• 『オタクが野菜に目覚めた場合』

  • 楠木 斉雄
    現代文学

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    勤務先が倒産し彼女にもふられ、希望のない生活を送っていた功は偶然、農業に興味を持ち、新天地を求めて四国へと旅立った。農業で身を立てることは簡単ではなかったが、功は新たな生活を切り開いていく

第1話 プロローグ

「おい、功聞いているのかよ」

一樹の声に功は我に返った。
「ゆりかもめ」の窓の外にはテレビ局のビルが見えており、見慣れた造形がゆっくりと動いている。
功はこれといって当てもない職探しの先行きのことをぼんやり考えていたのだ。

「そんなことだからおばさんがわざわざおれに電話をかけてきたりするんだよ。功が最近ぼーっとしていることが多いから、どこかに連れ出してくれってな」

一樹は高校時代からの友人で大学を出てからも時々連絡を取り合っている

「ごめん。それで、何だっけ」

「やっぱり聞いてなかったな。今日は気分転換に引っ張り出したのだから、会社が倒産だの、再就職先だのと辛気くさいことを考えるなって話だよ」

「おまえ、人の深刻な事情をさらっというなよ。しかも声がでかい」

功にしてみればいまさら気にするような話でもないが、一樹のお節介な言動は、いやおうもなく半年ほど前のことを思い出させる。

功は大学を卒業して、都内の印刷会社に就職して一年ほど勤務したところだった。
営業部に配属されたものの、あまり外向的とは言えない性格が災いして成績はふるわない。

それでも、得意先の情報をくれた先輩のおかげもあって、やっと、契約が取れ始めた頃だった。
いつものように出社すると、会社の入り口にシャッターが降りていた。近づいてみるとシャッターには張り紙がしてある。
「債権者の皆様へ」と始まったその紙は、功の会社が不渡りを出して倒産したことを告知するものだった。

「冗談ではない」
思わず声に出した功は、通用口に回ってドアを開けようとした。

もちろんドアが開くはずはないのだが気が動転している功は、ドアノブをがちゃがちゃと回す。

「おい宮口、こっちに来い」
入社以来、営業のノウハウや、取引先の癖を教えてくれてきた石倉が功を見つけて、裏通りから手招きした。

「石倉さん。いったいどうなっているのですか?このこと知っていたんですか?」

「いや、俺も今朝出勤してきて初めて知った。昨日は専務も常務もこんな話おくびにも出していなかったというのにな」

詳しい話を聞こうと思っていたときに功のスマホの呼び出し音が鳴った。
相手を確認するとカタログの印刷を発注してくれた功の顧客の番号だ。
功が通話ボタンを押そうとすると、石倉が止めた。

「馬鹿、出るな。この状況で何を話すんだよ。顧客の番号は着信拒否にしといた方がましだ」

そうはいっても、社会人として事情を説明したほうがいいのではと、功は未練がましくスマホを見ているが、石倉は自分のスマホで誰かを呼び出そうとしている

「ダメだ、部長にもつながらない。先週末までは経営が苦しいようなそぶりも見せていなかったのに。トップの連中が示し合わせていたのだな」

「何か連絡とか来ないのでしょうか」
石倉は虚無的な視線を宙に投げた。

「計画倒産だとしたら、経営陣は50人ばかりの社員なんか見限って雲隠れだろうな。もともと新入社員の募集をかけるときに残業代込みで初任給を表示するような会社だ、推して知るべしだろ」
功は事態がわかってきて固まっているが、石倉は功を置いて歩き去ろうとしている。

「石倉さんどこに行くのですか?ちょっと待ってください」

「その辺をうろうろしていて債権者に捕まったら面倒だよ。とりあえず帰った方がいい、何か情報があったら連絡してやるよ」
石倉は先輩らしく希望を持たせる言葉を残して言い残し立ち去った。

しかし、数日たっても石倉から連絡が来ることはなかった。
無論、その月の給料はもらえずじまいで、後日、部長が連絡してきて未払いの給料の支払いを求めて訴訟を起こそうと話したのだった。

そのうえ、新たな会社を立ち上げるから一緒にやらないかと声をかけられたときには期待すらしたのだが、出資金を要求されるにいたって、功も完全にあきらめの境地に至った。

「いいかげんにしろよ」
功が回想にふけっていると、どすの利いた声と共に一樹の拳が、功のみぞおちに決まった。
もちろん本気ではないが、油断していた功はむせかえる。

「幸運の神様は後頭部がはげているから後を追っても捕まえられないって言うだろ。もっと前向きにならないと人生の黄昏を迎えたじじいみたいだぜ」

よく分からない格言をたれて説教をする一樹は、ちゃんと話の相手をしないと2発目もくれそうな様子だ。
功は涙目になりながら分かったからやめろと手を振ってみせる。

「うん。どうやら俺の知っている功君が戻ってきたみたいだな」
人のみぞおちに正拳突きを入れておいてひどい言いぐさだった。

「私もよくよく運のない男だな」
そううそぶいてやると、今度は一樹が功の頭髪をつかんで頭を揺らし、功は最近抜け毛が気になっていたから、あまり頭を触らないで欲しいものだと秘かに思う。

「功、再就職にこだわってないで、奈緒子ちゃんと仲直りしたらどうなんだ。彼女が腹を立てたのは別におまえが失職したからじゃないと思うのだけど」
真顔に戻って、お説教を続けようとする一樹を功は手で制した。

「奈緒子は勤務先のドクターと婚約したらしいよ」
一樹はあわてて何か言おうとしたが、功は続けた。

「俺の黒歴史をつまびやかに紐解くのはもうやめてくれ」
功は窓の外を眺めた。遠くにゴールデンブリッジや東京湾が見える。
その界隈で体験した奈緒子にまつわるささやかな思い出が脳裏に蘇り、功をさらに陰鬱な気分にした。
会社倒産のどさくさにケンカ別れしてしまった奈緒子のことを思い出したからだ。

功は大学で同じゼミだった奈緒子とつきあっていた。
会社が倒産した週末に奈緒子とお出かけする予定がはいっていたので、気乗りがしないまま彼女と待ち合わせしたキャッシュオンデリバリー形式のカフェまで出かけた。

時間より少し遅れて来た奈緒子は、のどかな表情。
そんな彼女に積極的に話したいネタではなかったが、勤務先倒産の話をしないわけにも行かず、功が会社倒産の一部始終を話すと奈緒子もさすがに驚いた様子だった。

「元々大した会社じゃないんだから、そんなに落ち込まなくてもいいでしょ。一樹君だって派遣会社勤務なんだし、何かてきとーな仕事探したら」

彼女なりにフォローしてくれたのだが、ネガティブモードに入っていた功は素直にその言葉を受けられなかった。

「奈緒子はいいよな、医療事務の資格があって、親のコネで病院勤めができるから」

 奈緒子の父親は弁護士事務所をやっていて結構繁盛しているらしい。

父親が仕事で関わりがあった総合病院に紹介してもらった話を聞いていたのでつい口に出てしまったのだ。

「何言ってるのよ全然関係ない話でしょ。それよりも、今度うちの両親にあってもらう日だけど、来週の日曜日でどうかしら」
奈緒子はスマホの予定表を見ながら勝手に話を進めようとしている。
新機種が出たときに一緒に買ったので功の持っているスマホと同型だ。

「その話なのだけど、勤務先がつぶれちゃったからなんだか体裁が悪いので、もう少し先にしようよ」

功がそう切り出すと、奈緒子は険しい表情で画面から顔を上げた。

「どういうことよ」

「いや、ほら初対面で挨拶するときに会社がつぶれて失業中ですっていうのもなんだかさえないだろ。すぐに新しい仕事を探すからそれからにしてよ」

奈緒子はムッとした表情で功に応じる。
「今までも、会社に入ったばかりだからとか、自分で営業の契約をとってからにしてくれとかさんざん引き延ばしてきたくせに。私の両親に会ってこれからも私とつきあっていくつもりがないのでしょ」

「そんなことはないよ、すぐに仕事を探すからそれまでの間まってくれ」

「もうたくさん、そんなにいやなら、私と別れたらいいでしょ」
優柔不断も過ぎると人を怒らせてしまう。功があたふたしている間に、奈緒子はバッグをつかむと出ていってしまった。

功のまぬけなところは、すぐに追いかけて謝らなかったことだ。
意固地になって就職活動をしているうちにあっという間に一ヶ月が過ぎたが、そう簡単に仕事が見つかるわけもなかった。

さすがに、何かフォローをしなければとおもって奈緒子に近況を伝えるメールを送ってみたが、戻ってきたのは「どちら様ですか」という冷たい文面だった。
その続きの文面は簡潔だった。もう連絡は取ってくるな。会うつもりもないと事務的に伝える内容だ。

勤務先のドクターとつきあっている話を大学時代の友達に聞いたのはその少し後のこと。
それ以後の功は、惰性のようにハローワークで仕事を探して午前中を過ごし、午後からは日銭を稼ぐためにコンビニのバイトをする日々を送っていた。
何か違うのではないかなと思わないのでもなかったが、他にすることも思いつかない。

そして、功の脳裏にはいつも、あの日の会社の入り口に降りたシャッターの映像が思い浮かぶようになった。
それは、功のこれからの人生もシャットアウトするかのように立ちふさがっているのだ。

功はさいたま市にある実家から会社に通勤していた。
両親は健在で父親は中堅家電メーカーを定年退職したばかりだ。
失業手当もあるし実家にパラサイトしてアルバイトでもしていれば当座生活に困る訳ではない。

しかし、先の見通しが立たない生活は功の気分を蝕んでいた。
そう遠くない将来に両親が先だった家の中で誰にも知られないまま孤独死する自分の姿が見えるような気がする。
今日という日の功の気分はそんなところだ。

功は、孤独死した自分を、最初に発見してくれるのはこいつだろうかと思って一樹を振り返った。
一樹は「やっちまったよ」と顔に書いてあるような表情で功を見つめていた。
気を遣ってくれる数少ない友を困らせるのもあまりよろしくないので、功はにっこりと笑って一樹に告げた。

「そろそろ着くよ。コミケ見たらダイバーシティに行ってガンダムも見ようか」
そして、功は一樹の頭にそっと手を置いた。

第2話 農業との邂逅

一樹と功は展示場前駅でゆりかもめを降りて、東京ビックサイトに向かった。
今日はコミックマーケットが開催されているのだ。
コミックマーケットは一般的にはコミケと呼んだ方が通りがよい。
エントランスを歩いていると、同人誌とおぼしき出版物をキャスターで引っ張っていく人々や、アニメのキャラクターのコスプレをした人が目につく。

「ほら功、あそこのけものフレンズの女の子かわいくない?」

「ファーストガンダムおたくのくせに節操のないやつだな、美紀ちゃんにちくるぞ」

功は軽口をたたいているうちに少し気分がほぐれてきた。
一樹も功も高校生の頃から取り立ててスポーツができるわけでもなく、学業成績もごく普通。
功は席が近かった一樹と、アニメの話がもりあがったのがきっかけでアニメ研に入った。
その後功と一樹は同じ大学に進学し、大学時代はアニメおたくとしてキャンパスライフを楽しんでいた。
就職してからはそれほど趣味にかまける時間があるわけでもなく、一樹と会うのもしばらくぶりだったのだ。

功が考え事をしている間に、一樹はコスプレイヤーを見とれて別の会場から出てきた中年の男に思いきりぶつかっていた。
なにやら詫びの言葉をつぶやいているらしい一樹に向かって、スーツ姿のその男性が何か声高に話している。
その男性は肩幅が広く胸板も厚い。
浅黒い顔にカールがかかった短髪は、そのスジの人を連想させた。

功としては他人のふりをして立ち去りたい気分だが、友を見捨てていくわけにも行かない。
成り行きを見守っていると、その男と目が合ってしまった。

「君もお友達かね、時間があったら少し話を聞いていかないかい」

どうやら、因縁を付けられていたわけでは無いようだ。
話を聞いて行けと言われて初めてその男の出てきたブースを見てみると、そこには「農業人フェスティバル2012 全国就農相談会」という大きな看板が出ていた。

一樹はぶつかってしまった手前、断ることもできずその男について会場に入っていく。
どうやら一緒に行かざるを得ない状況になってしまったようだ。
案内された会場はなんだか就職説明会の会場とよく似た作りだった。
違うのは、パーティションに仕切られたブースに入っているのが企業ではなく地方自治体らしいことだ。

一樹と功は「まほろば県」と書かれたブースに案内されたが、近隣のブースは西日本の県名が並ぶ。
どうやら全国の都道府県がそろっているらしい。

「二名様ご案内」

先ほどの男が居酒屋の客引きのように告げると、机の上にパンフレットを並べていた男が言った。

「岩切さん、また別の会場にきた人を引っ張り込んだんじゃないでしょうね」

「いいじゃないか植野君、少しでも多くの人に話を聞いてもらうのが我々の仕事なんだし」

図星だったはずだが、悪びれもしないで男は答える。
功はおそるおそる聞いてみた。

「あの、あなた方はどういう仕事をされているんですか」

「僕たちはまほろば県の職員で、まほろば県で新しく農業を始めようとする人のお手伝いをするのが仕事です。今日は、東京からまほろば県にきて農業をしようと志す人に、就農のノウハウや、受け入れできる施設を説明するために来ています」

功は一樹と顔を見合わせた。
彼ら二人は公務員のイメージからは程遠い気がしていた。
植野と呼ばれた職員も色黒で何となく目つきが怖い。

「まずはまほろば県の概要から説明しましょうか。まほろば県は太平岸に繋がる海に面していて気候は温暖。施設園芸といってビニールハウスで野菜を作るのが盛んです」

功は壁に貼ってあるポスターを見た。
ポスターの写真では、緑の山並みを背景に若い男女が並んで野菜を抱えており、岩切氏は話しを続けた。

「周囲には自然もたっぷり残っているし、海に行けば魚釣りもできるとってもいい所です」

功としては、こうやって説明されるまではまほろば県がどこにあったか記憶が定かでなかった。

「もし興味がおありなら、我々が運営している研修施設で短期研修もやっているので、野菜の栽培体験をしたり、農家を視察したりして、農的体験の機会を提供できます」

そこで、植野がパンフレットを広げて話を引き継いだ。

「研修期間中は県が運営する宿泊施設に安く泊まることもできますよ。本格的に農業を始めるための研修を受ける場合は四月入学の長期研修で一年間実際に野菜を作りながら技術を学べるようになっています」

「要するにまほろば県に移住して農業をしないかとおっしゃりたいのですね。」

一樹が話の腰を折る。

「うん。平たく言うとそういうことだね。直近では二月に三日間の短期研修もあるから興味があるなら是非ご参加下さい」

岩切氏はどこからともなくカラーのパネルを取り出してきた。屋外で飲食に興じる若い男女の写真で、その中には岩切氏の姿も見える。

「この写真はね前回の短期研修の打ち上げというか懇親会の写真。研修生と職員でバーベキューしているところ」

「いいなあ俺こういうイベントに参加してみたい」

食い意地の張った一樹は野外バーベキューの写真に食いついてしまった。
ひょっとして本当に参加するつもりなのかと思っていると、やおら功の方に振り向いた。

「俺は会社があるからちょっと無理だな、功おまえ見学に行ってみたらどうだよ」

功は何故俺に振るのだと抗議を込めた目線を送ったが一樹は知らん顔だ。
自称公務員の二人は一樹のフォローに少し勢いづいた気がするので、ここは何か別の質問をして話の矛先をそらさなければと功は考えを巡らせた。

「野菜作るのって儲かるものなのですか」

「いい質問だね。僕たちが勧めているのは施設園芸といってビニールハウスで野菜を作る経営形態です。設備投資に結構お金がかかるけど、経費を引いても売り上げの3割は利益が残るんだよ」

「売り上げがどれくらいかというと、三反のハウスでニラを栽培して、ざっと一千万円くらいかな。がんばって面積を増やせば経費引き後の利益だけで一千万円プレーヤーも夢じゃない」

功は「さんたん」と言われてもなんだか解らず、アメリカの小説なんかで百エーカーの農場を持ってとか言うように面積のことだろうかと思ったままに聞いてみると、岩切氏は機嫌よく答える。

「面積なのは正解。でも反はメートル法の単位なので三反イコール三千平方メートルのことだよ。学校の体育館ぐらいの面積だと思ってくれたらいいよ」

「結構お金がかかると言っていましたけれど、どれぐらいかかるのですか」

功がさらに質問すると、岩切氏は、まほろば県の標準仕様らしいビニールハウスの写真を見せて、これを建てるのに一千平方メートル当たりおおむね千五百万円かかると教えてくれた。

あまりの金額に功はどん引き状態になった。
とうてい個人が準備できる金額ではないと思い、岩切氏に思った通りに伝えると植野氏がすかさずリースハウスだとか、新規就農者を対象とした給付金制度の話を始めた。
しかし、金額に打ちのめされた功はそのまま聞き流す。

「でも、野菜の栽培って難しいのでしょう。僕らは全然経験もないし無理ですよ」

話の腰を折って帰るきっかけを作るつもりだったのだが、岩切氏は空気が読めないのか生真面目なのか丁寧に説明を続ける。

「そのために、さっき植野君が説明した「農業体験研修所」があるし、それに加えて、栽培する品目が決まったら、その品目を実際に栽培している農家の元で研修を受けることもできます」

「本当を言うと、農家が教えてくれる研修が一番大事なのだけど、研修生があまりにも経験がないと受け入れ側の農家の負担が大きいから、基本的なことを農業体験研修所で覚えてもらうのだよ」

植野氏が岩切氏の話を補足した。

「その農業体験研修所で教えてくれるのはどういう先生なのですか」

「もちろん経験豊富な職員が懇切丁寧に指導します」

そういいながら岩切氏は自分を指さしてにっこり笑っており、功は彼がどこまでが本気で話しているのか不安になった。

「もちろん、専門分野については担当の県職員が講義に来るし、農家の方が講師になって教えてくれる場合もあるよ」

植野氏も話に加わり、彼らの勧誘活動のツボの部分に入ったようだ

「まあ、いきなり長期研修というのは敷居が高いから、二泊三日の短期研修があるので興味があったらその当たりからがお勧めだよ」

「さっきも言ったと思うけど直近の予定が三月で、トラクターやうね立て機の取り扱いがメインです。参加する気になったら是非ここに連絡してください」

植野氏がパンフレットと相談受付カードを手渡してくる。
これに記入したら解放してくれるのだろうかと思い、一樹と顔を見合わせた功は、そそくさとカードに記入して挨拶もそこそこにブースを後にした。
一樹は「農業人フェスティバル2012」の会場を後に、てコミケの会場に向かいながら言った。

「俺、最初はそのすじの人の事務所につれていかれるかと思ったよ」
一樹は、ほっと一息ついてつぶやき、功も緊張が解けた表情でつぶやく。

「そのすじの事務所なんかこの辺にないだろ。まあ何事も無くて良かったじゃないか」
功は一樹と話しながら、もらってきたパンフレットを眺めていた。

「功、おまえ気分転換かねて、さっきの何とか研修所に行ってみたらどうだよ。」

一樹はアニメおたくといっても結構外向的な性格だ。
屋外バーベキューの写真に釣られて四国まで出かけて行きかねないが、功はそうも行かない。

「そういわれても、初対面の人ばかりの中で研修ってちょっときついな」

「どうせ再就職先が無くて煮詰まっていたんだろ、目先を変えるにはどこかに出かけてみるのがいいんだよ。農業始めるための体験研修受けに行くと言えばなんだかお題目が立つじゃん」

一樹は功のためにと勧めているが、どうやら本音の部分では自分が行きたそうな口ぶりだ。

「まあ、実態がどんなものか分かったものじゃないから、俺が強いて勧める話でもないな」

「気が向いたらだけど、参加について検討してみようかな」

気分転換に引っ張り出した一樹の意図どおりに、功の気分は少しだけ前向きになっていたようだ。

「ほんとか、もし参加したら、バーベキューについて是非俺にレポートしてくれよ」

一樹は、押しが強い割に空気を読む。
それ以上無理強いしないで、本来の目的地であるコミケの会場へと歩き始めた。
コミケの会場は実は就農相談会の隣だった。
思わぬ寄り道があったが、功はコミケで掘り出し物を探したりして結構気分を変えることができた。
ガレージセールで購入したザクのイラストが描かれたTシャツを抱えた功は、一樹と途中で別れて帰路についた。

一人になって、思い出したのはやはり行きがけに遭遇した新規就農相談会のことだった。
通りすがりの人間を捕まえて相談の押し売りをしていた公務員の岩切氏を思い出すと顔は怖いが微笑ましく感じられる。

そして野菜を育てることで所得一千万円といっていた岩切氏の言葉が、なんだか頭にこびりついていた。功は初期投資数千万円を忘れたわけではないが、のどかな田園風景の中で野菜を育てながら年収一千万円という生活も悪くないかなと思い、体験研修への参加を考え始めていた。 

第3話 新天地を求めて

結局、功は冬のさなかに、新宿駅のバスセンターから四国にあるまほろば県を目指す夜行の長距離バスに乗った。
高速バスの座席はリクライニング機能もあるが、功は慣れないせいで寝付くことができない。
「寝ている間に移動できるから結構楽だよ」という岩切氏の話を真に受けたのが間違いだったと功は少し後悔する。

功が農業人フェスティバルで会った数日後に、パンフレットを見ながらおそるおそる電話をすると、岩切氏はきちんと対応したのだ。
あまつさえ「是非いらっしゃい」と日程に合わせた交通機関まで教えてくれたのだ。
岩切氏は相談会でのアバウトなのりとは違い、作業用の着替えや滞在に必要な経費など、功が気が回らないことまで指示してくれた。
しかし、移動手段のセレクトは、人によって好みが分かれるのだ。

夜行バスは東名高速道路を延々と走っていく。
時間調整なのか、サービスエリアでしばらく止まったりするのだが、降りた客の人数確認が面倒なのか乗客は降ろしてくれない。
ときおり、うつらうつらと寝入りかけるがすぐに目を覚ますことの繰り返しだ。
眠れないままに高速からの夜景を見ようかと思ったが、夜なので景色といえるほどのものは見えない。
バスは名古屋をすぎて名神高速道路に乗り入れ、さらに大阪から中国道と山陽道を経由する。

翌朝、周囲もすっかり明るくなった頃に功はやっとまほろば県の県庁所在地であるまほろば市に到着した。
寝不足の功はなんだか朦朧としながら駅のまわりを歩くが、旅はまだ終わりではなく、農業体験研修所があるわだつみ町までは一時間以上の汽車の旅が控えている。
まほろば県のJR線の車両は汽車、つまり電車じゃなくてディーゼルエンジンで動く列車で、鉄道おたくなら「キハ」がどうとか言って喜ぶのだろう。

功は汽車の切符を買うべく痛む背中を伸ばしながら、バスターミナルに隣接した駅舎に向かった。
功がまほろば駅で目的地のわだつみ町までの切符を買おうとしていると、横に立っていた女性と目が合った。
その女性は功を見てにっこり笑いながら手を挙げるので功は自分の後ろに彼女の知り合いでもいるのかときょろきょろしてみるが、周囲にはそれらしき人はいない。

「あなた、宮口君でしょ。」

名前を呼ばれて功はギョッとしたが彼女は微笑みかける。

「ええ、そうですけど、・・。」
功は平静を装って答えるが、知らない土地でいきなり名前を呼ばれて内心穏やかでない。

「私は今日、わだつみ町の農業体験研修所に行く予定なの。」
両手を腰に当ててにっこりしながら彼女は続ける。

「講師の岩切さんから、この列車にアニメ系おたくの宮口君という子が乗るはずだから、見つけたら身柄を確保してまほろば駅まで連れてきてくれ。とメールがあったの。」

功は何となく事情はわかってきたがそれでも腑に落ちない。

「何の目印もないのになんでぼくとわかったんです。」

「岩切さんもまほろば駅で見つけられたらぐらいのつもりだったみたい。私もこんなに簡単につかまえられるとはおもわなかったわ。」

そう言うと、なんだか笑いのツボに入ってしまったみたいでクスクスと笑っている。

「ごめんなさい、ザクのTシャツ着た男の子がなんだか情けない顔して歩いてくるから、きっとこれだわって声かけてみたの。」

自分の胸元を見ると、モスグリーンのザクTシャツがジャケットの間からのぞいている。
素人目にはガンダム関連の絵柄とはわかりにくいデザインのはずなのにと思うが、彼女は功の様子を見ながらうなずいている。

年齢は二十代の後半ぐらい、ショートカットのあっさりした顔立ちだが、好感度アンケートをしたら過半数が好感を持つと答えそうな雰囲気だ。
山ガール系のファッションに、小振りなリュックサックを担いでいるのがなんだか旅慣れた雰囲気に見える。

「見た目だけでなくて、人の流れに逆らってうろうろしていたから目に付いたのよ」

そういえば、通学時間には少し早いはずなのにホームから降りてきて街の方へ流れていく高校生が多い。

「私は谷崎茜。今日からの研修を一緒に受けるからよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」
茜に挨拶を返しながら功は少し気分が弾むを感じ、出だし好調な気がしている。

「茜さんも、高速バスで来たんですか」

「ううん。あれはちょっとしんどいから昨日飛行機で来て、友達のおうちに泊めてもらったの」

茜は列車の発車時刻が迫っていたのか功と話しながら改札のゲートに向かっており、功もあわてて切符を買って後を追った。
ホームには既に列車が入っており、功たちが乗り込むと発車し、功が車内を見回すと周囲には空席が目立つ。

「この時間帯は西の方に行く人は少ないのよ。」

茜さんは「どっこいしょ」とかわいいかけ声とともに網棚に荷物を載せると、ボックス型のシートにおさまった。
功は通路を挟んだシートに座ると硬くなった背中を伸ばした。

「宮口君はなんで農業体験研修を受けることにしたの?」

列車が動き出すと茜さんが尋ねるが、功もさすがにバーベキューの写真に釣られてきたとは答えにくい。
岩切さんの話を聞いて農業に興味が出てきたからだと答えると、彼女は信じてくれたようだ。

「昨夜泊めてくれた友達と私は野菜ソムリエの資格を取っていて、いつか自分が作った有機野菜を通信販売したいと思っているの」

「ゆうきやさい?」

「化学合成農薬や肥料を使わないで、自然にあるものだけを使って栽培した野菜のことなの。」

「それっておいしいんですか」

「野菜本来の栄養とか風味を引き出せるからとてもおいしいと思うんだけど」

そこまで言った茜さんは、ちょっと困った顔で功を見た。そして彼女は一般向けのモードに切り替えた口調でかみ砕いて説明を始めた。

「一般的に農業をする人は農業協同組に加入して、そこで肥料や農薬を買ったり、作った野菜を出荷したりするの」

農協と言う言葉くらいは知っていたので功がうなずくと彼女は続けた。

「でも、有機野菜は販路が確立されていないから、自分で通信販売したり、顧客に直接売りに行ったりしないといけないの」

「野菜の栽培もして販売も自分でやるのは大変でしょう」

「大変なのは確かだけど、外国産の野菜から農薬の成分が検出されたりして、食品の安全・安心に消費者の関心が向いているの。それに答えられるように有機栽培のJAS認証を取って安全でおいしい野菜を作りたいの」

一生懸命に話す彼女を見ていると、功も彼女が作った野菜を値段にかまわず買いたい気分になるくらいなので、彼女が訪問販売をすれば品物はよく売れるに違いない。
しかし、功は話に出てきた認証という言葉がわからないので茜に尋ねた。

「JAS認証も知らないの?」

彼女は少々あきれたようだ。
業界用語というのか、農業分野の専門用語は功にとってはなんだか分からない単語が多い。
茜さんはため息をついた。

「そうか、宮口君は農業とはどんなものかまず見てみたいというレベルなのね。」

功は何も知らないのは事実だから仕方がないと思い素直にうなずいて見せた。

「それでも東京からのこのこやってきたのは岩切さんの人徳というものかしら。」

気を取り直した彼女は、自分が農業を始めたきっかけを話し始めた。

「私は、もともと料理が好きだったのだけど、ラタトゥイユをレシピにそって作ろうとすると、材料の中に必ずズッキーニが入っているわけ。お店で探せばあるにはあるのだけど結構高いの」

功はズッキーニを知らないのでイメージがわかないのだが話に水を差さないように黙って聞いている。

「それで、ある日ネット通販でズッキーニの種子を取り寄せてマンションのベランダで育ててみることにしたの。大きめのプランターにホームセンターで買ってきた野菜用の土とか堆肥とか入れて、当時の私としては相当頑張っていたと思うわ」

「うまく育ったのですか?」

流石の功も結末が気になって茜に質問する。

「それはもう。私はズッキーニってカボチャの仲間らしいって聞いていたから、ひょろひょろした茎にかわいいズッキーニが付いているのをイメージしていたのだけど実物は違っていたの」

功はそもそもカボチャの姿からしてよく知らない。

「育ってくるほどに、ごつい姿になったの。太い茎に新聞紙の半分ぐらいの葉がわさわさとついてちょっとした木のようなたたずまいだったわ。」

得体の知れない植物をイメージして首をひねっている功を尻目に彼女のズッキーニ話は盛り上がる。 

「もちろん、ズッキーニの収穫はできたのだけど、仕事が忙しい時があって、夜遅くに帰ってきてお水をやるだけでしばらく放っておいたことがあったの。気がついたらすごいことになっていたの」

「いったいどうなっていたのですか?」

磯は固唾を飲んで茜に尋ねる。

「ズッキーニってお店で売っているのは、若い果実を収穫したものだったのね、私がしばらく放置したせいで、直径十センチ長さ六十センチの巨大ズッキーニができあがっていたの」

野球のバットをさらに太くしたくらいの実がプランターの植物にできている所は功の想像力の及ばないところだった。

「失敗なのだけど、面白かったから野菜の栽培を自分でやってみたいと思うようになったの」

彼女は趣味から始まって農業を志しており、自分が好きなことを仕事として選ぼうとしているのが何だかうらやましく思えた。
結局、好奇心に負けた功はスマホでズッキーニを検索してみたが、画面に出てきた写真は短めのキュウリみたいに見えた。

「さては、ズッキーニを知らなかったな」

めざとく画面をのぞき込んだ茜が指摘し、今更言い訳するわけにもいかないので、功は笑ってごまかすことにした。
話をしている間も列車は川を越えトンネルを抜けて走り続けており、停車駅の周辺以外は山がちな風景が多い。

「そろそろわだつみ町に着くわよ。」

茜さんは立ち上がって荷物を担いでおり、功もあわてて降りる準備を始めた。
車窓から見えるホームの向こうには、岩切氏がちょこんと右手をあげて待ちかまえていた。

第4話 農業という不思議な仕事

功が農業体験研修所に到着すると研修と名がつくものにはつきもののオープニングセレモニーが始まった。
所長の挨拶に始まり、これもおきまりの参加者の自己紹介がはじまり、今回の参加者が五人しかいないと判明する。

功と茜、定年退職して農業を始めるために来たという吉田、大手居酒屋チェーンが経営する農園で働いているが、そろそろ自立したいと画策している小松と自分の会社が農業分野に参入するので社命を受けて参加したという森本だった。
もう一人参加者に見えた若い女性は農業機械実習を手伝いに来てくれた臼木農林業公社の研修生の川崎だと紹介された。

自己紹介が終わると功たちは農業用機械の取り扱いについて座学の講習を受けた。
功も運転免許を持っているが、農業用のトラクターは勝手が違い、畑の畝を作るのに使う管理機に至っては、ハンドルにレバーがたくさん付属していて操作を間違えそうだ。

功たちは講習が終わると早くもトラクターの操作実習を受けることになった。
功達研修生五人は更衣室で作業のできる服装に着替えてから実習棟に集合するように指示された。
身軽に動ける服装のストックがあまりない功は秘蔵していた高校の体育のジャージを着用した。
校章をきれいに取ってしまえば体育ジャージとは解るまいと思った功のもくろみは甘かった。
研修棟で集合する早々に、茜さんはにやにやと笑いながら功に近づき、

「功君それってもしかして、高校の時の体育のジャージじゃないの」
彼女は露骨に聞いてくるし、川崎も微妙に笑いをこらえているようだ。

「どうせ汚れるんだから何着いてもかまんろう、なあ功君」
その場をフォローしてくれたのは年かさの吉田だった。

「そうそう、研修受けるのに着るものなんてどうでもいいべさ」

森本もフォローしてくれたが、二人ともちゃんとした作業服を着用しているのは言うまでもない。
そこに教官の岩切が現れ、農業機械の操作実習がスタートした。

「それではみなさん、安全第一で研修を始めましょう。まずはそこの体育ジャージのきみからトラクターを動かしてもらおうか」

話を聞いていた訳ではないはずなのに、岩切氏は体育ジャージという文言まで使って真っ先に功を指名する。
功は気を取り直して倉庫の中に鎮座しているトラクターによじ登り、エンジンをかけた。
軽くアクセルを踏んでトラクターを動かすとステアリングを切って倉庫から外に出し畑へと向かう。
午前中の座学をちゃんと聞いていたのでそこそこ動かせる。
しかし、功が道路からの段差をなるべく垂直になるようにしてかわし、方向を変えようとしたときに、サッカーの試合でで審判が使うようなホイッスルが鳴り響いた。

「はいそこの体育ジャージ君、ブレーキの連結を解除して」 

川崎の声が響き、功は午前中の講義の注意事項の一つを思い出した。
トラクターは左右のブレーキを別々かけて方向を変えるようになっている。
道路を走行するときはブレーキペダルを連結して片方のペダルを踏めば左右均等にブレーキがかかるようにしており、畑に入ったら連結を解除するのだが、教わったばかりだったのに功は失念していた。

「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか」

「ぶつぶつ言わない」

功が小さな声でつぶやきながら連結を解除していると、すかさず彼女の突っ込みが響く。
運動系のクラブや体育会に縁がなかった功は、大きな声で指摘されるのはどうも苦手だ。
功は気を取り直して畑に進入すると、ローターをおろして「耕運」を始めた。
トラクターを低速で進ませながら、エンジンとドライブシャフトでつながっているローターの回転する爪で土を耕していくのだ。
初めて使う機械を難なく使いこなして、なんだか某アニメのキャラクターのようだと一人で悦に入っていると、トラクターが畑に残っていたでこぼこのせいで方向がずれ始めた。

「ここはペダルで方向を修正しなければ」とペダルを踏み込むと、方向はさらにずれた。

「なにやってんの、逆でしょ逆」

お手伝い要員の川崎の声が再び響く。
功はあわてて方法を修正し、畑の端まで到達するとローターをあげて方向転換する。
そして最初にローターの幅だけ帯状に耕してきた隣の部分を新たに耕運していく。
これを繰り返して畑全体を耕すのだが、練習なので数回往復したら次ぎの人に交代することになる。
功はトラクターをいったん畑から一段高い道路に戻すとおもむろにブレーキペダルを連結してからエンジンを止めてトラクターを降りた。

次ぎに乗った吉田の運転振りを見学していたが、吉田とてスムーズに操作している感じではない。
そして時折、川崎の厳しい指摘が飛んでおり、功は皆が練習するために来ているのだからそんなものだと納得した。
吉田が森本と交代するのをぼんやりと見ていると隣から声が響いた

「さっきの運転でちゃんとできているからね。上出来だよ」

いつの間にか功の隣に来ていた岩切が功の運転ぶりを褒めてくれたのだが、功は川崎の素性が気になっていた。

「川崎さんは何故あんなに怒鳴っているのですか」

功から見て川崎は同年代くらいに思え、見た目もかわいらしいのにイメージが違うことはなはだしいのだ。

「彼女は声が通るから、今日は特にお願いしたんだ」

岩切さんの答えは、往々にして説明になっていないことがあり、横にいた茜さんが補足した。

「あの子はこの農業体験研修所を去年修了した修了生なの。みんなは真紀ちゃんと呼んでいるいい子なのだけれど、技術的な面ではいろいろと思い入れがあるのだと思うわ」

見た目が研修生のように見えるのも道理だと功は納得する。

「それに加えて、ここにいるときに、自分が担当して一生懸命育てていたおナスを新顔の研修生に手伝わせたら、間違えてほとんどの主枝をちょん切られてしまったことがあるの」

「それってダメージ大きいんですか」

功は主枝といわれてもよくわからなかったが、とりあえず話を合わせた。

「ショックは大きかったみたいね。それ以来、彼女は新顔研修生に対して厳しいのよ」

功にとってはいい迷惑な話だった。
トラクターに乗っている森本も真紀に何か言われないかとビクビクしているのが功にも見てとれる。
しかし、功は翌日の栽培実習に入ったときに彼女がイライラしていた原因について身を持って体験することになるのだった

研修二日目の朝、功たちは指導教官が運転する軽四輪のワンボックスワゴン二台に分乗し、同じわだつみ町内にある臼木農林業公社に向かった。
本来なら農業体験研修所の研修用温室で栽培技術の研修を受ける予定だったが、臼木農林業公社の研修用ハウスで天敵昆虫がうまく定着しているのでそちらを借りて実習することになったらしい。
その温室を管理している農林業公社の研修生の一人が真紀だった。

わだつみ町は海に面していている土地柄だが、少し内陸にはいると緑の木々に覆われた山が連なっており、山の間を曲がりくねって流れる川沿いにわずかに農地がある程度だ。
臼木というのはその山あいの集落だ。

「臼木では、集落営農法人というのを作ろうとしていたんだけど、この辺の土地柄もあって、そう簡単に皆の合意が得られなかった」

岩切さんが説明してくれる。

「それで、農作業の受託を行う農林業公社を作って、同時に新規就農希望者の研修受け入れもできるようにしたんだよ」

功は農業に関する業界用語を知らないので話の中身があまり理解できない。

「農林業公社といっても、窓口でトラクターを貸してくれるってわけじゃない。地元の農家が事務局に稲作の作業を頼むとオペレーターさんが作業をやってくれる仕組みです」

その事務所に功と茜そして岩切氏が到着した時にはもう一台の軽四輪のワンボックスワゴンに乗っていた残りの三人の研修生と川崎は既に事務所で待っていた。
事務所にはいると川崎は上役とおぼしき職員となにやら剣呑な雰囲気で話している。

「真紀、西山の姿を最後に見たのはいつなんだ」

「昨日から見てない。ハウスの開閉も私がした」

「体験研修の指導は岩切さんにお願いするから西山の宿舎を見てきてくれないか、施錠されていたらこれを使ってくれ」

「西山さんに何かあったの?」

川崎は職員が手渡す合い鍵を受け取りながら、も訝し気に尋ねる。

「西山からの手紙が郵便で届いたんだ、婚約者が手術を受けることになったので、まほろば県で農業をするのはあきらめて大阪に帰ると書いてある」

「携帯は?作業中は携帯を車に置きっぱなしの局長と違って西山さんはわりとすぐに出てくれるのだけど」

「つながらない。電源を切っているみたいだ」

それでも彼女は何か言いたそうにして立っている。

「研修用には西山が使っていたハウスを使うから行ってくれ」

職員がそれとなく察して彼女に指示すると、彼女は事務所を出ていった。
真紀は異聞が不在の間に功達研修生に自分の温室を使わせたくなかったらしい。

「その西山君の話は本当なのか。山本局長」

岩切さんが心配そうに手紙をのぞき込み、農林業校舎の事務局長らしき職員は岩切に答える。

「一声かけてから帰るなり、電話するなりできたはずなのにわざわざ手紙を送ってくるところが気になるな」

気遣わしげな表情の山本だったが、手紙を机の上に放り出すと功たちの方に向き直り、一転して穏やかな表情で言った。

「私は臼杵農林業公社事務局長の山本と申します。内輪のごたごたで失礼しましたが、予定通り研修を始めましょう。川崎の代わりに僕も指導を手伝います」

山本事務局長は功達研修生を研修用温室に案内した。

「今日研修してもらうのはナスの収穫と整枝作業。それから時間があったら誘因作業もやってもらいます」

岩切は研修生に先の細い収穫用のはさみを手渡していく。

「まず収穫だけど、僕が手に持っているのがMサイズなのでこの大きさを基準にして収穫してください。出荷基準はそこの壁にポスターがあるからそれを見て、自信がなかったらそこの秤で重さを確認してください。」

「Sサイズより小さいのを取った人は研修最後の日のミーティングの時に何か芸をしてもらいます」

岩切の説明はわかりやすいのだが、失敗したら罰ゲームと言われると気の小さい功は微妙にストレスを感じ、茜に本当に罰ゲームをやらされるのか尋ねた。

「岩切さんが覚えていたらご指名があるかもしれないけど、せいぜい歌を歌えとか瞬間芸をやれというぐらいでそう大したしたことないわよ」

彼女はこともなげに答えるのだが、そういうのが苦手な功はさらにストレスが増える結果となった。
岩切の罰ゲームを意識して、功は時々秤で重さを確かめながら真剣そのものに収穫をする羽目になったが、それ故に収穫した果実は規格に沿ったものだ。

そしてナスと言う作物は収穫しながら枝の剪定もしなくてはならないのだった。
岩切の説明では、ナスは一つの株から三本の茎を伸ばして主枝にする。
それぞれの主枝からは枝に当たる側枝が出ているが、側枝には一個だけナスの果実が付いている
その果実を収穫すると枝そのものを根本の葉っぱを一枚残してちょん切ってしまうのだ。
葉っぱの根本からはちゃんと芽が出るようになっており、出てきた枝にまた花がついて実がなるというシステムらしい。
功が収穫作業に慣れてきて少しスピードアップした時背後から大きな声が響いた。

「ああっ、やっちまったよ」

背後から聞こえた声に、功が振り返ると山本局長がにやにやしながら、こちらを見ていた。

「今切ったのが何かよく見てみなよ」

そう言われて、手元のちょん切った枝をよく見てみると、それはどうやら大事な主枝の方だったようだ。

「ど、どうしたらいいんでしょう」

昨日からさんざん言われていたのに、功が真っ先に失敗をしてしまったのだ。

「切ってしまったものはどうしようもないけど真紀のやつ激怒するんじゃないかな」

「あら、今日の罰ゲーム第一号は宮口君みたいね」

茜まで近くに寄ってきたのでちょっとした人だかりになり、結局岩切も顛末を耳にすることとなったが、岩切は意外と優しかった。

「功君そんなに困らなくてもいいよ。成長は遅れるけど上の方の側枝を主枝の代わりに伸ばすことができるんだ。それに、ワイヤーの高さまで伸びたら摘心といって主枝を切ってそれ以上伸びないように止めるからそれほど気にしなくていいよ」

功は周囲のナスの状態を見たが、すでにワイヤーの辺りまで伸びて「摘心」した枝も多い。
功は岩切の言葉でどうにか気を取り直すことができた。
山本局長は功の肩をポンと叩くと壁際に戻っていき、功は皆が自分をからかっていたことに気が付いたのだった。

第4話 農業という不思議な仕事

功が農業体験研修所に到着すると研修と名がつくものにはつきもののオープニングセレモニーが始まった。
所長の挨拶に始まり、これもおきまりの参加者の自己紹介がはじまり、今回の参加者が五人しかいないと判明する。

功と茜、定年退職して農業を始めるために来たという吉田、大手居酒屋チェーンが経営する農園で働いているが、そろそろ自立したいと画策している小松と自分の会社が農業分野に参入するので社命を受けて参加したという森本だった。
もう一人参加者に見えた若い女性は農業機械実習を手伝いに来てくれた臼木農林業公社の研修生の川崎だと紹介された。

自己紹介が終わると功たちは農業用機械の取り扱いについて座学の講習を受けた。
功も運転免許を持っているが、農業用のトラクターは勝手が違い、畑の畝を作るのに使う管理機に至っては、ハンドルにレバーがたくさん付属していて操作を間違えそうだ。
功たちは講習が終わると早くもトラクターの操作実習を受けることになった。
功達研修生五人は更衣室で作業のできる服装に着替えてから実習棟に集合するように指示された。
身軽に動ける服装のストックがあまりない功は秘蔵していた高校の体育のジャージを着用した。
校章をきれいに取ってしまえば体育ジャージとは解るまいと思った功のもくろみは甘かった。
研修棟で集合する早々に、茜さんはにやにやと笑いながら功に近づき、

「功君それってもしかして、高校の時の体育のジャージじゃないの」
彼女は露骨に聞いてくるし、川崎も微妙に笑いをこらえているようだ。

「どうせ汚れるんだから何着いてもかまんろう、なあ功君」
その場をフォローしてくれたのは年かさの吉田だった。

「そうそう、研修受けるのに着るものなんてどうでもいいべさ」

森本もフォローしてくれたが、二人ともちゃんとした作業服を着用しているのは言うまでもない。
そこに教官の岩切が現れ、農業機械の操作実習がスタートした。

「それではみなさん、安全第一で研修を始めましょう。まずはそこの体育ジャージのきみからトラクターを動かしてもらおうか」

話を聞いていた訳ではないはずなのに、岩切氏は体育ジャージという文言まで使って真っ先に功を指名する。
功は気を取り直して倉庫の中に鎮座しているトラクターによじ登り、エンジンをかけた。
軽くアクセルを踏んでトラクターを動かすとステアリングを切って倉庫から外に出し畑へと向かう。
午前中の座学をちゃんと聞いていたのでそこそこ動かせる。
しかし、功が道路からの段差をなるべく垂直になるようにしてかわし、方向を変えようとしたときに、サッカーの試合でで審判が使うようなホイッスルが鳴り響いた。

「はいそこの体育ジャージ君、ブレーキの連結を解除して」 

川崎の声が響き、功は午前中の講義の注意事項の一つを思い出した。
トラクターは左右のブレーキを別々かけて方向を変えるようになっている。
道路を走行するときはブレーキペダルを連結して片方のペダルを踏めば左右均等にブレーキがかかるようにしており、畑に入ったら連結を解除するのだが、教わったばかりだったのに功は失念していた。

「そんなに怒鳴らなくてもいいじゃないか」

「ぶつぶつ言わない」

功が小さな声でつぶやきながら連結を解除していると、すかさず彼女の突っ込みが響く。
運動系のクラブや体育会に縁がなかった功は、大きな声で指摘されるのはどうも苦手だ。
功は気を取り直して畑に進入すると、ローターをおろして「耕運」を始めた。
トラクターを低速で進ませながら、エンジンとドライブシャフトでつながっているローターの回転する爪で土を耕していくのだ。
初めて使う機械を難なく使いこなして、なんだか某アニメのキャラクターのようだと一人で悦に入っていると、トラクターが畑に残っていたでこぼこのせいで方向がずれ始めた。

「ここはペダルで方向を修正しなければ」とペダルを踏み込むと、方向はさらにずれた。

「なにやってんの、逆でしょ逆」

お手伝い要員の川崎の声が再び響く。
功はあわてて方法を修正し、畑の端まで到達するとローターをあげて方向転換する。
そして最初にローターの幅だけ帯状に耕してきた隣の部分を新たに耕運していく。
これを繰り返して畑全体を耕すのだが、練習なので数回往復したら次ぎの人に交代することになる。
功はトラクターをいったん畑から一段高い道路に戻すとおもむろにブレーキペダルを連結してからエンジンを止めてトラクターを降りた。

次ぎに乗った吉田の運転振りを見学していたが、吉田とてスムーズに操作している感じではない。
そして時折、川崎の厳しい指摘が飛んでおり、功は皆が練習するために来ているのだからそんなものだと納得した。
吉田が森本と交代するのをぼんやりと見ていると隣から声が響いた

「さっきの運転でちゃんとできているからね。上出来だよ」

いつの間にか功の隣に来ていた岩切が功の運転ぶりを褒めてくれたのだが、功は川崎の素性が気になっていた。

「川崎さんは何故あんなに怒鳴っているのですか」

功から見て川崎は同年代くらいに思え、見た目もかわいらしいのにイメージが違うことはなはだしいのだ。

「彼女は声が通るから、今日は特にお願いしたんだ」

岩切さんの答えは、往々にして説明になっていないことがあり、横にいた茜さんが補足した。

「あの子はこの農業体験研修所を去年修了した修了生なの。みんなは真紀ちゃんと呼んでいるいい子なのだけれど、技術的な面ではいろいろと思い入れがあるのだと思うわ」

見た目が研修生のように見えるのも道理だと功は納得する。

「それに加えて、ここにいるときに、自分が担当して一生懸命育てていたおナスを新顔の研修生に手伝わせたら、間違えてほとんどの主枝をちょん切られてしまったことがあるの」

「それってダメージ大きいんですか」

功は主枝といわれてもよくわからなかったが、とりあえず話を合わせた。

「ショックは大きかったみたいね。それ以来、彼女は新顔研修生に対して厳しいのよ」

功にとってはいい迷惑な話だった。
トラクターに乗っている森本も真紀に何か言われないかとビクビクしているのが功にも見てとれる。
しかし、功は翌日の栽培実習に入ったときに彼女がイライラしていた原因について身を持って体験することになるのだった

研修二日目の朝、功たちは指導教官が運転する軽四輪のワンボックスワゴン二台に分乗し、同じわだつみ町内にある臼木農林業公社に向かった。
本来なら農業体験研修所の研修用温室で栽培技術の研修を受ける予定だったが、臼木農林業公社の研修用ハウスで天敵昆虫がうまく定着しているのでそちらを借りて実習することになったらしい。
その温室を管理している農林業公社の研修生の一人が真紀だった。

わだつみ町は海に面していている土地柄だが、少し内陸にはいると緑の木々に覆われた山が連なっており、山の間を曲がりくねって流れる川沿いにわずかに農地がある程度だ。
臼木というのはその山あいの集落だ。

「臼木では、集落営農法人というのを作ろうとしていたんだけど、この辺の土地柄もあって、そう簡単に皆の合意が得られなかった」

岩切さんが説明してくれる。

「それで、農作業の受託を行う農林業公社を作って、同時に新規就農希望者の研修受け入れもできるようにしたんだよ」

功は農業に関する業界用語を知らないので話の中身があまり理解できない。

「農林業公社といっても、窓口でトラクターを貸してくれるってわけじゃない。地元の農家が事務局に稲作の作業を頼むとオペレーターさんが作業をやってくれる仕組みです」

その事務所に功と茜そして岩切氏が到着した時にはもう一台の軽四輪のワンボックスワゴンに乗っていた残りの三人の研修生と川崎は既に事務所で待っていた。
事務所にはいると川崎は上役とおぼしき職員となにやら剣呑な雰囲気で話している。

「真紀、西山の姿を最後に見たのはいつなんだ」

「昨日から見てない。ハウスの開閉も私がした」

「体験研修の指導は岩切さんにお願いするから西山の宿舎を見てきてくれないか、施錠されていたらこれを使ってくれ」

「西山さんに何かあったの?」

川崎は職員が手渡す合い鍵を受け取りながら、も訝し気に尋ねる。

「西山からの手紙が郵便で届いたんだ、婚約者が手術を受けることになったので、まほろば県で農業をするのはあきらめて大阪に帰ると書いてある」

「携帯は?作業中は携帯を車に置きっぱなしの局長と違って西山さんはわりとすぐに出てくれるのだけど」

「つながらない。電源を切っているみたいだ」

それでも彼女は何か言いたそうにして立っている。

「研修用には西山が使っていたハウスを使うから行ってくれ」

職員がそれとなく察して彼女に指示すると、彼女は事務所を出ていった。
真紀は異聞が不在の間に功達研修生に自分の温室を使わせたくなかったらしい。

「その西山君の話は本当なのか。山本局長」

岩切さんが心配そうに手紙をのぞき込み、農林業校舎の事務局長らしき職員は岩切に答える。

「一声かけてから帰るなり、電話するなりできたはずなのにわざわざ手紙を送ってくるところが気になるな」

気遣わしげな表情の山本だったが、手紙を机の上に放り出すと功たちの方に向き直り、一転して穏やかな表情で言った。

「私は臼杵農林業公社事務局長の山本と申します。内輪のごたごたで失礼しましたが、予定通り研修を始めましょう。川崎の代わりに僕も指導を手伝います」

山本事務局長は功達研修生を研修用温室に案内した。

「今日研修してもらうのはナスの収穫と整枝作業。それから時間があったら誘因作業もやってもらいます」

岩切は研修生に先の細い収穫用のはさみを手渡していく。

「まず収穫だけど、僕が手に持っているのがMサイズなのでこの大きさを基準にして収穫してください。出荷基準はそこの壁にポスターがあるからそれを見て、自信がなかったらそこの秤で重さを確認してください。」

「Sサイズより小さいのを取った人は研修最後の日のミーティングの時に何か芸をしてもらいます」

岩切の説明はわかりやすいのだが、失敗したら罰ゲームと言われると気の小さい功は微妙にストレスを感じ、茜に本当に罰ゲームをやらされるのか尋ねた。

「岩切さんが覚えていたらご指名があるかもしれないけど、せいぜい歌を歌えとか瞬間芸をやれというぐらいでそう大したしたことないわよ」

彼女はこともなげに答えるのだが、そういうのが苦手な功はさらにストレスが増える結果となった。
岩切の罰ゲームを意識して、功は時々秤で重さを確かめながら真剣そのものに収穫をする羽目になったが、それ故に収穫した果実は規格に沿ったものだ。

そしてナスと言う作物は収穫しながら枝の剪定もしなくてはならないのだった。
岩切の説明では、ナスは一つの株から三本の茎を伸ばして主枝にする。
それぞれの主枝からは枝に当たる側枝が出ているが、側枝には一個だけナスの果実が付いている
その果実を収穫すると枝そのものを根本の葉っぱを一枚残してちょん切ってしまうのだ。
葉っぱの根本からはちゃんと芽が出るようになっており、出てきた枝にまた花がついて実がなるというシステムらしい。
功が収穫作業に慣れてきて少しスピードアップした時背後から大きな声が響いた。

「ああっ、やっちまったよ」

背後から聞こえた声に、功が振り返ると山本局長がにやにやしながら、こちらを見ていた。

「今切ったのが何かよく見てみなよ」

そう言われて、手元のちょん切った枝をよく見てみると、それはどうやら大事な主枝の方だったようだ。

「ど、どうしたらいいんでしょう」

昨日からさんざん言われていたのに、功が真っ先に失敗をしてしまったのだ。

「切ってしまったものはどうしようもないけど真紀のやつ激怒するんじゃないかな」

「あら、今日の罰ゲーム第一号は宮口君みたいね」

茜まで近くに寄ってきたのでちょっとした人だかりになり、結局岩切も顛末を耳にすることとなったが、岩切は意外と優しかった。

「功君そんなに困らなくてもいいよ。成長は遅れるけど上の方の側枝を主枝の代わりに伸ばすことができるんだ。それに、ワイヤーの高さまで伸びたら摘心といって主枝を切ってそれ以上伸びないように止めるからそれほど気にしなくていいよ」

功は周囲のナスの状態を見たが、すでにワイヤーの辺りまで伸びて「摘心」した枝も多い。
功は岩切の言葉でどうにか気を取り直すことができた。
山本局長は功の肩をポンと叩くと壁際に戻っていき、功は皆が自分をからかっていたことに気が付いたのだった。

第5話 最初の壁

功達研修生はナスの収穫作業に続いて誘引作業の研修に入った。
ナスなどの果菜類は茎にひもを巻き付けて引っ張り上げてやらないと自分の重さでおれてしまう。
そのため、頭上に張ってあるワイヤーに茎に巻き付けたひもで引っ張り上げる作業を誘引と言うのだ。
野菜の茎は生育中はどんどん伸びていくので、一度ひもを緩めてから新しく伸びた茎に巻き付け、ひもをワイヤーに結び直す作業を数日おきに繰り返す必要がある。

功たちが研修したハウスでは時期的にすでに摘心した枝も多かったので、まだ伸び切っていない枝を使って誘因作業を体験することになった。
功が割り当てられたエリアで誘引作業をしていると、同じ研修生の吉田が話しかける。

「功君。そんなに枝ごとにきっちりと巻き付けていたら、日が暮れてしまうよ。間を飛ばして緩くまいてもちゃんと決まるものだよ」

吉田の言葉は要約するとひもの巻き方はもう少しルーズでいいからペースアップしろと言っている。

「そううまくできませんよ。それに腕を上げっぱなしだから疲れてしまって」

「そんなことを言っていたら自分が農業始めたときにどうするつもり?実際に経営するならこのハウスの十倍ぐらいの面積を一人で回していくんだよ」

功は周囲を見回したが研修用のハウスは2アールの面積だと説明で聞いており、吉田言うとおり、今の功のペースでは研修用ハウスの面積をこなすすだけでも一日では終わらない。

「早くしないと先生に叱られるよ」

吉田は功の背中をポンとたたいて自分の作業に戻った。
彼の言葉は方言が多くて聞き取りずらくその仕草も粗っぽいが、その眼差しには親しみがこめられているように功は感じた。

二月とはいえ温室の中は蒸し暑く、研修生たちは汗を拭きながら野菜の茎にひもを巻き付けてワイヤーに結び直す作業を黙々と続ける。
まるでどこかの新興宗教に加入して修行させられているみたいだと、功が不穏当なことを考え始めたころに、やっと割り当てられた作業が終わった。

ほっと息をつきながら振り返ってみると功が作業したのは二十メートルに満たない長さでしかない。
吉田さんの言う通りで、相当スピードアップしないと本物の農家にはなれそうにないが、それでも功は自分の作業の効果に驚いていた。
作業前は枝や葉が伸びすぎて通路や畝の真ん中にはみ出していた茎が功の誘引作業の成果で綺麗に整列しているのだ。

「物作りの感動とはこういうものなのか」

功が今までにした仕事は努力の結果が目に見えることはあまりなく、あるとすれば受注した印刷物の完成品だが、それも大半はクリエイタースタッフの手によるものだ。
功は自分の作業が形として残ったことに大げさなくらいに感動していたのだった。
その時、出かけていた川崎が戻り、山本局長に鍵を返しながら報告していた。

「西山さんの部屋、荷物が運び出されて空き部屋状態になっている」

「やっぱりそうか、引き留められないように、完全に引き払ってから手紙で連絡してきたのかもしれないな」

腕組みをして考え込む山本局長に、岩切が尋ねる。

「彼は研修支援の補助金をもらっていただろう。就農しなかったら全額返還になるかもしれない」

「役場の農業振興課に相談してみるよ、結局なるようにしかならないだろう、本人に就農する意志がないのに無理矢理農家に仕立てるわけにも行かない」

山本局長は肩をすくめた。

「それよりもこれから田植えのシーズンなのに、オペレーターが1人減る方が痛いな」

二人が深刻な話をしている時、背後で叫び声があがった。

「誰、ここの主枝を切ったのは」

それは川崎の声だった。
功は自分が失敗した茎のことだと気づいて、おそるおそる手を挙げると、彼女は功の前につかつかと歩いて来た。
功が言い訳の言葉を考えていると、山本局長が助け船を出す。

「真紀、初めての作業なのだから大目に見てやれよ、この前みたいに全部の主枝をちょん切ったわけでもないのだし」

真紀は立ち止まると、鼻から息を吹き出してから功を指さした。

「今日の所は大目に見てやるけど、今度からこんな間抜けなことをしたら許さないわよ」

言いたいことを言うと彼女はくるりと後ろを向いて温室から出て行き、功は自分がそんなに悪いことをしたのだろうかと涙目になって彼女の後ろ姿を見送るのだった。
その時、硬い雰囲気を和らげるようなのんびりとした声が響いた。

「皆さんちょっとこちらに集まってください」

岩切の声に研修生たちはぞろぞろとそちらの方に集まっていく、岩切はA4サイズのラミネート加工された資料を何枚か抱えていた。

「野菜のハウス栽培では、アザミウマ類や、アブラムシ、それにダニ類などの害虫の発生が問題になります。」

資料にはあまり見たことがない昆虫の写真が印刷されている。

「まほろば県ではこれらの害虫を補食する天敵を活用する農業に取り組んでいます。害虫を餌とする天敵昆虫が作物に害を与える昆虫を食べて農薬の使用量を減らす試みです」

功はアブラムシ以外の昆虫は名前すら知らず、あまつさえアブラムシも最初はゴキブリのことかと思ったくらいである。
功は密かに他の研修生の様子を窺った。
茜はにこにこしながらうなずいているが、その他二名は功同様、怪訝そうな顔つきだ。

「このハウスでは、市販されているスワルスキーカブリダニや、タイリクヒメハナカメムシ、コレマンアブラバチ等と土着天敵のクロヒョウタンカスミカメとタバコカスミカメが放飼されています」

岩切は紙芝居よろしく次々と虫の写真を見せてくれる。

「天敵昆虫の密度がかなり高いので割と簡単に見つけられるはずです。せっかくの機会だから観察してください」

拡大用のルーペを渡されて初めて虫のサイズの見当が付いた。
野菜の害虫を含めて昆虫に関する知識が皆無の功は岩切が見せる写真の昆虫たちがテントウムシぐらいのサイズと思いこんでいたが、実際のサイズは二ミリメートルとかそれ以下のサイズらしい。
功は虫を見ようとルーぺを片手にあちこち探してみるがそれらしいものを見つかることができない。
横から見ていた茜がナスの葉を指さした。

「ほらそこ、葉っぱの上を高速度で移動している点が見えない?それは多分スワルスキーカブリダニよ。葉っぱの裏側にはナミハダニがいると思う」

功がアドバイスに従って高速移動中の「点」をルーペでズームアップしてみると、そいつは見るからにいかつい感じの虫だった。
スワルスキーなんたらダニとかいうロシア人のような名前のダニらしい。
天敵というからにはこいつは肉食系に違いないと功は一人で納得する。
ついでに葉っぱの裏ものぞいてみるとさっきのロシア人みたいな名前のダニよりちょっとスマートな感じのダニがあちこちにいるのが見えた。
こちらは草食系つまり害虫に違いない。

「ナスの葉っぱ一枚にこんなミクロの生態系が展開されていたとは知らなかった」

功が一人で感心していると、今度は岩切が手招きしている。
功がそちらに行ってみると、岩切はナスの枝にとまった黒い点を指さしている。
そこにはアリそっくりの昆虫がおり、功がルーペを使ってよく見ようとして近づくと瞬間移動したみたいに姿が見えなくなった。

「き、消えた」

きょろきょろと辺りを見回してももうその姿は見えない。

「さっきの虫がクロヒョウタンカスミカメ。カメムシの仲間だからちゃんと羽があって飛ぶことができるんだよ」

「害虫を天敵の昆虫で退治するなんて概念としては理解できても、実用に仕えるのですか」

功が露骨に訊ねると、岩切はお得意のラミネート加工した資料を取り出して説明を始めた。
圃場内の害虫の密度の折れ線グラフに、化学農薬の散布時期、天敵昆虫の導入時期を示した資料だった。
天敵昆虫の投入から経時的に害虫の数を示すグラフは右肩下がりに減少していた。
逆に天敵の数は増加している。どうやら天敵昆虫を実用レベルで使っていることを示しているようだ。
功の頭は一時にたくさんの知識を詰め込まれて消化不良を起こしそうだったが、研修生の一行は昼食を挟んで農業体験研修所に戻った。

午後からの研修テーマは管理機でのうね立て作業の実習だ。
その機械は手押し式動力うね立て機というべき機能を持っているが、ローカルな呼び名として管理機と呼ばれており、それを使って野菜を植えるためのうねを作る練習だった。

管理機というのは小さいけれどちゃんとエンジンが装備されていて、二つ付いたタイヤで自走する。
操作する人は後ろに伸びたハンドルを持って押していく格好だ。
一番大事なのが本体の後ろについた二つの爪でこれが高速で回転して土をはねとばすことでうねを作っていくのだ。

畑の一番端のうねを作るときは片側に土をはね上げるのだがつぎのうねからは両側に土をはね上げなければならない。
そこで土を跳ね上げる爪の一つを違う向きの爪に変えてやる必要があり、研修の最初のメニューは、この爪の交換作業だった。

二人一組で一台の管理機にとりついて順番に爪の交換作業をするのだが、功は茜とペアになった。
教官の指示でロック用のピンをはずしてシャフトに爪を取り付けているボルトを抜くと爪がはずれる。
そこにピッチの違う爪を持ってきて逆の手順で取り付けるのだ。

「功君、その状態で最初の爪と逆になっているよね」

「そういわれるとなんだか自信ないな」

管理機には操作用のレバーがたくさんついている。
管理機本体の前進、後進切り替えレバーに本体の変速機レバー、爪の正転、逆転レバー、爪の高速回転と低速回転といった具合だ。
シャフトの回転方向がよく分からないので爪の向きだけでは正解かどうか自信がないのだ。

「岩切さん爪のセットこれで大丈夫ですか」

功は二つのチームを交互に見回っていた岩切を捕まえて聞いいた。

「多分大丈夫、今両方にあげる状態だと思うから茜さんにも、あとで同じ手順をやってもらって」

教官なのに岩切は自信なさげに答えた。

「うちの現場では後進で使う人が多いから最初のセッティングがあっているとは限らないんだ。一回試しに回してみよう」

「どうして前進と後進があるんですか。」

「初心者には目線が定めやすいのと機械に挟まれる危険が少ないから前進で使うのを推奨しているが、慣れてきたら後進で使う人も多くてね」

功が作業を終えて茜の順番が来ると、彼女自身の研修なので作業を手伝うわけにも行かず、功はぼんやりと眺めていた。
彼女は慣れた感じでてきぱきと作業をしていたのだが、途中で手を止めると遠くの方を見ている。
目線の先を追うと遠くの幹線道路を乗用車が走っているのが見え、彼女と一緒に見ていると、その車は赤いVWゴルフで農業体験研修所の入り口から進入し研修が行われている圃場に向かってくる。

「あのゴルフこっちに来るみたいですね」

「そうみたいね」

圃場脇の駐車場に到着したついたゴルフから降りた人を出迎えるように歩いていた岩切が何事か話しながらこちらに近づいてくる。

「管理機は使えるようになった?」

その人は茜が作業している脇まで来てなれなれしく話しかけた。

「見ての通りでしょ。そっちは、はるばる県の北部まで出かけた成果はあったの」

「ナッシング」

彼はそう言って、肩をすくめてみせる。
功はなんだかいけすかないやつだと感じるが、どうやら茜の知り合いらしく、
二人が研修そっちのけで何か話し込んでいる間に功は別の車が自分たちの圃場に接近しつつあるのに気がついた。

周囲が水田で見通しがいい上に、人や車の往来が少ないから人の動きが目に付くわけで、それが昨日研修会場だった臼木農林業公社の車だとわかる。
やって来たのは山本事務局長で、岩切に用があったらしいが、茜と男性に気がつくと少し険しい表情をしてこちらにやってきた。

「榊原君、北の方まで出かけて農地は見つかったの?」

「いいえだめでした」

彼の名は榊原というらしい。

「この間も話したとおり、わだつみ町内で就農してくれないと、2年間の研修費のうち町が助成した分を返還してもらう話になるからね。もう一度就農先について考え直してくれる気はないかな」

山本局長は渋い顔で榊原に話す。
お金が絡むシビアな話のようで、功は昨日の失踪事件に続いていったいどうなっているのだろうと気が気でなかった。

「金を返せと言うのだったら返しますからもう好きにさせてもらえませんか。僕は有機農法で作った野菜を顧客に直接販売したいと思って、農業を始めたのです」

榊原は険しい表情を浮かべて言葉を継いだ。

「集落営農組織の職員になれとか、個人で営農するなら農協の部会に所属しろとか押し付ける割に、農地を貸してくれる人も紹介してくれない。就農しろと言われても農地がなければ無理でしょう」

研修生たちは固唾をのんで事の成り行きを見守っている。
のどかに研修を行っていた農業体験研修所には一転して険悪な空気が立ち込めた。

第6話 ささやかなやりがい

「榊原君、山本局長も心配しているんだから、もう少し前向きに話を聞いてくれ。それに彼のところの西山君が、婚約者が手術を受けると言って大阪に帰ってしまったんだ」

榊原はまっすぐに山本局長を見つめた。本当なのかと問うような彼の視線に、山本局長が無言でうなずき、榊原は気まずそうな顔で口を開く。

「僕も条件のいい農地さえ見つかればわだつみ町で就農したいのだから、土地を確保するための手助けをしてくれてもいいじゃないですか」

西山の話を聞いて榊原は少しトーンダウンしていた。

「わかった。農地や住宅の確保についてはこちらの方でも手を尽くしてみるから何とか町内で就農する方向で考え直してくれ」

山本局長は生真面目に答える。

「そう言ってくれるなら、考えてみます」

山本局長の言葉に、榊原も態度を柔らげた。

「実は目星を付けていた農地があるのです。農地の管理者の方と話はついているのだけど、なかなか借りるための手続きが進まないのです。手伝ってもらえると助かるのですけど」

「初耳だな。いつの間にそんな農地を見つけたんだ?」

山本局長は怪訝な表情で聞く。

「谷沿いにある耕作放棄地を借りようとしているのです。農業委員会に頼んだら、土地を管理者している人を紹介してくれて、相続権がある人の連絡先も教えてくれて、後は自分で交渉しろと言われたのですが、そこから話が進まないのですよ」

「それは難しいだろうな。人づてに頼んでみるから、詳しく教えてくれないか」

山本局長は苦笑し、榊原は無言でうなずいた。

「それじゃあ、まずは場所を教えてくれ。それと話は変わるが、週明けからうちでアルバイトする気はないか。西山がいなくなって手が足りないんだ」

山本局長は失踪した西山の代わりのオペレーターを探しに来たところで、そこそこ仕事ができる西山を見つけることが出来たようだ。

「そりゃ、僕もバイトできれば助かりますけど」

「よし、榊原君が来てくれたら急場に間に合う。とりあえずうちの事務所まで来てくれ、土地の話も向こうで聞くよ」

山本局長は岩切に研修の邪魔をしたことを謝りながら自分が乗ってきた車に向かい、 榊原もその後に続いて、二人は車を連ねて研修所の敷地から出て行く。
功は遠ざかる2台の自動車を見送っている茜に榊原と山本事務局等が揉めていた事情を尋ねてみた。

「あの二人ずいぶんもめていましたけど一体何があったのですか?」

「榊原君は以前私と一緒に研修を受けたことがあるの。その後、臼木農林業公社で研修生をしていたのだけど研修期間が終了してからも農地が確保できなくて、アルバイトしながらあちこちで土地を探しているのですって」

「農業を始めるためには自分で土地も探さないといけないのですか」

「そうよ。彼の場合は条件がいろいろあるらしいから、農地を貸してくれる相手が見つからなくて苦労しているみたい。まほろば県って過疎化とか高齢化が進んでいるとか言われているわりに、いざ農地を借りようとすると貸してもらえる農地がないのよね」

「でも、東京とか大阪で岩切さん達がまほろば県に来て農業してくださいって勧誘しているから、当然農地とか家も準備してくれると思いませんか」

「そうなのよ。農地は個人の資産だから行政は口を出せないとか建前はあるみたいだけど、真相はよそ者に貸してくれる農地はあまりないってことみたいよ。ありえないでしょ」

県レベルの自治体が移住者を募集しているのだから田舎に行けば宅地も農地もいくらでもあると思っていた功は愕然とする。

「榊原君も一年近く土地を探して空振り続きだから神経がささくれ立っているのよ」

来客のために研修を中断していた功達は岩切に促されて作業を再開した。
茜が管理機を畑まで移動させると、おもむろにパワーを上げて耕転を始めるが、エンジン回転があがって爪も回転しているけれど、思ったほど、土を跳ね上げてくれない。

「やっぱり爪の向きが逆みたいだからセットし直してください。功君やってもらえるかな」

岩切の声で、功が作業することになった。
功は畑から管理機を出して安定のいい場所で爪の交換作業をはじめた。
功の普段の生活では実用に使う機械をいじることはまず無い。
小さな管理機とはいえパーツを交換してロック用のピンを木槌でたたいてはめ込んだりしていると、なんだかメカニックになったみたいでうれしかったのだが、それは傍目にも分かったようだ。

「今、アニメに出てくるメカニックの人になった気分なんでしょ」

横で見ていた茜が功を冷やかす。

「そんなこと無いですよ」

図星だった功は照れ隠しに否定したが彼女にはお見通しのようだ。作業を終えてお試し運転をしてみると管理機の爪は盛大に土をはねとばし始めた。

「ちょっと待って、今うねの位置決めをしているから」

今日の研修では岩切だけでなく矢井田という教官も指導に来ており、矢井田と川崎が巻き尺を使ってうねのセンター位置と管理機が通る位置を決め、畑の反対側でも同じ作業をして最後に石灰を使って管理機が通るラインを引いている。

「慣れてきたら目印だけ付けてうねを作れるようになるけれど、皆さんは石灰のラインを目安に畦立てをしてください」

準備ができたのを見て取った岩切は作業を始めるように指示する。

「功ちゃんおさきにどうぞ」

茜さんに促されて、功は白いラインの始まる位置まで管理気を持っていくと、ギアは低速、方向は前進と確認しつつエンジンのパワーを上げる。
功が耕運を始めたのは一番端のうねなので、管理機の左側に向けて盛大に土が飛び散っている。

「簡単じゃん」

功が調子に乗ってうね立て作業を進めていると、管理機はあらぬ方向に曲がりはじめた。
どうやらその辺では土がきれいにこなれていなかったらしいく、元の白いラインに戻そうとすると、機械のパワーと土の抵抗に逆らうようになるのでありったけの力が必要だった。
考えてみるとその場所は昨日、ペダルを間違えて川崎に怒鳴られたところだった。

下準備がうまくできていないと次の段階でつまずくという事例だ。
畑の端までうねを作ったところで、功は茜に交代し、彼女は管理機の爪を両側はね上げにセットし直して作業を続けていく。
ぼんやりと作業を眺めていたら岩切が功の目の前にぐいっと鍬を突き出した。

「君はこれで曲がったところを直しなさい」

「それって、人力でやるんですか」

「そうだよ。彼女が戻ってくるまでに直して」

功は問題の場所まで走っていくと畦が曲がった個所を直し始めた。
功は鍬など使ったことがなく、ドラマなどで見たイメージで鍬を振り上げて硬い土に打ち下ろしていると、追いついてきた岩切が功から鍬を取り上げた。

「鍬も使ったこともないんだね。そんなに力任せに打ち付けたら壊れてしまうよ。鍬はこうやって土を削りながら引っ張ってくるものだ。それから寄せてきた土を上に持ち上げてうねの形を整える」

岩切は模範演技を見せてから鍬を返してくれたので、功は鍬を受け取ると、見よう見まねで作業を始めた。
硬い土を削りながらひっぱてくるのはなかなか大変で、少しずつ土を盛り上げてまがったうねをきれいに直していく。
功は農業もそう簡単にできるわけじゃないと思い少なからず気分がへこんできたが、それでも必死で土をかき集めて形を整えた頃に茜の管理機が通過した。

すると、功がなおした部分の上にも新たに土がかけられて、うねの曲がった個所は跡形もなく修正されている。
功はちょっと感動して眺めていた。

「練習といっても、きれいに仕上がった方が何だかうれしいだろ」

隣に戻ってきていた岩切が穏やかな表情で話しかけてくる。

「そうですね、働いた分が形になって残るのって何だかうれしいですね」

「そんなことでやりがいを感じるなんて、君はいままでどんな仕事をしていたんだ?」

岩切が不思議そうな表情で問いかけたが功は曖昧に笑って肩をすくめて見せるのだった。

第7話 coming soon