• 『梁山泊のすごいやつは裏方にいる』

  • 山桐未乃梨(やまぎり みのり)
    現代文学

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梁山泊というところがある。 

宋国山東地方に位置し、雲にも届きそうな緑深い山、その四方には中小の山々が連なり、ぐるりと湖に囲まれた周囲八百里にも及ぶ水滸である。晴れた日には木々の陰影が濃く映え、水面は陽の光を受けて爛々と輝き、誠に煌びやかな情景を見せてくれる。その一方で、この寨はある山賊一党の根城として一つの小国の様子を呈していた。 

あちらこちらで調練の声は聞こえるものの、平素の梁山泊は至って平和だ。荒くれ者も多いこの水寨で良い治安が保てているのは、総統である宋江の考えた取り決めの為でもあるが、陰ながら支えているのは機密伝令担当の面々であることはあまり知られていない。 

そして機密伝令担当を語る上で欠かせぬのは楽和という男だ。 

彼は小柄な体で、爽やか声と穏やかな話しぶりからとても梁山泊の山賊とは思えない風貌をしている。特筆すべきはその類い希なる歌の才能ではあるのだが、器用で頭の回転も速く、梁山泊産の品物を売り捌きに街に赴くことも多い。 

そして帰山すると、梁山泊南の対岸にある酒店に立ち寄るのだった。 

此度も楽和は大方の品物を銀子にかえ、夕暮れの中酒店の扉をくぐる。 

「おう、楽和。ご苦労さん。街に出てたって?」 

そう声をかけるはここの店主の朱貴。 

梁山泊の頭領で楽和の仲間にあたる。 

「はい、ただいま帰りました」 

柔和な笑顔を朱貴に向け、朱貴と談笑するもう一人の男にも楽和は挨拶を述べる。 

「林冲殿も、お変わりないですか」 

「ああ、お前も無事で何よりだ。飲んでいくだろ?」 

林冲というこの男も梁山泊の頭領で、五虎将の一角を担う武人だ。 

酒好きであるが、どういうわけか酔うことがないらしい。本人は少しなら酔うと言っているが、どんなに呑んでも変わった言動や行動を楽和は見たことがないのである。 

身の丈九尺の林冲が悪酔いして暴れでもしたら止めるのが大変だろうから、大して酔わないのは大層助かる。なので一緒に飲みたいのは山々なのだが、楽和は丁寧に誘いを断った。 

「申し訳ありません。実は花栄殿に呼び出されておりまして。帰山次第、秦明殿の屋敷に来るようにと。ご挨拶に立ち寄っただけです」 

「そうなのか。それは残念だが、そんなに急ぎの用なのか」 

「話を聞いてみないことにはまだわかりませんが、機密伝令担当と書いて雑用と読みますから」 

「……いや、お前」 

楽和の自虐に林冲は困ったように酒を喉に流し、朱貴は静かに笑っている。 

「後日また飲みましょう。それでは」 

二人にペコリと頭を下げ、朱貴の酒店を裏口から出た。 

湖に囲まれた梁山泊内に入るには舟しか現状では手段がない。 

常時そこで待機している朱貴の部下である男に頭を下げ、舟で渡してもらう。 

渡っている間に夕暮れだった空がいよいよ暗くなり、寨につく頃には真っ暗になってしまった。楽和は火を灯して船着場にいる男に馬を借りる。 

ゆっくり馬を歩かせ、さて今度はどんな用であるかと思いを馳せた。 

楽和を呼んだ花栄は弓が得意な頭領で、見目の良い顔立ちをしている。元は青州の軍事基地で長官として働いていた。 

基本的には穏やかといえる気性なのだが、楽和には困った点が一つあった。 

今回もそちら絡みの件かと思っていたら案の定といったところ。 

秦明の屋敷に着くと家主の秦明は不在で、花栄の隣にはひどく機嫌の悪そうな美女が座していた。 

花李珠。花栄の妹で、頭領の一人、秦明の妻である。秦明も青州の出身で、指揮司という青州軍の将軍を務めていた男だ。 

「すまん、楽和。妹が物を盗られたと言っていてな。話を聞いてくれないか」 

挨拶もそこそこに、花栄は楽和にそう言った。 

そう、困った点とはこの花李珠。 

花栄の妹なだけあって非常に麗しい美女なのだが、性格に難がある。 

我が儘。この一言に尽きた。仕立てた着物や結婚後の新居が気に入らないと言って、何度も直しをさせるのは裏方達の間ではなかなか有名な話だ。 

だが断る訳にもいかず、楽和は笑顔で承諾をする。 

「もちろんでございます。花李珠殿、盗られた物とはなんでしょうか」 

刺激せぬように、と平素から穏やかな楽和はよりいっそう優しく問いかけた。 

だが、花李珠はキッと楽和を睨みつけ、 

「髪飾りよ!髪飾り!牡丹の花の!」 

と捲したてる。 

初対面では気圧されそうな勢いではあるが、楽和は実はもう慣れたもの。 

「牡丹の花の髪飾りですね。最後に見たのはいつだったか、覚えていたら」 

「覚えてないわよ、そんなの!」 

楽和の言葉を遮って花李珠は怒鳴りつける。感情任せに歪ませた顔は、なまじ美しいだけに人外にさえ見えた。口が裂けてもそんなことは言えないが。 

「早く犯人見つけてよ!あれ開封府の土産で高いのよ!見つけられなかったらおんなじ物を用意して!」 

同じ物、と言われても開封府までのおつかいはさすがに困る。 

「かしこまりました。早急に調査いたします」 

楽和は深々と頭を下げると、出された茶に口もつけず秦明の屋敷を後にした。 

乗って来た馬に跨がり、機密伝令担当が使っている近くの小さな執務棟に向かう。 

その道すがら、 

「時遷、時遷!」 

と、ある男の名を呼んだ。 

返しの声は聞こえないが、楽和はまっすぐに馬を進めたのだった。 

「急に呼びつけるとかひどくない?何事?」 

執務棟の一室に入った楽和のすぐ後ろから一人の若い男がやって来た。この男こそが時遷である。楽和は時遷にまず詫びた。 

「申し訳ない。花李珠殿に早くしろとの案件を受けちゃった」 

「げげ……。あの我が儘お嬢様かよ!なんだって?」 

「牡丹の花の髪飾りが盗まれたって」 

「俺じゃねえよ!?」 

「わかってるよ」 

時遷は元は泥棒である。それもかなりの腕前。身のこなし軽く、高所さえ足音立てずにスタスタと歩き、己の気配を消し去る。他人様のものさえ盗らなければ、神業と称するに値した。 

しかし梁山泊内で窃盗があったから時遷を疑ったのかと言えば、そうではない。 

「時遷の部下で、秦明殿の屋敷の担当者を呼んでほしい」 

「あ、そういうことね。了解」 

そう言うと時遷は一度外に出た。 

さて、楽和が言った時遷の部下とはどういう者か。 

機密伝令班の中でも特に時遷班と呼ばれ、梁山泊内外のあちこちに潜んでいる者を指す。屋外のみならず、各頭領の屋敷内にも息を潜めているのだが、一部の頭領を除いてこの事を実は知らせていない。 

先ほど時遷の名前を呼んだだけで時遷とここで落ち合えたのも、時遷の部下が密かに伝令してくれたからだ。 

屋敷に潜んでいる、ということは先ほどの花栄、花李珠と楽和の会話も聞いていたということであり、さほど時間を空けずに時遷は部下を連れてすぐに戻って来た。 

部下は楽和に一礼すると、 

「花李珠殿の髪飾りの件でございますね」 

と切り出す。 

話が早くて大層助かる。 

「うん。花李珠殿は盗まれたと言っていたけども」 

「秦明殿の屋敷に盗人が入ったことはございません」 

部下はハッキリとそう言った。 

楽和もそうだろうとは思っていたのである。この梁山泊内で、頭領の居住空間に盗みに入る奴などいるわけがない。部下は更に続けた。 

「そして件の、牡丹の花の髪飾りですが、実は私たちは見た事がないのです」 

「は?そうなの?」 

時遷が驚きの声を上げる。 

楽和としても想定外だった。 

「てっきり、片付けた場所を勘違いしているだけだと思っていたけど」 

時遷班が見たことないのなら少々難解となる。 

「屋敷内は探したのか?」 

「はい。花栄殿、秦明殿も花李珠殿に叱咤され、家人総動員で探しておりました」 

「で、見つからないと」 

「はい。秦明殿の屋敷にはありませんでした。ただ、花李珠殿は新居が建つ前、花栄殿の屋敷で暮らしていたことがあるので」 

「あ、じゃあそっちにあるかもしれないと?」 

「はい。花李珠殿は花栄殿の屋敷に滞在することも多く、荷物も多少残しているようなのです」 

「なるほど」 

ならば花栄殿の屋敷を探してもらうほかない。 

「それでもなかったらどうする?」 

「その時考えるよ。時遷ありがとう」 

楽和はそう言って立ち上がると、部下にも礼を述べて再びもと来た道を戻った。 

「で、例の髪飾りはあったのか」 

朱貴の店で杯を交わしながら、林冲にそう聞かれた。 

「ええ。花栄殿の屋敷の、花李珠殿が使っていた部屋の物入れに」 

「良かったじゃないか」 

「まあ、そうですね」 

「?歯切れが悪いな」 

楽和は、花李珠が花栄の妻を盗人呼ばわりして食ってかかったことを簡潔に話した。 

そこに高価な髪飾りがしまってあるなど誰も知らなかった、と花栄がなんとか諭したのだが彼女の剣幕はさながら夜叉の如き。 

あの手のものを見ると、実働以上に疲れるものだ。 

「それはご苦労だったな。ま、今日は飲んで、旨い物を食え」 

そう言ってくれたのは朱貴で次々と肴を並べてくれた。 

「やった。ありがとうございます」 

帰山してからようやく落ち着いた食事ができた楽和は旨い酒と肴に感謝して食事を堪能する。 

「しかしなあ、そういう時に秦明殿は何も言わんのかい。旦那だろうに」 

解せぬとばかりに朱貴は首をかしげる。 

「あまり夫婦仲は良くないらしいです。秦明殿の前の奥様と花李珠殿では正反対といえるほど気性が違うとか」 

楽和に結婚の経験はないが、本人たちの恋感情お構いなしに結婚させられた夫婦はこの梁山泊にも多数いる。うまくやっていけるかどうかは性格の相性によるのだろうが、花李珠のあの我が儘ぶりに耐えられる男はそういないのかもしれない。 

「しかし、秦明殿から奥方の悪口を聞いたことはないが」 

朱貴と楽和のやり取りを聞いて、林冲がそう挟んだ。 

秦明という男は、元は青州の指揮司というなかなかの地位にいた。声の大きさが表すように豪快で、あまり人の性格がどうとか気にする人間ではない。 

「本当に不満がないかは分からんがな」 

「……こういった話はやめておきましょうか。何を言おうと、憶測の域は出ませんから」 

そう言って楽和は林冲の杯に酒を満たした。 

それもそうだ、と林冲も答えて酒を飲み干す。 

林冲にも妻がいた。しかしもういない。梁山泊に来る以前の彼を知る人は少ないが、亡き妻を語る時彼の瞳はとても穏やかで悲しい色を含む。そのせいか、林冲の前での夫婦の話題は楽和はいたたまれなくなるのだ。 

「しばらくゆっくりできるのか」 

「明日からは新しい居住区域で家屋設計の手伝いを」 

楽和本人は無自覚であるが、その評判は『一を聞いて十を知る』という。物事の飲み込みが早くまた人当たりも良いものだから全ての裏方勢から助っ人を頼まれてしまう。忙しないのが楽和自身嫌いではないし、役に立てることがあればそれはそれで喜ばしいことでもある。たまにひどく疲れはするが。 

「そんなのまで請け負うのか。断っても恨まれないだろう」 

「機密伝令担当と書いて」 

「有能と読め」 

楽和の言葉を林冲が遮る。 

一瞬戸惑う楽和だが、すぐに声を立てて笑った。 

時遷班の部下が得た情報は楽和が管理している。時遷の耳には入れないのが原則だ。 

時遷班なのに何故、と問われればごくごく単純なことで口が軽いから。 

梁山泊内に潜む時遷班の部下達は当然『見てはならぬ』ことも見聞きしてしまう。何か起こったときの証言であるはずの情報が、逆に諍いを起こしては元も子もない。 

時遷という男はこういう危険をはらんでいるのだ。 

ただしそれはあくまで原則。特に梁山泊の外からの情報で、梁山泊に危機がおよぶようなものは部下達の判断で楽和よりも先に時遷の耳にも入れる。 

今、まさにその時だった。 

「おい、楽和。ちょっといいか」 

頼まれごとの合間を縫って、少し遅めになった昼飯と思っていたところの楽和を時遷が呼び止めた。後ろには部下を従えている。 

「何かあった?」 

有事である事を察して楽和は昼飯を諦めた。 

「梁山泊の東方向から、二十名ほどの男女が隠し武器を持って向かって来ています。元々は各地を荒らした盗賊団らしく次の標的は梁山泊だと」 

場所を一番近かった執務棟の小部屋に移し、楽和は話を聞き始める。穏やかではない話だ。 

部下は更に続けた。 

「一行は旅芸人を装っています。派手な着物に装飾品、楽器のほか、匕首や毒針のようなもの、あと薬物も確認できました。常習的な手口があるかもしれません」 

「今も監視を増やして見張らせてるけどよ、これって宋江殿に報告する案件?」 

「うーん」 

楽和は考えた。 

もちろん報告はした方が良い件かもしれない。 

しかし敵が武装してくるならまだしも、何らかのからめ手で攻めてくるならば迂闊なことは出来ない。 

というのも、楽和がなるべく殺生を避けたいからだ。梁山泊が標的になっていると知れば、有無を言わさず殺しに向かう危険な連中が頭領にもいる。なんなら宋江がそう命じることもある。相手が盗賊団なら慈悲など無用かもしれないが、楽和はどうしてもそう割り切れない。殺さなくて済むなら殺したくないのだ。 

だから宋江に報告するにしても、機密伝令班がどう動いているかまで考えてからにしないといけない。 

「常習的な手口っていうのは具体的には分かってない?誰がどういう役割をするっていう」 

「そのような会話はまだ出て来ておりません。注視しております」 

「そりゃそうか」 

さらなる情報が必要なのだが、向こうも玄人なら不必要な発言はしないだろう。 

「旅人に化けて近づいてみるか?」 

そういう時遷の提案は楽和はすぐさま却下する。 

「いや、相手が二十人もいたらいざって時に逃げられない。それに、簡単に尻尾を出すとは思えないしね」 

敵が仕掛ける前に、こちらが仕掛けるのが理想。後手に回るのは不利。 

「じゃ、監視を続けるしかない?」 

時遷の言葉に頷きかけたその時だった。 

楽和達のいる部屋にもう一人入室してきた者がいる。血相を変え、ただ事ではない様子。 

「時遷殿、楽和殿。例の旅芸人に扮した盗賊の一味に一人やられました」 

「なんだって?!」 

時遷が信じられないといった声を上げる。 

「奴らの中に一人、潜んでいる気配に敏感な奴がいます。本名かは分かりませんが、呂弘と呼ばれている男です」 

「ほかのみんなはどうした?ちゃんと離れたか?」 

「はい。今は距離を空けています。幸いといいますか、街に着いてからは動く気配がありません」 

「動かない?」 

「はい」 

そこまでのやり取りを楽和は黙って聞く。呂弘という男、移動しなくなった一味。 

どうあれ、こちらに死人が出た以上、楽和も覚悟しなければならないようだ。 

その上でどう動くか、楽和の考えがまとまる前に、時遷が動いた。 

「じゃ、俺様が直々に監視しようじゃねえか」 

「時遷?!」 

「まだ全然情報が足りねえだろう?策を練る頭はねえが、何かしらのもんは持って帰って見せるぜ」 

確かに、情報が足りないのは事実。 

時遷を信じることも必要だろう。 

「時遷、よく聞いて。情報を持ち帰るなら絶対に無理はしないこと。敵が強い、これも情報の一つなんだ」 

「承知承知」 

時遷は軽い返答をすると、腰の背面側に提げた面を付けた。犬のような動物を模したその面は素顔を隠すと同時に、人外じみた怖さが漂う。 

「じゃ、時遷班はしばらく楽和の指示に従ってくれ」 

そう言って時遷は外に出た。 

その彼の足音はもう聞こえない。 

呂弘、呂弘 

部下を葬った男の名を、時遷は心の中で反芻する。 

件の盗賊団が逗留している街はもう見えていた。 

「時遷様」 

樹上に潜むと、部下の一人が声をかけてくる。 

「やられたって?」 

「はい。決して油断していたわけではないのですが」 

「分かってる。何で死んだ?」 

「毒矢です。屋根の上に潜んでいたところ、いつの間にか家屋裏の樹上にいた男に射られました」 

「呂弘だな」 

「そう呼ばれていました。我々を警戒しているのか、時折周囲を見回っている黒頭巾の男がそうです」 

「周囲を見回っている、ねえ」 

本来泥棒なら、警戒している家には侵入しない。 

「じゃ、堂々と中から行くか」 

「危険では?」 

「危ねえと思ったら戻ってくるさ。楽和にも釘刺されたしな。後、お前ら八方に散って少しずつ距離を詰めておけ」 

言いながら時遷は面を外し、いかにも旅の武芸者風の格好に着替える。念の為持ってきている朴刀を腰に差すと木を下りてスタスタと歩き出した。 

ちょうど夕暮れからさらに空の色が暗く変わる頃。時遷の他にも旅人がその小さな町に集まっていた。紛れられてちょうど良い。 

言葉少なに宿の主人に銀子を渡し、何事もなく宿内に入ることに成功する。 

旅芸人一座のことを調べようとしていた時遷だが、盗賊連中は昼間は普通に芸を披露していたらしく耳を澄ませばその話題を拾うことが出来た。 

「なあ、あの芸人達の芸みたか?大きい声じゃいえねえが、ひでえありさまだったな」 

「ああ。でもこの小さな町じゃ大層な娯楽なんだろう。喜んでるヤツもいっぱいいたぜ」 

「あちこち旅してたらなあ、もっと本物が見られるんだけどなあ。ああ、でも一人別格がいたな」 

「黒頭巾の軽業だろ?確かに、あいつだけは違う腕を持っていやがった」 

「なんでも、つい先日入ったばかりらしいぜ。いい拾いものしたよなあ」 

この会話をする男達はやがて旅芸人の話題から逸れていき、どこそこの女がいいなどの話に変わっていった。 

それはそれで聞きたい気持ちを抑え、時遷は宿の中をうろついてみる。にせ旅芸人達はどうやら二階の大部屋。会話を聞くには屋根裏に行く必要がある。さてどこから行こうかと思案していると、二階から下りて来た黒頭巾の男が時遷の横を通り過ぎて行く。 

呂弘だ。 

と時遷は直感したが、今接触するのは得策ではない。宿の周囲を見に行ったのだろう。ならば好機のはず。時遷は足早に部屋に戻ると窓から外の様子を伺った。 

人が隠れるような場所を念入りに見ている呂弘。しばらくして呂弘が戻ったのを確認すると、時遷は素早く屋根の上に行く。そして犬の面を付け耳を澄ませた。話し声は聞こえるが、内容までは分からない。やはり屋根裏に行かなくてはダメかと思った矢先、話し声がピタリと止んだ。考えるより先に体を捻る。あいにく新月ではないが闇に紛れふわりと地面に下りた。 

屋根にドスと、何かが刺さる音が聞こえる。 

宿の裏手の樹上、からは死角になるよう身を隠したが、想定外に敵も素早く的確だ。弓を引く音、狙いを定めているのが分かる。 

時遷に緊張感が走る中、チカチカと小さく瞬く光が見えた。時遷はその正体が分かるが、敵には分からなかったようで注意が逸れる。その瞬間を逃さずに時遷は駆け出した。同時に五人、時遷班の部下が取り囲んだ為、呂弘は観念したように捕縛されたのだった。 

「名前と出身は?」 

「呂弘、青州の生まれだ」 

やはりこの男が呂弘だった。殺気立つ時遷達とは裏腹に、呂弘は至って冷静の様子。 

「あの光はなんだったんだ」 

こんなことを問うてくる呂弘に内心ますます苛立ちながら時遷は懐から鏡を取り出す。縄などと同様に時遷班に常備させている道具の一つだ。 

主に見えにくい場所を見るためのものだが、灯りを反射させることで仲間同士の合図や手助けをする。 

それを見た呂弘は無念とばかりにため息を吐いた。そんな呂弘を、時遷は犬の面の下で睨みつける。 

「悪いことは言わねえ。梁山泊を食い物にすんのはやめろ。そうすりゃこのまま逃がしてやってもいい」 

正直時遷は部下を殺された腹いせはすませたい。呂弘の返答次第では殴り殺してしまいたいくらいだ。 

しかし呂弘の答えは時遷達の想像と違っていた。 

「あんた梁山泊のもんか?誤解しないでくれ。俺はあいつらを手土産に梁山泊に入れてもらいに行くんだ」 

「は?」 

そういうことなら大歓迎、という訳にはもちろんいかない。 

こちらには死人が出ているのだ。 

「ふざけんな。俺の部下を殺しやがっただろ」 

「?俺が殺した中に梁山泊のもんがいたなんて知らなかった。下手くそな旅芸人の振りをしたあいつら、行く先々で恨みを買うもんだから命を狙ってるヤツが多い。油断させる為に、奴らの言うことを聞いて護衛をしてただけだ」 

これが本当なら、さて時遷はどうするのが正解か。 

一応筋は通っているように見える。呂弘に抵抗の気配もなく、時遷は考えた。 

「なあ、縄を解いてくれ。あんたらの手間はかけずに、奴ら献上して見せるからよ」 

本当かどうか、分からない。分からないが、それを時遷が判断してはいけない。時遷は感情を押し殺した。 

「分かった。縄は解いてやる。その代わり、監視は続けさせてもらうぜ」 

「それはご自由に」 

「あと、あいつらがどういう算段で梁山泊を襲うつもりだったんだ」 

「それを言う必要はない。あいつらを仕留めるのは俺だ」 

自信に満ちた声で呂弘はハッキリと言った。そして、 

「ただし、これだけ教えてやる。次の新月にあいつらは梁山泊に向かう」 

と付け加える。 

ここまでやり取りをして、時遷は呂弘を解放した。 

部下の一人は時遷に向かって、 

「良かったのですか」 

と問う。 

「いいの。俺達の最優先事項は情報の伝達。今聞いた話を楽和に届けろ」 

「はい」 

一人の部下が返事をして時遷に一礼。梁山泊に向かって駆け出した。 

そして時遷はさらに部下の顔を見回す。 

「あと、神行法かじったやつここにいる?」 

神行法とは、一日に数百里は移動出来るという仙術の一つだ。梁山泊では戴宗という頭領がこれを使える。迅速な移動が求められる機密伝令班も戴宗に師事し、これを会得しようとした。だが、これは修行の他本人の才能が大きくものを言うらしく、戴宗ほどの領域には誰も達することは出来なかった。しかしそれでも多少使える者もいて、機密伝令班は重宝している。 

「いたら青州まで行って呂弘のこと調べてくれ」 

「承知」 

その部下は脚に札を張ると、青州のある方面へと消えて行く。 

「じゃあ、残りは元の持ち場につくように。くれぐれも油断はするなよ」 

残りの部下達も一礼して散っていった。 

野犬の遠吠えが聞こえる。 

さほど遠くない場所で呼応するように聞こえるそれに呂弘は身震いした。 

「ええ?この辺野犬出んの?おれぁ犬はダメなんだよね。ガキのころ足噛まれてさあ。ひどい目にあったのよ」 

そう顔をしかめるのは旅芸人一座の座長。その正体は盗賊一味の頭だ。 

呂弘は梁山泊の総統、宋江に会うために彼らの一味と手を組んでいる。だが仲間ではない。所詮連中は贄なのだ。 

ここはすでに梁山泊南の対岸に位置する酒店。店の中は盗賊団の面々の他にも旅人らしき男の姿もある。特に目を引くのが朴刀を腰に提げた長身の美丈夫。盗賊一味の女どもがチラチラと視線を送っているが、全くもって相手にされていない様子が滑稽だった。 

そこの主人は遠吠えのする方に顔を向ける。 

「結構近い所まで野犬の縄張りですからね。奴らかなり凶暴ですよ。先日もね、流浪の歌い手が負傷しまして。ここで療養させてやってるんですわ」 

「うげえ。ちょ、そんなの聞かせないでよ」 

「はは、ここは安全ですよ。多分ね」 

「多分て!」 

主人は酒と肴を振る舞いながら、座長と話し続けている。 

「あんたら大所帯でその大荷物、旅芸人かい?」 

「おうよ。梁山泊は報酬を弾んでくれるらしいからな」 

「そいつはいいね。じゃあよ、その負傷した歌い手も連れてってやってくんねえか。一人じゃもう怖えっつってびびっちまったのよ」 

「んーどうしようかなあ?俺らについてこられんのぉ?」 

さも上級の芸を持っているといわんばかりの態度だが、腕前は下の下。 

しかしそれを教えてやる義理もないので、呂弘は黙って酒を口に運んだ。 

「そう言わねえでよ。ちょっと呼んで来るからみんなで音合わせて聞かせてくれって」 

すぐに主人はそう言って小柄な若者を連れて戻って来る。随分と華奢な体躯だ。 

その若者は、 

「初めまして、楽諒と申します。未熟な歌い手ではございますが、梁山泊への営業に加えていただけないでしょうか」 

と丁寧に挨拶した。 

「そうだねえ、じゃあ、うちの歌い女や笛達と一曲やってみてよ。俺の耳は厳しいからね?」 

「ありがとうございます!」 

そう決まると、女達も張り切って準備をはじめた。端で静かに飲んでいる美丈夫の注目を集めたいのだろう。無駄だと思うが。 

楽と歌なら呂弘の出番はないので、成り行きを見守る。正直余計なヤツを加えたくないが、それを進言する権限は呂弘にはない。 

そして、醜い笛や太鼓の音をガチャガチャと鳴らして音楽が始まった。 

それに合わせて歌い女が歌い出す。楽器よりはましだが、それでも素人の歌の域を出ていない。そして若者が歌い出すと呂弘は思わず酒を吹いてしまった。 

酷い。声はいいのに音が合っていない。歌い女の声と合わさると一層ひどく頭をかき回されるような不快感を覚えた。 

やめろ、と思わず叫びそうになったが、それより早く長身の旅人がぶち切れていた。 

持っていた杯を、笛を吹いていた男に投げつけて、恐ろしい形相見せている。そして朴刀を振り回して、 

「うるせえ、下手くそ!!」 

と怒鳴った。 

怒りだしたのはこの男だけではない。 

酒店の主人も顔を真っ赤にして、 

「旅芸人たあ嘘だろう!下手くそめ!さては盗っ人だな!出て行け!」 

と叫ぶ始末。 

それだけではない。なんと座長含め、全員を外に投げたり蹴飛ばしたり朴刀を振り回して追い立てたり。 

不測の事態で為す術もなく、呂弘も長身の男に投げ飛ばされてしまった。 

新月の夜は暗い。そして闇夜の中に光る目が多数。 

「野犬のえさになってこい!」 

野犬の群れに投げられそうになった座長が間一髪逃れると、悲鳴を上げて走り出してしまった。 

それを追うように一味も駆け出し、呂弘も走りだそうとしたところで頭に強い衝撃を受けて気を失ってしまったのだった。 

「林冲殿に朱貴殿、ご協力ありがとうございました」 

朱貴の店の中で楽和は林冲と朱貴に深々と頭を下げる。 

朱貴は汗を拭きながら、 

「いやあ、偶にはこんなのもいいもんだな。スカッとしたぜ」 

とひと暴れの後の一杯を飲み干した。 

「詳しい事情は知らんが、あれで良かったのか」 

今日たまたま朱貴の店に飲みに来たため、巻き込む形になってしまったのは旅人に扮した林冲だ。 

とはいえ、林冲はわりと頻繁に飲みに来ているのだから楽和としては『まあいたら手伝ってもらおうか』くらいのつもりだった。顔が良すぎるのと、漏れ出る闘気がただの旅人には見えなかったが、結果的に早く片付いたので楽和も安堵する。 

「はい。ものすごい気迫でした。さすがです」 

「いや、お前こそ。まさかあんな歌を歌うとは思わなかったぞ」 

「そ、それは忘れて下さい!僕だって恥ずかしかったんですよ。わざと音を外すなんて普段しないものですから」 

本来なら楽和は相当の歌の名手。然るべきところで歌えば大金を稼ぐことも、名家に召し抱えられることもできると評判だ。 

だから歌下手な楽和は割と希少なのである。 

「いいんじゃねえか?歌下手な楽諒、定着させろよ」 

面白がって朱貴はそう笑っているが、楽和としては黒歴史だ。 

「いやもう、必要さえなければやりませんよ」 

こんな小芝居を提案したのは他ならぬ楽和自身なのだが、下手に歌う必要もまさかこの先あるまい。と思いたい楽和だ。 

丁度そこへ、犬の面をつけた集団が店に入って来る。 

「本当、もう忘れて下さい。ほらほら時遷達が帰って来ましたから」 

犬の面を取ると、時遷と時遷班の部下だった。 

「ただいまっと。あいつら追い返して来たぜ。相当びびらせて来たからもう来ねえだろ。一応見張り置いてきたけど」 

「ありがとう。野犬の遠吠え、見事な声まねでした」 

「だろ?」 

少々ウザめの得意顔を時遷が披露すると、驚いたのは林冲だ。 

「あれ全部、時遷の声だったのか」 

「俺と、こいつっすね」 

時遷と部下の若者。二人で遠吠えと唸り声の真似をしていたのだという。犬の面には目がチカリと光るよう細工したのだそうだ。 

「声も姿も本物の野犬のようだった。すごい技術だな」 

「新月の夜を選んでくれたお蔭でもあるんすよ。さすがに明るいところでやっちゃあ四つん這いの人間にしか見えねえで、滑稽なだけっす。まあそれでも?ちょっとやそっとの練習で?あそこまで出来ないと思いますけど?いやいやまあ暗かったですからねえ」 

林冲に褒められたことで気分が良いのか、時遷は殊更饒舌だ。よほど嬉しいと見える。もし尻に縫い付けてある尻尾が本物なら、ブンブンと振っていただろう。 

「いや、そうだとしてもいいものを見た。楽諒の歌もだけどな」 

「ちょっと!」 

楽和は不本意だが、一同がどっと笑ったのでもうこれで良しとする。 

窓から朝日が差し込んで、呂弘は目を開ける。 

手と足に枷、持っていた荷物は見える範囲にはない。 

ゆっくり体を起こして朧気な記憶を辿る。 

やられた。 

梁山泊の山頂まであの盗賊一味を泳がせるつもりだったのに。 

結局連中がどうなったのかは興味ないが、囚われのままなのは困る。なんとか手枷をはずそうとした時、外から足音が聞こえた。 

錠が外され、扉が開くとそこにいるのは昨夜見た顔。 

「歌下手の楽諒」 

「違います!」 

即座に否定する若者と、彼の後ろで大いに吹き出して笑う声。その声も聞いたことがあった。 

「よお、気分はどうだ」 

まだ笑いながら顔を見せたのは犬の面。 

一度呂弘を捕縛した男だ。 

それで合点がいく。 

「なるほど。グルだったわけだ」 

「悪いな、テメエが仕留めるつってたが、こっちの獲物にさせてもらったぜ」 

「信用には足らなかったか?だとしたら何故だ。それに、俺だけ生け捕りなのは一体何なんだ」 

呂弘の問いには犬の面は答えず彼は一歩下がった。代わりに前に出たのが楽諒だ。 

「改めまして、梁山泊の頭領で楽和と申します。正しく渾名は『鉄叫子』といいます。良いですか、『鉄叫子』ですよ」 

「ぶはっ!!」 

犬の面がさらに笑う。 

鉄叫子とは非常に優れた歌い手という意味か。あの歌を聞いた身としては俄には信じられぬが確かに良い声をしている。その楽和が犬の面をひと睨みすると再び呂弘を見た。 

「まずですね、信用するしないに関わらず、ならず者に湖を渡らせることはしません。あの酒店までたどり着いた時点でこちらは動きます」 

「あの酒店もグルか」 

「はい」 

「長身の旅人は」 

「ここの頭領です」 

「まさか野犬まで仕込んでいたか」 

「それは俺だ」 

犬の面が大きく息を吸うと、次の瞬間にはさながら犬の遠吠え。 

「どうよ。この面は素顔隠しってだけじゃねえんだぜ」 

呂弘は深い深いため息を吐いた。どれかだけでも疑いの目を向けていれば。そう後悔してももう遅い 

「完敗だ。煮るなり焼くなり好きにしろ」 

「ええ。ですから、今度はこちらの質問に答えて下さい」 

「なんだよ」 

「梁山泊の仲間に入りに来たというのは、嘘ですよね。本当の目的は何ですか」 

呂弘は驚いた。とても策士という風には見えない目の前の優男は、一体どこまで掴んでいるのか。 

呂弘が黙っていると、楽和はさらに続けた。 

「うちの部下は優秀なので調べられるんです。あなた、秦明殿の義弟だそうですね。亡くなった奥方の実弟。そのことを黙っているのは何故ですか。犬の面に捕まったあの時に話していれば、それこそ信用したかもしれません」 

秦明の名を聞いて、呂弘は血が沸くような錯覚を起こした。沸々と沸き上がる怒りを懸命に押さえて質問に答える。 

「それはだな。秦明の方がもう俺を義弟だと思ってねえだろうからさ」 

「そうでしょうか」 

「そうだよ!アンタ知ってんのか?!あいつのせいで俺の姉は死んだんだぞ」 

仲の良い夫婦だと思っていた。 

多少気は短いが男らしく豪快な秦明に穏やかで優しい姉。二人は子には恵まれなかったがよくお互いを支え合い、尊重し合っているように見えた。 

しかしそれがまやかしだと気づいたのは、秦明が盗賊と通じたと知った時。 

秦明が盗賊行為を行ったせいで姉が捕まり、秦明は助けにも来ずついには処刑されてしまった。 

「俺がここに来たのは、そのことをどう思ってんのか聞きたいからだ。せめて詫びの言葉を聞きたいからだ。納得のいかねえ言葉を吐こうもんなら、殺してやろうと思ったからだ!」 

一息にそう捲したてると、場はしんと静まりかえった。 

言ってやった。もう命はないだろう。だが悔いはない。生け捕りにされた時点で人生の詰みだ。最期に言いたいことを言えたのだからもうそれでいい。 

しんとするこの間が長く感じられる。どうやって殺されるのだろうかと考えると自然と顔は伏せられた。 

「ならば、秦明殿に直接会って下さい」 

「なに?」 

楽和が足の枷を外し始める。早い展開に頭がついていかない。 

「申し訳ないのですが手枷はそのままで」 

歩き始める楽和の後に呂弘、その後ろを犬の面が歩く。外に出ると目の前には大きな邸宅。楽和はそこに入って行った。 

女中が楽和に挨拶して奥の部屋に通すと、そこには既に秦明が座していた。 

濃い髭面の無骨な顔が呂弘を捉える。 

すると秦明は姿勢を正し、頭を深く下げたのだ。 

「呂弘!すまなかった!!」 

空気がビリビリ震えるような声。 

その勢いに怯む呂弘だが、楽和に仕草で座るように促され、秦明の正面に座した。 

「呂弘、お前がどうしているかずっと気掛かりであった。元気なようでそこは安心したが、一度きちんと謝らなければと思っていた。本当にすまない」 

一度顔を上げ、呂弘の顔見つめる秦明だったが、また深く頭を下げる。 

その秦明の姿は呂弘もよく知る真っ直ぐで実直な男だ。姉が好いたのは秦明のこういう所だったと呂弘は思い出す。 

だからこそ信じられなかった。姉を見殺しにしたことが。 

「何故、青州の指揮司まで務めたあなたが盗賊行為など。そのせいで姉は死んだ。助けてもくれなかった理由は?!」 

「呂弘、すまない。今まさに山賊集団である梁山泊にいながら説得力はないかもしれないが、俺はあの時盗みなどしていない。お前の姉の呂瑛英が捕まったことも死なせてしまったことも、俺は無念で仕方ない。助けられるものなら助けたかった」 

「そんなことを信じろと?!」 

「俺は嘘など吐かない。お前に嘘も吐きたくない。信じてくれとしか言えない。ただし、許してくれとは言わん。」 

頭を下げたままの秦明。嘘など吐かない、そうだ、秦明はそうなのだ。 

呂弘の中から怒りが浄化されていく。姉は秦明の言葉を疑ったことなどないのではないか。今姉がこれを聞いたら間違いなく信じるだろう。ならば呂弘も信じるしかないのだ。聞きたいことはまだある。しかしもう尋ねるのは無意味のような気がした。 

「分かりました。貴方がそう言うのならばそうなのでしょう。それによくよく考えれば、姉さんが貴方を恨んで死んでいったはずがない」 

呂弘はそう結論付けた。今更ではあるが、実際に秦明に会えなければ気づけなかっただろう。 

そして呂弘は楽和に向き、礼を述べた。 

「会わせていただきありがとうございました。もう心残りはありません。斬首なりなんなり」 

「呂弘!それはいかん!!」 

斬首という言葉を聞き、秦明が顔色を変える。 

しかし呂弘は梁山泊を狙った盗賊団に加わっていた。然るべき処罰があるはず。 

そう思っていた呂弘なのに、楽和は優しく微笑んだ。 

「斬首?しませんよ、そんなこと。ご安心を。呂弘殿さえよければこのまま梁山泊に留まれるようにもできます」 

「それが良い!そうしよう、呂弘!!」 

秦明の大きな声が響く。 

呂弘は顔を伏せ、しばし考え込んだ。思えば、秦明への怒り、恨みに支配されるあまり自分のやりたいこと、好きなことを見失っていた。 

ここにいれば食うに困ることはないだろう。しかしもう一度旅をしたい。晴れた今の心では見える景色が違うだろうから。それに、梁山泊は姉から秦明を奪った。これは事実のはず。 

「もう一度旅に出ます。今はそうしたい気分なのです」 

呂弘は短くそう言って深く頭を下げた。 

「……そうか」  

絞り出した秦明の声が聞こえる。哀れにも見えるその姿を振り払うように呂弘は、 

「許されるなら、すぐにでも出立させて下さい」 

と頼んだ。 

「それがお望みなら、承知いたしました。湖の先まで送りましょう」 

立ち上がる楽和を秦明が制して、さらにこう続ける。 

「待ってくれ、もう一つ話しておきたいことがある」 

そう言うと再び頭を下げ 

「実は、新しく妻がいる」 

と告げた。後ろめたさでもあるのか呂弘の顔を見ずに続ける。 

「呂瑛英を忘れたのでもなければ、愛していなかったのでもない。ただそういう縁があったのだ。どんな形であれ、縁は大事にしたいと思っている。言い訳のように聞こえるかもしれないが」 

まだ何か言いたそうな秦明を呂弘が遮った。聞きたくないからではない。黙っていても良いことだろうに、正直に打ち明ける秦明の誠実が伝わったからだ。 

「最期まで、寄り添ってあげて下さい。今度こそは」 

それだけ伝えたらもう呂弘にも言うことはない。 

「もちろんだ」 

これを最後に呂弘は立ち上がり、楽和の後について外に出た。 

「元気でな」 

背中で秦明の声を聞く。 

「何かあれば頼ってくれ」 

目頭の熱くなった呂弘はただ顔を伏せて歩くことしか出来なかった。 

呂弘が去って行って早十日。楽和が久しぶりに朱貴の店を訪れると、既に林冲が杯を傾けていた。 

「お疲れさまです、林冲殿、朱貴殿」 

「おう、楽和。最近は暇か」 

朱貴からの問いには憂鬱な案件があることを告げる。 

「暇ではないですよ。明日何故か夫人会の宴に出なければならなくなりました」 

朱貴は笑い、林冲からは哀れみの眼差しを向けられる。 

ひとしきり笑うと、朱貴が切り出した。 

「夫人会ってことは花李珠殿もいんだろ?そういやあ、最近は大人しいもんだと聞いたがどうだい?」 

「そうですね。幾分穏やかになられた印象はあります」 

別人のようとまではいかないが、理不尽に怒り出すことが減って来ているともっぱらの噂だ。楽和自身もそう感じる。 

「そうなのか?」 

林冲は彼女と接点がないのだから知らないのも無理はない。 

「はい。ええと、前妻の存在だったり、秦明殿に大事にされていないという思い込みから、周囲に当たっていたところがあったのでしょうね。呂弘殿と秦明殿の会話が聞こえていたらしく、夫婦仲が良い方向に進んだのではないかと」 

推測ですが、と言い添えて楽和は美味い酒を一口運ぶ。 

「じゃあ夫人会も良いじゃねえか。華やかでよ。羨ましいぜ」 

絶対にそうは思ってなさそうな口ぶりで朱貴はまた笑う。 

「いやいや、大変なんですよ。ずっと歌いっぱなしにされちゃうので」 

夫人会の宴の翌日に声が出なかったことがあり、苦手なのだ。 

「適当なところで楽諒を出せばいいんじゃないか」 

林冲が至って真面目に言うものだから、それもありかもしれないと楽和は思ってしまった。 

平和ならではのやり取りに楽和は自然と微笑んでいた。

※本作品は幻冬舎ルネッサンス原稿応募キャンペーン連動企画参加原稿です。
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