• 『愛の、終着点 ~愛は暴力を否定する~』

  • 甲斐賢祐
    恋愛

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 プロローグ 

 この世は愛しい事だらけだ、愛しくて、愛しくて、なんて苦しいのだろう・・・。 


 愛とは何か?それは相手を大切に思う気持ちだ、可愛い・かっこいい・好き・一緒にいたい・離れたくない・離さない、表面的な気持ちではなく、存在そのものを大切に思う気持ちを愛と呼ぶ、だが現実の愛はそんな生易しいものではない、愛が原因で運命が狂う事もある・・・。 


 今、1人の男が、証言台の前で審判の時を待っている。男の名は佐伯和也(さえきかずや)愛とは無縁の男だ、あの出来事があるまでは・・・。 


 愛が欲しい・・・この世の誰よりも、愛が欲しい・・・和也は、誰よりも愛に飢え、誰よりも渇望していた。愛とは何か教えて欲しい・・・たとえ、自分自身が傷つく事になったとしても、1度でいいから愛を知りたい、たった1度だけでいい、それ以外は何もいらない、和也は、ただただ愛だけを求めて、求める過程で愛を知り、結果運命に翻弄され、まるで春に咲く桜の花びらのように儚く散っていった・・・。 


 愛を知る前の和也の住む世界は、、渇ききった心を血で潤すような暴力に満ちた世界だった。 

「判決の前に、被告人、最後に何か言いたいことはありますか?」 
 

 裁判官に尋ねられ、証言台で終始俯いていた和也が、ゆっくりと顔を上げる。 

「愛ってなんですか・・・?」 

「愛?」 

「はい・・・」 

「それは、他人を思いやる気持ちです」 

「思いやる気持ち?じゃあなんで俺はここに?あんなに1人の女性を思いやり、愛したのに・・・」 

「あなたは、それ以上に罪もない人を殺めた、その償いはしなくてはならないのです」 

「そうですか・・・分かりました」 

「他に何か?」 

「ありません・・・」 

「そうですか、では判決を言い渡します、主文!被告人を・・・」 

 1章~暴力と孤独~ 

「お客さぁーん!貸した金今日が返済期限ですけどどうなってるんですかぁー?」 

「すいません、まだ用意できてなくて・・・もう少し待ってくれませんか?」 

「確か、前もそんな事言ってたよねぇー?」 

「それは・・・」 

「お前、舐めてんのか?」 

「いえ!決してそんな事は・・・」 


 和也は今、金を借りた男の家に来て借金の取り立てをしている。 

「返せないんだな?」 

「来月まで待ってください!お願いします!」 

「・・・ダメでぇーす」 

 和也の取り立て方法はかなり非情だ、借りた奴の事情などお構いなし、金が返せないと分かると借りた奴の命を奪う事だって厭わない・・・。残忍で冷酷な男だ。 

「しょうがねえなぁ・・・どうしても返せないんだな・・・?」 

「はい・・・本当に申し訳ございません・・・」 

「分かった、許してやるよ・・・」 

「え?本当ですか?ありがとうございます!来月には必ず返しますから!」 

「勘違いするなよ?タダで許すと思ってんのか?」 

「え?」 

「え?じゃねーよ!来月まで待つわけねえだろ、お前の、命と引き換えに許してやるよ」 

「そんな!な、何をする気ですか?」 

「お前のその体はな、金になるんだよ、肺、心臓、肝臓、何処を切ってほしい?好きな部位を言ってみろ、お望みどおりにしてやる」 

 和也はこういう方法で大勢の命を奪ってきた。文字通り身体で払わせると言った所だ、人の命なんかより金の方が大事なのだ・・・和也にとって1番信用できるもの、それは金以外ないのだ。 

「嫌だ!嫌だ!死にたくない!死にたくないー!」 

「おい!連れてけ!」 

 和也がそう言うと、金を借りた男が和也の仲間である黒服の男たちに連れていかれる、金を借りた男の人生はもう終わりだ・・・。身体を切り刻まれ、人生の終焉を迎える。 

「この!このクズ野郎!お前は・・・悪魔だ!必ず地獄に堕ちるぞ!」 

 金を借りた男が和也に向かって恨みともとれる言葉を吐く、だが和也はそんな事気にもしない様子、だから何だ?位の態度だ。 

「クズ野郎?悪魔?そんなオレから金を借りたのは誰だ?借りたものは返すのが常識だろ?それをできないお前の方がクズだろ、地獄に堕ちる?そんなもの怖くもねぇよ!お前が死なないと金が返ってこないんだよ、だからとっとと死ねやゴミ!」 

 そう吐き捨てた後和也は金を借りた男の家を後にし、事務所に戻っていった。 

 ここで、和也という男の過去を遡ってみよう、和也は東京の新宿で生を授かったが、幼少の頃母親に捨てられ、施設で育ち天涯孤独に生きてきた。父親は和也が生まれる前に借金を苦に自殺・・・施設の支援で学校には行ったが、学校生活になじめず、友達も1人もいなかった。寂しい幼少期と学生時代を過ごしていた。父親と母親から愛情を受けずに育ち、青春時代の思い出も何一つない。話を聞いてくれるひともいない、このような暴力的な男になってしまったのも、和也の過去の経験が少なからず今の彼の人格を形成したきっかけになってしまったのかもしれない、ちゃんと愛情を受け育っていたら・・・今の彼はきっと存在していないだろう。哀れな男とでも言うべきか。 

「ただいま戻りました」 

「おお、和也ご苦労だったな」 

 事務所に戻ると、1人の男が中央のデスクに座っている、この男は和也の世話をしてる男だ。 

和也が新宿の街中をフラフラしてる所に声をかけスカウトしたのだ、今の和也の親代わりの人間だ、和也自身もこの男の事を慕っている、家族同然のように付き合ってはいるが、和也の中には少しばかり心の距離があった。本当の家族ではない、家族というのがどういうものか分からない、そのため心の底から信頼を置くことができないでいる。 

「和也、取り立ての方はどうだった?」 

「はい、あの野郎金返せないとか抜かしやがったんで、いつものように処理しておきました、金は数日で戻ってくるかと」 

「そうか、良くやってくれたな、分かってるかとは思うが証拠は残すな、サツに嗅ぎつけられると面倒だからな」 

「はい、分かってます」 

「和也、どうだ?今日久々に飲みに行かないか?」 

「いえ、今日は疲れたのでもう帰ります」 

「そうか、じゃあまた今度にしよう、ゆっくり休めよ」 

 和也は事務所を後にし自分の家に帰る、煙草を咥えながら帰り道を歩いていると、前から笑顔で手を繋ぎ楽しそうにして歩いてる3人家族が和也の方に歩いてくるのが見えた。 

「チッ!何だ・・・楽しそうにしやがって・・・」 

 和也は持っていた煙草を地面に投げ捨て、その3人の家族を睨みつける。和也は家族に捨てられた男、幸せな家族が憎いのだろう、和也は家族とすれ違う時思い切り肩を3人家族の男にぶつけた。 

「いて!」 

「チ!」 

 舌打ちをし、眉間にしわを寄せ3人家族の父親と思われる男を睨む和也。 

「おい!何だあんた!いきなりぶつかってきて」 

 男が通り過ぎようとする和也の肩に手をやり引き止める。 

「あなた・・・やめなよ・・・相手しない方がいいよ」 

「パパ!どうしたの?」 

 和也に言い寄った男を、妻と子供は心配そうに見ている・・・和也は振り返ると返事もせずただ男をじっと見つめる。 

”バキ” 

 ものの数秒で、和也の拳が男の顔面にめり込むと同時に、何かが割れるような音がした。 

「うぐ・・・」といううめき声を上げ男は道路に倒れる、和也はそのまま馬乗りになり、容赦なく男を殴り続けた。 

”ガッ、ビキ、バキ、ボキ” 

「キャアーーー!ちょっと!あなた何すんのよ止めて!」 

 女は悲鳴を上げた。 

「パパァーーー!うわぁーーーん!」 

 子供は倒れた父親を見て泣きじゃくっている。 

 騒ぎを聞きつけ、和也たちの周りには、いつの間にか数名のギャラリーが出来ていた。だが、皆和也を恐れてか、誰1人として助けようとする者はいない。 

「おい!てめぇ!誰に喧嘩売ってんだ?あぁー!?」 

 和也は、男の胸倉を掴み、激しく前後に揺さぶる。 

「す、すいません!勘弁してください・・・」 

「もうやめてください!主人が死んじゃうじゃない!」 

「パパをいじめないでよ!やめろよバカぁーー!」 

 男の顏から鼻血が出て目が腫れ上がりボコボコになっている・・・和也は殴る手を止め、馬乗り状態からゆっくり立ち上がると、今度は子供の胸倉を掴んだ。 

「おいガキ、いいよなお前は、パパやママがいて、オレがお前くらいの時には独りだった・・・さぞ愛されてるんだろうな、殺してやりてえよ」 

 和也はこの時、子供を昔の自分と照らし合わせていた。照らし合わせれば合わせるほどこの子供が憎くてしょうがない・・・やり場のない怒りが湧いてくる・・・本当は和也も愛されたかった・・・けど和也を愛してくれる人はいない・・・和也は人生に不公平さを感じていた・・・。 

 和也は掴んでた子供の胸倉を離し「・・・失せろ」と一言だけ残し歩き出した・・・。 

「あなた最低な人間ね・・・いや!人間じゃないわ!」 

「人間じゃない?俺は人間である事をとっくに捨ててんだよ」 

 女が和也を睨みつける。和也は捨て台詞を残しその場を去っていった。 

「何が家族だ、何が愛だ、くだらねぇ・・・」 

 ぶつぶつ愚痴をこぼしながら歩いていると家に着く、玄関を開け、家に入ると和也は電気も付けずソファーに腰かけて1人寂しく酒を飲む。暗い部屋の中でグラスに入れた氷がカランと音を立てる・・・。和也はグラスにウィスキーを注いだ。 

「誰か俺に・・・愛というのを教えてくれよ・・・本当にこの世に愛というのが存在するなら」 

 和也はかなり暴力的な男だが、誰よりも愛を欲しているのかもしれない、愛を知らず、暴力でしか自分を表現できない悲しい男、和也の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。 

 今の和也に残っているのは、暴力と孤独だけだ・・・。 

  

 2章~和也の習慣~ 

 和也には必ずやる習慣が3つほどある、1つ目は仕事が終わり家に帰った後、寝る前に酒を飲む事、2つ目は自宅にある金庫に保管してある金を数える事、そして3つ目は朝起きた後と夜寝る前に自分自身を愛する事、この3つを和也は日頃の日課としている。 

 1つ目の日課である寝る前に酒を飲む事は済ませた、次は2つ目の日課だ、和也は金庫のある部屋へ行き暗証番号を入力し金庫を開けた、金庫の中には100万円単位の札束で溢れている、和也は金庫の中の金を全て取り出し数え始める。 

「1・・・2・・・3・・・4・・・5・・・6・・・7・・・8・・・9・・・10・・・」 


 100万円の束は全部で100枚、1億円ほどだ、この金は和也が取り立ててその報酬として得た金だ、中には取り立てる際に命を奪って手に入れた金も含まれている、肺、心臓、肝臓、あらゆる臓器を売りさばき、その対価で得た金、以前に取り立てた奴の金もその内入ってきてこの先数はもっと増えるだろう、和也は後ろめたい気持ちや罪悪感などは微塵も感じていない、何故なら、和也にとってこの世で一番信頼できるものは、金だからだ、人は平気で人を裏切ったりする、人は平気で人を捨てたりもする、幼い頃にそういう経験をした和也にとって、金こそがすべて、金というのは人を裏切ったり、人を捨てたりすることはない、ただ物質的に存在してるだけ、だからこそ信用できる、和也はそういう歪んだ考えを持ってしまっていた。だが、いくら金を手にしても、和也の心の中にあるモヤモヤは長年消えずに残り続けていた。 

「お前らはいい子だな、オレが唯一信用できるのはお前ら金だけだ」 


 心のモヤモヤを無理矢理取っ払うかのように、和也はうっすらと笑みを浮かべながら、金に話しかける、決して喋りかける事のない金に、和也の精神はもはや常人では理解しがたい域に達してしまっている。 


 2つ目の日課が終わると和也は金を金庫にしまう、そして和也は寝室に行く、3つ目の日課をやるために。 


 和也の3つ目の日課としている自分自身を愛する事、それはどういう事かというと・・・自慰行為の事である、金をいくら手に入れても和也の心はモヤモヤしたままだ、満たされているという感覚がなかった。幸せを感じる事ができない、この世で一番金が信用できるが自分の事を愛してくれているか、それを確認する術は何もない、金には感情がないのだから、話しかけてくれたり、愛情を注いでくれる事もない、所詮はただの紙切れ、だから自分で自分を愛してやるしかないのだ、愛や幸せを感じるには今の和也にはこれしかないのだ、孤独な和也にとって自慰行為こそが愛を感じる手段なのだ。 


 和也はベッドに腰かけズボンを下ろす、まだ始める前だというのに和也の性器は硬くなっており先端からは透明な液が溢れている、その液を和也は指で拭う、指に付いた液が糸を引き、まるで水の雫のようにぽたっとカーペットの床に落ちていった。 


 自分の硬くなった性器を握り上下に激しくしごきだす、性器から「クチュッ、クチュ」という音が聞こえる、その音を聞きながらさらに激しくしごく、和也は恍惚の表情を浮かべている、薄目を開け、口は半開き、そして感じる、自分自身へ向けられている愛を。 

「あ・・・あぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・う・・・は・・・あぁぁぁぁー」 


 何ともいえない声を上げ和也は果てた、性器からは精液が溢れベッドにまで垂れるほどの勢いだ、和也はベッドに寝転がり天井を見上げた。 

「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」 


 和也は荒い息をしながらじっと天井を見つめる、そしてそっと目を閉じ眠りにつく、眠っている顔はどこか寂しげだ、本当に自分自身を愛した事で満足してるのだろうか・・・。 


 翌朝、和也は目が覚めると昨晩と同様、早速ベッドの中で自分を愛し始める、寝起きにも関わらず和也の性器はかなり硬くなっている、愛を欲している和也の気持ちに同調するかのように。 

「はあ・・・はあ・・・はあ・・・あぁ・・・う・・・」 


 和也は果てた、独り寂しく。 


 そして和也は、ベッドから出ると朝食も摂らず身支度を整え家を出る、これから仕事だ、いや・・・仕事と言うより暴力の遂行と言った方がいいだろうか、和也のやる事といえば、債務者を暴力で支配し恐怖を与え、そして命を奪う事ぐらいなのだから。仕事と言うにはほど遠い、もはや和也は暴力の虜になっていると言ってもおかしくはないだろう。 

 ゆっくりとドアを開け、階段を降りていく和也、その背中はやはり何処か寂しげで哀愁を漂わせている、秋の心地よい風が、和也の着ているパーカーの隙間から入り込み、和也の肌を優しく撫でる。 


 和也がふと目をやると、道路沿いに生えているキレイなイチョウの木がある。まるで和也を祝福するかのように綺麗に咲きほこっている、そんなイチョウの木を見て和也は。 

「もうすっかり秋だな、この季節になると何故だろうな、寂しく感じるのは・・・そして冬が来て年が開ける、今年もいつも通り独りぼっちか・・・」 


 和也はそんな独り言をぶつぶつと呟きながら仕事場に向かう、心なしか足取りが重い。 


 今和也がやっている習慣だが、果たして辞めれる日が来るのだろうか、もし辞めれる日が来た時、それは和也が真の愛というものを知った時だけなのかもしれない・・・。 


 事務所のドアを開け、和也の1日が始まった。 

 3章~出会い~ 

「おはようございます」 

 事務所のドアを開け、和也は世話になっている男に挨拶をする。 

「おお和也、ご苦労さん」 

 和也の世話をしている男が少し偉そうに挨拶を返す。 

「今日の取り立ての予定は?どこに行けばいいですか?」 

 和也が男に尋ねる。 

「おう、早速だがここに行ってくれ、2丁目の方だ」 

 男が和也に一つの紙切れを手渡す。そこには住所と名前のみが書かれていた。 

「はい、分かりました。」 

 和也は紙切れを受け取り二つ返事で場所に向かう。 

「おい和也!待て!」 

 男が和也を呼び止めた。 

「はい?なんですか?まだ何かあるんですか?」
 

 和也が呼び止めた男に聞き返す。 

「いや、和也・・・前から言おうと思っていたんだけどな、債務者の処理の仕方だが、処理の方法はお前にいつも任せてはいるけど、あまり派手にやりすぎるな、お前の仕事ぶりには感謝してる、どうもお前は暴力的になりすぎる所がある、暴走しすぎるといつか足元をすくわれちまうかもしれないからな、注意してくれ、オレ達のやっている仕事は証拠が残ると面倒な事になる。時には冷静さも必要だ、オレが言いたいのはそれだけだ」 


 男が諭すように和也に言った。 

「はい」と和也は一言だけ言い残し、渡された紙切れの場所に向かうためゆっくりとドアを開け事務所を後にした。 


 事務所を出て20分位経った頃、紙切れに書いてある場所へと着いた。どうやらアパートのようだ、築数十年は経っているであろうボロボロのアパート、外壁は剥がれ落ち、階段の手すりは所々錆びている、和也はアパートの階段をゆっくり上がり一つのドアの前へ行った。ドアの前に小さな名札を入れる所があり、そこには小さな文字で、”箕浦(みのうら)”と書かれていた。 

「ここだな」と呟き、和也はインターホンを押す。 

 待っても、ドアが開く気配はない。 

「いないのか」と呟き、和也はもう一度インターホンを押した。 

 数秒後、ドアの向こう側から、ガチャッという音がした。 

「はい!」という返事とともにドアが開く、ドアの向こう側には1人の男が立っていた。 

「おい!てめえ!」という怒号とともに和也は思い切りドアを引き、男を突きとばした。 

「うわあ!」という悲鳴とともに男の体が後ろへ飛び男は尻もちをついた。 

「てめえ!いつになったら金返すんだ?あぁ!!?」 


 和也は倒れた男の胸倉を掴みながら脅すように男に言った。 

「す、すいません!必ず返します!返しますから!許してください!」 

 男の言葉は震え目は完全に怯えた目をしている、まるで子犬のようだ・・・。 

「必ず返す?そんなもん当たり前だろ!俺はいつ返すか聞いたんだ!いつだよ!おい!」 

 和也は怯えた男の事なんか気にもせず怒号を浴びせる。 

「あ、あと、い、1ヶ月待ってください!お願いします!」 

 男は力なく和也に言った。男は怯えきっており顎がカタカタと震えている。 

「はあああ!?1ヶ月!?バカかてめえ!何でオレが今日てめえに会いにきたのか分からねえのか?」 

「ひ!ま、まさか・・・」男は悟ったかのように言った。 

「そう、そのまさかだよ!今日返せ!じゃないとどうなるか、分かるよな・・・?」 

 和也は男に不敵な笑みを浮かべながら言った、顏は笑ってはいるが、目は笑っていない、冷酷そのものだ。 

「そ、そんな・・・いきなり今日だなんて!無理です!お願いします!何でもしますから待ってもらえませんか?」 

 そう言うと男は和也の足にしがみついて懇願した。 

「触んじゃねえよ!汚ねえな!」 

 和也は足にしがみついた男を蹴とばした。 

「お願いします!お願いします!お願いします!お願いします!」 

 蹴とばされた男は、また和也の足にしがみついた。そしてまた懇願する、自分の運命を悟り恐怖を感じているのだろうか。 

「はあーーー、仕方ねえなーーー、めんどくせえなーーー」 

 和也は深いため息をついた。 

「すいません、本当に、本当に、許してください。」 

 男の目は涙に濡れ、鼻水が口の方まで流れている、まるで子供のようだ。 

「・・・もういいわお前」 

 和也は天井を見上げそう呟いた。 

「え?」 

 男は涙でぐしゃぐしゃに濡れた顏でキョトンとした表情をした。 

「・・・死ね」 

 冷徹な表情で和也は男にそう吐き捨てた。金のない奴はゴミ、生きる価値なんかない、死ねという言葉の裏にはそんな意味が隠されている。そんな気がしてならない。この男もまた、身体で金を返さなかった代償を払わされる事になる・・・。 

「・・・え?今、なんて?」 

 男は和也の言葉が聞き取れなかったのか聞き返してきた。聞くと一生後悔するとも知らずに。 

「なんだ?聞こえなかったのか?」 

 和也は男に言った。 

「は、はい・・・」と男は一言だけ言った・・・。 

「じゃあでかい声で言ってやるよ、おい、耳貸せ」 

 和也は手招きをして、自分に近寄らせ、男の頭を掴み、口を耳元に近付けた。 

「死~~~~~ね~~~~~よ~~~~ばぁぁ~~~~~かぁぁ~~~」 

 和也は男の鼓膜が破れる位の声量で叫んだ。 

「そんなぁ~~!あ、あなたには情けというものがないんですか!?あ、あんまりだ!」 


 男は再び涙を流しながら和也に言った。 

「うん、ねえな!情け?何?それ?お前みたいな奴に情けなんかかけたら、どうせ逃げるのがオチだ!」 

 和也は冷酷に吐き捨てた。 

「悪魔、悪魔だ!お前は悪魔だ!もういい!殺したければ殺せよ!!早くしろ!!」 


 男は半ば開き直ったかのように和也に言った。 

「そっか、じゃあお望み通り、遠慮なくやらせてもらうわ!」 

 そう言うと和也はズボンの後ろポケットから金槌を取り出した。 

「な、何をする気だよ!」 

 男が唇を震わせながら和也に言った。 

「うるせえな!黙って見てろよ!いいか!?動くなよ?」 

 和也はそう言うと男の足を押さえつけた。 

「や・・・やめろ!やめろぉぉ!」 

 男が恐怖のあまり叫び、床にへたり込んだまま後ずさりする、腰が抜けてしまっているのか男は立ち上がることが出来ない。 

「おいおい!逃げんじゃねえよ!めんどくせえ奴だな!」 

 和也は逃げる男を捕まえ、また足を押さえつけた・・・。 

「お願いします!殺さないで・・・し・・・死にたくない・・・」 

 男は先ほど言った言葉が嘘だったかのように今度は命乞いを始めた。 

「おい!さっき早く殺せって言ってなかったか?殺せって言ったり殺さないでっていったりどっちなんだよお前は!」 

 和也は冷徹な表情で男に語りかける。 

「そ、それは・・・」 

 男は言葉を詰まらせる。 

「まあいいわ、それよりほら、今度こそ動くなよ?動くと逆に痛いぞ?」 

 そういうと和也はまた男の足を押さえつけた。 

「や、やめろ!やめてくれ・・・頼むから!」 

 男は何度も何度も懇願する、だが和也はそんな男の言葉もどこ吹く風、全く耳を貸そうとしない。 

「はい!いくぞ~~~!せ〜の!ほら・・・」 

 そう言うと和也は持っている金槌を男の足めがけて勢いよく振り下ろした・・・。”ゴキッ”という鈍い音が静まり返った部屋の中に響く・・・。 

「うぎゃぁぁぁ~~~・・・あががが・・・」 

 男が悲鳴を上げ、そして苦悶の表情を浮かべる、人間の身体の構造では決して不可能な方向に足がねじ曲がっている。 

「はぁぁぁ~~~!オレの・・・オレの足が~~~!」 

 男が情けない声を出し泣き叫んでいる。 

「おいおい!そんな泣くことねえだろ!足がイカレたくらいで」 

 和也がニコニコと笑いながら男に語りかけた、もはや和也は人間の心を失ってしまっている・・・。 

「絶対に許さない、絶対に!殺してやる・・・地獄に堕ちろ!!」 

 男は涙目で和也を睨みつける。だがそんな言葉も和也には届かないだろう・・・。 

「はいはい、殺せるもんなら殺してみろよ、自分の立場分かってるのか?地獄に堕ちるのはお前だよ!」 

 和也は、金槌を男の手の前に投げた。そして中腰の姿勢で、手を男の前でパチパチと鳴らし始めた。 

「ほら、早く殺してみろよ、その金槌で殴り殺してみろ、ありゃ?どうしたその足!もしかして立てないか?あんよは上手、あんよは上手、ハハハハハ!」 

 和也は、床にうつ伏せで転がってる男を、嘲笑う・・・。 

「く!こ、この・・・」 

 金槌を握り、男は立ち上がろうとする、だが足に力が入らないため転んでしまった。男はまた床に這いつくばる。 

「バカが!」 

 男にそう吐き捨てると和也は携帯を取り出し、何処かに連絡をし始めた。 

「俺だ、すぐ来てくれ、2丁目の例の男の家だ、あぁ、頼む」 

 和也は電話を切った。 

「おい!何処に電話したんだよ!」 

 男が和也に問いかけた。 

「すぐ分かるさ、お前の人生のなかで最高の出来事になるだろうな、フフ」 

 和也は不敵な笑みを浮かべた。 

「・・・オレは死ぬんだな」
 

 男がぽつりと呟き、人生の最後を悟った・・・。もう逃げられない、このままこいつに・・・男の目から光が完全に消え去った。 

「さあな、あいつらが来るまでのお楽しみだ、来るまで話でもしようか?」
 

 和也が男に言った。 

「ああ、いいよ・・・どうせ最後だし、最後に喋るのがお前みたいな人間のクズなんてオレって本当ついてないわ・・・なんでオレはいつもこうなんだろ・・・」 

 男が和也に嫌味ったらしく言った・・・。 

「フッ、クズって随分な言い方だな、まぁ否定はしないけどな」 

 嫌味を言われたにも関わらず、何故か和也は嬉しそうだ。 

「あんた、なんでこんな仕事してるんだ?」と男が和也に聞く。 

「あ?知るかよ!気が付いたらこの仕事やってたって感じだよ」 

 和也が素っ気ない返事をする。 

「あんた子供はいるのか?結婚は?」 

 男が間髪入れずに和也に質問を投げかけてくる。 

「子供?いねえよそんなもん!結婚なんかだるいだけだろ!オレは生まれてからずっと独りだ・・・」 和也は男に対し、少し迷惑そうな顏をして答えた。 

「え?独り?」 

 男が少し怪訝そうな顏をして聞き返してきた。 

「あぁ・・・幼い頃に母親に捨てられてそこから施設で育ったんだ」 

 和也は男に自身の身の上を話し出す・・・。 

「そうなのか?父親は?」 

 男が若干食い気味で和也に話しかける。 

「父親?知らねえな、顏も見たことねえし、生きてるのかも分からねえよ、今頃どっかで野垂れ死んでるんじゃねえか」 

 和也は少しイライラ気味で男に言った。 

「そうだったんだな・・・」 

 男は少し和也を憐れむような目で見た。 

「おい!何だその目は」 

「あ!い、いや何でもない!」 

 和也に威圧され、男は咄嗟に目を逸らす。 

「てか、お前オレの事ばかり聞いてないで自分の事も教えろよ!」
 

 和也はもうこれ以上自分の話をするのが嫌なのか、男の身の上話に話題を変えようとした。 

「あぁ、そうだな、まぁオレもあんたと同じようなもんだな・・・」 

 どうやら男も和也とにたような境遇らしい、淡々と話し始めた。 

「あんた幼い頃に母親に捨てられたと言ってたよな?実はオレも小学生の頃、父親の暴力が原因で両親が離婚してるんだ・・・オレは母親に引き取られ高校まで母親と過ごした。高校卒業後にオレは小さい頃から音楽が好きだったから、ミュージシャンとして成功するのを夢見て東京に上京した。母親には反対されたけどな、それでアルバイトをいくつも掛け持ちしながら音楽活動をしていたけど、誰もオレの作る音楽に興味を示してくれない、アルバイトでなんとか食いつないでいたけど、生活はいつもギリギリ、それでつい出来心であんたの所で金を借りて・・・今はこのざまだよ・・・ハハハ・・・笑えるだろ?」 

 男は自身の不幸な境遇を和也にすべて打ち明けた。目には全く力はない・・・。 

「・・・そうか・・・だが一つだけお前とオレでは決定的に違う所が一つだけあるぞ・・・」 

 和也は男に言った。 

「違う所?なんだ?」 

 男が不思議そうな顔で和也に聞いた。 

「お前には・・・まだ母親がいるだろ?生きてるんだろ?」 

 一言だけ和也は男に尋ねた。 

「あ、あぁ、まぁ生きてるよ」 

 男にはまだ母親がいるようだ、自分を愛してくれる母親が。 

「オレは独りだった・・・ずっとな、母親や父親という存在も知らず・・・誰からも愛されずオレは今まで生きてきた。それに比べたらお前はまだ幸せ者だよ・・・」 

 男に諭すように和也は淡々と話した。 

「あ、あぁ・・・そう言われると、そうかもな」 

 男は少し気まずそうに言った。 

 和也と男が話し始めてから数分経った頃、ピンポーンと男の家のインターホンが鳴る、和也がドアを開けるとそこにはスーツ姿の男3人が立っていた。 

「お疲れ様です、和也さん。」 

 スーツの男の一人が和也に軽く会釈しながら挨拶をする。 

「あぁ、早速こいつを連れていけ、誰にも見られるなよ」 

 挨拶もそこそこに和也はスーツの男たちに指示を出す。 

「ふ、オレももう終わりか・・・」 

 男はもう観念したのか一言だけ言い俯いてしまった。 

「少しの間だけど話ができて良かったよ・・・。」 

 和也は男にそう言った。それが本心かどうかは分からないが。 

「あんた、名前は?」 

 男はもう二度と会う事もないであろう和也の名前を聞いてきた。 

「・・・和也だよ」 

 和也は冷たく言い放った。 

 一通り会話が終わると、スーツの男たちが、床に座っている男を雑に抱えて歩き出した。男は足が痛むのか苦悶の表情を浮かべながら立ち上がる。そしてスーツの男たちに連れられどこかへ消えていった。その姿を和也はじっと見つめるだけで言葉は一言も発しなかった・・・。 

 おそらく連れていかれた男は事故か何かに見せかけて命を奪われる事だろう・・・そしてその体で借金を返済する。男の命は金に変えられるのだ・・・。 

 数分後、和也は男の家を後にするため玄関から出ようとした、その時家の奥の方からガタっと何かが倒れる音がした。 

「誰だ!誰かいるのか!?」 

 和也は音のした方へ目を向けたが人の気配はない、どうやら気のせいだったようだ、こういう仕事をしていると神経が過敏に反応するから聞き間違ったのだろう、和也は気にせず玄関を出てアパートの階段をゆっくりと降りて行った。 

 男の住んでいたアパートを出てからしばらく経った頃、和也は歩みを止め、電柱にもたれかかり、煙草に火をつけ、電柱に体を預けたまま、フーっと息を吐き、空を見上げる。煙草の煙がゆらゆらと揺れながら宙に舞い消えていく、空は、和也の汚れた心の投影かのように、どんよりとした分厚く薄暗い雲に覆われている。 

”にゃあー” 

 ぼんやりと空を眺めていたら、猫の鳴き声が聞こえた。和也が鳴き声の方に目をやると、1匹の生後間もない子猫が、おぼつかない足取りで歩いてるのが見えた。母猫とはぐれたのだろう、その子猫は、そのままフラフラと和也の所にまで歩いてきて、和也の足元にすり寄ってきた。 

 和也は、その子猫の頭を優しく撫でた。 

「お前も独りか?俺もだ・・・」 

 野良の子猫と同じ境遇、和也は少し惨めな気持ちになった。 

 子猫の元を離れ、煙草を電柱に押し付けて消し、歩き出そうとする和也。
 

 ”コツ、コツ、コツ、コツ、コツ” 

 ハイヒールの音がすぐ後ろで響く。 

「和也・・・」 

突然後ろから名前を呼ぶ声が聞こえ、和也は立ち止まりゆっくりと振り向いた。そこには見慣れない一人の女が和也の前に立っている、年齢にして50代位だろうか、明らかに中年の女性だ。 

「誰だ?お前」 

 和也は眉間にしわを寄せながら女に話しかけた。 

「和也、和也なんでしょ・・・?」 

 4章~良子(よしこ)~ 


 どうやらその女は和也の事を知っているようだ・・・一体この女は誰なのだろうか・・・。 

「何処かで会ったか?」 

 以前この女に会ったことある?そう思った和也は女に聞いてみた。すると女からは・・・。 

「えぇ・・・もちろん会っているわ・・・覚えてなくても無理もないわね・・・赤ん坊の頃に別れたきりですもの・・・」 

 女からは意味深な言葉が帰ってきた・・・。 

「何言ってんだ?お前・・・」 

 和也は女を睨みつける。 

「そんな怖い顔しないでよ、大きくなったわね・・・」 

 女は優しい笑顔を見せる。 

「おい!お前!赤ん坊の頃に別れたと言ったな?まさか!お前・・・」 

 和也は全てを悟ったかのように言った・・・。 

「そう、私はあなたにとってたった1人の存在、私はあなたの母親よ・・・」 

 女の口から衝撃的な言葉が走る・・・。 

 この目の前にいる女が・・・和也の母親・・・和也は言葉を失いただ茫然と立ち尽くす事しか出来なかった・・・。 

「お・・・お前が、俺の母親・・・?」 

 和也は事態が上手く呑み込めていないようだ・・・それもそのはず・・・何故なら目の前に自分を捨てた母親が立っているのだから・・・。 

「ごめんね和也、あなたを捨てて・・・寂しい想いをさせて・・・本当にごめんなさい・・・」 

 和也の母親と思われる女は涙ながらに和也に謝った。 

「何なんだてめえ・・・?俺を捨てておいて、今頃ひょっこり現れて!母親だ?ふざけんな!」 

 和也は怒りを露わにし女を罵った・・・和也が怒るのも無理はないだろう・・・自分を捨て長い間放っておいて、のこのこ現れて母親だと名乗られても素直に受け入れるなんてできるはずがない。 

「・・・和也」 

 女は悲しそうな目で和也を見た。 

「気安く呼ぶんじゃねぇ!!俺に母親なんかいねぇ!とっとと失せろ!!」 

 和也は罵声を浴びせ、詰め寄り、女を追い払おうとした。 

「和也・・・聞いて、確かに私はあなたを捨てたわ・・・あなたが生まれる前に死んでしまったお父さんが残した借金が原因で経済的にあなたを育てる事が出来なかったの・・・ただ・・・あなたを捨ててから今の今までずっとあなたを思ってきた・・・私の身勝手な理由であなたを手放してしまった事をずっと後悔していたの・・・だからお願い・・・今まであなたに辛い思いをさせてきた分、これから私が母親として一生懸命あなたに尽くすから、だからお願い・・・私を見捨てないで」 

 例え事情があったとしても、この世でたった一人の子供である和也を捨てた事には変わりない・・・あまりにも虫が良すぎる、そう思いながら和也は拳を握りしめる、怒りがまるでやかんの中で沸騰したお湯のように、心の奥底からふつふつと湧いてくるのを感じている。 

「おい!失せろって言っただろ!俺に殴り殺されたくなかったらさっさと消えた方がいいぞ?」 

 じっと女の目を見て、和也が顔を真っ赤にし威圧するような感じで言った。 

「分かったわ、そうよね、あなたを捨てた母親をすぐに受け入れる事なんてできないわよね、ごめんね・・・」 

 そういうと女はゆっくりと和也に背を向け寂しそうに歩き出した。 

「2度と俺の前に現れるな!」 

 女の背中が小さくなっていくのを和也はただただ黙って見ていた・・・。女の姿が完全に見えなくなってから和也もゆっくりと歩き出す。 

「チッ!何なんだあのババア!母親?よく俺の前に顔を出せたもんだな、舐めやがって!」 

 ぶつぶつと愚痴をこぼす和也、イライラが収まらず、道端に転がる空き缶を道路側に思い切り蹴とばす。やがて事務所に着き乱暴にドアを開けた。 

「ハア~、只今戻りました・・・」 

 深いため息をつきながら和也はソファーに腰掛ける。 

「ん?どうした?なんかイライラしてるみたいだな、何かあったのか?」 

 和也の世話をしてる男が和也の様子がいつもと違うのを察し和也に話しかける。 

「いえ、何でもないです・・・」 

 和也は言葉を濁しごまかそうとした。 

「嘘つけ、お前はすぐ態度が顔に出るからな、話してみろ」 

 上手くごまかそうとしたが男にはばれているようで、和也は観念して男に話すことにした。 

「実は、取り立てが終わって帰る頃、1人の女に話しかけられたんです、そしたら・・・その女俺の事知ってて、誰だ?って聞いたら・・・俺の母親だって言うんですよ・・・今まで俺に辛い思いさせた分母親として一生懸命尽くすなんて抜かしやがったんです。言うだけ言わせて追っ払ってやりましたがね、そんな話信じられないし今更現れて何ふざけた事言ってやがるんだと思ってムカついてしまって・・・」 

 和也は母親と出会ったいきさつを男に打ち明けた。 

 男は小さく頷きながら「そうか・・・」とだけ言いそれ以上深くは聞いてこなかった・・・和也の素性は良く理解しているしあまり深く詮索するのは良くないと感じたのだろう、しばらく事務所内に気まずい空気が流れる・・・。 

「どうしたらいいですかね?俺・・・てか今の話聞いてどう思います?」 

 和也が突然口を開いた。そして男にアドバイスを求める、和也一人でこの問題に向き合う勇気がないのだろう。 

「確かに母親はお前に酷い仕打ちをしたのかもしれない、でもな和也、何十年も経ってお前に会いに来るという事はそれだけお前を思っている証拠なんじゃないか?きっとお前の母親も今までずっと後悔をしてきたんだろう、こんな事言ったらお前は怒るかもしれないが敢えて言うぞ、オレはお前が羨ましい、オレもお前と同じような境遇だったからな・・・まぁオレの場合、母親も父親も会いに来てくれなかったけどな、和也・・・お前もいい大人だ、腹が立つのは分かるが、一旦この事実を受け止めて、意地を張らず母親と向き合ってみてもいいんじゃないか?」 

 男は自分の境遇を和也に重ねているのだろうか、和也には自分と同じ思いはしてほしくない、和也に対する男の優しさだろう。 

「言ってることは分かりますけど、今更何を話せば・・・」 

 男の言葉を聞いて和也は少し躊躇った。 

「今まで何をしてたのか?とか、何処に住んでるんだ?とか最初は適当な話題でいいだろ、徐々に慣れていけばいい、お前、母親に会って少し動揺してるな?」 

 男は和也の心情の変化を見逃さなかった・・・。 

「え?まぁ、いきなり現れればそりゃぁ・・・」 

和也は小さい声でモゴモゴと喋る。 

「まあ、焦らずじっくり話あっていく事だな!」 

 男は、ソファーに座っている和也の背後に立ち、和也の両肩に手をやり、軽く揉んで和ませようとした。 

 そんな会話をしていると、事務所のドアがコンコンと鳴る、和也は音のしたドアへ向かいゆっくりと開けた。 

「お、お前・・・」 

 和也は唖然とした、ドアの向こうに立っていたのはあの女・・・和也の母親だった。 

「和也、また会ったわね、ビックリした?」 

 女がニコニコと微笑んで立っている。 

「お前、つけてきたのか?」 

 和也が女に尋ねる。 

「えぇ、ごめんなさい」 

 女は素直に答えた。 

「おい、和也どうした?ん?あんたは?」 

 男が女に話しかける。 

「はじめまして、和也の母親です、いつも和也がお世話になっております。」 

 女が男に会釈をし挨拶をする。 

「帰れ!」と事務所内に響く怒号で和也は女を叱責した。 

「おい!和也!そんな言い方ねえだろ!せっかく会いに来てくれたんだぞ!」 

 男は和也の頭を軽く叩く、そして和也を押しのけて女を事務所内に招き入れた。 

 事務所のソファーに和也が腰掛け女がその隣に座る、和也は凄く嫌そうな顔をしている、その反対側に男が座る、事務所内にはしばしの沈黙が流れる・・・その沈黙を破るかのように男が口を開いた。 

「そういえば、あんた名前は何て言うんだ?」 

 男が女に名前を尋ねる。 

「はい、良子(よしこ)って言います。」 

 名前を名乗ると女は和也の方を向き微笑む、まるでよろしくねと言わんばかりに、その態度が和也をさらに苛立たせる、和也は腕を組み俯いた。 

「おい!和也!さっきからずっと黙ってばかりだな、せっかく母親と再開したんだから少しは話したらどうだ!」 

 男は和也を煽る、男に言われ和也は少し迷惑そうだ。 

「あんた・・・俺を捨てた後今まで何してたんだ?」 

 和也は渋々口を開いた。顔は俯いたまま、目を合わせようとはしない。 

「私?赤ん坊だったあなたを施設に預けてから罪悪感を抱えながらひっそりと生きてきたわ・・・そしてパートを転々としながら細々と暮らしていたわね・・・そして今の今まであなたの事をずっと考えて暮らしていたわ・・・再婚もせず・・・たった一人で生きてきた」 

 どうやら良子も和也同様孤独だったようだ・・・和也を捨てたその罪悪感から自らが幸せになる事を拒み続けて生き、そして孤独な人生を生きる事を選択した、そんな所だろうか。 

「あんた・・・今どこに住んでるんだ?」 

 男が良子に尋ねる。 

「私ですか?今は2丁目の狭いアパートに一人で住んでいます。」 

 2丁目の狭いアパート?2丁目と言えば、さっき借金の取り立てをした男と同じ場所、しかもアパートと言うのも同じ、良子もあのアパートの住人?和也の住んでいる家からも遠くはない、良子は意外にも近くに住んでいた。母親が意外にも近くに住んでいた事に関して、和也は少し驚いた。 

「あんた、せっかく息子に会えたんだ、この和也と一緒に暮らしたらどうだ?昔あんたが犯した罪を清算する意味でも」 

 男が突拍子もない事を言い出した。何言ってるんだこいつはと言わんばかりに和也は男を睨む。 

(そもそも俺達のがもっとヤバい罪を犯してるだろ・・・自分らの事を棚に上げて罪の清算だなんてよく言うよ・・・)と和也は喉元まで出かかった言葉をこらえ、心の中で呟いた。 

「罪の清算・・・?」 

 良子が、首を傾げ怪訝な表情をしてみせた。 

「あぁ、事情があったにせよ、和也を幼い頃捨てたという事実は変わらないんだ、今母親として義務を果たしてもいいんじゃないか?和也は成長しているが、あんたの子供である事に変わりない」 

 男が、良子に説教臭い言葉を吐く。 

「ちょっと!!勝手に話を進めないでくださいよ!何言ってるんですか!俺は絶対に嫌ですよ!死んでもごめんです!」 

 2人の話に割って入るように、和也が全力で拒否をする、そんな和也の姿を見て良子は少し悲しそうだ。 

「和也・・・確かにお前は母親であるこの人を憎んでいるかもしれないがな、憎み続けても何も変わらないんじゃないか・・・?逃げずに向き合うべきだと思うがな」 

 男は和也と良子の関係を修復しようとしてるのか、和也を説得する。 

「冗談じゃねえよ!!今更母親面されたって納得出来るわけねえだろ!!ふざけんな!」 


 和也は怒りを露わにし、事務所を出ていった。バタンと大きな音を立てドアが閉まる、どうやら男の目論見が裏目に出てしまったようだ、余計なお世話、例えるなら食後にごちそうを振る舞われるようなものだ、男はソファーに座ったまま腕を組み俯いてしまった。 

「和也!待って!」 

 良子が和也を追いかけ和也の腕を掴み呼び止める。 

「さわんじゃねぇ!クソ野郎!」 

和也が激しく拒否し腕を振り払う、そして良子の顏も見ずにまたすたすたと歩き出す。 


 良子は、和也の後ろを何も言わずについていく、和也がイライラしているせいか良子は少しおどおどしている、コツ、コツ、と良子の履いているヒールの音が和也の後ろで響く。 

「おい!何で付いてくるんだ!?」 

 和也が振り向き良子に話しかける、眉間にしわを寄せ嫌悪感を露わにしている。 

「何でって・・・さっき事務所にいた和也の上司の方が言っていたでしょ?私と一緒に暮らせって・・・だから和也の家に一緒に行こうと思って・・・いいでしょ?」 

 良子はさも当たり前かのように堂々と答えた。 

「バカか?一緒に暮らすなんてできるわけねえだろ!さっさと自分の家に帰れ!」 


 和也は冷たく突き放す。 


 そんな会話をしているうちにどのくらいの時間が過ぎたのだろうか、和也はいつの間にか自分の家の前に着いていた。良子の方は、まだ和也の後ろにいる。 

「いい加減にしろよ!コソコソ付いてきやがって!言っとくけどな、お前を家の中に入れる気はないからな!俺はこれからも1人で生きていくんだ!お前なんか邪魔なだけだ!」 


 そう吐き捨てると和也は玄関の鍵を開け中に入ろうとした。 


 ドアを閉めようとした瞬間、いきなり良子がドアの間に手を入れ中に入ろうとした、ドアの間に指が挟まり良子が「ウッ」とうめき声を上げた。 

「おい!何やってんだバカ!」 


 和也がドアを開け良子を突き飛ばし、その拍子で良子は尻もちをつく、ドアに挟まれたせいか良子の指からは血がポタポタと垂れている。 

「帰れ!」 


 そう言うと和也は乱暴にドアを閉めた、良子はケガした指を握りただ呆然と座る事しか出来なかった。 


 和也が良子と出会ってから数時間が経過し、外はすっかり夜になり、辺りは闇に包まれる。和也は近くのコンビニで酒を買うため家を出た。玄関のドアを開けるとさすがに良子の姿はなくなっていた。 


 階段をゆっくり降りていくと踊り場に何やら丸くて黒い塊が見える、暗闇で良く見えないが、目が慣れてくるとそれが何なのかが分かった、どうやら人のようだ、踊り場でうずくまっている感じだ、誰かは分からない・・・。 


 和也が恐る恐る近づいていくと、丸い塊のように見える人が、立ち上がり縦長の形に姿を変える、そしてゆっくりと顔を上げ和也の方を振り向く・・・その顔を見て和也は驚いて体がビクっと反応してしまった。 


 驚くのも無理はない、そこには、顏に生気がなく、まるで人形のような目をし、和也をじっと見つめている良子の姿があった・・・。和也の全身から悪寒が走る、二人の間にしばしの沈黙の時間が流れる・・・。 

「お前・・・ずっとここにいたのか?」 


 ようやく和也が口を開く、すると良子は小さく頷いた。 

「和也、しつこいと思うかも知れないけど、私はやはりあなたと暮らしたい、今まであなたに寂しい想いをさせた分償いをさせてほしい、どうしても諦められないの」 


 良子は目に涙を浮かべながら和也に想いをぶつけた。涙が目の下に溜まり、ゼリーのようにふるふると揺れる、和也は反論することなくただ黙って良子の話を聞いた。 


 すると和也は、良子にゆっくりと近づき「ついてこい・・・」と一言だけ言って家に戻って行く。 

良子は和也に言われるがまま和也の後をついていく。 


 和也は家のドアを開けた後に「入れ」といい良子を招き入れる、良子の涙を見て少し心が揺らいだのだろうか、家に入ると和也は良子をリビングのソファーに座らせた。 

「ありがとう和也、私を信じてくれて」 


 そう言うと良子は和也にペコペコと頭を下げた。 

「勘違いするな、俺はお前を信用したわけじゃない・・・」 


 相変わらず和也の口調は冷たい、まだ心は閉じたままだ。 

「じゃあ何故家に入れてくれたの?」 


 良子が和也に尋ねた。確かに信用してないのであれば家に入れるはずがない、何か意図があるのだろうか。 

「お前・・・俺に何でもすると言ったよな・・・?」 


 急に和也が怖い顔になった・・・何を考えているのだろう・・・。 

「え・・・えぇ・・・何でもするわよ、母親だもの」 

 良子の顏が強張る、和也を少し怖がっているようだ・・・。 

「俺に何ができる?」 


 和也が良子に意味深な質問をぶつけた。 

「な・・・何って・・・例えばご飯を作ったり、家の掃除したり、洗濯したり、あなたと買い物に行ったり・・・」 


 良子がつらつらと述べていると。 

「それだけか・・・?」 


 和也がかぶせ気味にまた質問をぶつけてきた。 

「他に何かしてほしい事があるの?」 


 良子が和也に尋ねた途端・・・急に和也が良子に抱きつき押し倒してきた・・・。 

「きゃあ!何!?和也?」 


 良子が悲鳴を上げる、咄嗟の事で体が硬直してしまっている。 

「大人しくしてろ・・・」 


 そう言うと和也は良子の服の上から胸を触り乱暴に揉みだした・・・どうやら良子と性行為をする気みたいだ・・・。 

「嫌!和也!それはダメよ!それだけはできないわ!私たち親子なのよ!」 


 硬直してしまった良子は我に返り激しく抵抗する・・・足をバタつかせ胸を揉んでいる和也の手を必死で払いのけようとする・・・しかし所詮は女性、男の力に敵うわけがない・・・。 

「お願い!和也!やめてぇー!」 


 良子は必死で懇願するが和也はやめる素振りは一切見せない・・・。 

「はぁ・・・はぁ・・・はぁ・・・」 


 和也の荒い鼻息が聞こえる・・・。そして和也は良子の服を破る・・・すると良子の付けているブラが露わになる・・・和也の鼻息は一層荒くなった・・・。 

「いやぁぁぁぁ!」 


 部屋中に響く大声で良子は泣き叫ぶ・・・。 


 すると良子と和也の間に一瞬隙間ができた、良子はその隙間に足を入れ思い切り和也を蹴り飛ばした。和也は蹴り飛ばされた拍子にテーブルに頭をぶつけた。 

「う・・・」 


 和也が小さなうめき声を上げる。 

「何てこと・・・何て事をするの!和也!」 


 良子は立ち上がり、破られ露わになったブラを隠し、目に涙を浮かべながら和也に怒りをぶつける。 

「・・・からねえんだよ」 


 和也が声を振り絞って何か言っている。 

「え?」 


 良子が聞き返す。 

「分からねえんだよ!!」 


 和也が大声で叫ぶ・・・。 

「分からないって、何が分からないの?何を言ってるの?」 


 良子がテーブルのそばでうなだれている和也にそっと近づき尋ねる。 

「愛ってもんが分からねえんだよ!今お前にやった事、これが愛じゃねえのか?何で拒否すんだよ!本当の愛って一体何なんだ・・・?お・・・教えてくれよ・・・どうしたらいいんだよ!」 


 どうやら和也は母親という存在に出会い、母親の愛というのを確かめるためにこのような行動にでたのだ、しかし、これは愛ではない、ただの暴力だ・・・。愛と暴力は決して調和はしない。 

「和也・・・ごめんね・・・」 


 この哀れな和也の姿を見て良子は必死で謝り、そして精一杯の愛を込めて和也を力いっぱい抱きしめた・・・。 


 和也は良子の胸の中で幼い子供みたいに泣いた・・・。そんな和也を、まるで聖母マリアみたいに良子は優しく包み込む・・・。薄暗い部屋の電気が2人を照らす。 


 5章~平穏な日々~ 


 泣いて少し落ち着いたのか、さっきまであれほど取り乱していた和也は落ち着きを取り戻していた。2人はソファーに座りお互い向かい合って座っている。 

「さっきは悪かった、大丈夫か?」 


 気まずい空気を切り裂くように、和也が口を開き、良子にさっきの行為を謝る、和也が人に謝るなんて滅多にない。 

「いいのよ、少しビックリしちゃったわ」 


 良子が優しく微笑む、さっきまでの怒りが嘘のようだ、今はかなり穏やかになっている。 

「その破った服、明日代わりのやつなんか買ってくるよ」 


 和也がすまなそうに良子に言った。 

「うん、ありがとう、着替え持ってくればよかったな、この服しか持って来なかったの」 


 良子が、服の破れた部分をひらひらさせながら言った。 

「本当に悪かった、ちょっと待っててくれ」 


 そう言うと和也は、隣の部屋にあるタンスから黒いジャージを持ってきた。 

「明日代わりの服を買うまでこれで我慢してくれ」 


 和也はそのジャージを良子に手渡した。 

「ありがとう、でも、サイズ合うかしら」 


 そう言うと良子は、おもむろに服を脱ぎだした。 

「お・・・おい!ここで脱ぐなよ!隣の部屋で着替えろ」 


 和也が焦りだし反対側に体を向けた。 

「あら、何照れてるの?さっき私の胸見たくせに、フフ」 


 良子がさっきの事を冗談交じりに言って和也をいじりだす、良子はなかなかタフな女性だ。 

「だから・・・悪かったって言ってるだろ・・・」 


 さすがの和也もタジタジだ、体を反対側に向けたまま顔を下に向けている。 

「さあ、もういいわよ」 


 良子の着替えが終わった。 

「あ・・・あぁ」 


 和也はゆっくり振り向いた。 

「どう?似合うかしら?」 


 和也のジャージを着ている良子は和也に向けておどけたポーズをしてみせる、男性用のジャージだけあって下が少しダボダボしていて手が袖から出ていない。 

「いい年して何やってんだ、バカか」 


 ポーズをとっている良子に対して和也は冷たい態度をとる。 

「あら、随分冷たいのね、傷ついちゃうわ」 


 良子がニヤニヤ笑いながら和也をからかうように言った。 

「はぁ~・・・ったく」 


 和也は大きなため息をつく、良子に少し呆れてるみたいだ。 

「それはそうと和也、あなたご飯食べてないでしょ?もう夜も遅いけど何か作ろうか?」 


 良子は和也にご飯を作ろうとしてるみたいだ、和也にとっておふくろの味を初めて味わえる機会だ。「いらねえよ・・・腹減ってないし」 


 和也はせっかくの良子の申し出を断る、すると和也は冷蔵庫の前に行き、中に入っているウィスキーの瓶とグラスを持ってきた。 

「あら、一人で飲む気なの?ずるいわね」 


 どうやら良子も飲みたいようだ。 

「お前酒飲めるのか?」 


 和也が良子に尋ねる。 

「えぇ、もちろん!」 


 良子が自慢気に和也に言った。むしろ和也より飲めるわよと言わんばかりに。 

「ちょっと待ってろ」 


 そういうと和也は台所にあるグラスを持ってきて良子に手渡す、そして良子の持ってるグラスにウィスキーを注ぐ。 

「ありがとう」 


 良子が和也に笑顔でお礼を言う、その笑顔を見て和也は少し照れくさそうだ、和也も自分のグラスにウィスキーを注ぐ。 

「はい!カンパーイ」 


 いきなり良子が大きな声を出し和也の前にグラスを差し出す。 

「・・・何の乾杯だよ」 


 冷静に突っ込む和也。 

「何の?決まってるじゃないの!私たち親子の再会によ」 


 良子が弾けるような笑顔で和也に言った。和也に追い出されてこの世の終わりみたいな顔をしていた時とはまるで別人だ、言い方は悪いが少し図々しい気もする。 

「今までずっと放っておいたくせによくぬけぬけと言えるな・・・ある意味尊敬するわ」 


 ぶつぶつと文句を言う和也、だがそんな和也の事なんかお構いなしに良子はグラスを差し出す。 

「ほら!和也!早く!」 


 良子が和也をこれでもかと煽る。 

「はいはい、分かりましたよ!乾杯!」 


 和也が投げやりな感じで良子のグラスに自分のグラスを差し出す、”カキン”とグラスのぶつかる音がした、そしてその後良子はグラスに注がれているウィスキーを一気に飲み干す、ゴクゴクと喉にウィスキーが流れる音がする、凄い飲みっぷりだ、和也は少し呆気にとられてしまった。 

「はぁ〜最高!幸せ!」 


 良子が天井を見上げ恍惚の表情を浮かべる、よほど酒が好きらしい。 

「も・・・もう1杯飲むか?」 


 和也が呆気にとられながらもウィスキーのボトルを良子に差し出す。 

「うん!お願い!」 


 満面の笑みで良子は和也にウィスキーをついでもらう。そして入れてもらってからまたも豪快にゴクゴクと飲み始める。 


 そんな良子を見ながら和也もちびちびとウィスキーを飲み始める。良子に圧倒されているせいか飲むペースが遅い。 

「何かウィスキーだけっていうのも味気ないわよね?和也、なんかおつまみみたいなのないの?」 


 どうやら完全に良子のスイッチがオンになってしまったようだ・・・和也におつまみをねだり始める始末・・・和也はもう言葉が出なくなってしまった。良子に言われると和也は台所の近くにある冷蔵庫に行き、買い置きしていたチーズ、ジャーキー、さきいか、ソーセージの詰め合わせなどを適当に皿に並べ良子の前に置いた。 

「あら、ありがとう和也、やっぱりお酒だけだと口が寂しくなるわよね、フフ」 


 良子の頬はほんのり赤くなっている、完全に飲んべえだ・・・もう制御できそうもない・・・。 

「お前・・・夜はいつもこんななのか・・・?」 


 和也が呆れながら良子に尋ねる。 

「そうよ、あなたと離れていた時もよく一人で飲んでいたわね」 


 酔っているせいか良子の口調が少し甲高くなっている、そして上機嫌でつまみを食べながらウィスキーを飲んでいる。すると突然良子のグラスを持つ手がピタッと止まる・・・。そして急にグラスをテーブルの上に置いた。 

「ただね・・・一人で飲んでいた時もどうしても和也の事が頭から離れなかったわ・・・どんなにお酒を飲んで酔っぱらっても・・・忘れようとしても・・・考えるのは和也の事ばかり・・・」 


 さっきまでの元気が急になくなり真剣な顏になった。和也は良子の感情の落差に少し戸惑った。 

「そうか・・・」と和也は一言だけ言った後は何も言わなかった・・・。出会った当初は良子を殺したいほど憎んでいた・・・だが和也が辛い思いをしていたのと同じように良子も和也を捨てた罪悪感に苛まれ今まで苦しんでいたのだろう・・・そう思うと和也は責めるに責めれなかった・・・。 

「今・・・どんな気分だ?」 


 和也が良子に一言だけ問う。 

「そうね・・・」と良子が言うとしばしの沈黙が流れる・・・すると突然良子が・・・。 

「サイコー!!」といきなり叫びだしテーブルに置いてあったグラスを持ち天高く突き上げた。 

「はぁ!?何言ってんだお前!」と和也は目を丸くしながら言った。 

「だって、ずっと生き別れだった息子と再会できたのよ?サイコーじゃない」 


 弾ける笑顔を見せる良子、和也の方は口を半開きにしてポカーンとしている。 

「お前!さっきからふざけてんのか!?それとも俺をバカにしてるのか!?」 


 ポカーンとしていたが、冷静になった途端怒りが湧いてきたのか和也は良子に怒りをぶつける。 

「あら?何を怒ってるの?別にバカになんかしてないわよ、そんな怒るといい男が台無しよ、フフ」 


 ニヤニヤしながら喋る良子の態度に腹が立ったのか和也は「もういい・・・」とだけ言い残しグラスをテーブルに置きベッドが置いてある奥の部屋に入っていった。ドアをバタンと乱暴に閉める。 

「ちょっと!和也!ねえってば!」 


 良子は和也が入っていった部屋の前に行きコンコンとノックするが部屋の向こう側から「うるせえ!」とだけ返ってきた。和也は本気で怒っているようだ。 

「もう・・・そんなに怒る事ないじゃない、眠くなっちゃったから私も寝ようかしら、片付けは明日でいいわよね」 


 そう言うと良子は、グラスに少しだけ残っているウィスキーをクイっと飲み干すとソファーに寝転がった。一方の和也は・・・。 

「マジで何なんだあいつは、ふざけやがって、こんなことなら家に入れるんじゃなかったぜ、ついてねぇ・・・」 


 和也はベッドの中で天井を見上げながらぶつぶつと愚痴をこぼす、「クソッ!」と一言だけ言った後布団を頭まで被る、そしてそのまま眠りについた。 


 良子の方はというと、ソファーですやすやと寝息をたてて眠っている、もう朝まで起きそうにない。 

ただ、その寝顔はどこか哀しげだ・・・。 

「信二・・・信二・・・」 


 良子は寝言で誰かの名前を呼んでいる、和也の名前ではない、信二・・・おそらく死んだ夫の事だろう。 


 和也と良子が眠りについてから数時間が経ち、外はうっすら明るくなってきた。外で雀がチュンチュンと鳴いている。 

 雀の鳴き声が目覚まし時計代わりとなり、ソファーから良子が起きゆっくりと体を起こす、「う〜ん・・・」と唸りながら頭を押さえている。軽い二日酔いみたいだ。ゆっくりと立ち上がると、散らかっているテーブルの上を手際よく片付ける。 


 良子が片付けをしてる最中、ガチャっとドアの開く音がし、寝ぼけ眼の和也が起きてきた。寝癖で髪がぼさぼさだ。 

「あら、おはよう和也」 


 良子が笑顔で和也に朝の挨拶をする。 

「ああ・・・」と和也は素っ気ない返事をする。 


 挨拶もそこそこに、和也は洗面所に行き洗顔をする、良子の方はテーブルの片付けが終わり今度は台所へと向かう、朝食の支度をするようだ。 


 洗顔が終わり和也が戻ってくると、朝食の支度をしている良子が目に入る、和也は何も言わずソファーにゆっくりと腰掛ける。 


 部屋中に香ばしい匂いが立ちこめ、味噌汁の匂いもする。その匂いを嗅いで和也の腹がぎゅるると鳴る。 


 数分後、「お待たせ」と良子がニコニコと優しい笑顔で朝食を持ってきた。ご飯、味噌汁、目玉焼きとどこの家庭でもでるようなありふれた物ばかりだが、和也にとっては新鮮だった。 

「冷めないうちに食べなさい」 


 和也に優しい言葉をかける良子。 

「あ、ああ・・・悪いな」 


 照れくさそうに和也は言った。 


 味噌汁を一口すすると、和也は「旨い・・・」と良子に聞こえない声でボソッと呟いた。そして目玉焼きをご飯の上に乗せがつがつとかきこむ。 

「勝手に冷蔵庫の物使ってごめんね、あるもので作っちゃったけどおいしい?」 


 良子はテーブルに頬杖をつきながら和也の事を見ている。 

「まあまあだな・・・」 


 和也はツンとした態度で言った。本当は旨いのに素直に言えない自分にもどかしさを感じていた。 

「素直じゃないわね、本当は美味しいんでしょ?」 


 良子に言われて和也はドキっとした。さすが母親と言ったところか、和也の気持ちをすべて見透かしているようだ。 


 和也が朝食をすべて平らげると、良子は食器を片付け台所で洗い始める、その間に和也は身支度を整え仕事に行く準備をする。 

「ねえ和也、あなた仕事は何をしているの?」 


 ガチャガチャと食器を洗いながら良子は和也に尋ねる。 

「俺の仕事・・・?それは・・・」 


 良子の質問に対して和也は言葉に詰まってしまった・・・実の母親に借金取りだなんて素直に言えるはずがない、しかも他人の命を奪うくらいの取り立てをしているのなら尚更だ・・・。他人の臓器を売ってるなんて言った時には良子は発狂してしまうだろう。 

「ん?どうしたの?」 


 良子が首を傾げる。 

「ほ・・・ほら・・・あれだ!金融系だ!」 


 必死でごまかす和也。 

「金融系?あなた銀行員か何か?」 


 質問を続ける良子。 

「いや!ロ、ローン会社だよ!小さな会社なんだけどな」 

 和也は焦るあまり少し挙動不審な態度を取ってしまった。 

「ふーん・・・そう・・・」 


 少し怪訝な表情を見せたがどうやら良子は納得してくれたみたいだった。 

「ねえ和也、今日あなたの職場見学に行ってもいい?」 


 唐突な良子の提案に和也は目を見開き「ダメだ!」と全力で拒否をした。それだけは絶対に認めるわけにはいかない、和也のやっている事はいわば犯罪だからだ。 

「えー何でよーいいじゃない!息子が働いている姿を見てみたいの、汗水流して働いてる姿を」 


 良子が少し甘えた声を出しながら和也の腕に手を回しお願いをする。 

「絶対に邪魔だけはするなよ・・・?それと何を見ても口外しない事・・・それが誓えるなら連れてってやる・・・」 


 断っても良子は折れないと思ったのか、和也は覚悟を決め良子を職場に連れていく事にした。和也が取り立てる所をみたら一体良子はどんな反応をするのだろう・・・和也はそんな事を考えていた・・・。 

「うんうん!誓うわ!連れてってくれる?」良子が和也の腕を揺らす。 

「今から行くから付いてこい・・・」怖い顔で和也は言った。 

「やったー!ありがとう和也!さすが私の息子!」 


 そう言うと良子は和也の頭を優しく撫でる、和也は完全に子犬状態だ。 


 和也は良子の手を払いのけ「行くぞ」とだけ言い家を出た。 

「和也、ありがとね、私のわがままを聞いてくれて」 


 良子は本当に嬉しそうだ、嬉しさのあまり和也の腕に自身の腕を絡める。 

「おい!あんまひっつくなよ!気持ち悪いな」 


 和也が良子の腕をほどくと早足でスタスタと歩き出す。「あ!待って!」と良子が小走りで和也を追う。 


 数分後和也が働いている事務所があるビルに着いた。和也と良子は階段を上がりドアの前へ行く。 

「以前にチラッと来たときは気付かなかったけど、何か古臭いビルよね」 


 良子がぽつりと呟く。 

「いいから入るぞ」 


 良子の話を無視し和也はドアを開けた。 


 ドアを開けると既に和也の世話をしている男が中央のソファーに座っていた。 

「おはようございます」 


 男に挨拶をする和也。 

「おお、あれ?和也・・・隣の人はお前の・・・」 

「すいません・・・職場を見たいと言って聞かないので連れてきてしまいました・・・。」 


 和也は頭を搔きながら頭をぺこっと下げて謝る、すごく気まずそうだ。 

「あら!またお会いしましたね!おはようございます!今日はよろしくお願いします」 


 頭を下げてる和也の隣で良子が笑顔で男に挨拶をする。そんな良子を見て男はぽかんとしている。 

「あ・・・ああ・・・確か良子さんだったな、よ・・・よろしく」 


 男もかなり戸惑ってしまっている、そして和也を睨みつける。男の視線に気付いた和也は目を逸らして俯いてしまった。 

「ほら!和也!ぼうっと突っ立ってないで仕事しなさい」 


 良子が肘で和也の腕をつっつきながら急かす。和也は頭を抱えながら自分のデスクに座る。 

「お!そうだ!」突然男が大声を張り上げる。 

「どうしました?」和也が男に尋ねる。 

「和也!せっかく母親に会えたんだ!1週間母親とゆっくり過ごしたらどうだ?良子さんもどうだい?名案だと思わないかい?」 


 男が突拍子もない事を言い出す。おそらく男も良子にこの事務所にいられたんじゃ困るのだろう・・・何とかして良子を事務所から追い出すための口実だ。 

「え?」とだけ言って和也は言葉に詰まってしまった。心の中では(このばか何言いだすんだ・・・)と思ってはいるが、男は上司だから言葉にして言う事ができない。 


 和也の計画では2~3日泊めた後、自分の家に帰すつもりだったが・・・計画は脆くも崩れ去った・・・。 

「あら、せっかく息子の仕事ぶりを見れると思ったのに・・・でも、それもいいわね」 


 良子は少し残念そうな顔をしたが、すぐ態度を一変させころっと笑顔になる。 

「和也、仕事の方は心配するな!今は丁度暇な時期だからな、こっちに任せておけ」 


 そう言うと男は、顎でクイっと合図をする。言葉は発していないが、まるで「早く邪魔なそいつ連れてけ」と言っているようだ。 

「はい、分かりました・・・」がっくりと肩を落とす和也。 


 正直、事務所を見学させても、1週間良子と過ごしても和也にとってはどちらも得な事はない、何故なら、事務所を見学させたら和也がやってる犯罪行為がばれてしまうし、1週間過ごしたとしてももうすでに一緒に暮らしているし、良子の風変わりな性格を知ってからはゆっくり過ごせるはずがないと思っているからだ。 

「お邪魔しましたー」 


 男に軽く手を振る良子。 

「あ、あぁ・・・じゃあまたな良子さん」 


 手を振り返す男 

「では、1週間後に・・・」 


 和也の言葉に覇気がない。 


 事務所を後にし、家に帰るため元来た道を歩く二人、すると突然良子が「ねえ」と言い和也の袖を引く。 

「何だ?」足を止め和也が良子に尋ねる。 

「せっかくだし、このまま新宿で買い物でもしましょうよ、私まだこの格好だし」 


 そう言うと良子は、ジャージの袖をひらひらさせる。 

「そういえばそうだな、代わりの物を買うって約束もしたしな、ただ時間がまだ早いから店がオープンするまで何処かで時間を潰そう、近くに確かカフェがあったはずだ、行くか?」 


 和也の提案に「うん!」と二つ返事で承諾する良子、何だかすごく楽しそうだ。 

「付いてこい」そう言うと和也はまたスタスタと歩き出す。 


 二人がしばらく歩いていると、左の方にカフェの看板が見えてきた。二人はそのカフェの中に入っていく。レジでラテとドーナツを頼み、空いてる席に適当に座る。そして何気ない親子の会話が始まる。 

「和也、あなた休みの日とかは何をしているの?」 


 良子が最初に口を開いた。 

「あ?まあ家でゴロゴロしながら映画見たり、パチンコ行ったり、酒飲んだりとかだな」 


 相変わらず不愛想でつんとした口調で和也が答える。 

「パチンコ!?あんなものやめときなさい!お金をどぶに捨てるような物よ!」 


 良子が手を自分の顏の前でぶんぶん左右に振りながら和也に忠告する。 

「いいだろ別に、ただの暇つぶしだよ」和也が反論する。 

「そう?のめり込んでないならいいけど、彼女はいないの?」 

 次から次へと質問攻めをする良子、和也は(今日も疲れそうだな・・・)と心の中で呟いた。 

「彼女?んなもんいるわけねえだろ、俺がモテそうに見えるか?」 


 和也は少しいらいらしながら答えた。和也自身もモテないと自負している。 

「うん!見えるよ!」あっさり答える良子。 

「何故そう思う?」和也が続けて尋ねる。 

「決まってるでしょ!私の息子だからよ!モテないなんて有り得ません!」 


 腕組みしながら良子は自慢気に言う。顎を突き上げどや顔している。 

「やっぱり・・・お前は馬鹿だな・・・フッ」 


 一瞬和也の頬がほころぶ、今まで誰にも笑顔を見せなかった和也が一瞬だが笑った・・・。 

「あっ!和也!今笑ったでしょ?」 


 流石は良子、和也の一瞬の表情の変化すら見逃さなかった。 

「わ・・・笑ってねえよ!」 

「いいや!笑った!私の目はごまかせないわよ!」 

「笑ってねえ!」 

「笑った!」 

「笑ってねえ!」 

「笑った!」 


 まるで恋愛映画のワンシーンのようだ、二人はお似合いのカップルに見えるがれっきとした親子、そう・・・親子・・・親子なのだ・・・親子・・・血のつながった親子・・・。 

「お客様、他のお客様のご迷惑にもなりますので、もう少し声のボリュームを下げてお話いただければ・・・」 


 どうやら知らず知らずのうちに二人の声のボリュームがでかくなってしまっていたようだ、二人は店員に注意されてしまった。二人は無言で店員に頭を下げた。 

「ふん!」という荒い鼻息とともに和也はドーナツを皿の上から取りかじりつく。すると何か視線を感じ、正面を見ると良子がにやにやしていた。 

「フッ、ハハ!」良子の顔につられ和也が声を出し笑ってしまった。今度は白い歯を見せながらはっきりと笑った。 

「今度ははっきり笑ったわね?」 


 良子が口角を上げ下から覗き込むように和也を見る。 

「うん、笑った・・・」 


 和也はいつもの不愛想な顏に戻ってはいたが、笑った事をはっきりと認めた。いつもは頑固でなかなか自分の意見を曲げない和也が認めるなんて初めての事だ。少しづつではあるが良子に会った事で心境が変化しつつある。 


 カフェに入ってから1時間が経過した頃、二人は会計を済ませ外に出た後、タクシーで新宿駅周辺に向かった。駅周辺に着くと、平日の昼間にも関わらず大勢の人で賑わっている。 


 しばらく二人で駅周辺を散策していると、突然良子が「あ!」と言って何処かへ駆け出していく。 

「おい!どこへ行くんだよ」慌てて和也が良子の後を追う。 


 すると良子は「和也!早く早く!」と和也を手招きしている、すると露店の入口に立てかけてある帽子を手に取った、NYのロゴが入っている黒のキャップだ。 

「これ、和也に似合うんじゃない?」 


 そう言うと良子は、和也の頭にそのキャップを被せようとした。 

「よせよ、俺キャップなんか被った事ないから似合わねえよ」 


 頭をずらし被るのを拒否する和也。 

「いいから!被ってみなさい」 


 和也を無視し無理やり被せる良子。 

「ど・・・どうだ?似合うか?」 


 和也は不安げに良子に尋ねた。 

「ぷ!」と良子が口から息を漏らし口を手で押さえ笑うのをこらえている、その反応からするに、似合ってないようだ・・・。 

「てめえ!からかうなよ!」 


 和也が乱暴に帽子を取り元の場所へ戻す。 

「だってー似合うと思ったんだもん」 


 へらへらし悪びれる様子もない良子。 

「ほら!さっさとお前の服を買いに行くぞ!」 


 そう言うと和也は良子の腕をとり、駅前にある大きめのデパートを見つけ中に入って行く。デパート内にある案内板を見ると婦人服は6階にあるみたいだ、二人はエスカレーターを上がり婦人服売り場を目指す。すると少し前の方に、7階へと上がるミニスカートを履いた女性が見えた。すらりとしていて凄くスタイルのいい水商売系の雰囲気を醸し出している、顏も悪くない。 


 彼女が二人とエスカレーター越しにすれ違うその時、和也はチャンスとばかりに振り返り下から覗き込むような感じで女性を見る、いや、和也は女性のパンツを覗こうとしていた。やはり和也もなんだかんだ男なのだ、その時・・・。 

「こら!和也!」と良子が和也を一喝し頭を叩いた。良子は和也のしている事が分かっていた。 

「いってぇ!何すんだこの野郎!」 


 頭を押さえ良子にキレる和也。 

「何すんだじゃないでしょ!いい年して女の子のパンツ見ようとするなんて!パンツくらい後で私が好きなだけ見せてあげるわよ!」 


 店内に響くような声で良子は言った。熟女好きな人ならまだしも、年配の女性のパンツなど好き好んで見るものなどいるのだろうか、和也は熟女もいけるのか・・・。 

「だ・・・誰が好き好んでババアのパンツなんか見るかよ!気持ち悪い事言ってんじゃねえよ!」 


 和也も負けじと店内に響くような声で反論する、どうやら和也は熟女好きではないらしい。 

「あらそう?じゃあ何であの時私を襲ったのかしら?」 


 あの時というのは、おそらく和也が家で良子を押し倒し襲った日の事だろう、エスカレーターの上の段にいる和也に、下の段にいる良子がぐいっと詰め寄る。 

「あ・・・あの時はな!お・・・俺がどうかしてたんだ!魔が差したと言う奴だな!とにかく俺はババアに興味はねえ!」 


 あたふたし見苦しい言い訳をする和也、暴力的で気が荒い男だが母親が相手だと全く迫力がない。 

「ほ、ほら6階だ!降りるぞ!」と話を無理やり切り上げ良子に降りるよう促す。 

「はいはい」と笑顔で和也に従う良子(ムキになっちゃって・・・可愛い)と内心思っていたが敢えて口に出さず、愛らしい顏で和也を見ていた。 


 6階を軽く二人で見渡し、良子が「ここにしましょう」と言うので、和也は言われるがまま入っていく。赤と白を基調とし少し上品な感じのする内装に婦人服特有のいい匂いが立ち込める店だ、良子はハンガーにかかっている服を1個ずつ吟味している。吟味している良子の横で和也はただ黙って見ている。 

「うーん、ねえ和也!どっちがいいかな?」 


 良子が二つの服を和也に見せる、一つ目は花柄のワンピースだ、薄い青色のバラがプリントされている、二つ目はロングニットのカーディガンで薄茶色のものだ、和也は正直どっちでもよかったが、良子が聞いてくるので仕方なく選ぶことにした。 

「そうだな、試着室で着てみたらどうだ?」 


 そう言うと和也は、良子を試着室に連れていく、和也がカーテンを開け良子が中に入る。和也はカーテンの向こう側で良子が着替え終わるのを待つ。 


 数分後、カーテンが開き着替えた良子が和也の前に出てきた。着ているのは花柄のワンピースだ。 

「どうかな?和也」 


 良子が和也に尋ねる。 

「おお、結構似合ってるな、60点て所だな」 


 和也は、手を顎の上に乗せまるでファッションデザイナーみたいに偉そうなセリフを吐く。 

「60点!?自分でも似合ってると思ったのに辛口ね」 


 良子はあまり納得がいってないようだ、ちょっとふてくされた表情をした後、「じゃあ次ね」といいまたカーテンを閉めた。そしてまた数分後にカーテンが開いた。 

「今度はどうだ!」と両手を腰にあてポーズをとる良子、2着目は薄茶色のロングニットのカーディガンだ。 

「お?さっきのよりいいんじゃねえか?そっちのが似合ってるぞ、80点だ」 


 また偉そうなセリフを吐く和也、まあ80点なら高得点でいい方だろう。 

「ほんと?じゃあこっちにするわ」 


 そういうと良子はカーテンを閉めた。 


 花柄のワンピースを元の場所に戻し、和也は良子の着ていたカーディガンを持ってレジへ行き会計を済ませた。 

「ありがとうね和也」 


 和也にお礼を言う良子、袋に入ったカーディガンを見ながら嬉しそうににやにやしている。 

「何にやにやしてんだよ、たかが服買ってもらったくらいで」 


 和也が冷たく言い放つ。 

「そりゃ嬉しいわよ!息子に買ってもらったんだもん」 


 良子は凄く幸せそうで、長い時間ずっとそのカーディガンを見ていた。 


 本来の目的を果たした二人は、その後レストランで食事をしたり、映画館で映画を見たりなどして二人の時間を思う存分満喫した。そんな事をしているうちに時間があっという間に過ぎ、気が付けば日が落ち外が暗くなり始めていた。 

「ねえ和也、最後に行きたい所があるんだけどいい?」 


 並んで歩いていると突然良子が口を開いた。もう外は完全に夜になっているが良子にはまだ行きたい所があるらしい。 

「ああ、別に構わねえよ」 


 二つ返事で承諾する和也。 

「じゃあ私に付いてきて、こっちよ」 


 そう言うと良子は和也の手を取って歩き出した。 

「おい!何処行くんだよ!」 


 良子に手を握られた和也は、訳もわからぬまま付いていく、すると廃墟になっている一つのビルが見えてきた。良子は和也を連れて迷うことなく中に入っていく。 

「な・・・なんだよここは!こんな所で何する気だよ!」 


 和也の問いかけを無視し、良子はボロボロの階段をそのまま上がる、1階、2階、3階と勢いよく階段を上がっていく。 


 だいたい8階位まで上がると目の前に錆びれたドアが見えた。どうやらここはビルの屋上らしい、良子はその屋上へ続くドアを開けた。一体何をする気なのだろうか・・・。 

「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」と肩で息をする和也、それに比べて良子の方はけろっとしている、前に何回か来ているから階段を上がるのに慣れているのだろう、とても中年女性とは思えない体力をしている。すると良子は屋上の手すり付近まで駆け出した。 

「ここよ和也、こっちまで来て見てみなさい」 


 そう言うと良子は手招きして和也を屋上の手すり付近まで誘導する。言われるがまま良子のいる所まで行き、手すりに腕をかけ下を見ると、そこには新宿にある店のネオンや車のライト、あらゆる光が暗闇の中で輝きを放っていた。良子はその景色をみながら一人うっとりとしている。 

「綺麗でしょ?私ね、あなたに会うずっと前にこの場所を見つけたの、この辺に来たときは必ずこの場所に行くと決めているの、私がこの世で一番大好きな場所よ」 


 そう言うと良子は空を見上げる、和也もつられて空を見上げた。そこには美しい星空が広がっている、その空を見ていると体ごと吸い込まれそうな感覚になる。 


 しばらく二人は言葉を交わすことなく星空と街の景色を交互に眺める、すると手すりに手を置いている和也の手がほんのりと温かい感触に包まれた。良子が和也の手に自分の手を重ねている。 


 いつもなら「やめろ!」なんて悪態をつきながら手を振り払う所だが、今回だけは大目に見てやろうと思い和也は何もしなかった。しばらく良子の手の温もりを感じる、母親である良子の手の温もりを。 

「そろそろ行くか?」 


 静かに口を開く和也。 

「ええ、そうね」とだけ言い、良子は和也の手に重ねていた手をゆっくりと離した。 


 その時・・・「あっ!」と言い咄嗟に和也が離した良子の手を握り返す、まるで離さないでくれと言わんばかりに、心の奥底に眠っていた母親に会えないという寂しさ、愛してほしいという気持ちが行動となって現れたのだろうか。 


 和也に手を握られた良子はか弱いながらも力いっぱい握り返す、そして和也を見てにこっと笑う。その顔は我が子を愛しむ母親の顔だ・・・。そのまま手を握り合いながら二人は廃墟のビルを後にした。 


 家までは歩くと少し遠いので、ビルから出た二人は適当にタクシーを捕まえて家に帰る。タクシーに乗っている間も二人はずっと手を握り合っている。親子と言うよりまるで芸能界でよくありがちな年の差カップルのようにも見える。その様子が気になったのかタクシーの運転手が二人に対して、 

「お客さん達、親子ですよね?」と声をかけてきた。 

「あ?」と一言だけ言って和也が眉間にしわを寄せ運転手を睨みつける。 

「こら、やめなさい和也!はい、私たちは親子ですよ」 


 和也を制止した後、良子が運転手に対して真摯に対応する。 

「あ、あぁ・・・そうですか、うわぁ・・・マザコンかよ・・・」 


 運転手が和也の方をチラッと見て苦笑いし、二人に聞こえない程度にボソッと呟いた。 


 しばらくして和也の家の前に着き、二人は料金を払ってタクシーから降りる。降りる時も相変わらず手は握り合ったままだ、すると突然良子の方が、手を放し運転手がいる反対側の窓の方へと歩いていく。 

「運転手さん、ちょっと降りてくださる?」 


 運転手に何か用があるのか、良子は運転手に降りるよう促した。 

「はい?何かありましたか?」 


 首を傾げながらも良子の言う事に素直に従う運転手、ガチャっとロックの外れる音がして運転手はタクシーから降り良子の前に立った。 


 すると・・・無言のまま良子が、運転手に強烈な平手打ちをお見舞いした。バチーンという音が夜の星空の中に吸い込まれていく、殴られた拍子で運転手の被ってた帽子が道路の方へ転がって行く。 

「な!何するんですか!」 


 殴られた方の頬を押さえた運転手がビックリした表情で良子に言った。 

「聞こえてないと思った?」 

「は?何言ってるんですか?」 

「何で叩かれたか聞きたい?」 

「何なんですか一体!」 

「あなた・・・和也をマザコン呼ばわりしたわよね?」 

「いや・・・それは・・・」 

「ん?言ったわよね?」 

「は・・はい・・・」 


 ”パン” 


 その瞬間・・・再び良子の強烈な一撃が運転手に襲いかかる・・・今度は平手打ちなんて生易しいものではない・・・男ならこの痛みが分かるはず・・・金的だ・・・良子のハイヒールのかかと部分が運転手の”袋”の部分にめり込む・・・。 

「あぁぁぁ!あがががが・・・」 


 あまりの激痛に地面にうずくまる運転手、そんな運転手を見下ろし良子は足で何度も背中や頭を踏みつける。 

「ごめんなさい!ごめんなさい!謝りますから!」 


 頭を手でガードしながら必死で謝る運転手、あまりの痛さに目には涙が溜まっている。そんな運転手の事なんか目に入らないかのように良子は殴る蹴るの暴行を加える・・・もうやりたい放題だ・・・。 


 一方の和也はと言うと・・・突然の出来事で動くことができずぽかーんとしていた。しばらくするとはっとして良子の元へ駆け寄って行く。 

「おいおい!もうその辺でやめとけよ!帰るぞ!」と言いながら良子を羽交い絞めにして止める和也。 


 和也に止められて良子は我に返ったのか良子は急に大人しくなった。運転手は地面にうずくまり、未だにもがいている。 

「ごめんね和也、帰ろうか」 


 さっきまでの怒りは何処に行ったのだろうか・・・良子はもうけろっとしている・・・良子は二重人格、いや・・・サイコパスなのか・・・。和也は良子に対し少し恐怖を覚える。 

「お・・・お前大丈夫か?」とおそるおそる良子に話しかける和也。 

「え?何が?」と良子は首を傾げる。 

「いや・・・何でもない・・・家に入るか」 


 怒りの矛先が自分に向くのは面倒くさいと思ったのか和也はこれ以上何も言わなかった。無言で家の前にある階段を上がり、ドアを開け良子と一緒に家の中に入って行った。 

「ふうー疲れた、でも今日は楽しかったな!」 


 家に着くなり良子はソファーに寝そべり大きく伸びをする。良子にとって今日はとても良い1日だったようだ、顏からも満足感が漂っている。 


 そんな良子を眺めながら和也は、今日の1日を振り返る、カフェで一緒にラテを飲んだ事、新宿駅周辺で買い物をした事、良子と一緒に夜の新宿の街並みと美しい星空を見た事、どれをとっても和也にとっては初めての経験でとても新鮮だ、だが何故か和也は浮かない顔をしている・・・。 


 それは・・・ついさっきの出来事が頭から離れないからだ、そう・・・良子がタクシーの運転手に暴行をした時の事だ。あの出来事を見て和也はある事を考えていた。それは、自分のこの気性が荒く暴力的な性格は誰に似ているのだろうという事だ、そしてさっきの出来事ではっきりした・・・和也は間違いなく良子似だ。父親は早くに死んでいるからどんな性格だったかは分からないが、さっきの良子の振る舞いを見ればはっきりと分かる。親が親なら子も子とはよく言ったものだ。 

「血は争えないな・・・」とぽつりと呟くと和也は深いため息をついた。 

「ん?何か言った?和也」 

「あ?いや!何でもない」 

自分にしか聞こえないトーンで言ったつもりだったが、どうやら良子にはうっすらと聞こえていたらしい、さっきのタクシー運転手のマザコン発言も和也には聞こえていなかったが、良子にははっきり聞こえていた。中年の割に物凄い地獄耳だ。 

「あ!和也、先にシャワー浴びるね」 


 そう言うと良子は風呂場へと入っていく。和也は「ああ」とだけ言いソファーに横になる。 


 天井を見上げながらぼぅっとしていると、和也はある事に気が付いた・・・それは良子に会う前にずっと感じていた心のモヤモヤ感が消えていたのだ・・・。ゆっくりと胸に手を当てると、心のざわつき、いらいら、欠乏感、寂しさ、憎悪などありとあらゆる感情が消えている。唯一残っている感情は幸福感だった。今までこんな気持ちになった事がないので和也は少し戸惑っていた。これもこの世でたった一人の母親である良子の存在がそうさせたのだろうか、怒ると怖いがあの穏やかな雰囲気、愛に満ちた笑顔、天真爛漫な無邪気さ、そういったものが少なからず和也に影響を与えたのだろう、和也はほんの少しだが変わりつつあった。 

「ふぅーさっぱりしたぁー!」という大声とともにシャワーを浴びた良子が風呂場からタオルを胸まで巻いた状態で出てきた。頭を小さなタオルでごしごし擦りながら勝手に冷蔵庫を開け、中から缶ビールを取り出す。プシュっと良い音が家の中に響く、そして良子はバスタオル一枚で腰に手を当て豪快にビールを飲む。 

「あぁぁぁー!おいしいぃー生きてるってすばらしいぃぃ!」と訳の分からない言葉を発しながら、ものの数秒でビールを飲み干した。 

「早く服着ろよばか」と言いながら和也は良子の足元に服を投げる。 

「はいはい、分かってるわよ」と言いながら良子は服を着る、そして二人はソファーに座り親子の会話が始まった。 

「和也、今日はどうだった?」 

「どうって?」 

「楽しかった?」 

「まぁ・・・つまらなくはなかったな」 

「フフ、素直じゃないわね」 

「うるせえよ」 

「お風呂入らないの?」 

「明日朝入るよ」 

「そう、ねえ和也・・・」 

「なんだ?」 

「あなたに会ってからずっと気になってたんだけど・・・」 

「だから、なんだよ、言ってみろよ」 

「あなた、私と会ってから一回も母さんって呼んでくれないわよね・・・」 

「まだ会ってちょっとしか経ってないのにそんな簡単に呼べるかよ・・・」 

「・・・そうよね・・・受け入れるにはまだ時間がかかるわよね・・・」 

「ただな・・・」 

「ん?何?」 

「お前を初めて見た時、最初はマジでぶっ殺してやりたいって気持ちでいっぱいだったけどな、今は、そうでもない・・・」 

「和也、ありがとう」 

「手を握った時、不思議な気分だった。すごく温かみを感じた。この年になってはじめて母親の温もりってのを知る事になるとは思ってもみなかった、このまま俺は家族に会う事もなく一人寂しく死んでいくと思っていたから・・・」 

「和也・・・」 

「受け入れるにはもう少し時間がかかるかもしれないが、お前と、少しは真剣に向き合ってみるよ」 

「ありがとう・・・和也」 

 良子は指で目を拭うと和也の傍に寄り後ろから優しく包み込むように抱きしめた。和也はそんな良子の手を握りしめる。 

「もう寝るよ」 


 そう言うと和也はすっと立ち上がり寝室があるドアを開ける、そんな和也の後ろ姿を良子は黙って見ていた。すると和也がドアの前で立ち止まり振り返る。 

「ん?どうしたの和也」 


 良子は首を傾げ和也に尋ねる。 

「お休み・・・」と和也が一言だけ呟いた。 

「うん、お休み」と良子が返事をする。 


 和也は、くるっと体を反転させ寝室に入りドアを閉めた。お休みの後にも何かを言いたそうだったが・・・本当は(お休み・・・母ちゃん・・・)と言いたかったのだろうか・・・。 


 寝巻に着替えベッドに入ると和也は、早々に目を閉じる。今日は良子とあちこち回ったから、疲れから泥のように眠ってしまうだろう、案の定すぐに眠気が襲ってきた。 


 眠りにつこうとした瞬間、突然何かを思い出したかのように和也が「あ!」と言い突然ベッドから飛び起きた。何故起きたのかと言うと、和也は気が付いたのだ・・・そう・・・習慣をやらなくなっていた事に・・・1つ目と2つ目は以前とは状況が変わり、良子がいるから出来なくなってしまっても正直仕方ないだろう、ただ3つ目については、朝起きた時、夜寝る前にベッドでやっている事だから良子にも知られる事なくやる事もできるだろう。ただ・・・何故かやる気が起きない・・・正直言って3つ目の習慣は愛を知らない和也自身の寂しさを紛らわせるためにやっていたものだ、今は和也の寂しさを埋めてくれる良子というかけがえのない存在がいる・・・最上級の愛を注いでくれる・・・もうやらなくていいのだ・・・そう思うと和也は心が軽くなった気がした。 


 再びベッドに入り、もう一度胸に手を当ててみる、やはり心の中のモヤモヤやざわつきは完全に消え去っていた。和也はゆっくりと目を閉じた。その表情はまるで仏のように穏やかだ・・・。 


 6章~決断~ 


 寝室に朝日が差し込み、和也が目を覚まし体を起こす。長年抱えていた雑念が消え体が軽い、いつもは体全体が重く、負のエネルギーに支配されている感じで起きるのも怠かったが、それが嘘のようだ。 

「んーーー!はあぁ!」と伸びをしてベッドから出る和也、寝室から出ると良子もすでに起きていて朝食の支度をしている。和也は「おはよう」と自分から良子に朝の挨拶をした。今までは良子が挨拶をしても、「ああ」と言ってすかした態度をとっていたが、生活が徐々に穏やかになっていくにつれ言葉にも棘がなくなってきている。 

「あら!起きたのね和也、早く顏でも洗ってきなさい」 


 良子はフライパンを片手に顏だけ向けて和也に言った。 


 和也は良子に言われるがまま洗顔とシャワーをすませ、ソファーに腰掛ける、数分後良子が朝食を持ってきた。 

トースト2枚とスクランブルエッグと焼いたソーセージ3個が皿に乗っている。今回は良子の分もある。二人はゆっくりと朝食の時間を楽しむ。良子は朝食を食べてる和也を見て微笑む、和也の方もそんな良子を見て自然と笑顔になる。良子に対して自分から笑顔を見せた事のない和也が自ら笑顔を見せるなんて、たった数日で人間がこんなに変わるものなのかと驚く位凄い変わりようだ。 

「相変わらず旨いな、ごちそうさん、ありがとな」 


 朝食をぺろりとたいらげ、両手を合わせて良子にお礼を言う和也。 

「いいえ、これぐらいお安い御用よ」 


 和也に満面の笑みをふりまく良子。それにつられて和也も笑顔になる。 

「和也、何か以前と比べて穏やかになったわね、前は怖くて近寄りがたい雰囲気だったのに」 


 どうやら良子も和也の変化に気付いているようだ、そんな和也を見て良子はとても嬉しそうだ。 

「そうか?そんな変わった気はしないけどな」 


 和也はうっすら笑みを浮かべながら良子に言った。おそらく和也も自身の変化に気付いている事だろう。”そんな変わった気はしない”と言ったのは良子に対する意地悪だろう。 

「どう見ても変わってるわよ、素直に認めなさいよ!もう!」 


 良子は、ちょっとムッとした表情をしながら言った。そして朝食を食べ終え食器を片付けに台所へ向かう。 

「なぁ・・・ちょっといいか?」 


 さっきまで笑顔だった和也が急に真顔になる・・・。 

「え?何?」 


 良子は食器を洗いながら和也に尋ねる。 

「ちょっと話があるんだ・・・こっちに来てくれ」 


 和也の表情から察するによほど大事な話なのだろう・・・良子は食器を洗う手を止めソファーに座った。 

「どうしたの?話って何?」 


 良子が一言だけ尋ねると、和也はゆっくりと話しはじめた。 

「実はな、俺の仕事の件だけど・・・ローン会社って言ったけど、実は違うんだ・・・俺の仕事は・・・借金の取り立てなんだ・・・いわゆる闇金って奴だ・・・俺はずっとそういう仕事をしてたんだ・・・時には・・・人の命を奪うような事をしていた・・・奪った命の数は数えきれない・・・人の命を金に変えて今まで稼いできた・・・俺は最低の野郎なんだ・・・でもあんたに出会ってから俺の気持ちは変わり始めた。はじめは鬱陶しくて、うざくて、今更母親面すんなって思ってた。正直借金した奴ら同様殺してやろうかとまで思ってた・・・。でも・・・あんたと生活を始めてから、俺の荒んだ心が穏やかになっていくのが手に取るように分かるんだ・・・あんたとの何気ないやり取りの中に俺は凄い幸せを感じる事ができた・・・。あんたには本当に感謝している。あんたは俺に変わるチャンスをくれた・・・。クソな人生をやり直す機会をくれたんだ・・・。そこで俺はある決断をしようと思ってるんだ・・・。それは・・・今の仕事をきっぱりと足を洗って、真っ当な職に就いて、東京を離れて地方であんたと幸せに暮らしたいと思ってる・・・。自分勝手だと思うかもしれないけど、これが俺が今思ってる事だ・・・。」 


 和也は、良子に思いのたけをすべて打ち明けた。首を縦に振りながら黙って話を聞いていた良子がゆっくりと口を開いた。 

「話してくれてありがとう和也、あなたの気持ちを聞けて良かったわ、あなたのした事は決して許される事ではないけれど、それは私にも責任があると思うわ、あなたを小さい頃からしっかりと愛情を持って育てていたら・・・きっと今頃違う人生を歩めていた・・・。だからこれからはあなたに今まで愛情を注げなかった分、あなたのやりたいと思っている事を思う存分やらせてあげたい・・・母親として大事なあなたを支えてあげたい・・・だから私はあなたに賛成よ」 


 良子は和也の提案を肯定し受け入れた。 

「悪いな、職場の奴らには俺の方からしっかりと説明して納得してもらうからそれまで待っててくれ、早速今から行ってくるよ。」 


 そう言うと和也は、ゆっくりとソファーから立ち上がり玄関へと向かう。 

「うん、気を付けてね」とだけ言い良子は和也の後ろ姿を見送る。その時、玄関で靴を履いた和也がくるっと良子の方に体を向け何か言いたそうにしている。 

「どうしたの?」と良子が首を傾げる。 

「ありがとうな・・・母ちゃん・・・」 

そう一言だけ言うと、和也は家をでて職場に向かった。良子は何も言わずただ和也を見送った。 

「やっと、私を母親として認めてくれたのね、ありがとう・・・これで私は・・・」 


 誰もいない部屋の中で良子はぽつりと呟いた・・・。 


 職場に向かう道中で和也は、さっき良子に言った(「ありがとうな・・・母ちゃん・・・」)という言葉を思い返していた。ようやく良子を母親として受け入れる事ができた、良子に強制されるわけでもなく、嫌々言ったわけでもなく、自分自身の口で心の底から感謝の念をこめて言えた。気分はとても満たされた感じになり、幸福感に包まれる。この感覚を感じながら和也は思った。これが愛というものかと・・・愛の力はこんなにも偉大なのかと・・・この感覚を覚えると、今まで自分がやってきた行いがいかに愚かで、馬鹿な事なのかと痛感させられた。そう思うと幸福感と同時に罪悪感も出てきた。 


 罪悪感も感じるのも無理はないだろう・・・和也は暴力で大勢の人を恐怖に陥れ、時には命を奪い己の欲を満たしてきた・・・。だが、いくら罪悪感を感じたところで過去に戻る事はできない、時間は過ぎていくだけだ・・・残酷かもしれないがその事実は変えられないから向き合うしかない・・・。 

「俺は、これからやり直すんだ、愛すべき大事な人もいる。今まで酷い事をしてきた分、それ以上の愛、優しさを周りに分け与えて生きていこう!」 


 和也は更生を心に固く誓いながら、職場に力強く歩を進める。そうこうしているうちに和也の職場に着いた。和也はそのまま事務所のドアの前まで来た。 

「素直に話して許して貰えるかな・・・。」 


 ここに来て和也は少し怖気づく、それもそのはず・・・この事務所は法に触れる違法な事をしている所だが、和也の面倒を見てくれていた所でもある。特に和也の面倒を見てくれている男は、和也を自分の弟のように可愛がってくれていた。家もその男が用意してくれた物だ。こんなに良くしてもらっておいて、自分勝手な理由で足を洗いたいなんていったら、男は何て思うだろう・・・不義理以外の何ものでもない、もし男の逆鱗にでも触れたら・・・”処理”されてしまうかもしない・・・そんな事を考えていたら、事務所のドアを開けるのが躊躇われた・・・。 

「ビビるな・・・自分の人生なんだ・・・俺が決めるんだ・・・」 


 和也はドアの前でぶつぶつと呟きながら、深呼吸をする。そして覚悟を決めたのか、意を決してドアを開けた。 

「・・・失礼します・・・」 


 おどおどしながら中に入っていく和也、案の定事務所には男が自分のデスクに座っていた。 

「おぉ!和也じゃねえか!どうしたんだ?」 


 男が右手を上げながら和也に言った。和也もペコペコと男に会釈をする。 

「ん?なんだ和也!元気ねえな、さては良子さんと上手くいってないんだろ」 


 良子と言う言葉が出てきて和也は一瞬ビクっと反応してしまった。 

「図星だな?何だ?話してみろよ」 


 男に促され和也は勇気を出し話し始める。 

「じ・・・実は・・・母親の件で話がありまして・・・」 

「ん?話?何だ、言ってみろ」 

「はい・・・」 


 しばしの沈黙が流れる・・・。 

「おい!黙ってたんじゃ分からねえだろ!早く話せ!」 


 男は黙ってる和也を急かすように言った。それを聞いて和也は覚悟を決めた・・・。 

「すいません・・・実は俺・・・この仕事を辞めて、母親と一緒に東京を離れ地方で暮らそうと思ってるんです・・・。あなたに散々お世話になっておいてこんなことを言うのは勝手だと思います・・・。でも俺は母親ともう一度人生をやり直したいんです!ただで辞めさせられないと言うのであれば、俺を痛めつけてもらって構いません!覚悟はできています・・・。金を払えと言うのであればいくらでも払います!どうか俺に・・・俺に・・・人生をやり直すチャンスをください!お願いします!」 


 自分の想いをストレートに男にぶつけた後和也は、男に対して土下座をした。男はそんな和也の言葉を黙って聞いていた。 

「今の言葉に嘘はないな?」 


 しばしの沈黙の後男が口を開いた。 

「はい!もちろんです!」と和也は即答する。 

「そうか、お前がそこまで言うなら、いいだろう・・・」 


 ゆっくりと口を開いた男は、怒る事もなく和也の言う事を承諾した。和也の事を自分の家族のように思ってきたが、良子という存在が現れた以上、もう自分の役目は終わった・・・。今は和也の気持ちを汲んで背中を押してやることが和也のためになると思っての決断だろう・・・。 

「あ・・・ありがとうございます!本当にありがとうございます!」 


 和也は土下座したまま何度も何度も男に頭を下げた。 

「和也・・・今日限りでお前は破門だ・・・二度とここへは来るなよ・・・。」 


 男は突然和也に破門を告げた、これも男の和也に対しての配慮だ、良子と幸せに暮らせと不器用ながら伝えているのだろう。 

「は・・・はい・・・今までお世話になりました。」 


 そう言うと和也はすっと立ち上がり男に一礼をし部屋から去ろうとする。すると・・・。 

「おい、待て和也」と男が突然呼び止めた。 

「はい?何ですか?」 


 和也はドアの前で立ち止まり男に尋ねる。 

「これ、餞別だ、持っていけ」と言って男は手提げ袋を手渡す。和也が中を確認すると、かなりの量の札束が入っていた。金額にして一千万はあるだろう。これから新しい人生に旅立つ和也に対する男からの贈り物だ。 

「こんなに!いいんですか?」 


 和也が少し申し訳なさそうに男に言った。 

「構わねえよ、ほら!さっさと行け」 


 そう言うと男はデスクに座り和也に背を向けた。 

「あ・・・ありがとうございました・・・。」 


 和也の目は少し赤みを帯び、声は少し震えている。涙をこらえながらこれまで可愛がってくれた男にもう一度深々とお辞儀をし、和也は事務所を出ていった・・・。 


 事務所を出ると和也は家に向かってゆっくりと歩き出す。すると和也の携帯から”ピコン”と音がした。 

見るとLINEからメッセージが来ている、メッセージの送り主は男からだった。和也がそのメッセージを開くと内容は短く、一言こう書かれていた。 

(体に気をつけてな・・・) 


 そのメッセージを見て和也はまた涙ぐむ、涙が溢れるのを上を向いて抑える。そのメッセージに対して和也は(はい)とだけ返した。 


 和也は家に着くと、早速良子に結果を報告することにした。ソファーで寝そべってテレビを見ている良子にさっきの出来事をすべて話した。 

「そう・・・良かった・・・これで和也と心おきなく暮らせるわね」 


 とても嬉しそうに良子が言った。和也も緊張から解き放たれたかの如くホッと胸を撫でおろす。 

「母ちゃん、俺も肩の荷が降りた感じがするよ、本当疲れたよ、でも少し寂しい気もするな、あの人には本当にお世話になりっぱなしだったからな」 


 和也は男とのやりとりで泣いてしまった事は良子には話さない事にした。そんな事を話したら良子の事だ、馬鹿にしてからかってくるに違いない。 

「和也、あなた泣いた?」 


 良子の言葉を聞いて一瞬和也の体がビクっと反応する。和也は(何で分かったんだ?)みたいな表情を良子に向けた。 

「な・・・泣いてねえよ!何言ってんだよ!」 


 咄嗟に和也が否定をする、だがその態度が仇となり良子のいたずら心に火をつけてしまった。 

「本当にぃー?目が若干赤くなってるじゃない、まぁ男だって泣く事だってあるわよね、うんうん」 


 良子は、腕を胸の前で組み首を上下に振る。そんな良子を見て和也はさらにムキになる。 

「泣いてねぇ!」 

「強情ねぇー泣いたって認めなさい!」 

「泣いてねぇ!」 

「泣いた!」 

「泣いてねぇ!」 

「泣いた!」 

「泣いてねぇ!」 


 二人でカフェに行った時にあった押し問答が再び繰り広げられる。 

「本当は?」 

「・・・泣いた」 


 やはり先に折れたのは和也の方だった。良子の掌の上で転がされている感じだ。 

「んな事よりこれからの事を二人で考えようぜ!」 


 恥ずかしくなったのか和也は無理矢理話題を変え、今後の事を良子と話し合う事にした。 

「えぇ、そうね」と良子は半分馬鹿にした笑顔で返事をする。 


 そんな態度の良子を見て、和也は若干腹を立てながらも話を続け、やがて今後についての簡単な話し合いが始まった。 

「母ちゃん、地方に住むなら何処がいい?」 

「そうねぇー海が見える所がいいかなぁー」 

「海か、それもいいなぁ、じゃあ沖縄とか?それか湘南辺りがいいか?」 

「うんうん!いいじゃない沖縄!沖縄にしましょう!湘南より沖縄がいいわ」 

「じゃあ決まりだな」 

「うん、所で和也、移住したらあなた仕事はどうするの?」 

「仕事か?実は、さっき事務所に挨拶行った時に、餞別だと言って金を貰ったんだ、それだけじゃなく貯金も大分あるから当分は働かなくて大丈夫だ、貯金の他に、家の金庫にも金がある、当分どころかこれから先働かなくても大丈夫かもな」 

「そうなの?あなた・・・そのお金って・・・」 

「母ちゃんが察している通り、これは借金の取り立てで得た金だ、中には命を奪った奴のもある・・・」 

「やっぱりそうなのね・・・」 

「嫌か?人の命を奪って得た金で今後生活するのが」 

「いいえ・・・そうじゃないの・・・和也が借金取りになったのも元はといえば私のせいでもあるし・・・ただ・・・」 

「ただ何だ?」 

「いいの・・・もう忘れて・・・」 

「母ちゃん、確かに罪悪感とかを感じてしまうのも分かる。俺は大勢の人の命を奪って弄んできた・・・母ちゃんはそんな俺の母親だ、だけど心配するな、これから何があろうと俺が母ちゃんを守るから。今までの罪を背負いながらな」 

「ありがとう・・・心強いわね」 

「そんな暗い顏すんなよ!いつもの笑顔はどうした?」 

「そうね・・・せっかく二人で幸せに暮らそうって時にこんな暗い顔してちゃダメよね!ごめんなさい和也・・・私もあなたの犯した罪を背負ってこれから生きていくわ・・・二人で頑張りましょう」 

「あぁ、これからもよろしくな」 

「こちらこそ・・・」 


 和也がそっと対面に座っている良子の手の甲に自分の手を重ねる、良子も和也の手の上に自分の手を重ねる。この時和也は心の中で、(母ちゃんと一緒なら絶対幸せになれる)と確信していた。今日は忌まわしい過去と決別し幸せになるために前へ進むと決断した記念すべき日だ。和也の目は希望で満ちている。家の窓から差し込む光が和也を照らす・・・。 


 7章~危機~ 


 人生をやり直すため和也にとって最大の決断をした今日、和也は今ベッドで夢の中に入っている。良子と出会ってからというものぐっすりと眠れていたが、今回はいつもと様子が違う・・・和也が何かにうなされている・・・「うぅぅーん・・・うぅぁぁ・・・」という奇声をあげ何度も寝返りをうつ。何か悪い夢でも見ているのだろう・・・。 

「・・・手だなぁ・・・」 

「・・・とに・・・手だなぁ・・・」 

「お・・・は・・・えに・・・れたのに・・・だけ・・・あわせ・・・るつ・・・かよ」 

「・・・さない・・・たいに・・・さない」 

「・・・てやる・・・まえ・・・を・・・ろしてやる」 

「・・・えせ・・・の・・・せいを・・・えせ」 

「・・・とを・・・して・・・いて・・・せに・・・ると・・・るの・・・?」 

「・・・たは・・・ていの・・・んよ」 

「・・・やと・・・せに・・・す・・・?・・・とを・・・ろす・・・うな・・・げんは・・・わせ・・・る・・・かくは・・・い・・・」 

「・・・くのパパは?・・・こに・・・るの・・・?」 


 声の所々が途切れ途切れで良く聞き取れないが、どうやら夢の中で和也は誰かに話しかけられてるらしい・・・。 

「やめろ!やめろ!やめろぉぉ」 


 夢の中の和也はしゃがみながら耳を塞いで叫んでいる。だが塞いでも声はどこからともなく聞こえてくる・・・。それも男の声や女の声、中には子供の声も混じってる・・・。やがて途切れ途切れだった声ははっきりと聞こえるようになった・・・。 

「勝手だなぁ・・・」 

「ほんとに勝手だなぁ・・・」 

「俺はお前に殺されたのに・・・一人だけ幸せになるつもりかよ・・・」 

「許さない・・・絶対に許さない・・・」 

「殺してやる・・・お前を殺してやる・・・」 

「返せ!俺の人生を・・・返せ!」 

「人を殺しておいて、幸せになれると思ってるの・・・?」 

「あなたは、最低の人間よ・・・」 

「母親と幸せに暮らす・・・?人を殺すような人間は・・・幸せになる資格はない・・・」 

「ねぇ・・・僕のパパは、何処にいるの・・・?」 


 どうやら声の正体は、和也が命を奪った者たちの声みたいだ・・・恨み、憎悪などがこもった言葉がすべて和也に向けられている・・・借金の返済のために命を奪われた男、その妻、母親、父親、子供などありとあらゆる者たちの負の感情が和也に突き刺さる・・・。 

「許してくれ!許してくれ!許してくれぇぇぇぇ!」 


 夢の中の和也は、小さくうずくまり叫びながら懇願する・・・。そしてこんな考えが和也の頭の中を巡った。 


 よく自分の幸せは他人の不幸の上に成り立っていると言うが、その通りかもしれない・・・。母親と幸せに暮らして人生をやり直したいという思いがあったとしても、自分自身たくさん人の命を奪ってきたという事実は変わらない、いわばただのクズだ・・・人を愛することの喜び、愛される事の喜び、それを自分は身勝手な理由で奪ってきた・・・。そんな事をしておきながら、自分は幸せになりますって・・・おかしくないだろうか・・・今までの罪を背負って生きるとかっこいい事を言ったが、果たして自分に背負えるだろうか・・・虫が良すぎる気がする・・・。そう考えると夢の中の和也は怖くなりガタガタと震えだす。そんな和也の事なんかお構いなしで声はどんどん大きくなってくる・・・。 

「死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・死ね・・・」 

「頼む!もうやめてくれ!俺が・・・俺が悪かった!」 

「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」 

「うわぁぁぁぁぁ!!」 

「うお!!」 


 ここで和也の目が覚めた。 


 はぁはぁと肩で息をする。汗で体がぐっしょりと濡れており、その汗が枕やシーツまで及んでいる。 

「何なんだよ・・・まったく最悪だ・・・嫌な目覚めだな」 


 頭を抱えながら両目をこすり、ベッドから出る和也、汗まみれの体を洗い流すため風呂場へと向かう。 

「おはよう母ちゃ・・・あれ?」 


 和也は寝室のドアを開け良子に朝の挨拶をしようとしたが、良子の姿はない、まだ寝ているのだろうか、いつもなら寝室のドアを開けた瞬間、味噌汁や卵の焼ける匂いなどが和也の鼻をつくのだが、それがなくシーンと静まり返っている。 

「まぁいいか」と言い、和也は風呂場へ入りシャワーを浴びる。20分位経っただろうか、再び和也が戻って来ても、やはり良子の姿がない。 

「母ちゃーん!いないのか?」と呼んでも返事がない、今和也がいるこのリビング、トイレ、良子が寝床として使っている部屋、隅々見渡しても良子がいる気配は何処にもない。朝早い時間だが何処かに出かけているのだろうか。 


 和也は、以前に良子から聞いていた携帯の番号にかけてみる事にした。和也は寝室に行き自分の携帯を取ってくると、電話帳から良子の番号を探して電話をかける。 

プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・ガチャ・・・留守番電話に接続します。発信音の後に・・・。 


 和也は音声メッセージが終わる前に電話を切り、数分時間を置いてから再度電話をかける。 

”プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・ガチャ・・・留守番電話に・・・。 


 再びかけても良子には繋がらなかった。 

「チッ!何処行ってんだよ・・・たく」 


 和也は軽く舌打ちをすると、電話に出ない良子に対し少しイライラする。仕方ないので和也はとりあえず自分で朝食を作り、一人寂しく朝を過ごす。 

「本当何処に行ったんだ・・・まぁ放っておけばそのうち帰ってくるか」 


 そんな独り言を言いながら和也はトーストを頬張る。朝食を食べてる間もちょくちょく携帯電話の画面をチェックするが、良子から電話が来る気配はない。 

「あ、そういえば最近一人の時間を満喫できてないから、母ちゃんが帰ってくるまで一人でどっかぶらぶらするか」 


 和也は、良子を待ってても時間の無駄だと思ったのか、良子が帰ってくるまで一人で暇つぶしもかねて何処かへ出かける事にした。確かにここ最近良子と行動を共にしており、事あるごとに良子からからかわれていて疲れていたので、今回はいい機会だ。鬼の居ぬ間に洗濯とはこの事だ。 

「ふぅー、よし!出かけるか」 


 和也は朝食を平らげコーヒーを飲むと、食器を洗わず台所に雑に放り投げ身支度を整えて家を出た。 

「さて、何処行くか」 


 外に出たはいいが、和也はこれと言ってやることがなかったので、とりあえず新宿駅に向かう事にした。タクシーを使えば早いが、一人だし時間もあるので、和也はのんびり駅へと歩き出す。 


 数十分経つと、新宿駅が見えてきた。和也は、あてもなく周辺をぶらつく、すると左手の方にちょっと寂れた居酒屋を見つけた。昼間だが暖簾がかかっている、どうやらやっているようだ。 

「たまにはいいか」と言い和也は暖簾をくぐり中に入る。 

「いらっしゃい!1名様ですか?」 


 中に入ると、威勢のいい少し年老いた女性が出迎える。和也はコクっと頷き案内される前に勝手にカウンターに座る。 

「はい!いらっしゃい!」 


 カウンターの奥に目をやると今度はいかにも江戸っ子という感じの禿げたおじさんが和也を出迎える。どうやらこの二人は夫婦でこの店をやっているようだ、和也以外の客はいない、ぱっと見店の中も綺麗とは言い難い、あまり繁盛していない感じが漂った店だ。 


 とりあえず和也は生ビールと枝豆を注文する。注文を待っている間もやはり良子の事が気になるのか和也はしきりに携帯を気にする。案の定、携帯に着信が入る気配はない。 

「はい!生ビールと枝豆ね!」 


 注文したやつが来たので、とりあえず和也は、良子の事は後で考えるとして今は一人の時間を楽しもうと決めた。ジョッキを握り勢いよくビールを喉奥に流し込む、ジリジリという炭酸の音が和也の喉を鳴らす。ビールを流し込んだ後、枝豆を食べる。口を開けさやの部分を押すと、実が勢いよく口の中に入っていく。 

「ふうー」と長いため息をつく和也、どうやら久々の一人の時間を満喫出来ているようだ、あっと言う間にジョッキのビールがなくなった。和也はすかさずもう一杯生ビールを注文する。 


 こうして一人で飲んでいるうちに、2時間近くの時間が経っていた。和也はいつの間にか生ビールを八杯、日本酒三合を平らげていた。瞼が垂れ下がり顏もほんのり赤い、完全に酔っぱらってしまっている。カウンターのテーブルに突っ伏して寝てしまいそうになっている。その時だった・・・。 

”ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・。 


 突然和也の携帯が鳴り始めた。電話のようだ、だが和也は酔っぱらっているため出ようとしない。 

”ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリ・・・ 


 結構長い間鳴っていたが、完全に出来上がってしまった和也は出る事はなかった。今はテーブルで寝息を立てている。 

「ちょっと!お客さん!こんな所で寝ちゃダメですよ!」 


 カウンターにいるおじさんが和也の肩を揺らしながら話しかける。 

「うーん?何だよ?」 


 酔っぱらった和也が寝ぼけ眼のまま体を起こす、大きなあくびをしながら頭を左右にゆっくりと揺らす。 

「何だよじゃないですよ!少し飲みすぎなんじゃない?今日の所は帰った方がいいよ!」 


 おじさんが酔いすぎた和也を諭す、和也は言われるがままゆっくりと立ち上がりおぼつかない足取りで会計を済ませ店を後にした。 

「やべぇ、さすがに飲みすぎちまったな」 


 フラフラ歩きながら独り言を呟く和也、この後の予定として、よく行くパチンコ屋でスロットでも打とうかと考えていたが、この状態じゃとても行けそうにない。 

「あーめんどくせえ、帰って寝るか」 


 パチンコへ行くのを諦めて、和也は家に帰ることにした。こんなフラフラの状態で家まで歩いたら途中で力尽きてしまう、そう思った和也は近くのタクシー乗り場を目指す。 


 タクシー乗り場を目指し歩いてる途中、何気なく携帯を取り出す、すると1件の着信履歴がある、さっきの居酒屋での着信だが和也は酔っていたため覚えていない。 

「誰からだ?」と言い履歴を確認しようとすると良子からだ、ただ今は酒に酔ってるというのもあり、かけ直すのも億劫に感じる、和也はタクシーで家に帰ってからかけ直す事に決め、そのまま携帯を自分のポケットにしまった。 


 タクシー乗り場に着くと、和也は早々に乗り込み家路へと急ぐ、酔いのせいで体が怠い、一刻も早く家のベッドに飛び込み眠りたい気分だった。 


 タクシーの揺れが心地いいのか、和也はまた眠気に襲われる、そして数分とたたないうちに寝てしまった。 

「お客さん!着きましたよ!」 


 タクシーの運転手に起こされ、和也は眠い目をこすりながら家に向かって歩き出す。家の鍵を開けて中に入ると、やはり良子は帰っていなかった。ただ、そんなことよりも今は眠い、和也は良子に電話をかけ直す事も忘れ、寝室に直行しうつ伏せで倒れこむようにベッドに入る、そしてそのまま、ぐぅぐぅといびきをかきながら爆睡した。 

”ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・ピリリリリリ・・・。 


 和也が眠りについてから四時間程経った。ポケットに入れたままだった携帯からまたも着信が入る。 

「あぁー!うっせえなぁ!」 


 和也が怒りながら携帯を取り出す、着信者を見るとやはり良子だ、まだ酔いは醒めてなく眠かったが和也は渋々電話に出る。 

「もしもし」 

「和也!和也!」 

「おい、母ちゃん一体何処にいるんだよ!勝手にいなくなるなよな、心配するだろ!」 

「和也!助けて!」 

「は?何言ってんだよ」 

「嫌!和也ぁ!早く来て!このままじゃ私・・・私・・・」 


 良子の様子がいつもと違う・・・。 

「落ち着けよ!何があったんだよ!」 

”ガシャーン、パリーン・・・。 


 突如、電話越しでけたたましい音が鳴り響く・・・。 

「きゃあああああ!お願いします!殺さないで!」 

「え?お・・・おい!母ちゃん!母ちゃん!」 

「和也ぁぁぁぁぁ!」 


 ここで、電話がプツっと切れた。良子が危ない、どういう事情でそうなったのかは分からないが、電話越しからでも分かるように、明らかに良子は何者かに殺されようとしている・・・。 

「クソ!」と吐き捨て、完全に酔いから醒めた和也は、ベッドから飛び起き、外へ飛び出した。 


 外に出たのはいいものの、一体良子は何処にいるのだろう・・・ただあてもなく探しても時間だけ無駄に浪費してしまう、和也は頭を掻きながらその場をくるくる周ったり、右往左往している。 

「どうしたらいい、どうしたら・・・」 


 考えれば考えるほど、どうしたらいいか分からなくなる、泥沼にはまっていく、こうしている間にも良子は・・・嫌な思考が和也の頭の中を巡る。 

「そうだ!」 


 何か閃いたのか、和也は一心不乱に駆け出した。(母ちゃん!無事でいてくれ!頼む!)と心の中で叫びながら、息が切れても走り続けた。 


 向かった先は、和也が出入りしていた事務所だ、和也の頭の中にはある一つの仮説が浮かんでいた。というのは、和也がこの事務所に出入りしていた時、同業の敵対していた組織とよくいざこざを起こしていた。今回和也の母親が現れたという情報をどこからか掴んだ敵対組織が、良子を拉致して監禁しているというものだ。事務所に行って、和也の世話をしていた男に聞けば何か分かるかもしれない、そう思って和也はこの事務所にきたのだ。和也は一縷の望みに賭けて事務所のドアを開けた・・・。 

「な・・・何だよこれ!」 


 ドアを開けた和也は驚愕した。事務所が滅茶苦茶に荒らされていたのだ、デスクがひっくり返され、あちこちに書類が散乱しており、窓ガラスがあちこち割られている。やはり敵対している組織に襲われたのだろう、和也はそう確信した。 

「あ!」 


 和也がある一角に目をやると、ひっくり返されたデスクの傍に男が倒れている、和也は男の傍に駆け寄った。 

「しっかりしてください!大丈夫ですか?」 


 呼びかけたが男の反応はない、男は死んでいた・・・目は死んだ魚のよう、頭には鈍器で何度も殴られたような跡、頭皮が一部剥がれ落ちており、頭蓋骨が一部露出している・・・。 

「和也・・・」 


 微かだが、自分を呼ぶ声がした。和也は声のした方へと歩を進める。すると、ソファーが邪魔になっていて見えなかったが、そこにも人が一人倒れている。確認するとそれは良子だった。 

「おい!母ちゃん!」 


 慌てて和也が良子へと近づく、太ももから血を流し苦しそうにしている。幸い命には別条なさそうだ。しかしまともに歩けそうにない。和也は良子を抱えソファーに寝かせた。 

「母ちゃん、ここで何があったんだよ!説明してくれ」 


 和也が良子に尋ねる。そして良子は事の顛末を話し始めた。 

「急に、黒いスーツを着た男たちが、襲い掛かってきたのよ」 

「なんで母ちゃんはここにいるんだ?」 

「今日の朝、少し散歩でもしようかなって思って、外をぶらぶら歩いてたの、それで散歩途中にこの事務所に寄ったのよ、和也の面倒見てくれた方にお礼を言おうと思って」 

「それからは?」 

「それからは、事務所で少しお喋りした後、食事に行こうって誘われたの、和也に電話して、三人で行こうと思ったんだけど和也電話出なかったから」 

「それで?」 

「そこからは、普通に食事して別れたわ、でもその後、あの方にお礼の品か何かを渡したいと思ってデパートで買い物してからもう一度事務所へ行ったの、そして事務所へ来てまた少しお喋りしていたら・・・ご覧の通りよ・・・」 


 良子の話を聞いて和也は後悔の念に駆られた。一回目の電話の時にきちんと出ていればこんな事にはならなかったはず、それなのに自分は一人を良い事に呑気に酒を飲んで酔っぱらっていた。もし襲われる場面に出くわしていれば、腕っぷしの強い和也の力でどうにか出来たかもしれない・・・。そう思うと和也は悔しくてたまらなくなった。自分の拳をぎゅっと握りしめる。 

「ごめんな、俺が電話に出ていればこんな事には・・・」 


 和也は良子の手を握り頭を下げる。 

「和也のせいじゃないわ、気にしないで」 


 良子が痛む太ももを抑えながら、和也に笑みを送る、いつもの良子の優しい笑顔、いつもならその笑顔を見て心が癒される和也だが、今回ばかりは胸が苦しい感じがしていた。 

「とにかく、ここを出よう、立てるか?」 


 和也は怪我をしている良子を抱えると、ゆっくりとした足取りで事務所を後にした。 

「待ってろ、今救急車・・・」 


 そう言いながら和也は携帯を取り出したが、何故か手が止まり、119番のボタンを押すのをためらう、和也の頭の中には、ある不安な考えが浮かんでいた。 


 それは、今ここで救急車を呼んで良子と一緒に病院に行って治療を受けさせたら、刺された良子の足を見て、医者が事件性を疑い、警察に通報してしまうのではないかという事だ、通報して警察が捜査をしたら、今回の事件の他に、和也が今まで犯してきた罪が明るみになり、和也も檻の中に放り込まれてしまうかもしれない、そうすれば、和也は良子と永遠に会えなくなるかもしれない・・・捕まれば無期懲役、最悪死刑もあり得る・・・。せっかく良子との幸せな人生を歩みだしたのに、それを失ってしまうなんて、和也には耐えられない。和也は静かに携帯を胸ポケットにしまった・・・。 

「母ちゃん、今家で手当てしてやるからな」 


 和也はこのまま家に帰る事にしたようだ。 

「え?家?病院へは行かないの?」 


 良子が怪訝な顔で和也に尋ねる。 

「俺の家に行けば手当てする道具があるから、それで十分だ」 


 和也は、上手くごまかし、それ以上の話はせずタクシーを捕まえ、半ば無理矢理良子を乗せ、家へと向かった。 

「う・・・うぅ」 


 タクシーの中で、良子がうめき声を上げ、かなり苦しそうにしている。額から冷や汗を出し、顏が青ざめて行く。和也はそんな良子の手を握り必死に励ます。 

「母ちゃん、もう少しだから耐えてくれ」 


 数分後、家の前に着いた。良子の様子を見る限り、容体はますます悪くなってる感じだ、和也は良子を抱え上げ、玄関を開け、寝室に連れていき、ベッドに良子を寝かせる。 


 良子の太ももの傷を見ると、傷口が化膿しぐちゅぐちゅに膿んでいる。血と膿が混ざった液体みたいな物が雨が降った後に窓につく雫のように、良子の太ももに垂れる。 


 和也は借金取り時代に、万が一争いに巻き込まれ怪我をした場合、自分で手当ができるように、家に救急セットが取り揃えてある、病院程充実はしてないが、ある程度の怪我なら処置ができる。まず和也は良子に鎮痛剤を飲ませた。その後消毒液を傷口にかけ血と膿をガーゼで綺麗に拭き取る。 

「あぁぁぁぁ!ぐぅぅ!」 


 あまりの激痛に良子が悲鳴を上げる。 

「母ちゃん、すぐ終わるから我慢してくれ!」 


 その後和也は、針先をライターで炙った後糸を通す。本来なら麻酔が必要だが残念ながら麻酔薬はない、だが傷口をそのままにするわけにはいかない、意を決した和也は、針を良子の傷口に通す。プツっという鈍い音がした。 

「い・・・あぁぁ・・・いた・・・」 


 痛みで良子が足をバタつかせるが、必死で押さえ、治療を続ける。過去に何度かこういう場面に出くわしているのか、和也は慣れた手つきで処置をしていく。 

”プツ、シュー、プツ、シュー、プツ、シュー”という針が皮膚に刺さる音と、糸が皮膚を通り抜ける音が静寂に包まれた寝室内に響く。その間も良子は「うぅ・・・」とうめき声を上げ、痛みと必死に戦っている。 

「よし、母ちゃん!終わったぞ!」 


 どうやら治療は終わったようだ、良子はあまりの痛みで苦悶の表情のまま、肩でハアハア息をしている。和也が縫った傷口にガーゼを当て、その上から包帯を巻き固定した。傷口が化膿したせいで、熱もでている、和也は濡れタオルを良子の額に乗せる。 

「和也、ありがとう」 


 虚ろな目で和也にお礼を言う良子、呼吸が荒く、まだ苦しそうにしている。 

「母ちゃん、今日はこのままゆっくり休めよ、明日また包帯変えてやるからな」 


 そう言うと和也は、良子にゆっくり布団をかける、良子はそのままゆっくりと目を閉じる。そんな良子をしばらく観察すると、和也はゆっくりと寝室を後にする。 

 ソファーに腰掛けると和也は、ガンと思い切りテーブルに拳を叩きつけた。和也の顏は怒りで満ちている。良子を守れなかった自分自身に対しての怒りと、良子を襲った奴らへの怒りが混同して、頭の中がぐちゃぐちゃになる。 

「母ちゃん、ごめんな・・・守れなくて・・・くそ、絶対ゆるさねぇ・・・母ちゃんを襲った奴ら、俺がこの手で・・・」 


 そう言うと和也は拳をぎゅうっと強く握る、握った拳からは血が滴る。すると和也は急にハッとして我に返る。 

「いや、だめだ、俺は母ちゃんと人生をやり直すって決めたんだ、ここで母ちゃんを襲った奴らを探し出して報復しても、さらに危険な目に合わせるだけだ、俺の命だって・・・危ない・・・」 


 和也は、湧き上がる怒りをぐっと堪える。和也の凶暴な一面が見え隠れする。 

「ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ、ダメだ」 


 何度も、自分に言い聞かせ、必死で自分自身を納得させようとする和也、もう和也は暴力の世界からは足を洗った。これからは暴力ではなく、愛に溢れた人生を送る、大人になってから愛を知り、良子のおかげで、混沌とした世界から抜け出せたのだ、この幸せを失うなんて和也には耐えられない。 

”・・・一人だけ幸せになるつもりかよ・・・” 


 以前に、見た夢で言われた言葉が和也の頭の中にフラッシュバックする。両手で頭を抱え、左右に激しく振り、必死で抗う。 


 どのくらいの時間が経ったのだろうか、気が付くと外はうっすらと日の光が見え始めている。どうやら知らぬ間に寝てしまっていたらしい。 

「母ちゃんの様子を見に行くか」 


 そう言うと和也は、寝室の前まで行き、そしてゆっくりとドアを開けた。中では良子がまだ眠っていた。どうやら昨日の処置が役に立ったのか、苦しむ様子もなく、和也はほっと胸を撫でおろした。 

”ピンポーン” 


 寝室を出ようとした時、突然、インターホンが鳴る、和也の家に客が来ることなんて滅多にないが、しかもこんな朝早い時間帯に、和也は不思議に思いながらも玄関に向かった。 


 ドアスコープを見てみると、スーツを着た男が三名ほど立っていた。少し嫌な予感がする・・・。 


 まさか・・・敵対している組織が、和也の家を特定し、乗り込んできた?和也の心臓の鼓動がだんだんと早くなっていく・・・。 


 和也はドアにチェーンをかけた後、一旦キッチンへ行き、台所から果物ナイフを手に取った・・・。万が一襲われた時のためだ、そしてまた、ドアの前まで行き、ナイフを持った右手を後ろに回し、左手で鍵を開け、ゆっくりとドアを開けた・・・。 

「誰だ?」 


 ドア越しに数名の男に話しかける。すると数名の男の中の一人が口を開いた。 

「佐伯和也さんですか?」 

「ああ、そうだけど、あんたらは?」 

「・・・警察です」 


 そう言うとスーツの男の一人が、和也の目の前に手帳を突き付ける。キラキラ輝くエンブレムの下に、ローマ字でPoliceと書かれている。 


 和也はドアの前で立ったまま動くことができない・・・。 


 8章~業(カルマ)~ 

「け、警察?警察が何の用だよ」 


 和也は、焦る気持ちを必死で抑えながら、警察に尋ねる。 

「はい、昨日発生した、暴力団関係者が運営している闇金事務所の殺人事件について調べてるんですがね、何かご存知ないですか?」 


 警察の連中は、慣れた口調で喋りながら和也に問いかける。 

「俺が知ってるわけないだろう!何で俺に聞くんだ?」 


 和也が、警察に冷たく言い放つ。 

「だって、あなたあの事務所に出入りしてましたよね?」 


 和也の胸が一瞬ドキッとした。そして額から一筋の汗が顎の方に滴り落ちる。和也があの事務所で働いていたという証拠は、辞める事を告げに行ったあの時に全て処分したはず・・・一体何処から情報が漏れたのだろう・・・。ここで変にごまかすのはまずい、そう思って和也は正直に話をした。 

「確かに出入りはしていたが、今は辞めて全くの無関係だよ!だから俺は何も知らない!」 


 疑いの目を向けてる警察に対して、和也は毅然とした態度で言った。 

「本当に?」 


 警察がさらに疑いの目を強める。なかなか食い下がらない警察に対し、和也はイライラし始める。 

「本当だよ!しつけえな!早く帰れよ!」 


 和也は、口調を荒げて警察に言い放つ。 

「少しお邪魔して中を拝見させて貰ってもよろしいですか?」 


 イライラしている和也の事なんか無視するかのように、警察の連中は家の中に入ろうとする。それだけは絶対に阻止しなくてはならない、もし入られて怪我をしている良子を見られでもしたら、ますます和也が不利になる。 

「令状は!令状はあるのか?」 


 強気な態度に出る和也だが、焦ってるせいか、目が泳ぎ、少し動揺してしまっている。そして和也が警察に尋ねたその瞬間警察は「はい、ここに」と言い、警察は捜査令状を和也の目の前に突き付けた。それを見た和也は、俯いたまま黙ってしまう。 


 少しの間、沈黙が続いた後和也は「・・・入れ」と一言だけ言い、チェーンを外し、鍵を開け警察を招き入れようとした。その時・・・。 

”カキン” 


 少し力を抜いたせいで、右手に持ってたナイフを落としてしまった。最悪のタイミングだ・・・ナイフは丁度和也の股の間、警察にも見える位置に落ちてしまった・・・。 

「ん?これは・・・お前!」 


 案の定、警察はナイフに気付いた。さっきまで穏やかな口調で喋っていたのが嘘のように、眉間にしわを寄せ、和也に迫る。 

「おい!何だよ、放せよ!」 


 床に倒され、強い力で押さえつけられた和也は、必死で抵抗する。手足をバタつかせ、起き上がろうとするが無駄だった。和也は、あっと言う間に、警察に取り押さえられてしまった。 

「大人しくしろ!やっぱりお前が犯人だったんだな!」 


 警察は、事務所の一件の犯人は和也だと思い込んでいるらしい、だがそれは明らかな誤解だ、和也は必死で弁解をする。 

「ま、待ってくれよ!俺はその件に関しては無関係だ!事件があった日、あの事務所には行ったが、俺が着いた時には、もう死んでたんだよ!」 

「じゃあ、何故さっきナイフを隠し持ってた?ばれるのを恐れてオレ達まで殺そうとしたんじゃないのか?」 

「ち、違う!そんなんじゃない!」 

「そんなんじゃない?じゃあ何だと言うんだ!」 

「それは、事務所を襲った奴らが来たんじゃないかと思って、身を守るために持ってただけだ!」 

「嘘をつけ!」 

「ほ、本当だよ!信じてくれ!俺はやってない!」 

「とりあえず、詳しい話は署で聞かせてもらうぞ、さあ、立て!」 

「ちょっと待ってくれ!本当に俺じゃない!俺じゃないんだよ!何で信じてくれないんだ!」 


 和也が、警察達に乱暴に立たされ、連れて行かれそうになったその時、寝室のドアが、ギイイっと鈍い音をたててゆっくりと開いた。ドアの向こう側には、良子が立っていた・・・。 

「母ちゃん!母ちゃんからも説明してくれ!俺が犯人じゃないって事を」 


 和也は、良子に警察へ説明するよう求めるが、良子はドアの前で立ってるだけで、一言も喋ろうとしない。 

「母ちゃん!何で黙ってるんだよ!何か言えって!」 

「あの、あなたは?」 


 二人の話に割って入るような形で、警察が良子に尋ねる、声を荒げる和也の声なんか耳に入っていないとばかりに、良子は警察の質問にだけ答えた。 

「私ですか?私は、その男に・・・」 

「怪我をされてますね、この男に、何かされたんですか?」 

「その男に、借金をしてて、返済が出来なくて・・・」 

「それで?」 

「・・・監禁されてました。逃げようとしたら、足を刺されて・・・」 


 訳の分からない事を口走る良子。 

「は?な、何言ってんだ母ちゃん!」 

「この男はさっきからあなたを母ちゃんと言ってますが、あなた母親では?」 

「母親?まさか・・・」 


 良子が、ずりずりと痛む足を引きずりながら、和也の方へ近づいていく。そして和也の目の前で・・・。 

「そんな男、知りませんね・・・」と言い放った。 


 そんな男は知らない・・・良子の口からでた言葉は信じられないものだった。冷酷な口調、顏は人形のように無表情、いつもの温和で、笑顔が愛らしく、はつらつとした良子とはまるで別人だ。いや、良子ではない、良子の皮を被った機械、そんな風に見える。 

「こんな時に冗談はやめろよ母ちゃん!寝ぼけてるのか?」 


 半ば呆れながら、良子に問う和也、二人の間にしばしの沈黙の時間が流れる。 

しばらくして、「あなた・・・」と一言言い、良子はただ和也を見つめるだけでそれ以上の言葉は発しない。いや、見つめるというよりは、睨むという感じだ、激しい憎悪を感じる・・・。良子は一体どうしたというのだろうか・・・。 

「刑事さん!早く連れて行って!そいつを!」 


 さっきまでの冷徹な態度とは裏腹に、急に声を荒げ、怒りを露わにし、和也を指さしてゴミ虫呼ばわりをする良子、その様子を見て和也は言葉を失い呆然と立ち尽くす。警察も、あまりの良子の迫力に圧倒され、後ずさりした。良子は、踵を返し、寝室がある部屋へと戻っていく。 

「さあ!行くぞ!」 


 そう言うと、警察は強引に和也の腕を引っ張り、署へと連行しようとする。 

「放せ!おい!母ちゃん!母ちゃん!」 


 和也の呼びかけも空しく、寝室のドアが開くことはなかった・・・。良子との距離が次第に離れていく。 

「母ちゃん!俺の事知らないだなんて、何でそんな事言うんだよ!嘘だろ?嘘なんだろ?俺が殺したんじゃないって一番分かってるのは母ちゃんじゃないか!何でこんな事するんだよ!二人で幸せになろうって約束しただろ!なぁ!母ちゃーん!」 


 和也は無情にも、手錠をかけられ、そのままパトカーに乗せられた。パトカーの窓から、自分の家の玄関を見る、もしかしたら、良子が心配して来てくれるんじゃないか、そんな期待をしながら・・・だがそんな期待、所詮は幻想、パトカーが動き出し、だんだんと家が遠くなっていき、やがて見えなくなった・・・。和也は窓から目をずらし、肩を落とし、両手で顔を覆い、今この状況を悲観する。 

「なんで、なんであんな事を、母ちゃん・・・」 

”そんな男、知りませんね・・・” 


 あの時の、良子の言葉が、和也の脳裏に焼き付いて離れない。考えれば考えるほど、和也の心に深く突き刺さり、ぐちゃぐちゃにかき乱される。 


 和也は、深く目を瞑った。 

”おはよう、和也” 

”和也、ありがとう” 

”おやすみ、和也” 


 良子と暮らした日々を思い出す和也。朝起きた時の味噌汁の匂い、良子の温もり、笑顔、愛情、様々な物を妄想する。この現実から逃げるかのように・・・。しかし、現実は・・・。 

”ガチャ” 

「おい!降りろ!」 


 警察の男の、低い声が和也の耳に響く、どうやら警察署へ着いたようだ。現実へ引き戻された和也は、俯き、深いため息をついた。両脇を警察の男二人に抱えられ、トボトボと歩いていく。 

「両手を出せ!」 

”カチャ、カチャ、カチ” 


 和也の両手にされていた手錠が外された。そして・・・。 

”ガラガラ” 

「入れ!」 

”ガシャーン” 


 和也が入れられたのは、薄暗い檻の中だった。ひんやりとした鉄格子、黄ばんだベッド、汚物がこびりついている便所、和也はそのまま床にへたり込んだ。 

「明日、お前の取り調べを行う!それまで大人しくしておけ!」 


 警察の男は、そう言うと和也の元から去っていった。 


 捕まってから、数時間経った。和也は、汚れたベッドの上に寝そべり、天井を見上げながら考え事をしていた。 

「なんで、こんな事になったんだ・・・」 


 愛を知り、幸せになるはずだった・・・。だが、今は幸せとはほど遠い状況に追い込まれている。和也は、今この状況を、まだ受け入れられずにいる。それ以上に、あの良子の態度に和也は深くショックを受けていた。 

「これは、俺のこれまでの行いに対する罰なのか?だから母ちゃんもあんな事を・・・俺に償いをさせるために・・・」 


 和也は誰もいない檻の中で独りでポツリと呟く。 


 この状況は、和也のこれまでの行動、そしてその行動に対する結果、宗教的な言葉に置き換えるとこれは業(カルマ)だ、良い行いをすればその分いい結果が返ってくる、逆に悪い行いをすればその分悪い結果が返ってくるというものだ。 


 和也はこれまで、数々の悪行に手を染めてきた。暴力で自分を満たし、己の利益のために平気で人を陥れ、時には命を奪ってきた。和也の中にある業(カルマ)は、明らかに負の業(カルマ)が多い、愛を知り、過去と決別し、大切な人を愛しながら生きていく、では・・・過去の清算はしなくていいのだろうか・・・?自分は人の命をゴミのように扱ってきた。でも幸せになる権利はある・・・果たしてそうだろうか?都合が良すぎではないか?無償の愛をくれた良子との出会いで、愛の素晴らしさを知ったとはいえ、過去の行いを打ち消すことは、到底できないのではないか?愛に生きるのであれば、和也自身が起こした事件ではないにしろ、この絶望的な状況を受け入れて清算しなくてはいけないのではないか、でなければ、和也が背負っている、負の業(カルマ)は帳消しには出来ない・・・。愛に生きる事は出来ない。愛に生きるスタートラインにすら立つ事もできない・・・和也が負の業(カルマ)を浄化し、正の業(カルマ)で満たす事が出来る日は来るのだろうか・・・もしかしたらこのまま和也は・・・。 

「こんな事になるなら・・・こんな事になるなら・・・」 


 和也は闇に堕ちていく・・・。陰に極まれば陽に転じ、陽に極まれば陰に転ずる、和也はこの世の不変のサイクルの中でもがき苦しむことになるのかもしれない・・・。 


 9章~真実~  


 和也が逮捕され、数週間が経った頃良子が面会に来た。 

「母ちゃん、久しぶりだな」 

「そうね、和也”さん”・・・」 

「怪我は治ったか?」 

「ええ」 

「元気そうで良かったよ」 

「和也”さん”は、少し痩せましたね」 

「あぁ、取り調べとかで疲れちまったよ」 

「大変だったのね、和也”さん”」 

「なぁ、母ちゃん」 

「何?和也”さん”」 

「あの時、何で、俺の事を知らないって言ったんだ?」 

「知らないからよ・・・」 

「何だよそれ、相変わらず冗談が上手いな」 

「冗談?冗談なんかじゃないわ」 

「それと、なんで俺の事”さん”付けなんだ?」 

「嫌?」 

「他人行儀みたいじゃないかよ」 

「・・・他人だもの、仕方ないじゃない・・・」 

「え?」 

「だから、和也さん、あなたは他人なの・・・」 

「何言ってるんだ?」 

「分からないの?」 


 そう言うと、良子はポケットから一枚の紙を取り出し、和也に見せた。 

「戸籍謄本?」 

「和也さん、良く名前を見てみなさい」 

「・・・箕浦良子(みのうらよしこ)箕浦信二(みのうらしんじ)・・・え?」 


 そこに和也の名前はない・・・和也の苗字は佐伯だ。 

「どういうことだよ・・・母ちゃん」 

「あなた・・・まだ私を母親だと思ってるの?」 

「まさか・・・」 

「そう・・・そのまさかよ、やっと気付いたわね」 

「お、俺は・・・」 

「そうよ、あなたは、私の子供なんかじゃない・・・あなたは私が憎むべき人、この世で1番憎くてたまらない人」 

「う、嘘だろ・・・?」 

「すべて事実よ、私はあなたを許さない・・・」 

「嘘だ!そんなわけあるか!」 


 和也は、両拳をテーブルに叩きつける。 

「本当に、大変だったわ・・・」 

「大変?」 

「えぇ、あなたの母親を演じるのが」 

「なんで、何でこんな事を・・・?」 

「何で?決まってるじゃない・・・」 

「え?」 

「あなたに、復讐するためよ・・・」 

「復讐?」 

「あなたに、ありがとうな、母ちゃんって言われた時、嬉しかったわ、これで私は・・・心おきなくあなたに復讐することができる・・・そう思えたから」 

「な、何を言ってるんだよ!」 

「あなた、箕浦って苗字に聞き覚えない?」 

「箕浦?」 


 和也は、記憶を頼りに、ここ数日、数週間の出来事を思い出す。 

「あ!」 

 和也は、パっと目を見開き、小さな叫び声を上げた。 

「どうやら、思い出したようね・・・」 

「あ、あの時の・・・」 

「そう、私は、あなたが執拗に借金を取り立て、そして、殺した、箕浦信二の・・・母親」 

「あ、あの男・・・あ、あの男の・・・」 

「何でそんなに驚いてるの?和也さん・・・」 

「か、母ちゃん・・・」 

「その母ちゃんって呼び方、止めて・・・汚らわしい!」 

「そんな・・・母ちゃん」 

「止めて!もう私はあなたの母親じゃない!」 

「かあちゃ」 

「止めろー!」 


 部屋中に良子の怒号が響き渡った後、しばし二人の間に沈黙が訪れる。空気が鉛のように重たく感じる。 

「あの時、部屋の中にいたのか?」 

「ええ」 


      * 


  

 今日は、久々に息子の信二と2人で食事へ行く日、栃木県の田舎から、慣れない電車に乗り、東京までやってきた。事前に信二からメールで聞いていた住所へと向かう良子、久々に会うという事で、良子は嬉しそうだ。 

「あの子、元気にしてるかしら」 


 自然と良子は笑顔になる、頬がつり上がり、目尻にしわが寄る。良子は、信二が小学生の頃に離婚をして、それから女手一つで育て、精一杯の愛情を注いできた。貧しい暮らしをしていたが、それなりに幸せだった。信二が成人した今も、その愛情は変わっていない。高校卒業と同時に、信二は上京をしており、たまに電話で話はしていたが、直接顔を見るのは、信二が高校の時以来だから、約3年ぶり位になる。 

「あ!あのアパートかしら」 


 信二の住んでるアパートが見えてきた。良子は、早く信二に会いたいのか小走りで信二の部屋へと向かう。そしてドアの前まで行くと、人差し指で力強くインターホンを押した。 


 数秒後、ガチャッとドアが開き、信二が顔を出した。 

「母さん、久しぶり!」 


 信二が、飛び切りの笑顔を良子に見せる。それにつられ、良子も自然と笑顔になる。 

「信二、元気そうね」 


 良子が、元気そうな信二を見て、安堵した表情を見せる、そして乱暴に頭を撫で、信二の髪をクシャクシャにした。 

「止めろよ!恥ずかしいな!」 


 信二が、乱れた髪を直しながら、良子を家の中に招き入れる。 

「お邪魔しまーす!」 

「相変わらずだな、母さんは」 


 久々の親と子の時間だ、良子はソファーに腰掛け、辺りをきょろきょろと見回す。 

「何か、殺風景ね、こんな部屋じゃ彼女連れてきたとき困るんじゃない?」 

「いいんだよ、金もないし、生活に必要な物さえあれば僕は満足だよ、それに彼女作る気ないし」 

「なんで?彼女欲しくないの?」 

「ハハ、こんな貧乏な奴、誰が好きになるんだよ」 


 そう言うと信二は、淹れたコーヒーを良子の前に置いた。「ありがとう」と一言言い、良子はマグカップに手を伸ばし、フーフーと息をかけながら、ズズっと一口だけすすった。 

「そういえば母さん、今日の食事だけど、何か食べたいものある?」 


 信二が良子に尋ねる。 

「んーそうねえー」 


 マグカップを両手で持ちながら、良子が天井を見上げながら考え込む。 

「そうだ!お寿司なんかどうかしら?しかも回らないお寿司!」 

「えぇー?回らない寿司?高いんじゃないの?」 


 良子の突然の提案に、信二は顔を前に突き出し、目を大きく開け、驚いた様子を見せる。 

「大丈夫よ!母さんに任せなさい!」 


 良子は、握りこぶしを自分の胸に押し当て自信満々の表情をして見せた。 

「いや、それは悪いよ、行くなら俺がお金出すよ!」 

「貧乏なのにお金あるの?」 


 ニヤニヤしながら、信二の顔を覗き込む良子。 

「んーとねぇ・・・ない」 

「ほら!やっぱり、素直じゃないわね、この馬鹿!」 


 良子は、信二の頭を軽く小突く。信二は申し訳なさそうに、頭を掻く。 

「いつもありがとうね、母さん」 

「いいのよ、これでも母親だもの、気にしないで」 


 笑顔で見つめ合う二人。 

「母さん」 


 信二の笑顔が急に消える。 

「どうしたの?」 


 心配そうに、信二を見つめる良子。 

「実はさ、母さんに言わなきゃいけない事があるんだ・・・。」 

「何?」 

「俺、実は・・・」  

”ピンポーン” 


 突然、インターホンが鳴った。一旦話を止め、信二が立ち上がり玄関まで行く。 


 ドアスコープを覗き込むと、急に信二が慌てた様子で振り返り、良子の元へ駆け寄ってきた。 

「母さん!隠れて!」 

「え?ちょ、ちょっと!何よ急に!」 

「いいから!早く!」 


 信二は、良子を無理矢理ソファーから立たせ、押入れを開け、そこに良子を放り込んだ。 

「ちょっと!何なの信二!説明しなさいよ!」 


 突然の出来事に、混乱する良子、明らかに信二の様子が普通じゃない。 

「母さん、絶対に押入れを開けちゃだめだよ?いい?」 


 説明を求める良子の言葉を無視し、信二は良子の両肩に手を置き、真剣な眼差しで良子に言った。 

「信二、何があったの?」 

「大丈夫だから・・・」 

”スパン” 


 大丈夫、一言そう告げると、信二は押入れの襖を閉めた。 


 良子は、真っ暗な押入れの中で、襖に自分の耳を近付けた。信二が玄関まで行く足音が聞こえ、その後ドアを開ける音が聞こえた。 

「おい!てめえ!」 

”バターン” 

「うわぁ!」 

「え?何?」 


 良子はそのまま、耳をすませる。 

「てめえ!いつになったら金返すんだ?あぁ!!?」 

(え?金返す?それって、借金?信二借金してたの?言わなきゃいけない事って、借金の事?) 


 押入れの中で、良子は今の状況を必死で整理しようとした。そんな中押入れの向こう側では、信二の叫ぶ声や、怒号が鳴り響いている。 

「す、すいません!必ず返します!返しますから・・・許してください!」 

「必ず返す?いつだよ!おい!」 

(お願い・・・許してあげて、お願い・・・) 


 目には見えないが、信二が今どんな目に遭わされているのか、容易に想像できる、良子は耳を塞ぎ信二の無事を祈り続けた。 


 押入れに入って、どのくらいの時間が経っただろう、良子は早くこの悪夢が過ぎ去るのを、ただただ待つ事しか出来ない、1分が1時間にも感じられた。 

「うぎゃぁぁぁ~~~・・・あががが・・・」 


 信二の断末魔の悲鳴。 

(信二?お願い!もうやめて・・・私の息子にひどいことしないで!) 


 耳を塞いでも、声が聞こえてくる。手のひらを耳に強く押し付けても、聞こえてくる。 

(早く終わって!早く・・・早く・・・早く!」 

「・・・オレは死ぬんだな・・・」 

(え・・・?今の声、信二・・・?」 


 良子は、音を立てないように、片目で覗ける程度に、ゆっくりと襖を開けた。そこには無残に横たわる信二の姿があった。 

(ハ!信二!) 


 声を上げそうになるも、両手で口を抑え良子は必死にこらえた。息子の哀れな姿に、涙が溢れてくる。息子のあんな姿を見るのが辛い、そう思い、良子は再び襖を閉めて、体を丸くし、時が経つのを待つ。 

「母親や父親という存在も知らず・・・誰からも愛されずオレは今まで生きてきた。」 

(母親や父親がいない?信二に暴行してる人の事ね・・・) 


 会話のすべては上手く聞き取れないが、所々会話の内容が聞こえてくる。 

「あんた、名前は?」 


 信二の声がした。 

「・・・和也だよ」 

(和也?男の名前は、和也・・・私の息子をこんな目にあわせた張本人・・・) 


 再び、良子は襖を片目で覗ける程度に開けた。すると信二は苦悶の表情を浮かべながら、数人に抱えられ何処かに連れていかれる所だった。 

(信二!このままじゃ信二は・・・殺される!なんとかしなくちゃ!) 


 信二の身を案じた良子は、連中がいなくなるのを見計らって、ゆっくりと襖を開けて、中から出てきた。 

(信二を助けなくちゃ!でも、どうやって・・・) 


 その時、良子は敷居につまずいて、転んでしまった。ガタンとテーブルにぶつかり少し音が出てしまった。 

「誰だ!誰かいるのか!?」 


 良子は、恐怖でその場で固まった。カメのように体を丸めてやり過ごす。もし見つかれば、良子も信二同様、ただではすまされない・・・。 

(来ないで、来ないで、来ないで、来ないで・・・!) 


 心の中で、念仏でも唱えるかのように、同じ言葉を繰り返す良子、体の震えが止まらない。 


 玄関の方で、ガチャンとドアが閉まる音がした。どうやら気付かれずに済んだようだ、ゆっくりと体を起こし、良子も忍び足で玄関へと向かった。ドアを開け、辺りを見渡すと、階段を降りる男の後ろ姿が目に入った。 

(部屋では、誰にも顏を見られてないはず、普通に歩いてもばれないわよね) 


 良子は、数メートル先にいる男の背中を確認しつつ、平静を装い歩き出す。男の方に近づくにつれ、心臓の鼓動が早くなっていく。そして男のすぐ近くまで来た。そばに車が置いてある、おそらく信二は車の中にいるはず・・・。だが良子は、何もせず、顏を見られないように、少し俯き加減でそのまま通り過ぎた。 

(信二・・・ごめんね、助けたいけど、私・・・怖くて何もできない・・・) 


 自分自身の不甲斐なさからか、自然と涙が溢れてくる。 

「和也です。今例の男を、あの場所へ連れていく所です」 


 すぐ後ろで、和也という言葉が聞こえた。良子は涙を拭いゆっくりと振り返る。 

「はい、はい、大丈夫です。始末したらいつものように処理しますから、金は1週間くらいでもどってくるかと」 

(和也は、この男ね・・・始末?もう信二は・・・) 


 和也という男は、良子の横を携帯で話しながら通り過ぎる、良子はその顔をしっかりと目に焼き付ける。涙は一瞬で枯れ、憎悪の目となる。 

(許さない・・・絶対に許さない)
 

 良子は、適度な距離を保ちながら、和也の後をつけた。 

(確か、この和也とかいう男、母親と父親がいないって言ってたわね)
 

 和也が、立ち止まり、電柱のすぐそばで煙草をふかし始めた。 

(良い事思いついたわ・・・和也さん) 

 良子は、煙草を吸う和也をじっと見つめる。 

(私が、あなたの母親になってあげるわ・・・) 


 煙草を消して、和也が再び歩き出す。 

(私が母親になって、一緒に暮らして、愛情をたっぷり注いであげる、貴方に愛情を注ぐなんて本来なら吐き気を催すけど、これも信二のため、仕方ないわ・・・そしてあなたが、私を母親だと信じ切った頃、愛というのを知った頃、私はあなたに告げる・・・母親ではないという事を・・・それを聞いたあなたは正気でいられるかしら・・・?いいえ、きっといられないはず・・・あなたにも、大切な者を失うという悲しみを味わわせてあげるわ・・・息子を奪った代償は、しっかりあなた自身に償ってもらう・・・どう?完璧なシナリオでしょ・・・?) 


 良子は、不敵な笑みを浮かべた。 

「和也・・・」 


    * 


「まさか、あの時私がいたとは思いもしなかったでしょ?」 

「事務所の、あの事件も、まさか母ちゃんが・・・」 

「この期に及んで、まだ母ちゃんって呼ぶのね・・・あの事件、やったのは私じゃない・・・私が来たときには、もう事務所は滅茶苦茶だった」 

「じゃあ、誰があんな事を・・・?」 

「そんなの、私が知ってるわけないじゃない、あなた、あちこちから恨みを買ってたんでしょ?その中のだれかじゃない?」 

「そうか・・・」 

「でもね、和也さん、あの出来事は私にとってラッキーだったわ」 

「ラッキー?」 

「ええ、あなたに復讐するための良い材料になったもの」 

「復讐の材料?」 

「あの事務所の事件を、あなたがやった事にしてしまえばいい、そう考えたの」 

「俺への復讐のために?」 

「えぇ、本当は私が、直接事務所の連中を殺して、あなたに罪をなすりつけて、あなたから全てを奪うつもりだったけど、手間が省けてかえって良かったわ、自分の手をあまり汚さずに済んだ・・・」 

「母ちゃん・・・」 

「私も、自分自身を傷つける羽目になったけど、まあいいわ、あなたを苦しめるためなら、こんな怪我どうってことない」 


 和也は、良子の話を聞きつつ、頭の中では別の事を考えていた。 

”あちこちから恨みを買ってたんでしょ?その中のだれかじゃない?” 

”その中のだれかじゃない?” 


 その中のだれか、和也はさっきの良子の言葉が、自分の中で少し引っかかっていた。 

「その中のだれか・・・」 

「え?」 

「あの事務所の事件は、俺を恨んでいる奴の中のだれかって言ったな?」 

「だからどうしたの?」 

「あんたも、その中のだれかの1人じゃないか・・・」 

「それが?」 

「母ちゃん・・・やったのは、あんたなのか・・・?」 

「さあ、どうかしら・・・」 

「どうなんだ?」 

「そんなに知りたいなら教えてあげるわ、あの時何があったのかを・・・」 


 和也を見下すように、良子は笑みを浮かべた。 


 和也の額に汗が滲む。 


    * 

「これは、一体どういう事・・・?」 


 良子は、事務所の状態を見て、唖然とした。事務所の所々が壊され、滅茶苦茶になっていたのだ。 

「う、うぅ・・・」 


 誰かのうめき声が聞こえる。良子は、声のする方に目をやる。すると、以前に会った、和也の面倒を見ている男が、頭から血を流し倒れていた。 

「あ、あんた・・・よ、良子・・・さん」 

「何が、何があったんですか?」 

「敵対してる組織の奴らがいきなり・・・」 

「襲われたの?」 

「そうだ・・・」 


 それを聞いて良子は笑みを浮かべた・・・。 

(どうやら、運は確実に私に味方しているわね・・・正直私1人じゃ不安だったから) 


 男は、もはや虫の息で、助かる見込みはない、良子はそんな男を上から見下ろす。 

(ちょっと予想外の出来事だけど、まあいいわ・・・この状況を上手く利用すれば・・・) 


 良子は、床に転がっていたブロンズ像を手に取る。 

「箕浦信二、この名前に聞き覚えは?」 


 良子は、瀕死の男に尋ねた。 

「み、箕浦・・・?」 

「そう、箕浦、箕浦信二よ・・・」 

「あ、ああ・・・聞いた事あるような・・・」 


 男は、小さく頷いた。 

「そうよね、あなた達が殺したんだから・・・」 

「え・・・?」 

「まだ気付かないの?」 

「ま、まさ・・・か、う・・・そだろ・・・」 

「そう・・・私は、箕浦良子、箕浦信二の・・・母親」 

「そ・・・んな」 


 そう言うと男は、目を見開き、金魚みたいに口をパクパクさせている。 

「私は、息子を奪った、あの和也という男に復讐するため近づいた、本当は私自身の手であいつを殺してやるつもりだったけど、よく考えたら、それじゃ面白くない・・・もっともっと、あいつを追い詰めてやらないと、信二が浮かばれない・・・だから私決めたの・・・敢えてあいつだけ生かして、あいつの周りの奴らには死んでもらう・・・そして、あいつに自分のやった事の重さを分からせて、死ぬ以上の苦痛を与える・・・そう思って、あなたをどうやって殺すかいろいろ考えてたんだけど・・・手間が省けたようね・・・ここを襲った人たちに感謝しなくちゃ・・・」 


 良子はブロンズ像を振りかぶる・・・。 

「さようなら・・・」 

「ま、まて・・・やめ・・・」 

”ゴッ” ”ゴッ” ”ゴッ” ”ゴッ” ”ゴッ” ”ベチャ” 


 鈍い音が事務所内に響き渡る、良子は何度も男の頭に荒い息を立てながらブロンズ像を振り下ろす。男の頭皮の一部がブロンズ像に付着した後、ズルっと床に滑り落ちる。 

「ハア、ハア、ハア・・・」 


 目を見開き、事切れた男をただじっと見つめる良子、男の返り血で顏は汚れている。 


 男を始末すると、袖で血を拭い、良子は携帯を取り出し、何処かにかけだした。 

”プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・プルルルルル・・・” 

「もしもし」 

「和也!和也!」 

「おい、母ちゃん一体何処にいるんだよ!勝手にいなくなるなよな、心配するだろ!」 

「和也!助けて!」 

「は?何言ってんだよ」 

「嫌!和也ぁ!早く来て!このままじゃ私・・・私・・・」 

「落ち着けよ!何があったんだよ!」 

”ガシャーン、パリーン・・・。 


 良子は、通話しながら、事務所内の窓ガラス、机などを手当たり次第に壊す。 

「きゃあああああ!お願いします!殺さないで!」 

「え?お、おい!母ちゃん!母ちゃん!」 

(馬鹿ね、電話の向こうではきっと私が襲われてると思い込んでるはず・・・) 

「和也ぁぁぁぁぁ!」 


 良子は、ここで電話を切った。 

「これで、準備は整ったわね、さあ、次は・・・」 


 そう言うと良子は、バッグの中から包丁を取り出す。そしてその包丁を、勢いよく自分の太ももに突き立てた。 

「ああああああ!」 


 激痛に良子が膝から崩れ落ち悲鳴を上げる。太ももから赤黒い、生暖かい血がドクドクと流れ落ち、床に広がっていく。 

「さぁ、和也さん、助けに来なさい、あなたに愛を教えてくれた母親が死に直面していると知ったあなたは居ても立っても居られなくなりきっと助けに来る、私以外に愛を教えてくれる人はいない・・・私がいないとあなたはまた独りになる・・・。そして、あなたが来たとき、私の復讐は完成に近づくのよ・・・さあ、早くおいで・・・」 

数十分後・・・。 

「和也・・・」 

(やっときたわね、これで貴方はもう終わりよ・・・) 

「おい!母ちゃん!」 

  

その後、和也の家で・・・。 


 良子は、和也に怪我の手当を受け、ベッドに横になっている。まだ薄暗い時間帯、そんななか、良子は目を覚ました。 

「そろそろね・・・」 


 痛む太ももを抑えながら、ベッドから出る良子、携帯を取り出し、何処かに電話をかけ始める。 

「もしもし、警察ですか・・・?」 


 良子は、警察に事務所であった出来事を、すべて話した。もちろん和也の事も。 


 電話を終えた良子は、足を引きずりながらリビングへと向かう、そこにはソファーに横になり、気持ちよさそうに寝息を立てている和也の姿があった。 


 良子は、和也の顔にゆっくりと自分の顔を近付ける。和也の寝息が良子の頬を撫でる。 

「ねぇ、和也さん、あなた、何でそんな残忍で乱暴な性格になってしまったの・・・?」 


 寝ている和也に、淡々と話しかける良子。 

「あなたがちゃんと愛というのを知っていたら、きっとこんな事には・・・でもね・・・もう遅いわ・・・私の愛する者を奪った奴が、愛を知るなんて、私は許さない・・・でも・・・」 


 寝ている和也にそう告げると、良子は寝室へと戻っていった。 

数時間後・・・。 

「ほ、本当だよ!信じてくれ!俺はやってない!」 

「とりあえず、詳しい話は署で聞かせてもらうぞ、さあ、立て!」 

「ちょっと待ってくれ!本当に俺じゃない!俺じゃないんだよ!何で信じてくれないんだ!」 

(信二・・・もうすぐ終わるからね・・・) 


 良子は、寝室のドアを開けた・・・。 


    * 


 真相を聞いた和也が、ゆっくりと口を開く。 

「そんなに俺が憎いか?」 


 和也は、良子に悲しげな視線を送る。 

「あなた、大切な人を奪われた者の気持ちが分かる?」 


 良子は、軽蔑するような目で和也を睨み返す。 

「そ、それは・・・」 


 言葉に詰まる和也。 

「分からないでしょうね・・・暴力に生きてきた男には」 

「じゃあ、あんたには分かるのか・・・?」 

「分かる?何の事?」 

「生まれた時から、愛を知らずに育ち、孤独で社会から見捨てられた男の気持ちが・・・大切な人?俺には大切な人と呼べる奴は1人もいなかった・・・俺からすればあんたみたいな奴は、綺麗ごという偽善者だ・・・」 

「偽善者?親が子を思うのは当たり前の事じゃない!」 

「じゃあ親に捨てられた子はどうすればいい?俺はどうすれば良かったんだ・・・?」 

「和也さん・・・そんなの私には分からない・・・分からないわ・・・」 


 2人の間に、しばらく沈黙の時が流れる。 

「母ちゃん・・・いや、良子さん・・・」 

「何?」 

「短い間だったけど、俺にあんたがしてくれたこと、あれは俺に対する愛だったと信じている、あんたは否定するだろうけど、俺は・・・そう信じてる・・・」 

「愛だったわ・・・」 

「え?」 

「あなたと過ごした数日間、あなたに、私なりの愛情を注いできたつもりよ」 

「何故?俺を恨んでるはずじゃ?」 

「恨んでるわ・・・今も憎くてたまらない・・・けど、それと同じくらい、あなたの事が可哀想で仕方がない・・・私の愛する人を殺したあなたが、何故か可哀想に思えてしまう・・・」 


 良子は一筋の涙を流す。 

「可哀想?」 

「ええ、あなたの生まれた環境がもっとまともだったら、私の息子だったら、殺された信二と同じように、私の愛情をたっぷり受けて育っていたら、きっとこんな事にはならなかったはず・・・あなたと過ごした数日間は本当に辛かった・・・憎しみと、哀れみと、愛情が混ざりあうような感じで、苦しくて仕方なかった・・・何でこんな気持ちになってしまったのか、自分でも分からない・・・」 

「苦しむ位なら、いっそ憎み続けてくれた方が良い・・・俺は憎まれるのには慣れてる・・・」 


 和也も、言葉を震わせながら涙を流す。 

「和也さん・・・今あなたはどんな気持ち?」 

「こんな事になるなら・・・こんな事になるなら・・・愛なんて知らずに、暴力の世界で生きていた方が良かった・・・こんなに辛いなら愛なんていらない・・・」 


 和也は俯き、両手で顏を覆い、嗚咽する。 

「愛を知ろうとして傷つくあなた・・・愛が深すぎるゆえに暴力に堕ちそうになる私・・・皮肉なものね・・・」 

「赦してくれ・・・赦してくれ・・・」 


 和也は、同じ言葉を呪文のように繰り返す。 

「和也さん、顔を上げて」 


 良子に促され、涙を拭い、和也は顏を上げ良子を見つめる。 

「あなたに、最後のお願いがあるの・・・」 

「お願い?」 

「私の息子の件と、これまであなたが犯してきた罪、その全てに向き合って受け入れる、それで例え命が尽きてしまってもその運命すらも受け入れる、あなたにできる?できるのなら・・・私はあなたを赦す・・・これが、私からあなたに送る最後の・・・愛よ・・・」 


 和也は黙って頷いた・・・。 

「ありがとう、和也さん」 


 良子は、立ち上がると、踵を返し部屋を去ろうとする。 

「さようなら・・・」 


 去り際に顏だけ和也の方を向き、別れの言葉を呟く良子、顔を向き直しまた歩き出す。その小さい背中を和也はただ黙って見つめていた。 


 和也の背後にあるドアが開き、制服の男が顔を出す。 

「おい、時間だ」 

「はい・・・」 


 和也も部屋を後にした。 

 10章~それぞれの想い~ 


 良子との面会から数ヶ月、和也は刑が確定し、今は拘置所の中だ。そして今、つたない文章で手紙をしたためている。 


  


 箕浦良子様 


 お元気ですか?肌寒い季節となりましたが、体調はくずしてませんか?以前は面会に来ていただき、ありがとうございました。俺の方は裁判で判決が出て、控訴も取り下げ刑が確定し、今は刑務所の中で自分の罪と向き合っています。刑務所の飯は不味くて最悪です。ご飯もパサパサ、味噌汁はぬるい、魚は焦げ臭い、どうやったらあんな不味く作れるのか知りたい位です。料理の出来ない俺が言うのもあれですが、本当に刑務所の料理を作ってる奴らは、良子さんから教わるべきです。あなたが作ってくれた目玉焼きが食べたいです。ありふれた料理でしたが、俺にはとても新鮮で尊いものでした。 


 良子さん、俺と出会った時の事を覚えていますか?俺は昨日の事のように思い出します。最初出会った時は、鬱陶しくて、気持ち悪くて、本当に嫌だったけど、あなたが俺の母親だと言った時は、本当にビックリしました。まあ後にそれは嘘だったという事になるんですが・・・(笑)たった数日の間で、血は繋がってなかったけど、嘘だったとしても俺に母親の温もり、愛情、愛とはどういう物かというのを教えてくれたあなたに感謝しています。本当にありがとうございました。面会所で、あなたから真実を聞いた時、はじめはとてもショックで、現実を受け入れられませんでした。だが今はそんな事どうでもいい、俺と過ごした数日間にあなたがしてくれた事、あれは紛れもない愛だったと、あなたの口から聞けただけで、俺は満足です。 


 今俺はとても辛いです、毎日辛くて辛くてたまらないです・・・。罪と向き合うのが辛いのではありません、あなたに会えないからです・・・。愛を教えてくれたあなたの温もりを誰よりも近くで感じていたい・・・こんなに辛いなら愛なんていらないと思った事も何度もありましたが、やっぱり愛というのを感じていたい・・・。あなたと離れてからその気持ちがより一層強くなっています。 


 正直あなたの息子さんである、信二さんが羨ましい、あなたの愛情を独占できていたのだから、良子さんから信二さんの話を聞いた時、凄く信二さんに対し嫉妬したのを覚えています。その信二さんをあなたの元から永遠に奪ってしまった俺は何て事をしてしまったんだと今更ながら後悔しています。本当に申し訳ありませんでした・・・。改めてお詫びいたします。 


 今俺が服役してる所は、愛なんて物は1ミリもありません、皆ロボットみたいに日々を過ごしています。笑う奴なんて1人もいない・・・もちろん仲いい奴もいない・・・俺はここではいつも独りです。あなたと出会う前の俺に戻りつつある・・・あなたが今俺の目の前に現れて、俺に微笑んでくれるだけで、俺はどれだけ救われるんだろう・・・。 


 良子さん、あなたは面会所で俺に言いましたね、覚えてますか?あなたの息子信二さんの事と、俺がこれまで犯してきた罪、その全てに向き合い受け入れる、例え命が尽きてもその運命も受け入れる、それができるならあなたは俺を赦すと・・・あなたは涙ながらにそう言いました。本当は許せないはずなのに、いくら殺しても殺し足りないくらい俺の事が憎いはずなのに・・・あなたは許すと言ってくれました・・・。そしてあなたは言った・・・それがあなたが俺に送る最後の愛だと・・・あの時俺は確かにあなたの愛を感じました。誰よりも深い愛を・・・その愛に応えるため、俺は命をかけて償うつもりです。おそらく、あなたがこの手紙を読んでいる頃・・・俺はもうこの世にはいないでしょう・・・あなたに許してもらえるなら、自分の命など惜しくはありません、他人の命を軽んじていた俺に、自分の命を大事にする資格など何処にもないのだから・・・。俺1人の命を差し出す事で、あなたが少しでも救われるのなら・・・喜んで差し出します。 


 できる事なら、俺の命が尽きる前に、もう一度あなたに会いたいですが、それは叶いそうにありませんね、だからせめて手紙でやり取りがしたいです。この手紙を読んだら、返事をいただけるととても嬉しいです。勝手なお願いですが、俺の願いを聞いてくれませんか? 


 あなたと過ごした数日間の思い出を胸に、俺は残されたわずかな時間、自分の罪と向き合い続けます。最後になりますが、良子さん、あなたの幸せを心から願っております。俺に愛をくれてありがとう、そして、さようなら・・・。 

                                  愛を込めて  佐伯和也  より 


 和也は、良子に届くことを願い、便箋を封筒にしまった。住所は2丁目の信二が住んでいたあのアパートの住所を書いた。和也には何となくだが分かっていた。おそらく良子は信二の住んでいたアパートにいると。 

「すいません、この手紙を、箕浦良子さんという方に届けてください」 

「箕浦良子?分かった、預かっておく」 


 手紙を渡すと、ベッドに横になり目を瞑る。良子から返事が来ることを願って。 


 だが、待てど暮らせど良子からの返事は一向に来る気配がない、住所に間違いはない、もちろん良子の名前も間違ってもいない、無情にも時だけが残酷に過ぎ去っていく。 


   * 


 良子は今、信二の住んでいたアパートにいる。良子の手にはペンが握られている。目に涙を浮かべながら、あるものを書いていた・・・。 

遺書 


 私は、この世で最も罪深い女、私は人を愛し、人を赦すこともできる、でも自分自身を赦す事はできない・・・大事な人を守れず、そして、赦せない人を赦してしまい、挙句の果てには暴力に堕ちてしまった・・・。人も1人殺してしまった・・・そんな自分にはなんの価値もない・・・今、私は独りになってしまった・・・。 


 思えばあの時から、私の全てが変わった。そう、和也さんと出会った時から、あの人は私から全てを奪った・・・。本当なら憎んでも憎み切れない男、でも私は彼を憎む資格はない、もう彼を赦してしまったから・・・。慈悲深い愚かな女、それが私箕浦良子・・・。 


 彼を赦した後の私は、彼に対する憎悪を抑えるために、自分自身に必死で言い聞かせてきた。もう彼を赦した、前を向いて生きていこうと・・・面会所で会った時は殺意すら湧いた、それを必死で抑えた。でも和也さん、あの人が可哀想・・・そういう哀れみの感情もあった。もう私自身どうしたらいいか分からなくなった。苦しい、死ぬほど苦しい。苦しすぎていっそ憎悪に身を任せてやろうかと思った事もあった。1度や2度ではない、数えるのが面倒なくらいに。 


 そこで私は考えた、この胸を締め付けるほどの苦しい想いから抜け出すには、楽になるには・・・死ぬしかない・・・どうせこの世には未練はない、今の私がやれるべき事はすべてやったつもりだ。 


 天国ってどんな所だろう、信二もそこにいるのだろうか、だとするなら神様、どうか私を天国へ逝かせてください。出来る事なら・・・和也さんも・・・。あの人が暴力的になってしまったのは、愛を知らずに育ってしまったから、本当は彼は優しい人、私が赦した男、どうかご慈悲を・・・。 


 信二・・・もうすぐだからね、もうすぐあなたに会える・・・そして和也さん、あなたはまだ自身の罪と向き合っている事と思いますが、私が与えた最後の愛をしっかり受け止め、残りの時間生きていってください。あなたに会ったのは、運命だったのかもしれませんね・・・。あなたも自分の運命を受け入れた以上、私も自分の運命を受け入れます。 


 愛ってすごく聞こえがよくて美しい言葉だけど、その分残酷でもありますね・・・愛に傷ついて死ぬことはない、愛は人を救う、そんなものは、もしかしたら綺麗ごとなのかもしれませんね・・・。愛が深すぎるのも考えものです。 


 長くなりましたが、もうこの辺にしておきましょう、最後にもう一度、信二、母さんは死んでもあなたを愛してる、和也さん、あなたとはもっと違う形で出会っていたら、もしかしたら結末は変わっていたのかもしれませんね、さようなら・・・。 

                                         箕浦良子 


 良子は書き終えると、椅子の上に立った・・・。そして思いっきり椅子を蹴りつけた。 

(信二、もう独りにはさせないからね・・・) 

”ガタン”と椅子が倒れた。良子は足をバタつかせ、ウゥアアァと喉の奥から声にならない声を上げる・・・。 

”ギイ、ギイ、ギイ”とロープが軋む・・・。 


 数分もがいた後、ピタっと良子の動きが止まった。ブラン、ブランと良子の足が宙に浮き、まるで海の中の海草のように揺れ、外から吹く風がカーテンと良子のスカートをなびかせる・・・。 

  


   * 

  


 和也が良子に手紙を出してから、2年が経った・・・。和也は今、数名の刑務官に連れられ、長い廊下を歩いている・・・この果てしなく長く感じる廊下の先には、何が待っているのか、和也には分かっていた・・・。時計の秒針を刻むようなリズムで、コツコツと革靴の音が廊下中に鳴り響く。 


 エピローグ 


   * 


「主文、被告人を・・・死刑に処する!」 


 和也に無慈悲な判決が下った・・・。和也は天を仰ぐ。 

「最後に、一目だけでも、良子さんに会いたかったな・・・」 

”私の息子の件と、これまであなたが犯してきた罪、その全てに向き合って受け入れる、それで例え命が尽きてしまってもその運命すらも受け入れる、あなたにできる?できるのなら・・・私はあなたを赦す・・・これが、私からあなたに送る最後の・・・愛よ・・・” 


 面会所での良子の言葉を思い出す和也。 

「分かったよ、良子さん、いや・・・母ちゃん」 


 和也は解放された気分だった。自身の運命を受け入れたおかげで、良子に愛されたまま逝く事ができる・・・。 


   * 


「これから、刑を執行するにあたり最後に言い残すことは?」 

「はい、1つだけ聞きたいことがあります。」 

「何でしょうか?」 

「俺が、2年ほど前に箕浦良子さん宛に出した手紙、あれはどうなりましたか?」 

「あぁ、あの手紙ですか」 

「はい」 

「あの手紙は出しておきました」 

「それで?その後はどうなったんです?」 

「・・・住所該当なしで返送されてきました」 

「え・・・?」 

「箕浦良子さんは、もう調べた住所には住んでいませんでした、というより・・・」 

「というより?何ですか?」 

「聞きたいですか?」 

「もったいぶらず教えてください!」 

「箕浦良子さん、彼女は・・・亡くなっています」 

「・・・まさか、そんな・・・」 

「自殺だそうです・・・ちょうどあなたが手紙を書いている時期に亡くなったと・・・」 


 和也は、力が抜け、その場にへたり込んだ・・・。 

「遺書も発見されたそうですよ・・・」 

「遺書には・・・何て?」 

「私は人を愛し、人を赦すこともできる、でも、自分自身を赦すことは出来ない・・・大事な人を守れなかった、そして、赦せない人を赦してしまい、そして、暴力に堕ちてしまったから・・・そう書かれていたそうです・・・」 


 大事な人というのは信二、赦せない人というのは自分の事、和也には瞬時に分かった。 

「遺書の内容から察するに、良子さんという方はとても優しい方だったみたいですね」 

「はい・・・優しすぎる方でした・・・そして誰よりも愛が深かった・・・くそおおおお!」 


 和也は、床に突っ伏して子供のように泣きじゃくる。 

「お気の毒ですが、そろそろいいですか・・・?時間です」 

「・・・はい」 


 和也は両脇をかかえられ、部屋の中央に連れていかれる・・・。 


 愛を知り、犯した罪の深さを知った男和也、愛が深く、優しすぎるあまり、暴力に堕ち、自分自身を愛することが出来なかった女良子、2人の愛の行く末(終着点)は、皮肉にも同じだった・・・。 


 和也・・・暴力×愛=死、良子・・・愛×暴力=死  


 和也の顏に布の袋がかけられ、視界が闇に覆われる、そして首元に・・・。 

「これでいい・・・後悔はない、これでいいんだ・・・愛を知って、自分がどれほど罪深い人間かを知れた、この罪を清算するには、自分の命を差し出すしかないんだ・・・」 


 和也は死の間際、自身の運命を受け入れる覚悟を決めた。良子の愛に応えるため、そして赦しをえるために・・・。 

「神のご加護を」 

(神のご加護?そんなものいらない、良子さんに赦してもらえればそれでいい・・・) 

”ガタン” 


 床の踏板が外された・・・。 

(良子さん・・・生まれ変わったら、あなたの息子に生まれたい・・・) 


 外は、桜が咲く季節、この季節になると、人々は門出を祝ったり、再出発を心に誓ったりする、和也の再出発の日、和也は長い時を経て再生を待つ・・・。 


 暴力から愛に転じ、愛から暴力に転ずる、暴力は愛に惹かれ、愛は暴力に惹かれる、愛と暴力は磁石のようなもの、暴力がS極とするならば、愛はN極、互いに強い力で引きつけあう、だが引きつけ合った力はそう簡単に離れる事はない・・・本当は反発し合いたいはずなのに・・・。 


 外は、まるで和也の再出発を祝うかのように、桜が咲き誇っている。 


 ~終~ 

※本作品は幻冬舎ルネッサンス原稿応募キャンペーン連動企画参加原稿です。
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