ぶことができるわけ」
「犬ってそういうものなんだよ」
功はオカルトは信じないが、ユングの本は読んだりする。
犬の潜在的無意識に呼びかけるからだとか、シンクロニシティーだとか大仰な理由を考えたが、説明がややこしいので真紀の問いは適当に受け流した。
その間に近くまで来た犬は、「呼ばれたから来たけどあんた誰?」と言いたそうな表情で功の方を見ている。
その犬は柴犬を一回り大きくしたような姿で毛色はこげ茶色が基調だ。
功が手を差し出すとフンフンと匂いをかいで、見かけによらず人なつこい。
「こいつを野口君の家まで連れて行ってやった方が良いかな。」
真紀は少し表情を硬くして返事をしなかった。
功が重ねて聞くことはしないで犬の頭撫でると、犬は身をよじって少し距離を置いた。
「ほっといて大丈夫なんじゃないの、イノシシ猟に連れて行くようなやつなんだし」
真紀がボソッとつぶやくのを聞いて、功はこれ以上深追いしないことにした。
功は犬に、何も持っていないよとてのひらをみせると犬は「用がないならもう行くぜ」と言うように一瞥をくれて元の方向にかけだしていった。
「功ちゃんのことはただのアニメおたくだと思っていたけど、これからは犬寄せの術を使う辺境の犬使いという肩書きを加えることにするわ」
「適当な肩書きを増やさないでくれよ」
功は妙なことで感心されて苦笑したが、その時二人の目の前に見かけない国産のセダンが止まった。
運転しているのは病院であった林さんの息子さんで後ろの席には山本事務局長が乗っている。
「おまえたち何をやっているんだよ」
山本事務局長が窓を開けて訊くのを見て、功は思わず真紀の方を見た。
「以前、林のおばあちゃんに頼まれていたから、畦の草刈りをしているのよ」
真紀は功と違って心臓が強いタイプのようで、平然と答える。
「そうだっけ、お疲れ様。これから林さんと土地の関係の相談で役場まで行ってくるよ」
林さんは功達に会釈しながら車を出した。
林さんの水田の草刈りが終わり、事務所に帰ると山本事務局長はまだ帰っておらず、理香が出迎えた。
「おかえり、今日はどこに行っていたの」
委託業務の予定に無いことをしていたので、功達は所在不明になっていたようだ。
「林さんの畦畔管理をしていたの。面積が広いから大変でした」
「そう、お疲れ様。今お茶を入れるから待っていて」
理香も真紀の嘘をあっさりと信じたようだ。山本事務局長も理香もアバウトすぎるのだが功は臼杵の人々のそんなところが好きだった。
夕方になると事務所には集落の人がフラッと来て立ち話をしていったりすることも多い。
その日は野口が入ってきたが、彼は何だかあわてているようだ。
「うちで飼っている太郎見かけなかった?さっき見たら犬小屋から脱走したみたいで姿が見えないんだよ」
犬の話をしながら、野口の目はチラチラと事務所の奥にいる真紀を見ている。
例の一件のあとで野口は大仰に謝罪をしようとしたが、山本事務局長はその件はもう蒸し返さないでくれと止めていたのだ。
「見たわよ。あのタヌキみたいな毛並みの犬でしょ。前の道を中の川の方に走っていたみたいだけど」
真紀が普段と変わらないトーンで告げると、野口の顔にホッとしたような表情が広がる。
「うそお、また青木さんの鶏くわえて帰ってきたら、どうしよう」
野口は大仰に頭を抱えて見せたが、言葉とは裏腹に少しうれしそうな顔をして礼を言って事務所を出て行った。
功は野口と真紀が険悪な関係になるのではないかと心配していたので、二人が当り障りない接し方をするのを見て安堵する。
その時、山本事務局長が勢い込んで帰ってきた。
「真紀、大変だ。ちょっと来てくれ」
山本事務局長は持っていたバッグを自分の机に放り出すと、理香さんが入れた番茶を湯飲みについで飲んだが、熱かったらしく無言でもだえている。
「一体どうしたのよ山本事務局長。少し落ち着いたら」
真紀が山本事務局長をいさめ、どうにかお茶の熱さが収まってきた山本事務局長は真紀に告げた。
「林さんの息子さんが、家の周辺の土地を全部お前に貸してくれるって言うんだ。それだけじゃない、もし真紀が、使う気があるなら、家まで貸してくれるつもりらしい」
「どういう事、私そんな話を頼んだ憶えもないのに」
山本事務局長が続ける。
「林さんが息子の幸司さんに相談して決めたらしい。林さんも硬膜下血腫の後遺症は軽くて日常生活に支障がないところまでは回復するらしいけど、農作業を続けながら一人暮らしは無理だと本人が割り切ったらしい。誰かに土地を貸すのだったら、真紀に貸したいということになったらしい」
「ふーんそうなんだ」
山本事務局長の気合いの入り方と対照的に真紀はしらけた雰囲気で平然とお茶を飲んでいる。
「ふーんって、おまえ来年春には就農する予定なんだし、林さんの農地は全部集めたら八反以上あるんだからいい話だと思わないのか」
「別に。返事をする前に少し考えさせて」
そう答えた真紀は、湯飲みを置いた。
「今日は疲れたからもう帰る」
真紀は、そう言い残すとそそくさと事務所を出て行った。
駐車場からインプレッサのエンジン音がしたかと思うとあっという間に遠ざかっていく。
「一体どうしたんだよあいつは、せっかく農地を貸してくれる話が来たっていうのに」
山本事務局長は農地を借りるために苦労した榊原の例もあるので真紀が就農するための農地が見つかって自分のことのように喜んでいたのだ。
それなのに真紀本人が気乗りのしない態度を見せたことが納得いかない様子だった。
「ちょっと真紀の家まで行って話をしてくる」
山本事務局長が出かけようとするのを理香が襟首をつかんで引き留めた。
何をするんだという顔で振り返る山本事務局長に理香がゆっくりとかぶりを振ってみせる。
「何で止めるんだよ。先方に返事もしないといけないのに」
山本事務局長は不満げにつぶやいた。
「少し考えさせてと言っているんだから、一晩くらいは時間をあげなくちゃ。真紀ちゃんも遠い場所の出身だから、ここにずっと住むことになるなら、いろいろと思うこともあるはずよ」
理香がやんわりと山本事務局長をたしなめた。
山本事務局長と彼女は中学校の同級生だが、大事な場面では理香がお姉さん的にイニシアティブを取るのが何だかあやしい雰囲気だ。
翌日の朝、功が事務所に行くと真紀と山本事務局長が向き合っていた。
「真紀、どうするつもりか話してくれないか」
山本事務局長は強気に話を進めようとする。
「私は林さんが体調を崩して倒れたのに、その土地をちゃっかり使うみたいな感じがして抵抗があるのよ」
真紀は生真面目な表情で山本事務局長に訴えた。
「でも、林さんだって真紀を見込んで貸してくれるつもりになったんだぞ」
山本事務局長の言葉に真紀は首を振った。
「わかっているけど、林さんがどうしても手に余る土地を貸してもらうのと、倒れたからその後を占領するのでは気分が違うのよ」
山本事務局長が黙り込んだ。その横で理香がゆっくりと話し始めた。
「占領すると言うのは言葉が悪いわね。林さんは真紀ちゃんのことを気に入って、名指しで使ってもらいたいと言っているのよ。林さんの意思も汲んであげないといけないわ。」
真紀も口をつぐんだ。しばらくして真紀はぽつりと言った。
「わかった。林さんの土地を貸してもらう」
山本事務局長の表情が安堵して緩むのがわかった。
真紀が意思を決めたことで彼女は臼木で農家として生活することに一歩踏み出したのだった。
第20話 友来る
功は緑色の流れが小さな渦を巻く川面にパドルを差し入れる。力を込めて水を掻くと、透明なしぶきがはじけ飛ぶ。
しぶきが上がるような漕ぎ方は下手な証拠で、功のパドル捌きは無駄な動きが多いが、それでもオレンジ色のカヌーは功がパドルを漕ぐのに合わせて舳先を少しずつ左右に振りながら進んでいく。
進んでいく川面の左右には緑の濃い山肌が続き川岸には大きな岩が連なっている。
自然の豊かな川でカヌー遊びを楽しんでいる図だが、優雅な雰囲気は背後からの怒声にかき消された。
「ほら、さっさと漕がないと一樹君達において行かれているでしょ」
「それなら自分も漕いだらいいだろ」
「私がこいだらピッチが合わないとか文句言うじゃない」
声の主は真紀で、二人乗りカヌーの後ろの席に乗り仲良くカヌーに乗っている状況だ。
功の友人の一樹と美紀そして秀志の三人が夏休みを使ってまほろば県まで遊びに来たのだが、話を聞きつけた真紀が案内を買って出て、早朝に夜行バスで到着した一樹達をカヌー遊びに引っ張り出したのだ。
「いざなぎ川でカヌーに乗らないと、わだつみ町の魅力は語れないわ」
真紀は、古くからあるレジャーのように話すがいざなぎ川にカヌーセンターができたのはこの春の話だ。
功は彼女自身がカヌーに乗ってみたかっただけではないかと思ったが口をつぐんでいる。
わだつみ町が整備したカヌーセンターは安価でカヌーを貸し出しており、功たちは2人乗りカヌーを二艘借りて、功の車のルーフキャリアに無理やり積んで上流まで運んで川下りを楽しんでいた。
真紀の言うとおり、一樹達のカヌーは美紀と二人が仲良くパドルをこいでいるせいか、下流に向かって二十メートルほど先行している。
流れの下流の方には、カヌーを借りたカヌーセンター見えて初め、カヌーを川に降ろすときに使う木の桟橋で秀志が待っていた。
せっかく来たのだからとカヌーに乗るように勧めたのだが、秀志は泳げないのでカヌーは遠慮するといってカヌーを運んだ功の車の回送役を買って出たのだ。
カヌー遊びで一時の涼を得たが、周囲の涼し気な景色と裏腹に気温は高い。
真紀は暑さを感じていたらしく、功の肩越しに自分のライフジャケットを押しつけると言った。
「功ちゃんこれ持っていて、私ちょっと泳ぐわ。」
真紀は後ろの座席からするりと川に向かって滑り込んだ。
二人乗りカヌーはそれほど安定が良いわけではなく、功はひっくり返りそうになったカヌーを立て直そうと必死にパドルを操作した。
功がどうにかカヌーの安定を取り戻したころ、五メートルほど離れた水面に真紀が顔を出した。
「底の方まで潜ったら、冷たくて気持ちいいわよ、功ちゃんも泳いだら」
「カヌーを陸揚げしたらそうするよ」
功の答えも待たずに、真紀は抜き手を切って一樹達のカヌーに向かって泳ぎ始めた。先行した二人も泳ぎに誘うつもりのようだ。
功は預けられたライフジャケットを落とさないように片袖だけ通してパドルをふるい、どうにかカヌーを桟橋に横付けした。
先にカヌーを陸揚げした一樹と美紀はもう川の中程を目指して泳いでいる。
カヌーがひっくり返るのを想定して皆水着を着ていたので、その気になれば川で泳ぐぐこともできる。
秀志に手伝ってもらいカヌーを桟橋にあげた功もライフジャケットとTシャツを脱ぐともう一度川に降りて泳ぎに行くことにした。
「せっかくだから秀志も一緒に泳ごうよ」
断られるのを予期しながら誘うと、秀志は意外と話に乗った。
「そうだな、せっかくだから俺も川に入ってみるよ」
秀志はいつの間にか用意した浮き袋を片手に桟橋を降りる。
引きこもり系の彼が旅行に出てきたこと自体珍しいのだが、アクティブな行動が増えているようで功はうれしい。
桟橋の辺りの浅瀬はぬるま湯のような水温だったが、川の流れに入ると少し積ん托感じられた。
和樹と美紀はいるか型エアクッションにつかまって流れの真ん中辺りに浮かんでおり、川遊びを満喫している様子だった。
「気温は高いけど景色が良くてわだつみ町最高ね」
いるかクッションの首にしがみついた格好の美紀の横で一樹が言った。
「さっき真紀ちゃんが言ってたけど、ここって昔、女子学生がおぼれた事があることがあるらしくて、時々出るらしいよ。」
「そうそう、川が増水したときに渡し船が転覆して、乗っていた人のほとんどは助けられたけど、一人だけ行方不明になった人がいるって」
功たちがいる川の中ほどは、川底が見えないほど水深がある。
深みを覗き込んだ功は何かがうごめいたような気がして背筋がぞっとした。
そのときだった、何かが功の足を強くつかんで下に引っ張ったのだ。
水面下に引っ張り込まれた功が足元を見ると白い服を着た女の子が功の右足をつかんでいるのが見える。
功は水中なのも忘れて絶叫をあげてじたばたと水をかいた。
溺れると思ったときに足をつかむ力がゆるんだので功はどうにか水面に顔を出す。
水を飲んだせいでむせていると。目の前の水面を突き破って人の頭が浮上し、それは真紀だった。
「どお、びっくりした?」
満面の笑みで真紀が問いかけ、一樹と美紀も歓声を上げている。
「した」
弱々しく答えた功は、ベタないたずらに文句を言う気力もなくして仰向けに水面に浮かんだ。
見上げると深い青色の空を背景に、輪郭のはっきりした入道雲が流れている。
功は大学生に戻ったような気分だが、本当に大学生だった頃でもアウトドア満喫な遊び方はしたことがなかった。
一見流れがないような川の深みも着実に水は流れており、水の冷たい深みで遊んでいた功たちもやがて流されて、浅瀬に来たのでそこから陸にあがることになった。
「まほろば県って夏は暑いんだね。夏場はいつもこんな感じなの」
美紀が真紀に訊ねるが、真紀は首をかしげて言った。
「この暑さはちょっと異常じゃないかしら。去年とかこんなに暑かった記憶はないし」
二人は桟橋に上がって歩き始めた。二人とも水着の上にラッシュガードを着ているのですらっとした足が目につく。
何だか気がとがめて目をそらしたら功は秀志がガン見しているのに気がついた。
さりげなく視線を遮るように割り込んだら、秀志は功の意図に気がついて身振りでしきりに謝っている。
功が彼女に色目を使われて気を悪くしたと思ったようだ。
そうではないと伝えようとしていたら、いつの間にか気配を察した真紀が振り返っていた。
「功ちゃん、なに一人でタコ踊りしているの?」
「え、いや、アブが飛んでいたんだよ、ウシアブとか言うやつ」
「あーそれって銃で撃っても死なないようなごついやつね」
真紀はどこかのファンタジーかSFの話と混同しているが、功はうなずいてみせた。
真紀は納得して再び前を向いて美紀と話し始めた。
女性二人がカヌーセンターの更衣室で着替えている間に、一樹はアイスを買いに行くと言って功の車で出かけていった。
残った功と秀志は人気の少ないおみやげコーナーをぶらぶらしていた。
とりあえず施設内に入ればクーラーが効いているので外にいるよりは快適なのだ。
「なあ功君、農業ってちゃんと生活できるようなものなのかな。実はおれはデイトレだけで食って行く自信が無くなったんで、投資資金の一部を使って自分も農業をしてみようかと思っているんだ」
春先にもそんな話をしていたが、功から見て秀志と農業はイメージがかみ合わない。
「でもデイトレやっていたら儲かっているんじゃないの。年明けからアベノミクス効果とかで株価も上がっているじゃん」
「最近は数学的なアルゴリズムを使って大量に売買するボットが増えてきたので相場が読みづらい。下げる動きに便乗できたら稼げるがその先は見当がつかないんだ。春先に株は一旦全部売ってしまったが、もう一度手を出すのが怖くてそのままにしている。」
話をしているうちに功は「リアル秀志」が降臨していることに気がついた。
普段の秀志はおとなしい上に言葉遣いも馬鹿丁寧だが、実はそれは彼の傷つきやすい自我が作り出した対人折衝用の疑似人格のようなものが応答しているのだ。
本来の彼はどこか遠くに潜んで成り行きを見守っている。
功と一樹は大学時代にそのことに気づいて、本来の彼が現れたときは「リアル秀志が降臨していた」とまことしやかに言っていたのだ。
少しつきあいの浅い美紀はそこまでわかっておらず、引きこもり気味の彼が出てきただけで「降臨した」と称している。
「農業も、地元の人とのつきあいも大事だし、単純作業が多くて結構しんどいと思うんだけど」
「そう思っていたけど、功がうまくやっているなら、俺にもできるんじゃないかって気がしてきたんだよ」
随分な言い方なのでさすがの功もカチンと来るものがあった。
「奈緒子ちゃんとつきあっていた頃の功は、自分に負い目を感じていたみたいで、ブラックの企業でも無理矢理就職してみたり、何だか背伸びしようとしてばかりだった。今の方が功らしくてのびのびとして見えるよ。そう思ったら。俺も一緒にお米とか野菜を作ってみたくなったんだ」
秀志は功の気持ちなど気づく素振りも無く言葉を続けるが最後まで聞くと功の苛立ちは収まったのでアニメキャラのセリフで混ぜ返すことにした。
「認めたくはないものだな。若さ故の自らの過ちというものは」
秀志は当然出典元も知っており微笑を浮かべて功に言う。
「その手のセリフが出るのも元気になった証拠だ」
どこか人をいらつかせるところがある「リアル秀志」だが、彼が降臨するのは信用している人間の前だけだ。
本音を打ち明けて相談してくれたのが功はなんだかうれしい。
「僕がまほろば県に最初に来たときに受講した体験研修を紹介しようか。ネットを使って受講できる農業の通信教育もあるみたいだし」
「そう言ってくれると思っていたよ。俺は急がないから少しずつ情報を集めてチャレンジしてみるよ」
秀志はうれしそうにつぶやき、そこに着替えが終わった二人が戻ってきた。
「地元の方は荷物の制約がないから、差を付けられちゃうわ。功ちゃん彼女の装いはどう。」
言われるまでもなく、功はノースリーブの白いワンピースとつばの広い麦わら帽子で現れた真紀に目を奪われていた。
いつもと違う、避暑地のお嬢様スタイルがやけに似合っているが、功の口から考えているのとは裏腹な言葉が出てしまった。
「どうしたのさ、普段は作業着しか着ないくせに」
功はしまったと思ったが、一度口から出た言葉は回収することはできない。
「なによ。私は作業着だけ着てればいいっていうの」
真紀はむっとた表情でして言い返すが、険悪なやりとりに発展する前に美紀が持っていたビーチサンダルをハリセン代わりにスパーンと功の頭をはたいた。
「今時の小学生の方がもっと気が利いているわよ、草食系なのは仕方がないにしても、もう少し口の利き方に気をつけなさいよ」
美紀の剣幕に頭を抱えて謝る功を、アイスを抱えて戻ってきた一樹が怪訝な顔で見ていた。
夕方、わだつみ町に戻った功たちはわだつみ町中心街に行き居酒屋の喜輔に出かけた。
マスターは地物のカツオのたたきやイサギの刺身に腕を振るって見せる。
「いいなあ、こんなにおいいしいのに値段は安いし」
美紀がつぶやくと、無骨なマスターのひげ面に笑みが浮かんだ。
真紀と別れて宿舎に帰る間、秀志は学生時代によく歌っていた、何だかわからない曲をわめいていたが、東京から来た三人は旅の疲れが出たのか早々と寝入ってしまった。
「ローリングロックスのナンバーをわめいている奴がいたな、なかなか良い趣味だ」
功が荷物の片づけをしていると山本事務局長がふらりと訪ねてきた。
狭い集落なので功の所に県外から友人が遊びに来ているのはあっという間に知れ渡っていたようで、差し入れにビールを持ってきてくれたのだ。
「あの曲ってあいつのオリジナルだと思っていたけど原曲があるんですか。」
「ローリングロックスのサティスファイドって曲だよ。知らなかったのか」
功は山本事務局長が博識なのに驚かされる。
「昼間、岩切君に短期研修の問い合わせをしただろ。研修受講希望者ってひょっとして彼のことか」
起こしたら気の毒と思ったのか、支所長は秀志達がいる居間には入らず、入り口からのぞき込んでいる。
「そうなんです。とりあえず短期研修に行ってみてはどうかって勧めているんですけど」
「同級生なら社会人だろ、仕事は何をしているの」
「定職には就いていなくて、自宅でデイトレードして生活しているみたいですね」
あまり聞かれたくない所だったが、功は正直に答えることにした。
「ふーんそんなので生活できるやつって、どんな頭の構造しているのか俺には理解できんな。でも功ちゃんの例もあるから来る者は拒まず。とりあえず受講者歓迎だって岩切君も言っていたから。早いうちに来てもらえばいい。あそこは四月入学とかじゃなくて随時受け入れできるから、長期研修に放り込んじゃえよ」
山本事務局長の言葉は功のことを、けなしているのか持ち上げているのか判然としない。
しかし、功は秀志のことをいきなり拒絶されるのではないかと思っていたので意外だった。
「あいつが、農業できると思いますか」
「そのために、研修を受けてもらうんだよ。二、三日研修受けただけでやっぱり向いてないからとかいって帰っちゃうやつもいるし、本人は絶対やりたいと言い続けても、周囲から見たら、作業が遅くて用事にならないのが目に見えているからやめさせる場合もある」
「歓迎しているのかと思ったら、意外とシビアなんですね」
「前にも言っただろ。設備投資とかいろいろお金がかかるから、借金抱えて身動きが取れなくなるよりは、やめとけって言ってやるほうが親切な場合もある。研修施設なんてなかった頃は就農したものの気がついたら借金だらけで取引先も家族も困りはてたこともある。結局ご本人の栽培への熱意と経営者としての手腕にかかってくるのだな」
秀志の話以前に自分は大丈夫なのだろうかと功は不安になっていた。
山本事務局長は功にビールを渡すとあっさりと帰り、一樹達は翌日、海水浴も楽しんでわだつみ町の夏を堪能した。
社会人が使える休みは少なく、お盆の帰省客が都会に帰るタイミングより少し早めに一樹たちは東京に戻ることになった。
功は三人をわだつみ町のJRの駅まで送った。
「暑かったけど自然を満喫できたよ。また機会があったら遊びに来る」
一樹が美紀と並んで手を振りながら無人の駅に入っていき、秀志も続く。
ホームから手を振る三人に答えながら、功は、昨日の支所長の言葉を考えていた。
秀志が希望どおりに就農することはできるのだろうか?それ以前に自分も農業に向いているのだろうか?そんなことを考えているうちに、駅に特急列車が入り、ホームの向こうにいた三人を遮って見えなくしていた。
列車が発車した後、引き上げようとした功は、駅のホームに秀志が残っていることに気が付いた。
「秀志どうしたんだよ」
功が駅舎の中から呼ぶと秀志はゆっくりとホームから戻ってきた。
「功の紹介してくれた研修所で長期研修を受けようと思うんだ。善は急げというからこのまま残って研修を始めてしまおうと思ってね」
秀志は、照れくさそうに告げた。
第21話 最初の一歩
功の研修は九月に入るとナスの定植作業という大きなイベントを迎えた。
ニラの定植作業は春先に経験済みだが夏場に種を播き、土壌病害に抵抗がある台木に接ぎ木するという大手術を乗り切ってきた苗たちを本圃場に植えるとあって功や真紀の意気込みも違う。
定植作業には、県立の長期研修施設の研修生となった秀志も作業に加わることになった。
人出が足りないと言うよりは、彼自身の研修のために外部研修の一環として派遣されたようだ。
前日までに功と真紀は畦立てを済ませ、ナスに水をやるための灌水パイプを設置し終えていた。
電磁バルブをセットしてスイッチ一つでハウス全体に水を灌水でき、必要ならタイマーも使えるシステムだ。
灌水パイプを設置した後、畦にはマルチと呼ばれる銀色のシートが張られ、あとは、シートに開けた植穴に苗を植えるだけだ。
功と真紀はそれぞれに小さなビニールハウスを担当してナスを栽培することになっており、定植作業は功の研修ハウスから行うことになった。
功がトレイに入れて運んできたポリポットと呼ばれる樹脂製の鉢に植えられた苗を山本事務局長の指導の下で功と真紀、そして秀志が植え付けていく。
良く耕した上に堆肥と肥料を入れた土は少し乾燥気味にしてあるので、さらさらとした手触りで手でたやすく掘ることができる。
功はスコップで穴を掘って、樹脂製の鉢から出した苗を植えていく。
ナスは一つの畦に2列植えていくので、功と真紀は畦をはさんで向かい合って作業している状態だった。
「功ちゃん、苗の下側に隙間ができないように、土をかけてからしっかり押さえないとだめよ。」
真紀は先輩らしく畦の反対側からお手本を示して見せ、功は言われたとおりに次の苗を丁寧に植え始める。
苗の株を押し付けてふと顔を上げると、こちらを見ている真紀と目が合った。
双方が作業をするために畦の上に体を乗り出しているので、その距離は近い。
真紀の大きな目と、長いまつげがつぶさに見えて功はドキリとした。
いつもの真紀なら、「何を見ているのよ」と怒鳴りそうな場面だが、彼女は目を伏せると無言で次の作業に取り掛かる。
功は真紀が傍若無人に見えて、実は繊細に気配りする性格であることに気づいており、研修作業で日々接するうちに自分が彼女に心を惹かれていることを意識していた。
定植作業には事務員の理香も手伝いに入り、定植した苗に水を掛ける係りをしていたが、功と真紀の様子を見てクスッと笑うのが聞こえた。
午前中に定植作業は終わり、昼食の時間に臼木農林業公社の研修生とスタッフはそろって榊原と茜が始めた農家レストランに食事に出かけることになった。
以前から機会があれば皆で出かけようと話があったので、定植作業で皆が一緒に仕事をした流れでちょっとした食事会を開くことになったのだ。
榊原の店はわだつみ町の町はずれの国道横にあるため、よく目にする建物のテナントとして入っており、一行は二台の車に分乗してその店に乗りつけた。
「いらっしゃいませ。今日はお揃いで来てくれたのね」
店内ではエプロン姿の茜と榊原が時ならぬ大勢の客を出迎えた。
二人の店は閉店していた喫茶店を居抜きで買い取ったものだ。
その店はアメリカの西海岸辺りをイメージしたウッディな内装だったため、きれいに掃除された店内は小洒落た雰囲気だった。
「午前中で定植作業が終わったからみんなで出かけることになったの」
「そうだったのね、時々みんなで来てもらえるとうちも助かるわ」
茜は嬉しそうに皆の顔を見渡したが、見かけない顔があるのに気づく。
「新しい研修生さんが入ったのかしら」
「彼は僕の友達の秀志です。県の農業体験研修所で長期研修を始めたのですが、今日は現地研修扱いで定植作業を手伝いに来たんです」
功が紹介すると秀志は立ち上がってお辞儀をする。
「よろしくお願いします」
「私たちもあそこで長期研修を受けたんですよ。よろしくお願いしますね」
研修所の卒業生はそこを母校として懐かしく思っているようで茜は相好を崩す。
「ご注文は何にいたしますか」
榊原がオーダーを取るのを、山本事務局長が冷やかし気味に尋ねる。
「おすすめは何があるんだ」
「それはね、俺が作った野菜をふんだんに使った本日の日替わり定食ですよ」
榊原が自慢げに言うので、結局皆が本日の日替わりを注文することになった。
しばらくして、皆の前に出されたのはまほろば地鶏とエリンギの鉄板焼きにベビーリーフのサラダを添えた皿と、ラタトゥイユを添えたバゲットだった。
臼木農林業公社の一行は黙々と食べていたが、やがて真紀が言った。
「凄くおいしい。この野菜を全部榊原さんが作ったの?」
「そうだよ。でも、今使っている畑の持ち主が子供が戻ってくることになったから返してくれっていうから、例の耕作放棄地の再生作業を早くしないといけないんだ」
榊原は相変わらず農地の確保に悩んでいるらしかった。
「土木業者に頼めばいいじゃないか」
山本事務局長が言うと、榊原は首を振る。
「最近、土木業者が忙しいらしくて、施工してくれる業者が見つからないんだ。俺は重機の免許を持っているからいっそのこと重機を借りて自分で作業しようかと思っている」
「そうか、それは大変だな」
山本事務局長は表情を曇らせる。
「そうだ、作業日を土日にするからあんた達が手伝ってくれないか。例の補助事業を使うと自分で施工する場合でも経費と雇った人の日当も補助してくれるらしいんだ」
「俺は別に手伝ってもいいけど」
山本事務局長が遠慮がちに周囲を見回と、真紀が真っ先に手を上げた。
「私手伝います」
功も手を上げる、ここまで関わってきて手伝わない訳にはいかない。
「あの、僕も手伝わせてもらえますか」
秀志も遠慮がちに手を上げていた。
山本事務局長は微笑を浮かべて言った。
「戦力は十分のようだな」
「わかった、事務的な手続きが終わったら改めて連絡するよ」
榊原がホッとしたような表情で告げた。
それから、十日ほど過ぎた土曜日に功たちは榊原の耕作放棄地解消事業を手伝うことになった。
功たちのさしあたっての仕事は榊原が重機で根こそぎ掘り起こした雑草や雑木を適当な大きさに裁断してトラックに乗せることだ。
バックホウの低いエンジン音が響く中で、功はなた鎌と呼ばれる道具をふるって伐採された灌木の枝をたたき落とす。
樫の木でできた柄に、四角い分厚い刃を取り付けた「なた鎌」は直径が3~4センチメートルの雑木なら叩き切ることができるし、軽く振るだけで枝落としが可能だ。
「間違えて指を落としたりしないでくれよ。」
支所長に言われて、功はなた鎌の破壊力が自分の指に及んでしまう事態を想像してぞっとする。
左手で雑木をつかんで叩き切ろうとしていたら、不測の事態が起きかねないと気が付いて、功は注意して作業することにした。
その横では秀志が自分が集めた草木を一輪車でトラックに運ぶ作業を黙々とこなしていた。
農作業など無理ではないかと思われた秀志だったが案外粘り強く働いている。
集めた雑草や雑木は一般廃棄物としてゴミ処理場に運ぶと言う。
「雑草を畑に鋤き込んでしまうわけにはいかないんですか。」
功は隣でチェーンソーを使っていた山本事務局長がエンジンを止めたので尋ねた。
「そのやり方もできないこともないが、雑草の種が残るからあまりよろしくない。本当はしばらく田んぼにして稲を作りたいぐらいだな。」
「あの人達なら雑草が生えてきたら手で抜いちゃうでしょ」
「お、なかなか言うようになったね。あいつらなら本当にやりかねないから怖いな」
山本事務局長は燃料を補給すると再びチェーンソーを使い始める。
その向こうでは、真紀が草刈り機でススキやセイタカアワダチソウを刈払っていた。
功たちは軽口をたたいてはいるが、雑草や雑木の処分はなかなかの重労働だ。
枝付の雑木をそのまま積んだらかさばってすぐにトラックの荷台がいっぱいになるため、功と山本事務局長は掘り起こされた雑木の枝を払ってコンパクトにしてトラックに積み込む作業に専念していた。
「そろそろお昼にしませんか」
トラックを降りた茜が声をかけてくれたので、功と山本事務局長は手を止めた。いつの間にか正午を回っており、作業の参加者は残渣を処分場に運んだ帰りに茜が買ってきた弁当を食べ始めた。
「茜さんが大型免許持っているとは思わなかったな。」
山本事務局長はトラックを運転していた茜さんに話を向ける。
「ううん。大型なんか持ってないよ。若い頃に普通免許取ったんだけど制度が変わったおかげで8t限定付の中型免許になったの。あのサイズのトラックなら、運転できるわけ。」
「あんた一体何歳なんだよ。二十代のお嬢さんだとばかり思っていたのに」
「レディに歳は聞かないのがお約束でしょ。気分は二十歳だしぃ」
横で弁当を食べていた功は思わずむせた。
功も山本事務局長と同様、彼女を二十代のお嬢さんだと思っていたからだ。
初めてまほろば県に来た時のあこがれの存在だった彼女と榊原との関係がわかって落ち込んだこともあったが、彼女からは年下の坊やとしか見られていなかったに違いない。
功の気も知らず榊原と茜は片付いてきた畑を指さしながらなにやら楽しそうに話していた。
「今日であらかた片付きそうです。皆さん今日はありがとうございました」
榊原さんが柄にもなく丁寧に皆に礼を言う。
「まだディスクハローで耕起するのと、堆肥散布があるし、そこから使える土にしていくまでは長い道のりだな」
「あんたの口から、土作りを語っていただけるとは思わなかったよ。」
山本事務局長の言葉を榊原さんが混ぜ返し、いつものバトルが再燃した。
「うるさいな。自分だけが何もかもわかってると思うなよ。補助事業まで使って、ここで農業始めるからには絶対うまく経営して見せろよ」
「当たり前だ、最後には俺のやり方が正しかったって認めさせてやるよ」
二人のやりとりは続いていたが。功はこの二人の口喧嘩は、じゃれあっているようなものだと気が付いていた。
同時に多少の困難は解決していく榊原氏の強さがうらやましく感じる。
榊原氏が目指している有機農業はいろいろな人がやりたいと言うが、反面挫折する人も多く、彼が農業経営者として成功するかも未知数だが、功は榊原氏が自分の信念を貫く強さを自分も身につけようとぼんやりと考えていた。
功の考えが分かる訳もないが、二人のやりとりを眺めていた茜は功を振り返ってにっこりと笑った。
第22話 健康診断のお知らせ
年が明けてまほろば県にも冬本番が訪れていた。
功が九月に定植した研修用ハウスのナスも草丈が高くなり、次々と咲いた花は次第に肥大して見事なナスに育っていく。
功は自分が定植から管理しているナスの果実が次々と実るのを目の当たりにして感慨深いものがあった。
そして、ハウス園芸農家がもっとも稼げるのが年末から年明けにかけての時期にあたり功はビニールハウス内の温度や湿度の管理を学ぶことに懸命だった。
研修用ハウスは小さなものだが収穫物は増えており、管理作業まで一通り行うと、もう昼に近い時間だ。
功が事務所に戻ると先に戻っていた真紀もいれば、通りすがりに寄ったらしい榊原もの姿も見えにぎやかな様子だ。
「というわけで、真紀と功ちゃんには、さっさと健康診断を受けてもらう必要があるんだ」
山本事務局長は真紀に研修生の定期健康診断を年度内に実施することを告げていたらしい。
「私管理作業もあるから一日空けるのは無理なんだけど」
真紀は、断るそぶりを見せた。
「だめ、研修用ハウスの管理ぐらい功ちゃんに申し送りしたらちゃんとやってくれるよ。今週の水曜日と金曜日が指定病院が空いているから、そこで二人が交代で受診しなさい。うちは農薬を使った作業もするから健康診断受けるのも業務のうちだ」
どうやら真紀は病院が苦手らしいが、業務と言われて観念したようだった。
真紀は功が事務所にいることに気が付くと腹いせのように功に注文を付け始めた。
「功ちゃん、私のナスは自分で摘心したいから、勝手に主枝をちょん切ったりしないでよ」
真紀は前年の研修の際のことをしっかり根に持っているようで、功は何か言い返したい気もしたが無駄な抵抗はせずに黙ってうなずくにとどめた。
榊原はその様子を見て穏やかな笑顔を浮かべている。
「それじゃあ、水曜日が真紀で、金曜日が功ちゃんでいいな、前日の夜九時以降は飲食禁止だから気をつけるように、病院から案内が来たらよく読んでから、受診してくれ」
山本事務局長がダメ押しをして、健康診断の日程は決定した。
水曜日になり、功は真紀の留守中の管も受け持った。
功は後で難癖を付けられないように細心の注意を払って作業を進める。
功はとにかく余分なことはしないと決めて、収穫と必要最小限の管理作業だけすることにしていた。
収穫時期がきたナスの果実を収穫し、果実を収穫した側枝の切り戻し、それから古い花の花ぬきと最小限でも作業は多い。
水の管理などは、真紀自身がプログラムタイマーを使って自動灌水を設定しており、自分が信用されていないのだろうかと気落ちしたくらいだ。
功は午前の作業を終えて事務所に戻ってからそのことを山本事務局長にこぼしていたが、山本事務局長はやんわりと指摘した。
「功ちゃんそれは違うよ。あいつは口こそ悪いけど結構気を遣うタイプだから、おまえが水管理に気を遣わなくて済むように自動設定していったと思うべきだな。それに彼女は水管理とか、側窓と天窓の自動開閉の設定も天気予報とか見ながら、まめに設定を変えているから、いつも同じ設定でそのままにしている君はこういう機会に彼女がどんな設定で管理しているか勉強するべきだな」
やりこめられた功が二の句が継げないでいると山本事務局長は言葉をつづけた。
「でも俺は真紀のことでちょっと心配していることがあるんだ。今日の健康診断に関わることなんだけどな」
功は真紀の体調に不安があるのかと気になった。
「一体どんなことなんことなんです」
「今日の健康診断のメニューに、マンモグラフィーがあっただろ。あれって機械におっぱいを挟んでぺったんこにして画像を取るらしいんだけど、真紀のがちゃんと挟めるか心配なんだよ」
出し抜け飛び出したおやじトークに功はあきれたが、なんとなく納得している。
功は理香さんなら大丈夫に違いないと、目を向けたが話の流れで功の思考を読んでいたらしい彼女は書類ばさみで胸を隠した。
功はあわてて目線をそらしたが、山本事務局長は空気を読まずにヒートアップする気配だった。
「そこへいくとだなあ・・」
話を続けようとする山本事務局長の背後につかつかと歩み寄った理香は、プラスチックの書類ばさみの角でスコーンと山本事務局長の頭を一撃して黙らせてしまった。
「女性がいる前でそんな話をするのはセクハラでしょ、事務局長さん」
何時になく冷たい口調で言い捨てた理香は事務所から出ていき、山本事務局長は頭を抱えて悶絶していた。
口は災いの元で、自業自得な山本事務局長なのだが功が見てもちょっと痛そうだ。
「何てことをするんだあいつは、功ちゃん俺の頭を見て、血が出ているんじゃないかな」
山本事務局長が大げさに訴えるので功は見てあげたが、出血まではしていない。
「大丈夫、出血はしていませんよ」
理香が一撃した辺りはたんこぶになりつつあったが、功は黙っていることにした。
マンモグラフィー騒ぎが収まりかけた頃、事務所の電話機の着信音が鳴った。
手近にいた功が応対すると、健康診断の受け入れ先になっている病院だった。
管理職員の方に用件とのことだったので功が山本事務局長のデスクに転送したが、山本事務局長の電話機は受話音量が大きいのでけっこう音漏れしている。
事務室に戻ってきた理香と功が聞き耳を立てている中で、山本事務局長がなんだか緊張した表情でやりとりをしているが、甲状腺ガンとか本人への告知とか漏れ聞こえて、どうやらあまり良からぬ話だと功にも理解できた。
通話が終わって受話器を置いた山本事務局長は功と理香が自分を見つめているのに気がついた。
「おまえたち今の話が聞こえていたのか」
功と理香がうなずいて見せる山本事務局長はがっくりとうなだれて自分のいすに座り込んだ。
「俺は管理職失格だな。セクハラ発言はするし、職員の個人情報は漏らしてしまうし、うっかりして定期健康診断の受診が遅くなったのが最悪かもしれない」
山本事務局長は両手で顔を覆って考え込んでいる。
「真紀ちゃんの検診で何か良くない結果が出たんですか」
功が聞くと、室長は五秒くらい沈黙した後で答えた。
「甲状腺にガンができている疑いがあるらしい、近いうちに手術をすることになりそうだ」
功は一瞬周囲の時間が止まったような気がした。
良くない知らせを聞くと、時として心はそれを受け止められないものらしい。
子供の頃にかわいがってくれたおばあちゃんが死んだ時などが然りで、今回の良くない知らせは、功にとってはもっと衝撃が大きかった。
日常接している真紀の存在が功の中で大くなっていた事が改めて感じられたが、功と彼女の関係は研修生仲間以上に進展しているわけではない。
山本事務局長との会話を続けなくてはと功の中の理性は頑張っているのだが、頭の中の大半の部分はフリーズして動きを止めてしまっている。
幸い、山本事務局長も自分の問題にかまけて、功の様子には気がついていなかった。
「俺が春先に健康診断を受けさせていたら半年以上早く見つけてやれたのにな」
責任感の強い山本事務局長はそんなことを考えて自分を責めていたのだ。
男性陣二人が固まってしまっているそのときに表からインプレッサのエンジン音が聞こえ、真紀本人が帰ってきた。
「ただいま、思ったより早く終わった」
スーパーマーケットの袋を片手に提げて真紀が事務所に入ってくると、理香が給湯室から声をかけた
「おかえり、お昼はもう食べてきたの」
「ううん、おひとり様でレストランとかに入りにくいから、ムーンーマートでパスタセットとお総菜を買ってきた。バリウムがお腹に入っていてぱんぱんだけど、昨夜から何も食べてないから何か食べたい気はするの」
「そう。それじゃあ、お茶を入れようか」
理香がお茶を入れて持ってくる横で、真紀はパスタセットを電子レンジで温めている。
見事なまでにいつもの光景だったが、真紀は功と山本事務局長が凝固しているのに気がついた。
「あの二人さっきから固まっているけど、何かあったの」
真紀が尋ねた。理香は急須でお茶を注ぎながら答えた。
「そこのおやじ達は、マンモグラフィーネタで盛り上がっていたから、私がちょっと締めてやったのよ。」
「うわっ最低。何を話してたかだいたい想像が付くわ。これだからおっさんとオタクって油断ができないのよ。」
事務机二つを挟んだ向こうで、舌を出している真紀を見ていると、いつもと変わらない様子だ。
「そう、それからね、スーパーでレジ袋くれないから文句言ったら。環境保護のためにレジ袋は有料化しているから、必要ならあらかじめ言ってくれって反対に説教されたの。あり得ないわほんと」
「レジ袋は有料ですってどこかに書いておけばいいのにね」
真紀がパスタを食べ始めた横で、理香も手作り弁当を食べ始めている。
山本事務局長は二人の前まで行って、何か言いたそうな様子だがなかなか切り出せなかった。
「そうそう山本山本事務局長、もう聞いてるかもしれないけど、検診で私は癌らしいってことになったの。長期療養とかになったらこれまでの研修費は返さないといけないのかしら」
真紀の口調はレジ袋が有料だった話とあまり変わらない。
山本事務局長は、訥々とした調子で告げた。
「話は医者から聞いている。研修費のことは西村が研修止めたときでも、やむを得ない理由だとして研修費の返還請求はなかったから、真紀の場合は病気なのだから、なおさら研修費は返さなくていいと思うよ。リースハウス事業の件は農協と相談しておくから、今は治療に専念してくれ」
カルボナーラらしきパスタをくるくる巻いていた真紀ちゃんは山本事務局長の言葉を聞くと、パスタを口に入れてもぐもぐしながら言った。
「治療は受けたくない」
落ち着いた口調だが、事務所にいた皆は固まってしまう
「何を言い出すんだよ、早く治療を受けないと」
「まほろば県に来てから、おナスの世話をしたりミツバチが飛んでいるのを眺めているときが私の心が落ち着く時間だったの、治療なんか受けなくていいから私にこれまで通りの生活をさせて」
山本事務局長を途中で遮った真紀の言葉に功は少なからずショックを受けた。
いつも一緒にいた功や農林業公社のスタッフはミツバチよりも影が薄い存在だったのかと思えたからだ。
「検診で見つかった癌なんて、きれいに切除できてすぐに元の生活に戻れるよ。頼むから治療を受けに行ってくれ」
説得しようと近づいた山本事務局長に真紀がパスタの入ったトレイを投げつけた。動体視力のいい山本事務局長が身をかがめてかわしたので、トレイは功の目の前を緩やかな放物線を描いて飛んでいき壁にへばりついてからずり落ちた。
「気休めを言わないで。郡山のおじいちゃんが肺ガンで死んだときも最初はみんなそんなことばかり言って病院に押し込めたけど、手術をしても抗ガン剤治療をしても良くならなくて、最後は痛みに苦しみながら死んだのよ。これ以上私からお気に入りのものを取り上げないで」
目に涙をためている真紀に、山本事務局長が何か言おうとしたのを理香が手で制した。
功にも目配せをしてどうやら事務所から出るように指示しているようだ。
山本事務局長と功が事務所から追い出されて外の道路から窓越しに様子を窺うと、しゃがみ込んでうつむいている真紀に岡崎が何か話しかけていた。
「理香さんて普段穏やかだけど、すごく芯がつよいところがありますよね」
功が話しかけると山本事務局長は事務室に目を向けたまま答えた。
「そうだな、本当はなにがあっても動じないのは、あいつかもしれない」
しばらくして、理香が俯いたままの真紀を連れて外に出てきた。
「私が真紀ちゃんの車を運転して加奈子さんちまで送ろうと思うんだけど」
「そうしてやってくれ、俺が後ろから追いかけて理香を回収するよ」
理香は山本事務局長が答えるのにうなずくと、インプレッサに真紀を乗せて集落の外に続く道路へとゆっくりと出て行き、山本事務局長は自分の車でその後を追った。
第23話 軽四輪自動車の三人男
真紀が癌の告知を受けた翌日、功が研修ハウスの作業を終えて臼木農林業公社の事務所に入っていくと、山本事務局長が硬い表情でて電話の応対をしていた。
受話器を置いた山本事務局長はため息をついて傍らの理香に言う。
「農協からリースハウスの話は白紙に戻したいと言ってきた。万一治療が長引いた場合にリース料が回収できなくなると困るということらしい」
「春までには治療が終わって退院しているかもしれないのに」
不満そうな理香に山本事務局長が続ける。
「その話もしたよ、先方も癌が完治したことが確認出来たら来年度分の予算で対応すると話していた。経営不振でリース料の支払いが滞っている農家もあるらしいから、農協にしてみたら余分なリスクは減らしたいんだろう」
山本事務局長も内心では農協の冷たい対応が頭に来ているはずだが、自分を抑えて理解を示しているようだ。
功が入り口で立っていると、山本事務局長が気づいて声をかけた。
「功ちゃん戻ってたのか。真紀のリースハウースの話、聞こえたと思うけど、まだ役場や県とも話をするからおまえは心配しなくていいからな」
そう言われても気休めにしか聞こえないが、功はうなずいて事務所に入り、研修日誌をつけ始めた。
研修日誌は功が助成を受けている補助金の証拠書類の一つになるため、大事な作業だ。
功が一日の研修内容を日誌に記入し終えた頃にそ、真紀と少し年かさの女性が事務所を訪れた。
「山本事務局長、昨日はごめんなさい。帰ってからおばさんにすごく怒られたの。これから病院に行きます。」
真紀の言葉に被せるように同行した女性も山本事務局長に告げる。
「山本君ごめんね、この子癌と効いただけでパニックを起こしていたみたいなのよ。私が 勤めている病院の先生に聞いても、早期に手術を受けたら転移の可能性も少ないっていうし、この子の場合生検しないと癌と確定したわけでもないのよ。とりあえず紹介してもらったまほろば大学の医学部付属病院に連れて行こうと思うの」
真紀に同行したのは、真紀のおばさんである加奈子さんだった。
彼女は町の病院で看護師さんをしている。
「よかった。加奈さんが付き添ってくれるなら安心だな。休みまで取って対応してくれて何だか気の毒みたいだけど」
「かわいい姪っ子のためだから当然でしょ。普段休みなんて取れないから帰りにショッピングモールで買い物でもすれば一石二鳥よ」
功は書き終わった作業日誌を片付けて話に加わろうと近寄った。
話の途中で功に気づいた真紀は、ゆっくりと功に話し始めた。
「功ちゃん私のおナスとニラのハウスの世話をお願いします。ここにいつ戻ってこられるかわからないから何だか申し訳ないんだけど」
功はもう戻ってこないような真紀の口調に抗うようにいつも通りに話す。
「すぐに戻ってこられるよ。野菜の世話はおやすいご用だから心配しないで」
功は本当のところは真紀の病状やこれからの彼女の身の振り方など聞きたいことも話したいことも山程あったのだが、日頃口数が少ないことが災いして上手く思いを言葉にする事が出来ない。
「野菜の世話も、事業の手続きも後でいいから、今は治療に専念してよ。良くなって帰ってくるのを待っているから」
山本事務局長の言葉に真紀は無言でお辞儀をするが、加奈子さんは診察の予約時間があるからと真紀を促して車に乗せようとする。
真紀は何か言いたそうに口を開きかけて振り返り、その視線はすがるように功を見つめていたが、結局真紀はそれ以上功と言葉を交わすことなく去っていった。
二人が行ってしまうと、事務所の中はしんと静まってしまった。
「何だか元気なかったな」
「癌の疑いがあると言われて、平気でいられる人もいないわよ。おじいさんが癌で無くなっているらしいからなおさらね。」
山本事務局長と理香が小声でやりとりしているが、功は彼女とカヌー遊びに行ったときの無邪気な表情や、農地を借りて就農するか決めあぐねていた頃の真剣な顔を思い出していた。
翌日、功は予定通り健康診断に行っき、健康診断は午前中にほとんどのメニューが修了した。
担当医師の説明では、功は文句なしの健康体ということだ。
真紀の時と同じで昼頃には帰ることができたが、事務所に戻ってみると山本事務局長は浮かぬ顔をしている。
「なあ功ちゃん俺がおごるから、今夜喜輔で一杯飲まないか。」
功はこれまでにも山本事務局長と飲む機会はあったが、農林業公社の行事が絡むのがほとんどで、個人的に誘われるのは珍しかった。
「いいですよ」
そう答えた功も、今夜宿舎に帰っても寝られないような気がしていたのだ。
夕方功が車を出してわだつみの町に向かうことになった。
無論、帰りは代行を頼むつもりだ。
喜輔のカウンターに座っても、功も山本事務局長も話が弾むような雰囲気にはほど遠かった。
不機嫌そうな男二人連れが、黙り込んだままで酒を飲んでいるのを見かねたのか、マスターが声をかける。
「今日は珍しい組み合わせで来てくれたけど、一体どうしたんだい。普段だったら、真紀ちゃんとか理香ちゃんも引き連れてくるのに」
せっかくマスターが気を遣ってくれたのに、功と山本事務局長はグラスを持ったまま上目遣いに睨んでしまったようだ。
マスターは触らぬ神にたたり無しと思ったのか、厨房の奥に引っ込むと料理の仕込みを始めた。
マスターもいなくなったところで、山本事務局長はおもむろに口を開いた。
「なあ功ちゃん真紀のことだけど、昨日の様子を見てどう思った」
実は功もそのことが気になっていたのだ、
「ぼくの見た感じでは、平静を保っていているけど借りてきた猫みたいで、どこか変な感じでしたね」
「やっぱりおまえもそう思うだろ、どこがどう違うのか言いにくいんだけど、ものすごく違和感があったんだよ。普段の真紀だったら絶対こんな反応しないのにという感じが最後まで抜けなかったというのかな」
自分たちが同じ違和感を共有していたのがわかった途端に功と山本事務局長は口数が多くなった。
間違い探しクイズのようにあれが違ったこれが違うと昨日の様子を思い出しながら羅列し始めたのだ。
「たとえば普段の彼女ならおナスとニラの世話をお願いしますとか絶対言わないと思うんですよね」
「そうそう、普段のあいつだったら、私がいない間に変な管理をして枯らしたらただじゃ置かないわよっていうのが普通だよな。しかもこんな風に右手を振り上げたりして」
山本事務局長が彼女の仕草をまねしてみせるのがよく似ていた。
そのとき、功と山本事務局長の後ろから聞き慣れた声がした。
「おまえら、男二人で仲良く飲みに来て何を盛り上がっているんだよ。真紀ちゃんが大変なことになっているんだろ。」
声の主は野口だった。
山本事務局長の隣に座った野口は、真紀の病状を教えろと迫るが山本事務局長は個人情報だからと教えようとしないので、とうとう野口君が怒り出した。
「水臭いなあ。俺は研修の世話も焼いて面倒を見ているのに、どうして俺だけ仲間はずれにするんだよ。あんたがそんなに冷たいやつだとは思わなかったぜ。」
山本事務局長ももともと機嫌がよくないので売り言葉に買い言葉でからみはじめる。
「うるせえなあ、おまえの母親が真紀に酷いことを言ってずいぶん傷つけたんだろ。いつまでもつきまとっていると嫌われるだけだぜ、もう少し引き際をわきまえろ」
山本事務局長の言葉はきつく、功はおそるおそる野口の様子をうかがったが、彼は空気が抜けたように勢いを無くしてうなだれている。
「山本事務局長ちょっと言いすぎですよ」
功が山本事務局長のシャツの袖を引っ張ると、さすがに言い過ぎたと思ったのか山本事務局長も口をつぐむ、
野口の落ち込み具合に気の毒になったのか、山本事務局長は真紀が甲状腺癌の疑いがあると言われて今日から医学部付属病院に入院していると教えた。
「それで、病状はどうなんだよ。直るのか」
めげずに聞いてくる野口を見て、功は自分に足りないもの見たよう気がする。
山本事務局長は大きなため息をついてから言う。
「病状がわからないから困っているんだよ。実は真紀のリースハウスがもう入札が終わって、工事を始める運びになっているが、農協の本所の連中が真紀の体調が悪くて営農を継続することができないなら、事業そのものを中止にすると言うんだ」
「本当なのか?俺は功ちゃんや真紀ちゃんが居着いてくれたら、俺が生きている間くらいは臼木でも農業を続けられると思っていたのに」
功は野口がのほほんとした顔をしながらそんなことを考えていたんだなと思い、改めて彼の顔を見るが、山本事務局長が混ぜ返した。
「なんだよ、おれは臼木の集落の頭数に入ってないのかよ」
「あんたはずいぶん年上だし、立場上集落を守るために働くのが当たり前だ」
野口やり返したが、功は酔いが回りはじめていたので、思わず山本事務局長に言った。
「山本事務局長、そのリースハウスの話、僕が真紀ちゃんと結婚する予定だったら、彼女が病気療養中でも、僕が営農するから問題ないわけでしょ」
野口ぎょっとして功を見たが。室長は落ち着き払って答えた。
「功ちゃんも一年間の研修が終わるところだから補助事業の制度的にはその通りだが、功ちゃんと真紀ってそういう仲ではないだろ」
山本事務局長はあっさりと功の意見を切って捨てるが、功は引き下がらなかった。
「それなら、今から本人に会って確かめるから医大病院まで乗り込んでみるか」
山本事務局長は下手をすると酔っているのに車で出かけかねない勢いだ。
「ちょっとまてよお前ら」
声をかけたのは、山本事務局長の知り合いでわだつみ町の警察署に勤務している浜田という人で、山本事務局長の同級生らしかった
「よもや飲酒運転で出かけるつもりではないよな。もしも酔ったまま車を運転しようとしたらその場で現行犯逮捕するからそう思えよ」
「じゃまをするな。このオタクで奥手の功ちゃんがめずらしく気合いの入ったことを言っているんだ。水を差さないでくれ」
山本事務局長は浜田に逆らうが、野口が間に入った。
「俺は今来たばかりでまだ飲んでいないから、俺が運転する。それなら問題ないだろう」
浜田も良いだろうと肩をすくめてみせる。酔いも吹っ飛んだ功はあわてて喜助のマスターに代金を払うと山本事務局長を外に引っ張り出した。
「ありがとう野口さん助かったよ」
功は山本事務局長を半ば担ぐようにして歩きながら礼を言う。
「いいんだよ。今日はあまり飲む気分でもなかったし。それよりもさっきの話だが、まほろば大学の医学部付属病院まで行くのか?本当にその気があるならおれが運転してやるよ」
野口の言葉を聞いて、山本事務局長がもうろうとした状態でつぶやく。
「おう、たのむぜ野口」
結局、功達三人は、まほろば市の医大付属病院を目指して車を走らせることになった。
功からキーを預かった野口が運転し、軽四輪の箱バンが走り出して二分もたたないうちに一行の前方で警察官が検問をしているのが目に入った。
第24話 帰るべき場所
功は運転している野口に確かめるように問いかけた。
「あれって何してるんでしょうね」
「どうも見ても工事じゃなくて、警察が検問しているみたいだな」
功と野口がのんきに話している後ろで山本事務局長は凝固していた。
警察官に道端に誘導されたところで、野口が運転席のサイドウインドを手動で開ける。
「こんばんは、特別警戒の検問です免許証を拝見します」
検問と言えどもあまり高圧的に接すると住民から批判を受けるため、警察官は極めて愛想よく応対していたが車内の臭いをかぐと態度を変えた。
「うっ酒臭い、もしかして飲酒運転じゃないだろうね」
野口は善良な市民から一転して被疑者扱いとなったようだ。
「飲んでいるのはこの二人。俺は運転手だから飲んでないよ」
説明する野口に、警察官はちょっと待ってと言い残してワンボックスのパトカーの方へと歩いていく、戻ってくるときにはなにやら手に持っていた。
「はい、これに思いっきり息を吹き込んで。」
それはアルコールの検知器で野口が言われたとおりに息を吹き込むと、警察官が検知器を取り上げて数値を読み取った。
「飲んでないみたいですね。行ってください。夜間は路面の凍結にも注意してくださいね」
何事もなく放免されてまほろば市に向かう途中で山本事務局長が口を開いた。
「ありがとう野口、おかげで助かったよ」
「わしよりも浜田さんに礼を言ったほうがいいな。彼は検問しているのを知っていて止めたんだぜ」
「俺は別に飲酒運転するつもりはなかったよ。でも心遣いは覚えておく。今回の分は借りにしておこう」
山本事務局長の心の中には自分だけルールで貸借レートがあるらしく、浜田市への借ポイントが跳ね上がったようだ。
わだつみ町のインターチェンジから高速道路に乗ってもまほろば市への道のりは結構長く、山本事務局長はいびきをかいて寝始めた。
「山本事務局長も苦労が絶えないね。今日もJAや役場を回って真紀ちゃんのことでいろいろ確認していたみたいだよ」
「そうだったんですか、僕は今日健康診断受けたんで昼間のことを良く知らなかったんですよ」
「前の西村君の時も、研修費を返還しないで済むように各方面に根回しをしたみたいだ。彼はすごく気配りしているんだが、さっきみたいな調子で人当たりが良くないから損をしているな」
「たしかにぶっきらぼうで取っつきににくいイメージがありますね」
「そうだろ。根はすごくいい奴だから大事にしてやってくれよ」
功は後部座席で寝ている山本事務局長の方を見たが、口を開けて寝ている彼の顔は少し疲れて見えた。
夜のまほろば県の高速道路は街灯も走行車両も少なく街灯もまばらだ。まほろば市の北側のトンネルが多いエリアを抜けると野口が運転する車は高速道路を降りてまほろば大学の医学部付属病院にたどり着いていた。
時刻は八時少し前。駐車場に車を止めたところで、山本事務局長が目を覚ました。
「病室の番号はこれだ。とりあえず行ってみろよ」
山本事務局長は手帳に挟んであったメモ用紙を功に手渡す。
「今気がついたんですけど、もう面会時間終わってるんじゃないですか。中に入れるのかな」
「大丈夫だよ病院は施錠とかしないから忍び込める。俺たちはここで待ってるから行ってこい」
功は車に乗っている間に酔いも覚めて気分が臆していたのだが、今更帰るわけにもいかなかった。
助手席側のドアを開けて外に出ようとすると、野口が親指を立てて言った。
「グッドラック」
功は目で返事をしてから車を後にした。
外来用の広い駐車場を横切ってから病棟への入口を捜すが、どこから入ったらいいかわからない。
忍び込もうとするからには職員に聞くわけにも行かないが、駐車場には守衛がいて、巡回中の守衛が功がいる辺りに歩いてこようとしている。
面会時間外に入り込もうとしている功は何だか悪いことでもしているようにこそこそと隠れ思いきり挙動不審だ。
しかし、空いていないだろうと思いながら外来用入り口に回ってみると、さすがに自動ドアは施錠されていたが、脇にあるドアから難なく入ることができた。
次は病室を探さなければならない。
功はここまで来るとこそこそしているとかえって怪しまれると思い、外来用のロビーで病棟の配置を確認してから何食わぬ顔をして歩いて行くことにした。
入院病棟では夕食が終わった後らしく、食器をトレイごと回収してカートに集めている職員や夜勤のためにナースステーションに詰めている看護師とすれ違うが、格別怪しまれることもなかった。
こんな警備状況で大丈夫なのかと心配になるぐらいだった。
目的の病室にどうにかたどり着き、病室の入り口のネームプレートで真紀の名前を確認した功は意を決して病室に入り込んだ。
真紀のベッドは仕切りのカーテンが閉じられているため、功は声をかけようかと迷った。
「あんたそのベッドの子に会いに来たんでしょ。今散歩に出たところだから屋上に行ってみなさい」
功は背後から声をかけられて飛び上がるほど驚いた。
面会時間外に忍び込んで何となく後ろめたく思っていたからなのだが、声をかけてきたのは通路を挟んで反対側のベッドの老婦人だった。
彼女は笑顔を浮かべて廊下を指さしており、功は礼を言うと、屋上に向かった。
階段を上ってから、普段あまり使っていそうにないドアを開けて屋上に出る。
屋上は広いスペースになっており、転落防止の手すりが続いているのが見える。
薄暗い中を手すりに沿って遠くまで目をこらすと、白い人影が見えた。
そちらに向かって歩いて行きながら、功は短く口笛を吹いた。
功が思うところの万国共通で犬を呼び寄せる符号で真紀に犬寄せの術と呼ばれた短い旋律だ。
口笛を聞くとその人影は、はっとしたように身動きしてこちらに振り返りそれが真紀だと判った。
「功ちゃん?なんでこんな所にいるの」
「話したいことがあって、ここまで来たんだ」
功は平静を装って真紀の隣に立ち、手すりに手を乗せた。
「一体何の話。それに私は犬じゃないし」
彼女は犬よせの術の件を憶えていたようで、功の脳裏に去年の夏に一緒に草刈りをしたときに見た風になびく稲穂が浮かんだ。
「唐突だと思うけどさ。僕と結婚して一緒に農業をして暮らそうよ。」
功は焦っていたせいか、何の前振りもしないで本題を切り出してしまった。
真紀は病院内のコンビニで売っている紙コップのコーヒーを飲んでいたが、驚いてむせている。
「いきなり何を言い出すのよあんたは、そんな大事なことはもっと段階を踏んでから言うものでしょ」
「冗談で言ってるんじゃない。そうすれば、真紀ちゃんの体調が悪くても僕がフォローすることができるから、リースハウスの事業も続けられる。一緒に臼木で暮そうよ」
真紀は笑顔を浮かべたが、それは何だか弱々しかった。
「私はもう頑張るのに疲れたんだわ。死んだ人は戻ってこないとか、新しく生活を始めないといけないとかみんないろんな理屈を付けては私に頑張れ、頑張れって言うから一生懸命頑張ってきたけど、甲状腺に癌ができているかもしれないって言われて、張りつめていた何かが切れてしまったような気がするの。手術したら治ると言われて納得はしているんだけど、治療が終わってもまた違う場所に癌ができるかもしれないし、もう今までみたいに元気な振りをして働いていく自信がない」
功や山本事務局長が感じた違和感の正体は彼女の心が折れたことをそれとなく感じ取っていたのに違いない。
「駐車場に野口君と山本事務局長も来ているんだ。山本事務局長は最後に事務所に来たときの真紀ちゃんの様子がおかしかったと心配していたし、野口君も酔っぱらっていたぼくらの代わりにここまで運転してくれたんだよ。みんなが君が元気になって帰ってくるのを待ち望んでいるんだ。頑張れないならその辺にいてくれるだけでも良いから戻ってきてくれよ」
「そう言えば酒臭いわね」
話の腰を折られて功は一気にトーンダウンする。
「甲状腺癌だったら早期に手術を受けたらそんなに怖い癌じゃないって聞いたことがある。そんなに悲観的にならなくてもいいと思うよ」
「ここの先生が大丈夫ですよっていろいろ説明してくれたから、気休めで言ったのではないことはわかった」
真紀は、持っていた紙コップをペコッと握りつぶした。
「医者は違うと言うんだけど私が癌になったのは原発事故で放出された放射性物質の影響かもしれない。事故の直後に私たちが避難した双葉町には、そのときの風向きの関係で高い濃度の放射性物質が降り注いでいたの。長い期間が過ぎたら私の体にどんな影響が出てくるかまだわからないけれど、そのことはわかっているかしら?」
予期していない方向に話を振られて功は口をつぐんでしまう。
「去年、野口君と釣りに行った翌日に、釣った魚を一緒に食べようって誘われて、おうちを訪問したの。でも野口君のお母さんは私のことを放射能を浴びているからうちの嫁にはできないと露骨にダメ出ししていたわ。そのあげくに癌の疑いがあると言われて平気でいられるほど私も強くない。治療を受けたら家族がいる郡山に引き上げることも考えている。だいたい功ちゃんは自分の人生が掛かった大事なことなのに山本事務局長たちと飲んだ勢いで深く考えもしないで私に会いに来たのでしょう?そんなことで大丈夫なの?」
真紀は手すりをつかんで外を見ている。医学部付属病院は郊外にある。彼女が見つめる方向には、街灯一つ無い暗闇が広がっていた。
功は自分の行動をすべて見透かされている気がして気が億したが、彼女の右手をつかんで無理矢理自分の方を向かせた。
「逃げないでくれ。ぼくは何があっても絶対に真紀ちゃんを離さないで幸せにする。林のおばあちゃんも土地を任せてくれただろう。一緒に臼木で暮らそう」
「功ちゃん。手が痛い」
功は力が入りすぎていたことに気づき真紀の手を慌てて離した。
「ごめん」
功は心の中でもうダメだと思った。
彼女は功のすることなどお見通しの上、功の行動はむやみに強引なだけで説得にもなっていない。
しかし、彼女の次の言葉は予想していた冷たい拒絶ではなかった。
「ありがとう、功ちゃん」
彼女はまっすぐに功の目を見て言った。
「そう言ってくれるなら私も臼木に戻りたい。でも、いろいろな話を進めるのは私が手術を受けて、回復するのがはっきりしてからにして。もし経過が良くなかったりしたときに功ちゃんに迷惑をかけたくないから」
彼女の言葉を二、三回反芻してどうにか功はその意味が理解できた。
「それは、ぼくの申し出を受けてくれるという意味だよね」
間の抜けた功の問いかけに、彼女は少しはにかんだ様子でうなずいた。
真紀は普段はしゃいでいてもどこか険のある目元をしていたが、遠くの街頭の薄暗い光の下で彼女が穏やかな表情を浮かべている気がする。
「本当は追いかけてきてくれたのが凄く嬉しかった」
俯いた真紀の手は功のジャケットの袖をギュッとつかんでいた。
駐車場の車に戻ってみると、山本事務局長と野口君がそれぞれワンカップを手にし、するめや柿の種を広げて宴会を始めていた。
「ちょっと、野口さん何であんたまで酒を飲んでいるんだよ」
功はあきれて野口を責めるが飲んでしまったものは取り返しが付かない。
「まあそう言うなよ、あまり帰りが遅いんでコンビニで食料調達しようとしたんだけど、野口が飲まずにはいられなくなったんだよ。その気持ちはわかるだろ。それより真紀の返事はどうだったんだ」
山本事務局長が問いかけ、野口が傍らで息を飲むようにして聞き耳を立てているのがわかる
「とりあえずOKしてくれたけど、具体的な話は治療の経過を見てからになりそうです」
「そうか、断られたわけじゃないんだな。どうやらうまくいきそうじゃん、帰ったら農協に事情を話して事業内容の変更を認めてもらうのに忙しくなりそうだな」
勢い込む山本事務局長の横で野口は犬の遠吠えのような声を上げる。
功は野口の気持ちがわからないでもなかったが、有り体に言ってやかましい。
しかし、功は野口には何も言わずに山本事務局長と相談を始めた。
「明日の朝までには帰らないとまずいですよ。管理をする人間が全員ここで酔っぱらっていたら誰がビニールハウスの換気をするんですか」
ビニールハウスで野菜を作っているのは、手間のかかるペットを飼っているようなものだ。
締め切った状態で日が当たり始めると内部の気温はどんどんあがる。
温度センサー付の換気扇や自動開閉装置も装備されているが、一時しのぎにしかならないため、
休日などは近所の農家に作業を頼むこともあったがその近所の農家が他ならぬ野口なのだ。
山本事務局長もさすがに考え込んでいたが、何か考えついたようだ
「この時間ならわだつみ町方面に向かうJRの特急がまだある。タクシーで草薙駅かまほろば駅にいってそこからJRの特急に乗って帰ろう。」
県庁所在地のまほろば市といえども公共交通機関は貧弱で路線バスとかは九時頃にはおおむね最終便が出てしまっている。例外的にJRの特急は比較的遅くまで動いているのだ。
「ぼくの車はどうなるんですか」
「おまえはどうせまた真紀に会いに来るだろう。そのときに回収すればいい」
功は渋々山本事務局長の案をのんだ。
野口は、もうどうでもいいような様子だったが、功達三人は医学部キャンパスの中でたまたま客待ちをしていたタクシーを捕まえて、草薙駅まで行き、わだつみ町方面行きの特急に乗ることができた。
数日後、功は休みをもらって、真紀に会うためにまほろば市まで出かけた。
大学の付属病院というのは町から離れた郊外にあり、JRのまほろば駅から路線バスを乗り継いで医学部付属病院まで行こうとした功は、アクセスの悪さにげんなりした。
病室で再会した真紀は首に巻いた包帯が痛々しかった。
「手術はうまくいったの。甲状腺の癌は綺麗に切除できたそうよ」
「よかった」
ベットに起きあがって、説明してくれる彼女は顔色もいい。
点滴のチューブや、心電図のケーブルにつながれ、ぐったりと横たわる彼女を想像していた功はなんだかほっとした。
「元気そうで安心したよ」
功は心から安堵していたが、真紀は鋭い目で功に問いかけた。
「この間のことだけど、私にプロポーズしたのは、リースハウスが続けられるからという無粋な理由で結婚するように聞こえたんだけど、もう少し気の利いた言葉を盛り込めなかったのかしら。二つと無き美貌に惹かれたとか、抜群のプロポーションにメロメロですとか」
「それはもちろん美人で性格も良いし」
「何でそんな取って付けたようなせりふなのかな」
「いや、だから、」
なにか言わなければと焦っている功の口を彼女の唇が柔らかくふさいだ。
だしぬけの彼女のキスは不意を突かれた功を圧倒して舌を絡めてくる。
功が彼女の感触に我を忘れそうになった時に真紀は不意に身を離した。
「今日のところは、それくらいで勘弁してあげるわ」
茫然としている功をよそに彼女は話を再開した。
「入院はほんの少しの間でいいみたいだし、紹介状をもらったからわだつみ町から通える病院で後の経過を見てもらえるそうよ。功ちゃんが言っていたように、わだつみ町に帰ってしばらくの間のんびり静養することにしようかしら」
「リースハウスは僕が準備するからゆっくりしてくれていいよ。工事も始まったから、すぐに骨組み部分が完成するらしいよ。」
「ちゃんと施工してるか確認しておいてよ、これから長い間使うんだから。」
口では小うるさいことをいいながら、彼女は穏やかに微笑んだ。寄る辺がなかった功と真紀に帰るべき場所ができたのだ。
病室の窓からは近くを流れる川の土手やその向こうに見える田んぼに菜の花が咲いているのが見えた。 功が初めてまほろば県を訪れてから一年が過ぎようとしていた。
最終話 エピローグ
春が来て手術の傷も癒えた真紀は、林さんから借り受けた家に住み始め、功はなし崩しにその家に同居することになった。
真紀のビニールハウスは骨組みが出来上がり、固定張りのポリフィルムを張る作業は自分たちですることになった。
しかし、大きなフィルムを広げるのは二人では手に余るので野口や山本事務局長をはじめ関係者が総出で手伝った。
ポリフィルムが斜めになったり少しでもしわが寄ろうものなら真紀のホイッスルが響き、皆が大わらわで修正に走り回る。
ポリフィルムはビニールハウスの骨組みにビルトインされているレールに針金状のスプリングで止めていくのが基本で、さらに細かい部分はパッカーと呼ばれるプラステチックのパーツで固定する。
ポリフィルムを張るのは大変な作業だが、いつものメンバーの間では笑いが絶えなかった。
ビニールハウスの固定張りポリフィルムを張り終えたのはすっかり日が暮れたころだった。
真紀が再びホイッスルを吹いて皆を呼び集めると言った。
「皆さん本日は貴重なお時間を割いて私のハウスのフィルム張りにご協力いただきありがとうございました。ささやかなお礼といたしまして本日六時よりバーベキューパーティーを開催いたしたいと思います。食材につきましてはこちらの功ちゃんより資金提供いただきましたので皆さんにご紹介いたしたいと思います」
みながいっせいに功の方を見て拍手をする。
「ちょっと待て、そんな話聞いてないぞ」
いぶかしむ功に、真紀は言う。
「本棚の裏側に隠してあった三万円を見つけたの。てっきり私のパーティーのために積み立ててくれたんだと思ったけど」
「それは、ぼくがガンプラディスプレイルームを組むために貯めていたお金だ。返してくれ」
功は抗議したがどうも分が悪いようだ。
「功ちゃんありがとう 」
改めて野口が発声すると皆が拍手する。どうにでもしてくれと開き直った功は、あきらめて皆とリースハウスの完成を祝った。
普段は蛙の声が優勢なのどかな山里に皆の声がにぎやかに響いていた。
ー完ー