• 『昨日君と見た群青 明日僕が見る紺碧』

  • 青空野光
    青春

    - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

    本州から南に100キロメートル以上も離れた洋上に私の生まれ故郷はあった。数年ぶりに帰省したその日の夜、島の同級生たちと酒を酌み交わしながら子供時代の思い出話に花を咲かせる。そして――。

第1話 絶海

フェリーの売店で手に入れたコーヒーを片手に甲板へとやってきた私は、船の進行方向に向いて設置されたベンチに深く腰を下ろしながら、見渡す限りに広がる海原に目を向けた。
八月の洋上を吹き抜ける風の心地良さはといえば、国語の成績があまり良くなかった私でも『最高』というたった二文字で表現することができる。
盆休みの期間中とはいえ中日の十五日だということもあり、千人もの輸送能力を誇る客船は空きに空いており、今こうして甲板上を見渡しても私を含め数人の乗客しか見当たらない。

如何にも都市部から来ましたといった風のお洒落な格好をした老夫婦が一組。
やはり都会チックな雰囲気をプンプンと漂わせた三人組のマダム。
それに高校生か大学生くらいの長い黒髪の女性が一人。
そして私。

各々がバラバラにではありながら、同じ場所で同じ景色を眺め――恐らくは――同じような感想を胸に抱く。
それは都会生活ではあまりない不思議な感覚で、私は見も知りもしない彼ら彼女らに一方的な親近感を覚えていた。

今まさにこの船が向かっている私の生まれ故郷は、本土から南に一〇〇キロメートル以上も離れた洋上にあり、日に一便のフェリーで半日も掛かるそこはまさに絶海の孤島だった。
外周一〇キロメートルも満たない小さな島の人口は五百人足らずで、近年更にその数を減らしているらしい。
もっとも、島の手付かずの自然が大半を占める山岳地帯や透き通るような青い海やは、都会の生活に疲れた観光客にとっては心身を癒やしてくれる有り難い存在だったようで、少なくとも夏の間はそんな切実な問題も表面上は覆い隠されている。

島に生まれた子供たちは、中学までを辛うじて複式学級を免れている島の校舎で学び、高校は隣の島に小型の連絡船で通学し、大学に進学を決める時になって初めて島外へと巣立っていく。
そういう私もその一人であり、高校卒業とともに都会で一人暮らしをしながら大学に通い、卒業後はそのまま本土で就職をしていた。
直近で島に帰省したのは確か大学を卒業する数カ月前だったので、もう三年以上も前の出来事になる。
その間ずっと『盆と正月くらいは帰ってこい』と口うるさく言う両親を煙に巻き続け、今年も何かしらの理由をつけて帰らないつもりでいたのだが、先月の末に掛かってきた一本の電話により、その目論見はあっさりと崩れ去ってしまった。
電話の相手は同級生で親友の大幡(おおはた)で、その内容はといえば『盆休みに同窓会を行う』という至極有り触れたものだったのだが、私以外の同級生たちは高校卒業後も島に残っていたため、実際のところは同窓会というより島を去って久しい私に対する『たまには顔を見せろ』というお達しのようなものだった。
私とて故郷が嫌いで出ていったというわけではなかったのだが、一人だけ新天地を求めて都会に旅立ったことに対する負い目のようなものは常々から感じており、今回のような機会がなければ自身の中で島に戻る口実を見つけられなかっただろう。
そういう意味では旧友たちに感謝すべきなのかもしれない。

紙コップの底にわずかに残っていたコーヒーを飲み干すと、大きく背伸びをしながらベンチから立ち上がる。
フェリーの進行方向にはまだ島影すら確認出来ないが、先程の船内放送ではあと十五分程で到着すると言っていたので、そろそろ下船の準備をしておいたほうがいいだろう。

一泊二日分の荷物が入った小さなスポーツバッグを手にして再び甲板に戻ると、ようやく遠くの方にゴルフボール大の島影が薄っすらと見え始めた。
それはやがてソフトボール大、バスケットボール大と徐々に成長していき、わずか五分程で視界の半分をも埋め尽くすと、船はゆっくりと旋回しながら接岸体制へと移行した。

金属製のタラップを渡って三年振りに島の大地を踏みしめると、やはりここが自分の故郷なんだという実感が湧いてくる。
それは船着き場特有の潮の匂いであったり、道を挟んですぐのところにある古びた商店の佇まいであったりと多種多様な理由が思い浮かぶが、何よりも目の前で待ち構えていた旧友の、その懐かしすぎる顔を目にしたことが一番の要因だった。
「やっと帰ってきたな! 涙(るい)!」
日と潮で褐色に焼けた肌に黒いランニングをまとった親友と固い握手を交わす。
「ただいま。大幡(おおはた)は相変わらずみたいだね」
「おうよ!」
この威勢のいい返事も昔の彼のままだった。

ボロボロの軽トラックの荷台に荷物を放り込むと、今にも取れて落ちてしまいそうなドアを慎重に開けて助手席に乗り込む。
彼の愛車たるおんぼろカーは、その見た目に相応しいワイルドな振動を伴いながら走り出した。
「悪いな大幡。迎えに来てもらっちゃって」
「ぜんぜん悪くねえし。そもそも俺らが呼んだんだしな」
開け放たれた窓の枠に片腕を乗せて運転をする彼のガラの悪さは、最後に会った三年半前と何も変わっていなかった。
「そういえば年末に送ってくれた干物、ありがとうな。量が量だったから会社の人たちにお裾分けしたんだけど、みんなとっても喜んでたよ」
「それこそ全然よ。なんせ売るほどあるからな」
大幡はそういうとハンドルから手の離し、こちらに親指を立てながら白い歯を覗かせ豪快に笑い声を上げた。

高校在学中から家業を手伝っていた彼は、現在漁業及び水産加工業並びに海産物の卸売店と、実に三足のわらじを履きこなしていた。
見た目の厳つさと漁師特有の浜言葉のせいで女性受けはとてつもなく悪かった彼だが、その人となりをよく知っている私たち同級生からはよく慕われ、また頼りにもされる存在だった。
直接聞いたわけではないが、今回の同窓会の立案や実行も恐らくは彼によるものだろう。

島の外周を這うように敷設された道路から見える景色は、親友がそうであったように当時と何ひとつ変わっていなかったのだが、久々の帰省だった私の目にはとても新鮮に映っていた。
ところどころが錆びついたガードレールの向こう側に広がる海と空。
風に乗って時折聞こえるカモメやウミネコの鳴き声。
反対側の車窓に目を向けると、かつて火山島だった島の大地に根付いた、本土とは明らかに異なる植生の緑たちが夏を謳歌している姿――――。

島に残った同級生たちにしてれば当たり前の日常が、こんなにも素晴らしい世界の中で営まれていることを羨ましく思うと同時に、それを自らの意思で捨てたのは自分だということを思い出させられる。
「――大幡」
「ん?」
「電話くれてありがとな」
普段より小声で「おうよ」と返事をした彼は、ガラにもなく少し照れているように見えた。

「それじゃ、六時半頃に迎えに来るからな」
荷台から下ろした荷物を地面に置きながら彼はそう言うと、軽トラックのマフラーから黒煙を撒き散らしながら颯爽と去っていった。

「どっこらしょっと!」
海岸沿いの道路脇にポツンと取り残された私は、さして重くもない荷物を大げさな掛け声とともに持ち上げると、背丈よりも高い椿の生け垣の間に続く小道をゆっくりと進む。
やがて突き当たったところにある古びた一軒家こそが、父と母の住まう私の実家であった。

開け放たれたままになっていた引き戸の玄関を潜り、上がり框に腰を下ろして靴を脱いでいると、背後の廊下の奥から人の歩いてくる気配を感じて振り返る。
果たしてそこには母が外したエプロンを畳みながら立っており、私はなぜだか急に恥ずかしいような気分になってしまう。
「おかえり! あんたやっと帰ってきたね!」
「……うん。ただいま」
まるで反抗期の子供のような素っ気のない返事をしてしまい、得体の知れない恥ずかしさが余計に励起されたのだが、私はなんだかそんなことすらも懐かしいような気がしていた。

第2話 追憶

「それでおまえ、いい人はできたの?」

居間のソファーに座ったと同時に母の口から出たこの言葉こそが、私がここ数年帰省を渋っていた大きな理由のひとつだった。
これはうちの母に限った話でもないのだが、どうも島の人たちの考える結婚適齢期というのは本土でのそれと大きく乖離しており、島基準だと二十五で独身の私は婚期から遠ざかりつつある存在との認識を持たれている。
もっとも私とて、本土のそれと島のそれのどちらが正しいかを明確に説明できるわけではなかったので、先程に引き続き「別に」と素っ気ない返事をして会話を終わらせようとしたのだが、母はそんなことなどお構いなしに言葉を続けた。

「おまえの同級生の康介(こうすけ)君と圭子(けいこ)ちゃんなんて、高校を卒業してすぐに一緒になったのに」
康介は私の親友その二で、船着き場のすぐ近くで民宿――本日の同窓会の会場でもある――を営んでいる家の息子であり、同じく同級生の圭子とは小学生の頃から相思相愛の仲だった。
彼と彼女の親御さんも、そのことにかんしては当時からまんざらでもない嫌いがあったようなので、私からすれば二人が早くに結ばれたのはただの既定路線としか思えないわけだが――。
「そんな極端な人たちを例を出されても……さ」 「大幡くんだってあれでしょ? 本町(ほんまち)の細江さんちの由紀(ゆき)ちゃんと――」
今の母にどんな対応をとったところで、最後には私の結婚の話に帰結するシステムが構築されてしまっている気がする。
だとすれば、私が選ぶことのできる最善の選択肢はこれしかないだろう。
「それじゃ同窓会行ってくるわ」

私はぶっきらぼうにそう言い捨てると、バッグからスマホと財布を取り出してそそくさと家を出た。
「あんた、同窓会七時からって言ってなかった? まだ五時前だよ」  
自分的には会話に苛立っているという風な空気を醸し出していたつもりだったのだが、母が鈍感なのか、それとも私の演出力が低すぎたのか、彼女にその意図が伝わっている様子は全くなかった。

逃げるように家を出た私は、先程大幡に送ってもらった道路とは真逆の山の方へと歩みを進める。
島の中心にそびえる標高二〇〇メートル程の低山を越えて、島の裏側にある同窓会の会場へと向かう算段だった。
山越えをするといっても道なき道を踏破するわけではなく、この国の景気がまだよかった頃の観光ブームの時代に作られた来島者向けの登山道を利用するだけであり、そこは私にとっては高校生の頃までの通学路でもあった。
集落を抜けるとすぐに始まった山道はコンクリート製の擬木で土留が施された階段になっており、山肌に沿って緩やかに頂上を目指すそこをゆっくりと進んでいく。 急峻な谷と山肌に挟まれた、人一人が辛うじて通ることのできるだけの細い道ではあるが、今でもうちの集落から船着き場のある本町まで出る人が利用しているため、その整備状態には何の不安もない。

山肌の傾斜に合わせて右へ左へと蛇行する道は、その緑の深さ故に八月の日差しを完全にシャットアウトしてくれており、それに加えて――木々に遮られて目視出来ないとはいえ――すぐ下に広がる大海原からは風速二メートル程の風が絶え間なく吹き付けており、ここまで十五分程の軽登山を行ったにも関わらず、私は額に汗のひと粒すら浮かせていなかった。

さらにしばらく歩みを進めながらふと顔を上げると、アーケード状になった緑の向こうに鮮やかな水色が見え隠れし始める。
それは山頂にある広場に到着した合図であり、ようやく行程の半分を終えたということでもあった。

山の頂上にはテニスコート二面分程の広場が設けられており、その端に置かれたベンチには本町側から登って来たのであろう、数組の観光客と思しき人たちの姿があった。 彼ら彼女らは皆手にスマホを構えており、そこから見える風景を撮影しているようだった。
もっとも、この場所の存在意義自体が眼下に広がる太平洋の大海原を眺めるために特化していたのだから、それもさもありなんといったところであろう。

撮影の邪魔にならないよう少し離れた日陰のベンチに腰を下ろし、私も彼の人たちの背中越しに海に目を向けていると、そういえば以前にもこの場所で八月の海を眺めたことがあったのを思い出した。

確かあれは私が小学一年生の頃――――。


「ぜったいへいきだよ! だから……なかないでよ……」
両手の甲で涙を拭いながら下を向く少女をベンチに座らせると、私もその隣に腰を下ろし、彼女とは逆に空を見上げた。
なぜなら、そうしなければ私も涙が出てしまいそうだったから。


夏休みの残りがカレンダーを後ろから数えた方が早くなってきたその日、私は朝から可能な限りだらだらと過ごすことに注力していた。
昼になり、母とともに昼食を済ませた私は、テレビゲームをするために二階の自分の部屋から居間へと階段を一段とばしで駆け下りていたのだが、母が玄関で来客の対応をしていることに気が付き、階段の中程で一旦足を止めてその様子を伺っていた。

「わかった。じゃあ息子に言ってくるから悪いけどちょっと待ってて」
母の声色がいつもと違うことに子供ながらに気づいた私は、再び勢いをつけて階段を駆け下りて母の眼前に姿を晒した。
「あ、涙! あのね。お父さんと透子(とうこ)ちゃんのお父さんの船が、海の上でエンジンが止まっちゃったって今、透子ちゃんとこのお母さんが教えてくれて」
「え? それって……だいじょうぶなの?」
「うん。だけどお母さん、ちょっと透子ちゃんのお母さんと港に行ってくるから、留守番しててもらえる?」
「……うん、わかった」
母は私の返事を聞くやいなや玄関から飛び出すと、庭で待っていた透子ちゃんの母と一緒に椿の生け垣の向こうに消えていってしまった。

漁師をしていた私の父が、今日も早朝から海に出掛けていたのは知っていた。
普段であれば昼前には家に戻ってきていたので、今日にかんしてはその姿が見えないことに疑問を持ってはいたのだが、まさかそんなアクシデントが起こっていたとは思ってもみなかった。
母は大丈夫だと言っていたが、だったらなぜあんなに慌てて港へと行ってしまったのだろうか?
もしかして、本当は大丈夫ではないのではないだろうか?
こうなってしまうと当然ゲームなどする気も起きず、居間のソファーに座ってただ父の無事を祈る他なかった。

どのくらい時間が過ぎただろうか。
多分ニ時間かそこらだったはずだが、小学一年生の私にはその何倍もの時間が流れたように感じていた。
居間の吐き出し窓から入ってくる春の風が心地よすぎて、自分だけがこうして平和な空間にいることが申し訳ないような気持ちになってくる。
せめて玄関の前で父と母の帰りを待とう。
そう思い立ってソファーから腰を上げた、その時だった。

掃出し窓の向こうの庭に同級生の少女が勢いよく飛び込んでくると、私の名を大きな声で呼んだ。
「るいくん!」
「あ! とうこちゃん! ……あの……おとうさんたちが」
「うん! おかあさんにうちでまってろっていわれたんだけど、わたし……」
彼女は長い下まつ毛にこれでもかというくらいに涙をため、頬には既に幾筋もの跡が見て取れた。
そのたまりにたまった水の粒がこぼれ落ちると、見る見る土の地面に黒い染みを付けていく。
「とうこちゃん……」
何と声を掛けるべきか悩んでいると、彼女は黒目がちな大きな瞳で真っすぐにこちらを見据えると、まるで吐き出すように小さな声を上げた。
「みなと、いきたい……おとう……さん……」
それだけ口にした彼女は、再び下を向いて足元に雨を降らせ始めた。
糸のように細く柔らかそうな長い髪が、彼女の嗚咽に合わせてビクビクと震えている。

「……いこう」
もともと決断の速さには自信があった私だが、その時のそれといったら、まるで彼女が何を口にするのかを事前に知っていたかのようだった。
すぐに玄関から庭へ出ると、彼女の小さな手を取って山道に至る小道へと駆け出した。

第3話 山道

午後の木漏れ日が地面を照らし、そこかしこからセミの鳴き声が聞こえる八月の山道を、幼なじみの少女の手を引いて登っていく。
雨の日以外は通学路として毎日のように使っている道が、焦りや不安からかまるで初めて通る場所のように感じた。

山に入って十分程経った時、それまでずっと黙って手を引かれていた彼女が、急に立ち止まったと思うと弱々しく声を上げた。
「あし……いたい……」
「え? あし?」
振り返り彼女の足元に目を落とすと、その理由は一瞬にして判明した。
どう考えても山登り向けではないピンク色の可愛らしいサンダルを履いた彼女の足は、ビニール素材のそれとの摩擦によって、わずかではあったが所々から出血していたのだ。
きっと無我夢中で家を飛び出してきたせいで、履物のことまで考えてはいなかったのだろう。
「とうこちゃんだいじょうぶ? いっかいかえる?」
彼女は長い髪をふるふると揺らして首を横に振ったのだったが、ここでも私の決断は早かった。
「……せなか、のって」
彼女に背を向け腰を少し屈める。
「え……でも……」
「のって!」
わざと語気を強めて言うと、彼女は一瞬体をビクっと震わせたあと、恐る恐るといった風に私の背中に負ぶさった。
「……るいくん、おもくない?」
「ぜんぜん」

自分と背丈も体重も然程変わらない人間を背負って山道を登っていく。
足を踏み出す度に彼女の細く長い髪が首筋に触れ、少しだけこそばゆかった。
わずか数十歩分進んだだけで、彼女のお尻の下に回した腕が千切れそうに痛くなってくる。
さらに数十歩歩くと、今度は互いの体が接している背中に汗をかき始め、彼女の真っ白なワンピースを濡らしてしまわないか心配になった。
「……るいくん、やっぱりわたし、じぶんであるく」
「だめ」
正直にいえば、私の腕や膝は限界に近かったのだが、それは彼女の足とて同じことだろう。
「ぼくはおとこのこだから、ぜんぜんへいき」

これ以上彼女の悲しい顔を見たくないという気持ちでいっぱいだった私は、滝のような汗を流しつつカメやカタツムリのような速度で、ひと踏みひと踏み確実に歩みを進め、三十分以上の時間を使ってなんとか山の上の広場へと辿り着いた。

広場の片隅に設置されたベンチの上に彼女を降ろすと、山の斜面を吹き上がってくる風が火照った体の熱を冷ましてくれる。
ふと頭上を見上げると、家を出た時には目が覚めるような青色で塗り潰されていた空に、いつの間にやら白色の成分が混ざり始めていた。
それはじきに訪れるであろう夕暮れの到来を予感させる。

「くらくなるとだめだから、そろそろ――――」
そう言いながらベンチの方へ目を向けると、彼女は小さな体を細かく震わせながら再び涙をポロポロと零し始めた。
膝の上で固く握られた手の甲で涙が粒が砕けて飛び散り、ワンピースのスカートがそれを吸い取って色を変える。
「ぜったいへいきだよ! だから……なかないでよ……」
私も泣きそうだった。
いや、もう既に泣いていたのだと思う。
それを彼女に悟られないようにそっと天に目を遣ると、一筋の飛行機雲が雲ひとつない空を左右に分け隔てていた。

残りの行程は全て下りだったので楽だろうと思っていたのが間違いだった。
相変わらずよく整備された遊歩道ではあったのだが、登りの時はただ筋力と気合に物をいわせて足を前に踏み出せば良いだけだったのに対し、下りのそれは歩幅を小さくして慎重に歩みを進める必要があった。
そうしなければたちまち転倒して、下手をすれば背中の彼女に怪我を負わせてしまうかもしれない。
「るいくん。わたしやっぱあるくよ」
顔の真横から聞こえた彼女の声色が切実味を帯びていたのは、私があまりに慎重かつ鈍行であったからだろう。
「へいき」
我ながら随分と説得力のない『へいき』だと思ったが、それ以外の言葉もなければ彼女を地面に下ろす気もなかった。
それは単純に彼女が女の子だからであり、男の私にとって守る対象だと思っていたからだった。
今日であれば時代錯誤も甚だしい考え方かもしれないし、そもそも七歳の子供の価値観としてもいささか不似合いな気もするが、私は父親から常々『男は女を守る為に存在している』と言い聞かされて育ち、その教えに疑問を抱いたこともなかった。

一時間も掛けてようやく山を降りた頃には、西の空はすっかり茜色に染まりきっており、東の空は夜の帳が下り掛けていた。
平地に着いて彼女を背から降ろし身軽になった私は、再びつないだ手を強く握り合いながら、民家の軒先の細い通りを港へと向かって急いだ。
彼女はもう体を震わせてはいなかったが、その代わりに私の膝がガクガクと震え出していた。
海に近づくにつれて次第に潮の香りが濃くなり、同時に様々な想像が頭の中を駆け巡る。
それは言葉に出すのも憚られるような悪いものばかりで、私はただ唇をきつく結んで彼女の小さな手を引いた。

港の向かいにある大通りを渡り、堤防の切れ目から船着き場へと足を踏み入れる。
そこには十数隻の漁船が規則正しくつなぎ止められており、その一番奥で数人の大人たちが顔を突き合わせて話しているのが見えた。

「……おとうさんたちだ」
「――――涙! 透子ちゃん!」
私たちの姿を認めた母が大声を張り上げると、その向こうから胸まであるゴム長を着た父、それに彼女の両親が驚いた顔をして駆け寄ってくる。
「おとうさん!」
父親の元へと駆け出した彼女は、サンダルが脱げて裸足になったことすら気にせずに、父親の厚い胸に飛び込むとわんわんと声を上げて泣いた。
私はといえば、彼女のように父の元へと歩み寄ることすらできずに、ただその場にしゃがみ込むとそのまま意識を失ってしまった。
原因は十中八九『電池切れ』だろう。

次に気が付いた時、私は自宅の布団の上で板張りの天井を見上げていた。
傍らでは両親が心配そうな顔でこちらを覗き込んでおり、私が目を開いたのを見た母はうっすらと涙を浮かべ、父はたった一言「ありがとうな」と呟いて、真っ黒に日焼けした顔に笑みを浮かべながらがしがしと頭を撫でてくれた。

私はその後二日間高熱に浮かされ寝込んでいたらしい。
その間に透子ちゃんの家族が見舞いに来てくれたそうが、申し訳ないことに全く覚えてはいなかった。
いずれにせよ、その時の体験は二十五歳になった今でも、人生で一番頑張った日として自分史に記憶されている。

第4話 旧友

遠き日々に思いを馳せているうちに、いつの間にか何人かいた観光客の姿が見えなくなっていた。
この場所からの絶景は夕暮れが訪れる今からが本番だというのに、何と勿体ないことかと軽く嘆いてみたが、土地勘のない島の山の天辺で夜を迎える無謀さを知らぬ人たちではなかっただけのことなのだろう。
ポケットからスマホを取り出して時間を確認する。
ロック画面に表示された数字は六時をわずかに回ったところで、同窓会の開始時刻まではまだ一時間近くある。
メッセージアプリを起動し大幡に自分の足で会場に向かう旨だけ送信すると、ひと気のまったくなくなった広場のベンチに横たわった。

先程までそこかしこから五月蝿い程に聞こえていたアブラゼミの合唱がいつの間にか止み、代わりにヒグラシの鳴き声が私しかいない広場にこだまする。
その涼しげな音色をベンチに寝そべったまましばらく聞き入っているうちに、空の色が薄い水色から明るい灰色へと変移し、やがて温かみのあるオレンジ色に染まり始めた。
ゆっくりと体を起こし立ち上がると、そのまま腰を上げると西の方角へと向き直る。

「……やっぱりこの島の夕日が日本一だな」
すっかりと火力を落とした太陽に照らされた海が、まるで高価な宝石のような輝きを放ちながら穏やかにその表面を波打たせている。
その上を飛ぶいくつもの小さな影は、夜の闇が訪れる前にねぐらへと帰っていく海鳥たちだろうか。

私はこの島に住んでいた頃、この景色を見るために何度となく夕方の時間にこの場所を訪れたことがあった。
その度に雄大な景色に心を打たれ、そして癒やされもした。
都会での生活に不満があるというわけではないのだが、数年振りに帰ってきた故郷でこんな景色を見せられてしまうと、自分はとてつもなく損な選択をしてしまったのではないかと疑いたくもなる。

海に落ちて消えていく夕日のあまりの美しさ故に、うっかり山頂に長居してしまった私は、既に夜の帳が下りきった山道をスマホのライトを頼りに何とか下山し、七時を少し過ぎた時間になってようやく同窓会の会場へと辿り着いた。

同級生の康介の実家でもあるここ『浅名(あさな)荘』は、民宿というにはいささか経営規模が大きく、どちらかといえば小規模な旅館といったほうが適当なように昔から感じていた。
彼は高校を卒業してそのまま家業を継ぐと、その年の夏には同級生で交際相手であった須々木(すすき)圭子と一緒になり、彼の母親と三人で民宿を切り盛りしていた。

まるで飲み屋のような長い暖簾を手で掻き分けながら建物に入ると、すぐに康介の母親が廊下の奥からやって来ると口を開いた。
「瀬戸川(せとがわ)くんいらっしゃい! 久しぶりだねえ!」
見るからに人の良さそうな康介の母はそう言うと、手慣れた様子で玄関の框の奥にスリッパを用意してくれる。
「おばさん、ご無沙汰してます。今日はお世話になります」
「もうみんな来てるから。二階の一番奥の宴会場ね」

少し急な階段を上っていると、早速二階から男女幾名かの歓声が聞こえてきた。
それは懐かしい旧友達のものであり、私は思わず頬が緩んで笑顔になってしまったのだが、遅れて来た上ににやけ顔で合流することは避けたかったので、両手で軽く自分の頬をたたいて表情を正してから、開けたままにされていた宴会場の鴨居をくぐる。

「あっ! 涙くん来たよ!」
まるでアニメ声優のようなよく通った高い声を発し、私の到着を皆に報せたのはこの宿の若女将である圭子だ。
もともと少しだけふくよかな体形をしていたのだが、最後に会って以来三年の月日を経てさらに丸みを帯びたように見えた。
もっともそれが彼女のチャームポイントでもあり、人懐こくおっとりとした性格と相まって、我がグループ一の愛されキャラでもあった。

「遅いぞナミダ! 久しぶりの島で道にでも迷ったのか?」
私のことを『ナミダ』と呼ぶ彼は、圭子の夫でありこの宿の若旦那たる浅名康介だ。
ガッシリとした体格に似合わない黒縁メガネを掛けた彼は、接客業を生業とする家に生まれたがためか、幼い頃から気さくで面倒見のいい性格をしていた。
私が島の外に新しい生活を求める決意が出来たのも、歳の近い兄のような存在である彼のアドバイスによるところが大きかったかもしれない。

「ごめん。ちょっと夕日を見てたら遅くなっちゃった」
「夕日を? 涙くんって相変わらずロマンチストだね」
上座に堂々と座る大幡の横にちょこんと腰を掛けた由紀(ゆき)はそう言うと、口に手を当てながら目を細めて小さく笑う。
色白で小柄で大人しい性格の彼女だったが、その対に存在するような大幡とは昔から妙に馬が合い、私が島外の大学に通っているうちに――正式に――交際を始めたそうで、噂話が好きな母の情報によれば、結婚ももう時間の問題だということだそうだ。

「涙、こっちこい。ここに座れ」
酒瓶を片手に持った大幡に促されるまま彼の横に腰を下ろすと、直ぐ様になみなみとビールの注がれたグラスを手渡される。
目の前には大量のアルコールの他にも各種つまみと、それに赤ん坊くらいなら乗れそうな程に大きな舟に盛り付けられた刺し身までもが用意されていた。
「すごいだろ? 大幡がクーラーボックスいっぱいに持ってきた魚を俺と圭子で舟盛りにしてみたんだ」
ビジュアル的な凄さもさることながら、味の方も食べるまでもなく間違いないことは、この島で育った人間ならば推測する必要すらない。
「それじゃ頭数が揃ったところで! カンパ――」
「ちょっと大幡くん焦りすぎ」
「俺まだビール注いでもいねーし」
「揃ったところでって、雄二(ゆうじ)もうさっきからずっと飲んでたじゃない」
大幡の乾杯の掛け声に全員からツッコミが入り、そのあまりの息の合いっぷりに思わず吹き出してしまう。
彼ら彼女らにとっては何ということもないような、いつも通りの有り触れたやり取りなのかもしれないが、私はそれを素晴らしく尊いもののように感じてしまった。

「じゃあ仕切り直しということで――ナミダ。乾杯の音頭、おまえが取ってくれよ」
結局のところ、こういう場面で頼りになるのはいつも康介だった。
「あ、うん。えっと、それでは皆さん。どうぞグラスをおとりください」
「かてーぞ涙! 酒が不味くなる!」
口にしてから自分でもそう思っていたところだったので、すかさず飛んできた大幡の野次が有り難かった。
「――みんな、ただいま! 今日は飲むぞ! カンパイ!」
「かんぱい!」

第5話 夏夜

幼なじみたちと一堂に会して一時間も経つ頃には、一人だけ島外の人間になってしまったという気まずさや後ろめたさは、酔いとともにどこかへと吹き飛んでしまっていた。
旧い友は私が島にいた時と本当に何一つ変わっておらず、まるで十代だったあの頃の放課後の教室にでも戻ってきたような錯覚すら覚えた。
座卓の上に所狭しと並べられたアルコールも湯水のような勢いで消費されていたのだが、実にその半分近くは大幡の腹の中に吸い込まれていたのだから本当に恐れ入る。

「昔も確かこの面子で騒いだことあったよね。確か中三の時じゃなかったっけ? みんな覚えてない?」
焼酎の水割りを作る手を止めた圭子が私たちに問いかける。
「もちろん覚えてるよ。花火大会の日でしょ?」
由紀が身を乗り出して答え、その隣ですっかりとでき上がった大幡が首を大きく縦に振った。
「あんときのことはナミダが一番よく覚えてるだろ?」
座卓の向かいに座る康介が、枝豆を口の中に放り込みながらにやけ顔で聞いてくる。
「――まあ……うん」
確かにあの日のことは、まるで昨日のことのようにはっきりと記憶している。

あれは今日と同じ時分の、中学三年の夏の夜のことだった――――。

当時の私たちは高校受験を半年後に控えた大事な時期だった。
もっともそれは世間一般の話であり、島の中学生にとってみれば何処吹く風といった風ですらあった。
なぜなら私たちが来年から通うことになる隣島の高校は、近隣の島の子供であればほとんど問答無用で進学することができる――広義にいえば――エスカレーター式といえるようなものだったからだ。
その代わりといってはなんだが学力面ではどうしても玉石混交になってしまうので、授業では月並みかそれ以下の指導しか受けることができない。
中にはそれを嫌って高校から本土で一人暮らしをする島の子もいたのだが、我らの学年は揃いも揃ってそこに進学することがこの時には既に決まっていた。

「今日の花火さ、みかん島の上で見ない?」
それは私の提案だった。
この島では、毎年お盆の時期に町の観光組合が主催する小規模な花火大会が行われ、それは島の子供たちの夏の楽しみのひとつあり、打ち上げ開始の一時間も前に集合した我々は、今年のそれをどこで楽しもうかと入念に計画を練っていた。

去年は山の上の広場から見物し、その前の年は実行委員長だった康介の親の計らいで『一般人』は入ることのできない、打ち上げ場所のすぐ近くで見せてもらっていた。
なので、今年は少し離れた場所にしようと話がまとまり掛けてはいたのだが、具体的な案はなかなか出てこなかった。
そこで私が提案したのが小学生の頃、秘密基地を作って毎日のように通っていた港の近くにある島からというものであり、発言とほぼ同時に全会一致で採用される。
打ち上げ場所である船着き場の堤防から五〇〇メートル程離れた場所にあるその島は、島とはいっても本島から馬の背のような細い陸で繋がっており、子供の身軽さであれば歩いて渡ることも容易だった。
ちなみにみかん島という名称は、その名の通り蜜柑に形が似ていることから地元の人たちにそう呼ばれているのだが、実際のところはどの角度からどう見ようとも蜜柑に見えたことなどなく、私に言わせてもらえばむしろ島ですらなくただの大きな岩だ。

「それじゃ、透子ちゃんが来たら行こっか」
透子ちゃんと私は家がすぐ近くなこともあり、ここに来る前に迎えに行ったのだがどうやら留守らしかった。

集合場所は伝えてあるので問題ないだろうが、正直なところ私は今すぐにでも彼女に来てほしかったのだ。
なぜなら今ここに集まっている五人のうち、一組は十五歳にして既に十年近くのキャリアのある熟練カップルであり、もう一組も互いに口にこそ出してはいないようだが好意を寄せ合っているのは見え見えで、私のアウェイ感たるや――だった。

近くの商店で買い食いをしながら待つこと三十分。
透子ちゃんははすぐ脇にある路地から突然現れ、直ぐ様にその桃色の薄い唇を動かしながら頭を下げた。
「みんな待たせてごめんなさい!」
長い髪を地面に着きそうなくらいに垂らした彼女の後ろには、不安そうな顔でこちらの様子を伺っている少女の姿が見え隠れしている。
その少女は今年小学校に上がったばかりの八つ程も姉と歳の離れた妹、美鈴ちゃんだった。
二人は同じような鮮やかなピンク色の浴衣に身を包んでおり、手にはやはりお揃いの小さな巾着袋も携えていた。
「あれ? 美鈴ちゃんも一緒?」
由紀は透子ちゃんにそう聞きながら、姉の影から半分だけ顔を出した妹に「こんちには」と優しく声を掛ける。
「……うん。今日、お父さんもお母さんもあっちで仕事があるから」
そう言って彼女が指差したのは花火大会の会場だった。
「だからこの子も――いいかな?」
申し訳無さそうな顔で伺いを立てる姉の姿を見て、美鈴ちゃんは不安を通り越して泣きそうな顔になってしまっていた。
「いいかなも何も、なあ? いいに決まってるじゃん」
「当然」
「うんうん。決まってるでしょ」
「もちろん」
「だよね」
即座に全会一致で同伴の許可が下りる。
「そうと決まれば早く行くべ!」
大幡はそう叫ぶと同時に駆け出していた。

美鈴ちゃんを中心にして歩く女子たちから五メートル程前を、私と康介が先導をするような形でみかん島へと歩みを進める。
しばらく歩いていると遥か彼方の道路上に座り込んでいる大幡の姿が目に入り、康介と一緒になって大笑いをしてしまった。
大方誰も自分についてきてくれなかったことでイジケているのだろう。

大幡と再合流した私たちは、道路から離れたところにあるガードレールの隙間からみかん島へと続く岩場へと下りていく。
人一人分しかない細いそこを慎重に抜けると島の縁を半周ほど歩き、ようやく目的地である島の反対側へと到着した。

「懐かしいね。ここに来たのっていつ以来だろ?」
岸壁に張り出した六帖程の広さのその岩場は、私たちが小学生だった頃に発見して専有した秘密基地だった。
当時はゲームや菓子や飲み物などを持ち寄っては皆で駄弁り、近くを漁船が通ると急いで身を隠したりしたものだ。
今になって思えば大人たちにその存在はバレバレだったような気もするが、特段に誰からも指摘されたり注意を受けるようなこともなかった。

各々好きな場所に腰を下ろし、やがて夜空に打ち上げられるであろう花火を待ちながらあらかじめ商店で入手していた菓子などをパクつき始めた。
当然と言えば当然なのかもしれないが、康介は圭子と、大幡は由紀と肩を並べて座っていたので、残された私と透子ちゃん、それに美鈴ちゃんとで横並びになって地面に座る。
「透子ちゃんに美鈴ちゃん。お菓子食べない? 小遣いはたいて買ってきたからお店を開けるくらいあるよ」
私はそう言って背負っていたリュックから、それこそ卸問屋のように大量のお菓子を出して地面に並べる。
「涙くん、いいの?」
「うん。美鈴ちゃんはどれにする?」
「……じゃあ、これもらってもいい?」
彼女はアニメキャラクターの形に成形されたチョコレートを手にしながら上目遣いでそう言った。
「いいよ。じゃあ、お姉さんにはこっちをどうぞ」
可愛らしい動物のイラストがプリントされた綿菓子を透子ちゃんに手渡す。
「あ! これ大好きなの! 嬉しい!」
そのお菓子は、彼女が妹の美鈴ちゃんくらいの年齢の頃から駄菓子屋でよく購入していたもので、幸せそうな顔で袋から取り出し小さく千切って口に運ぶ様子など、あの頃の何も変わっていないように見えた。
そして、変わっていないといえば私も同じであり、いつの頃からかそんな彼女の笑顔を見られることが何よりも嬉しくて、中学に上がった頃になり、やっとそれが淡い恋心であることに気づいたのだった。

第6話 大輪

「あ! 始まったみたい!」

圭子の声に顔を上げると、いつの間にかすっかりと瑠璃色に塗り潰された西の空いっぱいに、黄緑色の火花が同心円状の広がりを見せて夜空に咲く。
わずかに間隔を開けながら赤、白、緑と次々に打ち上げられるそれを見ながら、私たちはペットボトルの炭酸飲料で乾杯すると、皆好き勝手に「たまやー!」や「かぎやー!」などと声を張り上げる。

「前みたいにすぐ下から見るのも迫力があってよかったけど、やっぱり少し離れたところからのほうが情緒があるよね」
そう言って振り返った透子ちゃんの、まるでよく磨き込まれた黒曜石のような大きな瞳の中で、淡く小さな紫色の花火がゆっくりと花開く。
そのあまりの美しさに魅入られてしまった私は、ただぽかんと口を開いたまま、彼女の長いまつ毛が上下に閉じ開きする様を瞬ぎもせずに眺めていた。
「……涙くん?」
「――あ、ごめん。僕もそう思うよ」
「でしょ? 来年もちょっとだけ遠くで見ようよ」
「うん、そうだね」

私と彼女がそんなやり取りをしている最中にも様々な色や形をした花火たちが、瑠璃色の夜空と凪いで鏡のようになった湾内の海面を同時に彩る。
七歳の美鈴ちゃんにとって、その美しくちょっと不思議な光景というのは初めての経験だったのだろう。
地面に座った透子ちゃんの背中に負ぶさるような格好で身を乗り出しながら、姉に負けないくらい大きな瞳にその光を映し込んでいた。

やがて今まで上がったものよりも一際大きく長い音とともに、今夏の花火大会の締めくくりとなる七号玉が打ち上げられた。
ヒュルヒュルと笛のような音を伴い天に昇っていったそれは、次の瞬間にはペールオレンジの輝きを視界いっぱいに広げ、少し遅れて雷でも落ちたかのような轟音が周囲を揺らす。
やまびこのように何度か残響が繰り返したあと鳴り止むと、彼女は「終わっちゃったね」とたった一言、まるで独り言のようにつぶやく。
それは花火大会と一緒に今年の夏までもが過ぎ去ってしまったかのような物言いに、私は首や手を大きく横に振って否定しながら答えた。
「今年の夏休みも、これでようやく半分だね」

花火大会が終わった後もそのまま駄弁っていた私たちであったが、中学生という属性上いつまでもそうしているというわけにもいかなかった。
「そんじゃそろそろ撤退すっか」
康介の上げた声に反応して立ち上がった一同は、来た時よりも怠慢な動きでぞろぞろと本島に戻ると、島の裏手に住居がある私と佐倉川姉妹はここで別れることになる。

「涙くんと透子、それに美鈴ちゃん。気をつけて帰んなよ」
「大幡くんのお守りお疲れさま。ユキも気をつけて帰ってね」

「大幡、ナミダ。明日あさイチで部活だから遅れないでこいよ」
「ヤなこと思い出させんなよ……」
「善処します」

「それじゃみんなおやすみー」
「うん。おやすみケイコ」

暗闇の中に消えていく四人の姿を見送った後、私たち三人は更に闇の濃い島の外周道路へと向かって歩き出した。
都会に住まう人たちには一生に一度も見ることが出来ないであろう満天の星空の下を、地面を照らす懐中電灯の丸い光が前後左右に揺れるのを見ながら帰路に就く。

「――涙くんはさ」
「ん? なに?」 
「高校を卒業したらどうするの?」
まだその高校にすら進学していないのに随分と気の早い話だなと思ったが、いつか間違いなく訪れるであろうその時のことを想像してみた。
「うーん……とりあえず僕の性格だと漁師は向いていないだろうからなあ」
そもそも私は少しだけ海が恐かった。
今もこうして私たちのすぐ隣で、その膨大な質量を従え真っ暗な中で押し黙っている存在を意識してしまうと、ほんのちょっとだけ山側を歩きたくなる程だ。
以前父にそのことを漏らしたことがあったのだが、意外なことに漁師を生業としている父にして『俺もおまえと同じだよ』と言っていたことを思い出した。
「私はね、島の外に出てみたいんだ」
「――透子ちゃん、本土で就職するの?」
「それはまだわかんないけど、大学受験は挑戦してみたいと思ってるよ」
「……そっか」

彼女が大学に行くのであれば、私も――――。
そんな風に考えたら少しだけ将来のことが楽しみになってきた自分に気づき、私という人間は何と単純なんだろうと心の中で苦笑いを浮かべる。
「――でもね」
「へ?」
その話題は終わったものだとばかりに思っていたので、思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
「でもね。もし島の外に出られたとしても、結婚をしたらここに戻って来たいの」
「……ふーん」
つい、まだおりもしない彼女の未来の結婚相手にヤキモチを焼いてしまった。
我ながらみっともないことこの上ない。

その後も彼女と四方山話をしながら歩き、そろそろ道程の半分ほども来ただろうか。
透子ちゃんに手を引かれながら歩いていた美鈴ちゃんが、突然立ち止まると同時に姉の顔を見上げ、姉譲りの形がよく薄い唇を小さく開いた。
「おねえちゃん……あし、いたい……」
「あ! ごめんね美鈴。ちょっと歩くの早かった?」
「……いたい」
妹のことを気遣い、その傍らにそっとしゃがみ込んで優しく声を掛ける彼女の姿が、まだ幼かった遠い日の思い出と被って見えた。
だからというわけではなかったが、私は姉妹に背を向けると腰を落として振り返る。
「美鈴ちゃんおいで」
もともとご近所でよく知った仲だったからか、彼女は素直に従うとその軽い体重を預けてきた。
「あ! いいよ涙くん! 私が――」
「行こう。透子ちゃんは懐中電灯をお願い」
私は半ば強引に彼女の言葉を遮ると、ほとんど重さを感じない少女を背負って再び歩き出す。
「――――涙くん、ありがとう」
「全然。それにほら」
振り向きながら顎をしゃくって背中の少女を指し示す。
彼女は私に背負われるとすぐに小さな寝息を立て始めていた。
「疲れてたんだよきっと。最初からこうしてあげればよかった」
「……うん。この子、今日は朝からはしゃいでたから」
そう言って妹の頭をそっと撫でる彼女の優しそうな表情に、私は胸が締め付けられ思わず足を止めそうになってしまった。

海岸線の道路はやがて集落に行き着き、石垣と椿の囲いで覆われた私と彼女らの家が見えてくる。
それは楽しかった一日の終わりと彼女とのしばしの別れを意味していた。

「涙くん。今日は本当にありがとう」
「ううん。それに……なんだかちょっとだけ懐かしかったから」
「……私もね、あの日のことを思い出してたんだ」
彼女は少し恥ずかしそうに下を向きながらそう言うと、私の背中から美鈴ちゃんを受け取り、まるで母親のように抱きかかえたまま更に言葉を続けた。
「さっきね、花火の時に言ったことって覚えてる?」
「え? ――ああ。来年は少し遠く見よう、っていうあれ?」
「うん……あのね。あれって『私と涙くんと二人で』って意味だから」
「…………え」
「それじゃおやすみなさい! また明日ね!」

彼女の姿が見えなくなってからしばらくして、ようやくその言葉の意味を理解した私は、心臓と心があるであろう胸を強く押さえると、それが口から飛び出してしまわないようにきつく口を結びながら家へと戻った。

第7話 灯台

「確かその次の日だったよね? 涙くんが透子に告白したのって」
 酔い潰れてピクリとも動かなくなった大幡を、部屋の隅っこの方に転がしてから戻ってきた由紀にそう尋ねられた。
「うん。どうせみんなにはもうバレバレだったろうし、それに付き合うことになったにせよフラれたにせよ、どの道みんなには説明しなきゃいけなかったわけだし」
 それに、本当のことをいえばある程度の勝算があったからそうしたのだったが、世の中には言わなくてもいいことは多々あり、これもその一つだと思ったので黙っていた。
「何ともまあ、おまえらしい理由だな」
 呆れた風にそう言った康介だったが、その顔はまるで部下の功績を褒め称える上司のように晴れやかな笑顔だった。

 そんな爽やか上司の横から圭子がぐいと割り込んでくる。
「その日って私、部活でちょっと遅れて合流したじゃない? だから実はあんまり詳しく知らないんだよね。だから涙くん、はい」
 この島の人間は皆いい人なのだが、総じて押しが強かった。
 特に圭子は昔からその手の話題には目がなかったので、私がいくらとぼけたところで逃れる術など残されていないだろう。
 若干どころではない照れはあったが、よもや仕方あるまい。
「あの日は確か、前の日の花火大会に触発されて、僕らも浜で花火をしようって言って集まったんじゃないっけ?」

 陸上部の練習の最中に、大幡が突然「花火やろうぜ!」と言い出した。
 彼がその場の思いつきで発言するのはいつものことだったので、私も康介も特段に驚くようなこともなく、部活が終わると同時に体育館に向かい、バスケの練習に励む圭子と由紀にその旨を伝えた。
 仲間内で唯一文化部に所属していた透子ちゃんにはメールで時間と場所を伝えることにして一旦解散する。

 通い慣れた通学路の山道を上り下りして家に戻った私は、シャワーで汗を流してから透子ちゃんの家に寄り、今度は二人で再びニ〇〇メートルの標高を克服して待ち合わせ場所の元町の商店へと辿り着いた。
 店の入口近くに掛けられた時計を見ると、約束の時間まではまだ一時間近くもある。
「ちょっと早く来すぎちゃったね」
 わざとらしく肩をすくめながらそう言った私に、彼女は「だったらさ、ちょっと行ってみたいところがあるんだけど」と右手の人差し指を立てながら提案してきた。

 八月の青空を突き破るように生えた真っ白な灯台は、この島の少ない観光資源のひとつであり、お盆シーズンの今日などはさぞかし大勢の観光客で溢れているだろうと予想していたのだが、意外なことに三脚にカメラを載せて海の写真を撮影している中年男性が一人いただけで、その彼も私たちと入れ替わるように去って行った。
「涙くん、あそこ行ってみてもいい?」
 彼女が指差す方向に目を向けると、そこは岬の突端から海の上へと張り出した展望の良いスペースで、潮風に晒されてすっかりと色の落ちた緑色のベンチが海側に向けられ一基だけポツンと置かれている。
 別に私に断りを入れる必要はないのにと思ったが、彼女とてそういうつもりで言ったわけでもなかったのかもしれない。

「わあ! 青い!」
 並んでベンチに腰を下ろした途端に彼女が声を上げる。
 大型客船の船首のようなそこから見える景色といえば、水平線の彼方まで広がる大海原と、レイリー散乱の周波数特性によって色の付けられた空だけなのだから、青いのは当たり前だった。
 のだが。

「――――青いね」

 それは青いというにはあまりに青かった。
 海と空とで濃淡の違いこそあったが、一瞬にして世界のすべてが青に埋め尽くされた。
 海の上を渡って吹きつける風や、呼吸をする度に肺に出入りする空気すらも青く感じる。
 それ程に青かった。

 この場所には今までも何度となく訪れたことはあったが、純粋に風景を楽しむためにやって来たのは初めてのことかもしれない。
 もっともそれも仕方のないことで、この島で生まれ育った私たちにしてみれば、都会に住む人たちが憧れる絶景というものは、いつでもどこにでも存在していたのだから、こうして意識をする機会そのものが失われてしまっていたのだ。

「ね、涙くん。あっちの方角って何があるのかな?」
 彼女が青に目を向けたまま青を指差す。
「うーん。オーストラリアとかニュージーランドとかじゃないかな」
「へぇ……」
 小さく溜め息を漏らした彼女は、今度はこちらに向き直ると再び言葉を発した。
「じゃあ、もう一つだけ教えてもらってもいい?」
「うん。僕に答えられることならだけど」
「……涙くんって私のこと、どういう風に思ってる?」

 彼女の質問の意味を理解するのに数秒の時間を要した。
 そして、その意図を読み取ることにさらに数秒の時間を使った私は、およそ十秒後に熱いものにでも触れたかのように体を痙攣させて立ち上がると、恐る恐る振り返りながら彼女の顔を覗き込んだ。
 彼女が私のことを見上げる眼差しには照れや恥じいのような感情は読み取れず、もしかしたら私が質問の意図を誤って理解したのではないかと勘ぐってしまう。
「……あの、それってさ……」
 喉の奥から無理やりに捻り出した声は、情けないことにも細かく震えていた。
「私のこと、好き? それとも、嫌い?」
『誰が嫌いな相手とこんなところに来るものか』
 思わずそう言いそうになってしまった。
 彼女だって、そんなことはわかって聞いているのだろう。
 だとしたら、私の返答の選択肢など元からなかった。
 たったニ文字のその言葉を、人生最大の勇気を振り絞って声に変換しようとした、その時だった。

「あ! 透子と涙くんもここにいたんだ!」

 よく聞き慣れた甲高い声に驚いた私は、先程に引き続き再び体を小さく震わせながら、声のした灯台の方向へとロボットのようなぎこちなさで顔を向ける。
 果たしてそこには圭子と康介が仲良く並んで立っており、さらにその後ろには大幡と由紀の姿までもがあった。

 結局我々は、日が暮れる直前までを灯台の根本で駄弁って過ごしたあと、商店が閉まる直前に花火や菓子類を買い込んで砂浜へと打って出ると、一日振りにして今夏五回目の同級生六人による馬鹿騒ぎが始まった。

 打ち上げ花火を手にして砂浜を走り回る大旗を割と本気で叱る由紀と、そのやり取りを見て大笑いする康介と圭子。
 透子は透子で初っ端から線香花火に興じようとし、それに気づいた由紀に「それは最後!」と咎められていた。
 この中では――学校の成績はともかく――一番の優等生キャラの私だったが、指の間に数本の手持ち花火を挟んで火をつけると、大幡よろしく砂浜を駆け回りながら夏の夜空に白い光の軌跡を描く。
 その様子を目にして悲しみの声を上げたのは、先程由紀に大目玉を食らってイジケていた大幡だった。
「えっ? おい由紀先生! 涙のことは怒らんでいいの?」
「涙くんは雄二と違って『安全を考慮しながら無茶してる』からいいのよ」
「なんだよそれ!」
 寄せては返す波の音に混ざり、五人の男女の笑い声が浜辺に響き渡った。

第8話 僕は

小遣いを持ち寄って五千円分も買った花火だったが、わずか三十分程でおおかたをやり尽くしてしまい、あとは数束の線香花火を残すだけとなった。

「透子おまたせ、はい」
「由紀ちゃんありがとう!」
 赤と黄と緑に染められた和紙のこよりの束を由紀から手渡された彼女は、まるで小さな子供のように表情を輝かせる。
 そして、横でその様子を伺っていた私に満面の笑顔を向けた。
「涙くんも、はい!」
 束から解かれた数本のそれを受け取り、そのうちのひとつにライターの火をそっと近づける。
 こよりに燃え移った炎が火薬に着火し、その下端に生成された小さな太陽から無数の細い光がパチパチと放出される。
 やがてそのパチパチはフツフツへと変化し、次にチロチロとオレンジ色の舌を出し入れしたかと思うと、最後には音もなく光を失って終焉を迎えた。

 正面に座って私の線香花火の動向をまんじりともせずに見守っていた透子は、いよいよ自分もと緊張した面持ちでカラフルなこよりに火をつけた。
 摂氏千度の火の玉から放たれる慎ましやかな火花に照らされ、彼女の柔らかそうな頬がオレンジ色に染まる。
 花火なんかよりもよっぽど美しいその光景を、私はずっとずっといつまでも見ていたかった。
 もちろんそんな願いなど叶うはずもなく、線香花火はたった数十秒で燃え尽きると、一本、また一本とその数を減らしていく。

 最後の一本がその生を静かに終えるのを見届けたあと、私はすっくと立ち上がって背筋を伸ばした。
 それは灯台で受けた彼女からの問に答えるためであったのだが、このタイミングを選んだのは、もし今ここで実行しなければ、今後その機会はもう二度と訪れないだろうと考えてのことだった。

「透子ちゃん!」
 急に声を張り上げた私に少しだけ驚いたような顔をした彼女だったが、ゆっくりと腰を上げるとスカートのシワを正しながら「涙くん、なに?」と、いつものように小首を傾げてみせる。
 背後からは四人の仲間たちが何事かと、その八つの目でこちらに視線を向けている気配が感じられた。
「あの。さっき、灯台で聞かれたことだけど――」
 緊張のあまり少しだけ声が裏返ってしまった気がするが、今更どうにかなることではないのでそのまま続ける。
 それに、本当に大切なのはこの次に発する言葉なのだから。

 ――――僕は、君のことが。
「好きに決まってる。僕は透子ちゃんのことが……好きだ」

 もっと気の利いた言葉を用意する時間など幾らでもあったのだが、私があえてこの『ど直球ど真ん中』の台詞を選んだのは、きっといつかのように意識外で父の教えに従ったものだと思われる。
 なぜなら彼は年端もいかぬ息子に常々こう言っていたからだ。
『獲物は一発で仕留めろよ、涙! それはケンカでもプロポーズでもな!』
 生憎私は今までの人生で殴り合いの喧嘩をするような度胸も機会もなかったし、愛の告白だってこれが初めてだった。
 なので果たして、これが正しいのかどうかも定かではなかったのだが、彼女が直後に見せた涙とそのさらにあとに言った言葉によって、父直伝の戦法が正しかったことが今回初めて証明されることとなった。

「私も、涙くんのことが……大好きです」

「って、ここまで仔細に話す必要もなかったか……」
 アルコールが入っていたせいか、いつもの自分からすれば信じられない程に饒舌になっていたようだった。
「きゃー!」
 由紀と圭子の黄色い声が広い宴会場にこだまする。
「二人ともさあ。きゃーってなに、きゃーって」
「えー! だって透子がうらやましいんだもん!」
「うんうん。うちらはそういうのと無縁だったもんね」
 そう言われてみれば、彼女らは自然派生的というか成り行きというか、なるべくしてくっついていたように思える。
 それに比べたら私と透子ちゃんの告白劇は確かに、なかなかにして劇場的だったのかもしれない。
 もっともどちらが良いとか悪いとか、そういった話でもないだろうが。
 先程にも増してにこにこ顔になった康介が、焼酎の入ったグラスを美味そうに飲み干して「あん時のナミダは男の中の男って感じだったな!」などと勝手に悦に浸りながら私の肩をバシバシ叩いてくる。
「それって褒めてくれてるの?」
「当たり前だろ?」
 まあ、だったら良しとしようか。

 その後も中学生さながらの青春トークが繰り広げられ、七時から始まった同窓会もニ時間余りが経過する頃には、大幡に続いて康介までもが部屋の隅で大の字に寝転がっていびきをかきはじめていた。
「涙くんはまだ平気?」
 そう聞いてきた由紀の頬は、この島の名物のひとつであるタコの塩茹でを思わせる程に赤く染まっており、思わず「由紀よりは全然」と答えてしまい、先程康介にされたのよりもさらに強く背中を叩かれてしまった。
 それに私はアルコールの量でいえば彼らの半分程しか摂取していなかったので、酔い加減という意味ではどうということはなかったのだが、それでも――――。
 それでも、この昔と何一つ変わらない友人たちの笑顔と、楽しげなやり取りと、そして初恋の相手の思い出話というフルコースは、長らく封じ込めていた私の弱い心の堰を決壊されるには十分だったようだ。

「――――久しぶりにみんなと会えて、本当に嬉しかったよ。由紀も圭子も、大幡と康介も全然変わってなくて……」

 でも――――。

「透子ちゃんのことを思い出すのは、やっぱりまだ辛かったみた……いで……」
 自分のことを情けなく感じる反面、同時にこれは仕方がないことだとも思う。
「……涙くんごめん。私たち、浮かれすぎてた……」

 違う。
 本当は、本当に嬉しかった。

 今日この場所に透子ちゃんが来ることはできなかったけど、私たち六人の心の中には今でも確実に彼女が存在し続けていることを知ることができて、本当に嬉しかった。
 ただ、でも、やっぱり。
「……透子ちゃんもこの場にいて、ほしかっ……」
 まるで夕立のような大粒の涙が瞳からこぼれ落ち、ジーンズをみるみるうちに黒く濡らしていく。
 座卓の向かい側に座っていた圭子と由紀が静かに近づいてきて、そっと背を擦ってくれた。
 それでも涙は止まってくれなくて、私は『あの日』のように声を出して泣き出してしまった。

第9話 透子

あの『自主開催花火大会』の翌日から、私と彼女はこれまで以上に長い時間を二人で過ごすようになった。
 夏休みの最中などは本当に毎日のように、それこそ日が暮れるまでを近くの浜辺やどちらかの家で過ごし、あっという間に互いの両親にも交際を悟られ、そして認められてることとなった。
「こんだけご近所さんだと親戚付き合いが楽だから助かるわ!」とは透子ちゃんの母親の談で、どうやら彼女は私たちふたりのその後まで見据えていたようだった。
 二学期が始まってからも登下校時だけにとどまらず、休み時間も教室の窓辺で語らい合い、その蜜月といっていい時間は高校二年の七月まで続いた。

「あれ? 涙くん、透子は?」
 高校のある隣島まで送り迎えしてくれる連絡船に一人で乗り込んできた私を見つけ、船室の奥から出てきた圭子が不思議そうな顔をして尋ねてきた。
「ああ。今日は体調が良くないから休ませるって透子ちゃんのお母さんが」
「そっか。じゃあ康介と大幡くんの相手でもしててあげて? 私、由紀と一緒にいるから」
 そう言って踵を返した圭子に続いて船室に入ると、左舷側に陣取っていた男衆と合流し、久しぶりに三人でくだらない話をしながら短い船旅を満喫した。

 その日は午後から天気が崩れる予報が出ていたのだがそれはまさに的中し、授業が全て終わる頃には連絡船の欠航も危惧されるような大荒れの空模様になっていた。
 実際のところ普段の小型船では危険だということで、代替としてそれよりも二回りも大きな客船が、たかだか十数人の私たち乗客のために用意された。

 いつもと違った船窓からの景色を眺めながら島に戻り、いつもと同じ船着き場に降りて顔を上げると、少し離れた駐車スペースに父の車が止まっているのが目に入った。
 恐らくは天気が悪いので迎えに来てくれたのだろうと思ったのだが、私の姿を見つけて車から飛び出して来た父の表情を目にし、別の理由――――それも良からぬ何かが起こったことをすぐに察した。
「涙! 透子ちゃんが!」
 傘もささずにびしょ濡れで私の前まで走り込んで来た父が発したその言葉を耳にし、ただでさえ雨でコントラストの下がった世界から一瞬にして色が失われた。

 父の話によると、朝から体調を崩して寝込んでいた透子ちゃんに食事を持っていった彼女の母親が、いくら呼びかけても返事のない娘の異変に気づき、すぐに医者を呼んだのだが、すでにこの島の診療所でどうにか出来るような容態ではなかったそうだ。
 早急にドクターヘリが手配され、彼女は隣島よりもさらに離れたところにある、比較的規模の大きい島の病院へと運ばれていった。
 彼女の父親から連絡を受けた私の両親は、何度も私のスマートフォンに電話を掛けたのだが、帰宅している最中で洋上にいたために捕まらなかった。
「お父さんも大丈夫だって思いたい。ただ、佐倉川さんに話を聞いた限りだと……厳しいかもしれない。だから……おまえも覚悟だけはしておけよ」

 ――――何を。
父は一体、何の覚悟をしろといっているのだろう。

 翌朝は昨日とは打って変わり、空はこれでもかというくらいに晴れ渡っていた。
 それはいつだったかの夏の日に、彼女と二人で行った岬の灯台で見た青とまったく同じ色のように感じた。
 その時とたったひとつだけ違ったのは、私の横で細く長い髪を潮風にそよがせ、視界の全てを塗り潰す群青をともに眺めていた彼女が、もうこの世界のどこにも存在していないということだった。

 朝一番に彼女の母親から電話があった。
 私と両親は連絡船で二時間を掛け、彼女とその家族のいる病院へと駆けつけた。
 受付で彼女の名前を告げて案内されたのは、建物の一番奥の目立たないところにある部屋で、その前に置かれた質素なベンチに力なく腰を下ろした彼女の両親は、私たちが来たことにも気づく様子はなく、自分たちの娘が安置されている部屋の扉をただただ眺めていた。

「佐倉川さん……」
 母の呼び掛けにようやく私たちの存在に気づいた彼女の父親が、こちらにゆっくりと真っ赤な目を向ける。
 彼女の母親はといえば、相変わらず金属でできた無機質な扉に視線を向けたままであり、その表情からは何の感情も読み取ることは出来ない。
「……瀬戸川さん、涙くん。娘に……透子に会ってやってくれ」

 彼女の父親に続いて入った部屋の中央に置かれた、銀色の冷たそうなストレッチャーの上に彼女はいた。
 白いシーツで体を覆われ、顔にも白い布を掛けられ、彼女はいた。
 もう起き上がることも、見つめ合うことも、手をつなぐことも、未来を語らい合うことも出来なくなった、彼女がいた。
「……あ……」
 彼女の父親が顔の布をそっとめくる。
「……あ……あ……」
 まるで眠っているような顔で。
「……あ……あ……あ……」
 彼女は。
「あ……あああ……あ」
 死んでいた。

「あ……あああ……あっ! あああああああああああああああ!!」

 私たちが島に戻る頃になると、あれほど晴れていた空は再び黒い雲に覆われ、程なくして大雨を降らせはじめた。
 その雨は通夜が執り行われ、葬儀が終わり、彼女が荼毘に付されて白く小さな箱に収められるまで、ずっとずっと降り続けた。

 斎場のある隣島から戻る連絡船の窓の下に見える海は、まるで墨汁のように真っ黒な色の水を満々と湛えており、波も高くうねっている。
 今この中に身を投じれば、彼女の元に行けるのではないだろうか?
 それとも地獄に落とされて、もう二度と会うことが出来なくなってしまうだろうか?
 もしそうだとしても、彼女が失われてしまったこの世界をひとりで生きていくよりは、比べ物にならないくらいましなのではないだろうか?
 そうに決まっている。
 だったら――――。

 船室から甲板へと出ようとした私の腕を誰かが引っ張った。
 私は振り返ることもせず、その手を振りほどく。
 今度は反対側の腕を掴まれた。
 直ぐ様に振りほどく。
 最後には肩を掴まれて無理やり振り向かされ、そして顔を思い切り殴られてうつ伏せで床の上に倒された。
 それでも這いつくばって甲板に出ていこうとすると、制服の襟を思い切り掴まれて船内へと引き戻される。
 なぜ。
「――――なんで! なんで彼女のところに行かせてくれないんだよ!」

 私は叫び、彼女に会いに行くことの邪魔をしていた相手を睨みつける。
 それは大幡であり、康介であり、由紀であり、圭子であった。
 彼ら彼女らは皆、目を赤くして涙を流しながら私の手足に掴みかかり、拘束しようとする。
「涙っ! おまえ……! ばかやろう!」
 涙で頬をびしょ濡れにして鬼の形相を浮かべた大幡に再び殴られそうになると、やはり顔をぐしゃぐしゃにした由紀が彼を正面から制し、代わりにやってきた康介が私を殴り、圭子が泣きながら康介を私から引き剥がす。

 騒ぎに気づいた大人たちがこちらにやってくる。
 仲間たちがそちらに気を取られた一瞬の隙きを突いて甲板へと飛び出そうとした、その時だった。

「るいくん! やめて!」

 船室の一番奥から小学校の制服に身を包んだ少女が、真っ赤な目を大きく見開いて私の瞳を射抜く。
「……みす……ず……ちゃん」
「るいくんおねがい! おねがいだから……お姉ちゃんを悲しませるようなこと、しな……いで……」
 彼女はそれだけ言うと、小さな肩を細かく震わせながら声を上げて泣き出した。
「……おねがい、だから……お姉ちゃんのこと……もう……」
「……美鈴ちゃん……ごめん……ごめ……ん……」

 私はひと目もはばからずに声を張り上げ泣いた。
 息も出来ない程に。
 まるで生まれたばかりの赤ん坊のように。

 そんな私の頬に温かく柔らかな手が添えられた。
 顎をしゃくりあげながら見上げると、涙で霞んだその向こうで美鈴ちゃんが無理やりに笑顔を作って私のことを見つめていた。
「……美鈴ちゃん、ありがとう……」
「ううん。るいくんこそ……お姉ちゃんのこと、ありがとう」

最終話 あの夏の日 僕たちは確かに同じ青を見ていた

「……ごめん。もう、大丈夫だから」
 圭子と由紀に侘びながらおしぼりで顔を拭く。
「ううん、私たちこそ本当にごめんね。……涙くん、それでね――――」
 由紀の言葉に耳を傾けようと顔を上げると、その後ろから怒号が響き渡った。
「おい涙! おまえ、俺が寝てる隙きに人の女口説いてんじゃねーぞ!」
 いつの間にか目を覚ました大幡が、わざとらしく恐い顔を作りながらにじり寄ってくる。
「おい康介大変だ! 起きろ! 圭子が涙のこと口説いてんぞ!」
 酒が入った上に寝起きの大幡の言動は、いつも以上に一貫性がなく意味不明だ。
「……んあ? 圭子が……どうしたって?」
 後頭部を掻きながら体を起こした康介だったが、圭子が「あんたはまだ寝てていいよ」と声を掛けると、返事もせずに再び倒れ込んでいびきをかきはじめる。

「――で、由紀。さっき何か言おうとしてなかった?」
「あ。うん、あのね。今日のこの同窓会ってさ」
「うん」
「実は別の目的があってね」
「……はい?」
 由紀の言っている意味がまったくわからない。
「本当は――――あ! きた!」
 由紀は嬉しそうに声を上げながら私のすぐ後ろに視線を向ける。
「ごめんね、こんな夜遅くに」
 圭子も同じように笑顔を浮かべながら宴会場の入り口に目をやった。
「帰りは俺の車で送ってやっから!」
 親指を立てながら大幡が白い歯をのぞかせる。
「こちらこそすいません。私、どうしても――――」

 ――――そんな。
 ――そんなことが。
 そんなことが、あるはずがない。

 もう二度と聞くことなど出来ないはずだったその声に、私は大きく目を見開いてゆっくりと振り向いた。

 絹のように細く柔らかそうな長い髪と、よく磨かれた黒曜石を思わせる大きな瞳と薄く形の良い唇。
 水色のワンピースに身を包んだその姿は、顔も身長もその雰囲気も、その全てがまったくあの日の透子ちゃんと瓜二つで、私はもう少しで彼女の名前を口にしてしまうところだった。
「あの、涙くん……お久しぶりです」
「……うん、久しぶり……美鈴ちゃん」

「そっか。美鈴ちゃんがこの同窓会を企画してくれたんだ」
 やけに安全運転な大幡のボロ軽トラックの荷台で揺られながら、私は彼女にこれまでの経緯を教えてもらっていた。
「はい。皆さんにお願いしたら、何かヘンなことになっちゃって……ごめんなさい」
「連中が変なのは今に始まったことじゃないから」
 まるで気にしていない風の私の物言いに、彼女は口を手でそっと押さえて小さな声で笑った。
「それで、なんでまた君が僕らの同窓会を?」
「あ……はい。あの……私、どうしても涙くんに伝えたいことがあって」
「伝えたいこと? なんだろう?」

 彼女は手で髪を軽く押さえながらこちらに向き直り、彼女の姉がよくそうしていたように首を少しだけ傾げながら静かに口を開いた。
「お姉ちゃんが亡くなった日の朝、私、学校に行く前にお姉ちゃんの部屋に寄っていったんです」
「……うん」
「お姉ちゃん、お布団の中で少し苦しそうな顔をして寝ていて。それで私、声を掛けないで部屋を出ようとして」

 まるで自分の目で見たかのようにその時の光景が頭の中に浮かび、私は不覚にも再び目に涙を浮かべてしまっていた。
 そんな情けない私のことを真っすぐに見据える彼女の瞳にも、月明かりに照らされてキラキラと光るものが見える。
「……ごめん、それで?」
「部屋のドアを閉めようとした時、お姉ちゃんの声が聞こえたんです。多分、寝言だったと思うんですけど……」
「…………」
「私まだ、その時は小学三年生だったから、その言葉の意味がわからなくて」
 思わず生唾を飲み込んでしまう。
「……透子ちゃんは、なんて?」
「……お姉ちゃんは『あなたと一緒にいられて幸せだった』って……言ってて……」
 ああ。
 ああ。ああ。
「…………透……子……ちゃん……」

 私は膝を抱えて体を大きく震わせると、あの日連絡船の船室でそうした時よりも、さらに大きな声を上げて泣いた。
 大幡の軽トラックがブレーキを踏んだような気がしたがそれは一瞬のことで、すぐにまた元の速度に戻るとゆっくりと走り続ける。
 私の横で彼女も大粒の涙を雨のように滴らせ、水色のワンピースに大きな染みをいくつも作っている。
 いつしか私と彼女は手を取り合い、そして抱き合って泣き続けた。
 やがて軽トラックの運転台から大音量でラジオの音が聴こえ始める。
 それは多分、彼なりの気遣いなのだろう。

 大幡の軽トラックは今度こそブレーキランプを赤く点灯させると、私と彼女の住まう集落の前でその車輪を静かに停止させた。

「……美鈴ちゃん、ありがとう。君がこの島に呼んでくれたおかげで、僕はまた生まれ故郷のこの島やここに住む人たちの温かさや優しさ、それに君のお姉さんへの気持ちを思い出すことが出来たように思う」
 思い切り泣きはらした顔をして言うには、些か格好をつけ過ぎたセリフのようにも思ったが、それは私の本音以外の何物でもなかった。
「私のほうこそ、本当にありがとうございました。お姉ちゃんの人生がどんなに幸せだったのかを知ることが……でき……て……」
 彼女の頬に再び伝った涙をハンカチでそっと拭いていると、運転台の方からやけに遠慮がちな大幡の声が聞こえてきた。
「涙。そろそろ時間も遅いし、な? 美鈴ちゃん、まだ高校生なんだからさ」
 まさか大幡に諭されることになろうとは、人生というのは本当に何が起こるかわかったものではない。
「それじゃ美鈴ちゃん……おやすみ。本当にありがとう」
「……はい。おやすみなさい、涙くん」

 去っていく彼女の背中を見送ったあと大幡に礼を言い、私も半日振りとなる実家へと足を向けた。
 もう二十二時を回っているというのに玄関の戸は開け放たれたままになっており、廊下の奥の居間からはテレビの音が漏れ聞こえてきている。
「ただいま」
 それでも一応時間が時間だったので少しだけ声量を落として声を掛けると、廊下の向こうから「おかえり涙! 飲むぞ!」と、父の威勢のいい声が返ってきた。

 二日酔いの頭を抱えながら目を覚ますと身支度を整え、昼前に迎えに来てくれた大幡の軽トラックに三度揺られながら船着き場へとやってくると、私を見送るために既に集まっていた仲間たちから大量の土産物と別れの言葉をもらう。

「ナミダ。また帰ってこいよ」
 康介。また来年、戻ってくるよ。
「涙。おまえの故郷はここだからな」
 大幡。なんだかんだで色々ありがとう。
「涙くん。私らの結婚式、絶対に来てよ!」
 由紀。今後も大幡の子守よろしくね。
「私さ、康介の次に涙くんのことが好きだから」
 圭子。ありがとう、僕もみんなのことが……うん。

 格段に増えた荷物を抱え連絡船に乗り込むと、甲板に出て仲間たちに手を振る。
 やがて船は長く汽笛を鳴らし、ゆっくりと船着き場を離れていく。

 ――――その時だった。

 港の向こうから一台のバンが滑り込んでくるとすぐに助手席のドアが開き、中から飛び出してきた少女が一生懸命にこちらへと走って向かってくる。
 私は少しでも彼女に近づこうと、荷物を放り出して甲板の上を船尾に向かって走った。
 声が通る距離までやってきた彼女は肩で息をしながら両手を口の横につけ、その小さな体からは想像もつかないような大きな声で叫んだ。

「涙くん! 今度帰ってきた時! お姉ちゃんと行った灯台に連れてってください!」
 透子ちゃんは妹にそんなことまで話していたのか。
 なんだか少しだけ照れくさくなってしまう。
「わかった! 来年の夏、二人であの海を見に行こう!」
 君のお姉さんと二人で見た、あの青しかない世界を見に。
「絶対ですよ! それで! 今度は私と――――」
「ごめん! 聞こえない!」
「――――してください!」

 彼女はまた涙を浮かべているように見えた。
 ただ、どんどんと離れて小さくなっていくその顔には、花火大会の日にみかん島で見せてくれた時と同じ、見ているこちらまで幸せな気持ちになるような姉譲りの笑顔を浮かべていた。

 美鈴ちゃんの最後の言葉は聞き取ることが出来なかったが、それもまた来年、この島に戻ってきた時に聞けばいいだろう。
 ここは私の故郷であり、大切な思い出の詰まった場所であり、大切な人たちのいる所なのだから。

 だんだんと遠ざかっていった島は、すぐにその姿を八月の海原の中に消し去った。
 そして視界の全てが青に塗りつぶされる。
 それはあの夏彼女と二人で見た青と同じようで、それでも少しだけ違っていた。

 あの日君と見た群青と、今、私がひとりで見ている紺碧。

 そのどちらもが、私にとってはかけがいのない青であることに間違いなく、それは今後も変わることはないだろう。

 さようなら、青春の日々よ。
 さようなら、愛しい人よ。
 私はあたなのことを一生、忘れない。

ー完ー