• 『アクティブ・チョイス』

  • こいけらむか
    青春

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休学か退学か。 

三年間、大学に通った。考えをまとめるのに三年も必要なかった。親とやり合うために、二十歳を超えたかっただけだ。 

夕食後、「話がある」と両親に告げた。両親はリビングのソファでくつろいでいた。母はテレビで夕方のニュースを見ていて、父は専門誌に目を通していた。私は両親の斜め向かい側に腰かけ、鼻先を両親に向けて視線を合わせた。このときが来るのを両親は薄々と気づいていたのかもしれない。落ち着いた所作で母はテレビを消し、父も専門誌を閉じた。 

自分としては、満を持して臨んだ今日の直接対決。私は両親の前で、今まで頭の中で何度も推敲した完璧な理論を展開した。話が終わると、普段は温厚な父が、見たことのない顔色を見せ、聞いたことのない声色で言った。 

「お前がそれほど言うなら、大学は休学にして一年間だけやらせてやる。それで趣味は終わりだ。一年たったら復学してきっちり卒業しろ」 

休学という案は、父からしたらかなりの譲歩だったかもしれない。事前に母と相談していたのだろうか、母も目力を込めて私を見てくる。無言のその表情が「ここまで大事に育ててやったのに。この親不孝者」と言っているようだった。 

しかし。趣味ではないのだ。私のやりたいことは。 

革命を押し進めるレジスタンス軍のように私が反抗したため、当然、親とは意見が決裂した。二十歳になったからといって、急に大人になるわけではない。口ばかり偉くなっても、所詮は子ども。学生の身分で自立もしていない自分が、親に太刀打ちできるわけがない。未熟なのは十分に承知している。それでも私は、分の悪いところ、意を決したのだ。 

「馬鹿なことを言うんじゃない」 


私の言い分は頭から否定され、代わりに親の言い分が泥の球を投げ込まれるかののようにどかどかと飛んできた。 

夢物語、現実は厳しい、後悔してからでは遅い……。 


それはどうしようもなく正論で、足元のおぼつかない私の立場は、牙をむく百戦錬磨のオオカミに立ち向かう子犬よりも危かった。それでも、子犬は子犬なりの全力で抵抗を示した。今まで目立った反抗期などもなく育ってきた私が、ここに来て見せた強烈な主張と反抗に、両親は少なからず驚きと困惑の色を見せていた。 

だが、対戦は二対一。戦況は不利。吠えても吠えてもオオカミに噛みつけないように、言っても言っても親に通じない。息は乱れ、頭のてっぺんまで血が上り、夏でもないのに汗だくになっていた。ここまで気が高まるのは、私も生まれて初めてのことだったかもしれない。 

とうとうカッとなって、今まで出したこともないような「キー」というヒステリックな奇声を上げた。その場から勢いよく立ち上がると、リビングを駆け抜けて玄関に向かった。ドアを叩きつけるように放ち、外に飛び出した。玄関を出る直前に両親からの言葉を背中に受けたようだが耳には入らなかった。どんな言葉であったか、そんなことはどうでも良かった。 

* 

風向きと逆行するように、表通りを進む。靴の踵に八つ当たりをするように、ガンガンと道を蹴飛ばしながら歩いた。行く当てはない。 

「休学はない。退学だよ。やめるんだ」 


肩で息をしながら、ぶつぶつ言う文句が安っぽい。こぶしを握る手をぶんぶんと振りながらとにかく前に進む。夕刻のこの時間、道沿いにあるほとんどの店は閉まっていた。開いているのはコンビニかアルコールを出す飲食店か。行き交う車のライトが、やたらに眩しくてうざい。帰宅を急いでいるであろう車両に、無意味に敵意を抱く。 

当てて欲しくもないスポットライトから背を向けるように、最初に目についた角を曲がると、目の前の光がしゅんとしぼんだ。それまで下向きに道を睨んでいた顔を上げると、意外と明るい夜空が見えた。 

「半月(はんげつ)……」 


新月でも満月でもない、真ん中くらいの欠け具合の月が浮いていた。今の自分が外をふらつくにはちょうど良い意味合いの月。半分の月。輝きもしないが、消えてもいない。大人でも子供でもない半人前の自分のような気がして、それまで勝気だった歩みが緩くなる。今更、身に降るしっとりとした夜の空気にも気づいた。 

表通りから道を一本、内側に入ったそこは住宅街だった。ふと住宅の合間の向こうから、遠慮がちにチラチラとする光が目に入った。「こっち」と呼ばれているようだ。ゆるりと足が向かう。 

「Café Active Choice(カフェ・アクティブ・チョイス)」 


こんなところに、こんな夜の時間まで開いているカフェなどあったか。 

ドアノブに手を触れると、自ら招き入れるような軽さで扉が開いた。カランというドアベルの金属音に身が包まれる。 

「いらっしゃいませ」 


目の前のカウンターから、すぐにマスターが出てきた。カジュアルな白いシャツに、シンプルなデザインの黒いベスト。スリムのブラックジーンズの腰回りに黒いエプロンを下げている。 

「カウンター席とテーブル席と、どちらがよろしいですか?」 

前髪をさらりと揺らし、爽やかに案内の言葉を口にするマスター。一見、若そうに見える。だが、穏やかな笑顔を引き立てる目じりのしわが、それなりの人生経験を語るように思えた。 

「えっと」 


マスターから店内へと視線を移す。カフェよりもむしろ飲み屋に行くようなこの時間帯に客は誰もいない。入り口からすぐのカウンターはダークブラウンの色が落ち着いた雰囲気。同じ色の背もたれのないハイチェアーが狭くも広くもない適度な間隔に並ぶ。夜だからか、カフェというよりバーのような感じもする。常連になるような客がここに席を取るのだろうと想像する。 

カウンターの先にモンテスラの葉が見えた。切れ込みの入った特徴的な葉が目を引く。濃い緑の映えるこの植物が一鉢あるだけで、店に彩を与える。その葉の先に行儀よく並んだテーブルと椅子が見えた。色はナチュラルブラウンで統一され、こちらもくつろげる雰囲気。奥のコーナーには大型観葉植物のパキラが置かれていた。幹の編み込みがユニークで面白い。マスターに視線を戻し、「テーブル席で」と答えた。 

「窓側席と壁側席のどちらがよろしいですか?」 

他に客がいないから自由に選べる。月が気になって「窓側で」と答える。 

「店内禁煙になっておりますがよろしいでしょうか?」 

「あ、たばこは吸わないんで」 

「では、こちらにどうぞ」 

通されたテーブルには、ピンクのバラの一輪挿しがあった。細めのワインボトルのような形をした透明のガラスの花瓶に収まっている。席に着いてから周りを見回すと、どのテーブルにもバラの一輪挿しがある。花があると、それだけで何となく気が和むのが不思議だ。 

窓の外に目を向けると、先ほど外で見た半月が見えた。席の選択に間違いはなかったと、そんな小さな成功をそっと喜ぶ。この席からあの月は見えるが、あの月からはこの席が見えるのだろうか。そんな無駄な妄想をしていると、マスターがお盆におしぼりと水を乗せて運んできた。水のグラスにはレモンが一切れ。 

「お客様、申し訳ございません。本日お食事はもう終わりまして、紅茶かコーヒーとデザートのみとなっております」 

人の良さそうなマスターが、申し訳なさそうに前髪を揺らして眉を下げた。 

夕食はすんでいる。食事の後に両親と話し合いをしたのだ。それで……。 


少しイライラが戻りかける。きっと自分にも落ち着く時間が必要なのだ。 


「じゃあ、コーヒーで」 


一杯飲む分くらいの時間を取ったほうが、頭も冷める。コーヒーで頭を冷ますというのもなんだけれど。この店も閉店間近なのだろう。メニューが薄いことなど気にしない。 


「かしこまりました。ブレンドとストレートとでは、どちらがよろしいでしょうか」 


思わずマスターの顔を見上げてしまった。前髪の向こうにある、夜空のような黒い瞳と視線が合う。 


そうか。ここはファーストフード店ではなくて、カフェだった。SだのLだのという慌ただしさのない、専門店なのだ。そうとは意識せずに気軽に寄ってしまったことを少しだけ申し訳なく思う。 


マスターは夜のような濃い色を湛えた瞳を優しく保ったまま、私の返事を待っている。コーヒーといってもいろいろある。ストレートにしたら、豆を選ばなくてはならないのだろうか。コーヒー豆の種類や銘柄の知識などないし、メニューを見せられてもきっとわからない。 

「マスターおすすめのブレンドで。そんなの、あります?」 


「ありますとも。Café Active Choice(カフェ・アクティブ・チョイス)、特別セレクションのブレンドをお淹れいたしましょうか?」 

マスターが、嬉しそうに黒い目を細める。今日の日ももうすぐ終わるというのに、一日の仕事で疲れたというような表情は一切見せない。これは完璧な営業スマイルなのか、それともマスターの素顔なのか。 

「はい。それでお願いします」 

思わずつられて、こちらも微笑み返した。それから、これでメニューは決まった、と思って椅子の背にもたれた。だが、マスターはその場に佇んだまま。引くような気配がない。ちらりと斜め上に視線を上げると、再びマスターの黒い瞳に捕らえられた。 

「ドリップとプレス。どちらでお淹れしましょうか」 

私は首を傾げて固まる。オーダーを進めるマスターの声は、最初から変わらぬ優しいトーンを繰り返す。 

「お客様、これは結構大切な選択なのですよ」 

マスターの黒い瞳が、そこに吸い込まれてしまうのではないかと錯覚するほどに大きく開く。 

「たかが一杯のコーヒー、かもしれませんが、少しだけこだわりを持つことで、そのコーヒーが今まで飲んだこともないような味わいある一杯になる可能性があるんですよ」 

竹の筒に水を流すような、涼やかな声が空間を流れる。 


このカフェの名前を思い出す。アクティブ・チョイス、自分から道を選ぶような響き……。 


だが、行く道がわからないときは相談だ。 


「マスター、あの、ドリップとプレスって……」 


その二つの淹れ方の何がどう違うのか、インスタントコーヒーしか飲んだことない私には全くわからない。マスターが「ここは自分の出番」とでも言うように胸を張った。夜色の瞳に流星群がやってきたかのようにさらさらと語り出す。 


「ドリップのメリットは、ペーパーを通すことでコーヒー豆が含むオイルやアク、不純物が取り除かれて、すっきりとしたクリアな味に仕上がることなんです。デメリットは、ペーパーにコーヒーの風味までも吸い取られ、冷めると酸味が際立ってしまうところですね」 


コーヒー博士のような流暢なしゃべり。これが完璧な、マスターの素顔、かもしれない。ミュージカル・シンガーがストーリーを歌うような心地良い声で説明が続く。 


「プレスのメリットは、コーヒーのオイルや雑味がダイレクトに抽出されますので、非常にこってりとしたコクと、香りにあふれる味わいをいただけるところです。デメリットは、コーヒーのもつ風味がそのまま出る分、アクや不純物、エグミなどもそのまま出ること。そのため味を重く感じることもあるところかな。同じ豆を使っても、信じられないくらいに全く別物のコーヒーに仕上がるんですよ。どちらの味がお口に合うかは、単にお客様のお好みなんですけどね」 


なるほど。マスターの解説が妙に腑に落ちる。 


これはたかだか、コーヒーの選択、かもしれない。けれども、違う。そう単純なことではないかもしれない。ドリップにするか、プレスにするか。 


思考の定まらない私のことを、マスターが真っ直ぐに見てくる。その視線は、早く決めろと急かすものではなく、かといって、どちらかを推すものでもない。ただ、海が凪ぎる時のような、静かで落ち着いた選択の時間を与えてくれた。 


これはもしかしたら私のインスタントコーヒー歴を吹き飛ばし、この先のコーヒーの楽しみ方を転換させるくらいの一大選択になるかもしれない。大げさなようだが、それほど重要なもののように思えてきた。 


「マスター、これ、選ぶのにちょっと時間いただいても良いですかね」 

「もちろん」 


客の私を包み込むようなマスターの笑顔は変わらない。それに少しだけ甘えても良いだろうか。 

「マスター、あの、もしよろしかったらで良いんですけど」 


「はい?」 


マスターが少しだけ目を瞬かせ、黒い瞳をクルリと回した。 


「淹れ方を選ぶ前に、私の愚痴、少しだけ聞いてもらえませんか」 


「僕で良いなら」 


何の躊躇もない即答。笑顔の目じりにあるしわの深さが、マスターの懐の深さと比例するのかもしれない。そうだと信じようか。マスタの瞳と視線を合わす。 


「私、大学生なんですけど、大学を退学するか休学するかでちょっと迷っていて、そのことで親と喧嘩しちゃったんです」 


「ほう」と一息つくと、マスターはゆっくりと私の向かいの席に腰を降ろした。お悩み相談のカウンセラーではないはずなのに、テーブルに肘を乗せ、聞く姿勢を取る。マスターの夜色の瞳と優しい言葉がまっすぐに向かってきた。 


「学生さんでしたか。お名前を伺っても良いですか?」 


「チコです」 


「かわいらしいお名前ですね。僕は庄司(しょうじ)と言います。あ、庄司は苗字です。はじめまして」 


「はじめまして」と答えながら、妙なタイミングで交わされたはじめましての挨拶に照れ笑いする。マスターは名前を教えてくれたが、やはり「マスター」と呼ぼうと思った。 


「チコさんは、大学で何を勉強されているんですか?」 


「医学部で歯科学科に通っています。将来は歯医者さん」 


「へえ、凄いなあ。歯医者さんで女医さんかあ。でも、そこを退学か休学って?」 


「私、歯医者さんになる以外に、ずっとやりたいことがあって」 


私は、兄弟姉妹のいない一人っ子。未熟児気味で生まれたこともあって、両親から大切に育てられた。生まれたばかりの頃の写真を見ると、自分の姿が栄養失調の子ザルにしか見えない。その子ザルは、どの写真の中でも満面の笑顔を湛える両親に抱かれていた。 


「うちには無理して着飾った子ザルの写真集が何冊もあります」 


「いくらで売ってるの?」 


「誰も買いません!」 


マスターが吹き出す。 


三歳の時からずっとバレエをやっていた。最初は親に連れられて始めたバレエだったが、大好きになった。中学ぐらいでバレエスクールをやめる仲間が多かった中、私はバレエスクールの公演で踊るのが楽しくて、夢中になって練習を続けた。進学した高校にダンス部があったのがきっかけとなり、私の興味はクラッシックバレエからモダンダンスへと移った。新しい世界に夢中になり、のめり込んでいった。 


「その時の選択は、部活を優先させるかバレエスクールを続けるか、でした」 


バレエスクールをやめて部活に専念したいと親に言ったときは、やはり反対された。だがこの時は私の希望が通った。部活でダンス三昧の高校時代。かけがえのない一生の思い出がたくさんできた。私の選択は正しかった。 


「進学の時の選択は、医科歯科を受験するか、ミュージックカレッジの専門学校に進むか」 


父親が歯科開業医。恵まれた家庭環境の中で部活に専念できたことは確かで、それは本当に感謝している。将来は父親の歯科医院を継ぐんだろうなあという漠然とした感覚もあった。もちろん親の期待もあった。 


「この時は、ミュージックカレッジの専門学校でダンサーを目指したいなんてわがまま言ったら、それこそ親不孝で勘当ものでした」 


「大学進学が当然と言うか、その時の選択だったんだね」 


「はい。でも」 


大学ではキャンパスライフを楽しむため、ダンスサークルに参加していた。そこで活動する傍ら、たまたま応募した都内の有名なダンスカンパニーのオーディションに受かる。クラッシックバレーの基礎をしっかりと身に着けていたことが功を奏した結果だった。 


「サークルの友人とダメもとで受けたつもりだったんです。でも今思うと、受かりたいという気持ちもあったんですよね、きっと」 


ここからだった。高校時代、幾度となく友だちと語った夢の話を思い出した。「ダンサーになりたい」、そう口にしていた。ダンスカンパニーのメンバーとしての活動が徐々に増えてくると、勉強の方にしわ寄せが行った。大学ではレクチャーや実習に集中して、友人との娯楽の時間は極端に減らした。だが、ダンスカンパニーのトレーニングや公演スケジュールなど時間との兼ね合いに苦戦していた。海外公演に参加できず、唇をかんだこともある。大学生ダンサーと呼ばれる限りプロとしての活動は難しい。 


「私、不器用なんで、マルチタスクは苦手なんです。このままどちらにもストレスを感じながら両立していくのは難しいと思って、親に相談したんです」 


親とは喧嘩をしたかったのではない。家族との縁を切る、というドラマに出てくるような啖呵を切るつもりもなかった。大切な家族だから、正直な思いで話を切り出したのだ。それも不器用ならではの方策だったのかもしれない。 


* 


こだわりの選択。アクティブ・チョイス。 


こだわりを持つことで、その選択が今まで成したこともないような凄いことになる可能性がある。に違いない。 


たかがコーヒー、されどコーヒー。 


たかがダンサー、されどダンサー。 


たかが歯科医、されど歯科医。 


どれも大切な選択が同一線上にある。そこから私はとっておきの選択をしなければならない。頭の中にホワイトボードを掲げ、マスターの語りのようにメリットとデメリットを並べてみる。 


「マスター、ドリップかプレスかの話ですけど」 


私は顔を上げた。 


「決めた?」 


マスターの瞳に、待ちくたびれたという色は見えない。 


「自分だけしゃべっちゃって、すみません」 


「全然」 


かまいませんよというように、マスターは目を細める。 


「私、今の気持ちはまだこってりしていてクリアではないかな。いろいろ動かすのにオイルが必要なんで、プレスで淹れてもらえますかね」 


「かしこまりました」 


マスターはテーブルに両手をついて椅子を後ろにずらすと、笑顔ですらりと立ち上がった。足早にテーブルから離れたかと思うと、カウンターに入り、仕事を始めた。お湯を沸かす間にミルで豆を挽く。誰もいない店内に、ガリガリという音がわずかに流れた。だがこのテーブル席からは、コーヒー豆の香りに届かない。マスターに近いカウンター席にすればよかったと少しだけ悔やんだ。 


ふうー。 


小さく息を吐く。窓の外、夜空に浮かぶ半月を見上げる。相変わらず満月の半分のサイズだが、先ほどとは位置を変えていた。 


一つの決め事を終えて、少しだけ安心する。コーヒー一杯を頼むのに、月の移動がわかるくらいの時間をかけた。コーヒーの選択が、人生の大きな選択のような、そのくらいの時間をかけたような感覚も覚える。いや、いくらなんでもそれは大袈裟か。 


目の前にある忘れ物のように置き去りにされた水のグラスに口を付ける。甘い。レモンの切り身に、さっぱりとした酸っぱさを期待していた。だが、このほんのりとした甘さは……。 


レモンの蜂蜜漬け。マスターの甘くまろやかな声の秘密はこれかと推測する。 


家を出てからどのくらいの時間が経っただろう。幹の編み込まれたパキラの木の上方にアンティークデザインの時計があった。八角形の枠の中にある数字を数えながら、時間を少し巻き戻そうとしてみる。 


両親。私。いや。ここまで来たならば、後戻りするよりも、これからの時間を先に進める方がポジティブだ。今まで一つ一つ積み上げてきた。それを崩さずに、止まらずに、また積み上げていく。半分の月だってそうして満ちていくのだ。マスターの声がした。 


「お待たせしました」 


マスターが盆にゴールドのフレームのフレンチプレスと白いカップを乗せて持ってきた。目の前に置かれたカップには金色で「Café Active Choice 」と描かれたロゴマークがある。お店のオリジナルカップ。目の前でマスターがプレスのフィルターをゆっくりと押し下げると、淹れたてのコーヒーが飲めるというワクワク感が増した。 

「ブラックとホワイトはどちらに?」 


この店にはもしかしたら、カフェオレという既成のメニューはないのかもしれない。オーダーメイド・コーヒーなんてあだ名をつけたらマスター、嫌がるだろうか。 

「ミルク多めでお願いします」 


マスターがプレスからコーヒーを注ぐ。ミルクもたっぷりと。それから、金色のスプーンでコーヒーとミルクをクルクルとかき混ぜる。一つ一つの所作が物語を創るようだ。そして、先ほどマスターがカウンターでコーヒー豆を挽いたときには届かなかった香りが、今ここでほんのりと漂って来る。 


「シュガーを入れますか、ノーシュガーにしますか?」 

今更ながらに気付く。この店はテーブルにバラの一輪挿しはあっても、砂糖は置かれてない。 

「ノーシュガーで」 

マスターは軽く頷き、最後にもう一度コーヒースプーンをクルリと回すと、ソーサに置いた。 

「ごゆっくりどうぞ」 

そう言ってから見せてくれたマスターの笑顔が、今日一番の笑顔のような気がした。 

やっと飲める。 

出来上がったコーヒーに視線を落とす。マスターが淹れてくれたものなのに、自分で選んで自分でつくったような愛着がわく。両手でカップを持ち、まずは香りをいただく。期待通りの良い香りに嬉しくなる。それから、一つ口を付ける。 

「わ……」 

コク深い美味しさに胸がいっぱいとなり、じわりと涙が浮かんできた。こんな優しさには今まで出逢ったことがない。 

二口目。心につかえていたものが晴れるように気分がすっとする。それと同時にわっと涙があふれ出した。 

三口目を飲みたいのに、のどの奥に何かが詰まって飲めない。はらはらと零れる涙をどうにもできなくて、カップを手にしたまま我慢することなく声を上げた。 

「どうしました?」 

前髪を揺らしたマスターの顔が、私の顔を覗き込む。夜色の瞳が、私の思いを包み込む。恥ずかしくて顔が熱くなるのだけれど、私は「う、う」と嗚咽でしか反応が返せない。それどころか、水道の蛇口が全開してジャブジャブと水が流れるように両目から涙が決壊した。手にあったカップをテーブルに置き、代わりにおしぼりを掴むと、私は子供のようにわんわんと泣いた。 

両親と喧嘩したことでピンと張られた緊張の糸が、ここにきてプツンと切れたかのようだった。マスターがずっと背中をさすってくれた。申し訳ないと思いながらも、自分でも驚くほどのこの泣きになすすべがない。マスターは、笑顔だけでなく手のひらも暖かかった。 

* 

「大丈夫?」 

しばらくたって呼吸が整った頃、マスターが新しいおしぼりを差し出してくれた。 


「すみません」 

軽く頭を下げてそれを受け取る。鼻水をすすりながらおしぼりで顔の全体を拭くなんて、居酒屋に来たオヤジだ。そう思うと、泣きが照れ笑いに変わる。 

マスターがいまだにそばにいてくれる。少しだけ涙の残る目じりをおしぼりで押さえ、再びコーヒーカップに片手を伸ばした。 

ひとしきり泣いた後の冷めたコーヒー。 

「なんか、凄く家庭的でアットホームな味がします」 

この味をつくるために、いろいろと選んできた。期待通りのとびっきりおいしいコーヒーだ。感想を述べるのがワンテンポ遅れた上に、酷い鼻声というパフォーマンスだったが。 

「それは嬉しいな。最高の褒め言葉ですよ」 

やっとマスターと目を合わせて笑うことができた。残りを味わう。 

退学か休学か。うちに帰ったらもう一度両親と話そう。自宅か一人暮らしか、そんな発展があっても良いかもしれない。母と一緒に、部屋に置く観葉植物を選ぶことを想像したら、まずい形で家を出てきてしまったと、胸がちくりとした。 

「ね、チコさん。良かったら、自家製のケーキとマフィンもいかがですか。コーヒーのお替りはサービスしますよ」 

マスターの完璧なるオファー。胸の違うところがちくりと痛む。 

「今日はもう遅いんで、また今度にします」 

カフェの壁にかかるアンティーク時計の示す時間を冷静に見る。 

「だよね。チコさんが常識的なお嬢さんで良かった」 

本当にマスターの優しい笑顔は、来た時から全く変わらない。 

「私の家、近所なんです。でもここにこんな素敵なカフェがあるなんて知りませんでした。また来ても良いですか?」 

「もちろんですよ。歓迎です」 

「常連とかになりそうです」 

「それは嬉しいね。チコさんが常連さん第一号だよ」 

そうなんだ。第一号の響きがなんとなく嬉しい。 

「ちなみに、お客さん一号でもある。いや、マイナス一号かな」 

マイナス? 何となくわからない。 

「うちね、明日がオフィシャル・オープンなんだ」 

明日が!? マスターに、心臓を素手で掴まれたくらいにドキンと驚いた。ここは昔からある老舗の店ではなく、この土地にやってきて新しくオープンするカフェだという。
 

「今日一日かけて、オープンさながらに前準備をしていたらさ」 

秘密の種明かしをするようにマスターが続ける。 

「鍵をかけ忘れたフロントドアから、女の子がふらりと入ってきた」
 

「それが、私……」 

きっと私は、そのドアを選んだのだ。 

「わっはっはっ」と今日一番の愉快な声を上げてマスターが笑った。 

カフェ・アクティブ・チョイス(Cafe Active Choice )。
 

選択するまでもなく、私は早速明日からこのカフェに通うことを決めた。 

常連の顔をして。 

おわり 

(最後までお読みいただき、ありがとうございました。) 

※本作品は幻冬舎ルネッサンス原稿応募キャンペーン連動企画参加原稿です。
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