• 『剣(サイフォス)』

  • 龍道 真一
    お仕事

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第一章 倒産

 地下鉄虎ノ門駅からすぐ近くに聳(そび)える地上五十二階、地下五階の虎之門ヒルズは、午前中の明るい太陽の光を周囲に反射させ光の塔のように輝いていた。四角いクリスタル柱をところどころ鋭利な刃物でカットしたような形状で、全面ライトグリーンのガラスで覆われた高層ビルは、未来建築物を思わせるには十分な偉容だった。 

このタワービルの二十階から二十三階にはグローバル企業であるJE社、すなわちジャパンエレクトロニクス社東京営業本部のフロアがあった。 

ジャパンエレクトロニクス社は車載分野、住宅分野、家電分野等々約五十の事業分野を手掛ける世界第三位の総合エレクトロニクス企業であり、グループ連結では年間総売上高十兆円を越え、中国企業がエレクトロニクス分野で台頭するなか、世界的不況の後も果敢な販売合戦を続けていた。 

営業本部のある二十階には大ホールがあり、東の方から五月の朝日を受けて、ホール内を明るく照らしていた。大ホール正面ステージ上には、『科学万博に向けた環境技術方針発表会』という大きなパネルが飾られている。ステージの前には左右に二十五席ほどの座席が並べられており、この座席列が、ステージからホール出口まで四十列ほど配置されていた。本日の二○二四年方針発表会には、それらの座席がほとんど埋まるくらいに、協力関係会社幹部達が参加していた。 

ステージ上で司会が本日のプログラムについて説明を始め、それが終わると開会の挨拶として来賓の紹介をした。 

一人の女性が登壇し、ステージの上で会場の方を向いて軽く会釈した。会場内から大きな拍手が湧き起こった。 

黒い髪をショートカットにまとめ、五○歳代とは見えない華やかな顔立ちで、笑みを湛えた唇には赤いルージュを鮮やかにひいている。ショッキングピンクのジャケットにタイトスカートから足元までをシックな黒でまとめ、重厚感のあるゴールドのネックレスとイヤリングを身に着けていた。 

彼女は拍手の渦のなかをステージ中央にある演台へと進み、参加した協力関係会社の幹部を前にして、深く頭を下げ、それから顔を上げると、拍手が収まるのを見計らって、ホール全体を見回した。 

「先ほどご紹介いただきました東京都知事を務めさせていただいております古池裕子でございます。本日はジャパンエレクトロニクス社様からお招きいただき、大変光栄に思っています。二○二四年度の年度始めのお忙しいなか、多くの方がお集りいただき、まことに有難うございます」 

 彼女はそう言って、ホールに集まったJE社幹部や関係協力会社の幹部達を見渡した。 

「――ジャパンエレクトロニクス社様は科学万博のスポンサー企業として一九八五年の筑波万博以来、科学万博開催に協力して来られました。今日まで、社会貢献、社会責任、CSRの一環として、科学万博開催を機会に世界へ貢献する技術を、発掘し、実践し、これを世界へと展開する活動を行って来られたと伺っております」 

古池は会場内の全員を見回しながら、口調を強めて続けた。 

「――二○二○年に世界を恐怖と混乱に巻き込んだ新型コロナウィルスの感染拡大については、皆さん記憶に新しいと思います。幸いワクチンと治療薬の開発が間に合い、以前の正常な生活に戻れたのですが、この新型ウィルス発生についても温暖化が大きな原因となっています。例えば、温暖化の自然環境破壊によって住む場所を失った野生動物は、餌を求めて移動し、町に近づいて来て人と接触します。野生動物が保有していた未知のウィルスを人に感染させてしまうのです。このように温暖化という自然環境破壊は、人類に対してあらゆる面で禍(わざわい)の元凶となっているのです――」 

 古池は温暖化によるコロナ発生の関係について縷々(るる)述べた後、会場の隅々まで届く声で話した。 

「――さてここで皆様に申し上げたいのは、来年二○二五年大阪で科学万博が開催されますが、これをチャンスとしてとらえ、今度こそ皆様と共に、日本の科学技術で『クール・トウキョウ』運動の完成をぜひとも達成したいものだと思います。〈ヒートアイランドとなる東京の夏を秋に!〉を実現し、世界にその成果を公表するとともに、日本の技術を世界にPRしたく思っている次第です」 

彼女の思いが伝わったのか、会場内から拍手が起こった。 

「JE社様はこのような私の思いにご賛同いただき、『クール・トウキョウ』運動に会社全体としてご協力いただけるというお話を頂きました。このJE様の温かいお言葉をお聞きし、期待に胸を膨らました次第です。実際、JE社様には多くの協力関係会社様があり、多種多様な技術をお持ちです。世界的な環境技術やシステムもお持ちですが、それだけでなくご協力関係会社様が数多くいらっしゃいます。これまで世界になかった都内ヒートアイランド現象を低減できる環境技術、もしくは環境システム技術が可能になると思っております。ぜひ二○二五年には〈東京の夏を秋に!〉を実現して、世界に日本のこの環境技術と東京をPRできればと思っている次第です――」 

 古池の熱のこもった来賓の挨拶に大きな拍手が会場に湧いた。 

 彼女の来賓の挨拶が終わると、しばらくして少し頭が薄くなった四十過ぎたくらいに見える社員が登壇した。 

丸顔で黒縁の眼鏡をかけ、業務ジャケットの腹部が目立つくらいに大きく膨れていた。小柄な小太りの男は緊張しているのか、ステージ中央にある演台へ歩く姿がカラクリ人形のように見えた。 

 彼は参加した協力関係会社の幹部を前にして深く頭を下げ、環境本部企画担当事務局の安田だと自己紹介した。彼は手に持った原稿に眼を落としながら、緊張気味に口を開いた。 

「――先ほど都知事からもご紹介がありましたが、われわれJE社本体はもちろん、本日ご出席されている協力関係会社様には、都市のヒートアイランド現象を低減できる環境技術、もしくは環境システム技術等を保有していると思います。当社の研究開発部隊と連携してJE社ヒートアイランド化低減環境技術として、科学万博への技術出展を行っていきたいと思っています。これは、科学万博終了後も、国内主要都市のみならず、世界の大都市へも技術展開可能となり、大きな社会貢献が可能になると考えています」 

安田は具体的に、ヒートアイランド現象を国全体として低減したイギリス政府の各種環境対応事例などを紹介しながら、説明を続けた。 

「――現在環境本部として、科学万博に向けた環境技術による社会貢献を、いかに具体的に進めていくかということで、本年十二月に社内技術コンペティション開催を予定しており、企画案を作成中です。協力関係会社様でも、これまで水面下で開発されてきた技術についても、ぜひこのコンペティションで表に出していただき、当社と皆さんとが連携した企画案をの立案をお願いしたく思っている次第であります……」 

彼はそう言って、そこで一息ついた。そして今後の予定などを長々と説明を続けた。 

参加した企業の幹部達は安田の説明に頷きつつも、コロナ不況で受注が大幅に落ち込むなか、ジャパンエレクトロニクス社はいったいなにを考えているんだろうと、その本音がわからない不穏な空気が流れ始めた――。 

安田は会場内が騒がしくなったのを感じて思わず肩を竦(すく)め、この企画の詳細については六月ころに発表すると、小さな声で早口で言って話を切り上げ、参加者達が納得しない会場の雰囲気を残したまま降壇した。 

 安田はステージの下にいた関係者と困った表情でなにやら話をしていたが、今度は別の社員が登壇した。彼はすぐにスクリーンに映像を出して、ジャパンエレクトニクス社の省エネ、省資源の新製品について紹介を始めた。 

彼は新商品紹介の最後に、とくに超高精高彩度テレビである8Kテレビ『エクセラ』に関する説明を行った。 

次第にざわつきが収まる会場のステージ前五列めの席で、一人の幹部がその席の隣(となり)にいる幹部にぶつぶつ、なにやら話し込んでいる。「……コロナの時は、中小企業助成金交付の対応が遅れ……コロナ倒産した会社も多いなかで……東京都として今さら、なにを……」 

彼は小声のつもりだろうが、周囲の幹部連中には聞こえているようで、眉根を寄せている者もいた。 

 その男は四十歳後半くらいの年齢であり、吊(つり)上がった太い眉に鼻筋の通った顔立ちをして、ときどき鋭い目つきで周囲を見回した。スポーツ選手のように両肩が張ったがっちりした体格で、身長も一八〇センチ以上はあった。 

 彼は周囲にも聞こえるように不平を漏らし続けていた。 

「……環境本部安田さんの言う環境技術開発なんか、俺ら小企業でできっこないよな。聞いちゃいられないよ、まったく。こっちは生き抜くだけで大変なんだからさ。二○二五年科学万博向けの環境対応なんか知ったことじゃないよ」 

 男の胸には『上村電子・上村駿一』と書かれたネームプレートが付いていた。 

 隣に座ったもう一人の三十代後半の男は、丸顔で大きな眼に太い眉である。小柄だが締まった身体付きをしていた。 

 上村の言葉に彼は眉寝を寄せると、小声で「兄さん、声が大きいよ、みんな迷惑しているんだからさ」と注意した。 

彼は胸に、『上村電子・上村慎二』と書かれたネームプレートを胸に付けていた。 

 上村は溜め息をついて周囲を見回すと、周囲の幹部達が苦い顔をしているのに気付いて、首を竦(すく)めて頭を低くしながら、スクリーンの方を見た。 

 営業本部の担当は、新商品の紹介を終わると降壇した。次の担当がステージに上がり、今年度の営業本部の年間スケジュールについて報告し、拡販協力への方針について述べた。 

最後に昨年度の優秀協力関係会社についての報告があり、代表十社の表彰が行われ、営業本部長が最後に登壇して、「ぜひ、皆さんのご協力をお願いします」と締めくくった。
 

会場の参加者達が大ホール内をざわつかせて帰るなか、上村は慎二に、「ちょっと安田さんに挨拶に行こう」と促した。慎二は驚いた表情で、「安田さんなら、よく知っているから別の機会でいいよ」と止めようとしたが、彼は慎二の声を聞かず、安田のいるステージの方へと向かった。 

慎二は仕方なく彼に従い、参加者が大ホールを出ていくのと行き違いに前方へと進んだ。 

安田と関係者がステージの上でパソコンやマイクなどを片づけているなか、上村は安田にステージ下から声をかけた。 

 安田が気づいて上村を見た。 

 上村は胸ポケットから名刺を出して、安田を見上げながら、「上村電子工業特別顧問の上村駿一です。昨年までは芝浦電機製作所で半導体設備の……」と言って名刺を安田に差し出し、「海外営業をやっていたのですが……」と声を大きくした。 

安田は上村に気付いてステージ中央の踏み台を使って下に降りると、上村から名刺を受取ってしげしげと眺めた。 

「上村電子工業の特別顧問さんですか……」 

安田はそう言って上村の名刺を見ると、自分もポケットから名刺を取り出して渡しながら、「芝浦電機製作所海外営業ですか……私共も大変お世話になっていましたよ」と、少し口元に笑みを浮かべながら話した。 

「ご存じのように、会社が原子力発電に手を出して、大損失を出してしまい、またその後の不況で大変なことになりました。その余波で早期退職を命じられ、弟の会社で使ってもらうことになりまして……」と苦笑いをしながら頭を掻いた。そして彼は、「これからは、ぜひ宜しくお願い申し上げます」と、頭を低くして笑顔で、丁寧に挨拶した。 

安田は目元を綻ばせながら、慎二の方をチラッと見て、また上村の方に顔を向けると、「先代社長のときから親しくさせていただいています。ジャパンエレクトロニクス社も、海外の低価格商品で苦戦しておりますが、上村電子様には変わらないご協力をいただいております。こちらこそ宜しくお願いします」と、上村に挨拶を返した。 

慎二はなぜか苛立っているようだったが、安田の言葉に頭を低くして長い付き合いへの感謝の気持ちを表した。 

彼は上村の背中を後ろから突(つつ)くと、会場の出口へと向かおうとした。 

上村はそれには構わず、「ぜひ、世界に貢献する技術を提案したいと思いますので、今後とも上村電子を宜しくお引き回しください」と言って、また安田に丁寧に頭を下げた。 

安田は少し困惑した表情をして頭を下げ、「こちらこそ」と、無理に笑顔をつくって応えた。 

慎二は上村の背中を後ろから今度は強く突くと、ホールの出口へと指差して、早く会社へ戻ることを促した。 

上村は慎二の要求には応じず、いつもの営業ペースで、「一度、上村電子に来て、我々の活動を見ていただけませんか?」と、安田に言った。 

慎二は上村の言葉に驚くのと同時に眉根を寄せ、「兄さん!」と強い口調で彼を止めようとしたが、それでも上村は耳を貸さなかった。 

安田はちょっと戸惑った様子で、どう応えるべきか迷っているようだった。 

上村は続いてかなり強引に安田を誘った。 

「安田さんも都合があるんだから」 

慎二は上村の強い誘いを厳しい表情で止めた。 

「慎二、いい機会じゃないか。ぜひ来てもらって、我々の活動を安田さんに見てもらおうよ」 

安田は慎二の苛立った様子を見て、少し言葉に詰まったようだが、「わかりました。前回のこともあり、じゃあ時間をつくって行かせてもらいますよ」と慎二の方を見て、くぐもった声で言った。 

慎二は苦笑いすると、「すいませんね。兄はうちに来たばかりでよくわかってないもので、申しわけありません。強引にお誘いしたようで」と、丁寧な調子で言った。 

「いや、行こうと思っていましたので……予定を調整させていただいて、一度、お伺いします」 

安田はそう言って二人に頭を下げると、ステージで片付けをしている別の社員に声をかけ、忙しそうにまたステージの踏み台を上って行った。 

安田がステージに戻ると、慎二は上村の腕を引っ張ってホールの出口へと向かって行った。
 

慎二はホールの外に出ると、いきなり声を荒げて言った。 

「兄さん、もう芝浦電機製作所の社員じゃないんだからさ、芝浦電機流のビジネススタイルでは困るんだよ。安田さんとはいろいろあって、勝手にやるのは止めてほしいんだ。兄さんが安田さんに来社をお願いするつもりだったんなら、事前に俺に相談しておいてほしいんだ。何もわかっていないんだからさ、まったく!」と、思わず大きな声を出した。 

慎二は舌打ちしてくるりと身体の向きをかえると、スタスタとエレベーターの方へと歩いて行った。 

上村は慎二の態度に慌てながら、彼の後を追った。 

慎二は一階まで降りると、虎之門ヒルズの東側にある駐車場の方へとどんどん歩いて行く。 

「待ってくれよ、慎二!」 

 上村は慎二が怒ったわけがわからず、ともかく彼の後を追って行った。 

 2 

慎二は古い車種のSUVで中央自動車道を走り抜け、八王子インターチェンジで国道十六号線へと進んだ。それからJR北八王子駅へと南下した。 

しばらく車を走らせてから、農地や住宅の広がる新北部八王子総合工業団地へと向かった。この新北部八王子総合工業団地は、大企業の工場が点在している北部工業団地の北東部に位置し、その周辺にはこれらの大企業群を支える中小企業の工場団地として、新北部八王子総合工業団地が組織されていた。 

上村電子工業はこの新北部八王子総合工業団地の一角にあり、中小企業の工場が集結し、また所々に広い敷地の物流倉庫が点在していた。  

慎二は新北部八王子総合工業団地の敷地に入ると、多摩大橋の方に向かう交差点からさらに東の方へと車を進めた。 

この地域は交通の便が良いため物流の拠点となっているが、主体は中小企業の工場が集まった団地だった。しかし団地の建物は密集することなく散在しており、周囲には緑や田畑が広がって見えた。 

車はしばらく閑静な街のなかを走ると、街並みが途絶えたところに、古い工場が見えた。 

上村電子工業の建物は、東西に走る道路の南向きに建てられていた。錆ついた正門から敷地内に入ると、太い幹の棕櫚(しゅろ)の樹がロータリーの中央に立っている。その後ろ正面には中央棟と呼ばれるコンクリートでできた灰色の二階建て工場の建物が見えた。 

正門から西側には同じく二階建てのコンクリートでできた新棟と呼ばれる白い建物があった。この白い建物のペンキが剥げており、汚れが目立って見えた。白い二階屋上フェンスには『上村電子工業』という看板が設置してあったが、かなり古い看板で下地の紺色も色褪せて、白い文字のところどころには焦げ茶色の錆が浮き出て見えた。 

一方正門の東側には、新棟と相対してプレハブの平屋の建物があり、屋根がスレートの波板でできた小じんまりとした建物で、試作棟と呼ばれていた。 

慎二は棕櫚(しゅろ)の樹を右周りに回って会社敷地奥へと進み、SUV車を工場東側の駐車場に止めた。 

慎二らは車から降りると、総務部のある白い二階建ての新棟へと向かった。慎二は会社の正面玄関入口から先に内部に入り、上村もその後に続いた。 

会社正面玄関の入口ガラスドアは、畳一枚くらいの大きさである。分厚いガラス板を黄色味がかった真鍮(しんちゅう)で枠取りされていて、それを二つの蝶番で入口に固定されていた。 

上村は昭和がそのまま残った古い入口ドアを押して、会社のなかへと入った。 

玄関入口から入るとすぐに会社の総務部となっており、座席数も二十名分以上あった。しかしその総務部には女子社員が一名いるだけで部屋のなかはガランとしている。 

上村はこの会社が、従業員が二十数名程度で売上高が数億円程度であり、しかも年々売り上げが落ちて経営状態が悪くなっているJE社、すなわちジャパンエレクトロニクス社の下請け企業だったのを今さらながら感じた――。 

上村の父親である上村駿冶は、JE社に勤務していたが、三十歳半ばで起業し、『上村電子工業』を立ち上げた。また上村の伯父は当時、JE社埼玉工場の工場長だった。父の時代は埼玉工場の下請け会社として、父と伯父の連携もあって大きく発展した。 

というのも、当時JE社には重工業出身の社長が赴任していたのだ。 

彼こそが名経営者として日本の経営史に名前を残した堂光(どこう)利男(としお)である。芝浦電機製作所を名実ともに世界の芝浦へと押し上げた経営者だった。 

上村の父も叔父も堂光を私淑(ししゅく)し、工場には堂光が会社で何度も言った『汗を出せ、汗から知恵を出せ、それができないものは去れ!』を自筆で色紙に書いて、重厚な装丁の額に入れて飾っていた。 

当時上村電子工業はテレビ、炊飯器、洗濯機などの製品の下請け製造を担当していて、一時期は三百名近い従業員を抱え、千葉、埼玉、神奈川工場と本社八王子工場を有する企業にまで成長発展した。しかしながら、リーマンショックあたりから、JE社の経営状況が悪くなり、中国生産へと移行し始めていた。 

上村電子はその煽(あお)りをうけて一気に経営状態が悪くなり、売上高も半減して業績が極端に悪化した。そんな経営を立て直すために、上村の父は懸命に働き続けた。 

上村は厳格な父駿治の指示で、早稲田大学の政経学部に進んでいたが、それは、将来の上村電子工業の社長として経営に携わるためだった。しかし沈没しつつある船から水を掻き出し、いらない荷物をどんどん廃棄していっている家業を目の当たりにして、父の後を継いで社長になることに尻込みした。 

それと同時に名経営者への夢を追う駿治の姿にうんざりしたのだ。 

駿治はJE社堂光社長の経営著作や説話から経営を見直し、会社立て直しに心血を注ぎ続けた。 

しかし駿治はその過労がたたって、亡くなったのである。 

上村の父が亡くなったのが、ちょうど二十年ほど前であり、その後、母親である絹江が経営を引き継いだ。しかしリーマンショック後に日本の電子機器工業全体が傾き始め、ますます経営状態は悪化の一途を辿った。このため埼玉工場を閉鎖し、七○名以上いた工場従業員を、絹江は泣く泣くリストラしたのだ。  

創業時からの従業員をリストラした絹江は、その精神的重圧に耐えきれなくなり、ふさぎがちになり、認知症を患(わずら)った。経営悪化が認知症を加速していったのだ。 

上村はこの結果、十代から二十代初めの思春期にバブル的金銭面の豊かさから一気に困窮化した生活を経験すると共に、新興企業社長の長男という身分から、傾きかけた会社経営者の跡取り候補という立場へと変わる転落人生を経験した。 

彼の周囲を取り巻く知人、友人も、会社経営が悪くなると、掌(てのひら)を返すように対応が変わった。とくに彼を取り巻いていた女性達が、霞のように彼のそばから消えて行ったのだ。 

会社が傾くなか、彼は次世代のエレクトロニクス工業はむしろ重電機工業や半導体産業になると予見した。彼は経営状況が悪化していく家業の上村電子工業を顧みず、また絹江のたっての願いも拒否して、この重苦しい実家から脱出することを考えた。 

上村は、当時工場長を退任してJE社埼玉工場で顧問をやっていた叔父のコネで、芝浦電機製作所に入社した。彼は得意の英語と社交性を駆使して、半導体設備販売の海外営業として日本を脱出すると、世界各地を飛び回った。 

絹江は仕方なく、JE社千葉工場に勤務していた慎二に頼み込み、彼を代表取締役として後を継がせた。慎二は商品設計課の仕事を生涯の仕事として全身全霊をかけて勤務していたが、突然自分の思った道と違う道を歩まざるを得なくなったのだ。 

彼は絹江が社長を退任した後、社長に就任し、二十年間会社経営に心血を注ぎ続けた。  

上村は弟慎二が後を継いで社長となったこともあり、芝浦電機製作所の海外営業にますますのめり込んで行った。世界の営業担当者と連携して販促活動を推進する一方、プライベートな休日には世界遺産を訪れ、海外営業社員として充実した日々を送った。 

そんな中、誰もが予測しなかった事態が起こった――。 

なんと新規事業として進めていた原子力発電事業が、福島原発事故によって一気に受注が無くなり、芝浦電機製作所は大赤字企業に転落したのだ。 

中高年の上村は半導体事業本部で海外営業職にいたが、すぐに早期退職のターゲットになってしまったのだ。 

一方の上村電子工業では、慎二が千葉工場と神奈川工場を閉鎖し、本社のある八王子工場のリストラも行ってなんとか経営を持ちこたえようとした。しかし新型コロナウィルス感染症問題が長引き、倒産寸前となった。 

 幸いJE社から受けていた非接触方式電子体温計の大量製造要請が来て、倒産を免れたのだ。 

これは中国で製造していた非接触方式電子体温計の品質が悪く、正確な温度を表示しなかったからだった。不良品が中国国内で出回るなか、JE社の非接触方式電子体温計は正確な温度表示をするということで注文が殺到し、なんとか生き延びることができたのである――。 

3 

入口を入ると、すぐに総務部事務所があり、部屋のなかはガランとしており、年配の社員と女子社員の二人だけがいて事務作業をしていた。 

白髪でメタルフレームの眼鏡をかけた細面の社員が、入ってきた慎二に気付いて、慌てて近づいてきた。 

「ご苦労様でした。で、どうでした?」 

慎二は苦虫を噛み潰したような表情をして、「やっぱり、科学万博への技術出展を目指した新しい方針の話だった。環境技術を提案してほしいらしい。幸い、例の件は話に出なかったから、ホッとしたよ。原田さんは心配していたけどね、大丈夫だった」と、溜め息をついた。 

「ああ。それは良かったですな。もしも、今日の場で話されたら、たまったもんじゃありませんから……」 

原田は眉間に皺(しわ)を寄せて渋い顔をした。 

慎二は顔を上げると、「ところがね、専務、JE社環境本部のあの安田さんにさ、兄さんがぜひ来社してくれって頼んだんだよ」と、呆れたような表情をした。 

「ええッ、で、社長、どうするんです!?」 

「どうするもこうするも、俺にもわからないよ。安田さんは兄さんのしつこい要請に、ここに来るって言ったんだ」 

慎二は怒った顔をして上村を見ると、すぐに奥の社長室の方へと向かった。 

上村は慎二の言葉に驚いて、「おいおい、俺が悪いことでもしたような言い方じゃないか。安田さんがここに来ちゃ、悪いのかい?」と、慌て二人に声を荒げて言った。 

慎二はそのまま何も答えず、社長室のドアを大きく音をたてて締め、奥へと引っ込んだ。 

原田も困った表情をした。 

「専務、いったいどうしたんだい? 俺にはわけがわからないよ」 

「社長は、駿一坊ちゃんに、何も言わなかったんですかな?」 

 原田は上村の父の代から務めている古株だった。 

「坊ちゃんはやめてくれよ」 

上村が眉根を寄せて言うと、パソコンを操作していた事務の小川友(ゆ)梨(り)が、思わず含み笑いを漏らした。 

上村は友梨に気付いて、「まあ、友梨ちゃんがいるだけだからいいけどな。みんながいる前で、坊ちゃんはないぜ――。ああ、それにしてもだな、いったいどうしたんだい? 何があったんだい?」 

 上村は原田を問い詰めようとしたが、彼は「わたしも詳しいことは知りませんよ。直接社長に聞いていただけませんかな」と言って、口を閉ざした。 

 上村はそれ以上聞いても無駄だと感じ、大きな溜息をついて上村電子工業と自分との間に大きな隔たりを感じざるを得なかった――。 

上村は夕暮れの駐車場に行き、ポケットからスマートキーを出して、スイッチを押した。開錠の電子音とヘッドライトが一瞬光った。二十台以上並んでいる駐車場で、自分の車の位置を確認して近づいて行った。 

彼はロスアンゼルスの空やエーゲ海のような明るく深い青色が好きだった。上村は三十歳すぎて貯金が貯まると、まず車体の色がメタリックブルーのBMW一台目を買った。日本にいるときはいつでも、この愛車を飛ばして、仕事に回ったものだった。 

新しい愛車の方を見ると、コバルトブルーのBMWが夕陽を浴びて、美しいフォルムを際立たせている。BMWのM3シリーズ、グランツーリスモの新しい車である。値段は七百万円以上したが、以前からほしいと狙っていた車で、一台目を廃車して二、三年前に買ったばかりだった。 

彼は車内に入って新車の臭いが抜けないのを感じながら、エンジンを起動させた。BMWの独特な排気音とエンジンの振動が伝わり、上村を別の世界へと連れて行ってくれるようだった。 

最新オーディオのカラフルなフロント電子パネルは、まるで航空機のコックピットを思わせた。 

アクセルを踏んで車を進ませると、独特な加速性が全身に加わって来る。 

上村は車を駐車場から移動させ正門から出て、世田谷方面へと疾駆して行った――。 

  

中央自動車道から南へ走り、小田急線梅ヶ丘駅近くに建つ四十階建てタワービルレジデンスマンションの地下へと車を入れた。 

この高層マンションは梅ヶ丘駅近くの羽根木公園西側にあった。 

上村は車を地下二階の駐車場に停め、エレベーターでマンション一階のエントランスホールへと上がった。 

時間が早いのか、エントランスホールには誰もいなかった。 

エントランスホールは、白い大理石を敷き詰めたような豪華さがあり、天井の明るい光で壁の床も黄金のように輝いて見えた。 

上村は奥へと進み、分厚い緑色のガラスドアの前まで止まった。  

彼はそのドアの横にある入室管理パネルに暗証番号を打ち込むと、分厚い緑色のガラスドアが開いた。 

入口から入った壁側に住居者全員の金属製のメールボックスが並んでいた。上村は自分の部屋の番号のボックスへと近づき、ボックス前面にあるパネルに、再度暗証番号を打ち込んだ。 

自分のボックスの金属カバーが開き、上村はそこから手紙を取り出すと、それらを手にしたまま、エレベーターで最上階へと上がった。 

自宅マンションは南向きで、占有面積は九十五平方メートル、六帖(じょう)の洋室が三部屋あった。上村の自慢はリビング・ダイニングが約十八帖ほどあることだった。その向こうにはミラーガラス引き戸越しにバルコニーがあった。そのバルコニーだけでも十四平方メートルあり、この豪華なマンションに上村が一人で住むには十分過ぎた。 

バルコニーからは、羽根木公園の梅林やテニスコート、グランドが見渡すことができた。彼はこのマンションに戻って、ここから東京の夜景を眺めると、ホッとした気分になる。そして、もとの芝浦電機製作所時代に戻った気になるのだ。 

 上村はワインセラーから三十年ものの赤ワインを取り出し、リビング・ダイニングの窓辺近くにある滑らかな総革張りのソファに座った。そしてメールボックスにあった数通の手紙を急いで開いた。 

 彼はそれらを見ながら、次第に苛立った表情になり、しまいにはその手紙を全て破って両手で丸めると、ガラス窓に投げつけた。 

 彼はワイングラスに赤ワインを注いで、一気に飲み干した。 

 アルコールが胃袋に染み渡るのを感じながら、彼はこの数か月の大変化を思った。 

一流企業の海外営業ミドルビジネスマンからの転落である。自分の人生では二度目の転落だった。 

真っ暗な闇のなかへ、真っ逆さまに落ちて行くような気分になる。 

四十歳代後半からの転職である。年齢は関係しないと記載されている企業からも不採用通知しかこなかった。転職申請応募を五十数通、次々にトライし続けたが、すべて不採用である。 

芝浦電機製作所の海外営業経験というだけで、実際自分には何もPRするものがなかったのだ。 

《……これからどうしていこうか……》 

貯金は生活費用として半年くらいはあったが、定年まで芝浦電機製作所で勤務していくという人生計画であり、会社自体も停年までは経営状況も安定したまま存続するものだと信じていたのだ。 

上村はワイングラスに赤ワインを注いで、バルコニーへのガラス戸を開けて外に出た。 

ワインを飲みながら、夕方の東京を見下ろしていると、昔のことが思い出されて来る。 

彼女がこのバルコニーで長い髪を風になびかせながら、上村に微笑む姿が彼の脳裏を過(よぎ)った。
 

――十数年前の初夏、このバルコニーで彼女は、シャワーを浴びた濡れた身体に薄いローブをまとい、涼しい初夏の風を受け身体の線を際立たせて立っていた。 

バルコニーのフェンスのところで、長い髪を夕風になびかせながら夜景を楽しんだ。 

上村は赤ワインを二つのグラスに注いで、バルコニーに出てその片方を彼女に渡した。 

彼女は上村からグラスを受け取ると、それを一口飲んで喉を潤した。 

彼女は夜景を眺めながら、囁くように言った。 

「ねえ、あのときのわたしの質問、覚えてる?」 

「あのとき?」 

「いやねえ」 

彼女は眉をひそめた。 

「すぐ忘れるんだから……」 

 すこしうんざりした眼差で、上村を見た。 

 上村はその時の彼女の呆れたような表情を、まざまざと思い出した。 

 彼女の言う『あのとき』は、今から考えると、二人にとって最高のときだったのかもしれないと思えた。 

紺碧の空と海の間に、漂うような褐色の土の色と緑の樹々。 

海岸線からなだらかな丘に沿って立ち並ぶ白い壁の家々が広がった光景が脳裏に広がる。 

古き良き日々――。 

それは遠い過去であり、今となっては幻にすぎないと思えたのだ。 

4 

 翌日、上村はいつものようにサングラスをかけ、愛車のBMWを始動させた。出社時間は渋滞を避けるために、少し早めに梅ヶ丘を出た。 

中央自動車道から八王子インターを通り、青い車体を朝日に輝かせながら、上村工業へと向かった。 

すでに一台のセダンが会社の駐車場の一番奥に停められていた。  

その車は長らく洗車しておらず、車体が砂埃で汚れている。彼はその車が原田の車だと気付くと、その隣に車を停めた。 

上村はサングラスを取ってフロントボックスに入れ、ビジネスバッグを手に取って車から出た。 

彼は会社入口ドアへと足を進めた。 

上村は昭和がそのまま残った入口ドアを押して、なかに入った。 

総務部の天井の蛍光灯は一本だけ明りがついていたが、その他は電気節約で消灯したままで、誰もいなかった。 

上村は薄暗い部屋の奥にある自分の机の上まで進んで机の上にバッグを置くと、椅子に座って引き出しから業務用ノートを取り出した。 

上村の今日の予定を見ると、始業開始直後からの役員会に出席することになっていた。まだこの上村電子に来てから二週間過ぎたばかりで、状況がよくわからないままだったが、いきなり役員会である。 

なにか報告することがあるかと考えたが、何も浮かばなかった。それでも何かを話そうと、ぼんやりと考えた。 

 上村には従業員二十名程度の会社で、役員会もないもんだと思えた。以前の三百名以上社員がいたころの名残(なごり)なのか、部長クラスの責任者を交えた会議を、いまでも役員会と呼んで会議を続けているのだ。 

 上村は、『これじゃあ、会社は変わらない』と思えた。そんな小さな会社でいったい何を会議するのかと少しうんざりしながら、彼の関心は転職するために送った就職応募書の件へと移って行った。 

多くの企業の転職に応募したが、返事が返ってきていないところがまだ多数あった。いつ頃返事が戻ってくるのかが気になり、イライラ感が心のなかで広がっていく。転職先を早く決めて、この上村電子から出たいという気持ちが、ますます強くなっていくのを感じた。 

彼はそのようなことを考えながら、業務用ノートに先日のジャパンエレクトロニクス社方針発表会のことをメモしようとしたとき、社長室の隣にある会議室からなにか話し声が聞こえた。 

上村は椅子にかけていた薄いベージュ色の職務服を羽織ると、業務用ノートを持って、声のするその会議室に向かった。 

会議室に入ると、すでに慎二と専務の原田が会議室奥に座っており、なにやら二人で話し込んでいる。 

上村は『口(くち)』の字型レイアウトの会議机で、慎二と原田に相対するように入口近くに座った。 

原田は上村に気付いて慌てて、「駿一坊ちゃん、そこは駄目ですぞ。特別顧問なんですから、こちら側に座ってくださらんか」と、彼を気遣った。 

上村は机の上で業務ノートを広げると、「俺はここでいいよ。それと、何度も言うけど、五十歳近くになる俺に、駿一坊ちゃんは止めてくれよ」と、眉根を寄せて強い口調で言った。 

原田が上村の言葉に思わずなにか応えようとしたとき、慎二がそれを制して、「気にしなくていいよ、兄さんは好きにやってくれたらいいんだから――」と原田に目配せした。 

彼はそう言って、また厳しい表情で書類に目を落とした。原田も 

慎二の言葉に頷くと、手元の帳簿に眼を移した。 

 上村は慎二の言葉に、思わず口から出ようとした言葉を呑みこむと、気持ちを落ち着かせるように大きく一呼吸した。そして二人の後ろの会議室壁に飾ってある『汗を出せ、知恵を出せ!』という額に眼をやった。父駿冶が墨で色紙に書いた社訓である。それが額に入れられて、今もこの特別会議室の壁に飾ってあったのだ。 

上村はじっとそれを眺めた。 

確かに父駿冶は、汗を出し、知恵を出して、この上村工業を大きくしてきた。凄まじいほど会社を愛し、家庭を犠牲にしながら、自分の人生を賭けてきたのだ。 

しかし、と上村には思えた。 

 一人の男が人生を賭けた事業でさえも、三十年も待たずに令和の時代となった今、崩れ落ちそうになっている。この現実に上村は、なんとも言えない哀れさと儚(はかな)さを感じたのだ。 

 そのとき会議室のドアが開き、入口近くで挨拶する声が聞こえた。 

 上村が声の方を見ると、先週慎二が紹介してくれた役員達だった。 

相撲取りのように太って頭が剥げた太田工場長、細い身体でメタルフレームの眼鏡をかけた三十代後半の木島技術部長、一人だけスーツ姿できちんと髪を七・三にわけた長谷川営業部長の三人だった。 

 彼らは慎二と原田に頭を下げ、そして上村にも挨拶すると、入り口ドア側の席近くに座った。 

 彼らは会議開始まで時間があることを知って、軽く笑いながら、業務上の雑談を始めた。 

役員達が全員集まってしばらくすると、また入口のドアが開く音がして、プンとコーヒーの香りが会議室内に広がった。 

事務服姿の二人の女性が、コーヒーカップとポットを持って入って来た。 

上村は二人の女性は、慎二の妻のさおりと総務部事務の友梨だとわかった。 

さおりは、ほっそりした白い顔で整った鼻筋、控え目な印象の口もとであり、黒い瞳の切れ長の眼をしていた。長い栗色の髪は肩のところでゆったりと波打っており、明るく華やかな顔立ちである。ライトブルーの業務服を着ていたが、腹部がふっくらとしていた。 

二人はコーヒーを注いだカップを準備し、まず慎二の座っている机の上に置いた。 

慎二がさおりは妊娠していると言っていたのを思い出した。彼女は膨らんだお腹を抱えるようにして、それでも会社に出ていた。 

 友梨は各人のコーヒーカップにコーヒーを注いで、それをさおりに渡した。彼女は受け皿にコーヒーを入れたカップを置いて、慎二の横に置いた。原田のそばにも置いて、役員にコーヒーサービスを続けた――。 

上村は母親から、さおりのことを聞いたことがあった。 

さおりは以前総務部で働いていた。彼女の父親もこの上村電子の工場で働いていたのだ。彼は会社が傾いたとき、自主的に早期退職を申し出たのだ。 

上村の母、絹江は、彼に申し訳ないと考えたのか、当時就職難であり、彼の娘の入社を進めた。さおりの父親も絹江の申し出に感謝し、またさおり自身も喜んで上村電子工業に入社した。 

さおりの入社後、絹江はさおりを総務部において自分の秘書的立場で周辺の雑用も含めて対応させた。さおりは上村家にも出入りすることになって、慎二と出会い、結婚したのだ。 

上村は結婚に至った経緯の詳細を知らなかったが、社長をやっていた絹江の思いが多分にあったように聞いていた。 

  

二人で役員達の机の上のコーヒーを準備して行く。 

友梨は大田にコーヒーを注ぎながら、「工場長は、砂糖とミルクがダメだったんですよね」と言って、彼をチラっと見た。 

 太田は眉根をよせて、「ほしんだけどねえ。砂糖もミルクも、二つずつくらいは――」と言うと、友梨は「奥さんから言われていますよ、血糖値が高いから、なしにしてほしいって。だから、なしにしますよ。それに原田専務も。奥様から砂糖とミルクは、なしにしてほしいと言われていますから」と、いたずらっぽい笑みを浮かべた。 

 集まった役員達に笑いが起きた。 

上村は思わず、《これは役員会じゃないよ、まるで、村の寄合(よりあい)じゃないか》と、呆れた表情をした。 

コーヒーを配り終えると、さおりが「ここにポット置いていきますから、自由に呑んでくださいね」と言って、大きな腹をゆするように動かしながら、友梨と部屋を出て行った。 

5 

 それまで書類に目を落としていた慎二が顔を上げ、集まった責任者を見回しながら口を開いた。 

「昨日、虎之門ヒルズにあるジャパンエレクトロニクス社営業本部オフィスで我々協力関係会社向け二○二五年の大阪科学万博技術出展にむけた技術方針発表会があり、わたしと顧問の二人で出席してきた」 

 役員達はコーヒーを飲み出していたが、慎二の話が始まると、コーヒーカップを置いて慎二の方を見た。 

「ジャパンエレクトロニクス社としては、社会へのCSRとして、科学万博開催を機会に世界へ貢献する技術のPRを行いたいとのことだ。それで本年十二月、他社に先駆け、関係会社と共同で世界に貢献する技術を公募する方針の話があった。まあ、言ってみれば環境技術PRのためのコンペをやりたいということだな。もっともこれは彼らの表の顔での話で、裏の本音で何を考えているのかが、わからないんだけどね」 

 すぐに若い木島が口を開いた。 

「それはアイデアでいいんでしょうか? 技術コンペですから、特許的に強いものを出せ、ということでしょうかね? それからコンペのやり方はどうなんでしょう?」 

 慎二は厳しい表情をした。 

「もちろん、アイデアでもいいだろうが、結局はコンペだから実際に使える技術でないと駄目だろう。さらに実用化したものの方が、選ばれやすいと思う。当社もこのコンペに参加し、最下位にでも入選すれば、今後ジャパンエレクトロニクス社とは継続的な関係が得られると思うが……」 

 慎二は苦しい声で言った。 

 役員会では、しばらくこの件について議論が続いた。 

芝浦電機製作所にいた上村は、彼らの議論を聞きながらこれまでの自分の経験から考えると、まず無理だと思えた。ジャパンエレクトロニクス社は世界企業であり、その関係協力会社には世界トップレベルの技術を持っているところも多数あるのだ。今回の話は、町の登山家が、エベレスト登頂競争に参加するようなものだと思えた。 

役員会で今後どうするかが議論されたが、詳細がまだ決まっていないということで、次回にまた議論するということになった。 

原田が次の話へと進めるために、慎二を促した。 

「――先日の朝会で、工場の皆さんにも紹介したが、今日は役員会で正式に兄を紹介しておきたい」 

 慎二はそう言って、上村のこれまでの経歴や芝浦電機製作所から退職してきた経緯を述べた。そして口調を強めて役員全員に言った。 

「芝浦電機製作所が突然の経営難となり、兄は退職せざるを得なくなった。現在転職先を探している状況で、まだ決まっていない。したがって現在無職の状況だ。今年末くらいには転職先を見つけてくれると思う」 

 慎二はそう言って、上村を見た。 

上村は大きく頷いて見せたが、思いのほか居心地が悪いこの会社から、できるだけ早く出ようとあらためて思った。 

 上村は少し緊張して口を開いた。 

「上村駿一です。この家を飛び出して三十年たちます。芝浦電機で 

は半導体製造設備の海外営業を担当してきました。昭和(、、)の(、)まま(、、)の(、)上 

村電子に、少しでもグローバルな新しい風を吹き込めればと思って 

います。宜しくお願いします」 

 彼は少し冗談交じりに言って、なにか笑いが起こるかと思ったが、 

慎二も役員も真剣な表情で聞いているだけだった。 

 慎二は役員の表情を見て、フォローした。 

「兄が無職になったからではないが、わたしは今年年末までの約半年、この上村工業の特別顧問として来てもらうことにした。兄はジャパンエレクトロニクス社より巨大な、グローバル企業である芝浦電機製作所に三十年近く勤務してきており、国内外に多くの人的ネットワークを持っている。しかもジャパンエレクトロニクス社にはなかった、重工業、半導体、航空産業、医療産業等での将来ニーズをつかんでいる。我が上村工業の次世代のニーズを掴んでいる可能性がある。それを特別顧問という立場で、気付きを提案してもらおうと思っている」 

 慎二はそう付け加えた。 

 彼の言葉に責任者の間から小さな疑問の声が聞こえ、慎二は続けた。 

「皆の心配事はわかっている。兄はこの上村工業については知らない。したがって特別顧問である兄からの提案は私が受ける。兄には責任を持ってもらうつもりはないが、同時に権限も与えない。兄から指示、相談があった場合は、かならず私に連絡してほしい」 

 上村は責任者達が少しだけ頷くのが見えた。 

 慎二は上村の紹介を終わらすと、次の話題に移った。 

「この上村電子も長らくジャパンエレクトロニクス社の下請けで伸びてきた。しかし、例のコロナ問題で、昨今JE社さん自身も経営状況が赤字になってきている。このあとのJE社経営状況報告で皆に伝えるが、電気自動車の落ち込みでJE社も受注拡大を期待していたが、思ったほど受注は増えなかったようだ。また米中貿易戦争の関係もあり、大連工場を閉めてその生産を、主力の上海工場へと製造移管になると聞いている」 

 慎二は眉根を寄せて、役員全員の顔を見回した。 

 長谷川は身を乗り出した。 

「しかしジャパンさんの埼玉工場は本年度の初め、8Kテレビや4Kテレビのチューナーやリモコン基板を、当社に全面的に製造委託すると言っていたではないですか。あれも変更になったのですか?」 

 慎二は口を一文字に結んで、頭を振った。 

「……それは、例の件があるからかも知れない……」 

 長谷川は例の件と聞いて、眼を宙に漂わした。そして、木島の方を見た。 

 木島も苦虫を噛み潰した表情をしている。 

 慎二はもう一度全員の顔を見た。全員が厳しい表情になり、腕を組み始めた。 

「例の件に関しては、実は大変なことになったんだ」 

 慎二の言葉に責任者達は顔を上げた。 

「実は先ほどの長谷川部長の話にも関係するが、昨日のジャパンさんの科学万博技術出展に向けた説明会の後、兄が本社環境本部の安田さんに来社を強くお願いしたんだ」 

 慎二がそういうと、全員が思わず声をあげた。とくに木島は眼を丸くして上村を思わず見た。 

「特別顧問が要請したから、安田さんは来社を約束した……?」 

 役員全員が唖然とした表情をして慎二を見ている。そして、上村は責任者全員が自分の方に刺すような鋭い眼差しを向けているのを見て、思わず身が固くなるのを感じた――。 

 6 

 上村は翌日出社すると、青い空と白い雲の快晴の空を見上げ大きな溜息ついて、会社の建物のなかに入った。 

原田と友梨に挨拶して、総務部を通って、自分の席に座ったとき、またフッと、どこからともなく彼女の声がした。 

《ねえ、どうしてなの……?》 

 彼女は、青い空と白い雲を見上げると、また不思議そうな眼差しを上村に向けた。 

 彼は遠い過去が、朦朧とする意識のなかで蘇ってくるのを感じた。 

《そうだ、あの時だ……》 

上村の頭の中にそのときの映像が一度に広がってきた。 

――それは、エメラルドグリーンのエーゲ海をクルージングする観光船での出来事だった。 

二人はローマでの最新半導体設備の展示会のあと、レオナルド・ダ・ビンチ空港からギリシアまで飛んだ。わずか二時間の距離であり、パルテノン神殿のある小高い丘の裾にあるオリンピアホテルに泊まった。 

翌日朝、上村らは眩(まばゆ)い太陽の光を浴びながらエーゲ海を巡航する白いクルーザ―に乗り、オリンポスの神々が住まう光る海へと滑り出たのだ。 

二人は初夏の風を受けワイングラスを片手に、海岸沿いの光景を眺めた。周囲には世界からきた観光客が、白い壁の家々を眺めて、その鮮やかなコントラストに讃嘆の声を漏らしていた。 

しばらくするとクルーザーに添乗した案内係が、見えている陸地の東の方に女神アテナの名前にちなんだ都市国家アテネがあると説明した。 

ギリシアが前四九〇年、ペルシアとマラトンの戦いに勝利したとき、それを一刻も早くアテネの人々に伝えようと、伝令兵エウクレスが戦場からアテネまで、闘(サイ)剣(フォス)が装着された重装備を脱がずに走ったという。それが現在のマラソンの起源になったと言った。 

そして案内係は、エウクレスは勝利を伝えた後、息絶えたと説明した――。 

  

彼女は真っ青な空を背景にサングラスを太陽に輝かせ、長い髪をエーゲ海の風でなびかせながら、マラトンの丘の方を眺めてつぶやいた。 

「なぜ、息絶えるまで走ったのかしら。四十キロほどなんでしょ? それに、なぜ、闘剣が装着された重装備を脱がなかったのかしら。重装備を脱げばよかったのに、そうすれば、死ななくてすんだかもしれない……」 

 茫然とする意識のなかで、彼女の不思議そうな表情が蘇った。 

「どうして脱がなかったのかしら……?」 

 そのとき上村は、甘えるように言う彼女の問いに、応えられなかったのだ。 

 当時とはまったく状況が違う現在、閑散とした薄暗い総務部の席に座りながら、十数年経過してもなお、上村は彼女の問いに応えられそうもなかった。 

《なぜ、エウクレスは重装備を脱がなかったのだろう……》 

彼女が言うように、闘(サイ)剣(フォス)が装着された重装備を脱いで走れば早くアテネに着けるし、疲労も減ったはず――。だから、彼は死を防ぐことができたかもしれない……。 

上村はそう思い返しながら、椅子に座って汚れた総務部の暗い天井を見上げた。 

昭和時代のコンクリートづくりである総務部天井の暗い部屋、そしてその部屋のなかで天井を見上げている自分の姿を客観的に眺めたとき、上村はふと別の思いが湧き上がった。 

上村にはエウクレスの重装備が、なんとなくこの上村電子工業の存在そのものに思えてきたのだ。 

《この会社が、闘(サイ)剣(フォス)を装着された重装備になるんだったら、潰してしまえばいい……》 

上村はそう思った。今の上村は、この上村電子工業を潰すことを想像しても、なんのためらいも感じなかった。この工場敷地を半分近く売却すれば、かなり経営的猶予が生まれ見通しが出て来るはずだ。 

 上村には慎二がなぜそこに踏み込まないのか、不思議にさえ思えた――。 

 上村がそんなことを考えていると、友梨が入口のドアから入って来て、執務中の原田のところへ何かポスターのようなものを持ってきた。 

「専務、市からポスターが五枚届いたのですが、この部屋の掲示板に貼っていいですか? 浅川ロードレースのポスターです」 

 友梨の声に原田は顔をあげて、そのポスターを見ると、「いつものやつだね、いいよ。ここの掲示板だけでなく、工場内にある掲示板にも貼っておいてくれ」と言って彼女を見上げ、「今年も出るんだろ?」と笑顔を見せた。 

「やだァ~専務、わたしは今年、まじ、リダツ(、、、)ですよォ~」 

「リダツ!? なんだい、それは?」 

 友梨は笑って応えない。 

 原田は彼女を見ながら、「若い人の言葉が最近わからなくなってきてさ、年を感じるよ」と苦笑しながら、「今回は七月なんだね? いつもはさ、十月だろう。なんでなんだろうね」と、不思議がった。 

「十月は八王子市あげて、もっと大きなイベントがあるらしいんですよ」 

「ふ~ん、本当かね? なら七月は、前座って位置づけか。主力のランナーは十月に出るから、今回のレースで我が社は上位入賞狙えるってわけだな。友梨ちゃん、頼んだよ」 

 原田がそう言うと、友梨は笑顔で頷きながら、ポスターを持って総務部掲示板へと歩き、ポスターを貼り始めた。 

 上村は原田と友梨の家族的な上村電子の雰囲気の温かさを感じながらも、とてもあのビジネスライクな芝浦電機製作所の仕事はできないと思えた。 

 上村は立ち上がって、『二○二四年 八王子北部工業団地ロードレース』という文字が眩いポスターを遠目に見た。友梨達の一点の曇りもない満面の笑顔に気づいて苦笑した。 

 会社がまさに倒れようとしているのに、社員全体に緊張感がなく、呑気なものだと思った。 

上村は慎二が経営状況を末端社員まで伝えていないのではないかと思えた。 

彼は彼女らが経営の見通しがたたなくなって慌てだす非常事態の前に、もう一度社内をよく見て回ろうと思った。また、できれば慎二らが隠している何かを知るためにも、もう一度しっかりと工場内を見て回る必要があると思ったのだ。 

この上村電子工業で何かがあったのだ。それを責任者連中は隠している。もしくはその噂が広まらないにしているようにも思えた。 

 それが何なのか上村には想像できなかった。 

 彼はもう一度上村電子の状況を整理した。 

 上村電子工業は売上高が昨年度三億円弱である。従業員二十五名ではどうかと思えた。給料を一人平均三十万円として、ボーナスなしで七千五百万円。固定費をざっと三分の一とすれば、年商純益で二億二千五百万程度が必要となる。 

詳細な経営状態はわからないが、現在の状況はなんとか経営していけるくらいか……。 

 しかしながらこれからジャパンエレクトロニクス社からの受注が減ることを考えると、この上村電子工業も大変な状況になるのは眼に見えている。売上げが一、二割削減されただけでも大変である。 

 一方で上村は、自分がジャパンエレクトロニクス社の立場なら、国内全生産については、今年三割移転、来年には半分以上中国やベトナムでの生産への移行を進めていくのが妥当だと思えた。 

《そうなったら、ここは……まちがいなく潰れる……!》 

 上村は慎二の姿が、エウクレスの姿に重なって見えたのだ……。 

第二章 オーバーシュート 

   1 

  上村は翌日役員会議に出席したが、会議のなかで出てくる製品の品番やこれらがどこの生産ラインでどのくらい生産されているのか、ときどきわからなくなっていた。 

彼は再度慎二からもらった資料に眼を通し、製造の状況について理解を深めた。状況がだんだんわかってくると、委託製造する製品が少なくなってきているように思えたのだ。製造ラインで一日ロット数でどのくらい流れているのかなどが気になり始めた。 

上村は数日前考えていたとおり、もう一度現場を見回って現在の状況を知っておきたいと思った。 

上村工業には敷地内に二つのコンクリート建ての建物があるが、中央棟は東西五十メートル、南北三十メートルのコンクリート二階建ての建物だった。一方新棟は、東西三十メートル、南北二十メートルの二階建てコンクリートの建物である。 

新棟の正門の方を向いた東側一階に総務部や社長室があり、西側には技術部や営業部があった。新棟二階のフロア全体は製造部門となっていた。 

 新棟二階から北側に渡廊下(わたりろうか)があり、中央棟二階へとつながっていた。中央棟二階も製造部門で、一部技術部門の試作室があった。中央棟の一階は倉庫であり、完成品や資材等が置かれていた。 

 上村は新棟総務部から二階へと続く階段を上がった。 

 製造部門のドアを開けた途端、独特の異臭を感じた。 

 製造部門には、東西に三つの製造ラインが設置されており、そこでテレビの電子回路基板やパソコンの電子回路基板を製造している。 

 上村は自分の家の家業ではあったが、製造の詳細については、さっぱりわからなかった。 

上村は工場入口近くにおいてある製品の展示物を、時間をかけてじっくり見た。 

この工場は大型ファックスやコピー機、これらの複合機を含めた事務機器を製造しているようだった。それ以外には、モバイル事業部の通信システム機器も製造していた。 

彼は展示物の電子回路基板を、一つずつ手に取って眺めた。 

 上村は電子回路基板の裏面を見て、うまくはんだ付けができていることに、改めて驚いた。 

  

そのとき中央棟二階の方から大きなお腹をした、事務服姿のさおりが近づいてきた。 

「お兄さん、主人が先日の役員会議でひどいことを言ったみたいで、申しわけありません」 

さおりは深く頭を下げた。 

「お兄さんは会社の方にはいらっしゃっていますが、自宅にはまだ一度もお越しになっていません。今日はぜひ来ていただいて、主人と夕食をいっしょにしてください」 

 彼女は訴えるように言った。 

「いやあ、不義理してきた俺には敷居が高いよ。それに慎二は俺が実家に行くのは嫌がると思うし」 

「そんなことはありません。お兄さんの住んでいた実家ですし、慎二さんとは兄弟なんですから」 

 上村は頭を掻きながら、下を向いてしまい、さおりの顔が見れなかった。 

「そう言われても、俺は……」 

彼は口籠りながら、言い訳しようとした。 

「駄目ですよ、お兄さん。ぜひ来てください。夕食を準備していますから」 

 上村は顔を上げて、さおりを見た。 

「さおりちゃん、本当にいいのかな?」 

 さおりは笑顔を上村に向け、「もちろんですよ」と、眼を輝かせた――。 

 上村の自宅は会社の敷地内にあり、庭を含めると三百坪程度はある屋敷だった。会社と仕切るため周囲は石垣で囲まれていた。上村の父親が都内で解体予定だった武家屋敷を買い取り、自宅まで移設したものだった。 

母屋は二階建てで間口が四間ほどある屋敷であり、板張り玄関を入ると、八畳ほどの次の間がある。そこの正面には三十年前と同じく七福神がにぎやかに飾られており、上村の帰りを祝福してくれているように思えた。 

上村はさおりの言った時刻に、おずおずと自宅の中に入って行った。 

玄関口次の間を左手の南の方に進むと、十畳ほどの広間があり、その奥がキッチン、リビングとなっていた。そこの南側には南北に廊下があって、庭を眺めることができた。 

 暗く重い圧迫をずっと感じていた自宅屋敷に、慎二ら夫婦によって明るく新しい雰囲気が持ち込まれていた。ホッとしたのと同時に、長らくの自分の不在を突き付けられたような気がした。 

さおりは奥のキッチンで夕食の準備をしており、上村に気付くと、「お兄さん、いらしていたんですか? さあ、どうぞ、どうぞ」と言って、食卓へと案内した。 

上村が席につくと、彼女は出来上がった料理を、リビングのテーブルに運んできた。 

「慎二さんから少し遅れるって、電話がありました。すいません。先に食べておきましょう」 

 さおりは上村と向き合って座り、夕食を取り始めた。 

「久しぶりだなあ、こんな家庭料理なんて」 

 上村はさおりの料理に舌鼓を打ちながら、「いいのかな、慎二は働いているのに。ぼくは仕事もせずに、奥さんと食事するなんて」と、彼女に苦笑いしながら申し訳なさそうに言った。 

「いつもは九時半には帰って来るんですけど、最近は遅いんですよ」 

 さおりはビール瓶の栓を開けて、上村のコップに注いだ。 

 上村は慌ててコップを持って、注がれたビールを呑んだ。 

彼の心のなかで、なにか込み上げる思いが沸き上がり、コップを置いて、さおりに深く頭を下げた。 

「ぼくは、慎二に大変な重荷を負わせたよ。それがさおりちゃんにも重荷を負わせることになった。本当に申しわけない。許してほしい……」 

 さおりは突然の上村の謝罪に驚いて、そしてすぐに笑うと、「どうしたんです? お兄さんらしくないですよ。さあさあ」と言って、ビールを注いだ。 

 上村は頭を下げたまま、「ぼくは若い頃、自分の人生だから自分の生きたいように生きればいいと思っていたんだ。しかしこの歳になると、その考えがいかに身勝手だったか、反省してるよ」と重苦しい声で言った。 

 さおりはまた笑うと、「今日はどうしたんです? さあ、食べてください。はさみ揚げが冷めますから」と、料理をすすめた。 

 上村は顔を上げて、「ぼくもこの家で、こうして食事をすると、なんか昔のことを、いろいろ思い出してしまってね」と頭を掻いた。  

彼は昔のことを思い出しながらさおりと話しを続けて、久しぶりにゆっくりした夕食を楽しんだ。 

2 

 さおりはしばらくして、「そうだ。お母さんと会いましたか?」と、上村の顔を覗きこんだ。 

「いや、二年前にイギリスから帰国したときに、お袋と会ったきりだよ。お袋の認知症は、進んでいるのかなあ」 

「いえ、あまりお変りないですよ。ホームのなかで習字を教えたり、庭の花を手入れしたり、ホームでは人気ものです」 

「そうか、それはよかった。また行かなくっちゃな」 

「そうだ、再来週いきますけど、どうします? お母さんからの頼まれものを持っていきますけど」 

「ああ、そんならぼくも行くよ。さおりちゃんといっしょなら、行く気もするよ。行っても、ぼくってわからないからなあ」 

 上村は残念そうな表情をした。 

 そのとき、玄関のドアが開く音がして、リビングの方へと近づく足音が聞こえた。 

「慎二さんが戻ってきたみたい」 

 暗く疲れた表情の慎二は、大きな溜息をついて、リビングのテーブルについた。 

 さおりは急いでコップを準備し、ビールを注ぐと、彼は一気に飲み干した。 

 何か考えているようで、黙ったままである。 

 さおりはすぐに夕食を慎二の前に広げると、彼は黙ったまま食事した。 

 上村はさおりを見ると、彼女はいつもと変わらないという表情で慎二を見ている。 

 上村はさおりが差し出したデザートの果物を口に入れた。 

 慎二は黙々と食べて、ビールを飲んだ。さおりがコップにビールを注ごうとすると、慎二は頭(かぶり)を振った。さおりはウィスキーと氷の入ったアイスペールを準備した。慎二はグラスに氷を入れて、ウィスキーを注いでタンブラーで混ぜ、喉を振るわせて一気に呑んだ。 

上村には慎二の食事は仕事と同じで、処理しているように感じた――。 

 上村は食事を終わらせた慎二の顔を見て、おもむろに口を開いた。 

「ここも大変だな。年商三億切っていると経営会議で言っていたが、二十五人近く従業員を抱えていたら、楽じゃない。四億まで押し上げたいところだな」 

 慎二は一点を見つめたまま、頷いた。 

「昔は三百名以上いた従業員も、リーマンショックや例のコロナ不況で、二十名近くまでにしないといけなかったよ。ジャパンエレクトロニクス社からの発注はまちまちだし、少なくなる一方さ。夏や冬には突然発注がくるが、残業時間は増やせないし、業務の効率化にも限界がある。頭が痛いよ、まったく……」 

「そうだな。大企業が倒産する時代だ。これまではそこにぶら下がる中小企業だったが、大企業は経営改善のために情け容赦なく中国生産へとシフトする。結果として、中小企業の仕事が、突然なくなる」 

「そうさ。これまでもジャパンエレクトロニクス社はいろいろあったけど、子会社を切ったりして何とか乗り切って来た。しかしそれも限界で、とうとう本体までが傾き始めた。仕事が二割削減ならなんとかいけるかもしれないが、三割の受注削減なら上村電子は赤字にまた転落だよ」 

 上村は慎二の言葉に、腕を組んで少し考えた。 

「で、どうしていくんだ? 社長として」 

 慎二は両肘をテーブルにつき、両手で頭を抱えた。 

「どうにもできないよ。なにも動けない。動かせる資金がない」 

「東京八王子銀行からの借り入れは?」 

「もうこれ以上は無理さ。銀行はこれ以上支援できないと言っている。倒産した場合を考えて、ここの敷地不動産を担保にある程度の金額だけは貸してくれたけどね……」 

 慎二の言葉に上村は渋い表情をして頷いた。 

「それなら……」 

 上村は心に浮かんだことを口にしようかと迷ったが、頭を抱えた慎二を見てその言葉を呑み込んだ。 

 彼はそのとき顔を上げて上村を睨んだ。 

「兄さんは言いたいんだろう? 赤字にならないうちに、ここを売却した方がいいって」 

 上村はぎくりとして慌てて口を開いた。 

「いや、そんなことは言わないよ。ただ、赤字になる予測があるなら、それが累積して会社が倒産する前に、手を打つべきじゃないかな。だって、そうじゃないか。慎二にも家庭があるし、従業員にも一人ひとり家庭がある。家族みんなが路頭に迷うんだよ。今、売却すれば、その売却金で皆が潤うんだから」 

 慎二は上村の言葉を聞いて顔を紅潮させ、彼を正面から見据えて睨んだ。 

「兄さん! それは上村電子の特別顧問としてアドバイスなのかい。それとも兄として弟への意見なのか」 

 上村は急に慎二が怒り出して慌てた。 

「そんな真剣になるなよ。単なる戯言(たわごと)さ」 

 慎二は、「芝浦電機製作所を退職してここに来たのは、俺を助けるためじゃなく、この売却資産狙いだったのか!」といきなり言って、拳で机を叩いた。 

「おいおい、そんなに怒るなよ。そんなつもりはまったくないからさ」 

「しかし兄さんが資産売却のことを言ったのは、それが心のどこかにあるからだよ!」 

 慎二はウィスキーを呑んでアルコールが回ったのか、さらに顔を紅潮させた。 

 さおりが驚いてリビングに来ると、慌てて慎二を制した。しかし、彼はそれを振り切った。 

「だいたいこの家がこんなに傾いたのは、兄さんのせいじゃないか! 俺はずっと兄さんがこの家を継ぐと思っていたよ。親父もそう周囲に言っていたし、だから兄さんには後継者の意味を込めて、親父の駿治の一字が名前につけられたんじゃないか。親父は後継者としての期待を込めて、兄さんに知力、体力をつけさせ、知人や業界にも紹介した。それほど親父もお袋も期待していたのに、兄さんは強引に上村家から逃げた……」 

 慎二は上村に心の底から呪うような声をあげた。 

「大学時代から親父と口論が絶えず、会社員になって、たまにここに戻ってきても喧嘩ばかりだ。大学時代は同棲して親父やお袋を悲しませ、会社に入って彼女を連れてきても、毎回、相手が違う。そして結局、いつまでも結婚せず、フラフラした一人身のままだった。親父はいつも怒っていたよ」 

 上村は慎二の言葉に頭を下げ、上目づかいに見た。 

 彼は大学時代に彼女を連れて来て、両親に彼女を紹介したときのことを思い出した。彼女が帰った後、父親が激怒し始め、慎二が自分の側に立って応援してくれたことが蘇った。 

「おまえの言う通りだ。おまえにも迷惑かけたし、親父やお袋にも悪いと思っている」 

「そんな兄さんだったけど、親父もお袋も、そして俺も最後の最後まで、兄さんは戻ってきてくれてこの家を継ぎ、俺らを守ってくれると信じてたよ」 

 慎二は眼を赤くした。 

「だって、兄さんは家族だから。兄さんは上村家の長男だから……」 

 さおりは慎二の後ろから彼を抱きしめた。 

「でも……昔の、家族を大切にする兄さんは帰ってこなかった……親父が突然死んで会社が倒れそうになったときも、兄さんは帰ってこなかった。まったく何も知らなかった俺は、いきなり会社を任せられた。そして……お袋がボケてどうしようもなくなったときも……。悲しかったが、俺がお袋を施設に入れたんだ……。そして、例のコロナ不況で倒産しそうになったときも……兄さんはいなかった……」 

 慎二は頬に涙をつたわらせながら、上村に訴え続けた。 

 上村は慎二から心に杭を打たれるように、慎二の言葉が一つひとつ胸の奥に突き刺さった。 

上村はその言葉を受け止めながら、頭のなかには父駿治の厳格な顔が浮かび、次第に怒りの炎が広がり始めるのを感じた。危うく、『それもこれも親父のせいじゃないか』と口から出そうになったが、それを押し殺した。 

「悪かった。本当に悪かった。俺は逃げたんだ、この家から。三十年近く、逃げ回っていたんだよ……」 

 上村は重苦しい言葉を慎二に吐いた。 

 慎二は顔を下げると、「三十年……」と呪うような声を上げた。 

 さおりは慎二の眼から涙が流れるのを見て、彼を後ろから抱きしめながら、「慎二さん、お兄さんも十分にわかっていらっしゃるわよ。お話はもう止めて。せっかく夕食に来てもらったんだから」と囁くように言った。 

 慎二はかすかに頷いた……。 

  3 

 上村は自宅マンションのエレベーターで一階に降りると、早朝の世田谷の街を羽根木公園の方へと走り出した。 

 まだ薄暗い閑静な住宅地を、西へと走った。すぐ近くの小田急線高架路から電車が走る音が静かな街並みに響き渡り、南の方に眼をやると、梅ヶ丘駅へと電車がブレーキの金切り音をあげて停車するのが見えた。 

上村は南の小田急線高架の方へ、少しペースを上げながら走った。 

六月になったばかりだが、早朝六時でもコンクリート道路からの熱が漂っていて、かなり蒸し暑く感じられた。風がないためか、道路だけではなく、ビルや樹木も前日からの熱を放散できないままのようである。それらの熱で大気自体も暖まったままなのだ。ヒートアイランド現象が、東京という都市全体を呑み込んでしまっているように感じた。 

上村は小田急線高架路まで行きつくと、高架路沿いに西へ走った。そのとき周囲が明るくなり、走りながら振り返ると、東の青い空を背景にビルの合間から太陽が燃えて見えた。 

彼は駅前のロータリー沿いにあるマーケットを右に曲がり、北の方へと走った。 

すぐに羽根木公園入口が見えた。 

彼は西側の公園入口から入り、小高くなった梅林の丘を駆け上がり、丘の頂上から広いグランドの方へ駆け下りて行った。 

樹林を駆け抜けてグランドの方へいくと、グランドの外周を走る数名のランナーが見えた。 

上村はその数名のランナーらと同じコースを走ると、すぐに彼らのなかで一番後ろで走っているランナーに追いついた。 

長い髪を後ろでまとめたポニーテイルで、胸の線を強調する黒いスポーツブラを身に着けていた。下半身もピンク色の機能性スポーツレギンスを身に着け、ライトブルーのランニングシューズを履いて、リズミカルに走って行く。 

上村は少しピッチをあげて、彼女の後を追った。 

そのときニューヨークセントラルパークでの一場面が、脳裏をよぎった。 

そう、あのときも初夏だった。 

――上村はまだ三十代を少し過ぎたくらいであり、力が溢れ、毎日ジョギングをしないと身体が治まらない頃だった。 

このとき上村は、芝浦電機製作所の半導体新商品ワークショップでニューヨークに来ていたのだ。 

日本から新製品である設備を数台送り、五番街沿いの『ビッグアップル』と言われた高級ホテルのフロアを借り切って、芝浦電機製作所は全米のカストマー向けで新商品をPRしたのだ。開発技術者が日本から十名近く参加し、セミナーやプレゼンを行い、新製品の商談を進めた。 

上村は七日間、午前中からのカストマー対応や夕方からビップカストマーを集めたパーティにも気を使い、笑顔の仮面を被り続けてイライラが爆発しそうになっていた。 

上村は頭に血が上ったまま熱がおさまらず、一台受注で数億稼げる受注をどれだけ獲得できるかで眠れない夜が続いていた。彼はたまらなくなって、ランニングウエアに着替え、履きなれたランニングシューズに足を入れると、エレベーターで一階に降りて高層ホテルの前にあるセントラルパークへと飛び出した。 

広い緑の公園の南東にあるゲートから入ると、公園内道路の先に若い女性が走っているのが見えた。セントラルパークはマンハッタンの中央にあり、細長い長方形で、公園の東側は五番街と接しており、その女性は五番街に沿って北へと走っていく。 

後ろから彼女を見ると、黒い髪を後ろにまとめ、ピンクのスポーツブラに黒いスパッツを履き、その上からランニングパンツをつけていた。欧米人なのか抜群のプロポーションであり、長い脚を使ったロングストライドが素人離れして見えた。 

上村は、顔を振ったときにときどき見える横顔を眺めて、もしやと思ってピッチを上げ、彼女の後を追って走った。 

メトロポリタンミュージアムあたりで、道路が左に折れ、彼女が西へと向かおうとして後ろの方に眼をやった。 

上村は彼女の顔を見て、頷いた。 

彼女は東京本社の研究部門の技術者といっしょに、販売応援に来た新入社員の杉本美紗子だったのだ。 

 上村は走る速度を早めて追いつくと、彼女と並んで走った。 

 美紗子は細面で理知的な顔立ちだった。鼻筋は通り大きいな眼はすっきりとして明るい瞳をしていた。唇は薔薇色に輝いており、若さをアピールしているようだった。 

「君は確か……欧州営業の杉本さん……だったんじゃ……」 

 美紗子は走りながら笑顔で上村に応えた。 

「ええ、杉本です。営業本部欧米一部の上村主任ですね」 

「ああ、知ってたのかい。人が少ないこの公園で、女性一人ジョギングなんて、危ないよ、どうしたんだい?」 

 彼女は笑った。 

「主任といっしょですよ。カストマー相手で、気疲れしちゃって、ストレスいっぱいです」 

 上村はあけすけでフランクな美紗子の態度に好感を持った。 

 その日の十時にホテルの会議室で、営業本部メンバーとアメリカ担当営業部門メンバー、そして応援にきた欧州営業部門メンバーの三十名近くが集まり、ワークショップで展示した新商品ごとの情報を交換しあった。 

 美紗子は欧州営業として最後にカストマー情報を報告したが、なかなかしっかりした営業社員だと上村には思えた。 

 彼女は慶応大学の法学部出身で、当時では少なかった在学中に、UCLAへ一年近く留学していた。 

 これが美彩子との出会いであり、始まりだった。上村と美紗子は、パリで、ローマで、ロンドンでは、いっしょのホテルに宿泊しながら仕事を続けたのだ――。 

 上村は古い思い出の記憶がセピア色に変わるのを感じながら、羽根木公園を一巡すると、また自分のマンションへと帰って行った。 

4 

 上村は羽根木公園をジョギングした後、車を八王子市内へと走らせた。 

 母の居る共同ホームは西の方の高尾山麓にあるのだ。先日のさおりの話から、さおりといっしょに共同ホームを訪ねることにした。 

少し遅れるというさおりからの連絡で、現地共同ホーム現地で彼女と落ち合うようににした。 

彼は車で八王子市を横切る国道二○号線を東から西へと向かった。 

西へ車を走らせながら、ロードレースのことが頭を過った。 

というのも数日前木島から、慎二の代理でこのロードレースに出走してくれないかと突然頼まれたからだ――。 

就業後の夕方、なにか連絡があるのか木島がわざわざ上村の席の前に来た。 

「社長は今回重要会議があって抜けられないみたいなんですよ。毎年、社長が出て、上村電子をPRされるんだけど、今年は無理ですね」 

「仕事優先さ。まあ、北八王子工業団地主催ロードレースは、この工業団地の親睦会の一つだろ。これまで慎二が出ないわけにはいかなかっただろうけど、俺が代理に出れば問題ないよ。会社が大変なときだから、慎二にはちゃんと、仕事、やってもらった方がいい」 

「その通りですね」 

「顧問、夏のロードレースですから、すごく暑いと思います。暑さには注意した方がいいですよ。上位入賞には、若手を準備していますから、顧問は完走を目標にして絶対に無理はしないようにしてください」 

「それはわかってるさ。こんな俺でも、高校時代は慎二と夏、浅川沿いで競争していたから、夏の暑さは十分知ってるよ」 

 木島は眉根を寄せ、真面目な表情で頭を振った。 

「昔とは違いますよ。一昨年環境省が調べたのですが、熱中症にもっともなりやすい危険レベルに達した日は、都内で二十五日以上あったんですよ。三十五度以上に気温が上がりますから、体温と同じです。そのなかで走るんですからね。湿度が高くなれば汗は乾燥せずに、身体はまったく冷やされません。身体がオーバーシュート(、、、、、、、)してしまうんです」 

「オーバーシュート!? じゃなくって、いわゆる熱中症だろう? 俺は大丈夫だよ。なんども言うけど、これでも高校では少し陸上やってきたからさ」 

 木島は上村の言葉に首を振って真剣な表情をした。 

「あまり最近の熱中症を軽視しないほうがいいですよ。顧問は今回の二十キロハーフマラソンは、なんとなく無茶して頑張りすぎる感じがして、私は心配なんですよ」 

「普通に走るさ」 

「普通に走っても、顧問が学生時代に走っていたころと東京の気候が全く変わっているんですよ。それを知っておいてください。最近の東京じゃあ、温暖化で四十度なんか当たり前ですよ。熱中症には注意しないといけません。二○二〇年に開催されたオリンピックでも、マラソン会場が東京から札幌に変更になったのは、この夏の暑さのためなのはご存じですよね。一部の報道では、あの札幌でもマラソン選手や観客のなかに、熱中症で倒れる人が出たらしいですがね」 

 上村は心配そうな表情で真剣にいう木島にまた笑った。 

「ランニング帽被(かぶ)ってさ、水分補給してりゃ、熱中症なんて、なんてことないさ」 

「ほらほら、やっぱり危険ですよ。二○一五年の一月に香港で開催されたスタンダード・ベイエリア・マラソンですが、二十キロマラソンに参加した二十代半ばの選手が、あまりの暑さで倒れて亡くなっています。また国内で言えば、たとえば平成二五年ですが、十五歳から四十九歳の年齢層で八○人が亡くなっています。ともかく給水所では、顧問も必ず水分補給してください。紙コップを潰して呑まないと、喉にひっかかりますよ。喉を潤す程度に呑んだら、余った水は手や足にかけて冷やしてください……」 

 木島は上村に夏の暑さ対策を何度も繰り返したが、上村には木島の言ってることが今一つピンと来ず、笑って聞き流すだけだった。 

 上村は確かに最近の東京は東南アジア以上に夏が熱いと感じた。 

 彼は木島の忠告も心に残っており、コースだけは見ておこうと思った。当日の受付場所は八王子市の西北にある都立陵南公園の近くで、南浅川にかかる陵南橋の西側であることを思い出した――。
 

南浅川のロードレース会場予定地に車が近づくと、ジャージ姿の参加希望者らしい若者達が『浅川ゆったりロード』に向けて歩いていく。参加者のなかにはオリンピック級の選手も参加すると噂されており、すでに事前練習を行っていると思えた。 

上村もその多くの若者達を車で追い抜いて、浅川河川敷へと向かった。 

 南浅川は高尾山の麓から東の方へと国道二○号線の北側に西から東へと流れていた。河原は幅三十メートルほどあり、通常は川水がない枯れた川である。今日は昨日の嵐のような豪雨で、川に水が溢れ東の方へと流れているのだ。八時を過ぎたばかりであるが、七月の太陽は灼熱の光線を浅川の周辺に投げかけていた。 

 彼は京成橋近くの駐車場の、奥に開いていた狭いスペースに車を駐車させた。 

 上村は車から降りて、歩いてコースを確認した。 

 コースは起伏に富み、わずかに高尾山から東の方へと地面が傾斜しているように思えた。彼は帰りの道が大変になると実感したのだ。 

 浅川の河原縁(へり)まで行くと、先の方の古道橋南岸に小旗が翻っており、そこにはロードレースのための準備テントがすでに設置され、この場所が参加登録の受付け場所になることがわかった。 

彼はさらに周辺を行き来して、距離感を得ようとした。また少し走ってみて、コースのアップダウン状況をしばらく確認した。 

腕時計を見て上村はさおりと共同ホームで落ち合う時間に近づいていることを知り、彼は慌てて駐車場へ引き返して、車をスタートさせた。 

 浅川橋を渡り、八王子市内を貫通する国道二号線を三十分ほど、西の高尾山の方へと急いだ。 

高尾駅の北側、少し小高くなった斜面に、グループホームがあった。西側はすぐ高尾山であり、あたりは温泉地にもなっている。 

少し小高い丘になった場所に、グループホームのクリーム色の二階建て建物があった。 

 上村はサングラスを外し、車を降りずにグループホームの駐車場で待っていると、赤い外装のボックス型軽自動車が近づいてきた。 

 フロントガラス越しに車のなかを見ると、さおりだった。 

彼女は車を上村のBMWの近くに寄せて、その隣に止めた。 

 上村は車から出ると、さおりの車のドアを開けた。 

 彼女は暑いなか、少し苦しそうな表情だったが、上村を見て頬笑むと、おなかをさすりながら運転席から出てきた。 

「さおりさん、悪いなあ。お腹が大きいのに。いつもこうして、お袋に会いにきてくれていたんだね」 

「もっと来てあげたらいいんですが、どうしてもいろんな用事ができちゃって、うまく来れません。でも今回は、わたしがいけないんです。お母さんから頼まれていたことがあったのに、遅くなってしまって――」 

 彼女は苦笑いしながらそう言うと運転席のドアを閉め、後部座席のドアを開けて、そこから何やら重そうなものを取り出そうとした。 

 上村は慌てて駆け寄り、さおりの車に身体を乗り入れてそのバッグを取り出した・ 

彼が「これ、僕が持つよ」とさおりに言うと、少し苦しい表情に笑顔を浮かべて、「ありがとうございます。これがお母さんからの頼まれものです」と言った。 

「お袋、さおりさんに無理言ってるんだろうな」 

「そんなことはありません。ケアマネージャーさんもお母さんは優等生だと言ってますよ」 

「本当かなあ、お袋も結構わがままだけどな」と言って、「お袋になにがいいかわからなかったから、白桃を買ってきたよ。お袋は、結構、好き嫌いが激しいからな」と笑った。 

「それは良かった。お母さん、白桃はお好きですから、喜ばれますよ」 

 さおりはそう言いながら、ホームの玄関へと案内した。 

 ホーム入口のドアに近づくと、上村がさおりの前に出て、ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。上村は五、六年前に来たときのことを思い出して、玄関口右手にあるインターホンのボタンを押した。 

 すぐに五十歳代の女性が現れ、ドアの鍵を開けてくれた。 

白髪が混じっており、どこか表情に強いプロ意識が漂うケアマネージャーである。エプロン姿であり笑顔をつくってはいたが、気を抜いていないことが見て取れた。 

 彼女はさおりに挨拶すると、すぐにスリッパを準備して、普通の家のリビングのようなホームのなかに案内した。 

 ホームのなかには、車椅子に座った老人が黙って宙を見たり、ソファでウトウトしたり、テレビを黙って見ている老人など、六、七人いた。 

 見ると、ホーム奥のテーブルの横に車椅子にすわった、上村の母である絹江の姿が見えた。 

 彼女は白髪で痩せていたが、しっかりした表情でテーブルの上の洗濯物を一つひとつきちんと畳(たた)んでいる。 

 ケアマネージャーは上村とさおりを、絹江の方へと連れて行きながら、「ほら、見て下さい。絹江さんは、優等生ですよ。みなさんの洗濯物をちゃんとたたんでくれるんです」と笑顔で言った。「それに字がお上手で、壁新聞や誕生会のときに墨で字を書いてくれるんですよ」と言った。 

彼女は絹江の傍まで二人を連れていった。 

 絹江は上村をちょっと見たが、また洗濯物の方に眼を戻した。 

 上村は苦笑いすると、「母さん、俺だよ、駿一だよ」と、顔を絹江に向けて、そう言った。しかし、絹江は他人に初めて会ったときのようなどぎまぎした表情をした。 

「思い出してくれよ、駿一だよ」 

上村は繰り返したが、反応がない。 

彼は傍(そば)にいるケアマネージャーとさおりの方を見て、「俺、親不孝だったからな。見たくもないんだろうな」と、頭を掻きながら冗談を言って、その場のお茶を濁した。 

しかし上村の実際の心の中は、母になんともいいようのない申し訳のなさでいっぱいだった。 

絹江は顔を上村からさおりに向けた。 

彼女はさおりの顔をしげしげと見て、頬笑んだ。 

「お母さん、持ってきましたから」 

 さおりはそう言って、上村の手からバッグを受け取ると、それをテーブルに置いた。そしてそこから、内部に入っているものを取り出して見せた。 

 絹江は小さな声で、「嬉しい……」と言って、その一つを手にした。 

 上村はなんだろうと思ってそれを見ると、それらは数冊の古い絵本であることに気付いたのだ。 

「覚えていませんか?」 

 さおりはそう言って、その古い絵本の一つを上村に渡した。 

上村はそれを手に取って見ると、見覚えがあった。 

「お母さんがまだ元気だったころに、聞いたことがあります。これはお兄さんや慎二さんに、夜寝るときに二人読んで聞かせた絵本だと言っていました」 

 さおりは上村に、「お母さんは、二人が元気に……」と言って、なぜか声を詰まらせた。上村はどうしたのかと、さおりを見た。 

 さおりは眼を赤くしている。 

「……お母さんは……二人が、元気に仲良く……大きくなってくれるように……」 

 上村は父と喧嘩して飛び出て、家も継がなかった。また弟の慎二と最悪の関係のままであり、自分が上村家に多大な迷惑をかけたことをあらためて感じたのだ。 

 さおりは笑顔で上村に接してくれてきたが、本当は言いたいことが山ほどあったはずだ。それを耐えてくれたさおりに言いようのない温かさを感じた。 

 絹江はさおりが持ってきた絵本のなかから、一番汚れてボロボロになったものを取り上げると、にこにこしながら声を出して読みだしていた。 

 5 

 上村はさおりとはグループホームで別れ、マンションへ帰る途中、車で高尾山のケーブル乗り場へと向かった。 

 高尾山は関東山地の末縁に位置する高さが約六百メートルの山であり、明治の森高尾国定公園に指定されている自然豊かな山麓である。 

上村はこの高尾山を登るのは久しぶりであり、しかも彼が中学生のとき、家族全員で登ったきりだった。 

 彼は高尾山口の駅前駐車場に車を止めて、ケーブル乗り場へと歩いた。昔と比べると欧米人だけでなくアジア系の外国人も多く、ケーブルカーが降りてくるのを待っていた。 

 山小屋を大きくしたような、三角屋根のケーブル乗り場で往復切符を買うと、ケーブルに乗った。 

当時上村は中学生で慎二は小学生だった。 

 確か秋の紅葉がきれいな時期であり、家族でゆっくりと休日を楽しんだ最後の記憶だった。 

 途中、ケーブルの傾きが急になり、外国人観光客は少し驚いたようだが、反面楽しんでいるように見えた。昔、日本一の急勾配で三十一度近くあるということを聞いたことがあったが、上村も久しぶりに乗ってみて、その傾きの急さに今さらながら驚いていた。 

 ケーブルカーはまもなく高尾山の中腹に到着した。 

上村はケーブルを降りると、降り口の右手に開けたところがあり、東の方の眺望を眺めた。 

彼は愕然とした。 

 靄(もや)がかかったように白けて、はっきり見えないのだ。三十年近く前になるが、上村が同じこの場所から東の方を見たとき、もっとすっきりと見えたものだった。一時期、八王子の空も綺麗になっていたと思ったが、また以前のようなスモッグに覆われて、どんよりとした空に戻って見えた。 

それでも八王子市街はもちろん、相模原市などを中心とした関東平野の街並みや筑波山、房総半島まで、ぼんやりとだが、眺めることはできた。 

上村はふと気づいて、ケーブル乗り場の横の小道を通って、西の方にある開けた場所へと向かった。 

西側には横浜方面の市街地が広がり、さらに丹沢山地や富士山も見渡せた。ここも東の方の眺めと同様にスモッグがひどいのか、昼間に靄(もや)がかかったように霞んで見えた。さらに土地開発が進み、山林がかなり削られているように思えた。 

上村は三十年という年月の重さを感じながら、昔のことを思い出していた。 

 しばらくそこにいたが、足は自然と当時両親とともに参った薬王院の方へと足が向いた。 

 薬王院の方へと山道を登りながら、絹江が歩きながら、「この薬王院はね、昔、天皇様がね、行基という偉いお坊さんにお頼みになって、そのお坊様が建てたのよ」と、教えてくれたことが脳裏に浮かんだ――。 

子供の頃の母との会話などほとんど記憶に残っていないが、なぜかこの高尾山薬王院へと向かうときのことは覚えていたのだ。 

しばらく歩いて山道を左へと曲がると、高尾山薬王院飯(い)縄(づな)権現堂へと向かう石段が、ずっと続いていた。 

その両側の岩斜面には、青銅でつくられた高さ八〇センチ程度の童子の立像がところどころに点在している。当時の上村も慎二もその銅像の多さに驚き、銅像がすべて子供のような表情だったせいか、薬王院にかなり親しみを感じたのだ。 

「この童子様はね、不動明王様のお供なの。不動明王はお天道様ね。だから男らしさがあるけど、ここの童子達はみんな可愛い顔してるでしょう?」  

中学生の上村は絹江の言葉に、石段の横にある童子像に近づくと、その像の顔をなでたり、頬をピタピタと叩いたりしてふざけた。 

「駿一、そんなことしてると、バチがあたるわよ。さあさあ、ちゃんと拝んでね。童子様の名前を唱えると、童子様が背後から守って悪霊を退散させ、長生きできるの。童子様一人ひとりに、一千人の従者が率いていると言われているんだから」 

 絹江は上村と小学生の慎二といっしょにその童子に拝み始めた。 

 そのとき、すでに石段を登り切っている父駿治が、上の方から上村らを呼ぶ声がした。上村はそれに気付いて、絹江と慎二に声をかけると、急いで石段を登り始めた。 

 絹江と慎二は上村の声に、急ぎがちに深くお辞儀をすると、なにか彼女は慎二に話をしながら石段を上ってきた。 

 しばらく登っていくと、絹江はある童子像の前で立ち止まり、両手を合わせて熱心に拝み出した。それから上村と慎二にも拝むように言った。 

「この童子様はね、不思議童子っていうのよ」 

 上村はそのとき絹江に驚いて尋ねたのだ。 

「フシギって、あの不思議(、、、)かな?」 

 絹江は頬笑んだ。 

「そうよ、あの不思議(、、、)っていう漢字よ。この童子様は一切の邪念のない宝石のような心を持っているの……」 

 慎二はそのとき、絹江に、「宝石のような心……?」と繰り返し聞いた。 

「そうよ、宝石のような心……人間にとって、もっとも大切なものよ……」 

 そのとき、また石段の上から父親の呼ぶ声がした。 

 上村は手を振って石段の上の父親に合図すると、絹江に、「そんなの、俺には無理さ。宝石のような心より、本物の宝石の方がいいじゃん」と、軽い冗談のつもりで言った。 

 すると絹江は少し怒った表情をして、「駿一、だめよ、そんなことを考えちゃあ!」と窘(たしな)めた。 

 上村は『へへッ』と誤魔化し笑いをして、「親父が呼んでるからさ、俺、先に行ってるから」と言うと、気まずさを振り切るように石段を駆け上った。 

石段を上りながら上村が振り返ると、絹江と慎二の二人はまだ熱心にその童子像に拝んでいた。 

  

上村は静けさに包まれた石段を上りながら、過去と現在が交錯するような場で、母の絹江と弟の慎二の心持ちを考えた。 

今になってやっと、二人のその時の気持ち、とくに母親である絹江の気持ちがわかるような気がした。 

上村は石段をゆっくり登りながら、あたりの樹々をそよがせる風の音に、多くの人々の祈りの声が聞こえてくるように思えた。 

6 

当日の朝、彼は京成橋近くにある駐車場の、奥に空いていた狭いスペースに車を駐車させると、車のなかでランニングウェアに着替えた。そして陵南橋の西側の受付テントで受付けを済まして、ランナー達が集まっているスタート地点へと向かった。 

前日の夜もまた嵐のような豪雨が降り、川の水が増えて東の方へ流れていた。七時を過ぎたばかりであるが、今日も七月の太陽は暑くなりそうな鋭い光を浅川の周辺に投げかけ始めていた。 

上村は朝早いため身体が冷えるのを心配していたが、この時間でもすでに蒸し熱く、上村電子お揃いのユニフォームが汗で濡れているのに気付いた。 

このユニフォームは慎二と会社の若手で考えてつくったと聞いていた。半袖のランニングウェアで右胸に『UEMURA ELECTRIC』と白い文字が入ったシンプルなユニフォームである。全体の色がエメラルドグリーンであり、暗闇でも安全なように蛍光入りの着色材が入っていて、よく目立った。上村自身もこの鮮やかな色合いのウェアが気に入っていた。 

受付けを済ませた参加者は、カラフルなユニフォーム姿で浅川河川敷のあちこちに見られた。彼らは準備のトレーニングをしたり、談笑しながら身体を動かしたりして、出走を待っていた。まだコロナ感染を心配してか、マスクをつけたランナーも見られた。 

上村は、木島や部下の丸山、そして友梨らがこのどこかにいると思えたが、ハーフマラソンである二十キロと十キロ出走者合わせて、二百名以上いるランナーのなかから見出すことは出来なかった。 

周囲を見回すと、テント近くに立ててあった看板には、東京都の職員で実業団代表選手である羽田行雄の大きな写真が貼られていた。従来の小中学生が参加する一・五キロ、三キロ、五キロはなく、十キロ、二十キロの部しかなく、当日受付けはしないことなどの注意も書かれていた。そして熱中症対策が事細かく書かれており、注意を喚起しているのがよくわかった。 

このロードレースのメインは二十キロのハーフマラソンであり、八王子市北西から東へと流れる南浅川の流れに沿って、綾南公園を出発して土手の上を東の浅川と合流する鶴巻橋まで走る。その鶴巻橋から浅川の流れに従って、東へ河原のコースを浅川大橋下まで走り、ここが折り返し地点となっていた。 

 七月であり、開催者は気温の上昇を考えて、通常十時スタートを八時に繰り上げたが、すでに太陽は暑い光の束を浅川に沿ったコースに投げかけ始めていた。 

 上村を含めて二百名以上いるランナー達は緊張した面持ちで、スタートを待ち続けた。  

時間が近づいたのか、大会関係者が演台に上って大会の趣旨や競技上の注意を述べた。彼が演台を降りると、次にスターターピストルを片手に持ったもう一人の大会関係者が登壇した。 

遊び半分の代理参加のつもりの上村も、次第に緊張感が溢れてきて、出走の態勢を取った。 

「……三、二、一、スタート!」 

カウントダウン終了と共にスターターピストルが、太陽がまぶしい天空に向けて放たれた。 

 一斉にランナー達が前へと出走し始める。上村の周囲がどっと走り出すのに押され、彼も前へと走り始めた。 

 幾つもの参加ランナー達の背中が壁のように見えるなか、上村はスタートの走る速さに遅れないようについて行った。 

 お互いの身体が触れ合っていたスタートから、しばらく走り出して数百メートル以上進むと、平面状に群れて走り出したランナー達の群れにバラツキが出始め、次第に直線状の走者の流れに変わって行った。 

上村は呼吸を整えながら、スタート時のアップペースに遅れないように走った――。 

 上村は三キロ地点である水瀬川橋を左に見ながら走り、数字ゼロの形状に似た高さ二メートルほどの現代彫刻像を過ぎて、浅川と南浅川が合流する広い河原に出た。 

コースは大きく右に折れ、まっすぐ東の方へと伸びている。 

上村は浅川大橋下の折り返し地点まで、コースである土手上の舗装道路を直進した。 

土手の上から右手には住宅地が見え、その先には八王子市街地の建物を見えた。左手には浅川の河原が広がり、その東側には北部工業団地が広がっている。 

上村がなんとか七キロ地点の鶴巻橋のあたりまで到達すると、土手の左手下にある河原沿いのコースを、東京都都議会から招待された羽田や実業団レベルのトップクラスランナー達が折り返して来るのが見えた。 

 羽田はトップを走ってその後に続く実業団クラスのランナー達を引き離していたが、顔が紅潮し暑さがこたえているようで、激しい呼吸をしているのがわかった。 

 彼から少し離れて、五十名以上のランナーとすれ違った。 

羽田に後続する彼らも、異常な暑さで顔を真っ赤にし、いよいよ後半にむけてペースアップしてきている。 

 後続ランナーのなかには木島の部下の丸山の姿が見えた。上村は結構いい位置で走っているように思えた。丸山は上村とすれ違いながら笑顔を見せ、すこしピッチを上げたようだ。 

この後続の一群が過ぎると、かなり距離があいたが、次の一群のなかに木島の姿が見えた。木島も顔を上気させ、苦しい顔を一瞬笑顔にして上村に挨拶し、またレースに専念した。 

彼は浅川大橋下でターンすると、ピッチをあげて後半の復路十キロコースを走った。それからしばらく河原沿いをもと来た方へと走ったが、やはり思っていた通り、後半のコースは高尾山方面へと向かうため、道が少し上り坂になっていることがわかった。下手にペースを上げると、暑さと疲労で倒れると思い、ペース配分に気をつけた。 

帰りコースは右手北側河原沿いの道であり、折り返し地点へと向かって左手南側土手の上を走る選手達の姿が見えた。 

スタートしたときから時間が経ったせいか、天上の太陽がやけにギラギラと照り出したように思えた。後半のコースは少し登り坂であり、太陽の熱射で道路の上にかげろうが見えた。 

かげろうが上村の視界を、ゆらゆら揺らしている。 

上村は早くも意識がぼんやりとなり始めて来たことに驚き、気持ちを引き締めるように注意した。 

往路十キロを加えた鶴巻橋の十六キロ地点を過ぎたところで、左手の給水ポイントに気付いた。 

あまりの暑さと乾きに木島の言葉を思い出し、給水ポイントに近づいて紙カップの水を二つ取ると、一つはいきなり頭から水をかけた。もうひとつはコップの口を潰して水で喉を潤すと、残った水を靴にかけた。 

足の裏が熱い鉄板のいるように暑かったからだった。 

だんだんと意識がぼんやりとしてくるなか、上り道のコースでピッチをあげた。 

まだ後半を走り抜く余力はあったが、この暑さに不安が過った。 

そのとき木島の『オーバーシュート(、、、、、、、)』という言葉が浮かんできた。と同時に、茫然とする意識のなかで、美沙子の不思議そうな表情とあの言葉が蘇った。 

《どうして闘(サイ)剣(フォス)が装着された重装備を脱がなかったのかしら……?》 

 上村は美沙子の言葉が、何度も繰り返し頭の中でこだまするのを感じた。 

美沙子の声が遠くに感じ始めたとき、暑さで意識が次第に朦朧となって、気力が萎えそうになってくる。しかし彼は、眼を前方へ移し、さらにピッチをあげた。 

上村はゴール目指してひたすら走った。 

もう太陽は天高くあがり、光の刃をギラギラと上村に突き刺していた。 

上村はすでに一時間以上この炎天下を走っており、当初はいろんな思いが脳裏を駆け巡っていたが、だんだんと、ただ早くゴールにつきたいという思いしか浮かばなくなっていた。 

一人、またひとりと上村は順位を上げていった。 

前を苦しそうに走るランナーには見覚えがあり、羽田の後を追っていた実業団クラスのランナーだった。暑さを計算に入れず、前半にピッチを上げすぎたのだ。 

上村は彼を追い抜いたが、あまりの暑さに、ますます意識が朦朧としてきた――。 

走りながら、どこからかさおりの五十六位という応援する声が聞こえたが、どこで応援しているのか探す気持ちも起こらなかった。 

彼はひたすら前へと走り、早くゴールで休みたかった。 

休みたいという気持ちと、もっと早く、もっと順位をあげてという気持ちが拮抗した……。 

 上村は前方に給水ポイントがあることに気付き、十七キロ地点である水無瀬川橋を過ぎて、あとゴールまで五キロに地点で再度給水した。 

 しかし依然として太陽はギラギラした熱射を彼に浴びせ続け、意識朦朧として給水ポイントで別のランナーにぶつかりそうになった。 

 あわててそれを避けて、紙コップを二つ掴んだ。その一つの紙コップの水を飲み、もう一つの紙コップの水で両足を冷やした。 

 最後の五キロだと感じて、彼は力を振り絞って走り始めた。 

 かげろうが立つコースで、視界がゆらゆらと揺れ続けている。 

途中、折り返し地点で上村の前を走っていたランナー達が、暑ささで次々に離脱するのが見えた。 

また数名が河川敷そばの樹木の陰で休んでいるのが見えた。 

彼の横を折り返して来た友梨が抜き去っていくのを横目で見ながら、もはや反応する元気もなく、ひたすら休みたいがためにゴールを目指して走った。 

暑さで雲の上をふわふわと走っているように思えた。 

遠くに人だかりとゴールらしきアーチが見え、すでにたくさんのランナーがゴール前で力尽きたように倒れこむのが見えた。 

担架を急いで持っていく大会関係者の姿もぼんやりと見えた。 

上村はさらに残った力を振り絞って走り続けた。 

あと五百メートルくらいだろうか……? 

上村はぼんやりとそんなことを考えながら、ゴールまでの左右の道に人々がなにやら声をはりあげて応援しているのに気付いた。 

彼は大きな呼吸を数回繰り返して気を引き締めると、両側に立って応援する人々の間を、ただひたすらゴール目指して走った――。 

一人、また一人と抜き去っていく。 

上村自身はゴール間近で、意識が遠のくように感じた……。 

第三章 アテナ 

1 

翌々日の月曜日の朝、上村が会社に出ると、総務部の掲示板に北部八王子工業組合新聞が張り出されており、多くの社員達がその新聞に見入って談笑していた。 

新聞にはロードレースの記事が、第一面に写真付きで掲載されていた。 

その写真には実業団の代表ランナーである羽田が、担架に乗せられて運ばれる様子の写真であり、彼のその背後には上村がゴールで両手と膝を道路について倒れ込もうとしている姿が見えた。 

右側には大きな見出しがあった。 

『八王子ロードレースで熱中症続出!』 

『ランナーもスタッフも、暑さで緊急搬送』 

『遅すぎる救護、羽田選手の体温四〇度!』 

上村はその見出しを見ながら、開催前日激しい雨が降り雨水が残ったままの道路に、夏の太陽が熱射を放っていたことを思い出した。ロードレースコース全体の温度も湿度も、異常に高くしかも無風状態であり、高温高湿度がもろにランナーを襲ったように思えた。 

彼もゴールしたときは意識が朦朧としており、記憶がはっきりし出したのは、木島の車の後部座席でしばらく休んだ後だった。  

上村は熱中症前の症状だと木島から言われ、丸山も心配して十分休むように言われたのを覚えていた。そのため上村はロードレースの結果を、まったく知らなかったのだ――。 

そのとき始業のチャイムが鳴り、社員達は自分の持ち場に帰っていった。 

上村は一人になって総務部の部屋全体を見回した。しかし、原田の姿も木島の姿も見えなかった。彼は不思議に思いながら、自分の机のところへ行き、作成を続けていた顧客リスト台帳を机の上に置いた。 

総務部の奥のドアが開き人の声がしてその方を見ると、慎二を先頭に役員達が部屋に入ってきた。役員達は二階の工場から下りて、総務部に戻ってきたようだった。 

慎二は難しい顔をしながら、すぐ後ろにいる木島に話しかけている。 

木島は土曜日のロードレースによる疲れも顔に出さず、慎二の相手をしていた。慎二ら役員達は上村の机の前を通り過ぎて、そのまま特別会議室に入った。 

上村は慌てて胸ポケットから業務手帳を取り出して、今日の予定を見た。朝一番に役員会議と書いてあった。上村は今日、役員会議の日だったのかと気付いて、すぐに会議室に向かった。 

全員がそれぞれいつもの自分の席について、緊張した面持ちでなにか話している。 

慎二は資料のページをめくって内容を眼で追い、そして腕時計を見た。 

「そろそろだな。では皆さん、頼んだよ。段取り通りで行こう」 

 彼はそういうと、緊張した面持ちで席を立ち、玄関口へと向かった。他の役員達も彼の後に従った。 

 上村も立ち上がったが、自分の前を通ろうとする木島の腕を捕まえ、小声で尋ねた。 

「今日は何かあるのかな?」 

 木島は焼けた顔で上村を見て、「顧問にお伝えしていましたよね。今日はジャパンエレクロニクス社、あの安田課長が来るんですよ。顧問が呼ばれたんじゃなかったですか?」と、驚いた表情をした。 

上村は木島の話を聞くと苦虫を噛み潰したような表情をして、「そうだったな。しかし、慎二の奴、俺になにも言わなかったよ。言えば、俺がシャシャリ出ると思ってのことだろう」と呻くように言った。 

 木島は上村を促すと、玄関口へと向かった。 

 しばらく全員で待っていると、ジャパンエレクトロニクス社の安田がタクシーで、正面玄関に着いた。 

 慎二は後部座席のドアが開いて、安田がタクシーから出てくると、車に近づいて彼を出迎えた。 

「お忙しいところ、お出(いで)で頂(いただ)きまして、ありがとうございます」 

 慎二は安田に丁寧な挨拶をした。 

 原田、太田、木島、そして長谷川は、慎二に続いて、頭を下げた。上村も慌ててそれに倣(なら)った。 

 安田は上村電子工業役員の出迎えに笑顔で応えて、次に慎二の方を見た。 

「社長、今日は期待していますよ」 

 慎二は固い顔をしたが、すぐに「ええ、大丈夫です。さあ、どうぞ」と笑顔を見せると、安田を会社のなかへと案内した。 

上村は、安田の言葉がどういう意味なのかと少し疑問に思いながらも、慎二が安田を連れて眼の前を通り過ぎるのを待った。 

 慎二は先頭に立って、総務部の奥にある会議室に安田を案内した。 

 上村や原田、太田、木島も後に続いた。 

 総務部にいた友梨は安田の姿に気付いて、すぐに立ち上がり、彼に向かってお辞儀した。そして会議室へ走り寄り、部屋のドアを開けた。 

 慎二は会議室の内部に入ると、安田を部屋のなかに招き入れた。 

『コ』の字型に並べられた会議机が配置されており、慎二は安田を会議室の一番奥に座らせ、自分は安田の対面の席についた。 

 上村らも慎二の左右の会議机に座った。 

 慎二は安田が席につくと、提示している資料の説明を始めた。 

 安田は慎二の説明に、ときどき頷きながら聞いた。 

 慎二は書面での説明を終わると、「では、直接見ていただいた方がいいと思いますので、工場に案内しましょう」と言って、立ち上がった。 

 安田も頷くと、書類を持って立ち上がり、慎二の後に続いた。 

慎二は製造工場のある本館二階へと安田を案内した。 

 上村も、慎二ら役員達の後ろについて、新棟総務部を出て二階への階段を上がった。 

2 

 製造工場のドアを開けると、とたんに機械油を焦がしたような独特の異臭がした。 

 二階工場は東西に五○メートル程度あるフロアで、南側の窓から明るい太陽の光が工場内を照らしていた。 

 この工場には南側の窓と平行に東西三つの製造ラインが設置されており、それぞれ第一ラインから第二ライン、第三ラインと呼ばれていた。これらのラインでテレビ電子回路基板やパソコンの電子回路基板を製造しているのだ。 

 工場内部に入ると、慎二は先頭に立って安田に説明を始めた。 

「ご存じだと思いますが、電極である針状のリードを、電子回路基板の表面に設けられた細孔に通し、裏面に突き出るように自動機で挿入します。電子回路基板の裏面にスプレーで噴霧されたフラックスをフラクサ設備で塗布します」 

慎二はそう言って、真新しいフラクサ設備を指さした。この装置は、業務机を一回り大きくしたような箱型の装置に見えた。 

 安田は熟知しているという表情であり、ほとんど関心を示さなかった。 

 慎二は木島に目配せした。 

木島が頷いて製造が続けて行われているライン近くに安田を案内し、彼の方へと進み出た。 

「フローはんだ付けプロセスとしては、まず先ほど社長が説明されたフラックス塗布プロセスがあり、それが済むと次のプロセスとして、予備加熱プロセスがあります。当社のはんだ付け装置は、予備加熱乾燥プロセス機構が内蔵された装置となっております。ご覧のように、これが幅一・五メートル、高さ二メートル、長さ四メートルの予備加熱ユニット内臓はんだ付け装置です。フラックス塗布装置とはんだ付け装置が連結された構成となっていますが、スプレーフラクサ設備でフラックス塗布後、電子回路基板を塗布装置からはんだ付け装置へとコンベアで搬送していきます。この搬送する間に予備加熱乾燥ユニットで基板の乾燥を行い、はんだ付け装置へと移送する構成となっています」 

木島ははんだ付け設備の方へと近づき、製造が続いている設備の稼働状況を手で差し示しながら説明した。 

彼は各種プロセス機能のマッチング設備調整を行い、良品生産が可能となった予備加熱炉内蔵はんだ付け装置を、胸を張って安田に説明した。 

 次に木島は安田に、回路基板が次々とコンベアで運ばれ、はんだ付けが不良なく終わっていく状態を説明した。 

 彼は最後に最新スプレーフラクサーの一部を指差しながら、「ここにスプレーフラクサの防爆機構があります。余分のフラックスは上部のダクトへと吸引されて、屋外に効率よく排出されて滞留することはありません。また、スプレーフラクサ内に発生した静電気をすべて除電する機構となっています」と言った。 

彼は天井のダクトを指差し、次に設備の方へと屈(かが)みこむと、下部の扉を開けた。 

安田は身体を屈めると、その設備のなかをじっくりと覗き込み始めた。 

慎二や木島は、緊張した表情をしながら、後ろから見守った。 

安田はしばらく設備内部を見ていたが、身体を起こすと、慎二に向かって大きく頷いた。 

慎二も木島も、ホッとした表情をしてお互いに顔を見合わせた。 

木島は安田に、「では次を説明しましょう」と言って、ライン後部の方へと案内した――。 

  

 見学後安田を交え、社長室横の特別会議室で役員らとの意見交換会が行われた。 

 安田は慎二ら上村電子の役員らと相対して会議机につき、重い口を開いた。 

「今回見学させていただいて、前回の納期遅れに対する対策は万全と感じました。前回のトラブル事故をふまえ、原材料のフラックスがアルコールを主成分としている根本的問題に対して、上村電子様として、会社ぐるみでの十分な対応をされていると思えました」 

安田はチラッと原田の方を見て話した。 

「原田様からは、納期遅れとなった原因がフラックス塗布装置が老朽化し故障したため、この復旧に時間がかかったと聞いていました。わたしは今日装置を見させていただき、最新の塗布装置を新たに購入されており、前回のトラブル対策として十分な対処がなされたと思っております」 

安田は穏やかな表情をして、慎二達に言った。 

「当社は先代社長時代から深い関係があり、本日の見学の結果は前回のトラブル対応に十分に対処され、今後トラブル無きようリスク管理をされていると報告書には書きたいと思います。本当に御苦労様でした」 

 安田が見学結果をそう講評すると、慎二ら、原田、太田の役員達もお互いに顔を見合わせてホッとした表情をした。 

木島も固かった表情を和らげ、慎二と顔を見合せて笑顔をつくった。 

話を続ける安田の表情が次第に厳しい顔付きへと変わっていった。 

「原田様からはスプレーフラクサの故障復旧のために納期が遅れたとの報告でしたが、わたしは設備が古いために防爆機能がうまく機能せず、フラックスに引火して塗布装置が爆発したのではないかと思っています。当社でも海外関係会社の工場では、フラックス塗布装置が装置内静電気の発生で、たびたび小さな爆発が起こっていますし、国内工場でも夏には爆発の発生も聞いています。今回のトラブルの本当の原因は私にはわかりませんが、それがどうであれ、ジャパンエレクトロニクス社の関係会社が製造中に火災になった場合、当社も大きな被害を被ることになるため、心配しておりました。しかしながら、最新設備を導入されるなどの根本的な対処をなされましたので、今回安心した次第です」 

 安田は最後まで緊張した面持ちで話した。 

彼の話を聞きながら、慎二の表情が固くなっていくのがわかった。 

上村は爆発と聞いて、思い当たることがあった。 

高校生の頃、帰宅すると、警察と消防車が来ていたことがあった。その日は晴天続きの暑い夏だったのを記憶している。 

当時上村電子は米国向け電子レンジ回路部品製造が好調で、膨大な量の電子回路基板を製造していた。ジャパンエレクトロニクス社川越工場からの大量発注が続いており、工場は二十四時間,三交代で製造を続けていた頃である。 

工場に警察や消防署が来ていて、現場検証をしていた。 

驚いた上村が工場の従業員に聞くと、製造ラインのフラックス塗布装置が爆発したと聞いた。 

上村は当時、警察や消防所から質問責めにあった父親が、「はんだ付け材料のフラックスがアルコール主成分なんだよ。しかも電子回路基板がコンベア搬送されるとき静電気を発生する。こりゃ、製造プロセス上、爆発は避けられないよ。大企業なら安全管理機器を十分に製造工程に設置できるだろうが、下請けじゃあ安全管理にそれだけ十分な投資はできないじゃないか。製造プロセスの仕組み上、多少の火災発生は仕方ないさ」と、悔しそうに言っていたのを思い出した。 

上村は父の時代の火災事故を思い出して、現在さらに経営状態が悪いなか、当時の製造設備が老朽化し、また作業者も少なくなってメンテナンスも定期的にできなかったことが、事故につながったと思えた。当時よりも大事には至らなかったが、小爆発と火災を発生させたのだと理解した。 

 上村は自分の横に座っていた慎二を肘で突(つつ)き、「やっちゃったのか?」と小声で聞いた。信二は上村の他人事みたいな言葉使いにむっとした表情をすると、眉を釣り上げて上村を睨み、顔をそむけた。 

安田は役員達に向かって話を続けた。 

「私達エレクトロニクス業界を取り巻く状況は、コロナ不況を受けてさらに逼迫(ひっぱく)して、とくに我が社のような家電製品を主力とする電気メーカーは外国勢から凄まじい攻撃にあっています。外国勢は価格戦略で当社を駆逐しており、海外の主要市場では連敗を続けています。外国勢に勝つためには、価格体質を強くする必要があり、どうしても人件費が安い中国に製造を依存せざるを得ないわけです」 

 安田は止むにやまれぬという苦しい表情をした。 

「しかしながら当社もこれまでの取引きもあり、関連会社の皆さんが製造されているものを、いきなり中国やベトナムでの生産へとすぐに移行して手を切るつもりはありません。とくに中国生産については、現在の日本と中国の政治情勢も考え、日本での高い品質製造を継続したいという強い気持ちを持っています。しかしながら外国勢の品質も向上して新たな商品も市場に投入されてきており、次第にそうは言っておれなくなってきていることは、上村電子さんにもご理解いただけると思います…」 

 安田はそう言いながら、また言いにくそうな表情をしながら切り出した。 

「先週経営トップが集まった全社経営会議では、コスト力強化を推進するために、関係会社様のグループ分けが論じられ始めています。個々の関係会社様が、技術、ノウハウ、サービス力など、どういう点で特長を持たれているのかを明確にするようなことが検討され始めています。このような特長のある関係会社は国内製造での取引き継続をお願いしたいと思っています。例えばこの北部工業団地にある宇和スクリーン工業さんは、独自の技術を持っていらっしゃって、今後とも継続した取引を当社からお願いしていく予定としています。一方、なにも特長がなく、どこでもつくれるようなものなら、中国で安く製造することが経営幹部のなかで議論され始めています。経営会議での結論として、関係会社様にお願いしている国内製造品の約三割を、中国やベトナムでの生産への移管という方針が出されました。来年年初に予定している科学万博向け社内技術コンペティションの提案も、関係会社さんのグループ分けによる区別化の意向もあるようです。わたしは全社の環境技術を担当していますので、上村電子様には今後とも取引を継続していくために、ぜひとも環境技術の面で国内に残せる強い技術の提案を、お願いする次第です…」 

 締め括(くく)った安田の言葉に全員が固い表情で眉根を寄せて黙った。 

慎二は今回のトラブルに対して新規設備導入で全面的に危機を回避し、今後の取引を継続していくということを安田に確約してもらえるものと期待していた。しかし安田はさらにその先へと行かないと、取引を止めると言っているように思えた。 

3 

メタルブルーのBMWが上村電子工業の門から出て、多摩大橋通りへ向かうと、閑静な市街地を宇和スクリーン工業のある北東の方へと走った。しばらく進んで、多摩川の手前あたりで脇道にそれて、こじんまりとした三階建ての建物がある会社の構内に入った。 

車から上村と慎二は下りて、壁面に『宇和スクリーン工業』と書かれた看板が設置され、屋根が丸いカマボコ型でベージュ色の建物のなかに入った。 

上村は今後の経営の進め方に悩んでいた慎二に、安田が言った宇和スクリーン工業を訪ねてみることを勧めたのだ。彼は慎二が断るのではないかと思っていたが、意外にも賛同したため、早速、宇和スクリーンの大山と連絡をとり、今回の訪問になった。 

入口から入ってすぐが営業部になっているようで、若い営業社員の活気に溢れた電話応対の声が聞こえてきた。上村らの他にも来客があり、担当の営業社員が仕切りのある会議机へと案内した。 

上村が大山の姿を探していると、笑顔で手を振っている大山の姿が眼に入った。大山は大黒様のような笑顔を浮かべて、上村と慎二を出迎えた。 

「久しぶりやなあ、二人揃ってこうしてうちに来るのは」 

 彼はそう言って、二人を奥の特別応接室へと案内した。 

女子社員が会議室の部屋を開けると、大山は二人を会議室内へと導き、ゆったりした本革のソファに座らせた。ドアのところにいた女子社員が、お辞儀をして会議室を出てドアを閉めた。すると部屋の外の喧騒が遮断され、室内が一度に静かになった。 

彼はテーブルの上に置いてあった新聞を広げて、二人に見せた。 

「ほれ、この記事見たやろ?」 

上村が八王子新聞の大山が指さした記事を見ると、そこには大きく、「実業団代表選手、暑さでダウン」という記事が一面に出ていた。その記事の下には羽田が苦しい表情で倒れそうになり、数名のランナーから追い抜かれているカラー写真が大きく掲載されていた。 

よく見ると、羽田のすぐ後ろから抜き去ろうとしているのは上村電子の丸山であり、エメラルドグリーンのユニフォームがカラー写真で鮮やかに写されていた。 

「わしも応援に行っとったけど、丸山君が頑張ってくれたおかげやな。うちがつくったユニフォームが、ほれ、新聞に大きく出してもらえたわ。ほんまにありがたい」 

大山はそう言って豪快に笑い、煙草の煙を煙幕のように自分の周囲に漂わせた。 

「こちらこそ、いいユニフォームをつくっていただきまして、当社の選手が大変喜んでいました。有難うございました」 

慎二はそう言って頭を下げた。 

上村は八王子市の地方新聞に、こんな写真が出ていたとは知らず、思わずその新聞を手にとってよく見た。そして大山に、「いやあ、昔の北部工業団地浅川親睦マラソン大会が、こんな盛大に開催されているなんて、知りませんでしたよ」と笑顔を向けた。 

「ハハッ、駿ちゃんはしばらく消えとったからな。いっしょに走っとった若い女の子が、駿ちゃんの嫁はんかいな? 昔、見たときは、スラッとして、もっと根性ありそうな顔しとったように思うけど」 

上村は慌てて修正した。 

「大山さん、彼女は総務部の事務員ですよ。ぼくは、まだ独身です」「なんやまだ一人モンかいなァ。あの娘(こ)とはおジャンになったんか、なんや、情けない。駿ちゃんらしくないでェ。しかし、上村の家に来とったあの娘(こ)、なかなか根性ありそうやった。あれはもしかしたら、隠れ(、、、)アゲマン(、、、、)かもしれんで」 

大山はそう言ってまた豪快に笑うと、煙草に火をつけた。 

上村はなぜ大山が美紗子のことを知っているのかと不思議に思ったが、もしかすると彼が美紗子と結婚を考えていたころ、大山は美紗子を見たのかも知れないと思い巡らせた。 

上村は大山が昔の話を切り上げたのを確認し、現在の上村電子の状況について慎二に尋ねた。慎二はこれまでの安田とのやり取りを含めて大山に説明を始めた。 

そのとき上村は、美紗子と実家を訪ねたときのことを思い出し、大山はそこで彼女を見たのだと気付いた。 

上村は確かにあのころ美沙子を、上村自身や彼の家族、そして上村電子工業を守ってくれる女神アテナのように感じていたのを思い出した――。 

4 

上村が美紗子と付き合い始めて三年以上たち、世田谷梅ヶ丘の高級マンションで二人が暮らし始めたころだった。この高級マンションは上村が担当する外資系会社の社長が資産として購入していたもので、二人は購入も視野にいれて賃貸で入居していた。 

美紗子の所属が欧米一部に移動になり、上村の部下となったのだ。上司と部下の関係ということから、お互いのことを会社には秘密にしていた。美紗子は海外出張が多くなり、借りたマンションもほとんど一緒に住む機会がなかった。 

ちょうどその頃、上村電子工業の新棟工場で増築があって、新しい製造ラインが新棟の二階に増築された。上村電子工業は、最新の設備を導入して二製造ラインを設置した。 

絹江は上村への手紙に写真を同封して、日本に帰る機会があれば、ぜひ見てほしいと連絡してきていた。上村は実家の重苦しい雰囲気が嫌ですぐ断ろうかと考えた。しかし、たまたま上村も美紗子も盆休みで帰国しており、彼女といっしょなら帰りやすいと思った。 

上村が美紗子に言うと、彼女は喜んですぐに了承し、挨拶に行くと応えた。美紗子の笑顔を見ながら、いい機会でもあり、彼は両親に、美紗子を紹介しようと思ったのだ。 

彼は美紗子に、「そのとき両親に、婚約者として紹介するよ」というと、彼女は顔を輝かせて大きく頷いた。 

上村は絹江に連絡して、八月十日の日曜日に上村電子に行くと伝えると、電話の向こうの絹江の声が弾んで聞こえた。 

上村は中央線で八王子駅まで行き、北八王子駅からタクシーで上村電子工業へと向かった。 

タクシーで上村電子工業に到着すると、工場内はすでに盆休みで蝉の声だけが工場内に響いていた。 

上村が実家の門を入ると、絹江はすぐ出てきて二人を出迎えた。上村の後ろにいる美紗子を見て、絹江は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに驚きの顔を笑顔に変えた。 

 美紗子は絹江に丁寧に頭を下げた。 

「杉本美紗子と申します。上村主任にはいつもお世話になっておりまして、今日はご挨拶に参らせていただきました」 

 彼女は明るく響く声で絹江の方を見た。 

「あなたが美紗子さんね。駿一から聞いておりましたよ。さあさあ、お上がんなさい」 

「お盆のお休みのときにお邪魔しまして、申しわけありません」 

 美紗子は少し緊張の面持ちで、また頭を下げた。 

「そんなことないわよ、さあ、遠慮なしで、上がって、あがって」 

 絹江は笑顔で美紗子に応えながら、玄関口にあるスリッパ立てから二足を取り出して、玄関敷きの上に揃えて置き、家のなかへと迎え入れようとした。 

 上村は絹江と美紗子とのやり取りに、男にも感じとれる研ぎ澄まされた緊張の糸みたいなものを感じ、思わず口を突いて言葉が出てきた。 

「帰国するたびに思うんだけどさァ、日本の夏はますます暑くなってきているんじゃないの。母さん、そう感じない?」 

 上村は二人の緊張を和らげようと、とりとめのないことを言って靴を脱ぐと、板の間に上がってスリッパを履いた。 

「感じるどころか、本当に毎年暑くなっているわよ。駿ちゃんがそう感じるのは当然よ。それにしても、涼しい国ばかり行っていたんじゃないの。だから、なおさらなのよ」 

上村は絹江の返答に心臓を強く掴まれたような気持ちになった。彼は思わず、「涼しい国ばかりじゃないさ。東南アジアや南米にも行ってるよ。出張から東京に戻ってきてさ、東京の夏の暑さを、とくに感じるんだ」と、言葉を返した。 

絹江は苦笑すると、「ときどき絵ハガキが届くだけで、生きているのか死んでいるのかさっぱりわかりやしない。東京にもどってきていたんなら、連絡ぐらいしたらどうなのよ。こっちは、連絡のとりようがないんだからさ」と、少し苛立った口調で応えた。 

上村は絹江のきつい言葉に大きな溜息をついた。 

 そのとき美紗子が靴を脱いで玄関の間に上がり、しゃがんで自分の靴を整えると、同時に上村の靴も整えた。 

 絹江はそれを見逃さず、思わず頬笑んだ。 

美紗子は立ち上がって、「つまらないものですが」と言って、手土産を絹江に差し出し、「虎屋の羊羹(ようかん)です。駿一さんからお母様がお好きだと聞いたものですから」と言った。 

絹江は思わず頬笑んで、「気を使ってもらっちゃって、悪いわねえ。江戸前の上品な味が好きなのよ。ありがとう!」と言って、美紗子の手土産を受け取った。 

 彼女は、「さあさあ、ここは暑いから、奥に行ってちょうだい」と、美紗子を笑顔で促した。 

 彼女は玄関口の左手に続く廊下を奥へと先に歩いて案内した。 

応接室の前で止まると、彼女はドアを少し開けて何か話すと、奥から声が聞こえた。 

 美紗子はそんな絹江の様子に気付き、上村を見て小声で、「今日はお邪魔でなかったかしら?」と気遣いの表情を見せた。 

「そんなことないよ。会社は盆休み中だし、母には先にちゃんと伝えていたんだから問題ないよ。急なお客さんが来たんだろ」 

 上村はそう言いながら、学生時代にガールフレンドを連れて来て駿冶を怒らせたことがあり、内心、父が女性を連れて帰ってきたことが気に入らないのかも知れないと思えた。昔から駿治は上村に、「お前は後継ぎだから、嫁はこの会社の経営に協力してもらわないといけないからな」と、何度も言っていたのを覚えていたからだ。 

 美紗子は絹江に言った。 

「お客様がいらっしゃるみたいですね。申し訳ないです。本当に、いいんですか?」 

「あら、気にしないでね。いいの、いいの。とっても親しくしている人だから、心配しなくていいわよ」 

 絹江は笑顔でそう言って、応接室のドアを開けた。 

 彼女は先に応接室に入り、上村と美紗子に入るように促した。 

 上村は応接室の右手奥に父駿冶が白っぽい和服姿で厳格な顔をしてソファに座っているのを見た。 

駿治は例のごとく角張った顔に鋭い眼をしていた。褐色がかった鼈甲(べっこう)の眼鏡フレームをかけ、白髪をオールバックにし、顔はゴルフ焼けして健康そうに見える。 

彼は二人が入ってきてもその方を見ずに、ゆっくりと煙草をくゆらしていた。 

彼の前のソファーに、テーブルを間にして若い大山が座っているのに上村は気付いた。彼は驚いた表情で口を開けたまま、二人を見上げている。 

「こりゃ、わしは邪魔やな。めったに帰ってこない駿ちゃんがお嬢さん連れて帰って来るなんて、天と地がひっくり返るみたいやな。親父さん、もう帰りまっせ」 

 大山はテーブルに広げた業務書類を、急いでバッグに入れると、腰を上げようとした。 

「大山さん、そんなに他人行儀にしないでよ。駿一の伯父さんみたいなもんじゃない」 

 駿冶は絹江の言葉に軽く頷き、大山を押し留めた。 

彼は頷きながらあわてて座っていたソファーの位置を、駿治のすぐ前からドア側の端に移った。 

駿治はめったに見せない笑顔を美紗子に向けて、「さあ、どうぞ、どうぞ」と、彼は美紗子にソファーに座るようにすすめた。彼女にソファーをすすめながら、彼はチラチラと上村に鋭い視線を投げかけた。 

上村は思わず眼をドアの方へと反らした。このとき美紗子が駿冶の言葉に少し戸惑った表情を浮かべ、上村を見ているのに気付いた。 

上村は自分が、彼女の視線をそらしたように見えたかもしれないと思えた。 

美紗子は上村が反応しないため仕方なく、大山が座っているソファーの後ろから左手奥へと行き、軽く会釈して駿冶に対座してソファーに座った。 

 大山は駿治の視線を反らして立っている上村に気付いて、「駿ちゃん、何してんねん。ボーとしとらんと、ここにすわったらええやんか」と言って上村の手を引っ張り、美紗子と大山の間に座らせた。 

 美紗子は隣に座った上村を再び眼をやったが、彼はやはり駿冶の方を見ずに、応接間ドアの方へ視線を向けたままでいた。 

 彼女は仕方なく、初対面の厳格な表情の駿冶へ顔を上げて見た。 

「芝浦電機製作所海外営業欧米一部の杉本美紗子と申します。主任にはいつもお世話になっています。本日はお客様が来られているのに、お邪魔しまして、大変申しわけありません」 

 彼女は精一杯の明るい表情で、駿治に挨拶をした。 

 駿治は駿一が見たこともないような優しい笑顔を見せると、「今日は暑いのに、大変でしたね。とくに今日が良く晴れたもんだから、気温も上がりっぱなしだ」と、笑顔で応えた。 

 すると隣の大山が、「そりゃ、親父さん、他にも理由がありまっせ。あの駿ちゃんがガールフレンド連れて来るから、この八王子も暑くなるはずでんがな」と言うと、気まずい雰囲気の応接間に笑いが起った。 

絹江は美紗子の一挙手一投足をドア近くに立ったまま見つめていたが、彼女がハンカチを取り出して頬の汗を拭くのを見ると、すぐにテーブルの上のリモコンを取って、エアコンの冷房をきつくした。そして何か気付いたようで、応接室を出て行った――。 

5 

駿治は美紗子に、上村電子工業を立ち上げた経緯などについて、打ち解けた表情でしばらく自社の紹介をした。それが一段落すると、美紗子の方を見て話題を変えた。 

「ところでどうですか、半導体設備の海外での売り上げは?」 

「海外の半導体設備メーカーが強くて、ななかな伸びません……」 

 駿冶は美紗子に半導体の外販についていくつか聞くと、彼女はそれらについて即座に明快に応えた。 

 駿治は美紗子の話に真面目な表情で聞き入った。彼は美紗子に尋ねてみたいことがあったようで、『わたしは仕事人間だから』と笑って前置きして、少し美紗子の方へと身を乗り出した。 

「……どう思いますか、家電製品については……? 当社は扇風機や掃除機、洗濯機などの家電製品から製造をスタートしたんだけどね、いずれこれらも東南アジアや中国などが製造を始めてくる。コストでは負けてしまうしね。といって、中小企業が半導体に関する製品づくりはできない。いずれ負けてしまうことになるんだろうかね?」 

駿冶は厳しい表情で尋ねた。 

大山は駿治の美紗子への質問に、経営がうまくいっていないからか、「いわゆるわしら家電のアセンブルやっている中小企業は、二十一世紀には生き残れるかどうかっちゅうことや……」と補足して、 

彼女の方を見た。 

 美紗子は少し顔を傾けて考える素振りを見せた。 

応接室が静かになり、エアコンの音しか聞こえなくなるなか、少し考えているようで、眼が宙を舞っている。そのとき彼女はまた上村を見たが、上村は黙って彼女の方を見詰めているだけである。 

 彼女は上村を見てなにか言いたそうだったが、すぐにそれを止めて、駿冶の方を見て言った。 

「生き残れると思います……」 

 美紗子の確信に満ちた返答に、駿冶も大山も少し表情を変えて、彼女を見詰めた。 

「……ご存知と思いますが、欧州にはアラジンという家電メーカーがあります。彼らはヨーロッパで石油ストーブやトースターなどを製造しています。彼らの製造数は少ないのですが、良質な製品を作り続けており、日本では高級品ですがファンが多くいます。またデロンギもご存知と思いますが、オイルヒーターやコーヒーメーカーを製造しています。これも高級品ですが、品質も高く世界中で使われています。このように、高くても故障がなく品質のよい家電製品は、これから二十年、三十年と、二十一世紀になっても使われていくでしょう……」 

 大山は思わず口を開いた。 

「扇風機や掃除機はどうやねん? まったく新しいものが、今後、出てきよるやろうか? 構造は簡単やから、新しいもんは難しいと思うが、わしにはわからへんのや。新しい扇風機や掃除機が出てきよると、助かるねん……」 

 美紗子は頬を染めて少し考え、「わたしは出てくると思います」と確信をもった口調で応えた。そして、「ただ、どんな形態でどんな時期で出てくるのかはわかりませんが……」と、付け加えた。 

 駿治は「ほほう……」と言って腕組みをし、また大山もなにか考えている素振りを見せた。 

 そのときドアが開き、絹江が飲み物や果物を盆に入れて応接室に入ってきた。 

 緊張した面持ちに気付き、「まあまあ、また仕事の話? もう仕事の話はそれくらいにしてよね。せっかく美紗子さんが来てくれたんだからさ」と言って、飲み物を配った。 

 彼女は飲み物を配り終わると、駿冶側のソファーに座って美紗子に相対し、彼女に笑顔を向けた。 

「ご家族は国内にお住まいなの? それとも海外?」 

「父は外務省欧亜局に勤務していまして、若いころは母とオーストラリアで勤務していました。帰国してからは、家族は丸の内の官舎に住んでいます。妹も私も父の外交官としての生活を見て、企業への就職を希望しました」 

 絹江は美紗子の父が外務省と聞いて、「まあ、外務省?」と呟くと、大きく頷いて満面の笑顔を見せた。そして駿治の方を見たが、駿治はそれに反応しなかった。 

 しばらく四人でなごやかな話をした後、駿冶は、「さっきも言ったがわしは仕事人間やねん。今度、最新設備導入したから自慢したくてたまらんのだよ。美紗子さんにも見てほしいんだが」と言うと、美紗子は、「ええ、ぜひ見学させてください」と明るく響く声で応えた。 

駿治は笑顔で頷き、上村と美紗子を連れて応接室を出ると、増築した工場へと連れて行った。 

 駿冶は工場の製造ラインへと美紗子を連れていくと、自慢気に最新鋭ラインの説明を始めた。後ろから遅れ気味について来た駿一とは対照的に、彼女は熱心に新工程の説明に聞き入っていた。 

 夕方慎二がお得意様回りから帰ってきたので、上村と美紗子は慎二の車で、京王八王子駅へと送ってもらうことにした。 

 京王ショッピングセンター西口前で二人は降りた。 

慎二の車がロータリーを回って見えなくなると、京王八王子駅の入口付近で、いきなり美紗子がキッとした表情に変わった。そして黙ったまま、改札口へとどんどん歩いて行った。 

 上村は、慌てて彼女の後ろから声をかけた。 

「いったい、どうしたんだい?」 

 美紗子は応えず、そのまま改札へと急ぐ――。 

上村は走って美紗子に追いつくと、彼女の腕を取って引き留めた。 

美紗子は上村の方を見ず横を向いたまま、視線を落とし唇を噛んでいる。 

「わけがわからないよ、いったいどうしたんだい?」 

 上村は彼女の顔を見て、美紗子が怒っているのを知って驚いた。彼女の顔が青白くなって、噛み締めた唇が震えている。 

「何かあったのかい? どうして怒ってるんだい。言ってくれよ」 

 上村はどうしていいかわからず、横を向いたままの美紗子の顔を覗きこんだ。 

 美紗子は大きな溜息を吐いて、尖った眼で駿一を正面から見た。 

「……わたしは、いったいなんのためにご実家に行ったのかしら……?」 

 上村は美彩子の様子に驚いて、少し躊躇したが、すぐに、「……わかってるじゃないか……君を両親に紹介するためだよ……」と、応えた。 

 美紗子は興奮を抑えながら、途切れがちに言葉を続けた。 

「……あなたはわたしのこと、ご両親に、なにか話してくれたかしら……? あなたは、何か紹介してくれたかしら……。ご両親を前にして……わたしはあなたのなんだったの……?」 

彼女は八王子京王駅入り口前の人通りの多い場所で、途切れとぎれに怒りに震える言葉を吐いた。 

駅入り口横の喫茶店から出てきた学生達が、喧嘩しているとわかる二人を興味あり気に見て行くものや、駅へと向かいながらニヤニヤ笑って見て行く会社員もいた。 

上村は人目を気にして、「……止めろよ、こんなところで……マンションに帰ってから、ちゃんと話を聞くからさ」と、美紗子の背に手を置いて彼女を宥(なだ)めようとした。 

美紗子はそんな上村の手を一度に振り切り、眼の奥底に憤りの光を湛えながら、再び彼を真正面から見た。 

「……あなたは、いったいこれからどうするの!? ずっと芝浦電機の営業で働くの……? それとも、上村電子に戻るの……? どっちなの……?」 

上村は応えに困った。 

「どっちって……実家を継ぐつもりはないよ……だから……芝浦電機に、勤めて……そして……」 

 美紗子はさらに詰め寄った。 

「継ぐつもりはない……じゃあ、あの工場はどうなってもいいのね。お父様の代で終わりね……?」 

「……終わりなのかどうか、それは俺にもわかんないよ……」 

「じゃあ、どうするの?」 

「どうするって……わからないよ……本当に……どうしたらいいんだろう……」 

 美紗子は上村の言葉を聞いて、眼を尖らせて睨みつけた。そしてプイと横を向くと、上村の顔も見ずに改札口へと走り去って行った。 

 上村は彼女の後ろ姿を茫然と見つめるだけだった。 

  

美紗子は一週間後、なんの前触れもなく世田谷の高級賃貸マンションを出て行った――。 

6 

大山は会議室で話を続けたが、腕時計を見て、「そやそや、こんなつまらん話してもしゃあないな。現場に行こか。他の会社の人には絶対に見せへんけどな、駿ちゃんと慎ちゃんには見せたるわ」と言って、タバコを灰皿で揉み消した。そして彼は二人を別の建物へと案内した。 

 工場はカマボコ状の本社建物の隣にあり、大山はそこへと二人を案内した。隣の工場は西から東へと建てられており、西側の入口から工場内部に入った。工場内部は外からわからなかったが、工場の南側が東側奥まで簡易クリーンルームになっていて、その北側にはまっすぐ東奥まで伸びた、幅四メートルほどのグリーンで塗装された通路があった。 

大山はいくつかクリーンルームを飛ばして奥の方へと進んで、第四の部屋の前で立ち止まった。 

上村と慎二も大山の後に続くと、第四の部屋の前で止まり、内部を眺めた。部屋の東西の幅が十メートル以上あり、通路からクリーンルーム奥の壁まで八メートルほどあるように見えた。 

 大山は東側奥へと通路を歩きながら、南側一番始めのクリーンルームをガラス窓越しに見て説明し始めた。 

部屋の中にはオレンジ色の照明がついており、内部では白いクリーン服を着てマスクを着け帽子をかぶった社員が五、六名いて、なにやら実験机の上にビーカーや薬品瓶を並べて調合していた。その隣にはステンレス製で、直径七、八十センチで高さが一メートル程度の大きさの混合タンクがあった。 

その光り輝くタンクを白いバスタオルのようなヒーターが巻かれており、そこから何本ものコードがぶら下がって見えた。そのタンクの周りでは数名の若い社員が制御パネルの数字を見たり、点滅するボタンの操作を行っていた。 

「ほれ、あの光っている金属釜を見てや。あの釜で作っている材料は道路標識に使う塗料や。太陽の光で塗料が劣化すれば、道路標識には使えんやろ。だから知恵出して、太陽の光を反射するような成分を入れて開発に成功したんや。この塗料には有機溶剤、いわゆるアルコール類を一切使っておらん。すべて水や。アルコール類は蒸発して太陽光にあたると、光化学スモッグになって地球温暖化物質に変わる。だから水だけで塗料をつくっておる。こんな材料やから国の仕事やるときにはええんやな。わしらがお上(かみ)に説明するよりうまく、窓口の役人がうまく上(うえ)に説明しよるんや。この材料は道路公団に納入しておるんやけど、一度道路の公団に納入すると、結構長く、大量に使ってくれる。塗料製造プロセスは簡易のクリーンルームのなかでやっているから電気代は少しかかるが、開発塗料材料については計量して混ぜるだけや。そやから、設備投資費用はかからんし、償却も早いんやな」 

 大山はクリーンルーム内を指差しながら、説明を続けた。 

 慎二は大きく頷いた。 

 大山は次に、クリーンルームが並んだ最後の部屋である第五の部屋へと向かった。この部屋の前までがクリーンルームのようで、この部屋は簡易タイプクリーンルームのようであり、ドアがなく、透明ビニールシートが出入り用ドアの代わりの仕切りになっていた。白いクリーン作業服を着た従業員が、ビニールシートを押し開けて出入りしていた。大山もビニールシートを押し開けて内部に入り、慎二と上村も彼の後に続いて内部に入った。大山は振り返って、二人を見た。 

「ほれ、この部屋はアルコールのツンとくる臭いがしないやろ」 

 大山の言葉に慎二は部屋の片隅に置いてある十リットル製造された開発塗料のタンクの近くに行って、その臭いをかいだ。 

 上村もすぐにタンクに近づき、タンク周囲の臭いをかいだが、アルコールの臭いはしなかった。 

「こっちに来てくれ」 

 次に大山はその部屋の奥に置かれていた大きなガラスシートのところへと案内した。 

「これは新宿駅にある西急デパートのショーウィンドー用に準備しているところや。今デザイン担当者が実際塗料を使って試作しているから、見てみたらどうやろ」 

 大山が見せたのは、高さ五メートル、横幅十メートルはあるガラス板だった。そこにクリスマス用なのか、全体に白い雪が降っているなかを、六頭のトナカイがソリをひいており、そのソリには笑顔のサンタクロースが乗って手を振っている絵だった。 

「これはすべて水性塗料で、アルコールは入ってない。アルコール類は蒸発して光化学スモッグという、地球温暖化物質に変わる。だからアルコール類の入っていない、いわゆる有機溶剤フリーの塗料になってるんや」 

 大山は誇らしげに言った。 

「ウィンドーショッピング用の塗料で、溶剤の場合、乾燥させると、そのまま大気に溶剤が飛散するやろ。しかもデパートのウィンドーショッピング用ガラス窓は巨大やし、塗料を大量に使うんやな。クリスマスのときは、あっちのデパートもこっちのデパートからも要望があるし、都内の一流どころのデパートは、環境対応で社会貢献しているということが売りになるから、結構な注文なんや」 

 彼の説明に、二人は驚いた表情で頷いた。 

 大山は慎二に言った。 

「できてしまえば、こんなもん、と思うかもしれへん。でもな、やらんとできんのや。一歩足出さんと、前に進まん。わしら弱小企業は、カネがあらへんから、知恵使って、時間かけて頑張るしかあらへんのや」 

 慎二が大山の言葉に深く頷くのを上村は見た。 

 大山は父親のように眼を細めながら、「頑張ってや」と言って慎二の肩を叩いて微笑んだ――。 

上村と慎二は見学が終わると、大山に丁寧に礼を述べ、宇和スクリーン工業から上村電子へと車で戻って行った。 

上村は助手席に慎二を乗せて、多摩大橋通りを北八王子駅の方へと進ませた。 

「慎二、どう思った?」 

上村はハンドル操作しながら、助手席の慎二に尋ねた。 

「うん、大山のおじさんはうまくやっているよ。相当に苦労されたんだろうね。水ベースの塗料だから塗ったあとの乾燥が重要だ。製造時間が結構かかっているかもしれないね」 

 慎二はそう言うと大きな溜息をついた。 

「そうだな。あれだけの開発だ。十年以上はかかってるだろうな」 

上村は車を前へと進ませながら、慎二が大山の技術開発を高く評価していることを感じた。しかし慎二はそれから黙ったまま、前方を見ているだけだった。 

「どうだ? なにか参考になったかな」 

 慎二は前を見たまま、応えなかった。 

 上村は交差点の赤信号で車を停車させると、沈黙したままの慎二の方を向いた。厳しい表情をした慎二の横顔が見えた。 

上村はふっと笑って、「ピピッと来るものは、なかったか?」と低い声で言うと、信号が青に変わったのに気付いて、車を前へと走らせた。 

上村は深い溜め息をついた。 

「難しいのはわかってるよ。でも大山さんが言ってただろう? やり始めないとできないし、一歩歩き出さないと、前には行かないからな」 

 慎二は上村の言葉に、フロントガラス越しに前を見ながら、うるさそうに言葉を吐いた。 

「そりゃ、俺だって馬鹿じゃない。一歩、前には出てみたさ……。アルコールは蒸発して地球温暖化物質に変わるから、アルコールが主成分であるフラックスを、水を主成分にしたフラックスにつくりかえてみて、実際はんだ付けしてみたよ。印刷塗料とは違うんだ。はんだ付け用フラックスで水ベースにするのは、印刷塗料で水ベースにするのとレベルが違う。高校野球と大リーグ野球の違いさ。水は電気を通すからね、水ベースのフラックスの開発なんか、無茶苦茶な考えだよ」 

 上村は慎二の言葉に驚いた。 

「えッ!? じゃあ、もうやってみたのか? アルコールの代わりに、水をフラックスの主成分にして……」 

慎二は頷いて、そして、うるさそうに言葉を吐いた。 

「兄さんだって、知ってるじゃないか。親父の仕事を手伝って、夏に、はんだ付け装置ではんだ槽の清掃をしたことあるだろ? 夏に三百度のはんだ浴槽掃除だよ。汗が三百度のはんだの上に落ちたらどうなるか、知ってるじゃないか」 

上村は大学時代に父親とはんだ槽の掃除をやったときのことを覚えていた。はんだ槽の上部カバーを開けて内部を掃除するとき、額から汗がはんだの上に落ちるのだ。汗がはんだ浴の落ちた瞬間、そのはんだ浴の落下したところが、一度に弾けた。汗が一気に気化するために、音をたてて三百度のはんだを周囲に飛び散らしながら弾けてしまうのだ。 

上村は汗がはんだ浴糟に落ちて、弾けたはんだで顔や手にやけどしたことがあった。 

上村は昔を思い出して、「そりゃ、無茶だ。三百度の溶融はんだに水なんて、爆発させるみたいなもんだ。文系の俺でもわかるよ」と、苦笑(にがわら)いした。 

「……危険すぎて、とても無理だな……。製造なんかできやしない」 

 上村は頷きながら、前を向いて重い言葉を吐いた。 

 しばらく車内に沈黙が広がった。 

慎二は、大きな溜息をつき、暗い顔のまま、重苦しい声で言った。 

「でも、兄さん……なんとかしなければいけないんだ。実は……先月の末から……当初予定していたジャパンエレクトロニクス社の部品製造の発注が来なくなったんだ……今月から製造ラインが一ライン、空いてしまうんだよ……」 

 慎二の言葉に上村はぎょっとして、思わずハンドルを握る手に力が入った。 

「そうか……安田が踏査(とうさ)に来たのは、単に俺が頼んだからだけじゃなかったんだな、ジャパンエレクトロニクス社の技術方針を伝えるためでもあったんだ……」 

上村は慎二が暗く、苛立っている理由がわかった。ジャパンエレクトロニクス社は安田が説明したように、国内の協力会社から次第に生産をベトナムや中国へとシフトし、しかもさらに拠点の主力工場へと集約し始めているのがわかったのだ。 

慎二は腹の底から絞りあげるような声で言った。 

「兄さん……うちの製造ラインをそのまま生かして、新しいものづくりってやれるだろうか……?」 

「…難しいなあ、しかもジャパンエレクトロニクス社が飛びつくような技術を含んで……という意味で、だろう?」 

慎二は頷いた。 

「――もう余裕がないんだ。だから金をかけず現行設備をそのまま使って、はんだ付けフラックス用アルコールを水で代替してやるくらいの開発しかできないんだよ……もっとも、これができれば世界初の温暖化防止技術になるから世界中がびっくりするだろうけどね。宝クジで賞金をあてるみたいなもんだけど、でも、やるしかないんだよ……何かほかにあればいいけどね……」 

慎二は重苦しい声で言った。 

上村は慎二に対してなんとも応える言葉が見つからず、ただ前を見て運転を続けるしかなかった――。
 

会社に到着するころ、突然、慎二のスマートファンのアラームが鳴った。彼は慌てて、すぐにスマホを取り出して応対した。 

「はい、上村ですが……ええ……はいはい……ええ? そうなんですか……それは、ありがとうございます……」 

慎二は電話口の相手を知って、丁寧に対応した。 

「……はい、それではぜひ宜しくお願いします……ええ、兄といっしょに参りますよ……はいはい……」 

上村は突然自分の名前も飛び出して驚いた。 

慎二はしばらく話して、スマホを切った。 

「誰なんだ? なんか重要な話みたいだな」 

慎二は少し困ったような様子をした。 

「安田さんからだよ。上海にいい製造会社があるみたいで、紹介したいらしい。これまで日本の上場企業の下請けをやっていた上海企業だけど、今度この日本企業がベトナムに工場移転するため、安田さんが下請けに使ってほしいみたいで、いっしょに上海に行ってほしいという要請だよ」 

「なにッ!? じゃあ、もう中国生産をしろっていうことか!?」 

「安田さんは、ジャパンエレクトロニクス社と中国の製造会社との直接やり取りは、品質リスクがあるから避けたいみたいだな。それでさ、その中国製造会社を上村電子の下請けにしないかといってきた。安田さんは製造をその中国工場で対応させて製造コストを下げ、一方、中国企業では品質が心配だから上村電子に品質管理をさせるつもりさ」 

「ということは製造品質の全責任を、上村電子にとらせたいわけだな。中国工場で安くつくった製品の――」 

上村の言葉に慎二は頷いた。 

「じゃあ、今の八王子工場の従業員はどうするんだ?」 

 慎二は薄笑いをした。 

「そんなこと、安田さんにとっては知ったことじゃないだろ。上村電子の俺にさ、それをうまくマネジしろってことさ」 

 上村は下請け叩きを知って、舌打ちした。 

「それで上海に行くのか」 

「行くといったよ。兄さんは海外が慣れているからさ、兄さんといっしょに行くって、安田さんに言ったよ」 

「そりゃ、海外は確かに慣れてるけどな。しかし以前と違って最近中国はわけのわからない理由で拘束されてしまうことがある。中国は怖い国になったよ……。慎二、上海に行った後が大変だぞ……」 

上村は慎二に同情しながら、くぐもった声で言った。 

 慎二は大きな溜息をついて、ただ黙って、前を見続けていた。 

第四章 散花(ちるはな) 

1 

 羽田からの飛行機は薄黒い雲海に突っ込んで、しばらく灰色の濃霧のなかを降下したかと思うと、いきなり機窓の外が明るくなり、眼下に上海市街地が広がって見えた。 

飛行機がゆっくりと旋回し始めると、進行方向に直線に伸びた上海浦(プー)東(ドン)国際空港の滑走路が見えた。飛行機が着陸体制に入り、ゆっくりと降下し始めた――。 

 上村は空港ターミナル第二ビルから出て、タクシー乗り場へ行く途中、外の空を見上げた。太陽が黒く厚い雲に隠れており、周囲が夕方のように薄暗くなっていた。 

 まもなく彼らの番となり、タクシー乗り場に車が滑り込んで来た。 

 二人を乗せた車は、空港から離れた場所にある市街地に向けて走った。 

周囲には緩やかな起伏のある草原が広がり、遠くには森林が見えたが、民家や建物がまったく見えない。さえぎるもののないゆったりした丘陵のなかを上海市街地への幹線道路が続いている。市街地から空港へと向かう車もあり、頻繁に行き違った、 

中国は左ハンドルで右側車線なので、上村は対向車が来ると、思わず違和感を抱いてしまうのだ。 

空港に降り立ったときからどんよりと曇って薄暗かったが、市街地へと近づくにつれ、さらに暗くなり見通しが悪くなっていった。 

運転手は舌打ちすると、ハンドルを右手拳で叩いて溜息をついた。上村もとんでもない日に上海に来たと思った。 

周囲に展開していた景色も、濃霧に覆われたように薄黒い煙で見えにくくなって行った。 

タクシー運転手はすぐにヘッドライトを点灯して、道路前方を照射した。行き交う車もヘッドライトをつけており、お互いに濃霧の中を確認しながら走って行った――。 

  

市街地に近づいたのか、ものすごいスピードで行き違う車の数が車外に増えていった。 

 高速道路の左側の追い越し車線を、豚数十匹以上積んだトラックが真っ黒な排気ガスを噴き出しながら猛スピードでタクシーの左側を追い越して行く。その様子に驚いていると、続いて、荷台に材木を高さ八メートル以上積み上げたトラックが、ロープが外れたのか幌(ほろ)をはためかせながら、爆走してタクシーを追い抜いて行った。 

後方の車が猛スピードで、どんどん前へ前へと割り込んで来る。 

 タクシーは高速道路で百キロ以上速度を出しており、前を走っている車との車間距離を取って進もうとするが、すぐに後ろから来た車がその車とタクシーの間に割り込んで来た。 

車間距離はときどき十メートル以下になった。 

 運転手はなにか中国語でブツブツ言いながら、ハンドルを操作した。高架の高速道路から市街地の一般道路へと降りるインターチェンジ付近でかなり混むためか、後方の車が前へと次々に割り込んで来る。 

タクシー運転手も、市街地に入るときにラッシュに巻き込まれないように、なるべく前に出ようとした。 

 そのとき左側後方の追い越し車線を走行していたトラックが、タクシーに追いつき並走し始めた。左側の窓の外にはトラックの車輪が見え、ときどきクラクションをけたたましく鳴らしながらタクシーのそば一メートルまで接近してきた。 

「あぶない!」 

慎二は大きな声をあげて窓ガラスを開けると、そのトラックの助手席にいる若い男に向けて、声をあげ身ぶり手ぶりで示したが気付かない。助手席の髭をはやした同乗者は、運転席の窓を開けて右肘を窓から出し、隣にいる運転手と何か話をしているようだった。 

 上村は左側の追い越し車線を猛スピードで走るトラックの運転席の方を見上げ、うんざりした声を吐いた。 

「少しでも隙間があると、割り込もうとするんだよ。こんなことはしょっちゅうさ。『強いもん勝ち』、それが中国なんだ」 

 そう言いながらも上村は、タクシーが速度を落としてトラックを自分の車の前に入れればいいと思った。しかしタクシーの運転手も決してスピードを落とさず、トラックの割り込みを許さない。 

 トラックは追い越し車線を走り続けながら、前へと割り込もうと、今度はさらに接近して来た。 

 若いタクシーの運転手は運転席の窓ガラスを下ろし、なにかトラックの運転席に向かって大声で怒鳴ると、ますますスピードをあげた。 

 トラックの助手席から太って髭を生やした男が顔を出すと、後ろに下がれというように手で合図し、クラクションを鳴らしながらタクシーの方へと一気に接近して来る。 

慎二は思わず、「危ない! トラックとぶつかる!」と大声をあげた。 

上村は慎二の言葉に運転席へ身を乗り出すと、「トラックを前に入れてやってくれ!」と、運転手に大声で指示した。 

運転手はチラッと上村を見て睨むと、仕方なさそうにスピードを落とした。 

左を走っていたトラックがたちまち、ウィンカーも出さずに前に行き、タクシーの前に割り込んだ。 

上村はその様子を見て、ホッと溜息をついた。そして隣りの慎二の方を見ながら、「中国は世界でも最低の運転マナーなんだ。自家用車が最近一気に増え、それにつれて事故も一気に増加した。年間の死亡事故は二十五万人、日本が五千人程度だから、約百倍だな。毎日七百人近くが交通事故で亡くなっている。強者優先で、弱者優先という考えはこの国にはないから、それが運転マナーにはっきりに現れている。異常だよ」と乾いた声で言った。 

上村の言葉に慎二は、「この国は……本当に……難しい……」と、呟くように言った。 

 タクシーはスピードを落とし、市街地の方へと高架道路を降り始めた。 

しばらくタクシーは渋滞に巻き込まれて遅々として進まなかったが、インターチェンジを抜けて一般道路に出ると、車はもとの速度に戻って市街地の大きな通りへと向かった。 

市街地は活気に溢れ人通りも多く、まるでコロナウィルス騒動などなかったような賑やかさだった。 

 タクシーはダウンタウンを三十分以上かかって進み、十字路に面した、古ぼけた三階建ての中華料理店の前に停車した。 

 運転手は慎二に指でここがホテルであることを示すと、慎二は信じられないという表情で、日本のネットで打ち出したホテルの資料と見比べた。 

 上村も慎二が手にしたホテルの紹介資料を見て、「これは、ひでえなあ、ネットの写真とはえらい違いだ。まあ、中国では、よくあることだけどな」と苦笑して、運転手を待たせたまま、タクシーの後部ドアを開け外に出た。 

 慎二も日本で打ち出したホテルの予約シートを片手に、急いで車から降りた。 

 正面に立ってよく見ると、三階建ての神社のようなレトロな建物で、建物全体が朱色に塗装されている。正面入り口の朱色のガラス戸入口左右には、朱色の柱が立っており、その上には黒い瓦の屋根が入口の幅だけ突き出ていた。この突き出た屋根瓦の左右の先が、髭のように尖っている。二階、三階には朱色の壁にガラス窓があり、一部の窓は開いていて、誰かが下を見下ろしているのが見えた。 

 二人は朱色に塗られた正面入口の上に、『尚品(シャンピン)広場(グアンチェン)酒店(ヂォウディエン)』と掲げられた看板を見上げながら、入口ガラス戸を押し開いてその店の内部に入った。 

 上村は慎二から宿泊ホテルと聞いていたが、ホテルフロントは見当たらず、一階は古い中華料理店であり、すでに数名の客が食事をしている。右手奥に二階への階段があり、二、三階が宿泊の客室となっているのに気付いた。 

 慎二を見ると、彼は接着剤のような白酒(パイチュウ)の刺激のある臭いに、思わず眉根を寄せて周囲を見回している。 

 上村は慎二の様子に苦笑しながら奥へと向かった。上村は歩きながら、コンクリートの床が油で濡れているのに気付き、倒れないように用心した。 

 その店の奥には朱色の古い間仕切りがあり、間仕切りの枠は朱色で、その枠のなかには格子状の桟(さん)が組み込まれていた。 

格子には障子紙が裏面に貼られていたが、店内の蒸気の影響か、障子紙が格子状桟と剥がれており、間仕切りの向こうが透けて見えた。格子状桟の塗料は蒸気で滴り落ちて、障子紙に朱色の波のような滲(し)み模様をつくっている。 

 上村は放りっぱなしの古い間仕切りを見て、頭を振った。 

「ひでえよな、ここは――。ホテルだなんて、とても言えないぜ。木賃(きちん)宿だ。止めよう、泊まるのは」 

 上村はそう言って慎二を見ると、彼は少し困った表情でどうしていいのかわからない様子である。 

 上村は彼を見ながら、八王子の小さな工場しか知らない慎二が憐れにさえ思えた。 

「大丈夫だよ。市内にギャラクシーって行きつけのホテルがある。そこのフロントとは知り合いだから部屋は取れるさ。そこで泊まろう」 

 上村はそう言って、笑顔で不安な表情の慎二の背中を叩いた。 

  

2 

翌日二人はタクシーで、ジャパンエレクトロニクス上海協力工場へと向かった。上海協力工場は市街地の北側の虹口区にあった。 

広い敷地の工場に着くと、そこは日本の工場とまったく同じで、タクシーを降りて守衛で受付けをし、工場の総務などの事務部門がある二階建て白い建物のエントランスホールへと向かった。 

エントランスから内部に入ると、横浜にある開発本部と同様に白いフロアでテーブルやソファが並べられていた。 

慎二は受付で安田を呼び出し、しばらくフロアで彼を待った。 

安田は上海協力工場の受付に現れたが、忙しそうにしながら、二人を来客テーブルの一つに案内した。 

彼は慎二らと向き合ってテーブルにつき、社用封筒からなにやら資料を取り出した。 

「ここが上海の主力工場です。埼玉工場などで一部部品やキーパーツの製造を行って、この工場で全体の最終組み立てを行っています。最終組み立て後に、ここから日本や欧米へと送っているんですよ。現在は日本からの製造移管だけでなく、米中の政治的状況が悪いので、大連工場など中国各地での生産を止め、この上海工場のような拠点となる工場での一極生産移管を進めているんです」 

 安田はそう言いながら、資料を慎二に見せた。それには組み立てのフロー図が書かれており、日本のそれぞれの工場から上海協力工場に向けて、電子部品や電子回路基板、ガラスパネル、スピーカー等々が送られてくる流れ図だった。その流れ図には、中国国内からこの上海工場に送られてくるものもあり、それらを安田は赤色でマークしている。 

ざっと見て、中国で製造されたものは七割近くになっているようだった。 

 そのとき安田のところに、遅れて若い社員が現れた。 

まだ十代にしか見えないが、何かスポーツをやっていたのかがっちりした身体つきをしていた。四角い顎の張った顔立ちで、髪は短く切り、優秀な現地社員のように思えた。 

「彼が李(リ)浩然(ハオラン)さんです」 

 安田はそう言って、若い社員を紹介した。 

「李です。テレビの組み立て製造工程を担当しています。宜しくお願いします」 

 李はカタコトの日本語で、慎二らに挨拶した。慎二らも李に挨拶した。 

「李さんはこの工場の製造主任だ。主任といっても、部下は百名くらいいて、協力会社の窓口をやってもらっています。彼が工場内へと連れて行ってくれますから、よく見学してきてください。李さんを通じて、なんでも協力工場に聞いてもらっていいですよ」 

 安田はそう言って席を立つと、「申しわけないですが、新規プロジェクトが立ち上がっており、これから会議なんです。中座しますが、日本に帰った後で社長と相談させてください」と慎二に言って、そそくさとロビー奥へと引っ込んでしまった。 

 李は先導して上村らを工場の方へと案内し、入り口のドアを開けた。上村と慎二も、彼に続いて工場の内部に入った。 

工場内に入った二人は、工場建物の新しさと設置された新しい設備を揃えていることに驚いた。ジャパンエレクトロニクス社の指導なのか、製造ラインの電子回路製造設備も最新鋭のものが導入されており、二人は眼を見張った。 

そのとき製造ラインにいた社員が二人に気付いて、近付いてきた。彼は頬笑みながら中国語でなにか挨拶をした。 

李は彼の肩を叩いて、彼がその第一生産ライン製造担当の張だと言って、紹介した。 

張は頭を軽く下げ、第一ラインの生産状況を中国語で慎二と上村に説明した。張の中国語は李が日本語に遂次訳してくれ、二人は工場内の動きについてよく理解できた。 

上村はこれまでにも中国の工場を見たことがあったため、大きな驚きはなかった。一方の慎二は、初めての中国の工場見学であり、八王子の上村電子工業と比べながら、さまざまな点で圧倒されて驚いているようだった。 

慎二は製造ラインの周囲を見学しながら上村に、「作業している従業員が若いし、多いねえ。社員の平均年齢は二十歳くらいじゃないかな。それにここの製造ラインだけでも六○人くらいいるよ。八王子じゃあ、考えられないよ」と、大きな溜息をついた。 

「これが中国製造の強さだよ。日本ではもはや実現できないことさ」 

 上村はそう言いながら、回路基板製造ラインを眺めた。若々しいたくさんの製造技術者が、高度成長期の上村電子のように広い工場内で懸命に電子回路基板製造を行っていた。 

 慎二は李に通訳を頼み、張に尋ねた。 

「工場全体ではどのくらい従業員がいるんですか?」 

 張が軽く頷いて応え、それを李が通訳した。 

「八百人くらいだと言っています。平均年齢が二十一歳と言っています」 

 それを聞いて慎二は頭(かぶり)を振り、「やっぱりなぁ……これじゃあどうやっても、モノづくりで中国には負けるよ……いったい、どうやって勝っていけばいいんだ……」と呻いた。 

 上村も慎二の言葉に溜め息をついた。 

3 

上海から帰った後の役員会で慎二は多くは話さなかった。彼はジャパンエレクトロニクス社の要請で、中国工場を見学してきたとだけ報告して、それ以上はなにも言わなかった。 

しかしその沈黙が役員達の間で不安の種になったようだ。実際その不安が、慎二が安田と結託して生産を中国に移すつもりではないのかという不信感につながった。役員達は口には出さないが、自社の方向性に不安を募らせた。 

慎二は役員達の雰囲気を感じて、中国生産については考えていないと否定し続けたが、役員達から返ってくる言葉は、では今後どのようにして経営安定化を図っていくか、という質問だった。 

慎二と役員達とは、役員会議の場で中国生産に関して議論が熱くなる場合があった。熱い議論が続く役員会議中、安田からは慎二のスマホに連絡が入って来た。このため会議が中断し、慎二は別の部屋で長らく安田と電話で議論することもたびたびだった。 

上村はジャパンエレクトロニクス社の中国工場見学要請が、社内に不穏な風を吹かせ始めたと感じながらも、日本の製造工場しか知らなかった慎二が、中国の工場見学に行ったのは必要なことだったと思えた。 

慎二を心配しながらも上村は、いずれ特別顧問として自分自身も、役員達から今後どうして行くのかという意見を求められると予想していた。慎二の立場なら、中国生産にうまく移行しながらも、一方では新しい製造方法を開発して生き残りたいと言うことになるだろう。一方、従業員らにすれば、二十名足らずの小企業で、一部中国生産すれば多分半分の従業員はリストラされてしまうと考えるだろう。彼らには、自分達が先代の頃から上村電子を盛り上げてきたという自負があり、中国生産反対を考えるのは当然である。 

上村は慎二の心労に同情した。 

会社の雰囲気が悪くなっていくなか、ときどき木島が慎二のところに来て、テレビの基板を慎二に見せながら、水を主成分としたフラックス使用のはんだ付けの件で、どうのこうのと小声で話しているのに気付いた。慎二の社長机は上村のすぐ後ろだったため、議論している内容が聞こえてくるのだ。 

文系の上村でも、水ベースのフラックスを使ったはんだ付けプロセスで良品をつくるなど、慎二が言っていた通り宝くじを当てるのと同じくらい難しい無茶な開発だとわかっていた。上村には、彼らが無駄な努力を続けていると思わざるを得なかったのだ――。 

中国出張から戻り一週間が過ぎた週末の金曜日、終業時のチャイムが鳴って総務部に誰もいなくなった。上村は帰宅の準備をして机の上を片付け始めた頃、木島が何か部品のようなものを持って慎二の机で、いつものように議論し始めた。 

 上村は慎二らの会話を聞きながら、慎二が社長として多くの重荷を背負っていることを理解できた。自分がこの上村電子工業に来た時点から、慎二はイライラしていたが、それは会社の運営や今後の上村電子を見据えての困難さからだったように思えた。  

上村は机の上の片づけが終わると、二人に帰宅すると声をかけて立ち上がった。二人は上村の方を見もせず、議論を続けている。 

上村はもはや上村電子に居候しているのも限度と思えた。 

彼は身体を小さく丸めたまま、総務部のドアを開けて外に出た。 

夜空には星も出ておらず、暗いなかを駐車場の方へと歩いて行った――。 

上村は翌日も中国出張の報告書の作成を続けていた。 

次第に報告書の最後が近づき、今後上村電子としてどうしていくのか、顧問としてその方向付けを書く段になって、急にパソコンのキーが叩きにくくなった。 

その間、さおりから慎二の体調を心配する電話を受けた。食が進まず、夜もなかなか寝れないという。いつもイライラして、ゆっくり話ができないと彼女は訴えた。 

上村はできる限り自分も協力してやりたいという思いに駆られたが、もはや中国生産をやるのか、やらないのかの判断であり、慎二に口出しすることが邪魔するだけのように思えた。 

一方、ジャパンエレクトロニクス社の安田は、慎二に中国生産の品質管理を迫り続けていた。上村電子への次期製造発注についても、協力工場との分業があるとのことで上海での全体会議となり、今度は慎二が一人で上海へ行くことになった。 

上村にはどのような流れで仕事が進むのか、慎二がどのように進めようとしているのか、安田からの情報は入って来ず動きようがなかった。慎二をサポートしようにも出来ることもなく、上村は眺めているしかなかった。 

慎二は政情がよくない上海から帰ってくると、ますます痩せて見えた。 

さおりが心配して上村に電話してきたが、慎二は中国現地の食事がまったく合わないらしい。 

上村はしまったと思った。慎二は単独での中国出張が初めてであり、慎二への食事のアドバイスを忘れていたことに気付いた。 

上村はすぐに安田と李に電話して、慎二に日本人出張社員が使う店を紹介してやってくれと依頼した。そして慎二にも、李が日本人向けの店を紹介してくれるから、そこで食事するようにと注意した。 

しかし慎二はなぜか苛立っており、上村のアドバイスもただうるさそうに聞くだけだった。 

安田からの依頼を拒否できない慎二は、上海へ出張を繰り返した。 

度重なる中国出張で社内業務が滞り、慎二だけではこなしきれない状況に陥り出していた。五度目の安田の呼び出しには、さすがに応じず断ったようだったが、安田から製造日程を決める大切な会議の開催ということで、肌寒さを感じる十月、やむなく上海へと出発して行った――。 

4 

  

慎二が上海に行ってまもなく、突然深夜に電話がかかってきた。 

上海工場の中国人技術者である李からだった。 

「いまごろ、いったいどうしたんだ?」 

電話口の李の声が詰まった。そして重苦しい声が聞こえてきた。 

〈実は……協力工場で会議を済ませて車で帰る途中……昨日はスモッグが異常発生して濃霧だったんですが……突然、後ろについていたトラックが追突して来まして……〉 

上村は眼の前が真っ暗になった。 

〈車の左側から猛スピードでぶつかってきて、車は側壁に激突してわたしも頭と左腕に怪我したんですが、なんとか動けましたので、すぐに救急車を呼びました……しかし上村社長は……全身を強く打たれて……ともかく、市内にある日系の上海サクラ病院に来てほしいんです〉と言った。 

「交通事故!?」 

 上村は前回上海に行ったときの光景が眼に浮かんだ。 

〈ええ……〉 

 暗い声がした。 

「よかった! まだ、生きているんだな」 

〈……ええ……〉 

李の低い声がした。 

〈……それで病院から、本人の戸籍謄本を三通、持ってくるようにと言われまして……〉 

 上村は意味がわからなかったが、日本人だから戸籍謄本がいるのだろうと思った。 

「わかった。持っていくし、すぐそっちにいくよ。また連絡するから」 

〈……わかりました……上海遼東空港で待っています……ともかく、急いで下さい……〉 

上村は李からの電話を切ると、すぐにさおりに電話した。 

電話口の向こうのさおりは驚愕の声をあげ、啜(すす)り泣く声が聞こえた。 

「さおりちゃん、大丈夫だよ。多分、集中治療室で治療を受けているんだ。日系の病院だから、大丈夫だよ。ぼくはこれからすぐに上海に向かうから」 

〈……わたしも……行きます……〉 

 さおりは動揺を押さえながら、小さな声で応えた。 

上村は、「おなかに赤ちゃんがいるのに、それは無理だ。ぼくが行くから、大丈夫だ。日本にいてくれ」と、彼女を制した。 

上村はそれから何を話したか自分自身でもわからなかった。なんとかさおりを宥(なだ)めて電話を切ると、今度は原田の携帯電話番号を調べて電話した。 

〈ええッ、社長が事故!? 上海で、ですか?〉 

「そうなんだ。現地の李さんから、すぐ来てほしいと連絡があった。まず俺が行ってくるから、会社の方に連絡をたのむ」 

原田は、〈わかりました。頼みますよ〉と重苦しい声で応えた。 

上村は「携帯は上海でも大丈夫だから、遠慮なくかけてくれ」と原田に言って、すぐに、「さおりちゃんも頼むよ。それと病院が戸籍謄本を三通必要と言っているんだ。友梨ちゃんにでも羽田に届けてほしいんだ。フライト時間は調べて連絡するよ」と付け足した。 

〈わかりました。至急、対応します〉 

 上村は原田との電話を切ると、パソコンを取り出して上海行きのフライトを調べた。すぐに九時四〇分発の中国東方航空便が一席空いており、すぐ予約を入れた。 

 上村は大急ぎでフライト準備をして、早朝に羽田空港へと向かった――。 

上海空港につくと、彼はすぐにターミナル第二ビルの建物からタクシー乗り場へと急いだ。 

タクシー乗り場には、李が頭と左腕に包帯を巻いて待っていた。 

李は上村を見ると、急いで駆け寄ってきた。 

彼は眼を真っ赤にして涙を拭(ぬぐ)いながら、近寄り、「ジエ アイ シュンビアン……」と涙を流しながら言った。上村は言葉の意味がわからず何があったんだと思い、心臓が締め付けられた。 

「慎二は……慎二は、大丈夫なんだろう?」 

 李は涙をしばらく流しながら声を詰まらせ、激しく頭(かぶり)を振った。 

「……昨日……上村社長……亡くなりました……」 

 上村は李の言葉を聞いて、眼の前が真っ暗になった。 

「ええッ!? 病院で治療中ではなかったのかッ!?」 

「昨日、電話した……その後に……」 

 上村の眼にどっと涙が溢れた。動物的な唸り声が身体のなかから漏れ出て来る。 

 李は眼を赤くしながら、「ともかく、病院へ……」と、上村を促した。 

彼は駐車場へと上村を連れていくと、同乗させて車を走らせた。 

上村は助手席に座って、両手で顔を覆って涙をこらえた。しばらくそうしていると落ち着きが戻ってきた。 

李は上村が落ち着いたのを見てとると、重々しく口を開いた。 

 市内に向かう高速道路で、トラックが猛スピードで左側追い越し車線を走行し、李らの車の前には一台乗用車が走っていたが、李らの車を追い越して乗用車の間に入ろうとし始めた。急いでいるのか、無理矢理でも李の車を追い越して先に入ろうとしたとき、車がスリップしたように見えたという。 

李は車が右側壁に激突し、慎二は後部右側座席に座っていたため、右側壁への激突をもろに受けたと言った。李自身は運転席が左側であって安全ベルトが身体を守ってくれ、なんとか助かったと言った。 

このときトラックはさらにハンドルを左側にきったのか、中央分離帯に激突した後、左側追い越し車線に横転して運転手は即死したと話した。 

 上村はもはや李の説明する言葉に反応することが出来ず、茫然と前を見続け、日系上海サクラ病院へと車が到着するのを待った。 

 日系の上海サクラ医院は、虹口区の上海の真ん中を流れる黄浦江の傍にあった。地上二十階以上ある近代的な白い病院であり、東京都内の有名病院より、新しく立派に見えた。 

エントランスは都内の一流ホテルのエントランスに似て、大きなガラスの自動ドアには、淡いピンク色でサクラの花が描かれていた。 

李は受付けで待っている多くの患者をすり抜けて、上村を一番奥のカウンターへと導き、彼はその受付けの看護師になにか説明した。看護師はすぐに連絡を取り、少し白髪交じりのがっちりした体格の日系医師が出て来た。 

彼は看護師からカルテを受け取り、上村らを地下へと連れて行った。 

上海の蒸し暑さとは無縁の地下三階へエレベーターが着くと、医師は先に立って歩き、ドアの前で鍵を取り出して扉を開けた。 

十畳程度の周辺がコンクリートで囲まれた薄暗い霊安所に、白いシーツがかけられた金属ベッドが置かれていた。 

医師は合掌した後、白いシーツをめくった。 

青白い顔の慎二が眠っていた。 

なぜか頭部の髪はなく、後頭部に縫合された後が見られた。 

上村は思わず涙が噴き出し、腹のそこから溢れてくる嗚咽(おえつ)を抑えることができなかった。 

あと数日で四十歳となる、まさにこれからの人だった。 

会社、従業員、家族のことを思い、もがき苦しみながら進む道を探し続けていた慎二である。 

これからも生き続けてほしいと期待を一身に受けていた、そんな慎二が亡くなったのである。 

そんな思いが胸に溢れてきて、上村は自分がいかに慎二に迷惑をかけてきたのか、今更ながら感じた。 

彼の口から思わず、「悪かった……許してくれ……」と腹の底から出て来た言葉を呻くと、慎二の遺体に突っ伏して号泣したのだった……。 

上村は病院一階のエントランスホールへと戻ると、すぐに携帯電話でさおりに電話した。さおりは会社近くにある自宅に戻っており、状況を話した。 

すると電話の向こうで彼女が泣きじゃくる声が聞こえた。すぐにさおりの母親である和江が出て来て、彼女とかわった。 

上村は話す言葉もなく、ともかく慎二を連れて帰り、葬儀を日本ですることだけを伝えた。 

また原田にも連絡すると、原田も電話の向こうで泣いていた。 

上村も悲しみで倒れそうになったが、遺体を日本に運ばないといけないから、また連絡すると言って電話を切った。 

 上村はその日、李とともに上海市内の公安部に行って事情を説明し、遺体移送の許可を得た。そして所定の手続きをすると、今度は葬儀社と日本での葬儀の件や遺体の空港までの搬送などを打ち合わせた。 

その日遅く上海のホテルに一泊し、朝早く上海空港のJALカウンターに行き、李や葬儀社と共に遺体の搬送手続きをした。遺体は空港の裏手にある特別ゲートから飛行機へと搭載され、上村はその移送に同行した。 

5 

上村は途中梅ヶ丘の自宅に立ち寄って、喪服などを準備した後、八王子の会社に車で向かった。 

会社に到着した時は、四時になっていた。 

彼は黒い喪服を着て、自宅の玄関から座敷へと向かった。 

自宅の座敷には、すでに祭壇が飾られており、数名の葬儀社の社員が黒い礼服で、忙しく立ち回っていた。 

祭壇の中央には慎二が入った柩(ひつぎ)が置かれ、そこには数名の男女が集まっていた。さおりの両親や親戚の姿も見えた。まだ三歳にもならない幼児をそのなかの一人が抱いていた。 

上村の姿をそのなかの一人である原田が気付いた。 

「ご苦労様でした。お疲れでしょう」 

 上村は「ジャパンエレクトロニクス社の李さんがいてくれたから助かったよ。ぼくだけではどうにもできなかったけど」と言いながら、柩の方へと進んだ。 

そこで柩にもたれかかっている女性に気付いた。 

 さおりだった。 

 さおりの横には母の和江がついていて、彼女になにか囁いた。 

 彼女は顔を上げて上村を見た。 

 上村は憔悴(しょうすい)しきった彼女の顔を見て、その様子に涙が溢れるのを止めることができず、思わずハンカチで目頭を抑えた。  

 髪は乱れたままで、眼が赤く涙はもう出しつくしたように見えた。 

 顔は青白く、口を少し開けて上村を見た。 

 黒のワンピースを着ていたが、大きくふくらんだ腹部が上村には痛々しく思えた。 

 なにか言っているようだったが、声が小さすぎて聞こえない。 

 和江は彼女の口許に耳を近づけ、「ご苦労様でした、と娘が言っております」と涙声になった。 

 さおりはまた顔を伏せて、柩のなかの慎二を見て、彼の頬を両手でなでた。ときどき身を乗り出して、慎二の顔に頬ずりした。 

そして小さな声で、なにか語りかけている。 

 その横から、和江に抱かれた親戚の幼児が手を伸ばして、「しんちゃん、しんちゃん」と言って、慎二の頬を触った。その幼児には、慎二がなにも反応しないのが不思議なようだった。 

 それらの仕草があまりに憐れで、上村は思わず、嗚咽を漏らした。 

   

《……慎二は、なんでこんな目に合わないといけないんだ!?》 

《それにひきかえ、俺はなんで生きてんだ……?》 

《俺が死んで、慎二が生きるべきじゃないのか? なんでこんなことになったんだ!》 

上村の脳裏には、何度もなんども自問の声が木霊(こだま)のように響いた。 

頭のなかが悲しみと混乱で一杯になり、彼が叫びそうになったとき、胸ポケットにあるスマホのアラームが鳴った。 

 上村は邪魔にならないように玄関の方に歩きながら、スマホを取り出した。 

 相手は李からだった。 

 上海公安に出す書類やその他後処理の件だった。上村は自分のスマホのアドレスを伝え、そこに書類を送ってくれるように言った。 

 原田が後ろから、上村の背を叩き、連絡する会社の確認と文面の確認を求めた。 

「明日十時から告別式だろ、なにやってんだい! 専務の判断でやってくれよ」 

「……漏れがないかだけは、チェックいただかないと……」 

 上村は確認表を取り上げざっと見て、「宇和スクリーンさんが抜けてる。それとジャパンエレクトロニクス社は総務部とか事業部長とか形式的に呼ぶ人達だけでなく、実際に慎二が関係した人に連絡してくれ。とくに、ほら、安田さんが抜けてるじゃないか!」と、書面の一ヶ所を指差しながらきつい口調で言った。 

「……申しわけありません……」 

 原田の要件が済むと、今度は葬儀社の社員が待っていた。 

「祭壇のお花はいかがでしょうか。それと受付ですが、どなたが担当ですか」 

 上村は振り返って、祭壇を見た。 

 祭壇の左右の花飾りが寂しい感じがした。 

「両側に花を増やしてくれ」 

 上村の眼に若い木島が眼に入った。 

「木島君、明日の告別式には会社から受付に来てくれるんだろ?」 

 木島は慌てて上村のところに来て、「まもなく来ます」と言った。 

「何名来てくれる?」 

「二名です」 

「男かな」 

「ええ、男性ですが」 

「できれば女性にしてくれ。記帳関係の担当は、男でもいいが。それと駐車場係は?」 

「……それは……」 

 上村は気が効かないと苛立った。 

「男を二名、駐車場係で準備してくれ」 

 上村はなにか気付いたようで、続けて、「それと後五、六名、これは男子社員でもいいが、八時に出社させて、告別式の会場案内を北八王子駅の改札出口に掲示してくれ。会場である会社周辺には、会場への行き方を矢印で掲示してほしい。それと手分けして、会社入口付近を掃除してくれ。それに告別式会場と駐車場への行き方の指示看板を……」 

上村は次々に木島へと指示した。木島は上村の指示をすぐに手帳にメモした。 

そのとき、上村の胸ポケットでまたスマホのアラームがなった。すぐ胸ポケットから取り出して、連絡相手を見ると、李からだった。 

李のところに、上海公安からまた書類が送られて来たという。 

 上村はスマホへの送付を指示し、その資料を総務部へと転送し、書類作成をメールで記載した。 

 上村は次々に来る要件に対して、スマホを片手に歩きながら指示した――。 

 通夜は上村家が檀家になっている寺院から若い僧侶がきた。通夜は家族と会社の一部の関係者だけにした。僧侶は集まっている関係者に挨拶をして、読経を行った。 

 僧侶が帰ると、上村はさおりとその両親にも、翌日の告別式に向けて、早く休むように言い、また会社関係者も九時には帰らせた。 

 屋敷の奥へとさおりは両親とともに向かったが、さおりだけまた戻ってきて慎二の顔を見ながら、頬を撫でた。 

 母親が心配して寝間着姿のまま、座敷に現れたが、上村は先に休むように促した。 

 上村は座敷の真ん中に座って、慎二の写真と対峙した。 

 慎二の写真は生きいきと輝いて見えたが、上村にはその輝きがすべて自分の全身に刺さるように感じた。 

《兄さん、なぜ……!?》 

《家業は兄さんが継いで行くって、親父が決めてたじゃないか!》 

《兄さんは親父から社長になるように、小さい頃から教育されてきた。それは近所の誰も知っている。なぜ、逃げたんだ?》 

《なぜ、三十年も帰ってこなかったんだ》 

《なぜ、ちゃんとぼくらにどうしていくのか、説明してくれなかったんだ……?》 

  

遺影の慎二の笑顔が、上村に何度もなんども問いかける。 

 上村は慎二の問いに正直な気持ちが沸いてくるのを感じた。 

《継ぐのが嫌だったから……この上村家が嫌いだったから……》 

  

そして、もう一つの声が聞こえた。それは上村としては認めたくない声だった。 

《……親父が怖かったから……》 

 上村はあらためて慎二を応援していたらよかったと、心の底から後悔の念で胸がいっぱいになったのだ。 

6  

十時に告別式が始まる。 

 当日の朝、上村は身支度を整えると、もう一度周囲を見回って、漏れていることがないか確かめた。 

 間口が四間ほどある屋敷の玄関を入って、八畳ほどの次の間を左手の南の方に進むと、十畳ほどの広間があり、さらに奥に進んだところに、座敷と奥座敷があった。その仕切りである襖(ふすま)を開けると、東西二十畳ほどの座敷になり、北側に祭壇が設(しつら)えてあった。 

 座敷のさらに南には廊下があって、庭が見えた。 

 上村は要所々々に設置した矢印表示を確認し、これなら参列者がスムーズに祭壇へと行き着くと思え、安堵を覚えた。 

 八時くらいに社員が出てくると、上村はその一人を捕まえて、告別式会場について北部八王子駅への看板掲示や会社入口周辺の清掃、駐車場への指示看板設置、その他行先表示の矢印掲示の確認に回らせた。 

 その他にもあれこれ上村の頭の中に浮かんできて、お得意様の休憩室として会社内の特別応接室の準備など、次々に指示した。また彼自身にくる電話やメールなどには、歩きながら対応し、気が付く限りの動きを続けた。 

そうすることで、ほんの少し慎二への罪悪感が薄らぐように思えたし、同時に機械仕掛けの人形のように動いていないと気が狂いそうだったのだ。 

告別式が開始する三十分前に、上村家が檀家となっている寺院の僧侶二人が到着した。一人の僧侶はかなりの高齢に見えたが、その眼光には鋭いものを感じた。もう一人は若い僧侶だった。 

上村は微かにその僧侶の記憶があったが、直接話したことはなかった。上村は憔悴しきったさおりの代理で僧侶達を応接間に通し、応接室で待っていたさおりともども、告別式祈祷の件で御礼を述べた。 

二人で御礼を述べた後、疲れきったさおりに気付いた和尚は、彼女に告別式が長いために別室で休むように伝えた。 

さおりは和尚の言葉に従って席を外し、上村がその和尚と対面した。 

「わたしもずっと海外に行っておりまして……弟には本当に苦労をかけたと反省しています……。あれもこれも……すべてわたしの重荷を弟に負わせた結果であり、不甲斐ない兄と思って反省しています……」 

上村は涙声で和尚に述べた。 

和尚は上村を見て、「駿一さんですな。わしは良く覚えておりますぞ。ご長男さんですな」と和やかに言った。 

上村は軽く頷いた。 

「今回は突然の弟さんの死で心痛まれていることでしょうな。奥さんも若いし、お子さんもこれからだから……。しかしあなたは、お家の事情はわからんが、なんかあって、家を出られて帰ってこられなかった……」 

和尚は上村の心のなかを覗きこむような口調で話した。 

「ええ、父といろいろありまして……しかし、弟に重荷を負わせるつもりはなかったのです。弟も私同様、その重荷を負うことは嫌だったに違いありません……。わたしも家に帰ったときに、弟と良く話をしておれば……後悔ばかりです」 

上村の言葉に躓き、ところどころ涙声になりながら和尚に言った。 

和尚は上村をの顔を見据え、厳しい表情をしながらしっかりした口調で話した。 

「駿一さん……弟さんに、あれをしてあげればよかった、これをしてあげればよかった……とかで、後悔する、それは止めることですな。あなたのお気持ちは、十分、わかります……しかし、後悔することはやめないといけませんな」 

上村は和尚の言葉に、思わず顔を上げた。 

「あなたは、慎二さんといっしょになったんですぞ。そう考えてほしい。弟さんに、ああしてやりたかった、こうしてやりたかった……と、心に思うことがあれば、それは、あなた自身がやればいいんです。あなたは弟さんと、心のなかで一緒になったんですからな」 

 上村は和尚の言っていることが心底わからず、彼の顔を見詰めた。 

「慎二といっしょになった、と言われましたが……ではこれから……どう生きれば……?」 

 和尚は少し頷いて上村の顔を見た。そして重々しい口調で応えた。 

「それはあなたの心のなかにいる慎二さんが……教えてくれるじゃろう。あなたの心のなかにいる慎二さんの声が、いずれはっきりと聞こえるようになるじゃろうから……」 

 僧侶はそう言って合掌した。 

 上村は和尚が何を言っているのか、まったくわからなかった。 

 彼がさらに和尚に尋ねようとしたとき、応接室のドアがノックされ、葬儀屋が上村を呼んだ。 

 上村は僧侶二人に中座することを詫びて、応接室の外に出た。 

彼の頭のなかは和尚の言葉で一杯だったが、葬儀屋からの相談になんとか対応していった――。 

十時に告別式が始まった。 

 葬儀会社の司会者がマイクの前に立ち、挨拶をした。 

喪主であるさおりの挨拶を、葬儀会社の司会が定型のメッセージ書を使って代行した。 

次に司会の紹介で、僧侶二人が入場して祭壇の前に座り、読経が始まった。 

 読経がしばらく続いた後、焼香が始まった。 

 奥座敷の祭壇近くの席からは、上村にはどのくらいの人数が告別式に来たのかがわからなかった。 

 上村は焼香をする参列者一人ひとりに頭を下げて御礼を述べながら、和尚の言葉が脳裏に広がった。 

《ああすればよかった……こうしてやればよかった……という後悔は止める……》 

  

これはいったいどういうことなんだろうと、上村には思えた。 

和尚は『慎二が心のなかに住み始める』、『慎二と自分とが一体になる』と言ったのだ。 

 上村の頭のなかが和尚の言葉で混乱してまとまらなくなり始めた頃、親族の焼香の番となり、上村は司会の案内に従って立ち上がった――。 

 当初、社員や会社関係者が焼香したが、その次には小学生や中学生が大人達に混じって焼香し、さらに工業団地の関係者やジャパンエレクトロニクス社の一般社員、老人会のメンバーなのか八十歳近くのお年寄り、大学生に見える若者達などの焼香が続いた。 

 上村は焼香する人々にいちいち頭を下げた。しかし彼は、かれこれ一時間たっても焼香が終わりそうにないのを不思議に思った。 

 原田が上村の隣に座っているさおりに気使って、「まだたくさん来られていますが、大丈夫ですか?」と尋ねると、彼女は顔を下げたまま頷いた。 

 原田は参列者が途切れないことを不思議がっている上村に、参列者の名簿を見せた。 

 なんと地区の子供会から老人会、ランナーズクラブ、中央大学や工学院大学、駒沢大学などの研究室や都議会、東京医科大学病院など上村が驚くほどの参列者である。 

 上村にはまだまだ焼香が続くと思えた。 

 その時参列者のなかに、見覚えのあるような女性が焼香しているのが見えた。彼女はツバの広い帽子を被っており、顔がよく見えなかったが、その体つきと身のこなしで上村はそう思った。 

 しかし確認できないまま、次々と焼香に来る参列者に交じって、その女性は消えて見えなくなったのだ――。 

焼香は途絶えることがなく、その後も一時間以上焼香が続いた。 

 次第に参列者が少なくなった焼香の最後あたりに、さおりと同じくらいの年齢で黒いスーツ姿の女性が現れ、焼香して帰る参加者の眼を引いた。 

理知的な顔立ちであり、黒い髪を後ろで束ねて細面の白い顔を際立たせている。真珠の白いネックレスがべールで装飾された黒いトーク帽とスーツに映え、憂いに満ちた彼女の表情は、告別式に来た女性達の眼を引いた。 

 上村はその女性の所作を見つめた。 

 彼女は作法に従い、そつなく手をあわせて合掌した。そのとき、なにか輝いたように見えた。 

帰り際に、さおりや上村ら親族の前へ近づいて来たとき、天井の照明で右手薬指が輝いた。よく見ると彼女は細いリングの指輪をしており、そのリングに小さな銀の翼がついているのが見えた。 

 彼女は親族の席の前で立ち止まり、涙をこらえて深々と上村らに頭を下げると、出口へと向かった。 

上村はすぐに原田を見たが、原田も知らないというように頭を振った。原田は上村との関係と思ったようだが、上村もまったく心当たりがなかった――。 

焼香が終わった後も参列者は帰ろうとせず、出棺を待っていた。 

上村はさおりの代わりに慎二の写真を抱いて、屋敷の外に出た。 

屋敷の敷地にはなんと三百名以上の老若男女、幼児までが待って 

いた。 

 上村はそれまで何度か、会社等の告別式で大人数参列したのを見 

た経験があったが、それは仕事で集まっていただけだった。しかし 

今集まっている人々は、慎二の何かに心から感謝して参列してくれ 

ていると思えたのだ。 

上村は玄関から外に出て、思わず参列者に深く頭を下げた。 

葬儀社は上村を見て、すぐにマイクを持って来て彼に渡した。 

「本日はかくもたくさんの方々の参列でまことにありがとうございました。わたしは弟の慎二がこれほどまでに、多くの人々に愛されていたことを、恥ずかしながらまったく知りませんでした」 

 上村はそこで大きく息を吸った。先ほどの和尚の言葉が脳裏に広がったのだ。 

「わたしは上村家の長男として、この家を継ぐことをしませんでした。いや、正直いいますと、逃げたのです。弟の慎二に家という重荷をすべて負わせて、わたしは逃げたのです。そんな三十年も家を顧(かえり)みなかった兄でありながらも、わたしがリストラされたとき、慎二はわたしをこの会社に受け入れてくれました。わたしは本当に恥ずかしい兄ですが、一方の慎二は徳のある生き方をしてきたのだと、本日心から感じました。今日から慎二はわたしの心のなかに住み続け、わたしは慎二と一緒に生きて参ります。これからもこれまで同様、上村家の家族、そして上村電子工業を宜しくお願い申しあげます」 

 上村は自分が余計なことを言っているのを感じながら、「逃げた」ということを公けに言いたい気持ちに駆られたのだ。感極まって、涙が流れた。 

「本当にお忙しいなか、ご参列いただき、ありがとうございました。心より感謝申しあげます」 

 上村はそういうのが精一杯だった。 

 込み上げてくる涙を耐えている上村に葬儀社の社員が耳打ちして、彼を霊柩車へと促した。 

 慎二の柩は参列者のなかを縫うように進み、参列者から多くの涙を誘ったのだ。 

第五章 剣(サイフォス) 

慎二の社葬が終わった翌週の月曜日の朝、特別会議室で定例の役員会が行われた。 

上村が会議室に行くと、すでに専務の原田と木島が来ており、なにやら話し込んでいた。 

上村は原田と木島に相対して入口近くの席に座った。 

しばらくすると、役員達が次々と会議室に入ってきて、それぞれ会議机についた。 

原田は全員が集まったのを確認すると、厳しい顔をして役員達を見回しながら重い口を開いた。 

冒頭は社長である慎二の葬儀の件で、社葬として滞りなく終了したことと協力への御礼を述べた。 

原田は続けた。 

「本日の役員会として第一番目の審議案件は、まず早急に社長を決めないといけないということです。このことについて、皆さんも思いは同じと思っています。本来なら当社の大株主である上村社長の夫人である上村さおり様に社長をやっていただきたいのだが、出産間近であり、また本人も社長就任について固辞されています」 

 原田はそう言って、一息ついた。 

「それで、次期社長ということだが、さおり様に相談させていただきました……」 

原田は顔を上げ、役員全員を見回した。そしておもむろに口を開いた。 

「さおり様と相談させていただいた結果、前社長の兄上でもある上村駿一顧問に社長をやっていただこうということになりました。昨日の話であり、まだご本人には伝えていません。わたしは上村顧問の業務手腕の実際面を知りませんでしたが、今回社葬の采配を見て、リーダーシップ力、行動力、活力、マネジメント力等々の力量を感じさせてもらいました。父上である駿冶先代社長に勝るとも劣らない経営についてのオーラを感じました。専務であるわたしも強く推薦する次第です。役員会の動議として、専務のわたしから提案したいがいかがだろうか」 

 原田がそういうと、役員の全員が顔を上げて大きく頷いた。 

 上村は原田の動議に驚いた。 

だいたい二十数名の会社で、過半数の株式を持っている上村家のさおりが指名するなら、社長も決まりではないかと思えた。原田が監査役を兼務している小企業で、役員会もどき定例会議で次期社長についてわざわざ賛否を取るなど、上村にとっては笑止に思えた。 

「専務、とんでもないことを言わないでくれよ。とても俺にはそんな能力はないし、この会社をまとめていける力もないよ」 

 上村は冗談ではないという表情をして、役員全員を見た。多分原田がこんなことを言いだしたのは、告別式のときに上村が慎二と心のなかでいっしょになったと言ったからだと思えた。そのこととこの上村工業の社長になることは違うのだ。 

 しかし全員が期待の視線を上村に向けている。 

「おいおい、変な眼で見ないでくれ。俺はそんな気はないんだ」 

「しかし顧問、この会社が存続するためには、誰かが社長でないといけないのです。さおり様が大株主であり、さおり様からは顧問に社長就任をと、わたしにお願いがありました」 

 役員全員が、再度上村を見た。 

 上村はふと、芝浦電気製作所に入社したときのことが脳裏をよぎった。入社式の日、将来取締役は無理でも、せめて役員にでもなれれば自分は将来大満足だろうと思った。しかし今は皮肉なことに、全身で社長就任に拒否感を感じている。むしろ恐怖すら感じるのだ。それは責任の重さからだろうと思えた。 

 上村は原田の厳しい顔を見て、創業家の大番頭として生涯を捧げてきた原田にどう説明したとしても、社長就任固辞は通じないと思えた。 

 彼は固辞するための理由を他に探した。 

「専務、わたしは前社長から年内までは特別顧問の委任状をもらっている。したがって、わたしは年内までは顧問のはずだ。あと半年はこの体制でいけばいい。原田専務が社長代行ではどうだろうか? 社長がたてた方針を我々は日々実行しているわけで、年内をこの体制でいくということなら、さおりさんも納得すると思うが――」 

 原田は納得のいかない表情をした。他の役員は隣同士でなにか話し始めた。 

 そのとき原田の隣にいる木島が彼に耳打(みみうち)した。 

 原田は眉根を寄せて、最後に大きく頷いた。 

「顧問、どうしても社長就任は駄目でしょうか?」 

「さっき言ったじゃないか。俺にはそんな器量はないよ」 

「わかりました。それでは現体制や方針をそのまま維持しながら、誠に僭越でありますが、わたしが年内社長代行ということで、大株主であるさおり様にご相談させていただきます。顧問がおっしゃるように、前社長の死は突然でありましたので、さおり様にもご承諾いただけると思われます」 

原田はそこで一呼吸した。 

「体制や方針は現状のまま、年内継続して参ります。前社長はご存じのように木島部長と当社の将来を考えた開発を行っていました。当社の財務内容は借入金が多く、赤字経営の状況です。これを打開するために、前社長は木島部長と少しずつ開発を進めて来られていました。これはまさに前社長のこれからの上村電子工業の安定した経営体質を考えての悲願と思っています。まだわたしは社長代行についてさおり様から承認を得ておりませんが、まことに僭越ながら上村顧問には、この開発をあと半年で成功させていただき、ぜひ当社の将来への見通しを立てて頂きたく思います。これは社長代行としてのお願いです」 

 原田は厳しい表情で上村に言った。 

 上村はなんとか言い逃れしたかったが、自分が半年は顧問と言って社長を固辞したお返しが来たと思えた。 

 原田は少し表情を柔らかくして、上村を見つめた。 

「創業者である先代上村駿冶社長から、若い頃わたしはよく叱られました。先代はわたし達に、『人間には二種類の人間がいる。重い荷物を負わせて潰れるものと、重い荷物を負わせると、力を発揮してさらに重い荷物を背負う者の二種類の人間だ』と言われました。『汗を出せ、そして、その汗の中から知恵を出せ』ば、いずれ自分の潜在能力に気付くと言われたのです。わたしは、顧問にはその潜在能力があると思っておりまして、それを発揮するためには重い荷物を……」 

 上村は原田の話を、手を振ってさえぎると、「止めてくれよ。まるで昭和の人材育成物語だ。親父からそれを何度も聞いた。潜在能力を発揮するどころか、俺は高校時代、重荷で潰されていたよ。はっきり言って、俺にはそんな能力はない。これは、自分でわかるんだ」と、さも煩(うるさ)さそうに言った。 

 上村は原田の姿に父親の亡霊を見たように思い、すぐに原田に背を向けた。そのとき偶然木島と顔が会い、黙っていた木島が上村の方を見た。 

「先ほどの原田専務の話ですが……」 

 木島の真面目な表情に、上村は思わず引き込まれた。 

「開発の件か……?」 

 木島は言葉少なに、口を開き始めた。 

「……ご存じのようにジャパンエレクロニクス社では、科学万博技術出展に向けた社会貢献技術として、協力会社の独自技術の募集を現在行っています。これに入賞すれば、国内製造委託を優先的に実施すると公言しており、前社長はこのチャンスを掴みたいと、水系フラックスの開発を考えられていました。起死回生、会社生命をかけて、開発を推進されていたものです」 

 木島は開発担当として若いエネルギーを込めて力強く言った。 

「ああ、慎二から開発を進めているということは聞いているよ」 

 上村はそう言いながら、思わず冗談で、『それは宝くじを当てるみたいなもんだ』と言いそうになり、言葉を呑みこんだ。 

そのとき上村の背後から、原田の声がした。上村は声の方に顔を向けた。 

原田は神妙な表情をして、低い声で言った。 

「前社長はこれに入賞して三月までに利益を出し、今年度の赤字を解消したいと言ってました」 

「えッ、赤字!? さっきから借入金とか財務状況が悪いと言っているけど、どの程度なんだ!? 詳細について慎二は何も話してくれず、さっぱりわかっていないんだ」 

 原田は上村の言葉に頷くと、言葉少なに言った。 

「本年度、すなわち来年三月までの見通しでは、一億を越えるくらいの赤字となります。なんとか売り上げを伸ばして頑張っても、六、七千万円の赤字となる見込みです。しかしもしも入賞すれば、銀行から来年度以降の資金援助を借り受けができます。入賞できないと、当社としてもはや打って出る商品もなく行き詰ってしまいます。これまで製造してきた商品については、ジャパンエレクロニクス社の意向もあって、中国への移管が多くなりつつあります。親会社から下請けの発注は確実に減少しつつあり、なんとか上村電子として売りに出せる商品がないと大変なことになるでしょう……」 

 原田は重々しい口調で言った。 

 役員達はすでに状況を熟知しているのか、全員頷いて真剣な表情で上村を見つめた。 

 上村はそのとき思わず、工場の敷地半分を売却すればいいという言葉が心に浮かんだ。しかし心のなかで何かが弾けてその言葉を消し去ってしまい、その言葉を呑みこんだのだ。 

 上村は、顧問のままだろうが社長になろうが、結局、会社経営を守っていくための鎧(よろい)のような、自らの責任の重さは変わらないと感じた。今の自分と、父親の後継者教育の重荷で家を飛び出た自分が、次第に重なって見え出したのだ――。 

2 

 会議の後、木島は上村を中央棟の隣のあるプレハブづくりの試作棟に案内した。 

 そこには工場から移管された古いフローはんだ付け装置があった。 

旧式ではあるものの、この装置にはフラックス塗布装置が内臓されており、フラックス塗布後、電子回路基板をこの装置からはんだ槽へコンベア搬送して、はんだ槽へと移送してはんだ付けする設備となっていた。 

フローはんだ付けの製造装置の周辺には、実験用作業机が幾つかあり、その机の上にはそれまでやった数々の電子回路基板の試作サンプルが並べてあった。 

 上村は実験した試作品を見たが、何を調べているのか、よくわからなかった。 

 木島は作業机に奥にあった冷蔵庫から試作フラックスを数個取り出して、試作基板と試作フラックスの対応について説明した。彼は最後に、8Kテレビのリモコン用基板とこれをリモコンに組み込んだリモコンセットを見せた。 

 上村はモノづくりについて木島から説明を受けたが、何がどうなっているのか、ほとんどわからなかった。製造工程についてはこれまで上村はチラチラ見ていただけで、文系の彼には製造のやり方や技術課題などまったくわからなかったし、実際、あまり関心もなかったのだ。 

 慎二と木島が行っていた実験は、水ベースのフラックスを回路基板に塗布した場合、基板上に残留した水分量をなんとかして完全に除去できるプロセスを検討していたようだ。このために、繰り返しプロセス実験を継続して、データ取りしていたことだけが理解できた。 

木島は上村に説明を続けた。 

有機溶剤であるアルコールの入ったフラックスに水を混ぜて、アルコールの量を少なくする工夫をしていたが、水分量を多くすると、当然ながらはんだ接合がうまくいかない。そのため、慎二と木島はかなり多くの実験でプロセス条件の絞り込みを行った。その結果、最後にはうまくはんだ付けできるようになったと説明をした。 

上村には開発内容などの詳細はわかるはずもなかったが、心のなかでは、『宝クジみたいな』と言う言葉が何度も浮かんできた。そのたびに、彼はその言葉を呑みこんだ。 

上村は真剣な表情で繰り返し説明する木島に対して、ただ黙って聞いて頷くしかなかったのだ、 

上村は顧問としての限界を感じ、目の前が暗くなる思いがした――。 

その日から上村は足しげく試作棟に通った。 

というのも、コロナ不況が直撃し会社が倒産しそうな状況なか、上村にとって外部の人々全員がスパルタ軍のように見えた。息の根を止めに、いつ襲って来るかわからない兵士達に思えたのだ。 

彼は襲ってくる兵士達から身を守る、せめて防護するための闘剣のようなものが必要だと感じた。今の彼にとって、それが水性フラックスを用いた開発技術だと思えたのだ。 

木島は業務時間が空いたときに実験室に来て、試作実験をしたが、上村もそのときは必ずその試作実験に立ち会った。 

上村も十日を過ぎると、実験内容が少しずつ理解できるようになってきたが、まだ木島と議論できるレベルではなかった。 

十一月になって上村と木島が、ジャパンエレクトロニクス社コンペの詳細日程を気にし始めたころ、実験試作品のなかで、やっと実際製造した量産完成品に近い試作品が得られた。 

上村は、アルコールを主成分とした実生産品と水ベースフラックスでの試作品とを、二つ並べてよく観察することで、出来不出来がおおよそ判断できるようになり始めた。 

原田が実験の進捗を心配していたため、実験が一段落すると、必ず彼に報告に行った。 

良品が出来たときには、上村は木島といっしょに、その試作基板の良品を原田のところに持って行った。実験が進むにつれ、原田は水ベースフラックスでもここまでできるのかと、感嘆の声を漏らす場面も出てくるようになった、 

原田は実験が進んでいるのを確認すると、東京八王子銀行へ融資願いの説明に行く必要があると、顧問である上村に説明した。しかし上村は回路実装関係の専門家でないため、木島を同行させた方がいいと原田からの依頼を固辞したのだ。 

上村は次第に悩み始めた――。 

この上村電子に残るのか、もしくは当初の予定通りにここを早く去るのか、それがわからなくなってきたのだ。 

そのため彼は開発の可能性を明確にする必要があると思えた。 

銀行から戻ってきた木島を呼んで、上村は今後の開発推進について議論した。 

木島は実験速度をあげるために、若い丸山を年末までこの開発に投じることを提案した。また埼玉県狭山市にあるムラタ化研製作所というフラックス専門メーカーにも協力を依頼して、開発速度を上げるべきだと提案した。すでに慎二が以前相談に行ったことがあったことも、上村に伝えた。 

上村はフラックス開発の可能性を早く知るため、すぐに木島の提案をのみ、原田に頼んで若い丸山を開発に参加させるようにした。これまで木島の時間が空いたときに実験をしていたが、そんなことでは開発が遅くなるからだ。丸山が加われば四六時中実験可能となり、そのタフな身体で、存分に開発を早期に推進することが期待できた。 

次に上村は、材料面での専門メーカーの協力を求めるため、急ぎ動いた。上村は木島と共にムラタ化研に相談にいき、上村電子の要望を伝えたのだ。 

ムラタ化研の開発者達は上村電子の要望というよりも、背後にある巨大企業ジャパンエレクトロニクス社のコンペが最大の関心事だった。彼らは上村電子のためというより、ジャパンエレクトロニクス社の環境製品としてラインナップされることを期待してか、意外にも積極的な参加を申し出た。 

上村は専門メーカーの協力的な動きに、《もしかしたら……》という期待が生じ始めた。 

このため彼は、ムラタ化研の技術開発内容と上村電子の開発内容とをマッチングさせる開発計画案を練った。 

この計画案は役員会で上村が紹介し、役員はもとより全社員の期待も膨らむのを上村は感じた。 

ムラタ化研は上村らが作成した計画に従って、さまざまな種類のフラックス材料を試作してきた。若い丸山は強靭な体力、気力を発揮して、試作実験室に泊まり込みで作業をし、十種類あったフラックス材料から現状と同等レベルの水系フラックスを選択した。 

十一月半ば過ぎまでになんとか水系フラックス材料を絞り込み、上村電子で試作をすませた。上村は試作を終えて結果が出ると、安田に相談に行くことを考えた。すぐに安田に連絡すると、彼は品質保証部のメンバーも同席して話を聞くと応えたのだ、 

3 

ジャパンエレクトロニクス社の開発本部は横浜の鴨居(かもい)にあった。 

上村は木島と試作品やデータを持って、東横線で菊名まで行き、そこで横浜線に乗りかえて本社のある開発本部へと向かった。 

開発本部は横浜線の鴨居駅からのすぐ近くで鶴見川縁(べり)にあった。 

グローバル企業であるジャパンエレクトロニクス社は、その敷地も広大で鶴見川の流れに沿って数百メートル四方の敷地が幾つかあった。土手沿いを西へと進むと、開発本部のある二十階建てライトブルーの近代的なビルが見えた。敷地の周囲は白いフェンスで囲まれており、左右二十メートル以上ある正門には警備員が立っている。 

上村と木島は正門入口で手続きをして、正面に建っている二十階建ての開発本部のビルのなかへと入った。  

開発本部エントランスから内部に入ると、自然光を取り入れた広いロビーがあり、多くの来客がそこで打ち合わせをしていた。 

木島は受付で女性社員に安田への連絡を頼むと、しばらくして安田がロビーに現れた。安田は上海に慎二を呼び出したことに責任を感じているのか、暗い表情をしていた。 

彼は上村と木島に黙ったまま頭を下げると、奥の会議室へと二人を案内した。 

品質保証部の会議室は、室内全体がクリーム色で統一されており、窓からは鶴見川が見えた。部屋の正面にはスクリーンが準備されており、プロジェクターも設置されていた。安田は、会議室内にある子電話を使って品質保証部に連絡した後、彼はその会議室から出て行った。 

二人は安田が戻って来るまでの間、説明資料の準備などを行った。しばらくして安田は若い品質保証部の社員を連れてきた。 

三十代過ぎに見えて痩せた背の高い社員だった。業務が忙しそうで、徹夜続きなのだろうか、髭も剃り残しており、髪も乱れたままだった。 

上村はその若い技術者と名刺交換して、彼が吉井淳というまだ役職付きでない平社員でしかないことに落胆した。 

安田が彼を会議室の席につかせると、上村に説明を促した。 

上村は今回の会議にあたって、これまでの経過を説明した。その間、吉井は別のことを考えているのか、彼の説明にはほとんど関心を寄せなかった。 

次に木島は、これまで作成した実験資料と試作サンプルを使って説明し始めた。説明を始めてしばらくして、「フラックスの主成分が水なんて、とんでもない考えですよ」と、若い吉井がいきなり、フラックスとして水を主成分にして使用するのは駄目だと、端(はな)から否定し始めた。 

「これは、回路基板製造に水を使ってはんだ付けをするということですよね。そんな危なっかしいことは、世界中、誰もやっていません。水なんですよ! 基板を水で濡らしたら、電気がリークしてショートするじゃないですか。水をベースに電子回路基板を製造するなんて、不良をつくるみたいなもんですよ」 

 グローバル企業のなかでも厳格な管理を行っている品証部の若手は、首を縦にふらないどころか頭から否定したのだ。 

 木島と実験のほとんどを担当した丸山は、吉井の言葉に苛立った。 

「そう言われても、当社で開発した試作基板の信頼性評価結果は、これです」 

木島は数十ページ以上ある試作品数十台の信頼性結果を見せながら、声を荒げて吉井に詰め寄った。 

吉井はそのデータを見ようともせず、鼻で笑った。 

「これはたった数十台の試作品の信頼性結果じゃないですか。まぐれで信頼性をクリアする試作品をつくるのは可能ですし、簡単です。私共の工場では、何十万台も何百万台も、テレビのリモコンをつくっているんです。そのうち、一台でも不良だせば、基本的に製品化はアウトなんですよ」 

 若い吉井は日々業務で苦労しているのか、簡単には引き下がらなかった。 

 上村は吉井の態度に身を乗り出した。 

「では、従来のフラックスと同様に信頼性が得られているのは、なぜでしょうか? 逆にそれを教えてくださいよ。実際に当社の製造プロセスで品質をクリアできているのはなぜでしょうか?」 

彼がそう言うと、吉井は上目使いに上村を見て、声を低めて、「特殊なつくり方をしたんじゃないですか……たとえば……たくさんつくって、そのうちで信頼性をクリアしたものを……選び出せばいいんですから……」と悪びれずに言った。 

上村は吉井の言葉に口を一文字に結んで、そしてゆっくりと口を開いた。彼の眼は燃えているようだった。 

「わかりました……。吉井さんはわれわれを信頼してないんですね。宜しい。安田さん、吉井さんを連れて、一度、当社に来てくださいよ。眼の前で試作しますから。その試作品を吉井さんは必ず、品質管理部として基準にあうのかどうかをチェックしてください。その結果、試作品の品質データが管理基準を越えていないのなら、当社もきっぱり提案をやめますから」 

上村がそう啖呵(たんか)を切ると、吉井は眼をクリクリ動かして、安田を見た。木島も丸山も上村が勝負を賭けてきたと感じたのか、二人も驚いたように上村を見つめた。 

安田は暗い表情の顔を上げ、上村の切り返しに思わず頬笑みながら、「上村電子さんを君は知らないだろうけど、もう三十年以上の長いお付き合いなんだ。上村電子さんは変なデータの提出や誤魔化しなどしない会社だよ。吉井君、だからよく考えてほしいんだ。もし水ベースのフラックスで回路基板が製造できるなら、世界初だよ。科学万博技術出展に向け当社の温暖化防止環境技術で当社にも大きなメリットがある。上村電子さんの独自技術でもあり、独創的技術開発の出品がほとんどないなか、共栄会社さんとお互いの成果にできるというもんだ。ちょっとは協力してくれよ」と、上村への応援の言葉を投げかけた。 

吉井は安田の言葉を聞いて少し考え、急にオドオドすると、「わかりました。では環境本部からのコンペ出品への要望があったということで、部長と相談してみます」と、低い声で応えた。 

安田は上村に笑顔を見せ、木島と丸山にも親指を突き出すグッドサインを見せたのだ。 

4 

数日後、安田と吉井は上村電子工業にやって来た。 

数十台のリモコン基板の試作がさまざまな条件で行われ、吉井はその実験方法の詳細をメモし、また写真撮影した。試作実験は深夜にまで及んだ。  

吉井は上村から言われたとおり、水ベースのフラックスを使ってはんだ付けされた製品を目が飛び出るほど見つめ続け、「こんなことができるなんて……」と繰り返し呻いた。しかし現実に、製品ができてくると、なにか獣(けもの)のような唸り声をあげ、いきなり試作室の外へ飛び出ていった。しばらくして寒風にさらされたためか白い顔をして戻ってくると、上村がどんどん製品を作り出すさまを、信じられない表情で見つめた。 

上村らは実験を続け、試作実験はとうとう徹夜状態となったが、翌朝出来上がった試作品を持って、安田と吉井は粉雪が舞い散るなか横浜の開発本部へと戻って行った。 

彼らが帰った後、上村らは実験室で暫(しば)しの仮眠を取った後、すぐさま全員で実験結果のまとめを行って、課題等の整理を行った。 

――安田と吉井が試作品を持ち帰り、開発本部品質保証部で信頼性実験行っている二週間の間、上村達はその品質結果が出るのを心待ちにした。 

上村らは状況を役員会で説明すると、役員全員の関心が高く、この開発プロジェクトに期待を寄せていることがひしひしと感じられた。また原田は新たに作製した試作品を持って、いかに画期的な技術かを説明すべく東京八王子銀行に出向き、乗り気でない高尾に無理矢理面会を求めて融資願いを繰り返したのだ。 

十一月末になって、ジャパンエレクトロニクス社品質保証部から上村に来社の要請が来た。 

小雪が散らつくなかを、上村は木島、丸山とともに、鴨居の開発本部品質保証部へと向かった。 

  

安田は前回と同じように、上村らをエレベーターで三階へと案内し、品質保証部の会議室へと連れて行った。 

会議室では吉井のほかにもう一名、若い社員がパソコンやプロジェクターを準備して待っていた。 

吉井は前回とはまったく違う態度で上村らを迎え、緊張した面持ちで深く頭を下げた。会議机へ案内すると、先日の試作実験について緊張した表情で丁寧な御礼を述べた。 

彼は少し震える手で、上村らに三十頁以上ある信頼性評価結果の資料を配った。 

吉井は全員に資料を配り終わると、品質保証部の品質信頼性評価結果について、まず『上村電子工業様』と丁寧に紹介して、少し声を震わせながら説明を始めた。身体の動きが時計仕掛けのようにカクカクし、全身緊張しきっているのがわかった。 

吉井は信頼性品質評価の実験などを手元資料とスクリーンに映した映像で、『驚いたことに』や『信じられないことですが』という言葉を繰り返し使いながら説明を続けた。 

資料は実験方法からその結果について懇切丁寧に記載され、結果が数値と写真でわかりやすくまとめられていた。 

上村は心の中で、さすがにジャパンエレクトロニクス社と唸(うな)った。異常なデータなどは中小企業には保有できない高価な分析装置を駆使して解析してあり、一つひとつ、このようなデータが出た理由について解説されていた。 

吉井は三十数頁あるその資料の最後あたりで、「最後の頁をご覧ください」と、結果一覧表がある頁を全員に開かせた。 

その頁には試作品全部の試験評価結果がまとめられており、すべての試作品が品質基準を満たすと書かれていた。さらにその頁に下には、ジャパンエレクトロニクス社開発本部品質保証部部長である野上弘の署名があり、印が押されていた。 

吉井は全員の顔を見回した後、「上村電子さんにわれわれが行って試作した、リモコン基板やデジタルテレビサブ基板の五種類すべてが、この一覧表に示しますように当社のすべての信頼性評価試験に合格しました」と深く頭を下げ、前回の上村らへの言動を詫びるような丁寧な態度で述べた。 

 上村は木島、丸山と顔を見合わせ、「やったな!」と言って、隣りに座っている木島の肩を叩いた。さすがに木島もほっとした表情をして、「やりましたね!」と言って顔を綻(ほころ)ばせた。丸山は拳を握りしめて、「よかったァ!」と、大きな声をあげた。 

 安田も笑顔で上村達を見ている。 

「吉井さん、ではこれで実生産を開始してもいいですね。当然、初めは日に数百台程度から開始しますが」 

 上村は笑顔でそう言って、吉井の顔を覗き込んだ。 

吉井は眉根を寄せて、少し考える表情をした。そしておもむろに口を開いた。 

「確かに……信頼性は得られてはいますが……水主成分のフラックスを用いてはんだ付けして、それでどうして、アルコールベースのフラックスを使ったときみたいにうまく接合できるのか、その理由がわからないですね……はんだ付けで、水はタブーですが、こんなにうまく接合していて、信じられないのです……。ですからたまたま、今回は数十台、偶然うまくいったのかもしれない、なんてことも……」と言った。 

 上村は思わず、声を大きくした。 

「それは、言いがかりじゃないか! 当社の技術を信頼していないからだよ。現に結果が出てるじゃないか! 評価結果でうまくいったんだろ! そんなら、実機生産へのゴーサインを出してくれよ。試験結果には合格しているのに、しかし実生産はできないなんて、そんないい加減な態度でどうするんだ? 俺ら下請け企業を困らせるだけじゃないか!」 

 上村の怒り爆発を何とか押さえようと、木島と丸山は上村の両側から必死に彼を押しとどめた。 

 吉井は慌てて、「そんなことをわたしに言っても……困りますよ……」と言って、隣の若い社員を見た。彼も大きく頷いて、首をすくめて小さくなっている。 

 安田は小さくなっている品質保証部の二人に声をかけた。 

「野上部長を呼んでほしい。環境本部としても、この技術をぜひコンペに出したいしな」 

安田の言葉に吉井はすぐに胸から社内用携帯電話を取り出すと、誰かに電話した。それから彼は全員に、「部長はすぐ来ます」と言って、大きな溜息をついた。 

 しばらく待っていると、太った五十代に見える技術者が現れた。 

「すまんこって、今日は忙しゅうてな」 

名刺を見ると、品質保証部部長とあり、野上弘とあった。 

彼はエアコンだけの暖房であるのに、額に玉汗をかいて、それをハンカチで拭いながら打ち合わせデスクについた。 

野上は上村の名刺を見ながら、「こりゃ、老舗の協力会社さんですね。お世話になっております。いいモノを長いこと供給していただき、ほんまにありがとうございます。たしかうちの埼玉工場と千葉工場にも、回路基板、供給してくれてはりますね」と満面の笑みを浮かべて上村を見た。 

上村も上村電子を紹介しながら、実直そうな野上の態度に安堵した。 

吉井は簡単に、これまでの経過を説明した。 

「うんうん、上村電子さんがおっしゃるのはわかるわ」 

 野上は顔を崩してそう言った。 

「では、少量ずつでも製造していきたいのですが、どうでしょうか?当社としては生き残りを賭けて、年末コンペに出したいと思っております」 

「コンペに出さはるのは問題ありません。でも、実用化してへんかったら、落ちてしまうと思うんですね。一日(いちにち)二日(ふつか)、焦らんでもいいんと違いますか。それよりしっかりしたデータを出すのが肝心なことやと思いますけど」 

 野上は同席した全員を見ながら言った。 

「吉井の説明が足らんかったと思いますわ。吉井から聞いておりますが、水ベースのフラックス使って、なんで信頼性が得られて、そいでまた、品質基準を得られるか、ですわ。なんでなんでしょうね?」 

野上から質問されて、上村は応えに窮した。 

「結果は今回出てます。できるということはわかったんで、なんでうまく行ったのか、それをわかりやすく説明してほしいんですわ。どっちみち、コンペに出してもこれは質問されることやと思いますよ」 

上村は確かに、なぜだろうと思った。以前彼自身も、この点のいついて理解できず、不思議に思っていたからだ。 

「難しい応えはあきませんよ。一言で、わたしに教えてほしい。それができれば、ほんまもんの合格です。生産開始可の印、ドカンと押しますわ」 

野上は笑顔をつくりながらも、その眼だけは厳しく光っていた。 

5 

上村は会社に帰って、木島らと議論した。 

野上が言うように、確かになぜうまく行くのか、その理由が上村らにもわからなかった。 

上村はこの件を役員会で説明して、役員連中にも相談したが、彼らからもいい回答が出てこなかった。 

回答を見出せないまま、ずるずると時間だけが過ぎて行った。 

役員会議の後原田は、さおりが上村に会いたがっていると耳打ちした。最近上村が会社の試作実験室に泊まり込みで、ジャパンエレクトロニクス社コンペ対応をしているのを知ったからだという。 

上村はさおりが会いたがっているということを聞いて、気持ちが暗くなった。 

自分はすでにこの上村電子という重圧から逃げ出したはずだった。 

しかし、三十年間逃げ切ったつもりでいたが、今思うとそれは常に彼の潜在意識のなかに居座って、さらに重みを増し彼を悩まし続けていたのだ。 

弟慎二が死んで、さらにその圧力が現実のものとして自分にのしかかってきた。上村は重装備を身につけた兵士になって、眼の前の戦闘に加わり、しかも勝利しなければならない局面に立たされているように思えた――。 

彼はその日の夕方、上村実家の屋敷へと向かった。 

さおりが大きなお腹をしながら出てきて、祭壇のある座敷へと上村を連れて行った。 

上村は慎二が祭られた仏壇でお参りすると、さおりに挨拶した。 

さおりは上村の後ろに座っていたが、泣いていたのか、目元が赤くなっていた。 

「コンペの件で来れなくって、さおりちゃんとゆっくり話もできず、悪かったね」 

「いいえ。お兄さんこそ、コンペ対応で徹夜されていたって、原田さんから聞いたもんですから。主人の代わりに本当に申しわけありません……」 

 さおりはお腹をさすりながらポツリと言った。 

「わたしには、社長業は無理です……」 

 上村は黙って聞いた。 

「それで、お兄さんが来年三月までで、この上村電子から別のところに行かれるなら、それでもいいですし、この上村電子を社長として進めていかれても、わたしはとくに……」 

 上村はさおりが自分を呼んで言いたかったことがわかった。彼はさおりの言葉に、ただ頷くだけで、どう応えていいのかがわからなかった。彼自身、今後どのように上村電子に関わっていくべきなのか、大きな迷いがあったからだ。 

上村には、夫を亡くしてまもなく子供が生まれる若いさおりに対して、応えるべき適当な言葉が浮かばなかった。 

「……さおりちゃん、ぼくは……」 

上村は何度も、迷っている自分自身の正直な気持ちを、口に出してさおりに言わねばと思った。 

しかし、口が動かず、言葉にならない。 

彼はとうとう今の本当の気持ちを口に出せず、さおりに、「身体に気をつけるように」と言って、その場を逃げるように辞した。 

屋敷を出ると、星々が鮮明に見える師走の夜空から小雪がちらつき始めた。時計を見ると、十一時である、 

上村は背を丸めながら、プレハブの試作棟実験室へと戻って行った――。 

上村は久しぶりに梅ヶ丘の自宅マンションに帰り、運動不足を解消しようと、朝マンション近くの羽根木公園を走ってみることにした。  

早朝の厳しい寒さに備え、防寒トレーナーの下を着こんで二十階のマンション最上階から一階へと駆け下りた、 

うす暗い閑静な住宅街を小田急線の線路沿いを東へと走り、梅ヶ丘駅から北へと折れて、羽根木公園へと向かった。 

羽根木公園入口の階段を駆け上り、梅林の丘の頂上へと駆け上った。その丘を北の方向にしばらく走った。 

梅林を抜けてその丘を駆け下り、東出口の方に向かい、テニスコートの方へと走った。 

彼は走りながら、明後日の虎之門ヒルズで行われるコンぺにまつわる色々なことから逃れたいと思った。しかし頭にこびりついて離れないのだ。  

上村は一瞬でもこのことを忘れ、重圧から逃れたかった。 

彼はピッチを上げて走り始めた。 

上村はテニスコートの周りを十周して汗をかき、東出口から自分のマンションに戻って行った。 

閑静な世田谷住宅街のなかで四十階建ての高層マンションは遠くからでも一際目をひいた。ちょうど東の空から朝日が昇って、高層マンションの向こうに輝いて見えた。 

上村は最後の力を振り絞って、自宅マンションのすぐそばまで走って、そこで止まって大きく肩で息をしながらマンションまで歩き始めた。 

そのとき、後ろから声が聞こえた。 

「いやあ、奇遇ですな。お住まいはこの近くと聞いていたものですから。原田様にはお世話になっています。審査部融資担当の高尾です」 

上村は驚いて振り返った。 

 なんと東京八王子銀行の融資審査部次長の高尾のようである。 

 彼は白いセダンから出て寒そうに身体を縮め、両手で揉み手をしながら上村に近づいた。 

上村はマンションの一階から出て走り始めたとき、マンション近くに白いセダンが止まっていたのを覚えていた。 

「ええ、このマンションですよ」 

 上村は自分のマンションを指差して、高尾に言った。 

 高尾は世田谷梅ヶ丘ではあまり見ない高層マンションを、見上げた。朝七時に何の用事でここにきたのだろうと、上村は訝(いぶか)しげに応えた。 

「いいマンションですねぇ、羨ましいなあ。羽根木公園はすぐ近くにあるし、周囲は高級住宅街ですし。ぼくが住んでいる八王子のマンションとは大違いだ。ところで何階にお住まいですか?」 

「二○階ですけど」 

「ますます、いいですなあ。世田谷の小田急線梅ヶ丘駅すぐで、公園のそば。しかも最上階だったら、毎日がホテル住まいみたいなもんですよ。よく購入できましたな」 

 高尾は笑って白い息を吐きながら、上村に言った。 

「ええ、当時で一億円ですよ。上司がバブルで大借金して、手放すことになりましてね」 

 高尾の表情が突然狐顔に変わった。 

「いくらで買われたのです?」 

「八千万円です。ただしキャッシュでほしいということだったんですよ」 

 高尾は狐顔を笑顔に変えて、微笑ながら言った。 

「よく現金がありましたなァ」 

「それは結婚しなかったからですよ」 

 上村はそう言って、美紗子の顔が眼の前に浮かんだ。 

「当時、芝浦電機製作所さんは景気がよかったですからね。それに海外営業の場合、給与が国内の会社からと海外の会社からとダブルで入って、いい時代だったですね」 

 上村は高尾と話ながら、ふと疑問が湧いてきた。 

「で、結局、なにか用事なんですか?」 

 高尾はふふっと笑うと、「いや、偶然通りかかって、走っている上村さんを見かけたもんですから……」と言った。彼はまた狐顔をすると、「これはご挨拶しないといけないと思いましてね。いや、申しわけない。呼び止めまして」と言って、丁寧に頭を下げ、また車へと戻って行った。 

 彼はフロントグラスを通して、笑顔を見せて頭を軽く下げると、車を走らせてすぐに見えなくなったのだ。 

 上村は白いセダンを茫然と見送りながら、美紗子に借りた金は早期退職金で清算したことが思い出された。 

爽やかな朝が、高尾の出現でいきなり汚されたような気分になり、上村は気分を変えるようにマンションの入口へと走って戻って行った。 

6 

上村はさおりと上村の実家で会った日から数日の間、ほとんど試作棟から出ずに、実験と評価をして過ごした。 

木島は年末商戦向けの製造で忙しいなか、たびたび顔を出して、状況を確認にきた。上村と丸山は野上からの宿題に応えるべく、実験と試作を繰り返した。 

しかし野上の問いに対する解答がなかなか得られず、心が折れてギブアップしそうになった。 

眼の前が真っ暗になるのだ。 

そんな中、次第に頭のなかに浮かび上がってくる映像があった。 

その映像が次第に鮮明になっていく。 

それは今の上村が守っていかねばならない人達一人ひとりの姿であり、顔や姿がはっきりと見えたのだ。 

《俺は今、逃げるわけにはいかない……》 

 上村は折れる心を奮い起こして、また試作実験に集中した――。 

上村は十二月に入ってほとんど毎日、この試作棟で過ごしていた。 

十二月五日の深夜まで丸山と実験した上村は、翌日、寒さで眼を覚ますと、実験室の石油ストーブが消えている。彼は急いで、灯油を入れて実験室を温めた。 

時間を見ると、朝の五時である。 

はんだ付けの実験ですでにタイマーが作動し、はんだ槽は昇温を始めており、設備が稼働している音がした。 

先日のさおりの言葉が思い出され、また、慎二の顔が浮かんだ。 

そのとき、ふと、上海に慎二と行ったときのことが脳裏を過った。 

慎二が予約した上海のホテルに行ったときのことが、呼び起こされたのだ。 

彼が予約したホテルの一階は中華料理店で、二、三階が宿泊するホテルとなっていた。 

上村にはその店の奥にあった朱色で上半分が桟(さん)窓(まど)になっている間仕切りがなぜか頭に浮かんだ。その上半分の桟窓に貼ってあった障子紙の一部が破れ、皺(しわ)になっているのを鮮明に記憶していた。 

上村は慎二のなんともいえない顔が浮かんで来て、懐かしい気持ちになった。 

窓の外を見ると、雪からみぞれに変わって雨がしとしと降っている。上村は実験室を温めようと、実験室の奥にある流し台でヤカンに水を入れ石油ストーブの上に置いた。 

しばらくするとヤカンの水が沸騰して、口から蒸気が出てきた。 

彼は身体を温めるために、ヤカンのお湯を使って、コーヒーをつくり窓の外を見た。 

窓には髪が伸びて作業着を着た自分の姿が映っている。 

ヤカンの蒸気で、窓が曇り、次第に外が見えなくなってきた。  

時計を見ると、もう七時である。 

上村はまもなく木島と丸山が来ると思い、実験の準備を始めた。 

はんだ槽の横に置いた試作用基板ラックを取り上げて、そのラックをはんだ槽の装置にセットした。 

上村は試作用基板を見ると、テカテカと光っている。 

彼は思わず、基板を触った。 

すると湿り気がある。 

《なんだ、なにもしなくても基板の表面は湿っているじゃないか……》 

 上村はそう思って基板を見ていたとき、突然、通常フラックスを使用するときでも、水は基板の上に存在すると気付いた。 

 彼は上海の中華料理店で障子紙が湿度で皺になっていた映像が再び思いだされ、これまでも電子回路基板をアルコール系フラックスで製造する梅雨時でも、湿度の影響を受けて基板自体が、かなり水を含んでいたはずだと思い始めた。 

 上村はアルコール系フラックスを用いて、試作用回路基板を塗布し、しばらく待った。 

 アルコール系フラックスなら、早くフラックスが基板から乾燥すると思っていたのだ。 

 彼はその基板を取り上げて観察したが、ほとんど乾燥していない。基板表面は濡れたままである。 

《アルコール主成分のフラックスを使っても、濡れた状態のままだ……》 

 彼はそう思いながら、次に十分程度時間をおいて待ってみたが、アルコール系フラックスでも濡れたようなままで、乾燥した状態にはならなかったのだ。 

上村は不思議に思って、その基板をはんだ付けするコンベアに乗せて、接合を始めた。 

設備は稼働して、基板の裏面にはんだがうまくついて出てきた。 

まったく問題がなかった――。 

《汗が一滴、はんだ槽に落ちただけでも、はんだが飛び散るのに、基板の上に残った水分では飛び散らない。水は消えたのか……?》 

上村は不思議に思い、もう一度回路基板にアルコール系フラックスを塗布して、それを装置コンベアに置いて、はんだ付けを行った。 

回路基板はコンベアの上を流れて、はんだ槽へと入ろうとする。 

上村はその直前に、回路基板を取り出した。 

なんと、基板は濡れておらず、完全に乾燥しているのだ! 

上村は頭を抱えて、考え始めた。 

ちょうどそのとき実験室のドアが開き、職務服の上着だけ着た木島が入ってきた。 

彼は少し早めに出社したようだった。 

上村がすぐにこの件を木島に言うと、彼は、「そうでしょうね。はんだ槽に入る前には、コンベアに設置してある乾燥装置でフラックスは飛んでしまうからかもしれません」と、訝しげな表情で応えた。 

「だったら、水ベースのフラックスでも同じだろ。はんだ槽に入る前に、コンベアにある乾燥装置で完全に乾燥させればいいんだよ」 

「なるほど! アルコール系のフラックスであれ、水系のフラックスであれ、はんだ槽に入る前に乾燥機で完全に乾燥させれば、結果は同じということですね」 

「そうだよ! そんな単純なことに、なんで今まで気付かなかったんだろう!」 

 二人は顔を見合わせた。 

 しかし上村はすぐに、難しい表情をした。 

「それはそうとして、乾燥したかどうかを、どうやって調べるかだな……」 

 上村の心配に木島は少し考えていたが、「大丈夫です。最近は非接触測定できる光検出水分量測定装置があります。光センサがあるんですよ。それを使えば、定量的に測定できますよ。ほら製紙会社などでは、紙はロール状に巻いて出荷していますが、そのとき、紙の含有水分量を知っておくことが品質管理上、重要なポイントとなりますから」 

「光センサでの水分量検出……それに紙か……ということは、宇和スクリーンの大山さんに聞けば、その光センサについても知っているんじゃないかな」 

上村は木島の提案に大きく頷いたのだ。 

上村が大山に電話すると、大山は紙にスクリーン印刷する場合でも、紙の水分量管理は極めて重要で、ほぼ一定でないといけないと言った。そして彼は、宇和スクリーンで使っている光センサを貸してくれると電話で言ってくれたのだ。 

上村はすぐに宇和スクリーン工業へと車を走らせた。 

彼はその光センサについて大山から説明を受けた。かなりのノウハウがあったが、それを大山は隠さず上村に開示したのだ。 

光センサの大きさはデスクトップパソコン程あり、光を使った非接触方式の測定器である。紙の表面の水分量をかなりの精度で測定することが可能となっていた。 

 上村らは早速その光センサを使って、電子回路基板をはんだづけ装置に設置して、まず初期状態での基板表面の水分量を調べた。その後、コンベアに設置された乾燥炉を通ってはんだ槽の前に来たときの回路基板を取り上げて、表面の水分量を光センサで測定した。また同様なことを、アルコール系フラックスと水系フラックスの両方を使って塗布し、目視では乾燥して見えるはんだ槽に入る前の回路基板の水分量を量った。 

 その結果、アルコール系のフラックスを使っても水系フラックスを使っても、コンベアに設置された乾燥炉を通ってきた電子回路基板は、目視では完全に乾燥しているように見えるものの、三パーセント近くの残留水分量があることがわかった。 

 木島はその実験結果を見て、「ということは、水分が三パーセント程度残っていてもいいということですよ!」と明るい声で言った。 

 丸山は実験を進め、今度は水ベースフラックスを塗布し、以前慎二らが積み上げたプロセス条件で設定すると、はんだ槽に入る前の基板の水分量は二・七パーセントだった。アルコール系フラックスの三パーセントより低かったのだ。 

結果を知った上村は、木島と丸山の肩を叩いて、「これで野上さんに回答できるぞ! さあ、このデータを積みあげようぜ!」と、大きな声で気勢を上げた。 

第六章 崩壊 

1 

 粉雪の舞う師走のビル街を、青いBMWが車の間を縫うようにして虎之門ヒルズへと向かって行く――。 

 上村はヒルズの建物の西側から地下駐車場に入り、そこで車を止めて、エレベーターで二十階へと上がった。 

エレベーターを降りると、すでにかなりの人数の関係者が大ホール入口に集まって、何か熱心に話し込んでおり、技術説明用パネルをホールに運びこんだりしてごった返していた。日本人だけでなく、欧米人や中国、韓国など、アジア系協力会社社員の姿も見えた。 

 上村らは大ホール入口へと進み、入口にはジャパンエレクトロニクス技術コンペティションの看板が設置されていた。 

二人は人が溢れている入口からホール内部に入った。 

 科学万博向けJE社技術コンペティション会場である大ホールには、ざっと五百名以上の関係者が集まっており、上村らはイベントに対する会社の力の入れようを肌で感じた。 

彼らは大ホール入口で安田から送られた登録証を受付に提示して手続きをすると、首に下げるネームプレートと関係書類を受付から手渡された。 

 二人はネームプレートを首に下げて、受付の混雑を縫ってホールのステージの方へと進んだ。 

正面ステージ上には、『ジャパンエレクトロニクス社 技術コンペティション世界大会』の大きなパネルが飾られていた。ステージの前には左右に五十席ほども座席があり、ステージからホール入口まで十席ごとに通路があった。座席の数はざっと八十列ほどあり、四、五百名は入る大ホールだ。 

 最前列の中央付近には二十名近い審査員が出入りしており、その審査席の前だけにテーブルが設置してあって、その上には関係書類が置かれていた。 

 最前列から三列目まではジャパンエレクトロニクス社の関係者の席があり、一列空けて、五列目から一般発表者が座る席が並んでいた。上村と木島はその席に座り、順番を待った。 

 しばらくすると開会の時間となり、ステージに司会者が登壇して開会を宣言した。 

 まず都知事である古池裕子の来賓の挨拶があり、今回の技術発表に大きな期待を寄せていることを述べ、会場から大きな拍手が湧き起こった。 

続いて大会委員の代表が演台に立ち、科学万博に向けた環境技術コンペティションの意義などについて説明した。 

 これが終わると、各関連企業が考える環境関連技術課題に対し、それぞれの事例発表が始まった。 

技術コンペティション開発事例は五百件以上の応募から選ばれたトータル二十事例の選出であり、抽選で決められた順番に従って発表が行われた。 

 上村は自分の発表が近づくにつれ、心臓が張り裂けそうになった。 

 現場で頑張った木島や丸山、そして慎二やさおりの顔が思い出され、なんとか入賞を勝ち取りたかった。 

 上村の名前が呼ばれ、極度の緊張を感じながら壇上に上がった。 

 ステージから会場を見ると、なんと眼の前には雑誌や新聞などで見たことがある、ジャパンエレクトロニクス社社長や取締役の数名が前列一列目に見えた。それに加えて経営者風の審査委員や東京都都議会議員などの審査委員の姿に気付いて、思わず身が縮む思いがした。 

 壇上でスクリーンに発表資料の表紙があらわれるまで、ポインターの状態など発表準備をしながら、緊張で身体がこわばり上気して顔が熱くなるのを感じた。 

 これまで芝浦電機製作所でカストマー向けに何度もプレゼンテーションをやってきた。もちろんそのときにも発表前は少し緊張したが、すぐにその場に慣れて自分のペースでプレゼンが始められた。しかし今回は、上村電子工業全体の命運がかかっているのだ。 

 失敗は許されないし、なんとしても入賞する必要があった。 

 鬼の二本の角のように見える東京都庁の第一本庁舎N棟とS棟の上にロープが張られ、四方からの風で揺れるそのロープの上を、いまからまさにバランス棒を持って歩き出すような心境だった。 

 上村は『ヒートアイランド現象を低減する環境モノづくり技術開発事例』の発表用表紙がスクリーンに大きく映しだされたとき、頭が真っ白な靄(もや)に襲われる感じがして、声が上擦(うわず)った。 

 木島を見ると、ステージの下から上村を心配そうに見上げている。 

 上村は手が震えるのを感じながら、逃げるわけに行かないと自分に言い聞かせた。 

彼は慎二の顔や原田の顔が浮かんだ。これまでの経験を思い出し、深呼吸をした。 

「上村電子工業の特別顧問であります上村駿一と申します。上村電子を代表して、当社の技術開発事例について説明させていただきます」 

彼はゆっくりした口調で、審査員を見回しながら説明を始めた。 

上村は自分の声が震えているのを感じたが、次第に気持ちが落ち着いてきた。 

都庁の上に張られたロープを、両手でしっかりとバランス棒を持って歩みだすと、タイトロープが割(わり)と揺れることなく安定しており、一歩目を歩みだすことができた。同じ気持ちで、さらに一歩、前へと歩き出す。 

眼を下に映すと、眼下の東京市街地が豆粒のように見え、足がすくんだ。まっすぐ前を見ると、S棟まで数百メートル以上あるタイトロープが続いている。身体が風で揺れるのを感じながら、N棟からまた一歩と進んで行った。 

ときどき眼が眼下の市街地の方に向くと、全身がすくんで動けなくなる。上村は眼の前のタイトロープとバランス棒を握る左右の手にだけ集中すると、足下の東京都市街地が少し気にならなくなってき始めた。 

一歩、また一歩と、高層ビルの上に張られたタイトロープを歩くように、発表を続けた。 

しばらくすると、緊張が解け始めたのか、口から発する言葉とその言葉の意味が少しずつマッチングし始めるのを感じた。 

「……電子回路基板をはんだ付けするとき、まずフラックスを塗布します。このフラックスのほとんどが有機溶剤、つまりアルコールなんです。このアルコールが大気に拡散して一キロ上空へと上がると、太陽の光の影響で光化学スモッグが発生してしまいます。西側が山に囲まれた八王子市上空で発生しますと、フタをするような層状スモッグ雲となります。スモッグでフタをされた八王子市内の大気が、太陽光によって温められ温度が上昇し、これが温暖化の大きな原因の一つとなっているのです……」 

上村はスクリーンに映し出された発表資料を見ながら、説明を続けると気持ちがかなり落ち着いてきた。次第に都庁の上でなく、五、六階建てマンション上でタイトロープを歩んでいる気持ちに変わってきたのだ。 

「……また皆さんも十分ご承知とは思いますが、二○二○年に世界を恐怖と混乱に巻き込んだ新型コロナウィルス発生についても、この温暖化と深い関係があるのです。温暖化の自然環境破壊によって住む場所を失った野生動物は、餌を求めて移動し町に近づいて人と接触します。これによって野生動物が保有していたウィルスが人に感染するのです。また山の雪や寒冷地の凍土が温暖化で溶けて、封じ込められていた未知のウィルスが地上に発生して、これによって人が感染するのです……」 

上村は昨年の都知事の話を引用しながら報告したが、最前列の環境委員達のなかで、頷く人もいれば苦い表情で、隣と話し出す委員もいた。その一人が苦虫を噛み潰した表情で、「アルコール溶剤を使わない水ベースフラックス!? 世界で誰もやっていない世界初のとんでもないやり方じゃないか。それを中小企業が独自で開発だって!? 無理だろう。回路基板の配線を水でショートさせ、不良をつくるようなもんじゃないか」と、上村を見上げながら、聞こえるよう声で話しているのが耳に入った。 

 上村はうすうす話が聞こえながらも、どう言われようと負けるわけにはいかないと思えた。 

 彼は水系フラックスで、すでに実用化したビデオカメラ基板や携帯電話基板、さらにエアコンや洗濯機基板など、実際の基板や製造している現場の写真を見せながら発表を続けた。 

 最後に上村は、「上村電子工業はジャパンエレクトロニクス社様と環境技術で世界の持続的な発展に貢献します」と力強く言って、発表を結んだのだ。 

 上村は発表を終えホッとして、木島を見た。彼が少し渋い顔をしているのに気付き、腕時計を見た。 

なんと十分近く発表制限時間をオーバーしており、しかも発表の最後に、ジャパンエレクトロニクス社と協力して開発してきたことを表明する謝辞を言い忘れたことに気付いた。 

 上村は一度に暗い気持ちになり、彼の唇が震えた。 

最前列にいた二人の審査員が、渋い顔で上村を見上げているのが眼に入った。 

 司会がステージに上がり、何か言うと、質問があるのか前列の委員の一人が手を上げた。 

「発表のなかで説明したのかもしれんが、結局、なぜ水ベースのフラックスではんだ付けができるんだね。水が電気を流すことは常識じゃないか。はんだ付けに水は避けねばならないとされていることは、知っているだろう。フラックスの主成分が水で、なんで不良を起こさずに、うまく接合できるんだね」 

上村はこの会場には必ず来ていると思える野上の顔が浮かび、品質保証部で野上に説明したように回答した。 

その委員は上村の説明に納得したようで、大きく頷いて見せた。 

次に若い技術者風の審査員が手を上げた。 

「実際にこの方法で製造しようとすると、データベースが必要だとか、また基板によって乾燥条件が違うと思いますし、トライするための時間がかかると思いますが、いかがですか?」 

上村はステージの上でパソコンを操作し、発表では使わなかった最後のシートをスクリーンに映し出した。 

「これはジャパンエレクトレロニクス社様の、様々な電子回路基板を大きさや熱容量等によって分類したものです。これらをマトリックス的に分類して、約八〇のカテゴリーに基板を分け、それぞれの乾燥条件のデータベースを作成しています。これらはソフトパッケージにして、どこにでも、また誰にでもすぐにお渡しすることが可能になっています」 

 上村がそう言うと、その若い審査員は大きく頷きながら、「凄いね、ちゃんとやってるよ」と、隣の審査員に話す声が聞こえた。 

 最後に最前列にいた社長が、隣の若い技術者に眉を寄せて何か尋ねているのが見えた。
 

2 

上村は翌日、自宅マンションのバルコニーから東京都内の四方を見回した。 

梅ヶ丘の駅近くの羽根木公園は、見頃となった梅の花が上から見ると、濃い紅色から白へのやわらかなグラデーションをなしており美しかった。 

彼はぼんやりと眺めながら、ずっと頭にあったのは選考会のことだった。 

 上村は発表のステージの上に立ったときに、頭が真っ白になり、何度も練習した言葉が出なかったことが思い出されて、悔やまれた。また制限時間を十分も超過したことが、減点となることは明白で、これも大いに悔やまれた。結局、それは自分が発表であがってしまったからであり、普段通りにやれば十分に時間内に入ったはずだった。 

入賞しないとこの上村電子が潰れる、という考えが津波のように襲ってくる。上村電子が倒れるということは、当然ながらその家族も倒れるということである。夫を亡くし、まもなく子供が生まれるさおりも、これからの人生の生活の糧をなくし、路頭に迷うことになるかもしれないのだ。 

上村はこの二十階の床が抜け、自分が空中に放り出されて地面に叩きつけられるような思いがして足が竦んだ。 

その時突然、美紗子の声が脳裏に響いたのだ――。 

《ねえ、どうしてなの……?》 

  

 上村は眼をつぶったまま唸り声を上げ、大きく頷いた。というのは、美紗子の問いに今なら応(こた)えられる気がしたのだ。 

《……それは、エウクレスが――闘(サイ)剣(フォス)が装着された重装備を脱がなかったのは……脱がなかったんじゃなくて、重装備が脱げなかったんだ……》 

 上村にはそう思えたのだ。 

《……闘剣が装着された重装備を脱いで走ったら、たしかに美紗子がいうように生き延びられたかもしれない。しかし、裸同然で走っているときにスパルタ軍兵士が襲ってきたら、簡単に殺されてしまうだろう……》 

彼の脳裏にはギリシアの遥かな映像が想起された。
 

《……自分が殺されるということは、アテネ市民がスパルタ軍の襲来を知らないままになる……兵士がいないアテネをスパルタ軍が攻略するのは簡単だ……》 

 彼の頭のなかで、遥かなギリシアの思い出と現実の上村電子工業の社員である役員達、さらにその家族が今まさに重なって見えたのだ。 

《彼は、闘剣が装着された重装備重を脱がずに走らなくてはいけなかったんだ……。自分の使命を知ったがために……途中で殺されるわけにはいかなかったんだ……。慎二が上村電子を放棄できなかったように……》 

 上村はそんなことを考えながら、その日暗くなるまで寒いバルコミーでぼんやりと眼下を見続けた。 

夕食を取りながらも、気分は塞(ふさ)いだままで晴れなかった――。 

 そのまま時間だけが飛ぶように過ぎ、気が付けば年末になっていた。上村が会社を休んだのは三賀日だけで、それも自宅で一歩も外に出ずに寝て過ごした。 

 年が明けて、上村電子工業の二○二五年が始まった。 

二○二五年仕事始めの四日、上村の机のところにも社員が新年の挨拶に来たが、上村は沈んだままだった。 

一月十日の朝、午前中が審査の発表日であり、上村は朝早く起きて、朝刊をくまなく読んだが、どこにもジャパンエレクトロニクス社の技術コンペティション結果発表はなかった。 

彼はイライラしながら、会社に来ると、いつものように正面入り口から中へ入った。 

部屋には原田だけが座っており、上村が来たのを見て、ぼんやりとした眼をむけた。 

「安田さんから何か連絡はないかな?」 

上村は自分のデスクに向かいながら原田に声をかけた。 

「ありませんねえ……なんの連絡もないし、審査は終わったはずだから、安田さんはわかっているはずと思いますがね……」 

原田も訝(いぶか)し気に首をひねりながら応えた。 

上村は大きな溜息をついて、自分の椅子に座った。 

まだ誰も来ない静かな総務部に、外の風の音がやけに大きく聞こえた。 

そのとき奥のドアが開き、木島が入ってきた。 

神妙な表情をしている。 

彼は上村のデスクに近づくと、「まだ、連絡はないんですね?」と、溜め息交じりに聞いた。 

「ああ、安田さんはもう結果がわかっていると思うけどな。駄目だったから、連絡できないのかもしれないし……」 

 上村がそう言うと、「駄目だったら、えらいことになりますよ。入賞でなくても、なんとか奨励賞には入ってないと」と、不安げな声で言った。 

 上村は木島の言葉に大きく頷いた。 

 今後の事はすべて入賞するということを前提に考えており、上村にとっても原田や木島にとっても、入賞して会社が存続する予定しか考えていなかった。 

「うまくいかない場合は……もう銀行から融資は受けられないし、借金は一億円近くあるし、なんとかしてうまく行かないと……」 

 原田は重苦しい声で言った。 

 そのとき、入り口のドアが開いて、友梨達一般社員が出社してきた。 

 上村は始業時間になったと思った。 

彼はいてもたってもいられず、仕方ないので試作棟実験室へと向かった――。 

外に出ると、粉雪が混じった強い風が吹いており、上村は全身に寒さを感じて、急いで実験室へと走った。 

ドアを開けて、内部に入ると、全身が鉛のように重く感じられた。実験室の電気もつけず、奥へ進んではんだ付け装置の横に置いてある椅子に座った。 

じっとして暗闇のなかで待っていると、思わず涙が零(こぼ)れた。 

この半年の皆が協力してくれた辛苦の日々が思い出され、選考会での自分の不甲斐なさに倒れそうになった。 

時間を見ると、もう九時を回っていた。 

上村には年末に自分のマンションバルコニーで感じたことが、脳裏に蘇った。 

入賞しないと上村電子が倒れるということであり、それは社員とその家族も倒れるということである。夫を亡くし、まもなく子供が生まれるさおりの生活も、大変なことになるのだ。 

上村は再び二十階の床が抜け、自分が空中に放り出される気持ちがした。十数秒空中を落下して、自分の身体が地面に叩きつけられ、肉体が飛び散る想像をして足が竦んだ。 

上村はそのとき初めて、慎二がどのような気持ちでこの上村電子の社長として経営にあたってきたのかを全身で感じた。社長であることがどういうことなのか、わかった気持ちがした。 

《なんとしても入賞していてくれ……》 

 上村は神にもすがる気持ちが、思わず本音が口をついて出てきた。 

そのとき突然、実験室のドアが開いた。 

木島がドアを開けると、いきなり、「駄目でした!」と叫んで、上村に「申し訳ありませんでした!」と、深く頭を下げた。 

その言葉で、都庁の上のタイトロープが切れ、上村の身体は真っ暗な闇の奥底へと落ち込んで行った……。 

3 

二〇二五年一月十日、東京ビッグサイトでジャパンエレクトロニクス社として社会貢献する技術コンペティション発表があり、新聞などのマスコミにその発表内容が取り上げられた。しかし、残念ながら上村電子工業の名前はその発表のなかにはなかった。賞の選に漏れたのだ。 

 数日後、協力会社特別奨励賞の追加発表があったが、そこにも名前がなかった。 

 上村を始め、原田、木島らの落胆は測りしれないものがあった。というのも、落選であるということは、上村電子工業が企業としてなりたたなくなりことであり、廃業に追い込まれるということが皆の共通認識だったからである。 

 コンペの結果を知りたがっている高尾からも何度も電話があり、対応を延ばしていた原田は、あまり延ばすわけもいかず、とうとう銀行に電話した。 

その電話のなかで高尾から、今後のことを含めて上村電子工業で相談したいと強い命令口調で言われたのだ。 

 数日後、高尾は上村電子の役員会に出席した。 

 来年度からの融資はできないということと、三月初めまでの一億円の融資の返済を迫った。そして高尾は「社長を明確に決めてくれ」と、語気を強めて言った。 

 高尾はこの上村電子工業の大株主は上村さおりであり、当然、さおりが社長になるべきではないかと主張した。暗に原田の社長代行を止めろ、と言っているのだ。 

 高尾の狙いはこの上村電子工業の不動産であり、不動産売却によって赤字を埋めさせたかったのだ。 

 原田は高尾が帰った後の役員会で、一億円の返済について先代社長から頼まれて預かっていた他社株式や有価証券売却で、なんとか二、三千万円は準備できるが一億円は無理だと言った。 

 再度原田は上村に社長交代を願ったが、上村はできないと固辞した。 

 最後に、「では、この上村電子を三月で閉めるしかありません。わたし達従業員もそうですが、さおりさんも生まれてくる前社長のお子さんもこれから大変なことになります。顧問、それでもいいのですね」と、厳しい表情で念を押した。 

 上村は役員の全員の顔が暗く生気がなくなるのを見た。わずかに残っている彼らの眼の光が自分の身体を射抜いたように感じた。 

 上村は、両足が竦むのを感じながら、「……原田さん、少し時間をくれないか……」と、呟くように小さな声で言うと、原田も暗い表情では小さく頷いた――。 

 土曜日の朝、上村のスマホの着信音が鳴った。 

見ると、さおりからである。軽いはずのスマートフォンが、取り上げるとき重く感じられ、受信キーを押す指が宙をさまようのを感じた。 

上村は会社の今後のことだろうと思ったが、明るい声で話した。 

「おはよう、元気にしてるかな」 

<ええ、すいません。会社が大変なときに、わたしがなにもできなくって……> 

「なにを言うんだい。まもなく出産だろ? 身体を大切にしなきゃ」 

<ご心配かけて、本当に申しわけありません> 

「会社は原田さんもいるし、ぼくもいるからさおりちゃんは、自分の身体のことと出産のことを心配してくれよ」 

 上村はさおりが言う前に、自分から先に言った。 

<ありがとうございます。あの、今、お兄さんにお電話しているのは、実はお母さんのことなんです。この一ケ月くらい、わたしも調子が悪くてなかなかホームにいけなくて、お母さんが困っているみたいで……> 

「お袋? ああ、お袋……」 

 上村は絹江のことが頭から飛んでいたのを恥ずかしく思った。 

 自分自身が上村工業から逃げていた間、慎二やさおりがずっと絹江を気遣ってくれていたのだ。 

「わかった。俺が行ってくるからさ、心配しなくっていいよ。お袋がなにかほしいものがあれば、持っていくけど」 

<ありがとうございます。安心しました。あの……〉と、さおりは言って、そして少し言いにくそうに、〈お母さんは、甘いものがお好きですが、あの、お饅頭(まんじゅう)より、カステラがお好きです。そして、お花がお好きで……> 

 上村は笑いながら、「ありがとう、お袋も結構わがままだからね。親不孝の俺も、お袋の好みを思い出してきたよ。準備して行くから、大丈夫。本当にありがとう――」 

 上村はさおりが絹江に苦労してきたことを、垣間見たように思った。 

  

 上村はグループホームに電話して、絹江がほしがっているものを確認してから、車で高尾山の近くのグループホームへと向かった。 

休日のためか幾人かの家族のものが面会に来ており、担当の熟練ケアマネージャーが出てきて、絹江のいる部屋へと案内した。 

彼女は表情を曇らせ、先日絹江が暴れたことを上村に話した。 

二、三日続いてやっと静かになったところで、対応に困るから連絡したときにはすぐに家族に来てほしいと、眉根を寄せて上村に話した。 

上村はただ頷くだけしかできなかった。 

 部屋に入ると、車椅子に座った絹江が振り返った。 

 彼女は上村の顔をしばらく見ていたが、やはりわからないようだった。 

「母さん、ぼくだよ。駿一だよ」 

 彼がそう言うと、絹江も懸命に思い出そうとしているが、やはりわからないようだった。 

 彼女はぼろぼろになった童話の本を取り上げると、本の頁を捲(めく)り出し、興奮していた顔が優しい表情になった。 

「むかしむかしにね、妙(みょう)行(こう)というお坊様が京から来られたの。そして東の方に山があるでしょう。そこで修行なされて、神社をつくられたのよ。それが、ほら連れていったでしょう、八王子神社なのよ。 

疫病や農作物の害虫を追い払う神社なの」 

絹江は優しい言葉で、誰かに話すように言った。 

上村はどこかで聞いた話に思えた。 

「駿ちゃんも慎ちゃんも、この八王子に住んでいるから、王子様のお話ししようね」 

彼女の眼は優しそうだった。 

「遠くの国、外国よ。その国のある街の柱の上に、『幸福な王子』って像が立っていたの。王子様は幸福な毎日だったけど、若くして死んだから王様がかわいそうと思って、像を建てたのね。その両目は青いサファイア、サファイアって宝石よ。腰の剣の装飾には真っ赤なルビーが輝いて、全身は金箔で包まれていたの。とても美しい王子は街の人々の自慢だったのね……。でももしかしたら、王子様にとって、宝石や黄金の装飾は重かったのかもしれないけど……」 

絹江は童話を語るように読んだ。 

上村は脳の奥にしまわれていた明るく澄んだ声とリズムが、彼女の今の弱々しい声やリズムとシンクロして、泉のように湧き上がってくるのを感じた。 

「その王子様はね、その街の貧しい不幸な人々のことを嘆いて悲しんでいたの。エジプトに旅に出ようとしていた渡り鳥のツバメが寝床を捜していて、王子像の足元で寝ようとしたのね。すると、突然上から大粒の涙が降ってきたのよ。それは王子様が貧しい人々を悲しんで流した涙だったのね。そして王子様は、自分を装飾している宝石や黄金に気がついたの。王子様はこの場所から見える不幸な人達にその宝石をあげてきてほしいとツバメに頼んだのね。ツバメは言われた通り、王子の剣の装飾に使われていたルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、両目のサファイアを飢えた若い劇作家と幼いマッチ売りの少女の二人に持っていったの――」 

上村は幸福の王子の童話だと完全に記憶が蘇った。 

エジプトに渡ることを中止し、街に残ることを決意したツバメは街中を飛び回り、両目をなくして眼の見えなくなった王子に色々な話を聞かせる。王子はツバメの話を聞き、まだたくさんいる不幸な人々に自分の身体の金箔を剥がして分け与えてほしいと頼む。 

 やがて冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国に渡り損ねたツバメも次第に弱っていく。死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり、王子にキスをして彼の足元で力尽きる。 

最後は天国で下界の様子を見ていた神様が、王子とツバメを楽園へと導き、永遠に幸福になったというものだった。 

「……どうだった? 面白かった? 王子様はね、はじめ黄金でできた衣服を纏(まと)い、宝石でできた眼や刀飾りをしていたの。それらを全部、貧しい人達にあげちゃったのね。自分は鉛色の姿になっちゃったの。でもそんなみすぼらしい姿になった王子様も力尽きたツバメも、心は宝石のように輝いていたの。心がますます美しく輝き始めたから、神様にはそれがわかったのね……」 

絹江はそこで一息ついて、頬笑んだ。 

「駿ちゃん慎ちゃんは、幸福の王子様みたいになりたい? それとも、いや?」 

 絹江は眼の前に二人の子供がいるような安らかな表情で言った。 

「あのね、自分だけが幸せじゃだめなの。世の中にはたくさん困っている人達がいるんだから、駿ちゃんも慎ちゃんも自分が幸せなら、その幸せをたくさんの人にわけてあげないといけないのよ。お母さんは、駿ちゃんと慎ちゃんが大きくなっても、この王子様とツバメさんみたいな心だけは、絶対に忘れてほしくないのよ」  

上村は絹江の慈愛に満ちた瞳と言葉を聞いて、思わず涙が溢れそうになり、車椅子の母の手を握り深く頭を下げた――。 


 彼は世田谷梅ヶ丘のマンションに戻ると、二月の寒い風が吹きつけるバルコニーに出て夜空を見上げ、八王子の方に眼を移した。 

 キラキラと輝く美しい夜景が見える。 

 このなかのどこかに、上村電子工業があるのだ。 

上村の脳裏には母絹江の顔が浮かんだ。年老いた絹江が慈愛に満ちた表情で、息子達である駿一と慎二に噛んで含めるように言い聞かせる声が聞こえた。 

慎二が懸命に自分に向かって何か叫んでいる映像も浮かんだ。 

そしてさおりやまもなく誕生する子供の映像も……。そして原田や木島達役員達が上村電子工業を去っていく姿とともに、彼らの家族らが困っている様子が眼の前に浮かんだのだ……。 

 上村は冷たい風に煽(あお)らながら、眼下の街の光景に見入った。 

企業というものは社会の荒海を渡る船であり、その船が沈没すれば乗務員である社員はもちろん、その家族は社会の荒海に放り出され、社会的な生死の間をさ迷うことになるのだ。 

上村には、慎二が社会の荒海に飛び込んで、社員の家族一人ひとりを助けようと、懸命にもがく様子が浮かんだ。その荒海のなかで、溺れそうになりながらも、幼気ない赤子を沈ませないようにもがくさおりの姿が現れた……。 

さらに絹江が自分は海に沈みながら、懸命に、《駿ちゃん、慎ちゃん、家族の皆も助けてあげて!》と、叫び続ける映像が何度も現れたのだ。 

 上村は溢れる涙をとめることができなかった――。 

 上村が絹江に会いに行ってから一週間後、ホームから電話があった。 

上村はすぐに飛んで行ったが、すでに絹江は安らかな顔で旅立っていたのだった。 

4 

 土、日曜日を挟んで月曜日、三月三日の朝、上村が出社すると、会社入口の総務部が、騒がしかった。 

友梨が木島を前に、何度も電話したり、特別会議室に出入りしたり、落ち着きのない動きをしていた。 

「原田専務がまだ出社されていないんです。今日は東京八王子銀行の高尾次長が来られるのに、わたし、どうしたらいいのかと思って……」 

上村は自分の机の方に進み、カバンを机の上に置いて椅子に座りながら、二人のやりとりを見た。 

木島は頷きながら、「どうしたんだろうな。なにか連絡はないのかい?」と、原田の机の横にカバンがあるのに気付きながら言った。 

「わたしの携帯には、入院中の上村夫人から連絡があって、病院に行ってくるというメールがあったのですが。ただ、いつ帰って来られるのかがわからないんですよ。専務からはもし時間に遅れそうなことになったら、高尾次長をよく知っている木島部長に代行してもらってほしいと伝言がありました」 

木島は上村に気付くと少し頭を下げて挨拶して、「わかった。でも、大丈夫だよ。時間までには戻って来られるよ」と言って、友梨を落ち着かせようとした。 

「でも、あと二十五分ですよ。専務、大丈夫かなあ。先週の金曜日、帰宅時には、高尾次長への報告準備があるって心配されていたのに。それにその後電話が入って大慌てで動かれて出ていかれたのです。なにかあったのかも……」 

 木島は冷たい視線を上村に送って、友梨を見た。 

「準備ったって、なにもないよ。今日はすぐ終わるから。会社の資金繰りの準備はできてないままなんだからさ」 

 彼はそう言って、今度は白い顔をして上村を見た。 

 上村は眼をそらして、役員会議の準備をすると、先に特別会議室に入った。 

 すでに友梨が準備してくれたのか、封筒が各役員と高尾が座る場所の机の上に置いてあった。 

上村は席につくと、その封筒を取り上げ、ちらりと中を見た。 

今日の東京八王子銀行との会議のレジュメと、現在の経営状況な 

どの経営状況をまとめた資料のようだった。 

上村は一人、特別会議室で座っていると、開けたドアから会議室の外の声が聞こえてきた。 

木島が原田の携帯に連絡をとっているのか、電話を使って探す声が聞こえた。 

長谷川の声が聞こえた。 

「ええッ!? 原田専務が来てないって!?」 

「そうみたいですよ。あと十分もすれば高尾次長が来られるのに」「まさか、対応するための結果が出てないから嫌になったんじゃないだろうな。しかしなあ、先々週だったかな、前回の役員会では専務が会社を閉めないとどうしようもないと言ったとき、顧問が反論しなかったのにはがっくりしたよ。自分の家の会社だろう? ぼくだったら、社長になって再建して行くけどなあ……」 

 長谷川の声の後、誰かが話した。それに対して、「俺だってそうさ。この会社がつぶれるんだぜ。もう少し従業員のことを考えるべきじゃないか? 顧問は真剣にこの会社のこと、いや大切な自分の家族のことも考えていないんじゃないの?」という、太田の声が聞こえた。 

そこまで言ったとき、木島が電話を切る音がして、小さな声が聞こえ、長谷川や太田の声が聞こえなくなった。 

上村には、木島が自分がここにいることを長谷川に知らせたように思えた。 

しばらくして、「どうしたんだい?」という太田の声が聞こえた。なにかヒソヒソとした声が聞こえた。 

そのあと木島が入ってきて、すぐに役員達全員が入ってきた。 

木島は慌てた表情で口を開いた。 

「顧問、まもなく東京八王子銀行の高尾次長が来られます。原田専務が上村夫人の病院に行かれたみたいなんですが、まだ帰って来られていません。心当たりのところにはすべて電話したのですが、やはり病院に行かれているようです。顧問に原田専務の代行をしていただくべきと思いますが、原田専務からは、わたしが高尾次長と面識があるからわたしに代行を、という連絡があったそうです。わたしで、よろしいでしょうか?」 

木島は少し言いにくそうな表情で上村を見た。 

「もちろん、いいよ。そうしてくれ」 

木島は上村の乾いた言葉に頷くと、「では、ともかく玄関入口で高尾次長を全員でお迎えしようと思います」と言って、上村に頭を下げた。そして彼は腕時計を見ると、慌てて会社玄関へと向かった。 

役員達全員は木島を先頭にして会社玄関口へと進み、彼を前面に出して高尾の到着を待った。上村は他の役員達の一番後ろで、全員に隠れるようにして出迎えを準備した。 

 木島は他の役員達に押されて、全員の列より一歩前に出て、高尾の車が到着するのを待った――。
 

 時計を見ると、九時五分前である。 

 上村が顔を上げると車が近付く音がして、正門から黒い社用車が入ってきて、玄関に横付(よこづけ)された。 

 後部座席が開いて、係長の担当銀行員が出てきた。 

 その後から高尾が渋い形相で現れ、車外に出て頭を下げた。 

 木島は身体を小さくして、「お忙しいときに、出向いていただいてありがとうございます」と代表として述べ、彼を特別会議室へと案内した。 

 他の役員は高尾に頭を下げ、彼の後ろに従った。 

 木島は特別会議室に高尾を導き、彼を一番奥の席に座らせ、彼と相対して座った。木島の左右の席に役員が座り、上村は一番端の出入りするドアの前に座った。 

 高尾は苦虫を噛み潰したような表情で、木島らを睨(にら)んでいるように見えた。 

 室内には一瞬沈黙が漂った。 

若い木島は左右の役員を見て、自分が話さないといけないと感じたのか、重い口を開いた。 

「本日はお忙しいなか、当社の役員会にご出席いただきまして感謝申し上げます。専務の原田が急用で、席を外しておりまして……」 

 その時だった。 

 突然特別会議室のドアがノックされ、原田が息を荒げながら、急いで入ってきた。 

「やんごとないことで遅くなりました。申しわけありません!」 

 彼は息も絶え絶えにそう言いながら、木島の横に座っていた太田が席を空けたので、そこに座った。 

 原田は状況を隣の木島から耳打ちされて頷くと、「では高尾次長からご報告をお願いします」と、呼吸を整えながら言った。 

 高尾は苦虫を噛んだ表情をしていたが、原田が戻ってくると、ゆっくりと立ち上がった。 

 スーツの腹部のボタンを閉め、深々と頭を下げた。そして顔を上げて、表情を和らげた。 

「東京八王子銀行融資審査部を代表しまして、上村電子工業様に失礼なことを申し上げ、誠に相すまなく思っておる次第でございます。当行が融資しておりました一億円ですが、この融資分のうち七千万円を先週ご入金いただきまして、ありがとうございました」 

高尾の言葉に上村電子工業の役員達が唖然とした表情をした。 

「上村電子工業様の株式と有価証券については、わたしどもですでに調べておりますので、残り三千万円のご返却につきまして見通しを得ております。今年度融資分の返却については、つつがなく処理がつくということで、上村電子様の窓口責任者としては、安堵したということで深く感謝申しあげる次第です。当行としましては予定通りにご返済を完了していただける会社様とは、今後とも密に交流を進めたく思っておりまして、上村駿一社長には今後ともよろしくお願い申しあげます……」 

 苦虫を噛み潰したような高尾の表情が笑顔に変わり、会社倒産の連絡と思っていた役員達は、驚いて呆気にとられた表情をした。 

 上村は黙って下を向いたままだった。 

原田が小さな声で、左右の役員達に、上村が社長を了承し、自宅マンションを含めてすべて売却して返済資金を得たことを囁いた。 

彼はその資金を、大株主で前社長夫人であるさおりを通じて、東京八王子銀行に返済したのだ。 

原田はそのことを出産したさおりから聞き、その前後処理の対応をしていたと役員達に小声で囁いていた。 

5 

上村は高尾来社の翌日から懸命に伝手(つて)を辿り、銀行を回った。また大山スクリーンには資金援助を頼み、四月以降の上村電子工業延命のため、文字通り駆けずり回った。しかし大山スクリーンを除いて、そのほとんどが上村電子工業の今後の商材の具体性のなさに一歩引き、援助を引き出すことはできなかった。 

 上村は再度安田を訪ね、新しい製造プロセスでの製造を願い出たが、安田はすでに二○二四年度上半期は予定が決定している 

として、苦渋の表情を漂わせながら頭(かぶり)を振ったのだ。 

 彼はその他の銀行にも融資を受けるために徹夜状態で回ったが、目立った成果が出せず、社長就任時に偉そうな事を言った自分に深く恥じたのだった――。  

高尾が来た日の数日後、朝一番に役員会議があり、そこで原田から上村の社長就任について役員会で審議され、正式に上村の社長就任が決定した。 

役員会には大株主であるさおりも出席し、上村の社長就任を全員の前で承認する旨、伝えた。 

上村の社長就任に全員が拍手した。 

「わたしが今ここで社長就任の挨拶をすべきですが、皆さんがわかっているとおり、四月以降の事業計画を具体的な業務に裏打ちされた数値でつくりあげなければいけません。たしかにこの三月の倒産の危機は免れましたが、本質的な危機的状況はまったく変わっていないのです! わたし達が生きのびるための仕事を取ってくることが第一です。家族の生活がかかっているため、それぞれの人が生き残りをかけていただきたいのです!」 

上村はそう言って真剣な眼を役員達に向けた。 

「もはやお互いに不安事を言っている暇はありません。わたしは社長として、今ここで非常事態宣言をします。四月までに各役員の方一人ひとりが、自分の収入分と抱えている社員の人数分の仕事を取ってきてください。自分の部下や部署など自分担当範囲や守備範囲は、自分が仕事を取ってきてほしいのです。それぞれの部署については、まず担当役員レベルで黒字化してください。わたしは原田専務と銀行や知人から借り入れられる金額をお願いして回ります。会議などで時間を使っている暇はありません。今すぐに動いてください!」 

上村のピンと張りつめた態度と『自分の担当分は自分が仕事を取ってくる』という方針に役員全員が大きく頷き、上村に笑顔を向け、活気を取り戻して会議室から出て行った。 

原田も上村の指示に頬笑んで大きく頷いた。 

上村は早速、各種銀行への訪問予定をたて、社外に向かった。 

しかし社外の反応は氷のように冷たかった。三月での倒産は回避したものの、打って出る目新しい商材もなく、資金繰りを改善するということを銀行に説明しても迫力がなかった。 

会って説明を聞いてくれるところはまだ良い方だった。ほとんどの銀行や大手電気メーカーは会うことすらしなかった。過去に上村電子工業と親しかった中小企業の社長も、すでに上村電子工業は倒産した会社、もしくは倒産間近な会社と見ているようだった。 

この状況は上村だけでなく、関東を中心に考えられる旧知や得意先を回っている役員達も同じだった。 

突然、夏のアスファルト道路に転がされ、口をパクパクさせている魚の映像が頭の中に現れた。瀕死の企業というイメージが頭の中で広がり、固まろうとするのを思わず手で振り払った――。 

上村は慎二が座っていた社長机に座り、四月も末になっていることに気付いた。 

見通しがますます悪化し、精神的重圧に押しつぶされそうだった一ケ月間、なんども脳裏を過りながら、心の中で押し殺してきたものがあった。それがまた、ポッコリと湧き上がってくる。上村はそれをまた押し殺そうとした。しかし、今度はできなかった。 

彼はもうなりふり構っている時期ではないと思った。 

彼は藁(わら)にもすがる気持ちでスマホを手に取り、携帯電話番号を調べ、少し躊躇したが、思い切ってコールした。 

何度めかのコールで、やっと相手が出た。 

「俺だけど、元気かな……?」 

 相手が驚いたようで、スマホを動かしているのか雑音が聞こえた。そして、〈えッ、駿一さんなの……?〉と、逆に聞き返してきた。 

「うん、上村だよ、上村駿一……」 

電話の向こうで、なぜか小さく笑う声がした。 

〈いったいどうしたの? 私に電話するなんて……。間違い電話じゃないのかしら……〉 

 上村はイラッとした。 

「そう嫌みを言わないでくれよ。真面目に電話してるだろ?」 

〈へぇ、そ~お? 真面目に? 最初にちゃんと言っておくわね。責任持ってちゃんと物事を決めない人、将来のことをしっかり考えない人とは、あまりかかわりたくないんだけど〉 

上村はスマホを切りたくなるのをぐっと抑えて握り締めた。 

「勘違いしないでくれよ。この電話は君とよりを戻すを戻すための電話じゃないんだ。ビジネスの話だよ」 

〈ビジネス?〉 

「仕事がほしいんだ。上村電子に仕事をお願いしたいんだ!」 

 上村は思わず大きな声で言った。 

〈仕事が……!? 上村電子? 何のこと?〉 

「俺は、上村電子を再建したいんだよ。芝浦電気製作所からの下請けでもなんでもやるからさ」 

〈再建!? どういうこと……? だって、上村電子に戻らないって、言ってたじゃない〉 

上村は美紗子が耳を貸し始めたのを感じて、これまでの経過をすべて話した。ただし、世田谷のマンションを売却して、その資金を上村電子の延命にあてたことは言わなかった。上村は美紗子が高級志向で派手な性格だということを知っていたからだ。 

美紗子は上村の話を聞いて、すぐに、どこそこの銀行には行ったのかとか、電気メーカーのワールドソニック社には頼んでみたのかとか、優秀なビジネスウーマンらしさを感じさせながら、上村に尋ね続けた。 

上村はすべてやったが駄目だったことを伝え、このままではまもなく倒産すると重苦しい声で伝えた。 

美紗子は電話の向こうで、コロコロと笑い声をあげた。 

〈そうだったの……あなたとしては、絶対(、、)に(、)わたし(、、、)に(、)だけ(、、)は、電話したくなかったでしょうね?〉 

上村は心の中を見透かされて唇を噛んだ。 

〈それで、あなたは上村電子を、これからいったいどうしていくつもりなの?〉 

「言ったじゃないか、なんとしても、再建したい。従業員や従業員の家族を救いたい。彼らを上村電子の倒産で、路頭に迷わすことはできない!」 

 上村がそう言うと、電話の向こうの美紗子からはしばらく反応がなかった。 

 上村が口を開こうとしたとき、美紗子の乾いた声が聞こえた。 

〈――見通しもないのに、社長という重荷を背負っちゃってさ……。できなくなったら、また逃げるつもりなんでしょ?〉 

 上村は本当にイラッとした。 

「そんなんじゃないよ。今、逃げたら、社員の家族達を、まだ小学生や中学生のいる社員の家族を含めて、大変な目にあわすことになるんだ! なんとかしたいんだよ。だからこうして君に……」 

〈悪いわね……あなたの言うことは、まだ信じられないのよ……〉 

上村は美紗子の皮肉に、「俺もいろいろ苦しい経験をして、君の気持が少しは分かったように思っている。悪かった。本当に悪かった! もう遅いかもしれないが、許してほしい……」 

 上村の言葉に美紗子からの返答はなかった。 

「俺も、いろいろあって苦しんだんだ。だから今の俺なら、君と話 

ができると思ったが……」 

上村がしみじみと、美紗子に言った。 

〈……遅すぎたわね……〉 

 上村はこれ以上話しても無駄だと思った。 

「……忙しいときに、邪魔して悪かった……」 

上村は呻くように言って、電話を切った。 

――翌日から上村はまた懸命に仕事を探した。 

身体は痩せ、顔にも生気がなくなった。原田や友梨も心配して声をかけたが、再建の見通しが立たないまま五月になり、会社全体に次第にどす黒い焦りが広がり始めた……。 

五月の連休を前にして、夕方上村は、北八王子駅から北東に徒歩二十分の築三十年以上たった粗末な二階建てアパートへくたくたになって帰った。 

 国道五九号線である多摩大橋通りから北へと入り、裏には畑地が広がった場所に立っていた。 

 二階への階段はアパート側面の屋外に一ヶ所しかなく、上村は音をたてて金属階段を上がった。 

 二階には六室あり、上村はその二番目の部屋に鍵を突っ込んでドアを開けた。 

 和室七畳、キッチンとバストイレが三畳の一Kのアパートである。総面積も二十四平方メートルしかなかった。 

 上村はガランとした部屋の玄関で靴を脱いで、奥の七畳の部屋に座った。 

 売れるものはすべて売ったのだ。 

 七畳の部屋にはちゃぶ台が一つあった。彼はその上に置いていたコーヒーカップを取り上げ、玄関そばの流し台まで行くと水道の蛇口をひねって、コーヒーカップに水を入れて飲んだ。喉を潤すと、 

彼はヤカンに水を入れて、ガスコンロで湯を沸かし始めた。 

 また七畳の部屋に戻り、締め切っていた窓を開けた。 

 いきなり外部の雑音が部屋に広がり、眼の前には多摩大橋通りに行き交う自動車やトラックが見え、大通りを隔てて、商店街の看板がずらりと見えた。 

 上村は大きな溜息をついて、ちゃぶ台のそばに座った。そして周囲を見回した。 

彼はラジオのスイッチを入れると、FMのポップスを聞いた。 

ヤカンから湯気が上がっているのを見て、棚においた即席ラーメンのカップの一つを取って、湯を注いだ。 

棚の割りばしと湯を注いだカップラーメンをちゃぶ台のところへと持っていき、しばらく待ってからラーメンをすすって食べ始めた。 

そのとき、ドアがノックされた。
 

6 

上村はいったい誰だろうと思った。 

覗き穴もないアパートのドアを、少し開けた。 

その隙間から香水の香りがして、上村は眼を疑った。 

美紗子である。 

「こんばんは」 

 上村は眼を丸くした。 

「ええッ? いったいどうしたんだ!?」 

 上村はドアを開けた。 

 そのとき、外からいい香りの風がさっと入ってきた。 

 この古いアパートには全く似つかわしくない、春めいたペパーミントグリーンのワンピースを着た女性がドアのところに立っていた。そのワンピースは身体の曲線を浮きたたせるようなデザインであり、いかにも美紗子らしかった。  

ショートカットの髪に華やいだ目鼻立ちで、唇にはすっきりした赤いルージュをひいていた。まるでファッションモデルみたいな恰好である。 

「ちょっと、入ってもいいかしら」 

 美紗子はそういいながら、部屋の中を覗(のぞ)いた。 

「マンション売却したとき、なにか君のものまで売ったかな。もしイヤリングやドレスなど置いていて、勝手に売ってしまってたら、申しわけない。こんな状態だから、買い替える金はないよ。それと、君から借りたマンションの費用はすべて払ったつもりだったが……」 

 美紗子は笑ってそれには答えず、「これ京王八王子デパートで買ってきたの。一人で食べるより、二人で食べる方がおいしいから、いっしょに食べない?」と言って紙袋を上村に差し出すと、アパートの部屋の中に入ってきた。 

 彼女は1Kの部屋のなかを見回した。 

「なにもないし、本当にすっきりしていいわね」 

 彼女はそう言って笑顔をつくると部屋に入って、ちゃぶ台のそばにすわると、紙袋からワインとローストビーフ、ピザ、サーモンなどを取り出し、それを準備してきた紙の皿に広げた。プラスチックのグラスを二つ取り出して、高級そうなワインを上村に渡した。 

「ボルドーの赤ワインよ。あなた、好きだったでしょ?」 

 彼女はそう言って、栓抜きでコルクを抜いて、グラスに注いだ。 

 ワインが入ったグラスを一つ、上村に渡し、自分もグラスにワインを注いだ。 

「やるわねぇ、あなたって。ちょっぴり、見直しちゃった。今日は、そんなあなたに乾杯よ!」 

 上村はグラスを手に取り、美紗子のグラスに音をたててあてた。  

 美紗子は赤ワインを半分くらい一気に飲むと、ホウと息をついた。 

 彼女は少し頬を赤くしながら、頬笑んだ。 

「わたし、ここでずっと暮らしたくなっちゃった」 

 上村は彼女が部屋を眺め回し始めるのを見て驚いた。 

「見てのとおり、僕にはなにもないよ。高級マンションも高級車も。地位も名誉もない。なあんにもないよ、見ての通りだよ」 

 美紗子はカラカラと笑った。 

「そんなものがなによ、あなたがいるじゃない……」 

美沙子はそう言って、笑顔を上村に向けた。 

「――輝き始めたのかもね、あなたの心が……」 

 上村は美彩子の言葉に耳を疑った。美紗子はいたずらっぽく笑うと、甘えるような声で言った。 

「重装備って、やっぱり必要ね。だって、あなたのような人でさえ、心を宝石みたいに輝かせるから」 

 美紗子はまた謎めいたことを言った。 

「なんのことだい? 俺は生まれたときから重装備を背負い込んできたと思ってるよ。闘(サイ)剣(フォス)が装着された重装備が身体に食い込んで、脱いでも装備しているときと同じだと感じてきたよ」 

 上村はがらんとした部屋を見回して、あきらめたような声で言った。 

 美紗子はホホッと笑った。 

「――あなた、いつまでも馬鹿ね。わたしが言ってること、わからないんだから。違うわよ、あなたは重装備を纏(まと)うことを逃げてきたの。だから、心は鉛のように輝かなかった。あなたの心が輝かなかったから、わたしはあなたを……」 

 美紗子は少し強い口調で言った。そして何か言ったが、外を通るトラックの音で上村には聞きとれなかった。 

「ええ? なんだって?」 

 美紗子は呆れた声で、「ああ、やっぱり、あなたは……」と苦笑すると、「もう、止めましょう、この話は」と言って話題を変えた。 

 美紗子は顔を上村に向けると、グラスにワインを注ぎ、「さあ、乾杯よ、新しいあなたに!」と、笑顔を向けた。 

  

 ――翌朝、上村が眼を覚ましたときに美紗子の姿はなかった。 

一人寝用の煎餅蒲団には、美紗子の香水の香りが漂っていた。 

小さなちゃぶ台の上には、メモが残っていた。 

『 楽しかったわ、また来るわね 美紗子 』 

上村はそのメモを手に取らず眺めだけだった。 

彼には風のように現れ、あっという間に消えた美紗子が幻のようにさえ思えた――。
   

出社すると、原田が重苦しい声で挨拶をした。友梨も心なしか暗い声で挨拶すると、眼を会わせないようにしてお茶を持ってきたのだ。 

木島や丸山、そして太田、長谷川は、しばらくの間、出社して社長である上村に挨拶して自部署へと向かっていたが、一か月も過ぎると、誰も挨拶に来なくなっていた。 

上村はぼんやりと今後のことを考えていた。そのとき、玄関に誰かが訪ねてきた。 

「上村駿一さんはいらっしゃいますか?」 

 上村はその声の方を見た。 

若い女性であり、春めいたスーツを着ている。 

外が明るいため、上村には誰が来たのかわからず、春風に乗って、リンゴのような香りがした。 

上村は思わず美紗子だと思った。 

上村が入口に近づいてその女性を見たが、美紗子ではなかった。しかしどこかで見た顔だったが、彼はわからなかった。 

そのとき、右手薬指がきらりと輝いて見え、細いゴールドのリングに小さな翼を二つ広げたデザインの指輪が見えた。 

とっさに慎二の葬式のときに、焼香に来た女性だと気づいた。 

「上村ですが……」 

 彼がそういうと、彼女は頭を下げ、挨拶しながら名刺を差し出した。 

「わたしはムラタ化研製作所社長室の杉本美香と申します」 

上村は名刺を受取りながら、首を傾げた。 

彼女は、「姉がいつもお世話になっていまして……」と言って、上村に微笑んで見せた。 

 上村は思わず、彼女を見た。 

彼女は美紗子の妹なのだ。 

 上村が驚いて美香に声かけようとしたとき、彼女の後ろに黒い乗用車が停車した。 

 彼女はそれに気づくと、上村に軽く会釈して、車の方へと急いだ。 

 運転手が先に降りて、後部座席のドアをあけた。 

 なかから、白髪で長身の男が降りてくる。 

 彼女はすぐに彼に頭を下げ、上村の方へと手で示した。 

 その白髪の男性は、ゆっくりした足取りで、入り口から総務部へと入ってきて、上村に近づくと丁寧に頭を下げ、そして名刺を取り出して、上村に渡した。 

「川越にあるムラタ化研製作所の西上と申します」 

 上村が西上の名刺を見ると、その名刺には代表取締役社長と書かれていた。上村は『ムラタ化研製作所』の社長と知って、驚いて名刺入れを胸ポケットから取り出して名刺を差し出した。 

一部上場の企業であるムラタ化研の社長がなぜ来社して来たのか、彼は訝(いぶか)しく思ったが、すぐにジャパンエレクトロニクス社のコンペのことが頭に浮かんだ。 

上村は西上に丁寧に頭を下げ、言いにくそうな表情で切り出した。 

「――どなたからかお聞きになったかもしれませんが、残念ながらジャパンエレクトロニクス社のコンペには落ちまして……当社でなにも発注依頼を受けていない状況です。ですから、御社が化研製品で世界先端を走っていらっしゃるなか、誠に残念で恐縮でありますが、ご協力することは難しいと考えております……」 

 上村が言い訳がましいことを話し終わるのを待って、西上が心を込めた口調で彼に言った。 

「実は前社長とは懇意にさせていただいておりました。これまで御社との交渉を開発担当者に任せておりまして、私は後ろからハッパをかけさせていただいていたのです。当社も地球温暖化を防ぐためにアルコール系溶剤を低減し、東京都などの大都市の温暖化防止に貢献したいと思っているのです。またこの地球温暖化防止技術を通じて、新型コロナウィルスのような新たなウィルスの発生を少しでも抑えることができればと思っています。今回の技術は素晴らしく、世界へと展開可能な技術です。ぜひ当社にこの開発技術でOEMをお願いしたいと思いまして……もしくは特許やノウハウの実施権を許諾いただきたく思いまして……」 

 上村は西上の言葉に耳を疑い、その場に倒れるような眩暈(めまい)を覚えた。 

 天空の太陽は優しく、心地よい春の風が翼を大きく広げ、上村電子工業の敷地内に、さっと吹き込んで来たようだった――。 

※本作品は幻冬舎ルネッサンス原稿応募キャンペーン連動企画参加原稿です。
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